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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1. 平成25年8月3日

 ”「超」英語法”(2004年3月 講談社刊 野口 悠紀雄著)は、英語学習の間違った点を克服し実用英語を確実にマスターする方法を説いている。

 これを読めば、英語習得のキモ、TOEIC、英会話学校、留学、ビジネス英語、どこで手を抜くか、専門用語の重要性、英語を聞き取るコツ、モチベーションを維持する方法など、英語に対する多くの疑問が解消する。野口悠紀雄氏は、1940年生まれ、元官僚の経済学者で、専門は日本経済論、ファイナンス理論である。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学教授を経て、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授を務めている。たとえば“海外旅行で使える英会話100”などといったハンドブックを持って、アメリカに行った日本人が、駅までの道をその本のとおりに訊く。訊ねられたアメリカ人が親切に答えてくれたとして、本当にうまく駅までたどり着けるのだろうか。逆に日本国内で外国人が“エキハドッチデスカ?”と訊ねてきて、日本語だからと“三つ目の信号を左に曲がって、100mくらい歩くと銀行があるから、そこを右に曲がれば駅ですよ”と説明して、相手は理解できるだろうか。つまり、話しかける言葉を覚えたとしても、相手の言うことを聞き取れる能力がなければ意味がない。英語の勉強は話すより聞くのが重要、という意見である。会話というのは話すことよりも聞く機会のほうがはるかに多いのである。会議でも自分が話すよりも、誰かの報告を聞く時間のほうが多い。そして聞けるようになれば自動的に話せるのである。普通の会話なら身振り手振りでなんとなく意思を伝えられるかもしれないが、ビジネスの世界や、具体的に解決したい問題、目標がある部分ではそうもいかない。その業界や分野の正確な専門の英語が必要である。その専門英語が使えるようになるには、目的をはっきりすべきだという。目的が明確ならば、勉強すべき専門英語がはっきりする。ビジネス英語はほとんどが専門分野なのだから、専門用語がわからないまま英語を覚えても、ビジネスで使えないし、使えなければ意味がない。自分が今いる世界で通用する英語は、専門用語を中心に学ぶべきなのである。ネイティブが教えてくれるから英語ができるという神話、英会話で覚えたものはどんなシーンでも通用するはずだという思い込み、両者こそが、英語教育の間違いだという。

第1章 実用英語の勉強における4つの間違い
~英会話学校に通えば英語ができるようになる!? 英語を話そうとするな 英語細胞を増やせ~
第2章 どこに注力しどこで手を抜くか
~rとlの区別ができなくてもいい 目的に応じて「8割」をめざそう~
第3章 これさえ分かれば英語を聞ける(その1)
~ユエン・ナツバラ・ハウンドーって、正式な英語!? 子音の消失、変形、連結ルール~
第4章 これさえ分かれば英語を聞ける(その2) 
~ホッチキスはステイプラ Noと言えない日本人 口語における文脈上の注意~
第5章 聞く練習を実践する
~通勤電車は最高の勉強環境 政治家の演説が初心者用のテキスト?~
第6章 TOEIC征服法
~TOEICマニアになるな~
第7章 私は英語をどう勉強してきたか
~私は中学のときに『「超」英語法』に気付いてた! スヌーピーが教科書~

2.8月10日

 ”自由な働き方をつくる「食えるノマド」の仕事術”(2013年2月 日本実業出版社刊 常見 陽平著)は、自由も安定も欲しいという人のための理想と現実のギャップを埋める地に足のついたノマド論である。

 ノマドワークは、時間・場所・組織にしばられず遊牧民のように移動しながら仕事をするということで近年注目を集めている。しかし、本質的にフリーランスに近く、自由と不自由の間を揺れ動く存在であり、仕事がなくなるリスクを負い、孤独に耐え、知恵をしぼって働かないと、食べていけないのが現実である。食えるノマドになるためには欠かせない、実践的な仕事術とはどのようなものであろうか。常見陽平氏は、1974年札幌市生まれで、一橋大学商学部を卒業し、リクルートに入社後、とらばーゆ編集部などを経て、玩具メーカーに転じ、新卒採用を担当し、2009年に人材コンサルティング会社に参加し、2012年に独立した。現在、人材コンサルタント、大学講師、HR総合調査研究所客員研究員、クオリティ・オブ・ライフフェローを務める。ノマドとは、英語で遊牧民の意味で、仕事スタイルについて、勤務場所をオフィスや自宅などに限定せず、いつでもどこでも仕事をするといったあり方を形容する語として提唱されている。ノマドワークのあり方は、佐々木俊尚氏の著書で提案され、広く知られるようになった。近年ブロードバンドが普及し、無線LANを使える場所が増え、外出先でインターネットを利用できる環境が急速に整ってきた。クラウド・コンピューティングを利用することによって、自宅のパソコンだけでなく、スマートフォンなどを使って、喫茶店や移動の車内などでも仕事のデータにアクセスできる。遠く離れた人と意見を交わしたり、様々な情報を手に入れたりすることも、容易になった。また、産業構造の変化により、仕事の質ややり方も変化し、様々なスキルを持つ人たちが会社の枠を超えて参加するプロジェクトが増えてきている。現代は、時間管理・自己管理を徹底できる能力があれば、時間と場所に縛られずにどこでも仕事をすることができる時代である。会社に属さずとも、IT機器と人的ネットワークを活用して、その時々の仕事に適した場所を移動しながら、従来よりもスピード感をもって仕事をしている人がメディアで紹介されるようになっている。本書では、自由な働き方の1つのモデルとして、食えるノマドを提唱している。しかし、ノマドだから自由だというのは幻想である。自由に仕事をするようになると、会社員時代よりはるかに仕事に縛られ仕事に費やしている時間は多くなるようである。食うためには仕事をしなくてはならず、その際、会社員のように決められた時間だけ会社に行けば毎月決まった給料をもらえるということはない。第1章では、ノマド論についての整理を試み、第2章では、ノマドの現実について考え、第3章では、ノマドに向いている人、向いていない人について論じ、第4章では食えるノマドの仕事の仕方、第5章では食えるノマドの考え方を紹介している。

第1章 ノマドという自由な働き方が注目される理由
第2章 自由な働き方のリアルを知る
第3章 あなたは自由な働き方に向いているか?
第4章 自由な働き方のヒント 基本スキル編
第5章 自由な働き方のヒント 大事な哲学編

3.8月17日

 ”ベルリン物語”(2010年4月 平凡社刊 川口マーン恵美著)は、主に1871年と1990年の2回のドイツ統一の間に起きたベルリンの出来事を中心に人や街の魅力に触れている。

 ベルリンはドイツに16ある連邦州のうちの一つで、現在、首都が置かれており、市域人口は350万人と、ヨーロッパではロンドンに次いで2番目に多い。ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置し、この地域の人口は590万人に達している。かつての冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊してから20年以上経過し、これまで数奇な運命を辿ってきたベルリンの歴史を描き出している。川口マーン惠美氏は、1956年大阪府生まれ、日本大学芸術学部音楽学科ピアノ科卒業、シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科卒業のノンフィクション作家、評論家である、2011年から拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めている。ベルリンが最初に文書に言及されたのは13世紀のことで、それ以後プロイセン王国やドイツ帝国、ワイマール共和政、ナチス・ドイツの首都であった。第二次世界大戦後、ベルリンは東ベルリンと西ドイツの飛び地で周辺を、ベルリンの壁で囲まれた西ベルリンに分断された。1989年のドイツ再統一によりベルリンは再び首都としての地位を得て、今日に至っている。プロイセン公国かプロイセン王国になった1701年、ベルリンはまだ、東方の辺境の垢抜けない田舎町に過ぎなかった。1871年、多くの領邦から成っていたドイツはようやく統一され、ドイツ帝国か成立するが、その直前に3度の戦争が起こっている。3度ともプロイセンが関わっており、1864年にはデンマークが、1866年にはオーストリアが、1870年にはフランスかプロイセンに敗れた。統一前夜のプロイセンは、ヨーロッパでも列強の一つに伸し上がっていた。ドイツ統一はプロイセンの主導のもとに行われた。プロイセン王はドイツ帝国の皇帝となり、プロイセンの首都であったベルリンはドイツ帝国の首都となった。ドイツの産業革命は1830年頃に始まり、20世紀に入ると鉄鋼の生産量はイギリスを抜き、化学や電気の部門も発達してヨーロッパ一工業都市になった。産業の担い手である労働者たちは過酷な労働条件に苦しんで、労働運動が活発になり、鉄血宰相ビスマルクは、飴と鞭の政策を敷いた。鞭は社会主義者鎮圧法、飴は社会保障制度だった。皇帝ヴィルヘルムニ世の1914年にドイツは第一次世界大戦に突入し、次第に泥沼にはまり込んでいった。1918年のキール軍港での水兵の反乱がきっかけになってヴィルヘルムニ世は退位・亡命して、ようやく第一次伊界大戦は終了し、ドイッ帝国は潰えた。1919年、新政府はワイマール憲法を打ち立てたものの、国民の生活は苦しいままだった。1920年代のベルリンは、世界で最も進歩的な町だった。とりわけ性的には、ヨーロッパで一番解放されていたと言われている。ベルリンは文化的にも科学的にも急速に発展し、ヨーロッパ一の文化都市として自由を謳歌することになった。しかし、1929年に世界恐慌が起きて、1932年にプロイセン州のオットー・ブラウン政権がクーデターによって倒れ、共和政は極左・極右の影響を受けて崩壊し、共産党が市議会で単独第一党となった。そして、1933年1月30日にヒトラーが帝国首相に任命された。この町の繁栄は、ヒトラーが町を手中に収めたとき、あたかも蒸発したかのように唐突に消えてしまった。その後の12年間、ベルリンはヒトラーと共に上昇し、そして、最後には、最初いた場所よりもさらにずっと下まで転落してしまった。ベルリンが息を吹き返しやっと少しずつ蘇り始めたとき、この町はすでに首都ではなかった。そして、唐突にも、1961年には町の真ん中に壁が築かれ、それ以後、ベルリンは冷戦の最前線となり、東西陣営の火薬庫となった。それから28年経って、またもや唐突に壁が消えると、今度は平和の象徴となった。1990年、東西ドイツはドイツ連邦共和国として念願の統一を遂げ、二度目のドイツ統一が行われた。

第1章 ビスマルクとドイツ帝国-ドイツ統一まで
第2章 チェツィリエンホーフ-ドイツ帝国の時代
第3章 黄金の20年代-ワイマール共和国の時代
第4章 帝国議事堂-ヒトラーの台頭
第5章 シュタウフェンベルク-ナチへの抵抗の時代
第6章 ベルリン崩壊-ポツダム会談と原爆
第7章 ベルリン封鎖と壁の建設
第8章 壁の生活-冷戦の時代
第9章 ブランデンブルク門-ドイツ統一の時代

4.8月24日

 ”孔子”(1991年9月 集英社刊 加地 伸行著)は、中国・魯国の政治改革をめざしながら、政治の波に翻弄され、不遇のままに終わった孔子の生涯を紹介している。

 孔子は、今から約2500年前に生きていた実在の人物である。実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末に魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。加地伸行氏は、1936年生まれ、京都大学文学部卒業し、文学博士で中国哲学史を専攻し、高野山大学、名古屋大学、大阪大学文学部教授を歴任した。周王朝は中国各地を分割し、各地それぞれに責任ある統治者を定めていた。これら統治者を諸侯といい、その上に立っていたのが、天子の周王であった。魯はこの諸侯の1つであり、紀元前1055年から紀元前249年までの、周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。魯国では、周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統が受け継がれ、古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子とその一門である。魯国は、春秋時代に入ってから、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となった。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上三桓氏に分割されて、魯公室は細々と生き残るものの、紀元前249年に楚に併合されて滅亡した。孔子は紀元前552年生まれの春秋時代の思想家、哲学者で、紀元前479年に73歳で没している。周王朝の支配体制がくずれ、諸侯が対立抗争する春秋末の動乱期に過ごしている。当時、魯国でも君主の威権は地に落ち、季孫氏・孟孫氏・叔孫氏という3公族が政治を専断していた。さらに3公族のうちもっとも強力な季孫氏では、家臣の陽虎が権勢をふるい、下剋上の様相さえあった。幼いとき父に死別した孔子は、貧困と苦難のなかに育った。孔子の一生は、世俗的欲望にふくらみ、その欲望に圧されてもがきつづけた生涯でもあった。その周辺に起こった事件や問題は、現代社会の状況と、驚くほどよく似ている。われわれ現代人や現代社会が、ひいては、いつの世、いつの人にも通じて抱えている問題を映し出す普遍性を持っている。人間はだれでも、人に認められたいと思っている。何歳になっても、どのような地位にあっても、なおかつ自分の才能や能力を人に認められたいと思って生きている。あるいはまた、自分はこの世に役立っており、生きる価値のある人間であることを、他人に認めてほしいと切に願って生きている。他人から認められること、それもとりわけ力のある人から自分が認められたとき、人間は生きる喜びに震える。その喜びは誇りとなって、人間をしっかと支え、生きる意味を与える。逆に、自分が認められないとき、怒りとなり、悲しみとなり、絶望となり、無気力となってゆく。この世には、そういうつらい思いに生きている人間もまた多い。孔子は、人に認められたいと強く願って生きた人物である。しかし、ある数年の期間を除いて、政治の波に翻弄され、人に認められなかった。孔子の生涯は、自分の才能を、自分の能力を認めてほしいと悲痛に叫びつづけた70数年であった。孔子は、それをどのようにして耐えるか、自戒のことばを自分に説きながら、不遇の運命と闘いつづけた。老年の孔子は、死の世界について考えて死への深い思いを述べている。孔子には多くの名言があり、2500年前のものとは思えない深い響きをもってわれわれに追ってくる。孔子の生涯とそのことばは、時を越えて新しく、考えるべき多くのことを、われわれ現代人に語りかけてくる。

〔1〕時代
〔2〕出生
〔3〕青春
〔4〕野望
〔5〕不遇
〔6〕権力
〔7〕流浪
〔8〕弟子
〔9〕対話
〔10〕終焉/孔子関係地図 

5.8月31日

 ”古寺巡礼京都1 東寺”(2006年10月 淡交社刊 梅原 猛/砂原秀遍著)は、東寺の宝物、建築などの文化財をカラー写真で紹介している。

 東寺は京都市南区九条町にある仏教寺院で、教王護国寺と呼ばれ、山号は八幡山、本尊は薬師如来、真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山である。砂原秀遍氏は、1925年島根県生まれ、1947年国分寺住職、1957年東寺入寺、2004年11月18日長者就任、東寺第256世長者、東寺真言宗第2世管長である。梅原猛氏は、1925年宮城県生まれ、1945年4月京都帝国大学文学部哲学科に入学するも、直後に徴兵され、9月復学し、1948年卒業、大学院では山内得立、田中美知太郎に師事した。1999年、文化勲章受章、立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長などを経て、現在、同センター顧問、日本ペンクラブ会長も務めた。桓武天皇は、奈良の都に代わる新しい都を山城の地に設け、都の正門というべき羅城門を挟んで東と西に巨大な国家鎮護の寺院を建てようと建立された。そして、桓武天皇の皇子である嵯峨天皇の御代に、日本真言密教の祖師空海に下賜された。それによって東寺は、それ以前に空海に与えられていた高野山金剛峯寺とともに真言宗の本山となった。すでに顕教の寺院として設計計画が出来ていた東寺を、空海はすっかり真言密教の寺に変えた。空海は既成仏教を敵とせず、既成仏教の体内に入り、その既成仏教をいつのまにか自己の仏教に変えてしまう。空海は真言密教の本拠地を三つ持った。一つは、都からはるか離れた紀州の山の中にある高野山である。都から遠く離れた人気のない高野山だけが本山であったならば、真言密教の発展はおぼつかない。二つは、東寺を賜わることを嵯峨天皇に願い下賜されたことである。そして、最後は、宮中に真言院を設けることを許されたことである。この三つの寺院によって、真言密教の千年にわたる発展の基礎を空海一代で築いた。神仏習合思想は日本の山岳信仰を仏教と結びつけようとした役行者に始まるが、思想の流れを決定的にしたのが空海の真言密教である。東寺の建造において空海がもっとも力を注いだのは、講堂であろう。金堂はすでに薬師如来を本尊として完成していた。空海の言言密教の大きな功績は、神仏習合思想を完成させたことである。中世以降はお大師様の寺として庶民の信仰を集めるようになり、今日も京都の代表的な名所として存続しており、1934年に国の史跡に指定され、1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。本書は、各寺院の管長・住職が混迷する現代へのメッセージを発信し、作家、評論家らが古寺を訪ね、その魅力をエッセイで紹介している。

巻頭エッセイ
 立体曼荼羅の寺;
口絵カラー;
現代へのメッセージ
「お大師さんのみこころ」で生かされる日々;
 京都の歴史の生き証人-東寺;
 明暗をわけた東寺と西寺;
 東寺文学散歩;
 観智院と宮本武蔵;
 東寺の「にわ」;
 東寺の教学と文化財

6.平成25年9月7日

 ”ヨーロッパ 本と書店の物語”(2004年7月 平凡社刊 小田 光雄著)は、ヨーロッパ近代の本と書店との関係と文化や社会との関係を描き出している。

 6世紀初めに、羊皮紙を使用して現在の本の概念となったものが出現した。作ったのは、ベネディクトゥスがイタリアに設けた修道院の修道士たちであった。その後、羊皮紙よりも軽くて扱いやすい紙が発明され、さらに印刷術が発明されてから、本の普及が飛躍的に高まった。15世紀半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが金属による可動性の活字を使い、ブドウ絞り機を利用した印刷機を操作して印刷術を興してから、本は全く面目を改めることになった。小田光雄氏は、1951年静岡県生まれ、早稲田大学卒業、最初、書店に勤務し、ロードサイドビジネス、土地活用業務などの仕事に携わった後、人文書専門の出版社・パピルスを友人と二人で始めた。傍ら、戦後社会や郊外、出版文化、流通に関する研究を続け、1990年代後半から出版不況に警鐘を鳴らしていた。本書には、ドン・キホーテの妄想を可能にした行商本屋から、ユリシーズの神話を立ち上げたパリの小さな書店まで、華やかさと世知辛さと闇に満ちたヨーロッパ版・書物の近代史が描かれている。1500年代以降、近世・近代ヨーロッパでは、本は、印刷され出版されて読者に買われていく形態が徐々に定着した。読者との間を取り持ったのは、行商本屋、貸本屋、古本屋、キオスク書店などであった。当初、本は、行商本屋が各地を回って売り歩き、行商本屋はドン・キホーテの妄想を可能にした。その後貸本屋が普及して、本の読者を大きく伸ばすこととなった。貸本屋でもっともよく知られていたのは、ミューディという貸本屋であった。ミューディは書籍流通の権力を握っていて、巻数を多くするため三巻本という形式を取っていた。しかし、19世紀後半になってイエロー・バックや鉄道文庫が出現し、持ち運びが不便で乗客や旅行客に合わない三巻本は衰退し、それを受けて貸本屋は没落していった。その後、1774年にゲーテが25歳で”若きヴェルテルの悩み”を自費出版して、一躍時代のスターとなった。大勢の若者が、成功を夢見て、自分の作品を発行し販売してくれる出版社や書店を探して走り回った。当時は、書き手にとっては我が身を文学の神に捧げて書いた珠玉の作品でも、出版社や書店にとってはあくまで投機の対象となる商品に過ぎなかった。このような中で、ウォルター・スコットは出版社の負債まで背負い込み、返済のための休みない執筆による過労で死んだ。処女出版の詩も歴史小説も売れず、バルザックは盗作や剽窃で三文小説を書きなぐり、あげくのはて出版業界に翻弄され3度も倒産した。そして、20世紀になってようやく、作品と商品を両立させ時代の精神と共にある出版社や書店が現れた。パリの女性モニエは1915年に、新しい時代の精神に目を向けて、本の友書店という書店と貸本屋を兼ねた店を開店した。店は作家や未来の書き手を惹きつけ、フランス文学を担うサロンとなり、ジッドやボーヴォワールなどが常連となった。その近くに、アメリカ人女性ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店が出来て、ヘミングウェイやフィッツジェラルドが入りびたった。ビーチはジョイスの”ユリシーズ”の刊行に、ほとんど無償で尽力した。モニエもビーチも経済的には恵まれなかったが、多くの作家を育てた。そして、20世紀後半になってパーパーバックが出現して、これまでになかった書物の大量生産・大量消費が普及していった。ペーパーバックの出現は、流通や販売も変化させ、本は、書店のみならず、新聞スタンド、ドラッグストア、スーパーマーケットまで進出した。これによって、新たな出版の投機と本の消耗品化が始まった。しかし、出版は過去も現在も、少部数の書物と少数の読者の出会いから始まり、絶えずその事実を根底に横たえながら、出版業界もまた成長してきたのである。

