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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1. 平成28年8月6日

 ”エトルリア人-ローマの先住民族”(2009年1月 白水社刊 ドミニク・ブリケル著/平田隆一監・斎藤かぐみ訳)は、イタリア中央部で繁栄しローマ帝政期に衰退したエトルリアについての研究の成果と現況を解説している。

 エトルリア人はイタリア半島中部の先住民族で、インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用し、エトルリア文化を築いたが、徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。ドミニク・ブリケル氏は1946年生まれ、パリ大学でレーモン・ブロックの薫陶を受け、パリ第4大学教授を務め、東洋・西洋考古学研究所所長の地位にあった。フランスにおけるエトルリア学を継承し、実証的歴史家として数多くの論文著書を公刊している。平田隆一氏は1936年生まれ、東北大学文学部卒、東北大学大学院修士課程修了、同博士課程中退、1961~64年ローマ大学留学、東北学院大学助教授を経て、東北大学助教授、教授を務めた。斎藤かぐみ氏は1964年生まれ、1988年東京大学教養学部教養学科卒、1994年欧州国際高等研究院修了、電機メーカー勤務等を経て、現在フリーの翻訳文筆に従事している。エトルリア人が明確な一民族として登場するのは前8世紀以降である。前7世紀になると、従来のビッラノーバ文化にかわって東方化様式文化がカエレやタルクィニーなどティレニア海沿岸都市に現れた。いずれも後背地の鉱山を開発し、豊かな耕地を開墾して、海外貿易に乗り出し、繁栄を築いた。やや遅れてウェイイ、ブルチ、クルーシウム、ウォルシニーなどの、より内陸の都市も発展した。これらのエトルリア都市国家は、黎明期のローマに重大な影響を及ぼした。前7世紀末以来約100年間、ローマはエトルリア系の王に統治され、彼らによって都市が建設され、国制が整えられ、ラティウム随一の都市国家へと成長した。エトルリアの諸都市は他方で、カルタゴと組んで南イタリアのギリシア植民市に対抗した。エトルリア人は前540年の海戦で勝利を得たものの、前474年のクーマエ沖の海戦でギリシア軍に敗れ、以後ティレニア海の制海権を失い、諸都市は経済的停滞に陥っていった。同じころカンパニアを失い、エトルリア人はポー川流域に転進した。しかし北方からは前5世紀末以来ケルト人が侵入してきており、また中央ではローマが勢力を伸長していた。ローマは、まず前396年ウェイイを征服したあと、エトルリアの都市国家を次々に制圧し、そのほとんどを前3世紀中葉までに同盟国とした。前90年、同盟市戦争の勃発に際してエトルリア人はローマ市民権を得、その諸都市はローマの地方自治市となった。エトルリア語はまもなくラテン語にとってかわられた。エトルリアの諸都市国家は、初期の王政から前5世紀末までに共和政に移行し、政務官と元老院とが政治の実権を握った。支配的貴族の下に一般自由民のほか、従属民や奴隷がいた。下層民は共和政後期にしばしば反乱を企て、しだいに政治的権利を獲得していった。エトルリア人は、ローマが直接ギリシア文化に接する前にこれを吸収し、初期イタリア諸民族を文明化した。都市の建設方法、建築技術、排水・灌漑技術、政治的諸制度などのほか、イタリア諸民族に文字を伝えた。そして、エトルリア人の文化遺産はローマに受け継がれた。しかし、ローマ帝国の滅亡とともに、エトルリア人のことも忘れ去られていった。初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行した。ローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々、エトルリア文化の特徴であったといわれる。先住民族エトルリア人については、いまだ謎が多い。エトルリアは前7~前6世紀に全盛期を迎えたが、前4世紀以降ローマに圧倒され、前90年までにローマ国家に併合された。エトルリア人は多くの独立自治の都市国家を作り、エトルリアの主要12都市国家は連合を結成したが、全エトルリア人を統合する統一国家は形成されなかった。都市そのものの遺跡は少ないが、おびただしい数の墓の遺跡が無数の副葬品とともに発見され、エトルリアの歴史と文化を知るためのもっとも貴重な資料となっている。史料としてはほかにギリシア、ローマの文献があり、さらにエトルリア語で記された銘文が現在1万点以上残されている。しかし、これらの銘文の大部分は確実には解明されておらず、エトルリア語については他の言語との近親関係が実証されていない。そのため、他言語との比較によって解明することはほとんど不可能であり、また対訳付きの大碑文は発見されていない。ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアのリディアからこの地にやってきたという。一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア人はイタリア古来の民族だと述べている。現在の調査では正式には、エトルリア人が小アジアの出自である事を直接結び付ける証拠はない。しかしながら、ある調査ではエーゲ海のレムノス島では紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ている事が指摘されている。また、エトルリア人は海を往来する民族でもあり、古代地中海世界の至るところからその存在が記述されている。一説には、古代エジプト第20王朝に記述のある海の民はエトルリア人ではなかったか、ともいわれている。

第1章 一大勢力の台頭
第2章 黄金期のエトルリアの諸都市
第3章 文明の黄昏、衰亡と存続
第4章 エトルリア人の再発見

2.8月13日

 ”青島から来た兵士たち”(2006年6月 同学社刊 瀬戸 武彦著)は、大正初期に第一次世界大戦で日本の捕虜になったドイツ人達がもたらしたさまざまな文化を紹介している。

 ベートーヴェンの第九が日本で始めて演奏されたのは、坂東俘虜収容所であったという。板東俘虜収容所は、徳島県鳴門市大麻町桧、旧板野郡板東町に開かれた俘虜収容所で、青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容された。瀬戸武彦氏は、1945年旧満州の新京生まれ、1970年東北大学大学院文学研究科修士課程修了、高知大学人文学部教授、専攻はドイツ文学である。1914年6月28日にセルビアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことがきっかけで、7月28日に第一次世界大戦が勃発した。第一次世界大戦はヨーロッパを主たる戦場とした。日本も海軍の艦船を地中海まで派遣した。主たる任務は商船等の護衛・警備であったが、78名の戦病死者を出し、その内の73名が地中海のマルタ島に葬られた。日本では忘れられた戦争と言われ、こうした事実は忘れられ、歴史の中に埋もれている。日本は日英同盟の誼から、8月23日にドイツに宣戦を布告し、陸海軍合わせて7万余の大軍を、中国山東半島の青島を攻撃するために派遣した。青島は1898年以来、ドイツが極東進出の拠点とした租借地の要の都市だった。この戦いで敗れた4715人のドイツ兵士たちは、俘虜として日本に移送され、各地の収容所に容れられた。当初、西日本を中心として、久留米、熊本、東京、姫路、大阪、丸亀、松山、福岡、名古屋、静岡、徳島、大分の12か所に設置され、その後、久留米、名古屋の2か所に統合され、さらに、習志野、青野原、似島、坂東の4か所が新設された。板東俘虜収容所は鳴門市ドイツ館から南に500mほどの所にあった。跡地は現在ドイツ村公園になっている。ドイツ館には当時を模した収容所の建物があり、門をくぐると沢山のミニチュアが当時の生活を立体的に伝えている。中には、ボーリング場、図書館、音楽堂、印刷所、パン工場などがある。展示の中に、当時収容所の所長だった、松江豊寿のコーナーがあり、その人道的な収容所運営によって、俘虜と地域住民との交流が盛んになったという。鳴門海峡から瀬戸内海を西にたどると、広島港の南の広島湾内に浮かぶ小さな島の似島がある。ここに収容された俘虜たちは、広島市内の学校の生徒らにサッカーの手ほどきをした。俘虜チームと生徒たちの試合は日本初のサッカー国際試合だったと言われている。俘虜たちが伝えたものは、音楽やスポーツだけではなかった。例えば、バウムクーヘンというドイツ菓子もそうである。戦争という悲惨な現実の一方で、虜囚文化とでもいうべきプラスの側面も花開いた。その舞台は日本各地の収容所である。しかし、日本がドイツと戦った主戦場は海を隔てた中国の青島であり、ドイツ兵士たちはその青島から俘虜として連行された。その意味で青島はもう一つの重要な舞台といえるだろう。ドイツが占領し、要塞都市に築きあげた青島は赤レンズ造りの建物部点在し、いかにもドイツを思わせる街並みを今に残している。中国ビールの代名詞的存在になったチンタオ・ビールも、その起源は100年ほど前、ドイツ人が青烏で醸造を始めたことにある。ドイツによる青島の占領、そして青島を中心とした膠州湾租借地の建設、さらには日独戦争とその結果生じたドイツ兵俘虜や俘虜収容所について紹介している。最も意図したことは、ドイツ兵俘虜と俘虜収容所についていくらかでも知ってもらいたい、という思いであったという。戦争というものは人命を奪い、文明、文化の破壊をもたらすものであるが、戦争が契機とかって生じた様々な現象の中には、文化交流と呼ぶことができるものもある。日独戦争を契機として起こった事柄は、一つの文化的現象、日独文化交流史の上でも、特筆に価するものと見ることができる。

序 章 日本初の「第九」
第1章 ドイツによる青島占領
第2章 ドイツによる青島の建設
第3章 日独戦争
第4章 俘虜収容所の設置
第5章 一六ヶ所の俘虜収容所と俘虜の活動
第6章 俘虜群像
第7章 日本による占領・統治時代の青島
第8章 帰国後の俘虜の動静
第9章 日独における俘虜・俘虜収容所研究

3.8月20日

 ”日本人が知らない漁業の大問題”(2015年3月 新潮社刊 佐野 雅昭著)は、衰退し続ける漁業の現場、揺らいでいる卸小売流通、ブランドや養殖への過剰参入、的外れの政策などの日本漁業を取りまく構造問題を指摘している。

 マグロやウナギが獲れなくなってきており規制が始まっている。近い将来、マグロやウナギが食べられなくなる、さあ困った、といった危機説が喧しいが、ではいったいマグロやウナギが食べられなくなったとして、日本人はそんなに困るだろうか。佐野雅昭氏は1962年大阪府生まれ、京都大学法学部卒業、東京水産大学修士課程、水産庁を経て北海道大学水産学研究科で博士号を取得し、現在、鹿児島大学水産学部教授を務めている。もう何10年くじらを食べてはいないけれど、特に困ったということはなかったことを思いだすと、大げさに騒ぐほどのことでもないような気がする。2013年度の水産白書によれば、2007年に約274万円だった沿岸漁船漁家の漁労所得は、2012年には約204万円まで低下した。高齢者も含めた平均値なので40代~50代の働き盛りの漁業者の所得はもっと高いであろうが、この数字は生活保護の受給家庭を下回るレベルである。海面養殖業漁家の漁労所得も平均して400万円程度であり、思うほど高くはない。零細な漁業者個人では、資源の管理もその流通販売も効率的には行えないため、集団的な対応が必要であり、これまで漁協が持続性と効率性を両立させてきた。しかし後継片不足は深刻で、2002年に約24万人だった全漁業就業者数は、2012年には約17万人まで減少している。近年少し持ち直しているものの、漁業への新規就業者数は全国すべて今わせても年間2000人に達せず、将来、日本から漁業が消滅することも覚悟しなくてはならない。滅多にニュースにならないが、マクロやウナギよりもずっと重大で切実な問題である。大西洋クロマグロの輸入が無事だとしても、日本から漁業者がいなくなってサバやアジ、サンマなどが食べられなくなるとしたら、日常生活でははるかに大きな問題であろう。そうなると、未来の日本人の食生活が根底から壊れ、残るのは冷凍輸入魚ばかりの食卓となり、魚食文化の崩壊となる可能性がある。長期的に見れば世界的に食料が不足するのは確実であり、国民にとってこれまで以上に自給率向上と価格の安定が重要である。日本の漁業が危機的な状況に陥った原因は複合的で、低い生産性や資源管理の失敗だけではなく、消費者の魚離れ、過剰な低価格要求、輸入魚中心の簡便化食品志向なども大きな影響を与えている。魚の流通は、漁業者、産地仲買人、荷受、仲卸、小売店という5つの異なる役割を持った専門流通業者が、水産物を鮮度の良いまま消費者に届けるために一体として機能している。各業界の中で厳しい競争があることで、高い品質と公正な価格が守られてきた。魚は自然の産物であるから、上手く管理すれば、半永久的に利用できる食料資源である。しかし、自然環境と上手く調和しないとそれもかなわないため、開発による環境破壊や乱獲などの人間活動のダメージを受けやすい。日本の漁業をきちんと維持していけば、輸入に頼らなくても、この先もずっと美味い新鮮な魚が食べられる。これまでの食生活をみんなが少しずつ見直し、反省しなくてはならない時期である。

マクロやウナギが食べられないと困るのか-序に代えて

1 漁業は誰のためのものか
 市民と漁業者が対立しはじめている/都市と漁村の距離感は遠くなるばかり/流通システムのブラックボックス化か招く対立/漁業は日本固有のストロングポイント/漁業権の理念が薄らいでいる
2 「海外に活路を」は正論か
 歴史的に日本漁業には国際競争力がある/輸入サケ・マスに抑されてアキサケ輸出が拡大/ノルウェーサバ高騰の余波/「儲かるから輸出に回す」は危険な考え方/企業を後押しする「高木委員会」の論理/ノルウェーと日本の事情は違いすぎる
3 漁協は抵抗勢力なのか
 日本の漁業における漁協の役割とは/世界が注目する漁協のシステム/「海洋行政」をめぐる人きな揺さぶり
4 養殖は救世主たりうるか
 魚類養殖に過剰な期待が高まっている/養殖経営が陥らざるを得ない価格ジレンマ/養殖への企業参人は市場をかく乱してしまう/ノルウェーサーモンの模倣ができない理由/日本の養殖業はどう改革するべきか
5 複雑すぎる流辿には理由がある
 工業化社会と生鮮水産物の矛盾/卸売市場システムは「近代の傑作」/中抜き流通で得をするのは小売だけ/生鮮水産物流通のモラルと流儀/日本の魚はなぜこれほど安全なのか/鮮度感の重要性と専門的な流通経路
6 サーモンばかり食べるな
 回転寿司でもサーモン一人勝ち/サーモンの消費拡大が意味するもの/日本の水産物の商品特性と多彩な食文化
7 ブランド化という幻想
 水産物は「ブランド化」には馴染まない/定義に逆行する利己的ブランド戦略/地城特産品とブランドを同一視する間違い/養殖業でも「ブランド化」の効果はない
8 あまりに愚かな「ファストフィッシュ」
 魚食文化に逆行するファストフィッシュ¥/長い目で見れば「魚の国のふしあわせ」に/本質を見失った水産基本計画/時短と簡便化が余計に魚を遠ざける/つまらなくなった大手スーパーの鮮魚売り場/食品スーパーが伸びている理由/卸売市場がスーパーの「問屋」になる日
9 認証制度の罠
 ラベルや認証による差別化に意味はあるのか/背後にグローバルビジネスの影/トレーサビリティは早くも形骸化している
10 食育に未来はあるのか J
 20代は60代以上の四分の一しか食べない/間違いだらけの食育基本法/給食でハズレメニューになる理由

雑魚にこそ可能性はある-あとがきに代えて

4.8月27日

 ”道の駅完全ガイド : 全149駅関東周辺 '09~'10 ”(2009年7月 日本出版社刊 アドグリーン編)は、いろいろな楽しみ方ができる関東周辺の道の駅2009年6月現在の149駅を紹介している。

 道の駅は各自治体と道路管理者が連携して設置し、国土交通省により登録された、駐車場・休憩施設・地域振興施設が一体となった道路施設である。2016年5月現在、全国に1093箇所が登録されている。道の駅は鉄道の駅と対比をなす言葉であるが、もともと駅という言葉は街道沿いにある宿場=宿駅を指すものであった。道の駅完全ガイドには関東周辺版と近畿・東海・北陸・中国・四国番があり、各駅の見所、お土産、名産物も掲載されている。編集は株式会社アド・グリーンで、旅行・グルメ関連の雑誌・書籍、社内報・PR誌・機関誌、広告・宣伝物等の企画・編集・制作を行っている。道の駅は、一般道路にあって交通の円滑な流れを支え、安心して利用できる休憩のための施設である。安全に長距離ドライブを行うにはある程度の距離や時間ごとにドライバーが休息することが必要である。従来の高速道路には、24時間自由に利用できるサービスエリアやパーキングエリアが整備されていた。しかし、一般道には公的で24時間利用できる休憩所はほとんど存在しなかったため、一般道路にも誰もが24時間自由に利用できる休憩施設が長らく求められた。そこで、各自治体と国土交通省が連携をとり、地域振興施設の整備促進と、一般道路の休憩施設整備を併せて行うこととなった。自動車専用道路のSA・PAを道の駅として登録するには、別途一般道からも連絡・利用できることとされている。道の駅には、駐車場・トイレ・電話の基本的な休憩施設と、地域の自主的工夫のなされた施設で構成されている。施設設置者は市町村または市町村に代わりうる公的な団体であり、年少者・高齢者・障害者等、様々な人々の使いやすさに配慮されている。施設の中では、地域の文化、名所、特産物などを活用して多様なサービスが提供されている。 これらの施設ができることで、地域の核が形成され、道を介した地域連携が促進されるなどの効果もある。駐車場は24時間利用可能で、利用者が無料で利用できる十分な容量があり、トイレは清潔で24時間利用可能で、障害者用も設置されている。駐車場とトイレ及びその間を結ぶ主要な歩行経路、さらに歩行経路以外についてもバリアフリー化が図られている。原則として案内人がいて、道路情報及び近隣の道の駅情報、近隣地域まで含めた観光情報、緊急医療情報、その他利用者の利便に供する情報が親切に提供されている。道の駅の設置構想は、1990年1月に広島市で行われた会合で提案されて始まり、1991年10月から翌年7月にかけて山口県、岐阜県、栃木県の計12か所に道の駅の社会実験が行われた。1993年4月に正式登録された、全国103箇所の施設が第1号であるとされている。ほかに、1988年11月に新潟県豊栄市に設置された道の駅が発祥の地だという説や、1990年3月に供用が開始された島根県雲南市にある掛合の里が発祥の地だという説もある。最初は東京など大都市周辺には道の駅は存在しなかったが、2007年4月に八王子市に東京都初の道の駅が開設されて、47都道府県のすべてに道の駅が設置された。道の駅の設置間隔については、高速道路のSA・PAのような明確な基準は設けられていないが、おおむね10km程度の間隔があるように計画されている。なお、間隔が10km以下となる申請があった場合は、特徴の違いによる棲み分け、交通量の状況、地域の実情などを総合的に判断して決定されている。道の駅ができたおかげで、北海道一周・四国一周・九州一周・日本一周など、規模の大きい自動車旅行を行う旅行者にとって非常に便利になった。道の駅の駐車場に自動車を停めては車中泊で夜をすごし宿泊費をまるまる節約することや、宿に気兼ねせず日の出前に出発し先を急ぐということも可能になった。キャンピングカーで道の駅を利用し、地域地域の産物を楽しみつつ、数ヶ月におよぶような長期の自動車旅行を自由気ままに楽しむ人々もいる。本書では、神奈川・静岡18駅、山梨・長野47駅、栃木・群馬33駅、千葉・茨城29駅、東京・埼玉18駅が紹介されている。

