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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1.平成22年8月7日

 ”古寺巡礼 京都14 鞍馬寺”(2007年10月 淡交社刊 信楽香仁/道浦母都子著)は、新西国十九番札所で、牛若丸がここで兵法修行したと伝えられている鞍馬寺の四季を写真と文章で紹介している。

 鞍馬寺は京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する仏教寺院で、もとは天台宗に属したが1949年以降独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山、開基は鑑真の高弟鑑禎、本尊は尊天と称される、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊である。信楽香仁氏は、1924年京都府生まれ、鞍馬寺貫主、鞍馬弘教管長、京都府立第二高等女学校卒業、1944年、鞍馬寺入山、鞍馬寺執行・鞍馬弘教宗務総長を経て、1974年鞍馬寺貰主・鞍馬弘教管長に就任。道浦母都子氏は、1947年和歌山県生まれ、歌人、1972年早稲田大学文学部卒業、第25回現代歌人協会賞受賞。鞍馬寺の草創は今昔物語集、扶桑略記など諸書に見られ、796年に藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人という人物が毘沙門天と千手観音を安置して創建したとされている。しかし、寺に伝わる鞍馬蓋寺縁起には別の草創縁起が伝わり、鑑真の高弟鑑禎770年に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。796年に官寺である東寺の建設主任であった藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考え、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂があったという。その後、東寺の僧・峯延が入寺したころから、鞍馬寺は真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。1091年に白河上皇が参詣、1099年に関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていた。1126年の火災をはじめとして、たびたび焼失している。1812年に一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年にも本殿などが焼失している。堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。昭和期の住職・信楽香雲は、1947年に鞍馬弘教を開宗し、1949年に天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となった。京都の奥にあるため山岳信仰、山伏による密教も盛んで、山の精霊である天狗も鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のもので、鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。約二億五千万年前、海底火山の隆起によって生まれた鞍馬山は、動物・植物・鉱物が質量共に多い大自然の宝庫でもある。境内一円は、春の花に始まり、全山緑に包まれ、やがて紅葉が山を彩軒、冬は銀世界と、美しい四季のめぐりの中に、古式豊かな年中行事が行われる。

2.8月14日

 高齢者の不明相次ぐ

 日本各地で高齢者の所在不明が相次いでいる。生存していれば、111歳とされていた男性の白骨遺体が東京都区内で発見された事件を受けて、高齢者の現況把握調査を緊急実施したところ、所在が確認できなかった高齢者が複数存在した。超高齢者が急速に増加しているのに、社会的な管理体制が追いついていないだけでなく、家庭破壊、地域社会の崩壊などの問題も重なった結果とみられる。都内最高齢の113歳女性所在分からず、八王子でも102歳男性不明、ほかに、北海道、埼玉、千葉、愛知、大阪、兵庫、神奈川、岡山などで新たに判明している。相次ぐ所在不明で、厚労省は一定年齢以上の高齢者を調査することになった。100歳以上の高齢者は全国に4万人以上いて、一定の年齢かそれ以上で区切ると一定の数になるため、対象を絞り込んで調査する意向である。この問題は年金のことも絡んでいることが少なくなさそうである。1人一つずつ割り当てられている基礎年金番号が、成人人口より123万件も多く、新たな未解明年金記録問題となっている。そこで、安否が不明の年金受給権を持つ高齢者に対し、生存確認を求める文書を郵送し、返信がなければ年金支給を一時差し止めることを決めた。また、この問題は個人情報保護法が所在把握の障害になっていることから、同法改正の是非なども検討されるようである。実に複数に、いろいろな問題が関係しているようである。

3.8月21日

 ”イタリアからの手紙”(2003年8月 新潮社刊 塩野 七生著)は、イタリアの歴史、風土、人間をもっともよく知る著者が綴るイタリアの真実と魅力を伝えるエッセー集である。

 リストランテと美術館巡りだけでは分らないイタリアに触れる24通の便り。カイロから来た男、骸骨寺、法王庁の抜け穴、皇帝いぬまにネズミはびこる、永遠の都、M伯爵、仕立て屋プッチ、通夜の客、ある軍医候補生の手記、アメリカ・アメリカ、地中海、ヴェネツィア点描、イタリア式運転術、村の診療所から、未完の書、トリエステ・国境の町、ナポリと女と泥棒、ナポリターノ、カプリ島、マカロニ、シチリア、マフィア、友だち、シチリアのドン・キホ-テ。塩野七生氏は、1937年7月東京生れ、学習院大学文学部哲学科卒業後、1963年から1968年にかけて、イタリアに遊びつつ学び、1968年に執筆活動を開始、1970年に毎日出版文化賞、1982年にサントリー学芸賞、1983年に菊池寛賞、1993年に新潮学芸賞、1999年に司馬遼太郎賞、2002年にイタリア政府より国家功労勲章受賞、2007年に文化功労者選定。大作の合間に書いたこれらのエッセーの味わいも格別である。ROMAを逆にするとAMORで、ラテン語で愛という意味だという。作者のイタリア好きという気持ちが強く感じられる。良い事ばかりではなく、手厳しく批判したり、冗談めいたものの書き方で紹介している。人生を楽しむことにかけてイタリア人の右に出る者はいない。陽気で自由な国民性は、しばしば工事の遅滞や鉄道や郵便の遅滞などのいい加減さに変わる。旅行では必ずスリや窃盗に気をつけるようにと言われる。でも、やはりイタリアの圧倒的な歴史と町並みには感動する。長い間文明を栄えさせ、世界をリードしてきた国では、人々は大人で、人と人とのつきあい方、生きるための知恵に長けている。何でも前向きにとらえようとする姿勢が自然で、とてもおもしろい。芳醇なるブドウ酒の地中海、死んでいく都ヴェネツィア、生き馬の眼を抜くローマ、だましの天才はナポリ人、田園風景にマフィア、イタリアの風光は美しく、その歴史は奥が深く、人間は甚だ複雑微妙である。

4.8月28日

 ”世界遺産 第1巻ヨーロッパ①”(2002年6月 講談社刊 水村 光男・監修)は、ヨーロッパ文明の根幹、ギリシア・ローマ文明とキリスト教、華開くルネサンス、商業や海運に沸く諸都市の繁栄を写真と文章で紹介している。

 世界遺産は、ユネスコ世界遺産リストに登録されている遺産である。1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然など、人類が共有すべき顕著な普遍的価値をもつ不動産を指す。文化遺産、自然遺産と、両方の要素を兼ね備える複合遺産とに分類される。木村光男氏は、1940年東京生まれ、東京教育大学文学部史学科卒業、大学院博士課程修了(東洋史学専攻)、東京都立日比谷高等学校教諭を経て攻玉社高校教諭・関東学院大学非常勤講師。世界遺産リストへの推薦は、各国の関係機関しか行うことは出来ない。ただし、危機遺産リストへの登録の場合は、きちんとした根拠が示されれば、個人や団体からの申請であっても受理されることがある。登録されるためには、顕著な普遍的価値をもつことが前提となり、世界遺産登録基準を少なくとも1つは満たしていると判断される必要がある。第1巻ヨーロッパ①では、ミケランジェロの荘厳、ヴェネツィアの気概、ローマの爛熟、東西に広がるキリスト教などなど、地中海に端を発し世界を制したヨーロッパ文明の礎となった大遺産を紹介されている。

第1章 世界史の舞台となった古都(ローマの歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア共和国・ヴァティカン市国)―古代地中海世界で最強・最長を誇ったローマ帝国の中心部ヴァティカン市国(ヴァティカン市国)―九億人の信仰を支えるローマ=カトリック教会の総本山
第2章 地中海の神々が宿る土地(ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡(イタリア共和国)―一七〇〇年後、火山灰の山からよみがえったローマ都市マテーラの洞窟住居(イタリア共和国)―自然の岩山に文明を融合させた洞窟住居と岩窟聖堂
第3章 敬虔な祈りの日々を支えた芸術(メテオラ(ギリシア共和国)―奇岩の頂に建てられた天界に最も近い修道院アトス山(ギリシア共和国)―ギリシア正教会の伝統を守りつづける聖なる世界
第4章 ユーラシア大陸の壮大な自然(エオリア諸島(イタリア共和国)―いまも小噴火を繰り返す火山島の壮大な眺めコトルの自然と文化‐歴史地域(ユーゴスラビア連邦共和国)―海洋商業都市コトルを守った海と山による天然の要塞

5.平成22年9月4日

 ”人物叢書 法然”(1959年12月 吉川弘文館刊 田村 圓澄著)は、43歳のときに専修念仏に帰し浄土宗の開創をめざした法然上人の人生を紹介している。

 法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧で、浄土宗の開祖とされる。法然は房号で、諱は源空、幼名は勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも言われた。謚号は、彗光菩薩、華頂尊者、通明国師、天下上人無極道心者、光照大士である。大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加謚され、2010年現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師である。『選択本願念仏集』を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称され、浄土宗では善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。田村圓澄氏は、1917年奈良県橿原市生まれ、1941年九州帝国大学国史学科卒業、同副手、1942年土浦海軍航空隊教授嘱託、海軍少尉に任官し、1946年塚本善隆の女婿となり、京都の妙泉寺住職となり、堀川中学校に勤務、京都大学大学院に入学、1950年仏教文化研究所が設立され参加、1957年九州大学助教授、1966-1967年カリフォルニア大学バークレー校へ研究滞在、1968年法然上人伝の研究で文学博士(九州大学)、同年教授、1980年定年退官し名誉教授、熊本大学教授となり、1982年定年退官し、九州歴史資料館長となった。法然は、1133年に美作国久米の押領使・漆間時国と、母・秦氏君との子として生まれる。生地は現在、誕生寺という浄土宗の寺になっている。1141年に源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の観覚のもとに引き取られる。その才に気づいた観覚は当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。その後比叡山に登り、1145年に源光上人に師事、源空は自分ではこれ以上教えることがないとして、1147年に同じく比叡山の皇円の下で得度した。1150年に皇円のもとを辞し、比叡山黒谷の叡空に師事した。叡空から絶賛され、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱も授かった。法然上人の正式名は法然房源空である。1175年に43歳の時、善導の『観無量寿経疏』によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。1198年に九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著す。1204年に後白河法皇13回忌法要である浄土如法経法要を法皇ゆかりの寺院長講堂で営んだ。絵巻法然上人行状絵図(国宝)にその法要の場面が描かれている。比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下される。1207年に還俗され藤井元彦を名前として、土佐国に流罪となった。1207年に赦免されて讃岐を離れ、4年後の1211年に京に入り、1212年1月25日に死去、享年80(満78歳没)であった。

 月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ

 里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺めるひと以外にはその月の美しさはわからない。

6.9月11日

 今年の猛暑

 今年は6月下旬に北海道各地で、気温が平年を15℃以上上回る異常高温を観測した。梅雨明け後は全国的に晴れて厳しい暑さに見舞われた。7月中旬から下旬前半にかけ太平洋高気圧が強まり最高気温が各地で35℃を超える猛暑日となった。7月終盤は曇りや雨のところが多く一度暑さは収まったものの8月に入り再び全国で猛烈な暑さとなり、太平洋高気圧が北日本まで大きく張り出した。8月下旬になっても気温は下がらず、各地で連続猛暑日記録を更新した。9月1日、気象庁は6月-8月の平均気温が平年比+1.64℃となり観測史上最高気温となるなど、記録的な猛暑となったことを受けこの夏の猛暑を異常気象と認定した。2010年は日本に限らずロシアでも40℃を超える歴史的な猛暑となっており、米国東部やヨーロッパ南部でも記録的な猛暑となり世界規模での高温に見舞われている。猛暑は酷暑とも言われ、主に夏の天候について用いるが、晩春や初秋でも使用される。世界気象機関では、最高気温の平年値を連続5日間以上5℃以上上回ることとされている。日本国内では、2007年以降1日の最高気温が35℃以上の日のことを猛暑日と言う。制定前の2006年までは、非公式ではあるが酷暑日と言われていた。一般に、夏季において背の高い高気圧に覆われて全層に渡って風が弱く、周囲の比較的冷たい空気や湿気の流入が弱く快晴状態の場合に起こりやすい。内陸の盆地状地形では周囲の山岳により外部の大気との混合が妨げられ、昇温した空気が滞留しやすいため他の地域よりも猛暑となりやすい。またフェーン現象が発生すると、山塊の風下部では乾燥した高温の大気によって盛夏でなくても猛暑となりやすい。近年、三大都市圏を中心とする都市部で最高気温の記録更新が相次いだり、熱帯夜の増加や冬日の減少が起こったりするのは、ヒートアイランド現象が一因と考えられる。全てが地球温暖化で説明できるわけではなく様々な気象要因が考えられている。ラニーニャ現象が発生するとフィリピン近海の海水温が上昇するため上昇気流が発生し、その北に位置する日本付近では下降気流が発生しそこに勢力の強い太平洋高気圧が形成され、日本列島が猛暑となりやすいと考えられている。他にも、ダイポールモード現象が発生すると日本付近では降水量が減り猛暑になりやすいという考えや、北極振動や北大西洋振動が負になるとオホーツク海高気圧が弱まり猛暑になりやすいという考え、近年日傘効果をもたらす火山噴火が起きていないため猛暑が何年も連続するとの考えもある。

7.9月18日

 民主党代表選挙

 民主党は、1998年4月、院内会派、民主友愛太陽国民連合に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。法規上では、1998年に旧民主党が各党を吸収したという形をとっていて、1996年結成の旧民主党が存続ということになっている。結党時には保守中道を掲げる旧民政党系と中道左派を掲げる旧民主党系が対立した結果、党の基本理念を民主中道とすることで落ち着いた。代表の任期は、偶数年9月末日から次の偶数年9月末日までの2年間である。この選挙は党代表選挙規則に基づいて行われる。代表選挙規則の定める選挙は、党所属の国会議員だけでなく、地方自治体議会議員、一般党員とサポーターにより投票されるものである。これまで代表は、菅直人、鳩山由紀夫、岡田克也、前原誠司、小沢一郎が勤めてきた。しかし今、民主党代表選挙は民主党代表を選出する選挙であるが、民主党は民国連立政権の政権与党であり、衆議院・参議院の両方において第1会派を形成していることから、同時に日本の総理大臣を決める結果になる。2010年9月の代表選は、菅直人代表の任期満了により9月1日告示、9月14日投開票で8年ぶりに約34万人の党員・サポーターによる投票が実施された。代表選は菅直人首相と小沢一郎前幹事長の争いとなったが、選挙の結果、菅直人首相が過半数の721ポイントを獲得して再選された。党所属国会議員有権者は411人で、409人が投票し、無効票は3票だった。党役員人事では小沢一郎元幹事長と距離を置く岡田克也外相の幹事長起用を決め、脱小沢路線の継続を鮮明にした。また、改造内閣は小沢一郎元幹事長と距離を置く実力者を据え、小沢氏の議員グループからは一人も起用しなかった。ねじれ国会、普天間飛行場移設問題、日米同盟再構築、尖閣諸島衝突問題、日中関係悪化懸念など、早急に対応すべき課題は数多く山積しており、これから即戦力が試されることとなりそうである。

8.9月25日

 ”新聞記者 夏目漱石”(2005年6月 平凡社刊 牧村 健一郎著)は、40歳の時、朝日新聞社から誘いを受け、東京帝国大学講師の立場から転職した時代から亡くなるまでの間の新聞記者としての夏目漱石の足跡をたどっている。

 夏目漱石は慶応3年1月5日牛込馬場下横町、現在の新宿区喜久井町生まれで、大正5年12月9日に亡くなった。西暦では、1867年から50歳の1916年までである。本名は夏目金之助といい、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。牧村健一郎氏は、1951年神奈川県生まれ、早稲田大学政経学部卒業、朝日新聞校閲部、アエラ編集部、学芸部等を経て、企画報道部be編集部に行くなど、学芸部が長く、ラジオテレビ編集長や読書面を担当した。夏目漱石は大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。東京帝国大学英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学教師、熊本で五高教授などを務めた後、イギリスへ留学し、帰国後、東京帝大講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表した。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書いた。その後、明治36年に本郷区駒込千駄木町57番地に転入した。明治39年に漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。門下には、内田百閒、野上弥生子、芥川龍之介、久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。明治40年に一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社して、本格的に職業作家としての道を歩み始めた。時代のニュースを作品に取り入れ時代精神を感得して、『虞美人草』『三四郎』などを掲載した。自作が掲載されない期間は他の作家に執筆を依頼するなど、編集者としても活動した。入社当時から小説だけでなく、文芸、美術、音楽など文化全体の動静を扱う文芸欄を創設したいとの考えを持ち、2年後にはそれも実現した。朝日新聞社の各部や編集者・記者との交流や対立にも筆が及んでいる。当初は余裕派と呼ばれたが、明治治43年に胃潰瘍で長与胃腸病院に入院し、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養した。そこで胃疾になり、大吐血をおこし生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。修善寺の大患後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆し、則天去私の境地に達したといわれる。その後、胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられ、明治44年に大阪胃腸病院に入院し、東京に戻った後、痔にかかり通院した。大正4年に京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れ、大正5年に糖尿病にも悩まされ、12月9日大内出血を起こし、『明暗』が絶筆となった。漱石が朝日新聞社に入らなかったら、文芸欄の創出も、数々の名作も、存在しなかったかもしれない。漱石が朝日新聞に入社し、活躍した意義は、はかり知れなく大きい。新聞小説の歴史を辿り、朝日の豪傑記者達とともに新聞記者としての側面から光をあてている。

