徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1. 平成26年8月2日
”75年目のラブレター”(2013年5月 朝日新聞」出版刊 貴島 テル子著)は、医師を目指し精進した戦後の長き日々を過ごした97歳の現役小児科医の回顧録である。
夫は南の海に散った海軍パイロットであり、結婚生活はたった75日間であった。貴島テル子氏は、1916年宮崎県田野村生まれ、生後2か月で中国にわたり、天津、武漢など中国各地で子ども時代を過ごした。父は外務省警察官で、満州国皇帝・溥儀と交流があった。1941年に海軍航空士官の貴島政明氏と結婚したが、夫は1942年にソロモン諸島で戦死した。夫は海軍航空予備学生となり、大型飛行艇の機長としてインド洋からアリューシャンまで休みなく大空と大洋で活躍した。夫の戦死を受け、これからのために手に職を持とうと決意し、1944年に28歳で大阪女子高等医学専門学校に入学し、1950年に医師免許を取得した。その後、県立日南病院、日南保健所、宮崎市保健所勤務等を経て、1970年に宮崎市内に貴島小児科医院を開業し今日に至る。夫と生活を共にしたのはのべたったの75日間であった。医師になって63年、宮崎市内で開業して43年、長いこと医師として生きてきた。26歳で戦争未亡人となり、その後一念発起で医専を受験し、思いもかけなかった道を歩んできた。そんな自分を支え勇気づけてくれたのは、夫が遺した150通にも及ぶラブレターだったという。今の人は何事もメールのやりとりで済ませているかもしれないが、それではたして後世にどれだけ残ることであろうか。手紙を書くことで、私たちはその時々の思いを、70年を経た今も肉体の一部のように残すことができた。お互いを知ることも、結婚の意思を固めたのも、結婚生活も、愛の言葉も、そのすべてが手紙でのやりとりであった。夫の綴った何千何万という文字は、いまも鮮やかに読み取ることができる。どんなに寂しいときも、先の見えぬ夜も慰め、励ましてくれた。折に触れて、自宅のリビングボードの引き出しにしまった手紙をひもとき、温もりにふれてきたという。
1.たった75日間の新婚
生活/出会い/両親の反対/婚約/誓い/外地/満州国前夜/新生活/開戦/休暇/親孝行/ 遺言/母の言葉/終戦/新米医師/精進/医院開業/研鑽/旅/75年目のラブレター
2.97年生きてきて思うこと
生きていることに感謝しているから、お迎えの準備はしない/よそさまの子も、みんな自分の子どもと思いなさい/時間とはいかに使うかで長くも短くもなる/一人でも喜んでくれる人がいれば仕事は意味がある/健康法は食べること、年甲斐もないことをすること/「夫婦不仲」の悩みの大半は、幸せの裏返し/何万人のお子さんを診て思う「親のつとめ」/遠くの親戚より近くの「孫」/自由に生きるために、女性も自分で稼ぐことが大事/お金の貸し借りは最小限に。返されなくても恨まない/なるべく多く旅しなさい/いい仕事をするために毎朝していること/大事な人に見守られていることに気付きなさい/思いもかけなかった道こそ、神さまのお導き/この世にいない人とふれあうちょっとしたコツ/倒れてなんかいられないと思える大きな幸せ/自分のことは自分で。緊張するから元気でいられる/九十七年生きて、いまだに犬から学ぶことだってある/人生道中、つらいことも縦に並べれば、見えるのは一つ/一日の終わりに子どものころ見た空の色を思い出して/きょうだいと競争してこそ、張りあいある人生/長く生きてきたから思う「うたたね」の効用/ずっと恋をする、その切なさが人生を輝かせる/主人の生き方から学んだ「人として大切なこと」
2.8月9日
”明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム ”(2006年5月 平凡社刊 犬塚孝明/石黒敬章著)は、カルト・ド・ヴィジットという名刺判写真に見る明治人の生き方が偲ばれる本である。
外交官・教育者として活躍した森有礼は、日本人のみならず外国人の名刺判写真を数多く集めた。その明治時代初期の300枚余の写真、欧米の赴任先や外遊で貰ったカードのことが主体となっている。犬塚孝明氏は1944年生れ、1968年に学習院大学経済学部を卒業、文学博士で、鹿児島純心女子大学国際人間学部教授を務めている。石黒敬章氏は1941年生れ、1964年に早稲田大学商学部を卒業し東京12チャンネルに勤務の後、1966年に石黒コレクション保存会を設立し、幕末・明治期の写真を収集している。明治の初年の頃は名刺代わりに自分の肖像写真を撮り、その後ろに名前など書いて交換するのが流行っていたそうである。そのカード蒐集家をイギリスではカルトマニアと呼び、フランス語ではカルト・ド・ヴィジットと呼んでいた。アメリカの写真家ジョン・メイアルが、ヴィクトリア女王に宮廷写真師として迎えられたことから、爆発的に広まっていったということである。1854年に、大きな一枚のネガにマルチレンズで一気に十枚の写真を撮る方法が生まれた。1859年に、ナポレオン三世が公的なイメージを普及するため、カルト・ド・ヴィジットを友人に配布した。これによりカルト・ド・ヴィジットの交換・収集が流行した。1860年から、王室のカルト・ド・ヴィジット・アルバムが発行され、カルトマニアが発生した。1865年には、公的人物のポートレートだけで数百枚が発行された。1866年ころには流行が衰えたという。森有礼は1847年に、薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。1860年ころから造士館で漢学を学び、1864年ころから藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講した。1865年に、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学し、ロンドンで長州五傑と出会った。その後、ロシアを旅行し、その後アメリカにも留学した。明治維新後に帰国し、福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成した。その後、1875年に東京銀座尾張町に私塾・商法講習所、一橋大学の前身を創設し、1885年に第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校を教育の総本山と称して改革を行うなど、日本における教育政策に中心的に携わった。本書には、元治二年に薩摩藩留学生として渡英した時から、没年近くまで森と交流のあった人物が収められている。また、森が興味を抱き買い求めた人物や風景の写真もある。ここに残されたアルバムは、石黒敬章氏の父親が昭和30年前後に古書市などで買ったものだという。人物は有名無名いろいろあり、同定するのは思いのほか時間を要したそうである。裏面に名前が書いてあっても読みにくかったり、変名であったりする。名前の書かれていないものも多かった。功成り名を遂げた人物でも、若い頃の写真は存外少なく比較が難しかったという。江戸末期の侍や明治初年の裕福な日本人、外国人の写真が掲載されている。当時のいろいろなことが偲ばれる、たいへん興味深い内容である。
第1章 写真が語る英米留学の日々
第2章 日本人留学生とアメリカの人々
第3章 古い日本、新しい日本
第4章 西欧への眼差し、教育への「視想」
森アルバム写真見聞録
参考文献
3.8月16日
”遣唐使 阿倍仲麻呂の夢”(2013年9月 角川学芸出版刊 上野 誠著)は、1300年程前に唐の重臣閣僚となった阿倍仲麻呂の評伝である。
阿倍仲麻呂の中国語名は「晁衡」「朝衡」だと習ったことがあった。生年については2説あり、西暦698年か700年に生れ、奈良時代の遣唐留学生になり、青海、千里を越えて唐の国に渡った。その後、千人に一人ともいわれる過酷な試験、科挙に及第し、玄宗皇帝に仕えてその閣僚となった。上野 誠氏は1960年福岡県生まれ、國学院大學大学院文学研究科博士課程後期単位修得満期退学、文学博士で、現在、奈良大学文学部国文科教授を務めている。阿倍仲麻呂は阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。717年に多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して、唐の都・長安に留学した。当時、唐の国力、及ぶ国なく、世界を支配することのできる唯一の帝国であり、都・長安は、人口100万人の大都会であった。日本は、そのうちにあって、世界帝国・唐の文明の果つるところ、辺境の一小国に過ぎなかった。ほぼ20年に一度派遣された遣唐使は、国家の存亡に関わる重い任務を負って唐に旅立っていった。その時の留学生の中には、吉備真備や玄昉がいた。仲麻呂は、唐の太学で学び科挙に合格し唐の玄宗に仕えた。太学とは中国にあった国立の中央大学であった。漢の武帝が、董仲舒の献策にもとづいて設置したのにはじまる。725年に洛陽の司経局校書として任官し、728年に左拾遺、731年に左補闕と官職を重ねた。主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していた。733年に多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破したという。この時帰国した真備と玄昉は、第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは、仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができたという。734年に儀王友に昇進し、752年に衛尉少卿に昇進した。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐した。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、清河らとともに、翌年に秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時、王維は別離の詩を詠んでいる。仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流され、李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き七言絶句を詠んで仲麻呂を悼んだ。しかし、実際には仲麻呂は死んでおらず、船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、唐の領内である安南の驩州に漂着した。結局、仲麻呂一行は755年に長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から、渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に、清河らの帰国を認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、760年に左散騎常侍=従三品から鎮南都護・安南節度使=正三品として、再びベトナムに赴き総督を務めた。761年767年まで、6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年に安南節度使を授けられた。最後は、路州大都督=従二品を贈られ、日本への帰国は叶えられず、770年に73歳の生涯を閉じた。第8章では、ただ一首だけ残された歌「天の原 ふりさけ見れば春日なる 御蓋の山にいでし月かも」の謎を、日唐交流史を背景に鮮やかに描いている。
第1章 新生「大宝律令」の子
第2章 日本から唐へ
第3章 科挙への挑戦
第4章 官人として宮廷社会を生きる
第5章 知恵が救った四人の命
第6章 阿倍仲麻呂帰国
第7章 阿倍仲麻呂と王維
第8章 天の原ふりさけ見れば
4.8月23日
”ぎん言”(2012年4月 小学館刊 綾野 まさる取材/文)は、100寿者だったぎんさんが娘4姉妹に遺した37の名言を取材している。
「きんは100歳、ぎんも100歳」というテレビCMを思い出す。成田きんさんと蟹江ぎんさんは、1892年に愛知県愛知郡鳴海村で矢野家の長女・次女として生まれた。二人は一卵性双生児であり、戸籍上はぎんさんが妹ではあるが、先に出生したのはぎんさんの方だったそうである。当時は、双子のうち後から出生した方を兄・姉とする慣習が強かったという。きんさんは2000年に満107歳で没し、ぎんさんは2001年に満108歳で没した。二人とも内職として、特産品であり伝統工芸品でもある有松・鳴海絞りの絞り括りの工程を仕事としていた。ぎんさんは1913年22歳の時に、農家の息子の蟹江園次郎さんと見合い結婚して、1914年に長女の年子さんを、1920年に次女の栄さんを、1918年に三女の千多代さんを、1921年に四女の百合子さんを、1923年に五女の美根代さんを出産した。次女は3歳で亡くなり、農業のかたわら養蚕をやりながら4人の娘を育て上げた。これが本書の主人公、ぎんさんの娘四姉妹である。綾野まさる氏は、本名、綾野勝治で、1944年富山県で生まれ、1967年に日本コロムビアに入社し、サラリーマン生活を経てフリーのライターになった。きんさんぎんさんは、1991年に数え年百歳を迎えて、当時の愛知県知事と名古屋市長から、二人揃って長寿の祝いを受けた。これが新聞に紹介されたことがきっかけで、ダスキンのテレビCMに起用された。「きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳。ダスキン呼ぶなら100番100番」であった。同じ時期に、通信販売情報誌「通販生活」のCMやAMラジオ局・ニッポン放送のAMステレオ放送開始宣伝にも出演し、1992年に新語・流行語大賞の年間大賞と語録賞にも選ばれた。その後の活躍ぶりは、オリコン史上最高齢でのCDチャートイン、テレビ朝日「徹子の部屋」ゲスト出演、NHK「第44回NHK紅白歌合戦」応援ゲスト出演、フジテレビ「笑っていいとも!」中継登場などに表れている。本書出版時点で、ぎんさんの長女、矢野年子さんは98歳、三女、津田千多代さんは94歳、四女、佐野百合子さんは91歳、五女、蟹江美根代さんは89歳である。いずれも長命で、2011年に「ぎんさん(の娘)四姉妹」としてメディアに登場するようになった。古今東西を問わず、長寿は人類の果てしない夢である。もし、不老不死の妙薬が発明されたら、それをつくった人は巨万の富を得るだろう。だが、いくら妙薬にありついても、ボケてしまったり、寝たきりの姿では残念である。きんさんぎんさんブームから20年の歳月を経て、4姉妹も長寿に恵まれた。揃って腰も曲がらずチャーミングなおばあちゃんで、健康そのものでとにかく仲がいい。全員、愛知県名古屋市内に住んでいて、五女の美根代さんは蟹江家を継ぎぎんさんと一緒に暮らしたが、他の3姉妹は実家から歩いて10分ほどのところに住んでいる。長女はおっとりとした性格だが、自分の意地を通す頑固な一面もある。4姉妹の中でいちばんの食いしん坊だが、野菜は苦手である。三女は年を重ねて容姿や物腰が、ぎんさんそっくりになった。頭の回転が速く、茶目っ気で人を笑わせる。国会中継を見るのが趣味である。四女は父親譲りの穏やかな性格で、4姉妹の風通しをよくする潤滑油のような存在である。買い物にはママチャリで出かける。五女はぎんさんと70年近く一緒に暮らし、母から処世訓を学んだ。そのため、末妹ながら4姉妹をまとめるリーダー的な役割を果たしている。姉妹たちは、ほとんど毎日のように実家に集まってお茶を飲みながら世間話に花を咲かせる。4姉妹は互いを思いやり切磋琢磨しながら、日々これ好日を実現している。この姉妹たちの背中を押しているのは、母・ぎんさんのたぐいまれともいえる教えがあった。明治、大正、昭和、平成と、4つの時代を生き抜いたぎんさんは、数々の名言を残していた。ボケない、病まない、甘えないという「三ない」を実践している4姉妹には、ぎんさんから受け継がれた生きる秘訣が光っている。
第1章 嫁ぐ4姉妹に授けた“ぎん言”
第2章 大切な人を亡くした4姉妹への“ぎん言”
第3章 百歳を過ぎてからも輝くための“ぎん言”
第4章 百歳までボケないための食事&生活習慣
5.8月30日
”哲学者は午後五時に外出する”(2000年11月 夏目書房刊 フレデリック・パジェス著/加賀野井秀一訳)は、哲学者のアフター・ファイブを大切にして様々な哲学者の瑣末なエピソードを紹介している。
今日、私たちが哲学者と呼んでいる人たちのほとんどは、哲学で生計を立ててはいなかった、という。パジェス・フレデリック氏は哲学の教授資格所有者で、文学・音楽・美術など各界の権威にも果敢に挑む、”キャナール・アンシェネ”紙の記者である。加賀野井秀一氏は1950年高知市生まれで、1983年中央大学仏文科大学院博士課程中退、1987年中央大理工学部専任講師、1990年助教授、1998年教授である。哲学者たちも肉体を持たないわけではない。彼らはいかに生き、食べ、愛してきたのだろうか。いわゆる哲学者たちは哲学の勉強はしなかったし、教えることもしなかった。彼らの職業は、聖職者(聖アウグスティヌス、マルブランシュ、バークリー)、政治家(マルクス・アウレリウス、セネカ)、占星術師(ジョルダーノ・ブルーノ)、行政官(モンテーニュ)、物理学者や数学者(パスカル、デカルト)、外交官(ライプニッツ、ロック)、私設秘書(ホッブズ、ヒユーム)、ホームレス(ルソー)、宮内庁役人(メーヌ・ド・ビラン)、年金生活者(ショーペンハウアー、キルケゴール)など、一定してはいなかった。哲学者は職業別社会階層ではなかったのだそうである。最も美しい哲学的植物は、つねに大学という温室の外に育ってきた。デカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツ、ディドロ、ルソーは教授ではなかったし、免状を持ってもいなかった。これらの人たちは聖職者と文学者との中間にいて、さまざまな立場の間でバランスをたもっていたどこからきたのか分からない綱渡りの芸人たちであり、社会的には哲学はユートピアである。共和国で採用されるまではホームレスであったこの不思議な連中は、生きのびるためには、つねに経済的な離れわざを演じなければならなかった。この本は、哲学者についてのいろいろな疑問に答えながら、懐具合はどうだったか、孤独ではなかったか、住まいはどんなだったか、といった、その他の問いにもこたえながら、偉大な哲学者たちに、生き生きとした姿をとりもどすことを意図したものである。たとえば、喧嘩好きのデカルトは、あまりデカルト主義的な生活をしていなかった。聖アウグスティヌスは、当世風にいえば”マグレブ人”云々、ということになる。マグレブは、地理的に現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア三国を指す。カントは先験的弁証法だけではなく、男性用ガーターベルトをも発明した。哲学は、注釈に注釈を重ねるだけのものではないし、聖なるテクストを反芻するだけのものでもない。それはまた、生活の仕方そのものなのである。傑出した思想家からの内にこそ、かえって極端な形で現れてくる人間そのもの宿命に思いいたらざるをえなくなる。やはり、哲学者の瑣末なエピソードほど面白いものはこの世のなかにはない、と感じる。
哲学者諸君、身分証明書を提示せよ/カントの召使い/内通者ソクラテス/プロイセン様式/デカルト、悪しきフランス人/饗宴の時代/真昼の悪魔/バシュラールの涙/清潔理性批判/大いなる魂と小さな男根/ホッブスの杖/アリストテレスの桶/啓示を受けた人たち/エロイーズとアベラール/サルトル、シモーヌ、イェニーと他の人々/生きた言葉について/限定された読者について/書物の墓碑/臨終の時
6.平成26年9月6日
”いのちの思想家 安藤昌益”(2012年11月 自然食通信社刊 石渡 博明著)は、江戸時代中期に富める者も貧しい者もいない平等な社会を説いた安藤昌益を育んだ、秋田の風土、昌益の生涯、昌益の思想を紹介している。
昌益が説いた”自然真営道”は、1753年刊の三巻本と,明治後期に発見された稿本101巻93冊があり、健全な心身を論じながら封建的身分制を否定するなど、鋭い社会批判が展開されているという。自然界の法則性を明らかにすることにより、人間の社会の現実がその法則に反していることを示し、自然なる状態に復帰することを通じて、健全な身体と健全な社会を実現する方法を説こうとした。稿本は1899年ころ狩野亨吉氏によって発見されたが、関東大震災で大半を焼失し、現存するのは原本12巻12冊と、人相巻の写本3巻3冊である。石渡博明氏は、1947年横須賀市生まれ、東京教育大学中退、経済協力団体勤務のかたわら安藤昌益研究に携わり、安藤昌益の会事務局長として会報を不定期で発行している。狩野亨吉氏は1865年秋田県大館市の生まれで、1876年に上京し、番町小学校、府立一中、東京大学予備門を経て、東京大学理学部数学科と文学部哲学科を卒業し、1892年から第四高等学校教授と第五高等学校教授を歴任し、1898年に第一高等学校校長に就任した。1906年には京都大学初代文科大学長になり、1908年から市井の人として後半生を過ごし、1942年に亡くなった。昌益は忘れられた思想家として、戦前は、一部でその実在さえもが疑問視されたほど、伝記的事実が不明な幻の思想家であった。戦後になって、主として在野の研究者による関連資料の発掘により、今では大筋ながらもその生涯がほぼ辿れるようになってきた。昌益は1703年に出羽国秋田郡二井田村下村、現在の秋田県大館市二井田村の農家に生まれた。長男ではなく利発であったことから、元服前後に京都に上り、仏門に入った。仏教の教えと現状に疑問を持ち、医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師で、昌益はここで医師としての修行をした。その後、陸奥国八戸の櫓横丁に居住し開業医となった。当時は凶作と飢饉が猛威をふるい、多くの餓死者を出した。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がなかった。こういう現実が、昌益の思想に大きな衝撃を与えたようである。1756年に郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなったため、1758年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせ、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった。八戸では、既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていた。1760年前後に、八戸の弟子たちが一門の全国集会を開催し、そこに昌益も参加したと言われるが、これには虚構説と実在説があるそうである。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名だった、という。その後再び郷里へ戻り、1762年にそこで亡くなった。昌益は医者、思想家、革命家、農業指導者として、封建時代まっただなかにあって身分制度を否定した。町医者をしながら、他に類を見ない独創的な思想を生み出したのであった。その考え方は、直耕、互性など、独自の言葉で表されている。また、自然と人間とが調和する社会を目指し、現代にも通じる世界初のエコロジストともいわれている。さらに、壮大な宇宙生命誌とでも言うべき新たな生命観、新たな世界観の創造、とのつながりが見られる。なお、本書は北秋田の地域紙「北鹿新聞」に連載したものをベースに、多少の修正を加えて刊行されたものである。
第1章・いのちの思想家、安藤昌益を育くんだ秋田
「安藤昌益」と、発見者「狩野亨吉」ゆかりの地へ/狩野亨吉-「大思想家」安藤昌益との出会い/安藤昌益の人物像
第2章・安藤昌益の生涯
大館時代-少年期/京都時代-青年期/八戸時代-壮年期/ふたたび大館-晩年と没後
第3章・安藤昌益の思想とは
昌益の思想的格闘/仏教と昌益/儒教と昌益/老荘(道教)と昌益-老荘に学び、老荘を批判/兵学と昌益/神道、国学と昌益-自民族主義を超えて/伝統医学と昌益
