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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1.平成23年8月6日

 ”無思想の発見 ”(2005年12月 筑摩書房刊 養老 孟司著)は、日本の風土と伝統が生んだ無思想という思想を手がかりに諸問題を論じている。

 日本人は無宗教・無思想・無哲学だといわれており、無思想とはもしかするとゼロのようなものではないか。ゼロとはなにもない状態をあらわしつつ、同時に数字の起点でもある。思想がないというのもひとつの思想のあり方であり、日本の風土が生んだ無思想という思想を手がかりに、現代を取り巻く諸問題などを考え、閉塞した現代に風穴を開けようとしている。養老孟司氏は1937年神奈川県鎌倉市生まれ、1962年東京大学医学部卒業後、解剖学教室へ入り、1995年東京大学医学部教授を退官、現在、同名誉教授である。著書は『ヒトの見方』『からだの見方』『唯脳論』『カミとヒトの解剖学』『からだを読む』『無思想の発見』『身体の文学史』『バカの壁』『死の壁』『いちばん大事なこと』『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』『まともな人』『ぼちぼち結論』など多数がある。無思想という思想はダメかというなら、そんなことはない。有思想という思想がいかにはた迷惑か、それはたとえばアメリカの中東戦争が徹底的に示しているではないか。アメリカはそれを正義だというが、相手のイスラム原理主義者は聖戦だという。中国の対日観もそうだし、例を挙げれば際限がない。落ち着くところは、結局はイスラムもキリスト教もない、平和共存だということになるに決まっている。それがそうできないのは、有思想だからである。戦前の日本のケチな国家思想だって、神風特別攻撃隊まで行ってしまった。普遍を主張するなら、それ以上までいって当然であろう。有思想の手前勝手を許してはならないと思うなら、無思想の思想を徹底して説くしかない。日本人に「私」はない、「私」の単位は個とは限らない。意識は同質=グローバル化を志向する、個体性はどこにあるのか。概念世界=思想と感覚社会=世間は常に補完的で、日本人は思想に重点を置かない。無思想が一番効率的で住みやすい。日本人の無思想は仏教に由来する無思想の系譜である。思想に抗しないで感覚的に生きよう。

第1章 私的な私、公的な私
第2章 だれが自分を創るのか
第3章 われわれに思想はあるのか
第4章 無思想という思想
第5章 ゼロの発見
第6章 無思想の由来
第7章 モノと思想
第8章 気持ちはじかに伝わる
第9章 じゃあどうするのか

2.8月13日

 お盆の入り

 木曜日午後からお盆の帰省ラッシュが始まっている。お盆は、旧暦7月13~15日を中心とする先祖祭りである。釈迦の弟子の目連が、死んだ母が餓鬼道に落ち逆さに吊るされて苦しんでいるのを救おうとして、釈迦に教えを請い、7月15日に供養して祭ったのに始まるそうである。盂蘭盆ともいい、倒懸の梵語ウランバーナがうらぼんとなり、略して盆となったという。古代インドの農耕儀礼が中国に入って整備され、さらに日本の貴族社会がそれを受容したものである。盆の諸行事の配置構造は整然としており、小正月を中心とする正月行事群の配置と似通っている。お盆のお供え物の一つは精霊馬である。先祖の霊は、来る時にはキュウリの馬で早く来て、帰る時にはナスの牛でゆっくり帰るとされている。お盆の行事は、お墓参り、迎え火、先祖の霊のもてなし、送り火の4つである。お墓参りの際は、墓石や墓地の地面を掃除して、お線香や花、先祖が好きだったものなどをお供えする。続いて行うのが迎え火で、先祖の霊を現世に迎え入れる際の目印としておがらと呼ばれる麻の茎を素焼の皿の上で燃やす。帰ってきた先祖の霊をもてなすために必要なのが、お供えものである。ナスやキュウリを牛馬に見立てた精霊馬、精進料理、旬の野菜や果物など、様々なものを供える。お盆最終日の8月15日まで滞在した先祖の霊は、送り火によって霊界へ帰る。家庭では迎え火と同じく、おがらを燃やす。先祖を迎える手段は種々重複して行われ、盆花迎えもその一つである。盆棚や墓に供える盆花は、11日または13日に迎える例が多い。花の種類は土地ごとに異なり、キキョウ、オミナエシ、ハギ、ヤマユリなどを総称したり、そのなかの1、2種の花を盆花とよんだりする。町では盆市で買い求めたり、盆花売りが訪れてくるとか、近来は造花にかわったのも多い。盆の火祭り行事には、芸能化したものも多い。高い柱の上の燃料に下から松明を投げ上げて火をつける柱松、山の斜面に燃料を置いて文字や図形を浮き出させる大文字・鳥居火・万灯火、数多くの提灯を竿につけ、人が支えて練り歩く竿灯などがある。送り火の場合も、送り舟にろうそくをともしたり、灯籠流しなどには観光と結び付いたものが多い。盆に家々に迎える先祖様の祭壇が盆棚で、7月13日の朝つくる例が多い。つくる場所や形式は各地各様で、座敷、仏間、縁側、門口、四辻などに竹や木で棚を設け、仏壇から位牌を出して祭る。今日は、大震災のあった特別な年の盆の入りである。

3.8月20日

 ”経済学は死んだのか ”(2010年4月 平凡社刊 奥村 宏著)は、リーマンショック後の100年に1度の経済危機の中にあって有効な対処法を示すことができない経済学の危機の原因を探り再生の道を示そうとしている。

 明治時代から今日まで日本の経済学は、ドイツやイギリス、アメリカの経済学を輸入していた輸入経済学で、経済に関する学問ではなく、マルクス経済学に関する学問やケインズ経済学に関する学問であったと言う。戦後はとりわけアメリカ経済学の輸入一辺倒であったが、アメリカでは経済学は全く役に立たない学問になったといわれている。2008年からのサブプライム恐慌で経済学が破綻していることはっきりしてきたから。そしていま、経済学は死んだといわれている。奥村 宏氏は、1930年岡山県生まれ、岡山大学法文学部卒業、産経新聞記者を経て、日本証券経済研究所主任研究員、龍谷大学・中央大学教授を歴任、会社学研究家、商学博士である。日本の産業構造・財閥・企業グループ研究において、大企業の株式所有構造に焦点をあて、企業系列化の形成に伴う、企業間における株式の相互持合を分析し、法人による株式所有に日本型株式会社の特色を、法人資本主義と名づけた。1930年代の世界恐慌の中からケインズ経済学が生まれ、1970年代の危機の中からハイエク、フリードマンの新自由主義、市場原理主義が出てきた。2008年からのサブプライム恐慌は第三の危機ということかでき、ケインズ経済学、あるいはハイエク、フリードマン流の新自由主義、市場原理主義に代わる新しい経済字か生まれてくることか必要である。バブル崩壊後、日本では巨額の公的資金投人などで財政スペンディングを増大させた結果、国債を主とする公的債務残高は国内総生産の二倍近くにまで膨れ上り、これ以上国債を増発すると国債が暴落して国の財政が破綻するおそれがある。ところがいま、ケインズ復興が叫ばれ、ケインズに還れという主張がなされている。財政支出の増大による景気刺激策をとれという、ケインズ政策を押し進めることがはたして可能なのだろうか。ケインズ政策に還るのでなく、新しい原理に基づいた新しいシステムを開発していく以外にはないのである。それはケインズ経済学の焼き直しではなく、輸入理論によらないで日本の現実から出発した新しい経済学でなければならない。輸入経済学と古典解釈をもって職業としてきた経済学者のあり方を変えていくことが必要である。経済学は死んだ。真に学問の名に値する経済学体系の創出のためには、事実から理を導き出して体系化していく過程が大切であること、幅広い一般教養および弁証法的実力が欠かせないこと、国家という枠組みに着目して経済とは何かをつかんでおく必要がある。新しい経済字かこれから始まることを期待する。

第1章 経済学の危機
第2章 マルクスはジャーナリストだった
第3章 現実に直面したケインズ
第4章 日本の輪入経済学者
第5章 経済学者の忘れ物
第6章 調査に基づく研究
第7章 改革への道

4.8月27日

 ”iPS細胞 ”(2008年7月 平凡社刊 八代 嘉美著)は、生命科学の最前線であるiPS細胞が発見されるに至る経緯をES細胞から説き起こし説明している。

 具合の悪いところは新しい臓器に替えるという夢物語が、実現にむけて着実に進んでいる。八代嘉美氏は、1976年生まれ、愛知県出身、2009年東京大学大学院医学系研究科 病因病理学専攻修了、博士(医学)、現在、慶應義塾大学総合医科学研究センター特別研究助教。60兆もの細胞を持つ私たちのからだも、もとはたったひとつの受精卵からはじまっている。本書はiPS細胞というタイトルであるが、半分以上がES細胞=Embryonic Stem cellsに割かれている。ES細胞は胚性幹細胞と言われ、子宮に着床する直前の受精卵である胚から採取した幹細胞を培養したものである。そのES細胞を乗り越えるためにつくられたのがiPS細胞=induced Pluripotent Stem cellsだ、という歴史がふまえられている。iPS細胞の研究は、その仕組みを解くことである。iPS細胞は日本語では人工多能性幹細胞といわれ、人の皮膚細胞などに複数の遺伝子を組み込んで、各種の組織のもとになる細胞を作ることのできる万能細胞である。遺伝子などの培養条件を変えることで、神経細胞や心筋細胞などに変化できる万能性を備えている。これを成長させると、さまざまな臓器や組織の細胞になる。万能細胞は病気や怪我で失われた臓器や組織を修復する再生医療の切り札といわれている。これまで万能細胞と呼ばれるものにES細胞=胚性幹細胞があったが、これは人間に成長する可能性のある受精卵を壊してつくるために倫理的に問題があるとされ、移植による拒絶反応が起こる危険もあった。しかし、京都大学の山中伸弥教授を中心とするチームのiPS細胞は、これらの問題をすべて乗り越えたと評価されている。山中チームのiPS細胞は、マウスの線維芽細胞から2006年に世界で初めて作られた。当初は山中チームが皮膚細胞に導入した遺伝子の一つが癌遺伝子だったため、移植後に癌化しないような工夫が課題とされたが、癌遺伝子を使わない方法も山中チームによって確立された。生物を構成する種々の細胞に分化し得る分化万能性は、胚盤胞期の胚の一部である内部細胞塊や、そこから培養されたES細胞、ES細胞と体細胞の融合細胞、一部の生殖細胞由来の培養細胞のみに見られる特殊能力であったが、iPS細胞の開発により、受精卵やES細胞をまったく使用せずに分化万能細胞を単離培養することが可能となった。分化万能性を持った細胞は理論上、体を構成するすべての組織や臓器に分化誘導することが可能であり、ヒトの患者自身からiPS細胞を樹立する技術が確立されれば、拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されている。ヒトES細胞の使用において懸案であった、胚盤胞を滅失することに対する倫理的問題の抜本的解決に繋がることから、再生医療の実現に向けて、世界中の注目が集まっている。また、従来は採取が困難であった組織の細胞を得ることができ、今まで治療法のなかった難病に対して、その病因・発症メカニズムを研究したり、患者自身の細胞を用いて、薬剤の効果・毒性を評価することが可能となることから、今までにない全く新しい医学分野を開拓する可能性をも秘めていると言われる。しかし、この技術を使えば男性から卵子、女性から精子を作るのも可能となり、同性配偶による子の誕生も可能にするため、技術適用範囲については大いに議論の余地が残っていると言うことである。ヒトや生物の存在を根底から問い直すようなことが起こるのかもしれない。

5.平成23年9月3日

 ”独学のすすめ ”(1996年10月 晶文社刊 谷川 健一著)は、敬愛する6人の先達の生き方を通して人生を自力で切り開いていくことの大切さをわれわれに問いかけている。

 国粋主義的傾向が強かった柳田国男は西欧のマネを拒否し、地に根ざした生活を送って来た老人や古い祠、さまざまな歴史的出土品、祭り道具、神社、地名、民話などによって、日本人とは何かという命題に向かって仮説を立て自ら足を運んで検証を繰り返す。結果ではなく関心の持続、問いの持続によってこそ民俗学は成立するという。谷川健一氏は、1921年熊本県水俣生まれの民俗学者、地名学者、作家、歌人で、熊本中学、東京帝国大学文学部卒業、平凡社の編集者を勤め、その後今日まで執筆活動を行っている。1973年毎日出版文化賞受賞、1986年毎日出版文化賞特別賞受賞、1987年から1996年まで近畿大学教授、1991年芸術選奨文部大臣賞受賞、1992年南方熊楠賞受賞、2001年短歌研究賞受賞、2007年文化功労者。本書では、柳田国男のほか、人間とは何かを問い続け、14年間の海外生活も体験した南方熊楠、後に柳田と対立する折口信夫、大日本地名辞書を著した吉田東伍、私財を投じ宮古・八重山群島の人々を悪法から救った中村十作、人頭税廃止に尽力した笹森儀助の6名を紹介している。明治から昭和にかけて、既成の知識に縛られず、自分で自分の道を切り拓いた巨人たちである。彼らは何よりもお仕着せを嫌い、誇りをもって独りで学び、独自に行動した。南方熊楠は1867年和歌山県生まれの生物学、民俗学者で、幼少の頃より和漢の古典を書写するとともに、動植物の観察に熱中し、20歳で渡米して地衣類・菌類を研究し、キューバを放浪の後、ロンドンの大英博物館に机を与えられて研究を深めた。1901年に帰国し、1905年より和歌山県田辺に定住して粘菌類の研究をつづけた。民俗学草創期にあって多数発表した論文柳田国男を啓発した。1941年没。柳田国男は、1875年兵庫県生まれの民俗学者で、幼少期より和歌に親しみ、一高時代「文学界」に抒情詩を発表した。東京帝国大学卒業後、農商務省に勤務し、役人生活のかたわら全国の農山漁村を旅して歩き民俗学関係の著作を残した。官を辞してから民俗学に専念して、広い範囲の多数の著作を残した。1962年没。折口信夫は1887年大阪府生まれの民俗学者、国文学者、歌人で、筆名釈迢空で知られる。少年期より万葉集など古典を読みふけり、短歌を詠んだ。国学院に学び、中学校の教師を経て、やがて柳田国男を知り、民俗学、国文学の研究に入り、民間伝承採集とともに、短歌、詩、小説を著し、日本芸能史、古代研究において独創的な仕事を残した。1953年没。吉田東伍は1864年新潟県生まれの歴史地理学者で、中学校中退後、郵便局員、小学校教員を勤め、6歳のとき突如家族を残して単身北海道に渡り、のち読売新聞記者となり、31歳で「大日本地名辞書」執筆を開始し、13年かけて書きあげ、早稲田大学から文学博士号を受け教授となった。1918年没。中村十作は、1867年新潟県生まれの実業家で、小学校卒業と同時に小学校教員となって家計を助け、のち東京専門学校に編入学するが、真珠養殖業をおこすため赴いた宮古島で、人頭税下の島民の窮状を知り、廃止運動に挺身した。1993年税制改革の請願書を国会に提出し、人頭税は廃止されることとなった。1943年没。笹森儀助は、1845年弘前藩生まれで、ペリー来航や外夷北辺到来の時代、独自の国防論や国政改革意見を唱えて藩主の逆鱗にふれ、蟄居幽閉された反骨の人物で、青森県中津軽郡郡長を勤めたのち農牧社を開業し、牛乳の生産、販売をおこない、社長辞任後辺境を旅してまわり、記録を天皇や政治家に献上して各地の窮状を伝え、その窮状を訴えた。1915年没。柳田、折口、南方たち独学者は、なぜみんな民俗学を選んだか。それまでのおしきせの学問の中にはない疑問、アカデミズムで勉強したところで答えられない疑問を解こうとしたからであるという。正統的な学問にない分野の疑問を解くのが独学。それから独学の姿勢としては、すべてに疑問をもっていく。与えられたからといって、それを鵜呑みにするのではない。独学というのはきりがない。独学者の精神というのは、無限に追求していく精神である。ただし、独学は万能ではなく、ひとりよがりの危険におち入ることを感じておく必要があるという。民俗学以外の分野の独学、というものはないのであろうか。

6.9月10日

 ”書いて稼ぐ技術 ”(2009年11月 平凡社刊 永江 朗著)は、フリーライターとして、何をどう書き、得意ジャンルをいかに確立するか、キャリアをどうデザインするか、世間をどう渡っていくかなどを文筆稼業25年の著者が紹介している。

フリーライターはフリーランスの1つである。特定の企業や団体、組織に専従しておらず、自らの才覚や技能を提供することにより社会的に独立した個人事業主もしくは個人企業法人である。単発の仕事として様々な仕事はするものの、その仕事を依頼する都度契約を結ぶという形態をとる。出版業界のライターやジャーナリスト、放送業界のプロデューサー・放送作家・アニメーション制作現場など、様々な職種で活躍している。永江 朗氏は、1958年北海道生まれ、法政大学文学部卒業、洋書店勤務の後、雑誌編集者を経て文筆生活に入り、書店ルポをライフワークとし、2008年より早稲田大学文化構想学部の任期付教授、2010年より文学学術院教授。取り上げる題材は広範にわたり、哲学からアダルトビデオまでを標榜する。読書術やインタビューに関する著作を多数刊行している。相対的に出版産業は不況に強く、会社はつぶれるが個人は死ぬまでつぶれないので、こんな時代だからこそと、フリーライターを勧めている。そして、フリーライターとしての技術がいろいろ紹介されている。メモ術、アイディア術、プレゼン術、調査術、読書術、質問術、ルポルタージュ術、批評術、ゴーストライター術などは参考になる。ほかに、お金の話やリスク管理術など、有益な話もある。しかし、フリーライターの生活はとても不安定で、雑誌が簡単に休刊したり遅配したりも結構あり、フリーライターは労働者というより超零細企業であり、印税生活というのは幻想だという。

7.9月17日

 ”ホームタウン東京 ”(2003年11月 筑摩書房刊 片岡 義男著)は、世界のどこにもない今の東京にしかない風景を撮影した100点の写真に50のエッセイを添えた本である。

 ホームタウンとは、本来はJリーグなどのスポーツクラブチームが本拠とする地域のことであろうか。ホームタウン東京というと、非常に広大な地域と思われるが、ここでは著者の本拠地は東京だというほどの意味である。生まれ育った東京は年月を経て激変し、子供の頃の思い出を彷彿とさせるものは跡形も無くなっている。片岡義男氏は、1940年東京生まれ、早稲田大学法学部卒の小説家、エッセイスト、写真家、翻訳家、評論家である。祖父の片岡仁吉氏は山口県の周防大島出身で、ハワイに移民した人物である。父の片岡定一氏は日系二世で、片岡義男氏自身も少年期にハワイに在住し教育を受けた経験がある。大学在学中の1960年代初頭よりライターとして活動を開始し、エッセイ、コラム、翻訳などを雑誌に発表する傍ら、テディ片岡名義でジョーク本やナンセンス小説等を手掛けた。パロディ創作集団、パロディ・ギャングを結成して活動し、草創期の「宝島」編集長としても活躍した。代表作である『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』は角川書店の手により、また『湾岸道路』、『ボビーに首ったけ』は東映で映画化された。故郷はどこかと訊かれたらそれは東京ですと答えるほかない、と言う。しいてあげるなら東京というような意味ではなく、東京しかないという意味において故郷はと問われればそれは東京だと答える。しかし東京だと答えただけでは単なる地名にすぎないし、ひとつの固有名詞そしてイメージ用語でしかない。いつのどのあたりのどのような東京なのかと自問していくと、そんな東京はもうないことにやがて気づくと言う。住んだ時間の長い順に思い起こすと、おおまかに大別して二箇所しかない。住み始めて27年ほどになり、いまも住んでいる場所と、子供の頃から青年期の終わりまで住んだ場所である。いま住んでいるあたりは、27年前とくらべてさほど変化していないか、それともずいぷんと変わったか。おそらく激変しているはずである。日常の場における少しずつの変化の積み重ねは見えにくいだけである。かつて住んだあたりにはもっと多くの激変が重なっているから、場所だけはあるというのが現状である。変わり果てたと言うよりは、跡かたもなくなるという性質の変化が何度も繰り返されたこと結果である。故郷と呼び得る場所がかつて東京のなかにあった、という意味において東京はいまも故郷なのである。故郷が無くなったのではなく、東京という都市の激変ぶりこそ故郷なのではないかと言う。

