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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1. 平成24年8月3日

 ”ぼちぼち結論”(2007年10月 中央公論新社刊 養老 孟司著)は、雑誌”中央公論”に連載された”鎌倉傘張り日記”の2005年11月号以降の分にいくつかの文章を付け加えたものである。

 2005年11月号以降の雑誌連載をまとめたものであり、内容は種々雑多に渡っていろいろなことが書かれている。2005年10月以前号のものは”まともな人””こまった人”という中公新書にまとめられていて、本書は連載の最後の分に当たる。養老孟司氏は、1937年に鎌倉市で生まれ、4歳の時に父親を結核で亡くし、その後、小児科を営む母の腕ひとつで育てられ、東京大学医学部を卒業後、1967年に大学院基礎医学で解剖学を専攻し博士課程を修了し、1967年に医学博士号を取得し、東京大学助手・助教授を経て、1981年に解剖学第二講座教授となり、1995年に東京大学を定年前に退官し、以後、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任した。2005年から2007年と言えば、ホリエモン・村上ファンド騒動、NHK受信料、データ捏造問題、中国の経済脅威、自民党総裁選、団塊世代の定年などが話題になった。ホリエモン騒動は、インターネットが普及しはじめた黎明期にいち早くホームページ制作・管理運営を行う会社を起業し、2002年に経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した堀江貴文氏に関わる2004年のプロ野球球団買収、2005年のニッポン放送買収、総選挙立候補、2006年の証券取引法違反容疑などの一連の出来事である。村上ファンド事件は、2006年に村上ファンドがニッポン放送株でインサイダー取引をしていたとして、村上ファンド代表の村上世彰氏が逮捕された事件である。団塊世代の定年は、2007年から2009年の出来事である。このような時代を背景にして、理性に振り回される現代を憂いながら、一方で、常識の怪しさを指摘している。”ぼちぼち結論か”には、小泉首相とブッシュ大統領のことやイラクの民政化のことが書かれている。世界は石油で動いているのであって、テロで動いているのではないという。連載をぼちぼち店じまいにしようかと思っているので、ぼちぼち結論かというタイトルになったようである。しかし、連載は終わりにならずにその後も続いた。最後の”結論は一つ”には、現代世界の問題はアメリカ文明であり、そういってしまえば結論は簡単であるという。アメリカ文明はエネルギー高消費型の文明であり、アメリカのいう自由主義経済とは原油価格安定上の自由であるという。しかし、エネルギーはいずれ払底するので、将来の文明は人を訓練するしかない。そのために必要なのは人に決まっているという。

1 定年後の団塊/抽象的人間/「先生」が成り立たない時代/一億総インテリ化/民間主導/公平・客観・中立
2 意識は中心か/自由と不自由/モノですよ、モノ/昆虫採集禁止/どうかしてる/クーデターと総裁選/情報と感覚
3 子どもの自殺/ぼちぼち結論か/データ主義/同じ私/なぜ脳なのか/取り返しはつかない/終わりは自然
4 結論は一つ(幸福と社会システム/アメリカ文明/アメリカと日本/日本をどうする)

2.8月11日

 ”幸福論”(2006年6月 ネコ・パブリッシング刊 須藤 元気著)は、四国88ケ所の霊場を巡ったときの風景、仏像、人との触れ合いなどのたくさんのカットを交え、さまざまなことを幸福というテーマでまとめている。

 2005年の春から夏にかけて四国を旅したときのさまざまな記録を交えている。当時まだ30年に満たない人生であったが、改めて振り返ってもそれなりにいろいろな経験をしてきた。格闘家としてさまざまな勝負を経験するうちに、いつからか人間的成長を遂げたいという思いが強くなってきて、あるとき突如として旅に出たのだという。それは、白装束に身を包んだ空海ゆかりの四国88ヵ所巡礼の旅である。この旅を通じて、多くの人に出会い、いろいろな経験をして、そこで感じた幸福という名の普遍的なテーマについて一端を記している。須藤元気氏は、1978年東京都江東区生まれで関東第一高等学校、拓殖短期大学卒業、拓殖大学大学院地方政治行政研究科修士、サンタモニカカレッジ芸術学部中退の元総合格闘家・ミュージシャン・作家・タレント・俳優・世界学生レスリング日本代表監督、拓殖大学レスリング部監督である。最初に、迷うが故に三界は城、悟るが故に十方は空、本来東西は無く、何処にか南北あらん、という言葉が巻頭に記されている。四国で「ありがとう」を言いつづけた数は実に210,090回であったという。カウンターでカウントしていない分も加えたら、その数はさらに大きく上回るであろう。アランの「幸福論」に、成功しているから満足しているのではなく、満足していたから成功したのだ、という一節がある。成功を幸福に置き換えても同じことが言える。幸福だから楽しいのではなく、楽しんでいるから幸福なのだ。自然に春夏秋冬があるように、人にも季節の変わり目がある。時には激しくもあり、時には優しくもある。当初の目標であった自己との対話は、ゆっくりと流れる時間の中で十分に図ることが出来たと思う。そして、もう一つの目標は「ありがとう」を言いつづけることであった。かつて空海が「虚空蔵求聞持法」の修行をしたように、四国の地で「ありがとう」の体験を存分に積むことができた。空海のように金星が口の中に入ってくるような体験はなかったが、線香花火のような儚さの中にある輝かしい何かが中に入ってきたような気がした。この体験は半紙ににじむ墨汁のように、細胞の奥深くにしっかりと記憶されている。いつか何かのはずみに、この体験が生きてくる瞬間かあるだろう。今が幸せであれば、未来もまた幸せになる。だからこそ、今、この瞬間を幸せに生きるという。

プロローグ 四国八十八カ所を旅する
THE LONG AND WINDING ROAD 発心の道場・徳島県
HONESTY 修行の道場・高知県
NEVER MIND 菩提の道場・愛媛県
TIME TO SAY GOOD‐BYE 涅槃の道場・香川県
エピローグ 八十八カ所を経て見えてきたもの

3.8月18日

 ”昭和の暮らしを追ってみる”(2003年3月 中央公論新社刊 東京都江戸東京博物館監修)は、江戸東京歴史探検シリーズの第6巻として終戦を境に一変した戦前・戦中・戦後の暮らしぶりをたどっている。

 江戸東京歴史探検シリーズは全6巻で、1巻で年中行事を体験し、2巻で江戸の町を歩き、3巻で江戸で暮らし、4巻で開化の東京を探検し、5巻で帝都の誕生を覗き、6巻で昭和の暮らしを追っている。第6巻の責任編集者の板谷敏弘氏は1961年生まれ、青山学院大学大学院史学専攻博士後期課程中退、東京都江戸東京博物館学芸員である。年中行事体験では、年中行事を通して正月の江戸城登城風景や雛祭り、花見や七夕、花火など、庶民の生活文化の一端をのぞきみている。江戸の町を歩くでは、江戸はいつから江戸になり大江戸に至ったのか、歴史を辿りながら検証している。江戸で暮らすでは、都市の日々の文化と生活の潤いを再現している。開化の東京探検では、江戸の町に西洋近代が輸入され大きく変貌した人々の生活を追求している。帝都の誕生を覗くでは、近代化による新文化の創造と定着がなされ光と闇の世界が現出した帝都東京を概観している。そして、昭和の暮らしを追うでは、東京大空襲を経て終戦後の焼け野原と化した東京が日本再生のシンボルとして政治経済の中心として歩みを始め、高度成長、東京五輪などを契機として大改造された首都東京を紹介している。図版や写真が多数あって、ビジュアルに昭和の暮らしを体感できる。最後に、戦時下で重要な役割を果たし、戦後も町会として市民の暮らしを支えてきた隣組について触れている。隣組は、戦時体制の銃後を守る国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。1940年に内務省が布告した部落會町内會等調整整備要綱によって制度化された。第二次世界大戦、1947年にGHQにより解体された。しかし、現在まで、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区・自治会に引き継がれている。

都市の生活と職
出版と娯楽
戦争と都民
戦後復興

4.8月25日

 ”まじめの崩壊”(2009年1月 筑摩書房刊 和田 秀樹著)は、まじめといわれていた日本人がいつからどのようにふまじめになったか、その理由を社会心理学的な視点から分析している。

 これまで日本ではまじめを前提としてさまざまな仕組みが作られ維持されてきたが、このようなまじめさは日本の社会ですでに崩壊している。ふまじめな日本人が増え続けることには弊害があり、まじめ社会の再建が必要だという。和田秀樹氏は、1960年生まれ、東京大学医学部卒業、専門は老人精神医学、精神分析学、集団精神療法学、東京大学付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学学校国際フェローを経て、心理学ビジネスのシンクタンクを設立し代表に就任、国際医療福祉大学大学院教授、一橋大学国際・公共政策大学院特任教授を務める。日本人はかつて、世界中からまじめな国民と見られていた。日本人のナショナルキャラクターを表す言葉も、まさしくまじめであった。個人レベルではふまじめな日本人はいくらでもいたが、総体的にはまじめ、勤勉、勉強熱心という印象を世界の人たちに与えていた。そんな日本人のまじめさが近年は急速に失われつつあり、耐震強度偽装事件や数々の食品偽装事件に象徴されるような手抜きやインチキなどのふまじめがやたらと目立つ。日本人が世界から働き蜂と揶揄されたのもすでに昔の話になり、一部の仕事を除けば、日本人の勤労時間は昔に比べて大幅に減少している。同様の変化は子どもの世界でも見られ、学校の外で勉強しない塾にもいかない子供が急増し、日本人の子供の勉強時間や成績は決して芳しい状態ではなくなっている。この状況を立て直そうにも、学級崩壊や規律の乱れといったふまじめな子供たちが引き起こす様々な問題に悩まされている。まじめを前提としてきた日本にまじめの崩壊が起こったルーツは、長年続けられてきたまじめ批判の影響が大きいのではないか。特に、受験戦争批判がまじめ批判の基礎を作った。経済的に豊かになって人々の生活が楽になり、あくせく働く必要がなくなってきて、まじめが美徳として扱われにくくなった。上のいいなりになるのはかっこ悪い、と受け止められた。このまじめの崩壊が日本に何をもたらすのであろうか。精神医学から見ると、人間にはうつを意味するメランコリーを意識したメランコ人間と、統合失調症を意味するシゾフレアを意識したシゾフレ人間に分類できる。メランコ人間は自分が主役で、他人との密な付き合いを求め、論理性・一貫性にこだわり、自分の中に行動規範を持っている。シゾフレ人間は周りの世界が主役で、他人と密接な関係を作らず、論理の飛躍を気にせず、自分の中に行動規範を持っていない。高度成長期はまじめに働けば報われる時代だったので、日本人にはメランコ人間が多かった。しかし、1970年代以降は日本が豊かになり、まじめが批判されるようになって、シゾフレ人間が増えてきた。これまでのメランコ人間多数派社会を前提に作られてきた仕組みが、シゾフレ人間多数派社会になって機能しなくなりつつある。現在の日本では、メランコリー型のうつ病は減っていて、新型うつ病という、仕事の間だけうつで、アフターファイブは比較的元気という、外から見ているといい加減に見えるうつ病が増えている。心によいか悪いかはともかくとして、まじめの崩壊は日本にさまざまな病理をもたらすし、日本の競争力に深刻な影響を及ぼす。まじめすぎることはメンタルヘルスによくないが、まじめの崩壊もメンタルヘルスに悪いのかもしれない。さまざまな形で、日本にまじめの復権が起こることを心から願うという。

序章 「日本人はまじめ」という神話が崩れている
第1章 まじめな国民性の崩壊
第2章 平気でウソがつける日本人
第3章 義理人情の崩壊
第4章 まじめでない子どもと若者たち
第5章 拝金主義とまじめの崩壊
第6章 「ルールのない国」の危険な将来
第7章 「まじめの崩壊」は日に何をもたらすか
第8章 まじめ社会の再建の意義

5.平成24年9月1日

 ”セブンソングズ フリーター医師の青春七転八倒記”(2005年1月 講談社刊 川渕 圭一著)は、小説のように読める自伝の書である。

 七転八倒は、七度も転んだり倒れたりして、転げ回ってもがき苦しむことである。つい最近、”37歳で医者になった僕?研修医純情物語?”のタイトルで、草彅剛主演のテレビドラマとして、2012年4月10日から6月19日まで、関西テレビの制作によりフジテレビ系列の火曜22時枠で放送された。ドラマの原作は、2002年に発売されベストセラーとなった、”研修医純情物語?先生と呼ばないで?”と”ふり返るなドクター?研修医純情物語?”である。セブンソングズは3作目の作品である。川渕圭一氏は、1959年群馬県前橋市生まれで、東京大学工学部を卒業し大学院を中退後、パチプロ、数社の会社勤務を経て30歳で医師を目指し、37歳で京都大学医学部を卒業し、1996年から4年間、大学病院で研修医として勤務し、現在はフリーの内科医として働きつつ執筆活動も続けている。セブンソングズは、アメリカン・パイ、ニュー・キッド・イン・タウン、エイプリル・カム・シー・ウィル、ホワット・ゲーム・シャル・ウィ・プレイ・トゥデイ、グリーン、グリーン・グラス・オブ・ホーム、リヴィング・イヤーズ、フィールド・オブ・ドリームスであり、本の章立てもこの7章となっている。因みに、最初のアメリカン・パイは、1999年にアメリカで公開された青春コメディ映画である。卒業を間近に控えた高校生4人組が、プロムまでに童貞を捨てようと、あの手この手を使って奮闘する様を描いている。最後のフィールド・オブ・ドリームスは、1989年公開のアメリカ映画である。野球を題材に、1960年代の夢や希望、家族の絆といった、アメリカの美徳を描き上げたファンタジー映画である。著者が30歳で医学部受験を決意するまでは、迷いと挫折の日々であった。猛勉強の末、2浪はしたものの東大工学部に入学し、卒業後、一週間の勉強で東大の大学院に合格したものの、すぐにドロップアウトした。大学3年次のときの突然の父の事故死にあい、その後、ナンパやパチンコに明け暮れた。転職をくり返したサラリーマン時代、そして、ひきこもりになった。30歳で一念発起して、8月中旬から猛勉強を重ね、京都大学医学部へ入学し37歳で研修医になった。同じように時流に流されて生きてきて、ふと自己の生き方を再考している人々に参考になる作品である。

6.9月8日

 ニッポンの競争力

 世界経済フォーラムは、世界144カ国・地域を対象とした2012年版世界競争力ランキングを発表した。世界経済フォーラムは政官財が集まるダボス会議の主催団体で、競争力報告は1979年から発表している。ランキングは、国の競争力を生産性の観点から分析し、マクロ経済情勢、金融市場、技術革新性などの分野について評価した。2012年度は、日本は、発明性、製造プロセスの先進性、国内サプライヤー数などが首位となったが、政府債務残高に関する評価が前年に続き最下位となった。総合順位は10位と、前年から1ランク後退した。首位はスイスが4年連続、アメリカは前年の5位から7位に下がった。アジア勢では、シンガポールが前年と同じ2位、香港が日本を抜いて9位に入り、韓国が前年の24位から19位に浮上し、中国は26位から29位に後退した。もはや、日本は経済一流国ではなくなってきているようである。ただし、人口が少ないほど成長率は高くなるという傾向があるようである。それにしても、このまま日本はどうなってしまうのかという懸念を多くの人が持っているように思える。第一の原因は、円高で輸出競争力が低下したことであろう。国内にあった工場が海外に移転するなどして産業の空洞化が進展した。しかし、他の要因もいろいろあるようである。短期的な投資が増えて、日本的経営の中心であった長期を見据えた経営が難しくなった。製造業では製品のモジュール化が進み、これまで日本の強みであったカイゼンの価値が低下している。また、電機業界の例でも、研究開発の成果を収益に結びつける活動が新興国に比べて弱い。そもそも、研究開発者の質は向上しているであろうか。ちょっと考えても、検討課題がいろいろありそうである。がんばれ、ニッポン。

7.9月15日

 今年も暑い

 9月の中旬になり夜はやや涼しくなったが、昼間はあいかわらず暑い日が続いている。一体、いつになったら涼しくなるのであろうか。昔から暑さ寒さも彼岸まで、という。彼岸会は、春分・秋分を中日とした前後各3日を合わせた7日間である。春分は、太陽が春分点を通過した瞬間のことで3月21日ごろ、秋分は、太陽が秋分点を通過した瞬間のことで9月23日ごろである。最高気温が35℃以上の日のことを猛暑日というが、これまでの記録では、年間最多日数は1994年の大分県日田市の45日、連続日数は1994年7月3日から24日までの日田市の22日、最も早い猛暑日は1993年の埼玉県秩父市、群馬県前橋市の5月13日、最も遅い猛暑日は1991年の富山県高岡市伏木の9月28日、最高気温は2007年8月16日の埼玉県熊谷市、岐阜県多治見市の40.9℃、最高気温の月平均は1995年8月の岐阜県岐阜市の36.1℃であった。一昨年、気象庁は、9月1日に、6月から8月の平均気温が平年比+1.64℃となり、観測史上最高気温となるなど記録的な猛暑となったため、2010年の夏の猛暑を異常気象と認定した。昨年は、7月は北日本・東日本で平年比やや高温、8月は全国的に平年並みの暑さであったが、6月下旬の平均気温は東日本で平年比+3.8℃、西日本で平年比+3.3℃とそれぞれ2005年の平年比3.3℃、2.8℃を大きく上回る1961年の統計開始以来最高値となった。そして今年の8月23日に気象庁から発表された向こう3か月の天候予想では、9月は、北・東日本、西日本の日本海側では天気は数日の周期で変わり、西日本の太平洋側と沖縄・奄美では平年と同様に晴れの日が多い見込みで、気温は北・東・西日本で平年並または高い確率がともに40%とのことであった。10月は全国的に数日の周期で天気が変わり、北日本太平洋側と西日本、沖縄・奄美では平年と同様に晴れの日が多い見込みということである。年々、暑さが増しているように感じられるのは、やはり、地球の温暖化の影響であろうか。