天体論、宇宙論と昌益/自然哲学の真髄「互生活真」-医学論支える互生論/安藤昌益の人間論/安藤昌益の地理観、歴史観/安藤昌益の社会観/安藤昌益の「理想社会」と世直し論/安藤昌益と秋田の風土
終章-昌益を今に、未来に
7.9月13日
”スコットランドの聖なる石”(2001年6月 日本放送出版協会刊 小林 章夫著)は、1707年にグレートブリテン王国が成立するまで独立した王国だったスコットランドの歴史に焦点を当てている。
聖なる石とは、代々のスコットランド王が戴冠式を挙げたとされるスクーンの石のことである。運命の石とも呼ばれ、聖地パレスチナにあって聖ヤコブが頭に乗せたという伝承がある。かつて消滅したスコットランドに、1999年に議会が設置された。そして、2014年9月18日にスコットランドの独立の是非を問う住民投票が実施される予定である。いま、その動向に注目が集まっているが、そもそもどのような背景でかつてスコットランドが消滅したのであろうか。小林章夫氏は、1949年東京都生まれ、上智大学大学院文学研究科修了、同志社女子大学教授を経て、現在、上智大学文学部教授を務めている。本書には、スコットランドが消滅してから300年後に議会が復活するまでが、紀行小説風に描かれている。スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接している。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接していて、本島と別に790以上の島々から構成されている。南西部のキンタイア半島からアイルランドまで30キロメートル、東海岸からノルウェーまで305キロメートル、北のフェロー諸島まで270キロメートルである。北部のハイランドは山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。6世紀ごろピクト人によって成立したアルバ王国が、スコットランド王国成立の母体となった。9世紀にダルリアダ王国のケネス1世がアルバ王国を征服し、スコットランド王国が成立した。1071年にブリテン島南部イングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランド王国への侵攻を開始した。以降、両王家には婚姻関係も生まれしばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまなかった。13世紀から14世紀にかけて、長期にわたり両国間の緊張が続き、1314年にロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服した。1603年にステュアート朝のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結んだ。その後、宗教改革、清教徒革命が起こり、主教戦争、スコットランド内戦、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争、イングランド共和国の成立、イングランドの王政復古などが起こった。歴史上最後のカトリック信仰を有する国王となったジェームズ2世は、イングランド・スコットランド・アイルランドの王であったが、名誉革命によって王位を逐われ、王国はウィリアム3世・メアリー2世の共同統治となった。ウィリアム・メアリーでなくジェームズこそ正統なる王である、という人々はジャコバイトとよばれる。ジャコバイト運動はたびたび名誉革命体制イングランドを脅かし、ジェームズの死後は息子ジェームズ老僭王を推戴して活動を続けた。その後、1707年に、スコットランド王国はイングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となった。しかし、スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっている。そのため、国際私法上の1法域を構成しており、スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は、連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。首都のエディンバラは人口でスコットランド第2の都市で、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心で、スコットランドの人口の40%が集中する。スコットランドの沿岸部は北大西洋および北海に接し、その海洋油田の石油埋蔵量はヨーロッパ随一となっている。仮に連合王国の枠組みから外れたとしても、国家として十分に存立しうるのか、経済的にも独立国としての体制を整備できるのか、また、王室との関わりをどうすべきなのか、さまざまな問題が目の前に現れてくることは必至である。本書を通じて、スコットランドのアイデンティティがかなり理解できる。
第1章 スコットランド人気質
第2章 スコットランドという国
第3章 国王不在の時代
第4章 スコットランド合併工作
第5章 ひとつの国が消えたとき
第6章 ジャコバイトの反乱
第7章 ハイランドの世界?ジャコバイトの最後の抵抗
第8章 その後のスコットランド
8.9月20日
”あの世この世”(2003年11月 新潮社刊 瀬戸内寂聴/玄侑宗久著)は、この世とあの世についての僧侶作家2人による道案内の対談集である。
この世は現世であるが、あの世とは何であろうか。人は死後、魂を清めて仏になるために中陰の道を歩き、あの世を目指す。その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦されるという。瀬戸内寂聴氏は、1922年徳島生れ、東京女子大学卒、1957年新潮社同人雑誌賞受賞、1961年田村俊子賞、1963年女流文学賞を受賞した。1973年11月14日平泉中尊寺で得度、法名寂聴である。1992年谷崎潤一郎賞、1996年芸術選奨、2001年野間文芸賞、2006年文化勲章、2008年安吾賞、2011年泉鏡花文学賞を受賞した。玄侑宗久氏は、1956年福島県三春町生れ、慶應義塾大学中国文学科卒、様々な仕事を経験した後、京都の天龍寺専門道場で修行し、現在は臨済宗妙心寺派の福聚寺住職である。2001年芥川賞、2014年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。年の差34歳のふたりが初顔合わせして、お互いの小説や修行僧時代の秘話から始まり、愛欲の悩みや不慮の死他、いろいろな話題を、聖俗両側から人の煩悩を見つめ、あの世とこの世を縦横無尽に語り合っている。お釈迦さまはこの世は苦だと言われたが、人間の受けている苦の中で、何といっても愛別離苦という、愛する人に死に別れることくらい苦しく辛いことはない。相談に来る人のほとんどが、そういうことで悩んでいる。そして、あの世というのはあるかと訊かれることがあるが、そのとき困って、悪いけど、まだ死んだことないからよくわからないと答える、という。でも、何かもっと安心させてあげられる答えはないか、といつも考えていた。お釈迦さまはこの質問には、無記と言って何も答えなかった。アミターバという小説の中に、人が死んだらエネルギーになるという会話がある。アミターバは無量光明=無限の光をもつもの、アミターユスは無量寿=無限の寿命をもつものと訳され、阿弥陀如来を指している。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土を持ち、仏教的浄土そのものという感じもする、死後に行くかもしれない世界である。浄土教の大無量寿教の中に、向こう側の浄土では、見たいものが見られるし、聞きたい音が聞こえるし、嗅ぎたい匂いが嗅げるという描写がある。エネルギーとして考えると、そういうことがありうるのではないか。この世は美しい、そしてあの世も美しい。
1 あの世はあるのでしょうか
2 仏教に入るまでの道を辿る
3 お釈迦さまの慈悲と最後の旅について
4 この世の苦と楽について教えてください
5 ふたたび、あの世とはどんなものでしょうか
9.9月27日
”坂の上のヤポーニア”(2010年12月 産経新聞出版刊 平野 久美子著)は、日露戦争直後に一人のリトアニア人青年が描いたあこがれの国ニッポンが描かれている。
リトアニア共和国はバルト海東岸に南北に並ぶいわゆるバルト三国の一つで、西はバルト海に面し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアの飛び地カリーニングラード州と国境を接している。1253年にミンダウガス大公がリトアニア国王となり、1386年にヨガイラ王、ポーランド王を兼ねた。1569年にポーランドと連合国家となり、1795年に第3次ポーランド分割により大部分がロシア領となった。平野久美子氏は、東京都出身、学習院大学卒業、出版社勤務を経て執筆活動に従事し、豊富な海外取材をもとに、多角的にアジアをとらえた作品が多い。1904年に日露戦争が勃発し、ロシアと日本が韓国と旧満州の支配をめぐり争いとなり、日本軍は2月に旅順のロシア艦隊を攻撃し、12月には多くの犠牲者を出しながらも、旅順港を見下ろす203高地を占領し、翌年1月、旅順の要塞を陥落させた。5月に日本海海戦でバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与え、アメリカ大統領のあっせんで講和となった。このころ、ステポナス・カイリースは、ロシア軍敗北のニュースを聞いて、昂揚する気持を抑えきれずにいた。カイリースは1879年リトアニア北部の地主の子として生まれ、1898年にペテルブルク工科大学に入学した。1904年ころから、日本の存在を通してナショナリズムに目覚めた。当時、リトアニアや他のロシア属領の学生たちと語り合い、極東の島国ニッポンへ思いを馳せた。カイリースは日本に行ったことは一度もなかったが、当時のペテルブルクにはかなり詳細な日本研究書があった。カイリースはそれらを通じて日本について研究し、1906年に、『日本今昔』『日本人の暮らし』『日本の政治構造』の三巻の冊子を出版した。当時のリトアニアと日本論を通して、リトアニア人を啓蒙しようとする意図があったと思われる。1911年に結婚し、1912年から市役所の建築技師として勤務し、1917年に第一回リトアニア評議会第一議長となった。カイリースは、1917年から1919まで発行されていた、リトアニア社会民主党の週刊新聞の編集長を務めていた。リトアニア社会民主党の思想を広め、労働者の置かれた状況や国内外の政治、経済、文化などを取り扱った。第一次世界大戦後の1918年に、リトアニアは共和国としてロシア帝国より独立した。カイリースは、リトアニア評議会のメンバーとして、独立宣言書に署名し採択された。カイリースはもともとエンジニアで、リトアニアの独立運動に貢献した後、1939年にカウナス大学工学部教授となった。その後、リトアニアは1940年にソビエト連邦から、翌1941年にナチス・ドイツからも侵略された。カイリースは、1943年にカウナスに設立されたリトアニア解放最高委員会の初代議長に選出された。1944年にソビエト連邦軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に編入された。1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦った。約3万人のパルチザン兵士と支援者は殺され、その他にも多くが逮捕され、シベリアのグラグへと強制追放された。カイリースは1951年にアメリカに亡命し、1964年にニューヨーク市郊外のロングアイランドで亡くなった。享年85歳であった。その後、リトアニアでは、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカやグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され独立運動へと発展していった。そして、1990年のリトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙でサユディスが大勝利し、最高会議議長が独立回復を宣言した。本書には、約100年前の意気揚々としたニッポンと、道徳心に富んだ日本人の姿が描かれている。日本人にとっての明治が西洋列強に追いつくことを夢見た時代だったように、当時のリトアニア人もまた、日本という憧れの独立国家を見ていたという。
第1章 いたいたしいまでの昂揚
第2章 ニッポンの奇跡
第3章 ニッポン歴史
第4章 文明開化の音がする
第5章 我々も革命を欲す
第6章 カイリースの肖像
第7章 リトアニアと日本-あれから七十年目、二十年目の夏
10.平成26年10月4日
”カタルーニャの歴史と文化”(2006年1月 白水社刊 M.ジンマーマン/M=C.ジンマーマン著/田澤 耕訳)は、かつて一大地中海帝国であったカタルーニャの歴史と文化を紹介している。
カタルーニャ政府は、2014年11月9日にカタルーニャ独立への賛否を問う国民投票の実施が予定されている。バルセロナを州都とする、スペイン北東部の自治州カタルーニャは、かつて、南仏、地中海に進出し、遠くギリシャにまでその支配を広げていた。その後、王家の断絶によって15世紀頃から衰退していき、以降、不遇をかこつことになった。M.ジンマーマン氏は、1937年に生れで、ドゥルーズ大学でカタルーニャの歴史を学んだトゥルーズ学派に連なる歴史家で、専門はカタルーニャ中世史で、ベルサイユ大学教授を務めている。M=C.ジンマーマン氏は、1937年生れで、ソルボンヌで文学を学び、現代詩に造詣が深く、専門はカタルーニャ中世文学で、パリ第四大学教授を務めている。田澤 耕氏は、1953年生れ、一橋大学社会学部卒業、大阪外国語大学修士課程修了、バルセロナ大学博士課程修了、カタルーニャ語カタルーニャ文学専攻で、法政大学国際文化学部教授を務めている。カタルーニャの地には、昔、この地方に多くの先住民のイベリア人が住んでいた。 紀元前7世紀に、ギリシャ人が交易を目的に住みついて、海岸沿いにアンプリアス市が作られた。紀元前3世紀から後5世紀にローマ人に征服され、ローマの植民地になった。5世紀から7世紀にローマ帝国が滅亡し、西ゴート王国が建設されバルセロナは西ゴートの首都になった。7世紀から、イスラム教徒がイベリア半島を侵略した。732年に、イスラム教徒がフランス西部のプアティエ市まで侵略し、イスラムによって支配された。8世紀に、フランス国王がフランスを守るため、ピレネー山脈に辺境領を作った。辺境領とは、国境付近に防備の必要上置いた軍事的領地で、後、このエリアがカタルーニャになっていった。988年に、辺境領を統治していたバルセロナ公爵によってフランスから独立した。12世紀から15世紀に、バレンシア州、アラゴン州、バレアレス諸島、南イタリア、南ギリシャ、シシリア島、サルデーニャ島などがカタルーニャの植民地になり、カタルーニャは地中海貿易で栄えた。15世紀の終わり頃、カトリック両王の政略結婚でカタルーニャ、アラゴン、レオンとカスティヤが連合し、スペイン国の始まりとなった。1700年から1751年に、スペイン継承戦争を負けたカタルーニャは自治権を奪われ、スペイン王国の州になった。カタルーニャ政府がなくなり、カタルーニャ語使用は公衆の場で禁止となった。1975年にフランコ独裁者が死亡した。1977年にカタルーニャ自治州政府、ラ・ジェネラリタットが復活した。1988年にカタルーニャが誕生し、1000周年となった。カタルーユヤは1000年以上の歴史を有する国である。カタルーニャは、周辺諸国に対抗して国としての意識を持ちはじめたのちにも、完全な主権を有無を言わさず認めさせる機会にほとんど恵まれなかった。カタルーニャは、単独の君主というものを待ったことがない。約1000年の間、隣国の歴史に束縛されたり、統合されたり、同化させられたりしてきた。国家を持かなったために、カタルーンャ民族は9かの国家の一部を成さざるをえなかった。自分の領土にしがみつく、典型的な国家なき民族の地位に甘んじてきた。しかし、カタルーニャでは、ある明確な歴史感覚が共有されていることも確かである。それは、民族の創成期にあたる中世を重視する歴史感覚である。2006年に、カタルーニャ州議会がカタルーニャ自治憲章を改正した。2010年に、スペイン憲法裁判所は、3年をかけてカタルーニャ新自治憲章のいくつかの段落を破棄した。2010年に、カタルーニャ人が怒り、バルセロナでは150万人がデモを行い、カタロニアの独立を求めた。2012年に、景気が悪化し、スペインとカタルーニャの間で、文化、教育、言語、政治、税収等のトラブルが多発した。2012年に、バルセロナで、スペインからの独立や自治権拡大を求める大規模なデモが行われた。そして、今回の住民投票はどのような結果になるであろうか。本書は、独自言語と独立志向を保ちつづけた民族的アイデンティティ確立の道のりと、その豊かな文化を解説している。
第1章 カタルーニャの先史時代
第2章 中世カタルーニャ-民族の誕生、そして国家の形成と拡大(785~1412年)第3章 低迷と従属(1412~1833年)
第4章 カタルーニャのルネサンス-政治的自立回復と挫折(1833~1975年)
第5章 カタルーニャ文学-世界的遺産への道
第6章 芸術的創造の実験室-ロマネスク教会から2000年代の都市計画まで
11.10月11日
”武士道と修養”(2012年8月 実業之日本社刊 新渡戸 稲造著)は、日本人の原点にある武士道精神についての新渡戸哲学から、克己をテーマに精選したものである。
新渡戸博士の英文”武士道”=BUSHIDO: The Soul of Japanは、1900年に初版が出版された。新渡戸博士は、日本の農学者、教育者、思想家である。1862年に盛岡藩の当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれた。1871年に兄道郎とともに上京し、叔父太田時敏の養子となった。1873年に東京外国語学校英語科に入学し、1877年に札幌農学校に第二期生として入学し、卒業後、東京大学選科に入学した。同時に、成立学舎にも通った。1882年に農商務省御用掛となり、札幌農学校予科教授となった。1884年に渡米してジョンズ・ホプキンス大学に入学し、1886年にクェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢った。1887年に独ボン大学で農政、農業経済学を研究し、1889年にジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号が授与された。長兄七郎が没したため、新渡戸姓に復帰した。1891年に米国人メリー・エルキントンと結婚し帰国、札幌農学校教授となった。1897年に札幌農学校を退官し、群馬県で静養中に”農業本論”を出版し、1900年に英文”武士道”を初版出版した。その後、国際連盟事務次長も務め、東京女子大学初代学長、東京女子経済専門学校初代校長を務めた。1933年にカナダ・バンフにて開催の第5回太平洋会議に出席し、ビクトリア市にて客死した。本書は、本年2012年9月に生誕150年を迎えた新渡戸稲造博士の大ベストセラー”武士道””修養”から、克己をテーマとして項目を精選したものである。武士道については、江戸時代初期に武田家臣春日虎綱の口述記とされる”甲陽軍鑑”の中で、個人的な戦闘者の生存術としての武士道についての記述がある。武名を高めることにより、自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。家臣としての処世術にも等しいもので、普遍的に語られる道徳大系としての武士道とは趣が異なっている。道徳大系としての武士道は、主君に忠誠し親孝行して弱き者を助け名誉を重んじよ、という思想である。家名の存続という儒教的態度が底流に流れているものが多く、江戸期に思想的隆盛を迎え武士道として体系付けられた。そして、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに武士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理が武士に要求される規範とされるようになった。ほかに、”葉隠”の武士道や、山岡鉄舟の”武士道”もある。新渡戸博士の”武士道”は、外国での教育関係者との会話において、日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、日本の武士道を解説したという背景があるそうである。1900年に英語で出版された”武士道”は、セオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得て、1908年に日本語訳が出版され、1938年に新渡戸門下生の矢内原忠雄訳により岩波文庫版が出版された。本書は、現代仮名遣いを用いた平易な日本語で再編集され、新たに編纂されたものである。明治、大正、昭和の時代、国の復興、発展に尽力した“真の国際人”新渡戸博士の教えは、多くの人々に大きな感化を与え、今もまったく色あせることはない。武士道の教えは永遠に続く、という言葉で締めくくられている。
【修養篇】
第一章 折れぬ心を欲する者へ(『修養』第五章「勇気の修養」より)
第二章 敵を見極め、己に克つ(『修養』第六章「克己の工夫」より)
第三章 天を楽しみ地を楽しんで、世を渡る(『修養』第十三章「道」より)
【武士道篇】
序文 僕が『武士道』執筆に至った動機(『武士道』「原序」より)
第一章 武士道とは何であるのか(『武士道』第一章「武士道の倫理系」より)
第二章 武士道の源にあるもの(『武士道』第二章「武士道の淵源」より)
第三章 正義―もっとも厳しく、率直で男らしい徳(『武士道』第三章「正義」よ第四章 勇気―勇敢で冷静沈着な心(『武士道』第四章「勇気」より)
第五章 仁―君主たる者が持つべき資質(『武士道』第五章「仁」より)
第六章 礼―人に対する同情の優美な表れ(『武士道』第六章「礼儀」より)
第七章 誠―地位の高い者の徳(『武士道』第七章「至誠」より)
第八章 名誉―恥を知り、試練に耐える(『武士道』第八章「名誉」より)
第九章 忠節―命をかけて守るべきもの(『武士道』第九章「忠節」より)
第十章 現在に活かす武士道―不死鳥のように蘇る(『武士道』第十七章「武士道の将来」より)
12.10月18日
”アルバニア現代史”(1991年11月 晃洋書房刊 中津 孝司著)は、いまだ大多数の日本人に殆ど知られていない神秘の国アルバニアについて、1991年時点での現代史を紹介している。
