トップページ

マネジメント

パソコン英語

進学 ・資格

仕事 ・生活

技能ハッピーライフ

徒然草のページ


徒然草のぺージコーナー

 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

徒然草のページ

楽天市場

ビッダーズ

ヤフー

ミックス1

ミックス2

アマゾン








空白


徒然草のページ

1.平成27年8月1日

 ”道は開ける”(2014年2月 新潮社刊 D・カーネギー著 東条健一訳)は、ほんの少しの行動で人生は劇的に変わることを説く決定版カーネギーである。

 将来のことが心配で眠れない、昨日の失敗で気が重いなど、私たちは心や身体が壊れるまで思い悩んでしまう。この点については、過去と未来を鉄の扉で閉ざせ、今日一日の枠の中で生きよう、と説く。息絶えた昨日とまだ生まれていない明日を心から閉め出して、きのうのイヤなことや明日の心配を思い患うことなく、今日一日だけを精一杯に生きよう、ということである。デール・ブレッケンリッジ・カーネギーは1888年にアメリカ・ミズーリ州メリービルで、貧しい農家の父、ジェームス・ウィリアム・カーネギーと、母、アマンダ・エリザベス・ハービソンの間の次男として生まれた。10代のカーネギーは、両親が所有する牛の乳搾りをしながら、ウォーレンバーグ州立教員養成大学で教育を受けた。大学卒業後、最初に就いた仕事は牧場主に通信教育を販売する仕事であった。その後、別の会社で、ベーコン、石鹸、ラードの販売を手掛け、ネブラスカ州、南オマハの販売担当として、リーダーとなるまで成功した。貯金が500ドルに達した1911年に、講演会講師になるという長年の夢を叶えるために販売職を退職した。そして、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入学したが、役者としてはまったく日の目を見なかった。興行が終わるとほぼ一文無しの状態でニューヨークへ戻り、125丁目のYMCAを住まいとした。そこでスピーチを教えるという構想を抱き、クラスを受け持たせてもらう見返りとして純利益の80%を渡すと言ってマネージャーを説得した、という。最初のクラスでは教材に事欠いたが、1912年の初講義からデール・カーネギーのコースは徐々に進化を遂げた。普通のアメリカ人の、もっと自分に自信を持ちたいという願望に応える形で、1914年までには500ドルを毎週稼ぎ出した。1916年までには、デール・カーネギーは講義会場のカーネギーホールを満員にできた。その後、自己開発、セールス、企業トレーニング、スピーチ、対人スキルに関して、各種のコースを開発した。デール・カーネギーの名声が最高潮に達したのは、1936年に”人を動かす”が出版されたときである。発売と同時にベストセラーとなり、数ヶ月のうちに17版が刷られ、1955年に亡くなるまでの間に、31言語に訳され500万部を売り上げた。また、デール・カーネギー学院の修了生は、45万名にのぼった。

まえがき この本はなぜ書かれたのか? あなたには何が必要なのか?
この本を読む前に 9つの約束
第1章 不安と悩みが消えない人へ
1 昨日のことは忘れよう。明日のことに思い悩むな。
2 最悪の状態を受け入れたとき奇跡が始まる。
3 健康でいることが本当の成功である。
第2章 すべての問題は消去できる
4 事実を集めるだけで問題解決に近づく。
5 悩みは4つの質問で50%減る。
第3章 自分を壊さないために
6 行動は不安を消去する。
7 小さなことにくよくよするな。
8 心配や不安は的中しないことのほうが多い。
9 あるなら探そう。ないならあきらめよう。
10 価値に見合った投資を行う。
11 愚かな人は過去を変える。賢い人は未来を変える。
第4章 幸せになるための科学的方法
12 思考が変われば行動が変わる。行動が変われば人生が変わる。
13 敵を憎む代償は高く敵を愛する報酬は高い。
14 人に感謝を期待すると不幸になる。
15 あなたにはロックフェラーを超える財産がある。
16 偽造通貨を欲しがる人はいない。
17 ぬかるみを見るな星を見よ。
18 幸福は他人への関心と協力の中に隠れている。
第5章 もう絶対に悩まない
19 祈りは問題解決の技術である。
第6章 あなたはなぜ批判されるのか?
20 死んだ犬なら誰にも蹴飛ばされない。
21 優れた人物は不当な批判を無視する。
22 自己批判は最大の防御である。
第7章 心の疲れよ、さようなら
23 人より成果を上げる人は人より休む。
24 成功者ほど疲れない。あなたは?

2.8月8日

 ”セネカ”(2006年4月 清水書院刊 角田 幸彦著)は、哲学者、悲劇作家、宮廷政治家であったセネカの全体像を描きつつその生涯と思想を紹介している。

 ルキウス・アンナエウス・セネカは、ローマ帝政の暴虐と狂態を生き、その運命を伴侶として対話した。本書は、かつて倫理思想家としてのみ知られていたセネカについて、キケローの衣鉢をただ一人ローマで継ぐ体系的哲学者であった全体像を描き、多彩で奥の深いセネカの人間性に迫ろうとしている。角田幸彦氏は1941年小樽市生まれ、東京教育大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程修了、1983年ドイツ・テュービンゲン大学留学、1997年マールブルク大学で研究した。文学博士(筑波大学)で、執筆当時、明治大学教授、専攻はギリシア・ローマ哲学、政治哲学、歴史哲学、景観哲学である。ルキウス・アンナエウス・セネカは、父親の大セネカ=マルクス・アンナエウス・セネカと区別するため小セネカとも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の古典ラテン語時代を代表する人物と位置付けられる。大セネカは紀元前54年にヒスパニア・バエティカ、コルドバで生まれたローマ帝国の詩人で、短い生涯だったにもかかわらず、古典ラテン語時代の突出した人物の1人と見なされている。小セネカは紀元前1年頃コルドバで生まれ、14年頃両親と共にローマへ移り、20年頃大病を患い治療のためにアエギュプトゥスへ向かい31年まで滞在した。33年頃クァエストルに選出され、37年にカリグラが即位しアグリッピナやユリア・リウィッラの後ろ盾を得たが、39年頃大セネカが死去した。41年に クラウディウスが即位し、49年頃ローマへ帰還した。50年にプラエトルに選出され、ネロの家庭教師となった。ネロは、37年に小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として生まれた。父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子で、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。43年に皇帝カリグラが暗殺され、伯父のクラウディウスが擁立されて第4代ローマ皇帝となった。そして、54年にクラウディウスが死ぬと、ネロが皇帝に即位した。ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れている。セネカはのちに謀反の疑いを受け、ネロの命令によって自殺した。ローマ史を知ろうとする場合、単にローマの政治史へ向かうのは、経済史・社会史を加えても不十分である。ローマが共和政国家として繁栄し衰退してゆく展開は、ローマ共和政末期を生きその時代を哲学したキケローと真剣に対話しなければ知ることはできない。共和政を崩壊させて現れた帝政は、すぐ狂態や暴政に覆われた無気味な様相を呈さざるをえなかった。そして、この現実は、なによりもその時代を運命として担ったセネカと衿を正した対話なしには、真に理解することはできない。セネカとキケローはヨーロッパ精神史の大恩人である。ヨーロッパの政治思想を代表する人物といえば、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、マキャベェッリ、ロック、モンテスキュー、ルソー、カント、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、アーレント、レオ=シュトラウスなどがあげられる。しかし、政治の火中の栗を拾って政治思想を形成し、彫り込んだのは、キケローとセネカだけである。セネカは倫理的、宗教的であるに止まらず、ギリシアの自然哲学と対決した理論哲学者でもある。それだけでなく、セネカはローマ最大の悲劇詩人であり、ギリシア悲劇と対決して、人心の奥の蠢きを一層深く捉え、ローマ悲劇を完成させたという。

1 セネカの生涯?セネカとその時代
はじめに-セネカの生涯の概略と現代的意義
幼年時代
ティベリウスの時代(一四~三七年)
カリグラの時代(三七~四一年)
クラウディウスの時代(四一~五四年)
ネロの時代(五四~六八年)-特にセネカの死六五年まで
セネカの晩年
補章二つ
2 セネカの思想
哲学者セネカの独自性
哲学・倫理学著作
道徳書簡集
自然研究
悲劇作品におけるセネカの展望
改めて今セネカを学ぶ意義
あとがき-ヨーロッパ精神史の二人の恩人

3.8月15日

 ”川崎尚之助と八重”(2012年12月 知道出版刊 あさくら ゆう著)は、山本八重の最初の夫とされ会津藩と八重のために激しく一途に生きた川崎尚之助の生涯を紹介している。

 川崎尚之助は、1836年に出石藩の医師、川崎才兵衛の子として生まれた、江戸時代末期の洋学者、会津藩士である。山本覚馬を慕って会津藩に移って八重と結婚し、会津藩士として砲術を指導した。出身地とされる豊岡市には史料がほとんどなく、これまでほぼ無名の人物だったが、2013年のNHK大河ドラマ”八重の桜”で初めてその生涯が注目された。あさくらゆう氏は、1969年東京都台東区生まれの幕末維新期の人物史を中心とした歴史研究家である。今回、会津図書館、米沢市立図書館、豊岡市文化財管理センター、法務局などで資料を調査し、川崎家の子孫への取材も行ったという。1845年に山本八重が生まれた。1854年ころ、川崎尚之助は江戸に出て蘭学を杉田成卿大槻磐渓、大木忠益に学び、会津藩山本覚馬と大木塾で知り合った。1857年に会津藩が江戸に蘭学所を設け、尚之助は山本覚馬に請われて会津若松に赴き、山本家の居候となった。1859年に会津藩が日新館に蘭学所を設け、尚之助は会津藩に雇われた。1860年に蘭学所から砲術部門が分離されて、尚之助は砲術部門へ移り大砲方頭取に就任した。1862年に会津藩主松平容保が京都守護職に就任し、12月に京都へ赴いた。尚之助は1865年に会津藩士となり、山本八重と結婚した。1868年に鳥羽伏見戦争始まり、山本覚馬は行方不明、弟の三郎が戦死した。会津藩は兵制改革に着手し、尚之助は砲術指導で活躍した。会津城下の戦争が始まると、尚之助と八重は籠城した。尚之助は豊岡砲台を担当し、八重は側女中として城内勤務となった。1868年に会津藩が降伏し、尚之助はほかの藩士とともに猪苗代の謹慎所へ移った。1869年に尚之助はほかの会津藩士とともに東京へ連行され、1870に海路で斗南に行き野辺地港に到着し、米座省三とともに函館に渡った。その後、会津松平家の家名存続が許され、下北半島に3万石で立藩された斗南藩に移住した。尚之助は斗南藩が飢餓に直面するのを見て奮起し、海峡を越えて貿易港函館に渡った。斗南藩で将来収穫できるであろう大豆と外国米との、先物取引を行っていた。その中で、函館のデンマーク人、デュースと広東米の取引を行ったが、詐欺に遭ったという。後に米手形を取り戻すため訴訟を起こし、後日、訴訟には勝ったものの、取り戻して清算して残ったのは莫大な借金だったという。尚之助は藩に迷惑をかけないため、その罪を一身に背負う決心をし、裁判にかけられる破目となった。そして、不遇の謹慎生活の後、1875年に東京で肺炎のため死去したとされている。一方、八重は会津戦争が終わった翌日、強制的に夫から引き離され避難所で生活していた。そのとき運よく尚之助の弟子が米沢藩にいて、その縁から米沢で一時暮らすことができた。それまで、八重は尚之助からの手紙を待っていたという。夫が疑獄事件の暗雲に巻き込まれていたことは、知らなかったのではないか。この後、京都に移った八重は覚馬の命令で川崎姓を捨て、山本家に復籍し、後、1875年に新島襄と婚約した。そして、1890年に新島襄が死去し、1931年に新島八重が死去した。これまでの尚之助はテレビ番組では根拠もなく逃げた男にされてきたが、実は藩の飢餓に対し奮起した一途の男であったという。

序 章 「逃げた男」から「一途の男」へ
第1章 出石藩
第2章 出石藩川崎家
第3章 蘭学修業
第4章 会津藩
第5章 会津藩山本家と結婚
第6章 京都守護職
第7章 戊辰戦争
第8章 会津戦争へ
第9章 会津城下の激戦
第10章 会津藩解体
第11章 戦後の会津
第12章 斗南
第13章 函館
第14章 八重、米沢から京都へ
最終章 終焉

4.8月22日

 ”ザビエルの同伴者 アンジロー”(2001年9月 吉川弘文館刊 岸野 久著)は、ザビエルを日本に導きキリスト教布教を助けた日本人アンジローの果した歴史的役割を紹介している。

 フランシスコ・デ・ザビエルは、1506年ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師で、イエズス会の創設メンバーの1人のバスク人である。1549年に、日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名である。そのザビエルの目を未知の日本に向けさせ、ついに日本行きを決意させ、よき同伴者となった日本人がアンジローである。岸野久氏は1942年東京都八王子市生まれ、1965年立教大学法学部法律学科卒業、1975年立教大学大学院文学研究科博士課程単位修了、2000年文学博士、現在、桐朋学園大学短期大学部教授、東京外国語大学非常勤講師である。世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、他の3名のイエズス会員、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスとともに、1541年にリスボンを出発した。アフリカのモザンビークで秋と冬を過して、1542年に出発しゴアに到着した。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年にマラッカに、さらに1546年にモルッカ諸島に赴き、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年に出会ったのが鹿児島出身のアンジローという日本人であった。故郷で殺人を犯して東南アジアに逃亡中、ポルトガル船長ジョルジュ・アルバレスに同行してマラッカに渡っていたという。アンジローは1511年頃の生まれで、ザビエルの導きでゴアに送られ、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で日本人として初めて洗礼を受けた。霊名は、パウロ・デ・サンタ・フェといい、聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スムーズに進むだろうと答えた。アンジローの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意したという。ザビエルは1548年にゴアで宣教監督となり、1549年に、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのアンジローら3人の日本人とともに、ジャンク船でゴアを出発して日本を目指した。一行は明の上川島を経由して、アンジローの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸した。その後、許しを得て、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。伊集院城で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。アンジローは日本語教師として、また、聖書の一部の翻訳に従事したりして、ザビエルの活動を助けた。しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、京にのぼることを理由に薩摩を去った。その後、ザビエル離日後、アンジローについて、ルイス・フロイスなどに証言があるものの、いかなる人生を送り、いずこで亡くなったかは不確かである。一説では、1551年初頭に信仰を失い、中国に渡って寧波で盗賊に殺されたという。

ザビエルの日本人ガイド-プロローグ
日本人アンジロー
マラッカ-ザビエルとの出会い
ゴア-聖パウロ学院留学
鹿児島-ザビエルの同伴者
アンジローの評価-エピローグ

5.8月29日

 ”スクリューフレーション・ショック”(2012年7月 朝日新聞出版刊 永濱 利廣著)は、世界の新たな経済現象の下で起きている中流層の貧困化とインフレについてその原因と解決策を考察している。

 スクリューフレーションは、中間層の貧困化=screwingとインフレーション=inflationを組み合わせた造語である。screwingとinflationのどちらの動きも一般世帯の家計にとってマイナスに作用し、消費負担が増すことで中間層の貧困化とインフレーションが同時に発生し経済活動が萎縮する。世界経済のグローバル化・一体化、技術革新、非正規雇用の普及という三つの大潮流に、金融緩和、急成長新興国のインフレ、食料・エネルギー価格上昇が加わって、この脅威にさらされる。本書の副題は”日本から中流家庭が消える日”となっている。永濱利廣氏は1971年栃木県生まれ、1995年早稲田大学理工学部卒業、2005年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、1995年第一生命保険入社、1998年日本経済研究センター出向、2000年第一生命経済研究所経済調査部副主任研究員、2004年同主任エコノミストを経て2008年から同主席エコノミストを務めている。1990年初頭のバブル崩壊から失われた20年という長いトンネルの出口が見えず、経済が停滞したままの現在、多くの日本人が働いても生活が楽にならないと感じるようになった。以前と変わらず一生懸命に働いているし、時代の変化に応じられるよう努力もしているにもかかわらず、なぜか生活が楽にならない。2008年のリーマンショック以降はたしかに日本企業の業績は低迷しているが、そこに至るまでは何年もの間、未曽有の好業績を謳歌していた企業が決して少なくなかった。にもかかわらず、好業績や好景気を給料の上昇として実感できた人はとても少なかった。景気には循環があり、不況の後には好況が訪れ好況が続けばいずれ不況も訪れる。それでも好況の時に企業業績が回復し、働く人たちの給料が増えることで人々は豊かさを感じ、不況の時にもいずれ景気は回復するとがんばることができた。ところが、ここ何年かの状況を見ていると、好況の時にも給料は思うように上がらず、不況の時には一層の厳しさを強いられることになっている。かつて国民が豊かさを享受し、1億総中流と呼ばれた日本という国から、豊かさが失われつつある。それは、世界経済で起きている新たな事象、スクリューフレーションに日本も巻き込まれているためである。スクリューフレーションという経済用語は、2010年にアメリカのヘッジファンドマネジャー、ダグ・カスがつくった造語である。元々はアメリカ経済が抱える問題を分析することで生まれた言葉だが、それに近い現象は日本でも起きていると思われる。かつてアメリカンドリームという言葉に象徴されるように、たとえ貧しい生まれの人間であっても才能と努力によってチャンスをつかみ、大きな成功を手にすることができる国だと信じられてきた。何も持たない若者が世界を変えるほどの成功ができるところに、アメリカの強さと魅力があった。しかし、多くのアメリカ人にとっては、もはやアメリカンドリームは遠い世界のものとなってしまっている。国自体が貧しいのではなく、実質GDPによれば、アメリカ経済の規模そのものは過去30年間で倍以上に拡大している。企業収益も、最高益を記録している企業が少なくない。しかし、その一方で実質賃金の水準を見ると、ほとんど伸びが見られない。国の発展や企業の好業績が、給料として反映されていないのである。にもかかわらず、食料品やエネルギー価格の高騰により、中間層の人たちは給料が伸びない中で、生活に欠くことのできない食料品やガソリン代などの負担だけが増えている。そのため、本来は豊かになるべき国民が、ごく一握りの大金持ちを除いて、豊かさを享受できないどころか、生活水準の低下へと向かっている。背景には、世界経済の一体化とグローバル化による先進国と新興国の格差縮小や、先進国での極端な金融緩和などがある。新興国が発展すれば、工業製品などのモノの価格が下がり、先進国の企業の優位性が失われる。一方で、新興国が経済的に発展することで需要が増えるのが、食料品やエネルギーである。生活水準の向上や、生活の質の変化は食料品需要を押し上げ、結果的に価格の上昇をもたらす。エネルギーも同様である。さらに、金融緩和などであり余った投機資金の流入もある。サブプライム問題やリーマンショックの後に行き場を失ったお金が大量に流れ込むことで、実需による値上がりをはるかに上回る値上がりを招いている。同様のことは日本でも起きており、場合によってはこうしたスクリューフレーションの影響はアメリカ以上に日本で顕著に表れるのではないかという。今後、生活必需品と贅沢品での物価の二極化が生活格差、地域格差をもたらすであろう。今後は、何もしなければスクリューフレーションが深刻化して、生活水準の低下を余儀なくされることになる。そうならないために今必要なのは、なぜスクリューフレーションが先進国に広がっているのかという背景をきちんと知り、現実を見据えて政府、日銀、企業には何か求められるのか、私たち自身はどのように生きればいいのかをきちんと理解することである。

プロローグ 「スクリューフレーション」とは何か
第1章 世界経済の低迷―その原因は
第2章 日本経済は復活するのか
第3章 「新興国」「途上国」のインフレ、人件費上昇、都市化
第4章 忍び寄る「スクリューフレーション」
第5章 日本から中流家庭が消える日
第6章 「スクリューフレーション」を生き抜く日本経済
エピローグ スクリューフレーション時代の心構え

6.平成27年9月5日

 ”カーネル・サンダース”(1998年9月 産能大学出部刊 藤本 隆一著)は、ケンタッキー・フライド・チキンを65歳で創始し、理想をもっとも忠実に受け継いでくれる日本が一番好き、と言った男の知られざる生涯を紹介している。

 カーネル・サンダースとは直訳では”サンダース大佐”であり、ケンタッキー州に貢献した人に与えられるケンタッキー州名誉大佐のハーランド・デビット・サンダースを指している。アメリカの実業家で、ケンタッキー・フライド・チキンの創業者である。幾度となくふりかかってきた不幸や逆境により、何度も挫折を味わいながら、その度重なる挫折により成長した姿が紹介されている。藤本隆一氏は1962年神奈川県生まれ、22歳の時に渡米し現地の大学を卒業、約8年間のアメリカ滞在中に、アメリカでの生き方や成功に対する考え方に強い関 心を持ち、アメリカの成功哲学、自己啓発法を学んだという。サンダースは1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで生まれた。ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30kmほど離れた町である。父親はサンダースが6歳のときに亡くなり、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てた。工場で働く母を助けて6才で料理を始め、弟妹と母のために焼いたパンが大喜びされたのが7才のときであった。サンダースは10歳から農場に働きに出て、14歳で学校を辞め農場の手伝いや市電の車掌として働いた。1906年、16歳の時に年齢を詐称して軍に入り、キューバで勤務した。軍隊における経歴は、一兵卒として終わっている。1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々とした。タイヤのセールスのときに親しくなったスタンダード石油代理店の支配人に勧められ、1929年にケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを始めたが、大恐慌のあおりを受けて失敗して財産を失った。1930年にケンタッキー州コービンに移り住み、再起してガソリンスタンドの経営を始めた。注文の前に埃まみれの車の窓を洗い、ラジエーターの水を確認するサービスを始めたという。ほどなく、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー、サンダース・カフェを始めた。サンダースは、ガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ねた。州の南北を貫く幹線道路である国道25号線に面した店は繁盛し、規模を拡大した。1935年には州の料理への貢献が評価されて、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から”ケンタッキー・カーネル”の名誉称号を与えられた。サンダース・カフェは、1937年にモーテルを併設した142席のレストランに成長したが、1939年に火災に見舞われ焼失し、1941年に147人収容のレストランに再建された。サンダース・カフェの目玉商品が、フライドチキンであった。1939年に導入された圧力釜を用いたオリジナル・フライドチキンの製法である“11スパイス”は、以後70年以上にわたってオリジナル・レシピとして引き継がれている。1955年にコービンの町外れを通過する州間高速道路が開通すると、車と人の流れは変わり、国道沿いのサンダース・カフェには客が入らなくなった。サンダースは維持できなくなった店を手放したが、負債を返済すると手許にはほとんど残らなかった。不屈のサンダースは、フライドチキンのレシピを教えるかわりに、売れたチキン1つにつき5セント受けとる、というフランチャイズビジネスを65才から始めた。サンダースは、以後、フランチャイズビジネスの普及に努め、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回った。1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げた。1964年、74歳のサンダースは、フランチャイズビジネスの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して経営の第一線からは退いたが、会社の広告塔としては続けて働いた。サンダースは製法が守られているかを確認するために、世界各国に広がった店舗を見て回った。1970年に初めて進出した日本には、1972年、1978年、1980年の3度訪れている。1980年に急性白血病を発症し、肺炎を併発して、90歳で亡くなった。人一倍誠実で、働き者で、逆境に屈しない精神力を持っている人であった。

プロローグ
第1章 転職を繰り返す半生
第2章 サンダース・カフェに寄らずに旅は終わらない
第3章 秘伝の調理法
第4章 六五歳からの再出発
第5章 ケンタッキー・フライド・チキン
第6章 引退は考えない
エピローグ

7.9月12日

 ”心の軌跡”(2013年10月 朝日新聞出版刊 石本 幸子著)は、加藤シヅエと石本恵吉男爵の書簡、手記、回想録をまとめたものである。

 女性解放運動家の加藤シヅエの、1919年から1946年までの書簡と手記などが公開されている。戦地の長男への手紙や次男を看取った心情なども綴られ、その思索と心の軌跡が伝えられている。石本幸子氏は加藤シヅエ・石本恵吉の長男・新の妻で、1927年に東京で生まれ、愛知県立女子大学英文科を卒業した。加藤シヅエは1897年に東京都で、工学博士・設計技師の広田理太郎・敏子夫妻の長女として生まれ、1914年に女子学習院中等科を卒業し、27歳の石本恵吉男爵と17歳で結婚した。1917年に長男・新が生まれ、1918年に次男・民雄が生まれた。1919年に渡米し、ニューヨークのバラード・スクールで秘書学を学び、1920年に、産児制限法を教えていたマーガレットーサンガーに出会い、その後の人生が方向づけられることになった。1931年に日本産児調節婦人連盟を設立し、1934年に産児制限相談所を開設した。その後、1943年に次男・民雄が結核のため死去し、音信不通になった夫の負債のために自宅を売却することになった。1944年に石本恵吉と離婚し、加藤勘十と結婚した。1945年に娘・タキが生まれた。女性解放運動の草分けとして、1946年に第22回衆議院議員総選挙で当選し、日本初の女性国会議員になった。以来、1974年に74歳で政界を引退するまで、衆議院議員・参議院議員として政界で活動した。そして、2001年に104歳で死去した。一方、石本恵吉は1887年東京生まれで、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部採鉱冶金科を卒業し、三井鉱山株式会社に就職した。1912年に父・石本新六男爵の死亡により25歳で家督を相続した。石本新六は1854年に路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれ、1869年に開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学び、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学し、途中、西南戦争に従軍し工兵少尉となり、1878年に陸士旧1期生として卒業した。その後、陸軍少将、陸軍総務長官、陸軍次官、陸軍中将、陸軍大臣を歴任し、1907年に男爵の爵位を授爵し華族となった。恵吉は1914年に広田シヅエと結婚し、1915年に本人の希望で三池炭坑の現場に派遣されたが、1917年に東京に戻り、三井鉱山の子会社である化学研究所に勤務した。1919年に本人の希望でアメリカに出張し、1920年頃、総同盟の炭坑労働組合に参加し会社の経営陣から批判され、三井鉱山を辞職した。30代半ば頃に満州へ渡り、50代までの17年間を中国大陸で過ごし、事業の借金保証人になったことで家屋等財産をすべて失うなど、満州では事業に失敗したと言われている。1938年に北京へ移り、後に中国人と結婚し、二女をもうけた。1949年に共産党員として中国官憲に捕まり、1ヵ月刑務所に留置された後、日本に送還された。1952年に熱海の病院で64歳で死去した。シヅエの手紙は旅先から二人の息子たちに宛てたもの、1942年に出征した長男・新に宛てた戦地への手紙を中心に収められている。恵古の手記は、1919年から20年に滞在した欧米での日記と、戦後に書かれた回想録で、今回、初めて公開されたものである。