8.9月22日

 ”禅の食事”(2004年6月 光人社刊 武田 鏡村著)は、精進料理の本ではなく心と体をきれいにする観点から禅と食事の関係を解説した本である。

 最近、健康食として、日本的な食事が世界的に注目されている。日本食といわれる食事の原点は、禅僧などが食べる精進料理である。肉や魚などの生ものを不殺生という仏教の教えから排し、玄米、麦、大豆などの穀物や旬の野菜、山菜、漬物などを中心としている。とくに禅では、一切の美食や飽食を排し、一汁一菜に徹した厳しい修行を行なっている。粗食でありながら、それを徹底的に体内で消化して身心を鍛えている。そして、粗食と坐禅による呼吸法によって、多くの禅憎が長寿を保ってきた。禅では食事も欠くことのできない修行であり、悟りへの道であることが述べられていた。武田鏡村氏は1947年に新潟県で生まれ、新潟大学を卒業して作家となった。明治の軍人、乃木希典は、昔の名僧といわれた人が油揚げぐらいの食事で80歳、90歳の長寿を保ったといい、粗食による行住坐臥と常在戦場の心を養っていたという。精進料理という言葉は、精進の料理ということで深い意味がある。精進は八生道の六番目の正精進であり、悟りにいたるために心を励まして仏道に邁進するということである。精進ものは材料に肉や魚を使わない料理のことで、精進あげは野菜類だけの揚げ物である。これは不殺生の教えをふまえて、仏道への修行に精進する、努力する、ということを表している。また、昔から日本では自然を尊び血や死などの穢れを忌み嫌う神道が土着し、神事に仕える者が身心を清めて払う潔斎が習俗となっていた。神仏が習合して、仏道に励み努力する精進と身心の穢れを除き去る潔斎が結びついて、精進潔斎といわれるようになった。そして、潔斎の意味が精進に包摂されて、精進というだけで肉類や酒などを断って身を慎み、修行に励むという意味になったという。さらに、栄西や道元による禅宗の形成によって、ようやく不殺生と精進の食の思想が徹底されることになった。日本で初めて食に関心を寄せたのは道元であり、身心一如を説いている。「身心一如のむねは、仏法のつねに談ずるところなり。しかるに、なんぞ、その身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて、生滅せざらん。」生死は一体であるもので、身体は一瞬一瞬に死んでそして生まれている。その生死を保つものが食であるので、食事を含めて生活のすべてが修行であり、一挙手一役足が仏道の発現であると説いた。永平寺、円通寺、大徳寺、南禅寺等々の各寺院、道元、栄西、一休、沢庵、白隠、良寛ら高僧のメニューなどから、食事への考え方、接し方、健康を維持する食生活のヒントなど、さまざまな知恵を垣間見ることができる。

第1章 仏教と食の思想―八正道と不殺生と精進の仏教の教え
第2章 禅と食事の思想―道元が開いた食事観とは何か
第3章 禅の食事観の展開―食文化を生み出した禅僧たちと食思想
第4章 禅の呼吸と健康法―坐禅と食から健康を保つ
第5章 良寛さんの食と自然体―無一物で開いた境地と健康法
第6章 茶道と懐石に見る禅の食思想―茶禅一如の心とは何か

9.9月29日

 ”伊藤雅俊の商いのこころ”(2003年12月 日本経済新聞社刊 伊藤 雅俊著)は、日本経済新聞の連載の”私の履歴書”を加筆し単行本化したものである。

わずか2坪の洋品店から出発し一大流通グループに築き上げ、流通産業の勃興期、成長期を生き抜き、幾多の難局を乗り越えてきた生涯を振り返っている。日本は今、明治維新、太平洋戦争の敗戦に続く、第三の大きな転換期にある。ポスト資本主義という世界共通の問題と本当の資本主義の洗礼を受けていない日本固有の問題とが混在して起きている経済の危機的状況は、いよいよ深刻の度を深めている。氏が心配なのは、日本人が経済大国の現状に満足し、政府に頼って、何とかなるだろうという頑廃的な空気が強く感じられることだという。これから先の日本経済は生易しいものではなく、恐慌が起こる可能性さえ否定できない。それなのに、日本人は鈍感で無防備すぎるという。自分の人生を振り返れば、人の世では、考えられないようなことも起こり得ることが分かる。人間の力ではどうにもならない、運命の力が働いているように思うという。伊藤雅俊氏は、1924年に東京で生まれ、1944年に横浜市立商業専門学校を卒業し、1956年に羊華堂の社長となり、1958年に株式会社ヨーカ堂を設立し、イトーヨーカ堂、セブン-イレブン、デニーズなどイトーヨーカ堂グループの創業者として活躍した。株式会社イトーヨーカ堂は関東地方を中心に25都道府県に店舗をもつゼネラルマーチャンダイズストアで、セブン&アイ・ホールディングスの子会社であり中核企業である。創業は1920年で、現名誉会長・伊藤雅俊氏の母親・伊藤ゆき氏の弟にあたる吉川敏雄氏が東京市浅草区に”羊華堂洋品店”を開業したのが始まりである。羊華堂が繁盛したため、吉川敏雄氏と14歳の差がある伊藤譲氏が手伝い始め、浅草、千住、荻窪に3店舗あるうちの浅草の一店をのれん分けされた。伊藤譲氏の弟・伊藤雅俊氏は、学校卒業後、三菱鉱業に就職し、入社後すぐ陸軍特別甲種幹部学校に入校し、陸軍士官を目指したが敗戦を迎え、三菱鉱業に復帰した。空襲で焼け出された伊藤ゆき氏と伊藤譲氏は、足立区千住で羊華堂を再開し、1946年に伊藤雅俊氏も三菱鉱業を退社し、羊華堂を手伝うことになった。1948年に伊藤譲氏が合資会社羊華堂を設立して法人化し、1956年に気管支喘息の持病を患っていた伊藤譲社長が死去し、伊藤雅俊氏が経営を引き継いだ。伊藤雅俊氏は、創業のこころを忘れないという。創業は業を創るということで、無から有を生み出すようなところがあり、「お客様は来てくださらない」「お取引先は売ってくださらない」「銀行は貸してくださらない」という、ないもの尽くしの状態からの出発である。あるのは、お客様に誠心誠意を尽くそう、お取引先に決してご迷惑をかけまい、借りたお金は約束通り必ず返そうという、真摯な気持ちだけである。その創業のこころを忘れずに、努力を積み重ねることで、何物にも替え難い信用が生まれ、どうにか食べていけるのである。創業から時間がたって商売が大きくなり、信用が独り歩きしてありがたさを忘れ、多くの方々に支えられて商売が成り立っているのだということに思いが至らなくなった時から、衰退がはじまるという。自分の力を過信し、倣慢さに気付かなくなった時が危機のはじまりである。中央からは革新が生まれにくいように、大企業からも革新は生まれにくいという問題がある。企業規模が大きくなればなるほど、社員が会社は潰れないと思うようになり、ハングリー精神が希薄になって挑戦の気概が薄れるからである。革新は辺境、苦境から生まれるのは確かであるが、革新を続けられるかどうかは別の問題である。

Ⅰお蔭さまです―私の履歴書
 商人道の基本は誠実さ/つながりが薄かった父/母ゆき/異父兄/兄の勧めで進学決定/繰り上げ卒業/千住・羊華堂/結婚/継承問題/海外視察/スーパー勃興期/借金嫌い/非合併路線/労働組合/株式上場/石油危機、需給変動の恐ろしさ/大店法/セブンイレブン/チェーン協会長/本物の資本主義/荒天に準備せよ/アメリカの本家を支援/社長辞任/トップ交代/変化対応業/育英財団/家業と企業/金婚式
Ⅱ忘れ得ぬ人々
 鯨岡兵輔さん/渋井賢太郎さん/関口寛快さん/西脇秀夫さんと三井銀行の方々/小山五郎さん/野村證券の方々/北裏喜一郎さん/前川春雄さん/岡田卓也さん/西川俊男さん、中原功さん/西端行雄さん/安田栄司さん、和田源三郎さん/大高善雄さん、渡辺喜一郎さん/田島義博先生/渥美俊一さん/滝田実さん/田中角栄さん、渡辺美智雄さん/住本保吉さん/中島董一郎さん、藤田近男さん/丸田芳郎さん/飯田亮さん/高橋高見さん/五島昇さん/盛田昭夫さん/松下幸之助さん/高橋荒太郎さん/藤沢武夫さん/平野繁太郎さん/S・M・ウォルトンさん/J・P・トンプソンさん/G・W・ジェンキンスさん、D・R・ウェグマンさん/P・A・F・ギフォードさん、L・エアリさん/J・L・ワインバーグさん、J・C・ホワイトヘッドさん/D・H・コマンスキーさん/M・カプランさん、M・ガーストさん/P・F・ドラッカー先生
Ⅲ伊藤雅俊・商売の要諦
 「資本より元手」「まず、お客様ありき」「漬物石としての存在」「浮気せず本業専念」「商業の極意は自由であること」「質がよければ、安く借りられる」「基本の徹底と変化への対応」「荒天に準備せよ」「創業のこころを忘れず」「革新は辺境から生まれる」

10.平成24年10月6日

 ”フェルメール全点踏破の旅”(2006年9月 集英社刊 朽木 ゆり子著)は、”盗まれたフェルメール”の著者でニューヨーク在住のジャーナリストが、全点踏破の旅をした記録である。

 ある日突然、集英社の男性誌副編集長から、世界中のフェルメールを全点踏破する企画に興味あるかという連絡が入り、フェルメールの絵37枚を全部連続して見るという旅に出ることになった。17世紀オランダの画家、ヨハネス・フェルメールは、作品が世界中でわずか30数点という少なさ故に、欧米各都市の美術館に散在するフェルメール全作品を訪ねる旅が成立する。朽木ゆり子氏は1950年に東京で生まれ、国際基督教大学教養学部社会科学科を卒業し、大学院行政学修士課程修了、コロンビア大学大学院政治学科博士課程に学び、日本版エスクァイア誌副編集長を務めたことがある。ヨハネス・フェルメールは、1632年にオランダのデルフトで生まれた。父親、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは、絹織物職人として活動するかたわら、居酒屋・宿屋を営んでいた。後に、姓をフォスからファン・デル・メールに変えた。ヨハネス誕生の前年に、画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。1641年に、現在フェルメールの家として知られる、メーヘレンを購入し転居した。ヨハネス・フェルメールは、生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。初め物語画家として出発したが、やがて1656年頃から風俗画家へと転向した。フェルメールが描いたとされる絵は、現在地球上に37枚しか存在していない。フェルメールの魔法にかかった人は、その絵を全部見たいという願望に突き動かされる。これまでアートに興味を持つのは女性が多かったが、フェルメールには男性のファンも多く、さらに贋作や盗難、ナチスによる略奪といった側面もあって、ジャーナリスティックな話題としても遜色がない。これまで、フェルメールの作品数は32枚から36枚とされてきた。現在、世界のフェルメール専門家の大部分は、フェルメールの34枚の絵に関しては、本人の筆によるものだと大筋で合意している。しかし、”フルートを持つ女””聖女プラクセデス”の2枚に関しては、フェルメールの作品と考えるには無理があるという点で大筋の合意がある。ところが、2004年に37枚目の絵が浮上し、国際的なニュースになった。それが、”ヴァージナルの前に座る若い女”である。フェルメールは、伝統的な意味での宗教的主題を描いていない。にもかかわらず、彼の絵を見ることで精神的な飢餓感を満たされたように感じる。その理由を解き明かすことが、彼の絵を全点見て歩く旅の一つの目的である。また、個々の作品がなぜ特定の都市の特定の美術館に所蔵されるようになったのかが気になる。しかし、この旅での全点踏破は叶わなかった。フェルメールの絵を所蔵している美術館に行くと、目的の絵が別の美術館に貸し出されていたことがあった。33枚のフェルメールの絵を見る旅を終え、見る事が出来なかったのは”合奏””聖女プラクセデス””手紙を書く女と召使””音楽の稽古”である。

序章 フェルメールの魔法
ベルリン/ドレスデン/ブラウンシュバイク/ウィーン/デルフト/アムステルダム/ハーグ/ロッテルダム/ロンドン/ロンドン/パリ/エジンバラ/ワシントン/フィラデルフィア/ニューヨーク
終章 深まるフェルメールの謎

11.10月13日

 ”日本「再創造」”(2011年6月 東洋経済新報社刊 小宮山 宏著)は、現在、課題が山積している日本が課題先進国になれば再び大発展できるという。

 昨年の東日本大震災の際に、すでに本書は脱稿されていたそうである。東日本大震災は、大地震、大津波、原発事故という戦後最大の複合災害であった。かつての敗戦後、廃墟となった国土の復興にひたすら邁進してきた日本は、戦後最大の危機に直面した。しかし、危機に怖気づいて、慌てふためき、思考停止になってはいけない。ピンチこそは新しい時代を生み出すチャンスだと考えるべきである。小宮山宏氏は、1944年栃木県生まれ、1967年東京大学工学部化学工学科卒業、1972年同大学大学院工学系研究科博士課程修了、1988年東京大学工学部教授、2000年工学部長、大学院工学系研究科長、2003年副学長などを経て、2005年に28代総長に就任し、2009年に総長退任後、三菱総合研究所理事長、東京大学総長顧問に就任した。専門は、化学システム工学、地球環境工学、知識の構造化である。日本は自前のエネルギー・資源は少なく、少子高齢化が急速に進んでいる。先進国になって久しい日本は、少子高齢化、低い食糧自給率、環境問題、地域間格差などたくさんの難しい問題を抱えている。社会システムの綻びも随所に目立ち始めたが、日本が抱える困難に、近い将来、必ずや世界も直面することになる。悲観論が横溢するのは、正しい情報を手にしていないためである。冷静かつ客観的に現状を見れば、日本は世界でも稀な恵まれた国である。日本には、技術と人、そして経済がある。日本には課題が山積しており、その課題を解決して行けば高質の経験値と価値が創出され、世界の文明の発展に貢献できるはずである。日本が直面する課題を解決するために、地域ごとに快適なくらしが営まれる社会を実現するプラチナ社会構想と、低炭素社会実現のためのビジョン2050を提案する。これからの世界は、目指すべき社会の姿そのものを競う時代に入るので、そのフロントランナーを目指そうという提案である。プラチナ社会では、市民が中心となり自治体を場として、産官学の力を結集して各地にそれぞれ市民が欲する社会を実現する。被災地域に関して、プラチナ社会を創造すべく復興へ向けた活動を開始している。また、関東東北地域の電力システムの危機に関して、エネルギー効率の向上によって、エネルギー消費を減らすことを提案している。快適さを増し、コストを減らしつつ、エネルギー消費を減らすことが可能である。そして、非化石資源の増強が必要になっており、自然エネルギーの導入を加速しなければならない。

序 章 「課題先進国」から「課題解決先進国」へ
第1章 「普及型需要」と「創造型需要」―先進国における需要不足の正体
第2章 21世紀のパラダイムと情報技術の役割
第3章 「有限の地球」を救う「ビジョン2050」
第4章 創造型需要にこそ活路あり1―環境で世界市場を切り開く
第5章 創造型需要にこそ活路あり2―技術で活力ある高齢社会を実現する
第6章 「プラチナ社会」の実現に向けて

12.10月20日

 ”独立して成功する「超」仕事術”(2003年3月 筑摩書房刊 晴山 陽一著)は、家族3人を道づれに40代後半で筆一本で独立した男の挑戦の物語である。

 独立自営という言葉には人々を引きつける魔力があるが、独立後に行きづまったという話をよく聞く。独立の条件や自営のノウハウとは何であろうか。晴山陽一氏は、1950年東京生まれ、早稲田大学文学部哲学科を卒業して出版社に入り、経済雑誌の創刊と英語教材の開発を手がけた。元ニュートン社”コモンセンス”副編集長、ソフト開発部長を務め、今は作家・英語教育研究家である。サラリーマン時代、入社以来20年余の間、会社のために誠心誠意働いてきた。会社の存続のために過酷なリストラも行ったりしたが、いかに努力しても一向に家族より会社のほうが大事というふうにはなりそうもなかった。47歳の時に会社をやめた。自分の時間を会社のために使うより、家族のために使うことを選んだ。だが、もし独立に失敗したら、むしろ家族を不幸にするわけである。会社をやめた時、親しい友人が、筆一本で食べていくのは絶対ムリだと忠告してくれた。だが、独立を断行してしまった。独立した翌年に出版した”英単語速習術”が10万部を越えるヒット作になった。独立後5年で刊行点数はほぼ30冊となり、年間6冊のペースはかろうじてクリアした。収入の目標は年収1000万円であったが、たまたまヒットに恵まれた2年間については越えることができた。印税生活というと世間の人は何もしないでお金が入ってくるウハウハ生活を思い浮かべるようであるが、その舞台裏は実は自転車操業である。独立して本を書くようになると、お金は、すばやくよい仕事をして、自分の力で稼ぎ出すものになった。サラリーマン時代には、なけなしの金が減っていくという悲哀に似た感情が常に伴っていたが、独立後は、元気よく入ってきて、元気よく出ていくという感じになった。貯めた中からいくら使うかではなく、使った分は必ず稼ぐという、ポジティブな消費者に変わった。いわば、自給自足の原始生活に還ったような不思議な感覚である。サラリーマン時代には決して味わうことのできなかった、賎しさとも表裏一体である。人から与えられた仕事をこなすのではなく、自分の仕事を自ら開拓しやりたい仕事をする。執筆の条件は、早く書く、多く書く、売れるものを書く、印税率のよい出版社で書く、刷り部数の多い出版社で書く、営業力のある出版社で書くである。その前提条件は、書けるものを書く、書きたいものを書く、書きがいのあるものを書く、未開拓な領誠にチャレンジするである。何よりも優先する条件は、編集者とうまが合うことである。一般的に、独立するには、気力・体力・知力・財力・協力が必要である。本書には、クリエイティブに生きるための具体的なヒントが満載である。

プロローグ 独立の5つの条件(気力、体力、知力、財力、協力)
第1章 それは突然やってきた!(気力の章)
第2章 「個人事業主」になる(財力の章)
第3章 会社をやめて友達できた!(協力の章)
第4章 デスクワークは立ってやれ!(体力の章)
第5章 知的生産のための13のヒント(知力の章)
脱「計画」病、生身からの発想、すきま時間はぼんやりしよう、体験的スランプ脱出法、人生を三倍楽しむ法、多機能人間のすすめ、仕込みの時間、速度は力なり、一時間先を読め、自分ブレスト、形容詞を消せ、書物は資料と割り切れ、スパイラル式執筆法
エピローグ 果報は仕組んで待て!