アルバニアと言っても首都のティアラやサッカーチームのことが知られているくらいで、バルカン半島の小国という認識を出ていない。”アルバニア現代史”でインターネット検索しても、本書が出てくる位である。中津孝司氏は、1961年生れ、1984年に大阪外国語大学外国語学部ロシア語学科し卒業、1989年に神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得満期退学し、現在、大阪商業大学商学科教授である。経済学博士で、専門は、グローバル経済と日本、ロシア東欧経済論、ロシア東欧文化事情である。アルバニアは共和国で人口は約300万人、西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接している。イスラム教を信仰する国民が大半を占めるが、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。古代には、イリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシャ文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まった。一時的に侵攻は阻止されたが、1478年にオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配が行われた。1912年にオスマントルコから独立したが、国境画定の際にコソボなど独立勢力が国土としていた地の半分以上が削られた。1914年にドイツ帝国の貴族ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となった。第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、政情は不安定であった。1925年に共和国宣言を行い、アフメド・ゾグーが大統領に就任した。1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再び君主政のアルバニア王国が成立した。1939年にイタリア軍が全土に進駐し、ゾグーは王妃と共に亡命した。アルバニアはイタリアの保護領となり、後に併合された。1944年に共産党が臨時政府樹立し、全土を解放した。第二次世界大戦後にほぼ鎖国状態となり、1961年にソ連と断交し、1976年には中国の経済軍事援助が停止された。1978年から完全な鎖国状態となり、経済は低調で、長年、欧州最貧国の扱いを受けていた。国民はみな貧しく、ある意味では平等な状態にあった。ホッジャを首班とする独裁政権下では、国民は渡航規制、外国書物規制、放送規制を強いられ、海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1985年にホッジャ勤労党第1書記は死去し、1990年に野党設立が許可され、複数政党制が導入され、外貨導入が解禁された。本書では、ここまでのことが記載されている。この頃、投資会社という名目でねずみ講が蔓延し、集めた資金で武器をボスニア・ヘルツェゴビナ紛争当事者へ売り払い、て収入を得て配当を行った。しかし、ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した。その後、1991年に初の自由選挙が実施され、臨時憲法が制定され、米、英と国交が回復され、ECと外交関係が形成され、IMF、世銀、CSCEに加盟した。しかし、2012年の時点で、一人当たりの国内総生産は、旧ユーゴスラビア諸国と旧ソ連諸国を除くヨーロッパ諸国のなかでは、名目、実質ともに最低の状態が続いている。本書では、クローム鉱が産出されることなどに注目して、日本はもっとアルバニアに目を向けるべきだと主張している。
プロローグ-直面せる問題
1鎖国への道程
2政治の構造
3経済の構造
4国際関係の構造
エピローグ-アルバニアの行方
13.10月25日
”魯迅の愛した内山書店”(2014年2月 かもがわ出版刊 本庄 豊著)は、上海にあった内山書店店主の完造と妻の美喜の視点で、当時の国際連帯の物語を描いている。
本書は、週刊”京都民報”に掲載されていたものに、加筆・修正を加えたものである。完造の妻・美喜=1893~1945の甥の宇治市小倉町在住の井上浩さん宅に残された手紙や写真をもとに、史料発掘に乗り出して、成果を1冊にまとめた。副題に”上海雁ヶ音茶館をめぐる国際連帯の物語”とある。雁ヶ音は内山書店で客に出していたお茶の銘柄のことで、妻の美喜の実家は宇治で、そこで仕入れたお茶をサロンで振舞っていた。本庄 豊氏は1954年群馬県安中市生まれ、前橋高等学校、東京都立大学卒、現在立命館宇治中学校・高等学校教諭、立命館大学兼任講師を務めている。京都歴史教育者協議会副会長で、専門研究は近代日本社会運動史、平和教育学である。中国を代表する文豪・魯迅=1881~1936と、内山完造=1885~1959が上海で開いた内山書店との交流を軸に、宇治、とりわけ内山夫妻とゆかりのある小倉の”山政”小山園の往時が描かれている。魯迅は本名を周樹人といい、浙江省紹興市出身で、牛込の日本語学校・弘文学院で日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校に留学した。内山書店は1917年から1947年まで上海にあり、日中の文化人・作家の交流の場になった。魯迅は、中国の圧政に抗しつつ、同じく日本の圧政と闘う小林多喜二や尾崎秀美ら多くの日本人と交流し、連帯を深めた。その拠点となったのが、1917年に上海に誕生した内山書店であった。魯迅はここで日本語の書籍を1000種類以上購入し、バーナード・ショーやアグネス・スメドレー等と交流したという。内山完造は1885年に岡山県後月郡芳井村、現・井原市で生れ、1897年に秋郷里の高等小学校を退学し、大阪の丁稚奉公に出で、以後27歳まで商家の店員として働き社会の辛酸を体験した。1913年に京都教会牧師牧野虎次の紹介で大学目薬の海外出張員となり、上海へ渡航して中国生活の第一歩を開始した。1916年に井上美喜と結婚し、上海呉淞路義豊里に間借りの新居を構えたが、すぐに北四川路魏盛里に移転した。1917年に魏盛里の自宅玄関先を利用して、妻美喜が小さな本屋を開いた。上海内山書店の誕生であった。1924年に向かい側の空家も購入し、本格的な書店となった。この頃から、内山書店は在上海・日中文化人のサロンとなり、やがて文芸漫談会が生まれ機関誌”万華鏡”が発行された。中国人メンバーは、田漢、欧陽予倩、鄭伯奇らで、のち郭沫若、郁達夫らも参加した。1927年に円本ブームにより、内山書店は急速に発展した。10月に広東を脱出して上海に移った魯迅と会い、以後両者の聞には深い親交が結ばれた。翌年2月、日本へ亡命する郭沫若を援助した。1929年に内山書店は北四川路底に進出し、四馬路に支店を開いた。翌年、大学目薬の仕事をやめた。1931年1月に左連作家虐殺事件が生じ、危険の迫った魯迅を庇護した。3月に来遊した増田渉を魯迅に紹介した。内山完造の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岩波茂雄ら多数にのぼる。日中関係のもっとも険悪・困難な時期に、上海を訪れる日本人の案内役をし、日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供した。1936年に魯迅が逝去すると、”魯迅文学賞”を発起し、”魯迅全集”の編集顧問にも選ばれた。1945年に戦争が終わり日本に帰国したが、その後も日中友好に尽力し、日中友好協会の創立メンバーの一人になっている。その後、1947年に古本屋を開業し、1950年に日中友好協会理事長となり、1959年に病気療養のため中国にわたり、北京で脳溢血のため死去した。今、東京・神田にある内山書店は、弟の内山嘉吉が1935年に開いたものであるという。1981年9月に、上海市民は内山書店の跡地に記念碑を建てた。その碑には”この店は日本の友好人士?内山完造が設立した店である。魯迅先生はいつもこの店で本を買い、客と会い、更にはここに避難したこともある。これを特に石に刻み、記念とする”と、刻まれている。
序章 多喜二虐殺
1章 結ばれるまで
2章 北四川路魏盛里内山書店
3章 谷崎潤一郎と中国青年たち
4章 周樹人先生登場
5章 魯迅と日本文化人たち
6章 革命の上海で
7章 魯迅臨終
8章 再び日本へ、そしてまた上海へ
終章 内山書店の終焉
14.平成26年11月1日
”ハクティビズムとは何か”(2012年8月 ソフトバンククリエイティブ刊 塚越 健司著)は、ウィキリークスやアノニマスなどの背景にあるハクティビズムに関連してネット社会を論じている。
ハクティビズムは、社会的・政治的な主張のもとにハッキング活動を行うことである。ハッキングとアクティビズムを合わせた造語で、主な活動は自分たちが敵と見なしている企業や他国政府のWebサイトを攻撃してダウンさせたり、Webページを改竄して自分たちの声明を掲載したりすることである。塚越健司氏は、1984年生まれ、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程在籍中で、専攻は情報社会学、社会哲学である。ハクティビズムによってハッキング活動を行う個人や組織は、ハクティビストと呼ばれる。ウィキリークスは、2006年にハッカーのジュリアン・アサンジが立ち上げたサイトである。企業や政府の、内部告発された機密情報を掲載することを主な目的としている。アサンジは暗号技術のスペシャリストで、一般人からウィキリークスに提供された情報は暗号化され、何重にも海外のサーバーを経由することで、いつ誰が投稿したのかわからないように細工されている。アメリカ軍のブラッドリー・マニング上等兵は、アメリカ軍の機密情報をウィキリークスに対して提供したのであるが、その数が70万件と多すぎたためウィキリークス側が処理しきれず、マニング上等兵への手がかりを残したままサイトに掲載してしまった。それが原因でマニング上等兵は逮捕され、裁判にかけられた後、35年の禁固刑が確定している。日本でも活発に活動が行われ、2008年に高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事件の非公開情報を公開したことで、社会に大きな衝撃を与えた。国際的に知名度の高いハッカー集団として、アノニマスやラルズセックがある。アノニマスは、情報の自由を守るという大義を掲げ、大義に反する企業や政府に対して合法非合法を問わず抗議活動を行う。具体的な法人などが存在するわけではなく、インターネットの掲示板を基本とした緩やかな繋がりを通じて活動が行われている。日本でも活発に活動しており、2011年にプレイステーションをクラッキングしたハッカーに対し、SONY側が起訴したことへの抗議として行った活動が有名である。最近では、2014年1月にイルカ漁への抗議活動として和歌山県が運営する情報サイトをサーバーダウンさせている。ハッカーには、ハッカー倫理と呼ばれる暗黙のルールがある。それは徹底した情報の自由と情報の共有という信念であり、非合理的な官僚主義と権威主義に対する反発にある。ハッカーは自らの実力で事を成す社会に生きているが、その過程においては情報を広く共有する事で、より合理的で創造的な実践を可能にする。本書は、市民的不服従という観点から、ハクティビズムについて考察している。本書を通じて、ハックによる社会の変革、つまり社会的ハックが如何にして行われるのかを知ることができる。
第1章 コンピュータとハッカーの登場
第2章 ハッカーと権力の衝突
第3章 創造性とウィキリークス
第4章 仮面の集団アノニマス
第5章 ハクティビズムはどこに向かうのか
15.11月8日
”「好きなこと」だけで生きぬく力”(2012年1月 WAVE出版刊 宮脇 修一著)は、好きをきわめて勝ち続けるという羨やましいような生き方が紹介されている。
老舗フィギュアメーカー・海洋堂社長による、好きをきわめて勝ち続けるための思考法である。宮脇修一氏は、1957年大阪府生まれ、海洋堂二代目社長で、オタクビジネス業界のカリスマとして活躍している。海洋堂は、父、宮脇修が模型店として1964年に創業した。1980年代に、ガレージキットの製作をスタートし、1999年に、チョコエッグを生み出し、爆発的にヒットさせた。その後、多くの大手メーカーとコラボし、食玩だけにとどまらず、様々な付録や博覧会のフィギュア、模型などを商品化している。海洋堂は、マーケティングはいっさいせず、社員教育は考えたことかなく、会社を大きくすることには興味がなく、大人の解決はするはずがなく、経営形態はばりばりのファミリー経営で、5年先の未来は考えていない会社だという。世の中の、こうあるべきというまともな会社の姿と、すべてにおいて、逆をいっている。社員はいわゆるオタクといわれるような者たちばかりで、成功の秘訣はよく分からない。おもちやメーカーではなく、大阪の小さな模型店から始まり、そこにプラモ好きや模型好きが集まって、その好きを形にするためだけに心血を注いできたフィギュアメーカーである。世の中の大きな流れや組織に媚びることなく、好きなことを一心不乱にやり続け、自分がこうありたいという気持ちに、正直に生きてきた。模型と出会ってから50年、子どもの頃から父の経営する模型店で模型に囲まれて育ち、誰よりも模型やプラモデルにくわしく、誰よりも模型が好きな子どもとして育った四半世紀におよぶ模型オタクである。海洋堂の人間たちは、好きなことに対する情熱では人には負けない。動物が好きとか、戦車が好きとか、ロボットが好きとか、美少女が好きとか、それぞれに必ず好きなものがある。たくさんの失敗を重ねながらやってきて、好きだという気持ちが人生の大きな原動力となっている。好きなものがあるというのはものすごく強いことであり、ものすごく幸せなことである。誰だって、好きなことなら本気になれる、好きなことなら集中できる、好きなことなら工夫ができる、好きなことのためなら行動を起こせる。人生を賭けられるくらい好きなことがあるというだけで、人生は間違いなくパワーアップする。嫌いなことをしかたなしにやっていても物事はなかなかうまくいかないが、好きなことをしていれば習得も早いしどんどん上達する。そして、なんといっても楽しい。好きなことをしているから、人生は輝く。人生を賭けられるくらい、好きなことを見つけてほしい。
第1章 “非”常識な力を身につける
第2章 究極のプロに学ぶ仕事力
第3章 「人間力」こそ最強の武器
第4章 死ぬまで買わせる技術
第5章 「好き」を極めて生きていく
16.11月15日
”アルメニアを知るための65章”(2009年5月 明石書店刊 中島偉晴/メラニア・バグダサリアン編著)は、日本では馴染みの薄いアルメニアの歴史、文化、社会を詳しく紹介している。
アルメニアは、長い歴史と豊かな生活・文化を有する国で、黒海とカスピ海に東西を挟まれ、南にティグリス、ユーフラテス川の沃土を望む高地にある。古来より東西交易の拠点として繁栄し、周辺大国から侵略を受けてきた歴史がある。中島偉晴氏は、1939年東京目黒の生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業し産業団体に勤務し定年退職した。1980年以来アルメニアを訪問し、1984年に日本アルメニア研究所を設立した。メラニア・バグダサリアン氏は、1964年エレバン生まれ、アルメニア国立エレバン大学言語学部ローマン・ゲルマン語学科で英語を専攻し、国立サルダラパート民族誌学博物館に勤務したあと、1992年に来日した。アルメニア共和国は、西アジアの南コーカサスに位置し、トルコ・イラン・グルジア・アゼルバイジャンと接する内陸国である。首都エレバンは紀元前8世紀にはすでに存在が確認され、現存する最古の町のひとつである。かつての大アルメニア王国は、紀元前190年から紀元前66年まで独立していた。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした世界初のキリスト教国家である。そして、428年までローマとペルシア帝国に従属していた。その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り、さらにアラブの侵攻を受けたが、9世紀半ばにバグラト朝が興り独立を回復した。しかし、セルジューク朝、モンゴル・ティムール朝などの侵入が相次いで、国土は荒廃した。このため、10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てることになった。1636年にオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治された。1826年の第二次ロシア・ペルシア戦争の結果、1828年の講和条約・トルコマンチャーイ条約によって、ペルシア領アルメニアはロシア領となった。19世紀後半に、オスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発が大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化した。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。ロシア革命後にアルメニア民主共和国が樹立されたが、赤軍の侵攻により崩壊した。ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の一部となった後、1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった。1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州で、アルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との衝突が起り、両国の本格的な民族紛争に発展した。これを契機としてアルメニアは独立を宣言したが、ソ連軍の侵攻を受けた。しかし、1991年にソ連保守派のクーデターが失敗し、アルメニア共和国は独立を遂げ、一方で、ソ連邦は解体・消滅した。なお、固有名詞のカタナカ表記に関して、本書ではアルメニア語の発音をできるだけ正しく表すため、一部、一般と異なる表記もされている。
Ⅰ アルメニア 石・水・陽光
Ⅱ 歴 史
Ⅲ 政治・経済
Ⅳ アルメニア人ジェノサイド
Ⅴ ディアスポラの起こりと世界のアルメニア人
Ⅵ 生活・文化
Ⅶ 日本とアルメニア 人びとの交流――それぞれの思いをのせて
17.11月22日
”高島嘉右衛門 横浜政商の実業史”(2012年8月 日本経済評論社刊 松田 裕之著)は、明治初期に横浜港の埋め立て事業を手がけ横浜の発展に寄与し横浜の父と呼ばれる幕末・維新期の実業家で易学家の高島嘉右衛門の生涯を紹介している。
高島嘉右衛門は、吉田勘兵衛、苅部清兵衛らとともに横浜三名士ともいわれ、その業績は高島町という地名にも残っている。獄中生活を経験し、その後、異人館建築、鉄道敷設、ガス灯事業に洋学教育に携わるなど、高島易聖の裏に秘められた波乱の生涯を送った。松田裕之氏は、1958年大阪・豊中市生まれ、関西大学大学院商学研究科博士課程後期課程修了、商学博士で、松商学園短期大学、産能短大、関西学院大学、甲子園大学で講義を担当し、現在、神戸学院大学経営学部教授を務めている。高島嘉右衛門は、1832年に江戸三十間堀材木商の子として生まれ、横浜太田町に商店を開き外国貿易を企てたが、1860年に幕府の禁令にふれ一時入獄した。このとき、牢内の古畳の間から易経が出てきたため、易経を暗誦できるまで読みふけり、紙縒りを作って筮竹として占った。この出来事がきっかけとなり、普段の生活の中でも卦を立てていた、という。明治維新後、1870年より新橋・横浜間の鉄道や道路の開設に当たり、また横浜のガス灯の設置や埋立事業にも関係した。京浜問鉄道用地埋立工事、横浜イギリス仮公使館・神奈川県燈明台役所・各地灯台などの洋風建築の普請請負、本格的な要人専用旅館高島屋の経営、蒸気船高島号による横浜・函館問定期航路の開設、本邦初の瓦斯会社日本社中の設立、横浜歓楽街高島町遊郭の設置、洋学教育機関としては慶応義塾にも匹敵する高島学校の創設、華族たちと提携した私設鉄道プロジェクト、愛知セメント会社の買収と横浜築港工事への参加、横浜共同電燈会社・北海道炭礦鉄道会社・東京市街電気鉄道会社の社長職就任、北海道開拓事業の推進、帝国貯蓄銀行の設立など、その事業活動歴は驚くほど広範にわたっている。明治の実業界には、海運王の岩崎弥太郎、セメント王の浅野総一郎、造船王の川崎正蔵、鉱山王の古河市兵衛、鉄道王の雨宮敬次郎、金融王の安田善次郎など、多数の何とか王が出現した。高島嘉右衛門も彼らと同世代であるが、何とか王とは言われていない。高島嘉右衛門は、瓦斯、電気、石炭という当時の最新子エルギーに関連する事業にいち早く手を染めた。つぎつぎと新しい事業に挑む姿勢からは起業王というフレーズも浮かぶが、これはやはり渋沢栄一にこそふさわしい。高島嘉右衛門は、王国=財閥を築かなかったのである。渋沢栄一もまた財閥を築かなかったが、この人物は王に王たる器量と才幹を備えた稀有の存在であった。高島嘉右衛門はときに王らを脅かし、ときに王らと手を組みながら、自由間達に実業の黎明期を駆け抜けた風雲児であり、王ではなく漢と呼ぶにふさわしい。本書は、高島嘉右衛門という易聖という奇妙な呼び名のなかに融解した、事業家としての実像をあきらかにしようとした伝記である。自らの死期を予知し、生前に既に死期を記した位牌も持っていたとされ、その予知通りに1914年に死去した、という。墓所は泉岳寺、戒名は”大観院神易呑象居士”である。
序 章 奇妙なり嘉右衛門
第1章 材木普請御用遠州屋の悲哀
第2章 陶器輸出商肥前屋の失態
第3章 高島嘉右衛門の誕生
第4章 政商嘉右衛門の野望と挑戦
第5章 開化仕掛け人と実業の夜明け
終 章 虚業と実業のはざまを生きて
18.11月29日
”ウエットな資本主義”(2010年5月 日本経済新聞出版社刊 鎌田 實著)は、ドライなだけの経済ではダメであり、強くてあったかな国にすれば日本は必ず強くなる、という。
苦境に立つ日本でどうやって明るい未来を創るのか、みんなが安心できる物語を信じれば日本はきっと強くなれる、という。鎌田實氏は、1948年東京生まれ、東京医科歯科大学を卒業して長野県の諏訪中央病院にて、地域と一体になった医療や、患者の心のケアも含めた医療に携わり、赤字病院を黒字化した。1988年に諏訪中央病院院長となり、現在は諏訪中央病院名誉院長、東京医科歯科大学臨床教授、東海大学医学部非常勤教授、岐阜経済大学客員教授などを務めている。混迷のなかで、日本は行く道が見えてこなくなっている。公共投資の罠、流動性の罠、規制の罠など、たくさんの罠がしかけられている。これからの日本の正しい選択は何か、と考えてきた。この10年、日本はアメリカをお手本にしながら、国づくりを行ってきた。しかし、もともとアメリカは砂漠のある多民族の国である。気候もドライである。いろいろな国から移ってきたたくさんの人間が生き抜くためには、透明性のある競争社会をつくるしかなかった。でも、日本はちょっと違う。水が豊かで、湿気の多い国である。梅雨もある。気候もウエットである。この気候で何万年も生きてきた。僕たちは感覚的になかなかドライになれないのではないだろうか。資本主義社会は、競争主義を前提としている。だからこそ、競争主義の土台のところに、あたたかな血が通っていなければならならいと思う。資本主義は波である。下がった波は必ず上がる。上向きの波をつくるためには、お金とあたたかさをまわすことが必要である。今、日本経済にとって最大の弱みは、国の借金が膨らみすぎていることである。財政の規律、財政の再建策が将来に向けてはっきりしない限り、弱含みな経済は続く。日本は1400兆円の個人資産を持っている国である。この資産の1割が動きだせば経済危機から脱出できる。国民をどれだけあったかな心にさせられるかが、ここも大きなポイントである。最後は国が守ってくれるから、一生懸命働いて貯めたお金は死ぬ間際までに上手に使いきると言える、国民が安心を感じられるような国の物語が必要である。そのためには、医療や福祉を充実させながら、そこに新しい雇用を生み出す。新しい雇用によって、消費できる人が増える。これが分厚い中流をつくっていく一つのきっかけにもなっていく。今はピンチであるが、チャンスでもある。未曾有の経済危機を脱して、本当に愛せる国をつくる。そのために、1人ひとりが意識して、新しい資本主義社会をつくっていく必要があるのではないだろうか。子育てや教育、医療、福祉、雇用という国の下半身にあたたかい血を通わせる。そして世界に誇れる産業という強い上半身をつくる。そのための根本理念を、ウエットな資本主義という。かつての日本では、子供たちは幸せをあまり感じていなかった。ウエットな資本主義で、幸せを感じられる国になったらうれしい。強くてあったかくて誇りの持てる国、日本、そんな国はまちがいなく、手の届くところにある。本の中で、田舎医者の思い違いもあると思うが、あたたかな目で見ていただきたい、という。
第一章 資本主義に、あったかな血を通わせよう
第二章 下がった波は必ず上がる
第三章 金融資本を悪者と決めつけない
第四章 日の丸はウエットな資本主義によく似合う
第五章 みんなが安心できる物語を語れ
第六章 ウツからソウへ舵を切れ
19.平成26年12月6日
”未来の社会学”(2014年10月 河出書房新社刊 若林 幹夫著)は、未来の社会学、つまり未来を対象とする社会学の試みである。