シヅエの書簡・手記
 幼い子供たちへの手紙
 戦地の息子への手紙
 シヅエの手記
恵吉の手記・回想録
 Random Thoughts
 恵吉の回想録

8.9月19日

 ”プチャーチン”(2010年12月 新人物往来社刊 白石 仁章著)は、ペリー提督に約1ヶ月遅れて日本へ来航し、明治天皇が勲一等を与えたロシアの外交官、プチャーチンについての本格的な評伝である。

 鎖国していた日本を開国したアメリカのペリー提督は有名であるが、プチャーチンはペリーに比べて知られることの少ないロシアの外交官である。白石仁章氏は1963年東京生まれ、1989年に上智大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程を修了し、外務省大臣官房文書課外交史料館に事務官として採用され現在に至る。1994年に上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程単位取得満期退学し、1998年から東京国際大学非常勤講師も務めている。専門は、日本外交史、特に対ロシア交渉史である。エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンは1803年にロシアで生まれ、1822年に海軍士官学校を卒業し、海軍士官として多くの武功をたて、1842年に海軍少将となった。1842年にイギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、ロシアも極東地域に影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言し、1843年に清・日本との交渉担当を命じられた。しかしこの時は、トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣は実現しなかった。1852年に海軍中将・侍従武官長に栄進し、同時に、日本との条約締結のために、皇帝に遣日全権使節に任じられた。この年の12月に、ペリー提督は、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携え、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊で、バージニア州ノーフォーク港を出港し、1853年7月に浦賀沖に来航した。プチャーチンは1852年9月にペテルブルクを出発し、イギリスに渡りボストーク号を購入した。11月に、クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号が、イギリスのポーツマス港に到着し、修理を行った後、ボストーク号を従えポーツマスを出港した。そして、喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由して、小笠原諸島で4隻の艦隊を組んで、1853年8月に長崎港に到着した。ロシアの遺日使節団としては、1792年に根室に来たラクスマン、1804年に長崎に来たレザノフに次いで、3回目であった。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため、艦隊を差し向けたという情報を得たため、長崎を離れ一旦上海に向かった。1854年1月に再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談した。2月に一定の成果を得たプチャーチンはマニラへ向かい、船の修理や補給を行ったが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えた。プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、10月に箱館に入港したが、交渉を拒否されたため大阪へ向かい、11月に天保山沖に到着した。大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月に下田に入港し、川路聖謨、筒井政憲らと下田で交渉を行った。しかし、1854年12月23日に安政東海地震が発生し、下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し乗組員にも死傷者が出た。大津波によって乗船が大きく傷ついたにもかかわらず、被災した日本人たちのことを心配し、自船の船医を被災者の治療のため派遣することを申し出た。プチャーチンは艦の修理を幕府に要請し、交渉の結果、伊豆の戸田村で修理することとなり、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かった。1855年1月1日に、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日に遂に日露和親条約の締結に成功した。ディアナ号は戸田港に向かう途中、1月15日に宮島村付近で、強い風波により浸水し航行不能となった。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事だったが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまった。プチャーチン一行は戸田に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始された。4月26日に約3ヶ月の突貫工事で代船が完成し、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは代船をヘダ号と命名した。プチャーチンは5月8日に部下47名と共にヘダ号に乗り、ペトロパブロフスクに向けて出港した。その後、1857年9月21日に軍艦アメリカ号で再度長崎に来航し、水野忠徳らと交渉し、10月27日に日露追加条約を締結した。また、1858年7月30日に神奈川に入港し、8月12日に芝愛宕下の真福寺において幕府側と交渉を行い、8月19日に日露修好通商条約を締結した。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福に謁見した後、本国に帰国した。日本と条約を結んだ功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進し、1861年に教育大臣に任命された。また、1881年に日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られた。ペリーは帰国後に日本遠征記をまとめたが、1858年に逝去したこともあり、とくに勲章は贈られていない。そして、プチャーチンは1883年に80歳で逝去した。筆者は、あまり知られていないプチャーチンのことを、もっと多くの人々に知ってもらいたいという。プチャーチン一行の派遣にシーボルトの助言が関係し、プチャーチンとシーボルトの子供達が日本赤十字の活動を援助していたそうである。プチャーチンは日本への深い愛情を持っていた人物であり、興味がつきないとのことである。

第1章 プチャーチン・ミッションの来航
第2章 明治期の日露関係におけるプチャーチン
第3章 長女オーリガにも引き継がれた親日感情

9.9月26日

 ”ボクの音楽武者修行”(1980年7月 新潮社刊 小澤 征爾著)は、1962年に初版が音楽之友社から出され1980年から新潮文庫に加えられ今も読み継がれている、26歳時点の世界のオザワの自伝的エッセイである。

 小澤征爾氏は1935年満洲国奉天市生まれ、父親は歯科医師で満州国協和会創設者の一人であった。1941年に父親を満州に残したまま母親や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園、1942年に立川国民学校に入学、1945年に長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けた。1947年に父親の仕事の関係で神奈川県足柄上郡金田村に転居、1948年に成城学園中学校に入学、ラグビーの試合で大怪我をしたためピアノの道を断念した。1950年に東京都世田谷区に転居、1951年に成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄氏の指揮教室に入門したため、1952年に齋藤氏の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学した。1955年に齋藤氏が教授を務める桐朋学園短期大学へ進学、1957年に卒業した。1957年頃から齋藤氏の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、日本フィルハーモニー交響楽団で渡邉暁雄氏のもと副指揮者をつとめた。1958年にフランス政府給費留学生の試験を受け不合格となったが、成城学園時の同級生の父である水野成夫氏たちの援助で渡欧資金を調達し、1959年2月1日からスクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏した。外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたいという気持ちであった。1959年のパリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、ヨーロッパのオーケストラに多数客演した。また、カラヤン指揮者コンクールで第1位になり、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事した。1960年にアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事した。1961年にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインに師事した。同年のニューヨークフィル日本公演に同行した。その後、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督などを経て、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年にわたり務めた。2002年に日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、同年秋にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した。2008年に文化勲章受章、現在、サイトウ・キネン・フェスティバル松本総監督、小澤征爾音楽塾塾長、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀主宰、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者、水戸室内管弦楽団顧問として活躍している。本書は、26歳のときに書かれ、24歳の1959年から26歳の1961年までのことが書かれている。当時はまだ、音楽というゴールの地点の分からないはてしないレースのスタートを切ったばかりだった。音楽家が一生音楽をやり通して、死ぬ間際に自分の一生を振り返って本を書くというのでなく、まだ音楽家としてはかけ出しで3年間ばかりのあいだに、目が回るほどいろいろなところを動いて回ったということを、本にしてみないかと音楽之友社がすすめたのが本を書いた理由とのことである。なんとか本になったのはまわりの人のおかげであり、とくに、外国から自分の両親、兄弟、友だちに出した手紙を、実弟がぜんぶとっておいてくれ、それを一冊のノートに書き写してくれたのが大いに役立ったという。筆致は、長距離レースの最初の数キロを短距離ランナーのように疾走していた人間の、鼓動や吐息が聞えてくるかのようである。そして、ニューヨーク・フィルと共に、日本に錦を飾るところで幕が閉じられている。

日本を離れて
棒ふりコンクール
タングルウッドの音楽祭
さらば、ヨーロッパ
日本へ帰って
あとがき

10.平成27年10月2日

 ”岩波茂雄”(2013年9月 岩波書店刊 中島 岳志著)は、膨大な伝記関係史料を使って岩波書店創業者である岩波茂雄のリベラル・ナショナリストとしての生涯と出版人としての事績を紹介している。

 岩波書店は当初、1913年に岩波茂雄によって東京市神田区南神保町に開かれた古書店であった。1914年に夏目漱石の”こゝろ”を刊行し、出版業にも進出した。漱石没後、”夏目漱石全集”を刊行して躍進した。多くの学術書を出版するだけでなく、岩波文庫や岩波新書を出版するなど、古典や学術研究の成果を社会に普及させることに貢献してきた。中島岳志氏は1975年大阪生まれ、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了、北海道大学大学院法学研究科准教授を務めている。専攻は政治学で、過去に大佛次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞している。岩波茂雄は1881年に長野県諏訪郡中洲村の農家に生まれ、父義質は村の助役をしていた。尋常小学校、高等小学校をへて、1895年に諏訪実科中学校へ入学した。在学中に父が死去し、戸主となった。母を助け農業をしていたが、1899年に杉浦重剛を慕って上京し、旧制日本中学に入学した。1901年に第一高等学校に入学したが、人生問題に悩み二年続けて落第し除名処分となった。一高では、阿部次郎、安部能成、和辻哲郎、小宮豊隆など、多くの友人を得た。のち、1905年に東京帝国大学哲学科選科に入り倫理学を学んだ。1906年に下宿先の娘明石ヨシと学生結婚したが、生活の面倒は内職しながらヨシがみた。1908年に、こよなく愛した母うたが亡くなった。東大卒業後しばらく神田高等女学校に奉職したが、教師としての自信を喪失し退職した。そして、1913年東京神田に古書店を開業し、破格の正札販売を実施した。1921年に”思想”、1931年に”科学”、1934年に”文化”、1946年に”世界”などの雑誌を創刊し、1927年に岩波文庫、1933年に岩波全書、1938年に岩波新書を創刊した。1940年に、学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人を設立した。津田左右吉の著作の発禁処分の事件に際し、発行元として津田と共に出版法違反で起訴された。1942年に有罪判決を受け、上告中の1944年に免訴となった。1945年3月に貴族院多額納税者議員に互選、任命されたが、9月に脳出血で倒れた。1946年2月に文化勲章も受けたが、4月に64歳で死去した。岩波茂雄についてはすでに多くの著作があり、代表的なのは1957年の安倍能成の”岩波茂雄伝”と、1963年の小林勇の”惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝”である。安倍能成は一高以来の友人で、小林勇は会社の側近であり、身近な二人が書いた岩波伝は精度が高く愛情にあふれている。しかし、両書はともに出版からすでに半世紀が経過し、2013年は岩波書店創業100周年に当たり、担当編集者から、これまでのものとは違う岩波茂雄を書いてほしいという依頼を受けたという。岩波茂雄は一貫したナショナリストで、生涯にわたって吉田松陰と西郷隆盛を敬愛していた。社長室には大きく五箇条の御誓文を張り出し、大東亜戦争の開戦に当たって歓喜の声を上げた。一方で、極めてリベラルな人物で、偏狭な皇国史観に反発した。果敢に立ち向かって、美濃部達吉や矢内原忠雄を全力でサポートした。マルクスの”資本論”も出版され、講座派のシリーズも出されている。この両面を矛盾していると捉えるのか、一貫していると捉えるのかである。これまではリベラルな側面ばかりが強調され、ナショナリストとしての側面は脇に追いやられていた。しかし、本書では、ナショナリストにしてリベラリスト、リベラリストにしてアジア主義者の明治人として、一貫した人物として捉えるべきだと考えたという。節操がないように見える思想を貫く論理と情念について、岩波茂雄の若き日の煩悶に焦点を当てながら、近代日本の中に位置づけることを試みている。

第一章 煩悶と愛国(1881-1913)
誕生/西郷隆盛と吉田松陰/徳富蘇峰『吉田松陰』/父の死/伊勢神宮から鹿児島へ/自由への渇望,杉浦重剛への敬愛/請願書/上京,そして日本中学へ/第一高等学校入学/煩悶と求道学舎/内村鑑三の「日曜講義」/個人主義的傾向/藤村操の自殺/失恋と厭世/野尻湖での生活/学生から教員へ
第二章 岩波書店創業(1913-1930)
古書店開業/夏目漱石『こゝろ』の出版/『アララギ』/哲学ブームと「哲学叢書」/倉田百三の登場/西田幾多郎,田辺元,和辻哲郎/大正デモクラシーとの呼応/関東大震災/三木清への期待/「岩波文庫」創刊/芥川龍之介の死と全集/河上肇と『資本論』/『聯盟版マルクス・エンゲルス全集』刊行の失敗,河上肇との決別/店内の動揺/政治への関心
第三章 リベラル・ナショナリズムとアジア主義(1930-1939)
時局への危機感/講座派の形成と発禁処分/長野県教員赤化事件と時代への反逆/滝川事件/田辺元の怒り/『吉田松陰全集』/筧克彦『神ながらの道』/美濃部達吉の天皇機関説/欧米旅行/反ファシズムの戦い/日中戦争への批判と苦境/矢内原忠雄の辞職/連続する出版統制/「岩波新書」とアジア主義
第四章 戦い(1939-1946)
津田左右吉『支那思想と日本』/津田事件/裁判/時局との格闘/頭山満への敬意/「大東亜戦争」の勃発/創業30年/貴族院議員に/小林勇の拘置/敗戦/『世界』創刊/死の時

11.10月10日

 ”江戸と現代 0と10万キロカロリーの世界”(2006年6月 講談社刊 石川 英輔著)は、0キロカロリーで暮らしていた江戸時代から、100,000キロカロリーを消費する現代になり、便利な暮らしと引き替えに得たものと失ったものがある、という。

 しょせん人間は「起きて半畳、寝て一畳。飯を喰っても五合半」の動物でありいかに膨大なエネルギーを消費し大量の物資の供給を受けたところで、われわれが実際に使えるのはそのほんの一部分にすぎない。大部分は自分たちの外に溢れ出して、身の回りをごみだらけにするために使う結果になる。実際、私たちは化石燃料だけで100,000キロカロリーという膨大なエネルギーを毎日使うことで、地球全体をごみ屋敷状態にしながら、長年にわたってそれを進歩だと信じてきた。最近になってようやく環境の悪化に目を向ける人が現れるようになった、という。石川英輔氏は1933年京都生まれ、東京都立石神井高等学校を卒業し、国際基督教大学と東京都立大学は中退、1961年にミカ製版を設立して社長となった。一方で作家デビューし、一連の中国古典小説のSFパロディ・シリーズを手がけてきた。1985年以降は専業作家となったが、大江戸シリーズの小説の執筆の他に、江戸時代の生活事情を研究したノンフィクションも刊行するようになった。現在、江戸研究の第一人者の一人である。江戸時代は、リサイクルが発達した理想的なエコロジー社会であった、と主張している。私たち、21世紀はじめに暮らす日本人は、一人当たり一日に125,000キロカロリー程度のエネルギーを消費しながら生きている。これだけ膨大なエネルルギーを使わないと、現代のこの便利な生活は成り立たないのである。しかも、そのうちの100,000キロカロリーは、石油、石炭、天然ガスなどのいわゆる化石燃料である。いつまでも今のように便利な生活が続けられるのなら、化石燃料でも何でもどんどん使えばよい。今のところ、石油の埋蔵量はあと46年ぐらいということになっているから、当分の間はなくなる心配をする必要がないからである。また、時とともに採掘技術が進歩し、新しい油田も見つかるから、この分では、恐らく46年後も、まだ何10年分かの埋蔵量が残っていることだろう。今でも石油資源がなくなる心配をする専門家はいるが、最近では、むしろこのまま好きなだけ化石燃料を燃やし続けていいかどうかを心配する人が増えている。一度燃やした化石燃料はけっしてもとに戻らず、大気中の二酸化炭素が一方的に増えるからである。使いたいだけエネルギーを使うことで、一面では確かに恵まれた生活ができるが、この世には一方的に良いだけのことは滅多にない。目先の便利なことを続けていると、長期的には不合理な成り行きになることが多く、化石燃料の使いすぎによる地球温暖化などはその典型的な例といっていいだろう。過去にさかのぼって調べてみると、一日に50,000キロカロリーの消費量だったのは1970年頃、10,000キロカロリーだったのが1955年頃であった。そして、江戸時代には太陽エネルギーの消費はあるものの、化石エネルギーなどの消費はほぼ0であることに思い当たる。ほんの130年前の明治初期まで、私たちはエネルギー消費ゼロの生活をしていたのである。0と100,000とを比較して、はたして私たちの暮らしは100,000倍豊かになったのであろうか。数値だけ見ると江戸時代の日本人はよほど貧しく悲惨な生活していたように感じるが、実際の日常生活の水準の差はそれほど大きくはない。普通の生活は、江戸時代の悲惨さを強調したがる人が期待するほどひどいとは思えない。衣食住について考えればわかりやすいが、どんなに所得が多くてエネルギーをふんだんに使えても、今の二倍の量を食べ続けられないし、衣服をどれほどたくさん持っていても、一度に一着しか着られない。どんなに広い家に住んだところで、大部分の空間はただ空いているだけか、がらくた置き場にしかならない。一定の文明水準に達していれば、エネルギー消費が大幅に増えると、人類は余計なこと、やらなくてもいい無駄なことをせっせとやるようになるだけで、基本的な生活はそれほど変わらない、というより変えられないのである。本書は、一人一日当たりのエネルギー消費が、0、10,000、50,000、そして100,000キロカロリーの時代に、同じ目的を果たすために、日本人がどんな方法を使っていたかを比較しながら、今のわれわれがなぜこれほど大量のエネルギーを消費するようになったか、その理由を分析しながら考察している。

化石燃料10万キロカロリー時代/乗物、昔と今/冷やす/食べ物/伝える/観る/旅をする/照らす/着る/食べる/住む/作る/捨てる・拾う/人類は豊かさに耐えられるか

12.10月17日

 ”義経北行伝説”(2011年6月 本の泉社刊 黒沢 賢一著)は、平泉で世を去ったといわれる源義経について、岩手、青森、北海道で語り継がれる、実は生きていたという伝説の謎を紹介している。

 源義経は1159年に河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。母、常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は1159年の平治の乱で謀反人となり敗死し、その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄、今若と乙若と共に逃亡し、大和国へ逃れた。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は、出家して僧として生きることになった。牛若は鞍馬寺に預けられたが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主、藤原秀衡の庇護を受けた。そして、兄、頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。しかし、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主、藤原泰衡に攻められ、1189年に衣川館で自刃し果てた。その最期は世上多くの人の同情を引き、多くの伝説や物語を生んだ。黒沢賢一氏は1967年茨城県生まれ、早稲田大学大学院政治学研究科修了後、専門学校、大学講師を経て、福島県いわき市で私塾を主宰している。1996年から、小中学生、高校生、大学生、社会人の指導にあたる一方、歴史伝説研究家としても知られ、全国各地の伝説ゆかりの地を訪ね歩き、その採集と研究にも取り組んでいる。悲劇の武将、源義経は、藤原泰衡に攻められ31歳の生涯を、衣川の高館で自害して終えた、というのが史実とされている。ところが、実は生きていて北へ逃げたという伝説が、東北や北海道で今日まで長く語り継がれてきた。これが義経北行伝説、義経生存説であり、それはさらに大陸に渡ってジンギスカンになったという義経ジンギスカン説へと発展していった。それは果たして本当なのか、その答えを見つけ出そうとして、これまで、伝説が語り継がれている場所を訪ね歩いてきたという。本書は、そうした義経の足跡をたどる旅を通して収集した各地の伝説をつなぎ合わせて、北行伝説の形成過程とその背景を明らかにしようとしたものである。第一章では、通説とそれに投げかけられるさまざまな疑問について述べ、第二章では、義経がこの世を去ったとされる衣川の戦いについて、義経をめぐる鎌倉と平泉の攻防と義経逃亡までの経緯を明らかにしている。第三章では、岩手県内で義経北行伝説が語り継がれている場所と伝説の内容を、第四章では青森県、第五章では北海道の伝説を、義経逃亡のルートにそって紹介している。第六章では、これまでに出版された北行伝説に関する書物を整理し、各地の北行伝説の内容を、地域の歴史も考慮しながら比較考察し、伝説が形成された背景を推測している。義経に好意的な東北の伝説は、平泉を逃れた義経が、各地にその足跡を残しながら北に向かい、津軽海峡を渡ったとする通過伝説と言えるもので、話はそれで完結している。そこには、義経びいきの先人たちの、義経は死んでいないという願いと、平泉からそっと逃げて自分たちの町を通って北に逃げた、という思いが込められていて、東北の人々の願望が伝説にまとめられた気がするという。北行伝説の真相は、さまざまな時代の思惑が作り出した創作だったように思えてならない。戦さの天才、源義経は、自分の最後を悟った時に、こそこそと逃げ出すような生き方を選ばず、華々しく潔くこの世を去る最期がやはり似合うという。

第1章 史実に投げかけられる疑問
第2章 義経逃亡と平泉の攻防―北行伝説が伝える「衣川の戦い」
第3章 岩手に語り継がれる北行伝説
第4章 青森に語り継がれる北行伝説
第5章 北海道に語り継がれる北行伝説
第6章 義経はジンギスカンになったか

13.10月24日

 ”秋月悌次郎-老日本の面影”(2013年3月 中央公論社刊 松本 健一著)は、ラフカディオ・ハーンをして神様のような人といわしめた会津藩士、秋月悌次郎の生涯を紹介している。

 秋月悌次郎は会津藩士で、名は胤栄、字は子錫、号は韋軒、明治維新後は、胤永と名乗った。1824年に千葉氏の末裔の丸山胤道の次男として若松城下に生まれ、藩校、日新館に学び秀才として知られた。丸山家の家督は長男が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称した。1842年に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、1859年に藩命により九州などの西国諸藩を遊歴し、列藩の政治制度や風俗などを観察した。この旅の途中で、長岡藩の河井継之助としばらく行動をともにしている。その後、藩主、松平容保の側近として仕え、1862年に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛した。薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ8月18日の政変を起こし、藩兵を率い実質的指導者として活躍した。後に佐幕派の反対を受け、1865年には左遷されて蝦夷地代官となった。松本健一氏は1946年群馬県生まれ、埼玉県立熊谷高等学校を経て、1968年東京大学経済学部卒業、旭硝子に入社したが翌年退職し、法政大学大学院で近代日本文学を専攻した。1974年博士課程満期退学、在野の評論家、歴史家として執筆を続けた。1983年中国、日本語研修センター教授、1994年麗澤大学経済学部教授、2009年麗澤大比較文明文化研究センター所長を務めた。秋月悌次郎はその後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みたが失敗し、戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣した。専ら裏方として活動し、戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には手代、木勝任とともに会津若松城を脱出し、米沢藩へ赴きその協力を得て、官軍首脳へ降伏を申し出た。会津藩の軍事面の重要な役に就いていた事もあり、猪苗代において謹慎した。1868年に会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となったが、1872年に特赦によって赦免された。新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校など各地の学校の教師となった。五高では小泉八雲と同僚で、小泉八雲に「神様のような人」と讃えられた。秋月悌次郎の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格が高く評価された。降伏を取り仕切ったため、これまで裏切り者に等しい扱いを受けてきたが、初版1987年刊の本書はその汚名をそそぐきっかけとなった。晩年は東京に住み、1900年に75歳で死去し、墓所は港区青山霊園にある。司馬遼太郎は、「ある会津人のこと」というエッセイの中で、秋月悌次郎は篤実な性格をもち、他人に対しては遠慮深く、独り居ても自分を慎むような人で、その性格のままの生涯を送ったと書いている。著者は秋月悌次郎について、北一輝、河井継之助、雲井龍雄、蓮田善明、三島由紀夫といった精神の同類型の革命的ロマン主義者である、という。

1秋月悌次郎 老日本の面影
 神のような人/法と道徳/詩と志/永遠に守るべきもの
2非命の詩人 奥平謙輔
 「戦争」の会津/「政治」の佐渡/「革命」の萩
3「老日本の面影」前後
 秋月悌次郎-維新の激動を越えて/加久藤ごえ紀行
 司馬遼太郎と私

14.平成27年11月2日

 ”日本企業は何で食っていくのか”(2013年5月 日本経済新聞出版社刊 伊丹 敬之著)は、日本経済の新たな成長源を探り日本企業が挑むべき6つの突破口を明示している。

 これは、2011年3月11日の東日本大震災が書かせた本だという。3月10日は、以前から予定していたイタリア出張に出かけた。中継地フランクフルトでの待ち時間で空港のバーに入ると、ドイツのテレビの夕方のニュースが福島原発の事故を報じていた。帰国後の4月24日は、新幹線はまだ再開されていなかったが、どうしても震災の現場に身を置きたかったので、職場の仲間と羽田から山形空港へ飛んだ。レンタカーを借り、仙台、名取、多賀城、石巻と被災地を走った。この旅から帰った直後、同僚に呼びかけて「震災復興プロセスのイノベーション」というプロジェクトを起こした。そのプロジェクトの中で、被災地の復興と日本の産業構造の将来、という二つのテーマを決めたという。伊丹敬之氏は1945年生まれ、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了、米カーネギーメロン大学経営大学院博士課程修了。その後、一橋大学商学部で教鞭をとり、米スタンフォード大学客員准教授などを務め、1985年から一橋大学教授となり、現在、名誉教授を務めている。震災の爪痕として日本全体にとってもっとも深刻なのは、電力危機であろう。2030年には電力需要の50%を原子力で賄うという政府のエルギー計画は、東京電力福島第一原子力発電所の事故によってもはや成立しない。しかし、再生可能エネルギーが電力供給できるようになるには、10年単位以上の時間がかかるだろう。エルギー計画にはさまざまな難問があり、日本の電力危機が長期化することは必至である。その上、当時は、東日本大震災の30ヵ月前に起きたリーマンショックの余波はまだ収まっていなかった。2011年には欧州金融危機として再燃し、アメリカ国情の格付けが低下した。国際金融体制の石盤がきわめて不安定になり、日本は先進国最大の打撃を受けた。リーマンショックで実体経済が最も傷んだのが日本であり、鉱工業生産指数では日本の落ち込みが激しく、第三の敗戦というべきものであった。この敗戦状況の中で、日本の産業は、日本企業は、世界の中でどう生きてゆけばいいのかを問わざるを得ない。この本では、すべてを網羅するのではなく、書きたいこと、重要だと思うことだけを書いたという。日本にとっての新たな成長源は依然として明確ではないが、電力生産性、ピザ型グローバリゼーション、複雑性産業、インフラ産業、中国、化学の、挑むべき6つの突破口がある。電力生産性は、電力1キロワット時の使用でいくら付加価値を生み出せるのか計算し、電力生産性の高い産業構造にシフトさせることである。電力生産性の高い産業は国内に置いて、生産性の低い工程を電力供給がまだ日本よりましなところに持っていく。オイルショックの後で石油の消費量単位が低い産業にシフトしたから、日本は石油消費量を減らしながら経済成長できた。ピザ型グローバリゼーションは、ドーナツ現象や国内空洞化と異なり、真ん中は絶対になくならないやり方である。しかも、真ん中にトッピングをのせるからそこがいちばんおいしい。複雑性産業は、従前の技術やサービス手法を土台に新しく開発されたもので、熟練の技量が擦り合わされた技術やサービスである。コモディティ化できる要素を持つ一方で、模倣が難しく付加価値が高い特長がある。インフラ産業のインフラは東アジアの企業にとってのインフラであり、日本産業全体としていわば便利屋になって、材料も部品も供給し技術も提供し試作品も作ることである。21世紀前半の日本の産業構造は、中国の需要と中国との国際分業が決めるだろう。日中双方がお互いに欠かせない存在となることが、経済の安全保障につながっていく。また、化学は産業科学の重心であり、強くなっている化学技術については、どの産業にも生かす手を大いに考えるべきである。第三の敗戦と呼ぶべき時代状況を、なんとか日本の産業に乗り越えてほしい。