13.10月27日

 ”一日”(2012年5月 文藝春秋社刊 西村 賢太著)は、主に芥川賞を受賞した後に書かれた文章を集めた第二随筆集である。

 第一随筆集は、私小説の一本道を行く無頼派作家の”一私小説家の弁”であった。内容のほとんどは私淑する藤澤清造についてのものであった。第二随筆集は、私小説礼賛などの文学魂の吐露から、東スポ連載の“色慾譚”までが掲載されている。西村賢太氏は、1967年東京・江戸川区に生まれ、町田市内の市立中学校を卒業後、家を出て東京鶯谷のアパートに下宿し、その後、飯田橋、横浜市戸部町、豊島区要町、板橋などでアパートに住んだ。この間、港湾荷役や酒屋の小僧、警備員などの肉体労働で生計を立てた。16歳頃から神田神保町の古本屋に通い、戦後の探偵小説の初版本などを集め、土屋隆夫の作品を通じて田中英光の生涯を知ってから、私小説に傾倒するようになった。23歳で初めて藤澤清造の作品と出会い、29歳の頃から清造の作品に共鳴するようになり、清造の没後弟子を自称し、”藤澤清造全集”の個人編集を手掛けている。清造の墓標を貰い受けて自宅に保存しているほか、1997年頃から毎月29日には菩提寺の石川県七尾町の浄土宗西光寺に墓参を欠かさない。2003年に同人雑誌に参加して小説を書き始め、2004年に文學界下半期同人雑誌優秀作に選出された。2006年に芥川賞候補、川端康成文学賞候補、三島由紀夫賞候補となり、2007年に第29回野間文芸新人賞を受賞した。2008年に芥川賞候補、2009年に川端康成文学賞候補となり、2010年に第144回芥川賞を受賞した。万に一つも受賞の可能性はないと思っていた芥川賞を射止めて、前後の心境や過去の出来事などが書かれている。内容は、私小説のこと、酒呑みのこと、お金のこと、性体験のことなど、最後の無頼派作家の日常がたんたんと記載されている。

14.平成24年11月3日

 ”「日本は先進国」のウソ ”(2008年6月 平凡社刊 杉田 聡著)は、日本が先進国と言えるのかという疑問について現状を問い直しとるべき道を示している。

 先進国とは、高度な工業化を達成し、技術水準と生活水準の高い、経済発展が大きく進んだ国を指している。明確な定義は無いが、開発途上国、発展途上国に対して、先進国、先進工業国、富国、高所得国などとも呼ばれることがある。日本は先進国と言えるであろうか。日本人は先進国で享受すべき豊かな暮らしをしていると言えるだろうか。杉田聡氏は、1953年に埼玉県で生まれ、北海道大学大学院を中退し、帯広畜産大学教授を務めている。専門はカント倫理学だが、研究対象は、自動車論、民主主義論、セクシュアリティ論などに及んでいる。2008年に、日本で5度目のサミット=先進国首脳会議が洞爺湖畔で開かれた。1975年にフランス大統領の呼びかけで、仏・米・英・独の他に経済大国日本が加えられた。1976年にカナダ、1997年にロシアが別な事情から加えられた。主要先進国として、アメリカ合衆国、カナダ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、日本のG7が挙げられる。先進国の要件とは、環境・女性・子ども・国民を第一に考え、他国を脅かさないことがあげられている。工業化が進み、経済が発展し、国富が蓄積されただけでは先進国とは言えない。国民の、特に弱い立場にある人の福利に益され、環境保護のために利用されてこそ先進国である。この観点から、日本の環境、労働、福祉、教育、男女関係、政治などのさまざまな側面を論じている。日本では、国際競争力のような名の下に、大企業の利益を最優先し、経済・労働システムを改変し、国民生活を犠牲にさらす動きが強まっている。一方、法人諸税・社会保険負担を低く抑えつつ、国民に消費税増税を強いるにいたっている。女性に対する経済的・社会的・法的不平等を放置し、子どもを競争的環境に置き続け、教育を財界の求める道具とするなど弱者をふみにじり、政治・行政・司法が国民の権利・利益を侵害しまくっている。日本の現状は、とても先進国と言えないのではないか。

第1章 環境後進国としての日本
第2章 過酷な労働と貧しい労働の果実
第3章 名ばかりの「男女平等」
第4章 ゆがむ教育
第5章 貧しい政治の現実
第6章 先進国の条件

15.11月10日

 2060年の世界経済予測

 50年も先の未来の世界がどうなっているか、正確な予想は誰にも困難である。11月9日に、OECDから2060年の世界経済に関する超長期予測が発表された。OECD=Organisation for Economic Co-operation and Developmentは、経済協力開発機構として知られ、ヨーロッパ、北米等の先進国によって設立された国際経済全般についての協議をすることを目的とした国際機関である。本部はパリに置かれ、できる限りの経済成長、雇用の増大、生活水準の向上を図り、経済発展途上にある諸地域の経済の健全な拡大に寄与し、多目的かつ無差別な世界貿易の拡大に寄与することを目的としている。発表によると、今後50年、躍進を遂げる新興経済が世界のGDPの大部分を占めることとなり、世界経済のパワーバランスは劇的に変わることが予測されるという。現在トップに君臨するアメリカは、早くて2016年にも中国に追い超され、いずれインドにも追い越されるとされる。中国とインドを合わせれば、まもなくG7全体の経済力をも追い超し、2060年にはOECD加盟国全体を追い越すことが予測できるとされている。急速な高齢化が進むユーロ圏や日本といった現在の経済大国は、若年層が人口を占める新興経済のインドネシアやブラジルのGDPに圧倒されることになるという。日本経済が世界経済に占める割合は、2011年の6.7%から2060年の3.2%に半減するとされている。予測は、2005年の購買力平価をベースに世界の総生産に占める割合を試算し、2060年までの日本経済の平均成長率を1.3%、米国が2.1%、中国が4.0%、世界の平均成長率を2.9%と仮定して算出した。現状のまま推移すればその可能性が高いかも知れないので、労働・生産市場の広範な改革を進める必要性を強く促していると思われる。

16.11月17日

 ”藤田嗣治手しごとの家 ”(2009年11月 集英社刊 林 洋子著)は、日本人美術家として初めて国際的な美術界と市場で成功を収めた藤田嗣治の裁縫、大工仕事、ドールハウス、写真、旅先で収集したエキゾチックな品々を紹介している。

 藤田嗣治は、当時の男性には珍しく、身のまわりのものをことごとく手づくりし暮らしを彩った、生活の芸術家でもあった。絵画作品にも描かれたものたちに焦点を絞り、プライベートな創作世界を、初公開の藤田撮影の写真、スクラップブックなど、貴重な図版多数をカラーで掲載している。林 洋子氏は、1965年に京都市で生まれ、東京大学文学部を卒業し、同大学院、パリ第一大学博士課程を修了し、東京都現代美術館学芸員を経て、京都造形芸術大学准教授に就任。専門は美術史、美術評論。藤田嗣治は、1886年に東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれ、子供の頃から絵を描き始め、1905年に東京高等師範学校附属中学校を卒業する頃、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになった。父親は陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進した人物である。森鴎外の薦めもあって東京美術学校西洋画科に入学し、1910年に卒業した。1912年に結婚し新宿百人町にアトリエを構えたが、フランス行きを決意し、妻を残し単身パリへ向かった。生涯のほぼ半分をフランスで過ごし、晩年にはフランス国籍を取得しカトリックに改宗し、洗礼名からレオナール・フジタを名乗るようになった。1968年にスイス・チューリッヒの病院で82歳で亡くなった。エコール・ド・パリの代表的な画家で、現在でもフランスで最も有名な日本人画家であり、猫と女を得意な画題とし日本画の技法を油彩画に取り入れ、独自の乳白色の肌とよばれた裸婦像などで絶賛を浴びた。戦前に国際的な名声と市場を得て、国境や国籍を越えて自らが生きる場所や時代に適応し、日本と日本以外の美術、文化の双方に関与した。名声にもかかわらず、没後長らく展覧会や出版物の数が限られたこともあって、日本では忘却化と神話化が進んでいた。しかし、2000年前後から伝記研究や出版が活発化し、大規模な回顧展が実現し、作品の公開・展示が進んだ。ここでは、これまでほとんど知られることがなかった、画家以外の側面が紹介されている。藤田嗣治は、絵画制作の合間を縫って身のまわり品を手づくりし、パリの蚤の市や旅先で各国の職人仕事を買い集め、自宅を自分好みに装飾した。著者がパリ郊外にある藤田晩年の旧宅を訪れ、そこに残る手づくりの品や遺愛の品をたどり、画家の知られざる私的領域である手しごとの家へ案内している。

第一部 住まう/第一章 住まい=アトリエ/第二章 インテリア
第二部 手づくりする/第三章 裁縫/第四章 大工仕事/第五章 絵付け
第三部 集める/第六章 フランスでの収集 ?? パリの蚤の市/第七章 旅の思い出 ?? 中南米と東アジア
第四部 写す・写される/第八章 被写体として/第九章 アマチュア写真家として
第五部 書く/第十章 日記と絵手紙

17.11月24日

 ”人生が変わるウォーキング力”(2010年1月 青春出版社刊 デューク更家著)は、心と身体が元気に美しくなり脳力がみなぎり行動が変わるウォーキングエクササイズを図解を交えて紹介している。

 仕事・生活に忙しい人でも時間をかけることなく、たった300歩で健康・ダイエットを実現でき、体が変わり心が変わり運までよくなるという。デューク更家氏は、1954年に和歌山県新宮市で生まれ、大阪経済大学経営学部を卒業し、ファッションショーの演出・プロデュース、ウォーキング指導を手がけた後、一般人向けにウォーキングレッスンを始めたウォーキングトレーナーである。気功や運動生理学、武道、ヨガ、バレエ、呼吸法などの要素を取り入れた、簡単でユニークな独自のウォーキング理論を提唱している。2006年から大阪経済大学客員教授を務め、最期まで自分の足で歩ききる人生を多くの人々に伝え、ウォーキングスタイリストやセラピストを育成している。更家氏は、ウォーキング以外にはジムにも通わず、マッサージにも整体にも行かず、食事制限や健康法ともいっさい無縁で、朝からシャンパンを飲み葉巻を楽しみたっぷり肉を食べているが、医者から、血管年齢20歳、骨密度30代半ば、内臓年齢20代後半と言われたという。歩くことは人間にとってごく日常的な行動で、走ることと違ってとくに意識しなくても、毎日の生活のなかで誰もが自然に行っている。19世紀のフランスの文豪バルザックに、”歩き方の理論”という著作があり、歩き方は身体の表情であると書かれているそうである。ちょっと意識して歩いてみるだけで、誰でも簡単に心身が健康に美しく楽しくなれる。最近では、タレント、アーティスト、さらにトップアスリートたちも、正しく歩くことの大切さを認識するようになってきた。正しい歩き方を身につけたプロフェッショナルたちは、大事なコンテストや試合でも最高のパフォーマンスで最大の結果を出している。白隠という禅僧は、”宝処は近きにあり、さらに一歩を進めよ”と説いている。幸せは待っていては見えない、自分から歩いていけば幸せに出会える。デュークスウォークの基本は正しい300歩だけで、毎日300歩をきれいに歩くことで一人ひとりが将来実現できることは無限にある。目標を決めたら思い迷わず自信を持って、まっすぐ明るく楽しく前へ前へ、まずは1歩、そして100歩、300歩、それが10万歩にも100万歩にもなっていく。人生の成功への道のりと同じである。ウォーキングは、人生を変える大きな力を持っている。大きな夢を叶えるために、まずはきょうの正しい300歩である。

序章 歩くことで生まれ変わる
1章 難しいこと抜きで、まずは300歩!
2章 インナーマッスルが整うと、すべてが変わりだす
3章 脳と心が元気になるスイッチ
4章 呼吸と型で、動じない自分になる
5章 心身のバランス力で、さらに人生ステップアップ
6章 人を惹きつける”歩き方”がある
7章 だから、ウォーキングで人生が変わる
終章 人を幸せにするウォーキングを目指して

18.平成24年12月1日

 ”三度目の奇跡 日本復活への道”(2011年5月 日本経済新聞出版社刊 日本経済新聞社編集)は、明治維新、第二次大戦敗戦からの復興に続く三度目の奇跡についての方策を探っている。

 奇跡は起きるものではなく起こすものであるという観点から、日本の置かれた厳しい現実を直視し、第三の奇跡を起こすための処方箋を探っている。2011年元旦からの日本経済新聞の特集記事を元に、緊急出版されたものである。1991年は日本の成長が止まった年で、バブル経済が崩壊した年に当たる。豊かさに慣れた中で問題の先送りを続けてきた結果、日本は今も低成長にあえいでいる。さらに、人口減、高齢化、財政難に大震災と原子力事故が加わり、いま、日本は危機的な状況を迎えつつある。しかし、財政、年金、医療など、いまのまま突き進めば、遠からず制度が破綻すると分かっているのに、誰も本気で変えようとしない。それは、多くの人が今の豊かさという既得権を手放せないからであろう。思えば、バブル経済が崩壊した年、日本は三度目の奇跡に向かって踏み出すべきであった。そうしないでいるうちに失われた20年になり、さらに大震災が襲いかかり、いっそう困難な時代になったが、まだ復活は不可能ではない。しかし、これまでに築きあげた成功モデルを踏襲するだけでは、いまの豊かさはすぐにでもこぼれ落ちてしまう。だから、国民一人ひとりが不断の自己変革を通じて、この難局を乗り切るしかない。これができれば、明治維新、第二次大戦敗戦からの復興に続く、三度目の奇跡となるであろう。決して神がかり的な僥倖を期待するのでなく、厳しい現実に背を向けず、多くの無名の日本人の目に見えない努力と生き様が、復活の原動力になるはずである。我々日本人は、大震災と原発事故の困難から立ちあがり、本当に奇跡を起こさなければならない。それが日本復活への道である。

第1章 大震災にひるまず-「奇跡」を起こせ-
第2章 平均年齢45歳の国の未来図-
第3章 いまこそかじを切れ-

19.12月8日

 ”江戸三十三観音ガイド”(2010年11月 文化図書社刊 木村 範子編集)は、江戸三十三箇所の観音様を巡りこころを浄化する旅をガイドしている。

 観音菩薩は仏教の菩薩の一尊であり、特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格である。平安時代中期に、僧侶達の修行として西国三十三観音霊場が始まり、これをきっかけに各地でさまざまな三十三観音巡礼が設けられた。そして、江戸時代に西国三十三箇所や坂東三十三箇所などの観音霊場巡礼が流行した。その際、各地で新たな札所が設置され、江戸には、江戸三十三観音霊場、山の手三十三観音霊場、深川三十三観音霊場など、いろいろな観音霊場があった。江戸三十三観音は、浅草寺を第一番札所とし、目黒不動の龍泉寺を第三十三番札所とし、1735年に発行された江戸砂子拾遺に記載されている。その後、神仏分離などいろいろな要因で札所が変更され、1976年に昭和新撰江戸三十三観音霊場として新たに生まれ変わった。昭和新撰江戸三十三観音霊場は、現在でも多くの人々が御利益を求めてお参りに訪れている。すべてが東京23区内にあり、江戸の歴史を感じながら気軽に観音菩薩の世界にふれることができる。

一  番 金龍山 浅草寺 聖観音宗 聖観音
二  番 江北山 清水寺 天台宗 千手観音
三  番 人形町 大観音寺 聖観音宗 聖観音
四  番 諸宗山無縁寺 回向院 浄土宗 馬頭観音
五  番 新高野山 大安楽寺 真言宗 十一面観音
六  番 東叡山 清水観音堂 天台宗 千手観音
七  番 柳井堂 心城院 天台宗 十一面観音
八  番 東梅山 清林寺 浄土宗 聖観音
九  番 東光山 定泉寺 浄土宗 十一面観音
十  番 湯嶹山 浄心寺 浄土宗 十一面観音
十 一 番 南縁山 圓乗寺 天台宗 聖観音
十 二 番 無量山 傳通院寿経寺 浄土宗 無量聖観音
十 三 番 神齢山 護国寺 真言宗 如意輪観音
十 四 番 神霊山 金乗院 真言宗 聖観音
十 五 番 光松山 放生寺 真言宗 聖観音
十 六 番 医光山 安養寺 天台宗 十一面観音
十 七 番 意輪山 宝福寺 真言宗 如意輪観音
十 八 番 金鶏山 真成院 真言宗 潮干十一面観音
十 九 番 医王山 東円寺 真言宗 聖観音
二 十 番 光明山 天徳寺 浄土宗 聖観音
二十一番 三緑山 増上寺 浄土宗 西向聖観音
二十二番 補陀山 長谷寺 曹洞宗 十一面観音
二十三番 金龍山 大円寺 曹洞宗 聖観音
二十四番 長青山 宝樹寺梅窓院 浄土宗 泰平観音
二十五番 三田山 魚籃寺 浄土宗 魚籃観音
二十六番 周光山 済海寺 浄土宗 亀塚正観音
二十七番 来迎山 道往寺 浄土宗 聖観音・千手観音
二十八番 勝林山 金地院 臨済宗 聖観音
二十九番 高野山東京別院 真言宗 聖観音
三 十 番 豊盛山 一心寺 真言宗 聖観音
三十一番 海照山 品川寺 真言宗 水月観音・聖観音
三十二番 世田谷山 観音寺 単立 聖観音
三十三番 泰叡山 瀧泉寺 天台宗 聖観音
番  外 龍吟山 海雲寺 曹洞宗 十一面観音

20.12月15日

 ”坂本龍馬の「贋金」製造計画”(2010年5月 青春出版社刊 竹下 倫一著)は、聖人君子ではない人間・坂本龍馬の知られざるエピソードを公開している。

 坂本龍馬は、1836年生まれの江戸時代末期の志士、土佐藩郷士である。土佐藩を脱藩した後、志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕および明治維新に影響を与えた。1891年、大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。竹下倫一氏は、1967年福岡県生まれ、西南学院大学経済学部中退、歴史研究家、フリーライターである。大蔵省職員、出版社勤務を経て、2000年に執筆活動を始め、歴史、経済、ビジネス関係の雑誌、書籍に多数寄稿している。坂本龍馬が贋金製造を計画し実行しようとしていたことは、多くの史料、文献が示す事実である。だが、龍馬のイメージを壊すということで、一般にはあまり取り上げられてこなかった。実際のところは、海賊の親分のような人物だったそうである。当時、薩摩藩は、幕府から許可を得て琉球通宝を作っていたが、こっそり天保通宝の偽物を作っていたという。1863年に生麦事件に端を発した薩英戦争があり、その後、薩摩とイギリスの講和が成立し、薩摩がイギリスに賠償金を支払うことで妥結した。薩英戦争によって、薩摩藩は財政が深刻になり、これを契機に天保通宝の偽造を始めたそうである。贋金は幕府が鋳造していた天保通宝と二分金の二種類であった。当時、贋金鋳造は薩摩藩だけではなく、戊辰戦争が始まると外国からの武器の購入などの戦費捻出のため、奥羽越列藩同盟の会津藩、仙台藩、二本松藩などが贋金を鋳造し始め、続いて、土佐藩・芸州藩・宇和島藩などの官軍諸藩もこれに続いたという。龍馬が薩摩藩の贋金作りの事実を察知して、岡内俊太郎にニセの二分金を持ってくるように命令した。龍馬は、土佐藩の出兵に要する莫大な軍費を贋金づくりで賄おうと考えたらしい。最初、土佐藩は躊躇していたが、結局、贋金作りを行った。最初は大阪の土佐藩邸で行い、やがて土佐に移されたようである。明治になってから、外国の貿易で支払われた代金に贋金が混じっていて国際問題になったそうである。常識を超えた発想で現状を突破することが龍馬たる部分であり、後の薩長同盟や大政奉還につながって行った。本書では、悪の魅力も含めた人間・龍馬の魅力が紹介されている。