10.9月24日

 ”仏とは何か ”(2007年3月 講談社刊 立川 武蔵著)は、仏・菩薩と人間との関わりかたの具体的なプロセスを通じて仏の本質を説明しようとしている。

 講義録「ブッディスト・セオロジー」の第三巻で、第一巻は「聖なるもの 俗なるもの」、第二巻は「マンダラという世界」であった。第四巻は「空の実践」、第五巻は「ヨーガと浄土」である。立川武蔵氏は、1942年名古屋生まれ、1964年名古屋大学文学部インド哲学専攻卒、1966年同大学院修士課程修了、1967年同博士課程中退、ハーバード大学大学院でPh.D取得、国立民族学博物館名誉教授、愛知学院大学文学部教授を歴任、専門は仏教学、インド学である。初期仏教においてブッダはあくまで人々の師であり、人間以上のものではなかった。大乗仏教においてブッダは、崇拝対象としての神的存在となった。神的存在となったブッダは、仏教徒ひとりひとりが精神的救済を求めようとする際、人が交わりを有し得る相手でもあった。交わりあるいは対話が可能であるという意味において、阿弥陀仏、大日如来の大乗の仏たちは、ペルソナを備えた仏ということができる。師としてのブッダから崇拝の対象であり救済者でもあるブッダヘの変容は、どのようにして起きたのであろうか。仏教徒たちは、ブッダの教説に従いつつ、時代の状況に呼応しながら仏教の思想や実践形態の創造的な展開をなしとげた。大乗仏教において、それまでの仏教には見られなかったペルソナを備え、交わりが可能となる神的存在としてのブッダが生まれたのは、飛躍であったと考えられる。この交わりの相手としての仏は、仏教史の中でどのように登場したのであろうか。宗教行為は、他の行為と同様に、世界認識、目的、手段の三要素を含んでいる。第一要素である世界認識の到達点は、マンダラという世界であった。仏のすがたの変容を扱うということは、マンダラという場に登場する語要素、つまり仏や菩薩などのすがたとその変容を考察することでもある。マンダラは、仏や菩薩たちと彼らが住む宮殿を描いているが、その世界を成立させ維持してきたのは、その仏や菩薩たちに対する仏教徒の行為である。仏・菩薩たちのすがたと彼らへの行為とを考察の対象としながら、仏とは何かという問題に関わる。ここでは、行為の第二要素である目的を扱う。仏教の実践・儀礼の目的は、悟りあるいは仏である。ブッダはどのようなすがたでイメージされてきたのかを知り、その間、聖なるものとしての仏に対してどのような行為がなされてきたかを知ることは、仏とは何かを知る手がかりを知るための道程となる。仏教における行為の目的・目標は、ホーマ=護摩やプージャー=供養などの宗教儀礼、涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ仏塔や、仏像といった宗教シンボル、そしてバクティ=帰依等々の宗教行為と関連がある。宗教行為には、個人の精神的至福を追い求める型の行為と、聖なるものと俗なるものとの区別を社会の中に位置づけることを目的としている集団的な行為との二種がある。仏教は、基本的にはこの二つの型の内、個人の精神的至福を追究する型の宗教に属するが、当初はそれほど重視されていなかった集団的宗教行為の要素をも、後世の仏教は多分に含むことになった。二種の宗教行為の統一は、特に密教において試みられた。マンダラや護摩儀礼は、その二種の宗教行為の統一の成果の一端である。宗教行為の発展は、時代の状況に対応しつつ仏教徒たちが行ってきた行為の結果に他ならない。仏教の思想の変化の中でこそ、大乗仏教における救済のあり方は、より鮮明に理解できる。それにしても、このような偉大な仏教が、発祥の地であるインドにおいて13世紀頃に滅亡したのはやはり驚きである。ただし、零細な集団としてのインド仏教はかなりの期間にわたり存続しているようである。

第1章 仏のすがた
第2章 仏への行為
第3章 ヴェーダ祭式ホーマ
第4章 ブッダの涅槃
第5章 仏塔の意味
第6章 プージャー?宗教行為の基本型
第7章 ジャータカ物語と仏の三身
第8章 大乗の仏たち?阿弥陀と大日
第9章 護摩?儀礼の内化
第10章 浄土とマンダラ

11.平成23年10月1日

 ”津波とたたかった人―浜口梧陵伝 ”(2005年8月 新日本出版社刊 戸石 四郎著)は、幕末に起きた安政大地震による巨大津波によって壊滅した紀州広村の復興と津波を防ぐ堤防の建設に立ち上がった醤油屋当主、浜口梧陵の生涯を紹介している。

 浜口梧陵は、「稲むらの火」という話で知られ、NHKでも取り上げられた梧陵の業績と生き方を史実にもとづいて検証し、今日的視点から再評価した伝記的読本である。戸石四郎氏は、1929年生まれ、高校教師をへて著述業、日本科学者会議会員。「稲村の火」とは稲束のことを言い、昭和12年から22年までの国定教科書、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」「初等科国語六」に載っていた話で、原典は小泉八雲の「生ける神」とのことである。ある海辺の村を襲った大津波を庄屋の五兵衛がいち早く察知し、刈り取った大切な稲むらに火を放って村人に知らせ、おおぜいの命を救ったというものである。五兵衛は浜口梧陵その人であり、紀州広村、現在の和歌山県広川町での実話だったという。浜口梧陵は1820年に紀伊国広村、現・和歌山県有田郡広川町で、紀州湯浅の醤油商人である浜口分家・七右衛門の長男として生まれ、12歳で本家、濱口儀兵衛家の養子となって銚子に移った。浜口儀兵衛家は現在のヤマサ醤油当主で、浜口梧陵は七代目浜口儀兵衛を名乗った。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則である。若くして江戸に上って見聞を広め開国論者となり、海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。1852年に広村に稽古場、耐久舎、現在の和歌山県立耐久高等学校を開設して、後進の育成を図った。1854年頃、七代目浜口儀兵衛を相続した。そして、この年=安政元年12月23日に、先に安政の東海地震が発生した。マグニチュードは8.4であった。その32時間後に、今度は安政の南海地震が発生した。マグニチュードは8.4であった。災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、延べ人員56,736人、全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤を約4年かけて修造した。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたもので、後に小泉八雲は「生ける神=A Living God」と賞賛している。蘭医、関寛斎、勝海舟、福沢諭吉と交流があり、広い交友関係があった。1868年に、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後に藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩、和歌山県経済の近代化に尽力した。1871年に、大久保利通の要請で初代駅逓頭、後の郵政大臣に就任するが、半年足らずで辞職した。1880年に、和歌山県の初代県議会議長に就任し、国会開設に備えて木国同友会を結成した。1885年に、世界旅行に行ったがアメリカ合衆国ニューヨークで病没した。堤防完成から88年後の1946年に広村を昭和南海地震の津波が襲ったとき、この堤防のために被害を減らすことができたという。

はじめに―浜口梧陵という人を知っていますか
一 幕末激浪のさなかに―「人となる道」を歩む
 天下国家に目を開く/ペリー来航の衝撃
二「稲むらの火」の真実―津波とのたたかい
 津波ドキュメント/防災百年の計にとりくむ
三「五兵衛話」と「稲むらの火」
 ハーン(小泉八雲)の「生ける神」/中井常蔵の「稲むらの火」
四 明治維新と改革のこころざし
 紀州藩改革への取り組み/自由民権運動と梧陵
五 今日から見た梧陵―むすびにかえて
 経営者としての梧陵/防災の観点から

12.10月8日

 ”アパートホテルで巡る欧州 ”(2010年3月 中央公論新社刊 山内 英子著)は、アパートホテル、修道院、プチホテルなどの宿泊スタイルを組み合わせた新しい形の欧州の旅を紹介している。

 アパートメントホテルは、キッチン、家具、調理器具、食器類、電話、ランドリーなど生活に必要な設備が整った短期アパートである。ホテルでは望めない広いスペース、自分の家のようにリラックスできる環境で、入居当日から海外生活がスタートできる。旅行者ではなく普通に住んでいる家族もたくさんいて、建物の前にドアマンがいて、小さめのフロントがある。部屋の掃除やベッドメイキングはアパートホテルによりあったりなかったりするが、鍵は滞在中自分で管理する。すでに日本でも、いろいろなところで運営されているようである。山内英子氏は、山口県岩国市生まれ、山口大学教育学部卒業、日本プレスセンター・電気通信技術ニュース社勤務時代に、テレコムライターとしての猛特訓を受け、その後フリーランスとなり、経済、テレコム、教育、サッカー、美術のレポートを海外から寄稿している。著者がよく利用するお勧めのアパートホテル、修道院、プチホテルなどが紹介されている。アパートホテルはヨーロッパでは結構一般的のようで、旅行案内所で渡される宿泊施設案内にも一つのカテゴリーとして載っているほどであるという。海外での住まい探しの期間の仮宿として、また6カ月未満の海外出張の宿舎として、アパートメントホテルはとても快適のようである。リビングルームが付いた部屋は、寝室と食スペースを分けることによって広々とした空間がえられる。ランドリー付きなので、かさばる洋服も最小限でよい。生活に必要な家具・家電がそろっているので、長期滞在でも、生活用具をイチから準備する煩わしさがない。自炊ができ、合理的かつ健康的な生活を送ることが可能である。現地の友人、同僚を入室させることができる。利用は日本からも、電話、FAX、E-mailで滞在期間、予算、人数を連絡して物件を決めて予約することができる。一部のトラベルサービス会社でも取り扱っているようである。施設に滞在するということなので、観光主体の移動というよりはその地にゆっくりと滞在して生活するような感覚を楽しむ旅行に合っている。紹介されているアパートホテルは大体一泊30~50ユーロで、住所や電話番号も記載されている。いまユーロはだいぶ安くなっているので、宿泊には追い風が吹いているようである。

入門編 有名観光地を違った視点から
 快適な“パリ市民”になる―パリ(フランス)、修道院施設での宿泊を楽しむ―ローマ(イタリア)、古城ホテルに泊まるチャンス―モン・サンミッシェル(フランス)
基礎編1 アパートホテルという選択
 上手なアパートのカギの受け渡し術―フランクフルト(ドイツ)、住人同士の交流は旅の醍醐味―ラコルーニャ(スペイン)、とことんシティライフ―ポルト(ポルトガル)、「日本食」への抑えがたい欲求―セヴィリア(スペイン)、滞在のヴァリエーションを楽しめる大都会―マルセイユ(フランス)
基礎編2 異空間を味わえる都市&ホテル
 “壁”の向こう側にあった秘境―クヴェトリンブルク(ドイツ)、歩いて国境を越える―スウビツェ(ポーランド)、現代版ルネサンスを謳歌できる城郭都市―チェスター(イギリス)、屋根裏部屋で満天の星を眺める―チェスカ・トレボヴァ(チェコ)、家族経営のペンションを拠点に―カダケス(スペイン)、プチホテルで過ごす南仏―ニース(フランス)
応用編1 町と町をつなぐ
 夜行フェリーの船室に泊まる贅沢―マヨルカ島→イビザ島(スペイン)、夜行列車でイタリアを脱出
応用編2 旅はどこまでも続く
 地中海の絶景を独り占め;町に楔を打ちこんで;短期間でも利用できるルームシェア

13.10月15日

 ”仏教の身体感覚 ”(2010年5月 筑摩書房刊 久保田 展弘著)は、仏教の論理的な問題として語れない仏教信仰の世界を身体感覚という観点から考えている。

 多様なインドに、なぜ人間の一生を見据えたゴーダマーブッダによる思想・哲学が生まれたのか。坐る、称える、瞑想することで身体性を強めることによって大衆を救済する宗教となった仏教は、老病死に向き合う高齢者にどう応えられるのか、生きることに虚しさをおぼえる人々にどう語りかけることができるのであろうか。久保田展弘氏は、1941年生まれ、早稲田大学卒業、アジア宗教・文化研究所代表で、神教世界を多岐にわたるテーマから追究し独自の宗教研究を展開している。著者自身、60歳を機に老病死が間違いなく自分の人生そのものとして実感されるようになり、仏教のもつ意味があらためて自分の問題として迫ってきたという。だが仏教が、高齢社会の只中にあって老病死に向き合う人間の何になるというのであろうか。そもそも手がかりは、20歳を間近にした年の春にはじめた座禅の実践にあったという。呼吸法を伴う身体感覚を通して、大地と地つづきの自分を実感し、呼吸が絶えず大地をつらぬいてゆくような感覚が、自分自身を解放し、同時に周囲と世界とつながっているという思いを広げてくれた。仏教をいかに身体感覚によってわかるようになるか。きのう、きょう、明日への思いに、仏教がどう響き合うのか。ブッダは、人間存在、あらゆる生命の在りようそれ自体の限界を認識した上で、そこに生まれる無限におよぶいのちの関係、つながりを慈しみということばとともに説いた。仏教は、呪術性と身体性を強めることによって、人々を救済する宗教となった。宗教は信仰の世界の話であり、論理の積み重ねだけで語ることはできない。この10年、いまほど仏教が身近に、自分の問題と思えるときはない。それはいま世界が直面し、その渦中にある問題とも決して無縁ではないからである。いま、誰もがいのちの危機にさらされ、情報社会といわれるなかで、人間関係は恐ろしく稀薄になっている。ここで、互いが常ならぬいのちであること、縁を説いてきた仏教があらためて問われなくてはなるまい。

はじめに 日本という宗教風土と仏教
第1章 ブッダとダルマ―仏教を実感するとき
第2章 縁起・空、そしてこころの変革
第3章 仏教の変容と救済―インドから中国・日本へ
第4章 法華経―現世に向き合うとき
第5章 浄土教と日本人の霊魂観
第6章 華厳経の現代―その世界観・生命観
終章 いのちという身体感覚

14.10月22日

 カダフィ大佐

 カダフィ大佐はニックネームのようなものであろう。リビアでは、元軍人に敬意を払うため、退役した時の最終階級で呼ばれる慣習があるという。ムアンマル・アル=カッザーフィーは、リビアの独裁者であった。カッザーフィーが敬愛するエジプトのナーセル大統領が陸軍大佐であったから、それに倣ったということらしい。本人は、リビアには公式には直接民主制を標榜して政府や国家元首は存在しないということから、リビア最高指導者および革命指導者と言っていたようである。かつて中東で最も反欧米の強硬派だったことや、数々の極端で奇怪な言動から、砂漠の狂犬とかアラブの暴れん坊とか呼ばれていた。1969年のクーデター以来、リビアの実質的な国家元首を務めてきた。2009年2月から2010年1月までの期間は、アフリカ連合の議長も務めた。2011年リビア内戦の結果、首都トリポリが8月23日に反体制派リビア国民評議会の手に落ち、カッザーフィーの政権は事実上崩壊した。そして、10月20日にカッザーフィーの死亡が確認された。カッザーフィーは、1942年にベドウィンの子としてスルトで生まれ、ムスリムの学校で初等教育を受けた。1956年のスエズ危機で反イスラエル運動に参加し、ミスラタで中等学校を卒業した。1961年にベンガジの陸軍士官学校に進み、仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始めた。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となった。1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行した。病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功した。11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が共和国の最高政治機関となることが宣言された。1974年に革命評議会議長職権限をジャルード少佐に委譲したが、カッザーフィーは退任しなかった。1977年の人民主権確立宣言により、初代全国人民委員会書記長に就任した。1979年からは全国人民委員会書記長を辞任し一切の公職を退いたが、革命指導者として2011年まで実質上の元首としてリビアを指導していた。2011年2月、カッザーフィーの辞職を求める大規模な反政府デモが発生し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが、欧米を中心とした軍事介入を招いた。2011年6月27日、国際刑事裁判所は、人道に対する罪を犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求した。その後、反政府勢力により首都全土が制圧され、8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退した。独裁政権は事実上崩壊し、とうとう、昨日、反カダフィ派のシルト攻撃が午前8時ごろ始まり、最後の攻防は約90分間続き、NATO軍機がシルト付近を走行中のカダフィ派の軍用車を空襲し、シルトから離れようとした100台の車の中にカッザーフィーがいたとの情報がある。そして、排水溝トンネルに潜んでいたところを反カダフィ派の戦闘員が発見、拘束された。地面で複数の男に蹴られ、大佐は耳や鼻、口から血を流し、カーキ色の衣服は引きちぎられていた。黄金の銃を持ち、上半身裸の状態で道路を引き回された。最後は、カッザーフィーは「何をする」と話し、「撃つな、撃つな」と懇願した後、降伏した。そして、銃殺されて、遺体は非公開の場所に搬送されたそうである。一方、シルトやトリポリは、祝賀ムード一色となったようである。独裁者の最後は、みな哀れなものだと思った。

15.10月29日

 ”船旅の愉しみ クルーズ入門 ”(2005年8月 青春出版社刊 米山 公啓著)は、時間と遊び人々と出会う客船でめぐる優雅な世界の船旅の船上での愉しみ、予約から乗船までクルーズ航海記などを紹介している。

 クルーズは客船に乗って、様々な港に寄港し世界を回る旅である。豪華客船で世界一周というイメージもあるが、クルーズは身近な旅になってきている。米山公啓氏は、1952年山梨県生まれ、医学博士、専門は神経内科で、臨床医として多くの患者の治療に当たりながらエッセイ、ミステリー、実用書などの執筆を行い、年間1ケ月以上は世界中の船に乗ってクルーズ取材を続けている。クルーズには、ワールドクルーズとショートクルーズがある。ワールドクルーズは世界一周をしている船のことで、アジア、ハワイ、オセアニア、ニュージーランド、中東・アフリカ、地中海、北欧、北米・アラスカ、カリブ海、南米、南極などのクルーズがある。海外のクルーズ船は非常に数が多く、船会社もたくさんある。大型船は乗客数1,000人以上、中型船は500人から1,000人、小型船は500人以下である。カジュアル船は1泊70ドルから300ドル、高級船は1泊150ドルから600ドル、超高級船は1泊400ドルから20,000ドルである。90日ほどかけて世界を一周するワールドクルーズの場合、安い部屋だと150万円、スイートだと1500万円くらいの料金設定が平均的である。日本船では、飛鳥、にっぽん丸、ぱしふぃっくびいなす、ピースボート、ふじ丸が紹介されている。日本船のスタンダードの部屋では、夫婦で乗船して1人350万円程度である。ショートクルーズは、数日から10日程度の期間のものである。ショートクルーズなら、料金も数10万円程度からとやや現実的である。長期間のクルーズに参加する前に、ショートクルーズをためすことで、港や停泊中の過ごし方など船上での時間の過ごし方や必要なものがわかってくる。船内にはカジノやシアター、図書館などの施設が、また、船外では寄港する街をバスなどで案内してくれる寄港地ツアーなどがある。船上の愉しみは、ダンス、食事、寄港地ツアー、エンターテインメント、カジノ、習い事、運動、図書室、パーティ、船内見学ツアー、フォトショップ、船内店舗、プールサイド、映画館などである。旅行中に退屈することはなさそうである。船に乗るときの必需品や注意点、さらには、乗船記まで幅広く紹介されている。初心者はやはり日本の船がいいようである。日本船は日本語が中心で、乗務員の接客態度が良く、行き届いたサービスと一流地上レストラン並みの繊細な料理が楽しめる。しかし、何といっても、クルーズでの究極のぜいたくは、何もしないで、のんびりした時間を満喫し、船旅だけを楽しむことのようである。

1章 クルーズとは
2章 日本の客船と世界の客船
3章 船上での愉しみ
4章 予約から乗船まで
5章 海外クルーズコース
6章 クルーズ航海記
付章 クルーズの疑問に答える

16.平成23年11月5日

 ”作家の条件 ”(2004年4月 講談社刊 森村 誠一著)は、小説界のトップランナーが明かす作家になるための条件を中心に、多岐のテーマにわたって、新聞、雑誌等に発表した文章を集めたエッセイ集である。