第1章 第三の敗戦
第2章 失われた四半世紀
第3章 電力生産性が産業構造を決める
第4章 ピザ型グローバリゼーションを目指す
第5章 複雑性産業が日本のベース
第6章 インフラ産業の日本、インフラとしての日本産業
第7章 地政学的重心としての中国
第8章 産業科学の重心としての化学
第9章 日本の内なる病
終 章 何で食っていくのか、食っていけるのか

15.平成27年11月7日

 ”軽井沢伝説”(2011年7月 講談社刊 犬丸 一郎著)は、避暑地・軽井沢に集った名士たちの半世紀を紹介している。

 軽井沢は長野県佐久地方にあり、一般的に軽井沢町旧軽井沢地区や軽井沢町全体を指す。軽井沢は、19世紀終わりに宣教師が初めての別荘を建てて以来、日本屈指の避暑地・別荘地として揺るぎない地位を築いてきた。白洲次郎のゴルフ倶楽部、美智子さまのテニスコートなどなど、軽井沢には真のセレブリティが集うソサエティがあった。犬丸一郎氏は、1916年東京・麹町生まれ、慶應義塾大学を卒業し、1949年に帝国ホテルに入社した。1950年にサンフランシスコ市立大学、コーネル大学に学び、有名ホテルにも勤務した。1953年に帰国しふたたび帝国ホテル勤務、副総支配人、常務、専務、副社長を経て、1986年に社長に就任し、1997年退任後は2年間顧問をつとめた。200年前、軽井沢は峠の宿場町だった。それが避暑地軽井沢としての一歩を踏み出したのは、1886年にカナダ人宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーがこの地を訪れた際、自然が作り出す美しく豊かな風光に感銘を受け、”森の中の屋根のない病院”と称えたことに始まる。その魅力を内外の知人に紹介し、それ以降別荘が少しずつ建ち始めた。多くの政財界人にも別荘地として親しまれ、様々な著名人も軽井沢の自然に魅了されてきた。以前は夏滞在する避暑地という認識が一般的であったが、軽井沢は気軽に足を運べる別荘地になり、冬季も営業しているお店も増えて、一年を通じて快適に滞在できるようになった。また最近では、軽井沢に拠点を置いて新幹線通勤する人たちも珍しくない。著者は住まいの田園調布のほかに、もう一つ腰を落ち着ける場所を軽井沢に持っていたという。夏の軽井沢を例年、訪れるようになって、すでに半世紀もの月日が過ぎた。慣れ親しんだ軽井沢の地は、人生の一部になっているが、最近、折に触れて懐かしく思い出すのは、昭和20年代後半の軽井沢である。とりわけ、夏の夕暮れどきの小さな本通りの光景は懐かしい。黄昏がせまる頃、軽井沢の小さな通りに、近くの別荘の住民たちが夕餉の良材を求めて三々五々、姿を現す。現在、旧軽井沢銀座として知られるこの通りは、商店街といっても、にぎわいと喧噪を極める現在の旧軽井沢銀座や駅前の巨大なアウトレットモールなどとはまるで違っていた。当時の軽井沢の本通りは半分も舗装されておらず、外国人客目当てで横浜や神戸から夏だけ出店してくる店が幾つかある他は、土地の人々が経営する店舗がパラパラと建ち並んでいるだけのばしごく簡素な町並みであった。この簡素な通りに現れる人々は、錚々たる顔ぶれが揃っていた。目をつぶれば懐かしい人たちの姿が、走馬灯のように小さな通りの中に浮かんでは消えてゆく。たとえば、戦後の大宰相・古田茂の懐刀と言われた白洲次郎氏が、短いパンツにゴム草履という姿で買い物寵を手に通りかかる。知人と会釈を交わしながら、ゆっくりと万平ホテルに向かって通りを横切っていく姿は、出光佐三氏である。いまも軽井沢の人々の間で語り草になっているのは、旧子爵・相馬恵胤夫人の雪香さんの乗馬姿である。あるいは、本通りの裏手にある軽井沢会のテニスコートから、三々五々、テニスウェアのまま自転車に乗って走り出ていく人たちがいた。そんな人たちの中に、皇太子妃になられる前の正田美智子さんもいらっしゃった。昭和30年代までの軽井沢は、極めて限定された地域に日本の戦前戦後史を彩る政財界人、文化人、知識人、作家、皇族、旧華族の人たちが涼を求めて一夏を過ごし、お互い親しく交流していた。黄昏どきともなれば、申し合わせたようにこの小さな通りに現れ、買い物がてら同じ軽井沢の住民仲間たちと挨拶を交わし、親しげに会話を楽しんでいた。いまから思えば、夢のような時代であった。著名人を特別視することのない軽井沢独特の空気は、昭和50年代後半あたりまでは残っていたようである。ビートルズ解散後のジョンーレノンが、50年代から亡くなる直前まで、毎年、夏になると夫人のオノーヨーコを伴って軽井沢を訪れ、万平ホテルに長期滞在していた。レノンが軽井沢をことのほか気に入ったのは、フラリと外出しても騒がれず写真を撮る人もないという、気安さが最大の理由だったようである。現在の軽井沢にレノンのような超有名人が現れたら、それこそ、大変なことになってしまうのだろう。軽井沢の魅力は、単なる避署地としての魅力ではなく、長年、軽井沢の別荘に住む人たちが、ごく自然に小さいが親密なソサエティを作り上げていき、それが人々の強い憧れを誘うようになっていったのだと思われる。だが、軽井沢ソサエティの中核をなした方々は多くがすでに鬼籍に入られ、住んでいた別荘も他人の手に移り、あるいは相続問題で取り壊されて、次第にその姿を消しつつある。残念ながら、軽井沢ソサエティが時代の波に飲まれ、消えてゆくのは、そう遠いことではないだろう。あの時代の軽井沢の独特の空気と居心地の良さの記憶が、このまま時の流れに押しやられ、忘れ去られてしまうのはあまりに惜しい。そこで、ここで、自分が知る良き時代の軽井沢の姿を語っておこうと思う、という。

第1章 軽井沢ソサエティの絆-「避暑地・軽井沢」の歴史を彩る人々
第2章 別荘族の社交場-軽井沢万平ホテル
第3章 白洲次郎の息吹が聞こえる-軽井沢ゴルフ倶楽部
第4章 吉川英治ファミリーの夏-文人たちの軽井沢
第5章 「テニスコートの恋」の舞台-美智子さまと「軽井沢会」
第6章 妻たちの軽井沢-鹿島ノ森と南ヶ丘の日常
第7章 そして時は移りゆく-別荘族の変遷

16.11月14日

 ”三輪田眞佐子”(2005年2月 日本図書センター刊 三輪田 眞佐子著)は、女子教育に尽力し三輪田学園を創立した三輪田眞佐子の思想と人生を紹介している。

 人間の記録シリーズの167巻目の図書で、1917年に日本弘道会有志青年部から刊行された”教へ草”から”経験”を、”三輪田学園百年史”から第1部三輪田学園100年の歩みを、”真佐子集”から漢詩、短歌、長歌、和文を抜粋している。三輪田眞佐子は1843年に伊予国松山藩儒宇田淵栗園の子として生まれた。栗園は梁川星厳の弟子で、 岩倉具視にも進講する伊予松山藩の儒学者であった。眞佐子は幼いころから”四書五経”に親しみ、”左氏伝”の全巻を筆写したりして育った。梁川星巌・同紅蘭に漢学・詩文を、高橋武之に和歌を学んだ。1866年に岩倉具視の内殿侍講となり、1869年に幕末に尊攘派の志士だった三輪田元綱と結婚した。結婚後、遷都のために元綱が行幸に従うと、眞佐子も続いて岩倉家の姫君に随行して上京した。元綱は1828年伊予日尾生まれの八幡宮祠官の3男で、大国隆正に国学を学んだ。1863に同志とともに足利氏木像梟首事件を起こし、但馬豊岡に幽閉された。維新後は外務権大丞となったが、病により帰郷し1879年に亡くなった。元綱が亡くなると、眞佐子は1880年に松山で明倫学舎を開いて門下生を指導し、自身は松山藩の教師も務めた。門人が次々と増え、その後、愛媛県師範学校で教壇に立つなどした。1887年に上京し、神田区東松下町に私塾・翠松学舎を開設して漢学を教えた。1890年から東京音楽学校の講師などをしながら、日本女子大学の創立に尽力し1901年に教授に就任し、その間、女学校設立の準備をはじめた。1902年に、麹町に私財を投じて土地を購入し、日本初の女学校、三輪田女学校を開校した。1903年に三輪田高等女学校になり5年制で、学級数が10室、生徒数が約500人、教職員数18人でスタートした。私立としては2番目の認可であり、次第にその規模を拡大し、儒教を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、良妻賢母教育を提唱した。眞佐子は、長年にわたる女子教育に対する功労によって、1912年に宝冠章、1927年4月に瑞宝章が授けられた。1927年5月に、84歳で亡くなった。1945年の空襲で高等女学校の校舎は全焼したが、卒業生、保護者の協力を得て復興された。二代目校長・三輪田元道のもとで学校法人三輪田学園となり、今日に至っている。

1 教へ草(四 経験)
 辛酸は我が身の教訓/幼年時代の追想/私の少女時代/処女時代の追懐/夫に叱られた事褒められた事/夫を亡くした前後の思出/我が家の新年/我が家の大晦日/我が孫の躾け方/我が家の経済/歳末の日記/自己の経験より得たる教訓
2 三輪田学園百年史(第1部 三輪田学園百年の歩み)
 第1章 創立者三輪田眞佐子
 第2章 女子教育への道(明治二十年上二十四年)
 第3章 女子教育の実践(明治三十五年~大正十五年)
3 梅花の賦(眞佐子集より)
 漢詩/短歌/長歌/和文

17.11月21日

 ”二畳で豊かに住む”(2011年3月 集英社刊 西 和夫著)は、人間ははたして二畳で暮らせるのか、狭いながらも楽しい我が家とは何かなど、究極の住居の実例を示しつつ住むことの根源を考えさせる。

 かつて、内田百閒、高村光太郎、永井隆、夏目漱石、正岡子規など、極小の空間を楽しみながら住んだ先人たちがいる。狭いながらも豊かな空間とは、自分の意志で積極的に住み、友人、支持者などと深いつながりをもち、狭いが充実した意義深い空間であるという。西和夫氏は1938年東京都生まれ、東京工業大学大学院博士課程修了、神奈川大学名誉教授である。日本建築史専攻で、歴史・民俗・美術史と学際的な交流を続け、各地の町並み調査と町づくりを行っている。豊かになった現代の住宅だが、住まいの貧困に関するニュースにこと欠かない。無届け低額宿泊所はその例で、生活貧困者の部屋はわずか三畳である。やりきれない世相だが、暗い話ばかりではない。たとえばシェアハウスでは、住宅街の一軒屋の和室に6人が暮らす。部屋は十畳であれば、一人のスペースは二畳もない。しかし、シェアハウス独特のコミュニティが生まれ、住み手の顔は明るいという。居間や台所は共同で二畳だけで住むわけではないが、狭い空間の積極的な利用は現代的である。ほかにも、ネットカフェ、キャンピングカーや宇宙船などもあげられる。大戦直後の住まいのなかった時代、生きるのに大変だった時代があったが、そんなときでも人々は工夫をして狭い空間で豊かに過ごした。狭いながらも楽しい我が家というのは、どんな時代でも住まいのひとつの理想像であるちがいない。狭さの意味、狭さの価値、それは何なのであろうか。たとえば、二畳ではどうだろう。たぶんみんな、無理と言うだろう。しかし実質二畳に、しかも夫婦二人で住んだ人がいる。作家の内田百聞である。わずか三畳、うち一畳は上が物置なので実質二畳、ここに奥さんと住んだ。彫刻家で詩人の高村光太郎は、戦災で焼け出され、花巻の奥の山小屋に一人で住んだ。畳はわずか三枚半、そこにふとんを敷いた。長崎の医者永井隆は、二畳の部屋で病に臥しつつ子供二人と住み、世界平和を訴えた。少し事情が異なるが、多摩川に今のように橋が架かっていなかったころ、渡し船が活躍し、渡船小屋があって船頭が住んだ。小屋は二畳、畳一枚に土間一畳、川が氾濫したら”よいしょ”と移動させた。明治の文豪夏目漱石は、若いころ、友人と二人で二畳の部屋に住んだ。この空間があの漱石を育てた。俳句と和歌の正岡子規は、病気の身を横たえるふとん一枚が我が世界だと書いた。四国の村はずれに建つ小さなお茶堂は、遍路たちの貴重な宿泊空間だった。住居とやや性格が異なるが、住空間の極限的存在である。第二次世界大戦後まもなく、建築家たちは最小限住居の提案をした。安東勝男は七坪の住宅を提案し、池辺陽は立体最小限住居を造り、増沢洵も最小限住居を造った。狭さの追究は、住宅とは何かの追究でもあった。生活が豊かになった現在、狭い住居の工夫を知って住空間の意味を再検討し、空間の豊かさを探ってみるのも、意味のないことではあるまい。

はじめに-狭いながらも豊かな空間
第1章 内田百閒、二畳に夫婦で住む-作家が語る小屋生活
第2章 高村光太郎の山小屋-雪深い里で詩作にはげむ
第3章 永井隆の二畳の如己堂-原爆の町で平和を求めて
第4章 多摩川渡場の小屋-氾濫したら持ち運ぶ
第5章 夏目漱石・中村是公、二人の二畳の下宿-予備門時代を語る漱石
第6章 正岡子規の病床六尺-ふとん一枚、これが我が世界
第7章 四国、村はずれのお茶堂-遍路たちの一夜の宿
第8章 建築家提案の最小住居-極小空間の特色
おわりに-狭いながらも楽しい我が家

18.11月28日

 ”スペイン・ロマネスクへの旅”(2011年3月 中央公論新社刊 池田 健二著)は、フランス編イタリア編に続く、スペイン編のロマネスクへの旅である。

 ロマネスクは、建築、彫刻・絵画・装飾、文学の様式の一つであり、建築用語、美術用語としては10世紀末から12世紀にかけて、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、英国、北欧など旧ローマ帝国に相応する広い地域の西ヨーロッパに広まった。ロマネスクの時代に、スペインという国家は存在しない。イベリア半島は、ピレネーを背に地中海を見晴らすカタルーニャのだ大地である。当時、半島はキリスト教世界とイスラム教世界に引き裂かれていた。池田健二氏は、1953年広島県尾道市生まれ、上智大学文学部史学科卒業、同大学大学院博士課程修了で、上智大学講師を務めている。専攻はフランス中世史、中世美術史で、25年以上にわたりヨーロッパ全地域のロマネスク教会を詳細に調査している。イベリア半島では、レコンキスタの進展に伴い次々と教会や修道院が建てられた。レコンキスタは、718年から1492年までに行われた、 キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。その間、北では、レオン、カスティーリャ、ナバラ、アダゴン、カタルーニャなどのキリスト教諸王国や、諸伯領が勢力を拡大した。南では、後ウマイヤ朝の滅亡によって生じた小王国や、北アフリカから渡来したイスラム王権が興亡した。キリスト教徒の諸君主は、再征服した大地に残る都市や農村の再建と復興に努め、最初に再建されたのが教会であった。人材はヨーロッパ各地から招聘され、北イタリアや南フランス出身の建築家たちが活躍した。イスラム世界から移住したモサラベや、キリスト教世界に残ったムデハルたちも建設運動に参加した。モサラベは、ムスリム支配下のイベリア半島におけるキリスト教徒であり、ムデハルはムスリム=イスラム教徒である。さらに、この地の石工の技術も運動を支え、イベリア半島独自の個性を主張する、スペイン・ロマネスクの芸術が生まれた。西ゴート、アストゥリアス、モサラベといった魅力的なプレロマネスクの影響も受けながら、半島独自のロマネスク芸術が花開いた。スペインのロマネスク芸術は、フランスやイタリアの後を追って発展したのではなく、ロンバルディアとカタルーニャの初期ロマネスク教会は同時期に建設され、トゥールーズとフロミスタの教会、モワサックとシロスの回廊も同時期に工事が進んでいた。スペインのロマネスク芸術は、フランスやイタリアのロマネスク芸術と共振しながら、同時に発展したのである。ロマネスク時代は11世紀と12世紀で、13世紀はゴシックの時代と言われるが、スペインの場合は13世紀に入っても引き続きロマネスク様式の教会が建てられている。ゴシック大聖堂は巨大な構造と華やかなステンドグラスで、訪れる者を圧倒してしまうような迫力がある。その何十分の一にも満たない規模の田舎の小さなロマネスク教会が、それに劣らず現代の私たちを惹きつけてやまない。カタルーニャだけで2,000を越える多数のロマネスク教会があり、毎年何十万人もの巡礼者をエルサレムやサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう命がけの旅に駆り立てた。中世のサンティアゴ巡礼は、ただひたすら先を急ぐだけの旅ではなく、霊験あらたかとされる霊場があれば、巡礼者たちは回り道をすることもいとわなかった。本書では、ロマネスクの教会だけでなく、バルセロナのカタルーニャ美術館やハカの司教区美術館のロマネスクの展示も取り上げられている。さらに、美しい写真の数々から、スペインのロマネスクの持つ荒々しい魅力が直に伝わってくる。

カタルーニャ地方1
カタルーニャ地方2
アラゴン地方
ナバラ地方
カスティーリャ・イ・レオン地方1
カスティーリャ・イ・レオン地方2
アストゥリアス地方
ガリシア地方

19.平成27年12月5日

 ”足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想”(2015年2月 KADOKAWA刊 森 茂暁著)は、南北朝の動乱期に仏国土の理想郷を目指した足利直義を紹介している。

 足利直義は尊氏の同母弟で、尊氏とともに室町幕府の基礎を築いた。南北朝時代を駆け抜けた人々は実に多彩であるが、その中で直義の人気は高い。作家の杉本苑子氏は佐藤進一氏との対談の中で、お好みの人物として足利直義を一番にあげている。おそらく自らの政治に苦悩する人間くささを帯びていること、その最期が兄に毒殺されるという悲運に対する同情のようなものもあろう。尊氏が恩賞給付権を握り、直義が内政権を握る二頭政治により幕府の基礎を築いた。法秩序を重んじる直義は、武家の急進派勢力との抗争により失脚し、最期は尊氏に毒殺されたと伝えられる。仏教に深い造詣を示し仏法による理想の国家を創ろうとした稀有な武将で、政治と思想・文化の両面にその才を発揮している。森  茂暁氏は1949年長崎県生まれ、1972年に九州大学文学部史学科を卒業、1975年に同大学院文学研究科博士課程を中退、1979年まで九州大学助手、1980年に文部省教科書検定課勤務、1984年に教科書調査官、1985年に京都産業大学教養部助教授、1991年に山口大学教養部助教授、のち人文学部教授、1997年に福岡大学人文学部教授を務めている。専門は中世日本の政治と文化、特に南北朝時代についてである。足利直義は尊氏と同じく、父の側室である上杉清子が産んだ子である。1333年に後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、尊氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加した。建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築いた。1335年に中先代の乱が起こり、高時の遺児時行が信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢の合戦にて反乱軍を迎撃するが敗れた。反乱軍が鎌倉へ迫ると、足利氏の拠点となっていた三河国矢作へ逃れた。同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還した。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されると、尊氏は赦免を求めて隠棲した。直義らは駿河国手越河原で義貞を迎撃するが、戦いに敗北した。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃した。足利軍は入京したものの、1336年に北畠顕家や楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れた。再入京を目指したが、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走した。道中の備後国にて光厳上皇の院宣を得て、多々良浜の戦いで苦戦を強いられながらも撃破し、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始した。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦いで新田・楠木軍を破って再び入京した。尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させたが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行った。1348年頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展した。1349年に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦した。直義は出家し、慧源と号した。直義は南朝に降り北朝は直義追討令を出すに至り、直義は尊氏勢を圧倒し1351年に播磨国や摂津国で尊氏方を破った。尊氏方の高兄弟とその一族は殺害され、直義は尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰した。これに対し尊氏・義詮は出陣と称して南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出た。直義は京都を脱して北陸、信濃を経て、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合したが、駿
河国さった山に尊氏に連破され、1352年に鎌倉にて武装解除された。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、1352年2月26日に享年47歳で急死した。病死とされているが、”太平記”は尊氏による毒殺であると記している。観応の擾乱は直義の死により終わりを告げたが、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。総じていえば、日本歴史における直義の真骨頂は、外面だけの表層的なことにとどまるものではない。直義という人物はもっと多面性を有している。同時代の史料をみると、当時直義は、天下執権人、日の本の将軍などと呼ばれており、足利幕府内でことさら枢要の地位を占め、将軍に比肩する絶大な権力をふるっていた。特に興味深いのはその政治思想であり、将軍権力の代行者として政道を専管し、それを遂行するための強靭な固有の政治思想をもっており、現実の行動や文書の発給はその政治思想に強く規定されていた。

序章
第1章 直義登場
第2章 二頭政治の時代
第3章 観応の擾乱
第4章 鎮魂と供養
第5章 直義の精神世界
第6章 『夢中問答』
第7章 神護寺の足利直義像終章

20.12月12日

 ”小説家という職業”(2010年6月 集英社刊 森 博嗣著)は、小説家になるためにはどうすれば良いか、作品を書き続けていくためには何が必要かなど、プロの作家になるための心得などを述べている。

 森 博嗣氏は、小説を書くことは楽しみではなく趣味ではない、という。文章を書くことは嫌いではないけれど、その中で小説の執筆が一番つまらない。自分に才能があるとはとうてい信じられないし、さらに、とんでもなく酷い小説が世の中で人気を博しているのも不思議に思う。デビュー以来、人気作家として活躍している著者が、小説を書くということ、さらには創作をビジネスとして成立させることについて、自らの体験を踏まえつつ、わかりやすく論じている。森 博嗣氏は1957年愛知県生まれ、実家は商業施設の建築設計を請け負う工務店だった。東海中学校・高等学校を卒業後、名古屋大学工学部建築学科へ進学、同大学大学院の修士課程修了後、三重大学工学部の助手として採用され、その後母校の助教授として勤務していた。1990年に名古屋大学から工学博士を取得した。40歳になる少しまえの1995年に突然、小説を書いた。練習したこともないし、趣味で書いたこともなかったけれど、執筆してみたという。夏休みに書いた処女作は”冷たい密室と博士たち”で、約1週間で執筆した。それを原稿募集が始まったメフィストに投稿し、編集部から次作の要望を受けた。第4作の”すべてがFになる”の完成後、メフィスト編集部がメフィスト賞の誕生を発表し、第1回メフィスト賞受賞作となった。1996年4月のデビュー作はこれである。メフィスト賞の実際の応募作は第2作であり、受賞作はシリーズ4作目だったのだが、デビューにあたって順番を入れ替え、よりインパクトの強い作品を第1作として出版された。これが大ヒット作となり、講談社ノベルスの看板作家としての地位を確立した。刊行時には、第5作目までが刊行予定とされていた。それ以降も、大学で勤務しながらハイペースで作品を発表し、一躍人気作家となった。最初からバイトとして、金になることをしようと考えて小説を書いた。趣味の関係で、自分かやりたいことの実現には資金が必要だった。なんとか夜にできるバイトはないか、と考えて小説の執筆を思いついた。思いついて3日後くらいに書き始め、さらにI週間後には書き終わっていた。毎日3時間くらい書き、トータル20時間ほどで書き上げた。1時間にだいたい6000文字をキーボードで打つことができるので、約12万文字である。原稿用紙にぎっしり詰めれば300枚になる。書き上げたあと書店へ行き、適当に雑誌を開いてみて原稿を募集しているところを探した。その半年後には小説家としてデビューし、最初の1年で3冊の本が出版され、その年の印税は、当時の本業の給料の倍にもなった。それで驚いていたら、翌年には4倍になり、3年後には8倍、4年後には16倍と、まさに倍々で増えた。こんなに儲かる仕事があっても良いのか、と思わなかったといったら嘘になるという。10年間に毎年100万部以上コンスタントに出版され、使い切れないほどの印税が銀行に振り込まれた。家族の生活はすっかり変わったが、自身に大して変化はなく、少し資金的な自由を得て、2005年に大学を退職した。小説家になりたい若者が大勢いるが、どうすれば良いのかという方法論は存在しない。それよりも、そういった方法論を大に尋ねる姿勢が、既に大きな障害といえる。もし、あえて返答するならば、意地悪になるけれど、まず、小説を読まないことであり、小説を読むことが、自分の創作には少なからずマイナスになる場合が多いという。作品を研究したことで生まれる作品など、たかが知れている。もっと、オリジナリティのあるものを生み出すことが最重要である。個性の強い人は他者の影響を受けにくく、最初から新しいものを作る傾向にあり、作家としてデビューは早い。どうすれば良いかと問うことは、間違っている。どうすれば良いかと考える暇があったら、小説を書けば良い。良くても悪くても作品が一つ出来あがる。そうすれば、自分の持っているものが多少は見えてくるし、書いている間に数々の発想を得るだろう。悶々と悩んでいるよりも、そちらの方がずっと有益である。とにかく、書くこと、これに尽きる。これが本書の結論である。おそらく自身は稀な例で、幸運だったことほまちがいない。もしなにか運以外の勝因があったとしたら、それはビジネスとして創作をしたという点ではないか、という。つまり、冷静に考え、売れるものを作った。工学部助教授であったことに加え、まだ一般的でなかったコンピュータやメールを駆使し、科学・工学の専門的な会話が交わされ、難解な数学問題が提示され、デビュー当時は理系ミステリと評された。次第にSF、幻想小説、架空戦記、剣豪小説などの他ジャンル、ブログの書籍化、エッセイ、絵本、詩集といった他の分野へも進出した。趣味人としても知られ、最近は鉄道模型製作に没頭しているそうである。他にも、イラスト、車、骨董品・キャラクタの貯金箱収集などの趣味がある。いつまでも続けるつもりではなく、今後は少しずつ表に出る機会を減らし、人知れず地味に静かに消えたいと願っている、と述べている。