1章 歴史を動かした龍馬の言葉-たった1人の反対者を説得できず何が出来るんだ
2章 龍馬、人生を語る-商人はずる賢くて当たり前
3章 龍馬、友を語る-小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く
4章 龍馬、戦略を語る-弱い兵は集団でかたまるので狙い撃ちにされる
5章 龍馬、家族への愛を語る-40歳までは修行の身と思ってください
6章 龍馬、夢を語る-私は新国を開くのが夢でした

21.12月22日

 雪降る聖夜となるか

 今年のクリスマスイブは、東京、名古屋、大阪など太平洋側の大都市圏でも小雪が舞い、ホワイトクリスマスになる可能性が期待できるという。24日夜に東京都心で降雪が観測されれば、1965年以来47年ぶりである。クリスマスは、イエス・キリストの降誕を祝う祭である。いまでは12月25日に祝われているが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝うそうである。ユリウス暦は、地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦法で、太陽暦の一種である。ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前45年1月1日から実施されたが、暦法としての不備が指摘され、グレゴリオ暦に改暦された。改暦では、ユリウス歴1582年10月4日の翌日を、グレゴリオ暦10月15日と定めている。イエス・キリストは、ギリシア語でキリストであるイエス、またはイエスはキリストであるという意味である。キリスト教においては、ナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいる。ナザレのイエスは、紀元1世紀の28年ごろから30年ごろにかけて、パレスティナのユダヤの地、とりわけガリラヤ周辺で活動したと考えられている。聖書等にはキリストの誕生日についての記述はなく、4月~9月の間とされている。イエスの降誕は、”マタイによる福音書”と”ルカによる福音書”のみに書かれている。それによると、住民登録のために処女マリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれた。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダビデの町で、メシアはそこから生まれるという預言があった。ベツレヘムの宿が混んでいたため泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせた。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたという。その時期について確定できているのは、12月の寒い時期ではないということである。それまで、各宗派がそれぞれに日付を定めてキリストの生誕を祝っていたが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、336年にミトラ教の祭である冬至祭の日であったこの日を、イエス・キリストの降誕の日と定めたそうである。

清しこの夜星は光り 救いの御子は馬槽の中に 眠り給ういと安く
清しこの夜御告げ受けし 牧人達は御子の御前に ぬかずきぬかしこみて
清しこの夜御子の笑みに 恵みの御代の朝の光 輝けりほがらかに

22.12月29日

 ”ゼロ円で愉しむ極上の京都”(2010年4月 文藝春秋社刊 入江 敦彦著)は、値段は高いが魅力が一杯と思っていた京都ですべてタダで手に入れられる限りなく贅沢な快楽をゲットする35の方法を紹介している。

 これは安く極上の京都を楽しむためのガイドブックではなく、値段のつけようがないゼロ円の京都の愉しみ方といった内容の本である。ゼロ円というのは、ご利益、サービス、おまけ、試食などである。どれも興味深く京都に関する薀蓄が披露され、京都人のイケズぶりがあちこちに散りばめられている。京都ではタダほど怖いものはない、という実例も沢山挙げられている。入江敦彦氏は、1961年京都・西陣の髪結いの長男に生まれ機の音に囲まれて育ち、多摩美術大学染織デザイン学科を卒業し、1991年に渡英し、現在ロンドン在住である。京都は魅力的な街であるが、その魅力とはなにかと問われると、京都人でも答に窮してしまう。著者にとって京都らしさは、クダの流通がことのほか多いところであるという。これまで京都以外に、東京、大阪で暮らし、数ヶ月単位ではあるがパリとブダペストでも日常を待ったことがあり、どこもそれぞれに個性があり美醜と矛盾を共有しているが、どこにも京都のようなタダ文化が発達した場所はなかった。アメリカ大都市にも、京都みたいなタダの複合体はどこにも見当たらない。そのくせ、京都はお金のかかる街だと思われている。いいもの、美味しいものがたくさんあって、それらを手に入れよう、口に入れようと思ったら、それなりの対価を払わねばならない。しかし、それだけが京都ではなく、浪費せずともいくらでも京ならではの風情か愉しめてしまう。ええもんを掌中に収めるにあたって、ビタ一文出す必要すらなかったりする。そうした、お金で買えないもの、値段のついていないもの、クダで貰えるものの中にこそ、この都市の真髄が隠れている。

まえがき タダの京都「ミヤコの真価はロハにあり!」

西:
西大路七社巡り「ご利益はタダか?」
『割烹おきな』のメニュー「地震・雷・タダ・イケズ」
『佐野藤右衛門邸』の桜「欲のない花景色」
京都カラスマ大学「アブソリュートリー・ファビュラスー」
『竜安寺』外苑「八雲立つ京の八重垣」
嵐山の河原で拾う瓦「ガタロ商になりたい」
『魚津屋』の箸「白洲正子とさしむかい」

中:
御所のセコイヤデンドロン「静寂の庭の種子」
『てっさい堂』の包み紙「階段脇のパンドラの匣」
『田中長』の手拭い「長い長い奈良漬け」
『たる源』の磨き粉「必要はタダの母」
『麩嘉』で待つ間に啜るお茶「すべて京は事もなし」
『護王神社』の花梨「冬の底に咲く花摘みに。香る果狩りに」
『力餅食堂』のマッチ「桶屋の儲かる街でいて」

東:
『永観堂』のお地蔵様「知らない人から貰ったものは」
祗園の変身舞妓「妄想につけるクスリ」
『一澤信三郎帆布』の修理「桃は腐りかけ、鞄とデニムは破れかけ」
椿ヶ峰の神水「価値と無価値の間隙に湧く」
『六道珍皇寺』の精霊迎え「あの鐘を嶋らすのはだれだ」
『吉田神社』の茅の輪「神楽岡から深淵を眺めて」
『男前豆腐』の軍手「世界で一番楽しいボランティア」

南:
『開化堂』の茶匙「海老とはナニか?」
京都駅ビルの空間「イタチごっこ鬼ごっこ」
『御多福珈琲』のコースター「散歩の句点。思考の読点」
『鉄輪の井戸』の由緒書「タダつておいくら?」
『東寺』始め拝覧無料の国宝たち「当たり前に目の前に」
『新熊野神社』のクスノキ始め天然記念物を巡る「カミサマを探せ!」
『中村軒』のお湯呑「お茶はずれ」 ~

北:
『白峯神宮』の縁結び松葉「ナイトメア特効薬」
『京都市考古資料館』のカラーカタログ「好奇心のプレイグラウンド」
『大こう』の試食「デパ地下創世記」
西陣を歩く「京と通い婚」
北野をどりの波皿「茶会は踊る」
『恵文社一乗寺店』のブックカバー「つまり、愛の問題」
『傑谷七野神社』の高砂山「もういちど考えてみよう。ご利益はタダか?」

おすすめ食事処・カフエースイーツ&宿リスト
街歩き完全詳細地図

23.平成25年1月5日

 ”日本全国 路面電車の旅”(2005年5月 平凡社刊 小川 裕夫著)は、全国で営業中の市内電車を網羅したガイドブックである。

 路面電車は、主に道路上に敷設された軌道を走行する電車である。主に都市内や近郊で旅客の移動手段として利用される輸送機関で、世界約50か国400都市に存在し、ドイツ、ロシア、ウクライナで特に発達している。日本の路面電車はこれまで自動車に押されて徐々に姿を消してきたが、人に優しい公共交通であることから観光資源として見直されている。実際に全国の路面電車に乗車し、路線や車体・車窓風景・観光スポットなどがていねいに紹介されている。小川裕夫氏は、1977年静岡市生まれ、大学卒業後、行政誌編集者などを経て、フリーランスライターに転身し、旅、ジャーナリズム、地方行政、経済、住宅、競馬をテーマに執筆している。路面電車は、今大きな分岐点に差しかかっている。全国各地で走っていた路面電車は、現在数えるほどしかなくなってしまった。その背景には、モータリゼーションの発達が挙げられる。高度経済成長期に自動車交通を優先した結果、定時運行ができなくなった。そのため、乗客は減り、経営悪化を招くこととなった。ところが近年、路面電車を取り巻く環境は少しずつ好転してきている。路面からすぐ乗れるという利点があり、高齢者や障害者にも利用しやすい公共交通として見直される気運が高まってきた。まだ自動車の往来を阻害する邪魔者という意識は根強いが、少しずつ確実に意識は変化してきている。旧来の路面電車という考え方から、LRT=ライト・レール・トランジットといった手法が導入され始めた。これまで自動車社会によって荒廃してしまった中心市街地を、活性化させる効果があると考えられている。背景には、軽快電車を走らせることで街全体を歩行者優先の環境に整備しよう、という志向がある。路面電車は交通弱者にも有益で、バリアフリーの観点からも積極的に考えられようになっている。

Partl 北海道の路面電車
第1章 北海道遺産にも選定-札幌市電
第2章 五稜郭と函館山をつなぐ-函館市電
Part2 関東の路面電車
第3章 首都・東京に最後まで残った都電-都電荒川線
第4章 名所・観光スポットが盛りだくさん-江ノ島電鉄
Part3 中部の路面電車
第5章 高岡に息づく古代の薫り-万葉線
第6章 自動車王国を走り続ける路面電車-豊橋鉄道東田本線
Part4 関西・中国の路面電車
第7章 チャレンジ精神がいっぱい-岡山電気軌道
第8章 日本最大の路線数・車両数を誇る-広島電鉄
Part5 四国の路面電車
第9章 坊っちゃんも愛した路面電車-伊予鉄道市内線
第10章 世界の路面電車が勢揃い-土佐電気鉄道
Part6 九州の路面電車
第11章 坂道をトコトコ走る路面電車-長崎電気軌道
第12章 路面電車近代化の先駆け-能本市電
第13章 桜島を眺めながら走る最南端の路面電車-鹿児島市電

24.1月12日

 ”無所属の時間で生きる”(2008年4月 新潮社刊 城山 三郎著)は、どこにも関係のないどこにも属さない一人の人間としての時間を過ごすことでどう生き直すかを問い続けている。

 本書は、朝日新聞の連載に加筆されたもので、最初、”この日、この空、この私---無所属の時間で生きる”の題名で刊行され、後日、”無所属の時間で生きる”に改題された。連載は、1996年4月から1999年3月までの3年間であった。城山三郎氏は、1927年名古屋生れ、海軍特別幹部練習生として終戦を迎え、一橋大卒業後愛知学芸大に奉職し景気論等を担当、1957年に文学界新人賞、翌年、直木賞を受け経済小説の開拓者となった。2007年に亡くなったが、作品はいまだに多くの読者に読み継がれている。”日帰りの悔い”の中で、無所属の時間とは、人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間ということではないだろうか、と書いている。一般的に、望むと望まないにかかわらず、余暇時間は増大している。そうした時間をどう過ごすかで其の人の人生も変わりかねない。そこには、真新しい時間、いつもとちがうみずみずしい時間があり、人問をよみがえらせるきっかけの時間となりうる。入院生活にもそれに似た部分があり、大病すれば即脱落と思われるほど競争のはげしかったかつての大蔵省で、異色の次官といわれた谷村裕も大病を経験しているし、同省出身で大物政治家となった池田勇人や前尾繁三郎も、奇病や人病で長期間にわたり無所属の時間を過ごしている。もともと無所属な身の作家にとっても、余裕というか、予備の時間は大切である。無所属の時間の中に、なすすべもなく置いておかれるのか、それともどう生き直すのか、どのように人生を充実させるか、その辺のところをいろいろ探っている。一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、それで、この日、この私は、生きたと、自ら慰めることができる、という。

お叱りの手紙/ 日帰りの悔い/ 子猫とナポレオン/ 慶弔積立金なんて/ ヴェネツィアと黒衣/ 組織を超え、光の中へ/ 自分を見物する心/ 東京での一日/ 一日四分割法/ 途方もない夢/ 熱い拍手/ どん尻が一番/ 渡世の掟/ いまの世の仙人たち/ にがい笑い/ パートナー志願/ ハッダと冷麦/ 箱根の夜は更けて/ 旅さまざま/ 三十代最後の年には/ この日、この空、この私/ 一日の明暗/ 四十代最後の年に/ ハート・トラブル/ 冬を送り出す/ 四十代最後の年に(続)/ 人間の奥行き/ 五十代半ばにて/ アラスカに果てた男たち/ 人生、当たり外れ/ 六十代をふり返る/ 湘南、二十四時/ ある朝、東京で/ 孫の来る家/ 楽しみを求めて/ 定住意向
あとがき---一日一快のすすめ

25.1月19日

 ”サムライに恋した英国娘”(2005年9月 藤原書店刊 伊丹政太郎/アンドリュー・コビング著)は、明治初頭の英国に造船留学し、帰国後、横浜ドック建設の難事業を成し遂げ、その後一転、北海道に隠棲し、男爵いもの栽培に没頭した川田龍吉と留学時代の悲恋を紹介している。

 川田男爵こと、川田龍吉は1951年2月9日に亡くなり、残された金庫には封印された一房の金髪があった。そして、90通の恋文も発見された。留学時代の悲恋を心に秘めながら、近代日本国家建設に尽力した一人のサムライの烈々たる生涯がいま甦る。伊丹政太郎氏は、1936年大阪生まれ、立命館大学人文学科を卒業、元・NHKディレクターである。アンドリュー・コビング氏は、1965年北アイルランド生まれ、九州大学日本史修士課程修了、元・九州大学留学生センター教授である。川田龍吉は1856年に、土佐藩士、後の日本銀行総裁、男爵の川田小一郎の長男として、土佐郡杓田村に生まれた。英米系医学を教える慶應義塾医学所に入塾するが1年たらずで中退し、1877年から7年間、英国スコットランドに留学し、グラスゴー大学で船舶機械技術を学んだ。帰国後、三菱製鉄所、日本郵船を経て、1893年に横浜船渠会社取締役となり、1897年に社長に就任した。その前年に父が急死したため、男爵を継いでいる。1903年に社長を辞任し、1906年に函館船渠会社専務取締役として北海道へ渡った。1908年に欧米からアイリッシュ・コブラーという品種の馬鈴薯を自営の農場に導入し、普及を図った。この品種は、後に、男爵いもの名で知られるようになった。川田龍吉は、グラスゴー大学に留学した際、19歳の書店員ジニー・イーディーと知り合った。やがて二人は恋人となり、デートで畑を眺めたり、温かいじゃがいもを食べたりすることが楽しみだった。交際は順調に進み結婚も約束したが、承諾を得るために帰国したものの、父親の大反対で婚約は成立しなかった。亡くなってから数年後に発見された金庫の中で、大切に保管されていた金髪と90通にも及ぶラブレターの存在が明らかになった。龍吉が送った方の手紙は見つからず、ジニーの消息は掴みづらかったが、動静は教会などの資料で少しは判明した。リョウとジニーとの交友を、龍吉の手元に残ったジニーからの手紙をもとに再現している。恋に落ち結婚の約束をしてから別離に至るまでの、乙女の、つつましく、ういういしく、思いやりあふれたラブレターがたくさん掲載されている。

1 激動の時代 1836-1874
2 海を渡った留学生 1874-1883.3
3 花ひらく恋 1883.4-1883.8
4 たそがれの霜 1883.9-1884.1
5 サンダーランドの春 1884.2-1884.4
6 虹を追って 1884.4-1884.6
7 ドックから男爵いもへ 1884.9-1951
8 ジニー追跡
系 図 (川田家・イーディー家)
川田龍吉&ジニー・イーディー関連年表 1856-1978

26.1月26日

 ”鉄道で広がる自転車の旅”(2010年4月 平凡社刊 田村 浩著)は、輪行するに際しての自転車の選び方からおすすめコースまでのいろいろを紹介している。

 NHKの”にっぽん縦断こころ旅”で、俳優の火野正平さんが自転車旅の途中で、たびたび輪行が登場する。映像でその意味は分かったが、管理人には新鮮な言葉であった。輪行は、鉄道に自転車を積み込んで移動する旅のスタイルである。近年、大きなブームとなっている自転車旅行をもっと楽しむための利用法である。自転車旅行は、自転車を利用した旅で、サイクル・ツーリングとも言われる。自転車旅行と言っても自転車以外の交通手段を一切用いないわけではなく、列車・バス・船などの乗り物に自転車を持ち込んで一緒に移動して、移動した先で自転車で走行することを含んでいる。田村浩氏は、1971年東京都生まれ、自転車雑誌や鉄道雑誌の編集長を経て、現在、ムック本の”自転車と旅”編集長を務めている。飛行機、船、鉄道、自動車などに持ち込んで様々な目的や方法で輪行が行われているが、たとえば目的地との間を往復する場合に、往路もしくは復路のどちらかを輪行にすることで、同じ道を二度通る退屈さを避けることができる。また、往路・復路とも輪行を行い、特に自転車走行に適した魅力的なエリアだけを自転車で走行することも行われることがあるそうである。時間が限られている場合、輪行によりより遠方に目的地を設定することができる。海を渡る場合などには必然的に輪行が行われることになる。手荷物料の無料化など、諸制度の改善が進んだ。輪行には、一般的に輪行袋が必要である。しかし、ヨーロッパ諸国では高速鉄道を除き自転車をそのまま持ち込めることが多いそうである。なお、公共バスで輪行する場合、乗客が多い場合は拒否される可能性もあるという。