未だ来たらざるものを人間はいかに想像し思考してきたかについて、未来の取り扱い方と社会のあり方との関係を浮き彫りにしようとしている。若林幹夫氏は、1962年東京生まれ、東京大学大学院社会学研究科博士課程中退の社会学博士で、現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授、専門は社会学、都市論、メディア論、時間・空間論である。現代の社会では、科学には未来を予測することがしばしば期待されている。地球温暖化も、原子力発電所の事故の将来における影響も、来るべき大規模地震の可能性も、それがどれほどの科学的妥当性をもつかはともかくとして、科学的理論と科学的に信頼可能なデータにもとづいて予測されるべき事柄であると、私たちの多くは考えている。社会科学に関しても同様で、日本経済がこれからどうなるか、少子化・高齢化の趨勢は今後どうなって、その結果どんな社会が到来するのか、今後の世界秩序はどうなるかなどが問われる。まだ私たちが子どもだった1960~70年代、未来は、そしてその代名詞だった21世紀は光り輝くような魅力に溢れていた。もちろん、まだやって来ない未来がどうなるかなど本当はわかるわけもなく、未だ存在しないものの輝きなど見ることができないにもかかわらず、その未だ来たらざるものは、必ずやって来るだろうものとして、私たちの心のなかに輝いていた。だが、実際にやってきた21世紀には、当時は想像もしなかったさまざまな技術も実現しているけれど、あの輝いていた未来は存在していない。そればかりか、私たちの未来はいまや、地球温暖化をはじめとする生態系の危機、資源・エネルギー問題、少子化と高齢化、経済の低成長、国家財政や年金制度の危機など、さまざまな限界や危機を孕むことが確実視されている。そして、持続可能な発展や持続可能な社会に向けての、新たな未来像の構築が語られたりしている。さまざまな未来予測に即して、企業や家計や個人の生き方はどうあるべきかなどについて指針を示すことが、社会科学者にもしばしば求められる。未来社会がどうなるかを社会学的に考えることはできる。だがその時、対象となっているのは未来ではなく、未来に現れるだろう社会なのである。そこでなされるのは、社会学的未来予測や社会学的未来構想とでも呼ぶべきものである。それは、未来の社会学、つまり、未来の社会を対象とする社会学ではあっても、未来の社会学、つまり、未来を対象とする社会学ではない。ここで試みる未来の社会学は、そんな風に未来社会を予測したり、未来社会への指針を提示したりするものではない。持続可能な発展や持続可能な社会への道筋を社会学的に考えるのではなく、そうした未来をめぐる私たちの意識や思考の屈曲それ自体を、私たちの社会が未来を考え、取り扱ってきた仕方の屈曲として考えたいのである。つまり、人間とその社会にとって未来とはどのようなものであるかを、社会学的に考えることである。ある社会で未来という時間がどのように考えられ、そこに人びとが何を見いだし、そうしたことが社会のどのようなあり方に基盤をもち、それによって社会のどのようなあり方が支えられているのかを、社会学的に考察する。そこで対象となるのは未だ存在しない未来の社会ではなく、それぞれの社会の過去や現在において考えられてきた未来のあり方、とりわけ現在におけるあり方である。そもそも時間とは何であろうか。古今東西、人類はいかに未来を語ってきたのであろうか。そして、いかにそれを熱烈に待望し、それに希望を見出し、あるいは、とりつかれてきたのであろうか。まず、未来のありかについて、未来をその様相として含む時間との関係で考察する。次に、人間の社会が未来を、過去や現在との関係でどのように理解し、どのようにそれを取り扱ってきたのかを考察する。次に、私たちにとっての未来の特徴とその成り立ちを、近代的な時間とそこでの未来の歴史と構造として考察する。次に、私たちの現在における未来が、近代的な時間とそこでの未来に依然として基礎づけられながら、それが構造的な変容を遂げたものであることを描き出す。最後に、そんな現代における未来以外の未来の可能性についても触れる。
第1章 未来のありか、時間のありか
時間は存在しない?/ 未来の時間と事物はどう存在するか
第2章 時間の形と未来の来方
さまざまな未来/ 時間の見方と歩き方
第3章 近代における未来
旅と発見、進歩と発展―近代的未来の地形と風景/ 近代的未来の条件(1)-過程としての歴史/ 近代的未来の条件(2)-資本制=ネーション=国家と科学技術)
第4章 未来の現在
未来の見える窓/ 現在における未来
20.12月13日
”想”(2006年11月 集英社刊 高倉 健著)は、今年11月に83歳で亡くなったカリスマ俳優・高倉健75歳のときに出版された写真集である。
写真家・今津勝幸氏が過去30年にわたって撮影した壮年以降の高倉 健氏の写真と、最近の撮り下ろしが掲載されている。また、誕生から今日までの高倉 健氏秘蔵の未公開プライベートフォトがふんだんに使用され、俳優生活50年の足跡を辿るデビュー作から最新作までの204本の映画スチールが並べられている。高倉 健氏は1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれた。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていて、母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった、という。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学し、在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。大学を卒業したが思ったような就職先がなく一旦帰郷し、家業を手伝っていたが、10か月後に上京した。1955年に大学時代の知人のつてで、新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社した。この偶然がなかったら、俳優になっていなかったという。この後に、出演した204本の映画が詳しく紹介されている。1956年に24歳で映画デビューし、任侠シリーズのヒットで人気を確立した。1970年にハリウッド・デビューし、1978年に”八甲田山””幸福の黄色いハンカチ”の2作品で第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。1999年に”鉄道員”で第23回モントリオール世界映画祭主演男優賞、第44回アジア太平洋映画祭主演男優賞、第42回ブルーリボン賞主演男優賞、第23回日本アカデミー賞最優秀男優賞を受賞した。そして、1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年に文化勲章を受賞した。204本の映画の紹介の後は、夏の旅、秋の旅、冬の旅、春の旅というテーマで、いくつかの思い出とともに、それぞれの旅が紹介されている。2012年8月、前作”単騎、千里を走る”から6年ぶりに、205本目の主演作品”あなたへ”で銀幕に復帰した。孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優として存在感があった。”往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし”とのお言葉あり。不世出の俳優のご冥福を祈り、合掌。
発 プロローグ
望郷 父の涙・母の言葉
上京 明治大学へ入学
映画 東映任侠シリーズから高倉プロへ
旅 四季・出会い・いのち
想 エピローグ
21.12月20日
衆議院議員選挙
第47回衆院選は師走の慌ただしい中、12月14日に投開票された。小選挙区の定数が5減の295となり、比例選の180と合わせて475議席で争われた。与党の自民、公明両党は325議席を獲得し、定数の3分の2を上回った。与党の自由民主党が単独で絶対安定多数の266を超える公示前の293から290議席へと横ばいで、公明党は選挙区で全員が当選し、公示前の31から35へと議席を増加させた。野党では民主党が元職や元参議院議員を復帰させ公示前の62から73に議席を増加させ、維新の党は公示前の42から41とほぼ変わらず、次世代の党は公示前の19から2へと大きく議席を減らし、生活の党は公示前の5から2に減らした。社民党は公示前の2議席を維持した。日本共産党は沖縄県第1区で赤嶺政賢が当選し、18年振りの選挙区での当選者を出すなどし、議席数を公示前の8から21に激増させた。初当選者は、2009年の158人、2012年の184人から大幅に減少し、1996年に現行制度が導入されて以来最少、戦後でも2番目の少なさの43人で、当選者全体に占める割合は9.1%となった。女性候補者は198人となり、前回2012年の225人より27人減少した。ただ全候補者に占める割合は16.6%で、過去最多の女性候補者が出馬した2009年の16.7%と同レベルに達した。女性当選者数は45人で、2009年の54人に次いで2番目に多かった。女性当選者の数が一番多いのは自民党の25人、割合が一番多いのは日本共産党の28.6%であった。投票率は従来の戦後最低だった前回2012年の59.32%を大きく下回る52.66%を記録した。
22.12月27日
2014年を振り返る
今年もいろいろな出来事があった。2月7日、第22回冬季五輪ソチ大会が開幕した。日本選手のメダルは、金1、銀4、銅3の計8個で、フィギュアスケート男子で19歳の羽生結弦選手が金メダル、スキージャンプで41歳254日の葛西紀明選手が銀を獲得し、冬季日本勢最年長メダリストになった。3月17日、ロシアが実効支配するウクライナ南部クリミア半島での住民投票結果を受け、プーチン露大統領がウクライナからの独立を宣言したクリミア共和国を国家と承認し、その後編入した。欧米諸国は資産凍結など対露制裁を発令。ウクライナ東部では親露派武装集団が実効支配し、分離独立の姿勢を強めた。4月1日、消費税率が5%から8%に上がった。1997年に3%から5%へ引き上げられて以来、17年ぶりの消費増税となった。6月21日、ユネスコの世界遺産委員会が、富岡製糸場と絹産業遺産群を世界文化遺産に登録することを決めた。国内の世界遺産としては昨年の富士山に続き18件目、産業や土木の技術進歩を示す近代化遺産としては初めての登録となった。8月20日未明、広島市北部の安佐南、安佐北両区で局地的に猛烈な雨が降り、大規模な土砂崩れが発生した。多数の住宅に土砂が流れ込み、74人が死亡、約360戸が全半壊するなどの被害が出た。9月8日、テニスの全米オープン男子シングルスで、錦織圭選手が準優勝した。四大大会シングルスでは男女通じて日本人初の快挙で、錦織選手は準決勝で世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチを破り決勝へ進出したが、決勝ではマリン・チリッチにストレート負けした。9月27日午前11時52分、長野、岐阜両県境の御嶽山が噴火した。山頂付近にいた登山者が噴火に巻き込まれ、5人が死亡、6人が行方不明になるなど、戦後最悪の噴火災害となった。10月7日、スウェーデン王立科学アカデミーは2014年のノーベル物理学賞を、青色発光ダイオードを開発した名城大学の赤崎勇教授と名古屋大学の天野浩教授、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授の3人に贈ると発表した。授賞式はストックホルムで12月10日に行われた。11月10日、俳優の高倉健さんが83歳で亡くなった。「網走番外地」「幸福しあわせの黄色いハンカチ」「八甲田山」など幅広いジャンルの映画に出演。不器用だが男気のある人物を演じた日本映画界の大スターで、多くのファンがその死を惜しんだ。12月14日、安倍首相が進める経済政策、アベノミクスへの評価が最大の争点となった第47回衆院選の投開票が行われ、自民党が290議席を獲得して圧勝した。公明党は35議席。自民党の追加公認を含めた与党の新勢力は、定数の3分の2を超える326議席で、定数に占める与党の割合は過去最高となった。
23.平成27年1月3日
”竹鶴とリタの夢”(2014年9月 双葉社刊 千石 涼太郎著)は、NHK朝のテレビ小説主人公のモデルとなった竹鶴政孝とリタ夫人の生涯を紹介している。
第91シリーズのテレビ小説は、日本初のウイスキー造りへの夢と労苦と、それを支えた夫婦の信頼を描いている。NHK大阪放送局制作で、2014年9月29日から2015年3月28日まで放送予定である。千石涼太郎氏は1964年生れで、大学卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入り、フリーランスとして、アウトドア、4WD、洋酒などの分野の雑誌、および精神科医、心療内科医、心理学者等の書籍を手がけつつ、地方文化と県民性、そして北海道を主なテーマとして執筆している。2008年に長年の東京生活を終え、現在、札幌市東区在住し、小樽ふれあい観光大使などを務めている。朝ドラでは、玉山鉄二さん演じる亀山政春と、シャーロット・ケイト・フォックスさん演じる亀山エリーが印象的である。政春は広島県竹原の造り酒屋の次男として生まれ、大阪工業学校を卒業後、住吉酒造に就職した。20歳の時に初めて飲んだウイスキーの味に感動して以来、日本でウイスキーを造る夢を抱き、社長の援助でスコットランドに留学した。そのとき、スコットランドの医者の家に生まれ育ったエリーとクリスマスパーティーで、妹の大学の友人であった政春と出逢い交際した。2年間の修業を終え帰国を機に、両家の反対を押し切りエリーと結婚し、エリーからはマッサンと呼ばれた。エリーはしたたかで前向きな性格で、政春と彼の夢を内助の功となり支えた。朝ドラとして、純外国人のヒロインは初であり、男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の以来19年ぶりである。シャーロット・ケイト・フォックスさんは、1985年ニューメキシコ州生れのアメリカ女優で、祖母がスコットランド出身、2014年現在ノースカロライナ州在住で既婚者である。千石涼太郎氏は、十代のころから、憧れの存在であり、目標としてきた偉人は、本田宗一郎と竹鶴政孝であったという。物書きになってサントリーの仕事をしたこともあり、竹鶴の物語はいつか書いてみたいと思っていたそうである。竹鶴は1894年に広島県の造り酒屋の三男として生まれ、大阪高等工業学校醸造科を出て、大阪の摂津酒造に就職した。19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では、欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで、純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで、ウイスキーの製法を学ぶため英国・スコットランドに派遣された。グラスゴー大学に籍を置いていた政孝は、柔道を教えるため、ある少年の家に招かれ、その姉の1896年生れのジェシー・ロバータ・カウン、通称リタと出会った。リタは第一次大戦で婚約者を亡くし、同大の経済学科に通っていた。政孝はリタに求婚し、あなたが望むなら、日本に帰るのを断念して、この国で職を探してもいいと言ったが、リタは、日本で本当のウイスキーを造る夢を手伝いたいと返した。1921年に帰国すると日本は不況で、摂津酒造に本格ウイスキー造りに取り組む余裕はなく、政孝は退社し、中学で化学を教え、リタも英語やピアノを教えた。政孝は1923年、本格ウイスキー製造を目指す寿屋に請われて入社し、1924年に山崎に日本初のウイスキー蒸溜所を建てた。1929年に竹鶴が製造した最初のウイスキーが発売されたが、なかなか売れなかった。竹鶴は寿屋が買収した鶴見のビール工場の工場長兼任を命じられたが、あまり乗り気ではなかった。1933年に鶴見工場は売却されたのを機に、後続の技師が育ってきたこと、鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退社した。1934年に資本を集めて、大日本果汁を北海道・余市に設立した。ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため、出荷まではウイスキー製造による収益はない。そこで、当初はリンゴジュースなどの販売でしのぎ、ウイスキーの開発にあたった。竹鶴はニッカウイスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から、日本のウイスキーの父と呼ばれ、あくまでも品質にこだわり続けた技術者として知られている。酒量はウイスキー1日1本、ニッカウイスキーハイニッカを好んで飲んだ、という。1961年1月17日に妻リタが没し、1979年8月29日に85歳で没した。墓は北海道余市町に存在し、妻のリタと共に埋葬されている。
第1章 ウイスキーの父、広島の造り酒屋に生まれる
第2章 本場スコットランドでリタと出会う
第3章 鳥井信治郎と日本初のウイスキーづくり
第4章 新たなる旅立ち、新天地余市へ
第5章 ニッカの再出発、そして別れのとき
付 章 リタが愛した町・余市
ガイド 余市蒸溜所の歩き方
24.1月10日
”世界がもし100億人になったら”(2013年8月 マガジンハウス社刊 スティーブン・エモット著/満園真木訳)は、70億人を突破した世界人口が100億人になることを想定して世界がどのように変化するかを示している。
人口が100億人に達した場合、食料、水、エネルギー、気温などのいろいろな問題と直面することになる。これらの問題は、21世紀の終わりに訪れる、という。スティーブン・エモット氏は、1960年生れ、ヨーク大学卒業、スターリング大学にて博士号取得、英マイクロソフト・リサーチ計算科学研究所所長、オックスフォード大学計算科学客員教授、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ計算生物学客員教授、英国国立科学・技術・芸術基金栄誉フェローで、現在、英ケンブリッジで様々な分野の研究者からなる学際的チームを率いて幅広い科学研究を指揮し、科学の基本問題に取り組む先駆的アプローチを開発している。満園真木氏は、青山学院大学卒業青山学院大学卒業後、翻訳チェッカーを経て、現在、フリーランスの翻訳家である。国連の2011年版世界人口白書によると、2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されている。アメリカ国勢調査局の推計では、70億人の到達が2012年3月12日頃とされている。18世紀の産業革命以降、世界人口の増加ペースが早くなってきた。そして、20世紀に人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験した。国連の推定では19世紀末の1900年におよそ16億人だった世界人口は、20世紀末にはおよそ60億人にまで急増、特に第二次世界大戦後の増加が著しい。日本では少子高齢化が進み、人口も減少している。先進国では人口は減少している傾向にあるが、新興国では人口は増加し続けている。その結果、現在、世界の人口は70億人を超えている。1万年前、地球の人口はわずか100万人しかいなかった。約200年前の1800年には10億人、約50年前の1960年には30億人、現在は70億人である。そして、このままいくと、2050年には90億人、今世紀の終わりまでには、少なくとも100億人に達するといわれている。文明の発達によって、私たち人間が地球のありとあらゆる部分を変え大きな影響を与えている。環境問題、食料問題など、このまま人口が増え続けたら、どうなっていくのだろうか。スティーブン・エモット氏は、21世紀の終わりに訪れる危機を警告している。
地球には何百万という種の生物がすんでいます。それをたったひとつの種が支配しています。わたしたちです
わたしたちの人口はどうやってこれだけ増えたのでしょう
わたしたちが依存している、そしてわたしたちが急激に変えつつある、このすべてがつながりあったシステムに、今何が起きているのか、よりくわしく見ていく必要があるでしょう
食料の需要が増えていることはべつに意外ではありません。意外なのは、食料需要の増加のペースが、人口増加のペースを大きく上回っていることです
現在、10億人以上の人々が、深刻な水不足の状況のもとで暮らしています
1900年以降に製造された自動車の総数は、20億台を超えます
現在、気候変動は加速しています
人口が増え、人間の活動も増えた結果、わたしたちは今後、どのような困難に見舞われることになるのでしょうか
現在の農業のやり方で、そして現在の消費ペースで、100億人の人口を食べさせられる手段は、今のわたしたちにはありません
今世紀末までに、地球上のかなりの場所で、使える水が満足に手に入らなくなってしまいます
予想される需要をまかなうには、今世紀末までに、エネルギー生産を少なくとも3倍に増やさなければなりません
わたしたちが今まさに直面しつつある気候問題は、まったくスケールが違います
どの方向に目を向けても、人口100億人の地球は悪夢以外の何ものでもありません
科学技術の力で切り抜けられないとすれば、残された唯一の方法は、わたしたちの行動を変えることしかありません
わたしたちはこれからどうなるのでしょう
25.1月17日
”ザルツブルグとチロル”(2013年3月 ダイヤモンド社刊 地球の歩き方編集室編著)は、ザルツブルクとチロルを中心にアルプスの山と街を紹介している。
オーストリアのザルツブルク、ザルツカンマーグート、インスブルックを中心としたチロルの村々には、知られざる魅力や見どころがあふれている。実際に歩いてみつけた、懐かしいヨーロッパの街の素顔とアルプスの美しい自然が紹介されている。ザルツブルク州は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州の一つで、州都はザルツブルク市である。オーストリアの中央やや西よりに位置し、北東でオーバーエスターライヒ州と、東でシュタイアーマルク州と、南でケルンテン州と、チロル州の東チロルと、西でチロル州の北チロルと、北でドイツのバイエルン州と接している。南西ではかつてオーストリア領であったが今日ではイタリア領ボルツァーノ自治県となっている南チロルと接している。チロルはヨーロッパ中部にあり、オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域である。本書では、ザルツブルク、インスブルック、ハルシュタットの3つの街を中心に、いくつものルートをたどって、それぞれの視点で見つけた街の素顔と歴史、街歩きの魅力が紹介されている。
<ザルツブルク>
Route01:塩の砦/Route02:大司教の街/Route03:看板の誘惑/Route04:修道院を結ぶ道/Route05:モーツァルトの影と光/Route06:右岸の活気/Route07:古道の石畳/Route08:眼下に広がる古都/Route09:大司教のいたずら
<ザルツカンマーグート>
ザンクト・ギルゲン 湖畔のきらめき
ザンクト・ヴォルフガング 登山電車に揺られて
バート・イシュル 皇帝の温泉街
ハルシュタット
Route01:湖畔の道/Route02:塩の道/Route03:画家の道/Route04:山から見下ろす
ホーエ・タウエルン
クリムル アルムの道
<チロル>
インスブルック
Route01:旧市街の路地/Route02:ノルトケッテを歩く/Route03:路面電車で山登り/
ル・イン・チロル 坂と路地の街
シュヴァーツ 銀山の残り香
ザンクト・アントン・アム・アールベルク チロルを体感する
レッヒ 心豊かな山里
ゼルデン 谷間のにぎわい
オーバーグルグル 氷河をめざして
フェント 山の中の国境
南チロル
メラーン チロルの都だった街
ボーツェン 南チロルの商都
<EXCURSION>
「サウンド・オブ・ミュージック」をめぐる旅
「塩の砦」の秘密を探る
ハルシュタット近郊の山へ
牛の山おろし祭り
狼渓谷を歩く
<ホテル・レストランガイド>
ザルツブルク 音楽を聞きながら、グルメなロングステイを古都で楽しむ
ザルツカンマーグート アルプスに抱かれながら、湖畔のリゾートを満喫する
チロル 山並みに囲まれながら、アルプスの気持ちよさを感じる
26.1月24日
”転んでもただでは起きるな!”(2013年3月 中央公論新社刊 安藤百福発明記念館編)は、苦難の末に発明で世界の食文化を変えた男の生き方を紹介している。