1書物と書店の出現 
 活字中毒者の誕生/書籍商と印刷業者/書物流津のインフラ
2行商本屋の巡回
 行商人と「青本」/イギリスの「チャップ・ブック」/民衆本とプロパガンダ
3ゲーテとイタリアの書店
 ファウスト博士の伝説/デビューは自費出版/『ヴェルテル』とスターの誕生/『イタリア紀行』で描かれた書店
4貸本屋の登場
 買うよりも借りて読む/古書店兼業から始まる/ミューディ書店と三巻本/フランスの貸本屋/貸本屋と『ボヴァリー夫人』
5バルザック『幻滅』の書籍商
 小説の時代/職業作家の成立/バルザック、三回破産する/失望と再生/『幻滅』にみる当時の出版システム/夢想と現実/出版業界人たち/出版業界の皇帝/軽業としての新聞書評/金なのだ!/「文学の神話」へ
6古本屋の位置
 古書業界の誕生/セーヌ河岸の古本屋/黄金時代とその終焉
7三文文士の肖像
 ある愛書家の嘆き/リアードンの貧窮と死/自殺した文士ビッフェン/ユールの見果てぬ夢/新しい出版者ジャスパー/「小説なんてみんな同じ」
8キオスク書店の開店
 鉄道旅行と書物/本の流通革命/ゾラと大衆社会
9ドイツの出版社と書店
 ドイツの出版理念/書店員ヘッセ/亡命する出版社/出版の神話
10オデオン通りの「本の友」書店
 精神の王国/文学のトポスへ/「文学の修道尼」
11シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店
 パリのアメリカ人女性/開店/アメリカ人作家たち/ジョイスのパリ移住/『ユリシーズ』のセンセーション/小出版社とリトルマガジン/ジョイス、金の亡者になる/黄金時代の終わり
12ディドロを再考する
 書物としての『百科全書』/ディドロの苦い認識/ペーパーバック革命/書店とは何か

7.9月14日

 ”日本百富士”(2013年8月 三一書房刊 敷島 悦朗著)は、何とか富士と呼ばれるご当地富士山ガイドブックである。

 富士山と言えば、日本中にご当地富士山がある。駿河冨士を含めて、101の富士が紹介されている。敷島悦朗氏は、1951年熊本県生まれ、現在、㈱地平線代表、NPO法人日本トレッキング協会常任理事、日本山岳ガイド協会、アウトドアーズクラブ風来坊副代表で、国内では、谷川岳、北岳、穂高岳、剱岳などの岩や沢を登攀し、海外でも、ネパールヒマラヤ・ダウラギリ3~5峰縦走をはじめ、各地の山を登攀している。富士山は、静岡県と山梨県に跨る活火山で、標高3,776mの日本最高峰の独立峰で、その優美な風貌は内外で日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えてきた。日本三名山、日本百名山、日本の地質百選に選定されており、1936年年には富士箱根伊豆国立公園に指定され、1952年には特別名勝に、2011年には史跡に、さらに2013年6月22日には関連する文化財群とともに、富士山信仰の対象と芸術の源泉の名で、日本の文化遺産としては13件目の、世界文化遺産に登録された。日本百名山とは、深田久弥氏の最も著名な山岳随筆で、1964年に新潮社から出版され、第16回読売文学賞を受賞した作品である。また、ふるさと百名山と言えば、集英社分冊百科シリーズに登場するタイトルでもある。本書では、著者の選ぶ日本中にあるご当地富士山の数々について、その魅力や登山ルートなどが写真を交えて紹介されている。

駿河富士(カラー)
おらが自慢の富士山だ!(カラー)

北海道
利尻山/羅臼岳/斜里岳/北見富士/美瑛富士/阿寒富士/羊蹄山/駒ヶ岳

東北
岩木山 青森/茂谷山 秋田/鳥海山 秋田・山形/岩手山 岩手/室根山 岩手/六角牛山 岩手/大土ケ森 宮城/吾妻小富士 福島/磐梯山 福島/片曽根山 福島

関東
生瀬富士 茨城/ 奥久慈男体山 茨城/赤沢富士 茨城/男体山 栃木/芳賀富士 栃木/谷川岳 群馬・新潟/榛名山 群馬/妙義山 群馬/四ツ又山・日暮山 群馬/弟富士山 埼玉/鹿野岡山 干葉/八丈富士 東京/三浦富士 神奈川

中部・北陸
弥彦山 新潟/妙高山 新潟/高妻山 長野・新潟/黒姫山 長野/高社山 長野/有明山 長野/虚空蔵山 長野/蓼科山 長野/戸倉山 長野/御嶽山 岐阜・長野/大室山 静岡/一岩山 静岡/村積山 愛知/尾張富士 愛知/白山 石川・岐阜・福井/中根山 岐阜/船山 岐阜/蒲田富士 岐阜/袴腰山 富山/高爪山 石川/富士写ヶ岳 石川/青葉山 福井・京都/荒島岳 福井/ 三里山 福井/野坂岳 福井/日野山 福井

近畿
三上山 滋賀/建部山 京都/弥仙山 京都/外鎌山 奈良/額井岳 奈良/尼ケ岳 三重/倶留尊山 三重・奈良/堀坂山 三重/龍門山 和歌山/真妻山 和歌山/小富士山 大阪/高城山 兵庫/笠形山 兵庫/先山 兵庫/高御位山 兵庫

中国・四国
日名倉山 岡山・兵庫/常山 岡山/城山 岡山/白滝山 広島/伯耆大山 鳥取/三瓶山 島根/十種ヶ峰 山口・島根/嵩山 山口/飯野山 香川/高鉢山 香川/高越山 徳島/高ノ森 高知/介良山 高知/伊予富士 愛媛・高知/伊予小富士 愛媛/赤星山 愛媛

九州・沖縄
可也山 福岡/貫山 福岡/唐泉山 佐賀/鬼岳 長崎/矢筈岳 大分/由布岳 大分/涌(=湧)蓋山 大分・熊本/甲佐岳 熊本/夷守岳 宮崎/飯盛山 鹿児島/開聞岳 鹿児島/本部富士 沖縄

こちらも見逃せない 百富士候補
龍ヶ岳 熊本/屋山 大分/鹿児島5富士

富士352リスト

8.9月21日

 ”暗号解読法”(1993年2月 東亜同文書院刊 グレゴリー・クラーク著)は、いわゆる暗号の解読のための本ではなく、英語を暗号のように考えて勉強する方法を紹介している。

 暗号解読法は、秘密の暗号のような英語のテープを注意深く聴き取り、辞書を使って暗号を解読しようとすることである。用意するものは辞書と、自分にとって大いに興味のある話題を英語で録音したテープだけである。グレゴリー・クラーク氏は、1936年にイギリス・ケンブリッジで生まれオーストラリア育ち、16歳でオックスフォード大学に入学し、1956年にオックスフォード大学修士課程を終了し、オーストラリア外務省に勤務した後、1965年に来日し、1976年から1994年まで上智大学経済学部教授、1990年から日本貿易振興機構アジア経済研究所開発スクール学長、1995年から2001年まで多摩大学学長、2004年から国際教養大学副学長を歴任した。日本在住の外交官・学者、多摩大学名誉学長で、専門は比較文化、国際経済、国際政治である。オーストラリア外務省で中国担当官だった当時、テープに録音した中国政府の放送を繰り返し聞き取る語学習得方法を考案し、ディープリスニング方式と名付けた。人間の潜在意識に備わる能力がなぜ強いかは、まだよく分かっていないようである。ただ、脳の非常に大きな部分が潜在意識のもとで機能していることは、分かっている。また、潜在意識下で覚えたことは、たいてい記憶に深く刻みこまれるということも、分かっている。さらに、意識下の記憶に入っていくものと潜在意識下の記憶に納まるものとの間には明確な違いがあることも、分かっている。そして、気持ちの張りというものが、脳の潜在意識の分野になんらかの関係があることも、明らかになっている。そこに、外国語を学ぶ者のだれにも必要な教訓がある。英語の勉強は学校で先生から教えてもらっているが、問題はどれだけ自発的に動機付けができたか、ということではないか。英会話の練習のときでも学ぶ姿勢はあくまでも受け身で、教わったことをなかなか覚えられなかったのではないか。ただ漫然としていただけで気持ちを深く集中させなければ、あとになってほとんど何も記憶に残っていない。どれだけ、自主的に、自発的に、積極的にやれるか、がとても重要なことであり、創意と工夫をどう展開するかがとても大切なのである。英語という挑みがいのある未知のものをわがものとするためには、そこに分け入るルートを自分で探さねばならならない。そのためには、自然に、気持ちの張りをもって潜在意識の脳を活用するようになるようにすることが大切である。ひとつの方法は、日常生活のなかでネイティヴスピーカーと一緒に生活することであるが、ほとんどの人はそのような環境に恵まれていない。そこで、秘密の暗号のような英語のテープを注意深く聴き取り、辞書を使って暗号を解読しようとすることが有効である、という。テープの英語は、あまりやさしすぎては効果が少なく、現在の英語力よりちょっと上のレベルのものがいい。潜在意識の脳と呼ばれる極めて強力な、生まれつきもっている武器を頼りに、英語を学ぶことができる。そのためには、これからなんとかこのテープの内容を理解しなければならないという試練に立ち向かうのだと、はっきり自覚する必要がある。この方法は、長い期間、著者が言葉を学ぶテクニックについて考え、試行錯誤してきた結果、もっとも有効な方法だと発見した、というものである。何度も何度もテープを聴き返し、辞書を引いて意味を探し、懸命に聴くことに集中するすことで、相手の言ったことを何もかも、すっかり覚えてしまうことができたとのことである。

9.9月28日

 ”孟子”(1984年9月 集英社刊 鈴木 修次著)は、乱世の時代に道を説くため民衆の側に立った孟子の生涯を紹介している。

 孟子は、戦国時代中国の儒学者で姓は不詳、氏は孟、諱は軻、字は子輿と言われ、生没年は未詳であるが、紀元前372年ごろに生まれ紀元前289年ごろに亡くなったとされている。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。鈴木修次氏は、1923年に東京で生まれ、東京文理科大学漢文学科卒業後、1968年に東京教育大学文学博士となり、北海道教育大学講師、東京教育大学助教授、広島大学教授、1987年名誉教授、大阪学芸大学教授を歴任して、1989年に退官し同年に没した。孟子は、孔子没後100年ほどたった頃に生まれ、幼時の話に孟母三遷や断機の教えがある。儒学の世界で、孔子は聖人であり孟子は亜聖であると言われるが、孟子は中国文化の伝統において無視できない位置を占めている。孟子が亜聖としての評価を得るまでには、じつに永い時間が流れた。孟子は、当初は永いことひとりの遊説家としてだけの価値において考えられてきた。孟子の扱いは、儒学そのものを解く書物をまとめた六芸略に取り上げられず、遊説家の著述を集めた”諸子略”のなかの儒家の一家として取り上げられたにすぎなかった。その後、宋の仁宗の頃、孟子の発言は”大学”や”中庸”において取り上げられた。この”大学””中庸”は、”論語””孟子”とともに、いわゆる”四書”として扱われるようになった。中唐になって、韓愈は孟子が聖人の道の直接の継承者であるということを最初に発言した。さらにのちには、朱子の”理学”も、”孟子”から出発していると考えることができ、陸象山の”心学”も”孟子”から出発している。その系譜は、やがて、明の王陽明にも連なってゆく。戦国時代の孟子の発想が、それほどの時間を経過させて、なおのちの人々に強い影響を与えたという事実には、改めて驚嘆させられるものがある。孟子の本質には、そういう時代を超越した先進的なひらめきがあったのである。しかし、日本においてはかなり警戒され、日本の国情にあわない危険な思想と考えられていた時代もあった。また、中国では、唯物史観を前提にして、儒学は中国的な封建思想を代表するものとして嫌われがちで、そのなかでもとくに孟子は、唯心的観念論を述べたものとして煙たがられる傾向が強いが、それはひとつの時期の流行現象にすぎないように考えられる。永い目で見た場合に、人間社会の思潮には流行というものがあり、当面軽視されがちなものか、いつかの時代には大きな位置を占めてくるという現象がつねにあるものである。孟子は、社会の評価の変動に耐えながら、今日に生き続けてきたのであった。そしてまた、これからの時代にも、生き続けてゆくであろう。

〔1〕孟子の特色
〔2〕孟子の生涯と”孟子”7篇
〔3〕仁義あるのみ-義の強調-
〔4〕浩然の気-気の説-
〔5〕大丈夫の説と独善・兼善
〔6〕民を貴しと為す-民本思想-
〔7〕王道と覇道の論
〔8〕残賊の君は誅す-革命思想-
〔9〕邪説を退く-楊・墨の排撃-
〔10〕性説と孟子心学の形成 
〔11〕500年周期説
〔12〕情熱の思想家孟子

10.平成25年10月5日

 ”スピリチュアル・ライフのすすめ”(2010年5月 文藝春秋社刊 樫尾 直樹著)は、ヨーガ、呼吸法、坐禅、経行、祈り、瞑想、ウォーキングなど、不安や悩みを根本から解決する7つのエクササイズを紹介している。

 スピリチュアルとは、黒人霊歌、白人霊歌と呼ばれてきたものの総称である。スピリチュアルを賛美歌に含めて考える考えと、賛美歌としては取り扱わない考えとがある。スピリチュアルという言葉はスピリチュアリティの形容詞にしかすぎないので、それ自体に悪い意味はない。スピリチュアリティというのは、神仏や大自然やいのちといった目に見えない存在の力が働いている、それに影響を受けているという超越的な意識のことである。樫尾直樹氏は、1963年富山県生まれ、慶應義塾大学経済学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科宗教学・宗教史学専攻博士課程修了、早稲田大学・東京外国語大学助手、フランス国立高等研究院客員教授等を経て、現在、慶応義塾大学文学部准教授である。祭り・民俗芸能や新宗教運動の人類学的調査研究等の後、日本、韓国、フランス等をフィールドとして、自らも毎日坐禅と道教瞑想を実践しながら比較瞑想論と宗教間対話論を研究し、瞑想行の一般理論構築を目指している。スピリチュアリティ文化には、日本の伝統である禅や、数千年の歴史を持つインドのヨーガや呼吸法、瞑想、そして、終末期医療で安心して死を迎えられるようにする緩和医療であるスピリチュアルケアなどもあり、その他、食・エコロジーや職場、大衆文化などの領域に横断的に広がっている。パワーストーンやパワースポット、ヒーリングやチャネリングなども、スピリチュアリティ文化の一部である。この本で一番伝えたいのは、そうした良質なスピリチュアリティ文化のエクササイズである、坐禅やヨーガの体操・呼吸法・瞑想を行なうと、心身のバランスがとれて健康になって、心が安定して自分に自信が持て、他人にも優しくなれるうえに、人生の不安がどんどん解消していく、ということである。毎日続けることでダイエットや禁煙に成功し、肌もきれいになって硬かったからだも柔らかくなった。遅かった筆も速くなり、仕事もはかどるようになった。また、ちょっとした苦境にも動じない心が養われ、自己実現できるようになり自分に自信が持てるようになった。エクササイズを生活の中にとりいれて、生き生きと充実した人生をおくることが可能である。自身が毎日行なっているエクササイズが紹介され、からだと意識にどんな影響を与えどのような効果をもたらしたのかを伝えている。

第1章 私のスピリチュアル・ライフ
第2章 エクササイズをやってみよう-基礎編-
第3章 良いスピ、悪いスピースピリチュアリティの原理と文化-
第4章 スピ原理を生活の中で使ってみよう-応用編-
第5章 スピリチュアルな生き方
おすすめパワースポット20選

11.10月11日

 ”フランス革命の肖像”(2010年5月 集英社刊 佐藤 賢一著)は、フランス革命史に登場する有名無名の人物たちの肖像画を数多く取り上げ人物評を描いている。

フランス革命では、マリー・アントワネット、ルイ十六世、ミラボー、ロベスピエール、ダントン、サン・ジュスト、マラ、ナポレオンといった主役だけではなく、一般には知られていない端役も多数存在している。そのうち、有名無名の人物たちの肖像画およそ80点が取り上げられている。佐藤賢一氏は、1968年山形県鶴岡市生まれで、東北大学大学院文学研究科で西洋史学を専攻し、1993年に第6回小説すばる新人賞を受賞し、1999年に第121回直木賞を受賞した作家である。主に、中世から近世にかけてのヨーロッパを舞台とした歴史小説を多く書いている。フランス語史料も駆使して緻密に時代背景を描写し、地の文から切れ目無く独白に入り最後にカギカッコ付きの独白で締める、という独特の文体を多用している。当時、フランスでは啓蒙思想家であるルソーや百科全書派であるヴォルテールにより、社会契約説が多くの知識人に影響を与え、それに国民が共感したことで、社会体制に対する反発が鬱積した。ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機として、フランス全土に騒乱が発生し、平民による国民議会が発足し、革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊した。絶対王政が倒れたのち、フランスは立憲王政から共和制へと展開し、1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによる政権掌握と帝政樹立に至る。この1787年の貴族の反抗からナポレオンによるクーデターまでが、一般に革命期とされている。革命によって封建的諸特権が撤廃され、近代的所有権が確立されるなど、全社会層が変革へ向かった。前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命として、 フランス革命は、世界史上、ブルジョア革命の代表的なものとされる。フランス革命が掲げた自由、平等、友愛の近代市民主義の諸原理は、その後市民社会や民主主義の土台となった。この本では、名前は見知っているけれども肖像画を見るのはたぶん初めて、という人物が大半である。このうち、前夜の肖像はいわば虚構の顔であり、外国人も多く、作家、思想家、芸術家と観念を生業とする顔ばかりである。これらに感化された人間が、国民議会の主役となる、ミラボー、ラーフアイェットらの開明派貴族である。その後、少しずつ新時代の顔も浮上し、シェイエス、デムーラン、バルナーブなどが見えてくる。そして、王の肖像が醜悪に歪み既存の権威が失墜したとき、前面に現れたのはジロンド派の明るい表情であった。品のよい楽観は希望に満ち、人間という存在には汚い部分などなく、理想ばかりでできているといわんばかりである。一方、本音で厳めし顔のジャコバン派は、生真面目ながらも攻撃的で、人間存在そのものを悲観するかの相を示している。また、クーデターを起こすには起こしてみたものの、戸惑い顔をしているのはテルミドール派である。今度は全体なにをしたものかわからないという、狼狽の相しか浮かべられないところに現れたのが、野心家ナポレオンの鋭い相貌だった。虚構、異端、逡巡、失墜、楽観、本音、悲観、狼狽と、いれかわり、たちかわりに現れた顔、顔、顔、それは顔というより、むしろ表情というべきものなのかもしれない。何故あのような結末を迎えざるをえなかったのか、最後まで答えが出ず未解決で、未完であり続けるからこそ、フランス革命は人々の興味の的であり続けるのであろう。言葉なら様々に飾り立てられるけれど、顔ばかりは嘘をつけないということであろうか。

1 前夜の肖像
2 国民議会の英雄たち
3 憲法を論じる横顔
4 王家の肖像
5 どこか呑気なジロンド派
6 喧しきコルドリエ街
7 厳めし顔のジャコバン派
8 戸惑い顔のテルミドール派

12.10月19日

 ”こわれない風景”(2006年6月 光文社刊 吉村 和敏著)は、カナダの美しい風景を追い懐かしい場所や美しい景色などを写真と文章で綴っている。

 人の暮らしはゆるやかに移り変わり、こわれない風景にそっと寄り添うという。吉村和敏氏は、1967年長野県松本市生まれ、県立田川高校卒業後、東京の印刷会社で働き、退社後、1年間のカナダ暮らしをきっかけに写真家としてデビューした。以後、東京を拠点に世界各国、国内各地を巡る旅を続けながら、意欲的な撮影活動を行っている。2003年にカナダメディア賞大賞を受賞し、2007年に写真協会賞新人賞を受賞している。写真に目覚めたのは中学3年生の夏休みで、家にあるカメラを持ち出して、友人と写真を撮り合っているうち、撮る魅力に取り憑かれたという。高校に人学した後、写真好きな友達と写真部を立ち上げた。そこでますます写真にのめり込み、部活動の時間になると、同級生と、学校周辺の風景を積極的に撮影した。安曇野やアルプスなどにも出掛けて、さまざまな風景などにカメラを向け、撮った写真は学校の暗室にこもって、自分で現像し、プリントした。高校を卒業すると東京に出て、板橋区にある小さな印刷会社に就職した。人が溢れる都会は新鮮な驚きに満ちていて、働くことも、遊ぶことも楽しかった。しかし、2年も経つとサラリーマンという生き方に疑問を抱き、何か自分でできる仕事についてみたいと考えるようになったという。真っ先に思い浮かんだのが、高校時代に好きでたまらなかった写真だった。1ヵ月後、勇気を出して仕事を辞め、カナダヘ旅立った。森と湖の国というキャッチコピーを持つカナダには、故郷の信州に似た、それ以上の風景があるような気がした。以後18年間、カナダに毎年、3、4回は足を運び、東西南北を隈無く旅して、カナダという新しい故郷を撮りつづけてきた。カナダは国土の大半を森や湖、草原が占める自然大国であり、人々は自然に寄り添うかのように、静かで心豊かな生活を営んでいる。イギリスとフランスの影響が大きいが、世界各国からの移民を積極的に受け入れて、そこには、ありとあらゆる文化か存在している。それらがすべてカナダという一つの国の中で交わり、個性を十分に留めたまま、まったく新しい文化へ生まれ変わっている。そうした風景を、心のときめきを撮影する気持ちで、ベストショットを生み出すように努力してきた。結果、カナダらしいダイナミックな自然写真より、民家や納屋、畑や道、漁村や駆など、人の暮らしの気配がとけ込んだ風景写真が多いということである。青い小屋、海辺の家、デコボコ道、雨の日の洗濯物、ルピナスの花咲く頃、孤独な木、大陸横断鉄道、夢を乗せて、カラフルな漁村、アーティスト・ショップ、シンプルライフ、歴史ある街、道の議論、渡し船、立冬のトリニティー村、曖昧な交差点、B&B、光の都市、エアメール、ライトハウス、ルーネンバーグ、陽の恵み、大陸の風、コケラ板、老人と橋、ツリー・ファーム、思い出の夕焼け空、灯台の道、メープルリーフ、トリコロールの旗、大草原、電信柱、ピックアップ、スローな旅、カナダとアメリカ、迷子石、特別な庭、大空の橋、豊かさが実る木、聖なる夜、青い世界、窓格子、ダース、が紹介されている。不思議なことに、これらは松本や安曇野の風景写真ととてもよく似ているという。

