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 今日も旅行く・・・



 幾山河越え去り行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 若山牧水『海の声』明治40(1907)年

 旅行の楽しみは、非日常的な体験によるリフレッシュと、一期一会にあるのではないでしょうか。

 ふだんの生活の中で、同じようなことを繰り返していますと、どうしてもマンネリ化してしまいます。

 旅行をして、見慣れない風景や人々との出会いが、新鮮な気持ちを呼び覚ましてくれます。

 また、旅をして出会ったり見かけたりする人は、ひょっとしてもう一生、出会ったり見かけたりすることがないのかもしれません。

 そうすると、一人ひとりの人との出会いは、私たちの人生にとって、とても貴重なものとなります。

■海外旅行

 思い切って心身をリフレッシュしたいときに海外を旅します。いままでに訪れた国は次のようなところです。まだ行ってない国がたくさんありますので、リフレッシュできるチャンスは十分あります。

 USA2回

 イギリス3回

 フランス3回

 ドイツ

 イタリア2回

 スペイン

 スイス

 オランダ

 ベルギー

 中国2回

 香港

 台湾

 韓国

 シンガポール

 マレーシア

■国内旅行

 ほとんどの都道府県に旅行経験がありますが、まだ一度も行ったことのない県が九州と四国に少しあります。これからは都市や町村単位で見て、行ったことがないところ(たくさんあります)へ行ってみたいと思います。









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 マウナ・ケア、マウナ・ロアという2つの4000m峰が島中央に位置し、世界で最も活発な火山・キラウェアが今も溶岩を吹き出すハワイ島。

 地球上に存在する13の気候帯のうち、北極気候とサハラ気候をのぞく11の気候がこの島には存在していると言われます。

 豊かな自然とダイナミックな地球の息吹が感じられるハワイ諸島最大の島は、人間の心と体をリセットしてくれる、不思議なパワー──マナ(霊力)に包まれています。

 ホノルルでの都会的なバカンスを抜けだして、本当の意味での「充電旅行」へ行ってみませんか?
 旅行の楽しみは、非日常的な体験によるリフレッシュと、一期一会にあるのではないでしょうか。

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■故宮

 訪ねたのは冬で、その日は曇っていて寒かったですが、内部のスケールの大きさに感動しました。
 




 JTB、横浜西口に「旅の専門モール」大型拠点 業界最大規模 ヨコハマ経済新聞
 フロア構成は、1階=「海外フロア」(カウンター席数 =14 組33席)、2階=「国内旅行フロア」(カウンター席数= 15 組30席)、3階=クルーズや留学、海外熟年旅行の取り扱 いとカルチャーサロンなどを開催する富裕者層向けの「 ロイヤルサロン横浜」(カウンター席数=5組10 ...
<http://www.hamakei.com/headline/2208/>

 使えるJRの旅クラブ 日本経済新聞 びゅう」の国内旅行商品は5%割引で何回でも購入可能 だ。会員誌送付やポイント還元のサービスも受けられる 。年会費は1人4170円で、夫婦会員は7120円だ。 「大人の休日倶楽部ミドル」は割引率が「ジパング」よ り下がる。新幹線を含むJR東日本線・JR北海道線の 運賃...
<http://rd.nikkei.co.jp/net/kyotoku/u=http://waga.nikkei.co.jp/travel/travel.aspx?
i=20070227c1000c1
>

 女性向け海外旅行グッズ PRONWEB Watch
 海外旅行に欠かせないのが、デジカメやパソコン、ポー タブル音楽プレーヤーなどの機器。電気事情の異なる海 外でそれらを快適に使いこなすには、変圧器や海外用プ ラグ変換アダプターは必須である。特に最近では、海外 でもそのまま使える携帯電話が多いこともあり、旅行先 で・・・
<http://www.pronweb.tv/newsdigest/070315_sakura.html>

 海外商品続々 団塊こだわり旅 読売新聞
 海外旅行に関する調査などを行っているエイビーロード ・リサーチ・センターの稲垣昌宏所長は、「燃料費の高 騰で航空会社が運賃に上乗せしている付加運賃は、ツア ー料金に含まれていないため注意が必要だ。また、日本 の航空会社の便だと思ったら海外航空会社との共同運航 便...
<http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/m_guide/20070306.htm>

 ファンキー通信 アンケート編】あなたは「海外」旅行デビューしてますか? ライブドア・ニュース
 ちなみに、海外旅行に行き慣れた人にはスポーツ観戦や 音楽鑑賞、短期のオケイコ留学など、目的を持った旅行 に人気が集まっているんだそう。また、最新の海外旅行 事情については、「団塊世代の旅行や記念旅行などの需 要、マイレージのランクアップの浸透などにより、・・・
<http://news.livedoor.com/article/detail/3063463/>

 ガイドブックいらずの国内旅行検索サイト『旅侍』のβサービス開始のお知らせ 日経プレスリリース
 com」(http://tabelog.com/)のAPIを活用した周辺グ ルメスポット情報を参考に宿泊施設を比較できる、国内 旅行検索サイト『旅侍(たびざむらい)』(http://tabi.tv/ )のβサービスを開始いたしましたのでお知らせいたします。 周辺にグルメスポットがある宿泊施設を ...
<http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=153213&lindID=1>

 アエリア、国内の宿泊施設と周辺飲食店情報を同時に検索/比較できるサイト ベンチャーナウ
 株式会社アエリア(本社:東京都港区、代表:小林祐介 )は、国内旅行検索サイト「旅侍(たびざむらい)」β 版の提供を開始した。 旅侍は、宿泊施設の検索/比較と同時に周辺エリアの飲 食店情報も入手できるWebサービス。「じゃらん.net」「 一休.com」「宿ぷらざ」等の大手 ...
<http://www.venturenow.jp/news/2007/02/20/1137_014191.html>

 旅行とインターネットに関する調査(中編)-旅行先でも活躍のインターネット CNET Japan
 例えば、ホテルや旅館では、客室やロビーにインターネ ットに接続できる端末を置いている場合もあり、簡単に アクセスできることや、海外旅行に関するサイトでは、 渡航先にネットカフェがあるかどうかなどが掲示板の話 題にあがることがある。 また、旅先でもインターネット・・・
<http://japan.cnet.com/research/column/webreport/story/0,3800075674,20345215,00.htm>

 ブレイクするか? ネット上でパック旅行を組み立てられる「ダイナミックパッケージ」 CNET Japan
 宿泊・航空券を自在に組み立て、自分だけの旅行プラン をインターネットで一括予約できるサービス「ダイナミ ックパッケージ」について、プライベートの海外旅行に 対象を限定した上で、認知度および利用意向を探った。 今回の調査は4月13日 4月16日で行い、全国の1074人の・・・
<http://japan.cnet.com/research/column/insight/per/story/0,2000091177,20348095,00.htm>

 趣味のインターネット地図ウォッチ INTERNET Watch
 同サービスは海外旅行のオリジナル旅行プランを作成で きるサービスで、利用料は無料だ。旅行会社が提供する 定型的なプランではなく、旅行者自身が自分の好みで自 由に行程表を作成可能だ。 旅行プランは、地図上に表示されているスポットをクリ ックしてブリーフケースに
<http://internet.watch.impress.co.jp/static/column/chizu/2007/02/22/>

 タダで海外旅行に行く方法 Fe-Mail
 海外旅行に行こうと思えば10万円くらいは必要です。ち ょっと思い切りが必要な金額ですよね。今までならボー ナスや、定期預金の満期まで我慢していましたが、クレ ジットカードのポイント制度に出会ってから、私の消費 行動に革命が訪れたのです。
<http://www.fe-mail.co.jp/lifestyle/economy/50817.cfm>

by Google




故宮 故宮 故宮




USJ USJ USJ

 大阪のUSJの入り口を少し入ったことろです。


 通り道で急にカントリーダンスが始まりました。

 午後には大通りでパレードが始まりました。




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NEWS【1】毎年60万人が利用!おみやげ宅配サービスって?
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  毎年60万人以上が愛用する

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  その人気にはワケは
  旅行者の皆さんのこんなご要望に応えているから。
  そのご要望と申しますと、、、

  ◆要望その1◆ 旅を満喫したい!
  ―――――――――――――――――――――――――――8

    ご旅行中、
    「 おみやげ選びに●●時間 」、、、
    なんてことありませんか?

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    本当に欲しいお買い物に専念したり
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  ◆要望その2◆ 間違いないおみやげ選びをしたい!
  ―――――――――――――――――――――――――――8

    おみやげといっても
    大事な人への贈り物、
    食に関する不安が高まるなか

    どうせなら
    安心なものを購入したいですよね?

    トラベラーでは日本の法律に基づいて
    皆さんの変わりにおみやげを選定
    ご案内をしております。

    安心しておみやげを選べる、、、
    コレも人気の秘密です。

□■ 安全・安心にこだわります! ■□■□■□■□■□■□■□

 ● 安心へのこだわり1 ●

 誰かに贈るおみやげだから
 しっかり国内法を遵守しておみやげを輸入しています。

 ● 安心へのこだわり2 ●

 お客様にお届けするために下記の団体に加盟してます。

  ・社団法人 日本食品衛生協会 特別会員
    ~食品衛生に関する情報をいち早くキャッチしています~

  ・社団法人 日本輸入食品安全推進協会 会員
    ~「 安全・安心な輸入食品をお届けする 」活動をしています~

  ・社団法人 日本通信販売協会(JDMA) 会員
    ~消費者の利益保護と業界の健全な発展の為に活動しています~

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

  ◆要望その3◆ 身軽に帰国したい!
  ―――――――――――――――――――――――――――8

    海外旅行で飛行機の
    機内に預ける荷物の重量規制、
    最近厳しくなってますよね?

    そんな悩みを解決するのも
    「 おみやげ宅配サービス 」。

    ご自宅におみやげが届くので
    帰国の際に荷物がふえて大変っ!
    なんて心配もございません。

    お酒も免税範囲を割れる心配なく
    手配ができるのもうれしいところです。

 ■☆おみやげ宅配サービス

 「ギフトランド」

 ☆ 世界40カ国以上の国から日本全国47都道府県まで、商品数は3,000点以上!

 ☆ 売上・アクセス数ともに日本最大級のおみやげサイトです。 出発前のご注文で、帰国後にご希望の場所・日時 におみやげをお届け! 旅行用品やお中元・お歳暮等のギフトも充実の品揃えです!


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夏の旅行準備、
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なんとスーツケースベルト付っ~♪ 』

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出発前のご準備も帰った後のお土産も
どうぞギフトランドにお任せくださいっ。

▼その他の旅行グッズはコチラ↓
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食べ頃の期間が短い
といわれる夕張メロン、

そんな完熟した夕張メロンのおいしさを
1年中味わう事はできないか?
そんな思いを製品化した

▼ 夕張メロンゼリー
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という
北海道のお土産があるのですが
今回はこのメロンゼリーの

★ 超お徳用 ★

が訳ありコーナーに登場っ!

通常6個入り1,050円(税込)
1個175円のものを

ご自宅用の
簡易パッケージで
ご案内することで

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┌▼ 試食したスタッフの声▼──────────────────┐

お昼は冷凍したのをシャーベット感覚で。
夜はお疲れ自分へのご褒美に、、、1日で2個はいけますっ♪

甘いもの好き男性社員 E
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旦那と一緒に、メロンの香りを満喫しました。
たまに私が2個食べても夕張づくしな1ヶ月、、、
夕張メロン強化月間の始まりですっ!

スウィートな新婚社員 Y
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ご自分のご褒美ゼリーとしてもよし、
またご家族で夕張ッチな毎日を送るもよし。
ぜひお試しくださいっ!

▼[送料無料]シャーベリアス 夕張メロンゼリー 50個 5,980円(税込)
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おみやげ旅行用品ギフトランド


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■JAL旅行

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京の台所へ、ぜひ一度足を運んでおくれやす。
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 安土桃山の時代より、京都人の食をまかなっていたその市場を、人々は「京の台所」とよんでいました。今でいう「錦市場」のことです。四条通の一本北を走る錦小路通のうち、寺町通から高倉通までの長さ約400m、道幅3m、約130軒ほどの店が並ぶ商店街です。もともとは武具・甲冑といった具足を売る店が並んでいて、具足小路(ぐそくこうじ)といったそうですが、天喜2年(1054年)宣旨により「錦小路」と改められたといわれています。本格的な魚市場として開設された年月は明らかではありませんが、豊臣秀吉の天下統一後のことと推定されており、元和年間(1615~1623)に、幕府より魚問屋の称号が許されます。特に錦に店をもつ商人は、公儀から鑑札を得ることにより独占的な営業をしたといいます。また、市場がこの地にできたのは、人口の密集した中枢部にあたること、そしてこの付近が良質の地下水に恵まれていたため、魚などの貯蔵等に便利で、また御所への納入の往き返りだったことから、自然に出来たといわれています。魚・京野菜・豆腐製品・乾物・漬物・おばんざいなどなど、「錦市場」は食材の宝庫であり、また京料理を支えるまさに京の台所。観光名所としても知られる錦市場ですが、味にうるさい地元の人々からも愛されています。

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京都の「ほんまもん」が、錦には並んでおます。
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 京都の台所と呼ばれる錦市場は、普段から地元住民に観光客、修学旅行生で賑わっています。錦市場で最も多いお店が鮮魚を扱うお店で23店舗。そして「錦」には目利きの主婦から、祇園や先斗町で働く腕利きの料理人も訪れるためおのずと新鮮な食材が集まります。そして、魚屋はただの魚屋でなく「生がき」屋や「淡水魚」屋、そのほか卵屋や漬物屋、佃煮屋や駄菓子屋、そして湯葉屋に豆腐屋など、市場は細分化されています。また、賑わいの中でも特に目を引くのが八百屋さん。スーパーなどでは目にすることのできない、カゴ盛りにされた京都ならではの京野菜などが勢ぞろい。街中ではなかなか触れることのできない、京都の旬を間近で感じられる場所といえるでしょう。錦市場は、3色に彩られたカラフルながらレトロなアーケードが温かく迎えてくれます。しかし、市場特有の威勢のいい呼び声はあまりなく、上品さが漂っています。値札の書き方や美味しそうな商品の盛り付けで、ついつい立ち止まってしまうという、京都ならではの粋なセンスが感じられる市場です。主に早朝は旅館や料理屋向け、昼からは家庭向けの新鮮な食材を提供しています。また、商品を店先で販売しているだけでなく、お食事処として京都の食材を使った料理を食べられる店もたくさんあります。「京のおばんざい(家庭料理)」を知る上でも一度は訪れたい名所ですね。

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亡くなりはった人が、生き返ったそうどすわあ。
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 京都の町を南北に走る道「堀川通り」は、道幅も広く交通量も多い、京都の基幹道路のひとつ。そして堀川通りという名前の元となった、「堀川」に架かる一本の橋が、「一条戻橋(いちじょうもどりばし)」です。この名の由来は、平安中期にさかのぼります。それは当時の漢学者・三善清行が亡くなった時の話。
その葬列がこの橋を通った時、父の訃報に修行先の熊野から急いで帰ってきた清行の息子浄蔵が棺桶にすがって祈ったところ、にわかに空がかき曇り、雷鳴の轟きに柩の蓋が開き、父清行が一時生き返ったといわれています。一説には、その後7日間も生きていたそうです。それ以降、この橋は死者を甦らせる橋ということで「戻橋」とついたのだそうです。この橋は、源氏物語に「ゆくはかえるの橋」と記されるなど、平安遷都当初から存在していたようですが、「戻橋」と呼ばれるようになったのは、清行が生き返ったという918年以降といわれています。それからというもの、戻橋の縁起を担いで、人が生き返ったのだから旅に出ても無事に戻れるであろうと、わざわざこの橋を渡ってから旅立つ人が増えたり、戦時中には帰還を願って出征兵士たちがこの橋を渡りに来ていました。しかし、縁起を担ぐだけでもなく結婚の決まった花嫁が出戻りになるのを嫌い橋を渡るのを避けることもあるそうです。当初一条戻橋は、とても小さな木製の橋だったそうで、橋の北に残っている堀川の小ささを見るとその名残が感じられます。昭和初期に鉄製のものに架け直されたのですが、戦争中に兵器の製造原料にするため国に回収されてしまいます。そして終戦後に石橋が架けられ、さらに1995年に改装され、現在の戻橋に至っているのです。

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あの世とこの世をつなぐ結界らしいんどす。
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 一条戻橋は平安京の最北端にあり、都の内と外との境目に架かっています。 平安時代には洛中(内)と洛外(外)を隔てる橋とされていましたが、それだけでなく、この世とあの世との境界に架けられている橋という意味も成していたようです。 能の世界でも、役者が舞台へと登場する通路を「橋掛かり」といい、演目で本舞台を「この世」とする時、橋掛かりの向こうに「あの世」を表現しています。 戻橋のある場所は、平安の昔から都の鬼門とされており、鬼が出入りするという不吉な方角にあったわけです。「平家物語」でも鬼女が出たという話が書かれていたり、小さな橋ながら戻橋は魔界への入口として見られていました。 そしてその北側は葬送の地とされ、葬儀の列は、向こう岸にある「あの世」に向けて必ずこの橋を渡ったそうです。 また、堀川通りを挟んだところに安倍清明の館があり、この橋の下に式神を住まわせていたとか。今、その館の跡は清明神社になっています。 ちなみに晴明神社には、現在の橋に直す前の橋、大正11年から平成7年まで、実際に使われていた欄干が保存されています。 また桃山時代になると、この橋の付近は罪人のさらし場となり、刑場への引き回しの通り道とされました。 秀吉の命(めい)で切腹した、千利休の首が晒された場所でもあるそうです。 今日もちょっと京都通。 美しい古都に思いを馳せつつ、おいしいお茶を飲みながら、はんなりとした時間をお過ごしください。

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京野菜の唐辛子、いっぺん食べてみておくれやす。
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 日本に唐辛子がやってきたのは、室町から安土桃山時代の頃。 ポルトガル人が持ち込んだという説や、1592年の慶長の役の時に秀吉軍が持ち帰ったという説が伝わっています。 中国から京都の伏見に初めて持ちこまれ、唐辛子の薬効が明らかにされると、はじめは“漢方薬”として広まったそうです。 ということは、秀吉軍が持ち帰り、城下に広めたのかもしれませんね。 漢方薬として広まった唐辛子は、その後食べ物として利用できないかと検討され、そして唐辛子を主成分とした薬味が出来上がりました。 これが「七味唐辛子」です。 この頃の日本では蕎麦(そば)が普及しており、香り豊かな辛味の効いた七味と蕎麦の味が合うことから、人気となったようです。 その後、七味唐辛子の普及によって、日本独自の野菜としての唐辛子の考案が始まりました。明治初期には全国で52種類もの唐辛子が誕生したとか。 ちなみに唐辛子は熱帯アメリカ原産で、コロンブスが西インド諸島で見つけたトウガラシを、コショウと勘違いして持ち帰ったともいわれています。 それが由縁か英語ではトウガラシのことを、「赤いコショウ(red pepper)」というのだそうです。

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辛いだけやおまへん。それぞれ個性がおます。
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 京都では、「伏見唐辛子」や「万願寺唐辛子」、「田中(山科)唐辛子」や「鷹ヶ峰(たかがみね)唐辛子」などの品種が生まれました。 今ではいずれも京の伝統野菜として親しまれています。 これら4種類の唐辛子は、どれも似たように見えますが、それぞれ個性があります。 伏見唐辛子は、別名「伏見甘長唐辛子」ともいわれていて甘いのが特徴です。 「万願寺唐辛子」は、大正時代末期に、京都の舞鶴市万願寺地区で作られた固有の品種。 伝統的な京野菜として初めて認証された唐辛子で、長さは20センチ近くにもなり、果物系の甘さと食べ応えのある肉厚の果肉が人気。 厚みがあるのでピーマンのように肉を詰めたりして食べるのがお勧めです。 そして江戸時代末期頃には、「ししとう」の基ともいわれている太く、短く一番小粒で深い緑色が美しい甘い品種の「田中唐辛子」が、左京区の田中地区で栽培されるようになりました。 「鷹ヶ峯唐辛子」は、北区にある鷹ヶ峯地区だけで作られている特産品。 今も自然の中でしか栽培されない唐辛子で、長さ約15cmで肉厚、甘味が強く素焼きや炒め物に適しているそうです。 それぞれメイン食材とはいえませんが、ビタミン類が豊富でとても栄養的には貴重な食材。京料理にかかせない野菜です。