1章 小説家になった経緯と戦略
 何故、小説を書き始めたのか/小説家にはなりやすい?/家族に読んでもらう/頭の中の世界をアウトプット/募集要項に驚く/シリーズものの創作/出版社からの連絡/最初の本が出る/小説はメジャなものではない/出版界の認識のずれ/プ口のもの書きの条件/意味が通じるものを書く
2章 小説家になったあとの心構え
 続かない理由その1 - 最初の作品を超えられない/続かない理由その2 - 読者の慣れ/続かない理由その3 - デビュー後のビジョンがない/ホームページを作る/ユーザの感想を分析する/目指すのは「新しさ」/謎をちりばめる/読者の積極性に期待する/読者の意見への接し方/貶した書評の効能/ネットを通じた批判/予定を作る
3章 出版界の問題と将来
 出版社は協同組合/出版社の周辺/小説とノンフィクション/小説の流通の未来/何故、締切にルーズなのか/当たり前のビジネスが成立しない/電子出版の可能性/本と宣伝/地道に創作する/秘訣も秘策もない/小説は自由なもの
4章 創作というビジネスの展望
 気になる楽観主義/生産者は生き残る/できるだけでは仕事にならない/「ウリ」を作る/小説家に必要な姿勢/ネット書評の特性/小説にテーマは要らない/ファンとの距離感/ニーズは新たに作る/編集者の古い体質/一人の人間が創り出す凄さ/小説は滅びない
5章 小説執筆のディテール
 芸術は奇跡である/文体は、必要ない/システムの存在感/文章のシェイプアップ/視点が重要なポイント/自然を自分の目で見る/思い浮かぶものを文章に落とす/メモは作らない/会話のリアルさ/シーンに必要なもの/難しいのはラスト/原稿の手直し/執筆期間と非執筆期間/タイトルを決める/進むうちに道は開ける

21.12月19日

 ”パタゴニアを行く-世界でもっとも美しい大地 ”(2011年1月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、南米大陸の南緯40度以南、アンデス山脈が南氷洋に沈むホーン岬までを含むパタゴニアの大地を写真と文章で紹介している。

 パタゴニアというと最果ての不毛の地というイメージであったが、実は世界でもっとも美しい大地と思わせる風景の数々が目にとびこんでくる。パタゴニアに魅せられ現地に在住している写真家の野村哲也氏は、1974年岐阜県生まれ、中部大学大学院工学研究科修了、高校時代から山岳風景や野生動物を撮りはじめ、1992年から2006年まで、世界で一番美しい自然を求め、辺境、秘境を旅した。地球の息吹をテーマに、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求めてきた。世界中に美しい場所はたくさんあるが、そこに住んでみたいと強烈に思わせてくれた場所は、チリのパタゴニアをおいて他になかったという。それは、以前までの突き返されるような厳しく遠い自然ではなく、包み込んでくれるような優しく近い自然であった。2007年より南米のチリに移り住み、四季を通してパタゴニアの自然を撮影している。辺境や秘境のツアーガイド、テレビ局やマスコミのアテンドにも携わり、日本国内ではスライドショーなどの講演活動を続けている。南米大陸は13の国と地域で構成され、その中を背骨のように縦断するのが世界最長のアンデス山脈である。距離にして約8000キロメートルに及び、チリとアルゼンチンを東西に分断する。アルゼンチンとチリの南緯40度よりも南の地域をパタゴニアという。アルゼンチンのネウケン、リオネグロ、チュブ、サンタクルス、ティエラ・デル・フエゴ各州と、チリのアイセン、マガジャーネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ各州が該当する。地形は、アンデス山脈を境にアルゼンチン側とチリ側で大きく異なる。チリ側は、氷河期時代に形成された氷河が造成した、大規模なフィヨルドが広がる。アルゼンチン側の北部は、コロラド川とネグロ川に挟まれた地域は草原が広がり、農耕も行われている。アルゼンチン側の南部は、乾燥が激しく砂漠が広がっている。南西からの強い偏西風がアンデス山脈にぶつかり、チリ側は比較的雨が多い。一方、アルゼンチン側は偏西風がアンデス山脈で途切れるため乾燥が激しく半砂漠となっている。1520年に、マゼランがタゴニア地域に上陸して、大足パタゴン族の住む土地ということからパタゴニアと命名した。1834年に、チャールズ・ダーウィンが海抜約27メートルの平原で赤い泥の堆積からマクラウケニア・パタゴニカという大型獣の骨格を掘り出した。1907年に、コモドロ・リバダビアにアルゼンチン最大の油田が発見された。著者がパタゴニアにはじめて足を踏み入れたのは、1995年の晩夏であった。そのころは、まだ旅人も少なく、インフラもまるで整っていなかった。ここ数年で、世界各国からの観光客が爆発的に増え、今やインカの聖都マチュピチュに次いで、南米屈指の観光地との呼び声も高い。パタゴニアを特徴付けるのは氷河である。南パタゴニア氷原から連なる氷河の数は大小50以上あるといわれている。その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量といわれている。北部には富士山そっくりの成層火山や湖が多く点在し、景勝地の南部には天を突き破らんばかりの岩峰や奇岩がそびえ、蒼い氷河が流れている。チリとアルゼンチンには、約30の国立公園がある。また、アルゼンチンには、3件の世界遺産登録物件が存在する。豊かな森、輝く湖水、天を突き破らんばかりの奇峰、蒼き氷河、一年中強風が吹き荒れる地の果て、クジラ、四季の花や味覚、人々の素朴な暮らしなどなど、変化に富む自然と人間に魅せられる。

序章 森の生活
第1章 森と湖の国・北西パタゴニア
第2章 海と火山の国・北東パタゴニア
第3章 花と虹の国・南西パタゴニア
第4章 風と氷河の国・南東パタゴニア
第5章 火の国・極南パタゴニア
最終章 ウルスラの教え南緯五五度

22.12月26日

 ”ニコライの首飾り-長崎の女傑おエイ物語”(2002年3月 彩流社刊 白浜 祥子著)は、長崎の三女傑のひとりで、皇の志士を助けた大浦ケイ、初めての西洋流女医の楠本イネと並ぶ道永エイの波瀾に満ちた生涯を紹介している。

 道永エイは、明治の男性中心の社会にあって、自らの力で立ち上がり、ロシアの艦隊と関わりながら、女起業家として手腕を発揮した女性である。おロシアおエイとも、稲佐の女王とも呼ばれ、長崎の人たちからは、おエイさんと親しまれた。白浜祥子氏は長崎出身のノンフィクションライターで、長崎市私立活水中学高校卒業、京都市私立池坊短期大学華道専門学院付設研究科・ゼミナール科卒業で、執筆当時、長崎日ロ協会会員、関西日露交流史研究会準会員である。エイは、万延元年の西暦1860年に、熊本県天草郡大矢野島大字登立村で、父作次郎、母タエの間に次女として生れた。12歳のとき両親を相次いで失い、遠縁を頼って、茂木の旅館で女中奉公をした。1879年に料亭ボルガの女将、諸岡まつを紹介され、まつの世話で稲佐のロシア将校集会所で家政婦として働いた。明治初期、長崎港は政府指定のロシア極東艦隊停泊港として、多くのロシア人でにぎわった。稲佐には、20年位前からロシアマタロス休憩所が開かれていた。ロシアが地元の庄屋から1000坪近い土地を租借し、病院や艇庫や小工場を建てて、水兵たちの休養の場としていた。稲佐村には、ホテル、両替所、レストランが作られ、またロシア海軍の兵士達は民家を借り受けて住んでいた。おエイはここでロシア語を修得し、1881年にバルト号の船長付のボーイとしてウラジオストクに渡った。1年後に帰国し、その後上海に渡った。1883年に上海より帰国し、流暢なロシア語と社交術で、再びボルガで働いた。ロシア語を身につけ、生来の美しさも手伝って、エイはめきめき頭角を現した。階級にこだわらず、面倒見のよいエイは、やがてロシア極東艦隊の乗組員たちから、我らがマーチ=母と慕われるようになった。1889年頃、ロシアの極東政策が本格化し、巨大な東洋艦隊が長崎に入港するようになった。エイは長崎港を見晴らす稲佐の台地に300坪を借地し、ホテル・ヴェスナーを作った。客室21、ロビー、宴会場、遊技場も備えたホテルで、連日連夜、海軍士官達により、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられた。1891年に、ロシア皇太子ニコライがシベリア鉄道の起工式に出席の途中、ギリシャのジョージ親王とともに、明治天皇の招待で日本を訪れた。長崎には4月27日に来て、5月5日鹿児島を経て神戸へと出発した。28日から3日間はお忍びで、上野彦馬の店で写真を撮ったり、稲佐に上陸し、5月3日は丸山の芸者を招いて宴会を開くなどした。おエイはその宴席を取仕切り活躍した。長崎への公式上陸は5月4日で、皇太子はこの後5月11日に大津事件に巻き込まれることとなった。1898年に健康を損ねて、ヴェスナーの経営はまつに任せ、平戸小屋の小高い丘の上に土地を買い、ロシア高官だけを顧客とする小ホテルと住居を建てた。1902年に大浦の外国人居留地に、ロシア風ホテルを建てた。1903年に日本とロシアとの関係が悪化の一途を辿りつつある中、ロシアの陸軍大臣クロパトキンが軍事視察に来日し、エイのホテルに21日間滞在した。クロパトキンは、あなたはロシア海軍の母だと賛辞を送った。日露戦争が始まると、エイの一家は、露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、家に投石され迫害されたという。1905年にロシアと講和が成立し、旅順要塞地区司令官であったステッセル将軍も、乃木大将との水師営会見後、家族一行16名で稲佐に上陸し、おエイのホテルに3日間滞在した。おエイは、紋付きの礼装で、極上の紅茶、菓子、果物を出し心からもてなした。1906年に、茂木に純洋館2階建てのビーチホテルを開業した。階上に客室12、階下は宴会用の広間、音楽室からなる近代的なホテルであった。ホテルは開業後1ヶ月で増築をするなど、大変繁盛した。そして、1927年5月12日の朝、平戸小屋のホテル横の隠居部屋で、68才でその生涯を終えた。35歳の時に生まれた愛児の父親の名を、終生だれにも明かさず、自分独りの胸にたたんだままであった。

第1章 幻のホテル
第2章 一家離散
第3章 長崎のおロシア租界地
第4章 新天地を求めてロシアへ
第5章 上海、そしてホテルの完成
第6章 皇太子ニコライ二世の長崎訪問
第7章 おロシアおエイの光と影
第8章 ステッセル将軍の接待役
第9章 ホテルの再建
終章 エイの足跡

23.平成28年1月9日

 ”マリを知るための58章 ”(2015年11月 明石書店刊 竹沢 尚一郎編著)は、かつてフランス領スーダンと呼ばれ独立時にマリ共和国となったいまの通称マリについて、知られざる奥深い魅力をさまざまな角度から紹介している。

 マリは、面積124万㎡、人口2012年1630万人で、その名は、かつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられた。マリとは、バンバラ語でカバという意味で、首都バマコにはカバの銅像がある。西アフリカに位置する共和制国家で、西をモーリタニア、北をアルジェリア、東をニジェール、南をブルキナファソ、コートジボワール、南西をギニア、西をセネガルに囲まれた内陸国である。国土の北側3分の1はサハラ砂漠の一部であり、残りの中南部も、ちょうど中心を流れるニジェール川沿岸だけが農耕地となっている以外は、乾燥地帯である。竹沢尚一郎氏は、国立民族学博物館教授、総合研究大学院大学教授で、専攻はアフリカ史、アフリカ考古学、社会人類学である。執筆者はほかに、京都府立大学名誉教授・赤阪賢氏、バマコ大学教授・イスマエル・ファマンタ氏、日本学術振興会特別研究員・伊東未来氏、上智大学総合グローバル学部教授・稲葉奈々子氏、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科研究員・今中亮介氏、名古屋学院大学現代社会学部教授・今村薫氏、京都精華大学人文学部教授・ウスビ・サコ氏、独立行政法人国際協力機構長期専門家・尾上公一氏、東京都立大学名誉教授・門村浩氏、立教大学文学部教授・川口幸也氏、南山大学人文学部教授・坂井信三氏、中部大学中部学術高等研究所客員教授・嶋田義仁氏、日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター所長・溝口大助氏、バマコ大学教授・ムーサ・コネ氏、特定非営利活動法人カラ=西アフリカ農村自立協力会代表・村上一枝氏となっている。編著者は、1981年に大学院生としてはじめてマリをおとずれ、首都バマコの空港に降り立った。当時マリは、独立に際してフランスと対立したことで社会主義路線を採用し、旧フランス植民地の共通通貨であるセーファー・フランから脱退した。内陸国でさしたる輸出品目をもっていなかったマリに、経済的自立が可能であるはずはなかった。マリの通貨であるマリーフランは互換性をもたず、海外の製品は入ってこなかった。首都の中心部にる大きな商店に行っても、陳列棚に商品がなにもなかった。車もほとんど走っておらず、首都の目抜き通りも自転車とバイクで埋め尽くされていた。それと比べると、近年のマリには大きなビルがあいついで建てられ、街には色とりどりのブティックが立ち並んでいる。壊れかかった車が多いとはいえ、道路は車で埋め尽くされ、道を渡るのさえ一苦労である。2011年にはじまったトゥアレグ人の分離独立運動の余波はいまだつづいているとはいえ、首都にいるかぎり、人びとは陽気に語りあい、生活をエンジョイしているように見える。マリは、西アフリカでもっとも豊かな歴史をもつ国であり、現在のマリを知るためにも歴史を理解することが必要である。マリは、3~17世紀にかけてガーナ王国、マリ、ソンガイ帝国として栄えた。1920年にフランス植民地となり、1960年にマリ共和国としてフランスより独立した。1968年にトラオレ中尉による軍事クーデターにより、1969年にトラオレ軍事政権が成立し、1979年にトラオレ大統領が就任した。1991年にクーデターによりトゥーレ暫定政権が成立し、1992年に新憲法成立、大統領選挙、コナレ大統領選出が行われた。2002年の大統領選挙でトゥーレ大統領が選出され、2007年に再選された。2012年に一部国軍による騒乱が発生し、トゥーレ大統領が辞任し,トラオレ国民議会議長が暫定大統領に就任した。2013年の大統領選挙でケイタ大統領が選出され、国民議会選挙が行われた。マリを知るための歴史の要点は、三つあげることができる。まず、遠い過去である。現在のマリの地では、紀元7世紀頃からニジェール川中流域に、ガーナとガオ、マリなどの国家があいついで誕生した。これらの国家を支えたのは、旧大陸最大とされたマリを含む西アフリカの金であった。それに向けてサハラを越えてイスラム中東文明が運ばれてきたことで、北の砂漠の文化と南のサヘルーサヅアンナの文化が混じりあう、トンブクトゥやガオに代表される独特の都市文化が形成された。第二に、そうした経済的・政治的発展を実現した結果、マリの人びとは西アフリカ中に移動しながら、各地に綿織物や鉄製造、商業やイスラムを伝えていった。やがて19世紀になってフランスがアフリカ大陸の広い範囲を支配すると、マリの人びとは下級の行政官や商人として各地に散っていった。その結果、隣国のセネガル、コートジボワールには数百万単位でマリ出身の人びとが住んでいる。ほかに、遠く離れた両コンゴやカメルーン、ブルンジ、さらにはフランスなどにも数十万単位でマリ出身者が住んでいる。それらの土地から送金される金額は、マリの国家予算の5分の1ともそれ以上ともいわれている。第三に、独立後の有為転変を理解することである。旧宗主国のフランスと対立したマリは社会主義路線を歩み、独自の通貨を採用した。その結果、マリは国営企業を中心に計画経済を推進する一方で、文化と歴史の独自性を強調する政策をとった。独立後、各地域の文化の発掘と啓蒙につとめ、2年ごとに若者を対象に文化とスポーツのビエンナーレを全国規模で実施した。他方、計画経済を採用したマリは、最重要な輸出品目であるワタの取引と綿布の製造をはじめ、すべての基幹産業を国営化した。その結果、買い上げ価格が低く抑えられたことを嫌気した農民がワタ栽培に熱を入れないなど、マリの経済は悪化する一方であった。1980年代になって自由化されると、マリの農民の生産意欲はいちじるしく高まった。マリのワタ栽培はアフリカ1の地位を占めるまでになっただけでなく、金の採掘も活発になった。それによって、富が農村にまで循環するようになった結果、マリの社会全体が一定の豊かさを達成すると同時に、民主的な社会の実現に成功した。日本とマリのあいだの関係は薄く、マリ大使館が東京に開設されたのは2002年、日本大使館がマリに開設されたのは2008年に過ぎない。とはいえ、マリの人びとの大なつこさと、したたかさの入り混じった親切さは、一度出会ったなら忘れることができない。また、文化と歴史の豊かさもあり、今後、日本とマリの関係がいっそう密になり、マリに平和が訪れることを願っているという。

1 地理
2 歴史
3 民族
4 四つの世界遺産と主要都市
5 生活と社会
6 アートと文化
7 政治と経済
8 世界の中のマリ

24.1月16日

 ”明治ふしぎ写真館”(2000年6月 東京書籍刊 横田 順彌著)は、明治・大正時代のおもしろ・ふしぎ写真や挿絵にあれこれ解説をつけて紹介している。

 むかしの不思議な写真や面白い写真がたくさん紹介されている。写真技術については、紀元前に小さな穴からもれた光が壁に景色を写すことが知られている。15世紀に、フランス画家たちの間で、箱にレンズをつけた装置=カメラ・オブスキュラでの写生が行われた。16世紀に、凸レンズを利用して明るい像を得るカメラ・オブスキュラが考案された。1826年に、フランスのニエプス兄弟がカメラ・オブスキュラを改良し、8時間かけて1枚の写真を撮影した。写真の始まりである。1839年に、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプ=銀板写真を発表した。世界で初めてのカメラであるジルー・ダゲレオタイプ・カメラが発売された。1841年に、世界初のネガポジ法であるカロタイプ=タルボタイプが、イギリス人のウイリアム・ヘンリー・タルボットによって発表された。写真プリントの始まりである。1848年ごろ、日本に写真技術が伝わったとされる。1851年に、イギリス人のフレデリック・スコット・アーチャーが湿板を発明した。ガラス板の上に感光材料をぬることで、鮮明な写真を実現した。1857年=安政4年に、現存する最古の日本人が撮影した写真、島津斉彬の肖像が撮影された。1871年に、イギリス人のリチャード・リーチ・マドックスが湿板を改良し、ゼラチンを使った乾板を開発した。感光材料の工業生産が可能になった。1889年に、乾板のガラス板の代わりにセルロイドを用い、巻いて収納できるロールフィルムが、アメリカのイーストマン・コダック社から発売された。写真の一般への普及が始まった。1903年=明治36年に、小西本店、現在のコニカミノルタから、日本最初のアマチュア向けカメラ、チェリー手提暗函が発売された。横田順彌氏は1945年佐賀県生まれの小説家で、法政大学法学部を卒業、小学生時代からSF好きで、高校時代に古典SFに関心を抱き、大学在学中は落語研究会に所属するかたわら、SF同人誌に作品を寄稿した。1971年から本格的作家活動に入り、ユーモア、パロディー、だじゃれ、ナンセンスが渾然一体となった独自のSF路線を確立する一方、日本古典SF研究の第一人者としても知られる。豊富な資料をもとにした明治研究も磨きがかかり、明治ものを次々と発表した。明治・大正時代も、ずいぶん昔のことになってしまった。しかし、当時の書籍や雑誌を読んでいると、現代では考えられないような、おもしろい、また、ふしぎなエピソードが山のようにある、という。その明治・大正時代のおもしろ、ふしぎエピソードに、すっかりのめり込み、数冊の関連書を刊行した。明治・大正時代のおもしろいエピソードを紹介する時、一番困るのは写真やイラストが非常に少ないことだ。この記事に写真があったら絶対におもしろいのに、といつも思っていた。また反対に、おもしろいふしぎな写真やイラストがあるのに、文章がおもしろくないという記事にも、時々出会った。そんなおり、文章はともかく、おもしろい、あるいは、ふしぎな写真を紹介してみましょう、という話があったという。しばらく考え、それは相当難しいけれど楽しそうな作業だと始めることにした。とにかく明治・大正時代の、おもしろ・ふしぎ写真やイラストを掘り出してきて、文章をつけた。つまらないという人は、写真とイラストだけ見ていただけばいい。このたび開業いたしました〔明治ふしぎ写真館〕でございます。館名にいつわりなく、あれこれ珍奇・不可思議な写真を取り揃えておりますが、やはり最初は美女の写真紹介からまいろうかと存じます

この美女は誰だ/大森カツラと文士劇/サンダウ氏は強いぞ/アメリカ女子野球の不思議/日本の大仏、これにあり/嬶がほしいと一人百首/読まなきゃ判らん挿絵とは/ミストル前田、英京に闘う/おなじ顔した銀月の旅行記/懸賞まですこぶるバンカラ/東京見物スタイルブック/明治のお嬢のやることは判らん/チョンマゲ野球軍団/科学と不思議は仲良しか/ヒコウ少女の日米競艶/これでいいのか海国日本/あめゆきさんオンパレード/開化版の美女と野獣/明治の偉人は天狗のおじさん/丸刈りの忠直卿/薬靴を履いた猫君/三百歳の大走嬢、ガゴールとは/元祖YAWARAちゃん/牛童とは荒武着のことと見つけたり/百とまとめて、おめでとう/乃木坂にその名を残す武の男/横細さんはでっかい象/元祖マルチーライター/ヨッ、これぞ人気の大紋領/やあ、嬉しいな、お伽噺だ/主人公のアルバム付き小説/愉しき誌上紙芝居/画人の描く。夢十夜/最後の浮世給師が描く怪物

25.1月23日

 ”第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本 ”(2012年10月 祥伝社刊 樋口 雄彦著)は、大政奉還の4年前に生まれ最後の将軍・慶喜から徳川宗家を4歳で継ぎ太平洋戦争の前年に亡くなった76年の生涯を紹介している。

 徳川慶喜の後、徳川宗家を継いだ徳川家達は、ワシントン軍縮会議全権大使を務め、徳川一族のまとめ役、貴族院議長(明治36年~昭和8年)、第6代日本赤十字社社長(昭和4年11月2日~昭和15年6月5日)、国際連盟会会長などとして活躍した。樋口雄彦氏は、1961年静岡県生まれ、1984年に静岡大学人文学部人文学科を卒業し、1984年から沼津市明治史料館学芸員を経て、2001年から国立歴史民俗博物館助教授、2003年から総合研究大学院大学助教授併任、2007年から国立歴史民俗博物館准教授、総合研究大学院大学准教授併任、2011年から国立歴史民俗博物館教授、総合研究大学院大学教授併任している。徳川将軍家は江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家であるが、明治維新後の1884年には家達が公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれている。家達は田安徳川家の7代当主で、1863年に江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生した。田安徳川家は徳川氏の一支系で御三卿の一つで、第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。家格は御三家に次ぎ石高は10万石で、賄料領知を武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6ヶ国に与えられた。慶頼は14代将軍・徳川家茂の将軍後見職であり、幕府の要職にあった。家達は家茂および13代将軍・徳川家定の従弟にあたる。1865年に実兄・寿千代の夭逝により田安徳川家を相続し、1866年に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだ。しかし、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任した。最後の征夷大将軍となった慶喜は、大政奉還の後に征夷大将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し謹慎した。慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された。第16代当主となった家達は、新政府により駿河・遠江・伊豆に70万石を改めて与えられて駿府に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩を立てた。1869年に華族に列せられ、廃藩置県を経て、1871年に東京へ再移住した。その後、家達は、明治時代の終わりから昭和時代の初めに至るまで、長らく貴族院議長を務め、嫡子の第17代当主・徳川家正は、戦後、最後の貴族院議長を務めた。歴代の徳川将軍の中で、現代においても個人としての事蹟に関し詳細な研究が続けられ、小説やドラマなどに取り上げられることで一般にも広く周知されているのは、家康、家光、綱吉、吉宗、慶喜であろう。明治期における徳川慶喜は、あくまで陰の人である。本書で取り上げるのは、明治あるいは近代における徳川家を考える際、むしろ慶喜よりも重要な仕事を残した徳川家達という人物である。16代当主として徳川宗家を継いだが、当然ながらもはや将軍ではなかった。廃藩置県により東京に戻り、イギリスヘの留学を経験した。貴族院議長をつとめ、さまざまな社会事業団体や国際親善団体の責任者ともなり、1914には、辞退したものの総理大臣就任のチャンスもあった。1921年にはワシントン会議の全権委員となり、軍縮問題に取り組んだ。国際協調を旨とする親英米派と目され、軍国主義が台頭するなかで右翼に命を狙われた。議長の職を辞したのは、満州事変を経て、日本が国際連盟を脱退した年である。その後、時代は日中戦争へと突入していくが、1940年に76年の生涯を終えた。忘れられた巨人とも言える徳川家達について、今だからこそ知っていただくことに意味があるという。

第1章 第16代徳川家達の誕生 
第2章 70万石のお殿様
第3章 若き公爵、イギリスへ
第4章 幻の徳川家達内閣
第5章 協調路線と暗殺未遂
第6章 一族の長としての顔
第7章 徳川家の使用人と資産
第8章 日米開戦を前に死去
徳川家達・略年譜

26.1月30日

 ”緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で”(2014年2月 NHK出版刊 小山 靖史著)は、国連難民高等弁務官として世界中で多くの難民を救い国際社会で評価された緒方貞子さんの半生を紹介している。

 緒方貞子さんは小さな巨人と称えられ、その類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集める、一人の日本人女性である。かつて、2013年8月17日土曜日の午後9時00分から10時29分まで、NHKスペシャルでその活動内容が放送され紹介された。小山靖史氏は1961年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒業、1986年NHK入局、主にドキュメンタリー番組制作を担当している。緒方貞子さんは1927年東京都港区生まれの国際政治学者で、曽祖父は元内閣総理大臣の犬養毅で、祖父は外交官である。父親もフィンランド特命全権公使を務めた外交官で、父親の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごした。小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入し、1951年に聖心女子大学文学部英文科を卒業した。1953年にジョ-ジタウン大学の国際関係論修士課程を修了し、1963年にカリフォルニア大学バークレー校の政治学博士課程を修了した。1965年に国際基督教大学非常勤講師となり、1968年に国連総会日本政府代表顧問、1974年に国際基督教大学準教授を務めた。1976年から1978年まで国連日本政府代表部公使、1978年から1979年まで国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長を務めた。1979年に外務省参与になり、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長を務めた。1980年から1988年まで上智大学国際関係研究所教授となり、ほかに、婦人問題企画推進会議委員、国連人権委員会日本政府代表、国際人道問題独立委員会委員、上智大学国際関係研究所長、上智大学外国語学部長を務めた。1990年に国連人権委員会ビルマ人権状況専門官となり、1990年12月21日国連総会にて選出され1991年に任期3年で第8代国連難民高等弁務官に就任した。高等弁務官事務所は、戦争が生み出した弱者である難民を救うための組織である。1993年11月4日国連総会にて再選され1994年に任期5年で国連難民高等弁務官に再任され、1998年9月29日国連総会にて再選され1999年に任期2年で国連難民高等弁務官に再任された。2000年12月31日に、10年にわたった国連難民高等弁務官を退任した。その後も、2001年からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年から国際協力機構理事長を務めた。ある時は防弾チョッキを身につけて紛争地に自ら足を運ぶなど、徹底した現場主義を貫いた。難民一人一人の声に耳を傾け、一人でも多くの命を救うために、前例にとらわれない決断を次々と下していった。大胆かつ勇気ある行動と決断の背景には緒方貞子さん自身の、幼少期からの戦争を巡る経験や、人生の節目での意外な人との出会いも大きく影響していた。そこで、これまであまり語られなかった若年期もていねいに振り返り、生い立ちやアメリカ留学時代なども詳しく紹介されている。