13.10月26日

 ”ハーレーダビッドソンの世界”(2009年6月 平凡社刊 打田 稔著)は、人間の五感をくすぐり心を豊かにしてくれるハーレーダビッドソンの魅力を紹介している。

 ハーレーダビッドソンは、ウィスコンシン州ミルウォーキー市に本部を置くアメリカ合衆国のオートバイ製造会社である。ハーレーダビッドソン誕生から一世紀、男たちを、さらに、女たちを、若者たちを、そして今、中高年者を、ハーレーは虜にして離さない。打田稔氏は、1953年山形県生まれ、モーターサイクルジャーナリスト、エディター、カメラマンで、オフロードバイク専門誌の編集長を12年間務め、オフロードバイク人気、エンデューロレースブームの火付け役となった。ハーレーダビッドソンは、1903年にアーサー、ウォルターのダビッドソン兄弟とウィリアム・シルヴェスター・ハーレーによって設立された。エンジン設計はハーレーが担当した。最大の特徴は、大排気量空冷OHV、V型ツインエンジンがもたらす独特の鼓動感と外観である。これに魅せられた多くのファンがいる。1970年のアメリカンーロードムービー”イージーライダー”は衝撃的であった。自由を求めてチョッパーで旅する若者、キャプテンアメリカと呼ばれるワイアットとビリー、二人の前に立ちふさがる偏見と差別、社会の体制に反逆し自由を求める若者像と、社会から見た自由への批判と偏見、羨望が複雑に渦巻いた悩めるアメリカを描いた作品だった。当時、ハーレーというオートバイは名前でしか知らなかったが、映画に出てきたチョッパーのあまりのかっこよさに興奮しっぱなしだった。いつかはハーレーに乗ってみたいという思いが、いつの間にか頭の隅にインプットされてしまった。16歳のころ、オートバイ雑誌に掲載されたヤマハトレール250DT1に一目ぼれして初めてオートバイを手に入れた。その後、雑誌業界で仕事をするようになって、1981年に中古のFXSローライダーを購入した。1982年に、雑誌の企画でカリフォルニアをハーレーダビッドソンでツーリングすることになった。ハーレーダビッドソン本社の協力を得て、まだアメリカでも発売前だった1983年式の最新モデルを、ロサンゼルスのディーラーから借りて、ラスベガス、デスバレー、ヨセミテ、サクラメント、サンフランシスコ、ロサンゼルスと、およそ10日間で2000km以上を走るツーリングを行った。なぜオートバイに1200ccもの大排気量エンジンが必要なのか理解できなかったが、広大なアメリカを走っているうちに、余裕の走りに疲労も少なく、当たりまえに感じられてきた。広大々アメリカを走りきるには当然の排気量だったのだ。ハーレーダビッドソンは、アメリカでは、日本で国産オートバイに乗るのと同じ普通サイズだったのだ。あの巨人なハーレーがアメリカで生まれた必然性が、アメリ力を走ってようやく理解できた。

はじめに 人はなぜハーレーに乗るのか
第1章 偉大なるハーレーダビッドソンの歴史と伝説
第2章 ハーレーダビッドソンの歴史を築いた歴代モデル
第3章 日本におけるハーレーダビッドソンの歴史
第4章 ハーレーダビッドソン5つのファミリー
第5章 Vツインエンジンとユニーク・メカニズム
第6章 ハーレーダビッドソン人気の秘密

14.平成25年11月2日

 ”諸国一ノ宮山歩”(2012年7月 風媒社刊 若宮 聡著)は、東海、近畿、中国、四国、九州、北陸、関東、東北まで全国にある一ノ宮とその背後にある鎮守の森を紹介している。

 一ノ宮は、平安末期から中世にかけて、民間でつけられた社格の一種である。由緒正しく最も信仰のあつい神社で、その国で第一位とされたもので、武蔵国の氷川神社、下総国の香取神宮など、各地に地名として残っている。若山聡氏は、1957年愛知県海部郡佐織町生まれ、岐阜大学大学院修了、天王文化塾塾生、鍋の会会員、元日本山岳ガイド協会認定ガイドである。通常単に一ノ宮といった場合、令制国の一ノ宮を指すことが多い。一ノ宮の次に社格が高い神社を二ノ宮、さらにその次を三ノ宮のように呼び、一部の国では四ノ宮以下が定められていた事例もある。選定基準を規定した文献資料は無いが、一定の形式があるとされている。原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。全て927年に制定された延喜式神名帳の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに与かっている。また、諸国一宮が少なくても次のようなそれぞれ次元を異にする3つの側面を持つとされている。氏人や神人などの特定の社会集団や地域社会にとっての守護神であり、一国規模の領主層や民衆にとっての政治的守護神であり、中世日本諸国にとっての国家的な守護神である。律令制において国司は任国内の諸社に神拝すると定められており、通説では一ノ宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一ノ宮などの名称が使われ続けた。現在ではすべての神社は平等とされるが、かつて一ノ宮とされた神社のほとんどが何々国一宮を名乗っている。江戸時代初期の神道者・橘三喜が、1675年から23年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を”諸国一宮巡詣記”全13巻として著し、これにより多くの人が一宮の巡拝を行うようになったという。その後、明治時代に明治政府が天皇陛下を中心とした絶対君主制を裏付けようとして、人々が崇める神社を一ノ宮として国家が格付け管理した。本書は、全国各地に存在する由緒ある神社”一ノ宮”とその御神体の山を訪ねた記録集”諸国一ノ宮山歩”をまとめたものである。著者による山の難易度と山の霊力度が、各項の巻末に入れられている。

山の難易度:
★     歴史散策のみ、ハイヒールでも可
★★    軽いハイキング、スニーカーが望ましい
★★★   一応登山(初心者向き)、軽登山靴が望ましい
★★★★  本格的な登山(初級者向き)、山の知識が必要
★★★★★ 登山中級者向き、十分な山の知識が必要

山の霊力度:
☆     数歳若返ります
☆☆    5歳若返ります
☆☆☆   10歳若返ります

一ノ宮って、何?
Ⅰ.東海地方の一ノ宮巡り
 1.愛知県の一ノ宮巡り
   ①尾張国一ノ宮 ②尾張国二ノ宮 ③尾張国三ノ宮 ④三河国一ノ宮 ⑤三河国三ノ宮
 2.岐阜県、長野県の一ノ宮巡り
   ①美濃国一ノ宮 ②美濃国二ノ宮 ③美濃国三ノ宮 ④飛騨国一ノ宮 ⑤信濃国一ノ宮 

 3.三重県の一ノ宮巡り
   ①伊勢国一ノ宮 ②伊勢国二ノ宮 ③志摩国一ノ宮 ④伊勢神宮 ⑤伊賀国一ノ宮
 4.静岡県、山梨県の一ノ宮巡り
   ①遠江国一ノ宮 ②駿河国一ノ宮 ③甲斐国一ノ宮 ④伊豆国一ノ宮
Ⅱ.近畿地方の一ノ宮巡り
 1.京阪神の一ノ宮巡り
   ①山城国一ノ宮 ②近畿地方一ノ宮 ③河内国一ノ宮 ④丹波国一ノ宮 ⑤丹後国一ノ宮
 2.奈良県、和歌山県の一ノ宮巡り
   ①大和国一ノ宮 ②紀伊国一ノ宮
 3.兵庫県の一ノ宮巡り
   ①播磨国一ノ宮 ②但馬国一ノ宮
Ⅲ.西日本の一ノ宮巡り
 1.中国地方の一ノ宮巡り
   ①安芸国一ノ宮 ②中国地方一ノ宮
 2.四国地方の一ノ宮巡り
   ①阿波国一ノ宮 ②伊予国一ノ宮 ③四国地方一ノ宮
 3.九州地方の一ノ宮巡り
   ①肥後国一ノ宮 ②九州地方一ノ宮 ③薩摩国一ノ宮
Ⅳ.北陸・関東地方の一ノ宮巡り
 1.北陸地方の一ノ宮巡り
   ①加賀国一ノ宮 ②北陸地方一ノ宮 ③越中国一ノ宮 ④越後国一ノ宮
 2.関東地方の一ノ宮巡り
   ①下野国一ノ宮 ②関東地方一ノ宮 ③上野国一ノ宮
Ⅴ.東北地方の一ノ宮巡り
 1.東北地方(陸奥国)の一ノ宮巡り
   ①東北地方の一ノ宮 ②岩代国一ノ宮 ③陸中国一ノ宮 ④津軽国一ノ宮
 2.山形県(出羽国)の一ノ宮巡り
   ①出羽国一ノ宮 ②出羽三山

15.11月9日

 ”一度は乗りたい絶景路線”(2009年9月 平凡社刊 野田 隆著)は、絶景車窓を求めて経験豊富な旅行作家がイチオシの必乗路線を紹介している。

 鉄道ファンには、乗りテツ、撮りテツ、模型テツ、収集テツなど様々な楽しみ方がある。一般の人にも受け入れやすいのは乗りテツ、すなわち鉄道旅行である。乗りテツの原点は、やはり美しい車窓風景に見とれることではないだろうか。この本は、初心者でも分かるように、乗りテツについてコンパクトにまとめたものである。野田隆氏は、1952年愛知県名古屋市生まれの旅行作家で、早稲田大学法学部卒業、早稲田大学大学院前期課程修了後、長らく都立高校の教諭を勤めていたが、2010年3月で退職、以後フリーランスで活動している。まとめ方は、地域別にするのも一案であろうが、ここでは、川、海、山といった車窓から眺められる地形別にオススメ路線を取り上げている。大方の列車は、絶景地点をあっけなく通り過ぎてしまう。見逃してしまっても後の祭りなので、路線図を中心に地図をチェックし、沿線情報をキャッチし、乗る列車をチェックすることをお勧めする。普通列車で普通の座席しがない場合は、誰も何も教えてくれないだろうから、進行方向のどちら側に座ったらいいのか、自分で調べる必要がある。指定席を予約する場合は、左右どちらの座席をゲットしたらよいか、決めなくてはならない。満席の場合も考慮して、列車にフリーラウンジのようなフリースペースがないかどうかチェックしておこう。このようなポイントを知っているかいないかで、車窓の楽しみ方はかなり変わってくる。

はじめに──絶景を求めて車窓の旅に出よう
PART1 川を楽しむ
1 新緑きらめく千曲川を遡って──飯山線
2 飛騨川、渓谷美を満喫する旅──高山本線
3 「究極のイヴェント車両」から眺める清流・吉野川──徳島線
コラム 日本三大車窓① 姨捨(篠ノ井線・長野県)
PART2 海を楽しむ
4 海と馬と昆布の車窓──日高本線
5 海辺をたどり紀伊半島ぐるり一周──紀勢本線・参宮線
6 山陰の潮騒と詩情、そして絶景──山陰本線
コラム 日本三大車窓② 真幸~矢岳(肥薩線・宮崎県&熊本県)
PART3 山を楽しむ
7 雄大、壮大、火の国横断の旅──豊肥本線
8 車窓に迫る「日本の屋根」を堪能する──中央東線・大糸線
9 山岳路線ならでは、ループ線と長大トンネルを楽しむ──上越線
コラム 日本三大車窓③ 狩勝峠(根室本線・北海道)
PART4 花を楽しむ
10 房総の春は菜の花に満ちて──いすみ鉄道
11 桜さくら、お花見は車窓から──御殿場線、東北本線
12 首都圏で紅葉狩りを楽しむ──箱根登山鉄道、JR青梅線
コラム モノレール&新交通システムは身近な穴場

16.11月16日

 ”80時間世界一周”(2012年3月 扶桑社刊 近兼 拓史著)は、格安航空会社と大手航空会社のディスカウントチケットを組み合わせて80時間で世界一周したレポートである。

 ジュール・ヴェルヌの80日間世界一周はよく知られているが、80時間世界一周とはどんなものであろうか。近兼拓史氏は、1962年神戸生まれのライターで、1985年よりフリーライターとして活動し、1990年に地元Kiss-FM神戸の設立より番組制作、脚本ライターを務め、放送分野で活動し、その後、ウィークリー・ワールド・ニュース・ジャパン編集長、ラルースパブリッシングCEO、インターナショナル・スクール・オブ・モーションピクチャーズ日本事務局長を務めている。80日間世界一周は、イギリス人資産家フィリアス・フォッグが執事のパスパルトゥーを従え、後期ビクトリア朝時代の世界を80日で一周しようと試みた波瀾万丈の冒険物語であった。それから140年経った2012年に、今度は、格安航空会社と大手航空会社の飛行機を使って、80時間で世界一周しようという試みである。茨城空港からスタートして、上海、モスクワ、デュッセルドルフ、チューリッヒ、ニューヨーク、ロサンゼルス、そして羽田へと、5カ国6都市を、機中泊中心に0泊3日半で回った。最初のコース設定と、その間のLCCチケットの確保が、とても大変だったという。時差や乗り継ぎを自分で計算して、最速乗り継ぎと最安価格を計算した。航空運賃は、底値限界値の13万円くらいであった。短い滞在時間で入出国を繰り返したため、運び屋やテロリストと間違われたこともあったという。ほとんどの時間を飛行機での移動に費やすため、肉体への負担もハンパではなかった。LCCは機内食がなく野菜が取れなかったので、サプリメントやビタミン剤は必携かも知れないという。機中泊だけでは疲労が溜まるので、途中どこかで1泊するとか、空港の仮眠施設を利用すれば、体調の維持も可能であろう。しかし、駆け足で回ったからこそわかる世界の国々の文化の違い、LCCの上手な活用法など、面白くて役に立つ内容も少なくないようである。

第1章 チケット手配はジグソーパズル!
第2章 さらばニッポン!茨城空港から上海へ
第3章 アエロフロートで、いざモスクワ!
第4章 ドイツでご先祖様に会う!
第5章 チューリッヒで路頭に迷う!
第6章 トラブル・イン・USA!

17.11月23日

 ”京都はじまり物語”(2013年9月 東京堂出版刊 森谷 尅久著)は、1200年の歴史を紡ぐ京都発祥のものごとをいろいろ紹介している。

 トイレ、映画、学校、サッカー、喫茶店などなど、その発祥はみな京都だったそうである。古都が紡ぎだす、68ものはじまりの物語が描かれている。森谷尅久氏は、1934年京都市生まれ、立命館大学大学院文学研究科修士課程修了、都市文化史、生活文化史、情報文化史を専攻、京都市歴史資料館初代館長、京都市文化財保護審議会委員、平安建都1200年記念協会理事、京都大学講師などを経て、武庫川女子大学名誉教授である。京都の文化をはじめ、祭事、歴史、風俗における第一人者である。京都は日本で最も古い伝統と歴史を受け継いできた街である。その長い歴史をひもといてゆくと、私たちの身近にあるさまざまな文化や祭事、遊び、衣食住に関わるはじまりの多くが京都にあったことに気づく。古代から歴史と文化の中心地で、天皇、公家、僧侶、武将など、各時代の最高の文化人が集まっていたのだから当然である。地理的にも、三方を山に囲まれた典型的な盆地であったため、独特の気候風土が生まれ、そこから京都ならではの野菜や特産品や独特の食文化も育まれた。そして、古い伝統を重んじながら、新しもの好きの京都人は、斬新な文化を生みだしてきた。京都は昔から、伝統的なものと相反するような若者文化の発祥地でもある。京都検定の監修者として、京都ほど歴史的遺産や伝統芸能、衣食住の文化が豊かな街はないと感じる。そこで、全国に先駆けて京都が発祥となった事物について集めてみた。古くは記録が残されておらず詳細が不明なものや、発祥の地がいくつも存在するもの、京都が発祥と断定できないものもある。それゆえ、異論を唱える方もおられるであろう。この後、新たな発見があって別の発祥説が登場するかもしれない。平安時代から現在に至るまで、伝統を重んじながら進取の気質に富んできた京都の新たな魅力を感じていただきたい、という。

1章「食」の発祥物語
 松花堂弁当/京都三大漬物-しば漬、千枚漬、すぐき漬け/肉じゃが/にしんそば/鯖寿司/いもぼう/湯葉/饅頭/みたらし団子/フランスパン/湯豆腐
2章「暮らし」の発祥物語
 トイレ/公衆トイレ/銭湯/喫茶店/中央卸売市場/町内会
3章「娯楽」の発祥物語
 九九の始まり/かるた/能楽/歌舞伎/落語/囲碁/映画/流鏑馬
4章伝統・文化の発祥物語
 茶の栽培/絵馬/葉書/華道/舞妓・芸妓、花街、お茶屋
5章 服飾文化の発祥物語
 友禅染/養蚕/西陣織・絹織物/風呂敷/扇/丹後ちりめん/学生服・セーラー服
6章「物づくり」の発祥物語
 島津製作所-気球、レントゲン、蓄電池、人体解剖模型/琵琶湖疏水、水力発電所/鉄筋コンクリート建築/貨幣鋳造所/近代医学/電車
7章 学問・スポーツの発祥物語
 学校-小学校、中学校、女学校、幼稚園、庶民のための私立学校/図書館/音楽学校/盲学校・聾唖学校/駅伝/国民体育大会/サッカー/競馬
8章 建築文化の発祥物語
 茶室/町家/書院造り/法堂/寝殿造り/能舞台/障子/神社建築

18.11月30日

 ”2014年~世界の真実”(2013年7月 ワック株式会社刊 長谷川」 慶太郎著)は、激変する世界の底流を読み解き、日本の生き残る道をやや楽観的に語っている。

アベノミクスの狙いは、日本経済を長期間覆ってきたデフレから抜け出す経済政策を成功させようというものである。同時に、戦後のシステムを見直し、制度改革を全面的に実施しようというものである。それには極めて強い決意が要求され、特に注意すべきは日本を取り巻く国際環境の激変である。長谷川慶太郎氏は、1927年京都府生まれ、大阪大学工学部を卒業し、新聞記者、証券アナリストを経て、1963年から評論活動を始め、国際経済の第一線ジャーナリストとして活躍してきた。あまり遠くない時期に中国は解体、崩壊し、東アジアでの冷戦は終結し、超大国アメリカが完全に復活し、EUは経済でドイツに支配される、という。このような激変する世界の中で、日本の生き残る道を探っている。まず、経済が復活する一番の大きいポイントは、一次産品かどうかは別にして、ものがつくれるかどうかにかかっている。資源がない日本は二次産品でなければ駄目である。日本のベースはものづくりであり、今後は特に理系の教育はこれからますます重要になっていく。高等教育は、学ばなければならない技術のレベルが高まっていて、高まった技術のレベルを身につけるには修業年限を増やす必要がある。次に、日本経済を成長させるために労使慣行を見直し、労使関係を円滑かつ機敏に変革できる新しいシステムの導入が必要である。ヨーロッパでは、皮肉なことに、労働者の保護を弱めたところが失業者を減らし、労働者保護の力が強いところは失業者を増やしている。企業が倒産すれば労働者の失業につながるので、労働組合はこのことをよく考えるべきである。次に、金融緩和やインフレターゲットはともかくとして、一番大事なのは日本の成長戦略である。何を成長分野に位置づけ、重点的にやるのか、それを見誤ると日本経済に未来はない。基本とすべきはものづくりであり、電機産業でも軽薄短小の弱電は駄目で、重厚長大の重電が生き残るというセレクションが、これから起こりそうである。家電は安いものが強いので、高性能で価格の高いものはだれも買わなくなった。耐久消費財である家電は、自動車と同様、先進国ではステイタスでなくなっているからである。実用に耐えれば十分なので、性能競争にならず価格競争になっている。技術的にパナソニック、ソニー、シャープとサムスンとで開きがあるわけではないが、日本が家電で稼ぐ時代は終わった。一方、大型の発電機などの重電は新興国が手の出せない分野である。これからは重電にウエートを置いた経営をやればよく、それができない企業はつぶれる。

第1章 アベノミクスは成功するか
第2章 世界的な大デフレの時代に何が起こるのか
第3章 超大国アメリカが復活する
第4章 中国は間違いなく崩壊する
第5章 日本の活路はどこにあるのか

19.平成25年12月7日

 ”早朝座禅-凛とした生活のすすめ”(2007年8月 詳伝社刊 山折 哲雄著)は、ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒がしい人間関係の疲れを取り豊かな人生を手に入れる最良の方法だという。