5.平成28年9月3日

 ”日本の花火”(2007年7月 筑摩書房刊 小野寺 公成著)は、全国から選花した花火大会情報を中心に夜空を彩り儚く消える花火の魅力を紹介している。

 夏は花火の季節で、毎週のようにどこか近くで花火大会が開催されている。歴史の深さや規模の大きさから、いつしか”日本三大花火大会”と呼ばれる花火大会がある。秋田・大曲、茨城・土浦、新潟・長岡である。世間では、これに加えた三重・伊勢の4大会は一度は見ておきたい花火だと言われる。本書では、一度は観ておいて損はない、おすすめの全国厳選花火大会の紹介に始まり、一般の花火大会のプログラムを構成する数々の出し物について、それがどういう演目であるかが解説されている。さらに、スタンダードな花火ついての種類や名称を、独特の分類法則と視点から現象や形態がわかりやすく説明されている。小野里公成氏は、1957年東京生まれの写真家、デザイナ、花火愛好家で、ライフワークとして、年間を通して2~40箇所の花火大会を各地で観覧している。花火撮影の講演、花火関連原稿の執筆、監修、花火写真コンテスト審査員なども務め、花火写真を各メディア、煙火業界に提供している。日本の花火は世界一精巧で、華麗。花火師たちは伝統の技に加え、毎年オリジナルな趣向を凝らした新作で腕を競う。その色、形、デザインは、どのようにつくられているのか、プログラムで見逃せない演目は何かなど、知っていれば花火大会が何十倍も楽しめる。気鋭の花火作家たちは互いにしのぎを削り合い、花火に真摯に取り組んでいる。彼らと同時代に生きている私たちは、その取り組みから生み出される素晴らしい花火作品、打ち上げパフォーマンスをリアルタイムに観ることができる。花火大会をよりよく運営し、たくさんのお客様に来場してもらい、楽しんでしかも安全に帰っていただく、ということに前向きに取り組む主催者も増えてきている。花火大会の情報や観覧ツアー、インフラも充実し、花火愛好家ばかりでなく一般の多くの観客が良い花火を良い演出と環境で楽しめるようになってきている。近年はテーマパークのアトラクション、クリススや年越しカウットダウンなど、花火は夏の風物詩という枠組みを超えて四季を問わず様々な場で使われている。花火大会は映画鑑賞やコンサートのように、デートや遊びのひとつの通過点であり、人と会って遊ぶためのきっかけ、という使われ方も普通になっている。花火のビフォー、アフターをどこでどう過ごすかも、現代の花火大全を楽しむポイントといえる。花火大会の内容、規模はもちろん、運営、インフラについては毎年変動している。むしろ、例年通りが通用しない場合の方が多い。天候など様々な事情により、お目当てのプログラムが必ず行われるという保証もできない。花火内容そのものより、観覧客に直接影響するような一般観覧場所の状況、有料席の有無や価格、販売状況、マイカー使用の際の交通規制などはとくに変動しやすい。観た心を満足させてくれるのは物量ではなく花火それ自体であり、地方の小さな花火大会で思いがけず綺羅星のような花火体験に出会うこともある。それも花火大会を巡る旅の楽しみである。

第1章 一度は見ておきたい厳選全国花火大会―筆者おすすめの必見、花火大会ガイド
全国花火競技大会大曲の花火(秋田)
長岡まつり大花火大会(新潟)
ぎおん柏崎まつり海の大花火大会(新潟)
片貝まつり浅原神社秋季大祭奉納花火(新潟)
諏訪湖湖上祭花火大会/全国新作花火競技大会(長野)
ツインリンクもてぎ花火の祭典~夏~(栃木)
常総市みつかいどう花火大会(茨城)
土浦全国花火競技大会(茨城)
東京湾大華火祭(東京)
みなと祭国際花火大会
神奈川新聞花火大会(神奈川)
神明の花火(山梨)
ふくろい遠州の花火(静岡)
豊田おいでんまつり花火大会(愛知)
海の日名古屋みなと祭花火大会/スター☆ライト花火(愛知)
熊野大花火大会(三重)
びわ湖大花火大会(滋賀)
教祖祭PL花火大会(大阪)
なにわ淀川花火大会(大阪)
やつしろ全国花火競技大会(熊本)
第2章 花火大会を彩るプログラム
第3章 花火鑑賞図鑑-花火の種類と名称、形と色
第4章 花火大会を楽しむために

6.9月10日

 ”ぶらりあるきミャンマー・ラオスの博物館”(2016年7月 芙蓉書房出版刊 中中村 浩著)は、ぶらりあるき博物館アジアシリーズの第10弾である。

 ミャンマー・ラオスの博物館、美術館、植物園、動物園、記念館、寺院から“野外博物館"などの130施設を収録している。中村 浩氏は、1947年大阪府生まれ、1969年立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒業、大阪府教育委員会文化財保護課勤務を経て、大谷女子大学文学部専任講師、助教授、教授となり、現在、名誉教授を務めている。高野山真言宗龍泉寺住職も務めており、専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学、日本仏教史である。ぶらりあるき博物館アジアシリーズでは、これまで、マレーシア、タイ、ベトナム、香港・マカオ、カンボジア、インドネシア、フイリピン、マニラ、台湾とめぐり、今回はミャンマー、ラオスである。東南アジア諸国の博物館めぐりは、ヨーロッパ諸国の博物館を訪問していたころ、自分にアジアの国々の博物館や遺跡について何も情報がないことに気が付いたことから、一念発起して始めたという。ミャンマーは連邦共和国で、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家である。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦であった。ASEAN加盟国で、2014年現在の人口は5,142万人、首都はネピドーである。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面し、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接している。多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占める。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がいる。ラオスは人民民主共和国で、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家である。ASEAN加盟国で、人口約691万人、首都はビエンチャンである。ASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、タイ、西はミャンマーと国境を接している。ミャンマー、ラオスは、カンボジアと同様、博物館の数はあまり多くないが、遺跡や寺院はかなりの数ある。ラオスでは、寺院に博物館という表示が見られる。このようなケースは他の国々では見られなかった。訪問した博物館の数は500を超えているが、かつて訪れたヨーロッパ諸国と比べると、東南アジアの博物館の数ははるかに少ない。展示手法も地域によってさまざまで、素晴らしい現代的なディスプレイ技術を駆使している博物館もあれば、素朴で飾り気のない展示もある。一方、アジア地域には歴史や伝統のある寺院や遺跡などの歴史的文化的遺産が多く残されている。近年では世界遺産に登録されているものもあり、登録にともなって博物館施設が設置される傾向が見られる。ミャンマーは、急速に近代化が進んでおり、金や宝石などの鉱山の開発でも世界中から注目されている。ヤンゴンには近代的な建物の国立博物館をはじめ、国立麻薬撲滅博物館、ヤンゴン動物園、自然史博物館、独立の父とされるボージョーアウンサン博物館やウータント記念館などの人物顕彰の博物館もある。特産品の宝石に関する宝石博物館は、ヤンゴンのほかに新しい首都ネピドーにもある。ミャンマー民俗村は、少数民族の家屋を移築して公開している施設である。ミャンマーは熱心な仏教徒の国として知られているように、多くの寺院がある。ボロブドゥール、アンコールワットとともに世界三人仏跡に数えられるバガン地域には、3000基を超える仏塔、寺院がある。ラオスの首都ビエンチャン市内には、国立博物館をはじめ、ラオス人民軍歴史博物館、人民安全保障博物館、カイソーン・ポムビハーン博物館、スファヌボン国家主席記念館などがあり、ラオスの国家成立史の1コマを見ることができる。この他、繊維博物館、ブッダ・パークなど個性的な施設も見られる。ラオスの寺院には、ミュージアムという表示をよく見かける。ワット・ホーパケオ、タート・ルアン、ワット・シーサケート寺院などでは小仏像が展示されているほか、博物館的な展示が見られる。ミャンマー、ラオスには多くの歴史遺産や文化遺産があり、広い意味での遺跡博物館を楽しむことでできるという。

ミャンマーの博物館
 ヤンゴン/バゴー/バガン/マンダレー/アマラプラ/シュエボー/世界遺産ピュー王朝の古代都市群

ラオスの博物館
 ビエンチャン/チャンパーサック県/シェンクワン県/ルアン・パバーン

7.9月17日

 ”知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯”(2005年12月 講談社刊 中村 彰彦著)は、徳川15代の礎を築き知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の生涯を紹介している。

 著者はもともと会津藩初代藩主保科正之のことをいろいろ調べる中で、松平信綱の生き方に興味を持ったという。松平信綱は江戸時代前期の大名で、武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主で、老中として松平伊豆守信綱の呼称で知られている。徳川三代、秀忠、家光、家綱に仕え、抜群の危機管理能力で徳川長期政権の礎を築いた。幼少の頃より才知に富み、官職の伊豆守から”知恵伊豆=知恵出づ”と称された。中村彰彦氏は、1949年栃木市生まれ、東北大学文学部卒業後、文藝春秋勤務を経て文筆活動に入り、エンタテインメント小説大賞、中山義秀文学賞、直木賞、新田次郎文学賞を受賞している。松平信綱は1596年に徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれ、1601年に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となった。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近に居住し、生母・深井氏は白井長尾氏の末裔であった。1603年9月に将軍世子の徳川秀忠に従い、11月に正綱に従って伏見城に赴き、徳川家康と初めて拝謁した。1604年7月に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になり、のち5人扶持となった。1611年に前髪を落として元服し正永と名乗り、1613年に井上正就の娘と結婚した。1620年に500石を与えられ、1623年に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受け、家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。1624年に1,200石を加増され、1626年に家光の上洛に再度従った。1628年に相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられ、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。1630年に上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増された。1632年4月に家光の日光山参詣に従い、のち老中と小姓組番頭を兼務した。1633年に、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に6人衆に任命された。阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増され3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられた。1634年に”老中職務定則”と”若年寄職務定則”を制定した。6月に家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、家光より駿府城で刀と盃を賜り、のち、従四位下に昇叙された。1635年に寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定し月番制も定め、将軍直轄の体制を固め職務の改革を進めた。1636年に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務めた。1637年10月に島原や天草などでキリシタン一揆が発生した。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。当初、幕府軍の総大将は板倉重昌で、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。1638年1月に重昌が戦死し、石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任した。副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きて、原城を陥落させることができた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され、1639年1月に3万石加増の6万石で川越藩に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。また、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。1638年11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。1639年8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。1651年4月の家光没後は第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を鎮圧した。1652年9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧し、1657年1月の明暦の大火などの対応に務めた。1662年1月に病気に倒れて出仕できなくなり、その後、一度は回復したものの病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いした。3月に老中在職のまま、享年67歳で死去した。信綱は、天草・島原の乱、明暦の大火、慶安事件など、次々と発生する大事件に処置を講じ、一度たりとも失着を犯さなかったという。信綱が知恵伊豆と呼ばれたのも、徳川二代将軍秀忠、三代家光、四代家綱に仕え、つねに明晰な判断力を発揮して、長きにわたる徳川の平和の実現に寄与したからにほかならない。ひるがえって近頃の政治家、役人、財界人たちの言動を眺めれば、危機管理能力と誠実さの欠如、リーダーシップのなさばかりが目につくという。

第1章 将軍家の小姓として
第2章 「六人衆」から老中へ
第3章 天草・島原の乱を平定せよ
第4章 名老中への道
第5章 徳川の平和
年 譜 松平信綱とその時代

8.9月24日

 ”吉田稔麿 松蔭の志を継いだ男”(2014年8月 KADOKAWA刊 一坂 太郎著)は、松下村塾に学び、高杉晋作・久坂玄瑞と並び称される三傑の一人、吉田稔麿の生涯を紹介している。

 吉田稔麿は、幕末を舞台にした映画、ドラマ、アニメやゲームにはたびたび登場している。幕府方に潜入し、外国艦を撃ち、奇兵隊を指導するなど、神出鬼没の働きぶりを示した。そして、池田屋事変において24歳で斃れた、幕末乱世をひたむきに走り抜けた青年武士である。一坂太郎氏は1966年兵庫県芦屋市生まれ、大正大学文学部史学科を卒業し、東行記念館学芸員・副館長を務め、閉館後、萩博物館高杉晋作資料室長、防府天満宮歴史館顧問を経て、山口福祉文化大学特任教授を務めている。長州萩で松陰が主催した松下村塾は、幕末から明治にかけて活躍した、多数の人材が輩出したことで知られている。その中でも、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿は松陰門下の三秀と称され、入江九一を入れて松門四天王ともいわれる。吉田稔麿は、1841年に萩藩松本村新道に軽卒といわれる、十三組中間の吉田清内の嫡子として生まれた。名は栄太郎で、後に稔麿と改名した。生家は松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。稔麿は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修めた。松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて三無生と称することがある。稔麿が無逸、増野が無咎、松浦が無窮と称したことに由来する。松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価し、高杉晋作を陽頑と評したのに対し、稔麿を陰頑と形容している。松陰が良い点も悪い点も自分に似ていると評し、自分の志を継いでくれると、もっとも期待した門下生である。乱世に生きていると強く自覚していた稔麿は、その波に乗って下級武士の身分からはい上がろうとの、野心を抱いた。危険を顧みず、身分を詐称して幕府方に潜入するという、まるで講談小説のような活動も行っている。1858年に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れるが、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年の1860年10月に脱藩しているものの、1862年にはその罪を許されている。1863年6月に高杉晋作の創設した奇兵隊に参加し、7月に屠勇隊を創設した。8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功した。この年に稔麿と改名した。長州藩には栄太郎より三つ年少の吉田栄太郎という八組上がいて、後付の史家たちも二人を混同してきた。1863年まではこの吉田栄太郎が二人存在していた。そこで藩から改名を命じられ、吉田年麻呂になった。書簡では、年麿、年まろ、年丸、とし丸、稔丸と署名している。高杉晋作の書簡には、吉田稔麿の名前が見られる。明治以降はこの稔麿の呼称が多くなっている。1864年6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外した。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死した。最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。別に、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられること無く、門前で自刃したという話もある。享年24歳であった。1891年に従四位を追贈された。品川弥二郎子爵は、稔麿が生きていたら総理大臣になっただろうと語ったとされる。

第一章 松陰との出会い
 吉田稔麿の生い立ち/人生の大転機/松下村塾での逸話
第二章 乱世に飛び込む
 松陰の志を継ぐ/幕府に潜入/松陰と絶縁する/松陰との永遠の別れ
第三章 旗本の家来になる
 乱世を呼ぶ一揆/長州藩の動向/隆盛する薩摩藩
第四章 攘夷実行
 シンボルとしての松陰/ついに攘夷を断行/奇兵隊とともに
第五章 京都に散る
 朝陽丸をめぐって/江戸から京都へ/池田屋事変の悲劇/劇的に描かれる稔麿の最期
主要参考文献/吉田稔麿略年譜

9.平成28年10月1日

 ”漱石の孫”(2006年5月 新潮社刊 夏目 房之介著)は、100年の時間を経てかつて漱石が下宿していた部屋を訪れ、英国と日本、近代と現代、文学とマンガなど交錯する思いの中でふり返る夏目家三代の歴史が描かれている。