序章 漱石争奪戦
第1章 明治期の新聞事情
第2章 朝日新聞入社
第3章 朝日文芸欄
第4章 新聞記者夏目漱石
終章 それぞれのそれから

9.平成22年10月2日

 ”フリーペーパーの衝撃”(2008年1月 集英社刊 稲垣 太郎著)は、新聞や雑誌と並ぶまでに成長し活気づく紙メディアの無料誌についての過去と現状と近未来を展望している。

 フリーペーパーは、広告収入を元に定期的に制作され、無料で特定の読者層に配布される印刷メディアである。現在日本では1200紙誌、年間3億部近いフリーペーパーが発行され、雑誌タイプを中心になおも創刊ラッシュが続いている。魅力的なコンテンツを提供して、TVやラジオ、新聞、雑誌と並ぶまでに成長したこの媒体は、有料を前提とした既存の新聞、雑誌を脅かす存在なのか。あるいは大量に情報を流すデジタルメディアに対抗して、読者を紙媒体に呼び戻す救世主なのか。稲垣太郎氏は、1955年東京生まれ、1978年早稲田大学政治経済学部卒業、朝日新聞社に入社し、仙台、新潟支局から名古屋本社、東京本社、北海道支社で整理部勤務、総合研究本部などをへて、デジタルメディア本部勤務、早大大学院社会科学研究科修士課程で現代メディア論専攻、早大メディア文化研究所客員研究員。1980年代ころから徐々に雑誌に準じた冊子体のものなども含め、より広い意味で無料の印刷媒体をフリーペーパーと総称することが多くなっている。本来は、広告ばかりを掲載した集合チラシとは一線を画し、地域情報や生活情報などの記事を掲載していることが特徴とされていたが、フリーペーパーという表現の普及とともにそのような意味合いは薄れ、近年では特定企業の宣伝用印刷物のようなものや、非営利団体の広報資料のようなものでも、無料で配布される印刷媒体であればフリーペーパーと称されることがある。海外ではすでに10年以上前から、タブロイド判の無料紙が多くの国の都市圏に広がっていた。日本でも過去にその試みがあったものの、業界の壁が厚く挫折に終わっている。その一方で、マガジンタイプである月刊や週刊の無料誌が各地で数多く創刊され、相次いで消えていった有料タウン誌に代わってご当地メディアの主役の座にのぼっていた。いつの間にか、私たちの身の回りに、こうした無料出版物があふれるようになった。無料にもかかわらず読みごたえのあるものが増え、売っている雑誌より面白かったり、紙質も記事内容も高級感があったりする。無料なのにどうして内容の濃い紙面を提供できるのか、読者に買ってもらわず広告収入だけで経営は成り立つのか、インターネット全盛の時代になぜこの紙媒体は活気づいているのか。フリーペーパーの収入は広告のみに依存している。フリーペーパーの利点は、想定読者を絞り、広告主にアピールすることで、広告収入を事前に確保できることである。発行前の売り切り制であり、有料誌のように、本屋で店ざらしにされ返品される心配がない。読者に配る方法と場所がフリーペーパーの成功の鍵を握ることがはっきりしてきた。広告効果が問われるため、想定読者へ確実に届けなければならないからである。配る場所と方法さえ間違えなければ、だれでも広告主を見つけて収益を上げられる、だれもが自由に参入できるビジネスモデルである。しかし、無数に発行しても成り立つわけではなく、先行者利益が大きい市場のようである。また、いずれは市場が飽和して、時代の進展とともに淘汰されることも考えられる。まだまだ可能性のあるビジネスであろうが、今後の動向に注意が必要である。

10.10月10日

 ”人物叢書 親鸞”(1961年4月 吉川弘文館刊 赤松 俊秀著)は、鎌倉時代初期の日本の僧で浄土真宗の宗祖とされる親鸞の生涯を詳細に紹介している。

 親鸞は、法然を師と仰いで浄土宗の教えを継承しさらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無く、独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとったが、没後に宗旨として確立されることになった。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』が完成した1247年とされるが、定められたのは親鸞の没後であった。赤松 俊秀氏は、1907年に旭川市で真宗大谷派の寺院光岸寺に次男として生まれ、三高を経て、1931年京都帝国大学文学部史学科卒、京都府嘱託・主事として、府下の社寺宝物や史跡の調査に従事、1949年京都府教育委員会文化財保護課初代課長、1951年京大助教授1953年教授に就任、1962年文学博士、1971年定年退官、同名誉教授となり、1979年に没した。親鸞は、1173年4月1日に、現在の法界寺、日野誕生院付近にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生した。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の吉光女とされる。1181年に9歳で京都青蓮院において、後の天台座主・慈円のもと得度し範宴と称した。本堂出家後は叡山に登り天台宗の堂僧として不断念仏の修行を行い20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになった。1201年の春頃、29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂へ百日参籠を行った。95日目の1201年4月5日の暁の夢中に、聖徳太子が示現され、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得た。この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水の法然の草庵を訪ね、岡崎の地に草庵を結び百日にわたり法然の元へ通い聴聞した。法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意し、法然より綽空の名を与えられた。研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになった。1205年に『選択本願念仏集』の書写と法然の肖像画の制作を許され、改名を願い出て善信と名乗ることを許された。妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論であるが、妻との間に4男3女の7子をもうけた。1207年に後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられた。法然・親鸞らは僧籍を剥奪され、法然は藤井元彦、親鸞は藤井善信の俗名を与えられ、法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府に配流された。1211年に親鸞に岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨と、法然に入洛の許可の宣旨が順徳天皇より下り、親鸞は師との再会を願うものの越後から京都へ戻ることが出来ず、1212年に法然は京都で80歳をもって入滅した。親鸞は、師との再会がもはや叶わないと知ったことと子供が幼かったこともあり、京都に帰らず越後にとどまった。1214年に東国での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て常陸国に向かった。1216年に大山の草庵を結んだと伝えられ、その後、笠間郡稲田郷の領主に招かれ稲田の草庵を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行い、1224年に『教行信証』の草稿本を撰述したと伝えられる。東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行った。そして、1234年から1235年のとき、62、3歳の頃に帰京し著作活動に励むようになった。1247年頃に、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされている。1248年に『浄土和讃』『高僧和讃』、1250年に『唯信鈔文意』、1252年に『浄土文類聚鈔』、1255年に『尊号真像銘文』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃』、1256年に『入出二門偈頌文』、1256年に『如来二種回向文』、1257年に『一念多念文意』『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』、1258年に『尊号真像銘文』『正像末和讃』を撰述した。1262年11月28日に押小路南万里小路東の善法院 にて、享年90歳をもって入滅した。臨終は親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取り、遺骨は鳥部野北辺の大谷に納められた。

11.10月17日

 急激な円高

 急激な円高が進んでいる。円高は、外国為替相場で外国通貨に対して円の価値が高くなっている状態である。相場が円高に傾くと、外貨建債権を有する日本の輸出産業は為替差損を被ることになり、経営が圧迫される。逆に輸入産業は為替差益を得ることになるが、日本は貿易収支が大幅黒字国であり輸出産業の方が経済に及ぼす影響力が強いため、日本経済全体としては、差益より差損の方が大きくなる。利益が減少したことで、社員の給与が減少したり、価格への転嫁が起こり、結果購買意欲の衰退、不況へと向かうことが多い。変動相場制移行後最初の円高不況は、1971年8月にドルショックの影響で引き起こされた。当時は、急なレートの変更で日本の輸出産業に与えた打撃は大きく、赤字を計上する企業が続出した。その後1973年までは再び固定相場体制が採られたが、不安定かつ暫定的な体制であったため数次にわたる通貨危機が発生し、遂に変動相場制に移行することとなった。これにより日本円は信用の低下していた米ドルに対して急速に切り上げられることとなり、再び輸出産業は大きな損害を被った。1975年から1984年にかけては、円相場は250円近辺に落ち着くようになったが、じりじりと円安ドル高が進行していた。1985年にアメリカは、プラザホテルでG5を招集して諸国にドル安誘導を要請し、各国はそれを承認した。円相場は1985年末には1ドル=200円まで修正され、その後も一貫して円高ドル安状況が継続していった。1986年頃から日本政府主導で公定歩合を2.5%に引き下げる超低金利政策などの不況対策が行われ、状況は好転した。そして、2010年10月、連邦準備制度理事会が金融緩和策などを実施したことで円が1ドル=81円を突破し、日本の製造業は再び大きな影響を受けている。これまでの円高の史上最高値は1995年4月19日に記録した79円75銭だそうで、市場では円相場が市場最高値を試す展開になっている可能性が高い。このまま円高が続くと、日本の国内での人件費、消耗品、光熱水道費などは円建てで支払われているので、企業は経費を払うことができなくなり、赤字になる。円の本当の実力なら良いが、今の円高はドル安・ユーロ安の反映であるとのことであるので、今後の展開は大きな懸念材料である。

12.10月24日

 ”地図のない旅”(2005年7月 主婦の友社刊 澤地 久枝著)は、主婦の友社の女性誌「ゆうゆう」と日本経済新聞に書き下ろされたエッセイを集めたものである。

 いのちの危機をみつめ別れの予感を胸に秘めながら書き綴った人生の旅が書かれている。澤地久枝氏は1930年東京生まれの今年80歳で、幼少時に父親の仕事の関係から旧満州へ移住し、1945年に吉林で敗戦を迎え、1年間の難民生活の後に日本に引き揚げ、1949年に旧制向丘高女卒業と同時に中央公論社に入社し、経理部で働きながら早稲田大学第二文学部に学び、在学中、学生運動を通じて知り合った男性と結婚し、卒業後、婦人公論編集部へ移り、1963年に編集次長を最後に退社し、五味川純平氏の資料助手を行い、1972年の『妻たちの二・二六事件』以後本格的に執筆を開始し、『火はわが胸中にあり』で第5回日本ノンフィクション賞、『昭和史のおんな』で第41回文藝春秋読者賞、『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』で第34回菊池寛賞、「戦争へと至った昭和史の実相に迫るノンフィクションを著した業績」に対して、2008年度朝日賞を受賞した。地図のない旅1章「幻の母校」の中で、7年前に享年43歳で亡くなったナチュラリスト星野道夫さんは、「きっと人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ」と書き記し、前途に長い旅が待っていると予想し、未知のその旅、光を捜し求めて歩いてゆく旅が人生なのだと考えていたと思われるが、まだこれからという若さで、妻と生後1年にみたない息子をのこし、突然「旅」が中断された。著者はエッセイを書いたとき72歳になり、自分の人生も波乱の多いものだったと過去形で書いたけれど、生きている以上、これからなにが起きるのかわからない、いつどのように旅が終わるのかもしれないと書いている。人生で出会った多くのことと、50カ国は超えそうな数多い外国への旅、そして国内の旅があったが、いつも計画通りにゆくわけもなく、好奇心いっぱいの冒険好きとして、自分の人生も旅も、いつも定まった「地図」などないものになったと言う。この本のタイトルはここから来ている。病歴も、長い年月の著者のパートナーとしてある。これも、「健康と努力したいと願う心」だけが自分の才能と信じていた日には予測もしない道づれの登場であった。いつの間にか身についた心の持ち方、心の切りかえが、自分を支える杖のようになり、70代に入ってふり返る若い日、30代、40代、50代、60代、それぞれの年代をどう生き、ふりかえつて辿りなおしてどう感じているか。自分の娘や孫娘世代の人びとにすこしは役に立つことがあるかも知れない、こういう文章を書く年齢、役割に達するところまで生きのび得たことはほとんど奇蹟のように思え、秋がくれば73歳になる長い旅をいまもつづけているのは事実で、地図のない旅である。ここでの同行者はわたし。いっしょに旅へ出てみませんか。そして、あとがきで、能登の宿での転倒、骨折、一瞬、失神して、2003年から4年にかけて健康上の危機に出会い、70代に入ったことの実感以上に深刻だったと思うと書いている。記憶装置に大変調をきたし、いっさいの約束からおり、原稿を書くこと、公けに発言すること、すべてやめようと思っていたが、検査の結果、ペースメーカーの装着でかなりの回復し、なんとか仕事の中断はしないですんだ。そういう日々に書いた文章をエッセイ集としてまとめ、文字通りの 「地図のない旅」であったと言う。

1章 地図のない旅
2章 希望の色
3章 いのちの讃歌

13.10月30日

 ”人物叢書 清沢満之”(1986年4月 吉川弘文館刊 吉田 久一著)は、明治の宗教哲学者で真宗大谷派の改革運動に尽力した清沢満之の生涯を詳細に紹介している。

 清沢満之は、近代日本において西洋哲学の方法を用いながら仏教の縁起の探求に努め、人類が救済される道を精神主義として示した。吉田久一氏は、1915年生まれ、1941年大正大学文学部史学科を卒業し、日本社会事業大学教授、日本女子大学教授、東洋大学教授を歴任した。清沢満之は、徳永家の長男で結婚により西方寺へ入寺し、のちに清沢姓となった。幼名は満之助、院号法名は信力院釋現誠で、1863年に尾張藩に生まれ、1878年に得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学し、留学生として東京大学予備門に進み、1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業し、1888年に京都府尋常中学校の校長に赴任するも辞任して禁欲自戒の生活に入った。1894年に肺結核を発病し、1896年に京都府愛宕郡白川村に移り住み、白川党の宗門改革運動を始め、今川覚神や稲葉昌丸らと『教界時言』を発刊し、東本願寺における近代的な教育制度・組織の確立を期して種々の改革を建議・推進し、しばしば当局者と対立し、宗門からの除名処分を受けた。1898年に宗門よりの除名を解かれ、1899年に東京本郷森川の近角常観留守宅にて私塾浩々洞を開き、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏ら多くの真宗学者、仏教学者を輩出した。1901年に浩々洞にて雑誌『精神界』を創刊し、東本願寺が東京巣鴨に開校した真宗大学の学監に就任するも、翌年辞任した。そして、1903年に41歳の若さで死去した。清沢満之の生涯は、苦難な禁欲自戒の実験の生涯で、その中からたどりついた心の置き所が精神主義であった。精神主義とは無限大悲の如来に依拠する広大な他力信仰を根本に据え置いて世に処する実行主義、活動主義で、内観主義、主観主義、満足主義、自由主義、個人主義、全責任主義、他力主義などの語をもって表される。そこには他力信仰によって自己の内面を凝察し、個の徹底的な内的沈潜により安心立命が全うされるとする近代仏教の先覚者の発想があるが、西洋哲学を咀嚼し踏まえていたことで独自な哲学となっている。

14.平成22年11月6日

 領土問題

 日本の領土問題と言えば、ロシアとの北方四島、中国との尖閣諸島、韓国との竹島などがある。北方領土については、ロシアは、国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島の四島はヤルタ協定、ポツダム宣言および降伏文書により、領土問題は決定されたとして、対日平和条約および日ソ共同宣言は、上記事実を確認したにすぎないとする。日本は、日本固有の領土であり、対日平和条約で放棄した千島列島には、四 島は含まれず、ヤルタ協定は連合国間の密約であり日本を拘束しないとする。平和条約締結前に占領地域を自国領土へ編入したソ連の措置は有効か、対日平和条約は非当事国のロシアに及ぶか、日ソ共同宣言で行った合意をその後の日米安保条約締結を理由として一方的に変更することができるかなどが争点である。中国は、沖縄返還協定の返還区域への組み入れは不法であり、尖閣諸島は台湾の付属島嶼であるとする。日本は、先占により取得し、1895 年の閣議決定で沖縄県の所轄として標杭建立し、取得後も実効的に支配しているとする。沖縄返還協定締結時に至るまで尖閣諸島は中国の領土であったのか、1971 年に至っての抗議の法的意味、約75 年間の黙認が争点である。韓国は、古くから韓国領土であり、日本による1905 年の領土編入措置は無効であり、編入以後の行為は侵略行為の一環であり合法的な領域支配行為ではなく、カイロ宣言ほか戦後の一連の措置から韓国領であることが確認されるとする。日本は、古くから日本領土であり、1905 年の領土編入措置は有効であり、1946年の連合国総司令部覚書は占領下の暫定措置にすぎず、竹島は対日平和条約により日本が放棄した地域から除外されているとする。日本による領土編入措置の効力、カイロ宣言から対日平和条約に及ぶ一連の措置の意義および解釈が争点である。ロシアも中国も韓国も既成事実を作ろうとしていて、いずれも目が離せない。