転んでもただでは起きないとは、転んでも必ずそこで何かを拾って起きるという意味で、どんな場合も何か得になることを見つけ出す者のことをいう。日清食品の創業者で、父でもある安藤百福氏の人生は波瀾万丈で、成功と失敗をくりかえした。無一文になっても、失ったのは財産だけではないか、その分だけ経験が血や肉となって身についたと、再起をかけて立ち上がった。安藤百福氏の発明したインスタントラーメンは、わずか半世紀の間に世界で年間1000億食も食べられる地球食に成長した。安藤百福氏は1910年台湾嘉義県生れで、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父母のもとに預けられ、台南市で育った。この年、76年周期で地球に最接近するハレー彗星が近づいていて、地球にぶつかるのではないかと大騒ぎだった。このため、安藤百福氏はハレー彗星の落とし子と言われた。1932年に父の遺産を元手に、繊維商社東洋莫大小を設立した。事業は成功し、翌年、大阪市に日東商会を設立し、日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売る貿易業務を始めた。ほかにも、光学機器や精密機械の製造、飛行機エンジンの部品製造などにも事業を拡大する一方、立命館大学専門学部経済科に学んだ。戦前戦後には、時代の波に翻弄されて数々の苦労と辛酸をなめ、波乱の人生を過ごすこととなった。第二次世界大戦下で、大阪大空襲によって全ての事務所や工場を焼失した。戦後すぐ、大阪で百貨店経営を手始めに事業を再開した。1946年に大阪府南部の泉大津市で製塩事業を始め、その後、泉大津市に病人用の栄養食品を開発する国民栄養科学研究所、名古屋市に中華交通技術専門学院を設立した。当時、所得税法違反に問われて逮捕され、巣鴨プリズンに収監されたこともあったが、税務当局との和解により無罪釈放となった。そして、1948年に株式会社中交総社を設立、その後、約10年間の休眠状態を経て、1958年にチキンラーメンの発明に伴い日清食品株式会社に商号を変更した。チキンラーメンは袋入りインスタントラーメンで、調理方法はお湯をかけて密閉するだけである。ただ、容器を別に用意する必要があった。そして、1971年に世界初のカップ麺、カップヌードルを国内で発売した。1973年に、カップヌードルはアメリカ合衆国で発売され、世界中にカップめん市場を広げる契機となった。その後、日清食品代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任した。日本即席食品工業協会会長、安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会WINA会長、いけだ市民文化振興財団会長など、多くの公職を務めた。1996年立命館大学名誉経営学博士、池田市名誉市民、叙位叙勲は正四位勲二等旭日重光章を授与された。2007年に、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で96歳で他界し、波乱万丈の実業家人生を終えた。3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったという。前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と餅入りのチキンラーメンを食べたという。大好きな発明・発見ともの作りに生涯を捧げ、元気に生きて現役のまま亡くなった。本書は、2008年刊”日清食品50年史”第1分冊と、2007年刊”インスタントラーメン発明王安藤百福かく語りき”を合本したものとのことである。
第1部 安藤百福伝(起業/不屈/発明/独創/聖職/散華)
第2部 安藤百福かく語りき(逆境/創業/発明/商売/商品/経営者/組織/仕事/賢食/健康/最後の年賀状)
第3部 安藤百福年頭所感
27.1月31日
”空海のこころの原風景”(2012年12月 小学館刊 村上 保壽著)は、いまも不思議な魅力と人気がある弘法大師、空海のこころの原風景を紹介している。
空海の価値観や行動規範の根底には、洞察力の鋭さと論理的な思考と的確な判断力がある。しかし、空海の魅力はそこにあるのではなく、もっと幅広く大きな視野から物事をとらえ、そこに潜んでいる本質を直観的につかまえる能力にある。その視野と能力がどのようにして身についたのか、どのような体験や経験がそれを助けたのか、さらにどのような人物から影響を受けたのか、そのためにどのような縁があったのかということに関心が向くようになった、という。村上保壽氏は、1941年京都府生まれ、東北大学文学部哲学科卒業後、大学院文学研究科修士課程修了、東北大学助手、山口大学教授、高野山大学教授を経て、総本山金剛峯寺執行・高野山真言宗教学部長、高野山伝燈大阿闍梨である。空海は774年に讃岐国多度郡の郡司、佐伯氏の出身で、母方は阿刀氏である。15歳で上京して母方の叔父,阿刀大足に師事し、18歳で高級官僚養成のための大学に入るが、まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめた。24歳のとき、ある出家から虚空蔵求聞持法を教示され、四国の大滝岳や室戸崎などでの修行によって効験を得た。これを転機として、空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられた。31歳のとき第2の転機にめぐりあい、唐へ留学した。2年間の留学から帰国した806年から、無名の人から著名な人物に変身して、真言宗の開祖への道を歩みはじめた。空海は、平安時代初期の仏教界に新鮮な息吹を与えた。空海が創設した真言密教とその学派である真言宗は、南都六宗と呼ばれている奈良時代の仏教がいずれも中国伝来の仏教思想であったのに対して、日本ではじめて生まれた仏教思想であった。空海は、留学僧として遣唐使船に乗り、苦難の末、唐の都・長安に入り、恵果和尚から密教の正統な教えを継承し、日本に漢訳の密教経典を持ち帰った。当時、密教は、国家から独立した仏教の学派とは認められてはいなかった。帰国後、空海は、持ち帰った密教を独自性のある学派として国家に承認してもらうために、ただひたすら理論化の作業に没頭した。空海は、この困難な問題をみごとに乗り越え、中国ではやがて消えてしまう密教を確固とした教えとして開宗し、生き生きとした思想として残した。新しい密教を構想する着想は、空海の生まれながらに持っていた才能と考えることもできるが、才能を磨き開花させた空海自身の数々の体験があったからこそ成し遂げられたのではないか。空海の才能の豊かさは、感性の鋭さ、とくに直観力のすごさにある。詩文や、三筆の一人にあげられる書の卓抜さをはじめとして、多芸多才といわれている能力は、感性の豊かさを証明しており、また思考の幅広さと柔軟さを示している。このような空海の才能は、普通の人では気がつかないような些細な出来事や現象、あるいは人との出会いや会話からでも、隠された本質を直観することができたようである。空海は、人間以外のあらゆるものにも人間と同じこころの存在を見ていた。自然界の獣や鳥や魚などだけでなく、山川草木にもこころの存在を認めていた。こころは、心や意や識の意味に加えて、魂や、霊や、霊魂、あるいは、いのちや精神と言い換えることができる意味内容を持っている。こころがこのように幅広い意味内容を持っていたからこそ、空海は、人や社会はもちろん、動植物や山河のこころと対話し、交流し、自然界のリズムに従って共に生きているこころであり得たのではないか。隠されている仏の智慧を全身全霊をもって知ろうとする密教の本質を把握するこころは、人間の主観的な心でも意でも識でもなく、まさに鳥獣や山川草木のこころに通じるものであった。空海のこころを生み出し育てたものは、まさに大自然であったり、若いときの体験であったり、師である恵果和尚との出会いであったりする。感性の豊かさも、思考の幅広さと柔軟さも、空海のこころの豊かさと柔軟さを表しているといえる。このこころを生み出した環境や体験は、空海が真言密教を構想するとき、こころの奥に原風景としてしっかりとあったと思われる。
第1章 空海の原風景
若き空海の修行/自然に向ける目線/仏の智慧、仏の世界/大自然のいのち/空海の生きる姿勢)
第2章 仏のこころー大いなる慈悲とその実践
仏の境地/関係のあり方がすべてである/慈悲の実践について/仏の子育て
第3章 空海のこころを生きる
見えないものを見る/個と全体の関係のあり方/縁と人生/永遠を生きる/大師信仰を生きる
28.平成27年2月7日
”佐藤一斎の言葉”(2013年3月 黎明書房刊 菅原 兵治著)は、昭和44年に刊行された”言志四録味講”を改題して版を改めたものである。
江戸幕府直轄の昌平坂学問所で学び、のちに塾長を務めた、佐藤一斎が書き綴った”言志四録”1133章から、82章を厳選して解説している。
言志録 (246章) 42歳~53歳(12年間)
言志後録(255章) 57歳~66歳(10年間)
言志晩録(292章) 67歳~78歳(12年間)
言志叢録(340章) 80歳~82歳(3年間)
菅原兵治氏は、1899年宮城県生まれ、1927年に安岡正篤氏創設の金鶏学院に入り、1931年に日本農士学校創立に際して校長となり、農村人材の育成にあたった。安岡正篤氏は1898年大阪生れの国家主義者・陽明学者で、東京大学を卒業後、国家主義団体行地社に参加し、私塾金鶏学院を設立した。”言志四録”を知ったのは金鶏学院に入って間もなくであったが、本当にわがものとして読み出したのは1935年に岩波文庫として出版されてからだったそうである。常に座右におき、ことに旅行の時などはいつも手下げに入れて、車中でもこれをひもといてきた、という。最後尾には、黎明書房創業者の力富阡蔵氏のあとがきがある。佐藤一斎は1772年に岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町の藩邸下屋敷内で生まれた。1790年より岩村藩に仕え、12、3歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大坂に遊学し、中井竹山に学んだ。1793年に、藩主・松平乗薀の三男・乗衡が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、大学頭として林述斎と名乗り、一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門した。1805年に塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。朱子学だけでなく陽明学にも明るく、儒学の大成者として朱子陰王と呼ばれ尊敬された。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂など、幕末に活躍した知識人を多数育てた。”言志四録”は”言志録””言志後録””言志晩録””言志耋録”の4書の総称で、一斎が後半生の40余年にわたり記した随想録である。指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書だった、という。
学を為す。故に書を読む。
敬すれば即ち心清明なり。
分を知る。然る後に足るを知る。
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
第1章 自己確立に関するもの
第2章 養生に関するもの
第3章 学道に関するもの
第4章 志憤に関するもの
第5章 酒に関するもの
第6章 名に関するもの
第7章 敬に関するもの
第8章 言語に関するもの
第9章 事を処する道第10章 随時に拾ったもの
補説 「我づくり」のための探究-敬の弁証法-
29.2月14日
”全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙”(2012年6月 教育評論社刊 宮川 禎一著)は、現在龍馬ものとして知られている140通の書簡と新政府綱領八策一項などがおさめられている。
坂本龍馬は1836年に土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動した。現代的龍馬像を作り上げたのは、歴史小説家司馬遼太郎氏の功績が大である。1962年から4年間にわたり産経新聞に連載された長編大作”竜馬がゆく”は一大龍馬ブームを巻き起こした。宮川禎一氏は、1959年大分県宇佐市生まれ、1986年京都大学大学院文学研究科修士修了、財団法人辰馬考古資料館学芸員を経て、1995年から京都国立博物館考古室員、2006年より同館学芸部考古室長、2012年より同館学芸部企画室長を務めている。本書は、坂本龍馬書簡の全現代語訳であり、原文は基本として掲載されていない。坂本龍馬は、ペリー来航を背景に尊皇攘夷運動が高まる中で多くの人士と交流し、攘夷論を超えた国際的視野に立つ日本の未来像を描いた。脱藩と帰藩を繰り返す中で神戸海軍操練所開設に尽力し、海軍創設と海上交易による株式会社設立の構想を持った。1865年に薩摩藩の援助の下、長崎で亀山社中を設立した。対立関係にあった薩摩・長州両藩を実利で結び、1866年の薩長同盟成立、倒幕への大きな布石となった。亀山社中は、土佐藩の後藤象二郎の尽力で海援隊へと昇華した。倒幕後の新政府案を後藤象二郎と構想したのが船中八策である。後藤象二郎から土佐藩を通じて幕府に建白し、1867年に徳川慶喜から大政が奉還された。大政奉還成立の1ヶ月後に、近江屋事件で暗殺された。龍馬の書簡の原文は、”坂本龍馬全集”などに掲載されているが、いずれも龍馬の私信であり、その時代、年月日、人間関係などの背景を知らなければ何の意味か理解できない。龍馬独特の言語表現も、多々存在しているので理解が困難である。歴史の問題でもあり、また国語の問題でもあろう。また、記された年がいつかを記すことは稀であり、年月日の問題がある。多くは月日のみ、あるいは日のみであり、何もなしなどもある。文面、内容、前後の事情等から、時期を推定することになる。手紙の配列は基本的に”坂本龍馬全集”によっているが、多少の順番の変更を試みている。各項には推定年月日と宛先を基本的な見出しとして、文章の重要度が”☆”で印されて、となりに現在判明している蔵所先も明示されている。訳文には”()”のかたちで、文章理解を助ける補足的な文が挿入され、予備知識なしでシッカリ読めるようになっている。訳文の後段に書簡の歴史的立ち位置を教えてくれる解説があり、下段には人物や用語についての脚注もある。龍馬の手紙でもっとも多く用いられた表現は、”はからずも”だったという。人生は計画した通りには進まない、という思いが表されている。
第一章 龍馬の青春 嘉永六年―文久元年
第二章 土佐脱藩と海軍 文久三年―元治元年
第三章 薩長同盟への道 慶応元年―慶応二年三月
第四章 長幕海戦と亀山社中 慶応二年六月―十二月
第五章 海援隊 慶応二年十二月―慶応三年四月
第六章 イロハ丸沈没 慶応三年四月―七月
第七章 イカルス号事件 慶応三年八月―九月
第八章 大政奉還 慶応三年十月―十一月
第九章 年月等不詳の手紙
第十章 新しく発見された手紙
補 章 龍馬に関わった人々の手紙
30.2月21日
”都市社会学入門”(2014年9月 有斐閣刊 松本 康編著)は、都市社会学に関する伝統的な学説・方法から、最新の議論や事例までを網羅している。
都市社会学は、都市を研究の対象とする社会学の一分野で、農村社会学と対比される。都市生活の実態をふまえて、都市の構造や機能を多角的に分析、解明しようとする。松本 康氏は、1955年大阪市生まれ、1981年東京大学社会学修士、1984年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学、東京大学文学部助手、その後、名古屋大学文学部講師、シカゴ大学客員研究員、名古屋大学文学部助教授、東京都立大学大学院都市科学研究科教授、首都大学東京都市環境学部教授を経て、2006年から立教大学社会学部教授を務めている。社会学は、18世紀末に英国から生じた産業革命とフランスの市民革命の衝撃を受けて、ヨーロッパで生まれた。都市社会学は、20世紀初頭のシカゴ大学での研究活動がはじまりとされ、 1925年にアメリカで学会から専門分野として承認された。アメリカでは、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて工業化と都市化が急速に進んだ。ヨーロッパからの移民が集中し、これまでに経験したことのない大都市が出現した。大都市で発生した社会の混乱に直面して、アメリカの社会学は、ヨーロッパから学んだ書斎の学問と、地元の都市での社会改革運動が混ざりあい、独特の発展を遂げた。その後、マルクス主義の影響を受けた新都市社会学が、階級問題やジェンダー、権力の構造を論点とした。都市社会学には、大きく分けて3つの問いがある。都市はなにを生みだすか、なにが都市を生みだすか、都市とはどのような過程であるのか、ということである。都市はなにを生みだすかという問いは、20世紀初頭のシカゴで、社会学が都市問題に取り組むなかで生まれ、こんにちまで続く研究の蓄積がある。なにが都市を生みだすかという問いは、1970年代以降先進工業国の諸都市が転換期を迎え、それまでの工業化による経済成長パターンが危機に陥り、都市の衰退現象が見られるようになり、なにが都市を生みだすかが切実な問いとなった。都市とはどのような過程であるのかという問いは、都市はなにを生みだすかという問いと、なにが都市を生みだすかという問いの総合である。現在、都市社会学が問題とするのは、都市の地域的広がり、空間形態、人口規模、人口密度、職業構成と産業構成、通勤、内部の空間構造、位置、都市人の生活様式、意識態度などの、都市の基本的諸属性である。これらについて、社会構造、生活構造、社会意識、都市計画、都市問題などの観点から、いろいろな研究がおこなわれている。社会構造、生活構造、社会意識の研究領域は都市社会学の基礎的なものであり、都市計画と都市問題の研究領域は応用的なものである。しかし、すべての領域の研究は相互に密接に関連しあっている。第1部は、都市はなにを生みだすかという問いにそって、その核心にある都市化がコミュニティをどのように変容させるのかという問題をあつかう。第2部は、なにが都市を生みだすかという問いにそって、現代都市の危機と再編についてあつかう。第3部は、都市を時間と空間のなかの社会過程としてとらえて、私たちが都市とどうかかわることができるのかを考える。本書は、都市社会学をリベラルアーツとして学ぶことを念頭に書かれている。都市社会学は、都市生活に関する経験知の集積である、という。
序 章 都市社会学の問い
第1部 都市化とコミュニティの変容──都市はなにを生み出すか
第1章 都市社会学のはじまり
第2章 アーバニズム
第3章 都市生態学と居住分化
第4章 地域コミュニティ
第5章 都市と社会的ネットワーク
第2部 都市の危機と再編──なにが都市を生み出すか
第6章 都市圏の発展段階
第7章 情報化・グローバル化と都市再編
第8章 インナーシティの危機と再生
第9章 郊外のゆくえ
第3部 時間と空間のなかの都市──いかに都市とかかわるか
第10章 都市再生と創造都市
第11章 文化生産とまちづくり
第12章 アジアの都市再編と市民
第13章 ボランティアと市民社会
第14章 都市の防災力と復興力
31.2月28日
”風来記 わが昭和史(1)青春の巻”(2013年5月 平凡社刊 保阪 正康著)は、幼少期から演劇青年時代そして編集者としての日々をはじめ、文筆家として世に出るまでの自分史が書かれている。
今年は、あの太平洋戦争の終結からちょうど70年の節目を迎えた。保阪正康氏はノンフィクション作家、評論家、日本近現代史研究者で、2004年から個人誌”昭和史講座”を刊行してきた。昭和とは何だったのか、昭和史入門、昭和史の教訓、昭和史の大河を往くなどの著書があり、一連の昭和史研究で菊池寛賞を受賞した。本書は、昭和史研究家による世相史と自分史の回想記である。幼少期のかすかな戦争の記憶、旧制中学の教師だった父との相克、60年安保の時代など、日本の高度成長と軌を一にした戦後史の断面が語られている。著者は、1939年、北海道札幌郡白石村厚別、現、札幌市厚別区に教員の父のもとに生まれた。父親は旧制中学の数学教師であった。もともと横浜に住んでいて、祖父は済生会病院に勤務する医師であった。1923年の関東大震災で一家に悲劇がおこり、父親は群馬県富岡市の本家で育てられ、大学は仙台の東北大学で数学を学んだ。本書は、夜の雪道を家族全員で歩いていた5歳のときの記憶からはじまる。このときは、母親の背中に負われて満員列車で北海道から福島県の父親の任地にむかっていたときではなかったか、と母親から聞かされていた。そうかもしれないと思っていた、という。この地で、3歳半から5歳まで育った。40年後に、70代後半の母親にこの記憶のことを尋ねると、まだ太平洋戦争中の昭和20年2月に、一家は、死を覚悟して福島県の二本松から北海道に戻ってきたのだ、という。二本松には、父親が恩師の誘いで赴任した旧制中学があった。北海道は母親が生れ育った地であり、もともとは母親の祖父母が広島から入植した。母親の祖父は漢方医の家系で、母親の祖母は10人の子供に高等教育を受けさせた。父親は、4月から北海道の八雲という街の旧制中学の数学教師に転じた。また、昭和20年の記憶には、アメリカ軍のB29の編隊のことや防空壕のことなどがある、という。長じて、病に倒れた父親が病床で自分にだけ語ってくれた青春時代の過酷な体験から、大学、会社勤務を経て、文筆家と自立していくまでの半生が克明に語られている。著者は、札幌市立柏中学校、北海道札幌東高等学校、同志社大学文学部社会学科を卒業した。在学中に演劇研究会で、特攻隊員を描いた創作劇を執筆した。卒業後、電通PRセンターへ入社した。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送った。1970年に起きた三島由紀夫事件をきっかけに、死のう団事件を2年間取材し、途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じた。1972年に、死のう団事件でノンフィクション作家としてデビューした。本書は、平凡社のPR誌”月刊百科”2010年8月号~2011年6月号と、”こころvol.1~7に連載した”回想わが昭和史”に加筆・修正したもので、全2巻の予定の第1巻である。
序 章 幼年期の記憶-昭和二十年
第1章 民主主義の子
第2章 一本の紐、その絆
第3章 父の自画像
第4章 越境入学という苦痛
第5章 時空をさまよう放浪者
第6章 演劇研究会の仲間
第7章 「六〇年安保」の時代
第8章 社会生活のスタート
第9章 編集者としての日々
第10章 フリーの道に
第11章 文筆業駆け出しの頃
第12章 自らの人生観を貫く覚悟
32.平成27年3月7日
”古賀謹一郎-万民の為、有益の芸事御開”(2006年5月 ミネルヴァ書房刊 小野寺 龍太著)は、蕃書調所頭取でありながら幕府に殉じた古賀謹一郎を紹介している。