 夏目漱石・鏡子夫人には、長男・純一、二男・伸六、長女・筆子の3人の子供がいた。伸六は随筆家、純一はヴァイオリン奏者で、筆子は小説家の松岡譲と結婚した。夏目房之介は純一の子供である。純一は1907年に東京市牛込区で生まれ、暁星小学校在学中、父・漱石からフランス語の手ほどきを受けた。しかし、勉強嫌いで学業を捨てて、ヴァイオリンを宮内省管絃楽部の山井基清に、ドイツ語を内田百閒に師事した。1916年に父が亡くなり、亡父の潤沢な印税を背景として、1926年、5ヵ年の予定でベルリンに留学した。ジプシー音楽に魅了されてウィーンからブダペストへと移り、ブダペスト音楽院に遊学した。ヴァイオリンを学びつつ、テニスや乗馬、猟に興じ、誂えのスポーツカーを乗り回し、貴族と交遊した。1939年に第二次世界大戦勃発により帰国し、東京交響楽団に第一ヴァイオリン奏者として参加した。そこで知り合った三田平凡寺の二女でハープ奏者の嘉米子と1945年に結婚した。夏目房之介は1950年に東京都港区高輪で生まれた。教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎を受験したが失敗し、区立高輪台小学校に通った。中学から青山学院に入学し、青山学院高等部を経て、青山学院大学文学部史学科に進み中国史を専攻した。大学在学中に実家を出て中野で恋人と同棲し、新宿や渋谷のジャズ喫茶に入り浸る青春を送った。吉本隆明、大江健三郎、ドストエフスキーなどを愛読していた。卒論のテーマは五四運動であった。1973年に恋人と結婚して世田谷区給田に転居し、杉並区にあった小さな出版社に入社した。雑誌の編集の片手間に、挿絵イラストレーターとしての副収入を得、次第に仕事のウェイトを副業に移した。就職3年目の1976年に会社が倒産し、そのままフリーのイラストレーターとして独立した。1975年に作品集を自費出版し、尊敬する手塚治虫に見てもらった。1978年から週刊朝日の新コーナーのイラストを担当するようになり、これが1982年に夏目をメインとした漫画コラムへと発展するに至った。この連載が夏目の名を有名にし、漫画コラムニストとしての評価を固めた。1986年からディレクターが夏目のファンであった縁からTBSのクイズ番組に出演し、1988年からNHK教育テレビの土曜倶楽部にもレギュラー出演するようになった。以降、NHKにたびたび出演するようになった。漫画家としては、谷岡ヤスジや土田よしこ、佐々木マキの影響下に、シュールな作風のギャグ漫画を発表した。また、漫画評論も行っており、コマと描線に着目して分析を行う手法を採用していた1999年に、第3回手塚治虫文化賞マンガ特別賞を受賞している。房之介自身、若い頃には”漱石の孫”というレッテルを重荷に感じていたという。また、漱石の本名”金之助”と似た”房之介”という名前も嫌っていた。しかし、年齢を重ねるにつれ、それまで嫌っていた漱石に向き合うことに興味を抱いた。1996年の”不肖の孫”では、漱石と平凡寺のことを書いた。房之介にとって祖父といえば、会ったことがない漱石ではなく、自分を可愛がってくれた平凡寺のことだという。漱石は49歳で亡くなり、房之介は漱石に直接会ったことがない。また、NHKの番組”世界わが心の旅”の企画でロンドンの漱石の下宿等を訪問したことから、その時に感じた内容をもとに2003年に執筆したのが本書である。2006年には、”孫が読む漱石”を刊行している。この年に妻と離婚しているが、5年後の2009年に復縁した。2008年に学習院大学大学院に新設された人文科学研究科身体表象文化学専攻の教授に就任した。ほかに花園大学文学部創造表現学科で客員教授、京都大学で非常勤講師を務めている。このように、マンガ・コラムニストとして活躍中の著者が、偉大な祖父・夏目漱石への思いを初めて赤裸々に語った、漱石渡英100年後のロンドン訪問記である。

第1章 漱石と出会う
第2章 夏目家の鬼門
第3章 漱石観光
第4章 漱石と僕
第5章 文学論とマンガ論
第6章 業の遺伝
第7章 百年後の猫

10.10月8日

 ”遠いむかしの伊勢まいり-朝日文左衛門と歩く”(2013年10月 FTC中央出版刊 大下 武著)は、およそ300年前の朝日文左衛門の三度目の伊勢まいりを紹介している。

 朝日文左衛門は朝日重章の通称で、江戸時代前期から中期の武士であった。尾張名古屋藩士で、1691年から1718年までの26年8ヵ月、当時の世相、事件、物価、天候気象、芝居、身辺雑記などをしるした”鸚鵡籠中記”をのこした。大下 武氏は、1942年生まれ、早稲田大学文学部を卒業し、愛知県立高校教諭を経て、春日井市教育委員会文化財課専門委員を務めた。伊勢神宮は天照大神の神社として、公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていた。中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していた。伊勢神宮を建て直すため、祭司を執り行っていた御師が農民に、伊勢神宮へ参詣してもらうように各地へ布教するようになった。中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。やがて、神社にも巡礼が盛んになった。街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。特に商家の間では、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠のお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたという。伊勢神宮参詣は、多くの庶民にとって一生に一度とも言える大きな夢であった。朝日定右衛門重章は、延宝2年=1674年に尾張藩徳川家御天守鍵奉行、知行100石の子として生まれた。元禄4年=1961年6月13日から日記を書き始め、享保2年=1718年12月29日で日記を絶筆した。1693年に弓術師匠の朝倉忠兵衛の娘けいと結婚したが、女癖が悪く後に離婚した。その後、すめという農家出身の娘と結婚したが、すめも嫉妬深い性格で暴力も振るわれ、家庭環境に生涯悩まされた。1694年に家督を継ぎ、御城代組、御本丸御番、知行100石となった。1700年に藩の御畳奉行となり、役料40俵となった。1708年に定右衛門に改名し、1709年に一人娘のおこんが嫁いだ。この頃より深酒が祟り、健康状態を害する事が多くなり、1718年10月7日に45歳で死去した。死後、跡継ぎに娘しかいなかったため養子を立てたが、病弱であったためほどなく知行を返上した。朝日家が断絶したため、経緯は不明ながら鸚鵡籠中記は尾張藩の藩庫に秘蔵されたという。その後、昭和40年代までの約250年にわたって公開されず、まぼろしの書として存在のみが知られていた。愛知県北部の春日井市は名古屋市に隣接した地で、江戸時代の尾張藩あるいは名古屋藩に含まれ、普通は尾張殿と敬称で記したそうである。江戸の絵図にも尾張藩上屋敷ではなく、尾張殿上屋敷と記されている。朝日文左衛門重章は根っからの好人物で、友人にも恵まれ、妻を除けば生涯喧嘩らしい喧嘩をしていない。その日記は27年間、元号でいうと貞享から元禄、宝永、正徳、そして享保に及ぶ。はじめての伊勢まいりは元禄6年=1693年3月のことで、文左衛門重章は数えの20歳になり、区切りの年であった。次月に婚礼が控えていて、月末には名君の誉れ高い尾張二代藩主徳川光友が隠居、実子の綱誠が就封する予定であった。婚礼後の7月には父重村が隠居願いを出し、いよいよ文左衛門もひとり立ちすることになっていた。2度目の伊勢まいりは元禄8年=1695年4月半ば過ぎ、文左衛門22歳のときであった。前年の暮れに家督相続が聞き届けられ、文左衛門は正式に朝日家の当主となった。正月には御本丸御の初出勤を済ませ、3月には妻のけいが無事女児おこんを出産し、9月には両親が敷地内に増築した隠居部屋に移った。そして、3度目の伊勢まいりは第47回の式年遷宮に合わせ、宝永6年=1709年4月のことであった。この年の正月、犬公方と渾名された将軍綱吉が没した。4月半ばの伊勢まいり直後に、文左衛門の娘おこんと水野権平の息子久治郎の縁談がまとまった。本書では、鸚鵡敵中記を拠り所に、伊勢神宮そのものより旅程の紹介に重きをおいたという。

第1章 坊さんの伊勢まいり
第2章 尾張藩士「朝日文左衛門」の登場
第3章 朝日文左衛門の伊勢まいり

11.10月15日

 ”テュルクを知るための61章”(2016年8月 明石書店刊 小松 久男編著)は、ユーラシア大陸を舞台に歴史上活躍してきたテュルク民族について、起源、言語、文学、世界史上で果たした役割や日本とのかかわりなどを紹介している。

 テュルクとはトルコを指しており、トルコ語のテュルクにあたる言葉として、日本語ではトルコという形が江戸時代以来使われてきた。しばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。テュルク地区では、トルコ語、アゼルバイジャン語、タタール語、トルクメン語、ウズベク語、カザフ語、キルギス語、ウイグル語、ヤクート語などが使われ、話し手は約1億人である。地域はバルカン半島から東シベリアまで、広大な地域に分布している。本書のテュルクの範囲は、中央アジア、中国の新疆ウイグル自治区、シベリアに広く分布している。編著者の小松久男氏は1951年東京生まれ、1969年豊多摩高校卒業、1974年東京教育大学文学部卒業、1980年東京大学大学院人文科学研究科東洋史学専門課程博士課程中退、1980年から東海大学文学部専任講師、助教授、1992年から東京外国語大学助教授、1995年から東京大学大学院人文社会系研究科助教授、教授、2012年から東京外国語大学大学院総合国際学研究院特任教授を務めている。広範囲に及んでいることから、執筆者は内蒙古大学蒙古学研究中心専職研究員の赤坂恒明氏、早稲田大学イスラーム地域研究機構次席研究員の秋山徹氏、東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授の新井政美氏、東北学院大学准教授の石川真作氏、京都外国語大学外国語学部非常勤講師の磯貝真澄氏、京都大学人文科学研究所教授の葉穣氏、九州大学人文科学研究院准教授の小笠原弘幸氏、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程の小野亮介氏、藤女子大学文学部講師の川口司氏、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授の近藤信彰氏、和光大学表現学部教授の坂井弘紀氏、筑波大学人文社会系助教の塩谷哲史氏、東京外国語大学大学院総合国際学研究院特任講師の島田志津夫氏、九州大学名誉教授の清水宏祐氏、中央大学文学部兼任講師の清水由里子氏、東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授の菅原睦氏、青山学院女子短期大学現代教養学科助教の鈴木宏節氏、東洋文庫研究部研究員の永田雄三氏、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター准教授の長縄宣博氏、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授の野田仁氏、龍谷大学文学部特別任用教授の濱田正美氏、日本学術振興会特別研究員の濱本真実氏、創価大学文学部教授の林俊雄氏、笹川平和財団特任研究員の松長昭氏、お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系教授の三浦徹氏、東洋大学社会学部教授三沢伸生氏、和光大学非常勤講師の山下宗久氏(肩書はいずれも執筆時点のもの)の多数となっている。テュルクとされる人々がみな、自分はテュルクの一員だと考えているわけではない。現代においては個別の民族や集団あるいは宗教への帰属意識がまさり、とくにテュルクというアイデンティティを意識しないことがむしろ普通である。巨大な同族の存在を喚起する汎テュルク主義にしても、その発現には近代のさまざまな条件が作用しており、主張する者や時代と地域によって方向性も多様であった。テュルクという認識は、過去数世紀末のテュルク諸民族の言語や文化、文学、歴史に関する研究、すなわちテュルク学の成果に基づいて形作られたと言った方がよいかもしれない。テュルクの移動と拡散、変容の様相は、こうした言語や文学、歴史研究によって明らかにされている。テュルクとはいわば時空を越えた超域的な存在であり、一見するととりとめもないように見える。しかし、テュルクに注目することによって見えてくるものは少なくない。とりわけユーラシアの歴史と文化、その現在を考える上でテュルクの存在を無視することはできない。第一に、テュルクの活動は、中央ユーラシアを中心にその東南の中国、西方の西アジアやロシア、ヨーロッパ、南方の南アジア、さらに北方は北アジアの隣接地域に広く及んでおり、世界史を俯瞰して理解する上ではきわめて重要である。第二に、テュルクというアイデンティティは、大きくとらえれば、古来の伝説や碑文、叙事詩、系譜書などに刻印されながら、やがて姿を隠し、近現代になって再生するという流れをたどった。第三に、テュルク世界は日本とは遠く離れた世界と思われがちであるが、意外なところで関係のあることがわかる。ロシア革命後に日本にやってきたタタール移民などがそれである。さらに食物やスポーツ、文化にも目配りすると、いろいろな接点が見えてくる。これほど広大な空間にダイナミックな展開をとげた集団は、世界史のなかでも類例はない。歴史的なテュルク系民族と国家は、匈奴、フン族、丁零、高車、悦般、突厥、鉄勒、ウイグル、キルギス、オグズ、カルルク、ブルガール、ハザール、キメク、キプチャクを経て、イスラーム化後のテュルク系国家の数々が連なり、その後、現代のテュルク系諸国に及んでいる。トルコ共和国、アゼルバイジャン共和国、ウズベキスタン共和国、トルクメニスタン、キルギス共和国、カザフスタン共和国とロシア連邦および参加の共和国諸国などである。本書は、現在の日本におけるテュルク学の最新の成果を収めたものである。

1 記憶と系譜そして信仰
2 文学と言語
3 テュルク系の諸民族
4 世界史のなかのテュルク
5 イデオロギーと政治
6 テュルク学―テュルクの歴史・言語・文化に関する研究
7 テュルク世界と日本

12.11月22日

 ”オーケストラ大国アメリカ”(2011年4月 集英社刊 山田 真一著)は、クラシック音楽の伝統のない国だと思われているアメリカが、実は真のオーケストラ大国だという。

 クラシック音楽は16世紀ルネサンス期にまで遡れる程の歴史を持つことから、オーケストラはさぞ古いものだと感じてしまう人は多い。しかし、現在我々がイメージするオーケストラの姿は、それほど昔に形成されたものではない。現代のオーケストラのスタイルは19世紀に成立したもので、アメリカのオーケストラはその形成過程で重要な役割を果たした。今日まで続くアメリカで最も古いオーケストラは、ニューヨーク・フイルハーモニックである。設立は1842年、これはウィーン・フイルハーモニー管弦楽団と同じ年である。山田真一氏は1963年東京生まれ、シカゴ大学大学院博士課程を修了し、昭和女子大学非常勤講師を務め、音楽専門誌や新聞などに評論等を執筆している芸術文化研究者、音楽評論家である。今日ではもう聴くことができない演奏団体やオーケストラは19世紀前半のアメリカに幾つもあった。フランス王家オルレアンや、ジャンヌ・ダルクでも有名な都市にちなむニューオリンズは、フランスの豊かな文化の影響を受け、アメリカ合衆国に併合されてからも、19世紀初頭、音楽文化ではアメリカで最も活動的な地域だった。そのニューオリンズには、ニューヨーク・フィルよりも早く、1824年にニューオリンズ交響楽団協会が設立された。ニューオリンズからは、アメリカ生まれながらヨーロッパ渡航後、ショパンに劣らない人気を得たピアニストで作曲家のルイ・モロー・ゴッチョークのようなアーティストも出た。ニューオリンズからミシシッピー川を上って、アメリカ北東部を結ぶ地点にあるセントルイスには、1838年セントルイス・フイルハーモニック協会が設立されている。また、オーケストラ伴奏を伴って、メサイアやハイドンのオラトリオなど古典音楽の演奏と解釈を深める目的で組織されたボストンのヘンデル・ハイドン協会は、1815年の設立である。19世紀末、チャイコフスキーやドヴォルザークは、ヨーロッパ以上にアメリカで認められ、繰り返し演奏されて人気が確定した。ドヴォルザークの代表作、交響曲第9番、新世界より、はアメリカで作曲されたものである。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラフマニノフ、マーラーなどは、アメリカでレパートリーとして定着して世界へ広まった。現在、CNNのサイトに掲載された世界の偉大なオーケストラトップ10は、1位、ベルリンフィル、2位、ウイーンフィル、3位、ニューヨーク・フィル、4位、ロイヤル・コンセルトゲボウ・オーケストラ、5位、ロンドン響、6位、シュターツカペレ・ドレスデン、7位、ラウプツィッヒ・ゲヴァントハウス管、8位ザンクト・ペータースブルグ・オーケストラ、9位、チェコ・フィルハーモニー、10位、東京フィルハーモニーとなっている。ほかのランキングでも、ニューヨーク・フィル以外に、シカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団、ロサンゼルス・フィル、ボストン交響楽団、サンフランシスコ響メトロポリタン歌劇場管弦楽団などが挙げられている。トスカニーニ、バーンスタイン、ショルティなどのカリスマ指揮者や、名オーケストラが数々あるアメリカのオーケストラを知らずして、もはやクラシック音楽は語れない状況にある。本書は、これまで余り知られてこなかったアメリカのオーケストラの形成過程をひもときながら、どのようにアメリカが近代オーケストラの形成に貢献したかを紹介している。第1章では、19世紀にアメリカでなぜオーケストラが重要な文化の担い手になったのか、そして、なぜ20世紀初頭には世界水準の演奏団体へと成長できたのか、その理由を探っている。第2章では、20世紀前半、オーケストラが大衆的な存在となった過程を、フィラデルフィア管弦楽団を率いたストコフスキーと、そのライバルだったニューヨーク・フィル率いるトスカニーニを軸に説明している。第3章では、20世紀半ばになり、アメリカのオーケストラが、聴衆の拡大やレコード技術の発展などにより、大きな文化産業へと発展し、世界の音楽界に影響を与えていく姿を迫っている。

はじめに なぜアメリカのオーケストラなのか?
第1章 オーケストラ大国の礎
 オペラハウス・ブーム/オーケストラの伝道師トーマス-地域オーケストラの誕生/スパルタ指揮者!マーラー-アメリカ音楽界の飛躍/ドイツ音楽界からの脱皮
第2章 オーケストラ大衆時代の到来
 スター指揮者誕生/アメリカで花開いた現代指揮法
第3章 悲劇と栄光の指揮者たち
 新しい音楽界ビジネスの出現/レコード業界の飛躍/幻のシカゴ響音楽監督フルトヴェングラー/最後の勝利者ライナー
第4章 スーパー・オーケストラの登場
 アメリカ生まれのスター指揮者/ゲオルグ・ショルティ/クリーヴランド管弦楽団-セルとその遺産
第5章 オーケストラ大国アメリカの発展
 オーケストラ・ダイナミズムの時代/米国オーケストラの発展支えたもの)
主要参考文献

13.10月29日

 ”イチロー流 準備の極意”(2016年5月 青春出版社刊 児玉 光雄著)は、メンタルカウンセラーによる仕事で成果をあげるための日々の小さな積み重ねのヒントをイチローの数々の言葉から紹介している。