第1章 こうすれば自転車は持ち込める
 1自転車は公共交通機関と相性がいい
 2「スポーツ自転車」とは
 3さまざまなスポーツ自転車 -輪行のパートナー選びのために
 4自転車を輪行袋に入れてみよう
第2章 備えあれば憂いなし! 輪行のノウハウとアイテム
 1なにごとも計画が大切
 2出発進行! 鉄道と自転車の旅
 3鉄道の時間を楽しもう
 4サイクリング実践編
第3章 自由自在! 輪行のプランニング
 1地図と時刻表から始まる輪行の旅
 2飛行機で輪行する
 3輪行で地形を味方につける
 4「鉄」になれば輪行はもっと楽しい
 5宿泊プランで決まる旅のスタイル
第4章 極上の輪行旅へ
 自信を持っておすすめする5つの輪行旅
 〔コース1〕日本最後の清流、四万十川を目指す輪行の旅
 〔コース2〕廃線跡の「メイプル耶馬サイクリングロード」へ
 〔コース3〕「空輪」で日帰り大島一周の旅
 〔コース4〕長良川に沿って「うだつ」の街へ
 〔コース5〕懲りずに「秘境駅」を目指す輪行の旅
 【コラム】プラス10のとっておき名コース

27.平成25年2月2日

 ”地図と写真から見える!京の都 歴史を愉しむ!”(2012年9月 西東社刊 川端 洋之著)は、京都の歴史を現代地図や古地図で具体的に分かりやすく紹介している。

 京都は1000年以上も日本の都として栄えてきて、その間の歴史上の大きな出来事はほとんど京都で起こっている。本書は、いろいろな事件の動きを地図で確認することができるように構成されている。川端洋之氏は、1950年佐世保市生まれ、立命館大学卒業後、出版社に勤務し月刊誌編集長を経て編集事務所を設立し、京都の歴史・文化に関する取材・執筆・編集・出版を手がけている。京でおこったいろいろな出来事を、地図上で位置を示しながら現在の写真と組み合わせて解説している。平安京の誕生、藤原氏の栄華、源平の時代、北山文化と東山文化、織田信長の上洛、秀吉がつくった京の町、新選組の登場、坂本竜馬の活躍、古地図に見る京都の町の変遷、洛中洛外図にみる京の町、古社・名刹をめぐる、京の三大祭りと神社、名僧と名刹、歴史を刻む社寺、通りと川をめぐるなどが紹介されている。

 京都を見る
1章 京都7大重大事件
 保元・平治の乱/応仁の乱/本能寺の変/池田屋騒動/禁門の変/坂本龍馬暗殺/鳥羽・伏見の戦い
2章 歴史をたどる
 歴史の舞台をめぐる/平安京の誕生/藤原氏の栄華/源平の時代/北山文化と東山文化/織田信長の上洛/秀吉がつくった京の町/新選組の登場/坂本竜馬の活躍
3章 古地図と絵で見る京都
 古地図に見る京都の町の変遷/洛中洛外図にみる京の町
4章 社寺をめぐる
 古社・名刹をめぐる/京の三大祭りと神社/名僧と名刹/歴史を刻む社寺/通りと川をめぐる
5章 文学をめぐる
 折込 京都鳥瞰大地図/幕末京都大地図

28.2月9日

 ”マチュピチュ-天空の聖殿”(2009年7月 中央公論新社刊 高野 潤著)は、長年アンデスに滞在し何度もマチュピチュを訪れた写真家が世界遺産マチュピチュの謎に迫っている。

 太陽、虹、霧、風に包まれたマチュピチュ、そこで人々は断崖上の都市でどのように暮らし、何に向かって祈っていたのであろうか。高野潤氏は、1947年新潟県生まれ、写真学校卒業後、1973年からペルーやボリビアをはじめとしたアンデスやアマゾン地方に毎年通いつづけている。マチュピチュは、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った高い山の尾根、標高2,430mに所在する15世紀のインカ帝国の遺跡である。1911年に、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムによっては発見された。そして、1915年までに3回の発掘を行った。ナショナル・ジオグラフィック誌の1913年4月号で、すべてをマチュピチュ特集にしたことで有名になった。1983年に、マチュピチュの歴史保護区が複合遺産として世界遺産となった。マチュピチュは、ペルーのクスコ地方を中心として、13世紀ごろに誕生したインカ帝国の代表的な遺跡である。この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13千平米で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。未だに解明されていない多くの謎がある遺跡でもあり、2007年に、新・世界七不思議の1つに選ばれた。著者が始めて出かけたのは1975年であった。現在は新駅マチュピチュも完成し、大きな町に膨張しているビルカノタ川沿いの現マチュピチュ村は、当時、宿や食堂が1~2軒並ぶ程度の小集落にすぎなかった。旧マチュピチュ駅から運行されていたバスの本数も少なく、始発は早朝にクスコ市を発った列車が到着する午前10時過ぎと遅かった。ほかの外国人の若者とともに宿を未明に出発し、インカが築いた石段の道を汗を流しながらのぼって遺跡を目ざした。そのおかけで、まだ人気のなかった朝のマチュピチュを目にすることができた。以来、マチュピチュに1回数日間の日程で30回ほど出かけてきた。何回訪ねたからといっても、マチュピチュはいつも新鮮で飽くことがなかった、という。

はじめに―インカとマチュピチュ
第一章 インカの始祖伝説と岩山カカ
 「神々の宿る庭」ビルカバンバ山群 / インカの始祖伝説とタンプ・トッコ / 虹がかかる谷間とは / クスコの建設を命じたアヤル・カチ / タンプ・トッコとチンカナ区 / インカ時代の生者と死者 / 岩山カカとマチュピチュ
第二章 マチュピチュへとつながる道
 インカ道の起点 / 未完成の城サヤク・マルカ / 霧が湧く雲上の大パノラマ / 数本の道と参道としてのインカ道
第三章 自然界とつながるテーマパーク
 パチャママとアプー / 中枢神殿区 / 都市内の三つの世界 / 求めあう「対」としてのヤナンティン / 高官女性の墓地 / ワイナピチュ峰とマチュピチュ峰
第四章 誰がどのようにして生きていたのか
 想像される常駐者 / 何を食べていたのか / 濁り酒チチャの量 / かめの容器アリーバロと大コップのケーロ / 経済食のかゆ状スープ料理 / 霧の森が産む水
第五章 ロスト・シティとビンガムの発見以前
 歴代インカ皇帝の盛衰 / 最後のインカとビルカバンバ / 太陽の処女アクリャ / 「支配を委任されていた」地 / ロスト・シティ=失われた都市 / マチュピチュ名と土地売買 / はじめての地図とドイツ人 / ビンガムの到着
第六章 インカの遺跡と神秘の東方圏
 古代からインカへ / アプリマク川を見下ろすチョケキラウ / 風や天水利用 / インカの古墳や円形の階段畑 / 戦場だったサクサイワマン / ムユク・マルカの攻防 / 大帝国インカの強み / 黄金伝説の地方 / 不思議な湖とチューニョ / インカがのこした迷路の道

29.2月16日

 ”ハリマオ マレーの虎 60年後の真実”(2002年3月 大修館書店刊 山本 節著)は、快傑ハリマオのモデルとなった日本人、谷 豊の生涯とその時代の真実に迫るノンフィクションである。

 第二次世界大戦下、マレーの盗賊だったハリマオは、日本の特務機関の一員としてゲリラ活動を行い、昭和17年3月17日シンガポールで病死した。死後、英雄として報道され、1943年には映画”マライの虎”が大ヒットした。山本節氏は、1939年東京生まれ、東京大学文学部卒業し、東大大学院人文科学研究科博士課程満期退学した後、愛知教育大学教授、白百合女子大学教授、静岡大学人文学部教授を歴任し、2002年に定年で退任した。ハリマオを扱った作品には、映画 のほか、テレビ”快傑ハリマオ”や、小説、漫画もある。テレビは、1960年に宣弘社が月光仮面の後まもなく手がけた作品で、日本テレビで放映された。この怪傑ハリマオとはかなり違う、谷豊という日本人少年の一生を追った作品である。マレーシアでハリマオと恐れられた谷豊を知る人々への取材や、当時の日本軍の動きなども照らし合わせながら調査している。谷豊は、1911年に福岡県筑紫郡日佐村五十川で理髪店を営む父、谷浦吉、母、とみの長男として生まれた。谷豊が2歳の頃、一家はマレーシアのトレンガヌ州に移住した。一家は、この街で小さな理髪店を開業した。街に移り住んできた日本人も多く、助け合いながら商売を営んでいたという。1931年に20歳になり、徴兵検査を受けるため日本に帰国した。1932年のこと、シナ人の暴徒集団が日本人商店の襲撃を始めていた。弟の谷繁樹はひとりのシナ人が手に生首をぶら下げて歩いていたのを目撃した。暴徒が去ったあと、自宅に戻った谷繁樹は血まみれになった首のない妹、谷静子の惨殺死体を垣間見ることとなった。この事件が、ハリマオこと谷豊の人生を大きく狂わせることとなった。惨事があった時、兄の谷豊は九州にいた。徴兵検査を受けるために一時帰国し、そのまま日本の会社に勤めていた。谷豊は徴兵検査の結果、身長がわずかに足らず丙種合格であった。妹がシナ人に惨殺されたことを知った谷豊は、単身マレーに渡り犯人探しを始める。下手人のシナ人は裁判にかけられたものの、無罪放免で消息不明になっていた。谷豊は、統治者のイギリス官憲に強く抗議するが、逆に不審者として一時投獄されてしまう。さらに、日本の政府関係者にも懇願するが、誰も取り合ってくれない。味方が居ないことを知った谷豊は、ひとりで復讐を開始する。裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取ったのである。義族的な行為と見られたため、マレー人の配下も増え続けた。やがて金満華僑の商店も標的にし、義族的な活動は広がりを見せ始めた。そして、ついに金塊を積んだ鉄道車両の爆破など、大規模な事件にも関わることになった。部下の数は3000人位で、統治者の英国人や金満華僑を震え上がらせていた。バンコクに駐在していた日本軍の田村大佐は、開戦を睨んでマレー人工作を命じられていた。マレー人の協力が得られなければ、戦線を拡大できないことは明らかだった。そこで、ハリマオが日本人であれば協力を求めようと考え、マレーに潜入してハリマオを探し出すよう、元、警察官の神本利男に要請した。命を帯びてマレー半島を南下した神本は、ハリマオ=谷豊の居場所を突き止めた。窃盗でタイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、神本は日本軍への協力を仰いだ。復讐のためにマレー半島に戻ってから10年近い歳月が経った1940年に、谷豊は29歳になっていた。そして、1941年12月8日、マレー作戦と真珠湾攻撃の後、12月12日の閣議決定で大東亜戦争が開戦となった。マレー半島北部のタイ国境近くの要衝ジットラという町でハリマオ党が拠点を構え、英軍への妨害工作を行った。1941年12月12日、山下奉文中将率いる第25軍の猛突進により、マレー半島攻略は順調に進んでいった。その後も、谷豊は部下やF機関とともに諜報活動に従事していた。主な任務は、敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体であった。その最中に、谷豊はマラリアに感染した。日本軍が快進撃を続ける一方で、マラリアにかかった谷豊の病状は悪化した。そして、1942年3月17日に谷豊は力尽き30歳で亡くなった。棺は部下たちに担がれ病院を後にし、ムスリム名、モハマッド・アリー・ビン・アブドラーという名前を持つハリマオは、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されたという。

第1章 マレーの盗賊
第2章 特務機関F
第3章 マレー・シンガポール作戦
第4章 ハリマオ神話の誕生
幻想と真実と

30.2月23日

 ”彩色大江戸事典”(2011年12月 双葉社刊 エディキューブ編)は、浮世絵、CG、イラストなどで江戸の生活が分かり、時代小説の情景を図解で紹介している。

 髷の種類、頬かぶりの種類、江戸小紋の柄、流行色など、時代小説を読んでいてよく分からなかった情報が満載である。エディキューブとは、編集執筆の有澤真理氏、森井聡美氏、高尾眞千子氏、吉岡哲巨氏、古写真彩色の本村英二郎氏、小林泰三氏、ピーナッツ・ステュディオ、写真撮影の石原高氏からなる集団のようである。武家の夕家騒動から一膳飯屋を舞台にした人情物語まで、時代小説には生き生きとした江戸っ子たちが溢れている。江戸っ子たちがいた時代からたった1世紀半程しか経っていないのに、江戸っ子の暮らしと現代のそれはさま変わりしてしまった。一瞬にしてその時代にタイムスリップできる醍醐味と共に、現代人が戸惑うのは意味がわからないことばの数々である。洩葱裏を馬鹿にするとは何の意味か、ちろりをつけるとはどういうことかなど、今ではかたちも言葉も消えたもの、言葉はあるけれどかたちが違うもの、言葉もかたちも変わらないものがある。日頃からくすぶってぬぐいえなかった疑問を解明するのに大いに役立つ一冊である。疑問を解いてから江戸の魅力はもっと深まり、意外にも私たちの暮らしの再発見につながる。

はじめに
 江戸ことばの?を解き明かす至福/変わるもの変わらないもの
巻頭便利note
 江戸市中今昔マップ(江戸期)/江戸市中今昔マップ(現代)/歴代将軍はやわかりページ/歴代将軍の系図/将軍ワンポイント
江戸の町と住居
盛り場と賑わい
娯楽いろいろ
江戸の川と名所
交通
江戸の商売
江戸っ子ファッション
捕物と裁き
火事と火消
武家いろいろ
刀と剣術
旅と宿場
吉原遊廓
市中の遊び場
巻末便利note
 江戸の時刻と方位/月の形と名称/江戸の通貨/距離と重さの単位/大江戸年表

 春一番

 春一番は、例年2月から3月の半ばの立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り強い風である。主に太平洋側で観測される。1859年2月13日、長崎県壱岐郡郷ノ浦町の漁師が出漁中、強風によって船が転覆し、53人の死者を出して以降、漁師らがこの強い南風を”春一”または”春一番”と呼ぶようになったという。1987年には、郷ノ浦港近くの元居公園内に”春一番の塔”が建てられている。春一番という語が新聞で紹介されたのは1963年2月15日で、朝日新聞朝刊で”春の突風”という記事であるとされ、2月15日は”春一番名付けの日”とされている。今年は、鹿児島では2月4日、福岡では3月1日、広島では3月1日、高松では3月1日、新潟では2月7日、東京では3月1日に観測された。大阪と名古屋ではまだ観測されていない。2013年2月2日には、南方の暖かい風が吹き込み全国的に気温が上昇したが、立春の前であったために、定義上、春一番とは認められなかった。なお、那覇・仙台・札幌ではそもそも発表そのものがなされていない。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり寒さが戻ることが多い。また、雪解け、雪崩、花粉、春の嵐、花冷え、晩霜などがある。春の陽気となっても朝晩は冷え込むことも多いので、まだ注意が必要である。梅は咲いたが桜はまだかいな、これから桜の開花が待ち遠しい季節である。

32.3月9日

 ”海を渡った侍の娘 杉本鉞子”(2003年7月 玉川大学出版部刊 多田 建次著)は、明治維新期に越後の家老の家に生まれ厳格な躾を受けて育った杉本鉞子の生涯を紹介している。

 1873年に旧長岡藩家老の娘として生まれ、渡米した杉本鉞子(えつこ)は、文明開化の東京、アメリカで異文化と出会い、1923年に米国の雑誌”アジア”に英文の自伝”武士の娘”を掲載し、日米文化交流の懸け橋の役割を果たした。武士の娘のモラルに照らして行動した人間像を”福翁自伝”の福沢諭吉と対比し分析している。多田建次氏は、1947年生まれ、慶応大学文学部卒業、同大学院社会学研究科博士課程終了し、玉川大学教育学部講師、助教授を経て現在教授を務めている。鉞子が10歳のとき父親が亡くなり、翌年の夏、鉞子が物心つく頃から家を出て渡米した兄が帰国し、兄の存在が鉞子の人生を大きく変えることとなった。12歳のとき、兄の友達の杉本松雄という在米の青年実業家と婚約したのである。結納後、14歳の鉞子は英語を学ぶため、東京のミッション系の女学校に入学した。鉞子は新しい文化を受け入れながら、自分を育んだ文化を愛し、西洋と日本の文化の差異やその理由、両者の美点や欠点を問い続けたという。そして、4年間の学業を終えて単身で渡米し、杉本松雄と結婚式を挙げた。 結婚生活は次第に落ち着き、新しい環境を愛するようになった。同時に、鉞子の文化の差異に対する興味は増していった。共に考え導いて助けたのが、名家の未亡人、フロレンス・ウィルソンだった。フロレンスは杉本夫妻と共に暮らし、終生一家のよき理解者であり庇護者であったという。嫁として母としてまた米国人として、生涯の働き時を過ごしたこの米国の友人におくるつもりで、コロンビア大学日本語学と日本文化史講座勤務中にペンをとった小冊子が草稿となった。後に雑誌に掲載された”武士の娘”は、単行本化されると一躍ベストセラーとなり、杉本鉞子は日本人初の米国におけるベストセラー作家となった。ほかに、”成金の娘””農夫の娘”なども著した。その後、夫が亡くなったため2人の娘を連れて1927年に帰国し、1950年に亡くなった。福沢諭吉は下級武士の次男として封建門閥制度に不満を抱き、その打破を生涯の念願としたのに対し、鉞子は上級武士の娘として身分制度に違和感をもたなかった。諭吉が緒方洪庵の適塾で自然科学中心の高等教育を受け、その後人文・社会科学にまでその学問を拡げていったのに対し、鉞子はミッションースクールで中等レベルの教育を受け、文学・歴史・地理・民俗など人文科学中心の教養をおさめた。諭吉は日本国の存立そのものに直接かかわる問題として東西両文化の比較研究を試み、西洋文化を日本に移植しようとしたのに対し、鉞子は個人の視点から日米国文化の比較をし、書物や大学の講義をとおして日本文化をアメリカに紹介した。両者はたがいに対極に位置し相容れないのかもしれないが、”武士の娘”と”福翁自伝”の読後感にはなぜか類似性があるという。

序 章 自伝と自伝的作品とのあいだ
第一章 鉞子のルーツ―長岡と米百俵
第二章 鉞子の生涯―越の国
第三章 鉞子の生涯―外つ国へ
第四章 異文化との出会い
第五章 異文化への対応
終 章 “二重国籍者”鉞子の視座