 人間関係の重要性が説かれ、家族、学校、会社、それぞれにおけるコミュニケ-ションの大切さが謳われている。しかし、それに疲れた人やうつ病の人は増え続け、自殺者は9年連続で3万人を超えている。現代に蔓延している疲労やうつに対処して、凛とした生活を送るために大切なものは何であろうか。山折哲雄氏は、1931年サンフランシスコ生まれ、岩手県出身で東北大学文学部卒業し、東北大学文学部助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センタ-教授、所長を経て、名誉教授を務めている。著者は、40代に体調不良と学会のバッシングでうつになったそうである。過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化、宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫などが、世の中に不安をもたらすモノノケとなりうつを蔓延させている。人間は、関係のなかでしか生きていくことができない。人生をふり返って、これまでどれだけ人間関係の広大な網の目によって救われてきたかしれないという。人間関係は奥行きが深くありがたいものであるが、そこには、得体の知れないワナも仕掛けられているのではないか。人間関係のねっとりしたわずらわしさによって、これまで引きずり廻され傷つき血みどろになったことがある。いっそ人間関係の網の目をばっさり断ち切って、大空めがけてはばたきたい。具体的には、人の群れから脱走し仲間の輪から遁走しひとりになること、ひとりの仕事に没頭すること、大和言葉のひとりに殉ずることである。著者の早朝坐禅の試みは、そのひとり仕事の出発点になった。はじめたときはまだ40代の盛りで、ひとりになることの醍醐味を教えてくれた。関係の網の目からたったひとりの座標点へ、その退屈きわまる時間の堆積のなかから、突然、新しい関係性がみえてくる。卑小な自己を包みこむ、広い世界がそこに存在している。視点が自在に変動し眺望がふくらみはじめ、見廻すと、見たことも聞いたこともない新しい関係の網の目が上下左右にひろがっている。このひとりの座標点を維持し強化する上で、欠かすことのできない身体技法が、姿勢を正して坐ること、呼吸を整えることであった。わずらわしい人間関係から脱走するためのこれ以上ない捷径であり、誰にも邪魔されることのない一筋道である。坐りつづけることに飽きれば立てばよい、立ちつづけることが退屈になれば歩きだせばよい。著者にとって、早朝坐禅はほとんど雑念妄想と遊びたわむれる時間になっているという。無念無想でなく雑念妄想によってこそ、思考の創造的飛躍は準備されると悟った。雑念妄想の網の目に亀裂を入れ筋道をつけることで、ひそかにひとり仕事の新展開をはかるのである。1日を4つの時間に区切って生活する。出勤前は早朝座禅と読書や執筆に充てるデカルトの時間、昼食までは次々に押し寄せる仕事の中を泳ぐイエスの時間、帰宅するまでは夢うつつの中で無難に仕事が進むブッダの時間、そして、眠りに就くまでは1日をしめくくる涅槃の時間である。夜は、さあ死んでこようと呟いて眠りにつく。

序 章 自殺者三万人という異常事態
第一章 早朝坐禅-まず、三分から始めてみる
第二章 散歩の効用-歩くことで、何が見えてくるか
第三章 心が楽になる「身体作法」-正しい姿勢が人生を変える
第四章 うつになる人、ならない人-「親子関係、人間関係」でつまずかない
第五章 夜の作法を身につける-「眠れない人」のための、夜とのつき合い方指南
終 章 無常を思って生きる-「死」を穏やかに受け容れるためのレッスン

20.12月14日

 ”チェンジはどこへ消えたか オーラをなくしたオバマの試練”(2012年12月 阪急コミュニケーションズ刊 冷泉 彰彦著)は、2008年に”チェンジ”のスローガンで全米のブームを巻き起こしたオバマ大統領が、2012年に僅差の勝利で二期目を手にしたもののオーラをなくした今後の行方を占っている。

 リーマン・ショック直後に就任したオバマ大統領は、当初、”チェンジ”のスローガンで輝いていたが、再選後、もはやその熱狂はどこにもなくなっている。オバマ大統領には、これまで、医療保険改革、ウォール街占拠デモ、ビンラディン殺害、アラブ反米デモなどなど、いろいろな節目はあったが、結局、チェンジには失敗している。冷泉彰彦氏は、1959年東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し福武書店勤務を経て、1990年に渡米しコロンビア大学大学院修了、現在、米国ニュージャージー州在住でプリンストン日本語学校高等部主任を務めている。かつての冷戦時代の米ソ二カ国が超大国だった時代を経て、これまでアメリカが世界の唯一の超大国だった。しかし、そのアメリカが弱体化し力を行使できないようになってきている。オバマ大統領がオーラをなくした背景にはこれがあると思われる。アメリカの支配が世界に届かなくなると、あちこちで別の勢力が次々と台頭してくる。中国、インド、ロシアなどがあげられる。アメリカは第二次世界大戦で本土が破壊されなかった唯一の先進国であり、その後の経済復興を牽引した。しかし、1970年代のアメリカの理想主義を掲げたベトナム戦争で泥沼に引きずり込まれて、本土は反戦ムードが蔓延し、最終的に財政赤字が膨らんでどうにもならなくなった。1971年にはドルと金との交換停止を宣言し、1973年には変動相場へと移行して、ブレトン・ウッズ体制は終了した。その後の先進国首脳会議による国際通貨協調は、アメリカの国力の低下から生まれている。もはやアメリカ一国では世界経済を支えることができなくなった、ということである。そして、時代の進展とともに新興国が台頭し、中でも、世界に影響力を及ぼすようになったのは中国である。国際協調が機能しない時代となると、コントロールを失った対立が起き、先進国と新興国の軋轢と国際間の緊張が生まれる。オバマ大統領の二期目は、こうした新しい時代背景のもとに行われている。オバマ大統領は、結局、一期目の4年間ではめぼしいチェンジはできなかった。その結果は世論にある種の落胆を感じさせたが、それでもかろうじて再選された。ロムニー候補との中道実務家同士の決戦となる中で、有権者は冷静にオバマ大統領を選択したのであった。一期目はメッセージ発信型大統領として、中長期の長いレンジを視野に入れつつ、往年のアメリカが持っていたような底抜けの理想主義を訴えていた。しかし、リビア、エジプトなどのポスト独裁政権の姿が迷走する中で、オバマ大統領の言動はアメリカの国益を第一とした、現実的、利己的なものに変わってきている。一期目に一旦は現実主義に走ったが、二期目は国民の信任を得て改めて核廃絶や国際協調のメッセージを発信するのではないかと思われたが、大統領選挙で圧勝できなかったため難しくなったと考えられる。最近は、メッセージ発信型の改革者ではなく、中道実務家としての政治姿勢を明確にしてきている。このような中で、後世に評価されるためには、とにかく、中道実務派として歴史に残る調整能力を発揮していかねばならない。その最初のハードルが、財政の崖への対処である。景気や雇用の改善で実績を出せなければ、即座に4年間をかけてのオバマ政権の終わりが始まるであろう。

1 2012年、問われた選挙戦
2 空振りに終わった「チェンジ」のメッセージ
3 医療保険改革の政治的プラスマイナス
4 オバマの経済政策、その失敗の本質とは?
5 ウォール街占拠デモという「オバマ離れ」の光景
6 なぜオバマはビンラディンを殺したのか
7 「アラブの春」を巡り、揺れ動いたオバマ
8 オバマ政権の「2期目」はどうなる?

21.12月21日

 ”よみがえる力は、どこに”(2012年6月 新潮社刊 城山 三郎著)は、講演と未発表エッセイと対談の三部から構成されている。

 講演録では、自由闊達で気骨ある男たちの肖像を通して、日本人に誇りと希望を語っている。城山三郎氏は、1927年、昭和2年、名古屋生れ、一橋大学を卒業後、愛知学芸大に奉職し、景気論等を担当し、傍ら小説を執筆し、1957年に文学界新人賞を受賞し、1958年『に直木賞を受賞し、経済小説の開拓者となった。ほかに、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞、朝日賞を受賞した。本書は、講演録、「そうか君はもういないのか」の草稿の一部、作家吉村昭氏との対談の三部構成である。本書のタイトルにもなった第一部の”よみがえる力は、どこに”は、魅力ある人間の育て方、ふたりの若き兵士たち、人を喜ばせるためなら、自分だけの時計を持て、一日仕事をしないと自分に見放される、軟着陸をしない人生、人間は負けるように造られていない、一期は夢よただ狂へ、という構成である。組織を強い人間の力で乗り越えていくためにはどうすればいいかについて、土光敏夫氏、本田宗一郎氏、石田禮助氏、田中正造氏、大岡昇平氏などのエピソードを交え、人間の魅力や生き方について語っている。年齢はただの番号に過ぎず、自分も若い一兵卒と思ってがんばることや、いかに相手を喜ばせるか、損得抜きでそうできるか、ということを語っている。第二部の”君のいない一日が、また始まる-そうかもう君はいないのか”では、2000年に亡くなった妻、容子さんのいろいろな思い出をさらっと書いている。神経質な夫とおおらかな妻という関係がユーモア交じりにつづられ、失われた切なさがしみじみと伝わってくる。ペンネームの“城山三郎”は、城山八幡宮に3月に引っ越して来たことから付けた、という。第三部の”同い歳の戦友と語る-吉村昭氏との対話集成”では、あの戦争とこの半世紀の日本人、語りつぐべきもの-藤沢周平さんのことなど、きみの流儀ぼくの流儀という内容である。二人とも昭和2年生まれで、ひたすら自分のテーマを追い続けた作家であった。昭和2年生まれには、ほかに、藤沢周平氏、結城昌治氏、北杜夫氏などがいる。城山氏は、徴兵検査を受け、海軍に入隊したもののわずか3ヶ月で終戦となった、吉村氏は、結核を二度やって徴兵検査は受けたものの、兵士を経験しないまま10日後に終戦となった。ここでは戦争にまつわる話が、いろいろと語られている。そして、戦争中にはいろいろな生き方があったが、いま振り返って、心をひかれる人たちもいた。しかし、あの戦争を書くときに、戦争を美化したくない、という。

よみがえる力は、どこに
君のいない一日が、また始まる
同い歳の戦友と語るー吉村昭氏との対話集成

22.12月28日

 2013年もあと少し

 今年も1年があっと言う間に過ぎ去ろうとしている。2013年は巳年で、十二支での巳は植物に種子ができはじめる時期とされていた。東北地方では梅雨明けが遅れ、関東地方では早期に梅雨が明けたものの7月後半には一時的に戻り梅雨となり、時期により気温の差が激しくなった。多雨や少雨といった地域の差が見られたり、局地的な豪雨が発生するなど地域による偏りも大きくなった。夏には高知県四万十市でこれまでの国内最高気温を更新し41.0°Cを記録し、各地で記録的な猛暑となった。9月に入ると大気の状態が不安定となり、竜巻による被害が北関東で続発した。台風も猛威を振るった。台風26号や30号で、伊豆大島とフィリピンに甚大な被害が及んだ。そして、社会では今年もいろいろなことがあった。伊勢神宮では第62回式年遷宮、出雲大社では60年ぶりの遷宮が行われた。日本文化の中で象徴的な存在である富士山が世界文化遺産に登録され、日本人の伝統的な食文化として和食が無形文化遺産に登録された。スポーツ関連では、東京が2020年夏季オリンピックの開催都市に決定した。滝川クリステルの、お・も・て・な・しが記憶に残った。また、東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝で、東北が歓喜の輪に包まれた。しかし、何といっても、経済立国の日本の行方は今後の産業界の将来にかかっている。自民党政権の第2次安倍内閣は、アベノミクスへの期待感などから高い支持率をキープした。アベノミクスは、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定し、これが達成されるまで日本銀行法改正も視野に、大胆な金融緩和措置を講ずるという金融政策である。この大胆な金融政策と合わせて、機動的な財政政策と民間投資を喚起する成長戦略につなげようとしている。健康長寿社会から創造される成長産業、全員参加の成長戦略、世界に勝てる若者、女性が輝く日本といった目標が、この先どうなっていくのか注目される。

23.平成26年1月4日

 ”日野原重明100歳の金言”(2012年2月 ダイヤモンド社刊 日野原 重明著)は、100歳の現役医師が贈る人生についての金言集である。

 100歳以上の長寿者は百寿者、英語では、centenarians=セントナリアンと呼ばれる。日本では、100歳は百寿、紀寿、108歳は茶寿、不枠、111歳は皇寿、川寿、120歳は大還暦、昔寿と呼ばれる。日野原重明氏は1911年山口県生まれ、1937年京都帝国大学医学部卒業、同大学院修了、1941年聖路加国際病院内科医として赴任、1951年米国エモリー大学に留学、現在も現役医師として働きつつ、聖路加国際病院理事長・同名誉院長、ほかの数々の要職を兼務し、2005年には文化勲章を受章している。2011年に100歳になり、本書は100歳が紡ぐ人生哲学の集大成となっている。明治・大正・昭和・平成と、100年の時は瞬く間に過ぎたという。10歳のときに芽生えた医師になる夢をかなえ、臨床医となってから75年も経ち、その間、2度の大病や太平洋戦争、よど号ハイジャック事件、サリン事件など、いのちを脅かされる事件に幾度も遭遇し、ときには絶望の底に陥り悩み苦しんだが、その試練を、その都度乗り越えてきた。そして、2011年3月11日の東日本の大震災と福島の原発事故を目にし、いてもたってもいられなくなり、翌々月の5月5日に宮城県南三陸町を訪れたという。被災者の方々の手を握り、少しでも私の元気を分けてあげることができたらと思ったそうである。”100歳はゴールではなく関所だよ”という俳句を詠み、100歳は単なる通過点にすぎず、次の関所に向かい、与えられたいのちに感謝しつつ、これから先の人生を歩んでいきたいという。朝はかならずやって来る。日本が復興を遂げた大きな原動力、それは、日本人一人ひとりが希望を失わずに生きてきたことである。今こそ、希望をもたなければならない。希望は、計り知れない力を生み出す。

・はじめに 朝はかならず来る
・自分の道を歩むために
 いのちは時間/havingよりbeing/幸福は心のなかに/大切なものは見えない/3つの「V」をもつ
・生きがいをもつために
 習慣がつくる/いつでも人生の現役/達成感が生きがい/良きモデルを見つける/コミットメントを果たす
・人との絆をつくるために
 受けた恩は別の人へ/家族の輪を維持する/会話は「ラ」音で/夫婦の強い絆/笑顔は最高のお返し
・病に屈しないために
 病気は贈り物/ストレスは鉛の棒/音楽は癒し/幸せの種を育む/良き医師を選ぶ
・苦難に見舞われたときに
 重荷のまわりをめぐる/分かち合う/耐えて待つ/困難と闘い勝利する/平静の心をもつ
・仕事で成長するために
 努力と奉仕は人の2倍/後悔から人は学べる/今に全力投球/大きな円の一部に/プロフェッションの精神
・健康で長生きするために
 長寿の鍵”カロリー”/若さの秘訣は「創める」/30歳の体型を保つ/健康感をもつ/運動が若返りをかなえる
・毎日を新鮮に生きるために
 幸せの敷居は低く/生活は質素に志は高く/災いはプラスに転ず/生き方に温かさを/幸せは精神の豊かさ
・「ありがとう」と死ねるために
 有終の美を飾る/いのちは長さより質/死は生き方を表す/人のために時間を使う/ユーモアの力
・未来への道をつなぐために
 いのちと死の教育/相手を恕す/平和をつくる/老人が未来をつなぐ/家庭は学びの場
・おわりに 運命はデザインできる

24.1月11日

 ”ドラッカー 20世紀を生きて”(2005年8月 日本経済新聞社刊 ピーター・ドラッカー著/牧野 洋訳)は、20世紀を代表する知の巨人ドラッカー初の自伝で、日本経済新聞の私の履歴書をベースにまとめたものである。

 多くの著名人と身近に接した少年時代、ナチス政権下の記者稼業、人生を決定づけたGMとの運命的な出合いなど、波乱に満ちた人生を振り返っている。ピーター・ドラッカー氏は、1909年にウィーンで生まれ、1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得、その後、ナチスドイツに追われ、1939年に米国に移住し、GMのコンサルタントを引き受けるなど、現代経営学あるいはマネジメントの発明者と評価されている。1949年から22年間ニューヨーク大学教授、1971年から2005年に死去するまでクレアモント大学院ドラッカースクール教授を務めた。牧野洋氏は、1960年に東京で生まれ、1983年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、日本経済新聞社に入社し、英文日経記者を務め、1988年にコロンビア大学大学院を卒業し、証券部記者などを経て、チューリヒ、ニューヨークに駐在し、1999年に帰国し、日経ビジネス編集委員、2003年に日本経済新聞編集委員を務め、2007年に独立してフリーランスになった。ドラッカー自伝には”わが軌跡”(旧”傍観者の時代”)があるが、本書は2005年2月に日本経済新聞の紙面上で27回連載した”私の履歴書”をベースにしたもう1つの自伝である。記事の掲載を前に、訳者が2004年8月から9月まで5回、2005年1月に1回、ドラッカー宅で実際にインタビューを行い、その間、数十通の手紙を出し、記事の事実確認などを行った。著者は、文筆家の人生が意味あることとして注目されることはめったにない、注目されるのは著作だけである、という。生まれ故郷のオーストリアを1927年に離れ、続いてドイツ、英国、米国へ移り住んだ。その過程で、生活費を得るために、1927年から貿易商社の見習い事務員、1929年から証券会社の社員、1930年から経済・海外ニュース担当の新聞記者、1934年からファンドマネジャー、1937年から複数の英国日刊紙に寄稿する米国駐在記者、1939年から大学教授を経験した。それぞれの職場では、解雇されない程度に最低限の実績を上げることができたが、社会人として最初に職を得た時から、就職するということについては、主に自分の著作活動を支えるための手段と位置づけてきた、という。マネジメントの分野で、GE、GM、IBM、インテル、マッキンゼー、ソニー、松下、セブン&アイ、NECなどの一流企業にいたるまで、直接・間接的に経営変革に多くの功績を残した。また、鋭い洞察力で、経済・社会・文明の潮流を読み取り、ソ連崩壊や、知識社会、高齢化社会到来の予言し、当時の日本の可能性を見抜いた。そのため、未来学者と呼ばれたこともあったが、自分では社会生態学者を名乗った。

1 基本は文筆家――95歳でも現役
2 生まれは帝都ウィーン――4歳の夏に第1次世界大戦
3 世界で最も優しい父――シュンペーターに救いの手
4 フロイトと握手する――顔広い両親
5 最高の教師との出会い――8歳で学ぶ喜び知る
6 赤旗デモに誘われ先頭に――「場違い」と感じる
7 退屈なウィーンを脱出――図書館で「大学教育」
8 大恐慌で記者の道――初日から編集長に怒鳴られる
9 ヒトラーに直接取材――ファシズムの本質見る
10 ナチス突撃隊――心臓が止まる思い
11 ドリスとの再会――人生最高の瞬間
12 大盛況だったケインズの講義――経済学に興味なし
13 “大戦前夜”の新婚旅行――新生活はニューヨーク
14 ワシントン・ポスト紙と契約――フリーランスとして第1歩
15 処女作にチャーチルの評価――独ソ結託を見通す
16 雑誌王に学んだ60日――IBM創業者とやり合う
17 青天の霹靂――GMからの誘い
18 戦時下の工場現場も取材――「GMの頭脳」と懇意に
19 特異な経営者スローン――秘密兵器は補聴器
20 『会社という概念』に集中砲火――スローンに救われる
21 分権制ブーム――フォードとGEが採用
22 「知識労働者」を生涯のテーマに――トヨタに協力
23 「経営コンサルタント」を考案――マッキンゼーに持ち込む
24 またしても幸運の女神――NY大の初代経営学部長に
25 デミングと授業を担当――教室はプール
26 日本画見たさに初来日――「経済大国になる」と確信
27 NPOに傾注――わが人生に「引退」なし
付録 ドラッカーの人生年表/ドラッカーの著作一覧/ドラッカーの米新聞・雑誌への主な寄稿記事・論文一覧

25.1月18日

 ”ひとり歩き”(2013年3月 幻戯書房刊 マイク・モラスキー著)は、長年、日本で暮らす大学教授のガイジンのアメリカ、中国、韓国、台湾、日本についての徒然なるエッセイ集である。