古賀謹一郎は幕末の洋学者であるが、漢学の家に生れた人物でありながら、海外事情に関心をもち蕃書調所の初代頭取となった。小野寺龍太氏は1945年生れ、福岡県立修猷館高等学校卒業、九州大学工学部鉄鋼冶金学科卒業、1973年九州大学大学院工学研究科博士後期課程単位修得退学し、九州大学工学部材料工学科教授を経て、九州大学名誉教授(工学博士)という経歴である。古賀謹一郎については、徳富蘇峰の”近世日本国民史”ではじめて知ったという。日本近代史、特に幕末期の幕臣の事跡を調べているとのことである。古賀謹一郎は1816年に、江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀?庵と母・鈴木松との間に生まれた。祖父は、寛政の三博士である儒者・古賀精里である。儒者の家系に生まれたことから、幼い頃から漢籍・経典に精通した。1836年大番役、1841年書院番として江戸幕府に出仕し、家塾久敬舎を父より引き継いだ。1846年に31歳で昌平黌=昌平坂学問所の儒者見習、1847年に儒者となり15人扶持となった。儒学者でありながら洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学で西洋の事情を習得した。この頃、米国への漂流者から欧米の事情を取材した”蕃談”を著し、書写本にて流布した。この時期の昌平坂学問所の教官としての同僚に、佐藤一斎、林復斎、安積艮斎らがいる。昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人として、阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)、大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助、白洲退蔵、平田東助らがいる。1853年にロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航に際し、応接掛となり、目付筒井政憲、川路聖謨に随行して、長崎でロシア使節との交渉を行った。1854年にロシア艦再来日の際も伊豆下田での交渉を行い、日露和親条約の締結に至った。日本の学問状況に危機感を抱き、たびたび老中阿部正弘に対して建白書を提出し、洋学所設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求めた。阿部正弘も西洋の学問受容の必要性を痛感していたため、1855年に直々に洋学所頭取に任命された。蘭書翻訳・教育機関の構想を練り、勝麟太郎らとともに草案を作成し、蕃書調所の設立案を提出した。この提案が元となり、1857年に蕃書調所が正式に開設されることとなった。古賀謹一郎は、日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取として、国内の著名な学者を招聘した。蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが、英語の隆盛を鑑みて、英語・フランス語・ドイツ語の教授も行わせた。1862年に御留守居番就任に伴い、蕃書調所の頭取は解任された。以後4年間は失職し、不遇の内に過ごした。1866年に製鉄所奉行として復職し、翌年には目付となり筑後守に補任された。1867年の大政奉還の直後に上京の命を受け、明治維新後は新設した昌平黌、蕃書調所の後身の大学校の教授として新政府から招聘された。しかし、幕臣としての節を守り、薩長主体の政府に仕えることを潔しとせず、徳川家の駿府転封に伴い静岡へ移住した。1873年に東京に戻り、1884年に67歳で死去した。私立大学の場合は慶応義塾の福澤諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄などの名前を多くの人が知っているが、国立大学の場合はアヤフヤである。大学の発祥を聞かれれば東京帝国大学と答える人が多いだろうが、その創設者は明治政府と答えるくらいであろう。東京帝大の前身は江戸時代の蕃書調所であり、最初の頭取は古賀謹一郎である。古賀謹一郎は日本の大学の生みの親であるとともに、その後の日本の進路を明快に見極めた先覚者としての一面があった。開国貿易による富国強兵策を、空想的大言壮語でなく、実際に行いうる、また行わざるを得ない選択肢としてはっきりした言葉で述べた。江戸末期の先覚者と言うと、島津斉彬、佐久間象山、横井小楠、吉田松蔭、勝海舟、高島秋帆、江川太郎左衛門などがあげられるが、古賀謹一郎の見識は誰よりも高かった。しかし、日本最初の開国主義者だった古賀謹一郎の名前が明治以後消えてしまった理由は、古賀謹一郎が忠誠を捧げた徳川幕府が負けたからであるのは疑いない。負ければ賊軍、伝記もなしである。もう一つは、古賀謹一郎は明治以後前朝の遺臣という立場を貫き、全く表に出なかったためでもある。出処進退は立派であったにしても、それが世に忘れられる一因となったことは疑いない。1856年に設立された蕃書調所は、2006年に150周年を迎えるので、節目の年にあたって日本の大学の創始者に思いを馳せる。古賀謹一郎は、幕末の最善の先覚者としてもっと世に知られる価値があり、変革期の知識人の生き方としても模範とするに足る人物である。
第1章 その生涯と家系
第2章 昌平黌の儒官として
第3章 長崎出張
第4章 下田行き
第5章 公明正大に開国すべし
第6章 蕃書調所の創設
第7章 引退と著書二編
第8章 幕府の瓦解と隠遁
第9章 明治十七年の生活
33.3月14日
”不格好経営-チームDeNAの挑戦”(2013年6月 日本経済新聞出版社刊 南場 智子著)は、チームDeNAの創業から今日までの奮闘記である。
著者は、1962年新潟市生れ、新潟県立新潟高等学校、津田塾大学英文学科を卒業し、1986年にマッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパンに入社した。1988年に マッキンゼーを退職しハーバード・ビジネス・スクールに入学、1990年にハーバードでMBAを取得、1996年にマッキンゼーでパートナーに就任した。1999年3月に有限会社ディー・エヌ・エーを設立、8月に株式会社ディー・エヌ・エーに組織変更、11月にオークションサイト・ビッダーズを開始した。ビッダーズは月額基本料金が無料のオークションが利用できるサイトで、出品に関しては手数料がかかったが、無料の会員登録をすれば落札だけならすぐ利用できる点に特徴があった。2001年にこれをオークション&ショッピングサイトにリニューアルし、2002年からショッピング専用サイト・ビッダーズショッピングを開設した。2004年には携帯向けオークションサイト、モバオクを開始し、2005年にマザーズ市場に上場した。そして、2006年に携帯向けゲームサイト、モバゲータウンを開始し、以後、B2B、SNS、ソーシャルゲーム、オープンゲームなどに参入してきた。そして、2011年12月には、日本プロ野球オーナー会議で、DeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され、商号変更により横浜DeNAベイスターズが生れた。現在、株式会社ディー・エヌ・エー取締役、横浜DeNAベイスターズオーナーである。時代の進展に上手に乗って、企業経営を拡大してきたように見える。著者は、書くのは気恥ずかしいという思いもあるが、DeNAのことをちゃんと伝えたい、DeNAがどうやって生まれ、どうやって今のDeNAに育ったのか、これまで語られたことや語られなかったことを全部まとめて、ありのままに伝えたいという気持ちが盛り上がり、初めての自著となる本書の筆をとった、という。2006年に生んだモバゲーが一気に拡大し、数千万人のユーザー基盤を持つことになった。戦略性と実行力に富む企業へと成長し、グローバル市場でも頂点を目指そうと海外展開も加速していった。同時に巨大なサービスを持ったことで、社会との向き合い方を問われていくようになった。そのさなかの2011年に、突然社長を退任することになった。ふたり家族の相棒が病気になり、自分の優先順位が社業から家族に切り替わったのである。12年もの間、環境に恵まれ、何も心配せずに、社業だけに専念できたことに感謝するべきなのかもしれない。このたび家庭の状況が変化し、仕事の時間を増やすことになった。少しでも時間に余裕があるなら、やっぱりチームDeNAの夢の実現に力を尽くしたい。現社長や社員皆と力を合わせ、DeNAを世界のてっぺんに押し上げたい。そんな思いで、現場で使う時間を増やすことにして、現場復帰の第1弾の仕事として本書に取りかかった。第1章から第6章までは、DeNAの創業から今日に至るまでの歴史が綴られている。第7章は、DeNAを経営するにあたり、人事についての考え方がいくつか紹介されている。第8章では、DeNAの今日の様子と今後への思いが記されている。マッキンゼーのコンサルタントとして経営者にアドバイスをしていた自分が、これほどすったもんだの苦労をするとは、経営とは、こんなにも不格好なものなのか、だけどそのぶん、おもしろい、最高に、という。
第1章 立ち上げ
第2章 生い立ち
第3章 金策
第4章 モバイルシフト
第5章 ソーシャルゲーム
第6章 退任
第7章 人と組織
第8章 これから
34.3月21日
”花森安治の青春”(2011年9月 白水社刊 馬場 マコト著)は、2011年に生誕100年を迎えた昭和を代表する思想家花森安治の半生を振り返り思想の謎を探っている。
花森安治は”暮しの手帖”の創刊者であり、生涯編集長を務めた。花森は、”武器を捨てよう””国をまもるということ””見よぼくら一戔五厘の旗”など、反権力、反戦のメッセージを次々に発信してきた。馬場マコト氏は、1947年石川県金沢市生まれ、1970年早稲田大学教育学部社会学科卒業、日本リクルートセンター、マッキャン・エリクソン博報堂、東急エージェンシークリエイティブ局長を経て、1999年より広告企画会社を主宰している。国内外広告賞を多数受賞しているほか、小説現代新人賞も受賞している。花森は1911年兵庫県神戸市に生まれ、旧制兵庫県立第三神戸中学校、旧制松江高等学校を卒業して、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、在学中は学生新聞の編集に携わった。編集部員時代に2・26事件を体験した花森は、やがて軍事国家の道を突き進んでいく日本を目の当たりにした。卒業後、伊東胡蝶園、のちのパピリオ宣伝部に入社し、広告デザインに携わったが、一通の赤紙によって、満州奥地の極寒の地へと応召された。しかし、結核で和歌山の療養所に入院し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わった。除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験したが、戦後、花森は、過去を封印した。それは花森が密かに誓った戦争責任のとりかただったのではないか。1946年に、編集者・画家の大橋鎮子社長と共に衣装研究所を設立し、雑誌”スタイルブック”を創刊した。1948年に、生活雑誌”美しい暮しの手帖”を創刊した。1951年に暮しの手帖社と改称し、生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌を発行してきた。1953年12月の第22号から、雑誌名を現在の”暮しの手帖”に変更した。1968年2月の第93号から隔月刊に変更され、現在に至るまで今なお熱心な読者を抱えている。雑誌は、中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せないという理念の元に発行されている。主な内容は、家庭婦人を対象としたファッションや飲食物・料理、各種商品テスト、医療・健康関連の記事や、様々な連載記事や読者投稿欄等である。かつて暮しの手帖社の屋上にはためいていた一戔五厘の旗は、今も現社屋の入口に展示されている。一戔五厘の旗とは、庶民の旗、ぼろ布をつぎはぎした旗である。かつての召集令状は一戔五厘のはがきの赤紙であり、一戔五厘の旗には、よこしまなもの、横暴なもの、私腹をこやすもの、けじめのつかないもの、そういう庶民の安らかな暮らしをかき乱すものすべてに対する怒りが現されている。また、倉庫には花森が長年使用してきた机が保管されている。この机は花森が大政翼賛会にいた戦時中、国民の戦時意識を高めるためのポスター等を製作するために使用していたものであった。戦後、花森は、この机を生涯使い続けたという。
1 花森安治の机
2 西洋館と千鳥城
3 帝大新聞のストーブ
4 松花江(スンガリ)の夕映え
5 宣伝技術家の翼賛運動
6 花森安治の一番長い日
7 日本読書新聞の大橋鎭子
8 ニコライ堂のフライパン
9 松葉どんぶりと胡麻じるこ
10 花森安治の一戔五厘の旗
35.3月28日
2015年の桜の開花予想
桜はバラ科モモ亜科スモモ属の落葉樹の総称で、原産地はヒマラヤ近郊と考えられている。現在、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・米国・カナダなど、主に北半球の温帯に、広範囲に分布している。日本においては、サクラは開花が話題となる点において、他の植物とは一線を画す存在である。今年の桜前線は、3月21日に鹿児島、熊本、名古屋からスタートした。九州から関東地方にかけて順調に北上し、各地で平年より早い開花となっている。今後は、北陸、東北地方に桜前線が到達する見込みである。関東地方より西のエリアでは桜の満開を迎え、各地でお花見が楽しめそうである。
あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも
万葉集 山部赤人
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
古今集 小野小町
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
古今集 紀 友則
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
金葉集 前大僧正行尊
高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
後拾遺集 権中納言匡房
願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月のころ
山家集 西行
山桜散らばちらなむ惜しげなみよしや人見ず花の名だてに
金槐和歌集 源実朝
ほのぼのと花の横雲明けそめて桜に白む三吉野の山
玉葉集 西園寺入道
世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし
古今集 在原業平
36.平成27年4月3日
”オーストリア ブダペスト プラハ”(2013年5月 実業之日本社刊 ブルーガイド海外版編集部編)は、オーストリアを中心とした中欧3国への旅を紹介している。
ブルーガイドと言えば、1826年に創業したフランス出版大手アシェット社が発行している格付け観光ガイドブックがある。フランスでは、タイヤメーカーが発行するレストラン格付け本のミシュランガイドととともに、定評のある格付けガイドとされている。日本のブルーガイドは実業之日本社が出しており、国内旅行ガイドブックと海外旅行ガイドブックがある。オーストリア共和国、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家で、首都はウィーンである。ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接している。中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。その後も1938年にナチス・ドイツに併合され、1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復により現在につづく体制となった。オーストリアからは多くの作曲家・演奏家を輩出し、ドイツ圏全体として圧倒的に世界一のクラシック音楽大国として知られ、名門オーケストラや国立歌劇場、音楽学校を擁する首都ウィーンは音楽の都と呼ばれている。音楽と芸術の都、華やいだ街ウィーン、多彩な食文化を持つ夜景の美しいブダペスト、中世の小路地に迷い込んだようなプラハ、それぞれに異なる魅力で中欧三つの都市を紹介している。オーストリア、ハンガリー、チェコの三国はヨーロッパの中央部に位置し、隣り合っているため旅行がしやすい。この三国はかつて同じ国たったことがあり、ウィーンで活躍した著名な音楽家や画家たちの中にチェコやハンガリーで生まれ育った者がいる。また芸術家を庇護したウィーン貴族たちの中にも、チェコやハンガリー出身者が多い。三つの国には共通する文化がある反面、全く異なる文化も見られる。オーストリアとチェコは南北に隣り合い、オーストリアとハンガリーは東西に隣り合っている。プラハからウィーンヘ、ウィーンからブダペストヘ、鉄道で移動することがおすすめである。その途中には、真珠のように美しい町が散らばっている。途中下車して現地語しか通じない小さな町や村を訪れたなら、きっと忘れがたい思い出となろう、という。
中欧へのいざない
オーストリア
ウィーン
ザルツブルク
インスブルック
ブダペスト
プラハ
トラベルインフォメーション日本編
トラベルインフォメーション現地編
グラフィックマップ
コラム
とっておき情報
37.4月11日
”北京で働く”(2006年10月 めこん社刊 浅井 裕理著)は、海外へ飛び出すシリーズの北京編である。
北京でばりばり働いている本人19人へのインタビューと、暮らすため・仕事を探すためのインフォメーションの2部構成となっている。日本の会社から駐在員として赴任してくるのは圧倒的に男性であるが、そうではない人たち、つまり現地で仕事を探して就職したり、自ら起業しり、フリーランスで働いている日本人は、むしろ女性のほうが多いのではないか。第1部のインタビューは縦組みで右ページから始まり、PP.1-191となっている。インタビューした日本人は、俳優・日本語教師・コンサルティング会社社長・アナウンサー・ホテルウーマン・旅行会社勤務・客室乗務員・設計士・歯科医・美容院経営者・フリーコーディネーター・雑誌主宰者・翻訳会社社長・システム開発会社社長・駐在員事務所代行業・エステサロン社長・弁護士・料理長・翻訳者である。第2部のインフォメーションは横組みで左ページから始まり、PP.1-141となっている。インフォメーションの中身は、あなたは北京で働ける?(適性、必要な学力・スキルなど)、仕事を探す(仕事に探し方、労働条件など)、いよいよ北京へ(ビザ、持っていくもの、部屋探し、トラブルなど)、北京で暮らす(交通、医療、IT事情、銀行、生活費、関係機関など)、北京で学ぶ(中国語、スクール一覧、大学一覧、留学関係など)となっている。浅井裕理氏は、1997年から北京に住んで、人民日報電子版・編集担当、日系メディア企業の北京特派員として勤務したあと、フリーのライターになった人である。書籍・雑誌・ウェブサイトなどで、中国経済、中国文化に関する情報を多数発信している。北京での12年間で、三環路以内の市内に住む中国人が激減したという。露店の市場がどんどん減り、大型店やショッピングセンター、高層ビルが増えた。インフラ整備など、ハード面の変化が一番大きい。また、欧米の商品や情報も入手しやすくなり、中国人女性がとてもおしゃれになった。中国は歴史が長く、特に北京では古い物や文化に触れることができる。その一方で、経済急成長の恩恵を受けて、世界最新の技術や商品に触れる機会も多い。このように、空間の広がりと時間軸の広がりの両方を実感できる点が、北京の大きな魅力である。また、日本人、中国人とだけでなく様々な国の人と交流ができ、いろいろな国の文化に触れることができる。海外で働くことは、それまでの常識が通じない面もあり大変だが、やりがいも大きい。北京で働くことで、いい意味でも悪い意味でもタフになる。日本ではなかなか出来ない様々な体験ができるのが、中国で働く最大の魅力なのかもしれない。あなたは北京で働けるかという項では、食べ物の好き嫌い、異文化への適応能力、体の健康、5年後10年後の自分を思い描けるか、いいたいことをはっきり口にできるか、自分をたくましいと思う瞬間、失敗してもくよくよしないか、中国語が好きか得意か、孤独に強いか、3日お風呂に入らなくても問題ないかと問われている。60点に届かなかった人は、なぜ北京で働きたいかを再考を勧めている。
38.4月18日
”広瀬淡窓”(2002年1月 西日本新聞社刊 深町 浩一郎著)は、幕末期に豊後日田の生んだ日本最大の私塾咸宜園の創立者、広瀬淡窓の人と思想を紹介している。
広瀬淡窓は1782年に豊後国日田で博多屋三郎右衛門の長男として生まれ、名は建、字は子基、通称は求馬、別号に苓陽青渓、遠思楼主人などがある。幕末期に日本最大の私塾として知られた、咸宜園の創立者である。深町浩一郎氏は、1951年日田市生まれ、1970年に日田高等学校を卒業、1974年に鹿児島大学法文学部法学科を卒業し、大分県庁に就職し長く地方の行政に携わった。広瀬淡窓は少年の頃より聡明で、10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだ。13歳のとき、筑陰が豊後佐伯毛利氏に仕官したため師を失ない、16歳の頃に筑前の亀井塾に遊学し亀井南冥、昭陽父子に師事した。その後、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷し、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師倉重湊によって命を救われた。病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者、教育者の道を選んだ。1805年に長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘、咸宜園へ発展させた。咸宜園は1805年に創立された全寮制の私塾で、咸宜とは“みなよろし”の意味で、天領でもあることから、武士だけでなく、どんな身分でも、男女を問わず受け入れるということで名づけられた。入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、三奪の法によって、身分、出身、年齢などにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学、医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人に及んだ。淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年まで存続、運営された。淡窓の指針である敬天とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天から報われるとする敬天思想である。咸宜園の門生に、高野長英・大村益次郎・長三洲等がいる。
第1章 広瀬淡窓の生涯
第2章 教育者としての淡窓
第3章 詩人としての広瀬淡窓第4章 儒学者としての淡窓
39.平成27年5月1日
クールビズ
クールビズは、日本で夏期に環境省が中心となって行われる環境対策などを目的とした衣服の軽装化キャンペーン、ないしはその方向にそった軽装のことを言う。今年も4月24日に環境省から発表があった。
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環境省では、平成 17年度から、冷房時の室温 28℃でも快適に過ごすことのできるライフスタイル「クールビズ(COOL BIZ)」を推進しています。今年も地球温暖化対策及び節電の取組が重要であることから、クールビズ期間を5月1日から10月31日までといたします。
また、日本百貨店協会、日本チェーンストア協会、一般社団法人 日本フランチャイズチェーン協会では、それぞれの会員企業の店舗において、冷房温度緩和の取組を行うなど、クールビズの取組を今年も推進していきます。
今年も気候変動キャンペーン「Fun to Share」の活動の中で、クールビズを更に定着・進化させていくことを目指していきます。
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クールビズは、平成17年第1次小泉内閣第2次改造内閣で環境大臣に就任した小池百合子時代に、内閣総理大臣からのアドバイスにより、環境省の主導のもと、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に摂氏28度以上の室温に対応できる、軽装の服装を着用するよう呼びかけたのが始まりである。クールビズという表現は、環境省の一般公募によって選ばれたものである。実施期間は、環境省の想定では、6月1日から同年の9月30日まで、となっている。ただし、平成23年には、東京電力・福島第一原子力発電所での事故等の影響による電力不足も考慮して、政界・官公庁や一部の上場企業によって5月1日より実施された。平成24年からは、環境省がスーパークールビズを打ち出している。従来のクールビズは、主に軽装にすることにより室温28度でも快適に過ごせることを狙ったが、スーパークールビズは、ワークスタイルやライフスタイルの変革によって、さらに効果的な節電を目指す。