33.3月16日

 ”昭和のまちの物語”(2006年7月 ぎょうせい刊 伊藤 滋著)は、評論家・詩人・小説家、伊藤整の長男、伊藤滋の追憶の山の手の物語である。

 昭和初頭には典型的な農山村であった山の手が、その後の国の発展とともに都市に変わりゆくさまを、子ども時代の思い出とともに図解を交えて描写している。伊藤滋氏は、1931年東京生まれ、都市計画家、早稲田大学特命教授、慶應義塾大学大学院客員教授、東京大学名誉教授で、学位は工学博士である。伊藤滋都市計画事務所を主宰し、NPO法人日本都市計画家協会会長、アジア防災センター・センター長、内閣官房都市再生戦略チーム座長、国土審議会、都市計画中央審議会委員を歴任した。伊藤整氏は、1905年に北海道松前郡炭焼沢村で、小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれた。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡った。1906年、父の塩谷村役場転職に伴い小樽へ移住し、旧制小樽中学を経て小樽高等商業学校に学んだ。卒業後、旧制小樽中学の英語教師に就任し、宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京した。1927年に旧制東京商科大学本科入学し、内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学んだ。北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んだ。その後大学を中退し、1932年に金星堂編集部入社した。1935年から1944年まで日本大学芸術科講師、1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校英語科教師、1945年から1946年帝国産金株式会社落部工場勤務、1946年北海道帝国大学予科講師、1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師を経て、1958年に東京工業大学教授に昇格した。1953年に”婦人公論”に戯文エッセイを連載し、翌年”女性に関する十二章”として一冊に纏めたところベストセラーとなった。評論”文学と人間”や小説”火の鳥”もベストセラーとなった。チャタレイ裁判とともに、伊藤整の名を広く知らしめることになった。1962年日本ペンクラブ副会長に就任し、1963年に菊池寛賞を受賞した。1964年に東工大を退職し、1965年に日本近代文学館理事長に就任し、1967年に日本芸術院賞を受賞し、1968年に日本芸術院会員となった。1969年に胃がんのため亡くなったが、1970年に日本文学大賞を受賞した。伊藤滋氏は、成蹊学園をへて1955年に東京大学農学部林学科を卒業し、恩師加藤誠平の忠告にしたがい、工学部建築学科に編入学し、1957年に同学科を卒業し、大学院に進学、高山英華に師事し、高山研究室に席を置きながら土木工学科八十島研究室で交通計画を研究し、1962年に東京大学大学院工学系研究科博士課程を修了し、工学博士号を取得した。1963年から都市研究所客員研究員としてボストンに渡り、都市解析や交通計画を研究し、帰国後、東京大学工学部都市工学科助教授として、都市防災と国土計画を担当した。本書は、人生の8割を昭和の時代に暮らし、生まれてからの25年間がこの回想記にまとめられている。昭和6年の経済大恐慌のとき、両親の生活は貧乏ではあっても、毎日の暮らしに困ることはなかったという。家には若い文学者連中が集まって、海外の文学作品の勉強会をしていた。父は英語とフランス語が得意で、その才能を生かしながら誰も知らない海外文学の流れを出版社に売り込んでいたのかもしれない。記憶の中には、母親がいつも忙しそうに客のために酒と食事の支度をしていた姿がうかんでくるという。そして、太平洋戦争時代の戦時体制の思い出や、敗戦後の世の中や生活の様子が語られている。少年に成長する過程で、戦争中のわずか1年であったけれど、伊藤家は現代的な一戸建ての住宅に移り住めた。庭付き一戸建て住宅に住むことによって、伊藤家は東京の中産階級の一員になれたという満足感と安堵感が生まれた。敗戦のときは中学校1年生で、本州の敗戦のきびしさから少し距離のおける北海道で生活の再建を考えていた。その後、東京に帰ってきて、自宅の周りの林を開墾して半農半学の生活がはじまった。広い土地があったので、戦後の食料危機をきりぬけることができた。父親の生活の向上に合わせて、住む場所も徐々に変わった様子を時系列で整理して思い出を語っている。

第1章 最初の情景-中野区西町・千代田町(昭和6-11年)
第2章 子供と界隈-杉並区和田本町(昭和11-16年)①
第3章 少年と町並み-杉並区和田本町(昭和11-16年)②
第4章 戦争と学校-和田本町・千歳烏山・北海道(昭和16-20年)
第5章 山林と都市-北海道・豊田・久我山(昭和20-28年)
第6章 父親の場所-久我山(昭和28-)

34.3月23日

 ”幸田家のしつけ”(2009年2月 平凡社刊 橋本 敏男著)は、幸田露伴が父親として娘の文に理詰めで教えたいろいろなしつけを紹介している。

 幸田露伴は幸田文にあらゆることを教え、生きる姿勢をしつけた。父親は掃除、食事、身だしなみ、言葉遣い、性、死生観などの教え、娘は反発しつつも必死に食い下がった。橋本敏男氏は、1937年に東京で生まれ、1963年に読売新聞社に入社した。主に婦人部で教育・子どもに関する問題を担当し、1997年に定年退職した。戦後の混乱がまだ収まっていなかった1946年に幸田露伴と永井荷風が相次いで市川市菅野に移り住んだとき、著者も近くに移り住んだという。しばしば露伴と文を実際に見かけ、1947年の露伴の葬儀も目の当たりにしたそうである。幸田文は1904年に作家の幸田露伴の次女として東京向島に生まれ、5歳のとき母を失い、後に姉・弟も失った。女子学院を卒業し、24歳で結婚するが10年後に離婚し、娘の青木玉を連れて父のもとに戻った。戦時中には露伴の生活物資の確保のために働き、少女時代から露伴にしこまれた生活技術を実践していった。露伴没後に、露伴の思い出などを中心にした随筆集を出版し注目された。その後、断筆宣言をして柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとにして書いた長編小説”流れる”で日本芸術院賞と新潮社文学賞を受賞した。1955年に読売文学賞を受賞し、1976年に日本芸術院会員となった。一人娘の青木玉は未刊行作品を編さん刊行し、平凡社で編著”幸田文しつけ帖”などを刊行した。幸田露伴は1867年に幕臣の幸田利三を父として、猷を母として江戸・下谷で生まれた。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆であった。1875年に東京師範学校附属小学校に入学し、卒業後の1878年に東京府第一中学正則科に入学した。のちに家計の事情で中退し東京英学校へ進むが途中退学し、1883年に給費生として逓信省電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任した。1887年に職を放棄して上京し、免官処分を受けたため、父が始めた紙店愛々堂に勤めた。1889年の”風流仏”で評価され、1892年の”五重塔”1919年の”運命”などの文語体作品で文壇での地位を確立した。1896年に山室幾美子と結婚し、1男2女を設けた。幸田文は1992年に86歳で亡くなったが、その作品や話し方、立ち居振る舞いには、父幸田露伴の影響が大きく投影されていた。文は戦後父を失った後に作家として一家を成すに至ったが、この父娘は普通の親子とは違った絆、縁で結ばれていた。露伴は兄弟の多い貧困の中で育ち、朝晩の掃除はもとより、米とぎ、洗濯、火焚き、何でもやらされた。そのなかでいかに能率を挙げるかを工夫したという。家庭の事情から、露伴はごく自然に自ら娘の家事教育、家庭教育に手を出し、食事の作り方、配膳のことや、ほうき、はたきの扱いなど、掃除の仕方まで伝授している。文のしっかりした生活者としての姿は、この教えによって培われた。文にとって父は、博識な学問の人であるばかりではなく、何でも出来る大きな絶対の存在であった。そんな偉大な父に反発を覚えつつも慕い、生涯畏敬の念を抱きつづけたという。

第1章 理詰めで教える掃除の達人
第2章 父に向けた手厚い看護
第3章 反発しながらも畏敬の心
第4章 父は遊ばせ上手
第5章 最もおいしいときに食す
第6章 無言で育む美しい心
第7章 「わかる」とは「結ぶ」こと
第8章 形が人を美しく見せる
第9章 着物は着こなしにある
第10章 言葉遣いに厳しく
第11章 父と娘の性教育問答
第12章 夫婦の不和で傷つく子の心
第13章 男の子に甘い父心
第14章 生死の間に最後の教え

35.3月30日

 ”ゲーテ『イタリア紀行』を旅する”(2008年2月 集英社刊 牧野 宣彦著)は、生涯の大きな転機となったゲーテの約2年わたるイタリアへの知の旅を巡り体感している。

 ドイツ文学は18世紀末、ゲーテ、シラーの二人によって頂点を極め、一般にドイツ古典主義と呼ばれている。古典主義は、ギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を模範として仰ぐ傾向であり、均整・調和などがその理想とされる。1786年9月、ゲーテはワイマールでの煩瑣な生活からのがれるため、長年の憧れの土地イタリアへ駅馬車を駆り出した。この旅で詩人ゲーテが完成し、ドイツ古典主義を確立させるきっかけとなった。牧野宣彦氏は1945年生まれの旅行作家で、早稲田大学文学部ドイツ文学科卒、旅行会社に就職して各種のツアーを企画し、その後、シエナのレストランで修行し、今はボローニャに在住している。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年にドイツ中部フランクフルト・アム・マインの裕福な家庭に生まれ、1765年にライプツィヒ大学法学部に入学した。3年ほど通ったが、その後病魔に襲われ、退学を余儀なくされた。故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養後、改めて勉学へ励むため、1770年にシュトラースブルク大学に入学した。この地で多くの友人を作り、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験した。1771年に無事に学業を終えて、故郷フランクフルトに戻った。弁護士の資格を取り書記を一人雇って、弁護士事務所を開設した。当初から仕事はほどほどにあったものの次第に仕事への興味を失い、文学活動に専念するようになった。文学活動は大きく3期に分けられ、初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、その後ヴァイマル公国の宮廷顧問となりしばらく公務に没頭し、そして、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていった。1786年にアウグスト公に無期限の休暇を願い出て、9月にイタリアへ旅立った。7歳年上の人妻、シュタインとのかなわぬ恋に疲れた上、納得のいく詩が書けなくなったこと、政治家として限界を感じたことから、現実から逃避するような旅であった。父がイタリア贔屓であったこともあり、イタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時、アウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動した。まずローマに宿を取り、その後、ナポリ、シチリア島を訪れるなどして、結局2年もの間イタリアに滞在した。1788年にイタリア旅行から帰り、芸術に対する思いを新たにし、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なったが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国した。イタリア紀行は、30年後の1816から1817と、1829年に旅行記としてまとめたものである。日誌や書簡を下敷きにしているが、フィクションに近い部分も少なくないようである。

第1章 イタリア出発までのゲーテ
第2章 ブレンナー峠からヴェローナまで
第3章 ヴェローナからヴェネツィアへ
第4章 ヴェネツィア
第5章 ヴェネツィアからローマまで
第6章 第1次ローマ滞在
第7章 ローマからナポリへ
第8章 ナポリからシチリアへ
第9章 第2次ローマ滞在

36.平成25年4月6日

 桜の季節

 3月初めまでは気温が低く出遅れていたものの、3月6日ごろから平年を大幅に上回る気温が続き花芽が順調に生長した。東北南部までは平年より早い開花となり、3月13日に九州で開花が始まり、20日には鳥取でも過去最早で開花し、西日本の日本海側では、記録的な早さとなった。4月5日・6日は関東北部や北陸などで見頃となり、東海や近畿でも次第に葉が目立ってくるという。いま、近くの桜はまだ見られるものの、一昨日の春の嵐でだいぶ散ってしまった。

・ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
 紀友則
・もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
 前大僧正行尊
・いにしへのならのみやこの八重桜けふ九重ににほひぬるかな
 伊勢大輔
・花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
 入道前太政大臣
・清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき
 与謝野晶子
・世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
 在原業平
・あをによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今さかりなり
 小野老
・花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
 小野小町
・願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃
 西行法師
・高砂の尾上の桜さきにけり外山の霞立たずもあらなむ
 前中納言匤房

37.4月13日

 ”私の中の東京”(2007年6月 岩波書店刊 野口 富士男著)は、明治末年生まれの著者が文学作品を手がかりに変貌を遂げた記憶に残る東京を散策している。

 いまテレビ朝日で「若大将のゆうゆう散歩」が放映されているが、東京論がブームになる前から著者が行っていた東京の街歩きのエッセイ集である。野口冨士男氏は、1911年に東京・麹町で生まれ、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進んだものの1930年に中退し、1933年に文化学院文学部を卒業した。卒業後、紀伊国屋出版部で編集に従事したが、1935年に倒産したため、都新聞社に入社し、仕事の傍ら同人雑誌に関わった。1940年に長編小説を発表し、1944年に海軍に応召された。戦後、1950年ごろから創作上の行き詰まりを感じて徳田秋声の研究に専念し、約10年を費やして秋声の年譜を修正し、徳田秋声研究に没頭し、毎日芸術賞、読売文学賞、菊池寛賞、川端康成文学賞などを受賞した。次いで、東京・戸塚の自宅の一部を改造して学生下宿を営みつつ、無収入同然で秋声の伝記を執筆したりした。1982年に日本芸術院賞、1986年に菊池寛賞を受賞し、1987年に芸術院会員となり、1984年から日本文藝家協会理事長を務めた。1970年代後半の都電三号線になった外濠線沿いの飯田橋から三田までを手始めに、銀座、小石川、本郷、上野、浅草、吉原、浅草、玉の井、芝浦、麻布、渋谷、神楽坂、早稲田界隈を歩き、記憶を辿りつつ文学との関わりから東京の移り変わりを記している。著者は山ノ手生まれの山ノ手育ちで、浅草の観音様や花屋敷、両国の川開きや洲崎沖の投網などにも親に連れていかれた記憶があるそうである。その後、当時まだ三田にあった慶応義塾の幼稚舎まで住まいのあった神楽坂から通い、飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て札の辻に至る系統の外濠線沿いを毎日往復していたという。かつて自分が住んだ東京の町、あるいは自分が敬愛する、永井荷風、徳田秋声、宇野浩二、斎藤緑雨などが住んだ東京の町を丹念に歩き、その地理と歴史を調べ再現している。著者は1993年に、呼吸器不全のため自宅で死去した。当時書いたエッセイは、雑誌「文學界」1976年10月号から1978年1月号に掲載された。単行本は1978年6月に文藝春秋から刊行され、文庫本が1989年10月に中央公論から刊行された。本書は、岩波現代文庫として再発行されたものである。

外濠線にそって
銀座二十四丁
小石川,本郷,上野
浅草,吉原,玉の井
芝浦,麻布,渋谷
神楽坂から早稲田まで

38.4月20日

 ”大人のための「ローマの休日」講義”(2007年8月 平凡社刊 北野 圭介著)は、ローマの休日を足がかりにオードリー・ヘプバーンの魅力を多面的に考察している。

 オードリー・ヘプバーンは、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、ベルギー・ブリュッセル生まれのイギリスの女優である。父親はイングランド人でイギリスの保険会社に勤め、母親はバロネスの爵位を持っていた。5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学したが、両親は離婚し父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーでバレエの特訓を受けた。15歳には有能なバレリーナになった。16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、アーネムの病院で20年映画監督になってオードリーの作品を演出することになる一人のイギリス陸軍兵、テレンス・ヤングを介護した。アンネ・フランクと同い年で、戦後、オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたという。ロンドンでバレエを習う等、ヨーロッパを中心とする各国で生活した経験を持ち、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語が抜群に堪能であった。北野圭介氏は、1961年大阪府生まれ、ニューヨーク大学大学院映画研究科博十課程を中途退学し、ニューヨーク大学、ニュージャージー州立大学ラトカーズ校などで教えたことがあり、現在、立命館大学映像学部教授、専門は映画理論、表象文化論である。ローマの休日は1953年製作のアメリカ映画で、王女と新聞記者との切ない1日の恋を描いている。トレビの泉や真実の口など、永遠の都・ローマの名だたる観光スポットを登場させている。1953年度アカデミー賞において、新人オードリー・ヘプバーンがアカデミー最優秀主演女優賞を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀脚本賞を、衣装のイデス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞を受賞した。さらに、1993年にドルトン・トランボへ最優秀脚本賞を贈呈した。1950年代は、エリザベス女王の戴冠、グレース・ケリーとモナコ大公の結婚など、世界的なお姫様ブームが起きた。このような時代にあって、オードリーはローマの色々なスポットで様々なシーンで、非常に豊かなイメージを喚起している。オードリーの生身の役者として、また、シンボル化されたスター・イメージとして、それに、物語のなかの役どころとして、3つの身体はどれもそれぞれに輝き、互いに損なわない仕方で存立し、緩やかに浸透し合っているという。オードリーが放出する魅力について、イメージと身体をめぐる憧れの映像詩学を試みている。著者は、20代のときに友人とシベリア鉄道に乗って当時のソビエト連邦を2週間近くかけて横断し、はじめてヨーロッパの地を踏み、フォルクスワーゲンのゴルフを駆ってロマンティック街道を下ったあと、国境付近で列車へ乗り換えイタリアに向かい、ローマに辿り着いた。ローマの街は陽射しか強く、まぶしい光に満ちあふれ、英語で書かれたガイドブックを手がかりに、映画のあのシーンの場所を訪ねて歩いた。ローマの休日の中のオードリーの温かみを、どうにか自分なりに言葉にしておきたいという思いで書いたという。

はじめに-「憧れ」の映像詩学の試み
第1章 舞い降りてきた『ローマの休日』
第2章 作品のかたち
第3章 「妖精」と呼ばれたスター
第4章 足先のレッスン
第5章 フォトグラフィック、シネマティック
第6章 スタイルの身体、そして身体の戸惑い
第7章 オードリーの三つの身体
終 章 陽の光、そして瞳のディアレクティケ

39.4月27日

 ”津田左右吉と平泉-見果てぬ夢-”(2002年3月 森の本社刊 小野寺 永幸著)は、著名な歴史家、思想史家、文学博士である津田左右吉が岩手の平泉で過ごした5年間を紹介している。