 中心は、最初の作家になるための条件のエッセイである。作家になる3つの方法、短編と長編の組み立て方の違い、トリックを思いつく訓練、ベストセラーは結果にすぎないなどについて語られた小説家を目指す人へのメッセージとなっている。森村誠一氏は、1933年埼玉県熊谷市生まれ、青山学院大学卒業、9年余のホテルマン生活を経て、1969年に江戸川乱歩賞、1973年に日本推理作家協会賞、2011年に吉川英治文学賞、2004年に日本ミステリー文学大賞を受賞し、精力的な執筆活動を行なっている。大学卒業時点は、就職不況時代であったため、本人の希望しなかった大阪のホテルに就職し重役の娘と結婚するが、後にホテルニューオータニに転職した。ホテルマン時代の自分の個性を徹底的に消す職場環境を、鉄筋の畜舎と感じたという。内容は、文芸論、交友録、美術論、政治論、人生論、趣味等、多岐のテーマにわたっている。数年前、作家志望の人口は500万人と推定されたが、かなりいいかげんな数である。だが作家予備軍が多いことは確かである。日本の場合、日本語が読み書きできれば、だれでも自分の人生という小説は書ける。だが、小説が日記と異なるところは、読者の存在である。読者なき小説は、小説とは言えない。小説に限らず、すべての創作物は受取り手がいて、初めて成立する。それも少数ではなく、ある程度のまとまった 受取り手に支持されて成立する分野である。生存のための条件が満たされると、人間は自分が社会において認められていることの証明を求めるようになる。社会における存在の証明であるから、社会、すなわち受取り手が認めてくれなければ意味がない。創作物は作品の共有者が多ければ多いほど価値を増すという性質を持っている。これを書かなければ生まれてきた意味がないというほどおもいつめて書いたものが作品として結晶し読者に支持され、その副産物として名声や収入が得られれば、作家冥利、これに尽きると言えるであろう。利益を目的とするビジネスと異なり、まず表現欲ありきが作家志望の主流と言えよう。小説を書くための鉄則はない。だれがなにをどのように書こうと自由である。一方で、作品本位から新刊中心主義、売上げ至上主義に移行した今日では、書店に置かれる書物のライフサイクルが速くなっている。どんなに内容のよい本でも、売れる見込みのない本は書店の店頭に置かれることもなく、開梱されないまま、出版元に返送されることもあるという。書店と出版社に求められるものは作品の質ではなく、読者の数である。読者は、人生いかに生くべきかという重い命題から、娯楽、時間潰しまで、読者の好みや、生活環境、精神の状態などによってさまざまである。だが、一貫して求められるものは、面白さである。一口に面白さと言っても種類がある。一般から遊離せず、また文芸と通俗の間に一線を画すものは、作者の志であるとおもう。読者に迎合した、読者の背丈以下の作品は、通俗に堕する。読者の背丈以上、あるいは読者に対抗する作品は、読者との間に知的葛藤を生じて、読者の背丈や、知的面積を引き延ばす。作者の志と独りよがりを混同すると、読者から遊離してしまう。志は作者それぞれによって異なるが、志のある作品は風格があり、香りが高い。志なき作品は下品であり、臭気を放つ。だが、志が重すぎるとエンターテインメント性を圧迫する。現役の作家であるためには、常に作品を生みつづけなければならない。膨大な作品を積み重ねようと、またどんな名作、傑作を発表しても、書くことをやめた瞬間から、本質的に作家ではなくなる。作品が残っていても、それは作家が残っていることではない。年間500人近く誕生する作家の中で、生き残っていくのは3人ないし5人と言われているが、一時、洛陽の紙価を高めた 作家が、突然消えてしまうことも珍しくない。今日の作家は、単に机の前に座っている持久力だけではなく、年月の風化に耐える継続力が求められる。作家の武器は文章であり、文体である。文体は作者の文章のスタイルであり、個性である。作家独特の誤字・誤用も文体の一部になる。作者名を隠しても、作者が当てられるような文章が文体である。作家が言葉を失うことは、武器なき軍と同じである。文化の原点は、まず言葉であり、人間の間にコミュニケーションが生じて社会が形成されてきた。言語を守ることは、作家の重大な責任である。

第1章 作家の醍醐味
第2章 芸術を堪能する
第3章 芳醇なる邂逅
第4章 日々を満喫する
第5章 年月の味わい

17.11月12日

 ギリシャの財政危機

 ギリシャ共和国は地中海文明のルーツの一つで、半島に加えエーゲ海を中心に存在するおよそ3,000もの島によって構成され、複数の文明の接点に位置している。面積は131,940km?(94位)、人口は2008年で11,161,000人(74位)、GDPは3,575億ドル(26位)、1人あたり30,534ドルとなっている。ギリシャでは2009年10月に政権交代が行われたが、パパンドレウ新政権下で、旧政権が行ってきた財政赤字の隠蔽が明らかになった。従来、ギリシャの財政赤字はGDPの4%程度と発表していたが、実際は13%近くに膨らみ債務残高も国内総生産の113%にのぼっていた。2010年1月に欧州委員会がギリシャの統計上の不備を指摘したことが報道され、ギリシャの財政状況の悪化が表面化した。政府は財政赤字を対GDP比2.8%以下にするなどとした3カ年財政健全化計画を閣議で発表したが、格付け会社はギリシャ国債の格付けを引き下げ、債務不履行の不安からギリシャ国債が暴落した。株価もその影響を受け、世界各国の平均株価が下落し、ユーロも多くの通貨との間で下落した。国内では、2月から断続的にストライキ、デモが行われた。4月に欧州連合統計局が発表した財政赤字は、13%近くではなく13.6%であることが発表された。2011年7月に格付会社ムーディーズは、既に投機的等級にあるギリシャの格付けをさらに3段階引き下げて従来のCaa1をCaとした。9月に欧州委員会・IMF・ECBの3機関で構成される合同調査団が、デフォルト回避に必要な次回融資を受けるにふさわしいかを判断するため調査する見通しとなった。10月にギリシャ政府が財政赤字削減目標未達となる見通しを発表したため欧州金融市場は再び悪化し、ギリシャがデフォルトとなる可能性が高まった。欧州諸国は債務危機に対応するために、ギリシャ債務の民間投資家の損失負担を50%とし欧州金融安定ファシリティの融資能力を拡充するほか、2012年6月まで銀行の資本増強を決めた。しかし、パパンドレウ首相が第2次支援策の受け入れについて国民投票を実施すると発言したため、金融市場は再び不安定化し内外での反発が強まった。そこで、メルケル、サルコジの独仏首脳がパパンドレウ首相に対し圧力をかけて事態収拾に動き、国民投票は撤回された。パパンドレウ内閣の信任投票で僅差ながらも信任されたが、最大野党・新民主主義党のサマラス党首の会談がアテネの大統領府で行われ、両党による新政権を発足させることで合意した。そして、先日、ギリシャの新連立暫定政権の首相に、パパデモス前欧州中央銀行副総裁が就任することが決まった。ギリシャのほかスペインやポルトガルなどへ飛び火することも懸念されており、最近はイタリアやフランスも影響及ぶ恐れがありそうである。これから、しばらく、ヨーロッパから目が話せない。

18.11月19日

 ”福島で生きる! ”(2011年8月 洋泉社刊 山本 一典著)は、福島原発から31キロの避難区域の震災から100日の記録である。

 福島と出会って25年、定住して10年、第二の故郷を離れない。山本一典氏は、1959年北海道北見市生まれの田舎暮らしライターである。1985年から田舎暮らしの取材を始め、1986年に福島県都路村、現在の田村市都路町と出会い、15年に及ぶ交流を経て2001年に一家で都路に移住した。耕作放棄地面積日本一という不名誉な記録も持つこの県で、少なくとも1000人単位の都会人が移住または一地域居住を始めている。中でも移住者が多いのは、阿武隈山系の国道399号線沿いで、この事故で名が広まった飯舘村、浪江町の津島と赤宇木地区、川俣町山本屋、田村市都路町、川内村などは、隠れた田舎暮らしの先進地たった。著者はこの地で出舎暮らしの可能性を模索し、その楽しみ方を発信するだけでなく、ときには自らの体験から、田舎暮らしに甘い幻想を抱く都会人に警鐘を鳴らしたりしてきた。この地は生活の場であると同時に、ライフワークを追求する場でもあった。そこに起こった3.11の東日本大震災で、日本の福島は世界のフクシマになった。その代償として地震津波、原発事故、風評被害という4重苦を背負って、100日を過ぎた。しかしまだ、どれ一つとして問題は解決していない。むしろ事態は深刻さを増している。そして、近い将来にやってくるであろうもう一つの敵、無関心とも戦わねばならない。どうして福島が、4重苦、5重苦の責めを負わなければならないのだろうか。私たちこれまでは、東京の企業や住民が電気を使うために場所を提供してきただけである。自分たちが使う電気を、ここで発電してきたわけではない。国策という名のもとに、送電の権利すら東京に握られてきた。浪江町の赤宇木地区はいまでも毎時20マイクロシーベルト前後なのに対し、避難した常葉町は毎時0.2マイクロシーベルト前後である。単純に比較して100倍もの差がある。そんな危険なところにどうして留まっているのか、いますぐ他県へ逃げろと考える都会人も多いだろう。しかし、現実は異なる。現在、原発から21km地点と31km地点に住まいを持ち、市内二地域居住を実践中である。21km地点はさすがに人影が少ないものの、31km地点では空き家はほとんどない。阿武隈山系は地盤が強いため地震による被害はきわめて少なく、田んぼに水が張っていないことを除けば、昨年と同じ風景がここにある。移住者同士の交流やネットワークは、震災前よりも強固なものになっている。本書は、震災から100日間にわたる原発周辺地域の様子と田舎暮らしを継続する仲間たちの動きを記録したものである。

第1章 第二の故郷・都路との25年間(1986年~2011年3月10日)
第2章 まさかの避難指示(3月11日~3月20日)
第3章 「同心円」はおかしい!(3月21日~4月10日)
第4章 二地域居住で長期戦へ(4月11日~5月1日)
第5章 非日常が日常になる(5月2日~5月23日)
第6章 それでも福島で生きる(5月24日~6月18日)

19.11月26日

 ”3・11後 ニッポンの論点 ”(2011年9月 朝日新聞社刊 オピニオン編集部編)は、朝日新聞オピニオン面に掲載された識者80人が示す復興についての論考である。

 あの3.11から8か月が過ぎた。あの日から次々と届き始めた被害情報は、まるでひとつの時代の終わりを告げているかのようだった。東京電力の福島第一原子力発電所が制御不能に陥っていると知ったとき、それは後戻りできない現実になった。途方もない天災と人災は、おびただしい犠牲者や避難民を出し、町々を破壊しただけではない。社会の仕組みや価値観も根底から揺さぶった。その揺れは今も収まってはいない。政治は迷走を続けるばかりであった。立ちすくんでいるわけにはいかない。いったい何か起きたのかを理解し、これまでとは違う明日をどうやって築いていくか考えなければならない。新聞記者による識者80人からの聞き取りが行われた。被災した町の首長、政治家や経済人、専門家、知識人、市民運動家など、記者たちは、現場、永田町、研究室、外国へとさまざまな場所に赴き、多くの人たちから多様な意見を集めた。さまざまなテーマは、ほとんどが2、3人による対論の形式になっている。それぞれの問題についての賛成、反対など、幅広い考え方を理解できる。
 著者は次の通り。青木正男、赤坂憲雄、浅野史郎、安住宣孝、アドナン・アミン、安斎育郎、飯尾 潤、五十嵐太郎、石原茂雄、井戸謙一、今井 一、岩崎夏海、梅澤高明、ウルリッヒ・ベック、江上 剛、大崎 洋、大野更紗、大野順二、岡 素之、荻原博子、加納時男、川北 稔、河田恵昭、岸良裕司、熊谷 賢、郷原信郎、古賀茂明、小松正之、近藤誠一、指田朝久、佐藤 仁、ジム・ロジャーズ、ジョン・ダワー、城山英明、新村卓実、関 満博、竹田恒泰、武田 徹、多田欣一、田中俊一、田中伸男、田中康雄、辻野晃一郎、寺島実郎、十市 勉、冨山和彦、中空麻奈、中谷 元、中村敦夫、中村信悟、中村時広、長屋信博、西村賢太、橋爪大三郎、八田達夫、馬場 有、林 直樹、林 泰弘、林 芳正、原田正純、ピエール・ガーソン、平尾誠二、平野光将、藤垣裕子、藤沢久美、藤本 孝、古田敦也、何 祚麻、細川護煕、前原誠司、松浦正敬、松尾葉子、松本 哉、麿 赤児、水島朝穂、武藤敏郎、村井嘉浩、山路 徹、除本理史、吉原 毅。

第1章 震災と「社会」(再起、復興考、ほか)
第2章 震災と「政治」(原発のある町から、原子力と民主主義、ほか)
第3章 震災と「経済」(東電賠償、復興財源は、7ほか)
第4章 震災と「科学」(脱原発、津波はまた来る、ほか)
第5章 震災と「文化」(文化被災、原発とイデオロギー、ほか)

20.平成23年12月4日

 ”四季の公案 ”(2011年1月 佼成出版社刊 玄侑 宗久著)は、雑誌の2006年1月号~2010年11月号に掲載された連載を再編集して刊行されたものである。

 出版社は佼成出版社、雑誌は”ダーナ”である。ダーナとは、旦那の語源となっている古代インドの言葉で、もともとは布施を意味し、慈悲心、情け、思いやりを表しているという。人の心を田にたとえるなら、深く耕せば豊かな実りが得られるように、疲れた心も耕すことで豊かな気持ちが芽生える。日常のちょっとした見方を変えることで心が元気に豊かになる方法を提案している。”ダーナ”誌上で連載されていた著者の語り下ろしエッセイ”季節だより”が単行本化となった。玄侑宗久氏は、1956年福島県生まれ、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業、さまざまな仕事を経験したのち、1983年に京都の天龍寺専門僧堂に入門、1986年より福島県三春町の臨済宗妙心寺派福聚寺副住職となり、現在は住職を務める。僧職のかたわら執筆活動を続け、2001年に芥川賞を受賞した。公案とは禅の祖師達の具体的な行為・言動を例に取り挙げて、禅の精神を究明するための問題である。代表的な公案集に”無門関””碧巌録””従容録”などがあり、禅問答には定型的なものも多い。しかし、禅問答には知的理解が困難で非合理なものが多い。著者は四季の移ろいを公案に喩えた。日本には四季の変化がはっきりあり、季節ごとの風物に大きな変化を伴うからである。とくに植物は土地に地に根を張って生きている。学ぶべきはその覚悟と生き方である。自己が変化する際のゆらぎを、古人は風流と呼んだ。四季の移ろいや周囲の変化に身を沿わせ、公案として一体化しながら、ゆらぐ自分を風流として楽しむ。桃、竹、月など四季を表す21語を繙きながら、仏教によるものの見方や考え方に基づいて柔らかく編み上げている。挿入されている四季の写真が、とても綺麗である。

春、松、雪、節分、涅槃会、梅華、桃
夏、薫風、喫茶去、竹、青山、行雲流水、入道雲、施餓鬼
秋、お彼岸、月、西風、紅葉
冬、成道会、煤払い、餅つき、除夜の鐘

21.12月10日

 ”旅暮らし ”(2011年4月 野草社刊 立松 和平著)は、旅で出会った風景、世の移ろい、人々との交流などを綴ったものである。

 2010年2月に急逝した著者が、生前に野草社へ託した3冊のエッセイ集で、亡くなる直前までの10年間に書かれた文章から選んだ。立松和平氏は、1947年宇都宮市生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業、在学中から日本各地および海外を旅し、1970年に早稲田文学新人賞受賞、その後、種々の職業を経験しながら執筆活動をつづけ、1973年に宇都宮市役所に就職し、1979年から文筆活動に専念し、1980年野間文芸新人賞、1993年坪田譲治文学賞、1997年毎日出版文化賞、2007年泉鏡花文学賞、2008年親鸞賞を受賞した。人生は旅である。この世に生まれ、人生を生きて、あの世に去っていく。あの山の向こうにいかなくても、時間の旅をしている。時間の旅は一瞬もやむことがない。旅をしないでいることは不可能である。それならば雲を友としての心のままの旅もいいし、はっきりと目的を定めた旅もいい。私たちはどんどん旅をするべきなのである。旅のよいところの一つは、日常生活の側からではなく自分が本来持っている感性から対象を見ることができる点である。旅先では感覚を全開にしていなければならない。目の前に現われるものすべてを、柔軟に取り込んでしまう。そうすれば、自分はもっともっと大きくなることができる。日本全土ばかりでなく、この地球をも丸呑みにすることだってできる。この世の多様性を知ることが、私たちには何より必要である。あの山の向こうにいきたいし、海の向こうに何かおるのかを確かめたい。うまい料理や酒を味わいたい。見たこともないものを見たい。知る機会のなかった人とも出会いたい。大学にはいってからよく旅に出た。何処にいきたいというはっきりした目標があるわけではなかった。知らない土地にいき、これまで出会ったことのないものに出会いたいと思っていた。金がないので、いきおいヒッチハイクが多くなる。ヒッチハイクはあなたまかせの旅で、先方の都合で、当然ながらどこにでも降ろされる。日の暮れたところがその日の宿となった。一人用のテントを持って旅することもあった。何処にでもテントを張るというわけにはいかなかったが、これなら自由自在である。最初の外国の旅は、関釜フェリーで韓国の釜山行きであった。親切にしてくれる画家があり、あっちこっち連れていってくれ、またソウルのアトリエにも泊めてくれた。その後、台湾にいきなんとなく一周旅行した。こうして旅がはじまり、今もつづいている。旅は生きることなのだから。あらゆる機会をとらえて旅に出ようではないか。

1 北の大地へ
2 日本の原風景、東北へ
3 故郷、栃木へ
4 住む街、東京で
5 甲信越の山並みへ
6 西国へ
7 南の島へ
8 海の彼方へ

22.12月17日

 ”六十一歳の大学生、父野口富士夫の遺した一万枚の日記に挑む ”(2008年10月 文藝春秋社刊 平井 一麥著)は、サラリーマン生活が終わった後に実父の野口富士夫の遺した日記を読みながら整理していく様子を伝える。

 父親の残した日記は、永井荷風の「断腸亭日乗」にも比肩しうる膨大なものであった。そこには、貧乏と病気に苦しむ一家族の戦後史が眠っていた。平井 一麥氏は、1940年東京生まれ、父親は作家の野口冨士男氏、1964年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業して京成電鉄入社し、1978年に東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランド社に出向し、2002年3月にサラリーマン生活を終え、4月に、慶應義塾大学文学部社会学専攻に学士入学し、指導教授のすすめで大学院で研究をつづけた。野口冨士男氏は1911年東京麹町生れ、1913年に両親が離婚、慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいて、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが、留年し、1930年に中退、1933年に文化学院文学部を卒業した。卒業後、紀伊国屋出版部で「行動」の編集に当たったが、1935年に紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社し、昭和10年代に同人雑誌に執筆し、1936年から1937年まで河出書房に勤務し、1937年母方の籍に入って平井姓となった。第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員し、1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念し、約10年を費やして秋声の年譜を修正した。次いで、無収入同然で秋声の伝記を執筆し、そのころ、東京戸塚の自宅の一部を改造して学生下宿を営んだ。1965年に毎日芸術賞、1975年に読売文学賞、1980年に川端康成文学賞、1982年に日本芸術院賞、1986年に菊池寛賞を受賞し、1987年に芸術院会員となり、1984年から日本文藝家協会理事長を務めた。著者は1949年に小児結核になり、当時、輸入がはじまったばかりで高価だったストレプトマイシン注射で一命をとりとめた。小説家の父親はほとんど書けず無収入状態で、父の書籍や母の着物などを売りに売って、なんとか生計を維持していた。小学校高学年から中学に入りたてのころ、作家とはあまりに辛く、むごい生活であることを知ったため、決して作家になることだけはやめようと思ったという。だた、日記を整理し小説やエッセイを読んでみると、生き方には通じるものがあると思った。父親には父親なりの考えがあって、自筆年譜には病気のことや麻雀屋をやっていたことは記されていないという。本書には、その事情や母親の献身的な苦労も書かれている。1993年3月に母親が78歳で亡くなり、父親は同年11月に82歳の生涯を閉じた。著者は、当時、52歳でケーフルテレビ会社勤務だった。2005年に誕生日を迎えたとき65歳になることに気づいて、大学院生活を中断して父親の日記整理の生活にシフトした。父親の日記は1933年から途中若干の中断はあるものの、死を迎える1993年まで60年近くのものがあった。日記はプライベートなものなので、公開すると差しさわりがありそうな部分もあり、検討しながら日記をパソコンに打ら込んでいった。あっという間に2年半経ち、整理した日記は原稿用紙一万枚分を超えていた。2010年には古希となるので、父親の日記が近い将来、公刊されることを祈っているという。