第1章 政治家・外交官の家に生まれて-誕生‐アメリカと中国での生活
第2章 信念の人 父・豊一-日中戦争‐帰国
第3章 少女時代に見た戦争-真珠湾攻撃‐終戦
第4章 リーダーシップの原点-聖心女子大学時代
第5章 戦争への疑問 満州事変研究-アメリカ留学‐論文執筆
第6章 突然の国連デビュ--結婚‐出産‐大学での講義‐国連総会出席
第7章 日本初の女性国連公使-国連日本政府代表部への赴任‐上智大学教授
第8章 紛争と向き合う中で-国連難民高等弁務官時代
第9章 「人間の安全保障」を求めて-二十一世紀JICAでの活躍
エピロ-グ 日本人へのメッセ-ジ

27.平成28年2月6日

 ”金いろの自画像-平塚らいてう ことばの花束 ”(2005年5月 大月書店刊 米田 佐代子著)は、らいてうの生涯の著作の中から60編を選んでまとめた珠玉篇である。

 平塚らいてうは、”元始、女性は太陽であった”で知られる思想家、評論家、作家、フェミニストであり、戦前から女性解放運動の中心として活動し、戦後は主に反戦・平和運動に参加した。米田佐代子氏は、1934年東京生まれの女性史研究者、ノンフィクション作家で、NPO平塚らいてうの会会長、らいてうの家館長を務めている。1950年に長野北高校に入学し、高校2年で父の転勤で都立戸山高校に転入した。1958年に東京都立大学人文学部卒業後、同大学助手を経て1990年より山梨県立女子短期大学教授を務め、2000年に定年退職した。平塚らいてうは、1886年に現在の東京都千代田区五番町に3人姉妹の末娘として生まれ、本名は平塚明(はる)という。父親は明治政府の高級官吏で会計検査院に勤務し、のちに一高の講師も務めた。母親の両親は、徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった。関ヶ原の戦いで戦死した西軍の武将、平塚為広の末裔である。幼少時は、欧米を視察巡遊した父親の影響で、ハイカラで自由な環境で育った。1892年に富士見尋常高等小学校に入学してまもなく、父親は国粋主義的な家庭教育を施すようになった。1894年に本郷区公立誠之尋常小学校に転入し、1898年に誠之小学校高等科を卒業した。父親の意思で東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学し、苦痛の5年間を過ごした。1903年に日本女子大学校家政学部に入学したが、翌年日露戦争が勃発し徐々に国家主義的教育の度合いが強くなる中で、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭した。1905年には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場に通い始めるようになり、悟りを開いた証明として慧薫禅子という道号を授かった。1906年に日本女子大学校を卒業し、禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学び、1907年に成美女子英語学校に通うようになった。英語学校のテキストで初めて文学に触れ、新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座に参加するようになった。書き上げた小説がきっかけで、森田草平と恋仲になった。1908年の初めてのデートで、尾頭峠付近の山中で救助されるという、塩原事件を起こした。新聞はある事ない事を面白く書き立て、一夜にしてスキャンダルになった。このことから、性差別や抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになった。生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌”青鞜”の製作に入り、1911年に創刊された。”元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して”という創刊の辞を書いた。その原稿を書き上げた際に、初めて”らいてう”という筆名を用いた。青鞜社は他にも、詩集や小説集などを出版した。1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社を巻き込んだ騒動が起こった。同棲を始めた直後の1914年に両親から独立し、家庭生活と青鞜での活動の両立が困難になり始めると、1915年に編集権を伊藤野枝に譲った。奥村との間に2児をもうけたが、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れた。その後、1919年に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより新婦人協会が設立された。婦人参政権運動と母性の保護を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための運動を行った。1921年に、過労に加え房枝との対立もあり協会運営から退き、1923年から文筆生活に入った。第二次世界大戦後は、日本共産党の同伴者として活動し、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1953年に日本婦人団体連合会を結成し、初代会長に就任した。ほかにも、国際民主婦人連盟副会長就任したり、世界平和アピール七人委員会の結成に参加し委員となった。1962年に新日本婦人の会を結成し、1970年に安保廃棄のアピールを発表し、ベトナム戦争反戦運動を展開した。1970年に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の病院に入院し、1971年に85歳で逝去した。らいてうはジグザグな道を時には踏み迷いながら、倒れても倒れても不死鳥のように起き上がり、戦後は日本国憲法を守り、非武装・非交戦の平和な世界をとうったえて奔走した。”憲法を守りぬく覚悟”という言葉は、らいてうがいわば、20世紀に残した遺書である。らいてうの残した言葉の中から、心に残った言葉を選んで編んだのがこの本である。それぞれに短い解説をつけ年譜も添えて、らいてうの生涯をおおよそ知っていただけるようにした。これをヒントに、あなたもらいてう探しをしてみてはいかが。

1 「ハル公」と「おとっちゃん」-火の雨と銀の腕輪の記憶
2 わたしは太陽-青春の出発
3 「行き着くところまで行ってみよう」-愛の選択
4 世界民という希望-社会改造の理想
5 自然の中に生きる-子どもと人生の探求
6 「家庭のドアは開けっ放し」-協同自治社会への夢
7 よく生きること老いること-いのちへのまなざし
8 「わたくしは永久に失望しない」-世界の平和を見とおす眼

28.2月13日

 ”郊外はこれからどうなる?-東京住宅地開発秘話”(2011年12月 中央公論新社刊 三浦 展著)は、理想の実現のもとに開発された東京郊外の光と影を検証している。

 郊外とは、都市の外縁部に位置する人口の多い地域である。都市の外縁部地域のことであるが、日本では都市的地域や郊外の定義は明確ではなく、大都市の市内や市外を問わず、単に都心から離れた緑の比較的多い一戸建ての多い場所というようなものである。東京郊外は高い理想の下につくられ、マイホームへの憧れとともにあった。山の手と下町の推移や、逆開発のまちづくりなどに触れている。三浦展氏は1958年新潟県生まれ、一橋大学社会学部卒業後、パルコに入社し、マーケティング情報誌編集長を経て、三菱総合研究所に入社した。1999年に消費・都市・文化研究のシンクタンクを設立し、世代マーケティング調査を行うかたわら、広く社会を研究し、各方面から注目されている。パルコでは、郊外を研究する仕事に就いた。受験する大学を下見するために、高校二年の春休みに国立駅のホームに降り立つと、駅からまっすぐにのびる大通りの桜並木が満開で、何て美しい街だろうと息を飲んだ。街を歩くと、大通りの左右にはやはり真っ直ぐな道が放射状にのびている。それらの道のどこからでも、赤い屋根の駅舎が見えた。それまでに見たことも、想像したこともない街がそこにあった。学生時代を国立、小平、国分寺、小金井といった郊外で過ごし、東京の都心についてはほとんど知らぬまま就職した。しかしその会社にとっては、渋谷、青山、世田谷といった街がとても重要な意味を持っていた。東京の重心はつねに西側に移勤しつづけており、その中で渋谷が重要な役割を果たすと考えられていた。そしてさらに、吉祥寺、そして所沢といった西側の郊外に向かって、会社は動いていた。そのような中から、第四山の手や郊外の文化論という視点も生まれた。現代ではモータリゼーションの発達により、公共交通機関等を利用して郊外住宅地に居住しながら都市部に通勤する人々が出現した。日本での郊外化の始まりは、路面電車や私営鉄道などが郊外観光地や都市間を結びはじめた1900年代の沿線開発に始まり、高速道路よりも通勤鉄道に沿った郊外が形成されてきた。団塊の世代が大都市に就職し家庭を持つに伴い、団地や一戸建てなど郊外住宅地が大量に開発され、多くの人々が一戸建てを求め都心から離れた住宅地を購入した。大都市からは多くの住民が鉄道沿線の郊外へと脱出し、全国の都市で、都心部や隣接する住宅地は、1970年代から1980年代に地価高騰や地上げなどにより急激にビジネス街に変わった。古くからの住民の少なからぬ部分は郊外へ移転し、ドーナツ化現象が発生した。1980年代後半から1990年代以降、地方の都市でも、内需拡大のためやバブル崩壊後の公共投資促進のための道路整備が進展した。自治体庁舎・企業・工場などの広い郊外への移転によって、住民も老朽化した都市を脱出し郊外の分譲地に移転した。その後、交通の中心は完全に自動車に変わり、行政や企業活動・商業地・繁華街もバイパス沿いに展開した。駐車場や広い道路のない旧来の中心市街地は、人口的にも商工業活動の上でも劣勢になり、空洞化した。つかみどころのない郊外という場所、それはきっと大衆の無数の欲望によってますます広がり、ますますとらえどころのないものになっていくと考えられていた。郊外とは何であろうか、これからどうなっていくのであろうか。本書は6章からなり、第1章は「第四山の手論」、第2章「東京は増加する人口を吸収してきた」、第3章「山の手の条件」、第4章「郊外の文化論」、第5章「郊外の歴史と問題」となっており、第6章で、ようやく「郊外の未来」が語られている。東京の山の手は、時期に応じて4段階に延長していった。第一の山の手は、明治初期から開発された現在の東京大学で元加賀藩前田家の屋敷であった本郷台地である。第二の山の手は、山手線の内側西半分で、御殿山、池田山、代官山、西郷山と山のつく地名が多いのが特徴である。第三の山の手は、ターミナルとなった新宿、渋谷、池袋駅につながる沿線沿いに開発された、目黒・世田谷・杉並区の住宅である。第四の山の手は、東京の三多摩、神奈川県、千葉県に開発された郊外住宅地である。当時パルコは新所沢に出店するにあたり、店を出すための根拠となる強力な裏付けを必要としていた。第四山の手や郊外の文化論という視点は、テナントを説得するためのマーケティング概念だった。実際に、バブル時代の到来もあって、所沢は1988年の地下上昇率日本一となった。本書は、東京郊外を考えるための最低限の基礎知識を身に付けるための、入門書であるという。近代都市計画が目指した機能的で安全性や利便性を考慮した新市街地形成の対象として、さまざまな理論や理想をもとに計画的につくられた地区も多い。このような観点からは、アメリカのレヴィットタウンやイギリスのバーケンヘッドパークなど、海外の郊外の歴史にも触れている。

29.2月20日

 ”公益を実践した実業界の巨人 渋沢栄一を歩く ”(2006年9月 小学館刊 田澤 拓也著)は、道徳経済合一説を打ち出し500に及ぶ企業を設立し、ほかに、学校創設、公共事業支援にも尽力した渋沢栄一の足跡を訪ねている。

 渋沢栄一は1840年に武蔵国榛沢郡血洗島村、現埼玉県深谷市血洗島で生まれ、第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれている。深谷市には渋沢栄一記念館があり、市北部の渋沢栄一の生家から東に500mほどの清水川のほとりに所在している。田澤拓也氏は1952年青森県生まれ、早稲田大学法学部と第一文学部を卒業し、出版社勤務をへてフリーランスになり、21世紀国際ノンフィクション大賞優秀賞や開高健賞を受賞している。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や日本外史を学んだ、剣術は大川平兵衛より神道無念流を学んだ。父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時から、単身で藍葉の仕入れに出かけるようになった。19歳の時に結婚し、1861年に江戸に出て、海保漁村の門下生となった。また、北辰一刀流の道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結んだ。尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒す計画を立てたが、従兄の弟の懸命な説得で中止した。その後、京都に上るが、志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折から交際のあった一橋家家臣の推挙により、一橋慶喜に仕えることとなった。慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリ万国博覧会に将軍名代で出席する慶喜の弟の随員として、御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランスへ渡航した。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を随行し、先進的な産業・軍備や社会を見学して感銘を受けた。フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じた。1868年に大政奉還に伴い新政府から帰国を命じられ、マルセイユから帰国の途につき横浜港に帰国した。帰国後、静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩からは出仕することを命ぜられたが、慶喜からはこれからはお前の道を行きなさいとの言葉を拝受した。そこで、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、また新政府からの拝借金を返済するため、1869年に静岡で商法会所を設立した。しかし、大隈重信に説得され大蔵省に入省し、民部省改正掛を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。1873年に、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、井上馨と共に退官した。退官後間もなく、第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置いた。七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導し、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。1878年に日本初の東京商法会議所が設立され、初代会頭に就任した。他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、渋沢財閥を作らなかったことにある。私利を追わず公益を図るとの考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者にもこれを固く戒めた。1916年に”論語と算盤”を著し、道徳経済合一説という理念を打ち出した。倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させるが、利益は独占するのではなく、国全体を豊かにするために社会に還元することを説いた。道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言う。東京都北区飛鳥山公園の一部に渋沢史料館が開設され、渋沢栄一の生涯と事績が展示されている。同じ敷地に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建てられ、重要文化財の晩香廬と青淵文庫がある。常盤橋門は江戸城の大手門に通じる重要な門であるが、外濠にかかる橋を渡ると常盤橋公園となっており、ここに渋沢栄一の像が置かれている。本書は、渋沢栄一にかかわるいろいろな場所を実際に訪ね歩いた、渋沢栄一再発見のための紀行的評伝である。妻、ちよの写真ほかの、珍しい写真も掲載されている。

プロローグ 飛鳥山公園(東京都北区)
第1章 春ー憂国の志士から幕臣へ
番外編パリー近代資本主義を知る
第2章 夏ー新政府で奔走、熱き起業家魂
第3章 秋ー事業の拡大と、弱者への思い
第4章 冬ー知られざる教育への貢献と晩年
エピローグ 常盤橋公園(東京都千代田区)

30.2月27日

 ”間宮林蔵・探検家一代-海峡発見と北方民族”(2008年11月 中央公論新社刊 髙橋 大輔著)は、間宮海峡を発見しサハリン島を世界で最初に確認した間宮林蔵の探検家一代記である。

 間宮林蔵は1780年に常陸国筑波郡上平柳村、今の茨城県つくばみらい市に農民の子として生まれ、幕臣に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。1799年に国後島、択捉島、得撫島に派遣され、伊能忠敬に測量技術を学び、1803年に西蝦夷地を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。江戸時代後期の隠密、探検家であり、サハリンが島である事を確認した事で知られている。高橋大輔氏は1966年秋田市生まれの探検家、作家で、明治大学在学中から世界六大陸を放浪した。物語を旅することをテーマに、世界各地の神話や伝説を検証し、文献と現場への旅を重ねている。間宮林蔵はサハリンを生涯に二度探検している。一度目は1808年で、松前奉行調役下役元締の松田伝十郎と、東西二手に分かれて北上することになった。サハリン南端のシラヌシでアイヌの従者を雇い、伝十郎は西岸から、林蔵は東岸からサハリンの探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタンまで北上するが、それ以上進むことが困難であった。再び南下し、最狭部であるマーヌイからサハリンを横断して、西岸クシュンナイに出て海岸を北上し、北サハリン西岸ノテトで伝十郎と合流した。サハリン北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見し、その生活の様子を記録に残した。伝十郎と共に北サハリン西岸ラッカに至り、サハリンが島であるという推測を得て、そこに大日本国国境の標柱を建て、1809年7月に宗谷に帰着した。調査報告書を提出し、翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身サハリンへ向かった。林蔵はサハリンにふたたび上陸すると、伝十郎と同じく西岸を進んだ。林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度サハリン西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んだ。黒竜江河口の対岸に位置する北サハリン西岸ナニオーまで到達し、サハリンが半島ではなく島である事を確認した。間宮林蔵と聞けば、大方の日本人は間宮海峡を連想する。北海道の北に浮かぶサハリン島は、江戸時代後期にはまだ島なのかユーラシア大陸と陸続きの半島なのか、はっきりしていなかった。林蔵はイギリスをはじめとする欧州各国の探検家に先駆けて、サハリンが島であることを突き止めた。大陸との境を隔てている海域は間宮海峡と名づけられ、その後、オランダ商館付医官シーボルトによって欧州に伝えられた。ここは現在、大きくはタタール海峡、大陸とサハリン島が最も接近した部分はネベリスコイ海峡と呼ばれている。サハリン島全土がソ連領となったためである。間宮海峡と呼ばれたのは、かつて島の南部が日本領たった1905年から1945年までである。しかし、国が変わり人が変わり地名も変わった。いまや、世界の地図から間宮海峡の名は完全に消えている。日本で発行された地図に辛うじて残るのみである。いや、日本の地図でも、必ず載っているとは限らない。林蔵の探検記”東韃地方紀行”を読み直してみると、イメージがガラリと変わったという。林蔵の探検の真の意義とは何だったのか。謎の多い林蔵の探検を現代人の前に明らかにしようと、著者はみずからの足で、1997年から1998年と2006年の二度にわたって林蔵の行程をたどっている。また、生涯独身を貫いたと言われてきた林蔵に、アイヌの妻と子がいたという驚くべき説にも遭遇した。林蔵の功績に新たな息吹を吹き込むべく、知られざる林蔵の姿を求めて旅に出たのであった。

第1章 探検家の揺りかご
第2章 サハリン追跡
第3章 失われたデレンを求めて
第4章 アムール漂流
第5章 持ち去られた古地図
第6章 血族
エピローグ 旅の途中で

31.平成28年3月5日

 ”失われたものを数えて-書物愛憎”(2011年2月 河出書房新社刊 高田 里惠子著)は、自分の人生を振り返ってかつて文学と書物の世界にあっていまは失われてしまったものをあげている。

 ドイツ文学研究と文献学の盛衰を通じて、近代日本の来し方をたどっている。日本におけるドイツの影響は、哲学、医学や音楽では著しいものがあったが、文学ではさほどではなかったと、ドイツ文学者の富士川英郎は指摘している。ドイツ文学の受容は、内輪の小さなグループで行われてきたのであった。四方田犬彦は、トーマス・マンの”トニオ・クレーゲル”について、かつてある時期までは大学のゼミでもよく知られていたという。高田里惠子氏は、1958年神奈川県生まれ、東京大学大学院独文科博士課程単位取得満期退学、桃山学院大学経営学部助教授を経て、現在教授を務めている。専門はドイツ近代文学で、日本におけるドイツ文学研究とドイツ文学受容の歴史を研究している。日本でのドイツ文学研究のはじまりは、1887年に帝国大学文化大学にドイツ文学科が増設されたことであった。最初の卒業生は、菅 虎雄と藤代禎輔であった。菅 虎雄はのちに一高のドイツ語教師となり、スガトラの愛称で親しまれた。スガトラは優れた書家であり、その洒脱な文人ぶりは芥川龍之介や高見 順などの教え子たちにも高く評価されている。しかし、専門のドイツ文学研究のほうは、いつしか放棄されたようである。気楽な教師稼業を続けながら、ドイツ文学研究を放棄していたことは、誰にも迷惑をかけないどころか、現代の、そう気楽ではないが、ドイツ文学研究者にもひそかな慰めを与えてくれる。丸山政男はスガトラ先生の忠告に従ってドイツ文学科から離れ、東京帝国大学法学部政治学科に進み、日本政治思想史を専攻した。藤代禎輔は大学院に進んで研究を続けて、1907年に帝国大学文化大学の最初の日本人教授となった。最初のお雇い外国人のドイツ文学科教師はエーミール・ハウスクネヒトで、本当の専門は教育学であった。こうして、たかがドイツ文学、されどわれらがドイツ文学の歴史が始まった。かつてドイツ文学研究を支えていて、いまは失われたのは、制度に守られてはいるが不遇であるという、やはりひねくれたとしか形容しようがない自意識の反撥力である。かつて、ゲーテ、シラー、ハンス・カロッサ、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マンなどのドイツ文学の栄光があった。それによって、けっこうな数のドイツ文学研究者が一応、ご飯を食べていけて、相当な量のドイツ文学の翻訳が出版され、何よりそれなりに愛されていた。著者は1980年代はじめ、東大大学院ドイツ文学研究科の面接で、あなたは、これから、いったいどうやって、食べていくつもりかという質問を受けたという。文学で食べてゆくことの難しさは分かっていたが、あえてリスクをとってドイツ文学研究の道に進んだ。先輩からは、文学研究なんて携わるなよという助言があったそうである。助言をした側には誇らかな卑下があり、された側は無用者となってもよいから文学研究をやろうといった反撥力があった。当時はまだ、その度合はいまほど深刻ではなく、ドイツ語・ドイツ文学教員で職を得るのにも需給関係があって、世代によりずいぶん事情を異にしていた。いまの世にドイツ語教員となって糊口をしのごうとするのは、相当に危険である。語学教師のクチにありついて片手間にこなしてゆけば、文学の研究はなんとかなるだろうとの見通しがたつ。しかし、現状は、ドイツ語・ドイツ文学に限らず就職難で、語学教師のクチはすくなく、オーバードクターが社会問題となっている。不入気と就職難がまさしく現実になったいまでは、文学研究なんてものに携わるなよといった先輩たちの優しい助言と誇らかな卑下もその力を失った。これから数えていく失われたものを先に挙げてしまうと、第一章と第四章は文学研究者の変容を、真ん中の第二章と第三章は文学受容者のほうの変化を扱っている。第一章では”自己定義への欲望”、第二章では”女の子の気持ち”、第三章では”寡黙な読者”、第四章では”内輪の世界”、これらが失われたものとして嘆かれ慈しまれつつ考察が進められている。そして、大衆化されたいまの大学でこそ、専門家向けではない教養教育としての文学の力が発揮されるのではないかと、ほのかな希望を見いだしている。

序 章 人生に思い迷いながら
第1章 情熱の嵐とともに
第2章 女の園に迷いこみ
第3章 理科系青年に支えられ
第4章 俗と聖のあいだで
終 章 いつもそばに死が

32.3月12日

 ”[書類・手帳・ノート・ノマド]の文具術”(2011年1月 ダイヤモンド社刊 美崎 栄一郎著)は、趣味のカタログではなくビジネスツールとして文房具を使いこなすための本である。

 身の回りにある何気ないツールでも、使い方やほかのツールとの組み合わせを工夫することで新しい効果を発揮することができる。どんな道具を使うか、道具をどう使うか、オリジナルな活用法を考えるヒントを提唱している。一つ目は新しい道具の可能性である。もう一つは道具の機能である。美崎栄一郎氏は1971年生まれ、大阪府立大学大学院工学研究科を修了後花王に入社し、日用品から化粧品ブランド まで手がけ、プロジェクトリーダーとして自社のリソースと他社とのコラボレーションを推進した。2011年に退社してコンサルタントとなり、社外のビジネスパーソンと勉強会や交流会を開催したり、講演活動を行ったりしている。ノマド=nomadとは、英語で”遊牧民”という意味である。近年、IT機器を駆使して、オフィスだけでなく、様々な場所で仕事をする新しいワークスタイルが広がりを見せている。クラウド・コンピューティングを利用することによって、自宅のパソコンだけでなく、スマートフォンなどを使って、喫茶店や移動の車内などでも仕事のデータにアクセスできるようになった。また、遠く離れた人と意見を交わしたり、様々な情報を手に入れたりすることも、容易になった。一方で、最近の文具はデザインも機能性も抜群になってきている。機能性の高い文具は、近年ますます進化してきている。新しい道具は新しい可能性を引き出す。新しい道具を使えば処理のスピードがアップする。本書は、最近の新しい道具の中から、安くて今すぐ使える165個を厳選し、56のビジネスシーンで、何を使うかどう使うかを紹介している。アスリートが道具にこだわって新記録をたたき出すように、ビジネスパーソンも仕事道具を工夫して、効率をアップさせたり、 楽しんで成果を出すことが可能である。整理・記録・発想から、読書・勉強・ノマドワーキング・ コミュニケーションまで、本当に役立つ活用法を、200点以上の写真や図版によってわかりやすく解説している。道具には複数の機能があり、たとえば、付箋は気になったところに貼ってインデックスとして使用する以外にも、ラベルやToDoリスト、伝言メモなどにも使える。マスキングテープも、もともとは塗装の際に汚れないようにマスクすることが本来の機能であるが、今ではインデックスやラベル、付箋として活用するケースが増えてきている。道具同士を合体させて新しい機能を生み出すのが組み合わせ法、機能を拡張して使いやすさをアレンジするのがカスタマイズ法、 自分だけのオリジナルを作るのが自作法である。付箋やマスキングテープ以外でも、どこにでもある筆記具、クリアホルダー、スタンプ、LEGOなどが、高機能文具へと変身する。また、世の中には見たことのない進化系・多機能文具があり、さらに、何でもない身近な文具もあっと驚く活用法があることを理解できる。

第1章 情報整理の文具術
 書類のたまらないクリアホルダー整理術/クリアホルダーで仕事の一元管理/「看板」ラベリング/多機能なマスキングテープ/生産性を上げる付箋テクニック/付箋を使ったノート見返し術/付箋読書術/オリジナル付箋を作る/付箋の持ち歩き方
第2章 ノートと組み合わせる文具術
 アイコンやタグを付ける/三タイプ別マーキング/快適スクラップ術/ペンを持ち歩く/高機能ペンホルダーを活用する/ノートに何でも挟む/複数のノートを持ち歩く/打ち合わせ内容が自動的に議事録に
第3章 仕事を楽しくする文具術
 記録を楽しむペン/レゴで自作する/オリジナル・スタンプを活用する/一穴パンチ&ハトメパンチでノートをカスタマイズ/進化する多機能消しゴム/プチプチを使い倒す/工夫してモノを覚える/見た目を演出する/iPhoneとiPadにより愛着を持つ
第4章 作業効率をアップさせる文具術
 狭いスペースを活用する/電源ケーブルを整理する/スケジュールを効果的に記入する/手帳にタグを付ける/時間を計り、予想と結果を記録する/身近なもので長さを測る/効率的に計算する/切る機能を最大活用する/ミスせず承認印をもらう/封筒の閉じ方をひと工夫する/めくる・配るを効率化する/守秘情報の廃棄を楽しむ/自宅でも上手に写真を撮る/試験に役立つ筆記具
第5章 いつでもどこでもノマド文具術
 出張の持ち物はペン型に統一する/ノマドワーキングのための充電法/怪我に備える/出張時の疲労回復に/交通費の精算をためない/外出や出張時のレシート管理/通勤電車でストレスなく新聞を読む/カバンの中をきれいに整理して持ち運ぶ/iPhoneとiPadで持ち歩けるもの
第6章 コミュニケーションを円滑にする文具術
 心を動かす伝言の渡し方/やる気になってもらう資料の渡し方/切手を使い分ける/名刺で印象を残す/無理のない名刺管理法/世界でただ一つのオリジナルを作る