 津田左右吉は、地道に研究を重ねて学問上の見果てぬ夢を追い続けた稀有な歴史学者、思想史家だった。戦時中、迫害と弾圧によって、日本書紀、古事記に関する著書をめぐる裁判で有罪判決を受けたが、思想的姿勢は、戦前・戦中・戦後と一貫して変わらず真実を追い求め続けた。終戦前後の5年間を岩手の平泉ですごし、著作の改訂作業などに明け暮れた。小野寺永幸氏は、1925年に岩手県で生まれ、元中学校校長で、現在、東北史学研究所所長である。津田左右吉は1873年に岐阜県美濃加茂市下米田町で尾張藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬の長男として生まれた。名古屋の私立中学を中退し、1891年に早稲田大学の前身、東京専門学校の邦語政治科を卒業した。卒業後、沢柳政太郎の庇護を受け、白鳥庫吉に紹介されて西洋史教科書作成に協力するとともに、千葉、独協などの中学教員を歴任した。1908年に白鳥が開設した満鉄の満鮮歴史地理調査室研究員となり、満蒙・朝鮮の歴史地理的研究を行った。調査室での文献批判的実証研究の経験と討論は、学問的研究の出発点となった。その後、日本歴史の大勢を背景として、単に文芸作品のみでなく、広く美術・芸能をも含めて国民の思想・文化・生活の展開を通して、国民思想が中国思想など外来の思想の影響を受けつつ、独自のものを展開してきたことを跡づけた。1918年に早稲田大学講師に就任し、東洋史、東洋哲学を教え、1920年に早稲田大学文学部教授に就任した。神武天皇以前の神代史を研究の対象にして史料批判を行い、日本上代史研究などで旺盛な執筆活動を行った。1939年に東京帝国大学法学部講師を兼任したが、研究内容が不敬罪にあたるとして当時の右翼から攻撃された。1940年に、政府から、『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にされ、早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄は出版法第26条違反で起訴され、1942年に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年に時効により免訴となった。1945年6月に岩手の平泉に疎開し、同年8月に日本は無条件降伏して太平洋戦争に敗戦した。戦後は熱狂的に学界に迎えられたが、主な研究・文筆活動は平泉で行った。神話である皇国史観を否定する津田史観は、第二次世界大戦後の歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となった。1947年に帝国学士院会員に選ばれ、1949年に文化勲章を受章した。1950年に平泉から武蔵境に転居し、主な研究・文筆活動の中心をここに移した。そして、1961年に武蔵境の自宅でこの世を去った。津田の学問的生涯の根底には自由の精神が見られるが、自由の精神の幅をさらに広げ戦後への飛躍をこころみたのは平泉でのことであった。陸奥国は古代、日高見の国さらに蝦夷の住む国と呼ばれ、中央律令国家の征服の対象となり、長い間、抵抗の戦乱が続いた。12世紀には、藤原清衡・基衡・秀衡によって平泉周辺が栄え、一時は半独立国家の様相を呈した。源頼朝軍の侵攻によってあえなく滅んだが、こういう長い抵抗の歴史に温かい共感の思いを持ち、それが津田の平泉観を作ったのではないかという。

平泉疎開の記
津田博士の戦争観
津田博士のおいたち
弾圧と迫害
津田博士の戦後
津田博士の見た平泉文化

40.平成25年5月10日

 ”マレーシアで暮らしたい! ”(2012年11月 講談社刊 山田 美鈴著)は、住みたい国調査で6年連続第一位になった国マレーシアにロングステイするための公式カイドブックである。

 マレーシアは、東南アジアのマレー半島南部とボルネオ島北部を領域とする連邦立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国である。マレー半島南部とボルネオ島北部を領域としている。隣接国はタイ、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピンである。人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系が居住する国家である。山田美鈴氏は、1952年に岐阜県で生まれ、異文化交流コーディネーターを経て、(財)ロングステイ財団主席研究員を務めている。ロングステイ財団は、ロングステイに関するニーズに対応したさまざまな情報の収集・提供やロングステイに関する調査研究、ロングステイヤーのサポート、ロングステイにかかわるあらゆる活動を行うことを目的として、1992年通産省の認可を受けて設立された公益法人である。マレーシアはマハティール政権がルックイースト政策を掲げて親日的であり、承継したアブドラ政権の下でも緊密な関係が維持されている。熱帯雨林、透明度抜群の海、神秘的な山々などの自然美あふれる国である。ペナン島は、古くから開発が始まったリゾートアイランドでアクティビティが充実している。アンダマン海に浮かぶランカウイ島は、ビーチはもちろん、島全体が免税なのでショッピングも魅力的である。また、首都クアラルンプールは、高層ビルが立ち並ぶ近代都市で、大きなショッピングセンターや観光スポットも豊富である。ロングステイは、移住でも永住でもない比較的長期の海外滞在型余暇である。海外に居住施設を保有、または賃借して、余暇を海外でより豊かな自由時間を過ごし、現地の人々との草の根交流などの余暇活動を行う。生活資金の源泉は日本国内にあり、現地での労働や収入を必要としない。日本を一度離れてみることで、日本という国、あるいは家族関係を再認識できる。とくに人気があるのがマレーシアで、アンケート調査で6年連続1位となっている。マレーシアの2011年のGDPは2786億ドルで、一人当たりのGDPは9,699ドルである。シンガポールには及ばないものの、タイの2倍近くの水準である。マレーシアは多民族国家の為英語が広く使用されており、言葉の心配があまり無い。また主要都市では道路病院、宿泊施設も充実し生活水準は日本と大差が無いのに、物価は日本の約3分1である。観光や商用目的の場合、特別なビザは不要で、1度の入国につき90日まで滞在が許可されている。また、マレーシアマイセカンドホームプログラムでビザを取得して、長い期間マレーシアに滞在する道も開かれている。

「住みたい国」No.1マレーシアの魅力
「親日国家マレーシアへお越しください」
 ――ノール・アズラン(マレーシア政府観光局東京支局長)
序章 ロングステイの「基礎知識」
1章  マレーシアの「基礎知識」
2章  ロングステイヤーが語る「マレーシアの生活」&
   ロングステイアドバイザー座談会「マレーシアで気持ちよく暮らすための知恵」
3章  マレーシアのビザ(査証)情報&
   ――マレーシア・マイ・セカンド・ホーム(MM2H)ビザとは
   MM2Hビザ解約と帰国まで
4章  滞在施設と不動産購入「最新情報」
5章  ロングステイのための「生活情報」
6章 現地サロン紹介&ロングステイ体験ツアー案内&「お役立ち」電話帳

41.5月18日

 ”密教”(2012年11月 筑摩書房刊 正木 晃著)は、密教の定義にはじまり、インド・チベット・中国、日本における歴史・思想を概説し、伝統的な密教教学を分かりやすく解説している。

 密教は秘密の教えを意味し、通常の仏教が広く民衆に向かって開かれ世界観を明瞭な言葉で説くのに対し、非公開的な教団の内に自己を閉鎖し秘密の教義と儀礼を師資相承によって伝持しようとする秘密仏教である。かつて密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した日本天台宗のいわゆる台密を指していたが、近年にインドやチベットにおける仏教思想の存在が認知され、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。正木晃氏は、1953年神奈川県生れ、筑波大学大学院博士課程修了、国際日本文化研究センター客員助教授、中京女子大学助教授、純真短期大学教授を経て、現在、慶應義塾大学文学部・立正大学仏教学部非常勤講師で、日本密教・チベット密教を研究している。密教はむずかしく、いわゆる鎌倉新仏教とは比べものにならないくらい複雑で精緻な構造をもっている。鎌倉新仏教のように、念仏や題目や座禅の1つでよいとするのでなく、密教はすべてを統合しようとしている。仏教を精神や心と呼ばれる領城に閉じこめず、霊肉一如の理論を主張し、修行や儀礼において身体の領域から働きかけて精神の領域の変革を試みようとする。文字だけにたよらずマンダラなどの視覚表規を多くもちい、儀礼を通して真理を獲得しようとし、神秘的な呪文を駆使し梵字や読むのも困難な漢字熟語が頻出する。そこで、密教の定義にはじまり、インド・チベット・中国における密教の歴史・思想を概説し、日本の密教をインド以来の仏教史全体の中に位置づけ、伝統的な密教教学をできるかぎり分かりやすく解説している。また、マンダラの理論と実践、チベット密教の性的ヨガをふくむ代表的な儀礼・修行についても詳細に解説している。最後に、密教の手引きとして、寺院案内とブックガイドが添付されている。寺院を訪ねれば、いまでも生きている密教を体験できる。ブックガイドは現時点で入手できる文献がほぼ網羅され、参考文献一覧を兼ねて掲載されている。

第1章 密教とは何か
    密教の定義/インド密教/チベット密教/中国密教
第2章 キーワードで考える日本密教
    密教と顕教/雑密・純密・左道密教/即身成仏/三密加持/十住心/真言/不動信仰
第3章 マンダラの理論と実践
    マンダラとは何か/胎蔵マンダラ/金剛界マンダラ/両部不二
第4章 修行と秘儀から考える日本密教
    月輪観と阿字観/虚空蔵求聞持法/五字厳身観と五相成身観/四度加行/後七日御修法
第5章 日本密教を知るための手引き
    訪ねてみたい密教寺院/さらに深く密教を知るためのブックガイド
補 遺 修験道の世界

42.5月25日

 ”景観を歩く京都ガイド”(2004年11月 岩波書店刊 清水 泰博著)は、京都で育った環境建築家が歩きや自転車で回る京都のとっておきの1日コースを紹介している。

 京都のよさは、単に名所旧跡やお店を回って見るだけでなく、個性的な町並みやさまざまな道・景色を楽しんでこそ味わうことができる、という。清水泰博氏は1957年に京都市で生まれ、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、東京芸術大学大学院美術研究科を修了した。1991年、1995年に環境芸術大賞を受賞し、現在、東京芸術大学デザイン科助教授で一級建築士である。東京発の情報にはステレオタイブ化した地方イメージが多いようである。京都のイメージといえば、舞妓さん、祇園、祇園祭、大文字の送り火などなどではないであろうか。京都本来の歴史的な場所は、断片化されてきてしまっているように思われる。しかし、場所を選べば日本の空間のすばらしさを感じられるのである。京都の魅力のひとつは、屋内の部屋と屋外の庭が作りだす内外一体となった建築空間ではないだろうか。今の建築ではなかなか見ることができなくなっているが、古の寺院の多くにはそのような空間が残されている。この内と外をうまくつないでいく手法は、古の町家などの住宅や寺社の内側だけでなく、寺社と町家のあいだにもあるように思う。さらに、日本の空間の大きな魅力は、シークエンス=継起性のすばらしさであるはないであろうか。奥へ奥へと導かれるアプローチ、そこでは周りの景観がドラマティックな変化をもって迎えてくれ、建物内でも周りの庭がさまざまな表情を変化させながら見せてくれる。それらは植栽や水といった自然物によって作られているので、常に同じということがない。今の京都の観光の状況を見ていると、どうも少し違うのではと思わずにいられない。有名寺院にばかり人が集まり、マイカー観光では多くの時間が駐車場待ちに使われていたりしている。いかに多く回るかといったふうになっているように思えるが、京都観光の場合、その途中にも、また途中にこそ京都の魅力があるように思われる。京都はそんなに広い都心ではないので、主だったところには、歩くか、または自転車で行ける。自転車も含め足でつないでいくのに、最もふさわしい街が京都なのである。本書は一日ずっと日本の空間の美しさを味わえるような旅のガイドブックであり、思いつくままに9つのコースが紹介されている。岩波アクティブ新書は活字が大きく図版も多われていて、ビジュアルに読むことができる。

1東山を歩くⅠ-歴史をつなぐ小径
2東山を歩くⅡ-自然と街の作りだす景観
3嵯峨野を歩く-ひなびた世界
4御室を歩く-洛西の小都市
5大徳寺界隈を歩く-枯山水の造形
6北山を歩く-平安からの道をたどる
7洛中を自転車で巡る-古都に息づく小さな家々
8鴨川を自転車で走る-下から見た京都
9東山トレイルを歩く-上から眺める京都

43.平成25年6月1日

 ”ハルビンの詩がきこえる”(2006年8月 藤原書店刊 加藤淑子/加藤登紀子著)は、20歳から11年間暮らしたハルビンでの様々な思い出が記されている。

 戦前、極東のパリと呼ばれた美しい街、ハルビンとそこに暮らした人々への愛と尊敬の気持ちは、帰国から60年の歳月が過ぎたいまも消えることはないという。加藤淑子氏は、1915年に京都府の呉服商の娘として生まれ、京都市立堀川高等女学校を卒業し、1935年に加藤幸四郎と結婚した。加藤登紀子氏は1943年にハルビンで生まれ、戦後は京都で育った。東京都立駒場高等学校、東京大学文学部西洋史学科を卒業し、現在は城西国際大学観光学部ウェルネスツーリズム学科客員教授と星槎大学共生科学科客員教授を務めている。夫の幸四郎は1910年に京都府で生まれハルビン学院を卒業し、結婚してからは加藤姓を名乗った。その後、満州に移住し、白系ロシア人宅に間借りして住み、ハルビン交響楽団の事務局長を務めていた。1943年ごろ徴兵され、終戦直後、収容所生活となった。1945年の終戦の後、日本に帰国し、一時期、日本マーキュリーレコードに勤務した。淑子は、終戦のときは幼子3人を抱えトラックで収容所へ連行された。まもなくソ連兵による略奪行為が始まり、金目のものはすべて持ち去られ、ラジオのコードを切断されて情報源を失った。その後、人形作りや洋裁をして、中国人やユダヤ人から賃金を得ていた。やがて協定が成立して、在留邦人による引き揚げが始まった。日本への船が出る錦州のコロ島までハルビン800キロを無蓋列車で旅して、途中、12キロの距離を自分たちで歩いた。1946年に帰国して幸四郎に再会し、一家5人の生活がスタートし、淑子は洋裁の仕事についた。1957年に幸四郎が新橋でロシア料理店”スンガリー”を創業し、淑子も店に出て働いた。スンガリーとはハルビンの川、松花江の満州語起源のロシア語表記である。お店は、1958年に京橋に移転し、1960年に新宿に移転した。1966年に娘の加藤登紀子が歌手デビューを果たし、1967年にスンガリー新宿東口店が実現し、1972年に京都に”キエフ”をオープンさせた。1992年に幸四郎が82歳で死去し、遺骨は松花江に散骨された。ロシアが建設した街ハルビンは、1932年満州国の誕生とともにその後の戦争の歯車に翻弄されることになった。幸四郎の中のロシア熱が冷めることはなく、ハルビンにいた白系ロシア人が日本に引き揚げることになったとき、彼らの居場所を作ろうと、終戦から12年たってロシア料理店”スンガリー”を開いた。ハルビンは、ロシア革命で亡命したエミグラントの無国籍ロシア人の街だった。いまでは近代都市へと変貌したが、流れる川の水だけは昔を知っているようである。遺骨を流した後、船から上がって太陽島の奥の方へ歩いくと、ロシア風の家がポツポツと残っていた。そして、毎年のように夏を過ごした別荘のダーチャを見つけた。すっかり古ぼけているが、木の柵やテラスの風情がおぼろげに名残を留めていた。どれだけ時代は巡ろうと、人間の運命は いまを生きる私たち自身の意志によって切りひらかれていく。

第1章 太陽は地平線を昇る
 大地の夜明け/マリア・ニコラーエヴナの家/炊事場のロシア語レッスン/ハルビンでのお買い物/見知らぬ街での生活がはじまる/男の友情/お茶を飲む女たち/いつも音楽があった/ウォトカの飲み方/サモワール
第2章 チェリョームハの木陰で
 サハロフの家/ロシア人のお祭り/ロシア語を習う/スンガリーで遊ぶ/ストラグスの家/ユシコフはマネキン屋/大和アパートへ/太陽島でのひと夏/父のハルビン訪問/スンガリーのダーチャで/トホール家の動物たち/ペチカ
第3章 戦火しのびよる街
 再び京都へ/祖母ハナとの暮らし/祖母ハナの死/トホール家の結婚パーティー/イワノフの家へ/ピアノのレッスン/義弟の結婚、そして召集/新町の家で/夫は露語教育隊/ハルビンへの帰郷/家をつくる若いロシア人夫婦/登紀子の出産/奉天は臨戦態勢/昭和19年年末の空襲/夫はいよいよ戦地へ/ソ連参戦/ハルビン学院/ハルビンという街
第4章 今日を生きる野草の如く
 終戦の日/トラックに乗って収容所へ/略奪がはじまる/北方からの避難民/将校オサッチ/人形づくり/秋林のお針子になる/星輝寮をでる/ミシンで開業/中国式の食べ物/ソ連軍の撤退/ハルビンに残る?/引き揚げを決心/出発の日-9日6日/フローシャの最後のごはん/地平線の向こうに

44.6月8日

 ”空洞化のウソ”(2012年7月 講談社刊 松島 大輔著)は、いまや空洞化ではなく現地化が進んでいるので国内で生き残るために今こそ新興アジアへ進出すべきと説いている。

 空洞化とは、構成していたものが消滅、移転などをすることによってそこが空き空洞になる状態をいう。産業的には、国内企業の生産拠点が海外に移転することにより当該国内産業が衰退していく現象を指す。1995年版経済白書によれば、円高による輸出の減少、輸入による国内生産の代替、直接投資の増大による国内投資の代替などから、製造業が縮小することにより産業空洞化が生じる、としている。松島大輔氏は1973年金沢市生まれで、東京大学経済学部卒業、ハーバード大学大学院修了、通商産業省入省後、2006年から4年近くインドに駐在し、インド経済の勃興と日本企業のインド進出を支援した他、タイ、ミャンマーなどで数々のプロジェクトの立ち上げを推進した。現在、タイ王国政府政策顧問として日本政府より国家経済社会開発委員会に出向している。日本では1980年代半ばから産業の空洞化が議論され出したが、1985年のプラザ合意の後、急激な円高により価格競争力を失った輸出企業が海外現地生産を本格化させた。背景には、東南アジアのNIES諸国の台頭があり、1990年代には、圧倒的に安価な労働力を武器に、世界の生産基地としての地位を急速に高めた中国の台頭があった。空洞化が進むと、産業の衰退が地域経済の衰退や経済成長率の低下につながり、企業の海外移転で国内の雇用機会が減少するなどの問題があるといわれた。しかし、2011年末に起きたタイの大洪水を間近に観察して、タイ経済における日本企業進出の意義をタイ政府の中から見つめなおす機会を得ることができた。日本企業はすでに新興アジアに生産ネットワークを展開しており、そこではサプライチェーンの広がりを見ることができる。大洪水では、サプライチェーンの寸断により、日本とタイの2力国にとどまらず、多くの国に甚大な影響を与えた。新興アジアの命運が日本経済の進運を決め、日本と新興アジアが運命共同体であることをまざまざと理解させられた。これまで日本において論じられてきたアジア論の系譜に位置づけつつ、アジアを日本経済を語る際の中核に位置づけていく必要がある。閉塞感漂う日本の未来を憂い新しい一歩を踏み出すため、逡巡する高い志に向け興アジアに軸足をおいた日本再生の方法を提案したい、という。日本産業・経済の空洞化論は、お金、技術革新、雇用の観点から国内に居つづけることをよしとするが、実は必ずしもそういう事実は見受けられない。むしろ、空洞化論が日本の進運にとって重要な新興アジアへの現地化を妨げる心理的な壁になっている。日本産業の未来の空洞化を防ぐためには、新興アジアにおける直接投資、貿易関係の強化、生産拠点の確保、販売網の整備といった現地化が重要である。現地化は、経済成長著しい南アジア、東南アジア、中国の一部をふくむ地域を包摂した新興アジアで成功するかどうかにかかっている。そのためには、日本企業が海外展開し、その過程を通じて、グローバル化における、日本を取り巻く外部環境の激変に対処することが求められる。新興アジアに飛翔することは、じつは日本の経済システムおよび産業構造そのものを変えることでもある。国内で生き残るためには、新興アジアへ目を向けることが必要である。