15.11月13日

 尖閣ビデオ流出

 尖閣諸島沖の中国漁船衝突をめぐるビデオ映像流出事件では、動画サイトyoutubeに、6本計約44分が分割され、それぞれタイトルが付けられて掲載されていた。タイトルは、「本当の尖閣」2本、「尖閣の真実」「尖閣侵略の真実」「日本の尖閣」「どうなる尖閣」であった。投稿を告白した43歳の海上保安官は、この映像を国民は見る権利がある、闇から闇に葬られてしまうのではないかと述べたという。長時間に及ぶ映像の投稿には、事件の全容を知らしめる意図があったようである。日本の領海は、領土から約22kで約43万平方キロ、EEZは約405万平方キロある。日本は、国土面積は世界で61位に過ぎないが、領海とEEZの合計は世界6位の広さである。海上保安庁は、海洋国家日本の海の治安維持を担っている。尖閣諸島など国境の最前線で、領海・排他的経済水域EEZの警備を担い、海難救助、密輸・密漁などの犯罪捜査も行う。日本の領海内では、違法操業や海洋調査船の侵入など、中国をはじめとする外国船の不法行為が後を絶たない。法律上の制約で海保に可能な対応は限られているものの、法令を順守しつつ国境の守りに当たっている。尖閣諸島近海で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返しながら逃走を図った事件は、領土・領海を守ることの大切さと難しさを示した。これから海上保安官の処遇に関心が寄せられるが、国家公務員の守秘義務違反に関しては、映像の秘密性を疑う声が出ている。

16.11月20日

 ”しのびよるネオ階級社会”(2005年4月 平凡社刊 林 信吾著)は、日本社会に広がる格差と不平等、その行き着く先は英国型階級社会だという。

 日本社会に格差と不平等が広がりつつある中で、アメリカ型の競争社会をという掛け声のもと、実際に進んでいるのはイギリス型の階級社会化だという。在英生活でつぶさに見た階級社会への実像を盛り込んで、日本型ネオ階級社会への警鐘を鳴らしている。林 信吾氏は、1958年東京都生まれ、神奈川大学中退、1983年に渡英し1987年に英国ニュースダイジェスト記者、1990年に欧州ジャーナルを創刊し初代編集長となり、1993年に帰国し、作家・ジャーナリストとして執筆活動を行っている。日本はどこかおかしくなってきているという。10年間英国ロンドンで生活し、アウトサイダーの立場から日本の企業社会を観察した結果、日本は格差の少ない総中流社会であるというのはウソではないのか、と考えるようになった。しかしその後、英国の階級社会に比べれば日本の学歴社会はまだ平等だとも考えるようになった。戦後の日本人は、ほぼ一貫して米国型の生活様式を豊かさのモデルとし追い求めてきた。電化されたキッチン、ソファとオーディオのある居間、書斎と子供部屋、ガレージにはピカピカの乗用車、芝生の庭などである。下町情緒よりも田舎の人情よりも、物質的に充足した生活こそ豊かさそのものだと考えられていた。そして、猛烈に働けばその分だけ豊かになるし、学歴社会だ受験戦争だと言われながらも努力や犠牲は豊かさに直結していると言われていた。日本人はそれを信じて働き続け、たとえミニチェアモデルのようなものであれ米国型の物質的豊かさは手に入れることができた。しかし、バブル崩壊後、それで一体なにが残ったのかという虚しさに日本人はとらわれはじめた。そして登場したイギリス・ブームでは、金では買えないステータスとか、金満ではないけれどゆとりのある暮らしぶりだとか、耳に心地よい言葉が並べられた。これからはあくせく働かず、無用な向上心は持たず、自分の分というものをわきまえた暮らし方をしたらどうですか、ということだった。21世紀の日本が志向しているのは、所得格差の大きな米国型競争社会になることではなく、教育環境の格差が拡大することを通じて、英国型階級社会の悪しき模徴とも言うべきネオ階級社会を実現させることである、というのが著者の考えである。日本における教育環境の現状を見ていると、明らかにひとつの方向性をもって動かされているようである。次世代の日本人を、経済のグローバル化に対応できるエリート、専門分野に特化したスペシャリスト、低賃金で雇える労働者というように階層化していく方向に進んでいるのではないだろうか。経済構造が大きく変わった結果、経済成長を支えるために大量の企業戦士を必要とする時代は、もはや終わった。この先、景気が好転したとしても、雇用が劇的に改善されるということは、もはや期待できない。不況・リストラの中で、一度失業の憂き目を見た中高年は、再就職するのが難しい、という話は、いやになるほど聞く。年齢の壁、ということがよく言われるわけだが、本当のところは、ホワイトカラーの正社員に固執さえしなければ、求人はそこそこあるのだという。タクシー運転手、警備員、深夜営業の店員などである。こうした職種は、歩合制、契約社員、アルバイトなどといった形態で、企業の側からすればいつでも切り捨てることができる不安定な雇用形態が圧倒的に多い。リストラという形で企業社会からはじき出された中高年フリーターが増えているのが現状で、たとえ景気が回復しても、この傾向は簡単には改まらないだろう。中高年のみならず、若い人たちでも、一度企業社会の枠からはみ出てしまうと、もはや正社員になる道は閉ざされたも同然、という世の中になりかねない。正社員になりたくともなれないままなし崩し的にフリーターを続けて、30代、40代になり、年齢を重ねるほど、ますます就職が困難という人が増えている。その生活レベルでは、子供の教育に十分に投資することはできない。親の方は、積極的に就職する努力をしなかったのであれば自己責任だが、そういう親を持った子供は社会の上層に進出する機会をあらかじめ奪われるということになりかねない。貧富の差は、もちろん少ないにこしたことはないが、懸命に働く動機づけという意味では、成果を挙げた者ほど大いなる報酬を得るということは、あってよいのではないか。所得格差それ自体について言うなら、才能や運の問題はあるにせよ、究極的には本人次第なわけで、競争がフェアに行われる限り、結果の不平等は甘受せねばならないと、言う。これに対して英国型階級社会では、人間には持って生まれた分というものがあるといった考え方が根底にあり、親の職業や収入が子供の人生をほぼ決定づけてしまう。そもそも機会の平等が奪われているので、本人の努力や向上心に期待できる部分はごくごく限られている。努力する甲斐がない社会にあっては、努力に価値を見出す人がそれほど大勢育つわけがない。まず機会は平等で、あとは能力と努力によって、結果に差が出る。これが、社会を発展させてきた能力主義の正しい定義であり、同時に、近代社会にあってはもっとも大切な理念のひとつでもある。

第1章 あなたが知らない階級社会
第2章 総中流からネオ階級社会へ
第3章 格差の個人史
第4章 つぶさに見た階級社会
第5章 あえて階級社会を擁護する
第6章 ネオ階級社会へと向かう日本
第7章 ネオ階級社会は「日本病」への道

17.11月27日

 ”人物叢書 一遍”(1983年2月 吉川弘文館刊 大橋 俊雄著)は、鎌倉中期の僧で時宗の開祖、一遍の生涯を詳細に紹介している。

 一遍、円照大師は、法名、智真で、遊行上人、捨聖とも呼ばれる。浄土系の時宗の開祖で、1239年に伊予国の道後で生まれ、のち延暦寺に入り、太宰府で法然の孫弟子聖達に浄土教を学び、のち熊野に参籠、霊験により一遍と号し、他力念仏を唱えた。衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め、全国を遊行した。当時は、平治の乱、源平の合戦、承久の乱と戦が続き、また、天変地異や飢饉なども重なって、まさにこの世の末、死が巷に溢れていた時代であった。それまで皇族や貴族などを中心に広まっていた仏教を、真に人々救済の為に生かそうとした宗教家達の一人である。法然、栄西、道元、親鸞、日蓮、一遍と、蒼々たる鎌倉新仏教の開祖達が連なっている。大橋俊雄氏は、1925年愛知県一宮市生まれ、仏教史学者、歴史学者で、1948年大正大学仏教学部仏教学科卒、真宗大谷派の門徒の家に生まれたが、浄土宗にて得度・受戒し、横浜市戸塚区の西林寺に入り住持を務め、横浜市立高等学校や時宗の宗門校藤嶺学園藤沢高等学校教諭、大正大学非常勤講師、日本文化研究所講師などを務め、立正大学より時宗の研究で文学博士号を受け、晩年は浄土宗本山蓮華寺貫主となり、2001年死去した。一遍は、伊予国の豪族、別府通広の第2子として生まれ、幼名は松寿丸と言った。10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁、1251年に13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で、法名、智真として10年以上にわたり浄土宗西山義を学んだ。1263年に25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、1271年に32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行した。1274年には四天王寺、高野山など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始めた。熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受け、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定往生/六十万人」と追加した。のちに神勅相承として、時宗開宗のときとされる。1276年に九州各地を念仏勧進し、他阿らに会い、彼らを時衆として引き連れ、1279年に信濃国で尊敬してやまない市聖空也に倣い踊り念仏を始めた。1280年に陸奥国江刺郡稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡り、1282年に鎌倉入りを図るも拒絶され、1284年に上洛し四条京極の釈迦堂入りし、都の各地で踊り念仏を行なった。1289年に死地を求めて教信の墓のある播磨印南野の教信寺を再訪する途中、享年51歳で摂津兵庫津の観音堂で没した。

 生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

18.12月4日

 ”アジアの知略”(2000年7月 光文社刊 李登輝/中嶋嶺雄著)は、アジアを包括的に見た際の日本の取るべき政策などテーマごとに二人の著者が掛け合いで論じ合っている。

 各章ごとに執筆者が交代しリレー形式となっており、李登輝氏が日本のとるべき姿勢について提言し、中嶋嶺雄氏がそれに賛成して事例で裏付けている。李登輝氏は、1923年生まれの中華民国の政治家・農業経済学者で、コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。1943年に台北高等学校を卒業し、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学し農業経済学を学んだ。元中華民国総統で、1988年から2000年まで政権の中枢にあった。かつての日本統治時代には岩里政男という名前を使用していた。蒋経国の死後、後継者として中国の歴史上初めて民主的な手続きを経てトップとなった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化・本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた反攻大陸のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという中華民国在台湾を主張、その後台湾中華民国と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態を一方的に終結宣言し、動員戡乱時条款を廃止させ、政治の民主化を推進した。経済発展についても大きな成果を上げた。中嶋嶺雄氏は、1936年長野県生まれの政治学者で、専門は現代中国政治である。東京外国語大学名誉教授・元学長、国際教養大学理事長・学長。東京外国語大学外国語学部中国科を経て、東京大学大学院社会学研究科国際関係論修士・博士課程修了。中華人民共和国時代の中国についての先駆的な研究者として知られる。1980年に社会学博士の学位を取得した。李登輝氏は、いまの日本人が失ってしまった知性を備えた人である。若いころ新渡戸稲造の講義録を読んだことを、いまでも一生涯、誇りに思っている。私の人生に必要なものを本当に教えてくれた。日本にも台湾にも、未だ多くの問題が残されている。しかし、新しい時代に向かうにあたって、もう少し新渡戸稲造の時代の考え方をもって、新しい出発をするべきだろう。日本人はもっと自信を持ちなさい、と言う。

第1部 中国・アメリカとどう付き合うか
第2部 台湾と日本、アジアの未来
第3部 台湾経験の知恵

19.12月11日

 格安航空

 12月9日にマレーシアを拠点としているアジア最大の格安航空会社エアアジア傘下のエアアジアXは、羽田空港とクアラルンプール国際空港を結ぶ新規路線を週3往復運航させた。就航を記念して一部の座席を片道5,000円で販売した。通常料金は予約の時期などによって異なるが、14,000円~68,000円で、座席が180度まで倒せるプレミアムシートは48,000円~90,000円を想定している。格安航空会社は、低い運航費用で低価格かつサービスを簡素化した航空輸送サービスを提供する航空会社である。かつて大手航空会社はIATA=International Air Transport Associationカルテルによって割高な国際線の運賃体系と無競争状態が守られてきたが、1977年にレイカー航空が、既存の大手航空会社の割引運賃を大幅に下回る格安な運賃でロンドンーニューヨーク線などの大西洋横断路線に参入した。このころアメリカでも、ピープル・エキスプレス航空やエア・フロリダが、格安航空会社のはしりとして脚光を浴びた。しかしいずれも、既存の大手航空会社やIATAの意を汲んだイギリス、アメリカ両国政府の強い圧力や航空事故などを受け倒産した。1980年代に入ると、ヨーロッパやアメリカ、日本などの多くの先進国においても、キャセイパシフィック航空や大韓航空、シンガポール航空などのIATA非加盟で、既存の航空会社の割引運賃を大きく超える格安な運賃を売り物にした航空会社の勢力が増した。そして、IATA加盟、非加盟双方の航空会社間での価格競争が進んだ結果、1980年代半ばにはIATAに加盟している既存の大手航空会社においてもカルテル運賃システムがなし崩し的に崩壊した。その後、格安航空会社の運賃に対応できなくなった既存の大手航空会社の乗客の多くがこれらの格安航空会社に流れ、価格競争の激化によって既存の大手航空会社のシェア及び経営状況は急激に悪化した。そして、デルタ航空やユナイテッド航空、タイ国際航空やシンガポール航空、スカンジナビア航空やルフトハンザ・ドイツ航空などの既存の大手航空会社が、これらの格安航空会社のビジネスモデルを部分的に取り入れた子会社の格安航空会社を相次いで設立した。今日では、航空ビジネスにおいて格安航空会社の存在は重要かつ無視のできないものとなっているだけでなく、航空業界の勢力図を塗り替えるほどの大きな影響を与えている。格安航空は、単一機種または派生型を一括購入して機材購入コストを抑え、単一機種または派生型の運航によってパイロットの操縦資格や整備の共通化を図り、飛行訓練に対するコストを削減するためにすでに乗務資格を取得している運航乗務員だけを中途採用し、メンテナンスコストや乗員訓練コストを抑えている。使用料が高いボーディングブリッジを使わず、整備設備を自社で持たず整備を他社に委託し、大都市周辺の混雑していない地方の中小空港に乗り入れ、多頻度運航、短い折り返し時間、定時性を実現し、航空機を有効活用する。また、これまで大手航空会社では利用されてこなかった第2次空港に乗り入れることで、空港管理者から空港使用料の割引や補助金を得ている。さらに、座席クラスをエコノミークラスに統一し、座席指定を廃止し、座席の前後間のスペースを詰め、いろいろな無償サービスを省略し、機内食や飲料の簡略化・省略・有料販売化している。2007年からこれまでに、ジェットスター航空が関西国際空港と中部国際空港へ定期便を就航、フィリピンのセブ・パシフィック航空が関西国際空港へ週3便で就航、ジェットスター航空が成田国際空港へ就航、韓国の済州航空が関西国際空港と北九州空港に定期便を就航、韓国のエアプサンが福岡空港と関西国際空港に就航、シンガポールのジェットスター・アジア航空が関西国際空港へ定期便を就航、マカオのビバ・マカオが成田国際空港へ定期チャーター便を就航、中国の春秋航空が上海から茨城空港へ定期チャーター便を就航と続いてきた。エアアジアXは今後、羽田のほか、数年内に、札幌や中部、関空、福岡などへの就航も計画しているという。日本航空の倒産と再建劇を見て、時代の大きな変化を感じる。

20.12月18日

 ウィキリークス

 匿名で政府、企業、宗教などに関する機密情報を公開するウィキリークスの登場は衝撃的であった。2006年に準備が開始され、それから一年以内に120万を超える機密文書をデータベース化している。2009年に多国籍海運企業トラフィギュラがコートジボワールで有毒廃棄物を不法投棄したことを示す内部資料を公表したことで、国際的に一躍有名になった。このほか、キューバ・グアンタナモ湾の収容施設の運営手順や、地球温暖化問題で世界有数の研究機関であるイギリス・イースト・アングリア大学の気候研究ユニットの研究者たちのデータの改ざんを臭わせる電子メールなどを公表してきた。編集に携わるフルタイムのボランティアは10人弱で、ほかに暗号化、プログラミング、ニュース記事編集などに精通した800~1000人が協力体制にある、という。世界中の匿名の内部告発者から情報提供を受け、サイト運営用のサーバーは情報保護法制の整ったスウェーデンやベルギーなどに置かれている。創始者はオーストラリア人のジュリアン・アサンジという人物で、元ハッカーでコンピューター・プログラマーである。優れたジャーナリズムは本質的に物議を醸すものだ、という。投稿者の匿名性を維持し、機密情報から投稿者が特定されないようにする努力がなされている。2010年7月26日に、アフガニスタンにおける軍事作戦に関する米国防総省の機密文書約9万2000点をウェブ上で公表した。権力者の横暴と戦うことこそ優れたジャーナリズムの役目であり、権力というものは挑戦されると決まって反発するもので、物議を醸している以上情報公開は良いことなのだ、という。アメリカ合衆国政府は、ウィキリークスの情報公開は国家の安全保障を脅かし人命を危険にさらす上、偏った見方をしている可能性もあると繰り返し批判している。ウィキリークスは、中国政府の反対者と、台湾、欧米、オーストラリア、南アフリカのジャーナリスト、数学者、ベンチャー企業の技術者によって運営されている。主目的は、アジア、旧ソビエト連邦、アフリカのサハラ砂漠以南、そして中東の圧制を強いている政権を白日のもとに晒すことであり、また世界の全ての地域で政府や企業によって行われている非倫理的な行為を暴露したいと考えている人たちを支援していきたい、と主張している。ウィキリークスにリークされた公開の準備を進めている文書の数は120万以上であると言われている。ウィキペディアに似た、検閲されないサイトになることを目指していて、偽造文書や、ポルノ、スパムで溢れてしまうことを防ぐためにチェック機構が設けられている。全ての閲覧者は全ての文書に対して分析し、文書が本物であるか判断し、コメントをつけることができる。これまで、ウィキリークスの外では内部告発者やジャーナリストが逮捕されたり、刑務所に収容されるということが起きていた。ウィキリークスは、このようなことが起きないと保証できるようになることを目指している。告発者はインターネットに詳しくなくても匿名のまま投稿することができ、その後誰かによって正体が暴かれることはない。公の場でリーク文書について意見を交わし合うことで信頼性、信憑性を判断することができる。リークされた文書に対して各ユーザーが持っている見解やリークされるに至った状況などを議論し合い、集合知から生み出された結論を公表することができる。背景情報や経緯を織り込みつつリークされた機密文書に関する補説的な記事を読んだり書いたりすることもできる。最終的には、幾千もの人々の目に触れることでその文書は政治的にどのような意味を持つのか、偽物などではなく正真正銘なのかということが明らかにされる。現在、中国政府はWikiLeaksをURLに含んでいるあらゆるウェブサイトを検閲しようとしていて、主要な.orgサイト、地域別の www.freewikileaks.comや.ukが含まれているが、WikiLeaksという名称の代わりに、secure.ljsf.orgやsecure.sunshinepress.orgといった多数ある別名のどれかを使うことで、ウィキリークスは、アクセス可能である。代用されるサイトは、頻繁に変わってしまうので、最新の別称を調べるためは、中国大陸以外の場所で、WikiLeaksの別名で検索するように、ウィキリークスはユーザーに推奨している。現在のところ、オーストラリアはWikiLeaks、Wikipediaの一部を閉鎖し、タイ王国情報技術・通信省はWikiLeaksへのアクセス規制を開始するなど、政府の反発が盛んである。ウィキリークスの存在意義はあると思われるので、ここしばらくはその動向から目が離せない。