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はんなりと過ごせる場所が、たくさんおます。
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 世界文化遺産である清水寺をはじめ、名立たる名所旧跡がある東山界隈。 桜でも有名な円山公園を中心とした東山山麓一帯は、その昔に真葛やすすき、茅(かや)などが一面に生い茂っていたことから「真葛ヶ原」と呼ばれていました。 そして東山の山裾には平安、室町の時代に建てられた有名社寺が多く、観光客でにぎわう清水の他にもゆっくりと見物することの出来るお寺や神社がたくさんあります。 八坂神社や知恩院、六波羅蜜寺のほか、1001体の観音像で有名な三十三間堂など、ちょっと足を伸ばせば泉涌寺、東福寺、伏見稲荷もあります。 またこの辺りは、風情のある石畳の坂道や散歩道が多く、京の佇まいを楽しみながら歩けるのが魅力。何度巡っても飽きることのない風景に出会えます。 巡る場所は古寺ばかりでなく、京都国立博物館や京都文化博物館といった、見所もたくさんあります。 また、この界隈は新選組の活躍していた場所。幕末に無法地帯と化していた京都の治安維持や、倒幕派の取り締まりのためにこの界隈で剣を振るっていました。 そして近藤勇も遊んだと言われている格式高いお茶屋や、新選組から離脱した隊士による御陵衛士たちの屯所も高台寺の近くに設けられていました。 今では幕末・明治維新の資料を中心とした日本唯一の博物館である「霊山歴史館」や、幕末に活躍した志士たちが葬られている「京都霊山護国神社」があります。 護国神社には、維新を目前に散ってしまった坂本竜馬と中岡慎太郎の墓も建てられており、その場所からは今の京都を一望することが出来ます。

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幻想的な「東山」も、楽しんでおくれやす。
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 東山界隈では、3月に開催される「花灯路」が、毎年話題を呼んでいます。 東山山麓に連なる青蓮院から清水寺までの約4.6kmにわたって、京焼・清水焼など5種類の露地行灯約2,400基が設置され、この界隈の散策路が花と灯りで美しく彩られます。 また隣接する清水寺、八坂神社、知恩院、円山公園などの社寺仏閣の多くもライトアップされています。特別拝観も行われ、間近で美しく写しだされたお寺や神社を見ることができます。 世界最大級を誇る国宝三門並びに友禅苑がライトアップされる知恩院や、圓徳院にある名勝「北庭」の石組は滅多に見ることの出来ない迫力です。 またこの時は、さまざまなイベントも催されます。 例えば、ねねの道沿いにある高台寺公園では、和のしつらいの「華舞台」を設営。琴や踊りなど、京都ならではのはんなりした催しが繰り広げられます。 また円山公園内を流れる吉水の小川のせせらぎ一面が、約1,000本の青竹の灯籠で満たされ、幻想的な情景を醸し出します。 他にも伝統の灯りをテーマに京都の芸術系大学の学生たちによるユニークな作品も多数展示され、「花灯路」のイベントの中でもおすすめのスポットとなっています。 東山界隈は、イベントの他にもユニークなお店や地元の人だけが知っている秘密のスポットなど、思いがけない魅力に溢れています。 歴史に思いを馳せるのもよし、芸術や自然に触れるのもよし。さまざまな楽しみ方ができる場所といえるでしょう。

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京都に都が千年も続いたんは美水のおかげなんどす。
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 京都は鴨川をはじめ、多くの河川に囲まれています。この水に恵まれた環境で様々な文化を育んできました。 また、名水と呼ばれる井戸もたくさんあります。古い文献にも登場する由緒ある井戸や、伝統産業を支えてきた井戸、現在でも現役で老舗の味を守り続けている井戸などさまざま。 そして、地名にも「御池」(おいけ)「堀川」(ほりかわ)「今出川」(いまでがわ)「清水」(きよみず)など、水に関するものが多く残っています。 京都は盆地特有の気候で住むには大変な状況でありながら、約千年の長きにわたって都が存在しています。そして茶道や京料理などさまざまな文化を育み、友禅や西陣といった伝統産業を育ててきた理由のひとつに、良質で豊富な水があったからといえるのではないでしょうか。 『南総里見八犬伝』で有名な、江戸時代後期の読本作者である滝沢馬琴(たきざわばきん)の紀行文「羇旅漫録」(きりょまんろく)の中にも、『京によきもの三つ。女子、加茂川の水、寺社』という一文があります。 これからも江戸時代にはすでに、京都は水の清きところという印象をもたれていたことがわかります。 18世紀の中頃には、樽詰めにした鴨川の水を大坂に送ってお茶や化粧用などに売る「賀茂河水弘所(かもがわみずひろめところ)」という店もあったそうです。 京の水は、昔から他の地域にも人気のある水だったようです。

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美水のおかげで、ええもんたくさんできましたんえ。
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 質がよく、硬度が適当であり不純物の少ない天然水が、名水と呼ばれる資格をもっています。 そして現在も、京都では良質な井戸水を利用した、豆腐・湯葉・生麩といった京料理にも欠かせない素材が作られています。 では、なぜ井戸水が上水道に比べて食品加工業に適しているのでしょうか。 それは、水温・水質が1年を通じて、ほとんど変化しないことが大きな理由だそうです。 これは安定した製品の供給には不可欠な要素。京都の台所「錦市場」には何軒もの鮮魚店があり、17~18℃で常に保たれているこの地下水を利用されています。 水道水に比べて「冬は温かく、夏は冷たい 」ことから、扱いに慎重を要する高級鮮魚には、必要不可欠なのだとか。 また、豆腐は禅僧が中国から日本にもたらしたものですが、中国の豆腐は堅く締まったものでした。 それが京都の水と出会うことによって、水分を多量に含んだ柔らかな豆腐が生まれたというわけです。 地下の豊富な美水の上に立つ京都は、まさに水の都。 水の味をききわけるように、京都の人はゆっくりと時間をかけてその味覚や美的感覚を磨いてきました。 伏見のまろやかな味わいの酒や上品で繊細な京豆腐、味も形も優雅な京野菜などは、その豊富な美水の賜物といえるでしょう。

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四季折々の風景が、楽しめるんどっせ。
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 哲学の道(てつがくのみち)とは京都市左京区にある散策道のことです。 若王子神社から銀閣寺まで続く約2キロの琵琶湖疏水沿いにあり、銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から、南へ琵琶湖疏水の支流に沿って上っています。 春はこの琵琶湖疎水の両岸に植えられた桜が素晴らしく、初夏には螢の姿もみられ、秋の紅葉や冬景色など四季折々に楽しめるこの道は、市民や多くの観光客に親しまれています。 しかし、戦後はずいぶんと荒廃していたため、昭和45年に整備されるまでは、名もないただの道だったといいます。 そこで京都市が取り壊そうとしたのですが、地元の人々が反対したおかげで守り抜かれたそうです。 その後、市民の声に応えた市が、この散策路を整備して「哲学の道」が誕生したそうです。 そして今では「日本の道百選」にも選ばれている散策道となっています。 名前の由来は、近くに京都大学があり、京大生や京大の教授でもあった哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけりながら歩いたことから、元々は「思索の小径」と呼ばれていましたが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになります。 他にもドイツにある「哲学者の道」にちなんで「哲学の道」と名づけられたという説もあるそうです。

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美しい石畳の並木道で、まったりしておくれやす。
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 哲学の道は、青白く光る美しい石畳の道となっており、それには御影石が使用されています。 実は、日本で最も古い電車である「京都市電」の路面に使用されていた石畳が市電の廃線後、哲学の道に使われました。 現在では、アスファルトの舗装道路が一般的ですが、昔の道路整備の方法は「石」。 京都市電が開通した明治時代にもアスファルトはなく、路面には質のいい御影石が使用されていました。 丈夫で、しかも大変高価なものでした。 もともとは社寺への寄進として神社仏閣の参道などに使われたのが、石畳の始まり。 その昔、平安時代にも高貴な方の住居に石畳が敷かれていたそうです。 そんな石畳の上を走っていた市電も、昭和50年代には廃線となってしまったため、残された石畳をどうするかということに。 そこで、古い町並みを残そうという市民によって、路面で使用していた石畳を再利用することになったそうです。 そして、整備される前の哲学の道はただの土の道で、雨の日はぬかるんで歩きにくい状態であったため、整備の際に市がこの敷石を地元住民に贈り、そして現在の、情緒ある石畳と緑で彩られた哲学の道が誕生したというわけです。 石畳だけでなく、哲学の道の付近には銀閣寺や永観堂をはじめ、名所・旧跡がいっぱい。 市街地からわずかしか離れていない場所に、四季折々、自然の風景を堪能できる散策道が存在しているのも、京都ならではの魅力です。 ぜひ、東山山麓の四季と歴史を感じに訪れてみてはいかがでしょうか。

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京扇子は、「メモ」から生まれたものなんどす。
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 京都の工芸品のひとつでもある「京扇子」。この折り畳みのできる「扇」は、日本ではじめて作られました。 古代中国で用いられていた団扇(うちわ)の方が歴史は古く、「扇」が創られたのは8世紀ごろといわれています。 平安時代に書かれたとされる「西宮記」という有職書には、平安初期に宮廷で侍臣たちに扇を賜る年中行事があったことが記されています。そのことからも、この頃には京の都で扇が発明され、使われていたことがわかります。 最近の研究によると、絵の描かれた扇は平安時代からはじまったものではないかといわれています。もともとは「檜扇(ひおうぎ)」と呼ばれる、細長く薄い木の檜板を重ね綴ったもので作られたものでした。 当時は紙がとても貴重な物だったため、様々なことを記録するためには何枚も綴じ合わせた「木簡」がメモ代わりに使われていました。その形をヒントに最初の扇である「檜扇」が作られたのではないかとされています。 宮中男子の必需品とされていた檜扇ですが、その後、宮中女子の間にも広がり、彩絵や切り箔を散りばめた豪華なものが作られるようになって、女性の装身具としても重要なものになります。  平安時代より、扇のほとんどは京都で生産されてきました。そして、室町時代には扇絵が盛んになり、扇骨が地紙の表と裏の間に入る「唐扇」が作られるようになりました。 「唐扇」とは、鎌倉時代に禅僧などによって日本の扇子が中国へ渡り、それまで片面にだけ貼られていた紙が、中国で両面に紙が貼られたスタイルに変化したもの。 それが中国から輸入されて、日本の扇子にもそのスタイルが使われるようになったそうです。

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京都でしか作られてない扇子は、ぎょうさんおます。
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 京扇子は、今では全国の生産高のほとんどを占めている、京都の代表的な工芸のひとつです。 扇絵としては四季の諸行事や人々の日々のいとなみを題材にしたものが好まれ、贈答品としても珍重されています。 涼をとる夏扇の他に、能や狂言、舞踊、茶、香といった伝統文化の中でも利用され、そういった儀式用や芸能用・装飾用など用途に応じて様々な京扇子が生まれました。 ここで、何点かご紹介しましょう。 日本舞踊に使われる「舞扇」。これは舞踏用の紙扇で、芸術的工芸品の域に達し、飾り扇としても世界的にも有名です。その名の通り舞踊で使われることもあり、その曲目にあわせた舞台物があります。 「茶席扇」は室町時代以降、茶道とともに発展した、茶席に携帯する紙扇です。茶席というだけあり、千利休の茶の湯の心得を書いたものも作られています。 そして香木「白檀」の木片を重ねた板扇の「白檀扇」は、透かし彫りや描き絵の装飾が施されています。これは涼をとるために使うことよりも、白檀の上品な香りを楽しむ持扇となっています。 他にも、宮中や神社、仏閣で用いられる「有職扇」、絹や綿布を貼った「絹扇」などは、京都でしか作られていない優れたものとなっているそうです。 ちなみに一本の扇子の作業は、大別して20工程以上、さらに細かく分けると80を越える工程を経ており、そのほとんどが分業になっていて、今も熟練の職人による手作業で一本一本丁寧に作られているそうです。

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歌舞伎は、京都で生まれたんどっせ。
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 歌舞伎の語源は、人目につく変わった身なりや社会の常識から外れた言動をする人のことを「かぶき者」といっていたことに由来します。 そして出雲大社の巫女であったといわれている阿国(おくに)という女性が、京都で「かぶき踊り」を始めたのが最初。歌や舞をするところから「歌舞伎」という当て字がつけられたそうです。 さて、日常で使っている言葉には、この歌舞伎に語源を発するものが多く存在しています。 例えば「十八番(おはこ)」。なぜ、得意芸の「おはこ」が「一番」ではなく「十八番」なのでしょうか。 これは、歌舞伎役者の家系の中でも「宗家(そうけ)」として、別格の扱いを受けていた成田屋・市川團十郎家の七代目市川團十郎が、初代から受け継がれてきた『助六』や『勧進帳』などの市川家が得意とする十八の演目を、お家芸「歌舞伎十八番」として定められました。 その「歌舞伎十八番」の台本を、「無闇に上演をしてはならぬ」と箱に入れて封印したことから「十八番(おはこ)」といわれるようになったという説が一般的に広まっています。

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歌舞伎から生まれた言葉は、ぎょうさんおます。
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 その他にも、歌舞伎から生まれた言葉はたくさんあります。ここで、いくつかご紹介しましょう。 例えば「幕の内弁当」。これも歌舞伎から生まれた言葉です。 一つの話が終わって幕が下り、次の話で幕が上がるまでの間を「幕の内」や「幕間(まくあい)」といい、この時に食べるお弁当が由縁で「幕の内弁当」と呼ばれるようになったそうです。 色男のことを指して言われている「二枚目」という言葉。これは、歌舞伎小屋の入り口に掲げられている絵看板の一枚目に主役、二枚目に美男役、三枚目に道化役の名前が書かれていたことから、美男役のことを称して「二枚目」というようになりました。道化役の「三枚目」も同じく今でも使われています。 他にも「逃げ隠れる」「姿をくらます」など訳有りの理由でその場から居なくなることを「ドロンする」といいますが、これも歌舞伎の演出から生まれた言葉の一つです。 幽霊が出てくるいわゆる「怪談物」の演目で、幽霊が登場する場面では「ドロドロドロドロ」と笛と太鼓を鳴らし、そして幽霊が人を驚かせ、その場から逃げ出すように消える場面では「ドロンドロン」と太鼓を鳴らします。 そこから、その太鼓の音を擬音化して「ドロンする」というようになったといわれています。 ちなみに言葉以外でも、歌舞伎の看板に使われている書体。九代目中村勘三郎の頃、書道家・岡崎勘六が「中村座」の看板にこの書体を使ったことがはじまりです。彼の屋号が「勘亭」であったことから「勘亭流」と呼ばれるようになり、今でもこの書体が使われています。 丸くて太い形が特徴ある書体ですが、これは劇場が隙間なく埋まるように太く、また興行が円満に行われるように丸く、そして内側へはねているのも「お客を小屋へはね入れるように」と、これらの願いをこめて使われています。

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清水焼は、ひとつひとつが手作りなんどっせ。
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 日本における陶磁器の歴史は、中国や朝鮮から入ってきたものがはじまりとされています。そしてその影響を大きく受けつつも、日本独特のものを生み出すまでに至りました。 特に京都ではその技術が洗練され、京の都ならではの“雅”を表現した焼き物が作られてきました。 京都で焼かれた焼き物を総称する「京焼」は、古くは安土桃山時代にはじまります。 その後、江戸時代になると茶の湯の発展とともに、東山地域を中心に『京窯』が広がり、そこで作られた焼き物を「京焼」と呼ぶようになりました。 その京焼の中でも、清水坂界隈の窯元で焼かれていたものを「清水焼」と呼んでいましたが、やがて清水坂界隈以外にも陶工が増え、今では東山だけでなく、山科の清水焼団地、そして宇治の炭山などで生産されているものも含めて「清水焼」と言うようになりました。 以前は清水焼の他にも『粟田口焼』『八坂焼』といった多数の焼き物が京都各地にあり、それらを総称して「京焼」と呼ばれていたのですが、その後清水焼だけが残ったため、京焼といえば「清水焼」と言われるようになってゆきました。 京都には現在でも数百軒の窯元がありますが、清水焼のほとんどが一つ一つ手作りで作られているため、大量生産が難しい貴重なものとされています。

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京都やからこそ、生まれた焼きもんどすなあ。
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 京焼が広く知られるようになったのは、江戸前期の陶芸家・野々村仁清が多彩な手法を取り入れたことがきっかけとされています。それから他の陶芸家たちによって京都独特の焼き物が作られてゆき、現在の優雅な「京焼・清水焼」が出来上がります。 そして、京都が都であったこともあり需要が高く、美意識の高い公家や茶人たちの難しい注文に応えて洗練されてゆき、「京焼・清水焼」は発展してゆきました。 そんな「京焼・清水焼」の特徴は、職人によるろくろの技術が生み出す、薄作りと雅で繊細な色彩模様。目に付かない部分への細かなこだわりも多く、京都らしい職人技といえます。 また清水焼の発展において忘れてはならないのが、「京料理」の存在。味だけではなく盛り付けの美しさも追求している料理人たちにとって、器も重要な存在でした。 この料理人たちの厳しいこだわりも、京の焼き物の発展に大きく影響しています。 そして、京都の文化を伝え続ける伝統工芸として、また昔から続く手作り・手描きの製法を守り続けながらも、各国の製陶法を導入し、海外でも高く評価を得ています。 新たな伝統を培う懐深い京都の職人芸は、これからも変わらず残していきたいものです。

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京都の名水から生まれたお酒は、おいしおすえ。
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 豊かな自然風土に育まれ、京都の歴史や文化に磨きあげられた伏見のお酒。 昔から受け継がれてきましたが、実は一躍脚光を浴びるようになったのは安土桃山時代、豊臣秀吉が天下統一を果たした頃からです。 秀吉の伏見城築城とともに、その城下町として伏見の町も繁栄してゆき当時経済の中心であった大坂や堺の町に並ぶ大都市となったのです。 さらに江戸時代になると、伏見は水陸交通の要衝としてますます発展しました。 とくに酒や米の運搬、人々の交通手段にも利用されていた“三十石船”が登場してからは、その利用者たちの口づてで伏見の酒はさらに広まってゆきます。 しかし貴重な米の豊作・凶作による米価の変動を防ぐため、幕府が酒の造石高を制限。その上、灘や伊丹、池田が幕府直轄の酒造地として優遇され、京の町への持ち込みも禁止されてしまいました。 その影響で伏見の造り酒屋は激減し、1868年に起こった「鳥羽・伏見の戦い」の余波も受け、酒蔵のほとんどが消失してしまいます。 それから、伏見の酒が再び勢いを取り戻したのは明治の後期になってからでした。全国でも有数の酒どころとしてその名を知られるようになり、現在伏見には20を超える酒蔵が残っています。 ちなみに米が三十石(約4200キロ)積めることから、その名がついた『三十石船』今でもこの舟に乗って伏見の名所を巡ることが出来ます。

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伏見のお酒は、優しいおなごはんみたいなお酒どす。
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 日本を代表する銘醸地として歴史を残す伏見の町は、現在も全国で最大規模の酒の生産地です。 その理由は、かつて伏見は“伏水”と呼ばれ、名前に表されるように、上質な伏流水が流れる土地であるからです。 その水質は鉄分を含まずカリウムやカルシウムなどをバランスよく含んだ中硬水で、上質な酒造りに欠かせない存在となっています。 また伏見のお酒は、辛口で有名な灘の酒とともに「灘の男酒、伏見の女酒」とも呼ばれ、その名が知られています。 伏見とは逆に、灘の水は硬度が高く、キリッとした“辛口”の酒に仕上がります。一方伏見の水は灘の水ほど硬度がないため、やわらかくきめ細やかで、口あたりのよい甘口の酒に仕上がるのです。 今も伏見には、「石井」「白菊井」「春日井」「常盤井」「苔清水」「竹中清水」「田中清水」と『伏見七ッ井』の名水伝説が残っています。 そのひとつの「白菊水」には、その昔、白菊を毎年きれいに咲かせている翁が、日照りで白菊が枯れてしまうことを心配し、白菊を振り動かしてお願いしてみると、そこから清水がこんこんと沸き出し、この沸き水のおかげで周囲の水田の稲も豊かに実ったという言い伝えが残っています。 そして「石井」とは、御香宮という神社の境内に湧き出ている「御香水」のこと。この水は「日本名水百選」にも選ばれており、今もこの水脈から出た水が酒造りに使われているそうです。