33.3月19日

 ”新宿ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン”(2015年4月 小学館刊 石川 拓治著)は、異文化の接合点であり新しい文化の揺り籠であった中村屋サロンと、その創業者相馬愛蔵・黒光夫妻の人間模様を紹介している。

 新宿中村屋は、本格的インドカリーで全国的にも有名である。明治時代末期から大正、昭和初期にかけて、創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとには、多くの芸術家が集い、サロンとして文化を発信していた。作家・臼井吉見が、各地での講演活動の中で、中村屋に多くの芸術家が集い、文人が出入りした様を、まるでヨーロッパのサロンのようだったと表現した。ここに端を発して、いつの間にか、中村屋サロンという言葉が生まれた。石川拓治氏は1961年茨城県水戸市生まれ、早稲田大学法学部卒業のフリーランスライターである。新宿中村屋は、和菓子・洋菓子の他、菓子パン、中華まん、レトルト・缶詰のカレー等を製造販売している他、いわゆるデパ地下やショッピングセンター等に菓子直営店やレストラン直営店を出店している。相馬愛蔵は1870年信濃国安曇郡白金村の農家に生まれ、旧制松本中学を3年で退学し、東京専門学校に入学した。在京中に市ケ谷の牛込教会に通いはじめ、キリスト教に入信し洗礼を受けた。内村鑑三らの教えを受け、田口卯吉と面識を得た。1890年東京専門学校卒業と同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を修めて帰郷し、1891年に蚕種製造を始めた。孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘・星良=相馬黒光と知りあい、1898年に結婚した。黒光は養蚕や農業に携わったが健康を害し、療養のため上京し、以後東京に住み続けた。1901年に文京区本郷の東京大学正門前にあったパン販売店中村屋を夫妻が買い取り、個人経営で創業した。夫婦ともに学校出であったことから、書生パン屋と呼ばれて繁昌した。1904年に、日本で初めてクリームパンを発売した。1909年に新宿に移転し、各種菓子や缶詰等の製造販売も始めた。愛蔵は高給で外国人技師を雇い、次々に新製品を発売した。中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなどである。1927年に喫茶部を開設し、カリーライスとボルシチを売り出した。さらに、店員のマナーやモラル向上のために研成学院を設立した。黒光夫人は、1876年に旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治の三女として仙台に生まれた。少女期より仙台日本基督教会へ通い、キリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。小学校初等科卒業し裁縫学校に進んだが、進学を強く希望し、1891年にミッションスクール宮城女学校に入学した。その後、ストライキ事件に連座して自主退学し、横浜のフェリス英和女学校に転校、さらに1895年に明治女学校に転校した。1897年に同校を卒業し、1898年に相馬愛蔵と結婚した。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの芸術家たちに使わせていた。愛蔵と碌山は同郷で、ともに信州安曇野の人である。愛蔵・黒光夫人と碌山の三人は、互いを大切に思い認め合った。木下尚江などとも交わり、1915年に右翼の重鎮・頭山満の依頼により、インドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースをかくまった。ボースは、インドカリーを誕生させるきっかけとなった。1918年には、長女俊子がボースと結婚した。黒光夫人も荻原碌山のパトロンであり、ロシアの盲詩人ヴァスィリー・エロシェンコの面倒を見、木下尚江と交友するなど、美貌と才気で知られた。エロシェンコは、ボルシチのレシピを伝えた。黒光夫人は、中村屋という文芸サロンの女主人公であった。本書は、中村屋サロンを中心に花開いた芸術と食文化を、愛と情熱に溢れた人間模様とともに描いている。巻頭には、当時の何枚かの貴重な写真が掲載されている。なお、2011年に本店が建替え工事のために休業となり、新宿高野本店内に仮店舗を開設し、2014年に本店がリニューアルオープンした。この新宿中村屋ビル3階に中村屋サロン美術館が開設されている。

第1章 士族の花嫁
第2章 書生パン屋
第3章 彫刻家の誕生
第4章 サロンの人々
終章 古き良き時代

34.3月26日

 ”クレタ島”(2016年2月 白水社刊 ジャン・テュラール著 幸田礼雅訳)は、クレタ島について古代ミノア文明から第二次世界大戦までの波乱に富んだ歴史を紹介している。

 クレタ島は、ギリシア共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島である。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持ち、温暖な気候や自然の景観から地中海の代表的な観光地である。島全体でギリシア共和国の広域自治体の地方を構成しており、首府はイラクリオである。ジャン・テュラール氏は1933年生まれのフランス近代史を専門とする歴史家で、幸田礼雅氏は1939年生まれで1966年東京大学仏文科卒業の翻訳家である。クレタ島はヨーロッパ、アジア、アフリカの三つの大陸から等距離にある島で、古代ギリシア・ローマ文明においては世界の中心と考えられていた。島国的特性をもった島がクレタ島であり、その制限的な特性こそがさまざまなドラマか生まれる原因となった。船を迎え入れる海岸、実り豊かな平野、避難場所としての山の三つの地理的環境が、クレタの歴史を動かすと同時にその秘密を明かす。伝説の霧に包まれたクレタ島の過去は、長いあいだ神秘であった。19世紀終わりまで、人びとはクレタ島の歴史をドーリア人の侵入以後、しかもアリストテレスが島によせた関心の度合いに応じて学んだにすぎなかった。島で生まれた素晴らしい神話は、当時、無価値なおとぎ話の寄せ集めとしかみなされていなかった。20世紀の初め、アーサー・エヴァンズの考古学的発見によって、伝説に符合するような一つの文明がクノッソスに存在したことか明らかとなった。この文明は、島の強力な支配者だったミノス王をたたえてミノア文明と命名された。以来ギリシアの起源は新たな光で解明され、クレタ人が果たした先駆的役割が明らかになっていった。とはいえ、クレタの歴史はいまなお数多くの闇に包まれている。ミノス伝説はある意味で史実に対応し、クレタ時代におけるミノアの海上制覇を象徴するものであった。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。紀元前27年に、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置した。ローマ帝国の東西分裂後は、東ローマ帝国が領有を継承した。5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まる。7世紀末から8世紀に、クリトのアンドレイが主教を務めた。824年に、イベリアのイスラム教徒が侵入した。カンディアを建設し、クレタ首長国の首都とした。以降は、東ローマ帝国による奪還まで、東地中海で略奪を働く海賊の拠点となった。961年に、東ローマ帝国が奪回した。1204年に、十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服され、ルネサンス文化が伝えられた。1348年にペストが大流行し、以降もたびたび大流行し、人口が流出したり減少したりした。1492年に、スペインのレコンキスタから逃れてきたユダヤ人がクレタ島に流入した。1574年に、ジャコモ・フォスカリーニによる非カトリック住民への圧政が始まった。1644年から1669年にかけて、オスマン帝国がクレタ島の領有権をめぐって争い、結果的にオスマン帝国領となった。オスマン帝国とギリシアの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けた。1830年のロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプトに移された。以降、クレタ州成立までキリスト教徒による反乱が散発し、1840年にオスマン帝国に戻された。1913年に第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄しギリシア領となった。1936年にギリシア本土のクーデターに反抗し暴動が発生し、戒厳令が敷かれた。1941年に、第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐し、本土がドイツ軍に占拠されたため、国王、首相がクレタに避難した。その後ドイツ軍はクレタにも進軍し、国王と首相はカイロに逃れた。ドイツ軍の駐留は第二次大戦終了まで続き、ドイツ降伏後はギリシアに支配権が戻った。

第一部 古代のクレタ島
 第一章 ミノス王のクレタ島の発見
 第二章 ミノア時代の諸段階
 第三章 ミノア時代における制度
 第四章 ミノア時代の社会組織の変化と経済活動
 第五章 ミノス王時代の宗教
 第六章 ミノア芸術
 第七章 ミュケナイ文明とドーリア人の貢献
 第八章 古典主義時代ならびにヘレニズム時代のクレタ島
 第九章 ローマの平和
第二部 近代のクレタ島
 第一章 ビザンティン時代のクレタ島
 第二章 クレタとヴェネツィア共和国
 第三章 クレタとトルコ
 第四章 クレタとギリシア

35.平成28年4月2日

 ”東京鉄道遺産100選”(2015年8月 中央公論新社刊 内田 宗治著)は、東京に残る貴重な100の歴史的鉄道遺産を精選して写真とともに紹介している。

 誰でも知っている東京駅舎だけでなく、誰も知らないような各地の煉瓦橋、絶滅寸前のホームなど、今でも見られる貴重な土木・建築遺産や現役車両が見られるという。内田宗治氏は1957年東京生まれ、早稲田大学文学部卒業、実業之日本社で旅行ガイドブックの編集長を務めた後、フリーライターになった。近年、ユネスコの世界遺産が知られるようになってから、近代化遺産や戦争遺産、土木遺産などの言葉が数多く使われるようになった。鉄道遺産もその一つである。鉄道遺産という言葉は趣味の世界でよく使われる用語であり、正確な定義は存在しない。重要文化財としては、都内では、東京駅丸ノ内本屋があげられる。そのほか、碓氷峠鉄道施設、門司港駅駅舎など全国で10施設ほどが指定されている。鉄道関連の物件で国宝に指定されているものはない。登録有形文化財は、鉄道関係のものでは全国で150近くの物件が登録されているものの、都内には登録物件がない。都内には登録有形文化財とされてもおかしくない鉄道施設はたくさんあるが、届出制なので申し出るものがいなければ登録されないためである。旧国鉄時代からの鉄道記念物、準鉄道記念物というものもあり、全国で100件近くが指定されている。本書では、鉄道遺産を、歴史的に価値があるので見ておきたい施設や線路跡、なんとなく懐かしい気持ちになるので残したい施設や線路跡といった視点で選んでみたという。

第1章 江戸時代との出会い
 旧御所トンネル/新御所トンネルと四ツ谷駅旧御所前口の階段/四ツ谷駅構内の四谷見附橋煉瓦積み橋台/旧牛込駅遺構/御茶ノ水駅ホームと聖橋/中央線三鷹駅下、玉川上水煉瓦アーチ橋/めがね橋跡モニュタントと跨線樋/小川用水が下を横切る西武多摩湖線青梅街道駅ホーム/中央線高尾の両界橋脇煉瓦アーチ橋
第2章 煉瓦建築時代の鉄道遺産
 昌平橋駅跡/昌平橋架遺橋/田旧万世橋駅/万世橋架道橋/国新銭座町架道橋/源助橋架遺橋付近の橋台群と通路/第一有楽町高架橋/有楽町中央口架道橋/鍛冶橋架道橋/東京駅赤煉瓦駅舎/中央線多摩川橋梁/立川-日野間の日野煉瓦橋台群/中央線第二石曽根川橋梁/中央線第二浅川架遺橋/小仏トンネル排煙設備跡/越中島支線小名本川橋梁/越中島支線亀戸-小名木川間の煉瓦積み橋台群/第三三ノ輪架道橋/道濯山トンネルの遺構
第3章 多摩川砂利でのコンクリート都市建設
 東急砧線廃線跡/玉電渋谷駅跡/旧下河原線廃線跡/青梅鉄道福生支線廃線跡/第二小柳町橋高架橋など/中央線外濠(日本橋川)橋梁/第一御徒町高架橋など/旅籠町高架橋など/松任町架道稿/秋葉原駅エスカレータ跡/二俣尾駅専用線跡/奥多摩駅石灰石積み込み場跡/青梅線大丹波川橋梁/青梅線奥沢橋梁/旧羽村山口軽便鉄道のトンネル群
第4章 軍用線と戦災
 束京陸軍超兵廠電気軌道跡/陸軍兵器補給廠引込線跡/立川飛行機砂川工場引込線跡/
陸軍航空工廠引込線跡/中島飛行機武蔵製作所引込線跡/中島航空金属引込線跡/湯の花トンネル列車銃撃遭難者慰雲の碑/中央線高尾ホーム柱の弾跡/八高線多摩川橋梁脇の堤防に保存された車輪
第5章 都電と地下鉄、都市のインフラ
 三ノ輪橋停留所と旧王電ビル/都電のタマネギ型装飾付き架線柱/都電おもいで広場の車両/路面電車(軌道)の特徴をもつ東急世田谷線/勝鬨橋の都電架線柱の遺構/都電38系統(旧城東電気軌道)跡/歌舞伎町一丁目の四季の路(都電大久保車車線跡)/上智大学グラウンド横の専用軌道跡/地下鉄博物館の車内/地下鉄銀座線の鉄構框/幻の地下鉄新橋駅ホーム/東京都水道局専用線(小河内ダム建設線)廃線跡/旧東京都港湾局専用線の晴海橋梁/京玉線仙川-調布間の廃線跡
第6章 駅舎と駅の施設
 上野駅舎/両国駅舎/原宿駅舎/原宿駅臨時ホーム/原宿駅皇室専用ホーム/日野駅舎/高尾駅舎/青梅駅舎/奥多摩駅舎/浅草駅ビル/東武伊勢崎線隅田川橋梁/田園調布駅舎(復元)/旧博物館動物園駅出入口/旧新橋停車場跡/東京駅五番・六番ホーム(旧第二乗降場)の装飾付き架線柱とビーム/ベールに包まれた東京駅赤煉瓦地下通路/水道橋駅ホーム上屋の古レール架構群/山手線複々線線路を一跨ぎにする池上線五反田駅ホーム
/新橋駅などの煉瓦積みホーム/一橋学園駅などの構内踏切/旗の台駅などの数十人が並んで座れる平板腰掛け
第7章 現役列車と保存車両
 国鉄色の電車/客車の推進回送/吊り掛けモーター音を唸らせて走る都電荒川線車両/都心(山手線)を走る貨物列車/全国でも今や珍しい石炭輸送貨物列車/貨物専用の新金貨物線列車/二三区内で唯一非電化の貨物専用線の列車、越中島支線/泰緬鉄道から帰還した蒸気機関車C5631号機/東武1720系デラックスロマンスカーなど東武博物館の車両/ひかりプラザの新幹線951形電車/青梅鉄道公園の新幹線0系車両/東京駅新幹線記念碑と同建設記念碑

36.4月9日

 ”花森安治の仕事”(2013年9月 暮らしの手帖社刊 酒井 寛著)は、花森安治生誕100年を記念して出版された 暮しの手帖の初代編集長としての編集者人生を時代を追って紹介している。

 創刊より30年間編集長をつとめ名編集長と呼ばれた、花森安治の生き方や仕事ぶりを、友人や編集部員から取材し、たくさんの証言や資料から、ジャーナリストの人物像を洗い出している。装画は安野光雅氏、題字は大橋鎭子氏が担当した。酒井 寛氏は1953年東京大学文学部社会学科卒業、朝日新聞入社、仙台支局、東京本社学芸部をへて編集委員を務め、本書で第37回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。花森安治は1911年兵庫県神戸市に生まれ、神戸市立雲中小学校を出て、旧制兵庫県立第三神戸中学校から旧制松江高等学校に進んだ。小学校の同級に田宮虎彦がいた。旧制高校時代に校友会雑誌の編集に参加したことが、編集者としての出発点になったと語っている。その後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集に携わった。当時の編集部員には、扇谷正造、岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。東京帝国大学卒業後、伊東胡蝶園、のちのパピリオ宣伝部に入社、広告デザインに携わった。1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き文字で顧客に語りかける、個性的なスタイルを確立させている。太平洋戦争に応召するが、疾病により除隊し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わった。終戦後の1946年、編集者・画家の大橋鎭子社長と共に衣装研究所を設立し、雑誌”スタイルブック”を創刊した。1948年に、生活雑誌”美しい暮しの手帖”後に”暮しの手帖”に改題を創刊した。1951年には、会社を暮しの手帖社と改称した。人のやらないことをやれと言い、みずから商品テストの先駆者になった。生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌であった。人様が命がけで作っているものを批評するのだから、商品テストは命がけだ、と編集部員を叱咤した。商品テストは、かぞえる、はかる、くりかえす、やりなおす、という、しろうとの愚直な実証主義の積み重ねだった。その上で、商品の、いい、わるいを、はっきり書いた。中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に今日まで発行されている。編集長・花森安治はなんでもできた。衣も食も住も、それに写真も絵も文章も、その編集も広告も、自分の手でやった。なんでもできたから、思うぞんぶん仕事をした。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の2日前まで第一線で編集に当たった。表紙画は、創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森安治の手によるものである。”写真帳から”には、花森安治の仕事ぶりが、いろいろな写真とともに紹介されている。”一銭五厘の気概”には、わずか一銭五厘の召集令状で集めることができるほど価値の軽い、兵隊の命について触れている。教育掛りの軍曹が突如としてどなった、貴様らの代りは一銭五厘で来る、軍馬はそうはいかんぞ。聞いたとたんあっ気にとられた。しばらくしてむらむらと腹が立った。しかし、いくら腹が立ってもどうすることもできなかった。そうかぼくらは一銭五厘か、そうだったのか。

編集長の二十四時間
伝説の人/暮しの手帖研究室/おかずの学校/三つの机/編集会議/編集部員/陽性の癇癪もち/花森の文章哲学/「手帖通信」/しかられた社長
大学卒業まで
生い立ち/松江高校時代/「帝国大学新聞社」時代/「パピリオ」時代
大政翼賛会のころ
大政翼賛会宣伝部/幻のポスター/報道技術研究会/「欲しがりません勝つまでは」/庶民感覚のなんでも屋/宝塚歌劇/もうひとつの見方/戦後への屈折
「手帖」創刊の前後
女の役に立つ出版/ベストセラー「スタイルブック」/「美しい暮しの手帖」へ/「一流の偉い先生」が執筆者/広告収入のない雑誌/スカート神話の虚実/編集も行商も/三羽烏の交友
商品テストへの挑戦
前人未到の分野へ/象徴ブルーフレーム/しろうとが編み出したテスト方法/三種の神器のテスト/完全主義のテスト/アメリカ製品の凋落/「コンシューマー・レポート」の教訓/花森の性格と商品テスト/「水かけ論争」の勝利
写真帖から
一銭五厘の気概
戦争についての発言/一銭五厘の旗/死の予兆/花森安治の遺産

37.4月16日

 ”平泉の光芒”(2015年7月 吉川弘文館刊 柳原 敏昭編)は、東北の中世史について藤原氏の三代の栄華と滅亡を中心に世界遺産の平泉文化と義経の最期を紹介している。
 
 日本初の武士の都であり仏教文化が栄えた世界遺産の平泉を中心に、藤原氏三代による清衡の草創、基衡の苦悩、秀衡の革新、その後の滅亡への実像に迫っている。柳原敏昭氏は1961年新潟県生まれ、1984年東北大学文学部卒業、1990年東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退で、東北大学大学院文学研究科教授を務めている。平泉は岩手県南西部にある古くからの地名であり、現在の平泉町の中心部にあたる。地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日にユネスコの世界遺産リストに登録された。平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していた。俘囚の流れを汲む、東北地方の先住民系の豪族であった。安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前九年の役である。大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏の加勢を得ることに成功した源頼義が勝利した。1062年安倍氏は滅亡したが、安倍頼時の外孫の藤原経清の息子が清原武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。1083年に清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡と清衡、そして異父弟の清原家衡との間に内紛が発生した。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清衡側について家衡を討ったのが後三年の役である。真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる1189年までの間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を振るった。藤原清衡は陸奥押領使となり、奥六郡を支配した。後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、更に南下の勢いを見せ、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築いた。1105年に中尊寺一山の造営に着手し、本拠地を平泉に移し、政庁となる平泉館を建造した。戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善と、造寺造仏、写経の功徳により、極楽往生を願って中尊寺を建立した。中尊寺を構成するのは、寺塔40余宇禅坊300余宇の大伽藍群であった。1124年に金色堂が完成し、その4年後に73歳で生涯を閉じた。藤原基衡は陸奥押領使となり、勢力を福島県下まで拡大した。中尊寺をはるかに凌ぐ、40十余宇、禅坊500余宇の大伽藍毛越寺を建立した。藤原秀衡は鎮守府将軍に任ぜられ陸奥守になって、白河以北を完全に支配した。源義経を、少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護した。奥州藤原氏は4代泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされたが、平泉の建造物群については保護された。金色堂中央の須弥壇の中に、清衡、基衡、秀衡の遺骸、泰衡の首級が納められている。清衡と彼の時代をあつかうのが第一章「清衡の草創」である。平泉藤原氏第二代・基衡とその時代は第二章「基衡の苦悩」で描かれる。第三章「秀衡の革新」で扱う第三代・秀衡の時代は、まさに平泉と藤原氏の最盛期である。第四代・泰衡の時代に平泉藤原氏は滅亡する。第四章は掘り出された平泉、第五章平泉文化の歴史的意義、第六章東アジア・列島のなかの平泉は特論にあたる。

序 “平泉”とは何か
第一章 清衡の草創
第二章 基衡の苦悩
第三章 秀衡の革新
第四章 掘り出された平泉
第五章 平泉文化の歴史的意義
第六章 東アジア・列島のなかの平泉
第七章 奥州合戦

38.4月23日

 ”三蔵法師の歩いた道-巡歴の地図をたどる旅”(2004年3月 青春出版社刊 長澤 和俊著)は、七世紀に中国からインドに往還し新しい仏教の教えを中国に伝来させた入竺僧玄奘三蔵の生涯を紹介している。

 古代、中世の頃、はるばる中国からインドに行き、各地の仏跡を見学し、経典を集め、広く仏教を学んできた人を入竺求法僧という。有名な小説”西遊記”のなかで、三蔵法師は孫悟空や猪八戒を連れて天竺まで危難と冒険の旅をした。この入竺求法僧の三蔵法師とは、実在の玄奘三蔵のことである。玄奘三蔵は、中国や日本の仏教に大きな影響を与えた。たとえば、有名な奈良の薬師寺や京都の清水寺の宗派は法相宗である。法相宗のもとは玄奘三蔵がはるばるインドのナーランダで戒賢法師から学び、”成唯識論”をはじめ、多くの経典をもち帰って漢訳したことにはじまる。薬師寺や清水寺にとって、玄奘三蔵は、きわめて重要な宗祖にあたる人である。長沢和俊氏は1928年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士で、執筆当時、早稲田大学名誉教授であった。日中共同楼蘭探検隊、ニヤ遺址調査隊の参加を含め、シルクロード方面において60回以上もの現地調査・旅行を行った。玄奘三蔵は、602年に洛陽近い町で陳慧の4男として生まれた。母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。玄奘は戒名であり、俗名は陳?=チンイ、諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵などである。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。幼児から聡明で、8歳の時の逸話で神童ぶりが評判となった。10歳で父を亡くし、兄の長捷が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのをきっかけに浄土寺に学んだ。13歳で出家し、その類い稀なる才能と深い学識によって名声を博した。17歳のとき、隋が衰え洛陽の情勢が不安定になり、兄とともに長安の荘厳寺へ移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、名僧たちが主に益州に散らばっていることを知り、益州巡りを志して兄と共に成都へと至った。21歳のとき、成都で具足戒を受けた。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになった。玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州や長安の大覚寺で学んだ。玄奘は国内で仏教を学ぶことの限界も感じ、629年27歳のとき、正式な出国許可のないままインドへ向けて求法の旅に出た。当時は、敦煌の西およそ100kmの玉門関以西の往来が禁じられていたため、国法を犯しての旅であった。役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至り、高昌王から金銭面な援助を得た。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。その旅は前後17年におよび、タクラマカン沙漠やカラコルム山脈、パミール高原を踏破しての長い苦しい旅であった。ここをたったひとりで往返するのは、たいへんな大旅行であったと推察される。こうして巡礼や仏教研究を行い、645年に経典657部や仏像などを持って帰還した。玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価した。16年前の密出国の件について、玄奘が罪を問われることはなかった。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌”大唐西域記”として著し、これが後に伝奇小説”西遊記”の基ともなった。664年に、玄奘は経典群の中で最も重要とされる”大般若経”の翻訳を完成させ、その100日後に亡くなった。

序 章 なぜ玄奘三蔵は天竺を目指したのか
第1章 仏法を求めてひとり西域へ
第2章 『慈恩伝』と玄奘の歩いた道
第3章 聖跡ガンダーラに思いを刻む
第4章 釈尊成道の地で教義を究める
第5章 偉大なる経典翻訳に成功ーそして、日本に渡来した玄奘の遺骨

39.平成28年5月7日

 ”お七火事の謎を解く”(2001年8月 教育出版社刊 黒木 喬昭編)は、わずかに残った資料を読み込んで、歌舞伎や浄瑠璃で有名なお七の実像に迫ろうとしている。

 八百屋お七と聞くと、火の見櫓の場面を思い浮かべる。櫓には太鼓が吊してあり、上にいるお七は瀬川菊之丞や中村芝翫などの歌舞伎の名女形である。櫓の下では町火消の扮装をした男優が大見得を切っている。最初にお七について触れられたのは、戸田茂睡の”御当代記”である。天和3年の記録に、”駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也”と記録されている。作者不明の”天和笑委集”では、全13章のうち第11章から第13章で語られている。馬場文耕の”近世江都著聞集”では、11巻46ページのなかで1巻目と2巻目の計8ページで扱われている。歌舞伎や浄瑠璃で作られたお七の虚像を除去していくと、あとにはあいまい模糊たる深い霧しか残らない。その霧を払い、真実を求める手掛りは300年以上も時を隔てた現在、ほとんど無きに等しい。黒木 喬氏は1933年東京都生まれ、東京学芸大学卒業、江戸時代の災害史についての研究家である。お七が生きた江戸という都市環境、そこに住む人々の生活を左右した政治、後世お七を有名にした大火など、側面からその時代を浮き彫りにしつつ、八百屋お七の謎に迫ってみたという。元禄期の災害に言及しながら、江戸の防火対策の実態を紹介し、災害史としての役割も補完している。旧暦天和2年12月28日=新暦1683年1月25日に、駒込の大円寺から火が出て正午ごろから翌朝5時ごろまで延焼し続けた天和の大火が発生した。死者は最大3500名余と推定され、お七火事とも称されている。しかし、八百屋お七はこの火事の被害者であり、この火事で八百屋お七は放火したわけではない。焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、檀那寺に避難した。避難先の生活の中で、八百屋の娘のお七は寺の小姓と恋仲になった。やがて店が再建され、お七一家はその寺を引き払ったが、お七の寺小姓への想いは募るばかりであった。そこで、もう一度火事が起きたらまた同じように寺にいけるかもしれない、と寺小姓に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられたという。1686年に発刊された井原西鶴の”好色五人女”では、”恋草からげし八百屋物語”として取り上げられている。雪の降りしきるなかをお七が振袖をなびかせながら人形振りで櫓を登って行く場面は、安永ごろから演じられたらしい。しかし、火事でもないのに櫓の太鼓を叩くのは当時は重罪であった。幕府の規制がゆるんで、はじめて火災とお七の櫓登りが結びついた版画が現れた。なかでも、大蘇芳年が1885年に製作した”松竹梅湯島掛額”は版画を二枚継ぎした傑作である。降りかかる火の粉のなか、黒塗りの火の見櫓に、右下から左上に斜めに掛けられた竹梯子を振袖のお七が登って行く。下からは橙色の火焔が燃えあがり、紫もようの振袖や紅の下着がひるがえり、ふりむいた白い顔や、むき出しの脛が美しい。遠景には黒々とした町家の屋根があり、その下に広がる橙色が火事の大きさを暗示している。お七の足元の屋根には、刺子の防火衣を着た町火消二人が纏を持ってうしろ向きに立っている。念のために纏を調べてみると、右からは組・わ組・か組であった。だが、芳年の筆は史実を踏まえながら、八百屋お七の放火事件を迫力ある画面に仕立てているように見える。芳年の絵は絵空事なのである。八百屋お七の時代に、江戸市街の中心から離れた湯島に瓦屋根や土蔵造りの商家などは並んでいなかったし、町内に立派な火の見櫓も建ってはいなかった。町火消いろは組も存在していなかった。第一、お七が火の見櫓に登った事実もない。井原西鶴のお七の挿し絵の服装は、芳年の絵とはずいぶん違っている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語は、その後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽、日本舞踊、小説、落語、映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲など、さまざまな形で取り上げられた。後年の作家は、さまざまな想像を働かせている。八百屋お七の謎を解くには、当時の時代背景を知る必要があるという。