21.12月25日

 ”人物叢書 源信”(1983年12月 吉川弘文館刊 速水 たすく著)は、恵心僧都と尊称される源信の生涯を詳細に紹介している。

 源信は平安時代中期の天台宗の僧で、浄土真宗では七高僧の第六祖、源信和尚とされ、源信大師と尊称される。源信の教学を恵心流と言い、覚超・良暹・明豪等の優れた門下生を有していた。源信の浄土信仰の影響は法然・親鸞にも受け継がれている。親鸞は龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然を七高僧としている。速水たすくさんは1922年生まれ、1959年北海道大学卒業、1964年同大学院で学び、東海大学教授を務めた。源信は、942年に大和国北葛城郡当麻に生まれ、幼名は千菊丸、父は卜部正親、母は清原氏であった。伝えによれば、7歳で父と死別、その遺命により出家し、9歳のとき比叡山に登り慈慧大師良源に師事して止観業、遮那業を学び、13歳のとき得度受戒したという。15歳のとき『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれた。横川恵心院にあって修行と著述に従事したので、横川僧都、恵心僧都とも称された。978年に『因明論疏四相違略註釈』を著し、学僧として出発した。984年に良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入り、985年に主著『往生要集』を著した。この年に良源は示寂した。多くの経典のほかに、インド、中国、日本の諸師の論疏を引用して、人間は穢土を厭離し極楽に往生することにより初めて仏陀の悟りに分け入ることができると述べ、往生の業は念仏をもって本となすと説いた。986年に『二十五三昧式』を著し、これが念仏三昧を勤修する三昧会の結衆の指針となった。990年から995まで、霊山院を造営し、華台院に丈六弥陀三尊を安置し、迎講を始めた。1004年に藤原道長が帰依し権少僧都となったが、翌年にわずか1年で権少僧都の位を辞退した。1005年に大乗仏教概論ともいうべき『大乗対倶舎抄』を完成させ、1006年に一切衆生の成仏を説く『一乗要決』をまとめた。1007年に撰述した『観心略要集』は、理観の念仏を強調した書として往生要集と並び称されている。1014年に『阿弥陀経略記』を著し、生涯を学問と修行に終始して、1017年に76歳で示寂した。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。

22.平成23年1月8日

 ”人物叢書 法然”(1988年12月 吉川弘文館刊 田村 圓澄著)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の浄土宗の開祖である法然の生涯を詳しく紹介している。

 法然は房号で、諱は源空、幼名は勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人、謚号は、彗光菩薩、華頂尊者、通明国師、天下上人無極道心者、光照大士である。大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加謚され、2011年現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師である。『選択本願念仏集』を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称され、浄土宗では、善導を高祖し法然を元祖としている。田村圓澄氏は、1917年奈良県橿原市生まれの日本史学者、仏教史学者で、1941年九州帝国大学国史学科卒業、同副手、1942年土浦海軍航空隊教授嘱託、海軍少尉に任官し、1946年塚本善隆の女婿となり、京都の妙泉寺住職となり、堀川中学校に勤務、京都大学大学院に入学し、1950年仏教文化研究所が設立され参加、1957年九州大学助教授となり、1966-1967年にはカリフォルニア大学バークレー校へ研究滞在、1968年法然上人伝の研究で文学博士(九州大学)、同年教授となり、1980年に定年退官し名誉教授、熊本大学教授となり、1982年定年退官し、九州歴史資料館長となった。浄土宗研究をはじめ、古代仏教史で朝鮮半島との関係研究などに移行しつつ、東アジア仏教史研究を行っている。浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人、源空上人と称し、元祖と位置付けている。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を本師源空や源空聖人と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。1133年に父漆間時国、母秦氏、美作国久米南条稲岡庄に生まれた。1141年に父漆間時国明石定明の夜襲により没したため、9歳で出家した。1145年に13歳で比叡山に登り、1147年に15歳で西塔北谷の持宝房源光について受学し戒壇院で戒をさずかり出家した。1150年に18歳で西塔黒谷の慈眼房叡空に師事し、持宝房源光の源と慈眼房叡空の空をとって、法然房源空と改名した。1175年に43歳で阿弥陀仏の本願を真意感得して浄土宗を開いた。1186年に54歳の時の南都北嶺の僧達と洛北大原勝林院にて問答した大原談義が知られている。1198年に66歳で『選択本願念仏集』1巻著わした。1207年に四国に配流され、1211年に京都に召還されたが、1212年に一枚起請文著わし、1月25日に享年80、満78歳で没した。法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・親鸞・長西・幸西・道弁・証空・蓮生・湛空らがいる。また、俗人の帰依者・庇護者としては、九条(藤原)兼実・宇都宮頼綱らが著名である。

23.1月15日

 ”質素なドイツ人のゆとりある生活”(2002年2月 祥伝社刊 大槻 彰子著)は、23年ぶりの留学生活で感じたドイツ人の暮らし全般に流れるゆとりについて触れている。

 大槻彰子氏は、1954年神奈川県生まれ、横浜国立大学教育学部音楽科卒業、在学中にベルリン教育大学に留学した。ベルリン教育大学は1980年に解消し、いくつかの学部がベルリン工科大学に吸収されている。その後、小中学校の教師をしたあと、横浜国立大学大学院教育学研究科に進み、終了後、1984年から神奈川県の県立高校で音楽教師を務めている。1999年より学術研究休暇を取って、ハンブルグのコンセルヴァトワールに留学した。ヨーロッパの音楽系教育機関は、フランスのパリ国立高等音楽院=コンセルヴァトワールをモデルとして近代に創立・発展したものが多い。専攻は声楽で、主にドイツリートを学んだ。リートはクラシック音楽における独唱声楽曲または小人数の重唱声楽曲で、歌曲とも言われる。19年勤めたところでいったん仕事を休み、ブラームスの故郷ハンブルグでドイツリートの勉強をしていた。二度目のドイツ留学で、一度目は、学生時代の1976年に文部省からの奨学金で1年間音楽教育学を勉強するチャンスに恵まれた。その頃まだ若かったため、ドイツで見るもの聞くものすべてが新しく、毎日何かしらの発見があったそうである。1年は瞬く間に過ぎてしまったが、それまでそんなに充実した日々はなかった。大学を卒業して教壇に立ちながら、またドイツで勉強できれば、今度はじっくりと腰を据えて音楽の勉強をしたいという想いがあった。そして、23年経って夢が現実となった。1999年に、ドイツが一番美しい季節に、二度目の留学生活が始まった。ハンブルグ空港では、親友が二人の子供とともに出迎えてくれた。ペルリンの大学で知り合って以来の親友で、現在、結婚して一男一女の母となり、国語の教師として教壇に立っている。その親友がハンブルグでの受け入れ先を探してくれた。そしてハンブルグでの生活に慣れるまでの二週間、親友の家に滞在した。ペルリンでの人々との出会いは、その後も人生の一番の財産となっている。緑あふれる街並み、ゆったりとした生活リズム、国民全体がしっかり取る長期休暇、入試がなくのびのび遊びまわる子供たち。あらためてドイツを見ると、学生時代には気づかなかったものが見えてくる。様々な問題を抱える日本の教育現場から外へ出て、ドイツ社会の中で深呼吸した時、目に入ったものとは何か、ドイツの人々との語り合い、街で出会った出来事などを通して、考えさせられたことと、教師としての今までの自分を反省させられたものなどに触れている。

プロローグ 23年ぶりのドイツ
1章 ホツと息が吐ける街・ハンブルグで
2章 自らの責任において
3章 長期休暇とドイツ人
4章 音楽院の一学生に戻って
5章 厳しく温かい子育ての現場で
6章 子供の個性を育むために
7章 ハンブルグの学校と子供たち
エピローグ参列者13人のお葬式

24.1月22日

 ”日本は国境を守れるか”(2002年7月 青春出版社刊 小川 和久著)は、海洋国家・日本が直面する脅威と国境警備隊としての海上保安庁について日本の危機管理へ提言している。

 日本の主な国境問題は、北方領土、北千島、南樺太、竹島、尖閣諸島など、いろいろ存在している。尖閣諸島については、日本政府は尖閣諸島に領有権問題は存在しないとの立場であるが、中華人民共和国、中華民国が領有権を主張している。これに絡んで、実際には、不審船、密航、麻薬、海賊などが日常的に頻繁に存在している。日本を取り巻く海は様々な脅威にさらされているが、海を国境とする日本はこの危機に立ち向かうことができるのであろうか。小川和久氏は、1945年熊本県生まれ、陸上自衛隊生徒7期・陸上自衛隊航空学校修了、神奈川県立湘南高等学校通信制で併学、同志社大学神学部中退、日本海新聞、週刊現代記者を経て、1984年に日本初の軍事アナリストとして独立し、現在、特定非営利活動法人・国際変動研究所理事長、これまでに、内閣官房危機管理研究会主査、総務省消防庁常備消防制度検討委員、内閣府沖縄振興開発審議会専門委員などを務め、政府や政党に危機管理や防災への提言を行っている。いまの日本の国境警備の有り方はお粗末で、世界の沿岸警備隊などと比較すると、アメリカに次ぐ世界第2位の組織でありながら、法整備の不備、自衛隊との不和・連携のまずさ、海上保安庁の武器に対する認識の低さ、などからその力を活かしきれていないと言う。海上保安庁が不審船に対して、自衛隊と連携で、強い態度に出たのは、1999年3月に起きた能登半島沖の北朝鮮の不審船の追跡事件が最初で、威嚇射撃を行った。その数年後、2001年12月の奄美諸島沖の不審船追跡劇と船の自爆の事件もあった。2001年の海上犯罪は5604件で、海事関係法令違反2241件(約40%)、刑法犯1363件(約24%)、漁業関係法令違反1065件(約19%)、海上関係法令違反573件(約10%)、出入国関係法令違反276件(約5%)、薬物・銃器関係法令違反14件(約0.3%)、その他の法令違反72件(約1.7%)となっている。密航者で一番多いのが中国人で、2番目がイラン人となっている。インドネシア方面で時々海賊事件があり、日本の船も時々被害を受けている。海上保安庁には5つの使命があり、治安維持、海上交通の安全確保、海難の救助、海上防災・海洋環境保全、国内外機関との連携・協力となっている。海上保安庁はアメリカのコースト・ガードをモデルに作られ、下手に戦争などにエスカレートさせないための安全装置として機能し、国境侵犯などを軍隊が出て解決を図るよりもクッションとなる部分がある。海洋国家日本が直面する脅威に対処するには、法制の整備、海上保安庁の装備の改革などが必要であり、自衛隊と比べグローバルに活動できる海上保安庁を国境警備隊として活動させ、日本の国際的信用を高めながら国境警備を充実させることを提案している。

第1章 海洋国家・日本の「国境線」
第2章 国同士の利害が衝突する「最前線」
第3章 不審船が突きつけた海洋警備の問題点
第4章 なぜ、1つの海を2つの組織が守るのか
第5章 「国境警備隊」を目指す海上保安庁
第6章 国境を守るために

25.1月29日

 ”人物叢書 良源”(1987年11月 吉川弘文館刊 平林 盛得著)は、平安中期の天台宗の僧で比叡山中興の祖としてその繁栄をもたらした良源の生涯を詳しく紹介している。

良源は912年生まれ、近江国浅井郡虎姫に地元の豪族、木津氏の子として生まれ、幼名は観音丸または日吉丸と言い、諡号は慈恵大師であり、一般には通称の元三大師の名で知られる。平林盛得氏は、1934年東京生まれ、1956年東京教育大学文学部日本史科卒業し、宮内庁書陵部の図書調査官を勤めた。良源は12歳のとき比叡山に上り仏門に入ったといわれる。比叡山西塔理仙の弟子となり、928年座主尊意から受戒した。938年に興福寺維摩会の番論議で名声をあげて藤原忠平に認められ、忠平没後はその子師輔、さらに兼家の政治的、経済的後援を得ていった。楞厳三昧院をはじめ、堂塔の整備と藤原氏など権門の寄進した荘園などによる経済的基盤の確立を行った。最澄の直系の弟子ではなく身分も高くはなかったが、963年の清涼殿での宗論でも名声をあげ、異例の昇進で966年に第18代天台座主になった。延暦寺は935年の大規模火災で根本中堂を初め多くの堂塔を失い荒廃していて、966年にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚である藤原師輔の後援を得て焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った。970年に寺内の規律を定めた二十六ヶ条起請を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。981年には史上第2番目の大僧正になった。984年暮れに横川から坂本弘法寺に下り、翌年没した。母方は物部氏で、母への孝行は有名で出家後は比叡山に登れない老母のために苗鹿に山荘を作って尽くしたと言う。弟子の性空や増賀は良源を批判して師のもとを去ったが、源信、覚運、覚超、尋禅は四哲とされた。比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持などの様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。朝廷から贈られた正式の諡号は慈恵大師であるが、命日が正月の3日であることから、元三大師の通称で親しまれている。比叡山横川にあった良源の住房、定心房跡に四季講堂が建ち良源像を祀ることから、元三大師堂とも呼ばれている。良源には、角大師、豆大師、厄除け大師など様々な別称があり、広い信仰を集めており、全国の社寺に見られるおみくじの創始者は良源だと言われている。

26.平成23年2月5日

 ”イスタンブール・トルコで暮らす”(1999年3月 中央経済社刊 松谷浩尚/松谷 稔著)は、輝かしい栄光の歴史をもち伝統的に世界でも有数の親日国であるトルコの歴史・風俗から快適生活のアドバイスまでの実践的情報を紹介している。

  イスタンブールは、トルコ共和国西部に位置する都市で、古代にはビュザンティオン、コンスタンティノポリスと呼ばれた。ボスポラス海峡をはさんでアジア側とヨーロッパ側の両方に拡がって、2大陸にまたがる大都市である。イスタンブール県の県都で、首都アンカラを上回る都市で、文化・経済の中心となっている。人口は約880万人で、イスタンブール県全体では1000万人を越える。その歴史は長く、かつてのローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国の首都が置かれていた。正式名称がイスタンブールに改められ、国際的にもコンスタンティノープルではなくイスタンブールと呼ばれるようになるのは、トルコ革命後の1930年のことである。松谷浩尚氏は、1944年三重県生まれ、慶応大学卒業後、外務省入省、アンカラ日本大使館、イスタンブール日本総領事館などに勤務。松谷 稔氏は、1973年イスタンブール生まれ、桜美林大学卒業後、時事通信社入社。トルコは共和国で、公用語はトルコ語、首都はアンカラで、最大の都市はイスタンブールである。面積は約78万km?、人口は7481万人で、西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国である。北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシアと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の約99%がイスラム教、宗派はスンナ派が多数である。地理的・歴史的には西アジアに属するが、共和国成立後は西洋化を進めている。初代大統領のケマル・アタテュルクは、11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリムのトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族が対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てた。19世紀に、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地でナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。1923年、アンカラ政権は共和制を宣言、1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。エーゲ海・地中海沿岸地方は温暖でケッペンの気候区分では地中海性気候に属し夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じてトルコで最も降水量が多い場所で深い緑に覆われている。国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候に属し、夏は乾燥していて非常に暑くなるが冬季は積雪も多く気温が零下20度以下になることも珍しくない。東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しい。バルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地で、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、帝国、イスラムなどさまざまな文明が栄えた地で、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っている。