第1章 六十一歳の大学生
第2章 父の遺した日記が一万枚
第3章 栄養失調症
第4章 わが家には完全に金がなくなった
第5章 スランプ
第6章 生きねばならぬ
第7章 文壇は甘くない
第8章 穴ごもり
第9章 目標の七十歳を過ぎて
第10章 定年のない文学者
第11章 父なりのダンディズムを貫き通せたのは・・・

23.12月24日

 ”1年は、なぜ年々速くなるのか ”(2008年11月 青春出版社刊 竹内 薫著)は、脳科学、心理学、生物学、哲学などの最新エッセンスから現代人の時間感覚を解明しようとしている。

 今年もあっという間に1年が経ってしまった。やはり歳のせいであろうか。いや、30代から50代という働き盛りの人でも、1年が速くなったと感じる人がいる一方で、70代でも、まったく1年が速くなったと感じない人もいるようである。体内時計が変化するのであろうか、忙しい現代人特有の感覚であろうか。竹内 薫氏は、1960年東京生まれ、東京大学理学部物理学科卒業、マギル大学大学院博士課程修了PH.D。難解に見える科学のエッセンスを一般向けにわかりやすく、おもしろく解説する筆力に定評がある。スケーリング仮説は、時計の振り子のように体内時計の時の刻みも身体の大きさに比例するという。子供の1年は決して速くない。長ずるにしたがい、体内時計は周囲と同じベースになってしまう。それまでたっぷりあったはずの時間はどこかに消えてしまい、人の1年は子供のころと違って速く終わるようになる。ペッベル仮説は、若者の今は3秒くらいだが歳をとるとともに今は間延びして5秒くらいになるという。働き盛りの人々の中で、年老いてゆく自分は周囲がクイックモーションの世界に感じられ、あっという間に1年が過ぎてゆくように感じられるにちがいない。右脳優位仮説は、歳とともに左脳の時計係がサボり始めるという。次第に細かい作業が辛くなり、計算速度が遅くなり言語能力も衰える。左脳の支配力が落ちた結果、右脳の機能が表面化し時間に追われて生きることが馬鹿らしくなってくる。しかし、現状では、脳科学者の見解にしたがい、右脳優位仮説は保留ということにしたい。加齢効率低下仮説は、歳のせいで身体と頭が効率よく働かなくなり、達成率が落ちるという。確かに、周囲との比較に気を取られていると、歳とともに仕事の効率が落ちるように見える。だが、それには、若者の仕事をすれば、という条件がつくことを忘れてはならない。周囲の若者との比較という条件のもとでは否定できないように思える。『魔の山』仮説は、記憶に残るような出来事が減り毎日が記憶に残らない単調な繰り返しになるという。トーマス・マンの『魔の山』には次のような一節がある。「どう考えてみても不思議なのは、知らない土地へやってきた当初は時間が長く感じられるということだ。というのは・・何もぼくが退屈しているというんじゃなくてね、逆に、ぼくはまるで王様のように愉快にやっている、といってもいいくらいなんだ。けれども、振返ってみると、つまり回顧的にいえばだね、ぼくはもうここの上に、どのくらいかよくわからないほど長い間いるような気がする。(高橋義孝訳)」そこで、歳のせいで身体と頭が効率よく働かなくなり達成率が落ちるという加齢効率低下仮説を『魔の山』仮説と呼ぶ。後で振り返ったときに、一年がカラッポであっという間に流れていってしまったのか、それとも、充実した出来事に彩られ記憶に鮮明に残っていてたっぷりと堪能できたのかは、周囲の人がスローモーションかクイックモーションかにかかわらず、自分自身の心の問題である。1年が年々速くなる理由の一部は、たしかに歳のせいである。でも、加齢による効率低下に関しては、周囲の若者と同じ土俵で勝負を続けているからそう感じるのであり、若者にはできない年の功の能力を生かすことができれば、一年が速く過ぎ去ることはないはずである。要は、自分の時間を取り戻すことである。

第1章 子供と大人で時間感覚が違うのはなぜか?-物理学からのアプローチ
第2章 体内時計は、身体のどこにある?-生物学的時間からのアプローチ
第3章 実感から立てた「5つの仮説」を考える
第4章 一年は、なぜ年々速くなるのか

24.12月31日

 回顧と展望

 今年は12月31日が土曜日に当たるので、振り返ってみると、今年は、3月の東日本大震災と大津波、9月の台風12号の記録的豪雨、そして、政治では野田政権が始動し、経済では記録的な円高になるなど大きな出来事があった。東日本大震災からもう少しで10か月であるが、まだ復興にはほど遠い状況のようである。国際的にも、ギリシャの財政破綻、リビアのカダフィ失脚、金成日の死去など、例年にも増して激動の年であった。日本については、スイスに本部を置く世界経済フォーラムが毎年行っている、世界各国の国際競争力に関する調査で、日本は高い技術力が評価される一方、巨額の国の借金が最下位と評価され総合評価で前年から順位を3つ下げ9位となった。財政の関係では、社会保障と税の一体改革が検討されている。社会保障の分野では、近く年金の減額が実施されそうである。来年度は今年の物価下落分0.3%を4月分から、10月分から、本来よりも2.5%高くなっている特例分の是正のためさらに0.9%分を減額するとのことであり、さらに13、14年度も0.8%ずつ引き下げるそうである。また別に、2007年から発動の予定だったマクロ経済スライドも同様に未実施で、この分が本来よりも年0.9%高くなっているとのことで、これも実行されるようになれば、ここ5年分4.5%引き下げになるのでろうか。一方、社会保障と税の一体改革案では、現在65歳の年金支給開始年齢を68~70歳へ引き上げることが盛り込まれていた。厚生労働省の労働政策審議会の部会は、企業に対し希望者全員を原則65歳まで再雇用するよう義務付ける報告書をまとめたそうである。こうしないと、無収入の不安定な期間が生じてしまい、いろいろな問題の発生する懸念があるためである。問題は、やはり財政赤字ではないか。民主党は、税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会の合同総会で、消費増税の時期を2014年4月に8%、15年10月に10%とすることで了承した。そうなると、増税によって景気の先行きが懸念される。来年は古来縁起の良い動物が象徴する辰年なので、景気の先行きを明るくしてもらいたいと思う。明けない夜はないので、希望を持ち続けることであろう。

25.平成24年1月7日

 ”良寛を歩く ”(1990年12月 集英社刊 水上 勉著)は、子どもらと戯れ、詩作三昧に暮らし、一所不在行雲流水を生きた良寛の足跡を歩く文学紀行である。

 良寛は、僧侶でありながら寺に住まず、経をよまず、弟子をとらず、野山で庶民の子らと手毬つきやかくれんぼをして、妻子もなく孤独な詩作三昧の暮らしぶりであったという。水上 勉氏は、1919年に福井県大飯郡本郷村で生まれ、旧制花園中学校を卒業し、1937年に立命館大学文学部国文科を中退した。9歳の時に京都の臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出され厳しさのため出奔したが、その後、連れ戻されて等持院に移り、10代で禅寺を出たのち、様々な職業を遍歴しながら小説を書いたり会社経営をしたりした。会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的にも恵まれないことが多かったようである。2004年に肺炎の為、長野県東御市で亡くなった。本書は、禅僧として雲水を生きた良寛ゆかりの地である、木崎、分水町、出雲崎、備中玉島、京都、寺泊、郷本、野積、和島村に良寛和尚の足跡をたずねて歩いたときの記録であるが、最初は、群馬県新田町の木崎宿から始まっている。新田町は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵した生品神社のある町で、木崎は中山道の宿場町である。そこの宿屋に飯盛女として売られてきて客をとらされ短く苦しい生涯をおくった人の中に、良寛に近しい地蔵堂町出身の娘たちがかなりいたことが、大通寺という寺に残された墓石から確認されるという。その没年から数えると、娘たちは幼いときに良寛様とまりつきをして遊んだ童女たちであった可能性があると考えられる。娘たちの平均死亡年齢は数え年20歳そこそこで、一番若い娘は12歳であった。幼いころ、越後で良寛と手毬唄を歌い、遊んだ娘もいたかもしれない。遥かな故郷を思い、良寛と遊んだ日々を思い、涙してこの地で果てていったのはないか。そこで、娘たちの里である地蔵堂町、いまの分水町を訪ねる。そして、良寛のひととなりを知ろうと、生まれてから22歳まで育った出雲崎を訪ね、次に、得度剃髪して良寛と称し修行した備中玉島円通寺を訪ね、次に、諸国行脚ののち、父以南が桂川で入水し77日法要を行った京都を訪ね、次に、38歳で越後に戻り糸魚川の円明院で病臥したあと、39歳で仮住まいした郷本を訪ね、次に、40歳から住んだ国上山五合庵を訪ね、次に、59歳から住んだ杉木立の乙子神社庵を訪ね、46歳のとき一時住んだ詩人たちの里、野積村の西生寺を訪ね、次に、墨書で乞食した分水町に戻り、次に、遷化の地である和島村島崎の木村元右衛門家を訪ね、最後に、74歳で亡くなり埋葬された隆泉寺木村家の墓を訪ねている。

 うらを見せおもてをみせてちるもみぢ

26.1月14日

 ”経済学の名著30 ”(2009年10月 筑摩書房刊 松原 隆一郎著)は、スミスから、マルクス、ケインズ、センまで、厳選30冊の核心を解説し経済学が本質的にどのようなものなのかを教えてくれるガイドブックである。

 市場経済はいかにして驚異的な経済成長を可能にするのか、社会が豊かになっても貧富の格差が拡大するのはなぜか、資本主義が不可避的にバブルや不況を繰り返す原因はどこにあるのかなどなど。古典は、それぞれの時代の経済問題に真っ直ぐ対峙することで生まれたものであるが、直面する現下の危機を考えるうえで参考になる知見に満ちている。松原隆一郎氏は、1956年神戸市生まれ、東京大学工学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程修了、東京大学大学院総合文化研究科教授、専攻は社会経済学、相関社会科学である。古典的著作のうち、現在の主流派経済学に受け継がれた部分のみを切り離して紹介するのではなく、その経済学者が生きていた具体的な時代状況の中で何を意図して書かれた著作なのかを辿りながら思考の本質を探っている。経済学の古典全体を休系づけるような枠組みを示すことはできないが、ブローデルが書いた市場経済と資本主義という対比は便利である。経済とは貨幣と商品の交換の連鎖であるが、その連鎖を商品が商品と交換されるように見るのが市場経済であり、貨幣がより多くの貨幣を心たらすように見るのが資本生義である。市場経済という見方においては、商品やそれとかかかる技術や欲望が主役であって貨幣はあまり強調されず、資本生義という見方では貨幣や資産が中心に据えられて商品は背後に退いていく。市場経済はヒューム、スミス、リカードから新占典派々ハイエクによって論じられた。技術や欲望の革新を扱ったシュンペーターやヴェブレン、ボードリヤール、個人ではなく集団に注目したリストやマーシャルもこの系列に置くことができる。このグループは、多くの場合、金融市場を実物経済と両立しうるものとみなしてきた。資本主義は、スチュアートからマルクス、ケインズのように、貨幣そのものを蓄積しようとする人間の性向を重視した人々によって論じられた。貨幣を使うに際しての個人の自己決定が不可能になってしまうような不確実性や不安に注目したという点では、ナイトやポラニーもこの一団に含められるかもしれない。この一団は、資本主義と市場社会の間に矛盾が横たわっており、資本主義を、ときに市場経済に襲いかかるものとしてとらえてきた。実物経済をも侵す今次の金融危機は、20世紀前半の大恐慌に続く資本主義の市場経済に対する逆襲である。混沌として見える経済の現在を少しでもよく理解し、闇としか思えぬ未来に一歩踏み出すために、古典は考えるヒントを与えてくれるに違いない。

Ⅰ ロック「統治論」、ヒューム「経済論集」、スミス「道徳感情論」、スチュアート「経済の原理」、スミス「国富論」、リカード「経済学および課税の原理」、リスト「経済学の国民的体系」、JSミル「経済学原理」
Ⅱ マルクス「資本論」、ワルラス「純粋経済学要論」、ヴェブレン「有閑階級の理論」、ゾンバルト「ユダヤ人と経済生活」、シュンペーター「経済発展の理論」、マーシャル「産業と商業」、ナイト「リスク・不確実性および利潤」、メンガー「一般理論経済学」、ロビンズ「経済学の本質と意義」
Ⅲ バーリ=ミーンズ「近代株式会社と私有財産」、ケインズ「雇用・利子および貨幣の一般理論」、ポラニー「大転換」、サムエルソン「経済分析の基礎」、ケインズ「若き日の信条」、ハイエク「科学による反革命」、ガルブレイズ「ゆたかな社会」、ハイエク「自由の条件」、フリードマン「資本主義と自由」、ドラッカー「断絶の時代」、ボードリヤール「消費社会の神話と構造」、ロールズ「正義論」、セン「不平等の再検討」

27.1月21日

 ”仏教への旅 ブータン編”(2007年6月 講談社刊 五木 寛之著)は、NHKの番組の取材に伴い訪れたチベット伝来の密教の国、ブータンの仏教の幸福と日々の祈りを伝えている。

 ブータンはヒマラヤ東麓の九州ほどの大きさの小国で、人口は70万余である。ワンチュク国王は、1980年生まれ、第5代ブータン国王で、オックスフォード大学モードリン・カレッジ政治学修士、2011年現在、世界最年少の元首である。2011年5月20日に平民ながら遠縁の女性ジェツン・ペマと10月13日にプナカで結婚式を挙げ、最初の外遊で王妃とともに日本を訪問された。テレビでもよく紹介されたので、記憶に新しい。ブータンは、インドと中国にはさまれた世界唯一チベット仏教ドゥク・カギュ派を国教とする国家である。民族は、チベット系8割、ネパール系2割である。急速な近代化のなかで、近代化の速度をコントロールしつつ、内陸の農村部に強い影響を受けた政治的立場や、全体主義的な伝統を維持しようとする政治に注目が集まっている。特に、前国王が提唱した国民総生産にかわる国民総幸福量 =GNHは最近富に有名になった。五木寛之氏は、1932年に福岡県八女市に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、両親は若くして亡くなり、1947年、第二次世界大戦・終戦を受け、平壌から福岡県に引き揚げ、1952年に早稲田大学第一文学部入学するも、1957年に学費滞納で抹籍された。1966年に第6回小説現代新人賞、1967年に第56回直木賞、1976年に第10回吉川英治文学賞、2002年菊池寛賞、2002年にブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門賞、2004年仏教伝道文化賞、2009年にNHK放送文化賞を受賞した。新しい世界仏教の波を感じつつ、インドからはしまったNHKの番組の取材の旅のなかで、もっとも不思議な思いを抱いたのがブータンでの日々であり、ごく短い潜在だったが、帰国するときに、立ち去りがたい感じを強く受けたという。ブータンの地を踏んで最初に感じたのは、この風景はいちど前に見たことがあるというものであった。しかし、ブータンは日本に似ているという印象は、やがて少しずつ変化していき、同じ仏教の姿がこれほどちがうものかと衝撃を受け、そのうち、日本とは似ても似つかぬ国だと、少しずつ感じはじめた。ブータンで出会ったのは、目に見えないけれども、はっきりと一つの世界が存在する実感だった。ブータンには、テレビもあればインターネットカフェもあるが、いわゆる近代化とは一線を画した独自の文化が保たれている。心にしみわたっていったのは、人間の幸福といものに関する物差しのちがいだった。至る所に経文を書いた幟がはためき、ブータンの人々はマニ車を回して祈り、皆のより良い生まれ変わりを願っている。 決して商売繁盛・家内安全などの現世利益ではない。今日を生きるということが明日を生きることであると、はっきり信じている。全てがつながり、前世も来世も連続性の中にあるので、死後49日で次の生を受けるから墓は必要ないという。これに対して、日本人はそれぞれがバラバラの見かたをして生きている。服装や風景などの共通点をはるかに超えて大きなちがいを示していいて、超えることのできないへだたりがあるように思われてならないという。

第一章 風の国へ
第二章 チベット密教の化身
第三章 ブータン仏教の幸福
第四章 日々の祈り

28.1月28日

 貿易赤字

 2011年の貿易統計で、日本は輸入額が輸出額を上回り、貿易収支は2.5兆円の赤字となった。年間の貿易赤字は、第2次石油ショックの余波を受けた1980年以来、31年ぶりである。これまで、貿易黒字といえば日本の代名詞だった。日本の輸出大国という看板が揺らぎ、韓国では、日本の時代は終わったという論調が見られる。今回の貿易赤字は、2011年に起きた東日本大震災に伴う自動車などの減産と、歴史的な円高によって輸出が減少し、一方で、原子力発電所の事故を受けて国内の原発が相次いで停止し、火力発電の燃料となる液化天然ガスなどの輸入が急増したことが響いた。今回は特殊要因によるところが大きいが、海外経済の悪化による輸出低迷が続き、貿易赤字が長引く懸念は拭えない状況である。今のところは、貿易赤字となっても10兆円を超える海外からの利子・配当収入で、経常収支の黒字は確保している。しかし、これからの人口の高齢化を考えると、所得収支の黒字が貿易赤字を帳消しにするほど伸び続けるか定かでない。貿易赤字が長期化し経常赤字に転落すると、財政危機が深刻化する恐れがある。今のところは、国内の潤沢な資金が、国債の9割以上を支えている。しかし、すでに主要国一の借金を抱えている上に経常赤字となると、近い将来はリスクに敏感な海外の資金に頼らざるをえないことになる。そうすると、ふとしたことで国債が売られ、長期金利が急騰する可能性が高まる。内需の縮小が見込まれ中で、今後は輸出競争力の回復と外需獲得に重点を置いた戦略がいっそう重みを増して来そうである。

29.平成24年2月4日

 ”父でもなく、城山三郎でもなく”(2011年8月 新潮社刊 井上 紀子著)は、2007年3月22日に亡くなった父・城山三郎のひとり娘によって描かれた珠玉の書き下ろしエッセイである。

 亡くなった直後から、父が城山三郎であったことを日々痛感することになった娘から見る気骨の作家の素顔と夫婦愛、死によって深まる親との新たな絆が書かれている。井上紀子氏は、1959年に作家・城山三郎の次女として神奈川県茅ヶ崎市に生れ、1982年に学習院大学文学部国文学科を卒業後、同大学院へ進学、1985年に同大学院人文科学研究所博士前期課程修了を終了した。城山三郎(1927年 - 2007年)氏は、経済小説の開拓者で、伝記小説、歴史小説も多く出している。名古屋市生まれ、市立名古屋商業学校を経て、1945年に県立工業専門学校に入学、理工系学生であったため徴兵猶予になったが海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として特攻隊に配属になり、訓練中に終戦を迎えた。1946年に東京産業大学予科に入学し、1952年に改名された一橋大学を卒業した。父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学商業科文部教官助手に就任し、後に同大学文部教官専任講師となり、金城学院大学にも出講した。1957年から茅ヶ崎に転居し、1963年から愛知学芸大を退職し、作家業に専念した。1958年に第4回文學界新人賞、1959年に第40回直木賞、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞、1996年に第44回菊池寛賞、2002年に朝日賞を受賞した。著者の中では、本名の杉浦英一と城山三郎は同じであって同じでないものだった。子どもから見ると世間一般のやさしい父であり、社会的評価を受けた作家の姿となかなかつながらなかったようである。そして、最期の父はこれまで見たこともない顔を見せた。それは父親の顔でも、ましてや城山三郎の顔でもない。全くの素の一人の人間としての笑みだった。それも、これ以上ない幸せそうな安らかな表情。これは紛れもない、亡き母への微笑みだった。一人の男として愛する人のもとへ旅立つときの顔。まさに至福の顔そのものであった。この、父親でも城山三郎でもない、一人の幸せな男としての笑みを残して、父はさらりと逝ってしまった。春のそよ風に乗って。この直後から、父が城山三郎であったことを日々痛感することになった。セピア色の半年が過ぎ、ふとそよぐ風に我に返った秋、十月。父、愛用の原稿用紙を前にペンを執った。本人が亡くなって初めて気付かされた城山三郎の大きさ、自分の中での存在感。遠ざけてきたはずの城山三郎の存在が、皮肉にも本人亡き後、大きな形と重みをもって眼前に現われた。そこで、自ずと一体になった父=城山三郎。こうして漸く、心から素直に答えられる瞬間が来た。父は城山三郎です。冒頭部に、家族の秘蔵の写真が掲載されて、最後に、澤地久枝氏の解説が掲載されている。