 それぞれの国の人や町、脇道、酒場、電車、飛行機、バス、タクシーなど、身近すぎて気づかなかったきらめく光景に出会うことができる。マイク・モラスキー氏は、1956年アメリカ・セントルイス生まれ、シカゴ大学大学院東アジア言語文明研究科博士課程修了、学術博士で、1970年代から十数年日本に滞在し、日本文化を研究し、ミネソタ大学、一橋大学教授を歴任し、2013年秋学期より早稲田大学国際学術院教授を務めている。専攻は戦後日本文化史で、特に日本・沖縄戦後文学およびジャズ音楽の受容史を中心に研究し、2006年にサントリー学芸賞を受賞した。ほかに、エッセイスト、ジャズ・ピアニストという顔も持っている。このエッセイ集は、自身の日常体験やひとり旅を中心とするエッセイ集で、数十年にわたる日米両国での生活や、韓国、台湾、中国でのひとり旅の体験がもとになっている。どこかの町をぷらぷら、ひとりで歩きまわりながら、目にした光景や耳にした音、あるいは旅先で巻き込まれた事件などが中心になっている。昔から間=ま、という微妙な位置が居心地よく感じられ、ひとり歩きやひとり旅も好きだったので、周囲の人びとや光景を注意深く観察することが知らず知らずの内に身についたそうである。ひとり歩きは寂しいときもあるが、それよりも刺激に富んだ楽しい時間のほうがはるかに多いとのことである。ひとりだからこそ周囲の人と会話を交わす機会が増え、いろいろな出会いに恵まれることもある。気ままに道を選び、そのときの気分や体調に合わせてコースやペースを調整し、予定変更はいつでも自由で、疲れたら休めばいいのである。本書は、アメリカ、東アジア、日本の3部構成で、第1部はセントルイスの少年時代の思い出から半年ほど前までの長い年月にわたっている。第1章は中西部、第2章は北東部、カリフォルニア州、南部が舞台となっている。第2部は東アジアの3か国を旅した体験である。第3章は1981年の韓国、第4章の台北、第5章の上海は2011年の話で、上海は東日本大震災の前夜であった。第3部は日本で、第6章は全国放浪、第7章は東京周辺がもとになっている。長年にわたり、アメリカと日本で暮らし、間=ま、をさすらってきたひとりの日常体験、旅先での出来事や雑考がまとめられている。

1 北米
 第1章 山も海もない土地
 第2章 東海岸、西海岸、南部地方
2 東アジア
 第3章 戒厳令下の韓国
 第4章 台北狂騒日記
 第5章 上海ぷらぷら日記
3 日本列島放浪記
 第6章 島流し
 第7章 東京周辺

26.1月25日

 ”すばる望遠鏡の宇宙”(2007年7月 岩波書店刊 海部宣男著/宮下暁彦写真)は、すばる望遠鏡によって明らかになってきた銀河の果てと太陽系外惑星の姿を多数のカラー写真とともに描き出している。

 1999年に400億円掛けて設置されたすばる望遠鏡について、当初の建設から実際の運用までの経過と結果が記述されている。海部宣男氏は、1943年生まれ、1966年東京大学教養学部基礎科学科卒業、現在、放送大学教授、国立天文台名誉教授を務めている。宮下曉彦氏は、1945年長野県生まれ、1975年東京理科大学卒業、現在、国立天文台主任研究技師を務めている。国立天文台は日本全国の天文学者の研究を支援する大学共同利用機関で、第一級の研究、観測施設を建設、運用し、国際的な研究協力の拠点としても活動している。すばる望遠鏡は国立天文台が運営する10施設の一つで、光学赤外線天文学、観測システム研究系、岡山天体物理観測所、天文学データ解析計算センター、天文機器開発実験センター、天文情報公開センターなどと密接な関係がある。広大な宇宙では、無数の恒星が生まれ、飛散し、渦巻く銀河は群れて衝突し、全体として急激な膨張を続け、果てしなく変化し続けている。人類はいつの時代にも見えるかぎりの宇宙を観ようと、その時代の驚異ともなった新しい装置を作り出してきた。現在の天文学は130 億光年の彼方を観測し、膨張開始から間もない宇宙のあけぼのの時代をとらえようとしている。1980年代に能動工学によって巨大望遠鏡の時代が開かれ、すばる望遠鏡はこれまで分からなかった銀河の果てや太陽系外惑星の姿を明らかにしてきた。すばる望遠鏡は、標高4,200mのハワイ島マウナケア山頂にある。主焦点、カセグレン焦点、2つのナスミス焦点という、4つの焦点を持っていて、高さ22.2m、最大幅 27.2m、重さ全回転部分555t、最大駆動速度0.5 度角/秒である。主反射鏡は一枚鏡で、有効口径8.2m、厚さ20cm、重さ22.8tで、材質はULEガラス、研磨精度は平均誤差0.012mm、焦点距離は15mである。山麓施設には、実験室、機械工作室、図書室、計算機室などがあり、120人程度のスタッフが望遠鏡の運用から天文学の研究や次世代の観測装置開発など広範囲の業務に携わっている。本書では、機器製作、現地建設、運用後の天体などについて、多数のカラー写真を用いて詳しく説明されている。写真はびっくりするほど綺麗なものが多く、宇宙の神秘を味わうことができる。

第1章 未知への航海―宇宙へ船出したすばる望遠鏡―
第2章 宇宙に咲く花―すばるが観た宇宙の美しさ、不思議さ―
第3章 極限に挑む―技術の限界を追ったすばる望遠鏡―
第4章 マウナケアは星の天国である―ハワイ島の自然と人々と宇宙―
第5章 ビッグ・バンに迫る―この世界はどのようにして始まったか―
第6章 ひろがる太陽系―身近な宇宙にも新発見が満ちている―
第7章 太陽系外の惑星と生命―科学の夢はどこまで―

27.平成26年2月1日

 ”ライフログ入門”(2011年1月 東洋経済新報社刊 美崎 薫著)は、クラウド技術の進展とともに新たなキーワードとして注目されるライフログを初歩から解説している。

 GPS機能のついたスマートフォンや携帯電話の普及により、場所と時間、距離などの簡単な記録が可能になった。また、音楽をパソコンやスマートフォンで再生している場合、再生した曲の嗜好や回数などは自動的に記録される場合がある。これらをクラウドのライフログサービスを活用することによって人生を記録し、整理・検索し、活用するライフログを利用すれば、生活は便利になり、生産性も上がるという。美崎薫氏は、未来生活デザイナーにして、世界が注目する記憶する住宅プロデューサーで、現実化した未来住宅を超え、記憶に近づくためのツールを作り出し、過去と未来の統合をめざしている。必要なものは作ることをモットーに、住宅、書斎、机を始め、多数のハードウェア、ソフトウェアの開発をプロデュースしている。ライフログとは、人間の生活を長期間に渡りデジタルデータとして記録すること、またその記録自体を指す。広義には、個人の起床時間や睡眠時間、移動場所や移動距離、食事のデータ、読書経歴や音楽再生の記録なども含まれている。ユーザが自分で操作して記録する手動記録と,外部デバイスにより自動的に記録する自動記録がある。手動記録は、詳細で自由度の高い記録が可能であり、ブログやメモなどのように記録にユーザの主観的意見を含めることができるが、ユーザ操作を伴うため記録負担が大きい。主なライフログサービスには、Life-X、FoodLog、読書ログ、食べログ、地図ログ、ブクログ、ねむログ、gooからだログ、ゲームメーター、profile passport、読書メーターなどがある。自動記録は、ウェアラブルデバイスを装着して、画像・動画・音声・位置情報といったデータを常時記録するというものである。ユーザの記録負担は小さいが、取得されるデータが限定されており、客観的なデータしか取得することができない。これらのライフログにより、凡庸な記録の山をヴィンテージにかえることができ、ログが予測し人が考える作業をサポートするようになるという。本書は、ライフログを実践するためのツールを紹介するとともに、人生をデジタルに記録することによってどんなメリットがあり、それが社会をどのように変えていくのかを解説している。誰にとっても人生はたった一度きりであるが、自分が見たこと、聞いたこと、食べたことなどの個別の体験を積極的に記録している人はまだ少数である。しかし、ライフログを残していれば、大切な思い出や、自分だけの気づきを風化させることなく、後から人生を再体験することが可能である。自分だけの感動と発見を積み上げることは、自分を深く知ることにもつながり、成長のエンジンを生み出すという。

Chapter1 イントロダクション
Chapter2 ライフログの可能性
Chapter3 ライフログのある生活
Chapter4 さまざまなライフログシステム
Chapter5 ライフログで人生は変わる

28.2月8日

 ”「分かち合い」の経済学”(2010年4月 岩波書店刊 神野 直彦著)は、危機の時代を克服するには他者の痛みを社会全体で分かち合う新しい経済システムの構築が急務だという。

 経済危機が世界を覆い、不況にあえぐ日本でも失業者が増大している。そこで、日本の産業構造や社会保障のあり方を検証し、誰もが人間らしく働き生活できる社会を具体的に提案しようとしている。神野直彦氏は、1946年埼玉県生まれ、1981年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了、大阪市立大学助教授、東京大学教授、関西学院大学教授などを経て、東京大学名誉教授、地方財政審議会会長を歴任している。スウェーデン語に”オムソーリ”という言葉があり、社会サービスを意味しているが、その原義は”悲しみの分かち合い”である。オムソーリは、”悲しみを分かち合い””優しさを与え合い”ながら生きている、スウェーデン社会の秘密を説き明かす言葉だといってもいいすぎではない。スウェーデンを旅すると、豊かな自然に抱かれ心優しき人間の絆の温もりに包まれ心安らかに生きることのできた、幼き頃の日本社会に出会うことができる。スウェーデン人もヨーロッパの日本人といわれることを誇りとしているとのことで、このオムソーリという言葉を導き星に日本社会のヴィジョンを描こうとしている。このことは、失われた時を求めた古き良き時代への回帰というノスタルジアではない。危機という歴史の画期に生を受けた者は、危機の時代における歴史的責任を果たさなければならない。危機の時代の歴史的責任を果たそうとすれば、危機から出口へと向かうヴィジョンを描くことが必要である。危機の迷宮から脱出するために、アリアドネの女神が授けた糸玉は、分かち合いだということができる。アリアドネの女神は、クレーテー王ミーノースと妃パーシパエーの間の娘で、テーセウスがクレーテーの迷宮より脱出する手助けをしたことで知られている。そこで、未来へのチャートを描き歴史的責任を果すためにアリアドネの女神から糸玉を求めようとすれば、過去の歴史の教訓に学ぶしかない。現在の危機と同様の危機を歴史の高みから見出すと、1929年の世界恐慌が見えてくる。この世界恐慌からの回復過程をみれば、生き残りをかけた競争が煽られ、結局は世界大戦という破局を招いたのであった。しかし、この世界恐慌という絶望の海に浮かぶ希望の島と讃えられたスウェーデンは、破局の圏外にあった。その秘密は、国民の家という分かち合いのヴィジョンにあった。競争は絶望を分かち合いは希望をもたらす、といってもいいすぎではない。分かち合いは能動的な希望であり、孤立した人間が行動しなければ可能とはならない。しかも、分かち合いは指導者によって創り出されるものではなく、社会のすべての構成員の行動を必要とする。危機を乗り越え人間の歴史的責任を果す鍵は、分かち合いにある。構造改革を推進させてきた日本では、社会保障も大幅に削られ、自己責任の名のもとに、格差や貧困が広がっている。しかも、競争による成長を目指して構造改革を進めてきたはずなのに、経済も大幅に低迷し他国との競争力も著しく衰退させている。そうした日本において、他者の痛みを社会で引き受け、一人の幸せを社会の幸せとして分かち合う発想がいまこそ必要である。日本の閉塞状況の要因を探り、分かち合いによる新しい経済システムを具体的に提案している。

第1章 なぜ、いま「分かち合い」なのか
第2章 「危機の時代」が意味すること―歴史の教訓に学ぶ
第3章 失われる人間らしい暮らし―格差・貧困に苦悩する日本
第4章 「分かち合い」という発想―新しい社会をどう構想するか
第5章 いま財政の使命を問う
第6章 人間として、人間のために働くこと
第7章 新しき「分かち合い」の時代へ―知識社会へ向けて

29.2月15日

 ソチオリンピック

 今年の日本の冬は、各地で観測史上最大という積雪量が記録されている。そのような中で、2014年冬季オリンピックが、黒海に面したソチ・オリンピックパークと西カフカース山脈のソチ国立公園内で、2014年2月8日より開催されている。近代オリンピックは、国際オリンピック委員会が開催する世界的なスポーツ大会であり、夏季大会と冬季大会の各大会が4年に1度、2年ずらして開催されている。夏季リンピック第1回は、1896年にアテネで開催され、世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブランで開催された。1994年以降は、西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催される。冬季オリンピックが始まった当初は、夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから、1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された。そして、1994年のリレハンメル大会より、夏季大会と冬季大会が2年おきに交互開催するようになった。ソチは、ロシア連邦内のクラスノダール地方にあり、市域は3,502k㎡、人口は445,209人である。ロシア随一の保養地であり、黒海に面し、アブハジアとの国境に近い。6世紀から11世紀にかけて、グルジアのコルキス王国やアブハジアでラジカ王国から独立したアブハジア王国に属し、アドレル岬などに多くの教会が作られ、11世紀から15世紀はグルジア王国に属した。キリスト教徒の入植地はハザールなどテュルク系遊牧民に何度も打ち壊されてきた。15世紀からはオスマン帝国に領有された。その後、カフカース戦争と露土戦争の結果、海岸線地帯は1829年にロシアに割譲された。ロシア革命期には白軍、ボリシェヴィキ、グルジア民主共和国の3勢力で激しい争奪戦の舞台となった。スターリン政権時代はソ連最大のリゾート都市に成長し、多くのスターリン様式の豪華建造物が建てられた。ニキータ・フルシチョフ政権時代にクリミア半島がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移されると、ソチはさらに隆盛した。ウラジーミル・プーチン政権下でさらなる投資が行われた。2007年にシウダ・デ・グアテマラで開催されたIOC総会で、2014年冬季オリンピックの開催都市に決定した。ロシアでの冬季オリンピックは、ロシア帝国・ソビエト連邦時代も含めて史上初である。日本選手団は、カーリング女子の小笠原歩が旗手として先頭を行進した。選手団は248人と、冬季五輪の海外派遣で過去最多となった。選手は男子48人、女子65人の計113人で、冬季では初めて女子が上回った。チーム最年長は、ノルディックスキー・ジャンプ男子で冬季五輪史上最多7度目の出場となる41歳の葛西紀明、最年少はスノーボード男子ハーフパイプで15歳の平野歩夢である。日本人選手の大いなる活躍が期待される。なお、1988年、ソウル大会より以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催が、おこなわれている。

30.2月22日

 ”若き日の思い出”(2005年6月 岩波書店刊 彌永 昌吉著)は、執筆当時、数えで100歳になる、日本の数学界の基礎を築いた数学者による半生記である。

 1906年に東京府で生れてからの半生について、両親のこと、物心のつくころ、数学との出会い、東京府立四中への入学、一高での生活、数学者への道、三年間の滞欧、そして帰国後のことが瑞々しく綴られている。それぞれの項目の最初に、当時の思い出の写真が掲載されている。弥永昌吉氏は、東京大学理学部数学科を卒業し、若くして欧州に留学し、そこで得た第一線の数学者との交流や研究・教育の多大な業績で数学界の隆盛に大きく貢献した。専門は整数論で、単項化や分岐理論など類体論の発展に多大な寄与をした。この本の執筆の動機は、2001年1月1日に奥様の澄子さんが亡くなり、そのとき、自伝の執筆をすすめられたことであった。本籍地は東京都港区高輪で、ここに1923年から1945年まで両親と一緒に住んでいた。父親は福岡県八女郡八幡村の出身で、一高を経て東大法学部を卒業し日本銀行に勤めていた。母親は島根県松江市出身で、当時、叔父が東大を出て日銀に勤めていた関係で知り合い結婚した、という。著者は1906年4月2日に本郷の東大病院の産科病室で生まれ弥生町の小さな借家で暮らし、翌年、父親の転任に伴って広島に移って、翌年、海外に派遣となったときは母親の祖父母の住む須磨に家を借りて暮らした。帰国してからは本店勤務となり、牛込弁天町の家を借りて暮らした。1912年に愛日小学校に入学したが、その後も、父親が大阪、松本などに勤務したため、小学校時代も各地で過ごした。その後、東京府立第四中学校に入学し、のち東大応用数学科教授となる犬井鉄郎らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高入学となった。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、ポアンカレの著書などに親しんだ。東京帝國大学理学部数学科では、高木貞治に師事して主に類体論について学び、1929年卒業。ドイツとフランスに留学した。1936年に東京大学理学博士となり、1942年から1967年まで東大理学部教授を、1977年まで学習院大学教授を務めた。1970年にフィールズ賞選考委員となり、1976年に勲二等旭日重光章を1980年にレジオンドヌール勲章を受章した。1978年に、学士院会員に選出された。主な弟子に、義弟でもあるフィールズ賞受賞者の小平邦彦、第一回ガウス賞受賞者の伊藤清、岩澤理論の岩澤健吉、佐藤の超関数で知られる佐藤幹夫などがいる。幾何や解析など、自分の専門外の分野でも優れた弟子を数多く育てた。2006年6月1日、老衰のため満100歳にて死去した。最晩年に至るまで、著書や論文を著した。最後に、著者による“あとがき”、三男による“あとがきのあとがき”があるほか、付録として“類体論と私”が掲載されている。

31.平成26年3月1日

 ”2045年問題”(2013年1月 廣済堂出版刊 松田 卓也著)は、2045年に意識を備えたコンピュータが人類を支配するというSF映画の世界が現実になるかもしれないという。

 レイ・カ-ツワイルは著書の”ポスト・ヒューマン誕生”の中で、コンピュータが人類の知性を超えるときについて言及している。映画”マトリックス”などで描かれてきたSFの世界が、現実になるかもしれないのである。松田卓也氏は、1943年生まれの宇宙物理学者・理学博士で、神戸大学名誉教授、NPO法人あいんしゅたいん副理事長、中之島科学研究所研究員である。1970年に京都大学大学院理学研究科物理第二専攻博士課程を修了し、京都大学工学部航空工学科助教授、英国ウェールズ大学ユニバーシティ・カレッジ・カーディフ応用数学天文学教室客員教授、神戸大学理学部地球惑星科学科教授、国立天文台客員教授、日本天文学会理事長などを歴任している。レイ・カーツワイルは、1948年生まれの、アメリカの発明家、実業家、フューチャリストである。特に、技術的特異点に関する著述で知られている。マサチューセッツ工科大学在学中20歳のとき起業し、諸大学のデータベースを構築して大学選択のプログラムを作った。1974年にカーツワイル・コンピューター・プロダクツ社を設立し、以後数々の発明を世に送り出してきて、アメリカ発明家殿堂に加えられている。技術的特異点は、強い人工知能や人間の知能増幅が可能となったとき出現する。具体的には2045年にそこに達すると主張しており、これがいわゆる2045年問題である。フューチャリストらによれば、特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは人類ではなく強い人工知能やポスト・ヒューマンであり、これまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなると考えられている。意識を解放することで、人類の科学技術の進展が生物学的限界を超えて加速すると予言した。1章では特異点の概念について解説し、2章ではスーパー・コンピュータの実力について論じ、3章ではコンピュータのインターフェイスの最先端を概括し、4章では米国防省やEUが人工知能開発に巨額予算を投じる現状を紹介し意識を持つコンピュータは誕生するかについて論じ、5章では特異点後の人類の未来について展望し、6章ではITによる大量失業の可能性についても言及し、7章では2045年問題が欧米で注目されている背景を解説し人類の文明が繁栄をながらえるための方策について論じている。コンピュータの話はつい級数的なものになるが、はたしてどうなのであろうか。

1章 コンピュータが人間を超える日――技術的特異点とは何か
2章 スーパー・コンピュータの実力――処理速度の進化
3章 インターフェイスの最先端――人体と直結する技術
4章 人工知能開発の最前線――意識をもつコンピュータは誕生するか
5章 コンピュータと人類の未来──技術的特異点後の世界
6章 コンピュータが仕事を奪う――大失業時代の予兆
7章 人工知能開発の真意――コンピュータは人類を救えるか