1章 魅惑する歴史の都イスタンブール
2章 トルコ共和国の昨日と今日―重層たる歴史と日本との関係
3章 日常のトルコの人たち
4章 世界3大料理の1つ?―トルコの豊かな食べ物
5章 トルコで暮らす
6章 トルコの生活を楽しむ
7章 トルコを歩く
8章 トルコへの入出国手続きその他

27.2月12日

 ”いっしょに暮らす”(2005年4月 筑摩書房刊 長山 靖生著)は、親子の絆が揺らぎ、結婚しない人が増え、人間関係が苦手な若者も急増中の現在、他者との間にたちはだかる厚くて高い壁を越えるため何が必要なのかを考えさせる内容である。

 いまはとても生き難い時代である。働いて自立する。自分らしく生きる。他人を愛し、分かり合う。人間が人間らしく生きるための、そんな基本が揺らいでいる。人々は幸福をどのように捉え、それを得るためにどんな努力を重ねてきたのか。長山靖生氏は、1962年生まれ、評論家、歯学博士で、鶴見大学歯学部卒業語、歯科医のかたわら、文芸評論、社会時評などを通して、近代日本について考察する仕事を手がけている。恋愛、結婚、親子、友人、これらはいずれも誰にとっても身近な多くの人が経験する人間関係である。しかしそうしたありきたりの関係を獲得し、良好に維持するのはけっこう難しい。時代と共に、ますます難しくなってきた感がある。昔に比べて、今の日本では人間関係が希薄になったといわれている。学校や会社での個人に対する抑圧は少なくなっているかも知れないが、知性と忍耐力があれば場の空気を読み適当に調了を合わせて波風が立たないように過ごすなり、自分の意見は意見として胸中に密かに持して沈黙を守ることは不可能ではないはずである。しかし、親友とか恋人とかのより緊密な関係を求める際にはそうはいかない。当たり障りのない態度や沈黙して不満を押し隠す態度は、そのまま関係不全の結果であるだけでなく原因ともなる。こういう場合、ふつうは本当の自分を正直にさらすのがいいかも知れないが、世の中には正直に自分をさらすのが不得手な人間もいる。現代の若者を見ていると、どうもこの手の不器用な人間が増えているように思われる。そうした不器用な人間たちは、どうしたら他人といっしょ暮らせるのか。根底に横たわるのは愛情や経済だけでなく、もっと具体的な技術なのではないか。気待ちはあっても、コミュニケーションスキルをはじめ、基礎的な生活技術が必要である。人間関係がうっとうしいくらい密だったかつての日本社会では、他人と生活する技術、いっしょに暮らす技術は、成長する過程でわざわざ努力などしなくとも自然に身に付いたのだろう。しかし現代の生涯未婚率の驚異的な増加の背景には、相互に愛情があり経済的にどうにかなっても、いっしょに暮らすことを逡巡させる要素が生まれているように思われてならない。現代では、愛情と経済の問題以上に大きな難問として、他人と心を通わすこと自体の困難、いっしょに暮らす生活それ自体の不可能感が横たわっているのではないか。もしかすると現代の家族が抱えている様々な問題が横たわっているのではないか。現代でも、ふつうに成長すれば異性への関心や自立への意思は生まれるだろう。現代の男女が、過去に比べて出会いのチャンスが少ないとは思えない。むしろ少くなったのは、数十年前にはごく当たり前の常識といわれていた、他人と暮らせるだけの生活技術のようなものなのではあるまいか。これからの日本では、結婚して子供を持つという選択は当たり前のものでもふつうのことでもなくなってしまうかもしれない。それでも人は、ずっとひとりで生きていけるものではない。結婚に付随する煩わしさから逃れた人でも、他人との同居は重要な課題にならざるをえない。社会で家族や恋人を含む他者と自分とのあいだに、どのような亀裂が生じているのか。かつて存在した、あるいは現在も見られる他人と暮らす生活の実態を概観し、われわれに欠けているのは何か、あるいは新しい生活を作っていくためにどうしたらいいのかを、具体的に考えようとしている。

28.2月19日

 ”人物叢書 隠元”(1989年3月 吉川弘文館刊 平久保 章著)は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ臨済正伝32世となった隠元隆琦禅師の生涯を詳しく紹介している。

 隠元は(1592年-1673年)は中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清県の生まれ俗姓は林で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺=古黄檗の住持であった。特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師と言われる。日本からの度重なる招請に応じて、1654年に63歳の時に弟子20人他を伴って来日した。のちに妙心寺住持の龍渓禅師、後水尾法皇、徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、1661年に禅寺を創建した。平久保章氏は、1909年生まれ、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業、元都立戸山高校教諭。隠元は、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれ、俗名は林曽炳と言い、10歳で仏教に発心したが、出家修道は母に許されなかった。21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。23歳の時に普陀山の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら一年ほど茶頭として奉仕した。29歳で生地である福清の古刹で黄檗希運も住んだ黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。33歳の時に金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して随行した。35歳で大悟した。38歳の時に密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り45歳で費隠に嗣法した。その後萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、1637年に晋山した。その後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中で1646年に再度晋山した。江戸初期に長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が隠元を日本に招請があった。当初は隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死してしまう。やむなく3年間の約束でこれに応じて、1654年に隠元自ら良静・良?・独痴・ 大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら20人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗った。長崎来港は7月5日夜で、月洲筆の普照国師来朝之図にこのときの模様が残されている。興福寺、福済寺、崇福寺の唐三か寺は、幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑の檀那寺で、隠元はただちに興福寺、ついで崇福寺に住んだ。隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。1655年に妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により摂津嶋上の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。隠元の渡日は当初3年間の約束で、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、1658年に将軍徳川家綱との会見に成功した。1660年に山城国宇治郡大和田に寺地を賜り翌年に新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。1663年に完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対して日本で初めての授戒である黄檗三壇戒会を厳修した。以後、中国福清の黄檗山萬福寺は古黄檗と呼ばれる。隠元には後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、1664年に後席は弟子の木庵に移譲し松隠堂に退いた。松隠堂に退隠後の82歳になった1673年の正月に死を予知して身辺を整理し始め、3月になり体調がますます衰え、4月2日には後水尾法皇から大光普照国師号が特諡された。翌3日に遺偈を認めて82歳で示寂した。隠元は念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風をもたらし、万福寺は、行事、建築、明代の仏師笵道生の仏像など万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。隠元の書は幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録である詩偈集はその精力的な活動を伝えている。

29.2月26日

 ”ビザンツ帝国史”(2003年12月 白水社刊 ポール・ルルメル著/西村六郎訳)は、ビザンチオン、今のイスタンブールを首都とした帝国が東のローマとして誕生してから陥落するまでを概説している。

 東ローマ帝国はビザンティン帝国、ビザンツ帝国とも呼ばれ、330年に誕生し1453年に陥落した。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。カール大帝の戴冠による西ローマ帝国復活以降は、西欧ではギリアの帝国、コンスタンティノープルの帝国と呼ばれた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し476年に滅亡したとされるが、東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ政府が唯一のローマ帝国の正系となった。アナスタシウス1世の下で力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス1世の時代には、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。ユスティニアヌス1世の没後はサーサーン朝ペルシアとの抗争やアヴァール・スラヴ人・ランゴバルド人などの侵入に悩まされた。7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるに至った。混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオスは、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの戦いに勝利して、領土を奪回することに成功した。しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けて、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。655年にアナトリア南岸のリュキア沖の海戦で敗れた後は東地中海の制海権も失い、674年から678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされた。717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年に首都コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退した。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活した。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。1071年にはマラズギルトの戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入した。同じ頃、西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小した。1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノスは婚姻政策で帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。ヨハネス2世コムネノスはこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回し、東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。息子マヌエル1世コムネノスはイタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れたが、度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノスは強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、イサキオス2世アンゲロスの時代に皇帝権力は弱体化し、ブルガリア・セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国し、東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国、ラスカリス朝だった。3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの死後、摂政、ついで共同皇帝として実権を握ったミカエル8世パレオロゴスは、1261年、コンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝を開いた。しかし、かつての大帝国は甦らなかった。皇族同士の帝位争いが頻発し、西から十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小した。14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴスはオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。1453年4月にオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲し、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落した。皇帝コンスタンティノス11世は自ら戦闘に加わった後行方不明となり、戦死したものと思われる。これによって古代以来続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した。

30.平成23年3月5日

 ”じゃがたらお春の消息”(2001年7月 勉誠堂出版刊 白石 広子著)は、混血児ゆえ13歳で追放され流行歌にも歌われたお春の人生を探っている。

 昭和13年にヒットした、作詩、梅木三郎、作曲、佐々木俊一の「長崎物語」では、「赤い花なら曼珠沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降る、濡れて泣いてるじゃがたらお春、未練な出船のあゝ鐘が鳴るララ鐘が鳴る」と歌われた。しかし、お春は決してあわれな女性ではなかった。白石広子氏は、1944年大阪生まれ、2001年に学習院大学日本語日本文学科卒業、児童文学、シナリオの世界に身を置きつつ、二度にわたり8年間ジャカルタに在住した。お春は1625年に長崎でポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリアとの間に生まれた。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。1639年6月に発布された第五次鎖国令により、10月に長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で日本を追われた。追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚した。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍した。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという。ジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれた。1714年に西川如見が著した「長崎夜話草」第一巻によって初めて紹介された。以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価された。明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「じゃがたら姫のじゃがたら文を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べている。発表後間もなく「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。近年では偽作とほぼ結論づけられており、本書では、新出資料や詳細な時代背景考証を駆使し、伝説の検証とともにお春の一生を綴られている。お春は悲劇の女性ではなく、実は強い女性だった。ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されている。富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており、悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。近代の息吹がまだ遠い時代の中で、異国に住んでいたお春たちは男性に従属するだけの生活から一歩踏み出した新しい女性として生きていたようである。このような多くの富と地位を得て生活者として確固たる足跡を刻み痕跡を残した女性が、はたして江戸初期の日本に存在していただろうか。自分の名前を書いた遺言書を残している女性がいただろうか。少なくとも、お春があわれな女性であったとは到底思えない。内容は、実際に現地に滞在した人の時間と情熱を傾倒したものとなっている。

31.3月12日

 ”歩く学問の達人”(2000年8月 晶文社刊 中川 六平著)は、既成の机上の学問を追究するのではなく自分で自分の道を切り拓き歩くことで学ぶことを広げてきた人たちを紹介している。

 お仕着せを嫌い、誇りを持って行動し、新しい学問を着実に獲得してきた16人にスポットをあてている。鶴見良行さんが書いた「歩きながら学問を育てた人たちがいる」という一行を、口のなかでころがして人を選別して紹介している。最初はアルフレイドーウォレスで、イギリスの博物学者でアマゾンやマレー諸島を探検調査した。「かれの歩きぶりは、同時代の白人のなかでもきわだっている。蒐めた標本をロンドンのエージェントを通じて売り、それで暮らしを支えた。つまり自前の旅だった。目的地に着けば、小屋を建てたり借りたりした。そこはまったくの海岸であるよりは、いくらか内陸に入った、水場のある森林だった。」そんな島での生活について、食べ物は村人との物々交換であるがゆえに、行く先々で、その土地の社会との関わりは濃いものになっていく。スポンサーのいない、自前の旅だけに、土地のひとびとの暮らしぶりも、よく見えてくる。そして日本の歩く学問に動いていき、菅江真澄と松浦武四郎をあげて紹介している。菅江真澄は、東北から蝦夷に渡りその一生を行脚にあけくれた。菅江が渡った蝦夷を踏査しはじめての蝦夷地誌を書き上げたのが、松浦武四郎である。学問そのものを論じてはいない。学問を、ただ方向づけられた知識の体系と論じることに意味はない。歩くこと、そのことに楽しみがあり、それが学ぶことである。どこを歩くのかは、自分で見つけなさい。本のなかを歩いてもいい、雑誌という海もある、住んでいる町だって、川だって海だって行くことはできる、島を歩いても、歴史に身をおくことだってできる。そのようにして、強烈な個性、きらめく才能の源泉をさぐり、明かしていく。混沌とした今の時代に一石を投じている。

鶴見良行--歩いてつくったアジア学
山折哲雄--京教学界の異邦人
高良倉吉--行動する琉球史家
藤森照信--建築界の文学者
古文書を返して歩く--網野善彦さんに訊く
長井勝一--『ガロ』学派の育ての親
森まゆみ--地域雑誌からの出発
目黒考二--活字中毒者の雑誌づくり
粕谷一希--保守的自由主義者の編集作法
上野博正--『思想の科学』の同伴者
宮本常一のこと--夫人・アサ子さんに訊く
小沢昭一--放浪芸を探る旅をつづけて
野田知佑--川に暮らす自由人
熊谷博子--体験を活かす映像ジャーナリスト
松下竜一--叙情派作家が描く戦後五十年
大城立裕--沖縄文学の創始者

32.3月19日

 東北関東大震災

 震災に遭われた皆々様 心よりお見舞い申し上げます。皆様の安全と一日も早い復旧、救護の進展をお祈りしております。

 気象庁が命名した地震の名称は2011年東北地方太平洋沖地震であるが、NHKが東北関東大震災、民放は東日本大震災としている。本震の発生は2011年3月11日14時46分(日本標準時)、震央は日本の三陸沖、北緯38度6分12秒、東経142度51分36秒(米国地質調査所発表は、北緯38度19分19秒、東経142度22分8秒)、震源の深さ 24km、規模はM9.0、最大震度7であった。この地震は、断層面が水平に対して10度と浅い傾きを持ち、上面と下面がそれぞれ西北西-東南東方向にすれ違う形で圧縮される、低角逆断層型のずれであり、破壊断層は南北に400キロ、東西に200キロの広範囲で、少なくとも4つの震源領域で3つの地震が連動発生し、断層の滑り量は最大約20メートルに達した。気象庁は当初M7.9と速報したが、後に関東大震災を引き起こした関東地震のM7.9を上回るM8.3に、そしてM8.4に修正され、そのあと日本の観測史上最大規模のM8.8に修正され、さらに、3月13日には外国からの観測データも用いてマグニチュード9.0と修正された。M9.0は、地震の規模としては1923年の関東大震災のM7.9を上回る日本国内観測史上最大で、アメリカ地質調査所の情報によれば1900年以降、世界でも4番目のものとなった。被害を大きくしたのは大津波であった。大津波警報、津波警報、津波注意報のいずれかが発令された範囲は日本の沿岸すべてとなり、津波によって三陸沿岸をはじめとする全国各地で被害が発生した。特に岩手県・宮城県・福島県の3県では海岸沿いの集落や、名取川などの河口周辺から上流に向け数キロメートルにわたる広範囲が水没するなどの甚大な被害が出た。港湾空港技術研究所が三陸海岸で津波の高さは15メートル以上になっていたと推定された。日本以外の国・地域では、アメリカのハワイ州が現地時間3月10日21時31分に津波警報を発令、太平洋津波警報センターはその他、ロシアやニュージーランド、南米のチリなども含む約50の太平洋沿岸の国・地域に津波警報を発令した。地震直後より国際連合とアメリカ、ロシアを初め世界各国が日本に対して支援の用意があると表明し、日本国内外を問わず様々な組織・団体または有志がこの地震に対しての支援を実行している。そして、余震はいまだに続いている。警察庁によると3月19日正午現在、東北など12都道県警が検視などで確認した死者数は7,197人に上り、家族や知人から届け出があり依然行方が分かっていないのは10,905人で、この地震による死者・行方不明者は18,102人に上っている。宮城県気仙沼市ではタンクから流出した重油に引火して大規模な火災が発生し、岩手県山田町や大槌町で津波襲来後に大規模な火災が発生し、千葉県市原市五井南海岸にあるコスモ石油千葉製油所では高圧ガスタンクが落下して下にあったガス管が破裂して爆発炎上した。さらに、福島第一原子力発電所の損傷による放射能漏れなどが発生し、東北地方を中心に甚大な被害をもたらしている。1号機、3号機には水素爆発、2号機には爆発、4号機には爆発と火災が起きている。フランスの核安全局では、1986年の史上最悪とされる旧ソ連のチェルノブイリ原発事故ほどではないものの、1979年のアメリカのスリーマイル島原発事故を上回るとの見方を示し、アメリカのシンクタンクの科学国際安全保障研究所では、国際原子力事象評価尺度のレベル4を超えてレベル6に近く、最も深刻なレベル7に達する可能性もあると指摘している。政府や企業の努力が功を奏して、原発事故が大事に至らないよう祈っている。

33.3月26日

 ”人物叢書 重源”(2004年8月 吉川弘文館刊 中尾 尭著)は、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源の生涯を詳しく紹介している。