 イチロー選手は本名は鈴木一朗で、1973年愛知県西春日井郡豊山町生まれのプロ野球選手である。日本プロ野球では、MVP、首位打者、打点王、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などを獲得し、2000年オフに日本人初の野手としてメジャーリーグベースボールに移籍し、MVP、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞などを獲得した。2004年にはMLBのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、コミッショナー特別表彰を受け、2016年にはメジャー通算で3000本安打、500盗塁を達成した。日本プロ野球とメジャーリーグ通算で安打世界記録を樹立し、現在はマイアミ・マーリンズに所属している。児玉光雄氏は1947年兵庫県生まれ、京都大学工学部を卒業し、カリフォルニア大学ロサンジェルス校大学院で工学修士号を取得した。米国五輪委員会スポーツ科学部門本部客員研究員として選手のデータ分析に従事し、20年以上にわたりメンタルカウンセラーを務めた。現在は追手門学院大学客員教授で、日本体育学会会員、日本スポーツ心理学会会員である。長年にわたりイチロー選手を追い続け、多数の著書を著しているスポーツ心理学者が、これまでの同選手の「準備」にまつわる言葉をピックアップしている。イチローの言葉には、彼の成功習慣を知るダイヤモンドの原石が存在するという。
・大仕事を成し遂げる”小さな積み重ね”
 間違いなく3000本安打は終わりではありません。ゴールではないのです。そうなったとしても。いずれやってくるプロセスにすぎません。
・結果は本番前に決まっている!
 ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです。

第1章 努力の本質
 大仕事を成し遂げる”小さな積み重ね”/努力の方向性を間違えるな/「オンリーワン」はあえて目指さない/その仕事の”スイートスポット”はどこにあるか?/自分を客観視する能力の必要性/「考えて動く」よりも「感じて動く」/「自分の限界」には挑み方がある/仕事を”深堀り”することで見えてくること
第2章 準備の極意
 結果は本番前に決まっている!/準備とは「言い訳を排除する」作業のこと/本番に強い人に共通する習慣/心と体を万全に整えるとは/仕事後のルーティンを疎かにしない
第3章 自分の能力を引き出す
 ”自分の武器”を磨くための時間/継続は才能を上回る/「妥協したくなる自分」との向き合い方/”天才”が持っている弱点/40歳から成長できる人間とは?/仕事の「何を」追い求めて働くべきか?/うまくいかない仕事を面白がる秘訣
第4章 モチペーションの高め方
 前を向いて進んでいく人の決断基準/近道を求めるほど成果は遠のく/「完璧な自分」の追い求め方/自分の「どこに」期待するか?/よくない結果が出た時は、こう解釈する/「本気」をどこまでも維持できる秘密/一時の感情に左右されない力の源泉/仕事における”最大の報酬”とは何か?/”自分へのご褒美”がやる気を阻害する/「数字」を追いかけるだけでは高まらないもの/自分は「どんな時に」頑張れるか?/「困難な目標」には取り組み方がある
第5章 不安を味方にする
 自分を高める「不安」との向き合い方/”壁”にぶつかった時こそチャンス/プレッシャーには弱くていい/プレッシャーを取り除く「簡単な」方法/修羅場にはくぐり抜け方がある/ニッチもサッチもいかなくなった時の打開策/「現状維持」なら「後退」するほうがいい/スランプの時ほど見えてくるもの/半端な自信より、不安を抱えられる人間であれ/「弱い自分」の奮い立たせ方/「いいイメージ」を描くだけでは成長できない
第6章 正しい目標設定
 「できない自分」を認めよう/「あきらめが悪い」人間になるコツ/目標を”越える”ための小さな習慣/自分にとって最適な目標設定法/やりがいが生まれる「ビジョン」の持ち方/人を本気にさせる「積み上げ目標」
第7章 仕事を面白くする視点
 「好き」か「嫌い」かで判断しない/自分に「与えられたもの」は何か?/天職は見つけるものでなく、作り出すもの/人生の「軸」をどこに置くか?/初心でプレーしてはいけない
第8章 真の楽観主義者であれ
 安易なポジティブ思考は、自分をダメにする/「精神的なレベルの高い」生き方とは?/「する」失敗より、「しない」失敗を恐れよ/リスクは進んで引き受ける/完璧主義者になるな、最善主義者になれ/結果にいちいち後悔しないメンタル術/仕事で「反省」してはいけない?/真の自信家になる習慣
第9章 現状の自分の疑い方
 「いつもの自分」をどう壊すか/いくつになっても成長し続ける大の「常識」/仕事のブレイクスルーが訪れる瞬間/常識に馴らされない思考法/迷い流されない「直観力」の高め方/「足し算」発想から「引き算」発想へ/人の”半歩先”を歩くという美学/この思考パターンが頭と心をしなやかに保つ/他人の評価を意識しない生き方
第10章 チームに流されないリーダー論
 説得力あるリーダーの背後にあるもの/理屈を超えた、心動かす伝え方/「チームワーク」は強調しすぎてはいけない/一流のりリーダーが持っている孤独力/チームの結束力が最も高まる瞬間/リーダーとして一番欠かせない条件

14.平成28年11月5日

 ”リオデジャネイロ歴史紀行”(2016年8月 えにし書房社刊 内藤 陽介著)は、リオデジャネイロの歴史や街並みを、切手、葉書、写真などでわかりやすく解説している。

 リオデジャネイロを会場に2016年8月5日~8月21日の17日間、第31回オリンピック競技大会が開催された。本書の発売日はリオデジャネイロ・オリンピックの開幕日に当たっており、絶好のタイミングで出版された。内容は、切手と国の歴史や情報があふれていて、豊富なカラー写真も掲載されており、目で見てわかるリオデジャネイロの今昔となっている。資料は、著者が実際に現地に行って撮って来たものや、歴史的にも貴重な絵葉書の写真などである。内藤陽介氏は1967年東京都生まれ、東京大学文学部卒業後、ノンフィクション作家兼テーマティク分野の世界的な切手コレクターである。テーマティク・コレクションは、伝統郵趣に対して切手の発行国を限定せず、切手のほかカバー、消印、ステーショナリーなど様々な郵趣材料を使って、ひとつのストーリーを語らせる切手コレクションである。郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く郵便学を提唱し、フジインターナショナルミント株式会社顧問、特定非営利活動法人日本郵便文化振興機構代表理事、日本郵趣連合理事、全日本切手展審査員、国際切手展審査員のほか、成城大学などで非常勤講師を務めている。旅行の楽しみの一つは、ネットやガイドブックに載っている写真・映像の実物を自分の目で確認することにあるのではないか。名所・旧跡を扱った切手や絵葉書というのは、ちょっと毛色が変わっているが、そのセレクションはピカイチの存在としてもっと注目されていい。切手は小さな外交官と呼ばれることもあって、多くの国では自国を代表する文化遺産や名所旧跡をさかんに切手に取り上げている。日本の郵便は株式会社化されてしまったが、世界的に見れば、何らかの形で、国家が郵便事業に関わっているケースが大半である。郵便事業の経営形態がどうであれ、日本の切手は日本の姿をシンボリックに表現しているようにみえる。われわれも、外国からのエアメールに貼られた切手を見て、その国のお国柄についてあれこれ想像をめぐらす。そうであれば、切手や絵葉書をガイドブック代わりに、そこに描かれた風景などを訪ねて歩いて行ったら楽しいのではないか。そんなことを考えて、これまで切手と歴史と旅を組み合わせた漫遊記ならぬ漫郵記の本を何冊か作ってきた。今回は、南米随一の巨大都市、リオデジャネイロがたどってきた16世紀以来の歴史と文化を自分の足で訪ね歩いた記録である。1960年にブラジリアに遷都するまでは、リオデジャネイロがブラジルの首都であった。2013年にリオデジャネイロで開催された世界切手展”Brasiliana 2013”にあわせて行った現地取材をもとに、切手や絵葉書を手掛かりに、雑誌”月刊キュリオマガジン”で連載した”郵便学者の世界漫郵記リオデジャネイロ篇”をベースに、大幅に加筆して書籍に仕上げた。リオデジャネイロは世界有数のメガシティで、国内最大の観光都市であり、港湾都市としても知られる。人口は600万人を超え、サンパウロに次いでブラジル第2位にランクされる。経済規模でもサンパウロに次いで第2位にあり、総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第56位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位の都市と評価されている。都市周辺の美しい文化的景観は、”リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群”として、2012年に世界遺産リストに登録された。"Rio de Janeiro"とは、ポルトガル語で”1月の川”という意味である。コパカバーナ、イパネマなどの世界的に有名な海岸を有し、世界3大美港の一つに数えられる美しい都市である。カーニヴァルやコルコヴァードのキリスト像、ボサノヴァのイパネマの娘やサッカーの聖地・マラカナンスタジアムが有名である。それ以外にも、リオデジャネイロにはまだまだ見るべき場所、語るべきことが山のようにあって、その多くが日本では意外と知られていない。そこで、今回は、そうしたリオデジャネイロの魅力と面白さについて、切手という小窓を通じていろいろ紹介していきたい。

第1章 ポン・ヂ・アスーカル
第2章 コルコヴァードのキリスト像
第3章 コパカバーナからイパネマへ
第4章 旧市街を歩く
第5章 フラメンゴとマラカナン
附 章 カーニヴァルと切手

15.11月12日

 ”人間が幸福になれない日本の会社”(2016年4月 平凡社刊 佐高 信著)は、日本企業を覆う病根を指摘し処方箋を指し示している。

 封建制度は、中国で周代に行われた天子がその領土を諸侯に与え、さらに諸侯はそれを臣下に分与して、各自にその領内の政治を行わせる制度である。それが中世社会の基本的な支配形態に及び、封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立し、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度となった。今日、一般に、上下関係を重視し、個人の自由や権利を認めないさまを封建的だという。佐高 信氏は1945年山形県酒田市生まれ、慶應義塾大学法学部を卒業し、高校教師、経済誌編集長を経て執筆活動に入り、評論家として今日に至っている。東北公益文科大学客員教授で、週刊金曜日編集委員・株式会社金曜日前代表取締役社長であった。本書を出そうと思ったキッカケは、東芝の歴代社長による不正経理が発覚したことである。株式の上場廃止になっても不思議はない粉飾決算だった。まだ、こんなことをやっているのかと唖然とした、という。依然として東芝藩であり、社長は殿様なんだと、その封建的体質に愕然とした。現在の企業という封建社会の中では、上司の命令に黙従する社員になることも、部下に専制権力をふるう社長になることも、同じく精神のドレイになることなのである。このような視点に立って、ドレイ精神からの脱却を図ることが企業人革命の出発点であり到達点である。封建的体質は東芝に限らないので、他社では問題が発覚しないだけとも言える。日本の企業には、社長の専制や独走をチェックするシステムがない。しかし、社長定年制を設けながら、自らそれを破る社長も珍しくないので、システムを整備すれば十分だとも言えない。社外取締役はほとんど社長に選ばれているのであり、田んぼの中のカカシほどにも役に立っていない。たとえばソニーの井深大やホンダの本田宗一郎、あるいは北洋銀行の武井正直などは、会えてよかったと思った経営者だった。日本では、むしろ異端とされるこうしたトップにこそ学ぶべきである。世襲経営をやめよ、ハイブリッド経営を推進せよ、役員定年制を確立せよ、社宅をやめよ、生活感覚を生かせ、分権性を採用せよ、そして、社員を人間として扱え。

第1章 日本の経営者はなぜ無責任か
 籾井のようなトップはどこにでもいる/ワンマンは張り子の虎
 トヨタの封建的土壌/酒田の“角福戦争”/人間を機械に近づける発想
 トヨタの福沢幸雄事件/トヨタによるミサワホーム乗っ取り/白昼堂々の「修正」
 責任をとらずに済む日本の企業/生産と生活の遊離が公害を生んだ
 経済ジャーナリズムの腐敗/うまくいったら上司の手柄、失敗したら部下の責任
 独裁者への抵抗
第2章 企業教のマインドコントロール
 松下幸之助という教祖/「経営の神様」の消費者無視/松下政経塾は「最大の欠陥商品」
 社畜ならぬ“社霊”/朝礼での“集団催眠”/社宅という日本的風景/社宅における相互監視
 企業ぐるみ選挙/企業の社員研修と修養団/修養団とは何か/戦後の修養団を支えた企業/
 強いられた「自主性」/みそぎの日立/日立の前近代的体質/「会社に民主主義はない」
第3章 ミドル残酷社会
 会社は社員のエキスを吸い取る/「逆命利君」の精神を
 アウシュヴィッツ収容所長の告白/「兵隊はモラルを判断しない」/過労死と自殺の間で
 経営者、上司、労組が共犯者/三菱重工の「加用事件」/日経を内部告発した記者
 エリート課長の反乱/出世欲の餓鬼道について/“怨歌”としての経済小説
 私の経済小説家地図/「将」と「兵」のどちらに光をあてるか
第4章 ホワイト企業のブラック性
 ブラックの尺度は労働条件だけではない/東京電力こそ最大のブラック企業
 役人ではなく、厄人/勲章をもらうのは国に借りをつくること/関西電力の閉鎖体質
 オリンパス問題を報道しないメディアの堕落/「よい会社」とは何か
 テレビCMをやたら打つ企業は要注意/教訓を垂れるトップと離職率
 「最後の総会屋」が獄中から送ってきた“遺書”
第5章 まともな経営者はどこにいるか
 「和」を排した本田宗一郎/松下グループの変わり種/経団連を嫌った井深大
 バブルに踊らなかった銀行頭取、武井正直/「企業は“混一色”でなければ」
 小倉昌男と運輸省のケンカ/「お役所仕事の官業を食った男」
 三澤千代治と山本幸男/ナマズの活用法/三澤の「社長=クズ箱」論
第6章 チェックシステムの不在
 自分で自分を社長に選ぶ取締役会というしくみ/短く終わるのが至上命令の株主総会
 電力会社に骨抜きにされたメディア/監査役の限界
 労働史上に残る東電労組委員長の発言/「苦情こそ宝」と言った樋口廣太郎
 欧米における市民の企業チェック/勲章拒否の経営者の系譜

16.11月19日

 ”料理僧が教える ほとけごはん”(2014年1月 中央公論新社刊 青江 覚峰著)は、アメリカでMBA取得後にお寺を継いだ異色の料理僧による法話と料理の十二ヵ月のエッセイである。

 ”ほとけごはん”という言葉は、古くインドで生まれた仏教にはないとのこと。しかし、2000年を超える歴史の中で多くの人が苦悩しながら食と向きあってきた積み重ねがあり、それを著者が解釈してまとめあげたという。青江覚峰氏は1977年東京・台東区生まれ、本郷高等学校を経て、カリフォルニア州立大学フレズノ校にてMBAを取得した浄土真宗東本願寺派の僧で、緑泉寺の住職、法名は”釈覚峰”である。2003年に超党派で集うインターネット寺院”彼岸寺”を立ち上げ、暗闇での食育イベント”暗闇ごはん”、暗闇での地域再生企画”暗闇の旅路”などを主催している。お寺の家に生まれたものの、お寺を継ぐのが嫌で海外に逃げ出し、アメリカで経営学を学び、授業の一環として企業のコンサルティングなどをしていたそうである。しかし、9.11テロに遭遇して価値観が大きく揺らぎ、お金を稼ぐということが果たして人生で唯一最大の目的なのだろうか、という疑問を持った。日本へ帰ってから、まず仏教の説話集を片っ端から読んだ。すっかりその世界に引き込まれ、気がついたときには、通っていた仏教の学校にあった説話集をすべて読み終わっていたという。そして、悪の世界にも救いをもたらす仏様の教え、慈悲というものをもっとしっかり知りたい、他の人にも知ってほしいと思うようになった。本書は、サブタイトルに、食べる法話十二ヵ月とあり、法話と料理で十二ヵ月をたどり、食を考える仏教と料理のエッセイである。緑泉寺は初代覺春法師が越前の国より江戸に下り、1615年に本郷湯島に湯島山緑泉寺として興したことにより始まった。著者は料理僧と称し、緑泉寺で住職をしながら料理を通じて仏教を伝える活動をしている。仏教は文字どおり仏様の教えであり、よりよく生きるための智慧を示唆してくれる。一日の生活、一生の暮らし、すべての瞬間で光り輝く、仏縁の教えが現代に伝わっている。食という、誰の日常にもありふれた、心と体に馴染んだ行為にも、仏教の教えがちりばめられている。けれども、私たちが体を維持するためだけに食べるのであれば、そこで思考は停止してしまう。行為が当然のものであればあるほど、そこに疑問を投げかけ、謙虚に食と向かい合う心構えが必要である。仏教とは教えられて知るものではなく、自ら問いを持ち考えることを大切にしている教えなのである。ほとけごはんでは、何かのお経に載っていたり説話に記されていたものではなく、著者が食と向き合い、自分自身と向き合い、仏教の教えと向き合って考え、つくりだしたものである。一月から始まり十二月で終わる各節は、各々の旬の料理(菜)、もてなし(饗)、お菓子(甘)の三部で構成されている。旬の料理とお菓子の簡単なつくり方も紹介している。肉を食べない、魚を食べない、にんにくを食べないというのは正しい精進料理であるが、ルールを決めて守ることだけに固執するのであれば、思考は停止してしまう。想定されていない海外の食材などと出会ったら、たちまち途方に暮れてしまうで
あろう。ただ盲目的に他人の意見に従うのは、仏教的な生き方とは言えない。この本を通して、命である食と向き合い、仏様の教えを感じ、一人ひとりのほとけごはんに出会ってほしいとのことである。