残照の中
出べそ
歌会始
親父の味
お久しぶりです
鈍・鈍・楽
天国での誕生日

30.2月11日

 ”林住期”(2007年2月 幻冬舎刊 五木 寛之著)は、50歳から75歳の25年間の林住期こそ人生の黄金の収穫期でありハーベストタイムにしなければと説く。

 人の人生は、山あり谷あり実に変化に富んでいる。まさに、喜びも悲しみも幾歳月である。古代インドでは、人生を4つの時期に分けて考えたという。学生期=ブラフマチャルヤは、師のもとでヴェーダを学ぶ時期である。家住期=ガールハスティアは、家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期である。林住期=ヴァーナプラスタは、森林に隠棲して修行する時期である。遊行期=サンニャーサは、一定の住所をもたず乞食遊行する時期である。この4段階は、順次に経過されるべきものとされ、各段階に応じて厳格な義務が定められている。古代インドにおいては、ダルマ=宗教的義務・アルタ=財産・カーマ=性愛が人生の3大目的とされ、この3つを満たしながら家庭生活を営んで子孫を残すことが理想とされた。一方、ウパニシャッドの成立以降は瞑想や苦行などの実践によって解脱に達することが希求され、両立の困難なこの2つの理想を、人生における時期を設定することによって実現に近づけようとした。林住期は、日本では初老とか老年と呼びなんとなく暗く、近づいてくる死を待てという感じがする。吉田兼好は、「死は前よりもきたらず」、つまり、死は前方から徐々に近づいてくるのではなく、「かねてうしろに迫れり」、つまり、背後からぽんと肩をたたかれ不意に訪れるものだと言った。人はみな生きるために働いているが、よく考えてみれば、生きることが目的で働くことは手段であるはずだ。ところが、働き蜂の日本人は、働くことが目的となってよりよく生きていない。生涯をなすべきこともなく、雑事に追われながら死にたくはない。家庭をつくり、子供を育て上げた後は、せめて好きな仕事をして生涯を終えたい。一度リセットして、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかけてみたらどうか。林住期は、社会人の務めを終えたあとすべての人が迎えるもっとも輝かしい第三の人生である。本来の自己を生かそう。心が求める生き方をしよう。金のために何かをするのではなく金のためにはなにもせず旅をし、自分は何者かということを見極める時期である。夫婦は愛情ではなく友情を育む時期である。著者は、林住期こそ人生のピークの時期であり、この時期を充実した気持ちで過ごしてほしい。これまで、たくわえてきた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなど自分が磨いてきたものを土台にしてジャンプしてみてはどうか。

人生の黄金期を求めて
「林住期」をどう生きるか
女は「林住期」をどう迎えるか
自己本来の人生に向きあう
「林住期」の体調をどう維持するか
間違いだらけの呼吸法
死は前よりはきたらず
人生五十年説をふり返る
「林住期」の退屈を楽しむ
五十歳から学ぶという選択
心と体を支える「気づき」
韓国からインドへの長い旅

31.2月18日

 ”ロスジェネはこう生きてきた”(2009年5月 平凡社刊 雨宮 処凛著)は、著者が、生い立ちから現在までの軌跡と社会の動きを重ね合わせて、いまの時代の息苦しさの根源に迫ろうとしている。

 2008年のリーマンショック以来、派遣切り、メンタルヘルス、自殺等に関して、ロスジェネが注目を集めた。ロスジェネとは、ロストジェネレーションのことで、別に、失われた世代とも言われる。本来は、1920年代から1930年代に活躍したアメリカの小説家たちである。しかし、欧米諸国では、20代の時に第一次大戦中に遭遇して従来の価値観に懐疑的になった世代も指している。日本では、1975年前後のまれで、1995年前後からの就職氷河期世代の別称となっている。雨宮処凛氏は、1975年北海道滝川市生まれの作家、社会運動家である。1歳の時からアトピー性皮膚炎に悩み、思春期にいじめ、不登校、家出、自殺未遂の経験をもち、10代後半にはヴィジュアル系バンドの追っかけをくり返した。大学受験の際、美大を二浪し、浪人の際アルバイトをしていた。数日で解雇されることが連続したことで自暴自棄になり、薬物過剰摂取で自殺未遂を経験した。球体関節人形作家天野可淡の作品に傾倒し、天野の仲間の吉田良に弟子入りした。粘土をこねて人形を作る際にアトピー性皮膚炎が悪化し挫折、リストカットを繰り返す日々が続いたという。20歳の時、自身の生きづらさから、今の日本はおかしいという違和感に駆り立てられて、右翼活動に身を投じた。ロリータ・ファッションなど外見と従来の右翼に対するイメージと活動内容のギャップから、ミニスカ右翼と呼ばれた。そして、2年間、右翼団体に属し、その時代に、ロックバンドを結成しボーカルを務めた。その後、徐々に右翼思想に疑問を抱くようになって左傾化し、生きづらさの原因の一つに、新自由主義の拡大があると考えるようになった。現在は、革新系、左派・左翼系メディアへ寄稿し、ゴスロリ作家を自称する左派系論者に転向している。さらに、近年は、プレカリアート=不安定な=precarious労働者階級=proletaria問題に取り組んでいる。2009年は、多くの人にとって最悪の年明けとなった。卒業を控えた犬学生たちの内定は取り消され、再び、就職氷河期が訪れようとしている。もし何も手が打たれず、ロスジェネの二の舞になってしまうのであれば、自分たちの世代はなんのために失ってきたのか溜息をつきたくなる。ただひとつ、ロスジェネでよかったのは、状況が厳しいからこそ考えざるを得なかったということである。他にはよかった部分は、残念ながら思いつかない。気になっているは、35歳になると内閣府のフリーターの定義から弾かれるということである。ロスジェネが失ったものは、就業の機会と、就業していたら得られた生涯賃金、結婚や子どもやローンを組んだ住宅、などなどである。それよりも大きいのは、生き方そのものの喪失だと言えないだろうか。どうしたら安心して、最低限、餓死や凍死、あるいは路上生活に移行せずに生きられるか、そのやり方か皆目わからないということである。フリーターの親の介護問題などもすでに起こり始めている上、低賃金ゆえ自立生活できない非正規雇用の若者は、親が死んだら首を吊るしかないと言っている。ロスジェネには時間がないのである。少し前までは、安心できる生き方のモデルは確実に存在していたが、その生き方を失ったのはロスジェネだけではない。いまでは、全世代が、雇用形態や年齢や病気のあるなし、障害のあるなしにかかわらず、いつどうなってしまうかわからないサバイバルな世界に突入してしまっている。

第1章 一九七五年生まれの生い立ち―豊かな日本と「学校」という地獄
第2章 バンギャとして生きた高校時代―野宿と物乞いとリストカットで終わった「バブル」
第3章 一九九五年ショック―『完全自殺マニュアル』からオウム事件へ
第4章 バブル崩壊と右傾化―小林よしのりと「日本人の誇り」
第5章 「生きづらさの時代」―世紀末から二一世紀の日本へ
第6章 ロスジェネが声を上げはじめた―二〇〇五年から現在、そして

32.2月25日

 ”21世紀 仏教への旅 インド編上”(2006年11月 講談社刊 五木 寛之著)は、2500年前に自由を求めて未知の世界を切り開いたブッダの生涯最後の400kmを辿って行く旅の記録である。

 ブッダは仏ともいい、悟りの最高の位である”仏の悟り”を開いた人を指す。基本的には、仏教を開いたお釈迦様がただ一人を仏陀とされる。かつて、NHKハイビジョンで”五木寛之 21世紀・仏教への旅 インド”が放映された。インドはふしぎな国である。そして、仏教とはふしぎな教えである。21世紀の仏教のゆくえを求めて、アジアからアメリカ、ヨーロッパまでの旅をするなかで、日ましにふくれあがっていくのがそのような思いであった。インドから帰国して、その印象は薄らぐどころか、ますます強まってくる。ブッダは80歳の時に、400kmに及ぶ最後の布教と伝道の旅に出た。パーリ所伝の”大般涅槃経”などにその時の様子が克明に記されているという。旅の中でブッダは、いかに老いを受け入れ、病に耐え、死を迎えたのであろうか。五木寛之氏は、1932年に福岡県八女市に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、両親は若くして亡くなり、1947年、第二次世界大戦・終戦を受け、平壌から福岡県に引き揚げ、1952年に早稲田大学第一文学部入学するも、1957年に学費滞納で抹籍された。1966年に第6回小説現代新人賞、1967年に第56回直木賞、1976年に第10回吉川英治文学賞、2002年菊池寛賞、2002年にブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門賞、2004年仏教伝道文化賞、2009年にNHK放送文化賞を受賞した。お釈迦様は、紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナの男子として現在のネパールのルンビニで誕生した。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚を開き、ブッダとなった。お釈迦様のもとへやってきた梵天の勧めに応じて、お釈迦様は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。涅槃の前年の雨期は、舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。お釈迦様最後の伝道は、王舎城の竹林精舎から始められたといわれている。安居を終わって、お釈迦様はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャクリハから開始されることになったという。プラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、ヴィルーダカとなった。ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、お釈迦様はまだカピラヴァストゥに残っていた。お釈迦様はカピラヴァストゥから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。そして、お釈迦様は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。ナーランダを通ってパータリガーマに着き、お釈迦様は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。ここは、後のマガダ国の首都となるパータリプトラである。お釈迦様はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、ヴァッジ国のコーリー城に着いた。次に、このコーリー城を出発し、ナディカガーマを経て、ヴァイシャーリーに着いた。この時、お釈迦様は死に瀕するような大病にかかったが、雨期の終わる頃には気力を回復した。やがて雨期も終わって、お釈迦様は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪ねた。托鉢から戻ると、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。お釈迦様は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラーに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マルラ族のサーラの林に横たわった。そこで尊師は、修行僧達に告げられた。私は、いま、お前達に告げよう。諸々の事象は過ぎ去るものである。我が齢は熟した。我が余命はいくばくもない。汝らを捨てて、私は行くであろう。私は自己に帰依することを成し遂げた。汝ら修行僧たちは、怠ることなくよく気をつけてよく戒めをたもて。その思いをよく定め統一しておのが心をしっかりと守れかし。この教説と戒律とに務め励む人は、生まれを繰り返す輪廻を捨てて苦しみも終滅するであろう。別れを惜しむ人々が数多く後を追ってきたが、ブッダは、彼らに戻るように説き、形見として自分の托鉢の鉢を渡した。ブッダは、紀元前386年2月15日に入滅した。実際にその道を行き、その河を渡り、その村を訪れることで発見したことは、今も鮮やかに心に刻みこまれている。ブッダこそはダイナミックな歩く人、旅する人であり、生涯の大半を精力的に人びとに語り続けた伝道者だった。ブッダが都市の新興階級を相手にその教えを広めていったこと、徹底して言葉で語る知者であると同時に、多くの民衆を無言のうちに惹きつける人間的魅力の待ち主であった。

33.平成24年3月3日

 ”花紀行 京都花の名所12カ月”(2004年2月 山と渓谷社刊 入江織美/土村清治著)は、京都の花名所を月ごとに紹介している。

 京都は四季の移り変わりが心から楽しめる街なので、京都に行きたくなったとき今どこがいいかすぐに分かって便利である。入江織美氏は、1949年生まれ、明治大学卒業後、出版社勤務などを経て現在、企画・編集プロダクション・オフィス入江を主宰している。土村清治氏は、1937年京都市生まれ、浅野喜市氏に師事し、1972年に『京の老舗』を皮切りに京都の風物、伝統産業、年中行事等の著書が多数ある。管理人は、2008年の3月下旬から4月上旬に2週間の休暇を得て、京の桜の名所をずっと見て回ったことがある。折々に咲き誇る京都の花は、数多くの社寺の見事な庭園や市井のあちらこちらで楽しめる。ここで紹介されている桜の名所は、ほんのより選りの場所だけである。ほかにもお勧めの良い所は、まだまだたくさんあると思う。中に、主な花の名所一覧と、京都年中行事一覧があって便利である。

4月 サクラ、ナノハナ、モモ、ユキヤナギ、コバノミツバツツジ、ミツガシワ、ヤマブキ、ハナズオウ、キリシマツツジ
5月 ツツジ、フジ、ボタン、シャクナゲ、シャガ、テッセン、カキツバタ
6月 サツキ、ハナショウブ、沙羅双樹、ボダイジュ、アジサイ、ユキノシタ、スイレン
7月 ムクゲ、ハス
8月 サルスベリ、キキョウ、フヨウ
9月 ハギ、シュウカイドウ、コスモス、ヒガンバナ
10月 キンモクセイ、ススキ、キク
11月 キク、ツワブキ、紅葉
12月 サザンカ、ウメモドキ
1月 ロウバイ、センリョウ
2月 ウメ
3月 ウメ、サンシュユ、カンヒザクラ、モクレン、ツバキ

34.3月10日

 あれから1年

 2011年3月11日午後2時46分に、くしくもあの2001年9月11日のアメリカで起こった同時多発テロから10年目に、日本で東日本大地震が発生した。あの大震災から1年が経つ。大震災では大津波が人と街をのみこみ、人々の暮くらしを一変させた。地震から約30分後、東北地方の沿岸部を大津波が襲った。宮城県大船渡市で高さ16.7mに達したと推定されている。岩手県宮古市では、津波は海面から約40.5mの高さの陸地まで駆け上がった。震源から離れた千葉県旭市でも、地震から2時間半後に押寄よせた7m超の津波による犠牲者が出た。防潮堤があっても、それだけでは命が守まもれないことが分かった。そして、宮城県気仙沼市などでは、沿岸部にあった燃料タンクが倒れて火災も発生した。福島県の福島第1原子力発電所を最大約13.1mの高さの津波が襲い、放射性物質が漏もれ出だす事故が起きた。いまだに復旧の見通しが立っていないところが多いようである。管理人はあの日、仕事をしていて、震度6の地震を経験した。建物の外に避難し、いったん建物内に戻って、また、大きな揺れで建物の外に避難した。特に変わりがない感じのビルが多かったが、隣のビルの窓ガラスはかなり割れていた。また建物内に戻ってから、余震を何度も経験した。少ししてから、帰宅の許可が出た。電車はほとんどストップしたので、家に帰れる人は、バスが使えれば長時間掛けてバスで、車の迎えがあれば長時間掛けて車で家に帰った。いずれも利用できなければ、歩いて帰れれば長時間掛けて歩いて帰り、歩くのが無理ならば長時間待機して、どこかで夜を明かして、翌日電車が開通してから家に帰った。まだ1年でもあり、もう1年でもあるが、1つの区切りの時を迎えて、はっきりした今後の展望が開けることを願っている。

35.3月17日

 ”静かに 健やかに 遠くまで”(2004年8月 新潮社刊 城山 三郎著)は、経済小説家として知られている著者の人間に対する深い愛情と洞察力が分かる箴言集である。

 若い頃から箴言の魅力に惹かれ、生きる指針としてきたという。城山三郎氏は1927年名古屋市生まれ、1945年に県立工業専門学校に入学、理工系学生であったため徴兵猶予になったが海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として特攻隊に配属になり、訓練中に終戦を迎えた。1946年に東京産業大学予科に入学し、1952年に改名された一橋大学を卒業した。父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学商業科文部教官助手に就任し、後に同大学文部教官専任講師となり、金城学院大学にも出講した。1957年から茅ヶ崎に転居し、1963年から愛知学芸大を退職し、作家業に専念した。1958年に第4回文學界新人賞、1959年に第40回直木賞、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞、1996年に第44回菊池寛賞、2002年に朝日賞を受賞した。そして、2007年に亡くなった。本書のタイトルは、「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」から出ており、いまとなっては、その書名も著者名も思い出せないが、高名の経済学者の業績と人物を紹介した本の中に出てきた言葉で、イタリヤの経済学者パレートがモットーとしていた言葉だという。当時、ケインズの「伝記論集」があまりにも面白く、一夏、信州にとじこもって邦訳したが、出版社に持ちこんでも日の目を見なかった。しかし、その10数年後にその出版社から別の学者の訳書として出版された。学者世界の歪みをはじめて思い知らされたこともあり、経済学から離れて文学へと傾斜して行くことになった。一つの箴言が人生コースを変えさせる契機になり、おかげで悔いのない人生を送ることができたという。本書は著者の作品群から、箴言といえるようなものを抜粋した箴言集ともいえるものである。
「黙っていては、とり残される。性急に声を上げた方がいい」「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」(打たれ強く生きるより)
「人生は謂わば一つの長距離競走だ。焦る必要はない。平らな心で一歩一歩を堅実。最初から力の限り走る必要はない。急げば疲労をおぼえ、焦れば倦怠を招き易かろう。永い人生だ。急いで転んでもつまらないよ」(鼠より)
「死とは何か」「人生とは何か」などという問いは、実人生においては、何ほどの意味も持たない。死のかげを払いのけ、とにかく生活してみること。人生を歩いてみて、はじめてその真実がわかるのではないだろうか。(男たちの経営より)
 この日、この空、この私、このところ、払はそんな風につぶやくことが多い。そうした思いで暮らしていけたらと願っている。自分だけの、自分なりの納得した人生-それ以上に望むところはないはずだ、と。(男の生き方より)

第1章 生きていく日々
第2章 会社のメカニズム
第3章 男のライフ・スタイル
第4章 サラリーマンの敗者復活戦
第5章 世わたりの秘訣
第6章 家庭の姿かたち
第7章 老後の風景

36.3月24日

 ”財閥解体 GHQエコノミストの回想”(2004年7月 東洋経済新報社刊 エレノア・M・ハドレー/パトレシア・へーガン・クワヤマ著)は、財閥解体政策に携わったGHQの女性官僚の長年の日本経済研究と自らの波乱に満ちた生涯の回想録である。