32.3月8日

 ”ある明治リベラリストの記録”(2002年8月 中央公論新社刊 高坂 盛彦著)は、孤高の戦闘者であったリベラリスト竹越與三郎の生涯を記録している。

 竹越與三郎は、三叉と号して、記者としてまた歴史家として知られ、政治家となっても筆を離さず、つねに時事を説き歴史を語り、独自の文明論、文明史観を論じ日本の発展を主張し続けた。しかし、今日ほとんど忘れられた存在となっている。高坂盛彦氏は、1937年東京都出身で、1960年東京大学法学部を卒業し、日本国有鉄道勤務を経て、1997年に東京大学法学部に学士入学し、日本政治史・政治思想史を専攻した。  竹越與三郎は、明治中期以後、大正、昭和前期までの三代において、歴史家として、批評家およびジャーナリストとして、さらに政治家として、広く世に知られた人であった。著者は、大学時代、丸山真男の論文を読んで、自由民権運動における地方豪農層の役割を説いた竹越與三郎の名をはじめて知った、という。 卒業後、サラリーマン生活を送る間も、政治思想史への関心は絶えることがなく、大学再入学を期として、竹越與三郎の業績を調べる機会に恵まれた。竹越與三郎の後半生について短いレポートを書き、軍国主義の風潮に抵抗する老知識人の姿に感銘したそうである。彼の思想と人物像を知るにつれ、現代において再評価すべき人物であるとの思いか強くなった、という。竹越與三郎は、1865年に武蔵国本庄宿の酒造業清野仙三郎の次男として生まれ、新潟県中頸城郡で成長した。上京して中村敬宇に学び、1881年に慶應義塾に入学し、翌年、福沢諭吉から時事新報社への入社を薦められ、在学中から新聞に執筆し始めた。1883年に、新潟県柏崎出身の伯父・竹越藤平の養子となった。時事新報社に入社したが、官民調和の臨調に反発して翌年退職し、小崎弘道の勧めで群馬高崎教会に住んで英語塾を開いた。1886年に、小崎弘道よりキリスト教の洗礼を受け、同年、前橋英学校の教員に招かれた。その後、”基督教新聞”や”大阪公論”の記者を務めた。その頃、湯浅治郎の紹介で徳富蘇峰と知り合い、民友社及び”国民新聞”の創刊の手伝いをした。1889年に正式に民友社に入り、1890年の国民新聞創刊時から政治評論を担当した。この年、オリバー・クロムウェルの伝記”クロムウェル”を刊行して、在野史家としてデビューを飾った。 1891年から全3巻の予定で、明治維新史を政治・外交・経済・宗教の側面より分析した”新日本史”の刊行を開始した。ただし、下巻は未完に終わった。1893年に、民友社の十二文豪シリーズの1冊として、マコウレーの伝記を担当した。山路愛山とも親交を結び、民友社を代表する史論家として知られるようになった。伊藤博文、陸奥宗光、西園寺公望に見出されて高く評価されたが、原敬、桂太郎、大隈重信とは対立した。その後、日清戦争を機に国粋主義に傾倒していった蘇峰を竹越が批判したことから対立し、1895年に民友社を退社した。その後、再び時事新報社に入ったが、陸奥宗光・西園寺公望らの世話を受けて、1896年に”世界之日本”の主筆に迎えられた。同年に開拓社から、代表作となる日本通史”二千五百年史”が刊行された。陸奥の死後は西園寺の側近としても活躍し、1898年に成立した第3次伊藤内閣に西園寺が文部大臣として入閣すると、竹越は大臣秘書官兼文部省勅任参事官に任命された。その後、欧州視察を経て、1902年の第7回衆議院議員総選挙において、新潟県郡部区より立憲政友会から立候補して初当選し、以後5回連続で当選を果たした。その後、台湾総督府の児玉源太郎総督や後藤新平民政長官とも近くなり、欧米や南洋地域の視察を行って日仏協会設立に尽力したり、1906年に読売新聞主筆に就任するなど、評論活動を続けた。1915年の第12回衆議院議員総選挙で大隈信常に敗れて落選すると、日本経済史編纂会を結成し、1919年から翌年にかけて”日本経済史”全8巻を刊行した。1922年に宮内省臨時帝室編修局御用掛に任命され、ほどなく編修官長に転じて”明治天皇紀”編纂の中心的役割を担った。この年貴族院議員に任じられ、政友会系の交友倶楽部に属した。1930年に、西園寺公望の半生を記した伝記”陶庵公”を執筆した。1940年に枢密顧問官に転じたが、軍部の圧迫で”二千五百年史”が発売禁止になるなどの圧迫を受けた。東京大空襲では、蔵書や原稿を焼失した。戦後、枢密院廃止後は一切の公職から退き、1947年に公職追放処分を受け、1950年に老衰のため死去した。

第1章 遊学時代
第2章 民友社時代
第3章 『世界之日本』時代
第4章 衆議院議員時代
第5章 修史家時代
第6章 貴族院議員・枢密顧問官時代

33.3月15日

 ”成熟ニッポン、もう経済成長はいらない”(2011年10月 朝日新聞出版刊 橘木俊詔/浜 矩子著)は、グローバル化が進む中で成熟化する日本のこれから目指すべき方向について議論している。

 日本は経済規模ではすでに十分に大きくなっており、いまさら新興国と張り合って経済成長を目指すのではなく、これからは世界に冠たる成熟国家を目指すべきだ、という。橘木俊詔氏は、1943年兵庫県生れ、1967年小樽商科大学商学部卒業、1969年大阪大学大学院修士課程修了、1973年ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了、大阪大学教養部助教授を経て、1979年京都大学経済研究所助教授、1986年教授、2003年同経済学研究科教授、2007年定年退任、名誉教授、4月より同志社大学経済学部教授、同志社大学ライフリスク研究センター長である。浜 矩子氏は、1952年東京都生れ、1975年一橋大学経済学部卒業、1975年三菱総合研究所入社、1990年から98年まで英国駐在員事務所長兼駐在エコノミストとしてロンドン勤務、帰国後、三菱総合研究所経済調査部長、同社政策・経済研究センター主席研究員、2002年に同志社大学大学院ビジネス研究科教授に就任、2011年にビジネス研究科長に就任している。橘木教授が個別の事象について問題提起を行い、浜教授がそれを受けて深掘りしつつ、両者がともに日本の将来像を描いている。かつて、交通安全の関係で、せまい日本そんなに急いでどこに行くという標語があったが、当時の日本人たちは、突っ走りながら突っ走ることに一抹の疑念を感じていた。だからこそ、あの交通安全の領域を超えた流行語の位置付けを持つにいたったのであった。当時のGNPはいまではGDPとなっているが、老いた大人の日本には、そんなに焦って何するのと言いたい。日本は成熟した経済・社会を築いているのだから、これ以上の経済成長は不要と国民は納得すべきである。そして、アメリカ型の競争原理に基づいた小さな政府よりも、ヨーロッパ型の大きな政府によって社会保障の充実を目指すべきである。また、中央集権的な政府の体制よりも、基礎的自治体を中心とした分権型の政治・行政体制を目指すべきである、という。このような、大人の段階に踏み込むことになぜか誰もが二の足を踏んでいるのか。なぜか焦り、なぜか意気消沈しているのか。一番だの、二番だの、三番だの、誰かが作ったランキングの上位を占めなければ、もうダメだなどと思って焦るのは大人のすることではないだろう。いいじゃないか、抜かれたって、世界に冠たる成熟国家として、新しい生き方を目指せばいい。優雅に大人化する日本を見たい。その姿を地球社会に向かって小粋に披露する日本を見たい、という。でも、そう言う前に、やはり、真の豊かさと経済成長の関係について、もう少し考える必要があるという気がした。

第1章 高度経済成長モデルを脱せよ
第2章 無縁社会、格差社会を克服せよ
第3章 それでも1ドル50円時代が来る
第4章 消費税増税で社会保障改革を
第5章 日本の強みと弱み
第6章 優雅に衰退しよう

34.3月22日

 ”江戸の金山奉行 大久保長安の謎”(2012年3月 現代書館刊 川上 隆志著)は、江戸時代に逆賊扱いを受けた大久保長安の実像と歴史的な意義を求めた大紀行文である。

 2013年は、死後に一族誄殺という過酷な処分を受けた、大久保長安の没後400年にあたる。佐渡の逆修塔は幕末まで荒縄で縛られ続け、八王子の興林寺では、奉納した石塔が藪のなかに打ち捨てられていたという。川上隆志氏は、1960年川崎市生まれ、東京大学文学部東洋史学科卒業、岩波書店に入社し、単行本、岩波新書の編集を手がけ、雑誌編集長等を歴任し、現在、専修大学文学部教授、日本文化論・出版文化論を専攻している。大久保長安の謎を追求すべく、佐渡、石見、伊豆、甲斐黒川、高麗川、八王子等のゆかりの地から、秦氏の故地・朝鮮半島までを旅している。大久保長安は1545年に猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれ、祖父は春日大社で奉仕する猿楽金春流の猿楽師であった。応神天皇14年に百済より120県の人を率いて帰化したと記される、弓月君を祖とする秦氏の末裔であるという。秦氏は、東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。派手で多能な徳川家官僚でもあった長安の活躍の源泉は、秦氏末裔の遺伝子の働きと見ている。父の信安の時代に、大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになった。長安は信玄に見出されて、猿楽師では無く家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続の与力に任じられた。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。信玄没後は武田勝頼に仕え、甲斐武田氏が滅亡すると、織田信長による残党狩りが行われたが、本能寺の変によって難を逃れた。徳川家康は武田の配下の者たちを自軍に引き入れることを積極的に行ったが、特に厚遇で登用されたのが長安であった。鉱山や治水に関する技術に長けていた長安は、大久保忠隣の配下となり、忠隣に気に入られた。長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められた。関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。家康政権下で幕府直轄地の統治に手腕を発揮し、石見や佐渡、伊豆などの鉱山の開発にも貢献した。最終的に120万石相当に達したと言われるほど上りつめたが、1613年に病死すると、徳川の態度が豹変した。長安の葬儀の中止、莫大な遺産の没収、遺子7名の切腹に親類縁者の改易などである。金山をはじめとする様々な管理権・統轄権を与えられていたことで不正な蓄財をくり返し私腹を肥やしていた、というのが一般的な見方のようである。また、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたという見解もある。さらに、直属の上司である大久保忠隣と政治的に対立関係にあった本多正信との権力抗争に巻き込まれてしまったという見解もある。その上、キリシタンであったため、その後の過酷なキリシタン弾圧につながったという見解もある。いずれも決定打がなく、いまだに謎に包まれているようである。

第1章 謎の能楽師
第2章 甲斐の金山を歩く
第3章 佐渡金銀山の栄華
第4章 石見銀山・伊豆金山の繁栄
第5章 海と陸のネットワーク
第6章 秦氏の末裔
第7章 秦氏の原郷を訪ねて

34.3月29日

 ”アリババ帝国”(2010年7月 東洋経済新報社刊 張 剛著/永井麻生子他訳)は、ネットで世界を制するアリババ創業者、馬雲の10年の軌跡を描いている。

 馬雲はジャック・マーとして知られ、ヤフーを飲み込んだ中国IT界の巨人である。阿里巴巴集団はアリババジタン=アリババ・グループとして知られ、中国の情報技術関連企業グループである。企業間電子商取引のオンライン・マーケットを運営し、240余りの国家と地域で、現在5340万以上の会員を保有するグループである。1999年の創立以来、グループは5つの子会社を保有している。著者の張 剛氏は、1997年山東大学法学院卒業後、済南時報に入社して、中国新聞賞のー等、二等賞などを受賞した。2001年に北京に移り、いくつかのメディアを経て、雑誌の総編集室主任、執行主編を歴任し、現在、環球企業家専門テーマ研究部総監を務めている。訳者として、おあしすラングージラボラトリー代表、永井麻生子氏、ジェーシーフレンド代表取締役、王蓉美氏、天津外国語大学日本語学部講師、王彩麗氏が当たっている。アリババは帝国の名にふさわしいEコマース界の最大手企業集団で、傘下の企業には、C2Cサービスのタオバオ=淘宝、第三者支払いサービスのアリペイ=支付宝などが名を連ねている。本書は、馬雲がアリババを立ち上げてからの10年間を描いた2009年出版の”馬雲十年”を日本語に翻訳したものである。馬雲は2000年に中国本土の企業家として初めてフォーブスの表紙を飾って以来、その動向が世界から注目されている人物である。馬雲は1964年に杭州で生まれ、二度の受験失敗の後、20歳の時に杭州師範学院英語科に入学し、卒業後5年間、杭州の大学で英語教師をして、その後起業している。自分か成功できるならば80%の人が成功できる、そのことを証明するために起業したと述べている。一介の語学教師から、インターネットとの出会いにより、世界中に影響を与える偉大な経営者へと変貌していく。馬雲の独創的な経営哲学と、決してあきらめないという人生に対する姿勢が描かれている。第1章では1999年から2000年の出来事を描いており、たった6分で孫正義を落としアリババヘの投資を決めさせたといわれている。第2章は2001から200までを扱い、アリババが現在の繁栄を迎えるための礎を確立した時期を描いている。第3章は2003から2004年までを扱い、この10年間で最も苦しかった時期であるSARS流行期を描いている。中国社会全体が沈滞ムードの中、馬雲はC2Cサービスのタオバオを立ち上げている。第4章では、2005年8月のヤフーチャイナの買収という華々しい時期を描いているが、この時期はテレビヘの進出と失敗などむしろ苦しい時期で、成功の光と影を感じさせる時期である。第5章は2007年から2008年までを扱い、アリババの10年間の歴史の中で最大のトピック、上場について述べられている。第6章では、現在から未来につながる部分と、馬雲の株主総会でのスピーチが収録されている。本書では、馬雲という経営者の10年間を通して、中国のEコマース業界がどのように変貌、発展してきたのかが克明に描かれている。

第1章 創業期 険しい道-1999~2000
第2章 発展期 続く困難-2001~2002
第3章 拡張期 広がる帝国-2003~2004
第4章 挑戦期 五里霧中-2005~2006
第5章 円熟期 分かち合いの時代-2007~2008
第6章 未来へ 馬雲の「残酷な決定」-2009~

35.4月4日

 桜の季節

 桜の季節になり世の中が急に明るくなった感がある。最近の異常気象で寒い日が続いたが、その後に結構暖かい日が続いた。そのためか、今年の桜は、全国的にも例年より早く咲きだしてきたようである。日本人は古来より桜の花を愛し、和歌にも桜の花を愛でる歌が色々歌われている。

 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ     紀友則・古今和歌集、百人一首

 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし     前大僧正行尊・小倉百人一首

 いにしへのならのみやこの八重桜けふ九重ににほひぬるかな   伊勢大輔・詞花和歌集 一春

 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり    入道前太政大臣・百人一首

 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき      与謝野晶子・みだれ髪

 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし     在原業平・古今和歌集

 あをによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今さかりなり  小野老・万葉集巻3

 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町・百人一首

 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃     西行法師・山家集

 高砂の尾上の桜さきにけり外山の霞立たずもあらなむ      前中納言匤房・小倉百人一首


36.4月12日

 ”ぼくは人生の観客です”(2012年6月 日本経済新聞社刊 小田島 雄志著)は、日本を代表するシェイクスピア学者の自伝的エッセイ集である。

 人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だと、シェイクスピアはマクベスに言わせたが、自分の人生をふり返ってみると、影の薄い役者だった気がする、という。小田島雄志氏は、1930年旧満州・奉天生まれ、1949年に新制の東京大学文学部に入学し、その後、学部、大学院修士課程を修了し、国学院大学、津田塾大学専任講師の後、1968年から東大教養学部講師を経て、東大助教授、教授を務めた。40代に入ってシェイクスピア全戯曲の翻訳に取りかかり、1980年に完訳し、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。その後、1993年東京芸術劇場館長、1995年紫綬褒章、2002年文化功労者、2011年読売演劇大賞・芸術栄誉賞を受賞した。華麗な経歴の持ち主であるが、自分は、脚光を当ててここを見てくれと言えるような名場面を演じてきた役者ではなかった、という。自分が生きていく筋道を自分で考えたり、その線に沿って自分を動かしたりするような、劇作家や演出家でなかった。それよりも、ふと自分の生き方に目をとめて、ときどき、ばか、へたくそと弥次を飛ばしたり、たまには、よしよし、よくやったと小さく拍手したりするような、観客する人生だった。第一部は、苦味を濾過したあとの甘いジュースみたいな文章になってしまった、また、第三部も劇場の観客としておもしろかった舞台だけをとりあげ、劇評家の上からの目線ではなくミーハー的感覚で楽しんだことを証明するために、駄ジャレ落ちをつけ加えたりした、という。本書は、これまで新聞や雑誌に発表した、次のエッセイをまとめたものである。

第一部 ぼくの履歴書
 日本経済新聞朝刊「私の履歴書」(2011年7月1日~31日)
「ふたりで老いる楽しさ」のみ日本経済新聞朝刊(2006年4月23日)
第二部 こころの玉手箱
 民衆芸術劇場『破戒』のチケット 日本経済新聞夕刊(2008年9月29日)
『荒地詩集』 日本経済新聞夕刊(2008年9月30日)
 ショルダーバッグ 日本経済新聞夕刊(2008年10月1日)
 米長-塚田戦の観戦記 日本経済新聞夕刊(2008年10月2日)
 八ヶ岳 日本経済新聞夕刊(2008年10月3日)
 宝塚とシェイクスピア 「家庭画報」(2010年9月号)
 仰ぎ見る大先達-坪内逍遥 文芸春秋SPECIAL No.10 季刊秋号(2009年)
 H・ピンター-「居場所」求めての闘争 読売新聞夕刊(2005年10月14日)
 今日子さん、またきてね 毎日新聞夕刊(2006年12月26日)
 北村和夫-役を生き、愛され続けて 朝日新聞夕刊(2007年5月8日)
 きっかけは「悲劇喜劇」-井上ひさしさんへ 「悲劇喜劇」(2010年7月号)
 細川俊之 永遠のハムレット 毎日新聞朝刊(2011年2月13日)
 風通る「林」の音楽-林光さんを悼む 日本経済新聞朝刊(2012年1月11日)
第三部 観客歳時記 2004年~2011年
 日本経済新聞夕刊「あすへの話題」(2004年7月3日~12月25日)
 読売新聞夕刊「小田島雄志の芝居よければすべてよし」(2005年1月22日~2011年12月7日)

37.4月19日

 ”極めるひとほどあきっぽい”(2013年5月 日経BP社刊 窪田 良著)は、米国在住の医師で起業家の自叙伝的ベンチャー物語である。

 だるま大師の面壁九年の故事が指し示しているように、一つのことを成し遂げるには、一定期間、脇目もふらずに努力する必要がある。一つのことに集中する期間は10年がいいところだと思う、という。窪田 良氏は、1966年兵庫県生れ、慶應義塾大学医学部を卒業後、同大学大学院に進み、緑内障の原因遺伝子ミオシリンを発見、その後、臨床医として虎の門病院や慶應病院に勤務してから、2000年に渡米してワシントン大学で助教授として勤務し、2001年に独自の細胞培養技術を発見し、2002年にシアトルでアキュセラを設立し、現在、加齢黄斑変性やドライアイ、緑内障など様々な眼科治療薬を開発している。父親の転勤で小学校4年生から中学1年まで、米国のニュージャージー州で過ごした。中学1年のときに帰国したが、最初に編入した地元中学校は授業にまったくついていけず、自分で帰国子女専門クラスのある学校を探して転校した。その後、父親が東京に転勤になったこともあり、慶應義塾高校に入学し、慶應義塾大学医学部に進んだ。そして、20代は学者、30代は医者、40代はベンチャー社長というように、これまでに3つの領域を極めてきた。最初はゲノム研究の世界で、慶應義塾大学大学院に在籍していた1997年に緑内障の原因遺伝子ミオシリンを発見した。その成果は世界で高く評価されたが、あっさりと転身した。次は眼科医の世界で、手術の腕を極めるため虎の門病院に移り、3年間みっちり特訓し、誰もが認める凄腕の眼科医になった。そして、失明に対する医療の限界を目の当たりにして、治療薬の開発を決意し、ワシントン大学に赴任後、バイオベンチャーのアキュセラを立ち上げた。資本金は100万円で、自宅の地下室でのスタートであった。1つのことを極めるのに苦労する人が多い中で、複数の領域に深く精通している人もまれに存在する。共通しているのは、強烈なまでの好奇心と集中力であり、さまざまなことに関心を持ち、短期間でものにしていく姿は、端から見ると飽きっぽく映るくらいである。順調で居心地もいいはずの環境を変えることができるのは、小学校時代の米国暮らしも影響している。米国流のディスカッションを経験したことで、過程を考える習慣が身についた。厳しい環境に絶えず置かれたことで、不安定な状態が嫌ではなくなった。変化に対する耐性が人より強くなり、結果的に環境の変化に違和感を持たない、現状維持が不安になるメンタリティが作られた、という。異なる3つの分野で一流になるのは極めて困難であるが、環境、考え方、アプローチを変える生き方が不可能を可能にしたものと考えられる。

プロローグ 10年ごとに、違う自分になる
第1章 成長は、ある日突然やってくる-1976年、10歳
第2章 正しい解き方より正しい疑問-1987年、21歳
第3章 苦手なことは他流試合で突き破る-1996年、30歳
第4章 庭先に穴を掘っても石油は出ない-2002年、36歳
第5章 「想定外」こそおもしろい-2013年、47歳

38.4月26日

 ”これからの日本、経済より大切なこと”(2013年11月 飛鳥新社刊 池上 彰/ダライ・ラマ法王14世著)は、混迷の時代を生き抜くヒントについての法王の発議とそれに対する解説から構成されている。