氷解の章
一月 菜 暗闇で人参を食べ比べる/精進出汁/三種の人参の炊合せ 饗 はじめての方をもてなすとき 甘 まさに「醍醐味」そのもの、嶺岡豆腐/嶺岡豆腐
二月 菜 耳で音を、鼻で香りをつかまえながら大豆を炒る/大豆の甘辛煮 饗 冬の突然の来客には乾物づくしを 甘 蕨の「毒」を抜く先人の知恵/わらび餅
三月 菜 芽吹いたばかりの菜の花への感謝/菜の花の昆布メめ 饗 種々の思いを忘れて別れの宴をともに 甘 桜餅の先人観にとらわれない/桜餅(関西風)
薫風の章
四月 菜 誕生仏に注ぐ甘茶で煮るさつまいも/さつまいもの甘茶煮 饗 食べもので繋がるお花見の縁 甘 花見団子を頬張りながら/花見団子
五月 菜 そら豆と枝豆の食べ比べで季節の移ろいを感じる/そら豆豆腐・枝豆豆腐 饗 食文化も三社祭と同じく融和して 甘 紫陽花は小さな花の集まりだから美しい/紫陽花
六月 菜 大切な人の心が宿る梅干し/梅干し 饗 吉日を選びすぎて縁を逃さずに 甘 手塩にかけた梅の甘露煮は味も格別/青梅のかき氷
流水の章
七月 菜 すべてを食べざる、茄子遊び/茄子遊び 饗 忙しいお盆は精進シチューで乗り切る 甘 くずきりに合う蜜はどれ?/くずきリ
八月 菜 とうもろこしという万能選手に感謝/とうもろこしのすりながし 饗 涼しさを全身で感じていただく夏のおもてなし 甘 冷やしあめで貪欲を払う/冷やしあめ
九月 菜 こちらとあちらを繋ぐ彼岸寿司/彼岸寿司 饗 市場で季節を知り、句の味を楽しむ 甘 おばあさんの笑顔とおはぎの味/おはぎ
落葉の章
十月 菜 死を考えながらきのこを食べる/きのこの焼きびたし 饗 後世に伝えるよう道具に気を向ける 甘 指さす彼方に栗の満月/満月
十一月 菜 報恩講で小豆を食べながら親鸞聖人を偲ぶ/小豆の味噌汁 饗 先祖を偲んで集まるという日本人の美徳 甘 小さな命にも意識を向けてつくる栗の甘露煮/栗の甘露煮
十二月 菜 すべての残り物をいただく、飛龍頭椀/飛龍頭無明椀 饗 その日が今生の別れと思い、人と会う 甘 大掃除の〆めに黒豆汁粉/黒豆のお汁粉

17.11月26日

 ”やればできる”(2003年1月 新潮社刊 小柴 昌俊著)は、自ら設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて自然発生したニュートリノの観測に成功するまでの道筋と未来を述べている。

 ニュートリノは素粒子のうちの中性微子で、電子ニュートリノ・ミューニュートリノ・タウニュートリノの3種類もしくはそれぞれの反粒子をあわせた6種類あると考えられている。ニュートリノ天文学は、太陽や超新星爆発で生成されるニュートリノを観測し、天文現象の解明に役立てることを目的とする。日本の観測装置としてはカミオカンデ、スーパーカミオカンデ、カムランドがある。カミオカンデは、ニュートリノを観測するために、1983年に完成した岐阜県神岡鉱山地下1000mの観測装置である。1996年にスーパーカミオカンデが稼動したことによりその役目を終え、現在は跡地にカムランドが建設され、2002年1月23日より稼動を始めている。1987年2月23日、カミオカンデはこの仕組みによって、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発で生じたニュートリノを、偶発的に世界で初めて検出した。小柴昌俊氏は1926年愛知県生れ、1951年東京大学理学部物理学科卒業、1955年米国ロチェスター大学大学院修了、1970年東京大学理学部教授に就任。1987年退官後は東京大学名誉教授を務めている。2002年にノーベル物理学賞を受賞、勲一等旭日大綬章、ドイツ大功労十字章、仁科記念賞、朝日賞、日本学士院賞、文化勲章、ウルフ賞なども受賞している。父親は千葉県館山市出身の陸軍歩兵大佐、母親は千葉県木更津市の農家の末娘であった。1歳の頃、東京の西大久保に転居し、1933年に新宿区立大久保小学校に入学、1939年に神奈川県立横須賀中学校に入学し、1年生のときに小児麻痺に罹患した。幼いころは軍人か音楽家を目指していたが、小児麻痺により両方とも諦めることになったが、その入院中に担任から贈られたアインシュタインの本が物理学者を目指すきっかけとされる。1944年に東京明治工業専門学校に入学し、1945年に旧制第一高等学校に入学し、1948年に東京大学部物理学科に入学した。旧制第一高等学校時代は落ちこぼれで成績が悪く、風呂場裏で、小柴は成績が悪いから東大へ進学してもインド哲学科くらいしか入れない、と話す教師の雑談を聞いて一念発起し、寮の同室の同級生を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学したという。”やれば、できる”と言う由縁は、この自らの体験から生まれたものと思われる。猛勉の末入学した物理学科の成績はビリであったという。1951年に物理学科を卒業し、大学院理学系研究科に入学した。研究テーマは、原子核乾板による素粒子実験学であった。成績は悪かったが朝永振一郎に推薦状を書いて貰い、フルブライト奨学生として1953年に米国ロチェスター大学博士課程へ留学した。そして、1955年にPh.D.を取得してシカゴ大学研究員に就任した。ロチェスター大学では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、Ph.D. を取得し博士研究員として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得はロチェスター大学での最短記録であり、この記録は現在でも破られていないという。1959年に一時帰国し慶子夫人と結婚し再び渡米、後に1男1女を儲けた。1962年にアメリカから帰国し、東京大学原子核研究所助教授に就任、1963年に東京大学理学部物理学科助教授に就任、1967年に東京大学理学博士取得、論文のテーマは、超高エネルギー現象の統一的解釈であった。学位は、ロチェスター大学Ph.D.東京大学理学博士、称号は日本学術会議栄誉会員、東京大学特別栄誉教授・東京大学名誉教授、明治大学名誉博士、東京都名誉都民、杉並区名誉区民、横須賀市名誉市民、杉並区立桃井第五小学校名誉校長。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章である。自らを変人学者、東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれと称し、現場主義の研究者としての立場を貫いている。常に人の役に立つ研究を考えて、一般的に予算が付きにくい基礎科学の研究分野を対象として、私財を投げ打って研究推進を目的とした財団法人を新たに設立したという。基礎科学、純粋科学に光を当て、教育により意欲と夢を持った若者を数多く育てようとしている。人間やればできるが、その人が心底から一生懸命にやらないと出来ない、という。

はじめに―受賞の夜に
第1章 なぜか物理の道へ
第2章 成績どん底の大学時代
第3章 夢のアメリカ行き
第4章 カミオカンデへの道
第5章 十七万光年の彼方からの贈り物
第6章 日本人よ、胸を張れ!
付 録 平成13年度東京大学卒業式祝辞

18.平成28年12月3日

 ”常陸・秋田 佐竹一族”(2001年6月 新人物往来社刊 七宮 涬三著)は、秋田で400年の歴史をもつ佐竹氏は常陸国からきた清和源氏の名門であり、合わせて900年生きのびたという。

 平安末期に源義光の孫である佐竹昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着定住し、佐竹冠者と称したのが始まりである。初めは常陸奥七郷の豪族だったが、鎌倉・室町幕府の御家人として活躍する中で、貞義以降は代々常陸国の守護として、一族の内乱や常陸国内外の諸勢力と戦いながら領国を拡大していった。七宮涬三氏は1928年東京生まれ、香川大学経済学部を経て岩手大学教育学部卒、日本社会事業大学研究科に学び、岩手日報社の東京支社編集部長、本社政経部次長・論説委員を経て、富士大学教授、同大学付属地域経済文化研究所長を歴任した。佐竹氏の祖は清和源氏で河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流で、武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である義光流源氏の一族で、佐竹氏の初代当主については、義光の子の源義業とする説と、義業の子の源昌義とする説がある。昌義が常陸国久慈郡佐竹郷住み、地名にちなんで佐竹を名乗ったことから、昌義を初代当主とする説が一般的である。常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称した、という話が伝わっている。平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる、多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いた。中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立した。治承・寿永の乱において佐竹氏は平家に与したため、後に源頼朝によって所領を没収された。鎌倉時代は奥七郡への支配権は、宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごした。南北朝時代になると、佐竹氏第8代当主佐竹貞義と第9代当主義篤は早々に足利氏に呼応して北朝方に属し、小田氏や白河結城氏といった関東における南朝方勢力と争った。室町幕府が樹立すると、これらの功績から守護職に任ぜられ、やがて幕府の関東出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍した。貞義の息子の一人である佐竹師義は、足利将軍家の直属の家来の佐竹山入家を興した。義篤の孫で第11代当主佐竹義盛の時代には、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ、関東八屋形の格式が制定されるとそのひとつに列せられた。室町時代中期、佐竹氏宗家当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となった。佐竹の男系の血筋を引く佐竹山入家はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も、佐竹氏の常陸統一は困難を極め戦国大名化も遅れた。戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で中興の祖と呼ばれた佐竹義舜が現れ、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ、常陸北部の制圧に成功した。義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた。水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。1600年の関ヶ原の戦いにおいて、家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、義宣は上洛して伏見城で徳川家康に拝謁した。5月8日に家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり、実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っていて脅威であった。こうして佐竹氏は、平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。江戸時代を通じて佐竹氏は、久保田藩を支配する石高20万5,800石の外様大名として存続した。明治になって、佐竹氏第30代、第32代当主で旧久保田藩主の佐竹義堯は侯爵に、旧久保田新田藩の佐竹壱岐守家の当主の佐竹義理は子爵に叙せられた。佐竹一族が900年生きのびた源流を、常陸時代の佐竹一族に見ることができる。

第1章 境界の梟雄
第2章 常陸源氏・佐竹一族
第3章 常陸北朝の雄
第4章 守護大名の苦悩
第5章 戦国大名への道
第6章 武将義昭の若い夢
第7章 戦国の猛将・鬼義重
第8章 近世大名義宣、秋田転封

19.12月10日

 ”武田信重”(2010年5月 戎光洋出版社刊 磯貝 正義著)は、国を逃れ国外に20余年隠忍自重し漸く帰国し守護となった数奇な運命を辿った甲斐武田氏14代当主の生涯を紹介している。

 武田信重は信玄の5代前の甲斐武田氏当主であり守護大名であったが、一生を安泰に送った人ではない。父信満の敗死という不測の事態が運命を狂わせ、西国に流浪した異色の存在である。磯貝正義氏は1912年岐阜県土岐郡時村生まれ、第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し大学院へ進み、1938年に満期退学し、文部省に勤務した。文部省宗務局保存課・宗務課に所属し、戦後、1946年に山梨県へ移り、山梨師範学校教授、山梨大学教育学部教授を歴任した。1978年に名誉教授となり、山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編纂委員会委員長と務めた。武田信重は、1386年に第13代当主・武田信満の長男として甲斐国都留郡に生まれた。武田氏は甲斐源氏の棟梁であり、甲斐源氏は名門清和源氏の一流である。甲斐源氏は新羅三郎源義光を祖とし、甲斐と清和源氏との関係は義光の祖父頼信の時代までさかのぼることができる。1029年に頼信は甲斐守に任ぜられたが、在任中平忠常の乱を平定し、束国に活相源氏の勢力を植えつけた。後年、甲斐が甲斐源氏によって制圧される素地は、この頼信の時代に築かれた。頼信の子頼義は父に従って甲斐に下向したが、のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子の反乱を、前後12年にわたる苦闘の末に平定した。頼義の長子義家は父に従ってこの役に参戦したが、後年、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、出羽の豪族清原氏一族の内訌に発する大乱を悪戦苦闘の結果平定した。義光はこの義家の弟で、兄を助けて乱の平定に大きな貢献をした。義光には数子があり、義業が常陸佐竹氏の祖となり、盛義が信濃平賀氏の祖となったのに対し、義清は甲斐に土着して甲斐源氏の直接の祖となった。義清の子清光は峡北の逸見方面の経営に主力を注ぎ、子供たちを国内の要地に分封することによって甲斐源氏の勢力は一層強大化した。清光には大勢の男子があり、それぞれ国内の要地を占拠し、その地名によって氏を称え、甲斐源氏は幾多の分脈を生ずるに至った。逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・田井・八代・奈胡・浅利・曽根などの諸氏が生れ、それらがさらに一条・甘利・板垣・秋山・小笠原・南部など無数の分脈を派出し、甲斐源氏は天下に名高い大族となった。これらの中で、後世とくに繁栄するのが信義の子孫と遠光の子孫である。信義は武河荘武田に拠って武田氏の祖となり、兄の逸見光長を凌いで甲斐源氏の総領的地位に立ち、後世甲斐の守護職はその子孫が独占することになった。一方、遠光は加賀美に拠って加賀美氏を称したが、その子長清は小笠原氏などの、光行は南部氏などのそれぞれの祖となり、子孫は国外の大族として栄えるに至った。信義には忠頼・兼信・有義・信光などの諸子があり、それぞれ活躍するが、鎌倉幕府草創期の困難な時代を生き抜き、最後に武田の総領職を継いだのは、石和の御厨を占拠した石和五郎信光であり、かれは甲斐の武田・大井・穴山氏などのほか、安芸・若狭の武田氏や松前氏など、国外の大族の祖ともなっている。信光の活動期間は長く、源家が三代で滅ぶと、後鳥羽上皇は朝権の回復を図って北条氏追討の軍を起こした。信光は一族の小笠原長清、関東の雄族小山朝長・結城朝光とともに、東山道大将軍として西征、戦勝後、恩賞として安芸の守護に任ぜられた。信光の子孫が代々安芸の守護となり、その一族が安芸に移り住むようになった。信光のあとは、信政・信時・時綱・信宗と続いて鎌倉時代の末期に及んだ。元弘の乱から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興、南北朝の争乱と、14世紀の中葉以降は動乱の世紀であった。甲斐の一族も両派に分かれて争い、とくに南北朝期には両派に分属して相抗争した。武家方が圧倒的に優勢で、信武・信成・新春と続く武田の総領家は、終始一貫して武家方であったため、その地位はまず安奏であった。とくに信武は尊氏の信任が厚く、尊氏の姪を妻とし、兵庫助・甲斐守・伊豆守・陸奥守等に任ぜられ、また安芸守護のほか九州探題や甲斐・若狭の守護を兼帯し、後世武田家中興の祖と称せられた。信武の子信成は安芸守・刑節大輔で甲斐守護となった。信成の手信春は、修理亮・伊見守・陸奥守等に叙され、甲斐守護を継いだ。南北朝の動乱期を無事に切り抜けた武田総領家が、一転して不幸のどん底に落ち込むのは、信春の子信満が上杉禅秀の乱に加担して敗死したからであった。この信満の長子が信重であり、武田守護家の嫡流でありながら、20余年間も国外を流浪した末に、ようやく入部できた悲運の守護であった。1416年10月の上杉禅秀の乱に際して、父の信満や弟の武田信長は上杉禅秀方に与したが、翌年1月に禅秀が幕府軍に敗れて自害し、続いて領国の甲斐国に逃れた信満も2月に敗死した。信重は高野山に逃れて出家し、光増坊道成と号した。信満敗死後の甲斐守護には同じく高野山に逃れていた叔父・武田信元が補任されて1418年2月に帰国していたが、1421年には信重も幕府より甲斐国への帰国を促されたが、このときは帰国を拒否している。1423年6月に室町幕府4代将軍・足利義持から守護に補任されていたが、鎌倉府がこれを承認しなかったため入国は果たせなかった。1425年6月にも、逸見・穴山等打出として帰国を拒否し、在京のままでの守護就任を望んだ。その後、信長の子で信元の嗣子となっていた武田伊豆千代丸が、実父の信長や甲斐守護代の跡部氏らの助力を得て、逸見有直をはじめとする反武田勢力と抗争して優勢だった。逸見氏の後ろ盾となっていた鎌倉公方・足利持氏の介入によって戦況は後退し、1426年8月に信長が鎌倉府に降伏、さらに台頭してきた跡部氏が専横を揮った。その跡部氏が信重の帰国を要請したこともあって、1438年8月に、信濃守護・小笠原政康の支援を得て帰国を果たした。1439年の永享の乱には出陣しなかったが、1440年の結城合戦に参陣して、結城七郎を討ち取る武功を挙げた。1450年11月に、一族の黒坂太郎を討つために出陣したところ、小山城主の穴山伊豆守がその隙を衝いて攻め、前後を挟撃されて自害したという。墓所は館のあった山梨県東八代郡石和町小石和の成就院で、跡目は子の武田信守が継いだ。

1 父祖の遺業
2 武田信満と上杉禅秀の乱
3 武田信元の守護補任と帰国
4 武田信長の活動
5 武田信重の流寓
6 武田信重の帰国
7 守護武田信重の活動
8 武田信重の信仰と修養
9 武田信重の死
10 武田信重の後裔
11 武田信重館跡と成就院

20.12月17日

 ”カザフスタン”(2006年9月 白水社刊 カトリーヌ・プジョル著/平山智彦・須田将訳)は、ユーラシアの中心に広大な国土を擁するカザフスタンの風土・歴史・政治・経済・外交を紹介している。