 1945年より1952年にかけて、連合国軍最高司令官総司令部GHQの占領政策の1つとして、財閥解体が行われた。侵略戦争遂行の経済的基盤になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の経済体制の壊滅が目的とされた。1945年9月22日にアメリカ政府が発表した”降伏後における米国の初期の対日方針”は、その第4章経済のB項で、”日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進”すると規定していた。アメリカなど連合国側には、財閥が日本軍国主義を制度的に支援したという認識があり、これを解体する事で軍国主義を根本的に壊滅できると考えていた。エレノア・M・ハドレー氏は、1930年代末期、大学生の頃から日本と深い関係を持った経済学者である。1916年にアメリカのシアトルに生まれ、1934年にオークランドのミルズ大学に入学し、学生の時、日米学生会議に出席した。その後、東京帝国大学に留学する奨学金を得て再来日し、ミルズ大学を卒業した1938年から1940年に、日本やアジア各国を旅行した。当時、日本の大学では、まだ女子学生を受け入れていなかったようである。帰国後、1941年に、ラトクリフ大学に入学し、経済学を専攻し、1943年に国務省に採用され、日本経済の分析を担当した。ラドクリフ大学は、マサチューセッツ州ケンブリッジにあった女子大学で、1999年に、設立当初から提携関係にあったハーバード大学に統合された。第2次世界大戦中、1944年にハーバード大学で経済学の博士課程の単位を取得した後、日本の産業組織の専門家として、アメリカ政府による戦後日本の占領政策の一環である民主化改革に引き込まれた。主に関わった政策は、財閥解体であった。この経験が、彼女の博士学位論文のテーマの動機となった。日本での仕事を終えて帰国し、1947年にハーバード大学の大学院に入学し、1949年に博士号を取得した。大学院卒業後、マサチューセッツ州のスミス・カレッジやジョージ・ワシントン大学の教授に就任した。1940年代末に左翼として排斥され、以後17年もの間、公職から追放された時代があった。その後、国際貿易委員会の前身であるアメリカ関税委員会や会計検査院で働いた後、1984年に引退し、生まれ故郷のシアトルに戻った。苦悩の期間も、また名誉回復後も、大学で教壇に立ち、経済学研究に傾ける情熱は衰えることがなかった。2002年に自叙伝 memoirs of a Trustbuster: A Lifelong Adventure with Japan を出版した。本書は、モルガン・スタンレー証券会社日本主席エコノミストのロバート・フェルドマン氏の勧めで執筆され、コロンビア大学経営大学院日本経済経営研究所上席研究員のパトレシア・へーガン・クワヤマ氏が全体を見直し手を加えて出来た。日本語の翻訳は、田代やす子氏が担当した。1945年8月30日、マッカーサーが厚木に到着、1945年10月11日、マッカーサーが幣原首相に憲法改正と5大改革を要求、1945年11月6日、GHQが財閥解体を指令した。当初、日本政府は財閥解体には消極的だったが、三井財閥内で三井本社の解体論が台頭したほか、安田財閥の持株会社である安田保善社で自社の解散を決定し、安田一族の保善社と傘下企業役員からの辞任、一族保有の株式を公開する方針を決定した。GHQは、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待し、GHQはそれを支援するに留めるが、日本側に積極的な動きが見られない場合は自ら実施に乗り出すとの姿勢を示した。政府は三菱、住友を加えた4財閥やGHQと財閥解体に向けての協議を進め、安田案を土台にした財閥解体計画案をGHQに提出した。1946年8月22日、持株会社整理委員会が発足し、1947年4月14日、独占禁止法が公布された。1947年12月18日、過度経済力集中排除法が公布され、1948年9月11日、GHQ集中排除審査委員会が集排法実施4原則を提示し、1948年12月18日、GHQが経済安定9原則を発表し、1949年3月7日、ドッジラインが発表され、1949年8月3日、 GHQが集中排除審査委員会の任務完了と声明した。

第1章 戦前の経験:来日と中国への旅
第2章 ラドクリフ大学とワシントンDC
第3章 占領
第4章 集中排除の継続
第5章 1950年代とその先のアメリカ
第6章 回顧

37.3月31日

 ”2011年 新聞・テレビ消滅”(2009年7月 文藝春秋社刊 佐々木 俊尚著)は、部数減と広告収入の激減が新聞とテレビを襲っているマスメディア界の現状と近未来を展望している。

アメリカでは、2008年に多くの新聞が倒れ、多くの街から伝統ある地方紙が消え、新聞消滅元年となった。いままでもそうだったように、アメリカのメディア業界で起きたことはつねに3年後に日本でも起きるという。佐々木俊尚氏は、1961年兵庫県生まれ、早稲田大学政経学部中退、1988年毎日新聞社入社、1999年アスキー転社のち退社し、現在フリージャーナリストとしてIT・ネット分野を中心に取材している。マスメディアがものすごい勢いで衰退しはじめているという。新聞を読む人は年々激しい勢いで減り、雑誌は休刊のオンパレードである。確かに、新聞を見てもテレビ番組をみても、面白いと感じるものが本当に少ない。その原因は、若手が現場にいないためということである。かつてはみんなが見ていたテレビもいまや下流の娯楽とか、富裕層は見ないなどと指摘され、都会では人々の日常の話題にさえならなくなってきた。マスメディアが傲慢なのは紛うことのない事実で、そうした上から目線的なマスメディアの体質に批判が集まるのも当然であるが、いま起きているマスメディアの衰退はマスメディアの旧態依然とした体質が原因というわけではない。アメリカでは新聞の言論はまったく衰退していないが、新聞というビジネスは日本を上回る速度で衰退している。なぜこれほどまでに苦境に陥っているかといえば、要するに新聞が売れなくなり広告も入らなくなってきているからである。落ち込みを何とかカバーしようとインターネットのビジネスに必死でシフトしてきてオンライン広告は年々伸び続けたが、それで現在の経営規模や社員スタッフを維持できるほどの金額にはなっていない。おまけに2008年後半になると金融危機が追い打ちをかけて、せっかくのネットビジネスまでマイナス成長になってしまった。2008年からアメリカで始まった新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年に日本でも起きる。この2011年は、テレビ業界にとって2つの大きなターニングポイントの年である。それは、アナログ波の停波による完全地デジ化と、情報通信法の施行である。テレビはこれまでの垂直統合モデルをはぎ取られ、電波利権はなんの意味も持たなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。だから2011年は、新聞とテレビという2つのマスメディアにとっては、墓碑銘を打ち立てられる年となり、何社かは破綻し業界再編が起きるかもしれない。それ以降も、企業としての新聞やテレビの一部は生き残ってはいくだろう。しかしそうやって生き延びた新聞社やテレビ局は、もうマスメディアとはいえない別の存在に変かっているだろう。マスメディアというものはもう存在しない。既存のマスメディアはミドルメディアとして、生きてくしかない。旧来の垂直統合モデルで運営されていた新聞社の生き残る道は、コンテンツプロバイダになることである。事情が違っていても、テレビもほぼ同じ状況である。youtubu、google、iTunes等のプラットフォーマが重要になっていく。

プロローグ
第1章 マスの時代は終わった
第2章 新聞の敗戦
第3章 さあ、次はテレビの番だ
第4章 プラットフォーム戦争が幕を開ける

38.平成24年4月7日

 ”パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い”(2010年10月 講談社刊 黒岩 比佐子著)は、今から100年以上前の1910年に創業された売文社を中心に、そのリーダーである堺利彦の人生を紹介している。

 売文社は、冬の時代に生活の糧を得るためのパンとペンの会社であった。この組織をつくった人物は、日本にいち早くマルクスの思想を紹介した日本社会主義運動の父と呼ばれる堺利彦である。黒岩比佐子氏は、1958年に東京で生まれ、慶應義塾大学部文学部卒業のノンフィクション作家である。国会図書館にも所蔵されていない書籍を古書の山から見つけ出し、新しい事実を貴重な資料から発掘してきた。これまでに、第26回サントリー学芸賞、第6回角川財団学芸賞を受賞している。堺利彦は、1871年に没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂に生まれ、豊津中学校を首席で卒業、上京後、進学予備校であった共立学校で受験英語を学び、第一高等中学校入学したが、学費滞納により一高から除籍処分を受け、大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら、文学の世界で身を立てようとして小説の執筆を始めた。その後、萬朝報記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図り、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成した。萬朝報は当初非戦論であったが、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三、幸徳秋水とともに退社し、1903年に幸徳秋水と共に平民社を創設し、週刊”平民新聞”を発行して、戦時下で反戦運動を続けた。1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめ、1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受けて入獄した。そのとき大逆事件が起きたが、獄中にいたため連座を免れて出獄した。1910年に代筆・文章代理を業とする売文社を設立して、雑誌”へちまの花”、”新社会”の編集、発行をはじめ、いろいろな事業を行って生活の糧とし、1919年に解散されるまで全国の社会主義者との連絡を維持した。売文社はその名の示す通り”文を売る会社”で、依頼があれば財界人の自伝から学生の卒論、子供の命名まで何にでも腕をふるった。日本初の編集プロダクションで翻訳会社でもあり、今日的な新しさを感ずる。1920年に日本社会主義同盟が結成されたが、翌年に禁止された。1922年に日本共産党の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加したが、山川らに同調して共産党を離脱し、後に労農派に与した。その後、東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市会議員に当選した。1932年に発狂し、翌年に脳溢血で亡くなった。社会主義者で投獄された第一号で、女性解放運動に取り組んだフェミニスト、海外文学の紹介者、翻訳の名手、言文一致体の推進者、平易明快巧妙な文章の達人、そして、軍人に暗殺されかけ、関東大震災では憲兵隊に命を狙われたなど、実に複雑で多面的な顔をもつ人物だった。また、18歳で作家としてデビューし、尾崎紅葉の硯友社一派、夏目漱石門下の人々、白樺派の有島武郎など、多くの作家と交友していた。堺利彦については、これまで平民社のことは多くの歴史書が取り上げられてきたが、売文社のことはほとんど無視されてきた。この本では、弾圧の時代に社会主義者たちがユーモアと筆の力で生き抜いた素顔が紹介されていて、とても興味深かった。

序 章 1910年、絶望のなかに活路を求めて
第1章 文士・堺枯川
第2章 日露戦争と非戦論
第3章 理想郷としての平民社
第4章 冬の時代前夜
第5章 大逆事件
第6章 売文社創業
第7章 へちまの花
第8章 多彩な出版活動
第9章 高畠素之との対立から解散へ
終 章 1923年、そして1933年の死

39.4月14日

 ”上海で働く”(2004年10月 めこん社刊 須藤 みか著)は、上海で暮らし働いてきた18人の日本人にインタビューして、成長著しい上海での働くことになったきっかけと働き方を紹介している。

 上海はいま活気が全市に漲っていて、住んで働くのに非常に魅力的な都市である。上海での成功のカギは、言葉より行動だという。18人のほとんどが20~30代の若者たちだが、40~50代の人も若干いる。上海はどのような職でも受け入れるが、働き暮らすのに日本のように平穏無事ではない。須藤みか氏は、1965年熊本県生まれ、出版社勤務を経て、1994年に中国へ語学留学し、北京の国営出版社勤務ののち、フリーランスになり、上海の社会や暮らし、出版事情、在中日本人の労働事情などに関する記事を発表し、仕事のかたわら、復旦大学大学院修士課程を修了した。上海は中華人民共和国の直轄市で、2007年末の人口は1858万人である。このうち、上海市戸籍を持つ人が1378万人、上海市居住証、暫住証を持つ中国人と香港、マカオ、台湾以外の外国人が479万人、それ以外の出稼ぎ労働者が660万人以上で、合わせて総人口は2500万人である。世界有数の世界都市であり、中国の商業・金融・工業・交通などの中心の一つである。1842年の南京条約により、上海は条約港として開港した。これを契機として、イギリス、フランスなどの租界が形成され、後に日本やアメリカも租界を開いた。1920~1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を中心に、中国金融の中心となった。1978年の改革開放政策により、外国資本が流入して目覚ましい発展を遂げた。現在も、1992年以降本格的に開発された浦東新区が牽引役となって、高度経済成長を続けている。そのような中にあって、現地採用の労働条件、上海の就職状況、仕事の探し方のノウハウ、いま上海で求められている人材がどのようなものかなどがよく分かるように紹介している。登場する18人は、多かれ少なかれ向こう見ずな人たちである。疾走するかのように変化を続ける様に魅せられて、世界中から上海に人と資本が集まってきている。中国人・外国人を問わず、夢を語り、つかもうと奮闘している。中国語全くできないままに上海に飛び込んで仕事を見つけた人、OLから一転して異業種で起業した人、駐在帰任の辞令が出たと同時に退社して新たな夢に挑戦する人などなどである。職種も世代も上海へ来ることになるいきさつもさまざまだが、みな新しい世界にためらわずに挑戦する冒険心を持っている。社会体制の違うこの街で働く以上リスクも大きいが、異文化のなかで戸惑い怒りへこんだりするうちに、日本では常識と思っていたさまざまな伽がはずれて、自由になっていくのかも知れない。その先には、リスクや苦労があるだけに大きなリターンがあるのではないかと感じ取れる。

前半:インタビュー
 不動産営業、フローリスト、ホテルウーマン、印刷会社営業、日本語教師、カメラマン、アパレル副資材メーカー営業、CMプロデューサー、商品企画デザイナー、雑誌マーケティングディレクター、シュークリーム店経営、イベント会社経営、服飾デザイナー、日本料理店主、人材紹介会社共同経営、電子部品メーカーエ場統括部長、植物組織培養業、オリジナル化粧品販売・卸業、衣料雑貨店経営
後半:インフォメーション
 旅立つ前に、就職活動、働く、住居を探す、暮らす、学ぶ、関係機関ほか

40.4月21日

 ”私小説のすすめ”(2009年7月 平凡社刊 小谷野 敦著)は、文学的才能がなくても誰もが一生のうち一冊は書きうる私小説の魅力を説き、形式は決して日本独自のいびつな文学ではないとして私小説の擁護を宣言している。

 私小説は日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説である。これまでにも、多くの有名作家が私小説からスタートした。プロを目指す人というより、ともかく小説を書かたいと思っている人に、私小説を勧めてみたいという。小谷野敦氏は、1962年茨城県生まれ、1987年東京大学文学部英文学科卒業、1997年同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士、大阪大学言語文化部助教授、国際日本文化研究センター客員助教授などを経て文筆業に従事し、2002年にサントリー学藝賞を受賞した。私小説については、1907年の田山花袋の「蒲団」を私小説の始まりとする説が有力であるが、別の考え方もあるようである。私小説は、身の回りや自分自身のことを芸術として描き、内面描写を中心に語られる事が多い。1935年の小林秀雄の「私小説論」に始まり、1950年の中村光夫の「風俗小説論」を経て、1960年代以後、私小説批判が長く続き、1980年前後に村上春樹などのファンタジー風の純文学が隆盛を迎えて、私小説は低調となった。その後、車谷長吉、佐伯一麦などのような新しい私小説作家が現れており、私小説を再評価すべきだとしている。西洋にも、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」、トルストイ「幼年時代」「少年時代」「青年時代」、ラディゲ「肉体の悪魔」、プルースト、アンドレ・ジッド「一粒の麦もし死なずば」、ヘッセ「車輪の下」、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多い。私小説は、決して日本独自のダメな文学ではない。小説の書き方について書かれたのは、1909年の田山花袋の「小説作法」が最初である。主として身辺スケッチを勧め、実を書くことを主眼として教えている。その後、1934年の広津和郎の「小説作法講義」、1941年の武田麟太郎の「小説作法」、1955年の丹羽文雄の「小説作法」などが書かれた。現在では、昔のように小説家に弟子入りするというようなことはなくなったが、カルチャースクールなどで小説教室が聞かれたりしており、そこで学んだ人が作家デビューするというようなことが起こっている。また、20年ほど前から自分史を書く人か増えており、その際、自分の名前を変えて書いて私小説になるはずである。最近では、私小説の救世主と言われる西村賢太のような作家が登場している。小説を書きたいとが何を書いていいか分からない、あるいはフィクションを作れないという人に、私小説を書くことを勧めている。

第1章 私小説とは何か
第2章 私小説作家の精神
第3章 私小説批判について
第4章 現代の私小説批判
第5章 私小説を書く覚悟

41.4月28日

 ”解体されるニッポン”(2008年3月 青春出版社刊 ベンジャミン・フルフォード著)は、解体されつつある日本の現状と原因を追究し、背後にある独裁国家アメリカの闇の権力者の動向を紹介している。

 広がる格差、年金問題、放置される地方など、日本はいまバラバラに解体されつつある。自己責任の名のもとに責任は個人に押しつけられ、いくら働いても生活は苦しく、人々が絶望に喘いでいる。このような状況は日本に限らず、グローバル化が進んだ国々の現状でもある。実はその裏には、日本の勢力が弱くなることを望んでいる大きな力がアメリカに存在する。グローバル化が最も進んだアメリカに倣っていては、日本には悲惨な未来が待つばかりである。ベンジャミン・フルフォード氏は、1961年カナダ生まれで1980年代に来日し、上智大学比較文化学科を経てカナダのブリティッシュ・コロンビア大学を卒業し、その後再来日して、日経ウィークリー記者、米経済誌フォーブス・アジア太平洋支局長などを歴任し、現在、フリージャーナリスト、ノンフィクション作家として活躍している。改革者だと叫んでいた小泉純一郎と竹中平蔵が行った数々の規制緩和と民営化は、レーガン政権以降にアメリカで進められてきたいわゆる改革と似通っている。生活コストが下がり、暮らしが良くなったと喜んでいる隙に、潤沢なマネーを持つ富裕層が活発な投資を始めている。アメリカには、世界支配を狙うエリート層によって結成された秘密結社がある。自分たちに有利にルール変更を行ない、不公正なグローバル化を推し進めているのである。石油産業、国際金融資本、軍産複合体に強い影響力を持ち、政治家、官僚、学者、メディアにもネットワークを広げている。その中核は、ロックフェラー、ブッシュ、ハリマン、ウォーカーなどの一族であり、世界の経済、金融を操り、政治を動かしている。ドルの発行権を握っているFRMというのは、実は一部の大資本が運営する一企業である。アメリカ政府は何度かFRBを公的な機関に作り替えようと働きかけてきたが、うまくいかなかった。アメリカの通貨政策は、民意とまったく関係ない巨大資本の代表者たちの会合によって決められている。一方、一般市民は生活に追われ、政治に関心を持ったり、連帯を深めて政治献金するというような時間的余裕は失われている。政治資金の多くは、数少ない大資産家から主要な政党に流れ込んでおり、民主主義は形骸化しつつある。新自由主義による経済のグローバル化、ネオコンと軍産複合体による軍事的な世界支配に対して、世界中の人々がノーという意思表示を始めている。世界の動向から見て、次にやってくるのは間違いなくアジアの時代である。アメリカのアジアに対しての基本戦略は分断して統治するというものであるが、日本はアジアのリーダーとして世界を変えていく気概を持つべきである。

プロローグ デイヴィッド・ロックフェラーと対峙した日
第1章 断末魔のアメリカが日本をバラバラにする
第2章 世界を駆けめぐるグローバリズムという疫病
第3章 惜しみなく搾取される日本の労働者たち
第4章 舞台裏でうごめく「闇の権力者」の実態
第5章 アメリカが仕組んできた「自作自演」の歴史
第6章 誰がアジアの分裂を目論んでいるのか
エピローグ いま日本は国家衰退の瀬戸際にいる

42.平成24年5月5日

 ”歴史を学ぶということ”(2005年10月 講談社刊 入江 昭著)は、シカゴ大学、ハーヴァード大学で長年教鞭をとってきた歴史家の今日までの学問との関わりを紹介している。

 軍国少年として終戦を迎え、成蹊中学校・高等学校卒業後、1953年にグルー基金奨学生として渡米し、1957年にハヴァフォード大学卒業、1961年にハーバード大学大学院歴史学部を修了し博士号を取得したという経歴の持ち主である。1945年の日記には、米国や占領軍についてほとんど触れられてなく、日本を占領した米兵を憎いと思った記憶も記録もないという。それは、多くの日本人がそうであったように、善かれ悪しかれ敗戦を受け入れ、日常の生活にはげんだということだったのではないかという。入江昭氏は1934年に東京で生まれ、1961年にハーバード大学大学院終了後同大学講師、その後、カリフォルニア大学サンタクルーズ校助教授、1968年ロチェスター大学准教授、1969年シカゴ大学歴史学部准教授、1971年同教授、1989年ハーバード大学歴史学部教授、同大歴史学部学部長、早稲田大学、立命館大学等で客員教授を歴任した。専攻はアメリカ外交史で、1988年にアメリカ歴史学会会長を務め、2005年に瑞宝重光章、吉野作造賞、吉田茂賞を受賞した。父は国際法学者で早大法学部客員教授等を務めた入江啓四郎氏で、妻は比較文学研究者で東京大学教養学部教授等を務めた前田陽一氏の長女である。日本や米国で受けた教育、長い間教師をつとめてきた米国の大学の雰囲気、学問に対する姿勢、専門分野での研究に従事する過程で形或された歴史認識などに触れながら、現在の世界をどう理解しているかを、とくに若い世代の人たちに伝えている。詳細な自叙伝でも時事問題の解説書でもなく、歴史を学び、歴史と向かいあうということは何を意味するのか、なぜ現在の世界を理解するにあたって、歴史的な視野が重要な鍵を与えてくれるのかなどについてまとめている。

第1部 歴史と出会う
 1945年8月/1930年代と戦時中の生い立ち/戦後の歴史教育/米国留学の4年間/大学院での修行/学生との出会い/歴史学者の世界
第2部 歴史研究の軌跡
 出会いの蓄積としての歴史/私の歴史研究
第3部 過去と現在とのつながり
 学問と政治/歴史認識問題の根底にあるもの/地域共同体のゆくえ/9.11以降世界は変わったのか/結論:文明間の対話