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美山町は、懐かしい日本のふるさとを残す場所どす。
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 京都府美山町は、京都と若狭小浜との中間に位置し、東の三国岳、西の長老山、北の頭巾山などの900メートル級の山々に囲まれた 京都の町村の中でもいちばん大きな町。 その谷間のゆるい傾斜地に密集した山村であるこの町は、京都府の中でも自然の宝庫だといわれています。 地元の人々が釣りを楽しんだり、子どもたちの遊び場としても愛される由良(ゆら)川。ここにはアユや天然記念物のオオサンショウウオが生息し、その水質の良さが日本でも上位に位置する清流です。 そして、美しい日本の原風景を残す“かやぶき民家と清流の里”として、観光客など訪ねる人の心を和ませてくれる場所です。 現在、民族資料館・店舗なども含め、50戸中38戸がかやぶき屋根の集落となっています。 集落でのかやぶき建築数は、岐阜県白川村荻町・福島県下郷村大内宿に次ぐ全国第3位。 また、その他の伝統技法による建築物群を含め、残されている歴史的景観の評価も高く、平成5年に、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。 この集落で現存する最古の建物は、寛政8年(1796)建築のものだといわれており、19世紀中頃までの建物が18戸と、江戸時代に建てられたものが多いそうです。 郷土資料館には、江戸時代から昭和にかけて、地元で使われていた農機具、民具などが展示されています。ここでは、今となっては貴重な当時の人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。

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ノスタルジックな風景に、まったりしておくれやす。
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 かやぶき(茅葺)とは、植物を材料にして葺く日本家屋における屋根の構造のひとつです。 稲藁(いなわら)や麦藁(むぎわら)を中心に使って葺く地域では、藁葺(わらぶき)という場合もあります。 実は、茅(かや)という植物はなく。茅とは、アシやススキ、チガヤなどの長い繊維の葉や茎を持つ植物の総称として使われます。 屋根材として使われる植物は麻、葦(ヨシ)、芒(ススキ)、麦藁、稲藁、笹などがあったようですが、現一定量が安定して生産されているのは、ヨシとススキだそうです。 このかやぶき屋根は、場所や使用状態にもよりますが、昔は囲炉裏による乾燥が防虫の役目を成していたおかげでそう簡単に傷むことはなく、約30年ごとに葺き替えを行うものでした。 しかし囲炉裏などがない現在の博物館や商業施設では、茅葺の劣化が著しく進行する場合もあり、昔よりは葺き替えの間隔が短くなっています。 またかやぶき屋根は、戦前では日本各地で一般的に観られた屋根だったのですが、戦後、村の人口は減少し、共同作業として行なう葺き替えが人手不足で困難になります。 そして延焼の恐れがあると、建築基準法で規制がかかったことで新たに建てることも難しくなり、またスギなどの木材価格が一時的に高騰して茅場が人工林化したことなどの理由から、急激に姿を消していってしまいました。 有名な観光名所がひしめく京都もいいですが、ちょっと足を延ばして、美しい日本の原風景を残すかやぶき民家と清流の里へ足を運んでみてはいかがでしょうか。 たまには古きよき農村風景を堪能しながらの、ノスタルジックな旅もお勧めです。

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都やったからこそ、できたんとちゃいますやろか。
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 味噌とひとくちにいっても、赤味噌や白味噌、合わせ味噌など他にも多くの種類があります。 まず、味噌料理の定番である味噌汁が食卓に登場したのは室町時代のころといわれており、戦国時代には戦場の保存食としても重宝されていました。 それも、武将ごとに特徴ある味噌が作られ、中でも武田信玄の「信州味噌」、伊達政宗の「仙台味噌」、徳川家康の「三河味噌」「八丁味噌」が有名です。 そして京都で生み出された味噌もあります。それが「白味噌」。白味噌は平安時代の王朝・貴族文化の中から生まれ、室町・桃山時代には茶道の隆盛とともに、 普茶料理や懐石料理に欠かせない料理の材料として全国に普及しました。 今でこそ一般的な家庭料理の調味料として、広く使われている味噌ですが、平安時代の頃、味噌は当時の高級官僚に月給として支給されるほどの高級な品でした。 特に白味噌は、大豆を主な原料とし、麹と混ぜ合わせて作る他の味噌に比べ、混ぜ合わせる米麹の割合が大豆よりも多く使用されています。 米は当時、とても貴重な食料の一つ。つまり、高級品である米をふんだんに使うことが出来、王朝・貴族文化の中で生きる貴族たちのこだわりある味覚から生み出されたのが、この京都の白味噌なのです。

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白味噌は、繊細ではんなりとした味なんどすえ。
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 熟成期間に数ヶ月を要する赤味噌などと違い、白味噌は塩分が少ないため、7~10日ほどで出来上がります。 ですが、それだけ短い期間で作るということは、原料や麹の出来で味が大きく左右されてしまいます。 また、保存期間も短いため大量生産をすることは出来ず、毎日決まった量を作って、また仕込むという作業を繰り返しています。 そもそも味噌は、大豆と麹と食塩を混ぜ合わせ発酵熟成させたもの。発酵熟成中に働く微生物によっても、できあがりに影響が出ます。 微生物の働き方は、気候風土や製造される蔵の環境などの条件によって微妙に変わるために、原料が同じでも出来上がりが大きく違ってきます。そのため地域ごとの特色ある味噌を作ることが出来るのです。 それゆえ、技術が向上し流通が発達した今でも、全く同じ味噌を全国で作ることはほぼ不可能だといわれています。 その中でも、繊細ではんなりとした甘味と風味は、白味噌だけが持つ魅力。気の抜けない製造工程で得られた貴重な味です。 京都に生まれ、京都に育った素晴らしい食文化のひとつといえるでしょう。  ちなみに、自分で自分を誉めることを「手前味噌」といいますが、「手前味噌」とはつまり「自家製の味噌」のこと。 昔はどこの家庭でも味噌を自家製で作っており、その味噌の味を自慢するのがならわしで、そこから「手前味噌」という言葉が生まれたそうです。

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お風呂でつこてたから、風呂敷いうんどすわあ。
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 「風呂敷」という名前は、日本固有の呼び名だそうです。ですが、最初から「風呂敷」という名前だったわけではありません。 古くは「平包み」や「衣包み」などといわれ、舞楽装束を包んでいたとされています。 室町時代に入ると、いよいよ風呂敷の語源となるお風呂で使われはじめます。 時の将軍足利義満は、京都に建てた屋敷に大湯殿を設けて全国の大名たちをもてなしていました。 大名たちは衣類を間違えないようにそれぞれ自分の家紋の入った帛紗(ふくさ・絹の風呂敷のこと)に入れたり、湯上がりには湯殿に敷いてその上で着替えをしていたそうです。 「風呂で使われたので『風呂敷』という名前になった」という一説は、この話が元になったとも言われていますが、呼び名としてはまだ「平包み」のままでした。 「風呂敷」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってから。庶民の間で銭湯が普及し、この時にも衣類を包んだり、着替えの際に敷物として使われていました。 この頃から「風呂敷」の名前が一般に定着してきたものと考えられています。  その後、花見など物見遊山が大衆化したことも、風呂敷を使う機会が増えた要因の一つです。 そして、いろいろな物を包む布を「風呂の敷きもののような包みもの」すなわち「風呂敷包み」と呼ばれるようになり、そこから「風呂敷」と呼ぶようになったと推測されています。

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風呂敷は、地球にも優しいものなんどっせ。
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 京都では昔から贈答品や日常の買い物にも風呂敷が活躍していました。 苗字・家紋を持つ人々が増えた江戸後期から明治には物を持ち運ぶ時だけでなく、風呂敷に家紋を入れたものが冠婚葬祭などの儀礼で使用され利用の幅が急速に広がっていきました。 その後、紙袋やビニール袋が普及するまで、生活の必需品として大いに利用されていたのです。 それだけに包み方も色々あります。シンプルで格式のある「平包み」に結び目を隠す「隠し包み」、プレゼントに使える「和風リボン包み」、そして結び目が花びらのような「花びら包み」と実に多彩です。 他にも風呂敷一枚でスイカやワインボトルが包め、インスタントバッグやティッシュカバーにもなります。二枚を組み合わせれば簡単なリュックだって作れます。 また風呂敷で作る手提げの買い物袋は、かわいらしく使えるエコバッグ。 たくさん買い物をしても、楽に持って帰れますし、環境にやさしくて、しかもおしゃれだと思います。 何よりも繰り返し使用できることから現在、環境保護の面からも見直され、2005年度の京都議定書の締結によって、環境省も風呂敷の普及に力を入れています。 これからはレジ袋より風呂敷。環境のことを考えるなら、そんな使い方もしてみてはいかがでしょうか。

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嵯峨野には美しく、そして悲しいお話があるんどす。
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 嵯峨野を舞台にしたお話といえば『平家物語』にある有名な女人哀話「祇王(ぎおう)」と「横笛」という説話があります。 「祇王」とは、平清盛から寵愛を受けていた白拍子(当時流行していた歌舞、またその踊り手の女性)の名です。 清盛は彼女の家族まで面倒を見るほど惚れ込んでいました。ですが、皮肉にも祇王が紹介した同じく白拍子の「仏御前」にその心が移ってしまったのです。そして清盛の屋敷に住んでいた祇王たちを、追い出してしまいました。 悲しみに暮れた祇王は、共に追い出された母と妹とともに髪を剃り落とし尼となります。 それから半年ほど経ったある日のこと。祇王が出家したいきさつを知った仏御前もまた、髪を剃って彼女の元へやってきたのです。 不本意な形で祇王を追い出してしまったことを悔やみ、世の無常さに清盛の元を去ったといいます。 時には仏御前を恨んでいた祇王もその時、快く全てを受け入れ、4人で静かに余生を送りました。 もう一つの哀話「横笛」とは、平重盛の妹である建礼門院に仕えていた下級女官の名です。その横笛に、平重盛に仕えていた斎藤時頼という武士が一目惚れをします。 やがて二人は相思相愛となりますが、身分の違いを理由に、時頼の父に結婚を猛反対されてしまいます。けれども横笛への思いを捨てきれず、悩みに悩んだ時頼は19歳の若さで出家を決意。滝口入道となったのです。 彼が出家したことを知った横笛は、寺という寺を探しやっとの思いで修行先である嵯峨野の法輪寺へ辿り着いたのですが、彼は会うことを拒絶します。 そして、未練の残る横笛にまた尋ねて来られては今度こそ拒絶する自信はないと、女人禁制の高野山に移ってしまいました。 二度と会えることはないのだと悟った横笛は、彼を追うように出家し法華寺で尼になったのですが、まもなく病に倒れ17歳の若さでこの世を去ります。 このことを伝え聞いた滝口入道は、今まで以上に仏道修行にうちこみ、高野の聖といわれる高僧になったといいます。 このふたつの悲しくも美しい説話にまつわる祇王寺と滝口寺は、奥嵯峨にひっそりと隣り合って建っています。

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恋するおなごは、おこったらこわおすえ。
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 『源氏物語』にも嵯峨野は登場します。 舞台になった嵯峨野の野宮神社は平安時代、伊勢神宮に奉仕にいく未婚の斎宮である女性が伊勢へと行く前に俗界との接触を断ち、3年間身を清めるところです。 源氏物語で光源氏と恋愛関係にあった女性の一人である六条御息所は身分高く、美しく聡明な誇り高い女性で、斎宮にも選ばれていました。 16歳の若さで若くして皇太子の正妻となった彼女ですが、20歳の時に皇太子と死に別れてしまい、一人娘をもつ未亡人となります。 この未亡人となった六条御息所の元に光源氏がやってきます。好色な彼は彼女を口説き、そして恋にまで発展しました。 しかし、気品高く賢明で非の打ち所がない六条御息所が次第に疎ましくなり光源氏の心は彼女から離れてしまいます。彼女の所へおもむくことも減り、その一方で多くの女性と交際していました。 自制心の強い六条御息所は、表立った嫉妬は見せることなく、本心を抑えたまま、光源氏の事を諦めてしまいます。 けれども、実際の所は諦めることが出来ずに、心の中ではずっと彼を思いつづけていたのです。そしてついに彼女の魂は身体から離れ、怨みをもった生霊となって源氏の恋人たちに憑り付き次々と怨みを晴らしていきました。 自分が生霊となって仇をなしていたことに気づいた六条御息所は、光源氏への思いを断ち切ろうと斎宮に選ばれた娘に同行し、伊勢へと向かいます。そしてその任を解かれた娘とともに都に帰ってくると、六条御息所は病に侵されこの世を去ってしまいます。 しかし彼女の霊は死してもなお、源氏の愛人たちに憑りついたといいます。いつまでも光源氏を忘れることが出来なかったのでしょう。 ちなみに、その光源氏のモデルといわれている源融(みなもとのとおる)の別荘も嵯峨野にありました。現在は「清涼寺」として残り、源融のお墓もここに建てられています。

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エジソンはんが、ええと言わはったんどすえ。
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 京都府八幡市は、大阪と京都の中間に位置する生活都市です。市内には石清水八幡宮や松花堂庭園、テレビや映画のロケでも利用されている流れ橋などの 名所、旧跡があります。 また、京都を代表する河川である木津川・宇治川・桂川がこの八幡に集まり合流して淀川となる、全国でもまれな“三川合流部”のある、自然に囲まれた町でもあります。 そしてもうひとつ有名なのが、発明王のト-マス・アルバ・エジソンが発明した白熱電球に使われたという「八幡の竹」。 電球のフィラメントに最適であると、彼がこの竹を選び利用していたことは有名な話です。 それまでおよそ6000種類もの世界中の繊維という繊維を試し、やっとのことで京都・八幡の竹に至ったのが1880年。もう100年以上も前のことです。 それから、フィラメントがタングステンに代わるまでの10数年の間、世界中に八幡の竹を使った電球が提供されていました。 現在八幡男山の岩清水八幡宮の境内には、この貢献を称えてエジソン記念碑が建てられています。 また京阪八幡駅前の広場にはエジソンの胸像があり、広場の中央には竹と白熱電球のオブジェの非核宣言都市のモニュメントがあります。

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八幡の竹は、いろんなもんに使えんのどすなあ。
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 八幡男山山中には、広大で美しい竹林が広がっています。4月中旬から6月にかけて、甘みのある美味しさが評判の山城たけのこがここから出荷されています。 これは主に「孟宗竹(もうそうちく)」という竹で、食用以外にも皮は包みものに使用され、稈(かん・稲や竹などの中空になっている茎)は強くて弾力があり、竹細工製品にも用いられています。 そしてエジソンの白熱電球に使われていたという「真竹」は温度による膨張や伸縮度が低いという利点から、精密さが要される定規に利用されています。和服を縫う人は現在でも真竹のものさしを使用しているそうです。他にも弓や尺八、扇子にも真竹が使われています。 ちなみに、エジソンが八幡の竹に出会ったきっかけは、研究室にあった一本の扇子だったといわれています。 この八幡の竹は、1894年までエジソン電灯会社に輸出されていました。その時エジソンが出していた指示は非常に細かいもので、肥料を施していないこと、年数・収穫時期・収穫部分までも指定し、さらに「外皮を1センチ幅にして、100本に束ねて納めるように」と納品方法にまでこだわっていたのだそうです。 こうしたこだわりの甲斐あって、八幡の竹を使った何百万個の白熱電球が作られました。その後、電球の技術はさらに発展し、全世界に明かりを灯すことができたというわけです。

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鞍馬は、神仏の聖地でもありますのんえ。
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 その昔、京都と各地方を結ぶ街道の出入り口を「京の七口」と呼んでいました。 そのひとつである『鞍馬口』、そこから繋がる『鞍馬街道』は、京都と日本海側の若狭地方を結ぶ道のひとつ。そして北から京都へ入る軍事街道のひとつでもあった道です。 鞍馬といえば、水の神様で有名な「貴船神社」。元々鞍馬が賀茂川の水源地であったことから、水の神である「タカオカミノカミ」を祀るようになりました。鞍馬街道はこの貴船神社への巡拝道とも重なっています。 鞍馬街道に沿って北に上がっていくと、趣のある民家が並ぶ「鞍馬の里」に辿りつきます。街道の宿場町でもあったこの町は、今もその面影を色濃く残し、古きよき日本の姿を思い出させてくれる場所となっています。 この「鞍馬」という地名は、この地域独特の雰囲気が由来になっています。 山間を抜けると鬱蒼とした森林に囲まれており、昼でも暗い場所であることで「闇部(くらぶ)」から地名が転じたといわれています。 京の都とは違い、その薄暗く神秘に満ちた雰囲気を漂わせる鞍馬山に、霊的なものを感じた昔の人々は北方を護る神として崇めるようになり、そしてそこに鞍馬寺が創建されたそうです。

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牛若丸と天狗は、どんな修行しはったんやろなあ。
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 「鞍馬寺」の起源は、770(宝亀元)年まで遡ります。鑑真の弟子である鑑禎(がんじょう)が、夢で山城の北に霊山があるとのお告げを受け、ここに毘沙門天を祀る草庵を創ったのが始まりだといわれています。 その後、平安京ができて2年後の796(延暦15)年に、東寺を建てた責任者でもあった藤原伊勢人が桓武天皇の勅命によって、僧侶たちが住んで仏道を修行する「伽藍(がらん)」を造営し、北の守護神として創建されたのがこの鞍馬寺です。 山門から本殿までの参道は、清少納言が「枕草子」で「近うて遠きもの」と記していた「九十九折(つづらおり)参道」。約1kmの長い坂道が続く参道です。かつては長い時間を掛けて信者が歩いていたこの道も、現在はケーブルカーで登ることができます。 また、参道の途中にある由岐神社では、毎年10月22日に、若者たちの勇壮さが見どころの「鞍馬の火祭り」が行なわれます。 京都三奇祭のひとつにもかぞえられる祭で、大きな松明を持った若者たちが街を練り歩きます。鞍馬山が熱気に包まれるその夜は、街中が観光客であふれかえることになります。 また鞍馬山は源義経が牛若丸と呼ばれていた7歳のころから約10年間、文武の修行に励んだ所として知られており、特に天狗を相手に修行したという伝説は有名です。 源義経の神秘に満ちた逸話や天狗伝説で知られる鞍馬山。そこへ続く道として、歴史と懐かしさをあわせ持つ鞍馬の古街道を、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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三条大橋は、京都のシンボルとちゃいますやろか。
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 三条大橋は、東海道の終点となる橋。橋から1km離れた西詰の場所にはそのことを示す標識である里程元標も建っています。 しかし、現在の三条大橋は三条通の一部分としか見られておらず、東海道の終点という雰囲気はあまり感じられません。 鴨川にかかる三条大橋は、かつては東国への出発点であり、東国からの表玄関としての役割も持っていました。そのことから、交通の要衝とされていたのです。 橋が架けられたのは古く、室町時代初期の頃。でも本格的な「大橋」と呼べるようなものではなく、とても簡素な橋だったそうです。 その後、交通路としての重要度が増してゆき、天下統一の途次にあった豊臣秀吉が、天正18年(1590)に大橋を架けるに至ったというわけです。 それから元禄、明治、大正に改造が行なわれ、そして昭和25年に架けられたものが現在残っています。重要文化財にもされている擬宝珠(ぎぼし・欄干の柱頭などにつける宝珠形の飾り)を冠した木造風の風情ある橋は、京都のシンボル的な景観として広く親しまれています。 また12ある擬宝珠には橋を改造した桃山時代当時のものも一部含まれており、「池田屋騒動」の時についたのではないかという刀傷を負った擬宝珠も残っています。 ちなみに、安藤広重の東海道五十三次の中でも三条大橋が描かれていますが、当時三条大橋の橋杭は日本初の石製だったのに対し、絵の中の橋は木製であったことから、広重は実物を見ずに描いたのではないかと言われています。

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橋の袂には、弥次さん喜多さんがおりますのんや。
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 三条大橋の架かる三条通は幅約30メートルの大きな道でしたが、商業が発達するにつれて道幅が狭まっていき、商人たちがその場所に住むようになりました。 1590年に豊臣秀吉が三条大橋を造ると東海道の起点となり、多くの旅人たちで賑わう繁華街になったのです。 そして明治になると、文化や金融の街に生まれ変わりました。近代洋風建築の銀行や郵便局が建設され、レンガ造りの建物は現在もその面影を残しています。 1985年(昭和60年)には三条通は京都市の「歴史的界隈景観地区」に指定されました。こういった建築物の多くは震災や戦災のせいで、なかなか当時のまま現存しているものはありません。これだけ密集して残っているのは日本でも三条通だけなのだそうです。 また三条大橋の西側の袂には、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が江戸時代後期に書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公・弥次さん喜多さんの銅像が立っています。 この物語は、弥次さん喜多さん二人が、数々の失敗や滑稽な騒動を繰り返す東海道旅日記。 底板を踏み沈めて入る五右衛門風呂の入浴方法が分からず、下駄を履いて入って底を踏み抜いたり、三条大橋付近に宿泊した時に梯子(はしご)を買わされる話などがユーモラスに出てくる、当時のベストセラー作品です。 ちなみにこの二人の銅像は旅行安全の祈祷を受けており、その足元には“旅行安全祈願”の「撫で石」が置かれています。旅行で京都へお越しになられた際、またはどこか旅行へ行かれる際にはこの石を撫でるとご利益があるかもしれません。