 カザフスタン共和国は、中央アジアとヨーロッパにまたがる共和制国家で、首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ、ロシア連邦、中華人民共和国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海、アラル海に面している。世界第9位の広大な国土面積を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められ、地形は中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地の3つに分類される。著者のカトリーヌ・プジョル女史は、フランスの国立東洋言語文明学院の教授である。フランス国立東洋言語文明学院は、パリにある研究機関、高等教育機関で、略称、INALC=イナルコと言い、国立東洋言語文化大学と訳されることもある。西ヨーロッパ起源以外の言語と文明について、研究および教育を行っている。フランスの教育法では、大学とは別の特別高等教育機関の一つで、バカロレアを取得すれば誰でも入学でき、位置付けは大学と全く同等となっている。宇山智彦氏は1967年生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程中退、日本の中央アジア地域研究者、歴史学者、政治学者で、現在、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授を務めている。須田将氏は1975年生まれ、上智大学外国語学部フランス語学科卒業、同大学院外国語研究科博士前期課程修了、執筆当時、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程在籍中であった。カザフスタンは、面積272万4900?、人口1760万人で、民族はカザフ系65.52%、ロシア系21.47%が多く、ほかにウズベク系、ウクライナ系、ウイグル系、タタール系、ドイツ系などで構成されている。言語はカザフ語が国語で、ロシア語は公用語となっている。宗教はイスラーム教70.2%、ロシア正教26.3%が多く、ほかは仏教、無宗教などである。14世紀頃まで現在のカザフ人とほぼ同じ人種的特徴と、カザフ語とよく似た言語が定着し、15世紀後半 遊牧ウズベク国家から分離し、キプチャク草原に勢力を拡大し、カザフ・ハン国が成立した。18世紀初にジュンガルとの戦いの中でカザフ人の一体性の意識が明確化し、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの3つの部族連合体に分裂した。1730年代にカザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従し、18世紀中頃には清朝にも朝貢した。1820年代までロシア帝国が南部を除くカザフスタンを直接支配下に収めた。1837年から1847年までケネサルの対ロシア反乱が起こり、1850年から1860年代までカザフスタン南部がロシア帝国に併合され、カザフスタン全域がロシアの支配下になった。1920年にはロシア連邦共和国の一部として、カザフ自治ソビエト社会主義共和国が成立し、首都はオレンブルグとなった。1925年に首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し、国名をカザフ自治ソビエト社会主義共和国に変更した。1929年に首都をアルマティに移転し、1936年にソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格した。1986年にはカザフ人共産党第一書記コナエフ解任に抗議するデモ、アルマ・アタ事件が起こり、内務省軍と警察による弾圧があった。1990年にナザルバエフ大統領は就任し、共和国主権宣言を行い国名をカザフスタン共和国に変更した。1991年に共和国独立を宣言し、首都をアルマティからアクモラ、現アスタナに移転した。カザフスタンの歴史は逆説的で、数千年のあいだ、境界の不明確な領域に広がっていたカザフスタンは、遊牧という特徴とテュルク語の独占権の喪失と引き換えに、近い過去において地歩を確立した。ソ連時代がカザフスタンの現在の形を生み、以前からの大変化を完結させた。幾度かの手直しを経て、カザフ共和国を生んだ領域画定の政策は、ソ連中央のシステムヘの統合における新たな層をなした。ツァーリズムの実践で伝統社会の本質を構成するものと対決したのに対し、ソ連の指導者たちは真の断絶をもたらし連邦の他の部分に統合するために中央アジア的な特徴を衰弱させた。スターリン期の抑圧政策は、憲法制定、イスラーム法と慣習法アーダトの禁止、世俗化という法的な断絶と、金の流れの中央管理、集団化という経済分野での断絶を伴った。数千年にわたる豊かな文明を持つものの、ソヴェト民族政策による遺産をそのままの形で引き継いだカザフスタン共和国の政治的・法的・心理的な枠組みは、まだ確立されるに至っていない。カザフスタンは、国内情勢・国際情勢が同国に可能性を与えた場合には、成果をあげることのできる切り札を持っている。有用かつ貴重な一次資源が豊富で、有能な労働力と犠牲に慣れた住民、技術と政治の革新に適応できる能力のある行動的な若年層を持っている。グローバルな観点からみると、陸の孤島からの脱却作戦か成功し、中央アジア各共和国の国内状況が安定を維持し、アフガニスタンが再建された場合、カザフスタンは大陸横断交易に欠けていた鎖の輪となり、ユーラシア大陸の軸としてその歴史的役割を再び見出すであろう。連続的な文化的ショックの中心であるカザフスタンは、ロシア人とカザフ人という明確に区別される民族と、無神論から生き残った正教とシャーマニズムによって消化されたイスラームという2つの異なる文化システムを内包するため、アジア的東洋と西洋の真の融合体となっている。カザフ人は一方では、影響力があり信頼できる西洋の寄与を求め、他方では、その再建はおそらく幻である征服された遊牧世界に根を下ろす、アジア的な遺産を持つ。両者のあいだで引き裂かれたアイデンティティが提示する歴史的方程式を、カザフ入は解くことかできるに違いない。

序   領域から共和国へ
第1部 カザフ空間とユーラシア
 第1章カザフ人登場以前のカザフ空間/第2章多様性の少ない遊牧世界-諸オルダ/第3章ロシアによる征服と植民地化
第2部 ソヴェト・カザフスタン
 第1章1917年の革命-時系列的概略/第2章スターリン時代/第3章ソヴェト空間への統合-フルシチョフからブレジネフまでの経済と文化/4章主権の主張-ペレストロイカから1991年まで
第3部 脆弱な巨人-ポスト・ソ連の移行から再構成へ
 第1章独立以降の政治状況/第2章新しいパートナーたちに向けた開放-国際的均衡のなかでのカザフスタン/第3章深い変化を遂げつつある文化と社会

21.12月24日

 ”鬼才 五社英雄の生涯”(2016年8月 文藝春秋社刊 春日 太一著)は、時代劇映画ややくざ映画で活躍した五社英雄監督の評伝である。

 五社英雄と言えば、”鬼龍院花子の生涯””極道の妻たち””陽揮楼””吉原炎上””三匹の侍””人斬り”など、異色の映画を作った極彩色のエンターテイナーであった。テレビでも、ひらけ!ポンキッキの企画に携わり、三匹の侍は続編も作られるほどの人気となった。春日太一氏は1977年東京生まれ、日本大学芸術学部卒業し、同大学大学院博士後期課程修了、芸術学の博士号を取得した映画史・時代劇研究家である。五社英雄は1929年東京都生まれ、明治大学商学部卒業後、ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めた。草創期のテレビは新しいメディアとしての可能性に満ち溢れていて、作り手たちは、テレビだからこその表現方法を探って多くが芸術家・思想家のような小難しいことばかりを述べていた。そうした中で一人異彩を放っていたのが五社だった。満足でない制作環境への文句、映画界への嫉妬、そして徹底した観客へのサービス精神があった。テレビドラマでは刑事ものやジキルとハイドなどではプロデュースも担当し、原作・脚本・監督をこなす映画監督であった。テレビ出身の映画監督の先駆けとして活動していくが、テレビ界出身ということで、長らく日本の映画評論界から不当に無視に近い扱いを受けてきた。また、その言動は常に毀誉褒貶の対象だった。しかし、現在の時代劇やアクションは五社の存在なくしては語れない。真っ白なジャケットとズボンで敵だらけの現場に乗り込み、水たまりがあればそのジャケットを脱いで女優にその上を歩かせて周囲の度肝を抜いた。また、こういう話をすれば相手は喜んでくれるだろうとの想いから、相手に合わせてエピソードを面白おかしくでっちあげたこともあった。父親は鳶職をしていて、その世界に入る時は誰もが彫り物を体に彫り込むことになっていた、と言ったことがあった。彫ったらこの子の人生は変わると、彫り師はなんとか止めさせようとしたが、父親は聞かなかった、これで人生が変わるようだったら、もうそんな奴はいらんと言った、という。青年は父親に言われるまま、背中に彫り物を入れることになった。しかし、背中に彫り物があったことは確かだが、実際に彫り物を入れたのは50歳を過ぎてからのことだった。ちなみに、五社の父親は鳶でもなかった。五社は作品を通してだけでなく、常日頃から、いかにして周囲の人間を楽しませるか、そのことだけを考えてきた。そのために彼は、自らの人生をも脚色していたのであった。1980年には銃刀法違反で逮捕され、一時は映画界を追放されてすべてを失った。フジテレビを依願退職し、オファーされていた映画”魔界転生”の監督もなくなり、妻にも逃げられた。生活していくため”五社亭”という店名の飲み屋の開店の準備をしていたが、それを見かねた岡田茂・佐藤正之の尽力により映画界に復帰した。1982年の映画”鬼龍院花子の生涯”で復活し、以降は女優たちの濃厚な濡れ場やヌードに彩られた極彩色の映画を連発して、低迷する日本映画界を牽引した。今では当たり前の、刀がぶつかり合い、肉を斬り骨を断つ効果音を、最初に生み出したのも五社だった。テレビの小さな画面でいかにして映画に負けない迫力や殺気を出すか、に悩んだ末に辿りついた発想だった。1985年に五社プロダクションを設立し、映画”世界最強のカラテキョクシン”の総監修や、映画”陽揮楼ⅡKAGERO”の脚本監修も手がけた。1992年8月30日に、呼吸不全のため死去した。根強いファンに支えられながらも映画賞には縁が薄く、キネマ旬報ベストテンには一度も入賞しなかった。”陽暉楼”では日本アカデミー賞において、監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しながら、作品部門では優秀賞に漏れるという珍記録を作った。ハッタリ入り乱れた生涯に翻弄されながら、著者は渾身の取材で鬼才の真実に迫っている。

第1章 情念/第2章 突進/第3章 転落/第4章 復活/第5章 未練

22.12月31日

 ”世界の四大花園を行く - 砂漠が生み出す奇跡”(2012年9月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、一年に一度、花園に生まれ変わる、南米、オーストラリア、アフリカの砂漠の絶景をカラーで紹介している。

 世界でいちばん美しい花園は、砂漠の中にある、という。砂漠とは死の世界であり、そこは灼熱の太陽と干からびた空気に満ち、草本は絶え動物たちの姿はない。だが時として、ここに恵みの雨が降り注ぎ、それが大地にしみわたって、ある闇値を超えたとき、信じられないような奇跡を起こすことがある。荒涼とした砂漠に、突如、大花園が出現するのである。雨季とともに花開き、まもなく消えてしまう幻の花景色である。野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、中部大学大学院工学研究科修了、高校時代から山岳風景や野生動物を撮りはじめ地球の息吹をテーマに、アンデス、南極、パタゴニアなどに被写体を求めてきた。2011年より南アフリカのステレンボッシュに移り住み、四季を通してナマクワランドの花園を撮影してきた。今までの渡航先は85ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。また、日本国内ではスライドショーなどの講演活動を続けている。四大花園とは野村氏が命名したもので、南アフリカ、オーストラリア、チリ、ペルーにある、という。南北600キロも花街道がつづく南アフリカ、クリスマスリースのような花束が咲くオーストラリア、世界でもっとも乾燥した大地がピンクの花で敷き詰められるチリ、瑠璃色の花が砂丘を埋めつくすペルーである。著者はこれらすべての花園を訪ねて地球を何周も巡り、多種多様な花、そこに生きる人々や動物の姿を写真に収めてきた。南半球が春を迎える9月、大陸西岸に広がる世界の砂漠地帯に、極楽浄土のような絶景が生まれる。360度見渡す限りの花園に包まれるのは、砂漠はあまり起伏がなく、ある時期に全面花園になるからである。2001年の初夏、ペルーの砂漠でこの信じかたい光景を目の当たりにした著者は、不思議な縁に突き動かされるようにして、世界中で次々と、互いを結び合う夢のような繋がりの力に驚き圧倒され続けた。本書は、いまだ知られざる世界四地域の砂漠の花園の全貌を、余すところなく紹介するものである。本物の感動を味わえるのは現地を訪れて実際に体験することなので、できるだけ細かいデータや地図を掲載し、地名を現地の発音に近づけるなどして、手軽なガイドブックの役割を兼ねたものにもなっている。四大花園のなかでも、屈指の規模を誇るのは南アフリカのナマクワランドである。2011年に著者は南アフリカに移住し、腰を据えてこの花園を撮り続けることを決意した、という。アフリカの著名な写真家アラン・プロストからの一枚のポストカードが決め手になった。色とりどりのワイルドフラワーが絨毯のように赤土の山へと続いていき、花の息づかいや風の音色までも聞こえてきそうな写真だった。その場所を見たくなり、夏のある日、ニューウッツヴィル周辺をくまなく探した。ひとつ、ふたつ峠を越えたところで、穴が開くほど見たポストカードの風景か迫ってきた。カメラを片手に同じ画角になる場所へ立った。雲間から透明な光か射し込み、山がさらに赤く色づき、生ぬるい熱風か砂上を走り、照りつける太陽が気温を押し上げた。生命は流転の旅を繰り返し、同じ風景は二度と現れない。一瞬一瞬の尊さを自分自身に映し込んでいく作業、それこそが写真=写心の力となり、通い続けることが力強さとしなやかさを育んでいくのかもしれない。砂漠の花園、そこに生きる動植物、関わり合ったすべての人々、その一つひとつが宝の珠となり、映し合い、生命は網目のように未来へ繋がっていく。

第1章 ペルー共和国-海霧が作る花園
第2章 南アフリカ共和国-蛍光色の極楽花園
第3章 オーストラリア連邦-一万二〇〇〇種類の花園
第4章 チリ共和国-幻の巨大花園
最終章 四大花園を旅して-光のルーツを追って

23.平成29年1月14日

 ”子規と漱石 - 友情が育んだ写実の近代”(2016年10月 集英社刊 小森 陽一著)は、夏目漱石のいちばんの理解者であった正岡子規の生き方を中心に二人の関係を紹介している。

 第一高等中学の同窓生である子規と漱石は、意見を闘わせながら新たな表現を模索した。しかし、1902年に亡くなった子規からの最後の手紙を、漱石は返事をせずに放置したという。小森陽一氏は、1953年東京生まれ、1976年北海道大学文学部卒業、1979年同大学大学院文学研究科修士課程修了し、大学院在学中に札幌の予備校講師を勤め、その後、成城大学勤務を経て東京大学に着任した。現在、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授、専門は日本近代文学である。子規は1867年9月に松山藩士の長男として伊予国・温泉郡で生まれ、明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に、短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開し、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。漱石は1867年1月に江戸・牛込馬場下の名主の家の末子五男として生まれ、第一高等学校卒業後、東京帝国大学で英文学を学んだ。卒業後、松山中学校、熊本第5高等学校の英語教師を経てイギリスに留学し、帰国後、東京帝国大学で英文学を教えた。子規の弟子高浜虚子の勧めで、子規と虚子が刊行していた俳句雑誌に小説を執筆した。小説家としての能力が高く評価され、1907年に朝日新聞専属小説家として入社し、独自の小説世界を構築した。子規は、1872年に父が没したため家督を相続し、大原家と叔父の後見を受け、外祖父の私塾に通って漢書の素読を習った。翌年、小学校に入学、後に、勝山学校に転校し、1880年に旧制松山中学に入学した。1883年に中退して上京し、受験勉強のために共立学校に入学した。翌年、旧藩主家の給費生となり、第一高等学校に入学し、常盤会寄宿舎に入った。東大予備門では漱石と同窓であった。1890年に帝国大学哲学科に進学したが、後に文学に興味を持ち、翌年、国文科に転科した。この頃から子規と号して句作を行った。大学中退後、叔父の紹介で1892年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年に俳句の革新運動を開始した。1894年に日清戦争が勃発すると、翌年、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡った。その2日後に下関条約が調印されたため、5月に帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、7月に須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年に俳句雑誌”ホトトギス”を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。そして、漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。短歌においても、古今集を否定し万葉集を高く評価して、形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催し短歌の革新につとめた。漱石と子規の交友が始まるのは、二人が第一高等中学校本科一部に進学してしばらくしてからの、1889年1月頃であった。この年の5月9日に常規は突然喀血し、翌日50句近い俳句を作った際に子規と号した。漱石は13日に子規を見舞いに行き、その日のうちに手紙を書いた。兄が同じ日に吐血したことを打ち明け、自分の身内と同じように、あるいはそれ以上に心配をしていることを、さり気なく子規に伝えた。子規は喀血する前の5月1日、7種の異なった文体、漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古文体小説で編んだ文集を脱稿し、友人たちに回覧した。この文集の末尾に、漱石は漢文で評を書き、最後に七言絶句九篇を付けて、5月26日に病床の子規を見舞い返却した。このときはじめて”漱石より”と署名した。後に、漱石の文字に誤記があったかもしれないという手紙を出して、子規に再確認を促した。自分の書いた文章に、相手の注意を向けさせ、自分もまた相手の書いた文章を注意深く批評するという関係を、漱石は子規と結ぼうとしていたのである。この日から、子規と漱石という二人の文学者の交友が始まった。漱石は生前の子規を、自らの俳句の宗匠として位置づけた。そうすることが、当時は不治の病だった結核を悪化させていく子規に、精神的な生命力を与えようとする、漱石の友情の表明であった。東京と松山、あるいは熊本という形で離れていた子規と漱石は、活字印刷と郵便の制度を媒介として、作者と読者の役割を転換し続ける言葉のやり取りを続けた。子規は漱石の手紙の読者であり、俳句については読者兼添削者でもあった。子規は、ときに編集者となりときに批評家になった。地方都市に暮らしていた漱石は、新聞や雑誌の読者であると同時に、編集者予規に俳句を選ばれることにより、活字媒体における作者ともなっていった。二人の文学的関係は、1900年に漱石がロンドンに留学した後も継続している。二人が最後に会ったのは、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時、子規は餞別として”萩すすき来年あはむさりながら”の句を贈った。子規が漱石にあてた生涯最後の手紙には、”僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ”と書かれている。本書は、こうした子規と漱石の間で生み出された、近代日本語の表現の水準を探っている。

第一章 子規、漱石に出会う/第二章 俳句と和歌の革新へ/第三章 従軍体験と俳句の「写実」/第四章 『歌よみに与ふる書』と「デモクラティック」な言説空間/第五章 「写生文」における空間と時間/第六章 写生文としての「叙事文」/第七章 病床生活を写生する『明治三十三年十月十五日記事』/第八章 生き抜くための「活字メディア」/終章 僕ハモーダメニナツテシマツタ

24.1月21日

 ”資格を取ると貧乏になります”(2014年2月 新潮社刊 佐藤 留美著)は、資格取得者の数が激増しその割に仕事は増えず過当競争とダンピングが常態化し資格貧乏があふれかえっている現状の原因の一端を紹介している。