経済学の理論通りには、実際の経済は動かない。そこには、人の心理という複雑で不思議な要素が働いている。人の心に目を向けることで、経済という人の営みへの理解を深めていこうとしている。池上 彰氏は、1950年長野県に生まれ、慶應義塾大学卒業後、1973年に日本放送協会に記者として入局し、報道局社会部記者などを経て、2005年に退職後独立し、フリージャーナリストとして活躍中である。2012年からは、東京工業大学リベラルアーツセンター教授に着任している。ダライ・ラマ14世は、1935年チベット・タクツェル村生まれ、2歳でダライ・ラマ13世の生まれ変わりと認められ、15歳で政治・宗教両面の国家最高指導者となり、1959年にインドへ亡命し、ダラムサラに亡命政権を樹立した。1989年にノーベル平和賞を受賞し、2007年に米国・議会黄金勲章を授与された。はじめに、法王が私たちの世代の矛盾について発議している。まずは総論である。大きな家に住めるようになったのに、家族は減ってしまった。便利にはなったけれど、時間に追われている。立派な学位を持てても、分別を失い、知識は増えても、判断力は鈍ってしまった。専門家と呼ばれる人は多くても、問題は増え続け、薬はたくさんできたのに、不健康になっている。月に行くことができるようになっても、通りを渡って新しい隣人に挨拶することには苦労している。情報を集積するコンピュータを大量に生産し、製品を沢山作ることはできても、コミュニケーションはうまくとれない。大量の商品を作ることかできても、品質は下がる一方だ。ファーストフードで時間を節約しても、消化する力は衰え、立派な身体であっても、心は貧しい。急激な利益を得ても、うわべだけの人間関係になってしまった。外から見ると豊かであっても、中身は空っぽ。そんな時代である。さらに、経済、格差、お金、物質的価値、仕事についての各論的な発議が続く。池上 彰氏はこれらの発議について、このまま経済成長を優先する社会でよいのかという視点から、それぞれ解説を加えている。日本経済が長い間低迷する中で、改めて経済のことを考える人が増えてきたように思う。失われた20年と言われるほどの長期停滞に対し、人々は再びの経済成長を求めている。しかし、経済成長には限界がある。経済は、人間の価値を犠牲にして繁栄すべきではない。利益のために、内面の平和を犠牲にしてはいけない。日本は着実によくなっており、生活水準は上がっていて、治安もよくなっており、海外に行くたびに、日本はいい国だと思う、という。誇りを傷つけられたり、自信を失ったりするのは、歴史や現状を正しく知らないからであり、他国の人たちの誇りを傷つけ、反日感情に火をつけてしまう原因は、日本の姿が正しく伝えられていないことにもあるはずである。国内の政治がまとまらないときに、外に敵をつくるのは古今東西を問わず政治家の常套手段であり、日本も中国も韓国も、お互いにそうしている。一般の国民は好き好んで他国と対立したり戦ったりしたいはずもなく、戦争になったとしたら、真っ先にひどい目にあうのは、政治家ではなく一般人である。おかしな方向に世の中を引っ張っていこうとする動きに乗せられないためには、まずは事実を正しく知る力を、そして、正しく伝える力を、自分の中に培うことが必要だと思う、という。

第一章 経済について
第二章 格差について
第三章 お金について
第四章 物質的価値について
第五章 仕事について
第六章 日本について

39.平成26年5月3日

 ”カント先生の散歩”(2013年6月 潮出版社刊 池内 紀著)は、デカンショで知られる偉大な哲学者カントの人生を人間的な側面から紹介している。

 従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を、カントは人間それ自身の探求のために再定義した。我々は何を知りうるか、我々は何をなしうるか、我々は何を欲しうるかという、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力の性質とその限界を考察した。池内 紀氏は、1940年姫路市生まれのドイツ文学者、エッセイストで、東京外国語大学外国語学部卒業、1965年東大大学院人文科学研究科修士課程修了、神戸大学助教授、東京都立大学教授、1985年東京大学文学部教授、定年前の1996年に退官した。以後、文筆業、翻訳家として幅広く活躍している。イマヌエル・カントは、1724年に革具職人の息子として東プロシア(プロイセン)の首都ケーニヒスベルクに生まれ、1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校に進み、1740年にケーニヒスベルク大学に入学し、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。ケーニヒスベルク大学はこの時代までは、新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だった。1746年に父の死去にともない大学を去り、その後7年間、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてた。1755年に学位論文を提出し、マギスターの学位を取得し、冬学期から大学の私講師として職業的哲学者の生活に入った。1756年に恩師クヌッツェンの逝去により員外教授の地位を得ようとしたが、政府が欠員補充をしない方針を打ち出したため白紙となった。1764年にケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたがこれを固辞、1769年にエルランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが断った。招聘された際、身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にした。カントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいた。ただし、親友といえるのはジョゼフ・グリーンただ一人であった、と思われる。グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商で、カントが40歳の時に知り合った。以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになった。口伝えに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて先を読むコーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになった。カントの時間厳守癖はグリーンの影響であり、グリーンから財テクも学んだ。グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用し、カントが亡くなった時には一財産残すことができた、という。1770年にケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後、カントは引退までこの職にとどまった。1781年に『純粋理性批判』を出版、その後、1988年に『実践理性批判』、1990年に『判断力批判』を刊行した。1786年にグリーンが亡くなり、カントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にした。クラウスも独身だったが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにした。日曜の食事会はしだいに参加者が増えていった。カントの学者人生は順調で、晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。1795年に『永遠平和のために』を出版し、1804年に79歳で死去した。生涯結婚せず、家庭をもたず、子供もいなかった。13歳のときに母を、22歳のときに父を喪っている。早くから修道院付属の寄宿舎つき学院にいて、大学を出てから母校の教授に迎えられるまでに23年かかっている。30代から40はじめに論文をたくさん書いている。教授になるまでは、家庭教師、図書館司書、私講師などをして、かつかつにしのいでいた。私講師は非常勤講師にあたり、学期ごとに契約して教える。受講者の受講料を毎回、当の講師が集め、それが俸給にあたる。生涯独身で、旅行や遠出もほとんどしなかった。散歩のコースと時間も決まっていて、毎日定刻に同じところを通っていくので、町の人はその姿を見かけると、時計の針を直したという逸話がある。しかし、カントは退屈な朴念仁であったのではなく、好奇心と想像力の逞しい人物であった。批判の鋭さ、時代を見る目のたしかさ、人間的魅力に溢れていた、という。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行し、膨大なメモや草稿を残したものの、著作としてまとめられることはなかったが、コペルニクス的転回をもたらし、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学の祖とされ、後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼした。

 バルト海の真珠/教授のポスト/メディアの中で/友人の力/永遠の一日/カントの書き方/時代閉塞の中で/教授の時間割/独身者のつれ合い/カント総長/一卵性双生児/フランス革命/老いの始まり/検閲闘争/『永遠平和のために』/老いの深まり/「遺作」の前後/死を待つ

40.5月10日

 ”神々の眠る熊野を歩く”(2009年4月 集英社刊 植島啓司著/鈴木理策写真)は、紀伊山地の霊場と参詣道について世界遺産に登録されている熊野をヴィジュアルに紹介した新書である。

 熊野は日本有数の聖域であり、古来人びとはこの地を訪れてきた。縄文時代から記紀の時代、中世、近世、近代を経て、今もなお多くの人が熊野に足を運んでいる。神仏混淆と言われる熊野の深層には、いったい何があるのだろうか。植島啓司氏は1947年東京生まれの宗教人類学者で、1972年東京大卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、シカゴ大学大学院留学、その後、関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任している。鈴木理策氏は1963年和歌山県新宮市生まれの写真家で、東京藝術大学美術学部准教授を務めている。熊野は和歌山県南部と三重県南部からなる地域で、紀伊半島南端部を占めている。旧国では紀伊国南部にあたり、上古の熊野国と大まかに一致する。熊野古道は熊野三山へと通じる参詣道の総称で、紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨っている。主に、紀伊路、小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路の5つの道を指している。多くは2000年に熊野参詣道として国の史跡に指定され、2004年に紀伊山地の霊場と参詣道の一部としてユネスコの世界遺産として登録された。熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより、京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は、神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する。紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地以外の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて記録に残されている伝統を反映している。熊野には名も知られていない聖地が無数に分布している。それらには産土の神々が宿っているのだが、それらの神々は、産土神とか土着神とか地主神の集合体である。そこに、神道、仏教、修験道などの影響が積み重ねられたものだと考えられる。人々が熊野に参拝に訪れた理由も、そこに籠ってさまざまな困難、病気、悩みについての託宣を得ることにあったのであろう。熊野はかなり特殊な地勢のもとにあり、それゆえに古くから山岳修行者の行場として関心を集めてきた。そして、周辺には、鉱物資源があり、温泉が湧き、豊かな自然があった。それらを求めて、多くの宗教者が訪れ、さまざまな霊感を得て、新しい境地を開いていった。そうした力は、いまも熊野に息づいている。

 謎/神仏習合/熊野の深部へ/籠もり(incubation)/神地/石の力/熊野古道/花山院/小栗判官/一遍上人/熊野の託宣/熊野の神はどこから来たのか/神武天皇/海の熊野へ/補陀落渡海/熊野と高野山/熊野と伊勢/神々のパンテオン/社殿構成/串本、古座を歩く/潮御崎神社/「嶽さん」/修験道とはいったい何か?/玉置神社/潜在火山性/祭事/熊野の神はずっと移動し続けたか?/熊野と出雲/熊野の神は大地に眠る

41.5月17日

 8000兆円余

 先日発表された、財政制度等審議会による将来の債務残高についての試算結果である。それによると、政府が今の財政健全化目標を達成できたとしても、その後、一段の収支改善策を実行しなければ、国と地方を合わせた債務残高は、2060年度には今の6倍を超える8157兆円に膨らむという。計算の前提として、消費税は10%、社会保障給付・税制・保険料は現行制度維持、名目長期金利は3.7%、名目成長率は3%、年齢別支出以外の支出はGDPの15.4%という数字があげられている。これから高めの経済成長が続き、基礎的財政収支を2020年度に黒字化するという財政健全化目標を達成できたとしても、一方で、高齢化で医療や介護といった社会保障費などが増え続けることなどが主たる要因である。この場合、GDPに対する債務残高の比率は、現在の1.6倍の397%に達することとなるため、財政危機の発生を防ぐためにも、債務残高の比率を速やかに下げていくことが不可欠だとしている。この比率を現在の水準に近い200%に抑えるには、6年間でおよそ30兆円の収支改善、比率を100%まで下げるにはおよそ45兆円の収支改善が必要だという。基礎的財政収支の黒字化というハードルを越えても、その先にはまた、いくつもの越えていくべきハードルがあることを想定させる内容である。これを消費税の増税だけで賄おうとすると税率は大変な引き上げ幅になるので、成長戦略、歳出カット、増税をミックスして、並行的な政策の動員が求められることになりそうである。将来世代に極めて重い負担を背負わせることになることは、極力回避しなければなるまい。

42.5月24日

 ”会社を辞めるのは怖くない”(2007年3月 幻冬舎刊 江上 剛著)は、26年間勤めた銀行を辞めて作家に転身した著者が会社を辞めるときの準備と心構えについて書いている。

 会社を辞めて生きていくのに必要なことは、自分の足で立つという気構え、人脈、家族の支えの3つである。何とかやっていくという独立心と、自分を支えてくれる友人、知人、家族がいてこそ第二の人生が成功する可能性が高いという。江上 剛氏は、1954年兵庫県生まれ、柏原高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、1977年に第一勧業銀行に入行した。最初は大阪の梅田、次に東京の港区芝の二支店で勤務の後、本部に転勤し、本部では営業推進、商品開発、大蔵省との窓口、人事などの仕事に従事した。そして、1997年の第一勧業銀行総会屋利益供与事件に際し、広報部次長として混乱の収拾に尽力した。事件は、東京地検による銀行への強制捜査、役員や幹部の逮捕、そして元頭取の自殺という結果に終わった。この事件を元にした高杉良”金融腐蝕列島”の主人公のモデルの一人である。2002年に経済小説”非情銀行”で作家デビューし、2003年3月に49歳でみずほ銀行を退社した。みずほ銀行は、2000年に第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行が株式移転により株式会社みずほホールディングスが設立されたもので、3行はその完全子会社となった。最後は、みずほ銀行築地支店長であった。著者の早期退職には、この辺の事情もあるかもしれないと思った。銀行でさえ大きな問題がおきれば経営基盤は磐石ではない。どんなに優良な会社でも、突然、大きな波に襲われて、倒壊し、流されてしまうことがある。あまり会社を頼りすぎないで、自分の足で立つという気構えが必要である。しかし、会社を辞めるのは怖くないわけではなく、本当は、不安で、不安でどうしようもないものだという。今まで、会社という大樹に寄りかかりながら生活していたのが、無くなるわけだから不安でないはずはない。長年にわたって勤務した会社をやめるということは、今までよりは自分の足でしっかり立っていないと倒されてしまうことになりそうである。人間というものは、ぎりぎりの場面で本当の姿を現すもので、経営危機のような場面に遭遇すると、今までエリートだった人が全くの無能になったり、たいして目立たなかった人が使命感に燃えたりと思いがけない姿を見せる。困難に遭遇している自分を支援してくれる本当の人は、どういう人かも分かった。本当の人間関係、すなわち人脈こそ財産である。さらに、家族こそ間違いなく最後まで自分を支えてくれる、もっとも大切なものである。どんなに苦しくても家族の支えがあれば、切り抜けることができるという。ただ、著者の場合は、最初から作家デビューができたし、新聞連載などを行いながら、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日のレギュラーコメンテーターを務めるなどの、良い機会に恵まれていた。この点が、一般の早期退職者と大きく異なっている。なお、早期退職にむけての具体的な準備では、何よりもよりよい人脈を築いておくべきであり、何か事業を始める場合などはリスクをとることを恐れてはいけない。そうなるために在職中に会社の外で十分通用するように自分を磨き、強くなっておくことが大切であるという。

第1章 会社は裏切るものだ
第2章 辞める決心・ケジメのつけ方
第3章 退職のスタイル・プラン
第4章 江上流フリーター生活

43.5月31日

 ”2020年石油超大国になるアメリカ”(2013年5月 ダイヤモンド社刊 日高 景樹著)は、これからのアメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国、日本の行方を推測し日本はいかにすべきかを説いている。

 アメリカは2020年、サウジアラビアを抜いて世界最大の産油国になる。シェール革命、世界最大油田開発、製造業回帰などによって、アメリカは劇的によみがえる。そして、周辺諸国に圧力を強める中国の衰退が、すでに始まっているという。日高義樹氏は、1935年名古屋市生まれ、東京大学英文科卒、1959年NHK入局、外信部、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長、アメリカ総局長を歴任し、NHK審議委員を最後に退職した。その後、ハーバード大学客員教授を経て、ハーバード大学諮問委員、ハドソン研究所首席研究員として、日米関係・アジア戦略の調査・研究にあたっている。第二次大戦のあと、世界の警察として国際社会を動かしてきたアメリカが、いま大きく変わろうとしている。アメリカの力の後退は紛れもない事実だが、ローマ帝国のような一直線の衰退や崩壊には至らないであろう。1970年代の終わりから1980年代にかけて、アメリカの人口は日本の2倍の2億であったのが、クリントンの時代に3億に増え、現在は3億1400万になっている。アメリカでは、レーガン大統領からブッシュ、クリントンに、ブッシュ、オバマに至る間に、日本の人口にあたる1億人が増えた。そしてアメリカはいま、新しい安価なエネルギーと、先端技術を駆使した電子兵器によって立ち直り、世界における立場を再構築しようとしている。シェールオイルは現在の原油価格の半分、アパレル当たり四十数ドルで供給されるようになり、経済の拡大と活性化を大きく促すであろう。また、電磁波帯を破壊する新兵器を実戦配備することによって、世界の安全保障情勢を一変させるであろう。これまでドルが基軸通貨としての地位を維持してきたのは、強大なアメリカの軍事力を基盤とする世界戦略を背景にしていたからである。アメリカが軍事力の縮小に向かい始めたことから、そうした軍事力とドルの関わりが変わろうとしている。だが通貨自体として考えると、ドルはどこの国の通貨よりも通貨のシステムそのものが透明にできている。そのうえ国際金融システムとの絡みから、最も機能的で効率のよい通貨であることには間違いないという。ヨーロッパは21世紀、アメリカに次ぐ第2の大国になるための共同体を形成することはできないだろう。最大の理由は、冷戦に勝った西ヨーロッパが東ヨーロッパという異質な国々を飲み込んでしまったため、一つの政治組織として成り立ち難い状況になっているからである。ロシアがアメリカに次ぐ第2の大国になる見通しはない。KGBがすべてを取り仕切る体制はもはや過去のものであり、かつての共和国をロシアのもとに集めることはきわめて難しい。中国はアメリカが力を持ち、軍事力で抑えこんでいた時代には、きわめて従順だった。中国の政治の知恵というのは常に、強い者には従順に、弱い者には強い態度に出るというもので、西側諸国の人々が考える外交の観念がない。中国政府はいまやアメリカの軍事力が後退し、アメリカの権威が落ちるとともに、自らの利益を求めて遠慮会釈ない動きを始めている。しかし、アメリカの技術を盗み、モノ真似をしている中国はやがて行き詰まりを見せ、発展途上国が老齢化によって衰退しはじめるという、歴史上珍しい現象が起きるであろう。中国がアメリカに次ぐ世界の大国になるのは難しいという。そのような中で、日本が第2の大国として再び期待されている。地域の軍事情勢の変動にまき込まれて、経済が大きな打撃を受ける危険があるので、日本が自らの力で危機を解決するのが当然であるという。

第1章 世界の石油市場が大変動する
第2章 アメリカは戦争より外交戦略に力を入れる
第3章 アメリカはスーパーパワーでなくなる
第4章 中国はアメリカの代わりにはなれない
第5章 中国は老齢化し衰退しはじめている
第6章 日本は戦略的決断を迫られる

44.平成26年6月14日

 ”日親・日奥”(2004年9月 吉川弘文館社刊 寺尾英智/北村行遠編)は、伝道と法難に明け暮れた日親と不屈の信念を貫いた日奥の思想と行動を紹介している。

 日親は折伏主義に立ち将軍足利義教に改宗をせまって多くの法難を受け、日奥は不受不施の掟を唱えて徳川家康によって対馬に流され、ともに日蓮の思想と行動を厳格に守り権力者に立ち向かった。寺尾英智氏は1957年千葉県生まれ、1987年立正大学文学研究科仏教学専攻、文学博士(立正大学)で、現在、立正大学仏教学部宗学科教授、専門分野は日蓮教団史、日本仏教史である。北村行遠氏は1947年愛知県生まれ、1977年立正大学文学研究科仏教学専攻、文学博士(立正大学)で、現在、立正大学文学部史学科教授、専門分野は日本近世仏教史である。日親(1407~1488)は 室町時代の日蓮宗の僧で、通称、なべかむり上人と呼ばれている。上総国に生まれ、妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門した。1427年に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行い、1433年に中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導した。厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門されたが、1437年再び上洛し本法寺を開いた。諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。1440年に禁に背いたため投獄され、本法寺は破却となった。拷問を受けた際に、灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説がある。1441年の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され本法寺を再建したが、1460年に肥前で布教したため再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。1462年に千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年、赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建した。鎌倉時代の東国にあって日蓮は法華経の教えを弘め、滅後その教えは弟子たちによって各地へと伝道されていった。南北朝時代には京都をはじめ西国へも次第に教えが広まり、室町時代には京都の町中は法華経の巷と化していった。ともすれば日蓮の求めた信仰のありようが見失われるようなこともあって、日親は努めて日蓮の生き方に忠実であろうとした。日奥(1565-1630)は、安土桃山・江戸前期の日蓮宗の僧で、不受不施派の祖である。京都の呉服商の家に生まれ、1574年に妙覚寺の日典を師として法を学んだ。1595年に豊臣秀吉が主催した方広寺大仏殿の千僧供養会へ出仕するかどうかで、本満寺の日重らの受不施派と対立した。日奥は、不受不施義を主張して妙覚寺を去り、丹波国小泉に隠棲した。1599年に徳川家康による供養会にも出席せず、大阪対論により対馬に流罪となった。対馬に13年いた後、1623年に赦免となり、不受不施派の弘通が許された。1630年に受布施派と不受不施派の対立が再燃し、両者は江戸城にて対論した結果、日奥は、幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度、対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨まで流されたとされる。江戸時代になると、幕府はこの不受不施派の活動を警戒し、その布教活動を禁止するようになった。そのため、かくれキリシタンと同じように地下に潜って秘密教団を形成するようになっていった。ふたたび地上に姿を現して公に布教活動を行うようになるのは、明治になってからのことであったという。

日 親
1.日親の魅力
2.日親の生涯-伝道の旅にいきた導師-
3.仏法の聖者と受難-正統と異端の論理-
4.日親がみた東国の「郷村」社会-『折伏正義抄』の世界を読む-
5.町衆と日親
日 奥
1.日奥の魅力
2.日奥の生涯
3.なぜ不受不施義を貫いたのか
4.大仏千僧供養会と京都日蓮教団
5.仏法か王法か

45.6月21日

”無国籍”(2005年1月 新潮社刊 陳 天璽)は、ある日、台湾への入国も日本への帰国もできず空港から出られない衝撃的な経験をした横浜中華街で育った著者が国籍や民族ばどについて深く掘り下げている。