 重源は、1121年に生まれ1206年に没した平安末・鎌倉初期の勧進聖である。左馬允紀季重の子で、俗名重定、13歳で醍醐寺で出家し、法名重源、房号俊乗房、のち、みずから南無阿弥陀仏とも名乗った。中尾 堯氏は、1931年広島県三次市生まれ、立正大学大学院文学研究科修士課程修了後、立正大学文学部教授などを歴任し、1974年文学博士(東京教育大学)、日蓮宗勧学職、日本古文書学会顧問。重源が自らの生涯の事跡を記した南無阿弥陀仏作善集によれば、青年期には四国や大峯を修行して歩いたが、のちに下醍醐に栢杜堂を建て上醍醐の一乗院や慈心院塔に結縁するなど、前半生の活動の拠点は醍醐寺にあった。3度宋国に渡り、1180年に平重衡の兵火によって東大寺の大仏殿以下が焼失すると、1181年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて61歳で東大寺勧進職に就いた。東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があったが、周防国の税収を再建費用に当てることが許され、自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼した。自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。幾多の困難を克服して東大寺は再建され、1185年に大仏の開眼供養が行われ、1195年に大仏殿を再建し、1203年に総供養を行った。この功績から、重源は大和尚の称号を贈られ、死後は栄西が東大寺大勧進職を継いだ。重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年に松永久秀によって再び焼き払われ、現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間に再建されたものである。東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、国宝の重源上人坐像が祀られている。東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂が残っている。

34.平成23年4月2日

 ”独立の精神”(2009年2月 筑摩書房刊 前田 英樹著)は、身ひとつで学び生きるという人間本来のあり方か教育論に決定的に欠けた視座を説いている。

 漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができないとか、大学生の基礎学力のなさが言われて久しい。教育に過剰なこの国の若者が学力を欠いているのは驚くべきことではないか。私たちが無教養になったのは、現代の日本人が見失った独学の精神にあるのではないであろうか。前田英樹氏は、1951年大阪生まれ、中央大学大学院文学研究科修了、立教大学現代心理学部教授、専攻はフランス思想、言語論。近頃、子供の数が大きく減り、望めばたいていの人が大学に行けるようになった。それで、世間が大学に対して注文をつける機会が格段に多くなり、教師はのんびり好きな勉強をするというわけにいかなくなってきた。教育内容はいつも大学間で手厳しく比較され、国からは、このカリキュラムを修めると年次ごとにどうなり、最後にどんな仕事に就けるのかをちゃんと説明しろ、と言われるようになった。外からの評価に晒されるということは、なかなかいいことである。世間の注文がうるさくなることに全然不服はないが、これを盾に取って次々と打ち出される政策には困り果てたりしている。実は、ほんとうに大事なことは何ひとつ教えることなどできないのである。学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかなされえないのである。この自覚のないところに教育があるだろうか、学ぶということが成り立つだろうか。学ぶのは自分が学ぶのであり、生まれてから死ぬまで身ひとつで生きる自分が学ぶのである。この身を通さないことは、何ひとつ覚えられない。体を使わない勉強だって、それとまったく同じである。この身がたったひとつであるように、心も気持ちもただひとつのものである。人が本を読み、ものを考えるのは、どんなふうにしてでないとできないか。柴を背負い歩きながら本を読んでいる二官金次郎の像は、いきなりその答えになってしまう。人がそういう学び方をするほかないのは、私たちがどんな具合に生きて死んでいく生き物だからではないか。職人がその手技を身に付けるやり方は、学ぶことすべてにとってきわめて正しいことである。そして、米作りによって生きることが、人の独立のなかできわめて尊いのである。私たちの学びのいちばん深く強い独立は、実のところ農による自給の生活に正しい根を持つのではないであろうか。米を作らないで本を読んだり、街をうろついたりしている人間は、せめて大いに旨い米を食べようではないか。それで足りなくなれば、作る人も増えるだろう。

第1章 身ひとつで学ぶ(金次郎の独立心学校嫌いこそ正しい、ほか)
第2章 身ひとつで生きる(葦のように考えよ、知らざるを知らずと為せ、ほか)
第3章 手技に学ぶ(大工仕事は貴い教える愚かさ、ほか)
第4章 農を讃える(狩猟の悲しみ農の喜び、ほか)

35.4月9日

 ”近代社会を生きる―近現代日本社会の歴史”(2003年12月 吉川弘文館刊 大門正克/天野正子/安田常雄編集)は、明治維新によって出発した日本の近代社会が日常生活をどのように変え人びとはいかなる人生を歩んでいったのかについて人々の歴史的経験の意味を問い、昭和初期までの日本社会の歴史を描いている。

 それぞれの人の経験には必ず時代が反映している。一見してばらばらに見える人びとの経験は、時代の影響を受け時代の共通性を帯びている。本書では、明治維新から1920年代までにわたって、歴史的経験を知るうえで重要と思われる家族、くらし、地城、文化・思潮などの領域が各時代にわたってとりあげられている。大門正克氏は1953年生まれ、横浜国立大学教授、天野正子氏は1938年生まれ、東京女学館大学教授、安田常雄氏は1946年生まれ、国立歴史民族博物館教授。都市と村の暮らし、徴兵される人々、南洋に渡る移民たち。さまざまな人生には時代の共通性が刻まれている。近代社会は近世以来の社会的結合を強力に解体、再編しようとした。そのもとで人びとは、家族、地域、社会のなかで多様な結びつきをつくることによって生存の方途を編み出そうとしてきた。その結びつきはきずなであると同時に、しがらみでもあった。近代社会は新たな序列化と流動化を促し、そこから社会的上昇志向や疎外感からの脱出願望を引き起こすことになった。脱出願望は階層間の上昇にとどまらず、植民地や満州にもおよんだ。さまざまな人生を振り返るとき、思い通りにならずあとには辛酸や悔恨、代償が残った人が多かったように見えるかもしれない。どのような人も時代の転換と無縁ではなく、近代社会の形成と帝国への膨張、戦争の時代、敗戦が人びとに与えた影響は大きかった。また、家族の結びつきも人の一生を左右した大きな要因だった。時代と家族の結びつきが複雑にからまりあい、きずなやしがらみが形成されている。歴史のなかにおける人びとの痕跡は、聞取り、写真、記憶、文字史料のなかなどに残される。さまざまな人生はバラバラに存在しているのではなく、多様な痕跡を通して結びつき、その連鎖が歴史を形づくっているように思われる。

Ⅰ近代社会の誕生
 文明化と国民化 地域にくらす 家/家庭と子ども 軍隊の世界 いのちの近代
Ⅱ帝国日本とデモクラシー
 帝国日本の地域 無産階級の時代 南洋へ渡る移民たち 家庭という生活世界 改造の思潮 さまざまな人生

36.4月16日

 ”人物叢書 日蓮”(1990年12月新装版 吉川弘文館刊 大野 達之助著)は、諸国を遊学して数多くの経典や書物を学び法華経こそが釈尊の真実の教え最高の経典であるとした日蓮の生涯を詳細に紹介している。

 日蓮は1222年の春、安房国小湊に生まれ、比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念を持ち、1253年に政治不安や天災に苦しむ社会を救おうとして鎌倉にやって来た。邪教に惑わされている世間と邪教を許している幕府を強く批判した。大野達之助氏は1909年生まれ、1935年に東京帝国大学文学部卒業、警察大学校教授、駒澤大学教授を歴任して1984年に没した。日蓮は日蓮宗宗祖で、1282年の死後、皇室から、日蓮大菩薩(後光厳天皇1358年)と立正大師(大正天皇1922年)の諡号を追贈された。父は三国大夫、貫名次郎重忠、母は梅菊とされ、幼名は善日麿と伝えられている。1233年に清澄寺の道善に入門、1238年に出家し、是生房蓮長の名を与えられた。1242年に比叡山へ遊学し、1245年に比叡山横川定光院に住んだ。1246年に三井寺へ遊学し、1248年に薬師寺、高野山、仁和寺へ遊学し、1250年に天王寺、東寺へ遊学し、1253年に清澄寺に帰山した。1253年4月28日朝、日の出に向かい南無妙法蓮華経と題目を唱え立教開宗し、正午に清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改め天台宗の尊海より伝法灌頂を受け、1254年に清澄寺を退出して鎌倉に出て弘教を開始した。1257年に鎌倉の大地震を体験し、実相寺で一切経を読誦し思索した。1260年に『立正安国論』を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送った。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされたが難を逃れ、その後ふたたび布教を行った。1261年に幕府によって伊豆国伊東へ流罪となり、1264年に安房国小松原で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失った。1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となった。日蓮は、執権北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。1271年に極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘し、良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけるが免れたが、評定の結果佐渡へ流罪となった。流罪中の3年間に法華曼荼羅を完成させた。1274年に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれ、「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行った。その後、身延の地頭、波木井実長の領地に入山し、身延山を寄進され身延山久遠寺を開山した。1274年に蒙古襲来の文永の役があり、1281年に蒙古軍再襲来の弘安の役があった。1282年に病を得て、波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山し、武蔵国池上宗仲邸へ到着し、池上氏が館の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名した。死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定め、10月13日辰の刻に、池上宗仲邸にて入滅した。

36.4月23日

 ”「原発」革命”(2001年8月 文藝春秋刊 古川 和男著)は、プルトニウムを消滅させる安全優良な炉によるエネルギー論である。

 福島原発事故はまだ片付いておらずまだ多くの時間がかかりそうな模様である。原発の安全性には疑問があるという指摘はずっと以前からあった。日本においては電力需要の3割を原発が担っており、原発を止めるなら必ず代替の発電所が必要で、それは現実的には火力ということになってしまう。地球の温暖化から化石燃料の使用は控えざるをえないが、代替を期待される自然エネルギー技術は余りに未熟である。そして、事実上頼れるのは原発のみであると考えられていた。そこで、今の原発を根本から変え安全な原発は造りえないかという疑問も起こる。日本の原発は軽水炉という形式だが、これに変わるべきものとして、効率性、コスト、安全管理の面から、トリウム核燃料発電が提唱されている。古川和男氏は1927年大分県生まれ、第五高等学校理乙、京都大学理学部卒業、東北大学金属材料研究所助教授、日本原子力研究所主任研究員、東海大学開発技術研究所教授、トリウム熔融塩国際フォーラム代表、熔融塩熱技術協会会長を歴任。それは、アメリカのオークリッジ研究所で成功した長期実験の反応法、トリウムを燃料とするサイクルを主体とした原発である。現状の固体燃料を用いた発電サイクルよりも優れており、危険なプルトニウムは消滅させることが可能であるという。燃料に固体のウランではなく液体のトリウムを使うため、プルトニウムが発生しない。燃料の成型が不要で低コストである。放射性廃棄物の発生量が少なく、炉内を常圧で高温にできる。しかし、利点が多いが全く普及していないのはなぜであろうか。プルトニウムが発生せず核兵器に転用できないため、建設された1960年代では軍事的にメリットが少なかった。また、燃料成型の必要がなくメーカーにとってもメリットが少なかったという。ただし、トリウム熔融塩炉は実現されていないために良く見える面が無いわけではないという人もいる。使い終わった原発を解体するときにいろいろな問題があるという。今の軽水炉原発が安全に運転される限り、わざわざ熔融塩炉を造る必要はない。しかし、今回の大きな原発事故で、熔融塩炉では過酷事故が起こらないという主張も、かき消されてしまいそうである。今後、より冷静で現実的な対応が求められるのではないか。

なぜ今「原発」を見直すのか
第一章 人類とエネルギー
第二章 核エネルギーとは何か
第三章「原発」のどこが間違いか
第四章「安全な原発」となる条件
第五章「原発」革命
第六章「原発」革命
第七章「原発」革命
第八章 核燃料を「増殖」する
第九章「革命的な原発」の全体像
第十章 核兵器完全廃絶への道

37.4月30日

 ”エッセイスト”(1997年11月 中央公論社刊 玉村 豊男著)は、パリ留学からエッセイストになるまでを時代ごとのエピソードで綴った自伝風のエッセイである。

 エッセイストとは、形式にとらわれず個人的観点から物事を論じた散文や意の趣くままに感想・見聞などをまとめた文章を、新聞や雑誌あるいは単行本などに執筆する人である。 玉村豊男氏は、1945年に東京都杉並区で生まれ、都立西高から一浪して東京大学文学部仏文学科に入学し、1971年に東京大学仏文科を卒業した。在学中に、1968年から1970年までパリ大学言語学研究所に2年間留学した。サンケイスカラシップで海外奨学資金を得ての留学であった。当時のパリは五月革命で大学闘争中であったため留学が遊学になり、そこで通訳をしたり料理に親しんだりした。帰国して卒業したときの就職活動にも触れている。日本航空の面接を受けたが時期遅れでうまくいかず、サンケイスカラシップ事務局の人の紹介で、フジテレビに報道職として採用内定となった。でもサラリーマンになるつもりはなかったので、箱根での研修の後人事部に行き、集団での仕事に向かないと言って、内定を取消してもらったという。当時の同期には、今も活躍している、石毛恭子、三上彩子、須田哲夫各氏などがいたという。その後、通訳、翻訳を中心に、添乗員も経験した後、アサヒタウンズの懸賞に当選してから地域情報誌などに寄稿をするようになり、フリーライターの仕事をするようになった。そして、1977年に処女作『パリ 旅の雑学ノート』がダイヤモンド社から刊行された。いかにしてエッセイストになったか、エッセイストとはどんな商売かなどについて、自営文筆業者の内情を公開している。一見、うらやましい印税暮らしであるが、実情は印税だけで暮らすのはとても大変そうである。そこで、エッセイストはエッセイスト以外の肩書きを持つ場合がほとんどである。玉村氏も他に、画家、ヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリー代表、長野県原産地呼称管理委員会会長、「安心、安全、正直」な信州の温泉表示認定委員会委員である。父は日本画家の玉村方久斗氏である。1980年に『料理の四面体』を刊行し、エッセイストとしての地歩を築いた。旅と都市、料理、食文化、など幅広い分野で執筆を続けている。1983年に軽井沢町に転居し、1989年長野県上田市の「原画廊」で初の個展を開催した。1991年に長野県小県郡東部町、現在の東御市に転居し、1994年以後は毎年数回の個展・各地での巡回展を開催している。2003年に東部町の農園内にヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリーを開設し、2005年にフランス農事功労章を受章した。2007年に神奈川県箱根町に「玉村豊男ライフアートミュージアム」を開館した。「元祖フリーライター」の生き方がよく分かる。エッセイストとは、試みの人生を生きる人とのことである。自分の目で見て手で触れて、できることは自分でやるという生き方には、共感できるところが多いと思った。

38.平成23年5月7日

 ”玄奘”(1994年10月 清水書院刊 三友 量順著)は、中国、唐代の仏教学者で大旅行家、大翻訳家として著名な法相宗開創の祖、玄奘の生涯と時代背景を詳しく紹介している。

 玄奘三蔵の名は知らなくても、親しみをこめていう三蔵法師の呼び名は皆が知っている。同様に玄奘訳の般若心経は今日にも親しまれている。玄奘三蔵の生涯は、忘れかけている情熱やロマンを現代に蘇らせる。三友量順氏は、1946年東京都生まれ、東京大学大学院人文科学研究科印度哲学専修課程修了、学術博士(Ph.Dデリー)、初期大乗仏教を専攻し、立正大学仏教学部教授、放送大学講師などを歴任した。玄奘は戒名で、俗名は陳?、尊称に三蔵法師、玄奘三蔵などがある。602年に、父慧の四男末子として誕生、幼にして敏、つねに古典に親しんだ。陳をその氏姓とする河南省の出身である。生年については、600年説など諸説がある。11歳前後で父を失ったのち、すでに出家していた兄長捷につき、洛陽の浄土寺に住んだ。614年に度僧の勅に応じ、人選の大理卿、鄭善果に才を認められて出家し、以後も浄土寺にとどまり、景法師や厳法師より涅槃経、摂大乗論を学ぶ。618年に兄に勧められて洛陽から長安に移り荘厳寺に住んだが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄とともに蜀に向かい成都に至る。622年に具足戒を受けてのち各地に高僧を訪ね、翌年ふたたび長安に戻り、大覚寺に住んで道岳法師より倶舎論を学ぶ。624年に法常と僧弁の摂大乗論の講筵に列し、両師から大いにその将来を嘱望されたが、国内における仏教研究の限界に目覚め、諸種の疑点解明のためインド留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることはできなかったが、627年にひそかに長安を出発し、天山南麓を経由してヒンドゥー・クシ山脈を越えインド北辺から中インドに入り、630年ついにマガダ国のナーランダー僧院に至り、シーラバドラ法師と対面した。以後、法師について瑜伽師地論を中心に学び、635年にいったん師のもとを去り、東インド、南インド、西インドを経由してインド半島一巡の旅を終える。638年ナーランダー僧院に戻り、師と再会し、その後、近辺の諸師について学んだ。640年に東インドのクマーラ王の招聘を受け、彼の王宮に1か月ほど滞在し、中インドのシーラーディーティヤに招かれ、翌641年プラヤーガでの75日の無遮大会に参列したのち帰国の途について、645年(一説に643年)長安に帰った。玄奘三蔵の活躍した時代は、隋末からさらに中国文化の爛熟期ともいうべき唐代にかけてであった。インド的思惟にもとづく空と中国的思惟による有との離隔をつなぐことも、玄奘三蔵の西域求法の目法であった。この時代には、日本と中国とは遣唐使を通じて親密な交流が続いた。これに先立つ遣隋使の時代には、わが国では聖徳太子によって仏教が為政行の政治理念に積極的に活かされた。当時、日本から遣唐使とともに唐に渡り、玄奘三蔵から直接に法相の教理を学んで帰国した僧侶が道昭である。道昭の門下には社会事業に貢献した行基がいる。その後の奈良時代、平安時代を通して、中国唐代の社会制度や文化が日本に多大な影響を及ぼした。