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キャンドルとは全然違うもんなんどっせ。
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 現在、和ろうそくは京都府の他にも、山形県や福島県、富山県や滋賀県などの約20社が製造しています。 どの地域も信仰心の厚い地域で、仏事での利用が需要の大部分を占めています。 元々ろうそくは、蜜蜂の蜜から採取した「蜜蝋(みつろう)」を原料としていたようで、室町時代に中国から仏教とともに日本に伝わったろうそくも、この蜜蝋だったと考えられています。 そして江戸時代には「和ろうそく」作りが最盛期を迎え、日本のろうそくは独自に発展を遂げていきました。 今の和ろうそくも、キャンドルと呼ばれている西洋ろうそくとは原料が違います。 キャンドルは「パラフィン(石蝋・せきろう)」と呼ばれる石油から分離した白色半透明の固体を主原料にしており、蝋に通した芯に火をつけ、この芯を中心に蝋が燃える仕組みで、火にあぶられた蝋は溶けて液体になります。 これに対して和ろうそくは、「櫨(はぜ)」(ウルシ科の落葉高木)の実を搾って乾燥させた「木蝋(もくろう)」を主原料としています。 純植物性のため油煙が極めて少ないのが特長で、お寺のお堂が毎日ろうそくを灯しても真っ黒に汚れることはありません。 また風が吹いても炎が消えにくく、柔らかで優しい光が神秘的な雰囲気を醸し出していることもあり、寺院からの需要が多いようです。 ちなみに独特の曲線にも理由があります。これは火を灯しても蝋が垂れて見苦しくないよう考え抜かれた形なのだそうです。

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すべて手作業で作るんどす。たいへんどすわあ。
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 その工程のすべてが手作りで、完成までには気の遠くなるような手間がかかる和ろうそく。その製法には大きく分けて2種類あります。 型に木蝋を流し込む方法と、生掛け(きがけ)という塗り重ねていく方法です。 どちらも熟練の技術を要しますが、より難しいのが生掛けだそうです。生掛けは藺草(いぐさ)の茎に和紙を巻いて作った芯に木蝋を塗り重ねる方法。 右手と左手のバランス感覚で塗っては乾かしの作業を繰り返し、目的の太さまで仕上げていきます。そうすると年輪のように何層にも蝋が重なり、火を灯しても蝋が垂れないろうそくが出来上がります。 また使う蝋は一種類だけではありません。融点が違う蝋を最後に上掛けし、蝋が外側に流れ出さないようにします。こうすることでさらに垂れないろうそくになるそうです。 そして蝋を冷まして乾燥させたら、熱した包丁で上下を切り落とし、芯を出して完成となります。 こうして手間隙をかけて出来上がったろうそくに火をつければ、温かみある美しい炎が揺らめきます。 最近では、この「和ろうそく」という伝統の火を消さないために、インテリアやヒーリング用に家庭で気軽に使うことを意識した商品も作られるようになっています。また絵付けされた和ろうそくも人気です。 たまには照明を消して、和ろうそくで過ごす時間を楽しんでみませんか?

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鱧(はも)の生命力は、ほんにすごおすわあ。
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 平安時代から人々に愛されてきた、夏の京都の味「鱧(はも)」。祇園祭の別名を「鱧祭」というほど、京都の夏は鱧で始まるといっても過言ではありません。 では、なぜ京都では夏に鱧が食べられるようになったのでしょうか。 鱧は産卵を控える7月頃に脂が乗ります。それで祇園祭の頃が一番美味しい時期となるのです。 そして鱧は他の魚に比べ生命力の強い魚でした。その昔交通や冷蔵技術が未発達の時代、夏に京都まで鮮魚を運ぶとなると大半が腐敗してしまいました。そのため海から遠い京都で、夏に魚を食べることはとても難しいことだったのです。 しかし、鱧は違っていました。イキが良い状態で京都まで運ばれてきました、水から離れても長時間生きることが出来たのです。若狭から京都まで炎天下を運ばれても、生きたまま辿り着くほど生命力が強い魚ということで、今でもスタミナの付く食べ物として好まれているのです。 だから、京都で鱧が夏の風物詩なのは、鱧しか手に入らなかったことが本当の理由かもしれません。 また伝染病で悩まされた昔の人はこの鱧の生命力にあやかりたいと、祇園祭のこの時期に好んで食べたことが、伝染病などの怨霊を鎮めるために行われた「祇園祭」を「鱧祭り」と呼ぶようになった理由でもあるといわれています。

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京女には欠かせまへん。お肌によろしおすしなあ。
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 鱧の姿は鰻や穴子に似ていますが、実は鋭い歯を持つ獰猛かつ強靭な魚。大きいもので2mにもなります。 両アゴは長くて大きく裂けており、その鋭い歯で蟹などの甲殻類もバリバリと食べてしまいます。この「鱧(はも)」という名前も、古語の「食む(はむ)」からきているそうです。 生命力の強さゆえに珍重された魚ですが、その身は骨が多くて硬いため、そのままでは煮ても焼いても食べられませんでした。 そこでなんとかして鱧を美味しく食べるため、京都の料理人が「鱧の骨切り」という皮一枚を残して骨と身を細かく切る独特の技術を生み出しました。 そうして「はもおとし」に代表される見た目も美しい鱧料理の数々を編み出し、夏に欠かせない京料理として人々に好まれてきたのです。 また、鱧皮にはコンドロイチンという成分が多く含まれています。これを食べることによって、女性の肌がなめらかになると注目されています。 そのことを知っていたのかはわかりませんが、昔から鱧料理は皮は捨てずに食べていました。京美人は、鱧を食べる伝統食文化よって生まれたのかもしれません。

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鴨川は、ほんに京都のシンボルどすなあ。
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 京都市内を北から南へ流れる一級河川「鴨川」。古くは禊の儀式や、色鮮やかな京友禅が水面に揺らぐ「友禅流し」などの行事がこの川で行われていました。 今も京都のシンボルとして清らかな流れを漂わせ、とくに二条から五条河原にかけては市民の憩いの場となっています。 「かもがわ」という名前の由来ですが、鴨川上流部の上賀茂(かみがも)一帯は、古代より賀茂(鴨)氏の本拠地であったことから“賀茂”の地名が定着し、川名もその名残で「賀茂川」の字を使用しているそうです。 また江戸時代には、高野川の合流点から上流を「賀茂川」、下流を「加茂川」と使い分け、字を変えることによって流れている場所を区別していたそうです。 京都は、この鴨川のおかげで川魚に恵まれ、海から遠い京都でも鮎・ゴリなどといった美味しい魚を手に入れることが出来ました。 ちなみに、「ゴリ押し」という言葉ですが、この“ゴリ”という魚が語源だといわれています。 ゴリは、底生生活をする典型的なハゼの一種。川底に固定した網に、無理矢理追いあげて獲る「ゴリ押し漁」から、強引に事を行なうことを「ゴリ押し」というようになったそうです。

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鴨川はうちらの憩いの場所。来てみておくれやす。
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 鴨川で整備されている河川敷のことを「鴨川公園」と呼んでいます。 鴨川の流れをはさんで南北に伸びる水辺の緑地は、まるで都心のオアシスのような場所。 川のせせらぎの音や、鳥たちが水面で戯れている姿を見ることができ、のどかな光景が心身をリフレッシュさせてくれます。 河川敷というと狭いイメージがありますが、中には運動広場や児童広場もあります。とくに丸太町橋あたりから柊野にかけては整備が進んでおり、芝生や運動広場をはじめ、ジョギングロードや木立に囲まれた散歩道も整っています。 このような美しい場所が作られるようになったのは、昭和10年の集中豪雨で鴨川が氾濫したことがきっかけでした。河川の大改修工事によって高水敷が整えられ、緑地化して運動広場や芝生地がつくられたというわけです。 比叡山や大文字山など東山連峰を見渡すことができ、山に囲まれた京都らしい風景を楽しむことができる鴨川。この京都ならではの美しいスポットを 今夏ぶらりと訪れてみてはいかがでしょうか。

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龍馬はんとお龍はんの、恋の宿でもあるんどす。
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 幕末の志士、坂本龍馬が京に滞在していた際に定宿として使っていた「寺田屋」。 伏見の中心街である大手筋を行き、今では「龍馬通り」とも呼ばれている納屋町通りを南に折れると寺田屋に着きます。 軒先には旅篭(はたご)の提灯が吊るされ、昔ながらの船宿風情が漂っているこの宿は、江戸時代には伏見と大坂をつなぐ三十石船の発着点として栄え、多くの武士や商人が往来していました。当時、この辺りには寺田屋以外にも多くの宿が立ち並んでおり、それらは今でいうターミナルホテルといった存在だったようです。 その中でも寺田屋は、今なお続く唯一の旅館として知られており、内部も公開され、もちろん宿泊することも可能です。 龍馬が愛用していた部屋は「梅の間」と呼ばれる二階の部屋。六畳ほどの広さです。現在この部屋には、龍馬の肖像画や写真、刀などの遺品が並べられています。 ちなみに、肖像画は寺田屋の女将であったお登勢が、嫌がる龍馬に奨めて町の画家に描いてもらったものだそうで、円山公園にある銅像のモデルにもなっています。 もうひとつ、寺田屋はそのお登勢の養女であるお龍(りょう)と龍馬の恋の宿としても知られています。当時この寺田屋で、龍馬とお龍は激動の幕末をどのように過ごしていたのでしょうか。

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お龍は、男勝りの京美人どしたんやて。
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 寺田屋といえば、やはり『寺田屋騒動』です。事件が起こったのは慶応2(1866)年1月23日夜。龍馬が宿に到着したのは深夜0時ごろでした。 龍馬は2階の奥の間で、長州藩士の三吉慎蔵と酒を飲みながら話をしていた時のこと。百数十人もの伏見奉行の役人たちが寺田屋を急襲します。 真っ先に異変に気が付いたお龍が、入浴中であったにも関わらず、裸のまま一階の風呂場から龍馬たちのいる二階へ駆け上がり、事態を知らせたといいます。 でも、逃げるよりも前にお龍の格好を見て、呆気に取られてしまったそうですが…。 お龍は美人で花を生け、茶の湯を致す教養を持ちながらも気丈で男勝りな京女で、龍馬が立ち上げた海援隊の隊士たちにも「姉さん」と呼ばれていたそうです。 そんなお龍の機転によって龍馬は助かったのですが、この騒動で左の親指と人差し指を負傷。龍馬はこの傷を癒すために、お龍をともなって鹿児島へ温泉旅行に出かけました。これが、日本人として最初の『新婚旅行』といわれています。 現在も「梅の間」の柱には、その事件の刀傷や弾痕らしきものが残されており、またお龍が入っていた五右衛門風呂や、彼女が駆け上ったとされる階段も残っています。 実際のものは焼失してなくなったとも言われているのですが、当時の面影を見られる場所として龍馬ファンでなくても、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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都やったのは、短かったんどすわあ。
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 京都市の南西に接する向日市、長岡京市。 京都・大阪の二大都市を結ぶ軸の中間に位置しているこの場所は、 奈良にあった平城京から平安京へ都が遷る間の10年間、 都が置かれていたところです。 菅原道真ゆかりの場所である長岡天満宮や、 戦国時代の悲劇のヒロインとして知られる細川ガラシャの 居城であった勝龍寺城などの名所旧跡もあり、 また両市の西側の美しい竹林が広がる西山丘陵では、 日本一と評価の高いたけのこを産出する豊かな自然もあります。 都が遷ったのは延暦3年(784)。 桓武(かんむ)天皇が世継ぎで争いの耐えなかった平城京から 政治を立て直そうと京都盆地の南西、長岡京に遷都しました。 長岡京は東西4.3km、南北5.3kmと平城京に匹敵する広大な都で、 向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部にまたがっていました。 政治の中心である長岡宮は現在の向日市に置かれ、 大極殿も大規模なものだったといわれています。 しかし、ここで不幸が相次いで起こることになります。 長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺され、 この事件に関係したとして天皇の弟・早良(さわら)親王が 幽閉されてしまいます。 一切の食を断つことで親王は無罪を主張したのですが、 淡路島へ流刑となり、罪が晴れることはなく 淡路に向かう途中で餓死してしまいます。 その後も洪水などの災害や疫病にも見舞われ、 周囲の人間たちにも不幸が続きました。 これは早良親王の祟りではないかと恐れられ、 都はわずか10年間で平安京へと遷されてしまったのです。

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道真はんは、つろおすかったと思いますえ。
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 昌泰4年(901)に、学問の神様として知られる 菅原道真が九州の大宰府に左遷される折、 立ち寄った場所が長岡天満宮として記録が残されています。 都との名残を惜しみ「吾魂長くこの地に留まるべし」と言った場所であり、 長岡天満宮は別名『見返り天神』とも呼ばれています。 ここは道真が在原業平らとともに詩歌管弦を楽しんだという、 とても縁深い場所でもあったため、 彼の亡き後、太宰府に同行した臣下の者が、道真自刻の木像を この地に祠を建てて祀ったのが長岡天満宮の起こりとされています。 今では、長岡公園というスポーツなどができる施設も隣接され、 春には美しく咲き誇る梅林でも広く知られています。 社前にある「八条ヶ池」と呼ばれる池では、 初夏になると池の西側にある『水生植物ゾーン』にショウブやアヤメ、 カキツバタなどの水生植物が花を咲かせます。 また、池の中央を通る参道の両側には、 市の天然記念物に指定されている樹齢150年のキリシマツツジが たくさん植えられており、5月初めに見事な花をつけ ツツジの名所として参拝者の目を楽しませてくれます。 また8月下旬には盆踊りも行われる夏祭りや、 夏の夕べにクラシック音楽の調べを響かせる 「宵宮コンサート」なども行われており、 夏の夜の涼を音楽で感じることができます。

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夜におうたら、ほんに怖いおすやろうなあ。
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「幽霊の掛け軸」と呼ばれる掛け軸が 京都にあるのをご存じでしょうか。 この掛け軸は、左京区の『曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)』 というお寺で、毎年8月の間だけ開帳されていたものです。  掛け軸に描かれている幽霊は、剥き出しになった目に ざんばら髪の白装束、足元も透けているという、 俗にいう“お化け”。 暗い部屋にひっそりと置かれていたこの掛け軸から、 夜になると幽霊が絵を抜け出して 寺院内を彷徨っているとまで言われていました。 掛軸から浮いて見える「画き表装」の手法で描かれていることもあり、 その話も本当に思えてしまうほどの迫力があります。 もともとこの掛け軸は、滋賀県の旧家の蔵に保管してあったそうですが、 なんでも掛け軸を入手してからというもの、 その家に様々な怪奇現象や祟りが続いたため、 「この掛け軸があるとロクな事が無い」と、曼殊院に預けられたようです。 そして夏に公開するのは、供養も兼ねていたからともいわれています。 夏のうだるような暑さの中、この掛け軸を観て、 背筋も凍るような怖さで、涼しい気分を味わってほしいと、 夏に開帳されていたのでしょうか。 ただ残念ながら、数年前、住職が代わった際に、 掛け軸は元の持ち主に返却されたということで、 現在は観ることが出来ないそうです……。

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見所は、幽霊だけとちゃいますえ。
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この掛け軸のある曼殊院門跡は、最澄が開いた小寺院が起源とされ、 その後、江戸時代に建立された書院建築です。 日本庭園の中でも有名な桂離宮ともデザインや様式などが、 とても似ているといわれています。 また山の斜面に建てられているいることから、 門や塀も思わず見上げてしまうような位置にあり、 周りも竹垣で囲われていることから竹ノ内門跡とも呼ばれています。 中に入ると、重要文化財指定の茶室で八つの窓があることから 「八窓軒」と呼ばれる茶室や、小書院の曼殊院棚と呼ばれる「違い棚」、 そして書院から望む枯山水の庭園があり、 四季折々の優雅な光景を見ることが出来ます。 とくに初夏には霧島ツツジ、秋は紅葉の名所としても有名で、 ピーク時にはたくさんの観光客で賑わいます。 すこし市中から離れていますが、 行ってみるだけの価値はあるおすすめの寺院です。 掛け軸が観られなくても、充分夏の涼を感じられる場所ですので、 ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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京都でいちばん高い山なんどっせ。
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 京都市街の北西にそびえる「愛宕山」は、 東方の比叡山と並ぶ古都の背山で、 古くから京都の人々に「あたごさん」といわれ 親しまれてきた山です。 標高924メートルで、京都市内から臨める山々の最高峰。 西山の中で1つ頭をもたげたような形をしていて、 町のどこからでも見ることができます。 また、京都盆地東北の比叡山と並び、 古くより信仰対象の山とされていました。 比叡山や鞍馬山が王城の鬼門にあたる 東北の守護の任に当たったのに対して、 西北から王城を守護したのが愛宕山だったそうです。 現在、比叡山はドライブウェイやケーブルなどで手軽に行けて、 観光地化されているのですが、 愛宕山は歩いて登るしか方法はなく、 観光地化されていないためたくさんの自然が残されています。 そして山頂では、京都市街地をはじめ比良山系などの とてもすばらしい眺望に出合えます。 ちなみに、“愛宕(あたご)”という名前の由来は、 祭神のカグツチ(火神)が産まれた時、 母であるイザナミを焼き殺したので、 カグツチを仇子(あだこ)と呼んだのが始まりだという説や、 アイヌ語で「燃える松明を持ってくる」を意味する“atakk”に 由来するともいわれています。

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火の神さんが、ずっと守ってくれてはんのどす。
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 山頂には、『お伊勢さんへ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り』と 歌われ、火伏の神様として信仰を集めている愛宕神社があります。 その愛宕神社へは、紅葉で名高い清滝か、 曲がりくねった参道を登って行きます。 古くは修験者の行場であったくらいなので、 生半可な気持ちで登ると、大変な目に遭ってしまうかもしれません。 登り坂ばかりの道が延々と続くので、 お越しになる際には途中で何度も休憩をしながら、 水分補給をしっかり摂ることをおすすめします。 最近では「月まいり」で登る人よりも、 体力づくりや本格的な登山への足慣らしに登る人が増えているようです。 愛宕神社は全国に900を超す分社があり、火の用心の総本山。 そして「火廼要慎(ひのようじん)」のお札の発行元でもあります。 京都の人々は昔から愛宕神社を火伏せの神様として信仰しており、 火難消除を願ってこの社のお札を、カマドの近くに祀っています。 そんな愛宕山が一年で一番賑やかになるのが、「愛宕千日詣」です。 旧暦の6月24日(現在では7月31日~8月1日)に行われる 愛宕千日詣は、例年1万人もが参拝するというもので、 「1日で千日分の功徳がある」とか。 つまりこの日にお参りすれば、 千日お参りしたことになるといわれているのです。 また3歳までに登ると、火の神が一生火事から 守ってくれるといわれているため、 乳児を背負って登られるお父さんやお母さんも多いようです。

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幾松はんは、命をかけて好きな人を守ったんどす。
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 京都には、島原や祇園などたくさんの遊廓があり、 その中では当然のように志士たちと芸妓たちとの “恋”もたくさん生まれていました。 その代表的なものが桂小五郎(後の木戸孝充)と幾松です。 幾松は、1843年に若狭小浜藩士の娘として生まれ、 幼名を“計(かず)”といいました。 彼女がまだ幼い頃、事情により小浜藩を脱藩した父を、 残された母や兄弟達と追いますが、のちに父は病に倒れ この世を去ってしまいます。 その後、母の再婚をきっかけに、難波家へ養女に出されました。 そこから芸妓になる運命を辿ることとなります。 やがて美しい女性へと成長したかずは、 14歳の頃に三本木の「ニ代目幾松」を襲名し、 花街のトップスターとなっていったのです。 また幾松は、長州藩士であった桂小五郎が 池田屋事件や「禁門の変」の戦いで長州藩が敗れ 命の危険に晒されていた時に、 彼を必死で庇護し、支え続けた女性でありました。 幕府のお尋ね者となった小五郎が潜伏する場所に にぎり飯を運んだり、新選組の近藤勇に小五郎の居所を言えと 何度か問いつめられたこともあったのですが、 絶対に口を割らなかったといいます。