 狭き門をくぐり難関国家資格を取得すれば、センセイとあがめ奉られ高収入に恵まれるものと考えられていた。しかしいまや時代が変わって、資格を取得するということが貧乏になることに繋がるという。佐藤留美氏は1973年東京都生まれ、青山学院大学文学部卒、出版社勤務を経て、2004年に独立し企画編集会社経営者兼ライターである。多くの人は、資格を取得するために大金を支払って勉強している。ここで大金を支払うのは資格を取得できたならば自身がより高収入の職に就くことができるからと見込んだ上でのことであった。資格を生かして自分の腕一本で生きている姿は、組織で遊泳してゆるりと生きてやれといった発想とは無縁の誇りと潔さが感じられた。ところがいま、弁護士や公認会計士は昔ほど仕事がないらしいというウワサを耳にするようになった。それどころか食うに困る人が続出しているらしい、という声も聞こえる。そこで著者は、弁護士、公認会計士、税理士、社会保険労務士などの国家資格、あるいはTOEICなどの英語能力試験などの実態を探る取材を始めた。その結果、明らかに違和感を抱かずにはいられない事実が、続々と浮かび上がってきた。たとえ司法試験に合格しても、大手事務所に入れるようなエリートは上位7校で成績10番以内、英語が達者な20代の男性ばかりだという。せめて中小事務所の軒先を借りるノキ弁になれないかと就職活動をしても、すげなく断られる若手が多く、何のスキルも実務経験もないのに、自宅でケータイひとつで即、開業せざるをえない通称ソクドクのケー弁が続出している。5人に1人の弁護士の年収は、年間所得が100万円以下と、生活保護受給レベルにまで落ち込んでいるようである。公認会計士も、弁護士と似たような状況下にあるという。現代社会においては、資格を取得できたとしても職に就けないという人が増えている。弁護士、公認会計士だけでなく、税理士、弁理士、 司法書士、社労士などといった資格までもがこれに当てはまっている。資格を取得することができても、高収入の仕事に就けないばかりか、勉強のために大金を失う時代になっている。背景には、資格を所持して業務を行っている者が高齢者となっても引退せずに業務を行い続けている、という事情が存在する。人材が過剰となっており、新規に資格を取得した者は職に就けない状態なのである。また、IT化が発達によって、素人のコンピュータの操作により複雑な業務が容易に行えるようになっていることもある。サラリーマンが資格貧乏に陥らないためには、独立の前に実務経験を積むこと、スペシャリスト顔はやめること、人が行かない空白地帯を見つけることなどが必要になってきている、という。

第1章 イソ弁にさえなれない――弁護士残酷物語
 5人に1人は「生活保護受給者並み」の所得/たった10年で2倍に/突出して多い30代/「法科大学院修了者7~8割合格」の空手形/三振が怖い/数字合わせだった「3000人構想」/三流大学にも法科大学院が出来たワケ/失敗の理由/法学部まで巻き添えに/需要がない組織内弁護士/類似資格の存在/事件数もピークアウト/国選弁護人の仕事も奪い合い/8割超の法科大学院が定員割れ/試験対策はやっぱり予備校頼み/すさまじいカースト構造/予備試験という抜け穴/司法修習も自腹に/最初の弁護士業務は「自己の自己破産」?/「ケー弁」現る/過払い金バブル/使い捨てされた若手の行き先/弁護士がすし屋になっちゃった!/「過払い組」は福島を目指す/ボランティア活動が食い扶持に/始まったディスカウント競争/「特別負担」の憂鬱/エリートは霞が関を目指す/有望株は「リーガル商社マン」/「食べログ」みたいにランク付けされる?
第2章 “待機合格者”という生殺し――公認会計士の水ぶくれ
 “待機合格者”が続出/公認会計士も10年で2倍に/金融庁と経団連が後押し/「給料半年分あげるから出ていってくれ」/狙い撃ちされた「会計バブルの申し子」たち/若手リストラの酷い手口/会計大学院は入ると損をする/リストラ組の行き先/「企業財務会計士」という詐術/経団連の拒否/IFRS強制適用の時限爆弾/日本の会計士資格はガラパゴス
第3章 爺ちゃんの茶坊主になれ!――税理士の生き残り作戦
 「足の裏にくっ付いたご飯つぶ」/月5万円の顧問料が5000円以下に/記帳代行業務も壊滅状態/全自動会計クラウドサービスの衝撃/e-Taxでも出る幕ナシ/マイナンバー制度導入で個人客はいなくなる?/営業に引っかかるのはケチな客ばかり/税理士を変えると税務調査が来る?/「節税コンサルタント」になれるか?/仲間の足もとを見る元国税/不動産屋、生命保険代理店になる人も/会計士の首に鈴を付けられるか?/全員で「オース!」/箔付けに集団で著書を出す/税理士事務所が税理士を採らない理由
第4章 社会保険労務士は2度学校へ行く
 10年前から1万人増/人気の理由は独立・開業のしやすさ/親に「テヘペロ」で食いつなぐ/ボトルネックは独占業務の少なさ/「うざい社員」になるから転職できない/恐怖の「ヒヨコ食い」/笑顔の練習に励む中年社労士の悲哀/今度は先生として資格予備校に逆戻り/合格祝賀会写真のウソ/人気講師はホスト並みの口のウマさ/やり手は生保営業マンと組む/沖縄というオイシイ穴場/鬱病患者の「障害年金」申請でひと儲け
第5章 TOEICの点数が上がると英会話が下手になる
 受験者数230万人超/「TOEIC採用」はもはや下火?/英会話が出来るようになるとスコアが下がる/900点でも半数は喋れない/「ガラパゴス化した経産利権」/安倍政権はTOEFLへの移行を推進/先進企業は「英語面接」/結局は「話す内容」
第6章 それでも資格を取りたいあなたのために
 アドバイスその1・サラリーマン根性を捨てる/アドバイスその2・資格にこだわり過ぎず、まずは就職を/アドバイスその3・サラリーマンになったらサラリーマンになりきる/アドバイスその4・人が行かない「空白地帯」を目指す/アドバイスその5・出来ない仕事も引き受ける/アドバイスその6・顧客の話し相手になる/アドバイスその7・先輩を頼る

25.1月28日

 ”鴨長明 - 自由のこころ”(2016年5月 筑摩書房刊 鈴木 貞美著)は、”方丈記”で知られ数寄の語で語られこれまで必ずしも明らかにされてこなかった鴨長明像を具体化する試みをしている。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。
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 これまで鴨長明の名は、かなりの長きにわたってよく知られてきたが、その像は、なかなかひとつに結ばれなかった。その生涯を仏教や和歌の側面から解釈をしなおし、真の自由ともいえるその世界観が形成された過程を追っている。鈴木貞美氏は1947年山口県生まれ、1972年東京大学文学部仏文科卒業、東洋大学文学部専任講師、助教授を経て、1989年国際日本文化研究センター助教授、教授を務め、定年後は同名誉教授となっている。長いあいだ、”方丈記”に自分でも不思議なほど関心を抱いてきたという。はっきりしているのは、あの流れるようへ変化に富み、それでいて、よく整った文体の魅力に惹かれるからである。日本語の文章の歴史のうえで、あれほど画期的な役割をはたした文体はない。それはどのようにして可能になったのか、もう一歩踏み込んで考えることができると思ったそうである。鴨長明の名は、長きにわたって広く知られてきたが、近代に入っても著作の範囲も定まらず、とりわけ仏教信仰をめぐって今日でも決着がついたとは言い難い。そこで、長明作であることが疑いない”方丈記””無名抄””発心集”の三作から、新たな長明像の提出に挑んでいる。自由のこころという副題を付けてしているのは、自由とは読んで字のごとくおのずからよしとすることであり、長明の場合、自適をあわせ、束縛を嫌い、自身にしっくり感じられることを求める心があったからである。古代、自由の語は謀反や叛逆の含意が強かったが、室町時代に、武家や高位の武士に禅宗が浸透するにつれ、仏教でいう釈迦の自由自在が兵法などを自在に駆使することに転じ、やがて何につけても、型から入って型を抜け自在さを獲得することを目指すようになった。自由の概念が大きく転換する門口のところで、数寄の根方とでもいうべきものが養われていった。長明は、1155年に賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、1161年に従五位下に叙爵されたが、1172年頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。1175年に長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北した。和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学んだ。歌人として活躍し、1201年に和歌所寄人に任命された。1204年に河合社の禰宜職を望んだが、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず神職としての出世の道を閉ざされた。長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行った。1211年に飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向したが、受け入られず失敗している。公家の世が衰退し、武士の台頭がはじまる変動期に生涯を過ごし、京の都が度重なる災害によって衰退し、多くの人が飢饉などで死んだ時代に生きた。小さな住まいでの静かな暮らしを望み、その心情の移り変わりを記し、4年後の1216年に61才で没した。

序 ゆく河の流れは/第1章 鴨長明―謎の部分/第2章 長明の生涯―出家まで/第3章 『無名抄』を読む/第4章 『方丈記』―その思想とかたち/第5章 『発心集』とは何か/第6章 歿後の長明

26.平成29年2月4日

 ”古代飛鳥を歩く”(2016年4月 中央公論社刊 千田 稔著)は、この国の原点というに相応しい飛鳥とその周辺を歩き多くの写真とともに当時の歴史を紹介している。

 飛鳥はかつて大和国高市郡にあった地域で、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指した。当時、飛鳥と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところと考えられていた。今日では、飛鳥川の上流や下流、さらに高取川流域地域までを含み、明日香村一帯、あるいはその近隣までを含むとされることもある。千田 稔氏は1942年奈良県生まれ、京都大学卒業、同大学大学院文学研究科博士課程を経て追手門学院大学、奈良女子大学、国際日本文化研究センターで教授等を歴任した。現在、奈良県立図書情報館長を務めている。6~7世紀の飛鳥時代は危機と動乱の時代であった。仏教伝来、蘇我氏の台頭と聖徳太子の理想、斉明女帝の大公共工事、大化改新、壬申の乱、そして平城京遷都などがあった。飛鳥には天皇の宮がおかれたことが多く、推古天皇の592年の豊浦宮での即位から、持統天皇の694年の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として、飛鳥時代と称している。永らく日本の政治・文化の中心地であったので、宮殿や豪族の邸宅などがたちならび、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになり、なかでものちに有力氏族に成長した阿智使主を氏祖とする東漢氏がはやくから飛鳥に近い檜隈に居をかまえていた。6世紀半ばには飛鳥周辺に仏教が伝来して文化が発達していった。7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備がおこなわれるなど宮都の様相を呈していた。飛鳥時代には、豊浦宮が飛鳥の西方、飛鳥川をはさんだ対岸に置かれた。また小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田と称される地域にあったとされている。飛鳥を散策すれば、当時の人々の息吹を感じとることができる。飛鳥を歩きながら立ち止まって歴史に思いをいたすと、飛鳥の時代と現代の両者が相似ているのに気づく、という。飛鳥の時代は、文化や政治体制が隋・唐といった中国大陸や朝鮮半島から渡来し、近現代においては、欧米文化がもたらされたという事実、つまり日本という国の大きな歴史的節目が、どちらも海外からのインパクトによって成立したということである。ただ、それは表面的な点においてであり、飛鳥の場合、文化・政治における根幹は仏教であり、仏教で国を守る鎮護国家という思想が理想として掲げられた。同時に天皇をはじめ政治にたずさわる人たちのスタンスは、儒教であった。徳のあるものこそ、政治に関与すべきだと理念的に考えられた。近現代は、芸術・医学・理学などの学術、工学などのアートとテクノロジーが欧米からせきを切ったように、わが国に流れ込んだ。しかし、それらの基層にあるキリスト教の思想をほとんどともなうことはなかった。飛鳥時代の風景からは、渡来文化とはいえ、そこに積極的にココロを入れようとした当時の人々の営みが読み取れるが、近現代のそれは、ココロよりも、形骸化したモノをむさぼりつつ今日に至った。この国の精神的土壌はないがしろにされたままであった。飛鳥を歩きつつ、日本を考え日本人を考える。一体、われわれは、どこに向かおうとしているのだろうか。飛鳥を歩くというのは、古代の歴史的痕跡をたどることではない。日本のあり処を探ることなのである。飛鳥を深く知るには、歩くことがよい。古代の人が歩きながら、風景に目をやり思ったことを追体験するのである。近鉄吉野線の飛鳥駅から歩きはじめるのが、一般的なコースである。一日で飛鳥をすべて見て回ろうとしても、それは無理なことである。本書では、観光あるいは見学コースに沿って述べることはしない。飛鳥とその周辺の古代の出来事を、年代を追って、現場の風景の前にたたずみながら、日本の歴史において飛鳥とは何かを語っていくつもりである、という。

1 飛鳥とは/ 2 素顔の蘇我氏/ 3 聖徳太子と推古天皇/ 4 舒明天皇と息長氏/ 5 大化の政変/ 6 斉明天皇と水の祭祀/ 7 壬申の乱/ 8 持統天皇と藤原京/ 9 古寺をめぐる/ 10 墳墓と遺跡

27.2月11日

 ”淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学”(2016年11月 集英社刊 内田 棟著)は、日本最高齢のプロゴルファーが人生の極意を語っている。

 日本のゴルフ文化の礎をつくったと言われる白洲次郎、小寺酉二に薫陶を受け、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した100歳のプロゴルファーである。お名前の”棟”は”むねぎ”とのこと。内田 棟氏は1916年長野県軽井沢生まれ、日本プロゴルフシニア選手権で3三位、ホールインワン5回達成、66歳と94歳で二度のがん手術を受けるも、95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会関東予選出場を果たした。10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけた。20歳で徴兵検査に甲種合格してから、およそ10年間、兵隊として戦地に赴いていた。従軍先は中国や台湾で、行軍でとにかく歩かされた。29歳の年に終戦を迎え、台湾、高雄から帰国し、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した。コース整備を担当する間に、プロのスイングを見てゴルフの腕を上げていった。当時の軽井沢ゴルフ倶楽部は、名門と呼ばれ、倶楽部でプレーされるお客様には、皇族万をはじめとする各界の名士が揃っていた。14本のクラブを持ったのは32歳の頃で、まだプロになる気はまったくなかった。しかし、ゴルフ技術が評判となり、田中角栄、佐藤栄作など各界の著名人にゴルフレッスンしてきた。55歳でプロテストに一発合格したが、日本プロゴルフ協会シニアツアーの出場資格は満50歳以上なので、いきなりシニア・デビューとなった。それから数えてもおよそ半世紀が経ち、思えば、いろいろなことがあった。いいことばかりではなく、二度にわたるがん闘病、そして、同じくプロゴルファーだった長男や次男に先立たれてしまった。それでも生きてきて思うのは、人生は、失意泰然、得意淡然が大事ということである。いい時も悪い時も、慌てず騒がず、淡々と生きていく。遅咲きのプロゴルファーは今でも毎日150球のパター練習を欠かさないという。昨年9月に厚生労働省は全国の100歳以上の高齢者が、前年より4124人増えて、過去最多の65,692人になったと発表した。著者もそのお一人である。女性が87.6%で、46年連続の増加となった。医療の進歩などが要因で、今後も増加が続くとみられる。世界広しといえど、100歳まで現役のプロゴルファーを続けているのは外には見られないと思われる。100歳になってもゴルフをしているなんて、自分でも思ってもみなかったそうである。今はちょっと腰を痛めていて、ラウンドは休んでいるとのこと。ただ、日課の自宅トレーニングを続けていて、体調が復活したらいつでもプレーを再開できるよう、体を鍛えているという。食欲も年齢にしては旺盛で、毎日3食しっかり食べている。お酒は飲まずたばこも吸わない、朝食の時味噌カツオにつけたニンニクとラッキョウ、そしてリンゴとニンジンのジュースを欠かさない。特に好き嫌いはなく、やっぱり肉は欠かせない。週に3、4回は200グラムのサーロインステーキを食べている。この年齢になってもゴルフを続けているのは、日常の中にゴルフがあるのが当たり前になっているからである。もう歳なんだからいいだろうという気持ちには、一切ならないし、家族もゴルフをやめろとは言わない。つまり、ゴルフが好きということになるのであろう。94歳で直腸がんになるなど、大病も何度か経験したが、入院中もクラブの素振りを欠かさなかった。すこしでも練習を休んだら感覚が鈍ってしまうからであり、プロとしてごく自然な行動である。ゴルフほど運、不運を感じるスポーツはない。天候や風など、人間の力ではどうしようもないことに振り回される競技である。人生も同じ、常にいい時ばかりではなく、時には敗れることだってある。でも、どんなに山あり谷ありであっても、心乱されず、自分のやるべきことを平常心でやっていくことが大切なのだと思うという。

第一章 生きるために始めたのがゴルフだった/第二章 遅咲きのプロゴルファー/第三章 私のゴルフ哲学/第四章 仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない/第五章 人生の「谷」を歩く時/第六章 100歳から見える景色

28.2月18日

 ”僕はこうして科学者になった”(2016年7月 文藝春秋社刊 益川 敏英著)は、宿題嫌い、英語嫌いがノーベル賞を受賞するまでの来し方行く末をユーモアあふれるエピソードでつづった自伝である。