39.5月14日

 ”シュリーマン旅行記 清国・日本”(1998年4月 講談社刊 ハインリッヒ・シュリーマン著)は、トロイア遺跡の発掘に先立つ6年前、世界旅行の途中に中国と幕末の日本を訪れたときの旅行記である。

 ハインリッヒ・シュリーマンは1822年にドイツで生まれ、若い頃移り住んだロシアで藍の商売を手がけ巨万の富を得て、1864年世界漫遊に旅立ち翌65年に日本に立寄り、1871年に世界的なトロイア遺跡の発掘に成功し、以後、ミケナイなどの発掘を続け、1890年ナポリにて急死した。石井和子氏は、東京生まれ、仏英和高等女学校、東京音楽学校卒業、シュリーマンに強い関心を持っていた息子が旅の途次にパリ国立図書館で発見して持ち帰った原本のコピーの訳を頼まれ、国内外の各地に足を運び、幕末の日本についてもいろいろ調べたという。清国と日本はヨーロッパ人にとっては遠い国であり、あこがれの国でもあった。シュリーマンは、これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会い、みな感激した面持ちで日本について語ってくれ、かねてからこの国を訪れたいという思いに身を焦がしていた。3ヵ月という短期間の滞在にもかかわらず、江戸を中心とした当時の日本の様子を、なんの偏見にも捉われず、清新かつ客観的に観察した。上海から東洋蒸気船会社の船で横浜に向かい、鳥島の近くを通り九州本島に沿って進み、やがて富士山が見えてから横浜に着いた。税関を抜けてからホテルに落ち着き、横浜の町を見物した。将軍、徳川家茂が和宮の兄を訪ねる行列も見学している。横浜滞在中にはあちこちに遠出をしたが、中でも八王子の旅についての印象が深いという。その後、神奈川宿を通って江戸の町に入り、麻布の善福寺にあったアメリカ公使館に着いた。そして、愛宕山を通って江戸城を一巡したり、伊皿子の長応寺にあったオランダ公使館や品川の東禅寺にあったイギリス公使館を訪ねた。その後、日本橋を渡り、浅草寺を訪れ、近くの寺院においらんの肖像が飾られている事実に驚愕する。大名屋敷の中では、日本一の金持ちである前田加賀守の広大な屋敷が目立ったという。団子坂を通って王子の茶屋で食事して、浅草に向かってから善福寺のアメリカ公使館に戻った。深川八幡宮から州崎弁天、赤羽の寺の公園も訪ねている。その後、横浜からサンフランシスコへ向かった。来日前に、清国を旅して万里の長城や紫禁城などの歴史的遺産に驚嘆しつつも、当時の退廃的な社会や人間たちに落胆している。そして、北京の町の不潔さ、人々の堕落しきった姿を観察し、中国に対して批判的に描写しているのと対照的に、日本に対しては絶賛といえるぐらいの高い評価をしている。当時の日本は幕末の激動期で、1865年には第二次長州征伐が行われ、1867年に幕府は大政を奉還し、江戸時代は終焉を迎えた。このような歴史上の大転換期であったにもかかわらず、横浜、江戸では秩序が保たれていた。人々の勤勉で誠実で清貧なところ、町の清潔さ、工芸品の巧みさ等におどろき、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られると書いている。そして、家具のたぐいがいっさい無い、機能的な暮らしに驚き、ヨーロッパで必要不可欠と見なされていたものの大部分は、元々あったものではなく、文明がつくりだしたものであることに気がついたと書いている。簡素ながらも清潔で気品のある庶民の暮らしを絶賛し、彫り物や陶芸・玩具などの精緻さに驚嘆し、演劇やこま廻しのような芸能を楽しみ、賄賂を受け取らず毅然とした諦観をもつ役人たちに好感を覚えている。一方、当時の江戸幕府の外交手法に対する痛烈な批判、各藩の大名たちの離反、外国人排斥の気運などについても書き記している。面白くて、一気に読むことができた。

40.5月21日

 ”月性”(2005年9月 ミネルヴァ書房刊 海原 徹著)は、幕末期の浄土真宗の勤皇僧、月性の生涯を詳しく紹介している。

 月性は、早くから諸国遊歴の旅に出て多くの詩人や儒者と交わった。浄土真宗の教えをもとにした挙国一致体制の確立を説き、長州藩でもっとも早く討幕論を唱え、吉田松陰にも大きな影響を与えた。海原 徹氏は、1936年生まれの教育学者・歴史学者で、1961年京都大学教育学部卒業、1963年京都大学大学院教育学研究科修士課程修了、1974年から京都大学教養部助教授、京都大学教養部教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を経て1999年に定年退官した。元京都学園大学学長、京都大学名誉教授、教育学博士、専門は日本教育史。月性は、1817年に周防国大島郡遠崎村の妙円寺で生まれ、諱は実相、字は知円、号は清狂・烟渓・梧堂と言われた。1829年に西本願寺で得度を受け、1831年から豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、その後、1835年に上洛して、京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。1848年から1854年まで清狂草堂を開塾し、遠近より入塾を希望する若者が集まり、世良修蔵、大洲鉄然、赤根武人、大楽源太郎、入江石泉、天地哲雄、浪山真成、土屋恭平、和真道、富樫文周ら、明治維新に活躍する多くの人物を輩出した。1853年に米艦が浦賀に来航し、翌年に阿部老中が仮条約を定め、下田、函館、長崎の三港に限り、貿易を許したとき、これを非難した。1856年に西本願寺に招かれて上洛し、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し、攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。幕府の蝦夷経営に本願寺開教僧として赴こうとしたが、病を得て志を果たさず1858年に没した。『清狂遺稿』『仏法護国論』『鴉片始末考異』の著作があり、1843年に27歳での遊学時に作られた、男児立志出郷関、学若無成不復還、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山の詩句は有名である。ひとたび男子たるもの志を立てて郷里を出たからには、学業が成るまでは絶対に帰らない決心である。骨を埋めるにどうして故郷の墓地に執着しょうか。広い世間には、どこへ行っても骨を埋める青々とした墓地があるではないか。その他多くの傑作を残し、その詩は千編を越すといわれる。

第1章 どのような家庭環境、少年時代を送ったのか
第2章 諸国修業の旅
第3章 立志の旅
第4章 学費はどれくらい要したのか
第5章 詩僧にして僧詩を作らず
第6章 真宗僧の政治的進出
第7章 倒幕論者月性の登場
第8章 清狂草堂-時習館の教育
第9章 幕末勤皇僧として世に出る
第10章 月性-どのような人間であったのか
終章  師の衣鉢を受け継いだ人びと

41.5月28日

 ”百の旅千の旅 ”(2004年1月 小学館刊 五木 寛之著)は、時間と空間を超えて旅することによって心身のエネルギーにするエッセイ集である。

 旅は、人を含めて存在するすべての者が空間的、物理的に移動することである。このエッセイ集は、夕刊紙「日刊ゲンダイ」に四半世紀以上にわたって連載してきた「流され行く日々」から抜粋したものと新たに書き下ろした言葉の集成である。旅を日常とし日本のまだ見ぬ地を歩き続け、20世紀末から21世紀初頭にかけて書き記している。今後の日本や日本人の生き方を示唆するエッセイがたくさんある。五木寛之氏は、1932年福岡県生まれ、生後間もなく朝鮮半島に渡り、1947年に引揚げ、早稲田大学文学部露文科に学び、その後、PR誌編集、作詞家、ルポライターを経て、1966年に第6回小説現代新人賞、1967年に第56回直木賞、1976年に吉川英治文学賞を受賞した。現在まで小説、評論、エッセイと幅広く著作活動を続け、その分野は文学、音楽、美術、演劇まで多岐に渡る。柳田国男によれば、旅の原型は租庸調を納めに行く道のりのことであるそうな。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならないもので、道沿いの民家に物乞いする際に”給べ”といっていたことが語源であるという。第一部の日常の旅では、旅の途上で書きつづられたその年、その日の飾らぬ言葉に、時代の流れが見えてくる。第二部の思索の旅では、老いと死、日本人的宗教観と寛容の精神、そして旅の一瞬の休息にこころは世界を駆け巡る。

 旅の中で考え、原稿を書き、本を読む。そんな暮らしを理想としています。知らない土地を旅することは、自分の精神と肉体の活性化につながり、いい刺激を与えてくれる。シベリア横断のようにスケールの大きい冒険や探検だけが良いのではなく、いつもと違う横丁をひとつ曲がってみたり、草の中に寝ころんで、普段とは目線を変えてみるのも旅といえます。働いていて放浪の旅などできないという人でも、ドアを開けて一歩踏み出せば、それがもう旅の始まりなのです。

 ぼくはこんな旅をしてきた

第Ⅰ部 日常の旅
 わが「移動図書館の記」
 日常感覚と歴史感覚
 カルナーの明け暮れ
 あと十年という感覚
 日本人とフットギア
 蓮如から見た親鸞
 老いはつねに無残である
 長谷川等伯の原風景
 英語とPCの時代に
 身近な生死を考える
 ちらっとニューヨーク
 演歌は二十一世紀こそおもしろい
 寺と日本人のこころ
 「千所千泊」と「百寺巡礼」

第Ⅱ部 思索の旅
 限りある命のなかで
 「寛容」ということ
 趣味を通じて自分に出会う
 旅人として

42.平成23年6月4日

 ”学ぶよろこび ”(2011年3月 朝日出版社刊 梅原 猛著)は、学問のおもしろさと創造の夢を語るエッセイ集である。

 学ぶことのおもしろさと夢を実現する生き方、法然からトヨタ創業者まで、各界の成功者の苦楽の道に自身の人生を重ねながら、創造と発見の道を歩む学ぶよろこびを説いている。梅原 猛氏は、1925年宮城県生まれ、立命館大学文学部教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長、日本ペンクラブ会長などを歴任した。生まれてすぐに愛知県知多半島の内海の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦の養子となり、京都大学入学まで海と山に囲まれて過ごし、哲学から仏教の研究に入り、その間に、1972年に毎日出版文化賞、1973年に大佛次郎賞、1992年に文化功労賞、1999年に文化勲章を受章した。少年の夢、生い立ちの記、創造への道、「発見」についての覚え書き、老木に花という構成で、ニーチェの言葉を踏まえて、忍耐期のラクダの時代、勇気と闘争のライオンの時代、創造の小児の時代について触れている。西田哲学の超克、ニヒリズムの死への誘惑から、生の哲学への転回、笑いの研究、日本文学・思想への独自の展開という歩みが語られている。生い立ちの記では、当時東北大学の学生だった実父の梅原半二、実母、石川千代、ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生し、乳児期に実母を亡くし、生後1年9ヶ月で伯父夫婦の梅原半兵衛、俊に引き取られ養子となり、愛知一中の入試の失敗、私立東海中学に辛うじて入学、実家から2時間半をかけて通学し、1942年、広島高等師範学校に入学するが2ヶ月で退学、翌年第八高等学校に入学し、青年期には西田幾多郎・田辺元の哲学に強く惹かれ、京都帝国大学文学部哲学科に入学するも、父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可したことなどに触れている。実父は工学博士で、トヨタ・コロナを設計し、トヨタ自動車常務取締役や豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。小説家の小栗風葉は養母俊の兄に当たる。大器晩成型で、40歳過ぎまで単著はなかった。その後日本仏教の研究を行い、釈迦からインド仏教・中国仏教を経て鎌倉新仏教までを述べる長編の仏教史を著し、古代史に関する研究的評論の連載を始めた。大胆な仮説により、梅原古代学、梅原日本学、怨霊史観といわれる独特の歴史研究書を多数著している。老木に花では、85歳まで生かしてもらって、新しい哲学を創造しようと思っていると決意を表明している。

43.6月11日

 ”私の中の東京 ”(2007年6月 岩波書店刊 野口 富士男著)は、愛情溢れる追想と実感に満ちた東京の文学散策である。

 後に都電三号線になった外濠線沿いを手始めに銀座、小石川、本郷、上野、浅草、吉原、芝浦、麻布、神楽坂、早稲田などを、明治末年生まれの著者が、記憶の残像と幾多の文学作品を手がかりに、戦前から戦後へと変貌を遂げた街の奥行きを探索している。野口冨士男氏は、1911年東京生まれ、慶應義塾大学文学部を中退して文化学院に入学した頃から旺盛に小説を執筆し、1933年に文化学院を卒業した。卒業後、紀伊国屋出版部で編集の仕事に従事したが、1935年に紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社し、1936年から1937年まで河出書房に勤務した。第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、復員語、1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念し、約10年を費やして秋声の年譜を修正した。このころ東京戸塚の自宅の一部を改造して学生下宿を営んだ。1965年に毎日芸術賞、1975年に読売文学賞、1980年に川端康成文学賞、1982年に日本芸術院賞、1986年に菊池寛賞を受賞し、1987年に芸術院会員、1984年から日本文藝家協会理事長を務め、1993年に呼吸器不全のため自宅で死去した。ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくなくないのではなかろうか。私達が知っているような気になっている東京とは、東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。たまたまなんらかの機会をあたえられて、幾つかの町を知る。その知っているだけの町を幾つかつなぎ合せたものが、私達の頭の中で一つの東京になっている。大正7年に入学した慶応義塾の幼稚舎は、当時はまだ三田の大学の山の下にあって、飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て、札の辻に至る系統の市電、のちに都電3号線となった外濠線を毎日往復した。その沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書き始めている。東京の町を哀惜をもって描く文学の主流は、永井荷風に始まり、野口富士男に受け継がれたようである。野口富士男には膨大な日記が残されているという。まだ紹介されていないものもあるようである。古き良き時代の東京の姿を、文学の語り部にもっと聞いてみたいものである。

44.6月18日

 ”ニッポン不公正社会 ”(2006年3月 平凡社刊 斎藤 貴男/林 信吾著)は、ジャーナリストと作家との対談集である。

 日本は、スタート時点から機会が全く不平等になっていて、イギリスとまではいかなくてもネオ階級社会として固定、不平等が再生産されているという。ジャーナリストは斎藤貴男氏、作家は林  信吾氏である。斎藤貴男氏は、1958年東京池袋生まれ、早稲田大学商学部卒業、英バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)、日本工業新聞記者、週刊文春記者などを経てフリーのジャーナリストになった。林 信吾氏は、1958年東京板橋生まれ、神奈川大学中退、1983年から10年間在英して英国のニュースダイジェスト記者、欧州ジャーナル編集長などを務め、帰国後フリーで執筆活動を行っている。結果の不平等、格差ならまだ仕方がないが、いまの日本社会は自由競争の名のもとに、世代を超えて格差が温存される不公正社会にされようとしているという。イギリスは階級社会であり、親から継続した身分の下層社会の若者たちがいる。負け組から生まれた人間は、勝ち組にのし上がれない仕組みになっている。サッチャーは自分の階級である上層社会のために学校制度を変えたが、いまイギリスでは見直され否定されつつあるという。日本にしのびよるネオ階級社会は、教育機会均等の崩壊から始まった。正社員、契約社員、派遣社員、パート、アルバイトというネオ階級が背景にある。そして、平成不況の中で正社員が減少し、大学を卒業しても正社員になれる人は一部だけの時代に入った。また、ニートとして社会的保障も与えられず、親の年金生活におぶさっている不幸な青年たちの数が最近急激に増えている。大学を出た男性にとっては、卒業したとき正社員になれないと、20年経っても30年経っても正社員になれない人が大部分の社会になった。彼らの多くは年収200万円以下の収入で、年齢を重ねるにしたがって不安定な現在の職場すら雇用が危うくなってきており、子育てにお金を掛ける余裕もなく、世代を超えて格差が温存される。一方、大学を出た女性にとっては、卒業したときになかなか正社員になれなくても、キャリアを積んでノウハウを身につけ、アイデアをビジネスモデル化できれば、独立起業して経営者となり、成功すれば株式公開するチャンスも容易になった。しかし、男女の格差や年齢格差は縮小したものの、同じ年齢で所得格差が拡大しつつある。かつての年功序列賃金で、歳を取れば経済的にも社会的にも楽になると期待できた30代から40代の男性社員にとって、いまや能力がアップしない限り、所得がアップする保証も雇用が継続する保証もない時代になった。かつてマルクスが描いたドラスティックな結末は来ず、資本主義の下では可変資本である労働者への給与支払比率は減少しており、そのしわ寄せが若者の頭上に集中している。このような資本主義の矛盾は避けられないものであり、若者はもっと現実社会の矛盾を学ぶべきだという。

45.6月25日

 ”シーボルト日本植物誌 ”(2007年12月 筑摩書房刊 大場 秀章監修・解説)は、日本の文明のために記念すべき博物書中の大著述の一つで、日本に関する博物書としてはいまなお権威のある名著である。