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幾松はんの、一目惚れやったみたいどすなあ。
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 幾松は若くして花街のトップになれるだけの才色兼備の女性で、 同様に小五郎も男前でとても頭の切れる男性だったことから、 まさに憧れのカップルでした。 そんな二人が出逢う事になったのは、 幾松が籍を置いていた「吉田屋」という料亭でのこと。 ここによく出入りしていた桂小五郎に幾松が一目惚れしたのが きっかけといわれています。 小五郎も幾松の魅力に惹かれてゆき、 彼女を身請けするまでに至ります。 それからふたりの恋がはじまりました。 しかし楽しい日々は続かず、 「禁門の変」で二人は離ればなれになってしまいました。 幾松は小五郎を探すため、たった一人で旅に出たのですが、 やっと会えた時には、彼は潜伏していた町の娘と結婚していたのです。 でも、それが幕府から逃れる為の偽装結婚であった事もあり、 複雑な胸中でありながらも、 寛大な気持ちで彼を許したそうです。 そして明治維新後、二人はめでたく結婚し、 命をかけた恋は実を結びました。 木戸孝允となった小五郎と、 結婚後、松子と名を変えた幾松ですが、 彼の忙しさのあまりすれ違いが多くなり、 その夫婦生活は上手くいかなかったそうです。 小五郎の死後、京都へ帰った松子は、明治19年に43歳で死去。 遺言で「木戸孝允と一緒の墓には入らない、傍らに葬って欲しい」と 残してこの世を去りました。 夫婦の時よりも、小五郎と幾松として過ごしていた時代が、 ふたりにとっていちばん幸せだったのかもしれません。

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雄大な姿は、「都富士」ともいいますんや。
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 豊かな自然と歴史に彩られた「比叡山」。 天台宗の総本山「延暦寺」のある、 日本で代表される霊場のひとつです。 滋賀県・京都府にまたがり、四明ヶ岳(839m)と大比叡(848m)の 二峰を中心に、南北に比叡連峰が連なっています。 山中の多くが延暦寺の寺域に属し、 老杉がうっそうと茂るなか、諸堂が点在しています。 そして仏教の霊地として厳かな雰囲気を見せる比叡山は、 殺生禁断(せっしょうきんだん)の地と定められてきたために、 山全体が天然記念物の指定を受け、保護された自然の中に 野生の動物が数多く生息しています。 とくに、野鳥については、「ホトトギス」や 「サシバ」、「カッコウ」といった夏鳥を中心に、 年間80種類以上の野鳥を観ることが出来るそうです。 また、優美な山姿から古歌に「都富士」と詠われ、 古くから歴史の舞台としても知られています。 現在では、有料道路やケーブルカー、ロープウェイで 京都・滋賀の両方から手軽に山頂まで行けるため、 休日には観光客が多く訪れる観光スポットにもなりました。 山頂部にはコスモス園やホテル、美術館などの観光施設もあります。

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比叡山は、仏教の『母』なんどすわあ。
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 比叡山の頂上一帯に散在する延暦寺は、 延暦7年(788)に「仏教はすべての人々を救う」と説いた 最澄によって建立されました。 最澄は、奈良の東大寺戒壇院で受戒し、 国家公認の僧侶となりましたが、 奈良仏教との折り合いがあわず、比叡山に登り 山修山学の道を選んだそうです。 また比叡山は平安から鎌倉時代にかけて各宗派を広めた、 法然・親鸞・栄西・道元・日蓮がこぞって修行した場であるため、 「日本仏教の母山」とも呼ばれています。 そして延暦13年(794)に都が京に移り、 京都の鬼門にあたる北東に位置する比叡山は、 王城鎮護の山としての役割も担っていきました。 その後は京都市民からも崇拝されて、 宗派関係なく広く親しまれるようになったのです。 これから秋にかけては、 自然あふれる比叡山をぐるっとひとまわりする、 壮大なスタンプラリーが実施されたり、美しい紅葉も見物。 ちなみに比叡山の紅葉は平地よりも一足早く、 深山の趣もひとしおです。 10月下旬から11月に行なわれる『もみじ祭』は、 延暦寺境内の横川(よかわ)地域で行なわれ、  この地域で見る紅葉が最も美しいといわれています。 春は約40種1000本の桜、秋は2000本をこえる紅葉と 四季折々の美しい景観を望める比叡山。 ぜひ一度足を運んでみませんか。

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昔は、ほんに大きな大仏さんがいたんどっせ。
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 桃山時代の天正14年(1586年)、 豊臣秀吉が奈良の東大寺を超える大仏の建立を計画し、 東山のふもとに大仏殿と大仏の造営を始めました。 これが方広寺のはじまりです。 文禄4年(1595年)には、ほぼ大仏殿が完成していたようで、 大仏殿の高さはなんと50メートルもあり、 大阪城がすっぽり屋根の下に入ってしまうほどの規模だったそうです。 また大仏殿に鎮座する大仏は、東大寺の大仏より大きい 全高約19mもあったというから驚きです。 しかし、翌年の慶長元年(1596年)に起こった大地震により、 大仏像と築地は大破してしまいました。 その後、大仏殿も昭和48年の火災により焼失し、 初代大仏殿の規模は現在も不明なのです。 というのも、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失した後、 豊臣秀頼により再建されたのですが、 同様の規模のものは再建されませんでした。 ですが、この大仏と大仏殿は、江戸時代に描かれた「洛中洛外図」や 日記などの古文献にもかかれており、 その存在については知られていました。 そして、2000年8月に行われた発掘調査で 大仏殿基壇と大仏の台座が発見されます。 そのことにより、奈良の大仏よりも大きな大仏が 京都に実在したことが実証されたわけです。

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豊臣家滅亡のきっかけとなった大梵鐘がおます。
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 方広寺には、慶長19年(1614年)に三条釜座の鋳物師、 名越(名護屋)三昌らによって境内の鐘楼へ吊るために 鋳造された大梵鐘があります。 これは現在も境内に残っており、昭和43年に 国の重要文化財に指定されました。 東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされています。 実は、この大梵鐘が 豊臣家滅亡への加速剤になったという説があります。 梵鐘の銘文中に『国家安康(こっかあんこう)』と 『君臣豊楽(くんしんほうらく) 』という文字が刻まれているのですが、 これを知った家康は、自分の「家康」の名が引き裂かれ、 「豊臣」のみの繁栄を願っているのではないかと 言いがかりとしか言いようのない読み取り方をして、 大仏開眼供養の延期を命じてしまいます。 さらに家康は、なにかと因縁をつけて、 元和元年(1615年)に『大坂夏の陣』を起こしました。 そしてその戦いに敗れた淀君と秀頼は自害し、 豊臣家は滅亡してしまったのです。 この戦いは、ただ単に家康が大坂の陣の口実を作りたかっただけとも 言われていますが、その真意は定かではありません。 それに利用された梵鐘は、今でもその銘文がしっかりと読みとれます。 興味のある方は、ぜひ一度方広寺に来て見てはいかがでしょうか。

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畳は日本人が生み出した、生活の知恵どすわ。
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 外国から伝来して発展した文化が数多くある中 「畳」は日本人の生活の知恵が生み出した誇るべき住文化です。 畳の大元になったと思われる敷物は、縄文時代から存在していました。 でも畳と呼べるような代物ではなく、わらを敷いただけの 簡単なものであったそうです。 そして今から1300年ほど前の奈良時代に、 薦(こも)や筵(むしろ)のような敷物が使用されるようになりました。 これが畳の原形になったといわれています。 しかしまだ現在のような畳床がついたものではなく、 ムシロ状の敷物を折り重ねたものの総称とされていたようです。 現在のような厚みのある畳が生まれたのは、 平安時代の京都が発祥です。 権力の象徴として、貴族の邸宅で部分的に置かれるようになりました。 源氏物語絵巻を見ると、畳が座具・寝具を兼ね備えた 快適なものであったことが伺えます。 そして室町時代になると部屋全体に畳が敷きつめられるようになり、 座具から建物の床材として浸透していったのです。 ちなみに畳は、呼吸している天然の空気清浄器のようなもので、 空気の浄化作用の他にも耐久性や安全性、快適性や保温・遮断効果など さまざまな利点があります。 これらの性質から、畳は四季の変化に富み、 高温多湿という日本の気候・風土に適した敷物であるといわれています。 そのため畳は、1300年もの歴史を経た今も深く 日本の住文化に根づいているわけです。

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畳の上を歩く時には、ちゃんとマナーがおます。
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 畳発祥の京都では畳の大きさを一定にし、 それにあわせて柱を建てていく「畳割り」という 建築方法が編み出されました。 またこの関西で一般的な京間の畳が一番大きく。 地方によってそのサイズは異なります。 これは平安時代に身分の違いにあわせて畳の大きさを決めるという 考え方の名残でもあるようです。 そして江戸では建物を先に建て、その柱にあわせて畳が作られる 「柱割り」という建築方法ができたため、 京間とは違う寸法の畳ができました。これが「江戸間」です。 これら関東を中心とする基準寸法は、 一間の寸法を小さくすることによって材料面での 節約をはかったとも考えられています。 ちなみに、昔からマナーとして畳の縁は踏んではいけないと 言われてきました。 これにはいろいろな説があるようです。 ひとつは、忍者が武士を狙う時、 床下から畳と敷居のすき間に刃を上向きにして待ち構え、 その上を武士が歩く時に陰になるのを見計らって刃を突き刺したそうです。 そのような最期は武士として恥であると戒めたのが、 畳の縁や敷居を踏んではいけないというマナーに至ったとされます。 他にも「畳結界説」という説もあります。 結界とは聖域と俗界とを隔てる境界であると意味され、 客が座る畳と主人の座る畳を区別し、 その境目である畳の縁(結界)を踏むと、 空間の格式が崩れるのだといわれていたようです。 他にも単純に昔の畳には縁を保護するものがついておらず 傷みやすかったため、踏まないようにというのが マナーとして今も残っているという説もあるそうです。

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京都でもっとも古い、伝統ある神社どす。
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 上賀茂神社は、下鴨神社と並び 京都で最も古い神社のひとつです。 この地を支配していた豪族“賀茂氏の氏神”を祀ったのがはじまりで、 7世紀後半に社殿が造営されました。 下鴨神社の祭神・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子である、 賀茂別雷神が祀られていることから、 正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」といいます。 ですが、一般には通称名の「上賀茂神社」で知られています。 賀茂別雷神は、雨をもたらし、農作物を実らす神であるとともに、 あらゆる災いを祓い除ける守り神として崇敬を受けました。 また、上賀茂神社は昔から皇室との関係が深く、 天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行なわれたのが 関係のはじまりとされております。 それから、以後国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が 行なわれたのだそうです。 神社の中は広い芝生と、 御物忌川と御手洗川が流れる複雑な地形も生かし、 社殿が厳かに建ち並んでいます。 左右には回廊を巡らせた朱塗りの楼門が建っていて、 その門をくぐると三間社流造りと呼ばれる 共に国宝の「本殿」と「権殿」があります。 また社殿のほとんどが重要文化財の指定を受けています。 ですが、境内の芝生でお弁当を食べる人がいたり、 小川で子供たちが遊んでいることも多く、 神聖な場所でありながらも 庶民的な場所でもあるのが上賀茂神社の魅力です。

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烏相撲は、ユニークな祭なんどすわあ。
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 上賀茂神社では、平安時代から毎年、 陽の数字が重なる事から重陽(ちょうよう)節句として 五節句のひとつに数えられている9月9日に、 子供たちによる「烏相撲」という珍しい神事が行なわれています。 その由来は、賀茂別雷神の祖父である 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇の東征にあたり、 大きな八咫烏(やたがらす)となって熊野から大和までの 道案内を務めたこと。 それから、稲などに不作をもたらす悪霊退治の信仰行事である 「相撲」が結びつき、「烏相撲」として行なわれるようになったと いわれています。 ちなみに八咫烏とは、3本の足を持っていたとされ、 上記の説話より「道案内の鳥」と言われるようになります。 ちなみに日本サッカー協会では、日本サッカーの未来を導いていく鳥として この烏をモチーフにしたエンブレムマークが使用されています。 祭ではまず本殿に菊の花を供え、 無病息災を祈願する重陽神事が行なわれます。 その後に細殿の前盛砂のところで弓矢を持った刀祢(とね)が 幄舎から出てきて、烏が踊るような仕草で横に飛び、 「カーカーカー」「コーコーコー」と烏の鳴き真似をして ユニークな所作を行ないます。 それらの儀式が終わると、土俵で東西に分かれた地元の子供たちによる 相撲が行なわれるのです。 白熱する戦いぶりには、応援している方にも力が入ってしまう程です。 相撲が終わった後には、観覧者に菊の花を浮かべた 「菊酒」が振舞われます。 由緒ある行事なのですが、気兼ねなく楽しめる催しです。

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京団扇は、京都やからこそ生まれたんどす。
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 京団扇(きょううちわ)は京都で創作され、 その時代の人々の生活に密着しながら、 つねに新しい創意と工夫が加えられ、 繊細優美な美しさを生み出して来ました。 京団扇の始まりは『扇子』よりも早く、南北朝時代に遡ります。 当時、中国や朝鮮沿岸地を中心に活動していた倭寇(わこう)という 日本の海賊によって、西日本にもたらされた “朝鮮団扇(ちょうせんうちわ)”が元々だそうです。 その後朝鮮団扇は、紀州から大和を経て、 京都の貴族の別荘地であった深草に伝わってゆき、 それが京団扇のはじまりであるといわれています。 京団扇は「都団扇」とも呼ばれており、 宮廷にも用いられ優美な絵画が画かれてきました。 見た目も美しいことから、 扇いで涼む機能性だけでなく人々を目でも楽しませ、 一般にも普及してゆきます。 そして涼風をとる他にも貴人が顔を隠し、 人目を避ける用具としても使われるようにもなり、 戦国時代に至っては、武将の軍配としても用いられていました。 京団扇の特徴は、団扇面に手に持つ為の柄の部分を後から差し込む 「挿柄(さしえ)」と呼ばれる構造です。 江戸時代以降には、これが京団扇独特のものとして定着してゆきます。 京団扇も、独自の文化を生み出してゆこうとする京都人の気風が 生み出した工芸品の一つなのです。

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団扇は、実は魔除けでもあったんどすえ。
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 京団扇に用いられている「挿柄」の構造は、 団扇面と把手を別に作り、細い骨を一本ずつ放射状にならべて、 後から柄をつけるのが大きな特徴です。 それは朝鮮団扇の流れを汲むもので、たくさんの竹製の細い骨によって 地紙が支えられています。 そしてそのデザインの多くは、人物や風景、俳句、和歌などをモチーフに、 描絵、版画、手染、手彫の技法など、伝統の技が駆使されています。 このように芸術的な団扇が作られるようになったのは、 宮廷御用として名を馳せた絵師たちが絵を描いた、 「御所うちわ」が始まりだったといわれています。 その後、戦の中で軍を率いる軍配としても 使われるようになったのですが、 その大きな理由として言われているのが、 団扇が“打破(うちは)”とも呼ばれて、 魔を破り邪気や悪霊を払うものとされていたからです。 そういったことから、宮中の儀礼用や装飾用にもさかんに用いられ、 悪霊を払い戦いに勝つとして、 それが軍配として使われるようになったのだそうです。 そして戦の中で功績のあったものが、 褒美としてその戦の軍配を授けられることは 最高の栄誉とされていました。 またそのような歴史から、 団扇は“贈り物”としても定着していったのです。

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八坂の塔は、まさに京都のシンボルどすなあ。
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 清水寺から産寧坂を下り、二年坂と交わるその道を真っ直ぐ進むと 高々と聳え立つ五重塔に辿りつきます。 これが東山のシンボルでもある「八坂の塔」です。 境内は決して広くなく、塔の付近には寺らしい建物もないことから 「八坂の塔」がその寺自体を示す名称のように言われていますが、 正式な名称は「霊応山法観寺」といいます。 平安時代には「八坂寺」といわれ、 一直線に塔と門・金堂が南北に配置する「四天王寺式伽藍配置」をもつ 大寺として栄えていたそうです。 そのはじまりは飛鳥時代にまで遡ります。 かの聖徳太子が、夢の中で観音様のお告げを聞いて 建立したといわれており、 その際に仏舎利(釈迦の遺骨)を3粒収め、 「法観寺」と号したのだそうです。 この仏舎利を納めたとされる心礎(しんそ、心柱の礎石)は、 飛鳥時代からそのまま残っているといわれています。 しかし寺自体は何度も火災に遭い、焼失してしまいます。 そして現在は、五重塔と太子堂、薬師堂を残すのみとなってしまいました。 これは永享122年(1440)に、室町幕府の将軍であった 足利義教によって再建されたもので、 重要文化財にも指定されております。 京都市街に残る塔の中では最古のものとして知られ、 高々と佇んでいるその景観は、 京都ならではの景色の一つとなりました。 そしてこの塔に上れば、これもまた京都らしい 東山の美しい景色を一望することができます。

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日本の建築技術は、ほんにすごおすわあ。
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 八坂の塔は本瓦葺の五層式で、 一辺6メートル、高さ46メートルの和様建築です。 この塔の特徴は、いわゆる手すりである「高欄」が 初層から四層まではなく、五層にだけ設けられています。 この塔の建築技術は清水の舞台と同じく、 釘をほとんど使わない方法で造られました。 そして地震の際は、その揺れを分散させて塔のバランスを保つ 「柔構造」の理論に基づいて建てられているそうです。 この柔構造の造りは後に現在の高層ビルの建築にも影響を与え、 日本の建築技術が先進的であったことが伺えます。 初層から二層へは、急な階段を経て上ることができます。 この塔そのものが高台にあることもあり、 二層から外界を覗き込めば 京都の町並みを見渡すことができます。 その眺めの良さから、戦乱の世ではこの塔を巡って争いが 起こったこともあったそうです。 内部は見学出来るように配慮がなされていますので、 ぜひこの歴史のある眺めを体感してみて下さい。

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やっぱり、自然の力はすごおすなあ。
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 天橋立は、宮津湾と阿蘇海を分けて、 砂嘴(さし・沿岸流により運ばれた砂が堆積してできる、 嘴[くちばし]形の地形)が流れるように細長くのびています。 そして野田川から流れ出る砂粒と日本海からの砂粒とがぶつかり合って、 現在のような姿になっていったのではないかといわれています。 幅は約20~170m・全長約3.6kmの砂浜で、 日本の名松百選にも選ばれているという 大小約8000本もの松が茂っている珍しい地形が特徴のこの場所は 古くより日本三景の一つとして知られてきました。 そしてその形が、天に舞う白い架け橋のように 見えることから「天橋立」と名付けられたのです。 天橋立には、その何千年もの歳月をかけて自然がつくりだした 神秘の造形を見ようと、年間270万人の観光客が訪れます。 南側からの眺めは、龍が天に登る姿にみえることから“飛龍観”といわれ、 北側からは逆さに見ることで天に架かる橋のように見える “股のぞき”が有名です。 また、与謝野晶子の歌にもうたわれた橋が「廻旋橋」。 大正12年に造られた、天橋立と文殊地区と繋ぐこの橋は、 船が通る時は中央部分が回転して進路を譲ります。 当然その間人は通れません。昭和35年に電動化されましたが、 それまでは人力で動かしていました。 この橋の動く姿が見たいという方は、朝夕がねらい目です。

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見るだけやあきまへん。歩いてみておくれやす。
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 天橋立の端から端(文珠~府中)までは、 徒歩で約1時間、自転車で約20分の道のりです。 天橋立の松の中には、大正天皇や昭和天皇のお手植えの松も植わっており、 その他にもその土地や様々な形状にちなんだ名前を持つ名松があります。 そして松並木から徒歩15分くらいいくと、 環境等認定の日本名水百選に選ばれている「磯清水」があります。 この井戸水は、四方を海に囲まれている場所にあるにも関わらず、 少しも塩味を含んでいないことから、古来不思議な名水として 「長寿の霊泉」とされているそうです。 現在もその水は枯れることなく、 天橋立を訪れる多くの人々に親しまれています。 そして、「磯清水」から北へ徒歩40~45分くらい行くと、 「トワイライト・レールロード」と呼ばれる場所があります。 「海を渡る線路」が現れるという場所で、夕日と松の木の影が、 まるで枕木が並んでいる線路のように見えるのです。 夕日が山に沈む前のわずかな時間に、太陽の光が真横から松林を照らすその時に 絶景の瞬間を観ることが出来ます。 おすすめのポイントは府中入り口の辺りだそうです。 天橋立は見方によって同じ場所でも 様々な光景を楽しむことができる名所なのです。 是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