43.5月12日

 ”JAL崩壊”(2010年3月 文藝春秋社刊 日本航空・グループ2010著)は、経営再建中で連結営業利益が2期連続で黒字となったJALが、2010年に墜落したときのJALの現役・OBによる内部告発書である。

 日本航空(JAL)の2011年3月期の営業利益は1884億円、2012年3月期は2000億円規模となった。予想を大幅に上回り、2年連続で過去最高益を更新した。会社更生手続きを通じた巨額の債権放棄や不採算路線・大型機の廃止によりコスト削減が進んだほか、国際線の収益が好調に推移したのが主因である。国際線は、アジア、欧米を中心とし、国内線は羽田空港や伊丹空港、新千歳空港などを拠点に、幹線からローカル線まで幅広い路線網を持っている。1951年に、戦後初の日本における民間航空会社として日本航空が設立され、東京-大阪-福岡線が開設された。1953年に日本航空株式会社法が公布、施行された。1954年に、初の国際線となる東京-ホノルル-サンフランシスコ線が開設された。1981年に、日本航空株式会社法の改正法が公布、施行された。1987年に、日本航空株式会社が廃止され、完全民営化された。2002年に、日本エアシステム(JAS)と経営統合し、持株会社株式会社日本航空システムが設立された。本書では、JALが苦境に陥った最大の原因はJASとの合弁であるという。JASは、かつての日本の三大航空の一翼を担っていた会社で、1988年までは東亜国内航空だった。2004年に、株式会社日本航空ジャパンに商号変更し、日本航空ブランドの国内航路会社に転換され、2006年に、株式会社日本航空インターナショナルに吸収合併された。合弁話が持ち上がったとき、JASは負債が3000億円~3500億円を抱え、放置していると倒産する可能性が大だったので、首脳部がなぜ合弁を決定したのか、合理的理由が見つからないという。しかし、合弁によって国内線のシェアで全日本空輸(ANA)を上回る55%のシェアを獲得したのも事実である。ただし、当初の国内線網の強化や余剰資産の売却など、合併効果による収益構造の強化、安定の目的は、合併以降の元JALとJASの社員の間の対立、サービス上の混乱、航空機の整備不良、反会社側組合による社内事情の意図的なリークなどの不祥事もあって、客離れを起こした。吸収合併したJASの高コスト、低効率体制、イラク戦争以降の航空燃料の高騰、SARS渦などの要因が重なり、急速に業績は悪化した。そして、2010年に、日本航空、ジャルキャピタルと共に、東京地裁に会社更生法の適用を申請し、2011年に会社更生を終了して民間企業に復帰し、商号を日本航空株式会社に戻した。このような中にあって、著者は複数の日本航空客室乗務員で、これまでJAL社員として誇りをもって仕事をしてきて、これからも同じ気持ちで仕事に邁進していく覚悟だという。社内にはいい人材が残っているので、かつて輸送実績世界一になったこともある過去の栄光を取り戻すべく、最大限の努力をしたい。そして、この際、溜まりに溜まったウミを、きれいさっぱり出し切りたい。JAL崩壊の原因は様々な議論が繰り返されてきたが、マクロの視点だけでなく、実際に社内で起きていた問題の数々は、なかなかリアルには伝わらなかったため、ミクロの視点から、悲惨な状況を招いたプロセスを綴ったという。

第1章 悪夢の始まりはJASとの合併―の巻。
第2章 わがままパイロットの「金・女・組合」―の巻。
第3章 「負け犬スッチー」と「魔女の館」―の巻
第4章 うるさいうるさいうるさい客―の巻
第5章 労働組合は裁判がお好き―の巻

44.5月19日

 ”自分を守る経済学”(2010年12月 筑摩書房刊 徳川 家広著)は、経済の仕組みと現在へ至る歴史を説きながら日本経済の未来を展望して、身を守るためのヒントを提供しようとしている。

 関が原からバブルまで日本経済400年の歩みを説き、日本経済が現在のように停滞するに至った歴史的理由とそこから導き出される近未来図を描こうとしている。徳川家広氏は、徳川宗家19代目当主で、翻訳家、政治経済評論家である。1965年に東京都で生まれ、父親は、徳川家18代目当主で、元日本郵船副社長、徳川記念財団理事長の徳川恆孝氏である。父親の仕事の関係で、小学校1年から3年までをアメリカで過ごした。学習院高等科を経て、慶応義塾大学経済学部に進学し、卒業後、ミシガン大学大学院で経済学修士号、コロンビア大学で政治学修士号を取得した。今日の日本文明の原型は、江戸時代に形成された。古今東西の知識を集めた徳川家康のブレーン集団は、日本が二度と戦乱の世に戻らないようにするにはどうしたらよいかを考えて、幕藩体制の統治哲学を作った。江戸時代の日本は大いに経済を発展させたが、綱吉の時代に金銀山が枯渇して財政危機に陥り、大改革に着手することになった。その後も、日本人は、東アジアにおける清の覇権の終焉や石炭火力エネルギーに依拠する新しい経済システムの浸透という危機に直面して、明治維新という政治と社会の根本的な変革を実現した。その後、第二次世界大戦に敗北して、日本は生まれ変わることになった。日本は超大国となったアメリカをモデルとしてモノ作りに励み、1980年頃国民全体が豊かな暮らしを得たと実感できるようになった。その豊かな暮らしを、中国やインドを初めアジアの国々が獲得しようとしている。しかし、この豊かさは大量のエネルギー、特に石油に依存しているが、石油は必ず枯渇するものであり、近い将来、エネルギー価格が高騰し、世界の人々が今のように自由にガスや電気を使えなくなる日が来るであろう。現在の日本は世界中のどこの先進国でも見られる先進国病にかかっており、低成長、国際化、情報化、少子高齢化、子どもの学力低下などの問題に直面している。これから日本で起こることは、明治維新や終戦と同様の、新しい環境に適応するための変化になるであろう。その過程では、当然ながら、敗者も勝者も出ることになる。これからの10年間は、おそらく現在、現役の日本人の全員にとって、まったく経験したことのないような激変の時代になると思われる。日本政府の財政破綻はもはや不可避であるように思われ、アメリカの世界覇権の終焉とエネルギー価格の高騰と、ほぼ同時に発生するものと思われる。低成長によって収入が落ち込む一方で、医療保険と年金支出、国債の利子払いと償還のために政府の支出は増加し続ける。日本は、過去、明治維新時と、第二次大戦後に財政破綻しているが、10年後に日本の財政が破綻すると思われる。財政破綻すれば、今の豊かな生活を維持するのは難しくなる。そこで、いかにして自分を守るか、生活防衛のヒントを提供するとしている。予測がその通りになるかは分からないが、内容はとても興味深いものであった。

第1章 人間と経済
第2章 「分業のジレンマ」と国家の誕生
第3章 お金と国家
第4章 景気、景気対策、バブル
第5章 語られざる生産要素―略奪された富とエネルギー
第6章 関ヶ原からバブルまで―日本経済400年の歩み
第7章 平成「大停滞」の解明
第8章 これから何が起こるのか
第9章 何をすれば、自分を守れるのか

45.5月26日

 ”中国ネット革命”(2011年5月 海竜社刊 石 平著)は、いま中国で起きているネット世論による地殻変動が共産党独裁体制に与える影響の現状と近未来を展望している。

 チュニジア、エジプトで起きた革命は、新時代の新たな可能性を示した。その原動力となったのは、インターネットによるネット世論である。政府が隠蔽していた不都合な真実や民衆たちの憤懣が、ネットによって一気に露呈され噴出した。石 平氏は、1962年に中国四川省で生まれ、文化大革命の最中、教師だった両親が大学から追放されて農場へ下放され、四川省の農村部で漢方医の祖父によって扶養され、1984年北京大学哲学部卒業、1988年留学のために来日、1995年神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了し、2008年に拓殖大学客員教授に就任した。中華人民共和国は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家である。中国共産党とその衛星政党以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がないなど、事実上、中国共産党による一党独裁体制である。2011年に、中国でジャスミン革命のデモが起きたが、デモの内容は、現在の一党独裁制を打倒して民主化を呼びかけるというものであった。インターネットを利用した呼びかけが瞬く間に広がり、13の主要都市での開催が計画されていた。予定地には大人数が集まったものの、警察による厳戒態勢がしかれていたため、小競り合いは起こったが大規模な運動が起こることはなかった。このとき、数多くの人々が連行されたり外出禁止にされたりした。政府は、インターネット利用を厳しく監視し、デモの呼びかけなどの投稿があれば削除する対策をとった。これまで、中国人民の意見は主に新聞、テレビ、ラジオ、出版物などを通して公にされてきたが、いずれも中国共産党の厳格な指導と管理の下に置かれ、党の方針や思想に反する意見が公表されることはほとんどなかった。しかし、これまで抑圧されてきた中国の民衆の間に、インターネットによって、初めて民意と世論が誕生したという。2006年頃からインターネットが急速に普及し始め、誰でも個人で情報を発信し、不特定多数とコミュニケーションを取ることのできるネット利用が広がった。これにより、民衆の率直な意見や本音が表に出てくるようになり、政府の政策が厳しい批判にさらされ、党幹部の汚職や腐敗が告発されるなど、既に独裁体制を支える言論統制の一角は崩れ去ったという。民衆はネットを通じて社会的な発言権を手に入れ、その権利を行使して世の中を動かせることを体験として知ることとなった。ネットでの連帯による反乱となれば、独裁政権が事態を把握して対策を取る前に、反乱はあっという間に燃え広がり、見る見るうちに政権の対応可能な範囲を超えた大規模な民衆運動となって、独裁政権を一気に窮地に追い込むことができる。独裁体制の下では反乱の起きる可能性が常に存在しているが、インターネットという革命の利器の発達が、反乱の発生と拡大を容易にして革命に現実性を与えた。世界最大の独誠国家である今の中国は、次のチュニジア、次のエジプトとなる可能性が最も高い国となっている。中国の国内状況とその直面している国内諸問題は、革命が起きたときのチュニジアやエジプトと状況が実によく似ている。中国にもいよいよ、革命の時代が訪れようとしているのではないかという。今後の中国では、経済が破綻して社会的混乱が拡人していく中で、ネットとマスメディアによる反乱、そして民主主義的理想の復活と人道主義の台頭など、体制の支配基盤を崩して国全体を民主化へ導く強い力が働く。一方、正反対の路線で毛沢東回帰やウルトラ・ナショナリズムを旗印に政治的統制を強め、より危険な方向へ向かわせようとする政治思想と勢力もますます勢いを得ていく可能性もある。2つの勢力のせめぎあいはどういう結末を迎えることにあるか、決戦のときが近づこうとしているという。

プロローグ 中東革命で発揮されたネットの力
第1章 ネット民主主義の誕生とその広がり
第2章 ネット言論解放区の驚くべき実態と威力
第3章 ネット論壇の有名人たち、その考え方と影響力
第4章 ネットをめぐる政権と民衆の攻防
第5章 ネット世論の地殻変動で占う、中国の思想的潮流
第6章 中国は、次のエジプトとなるのか!?

46.平成24年6月2日

 ”ヴェトナム新時代”(2008年8月 岩波書店刊 坪井 善明著)は、未曾有の戦争の後遺症を抱えグローバル化の波にさらされる中で、ひたむきに幸福を求める人々の素顔と日越関係の近未来を展望している。

 1994年に上梓された”ヴェトナム「豊かさ」への夜明け”の続編として、ヴェトナムの1994年から2008年までの概況と今後のあるべき体制について記している。ハノイ市やホーチミン市では近代的な高層ビルが建ち外見は変わったが、政治や経済の基本的な枠組みや、社会の運用の仕方は変化しておらず、庶民の生き方にもさしたる変化はなく、楽天的でしたたかな生き方をしているという。しかし、ヴェトナム戦争終了から30年以上経っても、枯葉剤の影響が第三世代の新生児にまで及んでいるなど、戦争の傷跡がまだ完全には癒えていない。坪井善明氏は、1948年埼玉県生まれ、1972年東京大学法学部政治学科を卒業、1982年にパリ大学社会科学高等研究院課程博士で、現在、早稲田大学政治経済学術院教授、専攻はヴェトナム政治・社会史、国際関係学、国際開発論、1988年に渋澤・クローデル賞、1995年にアジア・太平洋特別賞を受賞した。ハノイ近郊にトヨタ・ホンダをはじめとする日本企業が数多く工場を操業し始め、年間30万人以上の日本人がヴェトナム旅行を楽しむ時代になった。経済の発展に伴って、汚職・腐敗の構造や、都市化の問題、格差の拡大、共産党一党支配の弊害、激しいインフレ等々、多くの課題も表面化してきている。初代ヴェトナム民主共和国主席、ヴェトナム労働党中央委員会主席のホーチミンは、社会主義諸国のリーダーの中で、もっともスターリン主義的でなく、官僚的な発想を持たなかった人物である。1890年にヴェトナム中北部のゲアン省で生まれ、フエの名門校クォック・ホック学校に入学し、卒業するとファンティエットの小学校でフランス語とヴェトナム語の教師をした後、1911年にフランス商船のコックの見習いとして乗船し、世界各国を渡り歩いた後、1917年にパリに落ち着いて、ヴェトナムをフランスの植民地から独立させる運動に加わった。1920年にフランス社会党大会でインドシナ代表として発言し、その後モスクワへ渡りその後再びアジアへ戻り、1930年に香港でヴェトナム共産党を結成した。ヴェトナム国内での反乱、フランス植民地総督府の取り締まり強化、1940年のフランス本国のナチスドイツ降伏、日本軍のヴェベトナム北部進駐など、国内の混乱の中で1941年に30年ぶりに祖国の地を踏み、ヴェトナム独立同盟を結成して、国内からフランス軍と日本軍を駆逐し、ヴェトナムを独立させる運動を国内で起こした。その後、中国国境を超えたところで中国の蒋介石軍につかまり中国国内で投獄され、1944年に帰国すると、直ちにボ・グエン・ザップ将軍を司令官とする武装隊を結成し、フランス軍へゲリラ攻撃を仕掛けた。1945年に日本軍はインドシナ全体を占領する計画を立て、フエでバオダイ帝を擁立して、ヴェトナムのフランスからの独立を宣言させた。1945年に日本は連合国に無条件降伏し、ベトミンの総決起集会を行い、武力による総蜂起を決定し、ハノイの政府官舎を占領し、フエでベトミンが権力を掌握してからサイゴンを掌握し9月2日に、ハノイのインドシナ総督府前の広場で独立記念式点を開催し、ヴェトナム共和国の独立宣言を行った。その後フランスによるヴェトナムの再占領によってインドシナ戦争が起こり、アメリカとのヴェトナム戦争へ突入した。1973年のパリ協定を経て、ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム・ベトコンと南ヴェトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。1986年のヴェトナム共産党大会で提起された、主に経済、社会思想面において新方向への転換を目指したイモイ政策採用から20余年経ち、アメリカと国交を正常化し、ASEANやWTOへの加盟も果たし、国際社会への復帰を遂げた。グローバル化した地球社会で確固たる地位を築くためには、スケールの大きな強固な基盤をつくる必要があろう。また、優秀な人材の潜在能力を最大限引き出すために、民主化を進めることが必須であろう。生活必需品の工業製品も自分で製造するのが基本であり、国際競争力のある商品を製造して広く世界市場に売り込む必要がある。20~30年の中期目標、50年や100年の長期目標を持つメンタリティを養成することが肝要である。

第1章 戦争の傷跡
第2章 もう一つの「社会主義市場経済」
第3章 国際社会への復帰
第4章 共産党一党支配の実相
第5章 格差の拡大
第6章 ホーチミン再考
第7章 これからの日越関係をさぐる
終章 新しい枠組みを

47.6月9日

 ”経済成長は不可能なのか”(2011年6月 中央公論新社刊 盛山 和夫著)は、日本経済を取り巻く4つの難問を整理しそれらの解決策を具体的に提示している。

 日本社会全体に閉塞感が漂い、経済は停滞し社会保障問題も深刻化している。経済成長こそ復活の鍵であるが、日本はもうそれを望むことはできないのだろうか。これまで、長期不況問題に関する経済の専門家たちの議論には、十分に納得のいくものは少なかった。盛山和夫氏は、1948年鳥取県生まれ、1971年東大文学部卒業、1978年東大大学院社会学研究科博士課程退学、1978年北大文学部助教授、1985年東大文学部助教授、1994年教授、2012年定年退任、関西学院大学社会学部教授を歴任、専門は社会学である。日本経済は、デフレ不況問題、財政難問題、政府の債務残高問題、少子化問題の4重苦が未解決のままである。課題を同時に解決しようとすると、他の課題の状況が悪化してしまうというジレンマにある。その上、2011年には東日本大震災に見舞われた。しかし、大震災は短期的には明らかに経済を縮小させるが、中長期的に見ると成長へのチャンスを秘めているという。膨れあがった政府の債務残高を考えれば、国債をさらに増発して財源にあてるという考えに躊躇する向きが多い。しかし、インフラの復興整備への現実的で明確な計画が立案されて実行に移され、破壊された住宅や街路や地域社会そのものが力強く再建されていけば、経済活動はすみやかに回復する。そうした積極的な復興事業そのものが、経済を牽引していく。四重苦からの脱却と復興という問題に対しての唯一可能な工程は、まずプライマリー・バランスの悪化を覚悟しながら国債発行を拡大して必要な財政支出を行い、一定の成長軌道の確立を図ることである。この段階で、成長によってある程度の税収増を見込むことができる。その上で、成長の妨げにならないタイミングと範囲で増税し、それによってさらなる税収増を図る。そうした、成長と増税を通じての税収の増加にあわせて、ある時点から逆に国債発行額を減らしていくというプロセスである。これにより四重苦を抜け出して、持続的な成長の軌道を確立することは不可能なことではない。債務残高問題を本質的に悪化させることなく、デフレ不況と財政難を克服し、少子化を緩和して、将来への希望を確かなものにしていく。単に増税して国債発行を抑えるという発想だけでは、震災からの復興を含めこれからの日本に希望ある未来を描くことはできない。さらに、積極的な未来への投資が不可欠であり、投資があってはじめて成長かありうる。日本の政治が、何とかしてこの困難な状況を切り拓いて行ってほしいものである。

プロローグ 日本が抱える四重苦
第1章 行財政改革論の神話
第2章 「失われた20年」の要因論争
第3章 円高の桎梏
第4章 少子化をどう乗り越えるか
第5章 増大する社会保障費の重圧
第6章 未来への投資
第7章 まずはデフレの脱却から

48.6月16日

 ”ヒトは120歳まで生きられる”(2012年5月 筑摩書房刊 杉本 正信著)は、長寿遺伝子や寿命を支える免疫・修復・再生のメカニズムを解明し長生きの秘訣を探っている。