40.5月9日
”自転車に乗る漱石-百年前のロンドン”(2001年12月 朝日新聞社刊 清水 一嘉著)は、1900年秋にロンドンに留学した34歳の漱石の日記を手がかりに20世紀初頭のイギリスを紹介している。
夏目漱石は、1867年に江戸牛込馬場下横町で生まれ、市ヶ谷学校を経て錦華小学校へ転校し、12歳の時、東京府第一中学正則科に入学したが、2年ほどで中退し、漢学私塾二松學舍に入学し、1883年に英学塾成立学舎に入学し、1884年に大学予備門予科に入学した。大学時代に正岡子規と出会い俳句を学び、英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、1901年にイギリスへ留学した。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、小説を執筆した。20世紀初頭のイギリスの古本屋街、地下鉄、公衆浴場、ダービー、そして、ロンドンっ子を夢中にさせた乗り物自転車などは、当時の日本人にはもの珍しい光景であった。清水一嘉氏は、1938年神戸生まれ、岡山朝日高等学校卒、1962年東北大学文学部英文科卒、1964年同大学院修士課程修了、同年愛知大学教養部講師、1969年助教授、1980年教授、1998年文学部教授、2009年定年退任、名誉教授で、専攻は英文学、英国文化史である。本書は、清水一嘉のエッセー集であり、夏目漱石がロンドン滞在の一年目に記した日記の記述を手がかりに、その背景にある当時のイギリスの出来事や社会風俗を解説し、漱石の人物像やロンドン生活を描いている。倫敦ノ町ニテ霧アル日、太陽ヲ見ヨ。黒赤クシテ血ノ如シ。鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラシ。これはロンドンのスモッグにまつわる話である。1月末、ヴィクトリア女王が没し、国葬が行われた。大英帝国始まって以来、何10万人の人々を集めた国葬の様子が紹介される。漱石は留学費の1/3を書籍の購入にあてて、5~600冊の書籍を購入したとされる。1893年に出版された書店・出版社の辞典から漱石の日記に書かれた古書店を調べ、紹介している。漱石が渡英した頃、ロンドンでは慈善家の援助を受けて自治区の管理運営で公衆浴場と洗濯場が普及していたことが紹介されている。漱石が下宿したブレット家はそれまで多くの日本人が下宿した家であるが、下宿人が少なくなると経営が苦しくなって食事の質も低下した。漱石の留学費用やその使い道と、下宿の経営費用が検討される。下宿したブレッド家の女中、ペンがロンドンの方言で話かけてくるのに、漱石は辟易する。イギリスの雑役女中の生活が紹介される。イギリスの逓信省が葉書を発行したのが1870年で、1872年に葉書の個人発行が認められ、1890年代には絵葉書が発行され、1900年代にはカラー印刷の絵葉書が出回るようになり、コレクターも表れ、絵葉書ブームが発生した。漱石も魅力的な絵葉書をつぎつぎに日本に送ったとされる。18世紀終わりには、パブリック・ハウスは大衆酒場を指すものになった。場末のトゥーティングに移った漱石が目にしたのは劣悪な環境に暮らす下層の労働者階級の飲酒におぼれる姿であった。漱石はロンドン滞在2年目には日記をつけなかったが、帰国後”自転車日記”というエッセーを書いた。何度落ちたことか。石垣でスネを擦りむく。立木にぶつかり生爪をはがす。ひっくり返って、砂地に顔面を打ちつける。漱石が自転車にのる練習での、悪戦苦闘ぶりが描かれている。1890年代に安全自転車と空気タイヤが発明されてイギリスでサイクリング・ブームが起きたことが紹介される。部屋に閉じこもり神経衰弱気味となった漱石を気分転換させるために下宿の婆さんの勧めで自転車を練習し、スコットランドまで小旅行をでかけるまでになったとされる。本書は、このように、留学した漱石の日記を交えながら、彼が接したイギリス文化を解説していくというもので、特に食事や紅茶の描写は圧巻である。なお、漱石は帰京後、妻が勧めても乗らなかったそうである。理由は、ロンドンと違って道が悪くて、そのうえせせこましくていかんということであった。
鳶色の霧
ヴィクトリア女王死す
南亜戦争
クレイグ先生
地下鉄に乗る
古本屋めぐり
分冊出版を買う
「芝居は修業の為」
漱石「入浴ス」
アールズ・コート軍事博覧会
「下宿ノ飯ハ頗ルマヅイ」
「ウチノ女連ハ一日ニ五度食事ヲスル」
カルルス塩を飲む
「ペンガ饒舌リダシタ」
「小便所ニ入ル」
絵葉書を子規に送る
子供の独楽遊び
ストリート・ミュージシャンたち
四つ辻掃除人
エプソム・ダービー
「女ノ酔漢ヲ見ルハ珍シクナイ」
自転車に乗る漱石
「ラスキンノ遺墨ヲ見ル」
「妻ヨリハンケチ二枚送リ来ル」
41.5月23日
”写真集 松平容保の生涯”(2003年3月 新人物往来社刊 小桧山 六郎著)は、幕末の会津藩主、松平容保の激動の生涯を写真で紹介している。
松平容保は、1836年に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主、松平義建の六男として生まれた。1846年に叔父の会津藩第8代藩主、松平容敬の養子となり、1852年に家督を継いで第9代藩主となった。父は松平義建、母は古森氏で、養父は松平容敬である。兄弟は、徳川慶勝、武成、徳川茂徳、容保、定敬、義勇があり、義姉に照姫がいる。正室は、松平容敬の娘、敏姫であり、側室は田代孫兵衛の娘、佐久、川村源兵衛の娘、名賀である。実子は、容大、健雄、英夫、恒雄、保男があり、養子は喜徳がいる。本書は、戊辰戦争で最後まで戦った松平容保の悲劇の生涯を、200点の写真と文で綴っている。小桧山六郎氏は1946年福島県生まれ、亜細亜大学経済学部卒業、仏教大学学芸員課程修了し、博物館会津武家屋敷学芸員、野口英世記念館学芸員、会津史学会理事、猪苗代地方史研究会員、いなわしろ民話の会会長などを務めた。松平容保は1862年に京都守護職に就任した。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職、松平春嶽が会津藩祖、保科正之が記した会津家訓十五箇条の第一条”会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である”を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。京都守護職に就任すると、12月に会津藩兵を率いて上洛した。孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍、徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の公武合体派の一員として、反幕府的な尊王攘夷派と敵対した。1867年に15代将軍、徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽伏見の戦いが勃発して、旧幕府軍が敗北した。大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し、幕府軍艦で江戸へ下った。鳥羽伏見の戦いにより朝廷は、旧幕府を朝敵とした。慶喜が新政府に対して恭順の姿勢を示すと、旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立した。会津藩内でも、恭順派と抗戦派の対立が起こった。容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎した。西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城が無血開城された。新政府軍は、上野戦争で彰義隊を駆逐し江戸を制圧した。容保は新政府に恭順の姿勢を示したが、会津藩内は主戦派が占めていた。会津藩に同情的な仙台藩、米沢藩は、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に会津藩赦免を求めた。鎮撫使が仙台藩士によって殺害され、新政府軍と奥羽越列藩同盟の衝突は決定的となった。容保は恭順姿勢をやめ、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に徹底抗戦することを決意した。しかし、会津戦争では新政府軍に敗北を重ねた。若松城に篭城した際、家老に降伏を勧められたがこれを却下した。その後、同盟諸藩が次々と降伏し、容保はついに新政府に降伏した。降伏後は謹慎処分となり、鳥取藩に預けられることになった。1871年に会津松平家は容保嫡男の容大が新たに陸奥国内で3万石を与えられ、斗南藩として家名存続を許された。容保は1872年に蟄居を許され、1880年に日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、1893年に東京小石川の自邸にて肺炎のため59歳で薨去した。そして、1928年に、秩父宮雍仁親王と、容保の六男、恒雄の長女、松平勢津子の婚礼が執り行われ、朝敵会津藩の汚名を返上することとなった。写真で容保の人物がよく分かり、いずれも事実を物語っている。
敗軍の将は兵を語らず
誕生と高須藩
会津藩主となる
房総警備の視察に赴く
幕政への参画
京都守護職への就任
京へ入る
容保の活躍と孤立
会津と薩摩の提携
薩摩・長州の同盟と王政復古
戊辰戦争での敗戦と廃藩
新しい時代に生きる
朝敵の汚名返上
42.5月30日
”大塩平八郎 構造改革に玉砕した男”(2003年5月 KKベストセラーズ社刊 長尾 剛著)は、江戸後期に国の体制に修復のメスを入れ構造改革に玉砕した大塩平八郎の改革者としての足跡と紹介している。
1837年に大塩平八郎の乱が起こった。大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした、江戸幕府に対する反乱である。旗本が出兵した戦としては、1637年の島原の乱以来、200年ぶりの合戦であった。体制の悪い部分を切り捨て、改良できるところは改良し、全体を健全な姿によみがえらせようとしたのであった。長尾剛氏は1962年東京生まれで、東洋大学大学院修了のノンフィクション作家である。かつて司馬遼太郎が、このままでは日本はダメになるとつぶやいたものの、21世紀に入ってからもまだ何とか持ちこたえている。しかし、このままではダメになりつつあるという状況は変わっていない。疲弊したこの国の体制に修復のメスを入れ、体制の悪しき部分は切り捨て、改良の余地がある部分には改良をほどこし、体制全体を健全な姿に蘇らせるのが、構造改革の意味するところの大枠である。江戸時代後期に、大塩平八郎はそれだけの覚悟をもって、この国の構造改革に挑んだ。最期の最期まで、その男は自らの覚悟を貫徹した。そして、果てた。大塩平八郎は1793年大坂天満の生まれで、大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代のから数えて8代目にあたる。奉行所時代はさっぱりとした性格の人物として、不正を次々と暴いたという。上司の東町奉行高井実徳の応援により、西町奉行与力弓削新左衛門の汚職事件、切支丹摘発、破戒僧の摘発などを行った。その辣腕ぶりは、腐敗した奉行所内で憎む者も少なからずいたが、市民の尊敬を集めた。1830年に高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲った。学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて、隠居後は学業に専念した。そして、与力在任時に自宅に開いていた私塾、洗心洞で子弟を指導した。当時、寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされていた。そして、天保の大飢饉に遭遇する。天保の大飢饉は、全国的には天保4年秋から5年夏にかけてと、天保7年秋から8年夏にかけてが特にひどかった。天保4-5年(1833-34)の際には、大阪では経済の専門家が揃っていたため無事切り抜けた。しかし天保7-8年(1836-37)の際には、豪商が米を買い占めたため米価が高騰し、大阪では民衆は飢餓に喘いだ。そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を、新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日に、門人、民衆と共に蜂起した。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなり、蜂起当日に鎮圧された。大塩は戦場から離れ、数日後、再び大坂に舞い戻って、下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。一月余りの後、密告により幕府方に発覚し、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。享年45歳であった。幕府の吟味は、乱の関係者が数百人に上ることに加え、未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の二段階の吟味となり、一年以上の長期に渡ることとなった。仕置は翌年に言い渡され、大塩以下、主だった者たちの磔が大坂南郊の飛田刑場において行われた。大塩は、太平の江戸時代に生きた幕臣でありながら、幕府に反旗をひるがえす内乱騒ぎを起こしたが、内乱はわずか半日で幕府に鎮圧され、歴史に大きな波を起こすことは出来なかった。彼の行動はドンーキホーテのそれであり、その評価は多少の幅があるものの、総じて歴史の敗北者の中に放り込まれる。また、反乱という過激な手段で歴史に挑んだため、テロリストのイメージさえ持たれる場合がある。しかし大塩の真意は、江戸時代の徳川幕府という体制の構造改革をしたかったのである。全てはそのための行動だった。本書は、構造改革を自らの命と引き換えに成し遂げようとした、男の意地と信念と足跡を見定めたい。
第1章 大塩平八郎とその時代
徳川家に忠義を尽くそうとした幕臣・大塩平八郎
教育者としての大塩平八郎
天保時代(江戸時代後期)の政治状況)
第2章 大塩平八郎の思想
江戸時代の儒教思想
大塩平八郎の思想
第3章 大塩平八郎が遺したもの
大塩死後の「大塩像」
明治から平成へ
43.6月6日
”からくりインターネット”(2010年3月 丸善社刊 相澤彰子・内山清子・池谷瑠絵著)は、情報学の立場からインターネットのしくみを解き明かしていこうとしている。
情報学は、インターネットのような情報のやりとりにかかわる現象を数理的に分析し、これを行う人間の活動も含めて解明していこうという学問領域である。特定の商業的な目的に沿ったビジョンではなく、現象を解明し広く一般への影響や関わりについて多角的に捉えようとしている。このうち、ことばに注目し、これによってウェブという現象を解析するのが本書のねらいである。相澤彰子氏は国立情報学研究所・コンテンツ科学研究系教授で、東京大学大学院情報理工学系研究科教授を併任、内山清子氏は国立情報学研究所・学術コンテンツサービス研究開発センター特任研究員、池谷瑠絵氏はコピーライター、サイエンスコミュニケーターである。本書の副題は、”アレクサンドリア図書館から次世代ウェブ技術まで”となっている。古代アレクサンドリア図書館の歴史をひもといてみると、まさにグーグル・ブックスなど今のインターネットの状況をたどっているという。古代エジプトにすべての本を集めた図書館があって、世界のすべての本をアレクサンドリアに集めようとしていた。現在のインターネットは、ウェブという形態で地球を覆う大現模なネットワークである。この巨大なネットワークを舞台に、ベンチャー企業がビジネスを始めたり、人と人との新しい結びつきが生まれたりするなど、今までにはなかった新しい現象が日々起こっている。ウェブというバーチャルな場で行われるこのようなチャレンジは、同時に、さまざまなかたちでリアルな現実へもつながっている。インターネットと現実のはざまでは、さまざまな権利紛争や犯罪が起こっている。これらの危険性から身を守るためには、どうしてもセキュリティに気を配る必要がある。また、新しく生まれた問題として、著作権の問題、プライバシーの問題など、未解決の問題が数多く存在している。インターネットの検索ではさまざまなことばが使われるが、コンピュータがインターネット上の膨大な量のことばを扱うとき何が行われているのであろうか。ことばを通してインターネットのからくりを見ていくとき、ことばの意味と実体のゆるやかで曖昧な関係や、人間が追求してやまない知そのもののあり方の変化までもが浮かび上がってくる。ここでは、インターネットの情報の多くを占めることばを切り口に、インターネットのしくみやからくりを解き明かそうとしている。爆発的に増加しているインターネット上の膨大な情報とのつきあい方、その山から必要な情報を得るための検索技術、特定の文字数の文字パターンの出現率などから、インターネットのことばを解析する試み、コンピュータ翻訳技術の発展と日本語の特徴、ウェブ上の生きた辞書コーパス、ネット上のバーチャルと現実社会のリアルの複雑な関係性、ウェブから引き出せる価値と将来の可能性や方向性など、ことばの専門家からの視点で興味深い話題が扱われている。
序章 世界のすべての本をアレクサンドリアに
第1章 インターネットはことばの宇宙
第2章 情報爆発と検索のからくり
第3章 重要なことばは繰り返される
第4章 コンピュータが翻訳すると…
第5章 ネット上の別人
第6章 ウェブが知識をつむぎ出す
44.6月13日
”ゴーイング・マイウェイ”(2003年6月 財界研究所刊 田﨑 俊作著)は、日本一の真珠王を目指した田崎真珠社長の真珠と共に歩んだ74年を綴る自叙伝である。
株式会社TASAKIは神戸市中央区に本社を置く宝石を加工、販売する企業で、東京銀座にジュエリータワーTASAKI銀座店がある。田﨑俊作氏は、1929年に長崎県大村市で、男5人、女4人の9人兄弟の二男として生まれた。家業は真珠養殖業であったが、子沢山の貧しい生活だった。父親は神戸で単身赴任し、高島真珠で番頭として働いていた。小学校に入学する前、弟と一緒に母親に連れられて神戸で半年ほど暮らした。父親は33歳の時に独立して、大村湾の前ノ島で真珠の養殖を始めた。そこは義兄や知り合いが、一足先に高島真珠を辞めて養殖をしていた。前ノ島までは機船で2時間かかり、父母はその島に行ったきりであった。そのため、9人の子供たちは祖父母に育てられた。小学校を卒業してから、5年制の旧制大村中学に進んだ。大村中学を4年で卒業して海軍兵学校したが、在学中に敗戦を迎えた。1947年にやむなく長崎経済専門学校に進学し、1950年に神戸の鄭旺真珠有限公司に入社した。1954年に田崎真珠を創業し、1956年に有限会社田崎真珠商会となり、株式会社となったのは1959年である。1970年代に真珠の量産に成功し、国内で真珠の生産及び加工販売を行っている企業としてはトップクラスの実力があり、日本真珠振興会が主催する全国真珠品評会では農水大臣賞を7度受賞している。真珠は海からの贈り物であり、神秘的な美しさから月の雫とも天使の涙ともいわれ、洋の東西を問わず最高の宝石として珍重されてきた。古事記には、”白玉(真珠)の君が装し 貴くありけり・・・”と記され、真珠のように美しい、と美を象徴する言葉として使われている。日本書紀や万葉集にも真珠が詠まれている。日本ばかりではなく、ヨーロッパでも真珠は美のシンボルである。ギリシヤのホメロスの詩に歌われ、エジプトのクレオパトラが美容のために真珠を粉にして飲んでいたというのは有名な話である。生まれ育った長崎県大村湾は、古くからその真珠の産地である。戦国時代の1582年、豊後の大友宗麟、肥前の有馬晴信、大村純忠のキリシタン大名がローマ教皇に天正遣欧使節として四少年を使わしたが、その四少年がローマ法王に献じたのは、大村湾産の天然真珠だと伝えられている。天然真珠の産地だった日本は、養殖真珠を開発し、世界中の女性に真珠を提供している。田崎真珠は2004年1月に創業50年を迎える。神戸で創業して以来、半世紀になる。創業以来の目標は、世界に真珠を広めることであった。いまでは、ミスユニバース日本代表の王冠は田崎真珠製になっている。その後、会社は2010年に、英文社名をTasaki Shinju Co., Ltd.からTasaki & Co., Ltd.に変更した。2011年に、著者は82歳で神戸市東灘区の病院で死去した。2012年に、会社はTASAKIに商号を変更した。本書は、真珠に魅せられ生涯を燃焼した男の、子供時代から2002年までの物語が語られている。
第1章 父と真珠
第2章 海軍兵学校
第3章 丁稚奉公
第4章 「田崎真珠」創業
第5章 逆境
第6章 社会へ還元
第7章 不況克服
45.6月20日
”池田晶子 不滅の哲学”(2013年11月 トランスビュー社刊 若松 英輔著)は、14歳からの哲学などのベストセラーで知られる孤高の思索者の言葉と存在を解説している。
池田晶子は、1960年に東京都で生まれ2007年に46歳で没した文筆家、思索者、哲学者である。港区立御田小学校、港区立港中学校、慶應義塾女子高等学校を経て、慶應義塾大学文学部哲学科を卒業した。高校時代は登山に熱中し、大学時代に哲学者木田元に師事した。容姿に優れ、アルバイトとして雑誌”JJ”の読者モデルを務め、経済的にも自立し、進路を巡って両親との葛藤もあり、在学中に一人暮らしを始めるようになった。卒業後は就職せずモデル事務所に籍をおき、雑誌の校正の仕事をしたのがきっかけとなり、文筆活動に専念するようになった。専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって哲学するとはどういうことかを語ることで、多くの読者を集めた。現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらし、その執筆活動は哲学エッセイというジャンルの草分け的存在にもなっている。アカデミックな世界とは距離を置き、あまり同時代の哲学者との関連性を論じられることが少なかったが、亡くなる直前のガダマーとドイツで対談するなど、活動の幅は広かった。若松英輔氏は、1968年新潟県糸魚川市生まれの批評家で、慶應義塾大学文学部仏文学科卒業、2007年に第14回三田文学新人賞評論部門を受賞し、2013年10月より三田文学編集長を務めている。死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。共に居て、共に感じ、語り合う。語ることがなければ、語ることもなく、そんなふうにして通じ合ってゆくことが、言ってみれば救いというそのことなのだろう。コトバは言語でもあり得るが、ときに色であり、音であり、また芳香あるいは、かたちでもある。温かみや寄り添う感触、不可視な存在感として感じられることもあるだろう。苦しいとき、悲しいとき、希望を見失ったとき、コトバは、魂にふれる触手のようなものとして経験される。このとき私たちは単に、ある人の言ったことを思い出しているのではないだろう。コトバは、魂にふれる。また、ときに、私たち自身よりも私たちの魂に近づくこともできる。池田晶子氏にとって、書くとはコトバの通路になることだった。自らをコトバが通り過ぎる場と化す営みだった。自分が語るのではない。語るのはコトバであり、自分に託されているのはそれを聞き、書き記すことだけであると信じ、それを実践するために生きた。コトバは、その姿を自在に変えて人間に寄り添う。読むとは言語に潜む無形の意味を呼び出すことである。読み手は文字を読みながらときに、色を見、音を聞き、永遠を感じたりもする。読むとは、コトバに照らされ、未知の自己と出会うことでもある。旧姓によって文筆活動を行い、エッセイ等においても既婚である事実や配偶者に触れることは全くなかった。没後、夫を理事長として、NPO法人”わたくし、つまりnobody”が設立され、わたくし、つまりnobody賞が創設された。
第1章 孤独な思索者
第2章 月を指す指
第3章 哲学が生まれるとき
第4章 絶句の息遣い
第5章 言葉と宇宙