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世界遺産が一番並ぶ通りとちゃいますやろか
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 標高200メートル程でお椀のような形をしている衣笠山。 その麓に沿って御室へと続くのが「きぬかけの道」です。 この道には、世界遺産の金閣寺や龍安寺、 その先に「御室の桜」で有名な仁和寺など、 京都を代表する寺院が建ち並んでいます。 ここは散歩道というよりは車やバスで通るような道。 かつては「観光道路」と呼ばれ、 京都の中でも一番世界遺産が隣接する通りではないでしょうか。 本当の名称は“衣笠宇多野線”といいます。 それが通称「きぬかけの道」と呼ばれるようになったのは、 平安時代の宇多天皇が「夏に雪が見たい」と 突拍子もないことを思い立ち、 そこで白絹を使い山全体を覆うように掛けて 雪景色に見せたという故事があります。 その山は“衣笠山(別名きぬかけ山)”と呼ばれるようになり、 そして絹を掛けたことにちなんで “きぬかけの道”と名づけられたそうです。 しかしこの伝説とは反対に、恐ろしい言い伝えも 残っているといいます。 火葬や土葬の習慣がなかった当時、この辺り一帯を風葬地としていました。 遺体が羽織っていた死装束はやがて千切れて飛んでゆき、 山のいたる所でその白い衣が目につくようになったといいます。 そんな様子を見て人々は、 この山を“衣笠山 ”と呼ぶようになったとか……。

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はんなりとした時間を過ごせますえ。
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 では、きぬかけの道に並ぶ「金閣寺」「龍安寺」「仁和寺」を 簡単にご紹介しましょう。 室町時代に創建された「金閣寺」は、 金箔の施された「金閣舎利殿(しゃりでん)」が有名なため、 通称金閣寺と呼ばれていますが、 正式には“鹿苑寺(ろくおんじ)”といいます。 京都のシンボルとしてあまりにも有名な禅寺ですが、 昭和25年に火災で焼失しており、 現在の金閣寺は昭和30年に再建したもの。 その後も何度か補修工事が行われ、 きらびやかな姿を現代に残しています。 「龍安寺」は、戦国の武将であった細川勝元が造った臨済宗の寺。 創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、 京福電鉄の線路のあたりまでが境内だったそうで、 地図で見てみるとそのスケールの大きさがわかります。 その龍安寺にある“方丈庭園”は国の特別名勝に指定され、 白砂と15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな枯山水の禅庭です。 こちらも世界的に知られている有名な庭ですが、 その作者や作られた年代については、いまだ不詳なのだそうです。 そして仁和4年に宇多天皇によりつくられた「仁和寺」は、 宇多天皇が居所としていたことから 別名「御室(おむろ)御所」ともいわれています。 京都でもっとも遅咲きの桜といわれる “御室桜”や、 国宝の金堂や重要文化財の五重塔、御影堂など 格調高く優美な建造物が多くあります。 きぬかけの道には、まだまだ他にも見どころがいっぱいです。 ぜひこの秋、きぬかけの道をゆったりと散策されてはいかがでしょうか。

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一千年以上前からある、歴史ある神社どすわあ。
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 京都市伏見区にある「伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)」は、 全国に約4万社とある稲荷神を祀る稲荷神社の総本宮で、 稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とするとしています。 一千年前には清少納言も足を運んだといわれている神社ですが、 さらにさかのぼった 711年 2月初午の日に、 秦氏一族である秦伊呂巨(はたいろこ)によって、 大神様が鎮座されたことにより開かれたと伝わっています。 伊呂巨がお餅を的にして弓の練習をしていた時、 突然そのお餅が白鳥となって、 伊奈利(稲荷)三ヶ峰の方角に飛び去ったといわれ、 この時を界に秦氏に衰えが見え始めたことで、 伊奈利(稲荷)三ヶ峰に神を祀ったのが大社の創始と伝えられています。 2011年には1300年紀を迎えるという歴史あるこの神社は、 商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達などに ご利益があるとされており、 正月三が日には例年約230万人と多くの参詣者が訪れています。 ですがこの稲荷大社は、室町時代の1468年(応仁2年)3月21日、 応仁の乱により稲荷山が戦場となったため、社殿が焼失しています。 その後、豊臣秀吉が伏見城を築城し、 稲荷大神に信仰を寄せて本格的な修復を行ない、 現代の規模に近いものに再建されたそうです。

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どこまでも続く、赤いトンネルどすなあ。
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 伏見稲荷大社は、京阪電車の「伏見稲荷駅」から少し行ったところから 参道がはじまり、そこをまっすぐ進むと本殿、奥宮があります。 そして稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居が並んでいます。 それは長さ約4キロにもわたる鮮やかな朱の道で、 「千本鳥居」といわれる名所となっています。 ちなみに鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まったのだそうですが、 しかしなぜ、お稲荷さんに鳥居が多いのでしょうか。 それは、願い事が「通る」「通った」という御礼の意味から、 鳥居を奉納する習慣が広がったからなのだとか。 鳥居には名前や住所が刻まれていますが、京都近郊に留まらず、 全国各地から奉納されている鳥居は、現在1万を超えているといいます。 今鳥居を建てるにはあきが無いほど詰まっており、 新しいものを建てるには、どうやら朽ちた鳥居の持ち主が 権利を放棄しないと順番が回ってこないのだそうです。 この千本鳥居をぬけて右手の奥に進むと“おもかる石”があります。 ここにある石灯籠の前で願い事をし、頭の丸い石を持ち上げます。 持ち上げた時に、軽く感じれは願い事が叶い、 重ければ叶わないといわれています。

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昔のままごと遊びから生まれたんどすなあ。
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 日本には、数多くの人形があります。 それらは古くから京都を中心に発展してきました。 そもそも人形は、疫病を払うためとか、 子供の身に悪いことが起きないように、子供の身代わりに 悪いことを引き受けるものとして用いられたのが 始まりといわれています。 その後時代を経て、平安時代の貴族社会で用いられた雛(ひいな)が、 現在の「京人形」といわれているものの原型なのだそうです。 ちなみに雛とは、子供のままごと遊びの人形のこと。 貴族の姫君の遊びとして流行し、 宮中にはいわゆるミニチュアの御殿や調度をしつらえ、 そこに雛を配して着物を着せ替えたり参内の真似ごとをして、 楽しんでいたようです。 現代でいう“リカちゃん人形”のようなものでしょうか。 現在、京人形と呼ばれるものには、「雛人形」をはじめ、 端午の節句に飾られる「五月人形」や、故事にちなんだ「浮世人形」、 能・狂言・演劇・舞踊を題材にした「風俗人形」、 そして江戸時代後期に人気のあった歌舞伎役者・佐野川市松が、 女形で表現したおかっぱ姿をモデルに創作された「市松人形」などがあります。 とりわけ節句人形は、つねに生産が追いつかないという状態らしく、 人々の京人形に対する強い人気を物語っています。

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いろんな人が作らはった人形なんどす。
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 やがて人形はままごと遊びで使われていたものから、 子供の誕生や成長を祝う「節句人形」として 扱われるようになっていきます。 雛遊びは3月3日に行われるようになり、 雛は座り姿の立派な「雛人形」へと変化します。 また、雛人形が女の子の節句人形とされたのに対して、 男の子には5月5日の端午の節句に飾兜や武者人形といった 「五月人形」が作られました。 いずれも芸術性に優れた工芸品として高い評価を受けていますが、 このひとつの京人形が出来上がるまでには たくさんの工程があり、作業する職人も一人ではありません。 京人形を作るには、頭師、髪付師、手足師、小道具師、 着付師、甲冑師といった専門の職人がいます。 それぞれ極めた細やかな技がひとつになって、 京人形を生み出しているわけです。 例えば、頭が出来るまでにも数多くの工程があり、 次にその上に髪の毛をつける、髪の毛を結って頭につける。 そこから手足をつけて、着物を着せて……などなど、 気の遠くなるような作業があるのです。 また、京都といえば西陣織に友禅染。 その洗練された技術と優雅な芸術性も 京人形には大いに生かされています。 まさに京人形は、京都の伝統工芸の粋を集めて作られ、 そして高度に専門化した製作システムが、 京人形ならではの深みと品質をもたらしているのです。

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香道とは、ほんに優雅な遊びどすえ。
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 華道や茶道とともに、「香道」があるのをご存じですか。 香道とは京都が発祥の地で、 茶道・華道とならぶ日本三大芸道のひとつです。 さまざまな香りの姿を探るという、日本ならではの奥深い優雅な遊びで、 華道や茶道と同じように香道にも流派があります。 基本は、一定の作法のもとに香木をたき、 立ち上る香気の中で古典的な詩歌や故事、情景を鑑賞するというもの。 ちなみに、香道では香りを『嗅ぐ』とは言わず、 『聞く』と表現されます。 わが国で初めて「香」として香木などを用いるようになったのは、 仏教伝来の頃と考えられています。 奈良時代には、「供香(くこう)=仏前を清め邪気を払う」として用いられ、 宗教的意味合いが強いものだったようです。 平安時代に入ると、香料が多種輸入されるようになり、 この頃から京の貴族の暮らしの中では、 香りを楽しむといった優雅な習慣が日常生活に組み込まれていきました。 鎌倉時代になるとそれまで貴族が好んだ薫物に代わって、 武家社会では香木の自然な香りが好まれるようになります。 出陣に際しては、精神を統一させるために沈香の香りを聞いて心を鎮め、 甲冑に香をたき込めて戦に臨んだともいわれています。 その後、室町時代・東山文化の頃に、茶道や華道などと並んで わが国特有の香りの文化は「香道」という芸道として 成立することになりました。

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はんなりした時間を過ごしておくれやす。
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 香道は、武士たちの間で香木そのものの香りを楽しむ 「聞香(もんこう)」が盛んになるにつれて、 それぞれに異なる香りを有する香木の分類法「六国五味」や 「組香(くみこう)」などが体系化されひとつの芸道として 確立していきました。 そして江戸時代には、香道は最盛期を迎えたくさんの組香や 意匠を凝らした香道具の製作なども花開いていったのです。 現代の香道では、和歌や物語文学の世界を主題にした「組香」が主流です。 組香とは、数種類の香木の香りを競技形式に仕立てて 聞き当てるというもの。 その中の一つ、「三種香」では 3種類のお香を3つずつ用意してそれをシャッフルし、 どれがどの順番で回ってくるのか判らなくしてから聞き当てます。 そして、3種類3つの包みから、選ばれた3つだけを聞いていくわけですが、 その日の体調によって全然違う香りでも同じように思えてしまうのだとか。 ただこれは優劣を競うものではなく、 あくまでも香りで表現された主題を鑑賞し、 その世界を遊ぶのが目的。 まさに文学性・精神性の高い芸道です。 また香道は、礼儀作法や立居振舞などの約束事の多い世界です。 上達するにつれて、古典文学や書道の素養も少しは求められるとか。 しかし、基本は香りそのものを楽しむもの。 ストレスの多い今の時代、香木の香りは日常生活のストレス解消と 心の安らぎを与えてくれます。 時にははんなりとした時間の中で“感覚磨き”にトライしてみるのも いいものではないでしょうか。

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王城を守る、重要な役割を担ってましてんえ。
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 京都駅をおりて程近い場所にそびえ建つ「東寺(とうじ)」は、 延暦15年(796)に平安京遷都とともに羅城門の東に 創建されました。 何度か火災に見舞われてしまったため、残念ながら東寺には 創建当時の建物は残っていませんが、 『南大門』『金堂』『講堂』『食堂(じきどう)』が南から北へ 一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のまま。 また堂内の立体曼荼羅21体のうち15体(国宝)も創建当初のものです。 そして弘法大師・空海ゆかりの寺院であり、 「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。 ちなみに、東寺と対称に「西寺(さいじ)」も あったのをご存じでしょうか。 実は元々計画としてあったのは、 平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺(さいじ)」という 2つの寺院を建立することでした。 これらは、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、 さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という官営の寺院だったのです。 このうち東寺は、後に空海に下賜され、 「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、 現在でも京都の代表的な名所として存続しました。 しかし反対に、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は、 早い時期に衰退。 残念ながら現在は児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、 付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみとなっています。

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あの建ち姿は、ほんに圧巻どす。
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 東寺といえば、やはり「五重塔」。 京都のシンボル的存在で、京都駅に向かう新幹線や電車からも 目にすることが出来るこの塔は、 日本に残されている木造の古塔の中では一番高い塔です。 高さは約57メートルもあり、 当時の平安京では飛びぬけて高い建物でした。 しかし、しばしば火災に遭って焼失・再建を繰り返し、 現存のものは徳川家光の寄進により寛永21年(1644年)に 再建したものなのだそうです。 ちなみに、桓武天皇は 塔の高さが権力を象徴するものであったということで、 都の中に寺を造ることを禁じていました。 ですが、平安京を造る上で中国の風水を参考にしていた桓武天皇は、 この東寺と西寺だけは建立を許したのです。 なぜかというと、風水からみると2つの塔と羅城門の建つ位置は、 それらが一組になって「気」が都の外へもれないよう 保護する作用があるのだとされていました。 そのため、今ではもう存在しない西寺にも “塔”があったといわれています。 今では羅城門も西寺も姿を消し、 東寺だけが平安時代の面影を残していますが、 朱雀大路をはさんで建つ当時の西寺と東寺の姿は、 まさに壮観だったのではないでしょうか。

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厳しいしきたりが今でも残ってますのんえ
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 花街とは、芸妓屋が集まる町のことで、 ここは、お座敷で芸妓さんや舞妓さんによる歌や踊りなどの 芸を楽しむことができる、古くからの歓楽街です。 ちなみに、京都では「花街」は “はなまち”ではなく“かがい”と読みます。 京都には現在、5つの花街が残っています。 北から南に向かって、上七軒(かみひちけん)、先斗町(ぽんとちょう)、 祇園甲部(ぎおんこうぶ)、祇園東(ぎおんひがし)、 宮川町(みやがわちょう)です。 これらはいずれも、現在も芸舞妓さんを抱える、 現役の花街として存在しています。 この5つの花街は、踊りの流派がまったく異なり、 伝統やしきたりも微妙に違うため、 それぞれの街が完全に独立されています。 一時期には、舞妓さんのなり手が少なくなって 花街も大変だったようなのですが、最近では舞妓さんに憧れて 日本各地から志願者が集まるようになったそうです。 毎年、それぞれの花街にある歌舞練場では、 “舞踊の会”が開催されます。 祇園甲部は「都をどり」、先北町は「鴨川をどり」、 宮川町は「京おどり」、上七軒は「北野をどり」、 そして祇園東は「祇園をどり」が催されております。 踊りの流派が異なるので、舞踊の会を見比べて 違いがわかる人はかなりの通ではないでしょうか。

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それぞれ歴史があるんどすわあ。
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 では、5つの花街を簡単にご説明しましょう。 まずは「祇園甲部」。 ここは、八坂神社の門前で営業していた水茶屋が 後に花街として発展してゆきました。 江戸中期には歌舞伎の舞台としても登場し、 江戸後期にはお茶屋が約500軒、 芸妓・舞妓も1000人以上いたといわれています。 またここは、京都を訪れる観光客が必ずといっていいほど訪れる場所で、 現在でも昔ながらの風情ある町並みを残しています。 次に「先斗町」。ここは夏の風物詩“納涼川床”で知られる 鴨川に沿った細い通りに位置します。 高瀬舟を利用する人々のために茶店や旅篭で賑わったのが 花街の起こりで、祇園についで有名な花街です。 最古の歴史と格式を誇る「上七軒」は、 北野天満宮の門前茶屋として栄えてきました。 室町時代に火災で焼失した天満宮を再建する際、その残った材木で “七軒の茶屋”を建てたことが名前の由来となっています。 「宮川町」は、歌舞伎と深く結びついて発展してきました。 あたりには芝居小屋が建ち並び、見物客のための茶屋や役者の宿が花街として発 展。 他の花街に比べて「若い」といった印象の花街です。 最後に「祇園東」。ここも八坂神社の門前茶屋として発展してきました。 昔は「祇園甲部」に対して「祇園乙部」と呼ばれていたようですが、 戦後「東」と呼ばれるようになったとか。 またこの界隈は江戸時代、江州膳所藩の藩主邸があったところであり、 明治になりその屋敷跡地にお茶屋街が作られました。

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近代的な雰囲気をもったはる街なんやねえ
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 京都文化の中心となる施設が集まる「岡崎」。 御所の南東に位置するこの場所は、平安神宮を北に配し、 見上げれば東山三十六峰を望み、 足下には清々しい水音をたてる琵琶湖疎水が 住む人々や訪れる人々の心を癒す場所となっています。 また、白河天皇が法勝寺を建立した場所でもある岡崎は、 今やコンサートホール(京都会館)やイベントホール(みやこめっせ)、 図書館(府立図書館)や美術館(市立美術館、国立近代美術館)、 そして動物園、平安神宮などが並ぶ文化エリアとなっています。 岡崎は元々田園地帯だったそうで、 それが大きく変貌するのは明治28年以降。 桓武天皇が長岡京から平安京に都を遷(うつ)してから 1000年に当たる明治28年に“平安遷都千百年記念祭”が この岡崎の地で行われました。 その時に平安神宮の創建と勧業博覧会が開催されて以降、 様々な文化施設が建設されていったのです。 また、東側には東山三十六峰、そして西側に鴨川が流れるという 自然溢れるすばらしいロケーションから、 明治時代には文化人が競って別宅を建てたそうです。

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岡崎には、たくさん見どころがおます
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 岡崎エリアでぜひご紹介したいのが「岡崎公園」。 明治28年に行われた“第4回内国勧業博覧会跡地”を、 公園として整備したのが岡崎公園の始まりです。 都心から少し離れ、平安神宮を中心に琵琶湖疏水に囲まれたこの公園は、 “京都市国立近代博物館”や“京都市美術館”を始めとする 近代的な建物の他に、2003年に開園100周年を迎えた、 日本で2番目に古い動物園である“京都市動物園”など、 観光名所が密集している見どころ満載の場所なのです。 そして運動公園では、多くの市民がテニスや野球を楽しんでいます。 また、なんといっても琵琶湖疎水沿いは、 春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と 四季折々の景色が美しい場所で、 京都でも有名な観光スポットとなっています。 1996年(平成8年)には、産業の発展や活性化を計る拠点として、 京都市勧業館「みやこめっせ」が開館。 色々な展示やイベントに利用できる最新の設備を供えた展示施設や、 京都の伝統工芸品の展示と伝統産業を映像やパソコンを利用して 紹介する常設展示場、またテーマ別に優れた工芸品の数々を展示する ギャラリーなどがある“京都伝統産業ふれあい館”もあります。 ここには京都らしい品物が多数揃えられていて、 お土産選びも楽しめる場所となっています。

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誰もが見たことあるんとちゃいますやろか
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 京都府宇治市にある「平等院鳳凰堂」。 この建物は十円玉硬貨の裏に描かれていることで有名な、 宇治が誇る歴史的建造物のひとつです。 その平等院のある京都南郊の宇治の地は、 『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、 平安時代初期から貴族の別荘が営まれていました。 現在の平等院の地は、9世紀末頃に光源氏のモデルともいわれている 左大臣・源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘のあった場所。 それが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信へ渡り、 その夫人から長徳4年(998年)、藤原道長が譲り受けたのです。 そしてその後、道長の子藤原頼通が永承7年(1052)に 寺院へ改めたのが始まりです。 その翌年の天喜元年(1053)、 阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立されたのですが、 左右に翼廊を伸ばしている姿が、鳳凰が羽を広げた姿に見えることから 「鳳凰堂」と呼ばれるようになったそうです。 しかし平等院も大きな戦乱に巻き込まれており、 建武3年(1336年)の宇治合戦のときにほとんどが焼失しましたが、 その中で阿弥陀堂(鳳凰堂)・鐘楼・北大門だけが残ったのだそうです。 そうして平等院は、平安時代後期の 建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、 「古都京都の文化財」として、清水寺や延暦寺などの寺院とともに 1994年には世界遺産にも登録されています。

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とにかく美しいんどすわあ。ぜひ一度おこしやす
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 宇治川のほとりに佇むこの平等院は実に雅で美しく、 そのシンメトリーな姿がまさに芸術的な建築美を見せています。 また前面の「阿字池」の水面に対になって映るその姿は、 どの角度から見ても美しく、くっきりと映りこんだ光景は 見るものを魅了してくれます。 そんな平等院は、十円玉はもとより一万円札の図柄にも この平等院の「鳳凰像」が採用されました。 また、宇治つながりでいうと、 二千円札にも源氏物語と紫式部が描かれており、 宇治はとてもお金に縁があるところなのです。 また、国宝の「大和絵風九品来迎図」(やまとえふうくぼんらいごうず)、 「梵鐘」(ぼんしょう)、「鳳凰像」、 52体の「雲中供養菩薩像」(うんちゅうくようぼさつぞう)など たくさんの文化財が残っており、 これらを安置すべく2001年、新たに「鳳翔館」が誕生。 宗教法人としては初の総合博物館(登録博物館)となっています。 このミュージアムは、平等院庭園との調和を考え大部分が地下構造。 通路や展示ケース、そして所々で美しく差し込む自然光の演出など、 デザインし尽くされたその造りは、まさに優雅さを感じるものであり、 見事に伝統環境に配慮が行き届いた造りになっています。 また、コンピューターグラフィックスを用いた映像展示や 国宝検索システムなども配置。 館内では鳳凰堂の復元映像が流されており、 当時の豪華絢爛な鳳凰堂がここで見ることができます。 その鳳凰堂は長らく改修工事が行われていましたが、 この秋にその工事が完了しました。 是非この機会に訪れてみてはいかがでしょうか。