 縄文時代の日本人の寿命は15歳程度、最も古い生命表が作成された17世紀中ごろのロンド市民は18.2歳であった。人類は、文明を発展させることで平均寿命を延ばしてきた。最近では、泉重千代さんという日本人男性には120年237日という記録があり、ジャンヌ・カルマンさんというフランス人女性には122年164日という記録が残っている。これは最大寿命の関係であり、生物としてのヒトはいくつまで生きられるかということである。杉本正信氏は、1943年生まれで、東大大学院薬学系研究科博士課程修了、薬学博士、専門は細胞生物学、国立予防衛生研究所主任研究官、ハーバード大学医学部研究員、ジーンケア研究所副所長などを歴任している。長寿の人を調べてみると、ヒトの寿命の限界はだいたい120歳あたりと推定されるという。120歳というのは、最近の分子生物学の研究でも裏づけられてきたそうである。ヒトの寿命を支えている生体の機能には、免疫、分子修復、再生の3つがあり、これらのメカニズムを理解しよりよく機能するように生活を工夫するなどの努力をすれば、120歳に近づくことが可能だという。ただし、すべての人がこの寿命を全うできるわけではなく、運の良し悪し、環境、遺伝子=ヒトゲノムに左右される。DNA暗号はいったんメッセンジャーRNAに書き換えられて、そこからたんぱく質がつくられる。たんぱく質をコードしている遺伝子の大部分はエキソンという呼ばれる領域で、他にイントロンと呼ばれる領域もあり、双方とも寿命とのかかわりがある。この遺伝子に欠陥があれば短命となる。また、ヒトの細胞の染色体の末端にはテロメアという構造があり、テロメアがヒトの老化に直接関係している。細胞分裂するとテロメアは短くなり、ヒトの体細胞はテロメアが短縮することにより寿命が尽きる。テロメアの分析から得られたヒトの最大寿命もだいたい120歳であったという。また、多くの動物実験では、カロリー制限によって寿命が延びることが証明されている。栄養が欠乏した状態では、休眠してライフサイクルの進行が遅らされ寿命が延びる。ヒトの場合も、サーチュイン遺伝子が活性化されて、活性酸素の精製が抑制されるという説がある。しかし、痩せている人より太目の人の方が長生きであり、総コレステロールは高目でもよいという説もある。また、細胞小器官であるミトコンドリアの遺伝子が寿命に深くかかわっているという。ミトコンドリアは細胞内の発電所の役割を持ち、ATP=アデノシン3リン酸を産生し細胞のさまざまな活動に必要なエネルギーを供給している。加齢とともにミトコンドリアは老化し、細胞も老化してゆく。また、これまで人類を苦しめてきたのは多くの感染症であり、ワクチンが人類を救ってきた。ワクチンは病原体に一度出会うと獲得免疫が作られるという原理を応用したものであり、獲得免疫はほとんどのあらゆる抗原に対応している。他にも、細胞内因子として白血球の中などに自然免疫があり、細菌を貪食したり殺したりしている。しかし、加齢やストレスなどによって、免疫機能は低下する。そして、遺伝子を守りがんを避け、再生機能と再生医療によって、心臓、肝臓、腎臓の障害を克服するこることが健康で長生きすることにつながる。ほかに、性格という心理的な要因も大きく影響するという。

第1章 寿命とは何か
第2章 寿命時計テロメア
第3章 カロリー制限で寿命がのびる?-サーチュイン長寿遺伝子説の真偽
第4章 寿命を支える-免疫機能と生体防御
第5章 遺伝子を守る-放射線や酸化ストレスとの闘い
第6章 がんを避ける
第7章 再生機能と再生医療
第8章 寿命をのばすライフスタイル

49.6月23日

 ”ルポ貧困大国アメリカ”(2008年1月 岩波書店刊 堤 未果著)は、経済危機後のアメリカで進行している社会の底割れ現象について報告している。

 アメリカはフロンティアスピリットの国で、努力すればアメリカンドリームを実現できると考えられていた。しかし、アメリカではいまや中間層の没落が進み、貧困層を食い物にしたビジネスが現われているという。堤 未果氏は、東京生まれ、ニューヨーク州立大学国際関係論学科学士号取得、ニューヨーク市立大学大学院国際関係論学科修士号取得、国連婦人開発基金、アムネスティ・インターナショナルNY支局員を経て、米国野村證券勤務後ジャーナリストとして活躍し、2008に日本エッセイストクラブ賞、2009年に新書大賞2009を受賞している。同じアメリカ国内で、アメリカンドリームを実現した少数の極端に富める者が存在する一方、一日一食食べるのがやっとの育ち盛りの子どもたち、無保険状態で病気や怪我の恐怖に脅える労働者たち、選択肢を奪われ戦場へと駆り立てられていく若者たちなどが存在しているという。また、貧しいために大学に行きたくても行けない、または卒業したものの学資ローンの返済に圧迫される若者たちや、健康保険がないために医者にかかれない人々、失業し生活苦から消費者金融に手を出した多重債務者、強化され続ける移民法を恐れる不法移民たちなど、束の間の夢を見せられて、暴走した市場原理に引きずり込まれた人々が増加しているという。それらの背景にあるのは、国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それを糧として回り続けるマーケットの存在がある。市場原理とは、弱者を切り捨てていくシステムである。ワーキングプアの子どもたちが戦争に行くのは、国のためでも正義のためでもなく、政府の市場原理に基づいた弱者切捨て政策により生存権をおびやかされ、お金のためにやむなく戦場へ行く道を選ばされるのである。弱者が食いものにされ人間らしく生きるための生存権を奪われ、使い捨てにされていく可能性がある。教育、いのち、暮らしという、国民に責任を負うべき政府の主要業務が民営化され、市場の論理で回されようになった時、はたしてそれは国家と呼べるのだろうか。私たちには、この流れに抵抗する術はあるだろうか。格差が浸透してきているいまの日本にとって、決して他人事ではない。学校で負け組となった多数の若者たちが社会に出ても正社員になる機会は少なく、派遣社員、パートとして酷い労働条件の元で働かざるをえない。まだ生活していける仕事があればいいが、なかには働いても生活していけないワーキングプアもいる。アメリカにおける現代の潮流が、いま海の向こうから警鐘を鳴らしている。

第1章 貧困が生み出す肥満国民
第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々
第4章 出口をふさがれる若者たち
第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」

50.6月30日

 消費税増税

 国の借金が2011年6月末時点で943兆8096億円と過去最大額になり、毎年の予算編成で巨額の財源不足が課題になっている。公共事業費の削減や社会保障費の抑制などで大幅な歳出カットを行い、足りない差額は増税で穴埋めせざるを得ないとされていた。後者の第一歩として、消費税増税を中心とする社会保障と税の一体改革関連法案が衆議院に提出されていた。この法案が、このたび6月26日の衆院本会議で可決され、参議院に送られることとなった。消費税は1954年にフランスで最初に導入され、日本では1988年に竹下内閣のとき消費税法が成立し、12月30日公布、1989年4月1日から施行された。最初の税率は3%であったが、1997年に橋本内閣のとき税率5%に引き上げられた。今回の可決により、参議院でも通過して成立となれば、消費税率は2014年に8%、2015年に10%引き上げられる見込みである。ある経済研究所の試算では、夫婦のどちらかが働く子供2人の標準世帯で、年収が500万~550万円だと、消費税率が8%になった段階で現在より年7,2948円、10%だと119,369円負担が増えるという。また、東日本大震災の復興財源を賄う増税も控え、所得税は2013年1月から現在の納税額に2.1%上乗せされるほか、社会保険料の上昇も家計を圧迫する。給料の上昇が期待できない中、家計にとって負担だけが増えていきそうである。法案の動向について財政の面から評価する声が相次ぐ中、増税による消費の冷え込みを懸念する声もある上、政局への懸念も強まっており、政治の停滞が起これば、経済成長の足を引っ張られることになる。また、増税の前提となっていたはずの歳出削減の取り組みは、不徹底であると言わざるをえないであろう。さらに、消費税率を10%にしても、借金依存の財政を脱却できるわけではない。増税による歳入増を当て込んで、財政出動が増える恐れも懸念される。法案が可決成立しても、やはり財政再建への道筋は見えて来ないのではないか。まず、行政と政治が身を切る覚悟を示す必要があろう。

51.平成24年7月7日

 ”大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語”(2004年2月 岩波書店刊 山下 恒夫著)は、江戸時代の鎖国の中に駿河湾沖で遭難しアリューシャン列島に漂着した乗員が10年ぶりに帰国したときの船頭らの数奇な運命を描いている。

 江戸時代の漂流体験者としてよく知られているのは、ジョン万次郎と大黒屋光太夫である。万次郎が19世紀半ばにアメリカに渡ったのに対し、光太夫とその仲間たちは18世紀後半にロシアで苦難に満ちた10年を過ごした。漂流民の多くは悲惨な運命に遭遇し、運よく見知らぬ土地に漂着しても、生き延びること自体が至難の業であった。山下恒夫氏は、1939年生まれ、早稲田大学文学部を卒業し、雑誌編集者を経て漂流記の研究に従事している。光太夫は幼名を兵蔵といい、宝暦元年(1751年)に伊勢国亀山藩領南若松村の亀屋四郎治家に生まれた。家は船宿を営み、母は伊勢藤堂藩領玉垣村で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘であった。父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させた。兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公した。1778年(安永7年)に、兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際し養子に迎えられ、伊勢へ戻り名を亀屋四郎兵衛と改めた。伊勢で次姉の嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭から、廻船賄職として雇われ船頭となった。1780年(安永9年)に沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改めた。ロシアからの史上最初の帰国者となった2人の漂流民、船頭の光太夫と水夫の磯吉は、伊勢白子の廻船・神昌丸に乗り込んでいた。天明2年12月(1783年1月)に白子の港を出帆したとき乗船者は17人であったが、翌日の夜に駿河湾沖で遭難した。一行はアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。当時、千島列島に現れたロシア人は赤蝦夷と呼ばれ、真紅色のラシャをまとった不気味な怪物として噂が広まっていた。彼らと共に暮らす中で光太夫らはロシア語を習得し、4年後の1787年にありあわせの材料で造った船でロシア人らとともに島を脱出した。その後、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに至った。カムチャツカではスエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父のジャン・レセップスに会い、イルクーツクでは日本に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと出会った。そして、漂流と漂泊の9年間が過ぎると、生存者は6人しかいなかった。そのうち2人の水夫の庄蔵と新蔵はロシアヘ帰化し、同年中に水夫の九右衛門が病死した。日本への帰国については、生き残る試練、帰化の強要、嘆願活動の困難さの壁があった。8か月余の漂流、4年間の孤島暮し、カムチャツカでの飢餓によって、配下の仲間たち11人を失った。イルクーツクでは、帰化の強要に直面した。そして、女帝工カテリーナⅡ世に直訴し、ものの見事に日本帰国の願望を叶えた。遭難後10年経って、ロシアの遣日使節船エカテリーナ号で送られたのは、光太夫と会計役の小市・磯吉の3人だけであったが、蝦夷地の根室で越冬中に小市が病に倒れた。光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に対し影響力を強めていくようになった。1792年に松前の地でキリルの次男のアダム・ラクスマンと幕府の老中の松平定信とで行われた史上初の日露外交交渉は、定信が決めた方針通りに進められ、光太夫と磯吉の身柄引渡しが滞りなく終わり、日本側はそれで満足した。定信には、次回の長崎での外交交渉においてロシア側か強く要求すれば蝦夷地での交易を許す秘策があったという。しかし、その年の7月に、定信は老中職を辞任し、開国のあけぼのはあっけなく消え失せてしまった。後に江戸暮しを許された二人は、番町の幕府お薬園内に新居を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流した。光太夫は日本とロシアとの貿易樹立という未来図を描いていたが、鎖国体制という拒絶の壁が立ちはだかっていた。1804年(文化元年)に、ロシア帝国の外交官であるニコライ・ペトロヴィチ・レザノフが長崎の出島に来航したが、幕府はすでに外交能力を失っていて、半年間出島に留め置かれたという。結局、翌年、長崎奉行所において中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国と通信・通商の関係を持たないのが朝廷歴世の法で議論の余地はないとして通商の拒絶を通告された。光太夫の伝記については、すでに亀井高孝氏の『大黒屋光太夫』(1964年古川弘文館人物叢書)が知られているが、刊行から40年の間に『魯西亜国漂舶聞書』『寛政五年神昌丸二漂民両目付吟味録』『幸太夫談話』『一席夜話』などの新史料が発見され、他にアダム・ラクスマンの『日本来航日誌』などのロシア側資料も多数存在しているので、それらの新しい視点を加味して執筆されたということである。

序 章 赤蝦夷の噂  
第1章 頼もしき若松浦衆  
第2章 遭難、そして漂流  
第3章 霧と風の島アムチトカ  
第4章 カムチャツカからシベリアへ  
第5章 イルクーツクでの望郷の日々  
第6章 帝都サンクト・ペテルブルグ  
第7章 ロシアの黒船と蝦夷地  
第8章 鎖国下の日露交渉  
第9章 大江戸暮しとなった伊勢二漂民  
終 章 使節レザーノフの長崎来航

52.7月14日

 般若心経

 般若心経は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つである。大乗仏教の心髄が説かれていると言われ、読誦経典の1つとして永く伝承されている。大般若経と大品般若経からの抜粋に、陀羅尼が末尾に付け加えられている。現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の二系統のテキストが残存し、最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳である。

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摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空・空不異色・色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。菩提薩?。依般若波羅蜜多故。心無?礙。無?礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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観音菩薩が、
深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、
五蘊は空であると見抜いて、
すべての苦悩から解放された。
シャーリプトラよ、
色は空性に異ならない。空性は色に異ならない。
色は空性である。空性は色である。
受、想、行、識もまた同様である。
シャーリプトラよ、
すべての現象は空を特徴とするものであるから、
生じることなく、滅することなく
汚れることなく、汚れがなくなることなく
増えることなく、減ることもない。
ゆえに空性においては、
色は無く、受、想、行、識も無い
眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、
色、声、香、味、触、法も無い
眼で見た世界も無く、意識で想われた世界も無い
無明も無く、無明の滅尽も無い
"老いと死"も無く、"老いと死"の滅尽も無い
「これが苦しみである」という真理も無い
「これが苦しみの集起である」という真理も無い
「これが苦しみの滅である」という真理も無い
「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理も無い
知ることも無く、得ることも無い
もともと得られるべきものは何も無いからである
菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに
心にこだわりが無い
こだわりが無いゆえに、恐れも無く
転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。
三世の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。
それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは
偉大なる呪文であり、
偉大なる明智の呪文であり、
超えるものなき呪文であり、
並ぶものなき呪文である。
すべての苦しみを除き、
真実であり、偽りなきものである。
では、「智慧の波羅蜜」をあらわす呪文を示そう、
"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

http://ja.wikisource.org/wiki/より。

53.7月21日

 ユーロ安

 7月20日のニューヨーク外国為替市場で、ユーロが約12年ぶりの安値となっている。対円で一時1ユーロ=95円39銭と、2000年11月下旬以来11年8カ月ぶりの安値を付けた。対主要通貨で大幅に値を落とし、対ドルでも一時1ユーロ=1.2144ドルと、2010年6月以来2年1カ月ぶりの安値まで値を落とした。このユーロ安の背景には、昨今のスペインの財政不安の問題があるようである。スペイン政府は、2013年のGDP伸び率がマイナス0.5%になるとの見通しを発表した。バレンシア州が中央政府に債務返済で支援を求めたことも、市場の不安をあおった。スペインは、不動産・建設バブルの崩壊で、金融機関の不良債権が資産の9%にまで上昇し、資本増強が求められている。その上、行政サービスのお金が国庫に不足している模様で、国家財政も危機的状況にあるようである。EU27カ国でユーロを採用しているユーロ圏諸国17カ国は、スペインへの金融支援を正式に決定した。EUによる支援は、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルに次いで4カ国目である。最大1000億ユーロ=約10兆円規模で、金融機関の資本増強に使い道を限定するという。しかし、スペイン国債を売る動きは止まらず、指標となる10年物国債の利回りは7.3%と、1999年のユーロ導入以来、最高の水準にまで上昇した。今回の金融支援によっても、市場の懸念は沈静化していない。その上、ギリシャのように国家財政を含めた包括的な支援に追い込まれるのではとの観測も浮上し、ドイツなど支援側の諸国が慎重姿勢を崩していないようである。欧州債務危機は出口が見えておらず、先進7カ国の一角を占めるイタリアまでもが動揺している。これまで欧州諸国が進めてきた経済通貨統合は、終わりのない信用危機に見舞われている。加えて、各国の国内政治の対立がそのまま欧州全体に影響し、意思決定に手間取り何を決めるにも時間が掛かるという問題もある。はたして、これから、欧州単一通貨ユーロの未来はどうなるのか、その行方は貿易立国日本にとって目が離せなくなっている。

54.7月27日

 ”平成不況の本質”(2011年12月 岩波書店刊 大瀧 雅之著)は、失業率の悪化、労働生産性の停滞、消費の低迷に陥っている日本経済の長期不況の本質を探っている。

 雇用と金融の側面から不況の原因を読み解く鍵を提供し、大震災後のいまこそ、経済成長至上主義から脱却し、社会的共通資本としての教育を充実させることの重要性を強調する。大瀧雅之氏は、1957年福島県生まれ、東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士、東京大学社会科学研究所教授で、専門はマクロ経済学、景気循環理論である。バブル期を1986年-1990年とし、失われた10年期を1991年-2000年とし、構造改革期を2001年-2010年とする。失われた10年期の国民所得は、企業所得・雇用者所得はバブル期より増えており、これで見るかぎり何も失われていない。失われたとしたらそれは金融と不動産の含み資産であろう。デフレと不況は本来因果関係には無く、デフレが不況を引き起こしたという理屈は理論に基づいていない。この50年間、日本の経済が経験しているのはデフレではなく、ディスインフレである。インフレ率は過去50年間一貫して減少してきており、インフレ率の低下と逆相関しているかのように、高度経済成長以来50年日本の失業率は趨勢的に上昇している。雇用の安定は労働生産性の上昇となり、賃金の上昇をもたらす。それはさらに消費活動を拡大し、次の雇用率を高め次の経済拡張の礎となる。現在の不況はその逆の連鎖にあるといえる。現在のディスインフレ期の有効需要の不足が失業率増加をもたらし、労働生産性が低下しそれにともなって名目賃金・物価水準が抑制されている。大手金融機関が保護されてきた結果、大規模な資産を持って危険な対外資産投資に結びついてきた。失われた1990年期には一時対外直接投資は減少したが、2000年代構造改革期に著しく増大した。民間資本は構造改革期には減少しているにもかかわらず、対外直接投資額の構成比率は3.5%から8.5%に増えた。対外投資は国内産業の空洞化につながり、失業率の上昇につながった。いわゆる構造改革の10年は、日本人の持っていた優れたメンタリティである勤勉、協調、誠実の精神を根本から腐食させかけた。わずか10年余りのIT革命は、全体的に見れば人類の幸福に資するものばかりではない。そして偏差値教育の貫徹による人間の規格化は、社会の持つ包容力を著しく低下させ、社会的進化論や新自由主義という社会そのものの存在を否定しかねない危険な思想を世に広める土壌となっている。官から民や民富論のスローガンは、この考え方を体現したものである。民営化の方が優れているといった公共性を軽視する姿勢が働き、企業体は投資家たちの投資機会の拡大をもたらすべきだという拝金主義的な考えが蔓延した。この流れの中で、かつて日本の強みと言われていた日本的経営も破壊された。日本的経営では、企業を社会の公器として、従業員、関連企業、株主のそれぞれに平等な目配りをしながら経営が行われていた。しかし、構造改革路線により株主の短期的な利益を中心とした考え方に誘導された。その結果、労働者の分け前は減り、下請いじめが起こった。短期的な目的が優先され、将来を見越した計画的な経営がないがしろにされ、日本経済全体が実質的に縮小再生産のパターンに落ち込むこととなった。若者の失業については、若者被害者・年配加害者論が唱えられた。しかし、団塊の世代の退職が始まっても、一向に若者の雇用が増える様子はない。年齢別の完全失業率を見ると、どの階層もほぼ一様かつ趨勢的に完全失業率が上昇している。団塊の世代の退職と若者の失業率の高さの間には、ほとんど何も関連がないことが明らかである。失業率と労働生産性は有効需要の大きさにより決定され、有効需要が拡大すると失業率が低下する。同時に技術の熟練者が増えて技術継承も容易となり、長期的にも労働生産性が上昇する。したがって、財・サービスに対する経済全体の需要である有効需要をいかに喚起するかが、全体の鍵を握っているのである。日本の労働者のライバルは事実上東アジアの労働者であるから、賃金を国内の平均的レベルに維持しながら、企業立地を進めるためには、どうしても思い切った税制優遇が必要となる。肝要なことは、小出しかつ場当たり的に政策を打つことなく、例外的ともいえる優遇措置を、一気に時限立法ではなく、被災地特区に立地する企業に打ち出すことである。これは特区を利用する企業の将来の予想を安定させ新事業に確信を持たせることに大いに資するであろうし、これによって経済全体の有効需要が喚起されれば被災地に限らず雇用全体として改善されようという。

はじめに-不況、そして東日本大震災
第1章 「デフレ」とは何か-長期的視野から考える
第2章 なぜ賃金が上がらないのか
第3章 企業は誰のものか
第4章 構造改革とは何だったのか
終 章 いま、何が求められているか



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