 世界中の数多くの開発途上国・先進国に無国籍者が存在し、およそ1,500万人にのぼるとUNHCRは推計しているが、正確な数はわかっていない。多くの無国籍の状況の根本的原因は、特定の人々を排除するような政策にある。世界中の様々な地域で、ジェンダーにもとづく差別的な法令が依然として無国籍のリスクを生じさせる原因となっている。ヨーロッパでは、1990年台のソ連・旧ユーゴスラビアの解体によって新興国にも無国籍が広がった。日本にも存在しており、日本で生まれ育った著者も無国籍であった。陳 天璽氏は、1971年横浜中華街生まれ、筑波大学大学院 国際政治経済学博士、香港中文大学、ハーバード大学客員研究員、日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館助教授を経て、早稲田大学国際教養学部准教授を務めている。無国籍は、法的にいずれの国の国籍も持たないことであり、国籍の消極的抵触ともいわれている。国籍は、それぞれの国の国内法が具体的にどの範囲の自然人、船舶および航空機に自国の国籍を付与するかを決めている。各国はそれぞれ自由に国内法を制定することができ、相互にその内容を調整する仕組みが一般的には用意されていない。関係国の国内法の内容如何では、同一の自然人、船舶または航空機が二つ以上の国の国籍を保有することがあり、また、いずれの国の国籍も保有していない無国籍が起こりうる。日本の国籍法は出生地主義ではなく、血統主義が基本となっている。親が日本の国籍をもっている場合、その子は日本の国籍を取得するが、親が外国人の場合は、親の国籍の国の人として扱われる。著者は日本に生まれ、日本に生活基盤があるが、出生当時親が中国人だったので外国人登録では中国人となった。そして、生後まもなく日中国交回復により、台湾籍が認められなくなった結果、無国籍という身分を選んだ家庭に生まれて無国籍となり、こんにちまで30数年過ごしてきた。父親は、1972年に国籍問題が起こった時、今までの経緯や社会的背景から、日本国籍をとることも、中華人民共和国の国籍を取得することもできなかった。著者はそのとき1歳未満で、その後、無国籍の状態で日本に暮らすこととなった。幼稚園はインターナショナル・スクールに通ったが、日本の某有名小学校には入学できず、横浜中華学院という民族学校に進学した。自然人は国籍を持つ国に無制限に滞在することができる。一方、自然人が無国籍状態に置かれると、自国を持たない状態となり、どこの国にも滞在できず、不法滞在状態になるという極めて深刻な事態に陥る可能性がある。無国籍者は、大きく二つのタイプに分けられる。ひとつは、法律上の無国籍者、もうひとつが事実上の無国籍者である。法律上の無国籍者は、たとえば、国際結婚後夫の国籍に変更したが、離婚した際に国籍回復の手続きミスで無国籍になってしまったとか、ある国の国籍を持っていたが、その国が内戦等で国家として消滅してしまったために国籍もなくなってしまったなどである。事実上の無国籍者は、たとえば、ある国の国籍を持っておりその国に住んでいるが、政治上の理由で迫害されているとか、両親が密入国者で出生届を提出しなかったために子供が無国籍になってしまったなどである。いずれの場合も、国家から国民としての保護や権利を与えられずにいる点で共通している。具体的には、結婚、就職、海外旅行など人生のいたるところで壁にぶつかる。とりわけ、国籍もなく、日本で在留資格も持たずに生きる人たちの悩みは深刻である。かつて住んでいた国に帰ることもできず、日本でも合法的に暮らすことができず、どの国からも見捨てられ、不安定な立場に置かれている。平成13年度の在留外国人統計で、無国籍者は1,904人となっている。日本で外国人登録の統計を見ると、一番多いのは、コリアン、次に中国、ブラジルとくるが、そのリストの最後の方に無国籍という欄がある。この無国籍の人の数に、登録されていない人達も存在している。たとえば、オーバーステイの人たちが日本にきて子どもを生み、出生届けをださないというような場合である。この子どもは存在しない人間として、日本に暮らすことになるのである。ほかにも、移動する人たちの間で、国によって登録もれや、国籍法の狭間に落ちてしまう人たちがいる。無国籍の人も、自分が無国籍であることを知らないままでいるケースもある。現在、日本には、無国籍者を保護するための公的制度はない。
 
第1章 中華街のララ
第2章 日本と中国の狭間に生きる
第3章 ニッポンになじめない
第4章 世界へ出たい
第5章 香港へ、アメリカへ
第6章 無国籍について知りたい
第7章 アジアの人々と無国籍
第8章 帰化を申請する
第9章 海外の無国籍

46.6月28日

 ”古代マヤの暦”(2009年4月 創元社刊 ジェフ・ストレイ著/駒田曜訳)は、マヤ暦の仕組みからマヤの予言までを解説し、古代エジプト、インド、ローマなどの暦と比較検討している。

 マヤ暦は、世界の伝統的な暦の中で最も複雑と言われている。マヤの神官は天体を観察し、太陽や月だけでなく、金星などの惑星の運行も組み込んだ暦の体系を発展させた。そして、それを農業のほか、戦争を仕掛ける吉日や占星術師の予言にまで利用した。ジェフ・ストレイ氏は、マヤ文明とマヤ暦の研究家で、2012年に世界が終焉するとされるマヤの予言に関する著作が多数ある。マヤ文明は、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。マヤの人々は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていたとみられている。1つは、一周期を260日=13の係数と20の日の組み合わせとするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年を360日=20日の18ヶ月とし、その年の最後に5日のワイエブ月を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦のカレンダーである。太陽の運行周期は、現在知られている実際の周期と、わずか17秒しか違わない。365・2422日を、マヤは、365・2421日まで計算していた。また、月齢の周期29・53059日は、29・53086日にまで、更に金星の運行周期、584・00日は、583・92日まで求めていた。ワイエブ月を除いたハアブ暦=360日と、ツォルキン暦=260日の組み合わせが約13年ごとに一巡する。これをベースとして、4サイクルの約52年を周期とする 。この他、より大きな周期のカレンダーも複数存在していた。このようなカレンダーの周期のことを、カレンダー・ラウンドという。また、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、長期暦と呼ばれるカレンダーも使われていた。石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。2012年人類滅亡説は、マヤ文明で用いられていた暦の1つ長期暦が、2012年12月21日から12月23日頃に1つの区切りを迎える、とされることから連想された説である。

 基本の周期/太古の暦/古代中国/古代インド/シュメールとバビロン/古代エジプト/金属に刻まれた記録/ローマ暦/新世界/現存する絵文書/計数システム/精妙な暦/ツォルキン/ハーブ/カレンダー・ラウンド/暦の中の金星/月/火星、木星、土星/長期暦/石碑/太陽の天頂通過/アステカの「太陽の石」/銀河直列/2012年-時代の終焉/用語解説/暦に関する補遺/ポポル・ヴフ/マヤ暦の起源/驚異の日付/期間の終了日/3つの世界と819日周期/チラム・バラムの書/マヤの日付とグレゴリオ暦の換算/マヤ暦で見るあなたの誕生日

47.平成26年7月5日

 ”命のビザを繋いだ男”(2013年4月 NHK出版刊 山田 純大著)は、ナチスの恐怖からユダヤ人を救った、これまであまり知られていなかったもう1人の日本人について紹介している。

 日本のシンドラーと言えば、杉原千畝氏のことを指している。1900年生れの日本の官僚、外交官で、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館で、ナチスドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られている。この命のビザで日本に逃れたユダヤ難民に許された滞在期間は、わずか10日あまりであった。そんなユダヤ人たちに命を賭して救いの手を差し延べたのが、ヘブライ語学者・小辻節三氏であった。小辻は、杉原と接点はなかったが、シベリア鉄道でウラジオストクに着いた難民を日本に誘導し、無事に希望国へ送り出した人物であった。山田純大氏は1973年東京生まれ、ハワイの中学・高校を経て米ペパーダイン大学国際関係学部を卒業した。1997年に、NHK朝の連続テレビ小説でデビューした俳優である。小辻は1899年に京都の神道の家系で生れ、大学で神学部を目指すため、親の反対を押し切って勘当同様にして明治学院へと進んだ。卒業後、北海道旭川の教会の主任牧師となり、1923年に日高の牧場主の娘・美禰子と結婚した。1927年に米国に留学し、ニューヨーク州北部のオーバーンの大学でヘブライ語と旧約聖書を学んだ。バークレーのパシフィック宗教大学で、バデー教授について学識を深め博士号を取得して、1931年に帰国し、青山学院で教壇に立った。しかし、腸チフスに罹患して失職し、回復後の1934年に聖書原典研究所を開設し、ヘブライ語と旧約聖書を教え始めたが、生徒を取られた大学や教授陣、宗教関係者らからの迫害にあって3年で閉鎖した。その後、満鉄顧問として渡満し、2万人のユダヤ難民と満鉄とのパイプ役を務めた。この原体験が、後の難民救出へと繋がっていった。かつては、神戸と長崎に比較的大きなユダヤ教徒のコミュニティがあった。ユダヤ協会の働きかけで、ユダヤ難民の代表がユダヤ教の研究者であり信者である小辻を訪問し、日本滞在延長への協力を要請した。小辻は快く引き受け、彼らと一緒に何度も外務省へ出向いた。しかし、全く相手にされず困った小辻は、ついに外務大臣松岡洋右に直訴することにした。松岡が南満州鉄道の総裁をしていたとき、小辻は松岡の部下だった。松岡自身はこの2年前、満州国とソ連との国境近くにあるオトポール駅での事件でユダヤ人救済に協力していた。小辻に相談された松岡は、立場上規則を曲げることはしなかったたが、ある抜け道を示唆した。それは入国特許というゴム印を作ってビザに押印することで、10日は1箇月、1箇月をすぎたら無期延長を黙認するということであった。こうして、ユダヤ人達は出国するまで何日でも日本に滞在できるようになった。その後ユダヤ難民は、日本国内で受入れ国の正式ビザを取得できた人はアメリカやイスラエルへ行き、ビザを取れなかった人は上海へ旅立った。当時の上海は、ビザなしでも行くことが可能であった。小辻は1959年にユダヤ教に改宗しアブラハムの名前を受け、1973年に鎌倉で亡くなると遺言によって遺体はエルサレムに運ばれ埋葬された。

 少年期、青春期の小辻/ナチスによるユダヤ人迫害/奇想天外な『河豚計画』/満州へ/小辻と松岡洋右/杉原千畝の『命のビザ』/日本にやってきたユダヤ難民/ビザ延長のための秘策/迫るナチスの影/神戸に残ったユダヤ人/反ユダヤとの戦い/再び満洲へ/ナチスドイツの崩壊/帰国/小辻を支えた妻・美禰子/改宗の旅へ/小辻の死/エルサレムへ

48.7月12日

 ”橋をめぐる物語”(2014年3月 河出書房新社刊 中野 京子著)は、北海道新聞夕刊で2011年4月から月一で連載中の橋をめぐる物語2年7月分を31話でまとめたものである。

 著者は若かりしころ、まるで夢占いのお手本になりそうな夢をみた、という。それは、大きな歩道橋を高らかに笑いながら渡ってゆくというもので、人生の転機を迎え、いよいよ新たな世界へ進むと決った日の吉夢だった、とのことである。この夢の記憶が鮮烈だったので、橋への関心はすっと持ち続け、橋にまつわるエピソードをまとめたいと気になったそうである。中野京子氏は、1956年北海道生まれ、早稲田大学大学院修士課程修了、現在、早稲田大学講師で、専門はドイツ文学、西洋文化史である。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆し、新聞や雑誌に連載を持ち、テレビの美術番組にも出演している。橋は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である。起源ははっきり判らないが、偶然に谷間部分を跨いだ倒木や石だったと推測されている。その後人類が道具を使うようになってからは伐採した木で丸木橋が造られるようになった。紀元前5世紀から6世紀ごろには、バビロンや中国で石造の桁橋が架けられていた。ローマ時代になってから、道路網の整備に伴い各地に橋が架けられ、架橋技術は大きく進歩した。ローマ帝国が滅んだ後、優れた土木技術は失われてしまった。このため、流失した橋には再建されず放棄されたものも多いようである。その後、産業革命によって生じた鉄を用いた橋が出現する。さらに、鉄道網の進展、自動車の普及、交通量の変化に合わせて、重い活荷重に耐えられる橋が要求されるようになった。橋は、困難を乗りこえる表象であり、人生が交差する場であり、この世ならぬものと出会う所、異界そのものである。諺や言い回しに橋がひんぱんに出てくるし、小説、オペラ、美術作品にも、橋は重要な意味合いで登場する。実在の橋には、埋もれた歴史や驚くような秘話が詰っている。紹介されている31の橋の中で、日本にまつわるのは、味噌買い橋、鳴門ドイツ橋、双体道祖神、祈願の橋の4つである。味噌買い橋は、岐阜県高山市の宮川にかかる筏橋のことで、遠いペルシャの物語を引用した、橋の上の宝の山という面白いエピソードがある。ドイツ橋は徳島県鳴門市の坂東谷川の支流にかかる橋で、1919年に鳴門のドイツ人たちが壊れた木橋の代わりに3000個の石を集め、3ヶ月かけて建造したものである。彼らは橋梁の専門家ではなく、神社から2キロ離れた板東俘虜収容所のドイツ人捕虜達で、強制されてではなく自主的に作ってくれたという。道祖神は特に、関東甲信越に多く、村の境域に置かれて外部から侵入する邪霊、悪鬼、疫神などをさえぎったりはねかえそうとする民俗神である、双体道祖神は陰陽石や丸石などの自然石をまつったものから、男女二神の結び合う姿を彫り込んだものである。祈願の橋は、東京都中央区の築地川にかかる、三島由紀夫の短編小説「橋づくし」に出てくる7つの橋である。三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋、備前橋で、7つとなるのは、三吉橋がY字になった三叉橋で2辺を渡って2橋と数えるからである。橋は異なる世界を結ぶものであり、ドラマが生まれる舞台である、と感じた。

奇 悪魔の橋/味噌買い橋/犬の飛び込み橋/エッシャーの世界のような/透明な橋/行きどまりの断橋/小役人の幽霊
驚 金門橋/水面下の橋/ペルシャ王の舟橋/ブルックリン橋/暗殺者の橋/樵のろうろく橋/ツイン・タワーに架けられた橋
史 ポンテ・ヴェッキオ/鳴門ドイツ橋/古城の跳ね橋/ロンドン橋、落ちた/美紀の橋/橋の要塞化/レマゲン鉄橋/印象派が描いたポン・ヌフ/双体道祖神
怖 流刑囚の渡る橋/若きゲーテの渡った橋/地獄も何のその/アントワネットは渡れない/グリム童話「歌う骨」/テイ鉄道橋/祈願の橋

49.7月19日

 ”住んでみた、わかった! イスラーム世界”(2014年3月 SBクリエイティブ社刊 松原 直美著)は、イスラーム世界に飛び込んでドバイで6年間暮らした日本人女性による体験記である。

 UAEのドバイは、世界一の高さを誇るビルや街中どこでもつながるWiFiなどのある先端的な近未来都市である。一方で、そこに暮らす人々はイスラームの教えに忠実に生きていることを詳細にレポートしている。松原直美氏は、1968年東京生まれ、上智大学経済学部卒業、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学専攻博士後期課程退学、タイの公立高校日本語講師を経て、ドバイへ2006年に移動し、6年間をそこで過ごした。現在はロンドン在住であるが、ブログ”ドバイ千夜一夜”で、2007年から連載をはじめ、今日現在で第959話となり、もう少しで1000回を数える。商社勤務の夫の転勤で、2006年からドバイに住むことになった。それまでは、とくにイスラーム教徒との接点はなく、イスラームは自分とは関係のないもので、興味もなく、イスラーム教徒と理解しあえるとも思っていなかった、という。2007年から2012年まで、UAE国立ザーイド大学にて、日本語指導と空手道の初代講師として勤務した。その際に、イスラーム教徒たちと過ごすことによってイスラームに馴染んでいった過程が、追体験できるように具体的に書かれている。いろいろなタイプのイスラーム教徒と知り合う過程で分かってきたのは、イスラーム教徒がイスラームをどれだけ信仰するかは一人ひとりが自分の意思で決める、ということであった。このような観点から、現地の人々と接して実感したさまざまなことが紹介されている。異文化との交流や異文化の理解は、個人的なお付き合いや個人的な経験の積み重ねからしか得られない。UAEの人たちと過ごす日常生活は、驚きと発見の連続であった。彼らの行動をながめたり、話していることを聞いたりしながら、わからないことは何でも訪ねて行った。そうこうしているうちに、日本人には不可思議に思えるイスラーム教徒の行動に、一つひとつ意味や目的があることが分かってきた。また、日本では常識であることも、イスラーム教国では非常識になりうることもある。基本的なことは、イスラームの基本的な教えにはどんなものがあるか、その教えに従って教徒はどう行動するのか、ということである。本書では、イスラームの教えを深く信奉している人々の、日常生活、食材、料理、ラマダーン、身なり、社会の仕組みなどが紹介されている。また、イスラーム教徒が日本を好きな理由や、イスラームに対するありがちな誤解についても分かりやすく述べられている。

第一章 誕生から葬式まで、信仰とともにある生活
 1.家庭内の出来事 2.日々の生活で実践される行い
第二章 食材と料理
第三章 イスラームの成立と制度
第四章 ラマダーン(断食月)体験
第五章 イスラームに基づく身なり
 1.女性 2.男性 3.UAEに住む外国人
第六章 男女別々の社会
第七章 イスラーム教徒が日本を好きな理由
第八章 イスラームに対するありがちな誤解

50.7月26日

 ”日本と世界はこうなる”(2013年12月 ワック社刊 日下 公人著)は、2014年を読み解くキーワードはアイデンティティークライシスだ、という。

 文化・精神・思想・道徳が問題になり、グローバリズムからローカリズムに変わる。それによって世界は自分を発見し、新しい時代に入る。中国の分解、米国の自信喪失と迷走がはじまり、EUは衰退の一途、残るのはドイツだけだ、という。日下公人氏は、1930年兵庫県生まれ、1955年に東京大学経済学部を卒業し、日本長期信用銀行に入行し、調査部社会ユニット副長、業務開発第1部長、取締役業務開発部担当を歴任した。多摩大学教授、同大学院教授、ソフト化経済センター理事長を経て、東京財団会長を務めている。ワシントンの本屋にはローカルという売り場があって、そこではワシントンの地図や名所案内やレストランめぐりの本があった。ローカルは地元というのが本来の意味で、田舎とか周辺の意味になるのは、中心やコアが誕生したときその周りにいたもともと劣等感が強い人が考えたことである。日本の学者、評論家、言論人、歴史家、マスコミにはそんな人が多くて、その人たちは情報生産をせず、情報のブローカーばかりをしているから、知らず知らずのうちに劣等感がわが身に侵入するのである。著者は子どもの頃から理科少年だったので、劣等感とか優越感とかの感にひたる余地が頭の中にはなかった。そのような目で時代を見て、来年の世界と日本を展望して要点をまとめている。来年はグローバリズムからローカリズムヘ世界が変わる。そのとき、土着文明、文化がない人・国・地域はアイデンティティークライシスに襲われる。アイデンティティークライシスとは、若者に多くみられる自己同一性の喪失のことで、自分は何なのか、自分にはこの社会で生きていく能力があるのかという疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ることである。金、学歴、出自、地位、名誉など、アイデンティティのよりどころはいろいろあるが、どこに自分のアイデンティティを置くかは、人それぞれで、多様化してきた。自由になってしまうと、かえって、自分のアイデンティティをどこに置いていいかわからなくなって、周りの人からも信用されなくなる。国にもそれがあり、中国は領上が広いこと、人目が多いこと、歴史が長いことで、アメリカは軍事力が強くてドルが世界に通用することである。それが揺らぐと両国は自信を失って迷走するが、それは世界全体にとっても人迷惑である。2014年は、どうもそういう年になりそうである。一番アイデンティティがある大国は日本だから、世界は日本を学ぶようになる。安倍首相が登場して、日本を取り戻そうと総選挙のポスターに掲げ、国民がそれを支持したのは、世界的な大事件だが、日本は一体、何年前を取り戻すのか。日本は縄文時代に戻っても日本語を話すご先祖様に会えるが、他にそんな大国はない。来年はアイデンティティークライシスに起因する混乱と分解が多発するが、それを説明できる世界史はまだない、という。

第1章 これからの世界情勢―EUは衰退の一途でアメリカ、中国は分裂する
 EUで生き残るのはドイツだけ/アメリカでは、人種戦争がはじまる/これから出てくる世界的な問題は、人種問題/中国の分解要素は、言語と都市戸籍・農村戸籍の問題/三十年周期でとらえても、中国はそろそろ分解する/日本版CIAが必要だ
第2章 日本は米、中、韓とは、どんどん距離を置け
 日本はアメリカ、中国とはどんどん離れればいい/いまの韓国の対日姿勢は、日本が甘やかしてきた結果/毛沢東は、共産党が政権をとれたのは「日本軍のおかげ」と言っていた/アメリカとは、州とつき合う
第3章 日本は海外に対して「優位戦」を展開せよ
 下手に出る「劣位戦」から「優位戦」へ/日本人も中国、韓国の態度にはさすがに腹を立てはじめた/現地の裏情報がとれるくらいでないと、本当の仕事はできない/ビジネス界から優位戦のできる人材を入れる/オールジャパンの団結をつくるのもビジネスの一つ/日本が国際社会のルールをつくる国になる/すでに安倍首相は「優位戦」を展開している
第4章 財政再建はいくらでも方法がある
 財政赤字の諸悪の根源は財務省である/消費税を上げる前にやるべきことはいくらでもある/財政赤字を言うなら、まず役人が身を慎んでもらいたい/
第5章 これからの日本の課題
 第1節 成長戦略をどうとらえるか
 アメリカは自国の利益を守るためには、あらゆる手段をとる/いますぐには必要ない不要不急産業が、成長産業/高齢化を活かせばいくらでも新たな産業は生み出せる/元気な高齢者が社会を変える
 第2節 日本が直面している問題を一挙に解決する
 「スパイ防止法」を持っていない国は、一人前とは言えない/自衛隊のイメージがよくなり、海上保安庁志願者が増えている/全国一区の選挙制度にすれば日本は変わる/落選議員に退職金を五億円出せば、現職議員も賛成する



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