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京菓子は、長い歴史と伝統をもってますのんえ
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 京の和菓子は、昔より京都御所を中心とした公家や大名、 寺社や茶屋へ納めたり、特別なお祝事があった時に作られる 献上菓子でした。 「京菓子」というのも、江戸時代に関東でいわれていた 京都の和菓子の呼び名で、京都では献上菓子であったことから 「上菓子(じょうがし)」といわれていました。 そして上菓子を専門に作る職人も生まれ、 それが「菓子匠」や「御菓子司」といわれるようになりました。 現在でも和菓子屋の看板に書かれていることもあり、 皆さんもどこかで見たことがあるのではないでしょうか。 そうして専門職人が生まれたこと、 そして茶道や年中行事の中で洗礼されてゆき、 京菓子は長い歴史と伝統をもつことになったのです。 またその一方、京都には有名な神社仏閣が多く存在しますが、 全国からその神社仏閣に参詣する人々に対し、 門前市をなした名物も生まれました。 上菓子とは区別され、お茶席や客人へのおもてなしに 用いられることはありませんが、 寺社ゆかりの素朴で庶民的な味もなかなか見逃せない京菓子です。 その味が美味しいことはもちろん、 長い歴史や生まれた由来がそれぞれあります。

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それぞれ素朴な味わいを試しておくれやす
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 京都の寺社には、全国から参詣する人々に対して作られた、 その寺社ゆかりの京菓子があります。 何点かご紹介しましょう。 まず、聖護院門前で売られている菓子は、 “法螺貝餅(ほらがいもち)”といいます。 法螺貝餅は厄除けの菓子として知られ、 年に一度『節分の日』だけに売られている限定のお菓子。 ごぼうを味噌餡でクレープのように包んでいる、 とても素朴なお菓子です。 夏の葵祭(あおいまつり)で有名な、 上賀茂神社の門前で売られている菓子は“やきもち”。 これは“葵餅(あおいもち)”が正式名称で、 アンコがたっぷり詰まった大福餅を焼いたもの。 これも素朴な味わいで、京都人だけに限らず参拝客にも愛されています。 下鴨神社のお菓子は“みたらし団子”。 これは境内にある御手洗池(みたらしの池)の水泡を模して 作られたといわれているお菓子で、 焦げ目の香ばしさがたまらない一品です。 そして北野天満宮の門前で売られているのは“粟餅”。 米の餅と比べて軽く、粟のプチプチとした歯ざわりがいいお菓子です。 その他今宮神社では“あぶり餅”が名物です。 親指大のお餅を、長さ20cmほどの竹串に刺してきな粉を付け、 炭火であぶった後に白味噌のたれをつけて食べるというもの。 その秘伝の味が地域の人たちに愛されています。 他にも寺社ゆかりの京菓子はたくさんあります。 寺社に訪れる際は、ぜひ召し上がってみてください。

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ほんに、地名の由来はおもしろいどすなあ
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 河原町今出川周辺を通称「出町」といいますが、 そもそも北西から流れてくる賀茂川と、 北東から流れてくる高野川の合流点の三角地帯を「出町」と呼んでいます。 この「出町」という地名の由来についてはいろいろ説があるようですが、 そのひとつに古くから東海道・山陰道・西国街道など、 京都を起点・終点とする街道が発達し、 多くの人びとが往来していたことに理由があるようです。 若狭から京都へ至る多数の街道や峠の中でも、 もっとも盛んに利用されていた道は、 小浜から上中町の熊川宿を経て滋賀県の朽木を通り、 京都の大原から出町柳に至る「若狭街道」です。 この道は、日本海の海の幸、とくに名産の鯖(さば)を運んだ街道で、 昔から通称「鯖街道」といわれていました。 ちなみに、若狭から運ばれたひと塩の鯖は、 京の都に着く頃には調度よい塩加減になっていたそうです。 鯖街道の京への出入り口は 「大原口」(おおはらぐち=現在の寺町今出川・大原口町)といい、 行商人などが出入りする町として栄えたことから、 『京の町を出る主要な街道への出入り口』、つまり『人や物が出入する町』 だから「出入町」と呼ぶこととなり、 それがいつしか「出町」と呼ばれるようになったそうです。

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芸事を上達させたかったら、お詣りしなはれ
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 出町には、京都七福神巡りの“弁財天”を祀る 妙音堂(みょうおんどう)があります。 妙音堂は出町橋の西側のたもとにあり、 橋を渡ってすぐのところに小さな鳥居があるのですぐにわかります。 この御堂のご本尊は青龍妙音弁財天の画像で、 代々天皇家の分家である伏見宮家に祀られていた画像です。 もとは西園寺家という公家のもとにあったそうですが、 鎌倉時代に西園寺公衡の長女・寧子が後伏見天皇の女后に 輿入した際に持参し、伏見宮家に祀られるようになったとか。 明治維新の際に宮家とともに東京に移されたのですが、 出町の住民の誓願によって元に戻され、 再び出町の地に奉安されました。 ちなみに「七福神めぐり」には“京都七福神”“京の七福神”“都七福神”など 色々コースがあります。 出町の妙音堂に行くコースは“京都七福神巡り”。 このコースは「えびす神」は護浄院、「大黒天」は妙円寺、 「福禄寿尊」は遣迎院、「寿老神」は革堂(行願寺)、「布袋尊」は大福寺、 「毘沙門天」は廬山寺を巡ります。 そして、世に伏見御所の辨財天と称される弁財天は、 特に技芸上達の神様とされています。 また、妙音弁財天の本堂は小さな六角のお堂なのですが、 この六角堂を歳の数だけ回りながらお詣りすると願いが叶うとか。 一度ためされてはいかがでしょうか。

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神さんとこへおじゃまするための門どすなあ
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 京都に神社がたくさんあるのはご存じだと思います。 そこで神社といえば“鳥居”が気になるところではないでしょうか。 そもそも鳥居とは、神様の世界と人間の世界を分ける境界であり 入り口でもある、神域への門です。 御陵や寺院に建てられていることもあるのですが、 一般的には神社を象徴するものとして捉えられています。 しかし、鳥居のルーツについては明らかになっておらず、 さまざまな説があります。 例えば、インドの仏舎利をおさめた仏塔の前にある門が鳥居に似ており、 それが起源とするものや、日本で古くからある日本の柱に縄を渡す 「しめ柱」が起源であるという説。 また中国で宮城や陵墓の前に建てられた華表(かひょう)が そうであるという説や、日本の神社の使いがニワトリであることから、 鳥を止まらせるために作った止まり木が、 鳥居の原型であるという説など色々あります。 また、「鳥居」という名前の由来についても “通り入る門”という言葉から呼ばれるようになったとか、 「鳥が居やすい」ことからなど様々で、 はっきりとしたことはわかっていないそうです。

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鳥居いうても、珍しい形があんのどっせ
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 京都には、“京都三珍鳥居”と呼ばれるものがあります。 まずは京都御苑内の九条池(勾玉池)の畔に建つ、 厳島神社(いつくしまじんじゃ)の本殿前にある鳥居です。 この鳥居は均整のとれた芸術的なもので、 重要美術品にも指定されています。 また2本の柱の上に架かる島木と笠木が、“唐破風”の形を しているところから「唐破風鳥居」と呼ばれており、 現在ではあまり見る事ができない鳥居だそうです。 次は、市内でも最古の神社である 木島神社の「三柱鳥居(みばしらとりい)」です。 通称“蚕の社(かいこやしろ)”と呼ばれるこの神社にある鳥居は、 “元糺(もとただす)の池”という神池の中に建っており、 八角柱でできた3つの鳥居を組み合わせた様な形で、 上から見ると三角形になっている、全国的にも大変珍しい “三本足の鳥居”です。 中央に配置された組石は神座(かむくら)といって 神様が宿る場所とされているそうです。 しかしなぜ、そのような形の鳥居が造られたのは、 さまざまな説があり今でもはっきりとした理由はわからないそうです。 そして最後は、北野天満宮内の「伴氏社の鳥居」です。 伴氏社(ともうじしゃ)とは、菅原道真の母伴氏を祀った神社。 そこに建つ鳥居の何が珍しいかというと、通常は島木の下にある額束が、 島木を貫通して笠木に至っているという形であること、 そして鳥居を支える台座の部分に蓮弁が刻まれている点です。 鎌倉時代に作られたもので、現在では国の重要文化財に指定されています。 京都へお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。

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戦いは男はんだけのもんではありまへんえ
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 京都は、戦国時代の端緒となる応仁の乱で 市街のほとんどが焼失しました。 しかしその後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により 京都は復興したのです。 そんな戦国時代の大きな流れは織田信長に始まり、 豊臣秀吉によって天下統一の基礎ができあがり、 そして徳川によって天下が統一されました。 この3人は子どもの頃から接点がありましたが、 実は“女の血”でもつながりがあるのです。 その原点にあるのが、信長の妹“お市”です。 戦国一の美女とされたお市は、浅井長政に嫁ぎました。 長政とお市は政略結婚であるにも関わらず、 まるで恋愛結婚した夫婦のように仲睦まじかったといいます。 そして二人の間に二男三女の五人の子供が生まれました。 実は、のちにこの三姉妹が日本の歴史を作ることになるのです。 長女は“茶々”といい、のちの淀殿です。 淀殿は秀吉の側室となり、次女のお初はいとこの京極高次と結婚。 そして三女のお江は家康の息子・忠秀(ニ代将軍)と結婚しました。 またのちにそのお江の娘と秀吉の息子・秀頼とが結婚することになり、 これで織田・豊臣・徳川が“女の血”によって結ばれたわけです。 ちなみに三姉妹の性格はというと、茶々はプライドが高く、 伯父である信長を思わせる激しい気性。 お初は機を見ることに敏感で、京極家を救ったといいます。 そしてお江は勝ち気で、しかもこの時代に将軍である秀忠に 側室を持たさなかったほどのヤキモチ焼きだったとか。 秀忠もかなり気を使っていたそうです……。

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裏では、女の戦いもあったんどす
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 世は戦国時代。 すべての女性たちが、女としての幸せをまっとうすることは、 とても難しい時代でした。 三姉妹の母であるお市も、この時代の犠牲者だったかもしれません。 仲睦まじかった夫・長政と兄・信長との戦いが始まり、 長政の浅井家が敗北。主人の長政は自刀して果てました。 当然お市も後を追おうとしましたが、信長の命により死ぬことを許されず、 三人の娘とともに織田家に引き取られるのです。 そして信長が亡くなってから後、織田家家臣の柴田勝家の妻となりました。 しかしその翌年、今度は秀吉と勝家との戦いが勃発。 勝家は破れ、その時お市は勝家と運命をともにしました。 勝家は城を脱出するようにといったそうですが、 お市は秀吉を毛嫌いしていたため、死を賭してまで秀吉を避けたとか。 その理由には、秀吉があまりにも猿に似て醜男だったからとか、 信長や長政や勝家と違って成り上がりものだったからなどといわれています。 少々秀吉が可哀想にも思われますが……。 反面、秀吉はお市に熱烈な好意を抱いていたそうで、 お市と長政との間の三姉妹を必死で助けようとしたそうです。 残念ながらお市は助けられませんでしたが、 三姉妹は助け出すことに成功。 また後に長女の茶々(のちの淀殿)を側室に迎えたのも、 彼女がお市にいちばん似ていたからといわれています。

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文化財として世界遺産に登録されてますえ
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 東山文化の代表として知られる銀閣寺は、 文明14年(1482)に足利8代将軍義政が、祖父・義満の建てた 金閣寺にならい、山荘の東山殿を建立したのが始まりです。 実はこの時代、部下の対立や義政の妻・日野富子が 政治に関わったために政局は混乱。 後継者争いから応仁の乱が起こることになります。 義政はそんな政治や現状に嫌気を感じ、 その世界から逃れるために東山殿を造営したといわれています。 義政は8年の歳月を費やし、この銀閣寺に自らの美意識のすべてを投影。 残念ながら完成する前に義政はこの世を去ってしまいますが、 ここを拠点に様々な文化を育まれていったといわれています。 銀閣寺の正式名称は慈照寺(じしょうじ)。 義政の死後、彼の法号『慈照院』にちなんで名付けられました。 見所は、なんといっても柿葺の屋根を持つ銀閣(観音殿)です。 ここは2層構造で、下層が『心空殿』と呼ばれる住宅、 上層が『潮音閣』と呼ばれる仏堂になっています。 現存する唯一の室町期・東山文化を代表する楼閣庭園建築で、 質素高貴なデザインとなっています。 また特別名勝・特別史跡に指定されているという庭園は、 西芳寺(苔寺)の庭園を模して作庭されたもので、 白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や向月台が 月の光を反射して銀閣を照らすとか。 また、上下2段に大別されており上段は枯山水庭園、 下段は池泉回遊式庭園となっています。 今では銀閣寺の名物となっているこの庭園ですが、 実は江戸時代に行われた改修により、 造られた当時の面影はあまり残っていないのだそうです。

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わびさびの世界を、堪能しておくれやす
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 「銀閣寺」という呼び名は、近世の名所案内にも登場することから 古くから使われている通称ですが、 由来についてはさまざまな説があります。 『金閣』に対して『銀閣』といわれるようになったとか、 金閣寺に貼られた金箔と同じように、 銀閣寺にも銀箔が貼られていたからだといわれることもあります。 はっきりしたことはわかっていないようですが、 とりあえず銀箔を貼った痕跡はなかったようです。 また、国宝で世界遺産である東求堂の東側のやや高い位置に、 今でも水が湧き出ている「お茶の井」があります。 お茶が趣味だった足利義政も、 この湧き水を使ってお茶を飲んだといわれています。 水の質が良いために、現在でもお茶会の水に使われています。 金閣寺の北山文化の華やかさに比べて、 銀閣寺の魅力は東山文化の「わび・さび」の世界を漂わせているところ。 そんな銀閣寺をさらに素敵に観ることのできる場所があります。 それは、境内の東にある高台の展望所。 銀閣寺の全景が見渡せるこの場所は、まさに絶景の撮影ポイントです。 銀閣寺へ行くことがあれば、ぜひこの展望所へ行ってみてください。

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ミステリアスな女性こそ、惹かれるんどす。
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 小野小町とは、平安時代前期(9世紀)の女流歌人です。 絶世の美女と謳われ、六歌仙のひとりに数えられるほど 歌に関して秀でた人物だった小野小町。 容姿端麗で、今ではエジプトの“クレオパトラ”や 中国の“楊貴妃”とともに、世界三大美人と呼ばれています。 しかし、多くの貴公子達からの求愛にもなびかず、 宮仕えを辞した後は全国各地を渡り歩き、 衰えた美を嘆きつつ亡くなったとか……。 そんな小町は、まったくもってミステリアスな女性で、 出身地や終焉の地は、京都の山科・市原・大宮町、 秋田県雄勝町、鳥取県など全国各地に20箇所以上もあり、 仁明天皇(在位833~850)の時代に宮廷に仕えていたということ以外は はっきりしたことはわかっていません。 仁明天皇の更衣・小野吉子と同一人物とする説もあります。 小野小町ゆかりの隨心院(京都市山科区・ずいしんいん)では、 仁明天皇崩御ののちに現在の京都市山科区小野御霊町に移り住んで、 70歳を過ぎて亡くなったとか、 流浪のはてに現在の洛北・市原の補陀洛寺(ふだらくじ=小町寺)へ辿りつき、 80歳を過ぎて亡くなったなどといわれています。 また世を避け、ひっそりと香を焚きながら 92歳で天寿をまっとうしたともいわれています。 その他にも、隨心院の近くに小野の里(小野一族)があったことは事実のようで 、 現在でも小野小町が使っていたとされる井戸が残っています。 この井戸は小町が使って以来「化粧水(けしょうみず)」と呼ばれ、 みんなに親しまれているそうです。

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悲しいお話やおへんか。つらおすなあ。
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 小野小町といわれて思いつくのが、謡曲「通小町」で知られる 深草少将の“百夜通(ももよがよい)”の話ではないでしょうか。 「私の所に100日間通い続けたら結婚しましょう」との小町の言葉を信じ、 雨の夜も雪の夜も恋しい小町の元へただ通い続けたのですが、 99日目で大雪のため亡くなってしまったという深草少将のお話です。 彼は、深草から小町の住む山科・小野の里まで約5km、 毎晩通い続けたそうです。 小町は、深草少将が訪ねてくるたびに、 榧(かや)の実に糸を通してつないでいきました。 現在でも隨心院には、糸を通した跡のある榧の実や、 榧の木が残っています。 しかし99日目の雪の日に、少将は99個目の榧の実を手にしたまま、 雪に埋まり凍死したとも病死したともいわれており、 結局小町への想いは届かずに終わってしまうのです。 小町は後に供養のため、榧の実を小野の里に蒔いたといわれています。 また、実は深草少将も、現在の伏見区深草にいたとされていますが、 彼も存在したのかどうかはまだ謎のままだそうです。 ちなみに、百人一首に描かれている小野小町は 十二単のお姫様のように描かれていることが多いのですが、 実は彼女の生きた9世紀は遣唐使の廃止前で、 まだ中国の影響が強い時代だったそうです。 そのため、服装は中国の影響を強く受けた 天女のような格好だったとか。 時代祭の小野小町も唐風の衣装を着ています。 時代祭の時に、ぜひチェックしてみてください。

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長岡京は、「幻の都」やおへんえ
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 京都が都といわれるずっと昔、 約1300年前は奈良に都がありました。 聖徳太子が亡くなってから90年経った西暦710年に、 元明天皇が都を平城京として奈良の地へ移し、 そして西暦720年には奈良は都としてますます発展してゆきました。 この時から、西暦794年に桓武天皇が都を平安京へ遷すまでの 84年間を奈良時代といい、古代日本が成立していった時代です。 しかし、平城京は水上交通路が不便で、 生活用水の確保にかなり苦労していたと考えられています。 また政権と結びついた仏教勢力が強くなりすぎたために、 桓武天皇は新しい場所へ都を遷すことを考えました。 まず都は奈良の平城京から長岡へと遷されます。 新しい都「長岡京」の誕生です。 長岡京は、現在の向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の 一部の地域に及んでおり、東西4.3km、南北5.3kmと平城京、 平安京に匹敵する広大なものでした。 また、とりあえずということで造られた都ではなく、 すでに平安京の要素を多く先取りした先進的な都であったといいます。 そして当時は、国内だけでなく外国からの多くの人々で賑わう 王城の地であり、日本の政治・経済・文化の中心地となりました。 しかしながら、長岡京の歴史はわずか10年という とても短いもので終わってしまうのです。 なぜ、わずか10年で再び遷都しなければならなかったのでしょうか。

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ほんまに“平安の都”を造りたかったんどすなあ
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長岡京がわずか10年で遷都された理由には、 ひとつの事件がきっかけとなりました。 建都の中心人物であった藤原種継が暗殺されたことです。 その犯人として疑われたのが、桓武天皇の弟である早良親王でした。 彼は無罪を主張しますが、受け入れられずに流罪となり、 その後すぐに無念のうちに憤死したといわれています。 しかし早良親王の死後、長岡京には悪いことが立て続けに起こりました。 787~8年には大不作が起こって多くの人々が飢えで苦しみ、 それに追い討ちをかけるかのように都で天然痘が大流行。 その後、二度にもわたる大洪水に見舞われました。 さらに、桓武天皇の近親者の死が相次ぐなど、 不幸な出来事が続いたのです。 桓武天皇は、これは早良親王の祟りであると恐れおののいたといいます。 それら洪水説や親王の祟り説など、長岡京から平安京へ遷都された理由は 未だ論じられていますが、とにかく都は延暦13年(794)11月に、 桓武天皇によって平安京へ遷されました。 そこから歴史の舞台は、奈良から京都へと遷るのです。 では、なぜ次の都の場所に京都が選ばれたのでしょうか。 その理由としてもっとも有力な説が、“風水思想”によるものだといわれていま す。 つまり、都を造るにあたって桓武天皇が恐れていた“怨霊”が 入り込めないようにすることが最大のポイントになったわけです。 陰陽道により“結界が張られた場所”として、 もっとも適した土地が、京都・平安京だったというわけです。 ちなみに、桓武天皇は怨霊から新都を守るという意味で「平安の都」、 すなわち「平安京」と名づけたのだそうです。