第1章「空洞化」を怯えてはいけない
第2章「新興アジア」における「現地化」のススメ
第3章「新興アジア」を活用した日本改造

45.6月15日

 ”人生で大切にすること”(2010年3月 日本経済新聞出版社刊 ビル・ゲイツ・シニア/メアリー・アン・マッキン著)は、世界一の億万長者ビル・ゲイツを育てた父親による家庭の教育方針や生きる上で大切なことなどについての人生のアドバイス集である。

 マイクロソフトか成功をおさめ息子の名前か広く世に知られるようになると、多くの人々からどんな子育てをしたのかなどの質問や子育ての秘密は何かと聞かれ、そのたびにいくら考えてもわからないから、たしかにそれは秘密だと、答えたという。ビル・ゲイツ・シニアは弁護士であり、ビル&メリンダ・ゲイツ財団共同会長や社会活動や社会奉仕にも積極的に参加している。家具店経営の父親の下で大恐慌の嵐か吹き荒れるなかに幼少期を過ごし、大学生活を中断して第二次大戦に従軍し、戦後、復員兵援護法により大学に復学し卒業後は一貫して弁護士として活躍した。メアリー・アン・マッキンはスピーチライターである。息子のウィリアム・ヘンリー・ビル・ゲイツ3世は、1955年に、父親、ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・シニア、母親、マリー・マクスウェル・ゲイツとして生まれた。マイクロソフト社の共同創業者・会長、兼ビル&メリンダ・ゲイツ財団共同会長であり、称号はイギリス女王より名誉騎士、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。一家にふたりのビルがいると混乱するので、息子のビルは昔から、家族にはトレイと呼ばれていたそうである。トレイは、トランプの世界で3の力-ドを意味する。息子のビルは小学校を優秀な成績で卒業し、シアトルの私立レイクサイド中学・高校に入学した。そこでコンピュータに興味を持つようになって、高校生のとき友人のポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業した。1973年にハーバード大学に入学し、後にゲイツの後任としてマイクロソフト社CEOとなるスティーブ・バルマーと同じ寮に住んだ。そして、パソコン用BASICの開発、MS-DOSの開発、Windowsの開発と進み、アメリカの雑誌フォーブスの世界長者番付で、1994年から2006年まで13年連続の世界一となった。2000年1月にCEO職をバルマーに譲り、現在はマイクロソフト社の会長となり、2008年からビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視している。慈善活動の歴史において息子か親の跡を継ぐことはあっても、息子の金の寄付を任される父親は自分くらいのものだろう、という。息子のビルは、32年後にハーバード大学から名誉博士号を授与された。そのとき、約束した通り学校にもどって学位をもらったよ、と父親に呼びかけた。そんな自分の体験から、好奇心旺盛であくまでもわが道を行くタイプの子どもをもつ親御さんに、わが子に託した夢を決してあきらめないで欲しい、ある日、思いかけない形できっと実現するだろう、そしてあなたははかりしれないよろこびを味わうことになるだろう、とメッセージをおくる。

序文 ビル・ゲイツ/思索にふけることについて、あらためて考えてみる/積極的に生きるということ/骨身を惜しまずに働く/途方もなく寛容であること/柔軟な考えかた/共存する/発言する/負けを受け入れる/口の堅い人間になる/自分の仕事に意味を見出す/目線は高く/家族のために積極的に生きる/才能を皆のために役立てる/人々をつなげる/変えたいことを、じっさいに変える/習慣は受け継がれていく/生きることを楽しむ/結婚式の祝いの乾杯/人生そのものがメッセージ/「これは正しいのか?」と問いかけることを忘れない/ひとりの力/わが子から学んだこと/チーリオのキャンプファイアー/友人との長く豊かなつきあい/誕生とともに人は学び始める/いい結婚をする(二度目も)/祖父母/リーダーシップについて/アメリカの危機/禁句/プレイヤーになる/人民の、人民による、人民の〈ための〉政治/歳をとるごとにおおきくなる/感謝が返ってくる/恒例行事―思い出をつくるために/皆でダンスを/女性の活躍/恩恵はめぐりめぐるもの/勇気のポートレート/アフリカよ、わたしたちはあなたを見ている/巨人たちとともに歩く/師となる人々に出会う/よき市民/身の丈を超える問題はない/この数字は隣人の姿/民意/少年はフェンスにあいた穴によって貧困から詩の世界に誘われた/ここから始める

46.6月22日

 ”追憶の作家たち”(2004年3月 文藝春秋社刊 宮田 毬栄著)は、日本で初めて文芸誌の女性編集長になり親しく仕事をつづけた多くの作家のうち特に思い出深い7人の作家の実像を描いている。

 7人の作家は、松本清張、埴谷雄高、大岡昇平、島尾敏雄、石川淳、大岡昇平、日野啓三である。4人の作家、松本清張、西條八十、埴谷雄高、島尾敏雄については、2002年に共同通信配信の地方紙に発表した文章を本書のために全面的に書き直したものであり、石川淳、大岡昇平、日野啓三の章は新たに書き下ろしたものである。宮田毬栄氏は、詩人、大木惇夫の娘として1936年に東京府で生まれ、馬込や荏原中延で育った。1959年に早稲田大学文学部仏文科を卒業し、友人に誘われて受けた中央公論社に入社した。このときの保証人は、父親の友人の金子光晴だった。見習い期間を終えると”週刊コウロン”編集部で松本清張の担当編集者となり、長篇推理小説”黒い福音”の取材を手伝った。出版部時代の1965年には、西條八十を担当した。1981年から1984年4月の休刊まで”海”の編集長を務めた。以後、出版部部長、中公文庫副室長、雑誌編集長、雑誌編集局局次長を歴任した後、1997年5月からフリーとなった。中央公論社には、結局、37年間勤務した。編集者の仕事が適性であったかどうかよくわからないが、零からものを創り上げる人びとへの憧れと尊敬の気持は強かった、という。編集者になって知ったことのひとつは、作家の死に際しての編集者の役割であった。文芸出版社の編集者たちは、会社を超えた編集者の仕事として、夥しい作家の葬儀を手伝い作家を見送るのである。吉川英治、谷崎潤一郎、広津和郎、志賀直哉の死から始まり、他にすぐ思い出すだけでも、川端康成、川崎長太郎、色川武大、澁澤龍彦、開高健、幸田文、安部公房、野口冨士男、中上健次、遠藤周作などの作家の葬儀に関わった。いまでもなお記憶の中で語りかけてくる、思い出の7人の作家の追憶を書いた。それぞれ重要な存在であった作家と向きあい、その生と死に密着することで、その間近で生きてきた自分の人生を振り返ることになった、という。

第1章 松本清張(1909~1992)
第2章 西条八十(1892~1970)
第3章 埴谷雄高(1910~1997)
第4章 島尾敏雄(1917~1986)
第5章 石川 淳(1899~1987)
第6章 大岡昇平(1909~1988)
第7章 日野啓三(1929~2002)

47.平成25年7月6日

 ”水の舳先”(2005年3月 新潮社刊 玄侑 宗久著)は、クリスチャンの女性と禅僧の出会いを通じて多様な宗教観にたつ人間の病と死を描いている。

 温泉施設ことほぎの湯の社長が目玉として妙な印を組んだ観音像を建てたのに、僧・玄山が開眼供養を頼まれたことから話が始まっている。そこは重い病を患う人が集まってくる温泉施設で、玄山はそこで書道教室を開き、彼らの相談相手になっていた。そこには、ガン患者である久美子や達成、無農薬製品以外は口にしない宏子、患者ではないが施設に通い気まぐれに一句詠むミネオなど、さまざまな個性が集まっていた。特に久美子はキリスト教徒で、明るく人気者だが心に深い孤独を秘めていた。玄侑宗久氏は、1956年福島県三春町生まれで、慶應義塾大学中国文学科を卒業し、様々な仕事を経験した後、京都、天龍寺専門道場に入門し、現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職を務めている。仕事の傍ら小説を書き、2001年に第125回芥川賞を受賞している。僧・玄山は人の死に際に関わり看取りと葬式を執り行い、死と救済、看取りと葬儀の意味などを説いている。そして、末期癌の久美子は、あるとき、身寄りもなく死んでいくサトウという男を懸命に世話するのであった。玄山は、仏教に半ば醒めた疑問も感じつつ看取りの意味について真摯に考え抜くひとりの僧である。久美子の死に際して、仏教者はキリスト者の救いを理解できるのかという、宗教理解の問いを含みつつ進行する。神の子・イエスの教えを絶対とするのと違い、仏教には懺悔で神に赦しを乞うと言う考えはない。クライマックスは看取りの瞬間にあり、送るものと逝くものの恍惚、エクスタシーの中にその本質がある。一見異教的なその恍惚に、異なる宗教が歩み寄れる原初的救いの地平がある。水は万物のおおもとであり、水を吸って伸びる植物は水が姿を変えたもので、この世のすべてのものは水から生まれた。水と水はあらゆる所で手をつなぎ、溶け合って生命の営みを支えている。人は水から生まれ出て、死ねば水に替える。僧の身である玄山と、久美子の体を恍惚裡に浮かばせたのは水であった。水と水とは手をつなぎサトウと久美子を溶かし合い、最後には、玄山もまた水の手に招き寄せられて、久美子の体へとつながれてゆく。

48.7月13日

 ”秋葉原、内田ラジオでございます”(2012年12月 廣済堂出版刊 内田 久子著)は、いまも現役で活動中の秋葉原ラジオセンター2階内田ラジオ・アマチュアショールーム店主の内田久子さんのこれまでの人生が語られている。

 内田久子さんは大正15年8月、父福次郎、母スズの両親のあいだに、兄二人、弟一人、四人兄弟の一人娘として箱根・塔ノ沢萩の里で生まれ育った。父親は箱根・環翠楼の支配人を務めていた。環翠楼は1614に開湯した由緒ある宿で、当時の名は元湯であった。皇室や将軍への献上湯を行い、和宮が病気療養のため環翠楼へ登楼したり、篤姫が和宮終焉の地となった環翠楼に行きたいと登楼した、という。昭和14年の春に旧制県立の高等女学校に入学したが、入学式に来てくれた母親は、その秋に出産のおりに亡くなった。子どものために再婚はしないという明治生まれの父親のもとで、きびしいしつけを受けて育った。小学校5年生のときに日中戦争がはじまり、戦中は勉強よりも農家などへの勤労奉仕の日々であった。昭和23年に技術一筋の内田秀男さんと結婚し新生活をはじめた。ご主人は1921年に福井県で生まれ、福井商業学校を卒業して税務署に1年間務めたあとNHK福井放送局に入局し、その後、NHK技術研究所に勤めた。結婚した半年後に、故郷福井で大地震があって、義妹と姪の二人を東京に引きとった。翌年に長男を出産した。ご主人はNHK技術研究所時代は新型真空管の開発に従事していた。それが、ある日突然NHKの研究所を辞め、タクシーに荷物を積みこんで帰宅した。その後、独立して内田ラジオ技術研究所長となり、雑誌への執筆、メーカーヘの技術指導などをしていた。ご主人は、この時代に三極鉱石というトランジスタを発明した。トランジスタは実用化につながった1948年のベル研究所によるものがよく知られているが、三極鉱石による増幅作用の発見はそれ以前に既になされていた、という。秋葉原電気街には電子部品店がたくさん入った、東京ラジオデパート、ラジオセンター、ラジオストアの三大ビルがあり、内田ラジオはラジオセンターの2階にある。ご主人は、お店は昼間は従業員まかせ、夕方になると出かけていって、アマチュアからの質問や相談に応じ、家ではさまざまな研究をしながら、特許申請、研究発表と奮闘した。ナムジュン・パイクら文化人との交流、オーラメーター研究、イオンクラフト円盤研究なども行った。昭和52年の秋、ご主人は過労のため脳梗塞に倒れ、車椅子の生活となった。その後、久子さんは、14年もの間、看護に追われながら、原稿の代筆、講演での代読、アマチュアの相手をするための勉強をしながら午後3時過ぎにお店に出るのが日課であった。3年前に癌がみつかり、治療、そして再発、1年半の放射線治療は通院ですませ、満86歳になるいまも週4日、世田谷から杖を突きながら片道1時間かけて秋葉原のお店に通っている、という。

ガード下のマーケット
箱根のこと、父母のこと
大事件の記憶と記録
発明家・内田秀男との結婚
夫唱婦随の不思議研究
「アキバの語り部」として

49.7月20日

 参議院議員選挙

 7月21日は参議院議員選挙の日である。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数を改選することになっている。参議院議員通常選挙は全国規模の国政選挙ではあるが、総議員を一斉に選出するわけではなく、半数改選であるから、総選挙とは呼ばれない。公職選挙法条では、3年ごとの参議院議員選挙は通常選挙と呼んでいる。今回、マスコミの分析では、自民・公明の与党は引き続き半数を超える勢いで、参議院で与党が少数のねじれ国会を解消することが確実な情勢となっている。自民党は、選挙区で40台後半、比例代表で20以上の、あわせて60台後半の議席を確保し、改選議席34を倍増させる勢いである。公明党も好調で、10議席を超える可能性が高く、改選議席10を上回る勢いである。さらに、全ての常任委員会で委員長を独占することができる安定多数129に届く勢いとなっている。民主党は厳しい状況が続いていて、結党以来最低の10台後半の議席となる可能性が高い。日本維新の会も振るわず、選挙区と比例をあわせても、1桁の議席にとどまる勢いである。みんなの党は一時の勢いが見られず、10議席に届かない勢いである。共産党は12年ぶりに選挙区で議席を獲得しそうで、比例とあわせて改選議席の3から倍以上の議席を確保する可能性がある。さて、明日の結果はどうであろうか。これからの政治日程には、原発再稼働、脱原発、TPP、憲法改正、消費税など、今後の日本の行方を左右する重要な争点がいくつもある。選挙の結果が大いに注目される。

50.7月27日

 ”人生の現在地”(2000年12月 大和出版刊 立松 和平著)は、2000年に50代を迎えた団塊の世代の当時の前途多難な人生を立ち止まって考えたエッセイ集である。

 価値観が多様化した現在、自ら人生を設計していく時代を迎えたといえる。これからの生き方をとらえ直して、自分なりの人生を考えていく必要性を強く感じる。立松和平氏は、1947年に宇都宮市で生まれ、宇都宮高校を卒業し早稲田大学政治経済学部へ進学したが、当時、大学は学生運動で騒然としていた。1970年に第一回早稲田文学新人賞を受賞、1973年に経済的理由から帰郷し宇都宮市役所に就職し、栃木を題材にした小説を書き続けたが、1979年に退職し文筆活動に専念した。1980年に第二回野間文芸新人賞を受賞、1997年に第51回毎日出版文化賞を受賞、2007年に第35回泉鏡花文学賞を受賞した。晩年は自然環境保護問題にとりくみ積極的に活動したが、2010年2月に東京都内の病院にて多臓器不全で死去した。当時の大学紛争から30年経ち、全共闘世代は高度成長戦士に転じてから早やくも50代になり人生の節目にさしかかった。人生50年の短命の時代には、人は早く成熟した。幕末の動乱期を生きて死んだ志士たちは、ほとんど20代の若さであり、10代の人物もたくさんいた。短命なのだから時間はたちまち過ぎていき、モラトリアムなどと言っている余裕はなかった。しかし、現代は40にして惑わずという気概はとうになくなり、50になっても迷ってばかりである。変化の激しい時代になり、時は激流になって飛び去っていき、めまぐるしい変化にさらされながら、それに適応するだけで大仕事である。過ぎてしまった時を振り返れば、諸行無常のことわりは働いている。50を過ぎてなお惑うことが多いのは、周りの変化によって自分か取り残されているのではないかという不安があるからである。今が盛りのものでも、明日になれば必要がなくなってしまうかもしれない。それほどまでに、諸行無常の流れは激しく速い。人は旅をし、旅には長い旅と短い旅、楽しい旅と苦しい旅がある。その目的はさまざまであり、人は旅をしながら生きているようなものである。そして、旅をしている人は必ず道に迷うものであり、道が分からなくなり遠回りをするからこそ旅なのである。知らない道を一人で歩き道に迷い、地図もなければ目的地さえも分からなると、人はとりあえず今いる場所を知りたいと思う。現在地が分からなければどこにも行きようはないので、現在地を把握した上で目的地への道を探そうとする。30歳までには結婚し、35歳頃には2人の子どもをもち、40歳には課長になり、50歳までには何とか部長に昇進し、退職金で家のローンを精算し、あとは海外旅行でもしながら楽しく暮らそうというふうに、地図の中には1本の太いルートが描かれている。しかし、人生に地図などあるわけがないのである。人生の旅も道に迷うものであり、人生の地図に描かれた道をその通りに歩むことはできない。松尾芭蕉が奥の細道の旅に出だのは46歳の時で、当時の人生50年からその歳は晩年であった。みちのくへの大旅行に際して、それまで持っていたものをすべて捨てて、身ひとつになって俳諧師として生き直したのである。おのれの表現を信じて奥の細道を書いて、歴史に名をとどめる存在となった。もし芭蕉が俳諧の大家とされる中に安住していたなら、これほどの名声は残らなかったのではないであろうか。

第1章 人生の倖せの分量
 倖せの分量/失われつつある共同体/人生の現在地/少欲知足/因果の種/江戸時代の幸福/人生の落とし穴
第2章 五十歳からの旅立ち
 三十年ぶりの同窓会/若さの価値/置き去りにされた教育/マルクスの理想郷/気骨に欠ける男たち/組織と男/中高年の自殺/人生で不要なもの
第3章 次の世代に伝えたいこと
 物を書くこと/川ガキ/大衆の悪意/情報化時代の言葉/崩壊の危機にある家族制度/プロが消えていく
第4章 自然が教えてくれるもの
 川の風景/漁師の死生観/諫早湾の死/他人との比較/裏街道のやさしさ/田舎暮らしと農業/阪神・淡路大震災に思う



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