1 江戸繁昌記
2 天和の治
3 天和の大火
4 謎解きお七火事
5 元禄の防火と火災
付 天和の大火罹災大名表/江戸災害関係略年表/参考資料

40.5月14日

 ”スペイン内戦-政治と人間の未完のドラマ”(2003年7月 講談社刊 川成 洋著)は、ファシズム台頭への不安、共産主義革命への期待の中、1936年にクーデターに端を発して勃発したスペイン内戦の一部始終を紹介している。

 スペイン内戦は、第二共和政期のスペインで勃発した内戦である。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。川成 洋氏は1942年北海道生まれ、1966年に北海道大学文学部を卒業し、1969年東京都立大学英文学専攻大学院修士課程修了、ロンドン大学・ケンブリッジ大学客員研究員を経て、1977年より法政大学教授を務めた。2003年に社会学博士号取得、2013年に定年となり名誉教授、専門は、スペイン現代史、現代英文学である。1988年10月に、バルセロナで国際旅団の解散50周年を記念したイベントが聞かれた。バルセロナ北部の公園の一隅に、12メートルの抽象的な像が建っている。国際旅団の英雄的な戦いを記念する、ダビデとゴリアテの像である。会場には、500席くらいの椅子が並べられ、参加者はおそらくその倍くらいであった。まず、今は亡き共和国の指導者、国際旅団の義勇兵たちへの追悼の辞が述べられ、92歳のスペイン共産党議長ドロレス・イバルリの歓迎の辞が代読された。続いて、各国の国際旅団の代表者が力強く短い演説をした。最後に、バルセロナ市長パスカル・マラガルの手によって、記念碑の除幕が行なわれた。第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上、カタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行しスペイン第二共和政が成立した。しかし、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立が続いた。1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換した。その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャを大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガを首相とする人民戦線政府が成立した。しかし、人民戦線も議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではなかった。スペイン内戦は、スペイン陸軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。内戦中、政府側の共和国派の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、西欧諸国の個人から多くの義勇兵を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。国家間の貪欲なエゴが展開される中、55ヵ国4万人におよぶ海外からの大量の義勇兵が苛酷極まる闘いに身を投じた。国際旅団は、スペイン内戦の際にスペイン共和国政府により編成された外国人義勇兵による部隊である。マドリード防衛戦、ハラマ川の戦いなどで、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍や、同じく義勇軍を称していたドイツ軍・イタリア軍と戦った。部隊には延べ6万人の男女が参加し、うち1万人以上が戦死した。総参加者の内60-85%が各国の共産党員であり、また参加者の社会階層としては知識人や学生が20%、労働者が80%であった。マルローやヘミングウェイなどの文化人が指導的立場にあった。実態はコミンテルン主導の派遣軍であり、第二次世界大戦の前哨戦としての側面を強く象徴する集団であった。1937年に入って戦況が悪化し、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍がドイツ・イタリアに支援されて首都マドリードに迫ると、コミンテルンの決議により、外国人による部隊の編成が行われることとなった。この年、パブロ・ピカソがビスカヤ県ゲルニカの都市無差別爆撃を主題に絵画や壁画を描いた。また、ジャック白井という日本人がブルネテの戦いで戦死している。途中から、共産党員以外は共和国政府による粛清の対象となり投獄されたり射殺されたりしたため、結果的に、共産党員だけが最後まで参加したことになる。カタルーニャからは、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出た。その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領された。第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。共和国政府はスペイン共和国亡命政府として、メキシコ、次いでパリにて存続した。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレスが政府の解消を宣言し、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。

1もう一つのオリンピック/2国際義勇軍部隊の誕生/3第五連隊の創設/4緒戦の推移/5スペイン不干渉委員会/6ピレネーを越えて/7革命の都市、バルセロナ/8国際旅団の誕生/9初陣-マドリード防衛戦/10後続の国際旅団の誕生/11ハラマ河の戦闘/12グアダラハラの戦闘/13ゲルニカ/14国際旅団の休息/15バルセロナの市街戦/16ブルネテの戦闘/17唯一の日本人義勇兵の戦死/18テルエルの攻防戦/19エブロ河の決戦/20国際旅団の解散、帰国または亡命/21スペイン内戦の終結/22第二次大戦と元義勇兵たち/23第二次大戦以降-アメリカとイギリスを中心にして

41.5月21日

 ”養老院より大学院”(2007年9月 講談社刊 内館 牧子編)は、売れっ子脚本家で人生出たとこ勝負を座右の銘にする著者の大学院の入試から修了までの再学生生活を紹介している。

 年齢と共に、月日のたつのが速く感じられると言うがその通りである。思い返すと、中学や高校の三年間に比べ、大学院の三年間はアッと言う間で速かった。今となっては実感がわかないほどの速さだった、という。内館牧子氏は、1948年秋田県秋田市生まれで、岩手県盛岡市生まれの父親は冷蔵会社のサラリーマンだったため、転勤で4歳から新潟県、小学校3年から東京都大田区で育った。幼い頃はいじめられっ子であったが、自身を助けてくれた男の子が大きな体を持っていたことから、体の大きな男の子は優しいのだという意識が刷り込まれた。これが、大相撲に興味を持つきっかけとなった。東京都立田園調布高等学校を経て、1970年に武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科を卒業し、三菱重工業に入社し横浜製作所に勤務した。そして、1987年に脚本家としてデビューし、NHK連続テレビ小説や大河ドラマなどを手掛けた。一般には、横綱審議委員会委員を務めたことで知られ、2000年9月から時津風理事長の任命により女性唯一のメンバーとして約10年間活動した。2003年に大相撲研究のため東北大学大学院社会人特別選抜を受験し合格、2006年3月修了して宗教学修士号を取得した。神事としてみた相撲を研究テーマに、宗教学を専攻した。2006年には、修士論文を”女はなぜ土俵にあがれないのか”として刊行した。2005年より東北大学相撲部監督に招聘され、2006年より秋田経済法科大学、現・ノースアジア大学客員教授、2007年より武蔵野美術大学映像学科客員教授として、シナリオ制作の実習授業を担当した。その後、東日本大震災復興構想会議委員、東京都教育委員会委員を務めた。東北大学大学院の修士課程を修了してから、テレビドラマの現場に戻り、社会人として会議や打合せ、〆切や視聴率などの渦の中に戻った。深夜、テレビ局から帰る車窓から六本木ヒルズを眺めていたりすると、杜の都仙台で大学院生だった日々は夢だったのではないかと思うことがあるそうである。年齢を重ねてからの時間は、まさに矢の如しに疾走する。生き生きと生きても、死んだように生きても、時間は同じように疾走する。そうであればこそ、あの3年間を送ることを決断した自分は慧眼だったと自画自賛したくなる、という。二月の雪、三月の風、四月の雨が、輝く五月を作る。定年を控える年代は、輝く五月に突入しようとする年代ではないか。ここに至るまでの人生には、雪も風も雨もあったはずだ。それらはつらく、苦しいことの積み重ねだったろう。しかし、それはすべて、輝く五月を作るために必要なものであったのだ。再び学校に行き再び学ぶということは、輝く五月をさらに艶やかなものにしてくれるのは間違いない。大学院での講義は面白く、研究指導の教授たちには人間的な味わいがある。大学院生たちは、マスコミで知るのとは異なる若者たちであった。仲間たちとの屈折した交流や、四季折々に豊かな表情をみせる仙台の魅力の数々などが語られている。3年間の大学院生生活で失ったものは、結局は何もなかった。得たものは、相撲史と大相撲の面白さ、魅力を一人でも多くの人に伝えたいというライフワークが決まったことである。いつか博士課程でも学ぼうという、未来へ向けての展望もできた。大学院に行くことだけが勉強ではなく、専門学校やカルチャーセンターでもかなり内容の濃い、レベルの高い講座もある。どんな考えであれ、ぜひ社会人入学をお勧めする、とのことである。社会人にとって、学び直すことと学生生活は、間違いなくスーパー痛快活劇である。

第1章 受験を決めた本当の理由
第2章 入学試験は難しかった
第3章 見渡す限りの十八歳
第4章 予想外の厳しさに焦る
第5章 「非日常」に若返る社会人
第6章 得たもの失ったもの
第7章 大学院を修了した今

42.5月28日

 ”カナダを耕した家族の物語-ヨーロッパから、そして日本から”(2014年7月 叢文社刊 末永 和子著)は、インタビューと実地調査に7年を費やしてまとめられたカナダ移民の4家族の歴史である。

 カナダは移民からなる若い国である。多文化主義、モザイク国家といわれ、200以上の民族が共に暮らすこの国では、一歩外に出ると様々な顔立ちの人々とすれ違い、聞こえて来る彼等の話し言葉も異なる。末永和子氏は鳥取県出身、駒澤大学文学部卒業、駒澤大学同窓会派遣講師として、1992年から2013年までカナダ渡航をつづけ、その間、1998年から2000年までバンクーバーに居住した。日本から見たカナダのイメージは、カナディアン・ロッキー、ナイアガラの滝、赤毛のアンなどに代表されるであろう。家族とともに初めてカナダの地に降り立った1992年以来、カナダとのつながりができ、日本との往来が始まった。その中でも、バンクーバーで暮らした1998年からの2年半の間には、カナダ人との何気ない会話の中で移民の話を聞く機会が幾度となくあった。日系移民とヨーロッパからの移民、それぞれが踏んだカナダヘの定着の過程を追い、日系移民がいかに過酷な日々を送ったか、ヨーロッパからの人々の暮らしはどうであったか、などを比較してみたいと思ったという。どの家族にスポットライトを当てるかという点では、家系を深掘りすることになるので、スムーズには行かなかった。あっさりと断られたフランス系の子孫もいる。台湾で財をなし、多額の現金をカナダに持ち込む企業移民になって近年移住して来た家族の例では、聴取の終盤まで来たところで断念せざるを得なかった。語り部としての当人に、自分史としてまとめたい意欲が出て来たためである。今回、ポーランド移民1・ベルギー移民1・日本移民2の4家族から承諾を得て、日本とカナダを行き来しながら聴き取り調査を開始した。最初に、ポーランドからの移民である、ロザリア・クリロ90歳は、ロージーの愛称で呼ばれている。ウィテク一家の長女で、1930年当時、父親マイケル・ウィテクは43歳、妻アンナは38歳、長女ロザリアは11歳、長男ジョンは9歳、二男ジョゼフが4歳であった。アルバータ州マグノリアに、安くて広い土地が手に入ると期待してポーランドからカナダへやって来た。しかし、手持ちのお金で借り得たのは木が鬱蒼と茂った土地と、電気も水道もない丸太小屋だった。ここでは、ロージーの90年の生活を中心に紹介されている。夫はジョゼフ・クリロといい、夫との出会いと結婚、子供の誕生、母と子の宿命、ポーランドとの交流、そして晩年が語られている。次に、ベルギーからの移民である。リリアン・キャンベル89歳はカウチー一家の一員である。カナダに移住したのは祖父のグスタフで、ベルギーでコックになり、その後、グレインの町で妻のエロイーズとカフェバーを経営していた。しかし、カナダの国土の広さと自由に憧れ、若い国に対する期待もあり1908年に移住した。当時、リリアンの父オスカーは、まだ8歳であった。一家は、アルバータ州南部クローズネスト・パスの小さな町ブレイモアに落ち着いた。グスタフは鉱山で働きはじめ、オスカーはこの町の学校に通った。1913年にマールボロへ移り、ささやかな農業をする傍ら、グスタフと13歳のオスカーはセメント工場で働いた。1920年にオスカーは兵役に就くことになり、ベルギーに戻った。兵役を終えた後、ベルギーで妻ダイナと結婚し、再びカナダに戻りエドモントン市のスタイアルに落ち着いた。そして、1924年にリリアンが生まれた。それから、農地の開拓に精を出した。リリアンは、家の手伝いをして、学校に通い、教師になった。教師生活は1944年から1987年まで続いた。いまは、バンクーバー悠々自適の生活を行い、近くに娘のデニーズ一家が暮らしている。ほかに、滋賀県出身者と静岡県出身者の2家族のことが語られている。滋賀県出身者は、藤田春太郎、たみ子夫妻と娘のひろ子である。最初の移住者は祖父の勘次郎で、子供5人を日本に残して、1891年に単身でカナダに渡った。父新太郎は1888年生まれで、勘次郎の二男である。1913年に祖父の呼び寄せによってカナダへ移住した。春太郎は1913年彦根市生まれで、彦根の自宅を白壁の家に塗り替えることを夢見て、1927年に14歳で父の呼び寄せによってカナダへ移住した。たみ子は1918年彦根市生まれで、丸菱百貨店に勤務していた。春太郎との結婚によって、1937年に太平洋を渡った。藤田夫婦はアルバータ州レイモンドで小作農から自作農となり、9人の子供を育て、1997年にダイヤモンド婚を迎えた。静岡県出身者は、河合良夫、ちよ子夫妻である。良夫は1945年清水市生まれで、清水東高校、酪農学園大学を卒業した。ちよ子は1947年山梨県甲府市生まれ、高校卒業後東京の大学を卒業した。ちよ子は1979年にカナディアン・ロッキーを見に行ったとき、はじめて良夫と出会った。良夫は1970年の初渡米以来、北米での酪農経営という白い雲にあこがれを抱くようになった。しかし、アメリカへの移住は認められず、カナダが受け入れることになった。1974年にアルバータ州レスブリッジ市郊外の農場で、酪農家を目指した現場体験を積み重ねた。資金作りのための食肉解体工場では過酷な作業に耐え、ついに1986年に酪農経営を軌道に乗せることに成功した。本書に出てくる4つの物語の共通テーマは、移民の定住過程である。文化を伴う人の移動は、これからも無数の移民物語を生み出していくことであろう。

第1部 ロージーの90年
第2部 リリアンのひとり暮らし
第3部 春太郎の白壁の家
第4部 河井の白い雲

43.平成28年6月4日

 ”日本がわかる経済学”(2014年9月 NHK出版刊 飯田 泰之著)は、日本経済の仕組みを知るというNHKラジオビジネス塾の番組の内容を書籍化したものである。

 ビジネスシーンに活かすことを目的として、ビジネスに密接に関わる日本経済の仕組みや政策をわかりやすく解説している。NHKラジオビジネス塾は、35歳からのスキルアップを目的として月替わりでテーマを設け、中堅社員に向け仕事を進めていく上で必要な知識や情報を、様々なアングルから提供していく番組である。飯田泰之氏は1975年東京都生まれ、海城中学・高校、東京大学経済学部卒業、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学、2003年駒澤大学経済学部現代応用経済学科専任講師・准教授を経て、2013年明治大学政治経済学部経済学科准教授を務めている。”日本経済の仕組みを知る”という番組は、2014年10月~12月に放送された。GDPってなんですか?、物価ってなんだろう?、経済は三本の脚で成り立つ、景気ってなんだろう?~統計から景気を読み解く~、移す・積む・慣れる~成長のための3つの方法~、競争市場はもう存在しない?~差別化と価格硬直~、有効な財政政策と無効な財政政策、金融政策って何をすること?、資産価格と安心、景気の”気”は気分の”気”、ビジネストーク”日本の経済政策と企業”(前編)、ビジネストーク”日本の経済政策と企業”(後編)であった。経済学の理論は、大まかにミクロ経済学とマクロ経済学に分類される。ミクロ経済学は、個人や企業といった、何かを決める最小単位の経済活動から出発して、ボトムアップ式に、経済全体を語り起こしていこうとする経済学の分野である。経済学という思考法の基礎にあたるのが、ミクロ経済学といってよい。このような特徴を持つミクロ経済学を学ぶことは、スポーツで言えば基礎練習、武道でいえば”型”を身につける訓練に似ている。この型を身につけておけば、少なくとも合格点は取れるという、ビジネス思考の型を身につけ、それを実戦の中で磨き上げていく方が、成果は得やすくなると考えられる。これに対して、マクロ経済学は、一国、ときには世界の経済全体を対象とする経済学の分野である。たとえば、日本国の景気、失業、経済成長率、インフレ率など、経済全体に共通する指標が、どのように推移していくか、また、お互いにどのように影響し合っているか、といったテーマを扱う。ビジネスや日常の生活とはあまり関係ないのではないか、と思われかもしれないが、自分たちを取り巻く状況に応じて、とるべき行動、効率的な選択は変わってくるはずである。たとえば、経済全体が好景気に向かって拡大していくとき、どのような投資に力を入れるべきであろうか。今自分たちが置かれている状況を知らなければ、いくら多彩な型・技を知っていても、それを有効活用することはできない。私たちが生きていく上で知っておくべき、戦場の情報=自分たちは今、どんな場で戦おうとしているのか、を把握するのに役立つのが、マクロ経済学の知識である。経済政策はマクロの経済環境に大きく影響しており、経済学の知識は民主主義下の国民の必煩知識である。本当は、1970年代から需給バランスを重視した経済政策をとるべきだったのに、たまたま国際環境の変化や企業努力などによって、上手く乗り切れてしまっていた。そのため、ここまでの日本は、需要管理政策=マクロ経済政策を軽視してきた。そのツケが回ってきた1990年代、需要が不足することによって、売れないからつくらない、つくらないから企業は人を雇えない、雇用が悪化するから、ますます需要が不足する、という悪循環に陥っていった。そのとき、政府は有効な対策を講じられなかった。長引く不況の中で1990年代の日本企業が陥った罠が、短期的な収益を上げるために人を切るという方法だった。企業がリストラを推し進め、海外生産の比重を高め、人件費を浮かせて、少ない売り上げで利ざやを確保するというのは、確かに合理的な面もあるかも知れない。しかし、このような収益確保の方法は、企業にとって、さらには日本経済にとってタコ足配当である。自分の足を食べて一時しのぎをしたところで、長期的には自滅への道である。不幸にも、多くの日本企業は、この状況から脱却するのに時間がかかってしまった。2013年以降、わずかではあるが明るい兆しが見えるようになってきた。人を育て、その育てた人が、また自分の会社に貢献してくれるようになるという、働き手と雇う側がWIN-WINになるような関係の構築が求められている。働くこと、人を雇うことの位置づけが変わることこそが、現代の日本に必要とされているのではないか。

第1講 豊かさを表す数字を知ろう!-”GDP””物価””景気”
第2講 政策は幸福のためにある-”幸福の経済学””経済政策”
第3講 成長はこうして生み出す!-”経済成長””価格硬直性”
第4講 景気対策はどう効くか?-”財政政策””金融政策””資産価格”
第5講 分配システムはどうあるべき?-”効率と平等””年金”
第6講 経済学で人を動かす!-”割引率””アーキテクチャの力”
第7講 人口から日本の未来を考える-”これからの企業””これからの都市”
第8講 私たちはどこに立っているか?-”戦後の日本経済史”

44.6月11日

 ”ハーフが美人なんて妄想ですから!!”(2012年6月 中央公論社刊 サンドラ・ヘフェリン著)は、ドイツ人と日本人のハーフである著者が日本におけるハーフを取り巻く環境と国際感覚のない純ジャパの特徴を紹介している。

 厚労省の人口動態統計年報によると、2010年に生まれた子供のうち、両親の一方が外国籍であるハーフは2万2000人いるそうである。街なかで外国人を見かけることは珍しいことではなく、今日、誰にでも一人くらいはハーフの友達がいる可能性がある。ハーフだから容姿端麗、ハーフだから金持ち、ハーフだから社交的、ハーフだからバイリンガル、いやトリリンガルくらい当然、ハーフだからインターナショナルスクールなどの出身など、幾重もの色眼鏡でみられるという。でも、実際には、不美人なハーフもいれば、日本語しか話せないハーフもいれば、貧乏なハーフもたくさん暮らしている。サンドラ・へフェリン氏は、本名、渡部里美、1975年にドイツ人の父親と日本人の母親との間でロンドンで生まれた。幼少期に父親の出身地であるドイツへ移住し、短期間、千葉県の公立小学校へ通学していた時期を経て、ミュンヘンで育った。1997年に再び日本へ立ち、一般企業での勤務を経て、TBS系列放映の”ここがヘンだよ日本人”にパネラーとして出演したのを機に、タレントとしての活動を始めた。現在、日本を拠点に、作家、著述家、タレント、ナレーターとして活動している。日本人には外人顔に見え、メールや電話では問題はないものの、実際に対面したときに相手が顔と名前のギャップに混乱を起こすという。かつて、アレキサンドラ・ヘーフェリンやヘーフェリン・アレキサンドラと名乗っていたこともある。”はじめに”で、ハーフあるあるを3つ掲げている。1つ、初対面で、ハーフの男と聞かされた友人の友人は、ウェンツ瑛士やJOYのような、線の細い男をイメージするらしい。2つ、ファーストフード店で、マクドナルドでカウンターに立つと、メニューをひっくり返して英語メニューにされる。3つ、過度な期待で、勝手に股間に超巨大モンスターが付いていると思われている。そんなハーフを取り巻く環境と、国際感覚のない純ジャパの特徴を紹介している。ハーフ・マトリックスには、理想ハーフ、顔だけハーフ、語学だけハーフ、残念ハーフがあるという。理想ハーフは、語学が堪能で見た目も美しい、滝川クリステルのようなハーフである。顔だけハーフは、容姿は目を見張るほど美しいが、使える言語は日本語オンリーである。語学だけハーフは、日本語も外国語も自由に操れるが、容姿が普通の人たちである。残念ハーフは、純ジャパの考えるハーフの特権を全くもっていない人たちである。困った純ジャパには、積極的すぎる人々、思考停止する人々、偏見のある人々、親があるという。積極的すぎる人々は、ハーフに対して好奇心旺盛で、初対面でいろいろと質問してくる。どこの国のハーフ?、両親のどっちが外国人?という質問から、納豆は食べられる?異性は日本人と外国人どっちが好き?まで、尋問のようにまくしたてる。思考停止する人々は、ハーフのガイジン顔を見ると頭のなかが真っ白になる。外国人に話しかけられたと勘違いして動揺するタイプに多く、いくら日本語で話しかけても英語で返されたり、自分は日本人だと説明しても理解してくれない。偏見のある人々は、外国人の女は軽いと根拠もないのに信じていたり、フランス人とのハーフの子供に生意気だ、調子に乗るな、と嫌味を言ったり、外国人というと不審者という価値観を持っていたりする。困った親たちは、ハーフの子がほしい、だってそしたらモデルになれるから、欧米人と結婚したい、だって子供がブルーの目になるからとか思ったりする。ほかにも、日本で暮らすハーフならではの苦労や体験談がいろいろと語られている。ハーフにとってありがたい純ジャパは、現実を直視していて現実を理解できる人とのことである。また、ハーフでいて良かったと思えるのは、どちらの国にも”ただいま”と言えることであるという。

第1章 ハーフと言ってもピンからキリまで
第2章 ハーフのまわりの困った純ジャパ
第3章 ハーフの「揺りかごから墓場まで」
第4章 日本社会の片隅でハーフが叫ぶ

45.6月18日

 ”慶滋保胤”(2016年4月 吉川弘文館刊 小原 仁著)は、平安時代中期にわが国初の往生伝集を編纂した慶滋保胤の生涯を紹介している。
  
 ”池亭記”はその代表作であり、往生人の事跡を集めた”日本往生極楽記”1巻の著があり、源信の”往生要集”とともに宋に送られた。往生伝集は極楽浄土に往生した人々の伝記を集めた書物で、”日本往生極楽記”は唐の浄土論や瑞応伝にならって日本の往生者の伝を集めたものである。42項目45人を、僧尼・俗人男女の順に漢文体で記されている。国史別伝・故老口伝を素材とし、以後に編纂された往生伝集の範となった。小原 仁氏は1944年北海道生まれの日本史学者で、1967年北海道大学文学部史学科卒業、1972年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学、聖心女子大学文学部教授を務めた。慶滋保胤は、933年に陰陽家賀茂忠行の次男として生まれた。字は茂能、唐名は定潭、法名は寂心で、世に内記入道と称された。父子の姓が違うのは改姓したからである。陰陽道の専門家を父としながら、それとは異なる紀伝道に進んだ。紀伝道の学生となり、対策に及第して、位階は六位から五位に、官職は文筆官僚たる内記に至った。菅原文時を師とし、門弟中文章第一と称せられた。一方、早くから弥陀を念じ、964年には学生有志と勧学会をおこして、その中心となって活動した。しかし、内記としての活躍の時期は、円融朝と花山朝の5~6年にすぎず、986年4月に突然の出家を遂げた。若いころからの信仰心の昂揚と、花山朝政の行き詰まりを慮ってのことと思われる。源信をはじめとする当時の浄土教家と交流があり、諸国遍歴後、東山の如意輪寺に住み、1002年70歳ほどの生涯を終えた。伝記・逸話は”今昔物語集”等に伝えられ、家集”慶保胤集”2巻は今日に伝わってはいないが、その詩文は”本朝文粋””和漢朗詠集”等に残っている。保胤は時代を代表する詩文家でもあり、紋切り型の公文書の作成ばかりでなく、公私の詩会において大いに詩文の才をふるい、後代まで愛唱された詩句を遺した。10代から20代にかけては、天下の才子と褒めそやされた。保胤について、今日、その名を知る人はそう多くはないであろう。ましてや、その著作が読まれることはあまりあるまい。もし保胤の名やその著述が多少とも知られているとすれば、それはいくつかの日本史の教科書に作品名が採りあげられているからであり、また幸田露伴の最晩年の傑作”連環記”によるものであろう。”連環記”は、保胤=寂心と大汗定基=寂照の師弟を中心とした物語で、諸記録や詩文や説話などの基本史料を広く探し求めて創られた。慶滋保胤という人は、詩文の才に長けた文人貴族であり、また文筆をもって勤仕した官僚であった。次に、終始一貫してきわめて熱心な浄土宗信仰者であった。保胤の人物像は、この2つを骨格として形成されている。そして、その肉付けに不可欠なのが自他の詩文である。保胤自身あるいはその周辺の人々の詩文は、保胤の人物像を具象化する優れた証拠となるはずである。平安時代中期の藤原氏の権勢下で、官吏として出世する道を閉ざされた中下層貴族たちの生き方が忍ばれる。