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今や世界に名の知れた伝統技術なんどすえ
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 みなさんは「黒谷和紙」をご存じですか。 京都市の北西、丹波高地の里山に囲まれた綾部市に位置する 「和紙の里・黒谷」で作られる和紙です。 今なお伝統的な古法の手すき技術を守って作られています。 この古法から作られる黒谷和紙は、 和紙の中でも屈指の美しさを誇るだけでなく、 1000年はもつという耐久性に優れたもので、 京都府指定無形文化財にも指定されている高級品となっています。 そんな黒谷は、現在京都に残る数少ない“和紙の秘境”として、 国際的にも評価される貴重な存在にもなりました。 実は、水と緑に恵まれた黒谷は、平家の落人伝説の残る里。 和紙づくりは、平家の落武者が家を守っていくために、 後継の仕事として細々と始めたものらしいのですが、 それがいつしか800年の歴史を誇るようになりました。 そして江戸時代に旗本領となった黒谷には、 村が発展するにつれて黒谷和紙の紙会所も設けられ、 さらに数々の産業推進策がとられたことで、 伝統の和紙を中心に村は大きく発展しました。 また、京の都の中心に近いことも黒谷和紙が発展した事由のひとつでした。 京呉服の人気とともに「たとう紙」「値札紙」などに重宝され、 その他にも傘紙や障子紙なども数多く作られるようになっていきます。 その後、三大和紙のひとつ「土佐和紙」の紙すきの技術も加え、 大判紙や厚紙などもこなせるようになり 時代のニーズに応えた多彩な製品が作られていきました。

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衣装にも使われたりする和紙なんどっせ
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 主に楮(こうぞ)という植物から作られる黒谷和紙は、 素朴な味わいがあるだけでなく、 和紙の持つ吸湿性や速乾性の性能がきわめて高く、 また「世界最強の紙」といわれるほど強度の高い和紙といわれています。 手で引きちぎることが難しいほど丈夫なのにも関わらず、 とても軽くてふんわりとしたやさしい触り心地が特徴です。 和紙は仏教とともに日本に伝わり、その技術は全国に広まりました。 都が奈良から京都へ移るとともに、京都には官制の紙すき場が設けられるほど、 和紙は人々の必需品となっていったのです。 しかし高度成長期以降の荒波は大きく、 洋紙の影響により和紙の需要は少なくなり、 手すき和紙の伝統産業は著しく衰退していきました。 さらには技術者不足もあって、和紙づくりを生業とする人が 一時はわずか3人に減ってしまったそうです。 ですがその後、なんとかこの技術を残してゆきたいと、 閉校になった小学校の校舎を利用して 「黒谷和紙工芸の里」が開設されました。 今では黒谷で第二の人生を見つけようとする人々が集まるようになり、 和紙の技術習得に励んでいます。 また近年ではオンラインショップでも販売され、 和紙の用途も産地と研究者の努力により 一段とバラエティー豊かなものとなりました。 民芸調でラッピングに適したチリ大判紙や便箋、 和洋封筒、はがき、のし袋、色紙などが販売されています。 さらには紙衣や紙布の伝統を生かして座布団や絨毯などまで製作。 今の黒谷和紙の里には、着実に若い力が育っているようです。


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とことん“美食”を追求した人やおへんか
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 北大路魯山人(きたおおじろさんじん)という 人物をご存じですか。 本名は北大路房次郎(ふさじろう)。 明治16年に京都市上賀茂(現・京都市北区)に生まれ、 昭和34年76歳でこの世を去った、20世紀の芸術家です。 類い稀なる感性と創造性により、幅広い分野において その非凡な才能を発揮させた人で、 篆刻家(てんこくか)・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家など 多種多彩な分野で活躍していました。 中でも美食家としても広く知られており、漫画「美味しんぼ」に登場する 海原雄山のモデルになったともいわれています。 魯山人は、上賀茂神社の社家・北大路家の次男として生まれました。 6歳の時に木版師・福田武造の元へ養子に出され不遇な日々を過ごしますが、 10代の頃より書の才能を見せていた彼は、20歳の時に上京します。 そして独学で書や篆刻を学び、若くして名を馳せるようにまでなったのです。 30歳の頃、長浜の紙問屋・河路豊吉がその才能に惚れ込み、 魯山人を食客として招き入れました。 この頃の魯山人は、書や篆刻、刻字看板などの 制作に打ち込む環境を提供され、“福田大観”の名で 精力的に作品づくりに没頭したとされています。 その後、北大路家に復籍し、大正7年に鎌倉に移るまで 長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活。 この生活が美食家、工芸家としても極めることになる きっかけになったともいえます。 そして、のちにオープンする料亭の成功も、 それらの経験によるものといえるかもしれません。


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魯山人はんの芸術には、強い力を感じますなあ
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 食も芸術と考えていた魯山人は、抜きんでた味覚により 1921年には中村竹四郎と会員制の「美食倶楽部」を設立。 1925年には赤坂に会員制の料亭「星岡茶寮」をオープンさせました。 ここは魯山人の感性の集大成である料亭といっても 過言ではありません。 料理や食器はもちろん、部屋の装飾や従業員の身なりに至るまでの 全てを演出し、盛況を極めました。 魯山人はそこを拠点に料理人としても腕をふるい、 美食家の名を高めます。 さらに美食へのあくなき追究はとどまるところを知らず、 料理を盛る器にもこだわり、北鎌倉に“星岡窯”を築いて、 食器を自ら制作し始めることになるのです。 目で鑑賞するだけでなく、実際に盛り付けて 料理の素材も活かされる陶器を創っていったのです。 後年、魯山人は「器は料理の着物」という名言を残していますが、 こうした彼のこだわりが陶芸の世界でも さらなる才能を発揮することとなりました。 また漆工・絵画についても第一級の作品を世に送り出しています。 美食への探究心という強いエネルギーから作り出された芸術の数々は、 没後50年を過ぎても年々評価を高めています。 まさに彼は、“美食の総合プロデューサー”と いえるのではないでしょうか。


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この事件で戦国の歴史が大きく変わったんどす。
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 天正10年6月2日(1582年6月21日)、 世にも驚く事件が起きました。 場所は信長が上洛中の宿所として使っていた “本能寺”。 天才的な武力と政略によって戦国の世をおさめていた織田信長が、 その重臣であった明智光秀に討ち倒されてしまうという、 前代未聞の事件が起こりました。 信長は天下統一の目前で、激動の短い生涯を閉じることになったのです。 これがかの有名な「本能寺の変」です。 本能寺は、現在京都市中京区の京都駅から程近い場所にある “法華宗本門流”の寺院で、応永22年(1451年) 日隆(にちりゅう)上人によって創建され、 はじめは“本応寺(ほんおうじ)”という名前でした。 場所は油小路高辻と五条坊門との間にありましたが、 現在までに5度の焼失に遭い、7度の建立が行なわれ、 寺地を転々としていたそうです。 のちに四条西洞院に移って「本能寺」と名前を変えたのですが、 ここで「本能寺の変」によって焼失してしまいます。 その後、天正17年(1589年)に信長の後継者である豊臣秀吉が、 現在の中京区寺町に再建したいわれています。 ここには信長をはじめ、側近として最後までともに戦い、 18歳という若さで散った森蘭丸など、 本能寺の変で亡くなった方々のお墓が残されています。


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なんで光秀はんは、謀反を起こしはったんやろ。
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 本能寺の変が起こったこの日、光秀は信長より命を受け、 中国地方に勢力を強めていた毛利氏と戦っていた 豊臣秀吉を助けるために出陣していました。 しかし途中で何を思ったのか、「敵は本能寺にあり……」と反乱を決意して 丹波亀山から踵を返し、信長を襲ったのです。 ただ信長を襲った理由については諸説あり、真相はわかっていません。 代表的な説では、人前で恥をかかされ信長を恨んでいたとか、 信長がかわいがっていた秀吉の下につけられるのが嫌だったから、 または素直に天下を自分のものにしたかった、などと様々な説があります。 ですが光秀ほどの人物が一人で天下を取れると思っていたとは考えられず、 光秀には共犯、つまり黒幕がいたともいわれています。 光秀は結局、本能寺の変の11日後に山崎の戦いで秀吉に破れ、 世にいう「三日天下」となりました。 ちなみに、光秀は逃げている途中に京都伏見の小栗栖あたりで 農民の槍によって落命したとされていますが、 実は生きていて、のちに徳川幕府のブレーンとなった “天海僧正”が光秀ではないかという説もあります。 そしてまた信長も、本能寺の焼け跡から遺体が見つからなかったことから、 その後も生きていたのではないかという説がありました。 または、南蛮寺と本能寺との間に秘密の地下道があり、 信長と森蘭丸らはそこから南蛮寺に逃れようとした所、 何者か(光秀の黒幕とも)が途中を塞いでいたためその前で息絶え、 地下道とともに埋められたともいわれており、 今も謎に包まれています。


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ぎょうさんいてはります。京都ゆかりの人。
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 ノーベル賞受賞者の多くが、 京都にゆかりのある方々だということをご存じでしょうか。 京都大学教授であった湯川秀樹博士から 島津製作所の田中耕一氏まで、 日本人受賞者12人のうち、7人が京都に縁のある方々です。 そもそもノーベル賞とは、ダイナマイトの発明者として知られ、 巨富を築いたスウェーデンの化学者・アルフレッド・ノーベルの遺言により 設けられた賞です。 ノーベルは、自分が発明したダイナマイトが戦争の道具として使われ、 多くの命が奪われているという事実に心を痛めて、 「自分が貯めたお金で基金を設立し、人類に貢献した人に賞として これを与えることに使ってほしい」という遺言を残したのです。 これをきっかけに、毎年その前年に人類のために最も貢献した人に贈られる 「ノーベル賞」スタートしました。 授賞式はノーベルの命日である12月10日に行われ、 受賞者へはメダルと賞金が与えられるこの名誉ある賞は、 物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の 6部門が設けられています。 これまでに12人の日本人がこの賞を受賞し、 その中で物理学賞の湯川秀樹氏・朝永振一郎氏・江崎玲於奈氏、 生理学・医学賞の利根川進氏、 そして化学賞の福井謙一氏・野依良治氏・田中耕一氏の7名が、 京都にゆかりがある受賞者です。


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京都の土地柄がええんとちゃいますやろか。
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 日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏は、 幼少の頃より京都で育ち、京都大学を卒業。 後に名誉教授にもなられています。 そして第2号の朝永振一郎氏は、 第三高等学校と京都大学において湯川氏と同級生で、 それに続く江崎玲於奈氏も、旧制高校まで京都で学んでいたそうです。 また大学別でいうと、京都大学(京都帝国大学含む)は 福井氏・利根川氏・野依氏も合わせ 5人のノーベル受賞者を輩出しています。 また2002年(平成14年)に化学賞を受賞した田中耕一氏は、 京都に本社をおく島津製作所に勤めており、 現役サラリーマンの受賞として話題になりました。 京都は、古都として歴史や伝統の技を大切に守り通してきた 土地柄でありながらも、その反面、明治以降研究開発企業のメッカとして 脚光を浴び、日本を代表するベンチャー企業を生み出してきました。 そして学者や芸術家、学生を大切にし、 街をあげて学問や芸術を育成しようとする柔軟な風土、 つまり発想や創造を重視する土地柄でもあり、 それが多くの文化人やノーベル受賞者を輩出している 要因なのかもしれません。


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北山杉は、京都府の木なんどっせ。
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 皆さんは「北山杉」をご存じでしょうか。 北山杉とは、現在の京都市北区中川を中心とした 京都市北部で製造されている杉丸太のことです。 京都で杉を中心とした“北山林業”がスタートしたのは室町応永年間頃。 室町中期以降に「茶の湯」の流行によって“磨丸太”として 茶室の建築に用いられ、盛んに使われるようになりました。 数寄屋造りの床柱に使われ、また歴史的建造物にもよく使われています。 数寄屋建築には、北山杉が必ずといっても過言ではないほど使われており、 当時からただの構造材としてではなく、 木の肌の光沢や絞り(模様)を楽しむインテリア素材として 使用されていたようです。 江戸時代から明治時代にかけては、建築ブームにのり、 どこの家にも数本はある極めて馴染みのある材料となっていきました。 ちなみに磨丸太は「北山杉」の皮を高圧の水で削ぎ落とし、 昔から村の女性が素手で表面を傷つけないように 砂を使い丹念に磨きあげられてきたそうです。 また、急峻な山の環境で効率よく磨丸太を生産するために、 一つの株から萌芽(ほうが)により複数の幹を育てこれを伐採する“台杉”とい う方法が 用いられていました。 今では各地で使われている方法ですが、発祥となったのは北山だといわれていま す。 ですが600年の歴史を有するうちに、 現在は台杉仕立ても行なわれず皆伐方式に切り替わっています。

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作り上げるには、ほんに手間ひまかかりますえ。
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 真直ぐな磨丸太を作るため、苗木から手間ひまかけて 丹念に仕立てられる北山杉は、 険しい地形と冷涼で厳しい自然環境の中で 永年に渡って伝承されてきた職人の厳しい"目"と"技"とで作られます。 また職人にとっては、山の斜面を使う不安定な場所での作業になるため、 より高度で繊細な育林技術が求められます。 木肌の美しさも大切なため、木を傷めずにいかにして育てあげるかが 問われるわけです。 そのため苗木を選定した後“地こしらえ”が行なわれ、 次に“植え付け”、そして節のない木目の揃った 良質の木材を得るために欠かせない“枝打ち”作業があり、 下草刈り、つる切り、そしてやっと“伐採”と、 長く気の遠くなるような作業を丹念に行なっていくわけです。 そしておよそ30~40年の歳月を経て、 幹の太さが12~15cmくらいになると切り出され、 磨丸太として出荷されていきます。 そこに至るまでには様々な苦労があり、工夫と努力が繰り返しなされてきました 。 職人たちは、それらの技を歴史の中で確立していったわけです。 このような中で育った北山杉は、 生命力が強いだけでなく年月が経つにつれて肌が見事な飴色に変わり、 とても味わい深いものです。 そうして、自然の木肌の清純さと、格調の高さがおおいに評価され、 昭和41年9月には、北山杉は「京都府の木」に選ばれました。


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釜ゆでの刑にされたんは、ほんまみたいどすなあ。
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 浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ、 有名になった「石川五右衛門」は、どなたでもご存じだと思います。 しかし実際の彼については、様々な諸説や伝承が入り乱れており、 現在でもよくわかっておらず、 半分以上が江戸歌舞伎の作り話ともいわれています。 また、お芝居の世界で有名になったことから、 架空の人物だと思われることも多いようですが、 彼は安土・桃山時代を生きた大泥棒として実在したことは確かです。 歌舞伎の1シーンでも描かれている、京都の南禅寺の三門の上で 夕日に照らされる桜を見て「絶景かな、絶景かな」と 名台詞を残したという話や、 豊臣秀吉の命によって釜茹での刑に処せられたという話が有名です。 しかし、三門は高さが22メートルにおよび、 そこに登ると今でも京都の街がよく見渡せますが、 実は五右衛門の死後34年たってから建立されたもので、 この話については実際とは異なるようです。 ですが、文禄3年(1594年)に、我が子とともに 京都三条河原で“釜茹で”の極刑に処されたというのは、 史実も残っているらしく事実であるといえます。 刑に至るまで、泥棒たちの頭目となって堺や京で暴れまわった という話も架空のものではないようですが、 出生地は伊賀国(三重県)、河内国(大阪府)、浜松(静岡県)、 丹後地方(京都府)など様々な説があり詳細は不明。 かつては忍者だったとか、伊賀忍者の頭領だったとされる 百地三太夫の妻と密通し、金を奪い京都へ逃亡したなどともいわれ 泥棒と呼ばれるようになる前についてはよくわかっていません。
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五右衛門はんは、破天荒な生き方どしたなあ。
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 石川五右衛門について、あの有名な“釜茹での刑”に 焦点を当ててみましょう。 豊臣秀吉は前田玄以(げんい)に命じて、 京でさまざまな悪行をはたらいた石川五右衛門を捕らえさせて、 三条河原で彼とその子一郎を釜茹での刑に、 そして母親や同類19人を磔(はりつけ)の刑に処したとされています。 その処刑の時、息子をとても可愛がっていた五右衛門は、 我が子が少しでも苦しまぬように己の命が尽きるまで 両手で高く掲げていたといいます。 その一方、実は自分の子供を踏み台にして 逃れようとしたという話も聞かれますが、 それは子供が長く苦しまないように即死させたかったからだという 反論の意見もあります。 結局のところ、反権力の義賊とされた五右衛門を 美化する話の方が多く残っているようで、 後に浄瑠璃や歌舞伎・新劇で演じられるほど、 現在でもヒーローとして捉える人が多くいます。 ちなみに“釜茹で”の処刑方法は、熱湯を入れた釜の中に 放り込まれたのではなく、油を入れた釜で煮られるという 恐ろしい処刑方法であったようです。 この五右衛門一味の処刑は異国の宣教師までが記録に残しており、 当時の人々にとってもかなり衝撃的なものだったのでしょう。 現在となっては有名な「五右衛門風呂」としてその名が用いられています。 全国各地のキャンプ場や旅の宿などで時々見かけますが、 お湯が冷めにくくよく温まる風呂として旅人には珍重されています。

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「月輪陵(つきのわみささぎ)」…なんと美しい名の御陵どすやろ。
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 東山三十六峰のひとつ、月輪山のふもとにたたずむ泉涌寺。 以前、美人祈願の寺としてご紹介しましたが、 皇室にゆかりのある寺としても信仰を集めています。 天長年間に弘法大師が庵としたことに由来。 承久元年、順徳天皇の御代に 月輪大師俊(がちりんだいししゅんじょう)が、 この地に宋の法式を取り入れた、大伽藍(だいがらん※)を 営むことを志しました。 それまで寺号が法輪寺、仙遊寺と改称されてきましたが、 寺の一角に清泉が涌き出ていたことから、 泉涌寺と改めたと言われています。 その清泉は、今なお湧き続けています。 嘉禄2年には主な伽藍が完成。 月輪大師は若くして仏門に入り、中国の宋に渡り、 仏の教えを奥深くきわめられたと言われています。 帰国後は、泉涌寺を創建し、戒律の復興に尽くしました。 志の高い月輪大師は、律を基本に天台・真言・禅・浄土の 四宗兼学の寺として隆盛させたそうです。 仁治3年に四条天皇のご葬儀がとり行われ、境内に営まれた御陵は、 「月輪陵(つきのわみささぎ)」と名付けられました。 それが縁となり、歴代天皇の山陵が山内に営まれるようになったそうです。 以来、真言宗泉涌寺派総本山であると同時に、 皇室の菩提所として厚い信仰を集め、「御寺」と称されるようになりました。 ※伽藍(がらん) 僧侶達が住んで仏道を修行する、清浄閑静な所。 後に、寺院の建築物の称となった。(広辞苑 岩波書店より)

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新緑の季節こそ、心を癒しておくれやす。
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 境内には、仏殿、舎利殿、歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、 「御寺」ならではの高貴な品格をたたえています。 仏殿には、伝運慶作の阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置。 南宋の諸寺にならったもので、過去、現在、未来を表すと言われ、 過去から未来まで、三世にわたり、人類の安泰と幸福を見守っているのです。 山内には、現在も皇室の方々が参拝の折にご休憩をとられる 「御座所」があります。 そこには「玉座の間」が残され、違い棚がしつらえられ、 狩野永岳筆の「瑞鳥花弁図」が描かれた障壁がひときわ格調高い印象。 「御座所」に面してL字に広がる庭園は、絶妙に計算された見事な美しさです。 白い砂とコケの対比、ひょうたん型の池、四季折々の風情を巧みに 活かした庭園の美学。 築山にさりげなく置かれた低い雪見灯籠は、仙洞御所より移され、 光格天皇が好まれたと言われています。 笠の部分が八角形の優雅なすがたは泉涌寺型と称されるほど有名です。 「御座所」と「庭園」は、特別拝観時に拝観可能。  また、泉涌寺塔頭の雲龍院庭園の美しさも見逃せません。 ビロードのじゅうたんを敷きつめたようなコケの庭に茂る低木。 随所には、灯籠や手水鉢が置かれ、侘び寂びをきわめています。 「さとりの窓」と呼ばれる円窓からは、 初夏にかけてシャクナゲが楽しめるそうです。 東山を背にした趣き深い借景に心なごませてみませんか。

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