第6章 常識と信仰
第7章 思い出すということ
第8章 内語の秘密
第9章 「私」とは考える精神である
第10章 夢の向こう
第11章 言葉はそれ自体が価値である
46.6月27日
”2025年の世界予測”(2014年7月 ダイヤモンド社刊 中原 圭介著)は、10年、20年先の世界はかなり高い確度で予想できるという。
資本主義の成長神話は終焉に向かっている、世界経済では新興国から先進国への揺り戻しが起こる、2025年はデフレになっている、サラリーマンは75歳定年になる、英語は学ぶ必要がなくなる、日本の電気代が半額になる、これからは正社員が増える、日本の競争力が高まる、などという。中原圭介氏は、1970年土浦市生まれのエコノミスト、ファイナンシャルプランナーで、アセットベストパートナーズに在籍している。慶応大学文学部卒業で、元土浦市税務課職員である。世界はローマ帝国と同じ歴史をたどっており、世界の高成長が見込めなくなるのは歴史が証明している。古代ローマ帝国は、奴隷の供給が頭打ちになたことが原因で衰退の一途をたどった。資本主義には、安い人件費を提供してくれる人たちを搾取して成長してきた側面がある。世界には3つの潮流があり、先進国で中間層といわれる人が減少し代わりに新興国の富裕層が増加、先進国内で格差が拡大すると同時に新興国でも格差問題が進行、世界経済ではこれまでのような高成長はなくなっていく。イノベーションにより、将来は石油をだんだん使わなくなる。新たな埋蔵場所発見で世界の天然ガスの埋蔵量が急速に増加し、自動車の省エネ技術が進歩するからである。1つのエネルギー価格の下落が引き金となり、他のエネルギー価格を次々に下落させていくという玉突き現象が起こる。エネルギー価格の下落は、あらゆるものの価格に影響を及ぼす。その結果、よいデフレで所得格差が緩和され、国民の生活コストが下がり、人々の暮らしは良くなる。2025年までの世界で、日本国内にとどまって勝ち組になれるのは、筆頭はやはり自動車である。海外メーカーに抜きんでた技術力を持つハイブリッド車と燃料電池車を擁する日本の自動車産業は、次世代にも産業のエースであり続けるであろう。これに続くのはインフラであり、関連企業・下請け企業と一緒になって技術開発をしてきた産業の集積力がものをいう。日本のインフラが多少価格が高くても持っているのは、この産業集積があるからである。つぎに、環境技術があげられる。大気汚染、水質汚染や土壌汚染など、環境汚染を改善する技術も日本の強みである。つぎに、ロボットがあげられる。ロボットについては、先進国、新興国を問わず、これから需要が増加するのは確かである。製造業のオートメーション用ロボットはもちろん、介護ロボットや工事の作業ロボットも有望な分野になるであろう。国内にとどまって負け組になるのは、おそらく家電と化学の分野である。とくに家電は、同じ設備があれば世界のどこでも同じものをつくることができるため、日本と新興国の人件費の差が接近するまで、日本は苦しい戦いを強いられるであろう。化学の分野に関しては、アメリカで圧倒的に安いエチレンがつくれるので、国内のエネルギー価格が大幅に下がるまでは、アメリカや中東、中国との価格競争に太刀打ちできないであろう。そして、有望な産業は、じつは農業、観光、医療である。これらは内需産業のように思われているが、2025年に向けて外貨を稼げる産業に育っていく可能性が多分にある、という。
序 章 資本主義の終焉~成長神話の終わりは近い
第1章 これから物価は上がるのか下がるのか
第2章 先進国の国民は豊かになる
第3章 日本で始まる水素社会
第4章 日本の電気代は半分になる
第5章 日本で正社員が増える3つの理由
第6章 未来の自動車はどうなるか
第7章 日本の産業はどこが勝ち残るか
第8章 負担は大きいが、意外に明るい少子高齢化社会
終 章 2025年に生き残れる人材の条件
47.平成27年7月4日
”新撰組三番隊長 斎藤一の生涯”(2012年7月 新人物往来社刊 菊池 明編著)は、幕末の京都を警護した新選組の隊士で剣客として知られる斎藤一の生涯を紹介している。
斎藤一は、油小路の変、天満屋事件で影の主役となり、鳥羽、伏見の戦い以降は幕府方として会津まで転戦し、会津で明治の世を迎え、やがて警視庁警部補となり、西南戦争にも出陣した。幕末から明治へという時代の大転換期に、武人としての気骨を堅持し続けた最後の剣客と言われる。編著者の菊地明氏は、1951年東京都生まれ日本大学芸術学部卒の幕末史研究家であり、他の著者は、長屋芳恵氏、伊東成郎氏、山村竜也氏、市居浩一氏、伊藤哲也氏、林栄太郎氏である。新選組とは所詮、幕末という時代に咲いた徒花である。歴史を動かしたわけでもなく、歴史に名前を残したわけでもない。しかし、その世界にどっぷりと浸かってしまった方々にとって、徒花ではあっても十分に鑑賞に堪える花であることはいうまでもない。斎藤一という新選組隊士も、一輪の名花である。斎藤一は1844年に父・山口祐助、母・ますの三子として生まれた。出身地は江戸とされるが、播磨国ともいわれ、父が明石出身であったことから明石浪人を名乗ったようである。会津出身と書かれた資料もある。父・祐助は播磨国明石藩の足軽であったが、江戸へ出て石高1,000石の旗本・鈴木家の足軽となった。後年、御家人株を買って御家人になったというが、実際は鈴木家の家来だった。斎藤一は、19歳のとき江戸小石川関口で旗本と口論になり、斬ってしまい、父・祐助の友人である京都の聖徳太子流剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。居合いを得意とする一刀流の使い手ともされるが、正式には不明である。経歴には謎が多く、生涯で数回に渡り改名している。1863年に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成し、同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなった。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務めた。腕に覚えがある剣豪揃いの隊内における剣客師範と新撰組内部での粛清役を兼任し、加えて数々の攘夷派・倒幕派の志士達の暗殺を成し遂げた。その実力は、沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣とまで評され、三番隊組長として新撰組を牽引した。池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したといわれる。1867年に紀州藩の依頼を受けて、同藩士・三浦休太郎を警護し、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃された。三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負うなどの被害を出したが、斎藤は鎖帷子を着ており無事であった。将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加した。1868年に鳥羽・伏見の戦いに参加、甲州勝沼に転戦、斎藤はいずれも最前線で戦った。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向かった。このとき斎藤は負傷して戦列を離れていて、流山にはいなかったという説もある。会津藩の指揮下に入ってから、白河口の戦い、母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却し、土方らは庄内へ向かい、大鳥圭介ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。明治時代に入ってからは転封先の斗南藩に移住し、篠田やそと結婚した。のち、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・藤田時尾と再婚した。藤田五郎と改名し、数年後に警視庁の警官となった。妻との間には、三男をもうけている。1877年に警部補になり、西南戦争では抜刀隊として参戦した。別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長を務め、斬り込みの際に敵弾で負傷するも奮戦した。戦後、政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与された。その後、麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1891年に退職した。警官を辞した後は警視庁の剣術師範や、学校の撃剣教師などを務めた。自宅も女学生たちのための寄宿舎として開放していた。晩年は妻・時尾と共に、会津戦争にて戦死した隊士たちの供養に奔走した。1915年に 病気のため東京市本郷区で没した。階級は警部、勲等は勲七等青色桐葉章である。墓地は会津・阿弥陀寺にて、妻・時尾とともに眠っている。
斎藤一が生きた時代
斎藤一の出自と家族
新選組結成まで
斎藤一と剣
高台寺党と斎藤一
天満屋事件と斎藤一
鳥羽・伏見の戦いから流山まで
斎藤一の会津戦争
高田謹慎から斗南在住まで
晩年の斎藤一
48.7月11日
”ルートヴィヒ二世の生涯”(2011年8月 河出書房新社刊 シュミット村木眞寿美著)は、狂王という烙印を押されてきたバイエルン王ルードヴィヒ2世の生涯を紹介している。
バイエルン王国は、19世紀初めから20世紀初めまで存在したドイツの王国である。首都はミュンヘンで、1180年からヴィッテルスバッハ家が治めてきたが、1806年に神聖ローマ帝国が崩壊すると、近隣の領土を併合した上で、ナポレオン・ボナパルトによって王国に昇格され、ライン同盟の一員となった。その後、1815年にプファルツを回収、併合して、ドイツ連邦に参加した。ドイツ帝国が成立する際にも、王国は維持したまま帝国の1領邦となった。ドイツが第一次世界大戦に敗れると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、1918年にルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国は滅亡した。ルードヴィヒ2世については、1955年から何度か映画化されてきた。在位期間は1864年から1886年で、退位の翌日、シュタルンベルク湖畔において水死体で発見された。才気溢れる美しい王が、どういう背景で、どうして死なねばならなかったのか、歴史の中で封印されてきた真実を追い求めている。シュミット村木眞寿美氏は1942年東京生まれ、早稲田大学大学院修了後、ストックホルム大学に留学し、1969年よりミュンヘンに在住して執筆に専念している。2011年は青の年として、バイエルンではルートヴィヒ2世の没後125年を祝ったという。ルートヴィヒ2世は1845年に、父マクシミリアン2世とプロイセン王女マリーとの間にニンフェンブルク城で生まれた。1848年に弟オットー1世が生まれたが、同年に祖父ルートヴィヒ1世が退位し、それに伴い父が国王として即位した。ルートヴィヒ2世は王太子となったが、父が執務で忙しかったため、余暇をゲルマン神話や騎士伝説などの物語を読んで過ごした。同じヴィッテルスバッハ家一族の、オーストリア皇后エリーザベトには唯一心を許していた女性だったという。エリーザベト皇后は、自分の妹ゾフィー・シャルロッテを王妃として推薦し、1864年にルートヴィヒはゾフィーと婚約した。しかし、挙式予定を3回も延ばしついに婚約を解消した。ルートヴィヒのこの態度に、エリーザベトは怒りを覚え絶縁したという。1864年にマクシミリアン2世が逝去し、ルードヴィヒ2世がバイエルン王となった。早速、王の仕事として宮廷秘書に命じ、幼少の頃から憧れであった作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。多くの家臣は、悪い噂が流れていたワーグナーの召喚を快く思わなかったという。1865年にワーグナーを一時追放してから執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を具現化すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになった。ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキームゼー城を湖上の島を買い取って建設したほか、大トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設した。多数の凝った城や宮殿を築いたことから、バイエルンのメルヘン王などと呼ばれた。1866年に普墺戦争が勃発し、バイエルンはオーストリア帝国側で参戦することになった。戦争に敗れて、バイエルンはプロイセンに対して多額の賠償金を支払うことになった。1870年の普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたすと、ルートヴィヒ2世は現実から逃れ自分の世界にのめり込み、昼夜が逆転した生活を送るようになった。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたという。危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年6月12日に逮捕し廃位した。代わりに政治を執り行ったのは、叔父の摂政ルイトポルト王子であった。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。その死の詳細については未だ謎のままである。これらのことから、神話に魅了され長じて建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した、狂王の異名で知られている。しかし、廃位の背景には、多額の賠償金の支払義務と相次ぐ城の建設、政情不安などによるバイエルンの恐慌に、その原因があったのではないかと言われている。危惧したバイエルン首相ヨハン・フォン・ルッツらが、フォン・グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、禁治産者にすることを決定したとされる。狂人をでっち上げねばならない人たちは同じ傾向の証言だけを集めて、狂気と思われる王の言動を全て診断書の材料にした。バイエルンの歴史の中で、これほど慕われながら、かくも不当な評価を受けてきた王もいない。いまでもバイエルンの山岳地帯に生きている歌は、王が捕らえられ、引き立てられ、クロロフォルムを嗅がされて灰色の夕暮れ時に暗殺され、冷たい土の上に落ちたので、もう城には帰ってこない、という物語になっていているという。そして、城には現在年間130万人もの参観者があり、バイエルン州の歴代の王の業績のうちで最も効果的な投資として潤っている。あと一つ二つ城を残してくれてもよかったくらいだ、と虫のいい冗談も出るくらいである。
白鳥の湖のように
妖精の城(ニュンフェンブルグ城)
「父親」、皇太子マキシミリアン
王子ルードヴィヒの生い立ち
ローエングリーン
リヒアルト・ワグナー
キッシンゲン
都の動揺
普墺戦争
ルードヴィヒと女性
旅
「ニュルンベルグのマイスタージンガー」
普仏戦争
バイロイト
失った友を探して
城の時代;悲劇の終幕
沈黙の湖
ポーのなかに私がいる遺言に代えて
49.7月18日
”岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎”(2008年4月 文藝春秋社刊 辻 惟雄著)は、数奇な生涯を絵筆に託した謎の天才の人と作品を紹介している。
岩佐又兵衛は、1578年に摂津国河辺郡伊丹の織田信長の家臣で有岡城主の荒木村重の子として生まれた。江戸時代初期の絵師で、又兵衛は通称、諱は勝以であった。荒木村重は1579年に織田信長に反逆を企てたが、有岡城の戦いで惨敗した。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されたが、2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護された。成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えた。後に信雄が改易になった後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたという。辻 惟雄氏は1932年愛知県生まれ、東京大学大学院博士課程中退、東京大学文学部教授、千葉市美術館館長、多摩美術大学学長などを歴任した。岩佐又兵衛は戦国の有力大名の子に生まれながら、家門の滅亡と生母の悲惨な死に遭い、城や刀を捨てての画筆のみで渡世し、京都、福井、江戸と流浪の生涯を送った。40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、北庄に移住した。そこで、後に岩佐家の菩提寺になる、興宗寺第十世心願とも出会う。忠直配流後に松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごした。1637年に2代将軍徳川秀忠の招きで、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住んだ。大奥で地位のあった、同族の荒木局の斡旋があったという。20年余り江戸で活躍した後、1650年に波乱に満ちた生涯を終えた。このスケールの大きな在野の画家は、古典の雅のなかに、当世風の俗と心理の翳りを映すかたちの歪みを、さりげなく忍ばせた画風を表向きのものとした。一方で、それ以上の情熱を、アンダーグラウンドの工房であるスタジオ-マタベエの主宰・経営に注いだ。そこでひそかに作られた無署名の作品が、世間の注目を浴びた。山中常盤や上瑠璃のような特異な絵巻群であり、浮世又兵衛の名の由来となった舟木屏風のような画期的な風俗画であった。このスケールの大きな個性的画家はまた、終始京にあって活躍した同時代の巨匠、俵屋宗達の陽に過不足なく対応できる陰の世界の表現者として、正当に評価されるべきだろうという。岩佐又兵衛は、はたして浮世絵の元祖と言えるかどうかが問題である。現在、浮世絵の元祖として誰もが認めるのは、菱川師宣である。自ら浮世絵師と称し、浮世絵という言葉が文献に現れるのも菱川師宣が活躍した寛文から元禄の時代であった。だが、菱川師宣の時代の浮世の意味内容は、近世初期に大きな転換をとげた現世肯定の浮世享楽思想と異なるところはなく、それの継承であり、大衆版としての普及にほかならない。もし二人の元祖の存在が認められるならば、岩佐又兵衛は第一期の浮世絵の元祖であり、菱川師宣は第二期の浮世絵の元祖ということになる。第一期の浮世絵のよった画面形式は、主に屏凧絵である。発注者は武士や屏凧絵を購入できるような資力を備えた上層の町人たちであり、享受された場所は京都を中心とする大都市、地方都市であった。それに対し菱川師宣の手がけた浮世絵は、屏風、掛軸、巻物と幅広いが、名声を決定づけたのは絵本の木版挿図、なかでも春本の挿図であり、それを発展させた組物の一枚摺りであった。元祖は一人に限るというのなら、浮世又兵衛と綽名された岩佐又兵衛を、菱川師宣に先行する浮世絵の創始者という見方をとらざるを得ない。いずれにせよ、岩佐又兵衛浮世絵元祖説を肯定するのが、美術史の流れの実際に即した見方であるという。
はじめに 又兵衛論の総決算として
第1章 伝記と落款のある作品
第2章 又兵衛の謎-没後の言い伝え
第3章 “又兵衛風絵巻群”の出現と論争
第4章 “又兵衛風絵巻群”の驚くべき内容
第5章 又兵衛と風俗画-又兵衛はどんな風俗画を描いたか
おわりに 又兵衛から浮世絵は始まった
50.7月25日
”七花八裂 明治の生年 杉村広太郎伝”(2005年9月 現代書館社刊 小林 康達著)は、明治時代に青年期を迎え新しい日本を意識したジャーナリスト杉村楚人冠の前半生を中心に紹介している。
杉村楚人冠は、1872年=明治5年和歌山市生まれ、本名は杉村廣太郎、別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数がある。楚人冠の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。父は旧和歌山藩士の杉村庄太郎で、3歳の時、父と死別し、以来、母の手で育てられた。小林康達氏は、1942年宇都宮市生まれ、東京教育大学文学部卒、千葉県公立高校教員を務め、本書執筆時は千葉県我孫子市教育委員会文化課嘱託であった。七花八裂とは、禅宗用語で1の者が裂けて七にも八にもなることで、微塵に粉砕するをいう。このタイトルは1908年に出版された、杉村縦横著”七花八裂”に由来する。著者自伝によると、”医を志して遂げず、法を学んで得ず、政治経済を修めて達せず、文学宗教を究めんとして其の業を卒へず。学校に入るもの前後18、其中辛くも所定の学課を卒へたるもの僅に1。新聞記者となり、学校教師となり、俗吏となり、又記者となる。5たび洋行を企て、4たび成らず、5たび人を恋うて4たび敗る。もと和歌山市の出、今東京大森に在り。くはしくは郵便切手封入にて尋ね合すべし。”とある。杉村の前半生は、微塵に粉砕された青春だったのか、それとも自由自在の青春だったのか。1886年に旧制和歌山中学校を中退し、1887年に上京して英吉利法律学校邦語法律科で学び、1889年に国民英学会に入学し1890年に卒業した。1892年に”和歌山新報”主筆に就任するが、翌1893年に再び上京し、自由神学校に入学し1896年に卒業した。この間、1894年に数カ月東京学院英語部教員を務め、1898年に数カ月正則英語学校で教えた。1899年に在日アメリカ公使館の翻訳通訳に従事し、伊豆山相模屋の娘と結婚し、7男1女を設けた。1903年に池辺三山の招きにより、東京朝日新聞社に入社した。それから42年間、朝日新聞記者としての生涯を全うした。ジャーナリストとしての後半生は、はなばなしいものであった。入社当初は主に外電の翻訳を担当していた。1904年にレフ・トルストイがロンドン・タイムズに寄稿した”日露戦争論”を全訳して掲載した。戦争後、特派員としてイギリスに赴き、滞在先での出来事を綴った”大英游記”を新聞紙上に連載した。その後も数度欧米へ特派され、帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、1911年に索引部(同年、調査部に改称)を、1924年に記事審査部を創設した。縮刷版の作成も発案し、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。また、アサヒグラフを創刊したりするなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。関東大震災後、それまで居を構えていた東京の大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町に移り住んだ。この地を舞台に、エッセイ集など多くの作品を著した。俳句結社を組織して地元の俳人の育成に努めたり、我孫子ゴルフ倶楽部の創立に尽力した。1945年に73歳で死去し、八柱霊園に埋葬された。本書が杉村広太郎伝と称しつつ前半生のみに止まり、最も重要な朝日新聞社時代にまで及ばなかったのは、著者が杉村の前半生に大きな興味を懐いたことにあったという。明治20年代は新しい産業や文化の勃興期であり、新旧世代の交代期であった。古い世代の経験や蓄積は容赦なく切り捨てられたが、一方で伝統文化の再評価が叫ばれ国粋保存旨義が提唱された。そのような時代にあって、杉村やその友人たちがどのように思想を形成し、人生を選択していったのかを個別的に検証してみたかったという。
はじめに―「七花八裂」について
第1章 母ひとり子ひとり
第2章 明治の青年は東京をめざす
第3章 英学・仏教・文学
第4章 『和歌山新報』時代
第5章 迷い
第6章 日清戦争の時代
第7章 京都西本願寺文学寮教師
第8章 離陸準備
おわりに―楚人冠の誕生
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