 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、1796年南ドイツ・ヴュルツブルクの医学界の名門の子孫として生まれ、父が1歳1ヶ月のとき亡くなり母方の叔父に育てられた。1815年にヴュルツブルク大学に入学し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学んだ。1820年に卒業し、国家試験を受けてハイディングスフェルトで開業したが、東洋研究を志して1822年にオランダのハーグへ赴き、国王の侍医から斡旋を受け、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となった。9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となった。ジャワ島から、「小生は新たに抜擢された駐在官の侍医、かつ自然研究者として日本へまいります。小生の望んだものはうまくゆきました。小生を待つものは死か、それとも幸せな栄誉ある生活か」と故国の伯父宛に手紙を送っている。大場秀章氏は、1943年東京生まれ、理学博士で東京大学総合研究博物館教授、専門は植物分類学、生物地理学。シーボルトは出島内において開業の後、1824年に出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学教育を行った。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。塾生は、後に医者や学者として活躍している。シーボルトは、日本と文化を探索・研究した。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長カピタンの江戸参府に随行し、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭した。1826年に将軍徳川家斉に謁見し、江戸において学者らと交友した。その間に日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけた。1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となった。1830年にオランダに帰着し、翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)『ファウナ・ヤポニカ』『フロラ・ヤポニカ』の3部作を随時刊行した。『フロラ・ヤポニカ』、つまり日本植物誌は、シーボルトが日々折々のあらゆる機会に書き留めた日本植物についての総決算である。出版された植物の種数は150に満たないが、未発表のまま残されたメモやノートは相当の量にのぼるという。その後、1853年に来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除された。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となった。1862年に官職を辞して帰国し、1863年にオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰り、1866年ミュンヘンで70歳で死去した。2005年にライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館としてシーボルトの事跡や日蘭関係史を公開されている。生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。植物の押し葉標本が12,000点あり、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で刊行された。その中で記載した種は2300種になり、彼らが命名し現在も名前が使われている種もある。シーボルトはどうずれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え、それを実行に移したと考えられる。日本の植物をヨーロッパに移入し、庭園を豊かなものとし林業の活性を図ろうとし、緯度がオランダやドイツにより近い本州東北部や北海道の植物に強い関心を寄せていた。シーボルトには、園芸的価値のある野生植物が少なかったヨーロッパに、日本の植物を導入してヨーロッパの園芸を豊かなものにする衝動があったという。日本や中国の植物を導入するため園芸振興協会を設立し、さらに営利目的のシーボルト商会を設立したのはそのためと考えられるという。鳴滝塾に集い来た塾生たちは情報収集に多大の貢献をした。標本を集めるだけでなく、シーボルトが投げた課題についての報告をシーボルトに提出している。シーボルトは居ながらにして、日本の各地の植物に関わる情報を集めることができたという。

46.平成23年7月2日

 ”成功術 時間の戦略 ”(2005年5月 文藝春秋社刊 鎌田 浩毅著)は、仕事、人づきあい、趣味をバランスよく発展させていく生活が成功人生であるという。

 人間としてのトータルな成功を達成する秘訣は何か、それを勝ち取るために、今すぐできる戦略は何か。鎌田浩毅氏は、1955年東京生まれ、東京大学理学部卒業、専攻は火山地質学、地球変動学、1997年より京都大学総合人間学部教授、同大学院人間・環境学研究科教授を歴任。そもそもトータルな成功には、仕事、人づきあい、趣味の3つが満たされる必要があり、この3つの要素を横糸にして、縦糸に時間を考えることが必要であるという。時間にはニュートン時間とベルクソン時間があり、ニュートン時間は時計ではかれる客観的な時間の流れ、ベルクソン時間は生きる密度によって感じ方の異なる時の流れである。ベルクソン時間で有意義な時間を過ごすことが大切だという。活きた時間とは、現在過ごしている時間が未来の創造へ向けて活かされているような時間である。活きた時間を持つためには、死んだ時間を見つけることから始める。頭が本当に創造的に働くのは、せいぜい1時間程度なので、この貴重な1時間に、何をするかが大事である。スペシャリストになるためには、他人が追随できないような武器をもつことが大切である。何かの専門家になるか、どこでも通用する専門家になるか、オンリーワンになるか3つのステージがある。そのためには、仕事は好きなことよりよくできることを選ぶとよい。人間関係にも戦略があり、意識的な努力が必要で、よい関係を維持するには方法論を学ぶ必要がある。思考パターン、考え方の枠組み、思い込みというフレームワークを活用することでコミュニケーションが円滑になり、人間関係が充実する。そして、手当たり次第に本を読むことは、異なるフレームワークを持つ為に有効な手段となる。教養を効率的に身につけるためには、仕事だけではなく自分の趣味を幅広く開発することが必要である。成功を手に入れるために意識下にある無意識を活用し、無意識を涵養するためによいものをインプットする。常識を疑うことを第一歩として、クリエイティブな仕事を目指す。当たり前を疑う事で、今までにないものを作り出す可能性がある。豊かな人生を送るためには、オフとオンの切り替えが大切である。

47.7月9日

 ”哲学思考トレーニング ”(2005年7月 筑摩書房刊 伊勢田 哲治著)は、分析哲学、科学哲学、懐疑主義、論理学、倫理学などの思考ツールを縦横に使いこなす術を披露している。

 哲学なんて小難しいだけで、日常の現場では何の役にも立たないのではないかと思われているかも知れないが、工夫しだいで思考のスキルアップに直結するものである。伊勢田哲治氏は、1968年生まれ、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、メリーランド大学よりPh.D.取得、名古屋大学大学院情報科学研究科助教授、科学哲学・倫理学専攻。クリティカルシンキングとは、ひと言でいうと批判的思考のことである。日常語では批判という言葉には否定的な評価という意味合いが強いが、ここではそれとはちょっと違い、ある意見を鵜呑みにせずによく吟味することを批判という。結論としては同意する場合でも、その意見が本当に筋が通っているかどうかよく考えたうえで同意するのであれば、批判的といってよい。コミュニケーションというのは、情報の送り手と受け手の共同作業である。情報の送り手と受け手両方の共同作業の中で、社会において共有される情報の質を少しでも高めていくためのものの考え方、としてとらえることができる。きちんとした議論にもとづいてきちんとした主張をするためにも、他人の主張を吟味するのと同じ技術や知識が役に立つはずであるから、コミュニケーションの両側にかかわるものとしてクリティカルシンキングを統一的に扱うのは、けっこう筋が通っている。相手を負かすのではなく、より良い結論を導くための批判的思考が重要である。批判的思考はクリティカルシンキングのことであり、この思考方法を培うとともに、落とし穴をさけるためのテクニックを学ぶ必要がある。屁理屈や権威にだまされず、不毛な疑いの泥沼に陥ることもなく、一歩ずつ筋道を立てて考え抜くコツが身を説いている。

第1章 上手に疑うための第一歩―日常会話のクリティカルシンキング
第2章 「科学」だってこわくない―科学と疑似科学のクリティカルシンキング
第3章 疑いの泥沼からどう抜け出すか―哲学的懐疑主義と文脈主義
第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか―価値主張のクリティカルシンキング
第5章 みんなで考えあう技術―不確実性と合意のクリティカルシンキング

48.7月16日

 ”週末作家入門 ”(2005年10月 講談社刊 廣川 州伸著)は、サラリーマンと文筆業の二足のワラジを履くことを勧めている。

 自分の人生のすべてを企業に捧げ、その見返りとして会社に守ってもらう時代は終わった。会社に勤めながら、いろいろな顔をもつ時代が来ている。安定した収入は、サラリーマンとして日々最低限の仕事をこなすことで得て、空いた時間や休日には、会社では達成不可能な自己実現としての文筆業に励む。会社員だけでなく、主婦も自営業者もリタイアした人も、仕事と作家の二足のわらじが履けると言う。廣川州伸氏は、1955年生まれ、東京都立大学人文学部卒業、コンセプトデザイン研究所所長、NPO法人日本ビジネス作家協会事務局代表。司馬遼太郎もアインシュタインも、最初は二足のワラジをはいていた。堺屋太一、高杉良、幸田真音、山田智彦、江上剛などなど、みんな働きながら作家になった。社会から作家として認められるには大変な労力と時間が必要であるが、作家活動そのものは何も特別な人がする特別な行為ではない。これまで仕事の経験があれば、そのノウハウ、技術、知恵などを活用してビジネス書にチャレンジするのもよいが、週末に小説を書いてみることがお勧めである。特に、経済活動に視点をすえて事件や人間模様を描く経済小説なら、これまでのサラリーマン生活を活用することができる。すぐに日の目を見ることは難しいであろうが、決して可能性はゼロではないので、作家気分で過ごして時間をかけて、本物の作家デビューの道を探すことができる。これまでお金を稼ぐという視点でしかみていなかった日々の仕事を、ものを書くという視点で見てみる。仕事を客観的にみつめて、あるときは上司の立場であるときは顧客の立場で見て、その日にあった事実をノートに書きとめる。そうすれば、すでに人生は作家に向かって動き始めるようになる。そうすれば、日々の苦労こそネタになり、ネタを元にして本を書きことができるようになり、二足のわらじの生活に少し近づくことができそうである。

第1章 誰でも作家になれる
第2章 あなたの人生の棚卸し
第3章 ビジネス書をつくろう
第4章 経済小説をつくろう
第5章 あなたの本を出版する

49.7月23日

 なでしこジャパン

 なでしこジャパンは、サッカー日本女子代表のことで、日本サッカー協会(JFA)により組織される女子サッカーのナショナルチームである。日本時間7月18日早朝、女子ワールドカップ決勝戦で、これまでFIFAランキング1位のアメリカに1度も勝てなかった日本が2度も追い付き、PK戦で降して世界一の栄冠に輝いた。快挙である。これまで日本女子代表はオリンピックには4大会中3回、FIFA女子ワールドカップには全6回とも出場している。7月22日に発表されたFIFAの最新のFIFA女子ランキングでは、優勝したなでしこジャパンは4位ランクインとなっている。過去最高のランクである。世界ランキング1位はアメリカ、2位ドイツとなっている。なでしこジャパンの名称は、JFAの女性スタッフの提案がきっかけとなり、愛称が募集されて2004年に制定された。1960年代から70年代に掛けて、日本ではサッカー競技を行う女性が増え始め、やがて各地にチームが誕生すると、各地域ごとに小規模なリーグ対戦が行われるようになった。1980年には全日本女子サッカー選手権大会が始まり、1981年には日本女子代表チームとして、国外チームとの試合が行われるようになった。1986年に鈴木良平が初の女子代表専任監督に就任すると、日本全国のチームを対象とする全日本チームが編成されるようになった。1989年、女子の全国リーグ日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)が誕生し、1991年の第1回FIFA女子世界選手権・中国大会にも参加した。そして、1996年のアトランタ大会から女子サッカーがオリンピック種目となった。出場権は前年開催の第2回FIFA女子世界選手権・スウェーデン大会での上位8カ国とされたが、鈴木保率いる日本女子代表はグループリーグ突破はできなかった。2000年のシドニーオリンピック出場に照準をあわせた宮内聡率いる日女子代表は、シドニー五輪出場権を獲得できなかった。日本国内での女子サッカーへの関心は瞬く間に低下し、L・リーグの観客動員は急速な落ち込みをみせ、リーグからのチームの脱退も相次いだ。2002年、マカオ男子代表の監督を務めていた上田栄治が代表監督に就任し、女子サッカーの再起と2004年アテネオリンピックに向けたチーム再編を図った。2003年のタイのバンコクで行われた第14回アジア女子選手権は第4回FIFA女子ワールドカップ・アメリカ大会のアジア地区予選を兼ね、第4回FIFA女子ワールドカップ・アメリカ大会出場権を獲得した。この勝利はマスメディアに大きく取り上げられ、女子サッカーが再び注目されるきっかけとなった。2003 FIFA女子ワールドカップ本大会では、アルゼンチン戦に勝利したものの、ドイツ、カナダに敗戦しグループリーグ敗退という戦績で終わった。2004年にAFC女子サッカー予選大会2004が日本で開催され、決勝トーナメントで北朝鮮を撃破し、2大会ぶり2度目の五輪出場を果たした。アテネオリンピック本大会では、他グループ3位との総得点差で決勝トーナメント進出を果たし、決勝トーナメント初戦、優勝候補アメリカに敗れベスト8に終わったが、チームは3試合を通して警告・退場者ゼロによりフェアプレー賞を受賞した。2004年、日本サッカー協会は大橋浩司を新監督として任命した。2006年にカタールの首都・ドーハで行われた第15回アジア競技大会では、グループリーグで中国を破り決勝トーナメント進出し、北朝鮮にスコアレスでPK戦まで持ち込んだものの敗れ、準優勝となった。2007年、中国で開催された2007FIFA女子ワールドカップではグループリーグA組となり、アルゼンチンに勝利したものの、イングランドと引き分け、最後のドイツに敗北しグループリーグ敗退となった。2008年、コーチを務めていた佐々木則夫が監督に就任し、東アジアサッカー女子選手権2008において初采配の監督のもと、なでしこジャパンは3戦全勝で大会に初優勝し、日本女子代表初のタイトル獲得となった。2008AFC女子アジアカップでは3位となり、澤穂希が大会MVP、チームはフェアプレー賞を受賞した。北京オリンピック本大会は、グループリーグのニュージーランド戦引き分け、アメリカ戦で敗戦と苦戦をしいられたが、ノルウェー戦の勝利でグループリーグを突破し、その勢いで準々決勝の中国戦も勝利して、初のオリンピックベスト4進出となった。準決勝でアメリカに逆転負けを喫し、3位決定戦のドイツ戦も敗戦したが、その健闘ぶりに世界が注目した大会でもあった。この成果により、世界各国から対戦のオファーが届き、2010年にはチリで行われたBICENNTENIAL WOMAN'S CUP 2010に参戦し、5カ国による総当たり戦で3勝1分により優勝した。東アジア女子サッカー選手権2010は前回に続き3戦全勝で2連覇を達成した。第16回アジア競技大会では無失点で決勝へ進出し、北朝鮮を1-0で下して初優勝した。そして、今回の2011FIFA女子ワールドカップでの優勝である。世界ランキング4位で臨んだグループリーグB組でニュージーランドとメキシコに勝利、第3戦のイングランドには敗れたものの、B組2位で1995年大会以来となる決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント準々決勝でドイツに延長戦の末1-0で勝利し、準決勝のスウェーデン戦は得意のパスサッカーで3-1で快勝し決勝進出を果たした。決勝は世界ランキング1位、対戦成績が0勝21敗3分という、それまで1度も勝利できなかったアメリカとの対戦となり、終始アメリカの猛攻にさらされるも延長戦に持ち込み、先行された延長も残り4分、澤穂希の同点弾で2-2とし、PK戦の末アメリカに対し初勝利し、男女、年齢別代表を通じ、日本代表としては初のFIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げた。チームはフェアプレー賞、澤穂希が得点王とMVPを受賞した。

50.7月30日

 ”ひとりビジネス ”(2008年4月 平凡社刊 大宮 知信著)は、雇わない、雇われない、後悔はないひとりビジネスの実践例を20業種ほど紹介している。

 ひとりビジネスは、会社員時代に身につけたスキルや知識、経験がビジネスの元になる。家族やアルバイトの助けを借りることがあっても、自分がいないと商売が成り立たない事業である。大宮知信氏は、1948年茨城県生まれ、中学卒業後、東京に集団就職し、調理師、ギター流し、地方紙記者、編集者など転職を繰り返して、ルポライターになり、政治、教育、社会問題など幅広い分野を取材・執筆している。自身もひとりビジネスのルポライターであり、その観点から、組織から離れ、一人で様々なビジネスを行っている人々を紹介している。組織や人間関係から離れて、幸せな働き方を求めてひとりの仕事を始める人たちが増えている。会社勤めに見切りをつけ、好きなことで生活し、女性の感性を生かそうとする。独立した業務請負から超ニッチなすき間ビジネスまで、動機や仕事の形態、収入レベルはさまざまである。バストサイズアップのためのシリコンパッドを専門に扱うネットショップ、定年退職後に始めた墓参りの代行サービス、子育て中のママさんによる出張ペット火葬、ホンモノの僧侶がランチタイムに代官山で販売する手作りの玄米精進料理弁当。あるいは、美しくなりたい男性のための女装サロンを経営する女性オーナー。ほかにも、ウェディングドレスのネット販売や、似合う服の色を教えるカラー診断、コーチングのプロなど、職種は様々であり、紹介された以外にもたくさんの一人ビジネスがある。儲かっている人もいれば、一年後には店をたたんでいるかもしれない先行き不透明な人もいる。しかし、どうせ一度の人生なら、好きなことをして生きるのも有力な選択肢である。ひとりビジネスは経済的には厳しい道だが、大企業に勤めること、正社員になること、サラリーマンになることがベストな生き方だと考えるのではなく、またアルバイトや非正社員の身分に甘んじるのでもなく、もっと多様な選択肢があり、負け惜しみじゃなく人生ゼニカネだけじゃない、こういう個性的な生き方もあるということである。現実にはなかなか踏み切れないが、こうした人々の生き方には共感するところが少なくない。ひとりビジネスで成功するための6つの秘訣とは何か、それは、人とのつながりを大切にしていること、オンリーワンの店づくりをしていること、定年を待たずに独立していること、小さくとも懸命に継続していること、スキルの価値を見極めていること、腕を磨く努力を怠っていないことであるという。



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