第1 誕生と出自(保胤の生年/保胤の家族)
第2 学生保胤(大学入学/才子保胤/善秀才宅詩合)
第3 勧学会(勧学会の草創/勧学会の次第/保胤と勧学会/勧学会の衰退)
第4 起家と改姓(起家献策/詩合・歌合への出仕/慶滋改姓)
第5 内記保胤(公私の文筆活動/池亭の家主保胤/浄土信仰とその著述/花山朝政と保胤)
第6 沙門寂心(心覚から寂心へ/横川登山/八葉寺の創建/寂心の死)
第7 慶滋保胤の記憶

46.6月25日

 ”コンビニ難民-小売店から「ライフライン」へ ”(2016年3月 中央公論新社刊 竹本 遼太著)は、全国津々浦々にあっていまや社会インフラとなっているコンビニに徒歩で行けないコンビニ難民の現状と将来を展望している。

 コンビニと宅配便は、いまや日本を特徴づけるサービス産業の代表格になっている。コンビニは、東京23区では500m圏で人口の99%がカバーされる一方、日本全国では68%と、郊外や地方では相対的に徒歩圏に居住する人口割合が低い。竹本遼太氏は、1981年京都府生まれ、東京大学工学部卒業、東京大学大学院情報理工学系研究科修了、2006年野村證券に入社し、2012年に三井住友トラスト基礎研究所に変わり、副主任研究員として現在に至っている。現在のコンビニの国内の総店舗数は5万5千店、年間売上高は10兆円、1ヵ月の来店者数は14億人となっている。これまでコンビニ市場の急成長を牽引してきたのは、若者ではなく実は中高年層であるという。1989年の来店客の6割強は20代以下の若者で、50代以上の来店客割合は1割未満であった。それが、2013年には50代以上の来店客が3割、40代を加えると中高年層がコンビニ客の半数を占めるようになった。20代以下の若い層の来店は2倍になったが、50代以上の来店は16倍になった。若い頃からコンビニに慣れ親しんだ世代が高齢期に入ってきたことに加え、生活のさまざまな便利なサービスが利用できるようになったことが主因と思われる。小売業から物流、金融、そして公的手続きや災害支援など、コンビニは社会インフラとしての役割を担い始めている。雇用の創出や買い物難民の一助になるなど、日本が持続的発展を遂げるためにかかる期待も大きい。若者のたむろ問題やエネルギーの過剰消費、ブラックバイトや地域商店への影響など、課題はあるものの、結果として私たちの生活に不可欠な存在となっている。しかし、東京23区内では高齢者の86%が最寄りのコンビニから300m以内に住んでいる一方で、日本全国では高齢者人口の徒歩圏カバー率は39%に過ぎず、高齢者の61%が徒歩によるコンビニへのアクセスに不便を感じているという。この層のことをコンビニ難民と呼んで、その実態を浮かび上がらせて課題を探ろうとしている。その数は、単身高齢者、高齢夫婦世帯で言えば800万人以上と試算され、日本が今後も持続的な成長を遂げるためにその解消が一つのカギになるという。近年、経済や社会インフラとして、明らかにコンビニの重要性が高まってきている。コンビニは買い物ができるだけでなく、預金の出し入れ、宅配便の受け取り、住民票入手など行政手続きのほか、いまや地域の防犯・防災の拠点にさえなっている。最近は高齢者の利用も増え、私たちの生活はコンビニなしではもはや、成り立たなくなってしまった。高齢化や過疎化の進展によって、そのコンビニが使えなくなるコンビニ難民が今後、増えるかもしれない。そうなると日本の未来を左右しかねないという。高齢者のコンビニ難民率が高い人口20万人以上市区町村をみると、茨城県つくば市の83.7%が最も高く、新潟県上越市が83.2%、津市が79.0%、松江市が78.7%、新潟県長岡市が76.4%となっている。過疎化が進んだ農村部と、かつてのニュータウンなどがある都市郊外を中心に、60歳以上の高齢買い物弱者は全国に600万人程度存在するとされている。今後も高齢化が進展する日本では、高齢者のさらなる高齢化、単身世帯の増加、共働き世帯の増加が想定されている。目前に迫る超高齢社会において、生活のあらゆる場面で、近くて便利なコンビニが貢献する可能性は大きい。コンビニは、徒歩圏で24時間1日中利用可能な、身近で便利なライフラインのワンストップサービスの提供拠点としての役割を増していくと思われる。すでに日本中に張り巡らされたコンビニをどう活用するか、そのことについて一考すべきタイミングが今なのではないだろうか。

序章 あなたは「コンビニなし」で暮らせますか
1章 社会的課題と向き合うコンビニ
2章 超高齢化社会と向き合うコンビニ
3章 高齢者の約6割が「コンビニ難民」である
4章 「コンビニ難民」を減らすことはできるのか

47.平成28年7月2日

 ”サンドイッチの歴史”(2015年7月 原書房刊 ビー・ウィルソン著/月谷真紀訳)は、サンドイッチ伯爵が発明したとされる説を検証し、鉄道・ピクニックとの深い関係、サンドイッチ高層建築化問題などにも触れている。

 サンドイッチは、パンに肉や野菜等の具を挟んだり、乗せたりした料理のことで、アイスクリーム・サンドイッチのように、パン以外の素材に具を挟んだものを指す場合もある。ビー・ウィルソン氏は1974年生まれのフードジャーナリストで、英米の雑誌にフードコラムを寄稿している。月谷真紀氏は上智大学文学部卒業の翻訳家である。もともと18世紀頃、イギリスのサンドイッチ伯爵のジョン・モンターギュ・サンドイッチは賭け事が好きで、通称ひったくりジミーと呼ばれていた。サンドイッチ伯爵は後にイギリスの海軍大臣になり、賭け事をしながら食事を取れるよう、パンの間にコンビーフや干し肉などを挟んだのが、サンドイッチの始まりだとされる。最初にその真偽について、当時の文献にていねいにあたりながら推理している。パンに類する食材に適宜の具を挟んで食べるという料理法は、古代ローマのオッフラ、インドのナン、中東のピタ、メキシコのタコスやブリートなど、世界各地で古くから自然に発祥したものである。1世紀のユダヤ教の律法学者ヒレルは、聖書に記載されているユダヤ教の祭りである過越の際に、犠牲の仔羊の肉と苦い香草とを、昔風の柔らかい平たいパンに包んだと言われている。西アジアから北アフリカにいたる地域では昔から、食べものを大皿から口へ運ぶのに、大きくは膨張させないパンを使い、すくったり、包んだりして食べていた。モロッコからエチオピアやインドにかけては、ヨーロッパの厚みのあるパンとは対照的に、円形に平たく焼かれていた。中世ヨーロッパでは、古く硬くなった粗末なパンを、食べ物の下に敷く皿代わりに使っていた。食べ物の下に敷く皿代わりであるトレンチャーは、中世のサンドイッチと言われることもある。しかし、パンと具を一緒に食べるサンドイッチと違い、トレンチャーと上に載せた食べ物を一緒に食べることは無い。英国風サンドイッチのより直接な前身は、例えば17世紀ネーデルラントに見ることが出来る。博物学者ジョン・レイは、居酒屋の垂木に吊るされている牛肉を、薄くスライスされ、バターの上にのせられ、バター付パンと一緒に食べられる、と記している。始めは、夜の賭博や酒を飲む際の食べ物であったが、その後、ゆっくりと上流階級にも広がり始め、貴族の間で遅い夜食としても食べられるようになった。19世紀には、スペインやイングランドにおいて、爆発的に人気が高まった。この時代は工業社会の台頭があり、労働者階級の間で、早い・安い・携帯できる食べ物としてサンドイッチは欠くことのできないものとなった。同時期に、ヨーロッパの外でもサンドイッチは広まりはじめたが、アメリカでは、夕食に供される手の込んだ料理となった。20世紀初期までには、すでに広く地中海地方でもそうなっていたように、アメリカでもサンドイッチは人気のある手軽な食べ物となった。サンドイッチはその手軽さから大衆文化ともなじみがよく、劇場では役者にも観衆にも愛され、ボートレースでは選手のエネルギー源となり、ピクニックのお供にはもちろん、夕食を食べそこねた旅行者のお助け食としても活躍した。欽道が普及すれば駅の軽食堂のメニューになり、パブではビジネスマンのランチになった。お米を食べるアジアの国々にもサンドイッチが入り、受け入れられたことを著者はとりわけ興味深く観察している。ベトナムや韓国にもそれぞれ個性的に姿を変えたサンドイッチが浸透していった。日本代表としては、かわいい形に型抜きしたサンドイッチに注目している。サンドイッチの歴史は、そのまま人類の文化史、生活史と重なる。近年、デスクで一人で食べるランチの典型となり、個食の時代の象徴になった。本には珍しい写真がたくさん掲載されており、見ていてとても楽しく感じられる。

第1章 サンドイッチとは何か
第2章 サンドイッチ伯爵起源説を検証する
第3章 イギリスのサンドイッチ史
第4章 サンドイッチの社会学
第5章 アメリカのサンドイッチ
第6章 世界のサンドイッチ
参考文献/有名なサンドイッチ50種/レシピ集

48.7月9日

 ”新田一族の中世 「武家の棟梁」への道”(2015年9月 吉川弘文館刊 田中 大喜著)は、”太平記”に源家嫡流の名家と描かれている新田氏の足跡から実像に迫り足利氏の思惑にも言及している。

 上野新田氏は、後醍醐天皇の有力武将である新田義貞を輩出するなど、上野国を代表する武士団であった。古くから新田氏は、京から東国に土着した在地領主、得宗権力に抑圧された没落御家人の典型として描かれてきたが、近年の研究により新田氏像の再構築が進められつつある。田中大喜氏は1972年東京都生まれ、1996年学習院大学文学部史学科を卒業、2005年同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士後期課程修了、2005年学習院大学文学部助手、2006年駒場東邦中学校・高等学校教諭を経て、2014年から国立歴史民俗博物館研究部准教授を務めている。専門分野は日本中世史で、特に武士団や武家政権を研究の主な専門としている。関東地方には、およそ11世紀末から14世紀までの中世前期と呼ばれる時期の史料が、あまり多く残されていない。こうした状況下にあって、新田氏は、”長楽寺文書””正木文書”といった豊富な文書群を今日に残す、希有な事例として知られている。豊富な文書群に恵まれた新田氏は、戦後の日本中世史研究において、在地領主制論や得宗専制論といった中世前期の社会構造や政治構造を理解するうえでの理論的枠組みに、具体的なモデルケースを供給する役割を果たしてきた。新田氏は上野国発祥の豪族で、家系は清和源氏の一流である河内源氏の棟梁の鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖としている。開祖は源義家の三男の源義国で、もともと下野国足利荘を本拠としていた。足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、長子の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承した。義国と義重は、渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡を開発した。そして、1157年に平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となった。荘官に任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立した。1180年に源頼朝、源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となった。平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが、義重は中立を保った。頼朝勢が関東地方を制圧すると鎌倉へ参じたが、頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになった。世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化し、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれた。4代の新田政義は、京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪された。新田氏惣領職は没収され、一族の新田頼氏に与えられ、世良田氏とともに岩松氏が分担した。このとき、新田氏本宗家の所領が得宗家に渡り、得宗勢力被官が荘内に進出した。その後、頼氏が北条氏の騒動に連座して佐渡に流罪となると、惣領職が新田氏本宗家に復したが、幕府における新田氏本宗家の地位は非常に低いものとなり、以後は無位無官に甘んずることとなった。鎌倉時代後期には、8代新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、最有力御家人の足利尊氏の嫡男義詮を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は、同族である足利氏惣領よりも格下に見られていた。後に政権内部の政争により、義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って、反足利氏派・反武家派の首班として尊氏と対立した。新田一族中でも、義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが、楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦した。比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に、後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。しかし越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経・高師泰らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死した。義貞の戦死後は、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱に乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦し、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返された。足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて戦死し、新田氏本宗家は事実上滅亡した。新田氏と足利氏は、義国流清和源氏の同族であることは周知に属するが、これまで両者の関係について政治史を踏まえながら正面から検討する研究は現れなかった。本書は、新田氏の歴史的展開を院政期から南北朝期の政治史のなかに位置づけ、足利氏との関係から読み解こうとしている。

『太平記』のなかの新田氏―プロローグ
新田氏の成立
 成立前史/新田氏成立の政治史
雌伏の時代
鎌倉幕府の成立と新田氏/新田本宗家と足利氏―足利一門への歩み1/里見氏・山名氏・世良田氏と足利氏―足利一門への歩み2
地域権力としての姿
 新田氏の軍事的テリトリーをたどる/新田氏の求心力を探る
「武家の棟梁」新田氏の誕生
 新田氏の自立/越前に描いた夢/義興と義宗の挑戦
『太平記』の刻印―エピローグ

49.7月16日

 ”カルタゴの歴史”(2009年4月 白水社刊 マリア=ジュリア・アマダジ=グッゾ著/石川勝二訳)は、カルタゴの誕生から死にいたるまでの歴史とカルタゴ文化の特徴を新書ながら余すところなく述べたものである。

 白水社の文庫クセジュの1冊であり、もとはフランスの出版社の叢書である。カルタゴは地中海に面した古代の都市国家で、小さいながらも商業で栄え国民は皆裕福であった。戦争に負けても奇跡の復興を成し遂げ大国ローマを脅かしたが、ローマと3度の戦火を交えて滅亡してしまった。著者のマリア=ジュリア アマダジ=グッゾ氏はローマ生まれのイタリアの学者で、ローマ・ラ・サピエンツァ大学を卒業し、同大学でセム語の碑文の教授を務めた。石川勝二氏は1940年生まれ、1970年名古屋大学大学院で古代ローマ史を専攻し、のち愛媛大学教授を経て椙山女学園大学教授を務めた。カルタゴは、現在のチュニジア共和国のチュニス湖東岸にあった古代都市国家である。テュロスの女王ディードーが兄ピュグマリオーンから逃れてカルタゴを建設したとされ、古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争前、紀元前820年頃や紀元前814年頃にそれぞれ建国されたという記述があるが、いずれも裏付は無い。確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルトが町の守護神であったことなどに過ぎない。カルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。商人や探検家たちは広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。紀元前6世紀前半、海洋探検家のハンノは北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。その後、シエラレオネは、マルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配した。紀元前540年頃、シチリア西半分の領有権を巡り、エトルリア人と組んでギリシアとサルデーニャ人とアレリア沖で海戦を行い、勝利を収めた。紀元前480年に、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロンが島を統一しようとしたことから、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。その後、第1次ヒメラの戦いでゲロンに大敗し、ハミルカル・マーゴ将軍は戦闘によって死亡した。カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。紀元前410年までにはカルタゴは回復を遂げ、再びチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。紀元前409年に、ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴはシチリア島への遠征を行い、セリヌスやヒメラといった小都市の占領に成功して帰還した。紀元前405年に、シチリア島全域の支配を目指して2回目の遠征を行った。アクラガス包囲戦の最中にカルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなった。後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破りジェーラを占領した。紀元前398年に、シラクサ王ディオニシウスは平和協定を破り、カルタゴの要塞モーチャを攻撃した。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモーチャを救出し、逆にメッシーナを占領した。紀元前397年にはシラクサ包囲戦にまで至るが、翌年再び疫病に見舞われヒメルコの軍は崩壊した。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続き、紀元前340年にカルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられた。紀元前315年に、シラクサ王アガソクレスはメッセネを包囲した。紀元前311年にはカルタゴ最後の要塞を攻撃し、アクラガスを包囲した。探検家ハンノの長男ハミルカルは、カルタゴ軍を率いて事態を打開し好転させた。紀元前310年にはシチリア島のほとんどを占領し、シラクサを包囲した。紀元前307年に、追撃してきたアガソクレスは敗れ、シチリア島に戻り停戦となった。紀元前280年から紀元前275年にかけて、ギリシア・エピロスの王ピュロスは、西地中海におけるギリシアの影響力を維持し拡大するため戦争を起こした。ピュロスはイタリア半島とシチリア島の両方で敗北し、シチリア島におけるギリシアの拠点は減少する一方、ローマの強大化、領土拡大の野望は、カルタゴとの直接対決を導くこととなった。そして、第一次ポエニ戦争 (紀元前264年 - 紀元前241年)、第二次ポエニ戦争 (紀元前218年 - 紀元前202年)、第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)が起こった。第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮した。ローマ陥落の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマがカルタゴに勝利した。そして、第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦いによってカルタゴは滅亡した。再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊されたという。本書は前半で(第1章~第6章)カルタゴの誕生から死に至るまでを通時的に語り、後半では(第7章~第14章)共時的に、カルタゴ市の構造、制度、社会、軍隊、通商と農業、建築と芸術、信仰、と多岐にわたって詳しく述べている。

第1章 フェニキア人の植民運動とカルタゴの建設
第2章 最古のカルタゴの歴史
第3章 カルタゴの領土拡大
第4章 カルタゴ人の航海
第5章 シチリア島のカルタゴ人
第6章 カルタゴとローマ
第7章 カルタゴ市
第8章 政治制度と公の職務
第9章 社会の仕組み
第10章 海軍と陸軍
第11章 商業と農業
第12章 建築と芸術
第13章 神、信仰および祭祀
第14章 言語と文字
終 章 カルタゴ文明は滅んだか

50.7月23日

 ”孫文の机”(2012年11月 白水社刊 司 修 著)は、この本のカバー写真に映っている机の前に座る画家、大野五郎とその二人の兄の生涯を追った昭和初期から戦後までの物語である。

孫文も辛亥革命も登場せず、孫文の机も主役ではない。孫文が使っていた机にまつわる兄弟の物語で、記者の大野日出吉、詩人の大野四郎、画家の大野五郎の物語で、三つの職業名からなる章で構成されている。小説でもなく評論でもなく、随想に近いものである。司 修氏は1936年群馬県前橋市生まれ、画家・装幀家・作家で、1976年に講談社出版文化賞ブックデザイン賞、1978年に小学館絵画賞、1993年に川端康成文学賞、2007年に毎日芸術賞、2011年に大佛次郎賞を受賞している。三兄弟は栃木県下都賀郡の谷中村出身で、祖父の大野孫右衛門と父大野東一は谷中村の村長を務め、足尾銅山鉱毒事件で財を成したという暗い影を背負っていた。谷中村は、かつて栃木県下都賀郡にあった村で、1906年に強制廃村となり、同郡藤岡町に編入された。雨のたびに渡良瀬川の堤が決壊し、氾濫するたびに足尾銅山鉱毒事件により大きな被害を受け、以後、鉱毒反対運動の中心地となった。足尾銅山鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる公害事件である。原因企業は古河鉱業で、銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらした。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続けた。2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。三兄弟は、それぞれ、九人兄弟の、次男、四男、五男であった。二・二六事件、足尾鉱毒事件、満州国を絡めた、三人の兄弟の足取りが描かれている。次男日出吉は和田家に夫婦養子に入り、ワシントン州立大学に留学した。農業政策を学ぶはずがジャーナリストの道を選び、時事新報を経て中外商業の記者になった。下関出身の大女優・小暮実千代=和田つまの夫であった。昭和11年に起きた二・二六事件は、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒をめざし、1500余名の部隊をひきいて首相官邸などを襲撃したクーデターである。事件の際は真っ先に首相官邸に入り、首謀者の一人栗原中尉と面識があり、要人殺害の直後、首相官邸に乗り込むのを許され、凶行のあとを真っ先に目撃した。岡田首相の遺体が安置された寝室を覗いたものの、近づいて顔を確かめなかったので、それが誤認された人物だったことに気づかなかった。事件の報道は、勤めていた中外商業新報の生々しい特ダネ記事として精彩を放った。武藤山治とともに番町会を糾弾し、松岡洋右に頼まれ、満州で新聞社を経営して羽振りを利かせた。四男の大野四郎はペンネーム逸見猶吉という詩人、童話作家で、野獣派詩人の草野心平などの仲間で、歴程創刊時の同人の1人である。草野心平から、日本のランボーと呼ばれた。1931年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、大学在学中の1928年に逸見猶吉を名乗った。1937年に日蘇通信社新京駐在員として、満州に渡り、1940年に結成された日本詩人協会に参加した。1943年に関東軍報道隊員として満州北部に派遣され、1946年に新京で死去した。詩は寡作で、没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作である。酒飲みながら多く詩を発表し、満州で有名人となった。和田日出吉と逸見猶吉が大野姓を隠した理由は、足尾銅山鉱毒事件で水没させられた谷中村と深い関わりがあったそうである。渡良瀬遊水地の一角に、ウルトラマリンの詩の一部を刻んだ詩碑が建立されている。五男の大野五郎はあまり売れない孤高フォービッスムの前衛画家で、絵を描きながら著者と各地を旅した。1926年に斉藤與里の紹介で、藤島武二が指導する川端画学校に入学した。1928年に第3回一九三〇年協会展に初入選し、第5回展まで出品した。1929年に同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けた。1930年に第17回二科展に入選した。兄猶吉が開き、のち捨てた神楽坂のバー””ユレカ”を引き継ぎながら絵画に専念し、1931年に第1回独立美術協会展に入選した。のち主体美術協会を結成するなど、孤高の画家となった。そして、兄からもらったという孫文の机を捨て去り、飄々と生きたという。著者は25歳のころ前橋の家から布団一枚とボストンバック一つを持って出て、赤羽稲付町に住んで、赤羽袋町にいた画家・大野五郎と知りあった。若いころの大野五郎が使っていた机は、次兄の和田日出吉が雑司が谷の古道具屋で買い求めたものであった。次兄から、”孫文が持っていたものだ、大事に使えよ”といわれたという。机の前に座るカバー写真には、五郎22歳の記載があり、背景には、”第一回洋画展覧会・九知會”というポスターが見える。本書は、著者が赤羽で出会って以来続けた大野五郎との対話を基調にしている。

51.7月30日

 ”大村 智物語-ノーベル賞への歩み”(2015年11月 中央公論社刊 馬場 錬成著)は、夜間高校教師からはじまり2015年ノーベル生理学・医学賞受章に至るまでの波瀾万丈の研究者人生を紹介している。

 大村 智氏は1935年山梨県北巨摩郡神山村の農家に、5人兄弟の2番目の長男として生まれた。微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見した。感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献し、また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。馬場錬成氏は1940年生まれ、東京理科大学理学部卒業、読売新聞社で科学部、解説部記者などを務め、2000年まで論説委員であった。退社後、科学ジャーナリストとして知的財産権強化の立場より積極的に提言を行っている。大村 智氏は1954年に山梨県立韮崎高等学校を卒業し、1958年に山梨大学学芸学部卒業をした。理科の教諭を志したが地元山梨での採用がなかったため、埼玉県浦和市に移住し、1958年に東京都立墨田工業高等学校定時制に5年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った。学業に熱心に励む高校生に心打たれ、もう一度勉強し直したいと考え、1960年に東京教育大学の研究生となり、中西香爾氏に師事した。中西香爾氏の紹介で1961年に東京理科大学大学院理学研究科都築洋次郎氏の研究室に所属し、高校教諭として働きながら1963年に修士課程を修了し、山梨大学工学部発酵生産学科の助手となり、加賀美元男研究室でブランデーの製法の研究に従事した。1965年に北里研究所に入所してからは、微生物が産生する新しい化学物質を見つける研究を続けた。1965年に北里研究所技術補となり、小倉治夫氏の下で抗生物質を研究し、ロイコマイシンの構造を解明した。1968年に北里研究所での研究により東京大学から薬学博士の学位を授与され、北里大学薬学部助教授に就任した。1970年に、ロイコマイシン、スピラマイシン及びセルレニンの絶対構造により東京理科大学から理学博士の学位を授与された。その後アベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組んだ。イベルメクチンは抗寄生虫薬として活用されるようになり、寄生虫感染症の治療法確立に貢献した。アベルメクチン以外にも、生涯にわたり新たな化学物質を発見した。1971年にウェズリアン大学客員教授、1973年に北里研究所抗生物質研究室室長に就任した。それまで誰もやっていなかった産学連携に真っ先に取り組み、メルク・アンド・カンパニーとの共同研究を開始し、250億円もの特許料収入を北里研究所にもたらした。1975年に北里大学薬学部教授、1984年に北里研究所理事、1984年に北里研究所副所長、1985年に学校法人北里学園理事、1990年に北里研究所所長、1993年に女子美術大学理事、1997年に女子美術大学理事長に就任した。2001年に北里大学北里生命科学研究所教授となり、日本学士院の会員に選定された。2002年に北里大学大学院感染制御科学府教授、2005年にウェズリアン大学マックス・ティシュラー教授、2007年に北里大学名誉教授、2007年に女子美術大学理事長に就任した。2012年に文化功労者となり、2013年に北里大学特別栄誉教授を務めた。2015年には、日本人で3人目となるノーベル生理学・医学賞を受賞した。人材を育てることに情熱を燃やし、積極的にやる気を出す学生には惜しまず支援し、海外の有名な研究者をセミナーに呼んで、若き学徒らのレベルを引き上げ国際的な感覚をつけさせた。大村研究室から輩出した教授は31入、博士号をとった大は120人もいる。研究者としてすぐれた実績を残しただけでなく、研究所の経営でも辣腕をふるい、つぶれかかっていた北里研究所を立て直した。埼玉県北本市には北里大学メディカルセンター病院を建設し、病院の中の壁面にたくさんの絵画を展示して別名”美術館病院”とも言われるようになった。そのほか、教育分野では学校法人女子美術大学の理事長を2度にわたり務め、学校法人開智学園の名誉学園長を務め、自身のコレクションを基に韮崎大村美術館を設立し、その館長を兼任している。いやなことはなんでも一番先に自分かやって見せると語っているように、時には地にはいつくばるような頑張りを見せながら、ノーベル賞への道を歩いてきたという。巻頭に、大村博士自身による書下し、”若き日の君たちに伝える”が特別収録されている。

第1章 夜間高校教師から研究者へ
第2章 北里研究所からアメリカへ留学
第3章 イベルメクチンの発見
第4章 外国での評価高まる
第5章 独立採算と新しい病院の建設
第6章 自分を磨き人を育てる
第7章 科学と芸術のつながり



「戻る」ボタンで戻る


トップページ

マネジメント

パソコン英語

進学 ・資格

仕事 ・生活

技能ハッピーライフ