 中日新聞・東京新聞に掲載された連続コラムをまとめたものに、ノーベル賞受賞講演録を加えている。益川敏英氏は1940年名古屋市中川区生まれ、昭和区、西区で少年期を過ごし、向陽高等学校を経て名古屋大学理学部を卒業し、1967年に同大学大学院理学研究科博士課程修了、同大学理学部助手、1970年に京都大学理学部助手、1976年に東京大学原子核研究所助教授、1980年からから2003年まで京都大学基礎物理学研究所教授、理学部教授、大学院理学研究科教授、基礎物理学研究所教授、基礎物理学研究所所長を歴任した。2003年に京都産業大学理学部教授、2007年に名古屋大学特別招聘教授、2009年に京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学特別教授を務めた。第25回仁科記念賞(1979年度)、第1回J.J.サクライ賞(1985年)、第75回日本学士院賞(1985年度)、朝日賞(1994年度)、第48回中日文化賞(1995年度)、欧州物理学会2007年度高エネルギー・素粒子物理学賞を受賞し、2008年にはノーベル物理学賞を、南部陽一郎、小林誠と共同受賞した。また、2001年に文化功労者となり、2008年に文化勲章を受賞している。なぜ科学に興味を持ち研究者を目指したのか、どんないきさつでノーベル賞を受ける研究に収組んだのか、そしていまどんなことを考えているのかなどを綴っている。生家は戦前は家具製造業で、戦後は砂糖問屋を営んでいた。科学や技術の雑学に詳しかった父親の影響で、科学に興味を持った。しかし学校の勉強は大嫌いで、宿題など一回もやったことがなかった。次第に数学や理科は進んで勉強するようになったが、英語嫌いは今に至るも直っていない。英語の論文は書かないし、ノーベル賞受賞記念のスピーチも初めて日本語でやらせてもらった。高校の成績も悪かったが、新聞で名古屋大の物理学者・坂田昌一教授が発表した画期的な学説を知り、大学進学を決意した。父親との大ゲンカの末に進学を果たした。同級生との激論や、思わず吐いてしまう暴言の影響などものともせず研究に取り組み、ノーベル賞を受賞することになるテーマ”CP対称性の破れ”に出会った。学生時代から議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させた。その背景には、仁科芳雄から、武谷三男、坂田昌一に至る研究環境と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動があるようである。ノーベル物理学賞を受賞して生活がいろいろ変わったが、一番変わったと思うのは駅のホームの歩き方とのことである。それまでは勝手な場所を歩いていたけれど、賞をもらってからは線路から離れて必ずホームの中央を歩くようになった。なぜかというと、握手を求めて突然に手が飛び出てくるからである。考え事をしながら歩いているとき、目の前に急に何か出てきたら人間はびっくりして飛びのくものである。もしホームの縁を歩いていたら、レールの上に飛びのかないとも限らない。最近はだいぶなくなってきたけど、もうそういう癖がついたという。特に東京からの下りの新幹線は名占屋の人がたくさんいるので、よく声を掛けてもらい色紙を出されたこともある。とっさに思い付きで、”よく間違えられるんですが、私は双子の兄弟のデキの悪い弟の方なんです”と言うと、さっと色紙を引っ込めて立ち去ってしまったそうである。兄弟はなく、ちょっとした冗談のつもりだったが悪いことをしたとの付記がある。受賞の知らせのノーベル財団からの電話が高飛車で、腹が立ったという。それゆえ、大してうれしくない、バンザーイなんてやらないよと述べた。若いいころアインシュタインの相対性理論を勉強して不思議に思ったが、いまふたたびその謎にあこがれて同時ということの意味を考え続けているそうである。時間は実に不思議で、いつかあなたと払の時問が交差して、もしかしたらどこかの駅のホームに同時に存在することだってあるかもしれない。あとがきで、若い人には憧れとロマンを持ってほしいという。

 握手/予感/カチン/泣いた/爆弾/砂糖問屋/砲台/銭湯の道/図書館通い/ばれた/英語嫌い/卒業文集/坂田教授/尾頭付き/決闘状/調べろ/ぶつけ合い/六〇年安保/暴言/浮気性/さん付け/坂田研究室/奇妙な現象/入試廃止/恋人は/式の真実/不採用/十年遅れ/組合活動/湯川先生/小林誠君/やろうか/だめだ/六種類だ/理解されず/目利き/お墨付き/仁科賞/空白の十年/親孝行/ばかやろう/博士論文/最後の一つ/最大の危機/予知能力/予言通り/突っ切れ/もてなし/どっちだ/消える本/ダーチャ/私と猫/ごちそう/入院/原発講義/原発の後始末/科学と戦争1/科学と戦争2/科学と国境/平和憲章/科学とスパイ/恩師の言葉/二百年後/井の中の蛙/ドンーキホーテ/棚上げ/英語は大事/まだ謎解き/CP対称性の破れが我々に語ったこと

29.2月25日

 ”ヴェネツィア-美の都の一千年”(2016年6月 岩波書店刊 宮下 規久朗著)は、英語読みのベニスとして知られているヴェネツィアを建築や美術を切り口にその歴史と魅力を多くの写真とともに紹介している。

 ヴェネツィアはイタリア共和国北東部に位置し、陸地から4キロほど離れたアドリア海のラグーナ=潟に浮かぶ118の小さな島からなっている。その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体で、ヴェネト州の州都でありヴェネツィア県の県都である。自治体としてのヴェネツィア市は、ヴェネタ潟の島々や、メストレなどの本土側も市域に含み、面積は412.54 ?におよぶ。市域に含まれる有名な島には、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島、ジュデッカ島、リード島、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、ブラーノ島、トルチェッロ島などがある。中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄え、アドリア海の女王とか、水の都、アドリア海の真珠などの別名をもつ。ウィリアム・シェイクスピア、トーマス・マンをはじめ、今も昔も世界的に有名な戯曲、小説、漫画、映画の舞台にたびたび登場している。宮下規久朗氏は、1963年愛知県生まれ、東京大学文学部卒業、同大学院修了、現在、神戸大学大学院人文学研究科教授、美術史家である。著者は、イタリアのうちどこか一か所行くならどこがよいかと問われたら、迷わずヴェネツィアと答えるという。世界広しといえど、ヴェネツィアほどユニークな町はない。海の都ヴェネツィアは、風光明媚な古都として世界中の観光客が訪れる一大観光地である。町を歩き回るだけでも楽しいし、どこを切り取っても絵になり、思わず写真に撮りたくなる。都市としてのヴェネツィアは、面積5.17?のヴェネツィア本島に築かれている。巨大なテーマパークにもたとえられるが、テーマパークのような人工的な雰囲気とは対極にあり、古都の風格や歴史の重厚さに満ちている。島々の間を道のように運河が縦横に走り、400もの橋がこれをつないでいる。ただ、この寄木細工のような町の隅々にまで1500年近い歴史が息づき、どんな細部にもいわれがあるそうである。今でも、乳母車と車いす以外の車が禁止され、自動車のないひっそりとした道を歩くと、その歴史の重みがあちこちから伝わってくる。2000年近く前に、無数の杭をラグーナに打ら込んで昨作った人工的な都市が今でも存続している。この都市はまた、類まれな美術の宝庫であり、世界最高の美術の島であることはあまり知られていない。イタリアは中世から近代にいたるまで西洋美術の中心として、国際ゴシック、ルネサンス、マニエリスム、バロックといった重要な傾向を生み出してきたが、ヴェネツィアはそのいずれの潮流にも独自の貢献をし、ローマ、フィレンツェと並ぶ美術の一大中心地であった。各時代に次々に天才が生まれ、巨匠が集まり、狭い島から膨大な名作を生み出してきた。それらの多くは売却され、収奪されて、パリのルーブル美術館をはじめ、世界中の美術館を飾っているが、ヴェネツィアには今なおその最良の精華がそっくり残っている。本書では、ヴェネツィアで見られる作品を中心に、ヴェネツィアの美術と歴史の歩みを振り返る。もともとビザンツ帝国とのつながりによって繁栄したヴェネツィアは、その影響によってサン・マルコ大聖堂に見られるような見事なモザイク芸術を生み出した。15世紀のベッリーニ一族は大きな工房をかまえ、そこから数多くの優れた画家が輩出した。16世紀はティツィアーノの圧倒的な影響のもとに優れた画家が続出したが、ことに世紀後半には、ティントレットとヴェロネーゼが屹立した。17世紀はローマでバロック芸術が開花したが、ヴェネツィア美術は停滞し、18世紀になると再び活気を取り戻して、第二次ヴェネツィア派とよばれる画家たちが登場した。ヴェネツィアは東西の優れた丈化が流人する地理的条件や豊かな経済力に加え、ヴェネツィアが長く独立を保つ過程で培われた強い愛国心があった。ヴェネツィアは国家の偉大さや名声を高めるためには何でもし、それによって町そのものを壮大な記念碑にしようとした。町の名誉のために行事や式典を繰り近し、壮麗さを愛し、美や歓楽を好む気風が自然に育まれた。また、1000年にわたって独立を保ったこの共和国は、ラーセレニッシマ=いとも静穏な国という別名のとおり、つねに社会が安定しており、芸術文化を育てるのに適していた。商人の国ヴェネツィアは、現実的で打算的な気風が支配的である。一方、驚くほど信心深く、この狭い地域は教会で埋め尽くされており、少し歩けばすぐに教会に行き当たる。ヴェネツィアでもっとも重要であったのは、同信会である。同じ守護聖人を信仰する民間の宗教団体をスクオーラと呼び、それらの集会所として使われた建物がたくさん残っている。同信会館は会費によって豪華に装飾されたが、ヴェネツィア美術のもっとも重要な作品群がこうした同信会館のために制作された。会員たちは宗教的な祝祭や都市の行事に参加し、同信会が競い合うことによってヴェネツィアを活性化させてきた。ヴェネツィアの絵画は400年にわたって、西洋絵画の最高級のブランドであり続けた。どんな地域でもその自然環境と美術とは関係があるが、この町を歩きどっぷりつかってからヴェネツィア絵画を見ると、環境と非常に調和していることが分かる。ヴェネツィア美術は当地で見てこそ、その美しさを堪能できるという。

第1章 曙光の海-ヴェネツィアの誕生 6~12世紀・初期中世
第2章 地中海制覇への道-共和国の発展 13~14世紀・ゴシック
第3章 黄金時代-絶頂期のヴェネツィア 15世紀・初期ルネサンス
第4章 爛熟の世紀-動乱のルネサンス 16世紀・盛期ルネサンス
第5章 衰退への道-バロックのヴェネツィア 17世紀・バロック
第6章 落日の輝き-ヴェネツィアの終焉 18世紀・後期バロック・ロココ
終 章 生き続けるヴェネツィア

30.平成29年3月4日

 ”ヴュイヤール - ゆらめく装飾画”(2017年1月 創元社刊 ギィ・コジュヴァル著、遠藤ゆかり訳、小泉順也監修)は、ナビ派を代表するフランスの画家・ヴュイヤールの作品と歩みを多くの写真とともに解説している。

 エドゥアール・ヴュイヤールは、ピエール・ボナールやモーリス・ドニとともにナビ派を代表するフランスの画家のひとりである。ナビとはヘブライ語で預言者を意味し、ナビ派は19世紀末のパリで活動した前衛的な芸術家の集団である。土曜日ごとにポール・ランソンの家に集まって、芸術を論じたり互いの作品の批評をした。独特の用語や制服、しきたりを考案して結束を高め、絵画、彫刻、工芸、舞台芸術などの広い分野で活躍した。大胆な構図と平面的な展開や短縮法、調和性を重視した色彩表現を駆使している。ギィ・コジュヴァル氏は1955年パリ生まれ、国籍はフランス、カナダで、1982年から1984年までローマのフランス・アカデミー宿泊研究員であった。リヨン美術館学芸員、ルーヴル美術館学芸員、ルーヴル美術学校教授、カナダ・モントリオール美術館館長などを務めた。この間、ヴュイヤールのカタログ・レゾネを編纂し、2003~04年に米加仏英を巡回したヴュイヤール展や、2006~07年のモーリス・ドニ展の主任コミッショナーを務めた。2008年からオルセー美術館館長を務めている。遠藤ゆかり氏は上智大学文学部フランス文学科卒の翻訳家であり、小泉順也氏は1975年生まれ、東京大学教養学科卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、一橋大学大学院言語社会研究科准教授である。ヴュイヤールは1868年にフランス東部キュイゾーに生まれ、1878年に家族とともにパリに移り、給費生としてコンドルセ高等中学校に通った。父は退役士官で、町の収税吏であった。その頃、リュネェ=ポー、ルーセル、モーリス・ドニらと知り合い、長い友情が始まった。1884年に父が亡くなり、母が裁縫所を開いて生計をたてた。ルーセルの影響で士官学校の受験を断念し、画家を目指すことを決意し、1888年にアカデミー・ジュリアンに入った。そこで、ボナール、セリュジェらと知り合い、翌年、ナビ派のグループ結成に加わった。1891年に開かれたグループの第1回展に出品し、ゴーギャンや日本の浮世絵の影響を色濃く残す広い色面による画面構成を試みた。それからまもなく、この画家独特の壁紙や家具の模様、登場する人物の衣装の柄を巧みに画面に取り込んだ装飾的な作品群が誕生した。初期には、モーリス・ドニやポール・ランソンを介してナビ派の活動に関わりながら、単純化された形態と色彩を追求し、ピエール・ボナールと生涯にわたる友情を結んだ。最晩年には、フランス学士院の会員に選出されるという栄誉に浴している。また,社交的な一面を持っており、ナタンソン兄弟、ヴァケ博士、エセル夫妻など、有力なパトロン、コレクター、画商との出会いに恵まれた。絵画制作のほか、室内装飾、舞台美術の仕事も手がけた。室内や庭でくつろぐ家族や友人のいる情景を優しい光の中に描くことを得意とし、ボナールとともにアンティミスト=親密派と呼ばれた。ナビ派にしたが真の意味でゴーガンに心酔はせず、自分の芸術的実践を続けながら独白の領域を切り開いた。耳目を集めり逸話、社会を騒がすようなスキャンダルとは無縁で、独身を貫くなかで、1928年に亡くなる母と同居しながら、穏やかでつましい生活を送った。それゆえ、母、姉、姪などの家族がモデルとして作品に頻繁に資場し、身の回りのありふれたものに囲まれたプライベートな室内空間が繰り返し描かれた。代表作には、自画像(1889年)、ランプの下で(1892年)、画家の母と姉(1893年)、求婚者、あるいは仕事台のある室内(1893年)、朝食(1894年)、縞模様のブラウス(1895年)、6人の人物のいる室内(1897年)、室内(1902年)、アトリエの裸婦(1909年)、縫いものをするヴュイヤール夫人(1920年)、フレシネ夫人(1931年)などがあり、装飾パネル連作には、公園(1894年)、アルバム(1895年)などがある。いずれも、世界各国の美術館などに収蔵展示されている。対象はゆがんだ視点や遠近法のなかで捉えられ、ゆらめく筆致がもたらす効果によって、運動するエネルギーが画面にあふれている。大半の作品はどこか曖昧であり、多義的な解釈の余地を残している。

第1章 ナビが語りかけること/第2章 演劇におけるように/第3章 密室の戦略/第4章 大装飾/第5章 時の仕事/第6章 パラダイスにて/資料編

31.3月11日

 ”大人になると、なぜ1年が短くなるのか? ”(2006年12月 宝島社刊 一川 誠/池上 彰著)は、大人になるとあっという間に時間が流れるのなぜについて解説している。

 楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、退屈な会議は、なぜなかなか終わらないのだろうか。子どもと大人によって感じ方が変わる時間に関する疑問や謎を、ジャーナリスト・池上彰氏が時間学研究者・一川誠氏にぶつけている。池上 彰氏は1950年生まれのジャーナリストで、慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局し、週刊こどもニュースの初代お父さん役を務めた。現在、東京工業大学教授を務めている。一川 誠氏は1965年生まれ、1988年に大阪市立大学文学部人間関係学科卒業、1994年同大学院文学研究科後期博士課程修了、文学博士、1995から1997年までカナダのヨーク大学研究員、1997年山口大学工学部講師、2000年理工学研究科助教授、2006年千葉大学文学部行動科学科助教授、准教授を経て、現在、教授を務めている。時間とは何だろう。目に見えず、触ることもできない。しかし、確かに存在する。その存在を、どうやって証明するのか。子どもの頃から考えていたことであった。この長らく知りたいと思っていた時間については、時間学なる分野が存在している。時間は人間にとってとても密接でしかも重要な関係にあることがらである。私達は常に時間と関わりながら生きている。時間については知っているつもりなのに、それが何かについて説明しようとすると、実はそれについて知らないことに気づかされる。これは、4~5世紀にローマ帝国で活躍した哲学者のアウグスチヌスが指摘した事柄である。時間とは何かという問いに答えるのはとても難しいということは、今から1500年以上も前にすでに気づかれていた。そして、時間とはこういうものだ、という誰もが納得する答えというのはいまだに得られていない。アウグスチヌス以来、様々な人々がこのやっかいな問題に取り組んできた。認知科学的な心理学は、体験される時間とはどのようなものかという問いに答えるために、実験によって調べていくという戦略をとってきた。この試みも、いまだに時間とはこういうものだという断定的な答えを得るには至っていない。とはいえ、体験される時間と物理的な時間とがどのような関係にあるのか、体験される時間はどのような条件のもとで伸びたり縮んだり、ひっくり返ったり、あるいは、その進み方が早くなったり遅くなったりするのか、といった具体的な問題について、実験によって調べ着実に理解の範囲を広げている。現代は、人間の生活が、人類史上かつてなかったほど高速化しつつある時代である。都市化した社会では、農耕文化に結びついた年中行事がそのもともとの意味を失いつつある。また、今の日本はそこら中に24特間宮業の店舗があって、いつでも日用品や食料を手に入れることができる時代でもある。世界のどこかで開いている株式や先物の市場にアクセスして、いつでも経済活動を行なうことができる。一見便利なようではあるが、これほど時間のメリハリ、時間の分節が失われた環境に人間が身を置く時代というのも、これまでなかったのではないか。アウグスチヌスの時代には存在しなかったような、時間に関わる様々な問題に我々現代人は直面しているように思われる。そんな時代にあって、人間は自分の時間的限界や社会的時間とどのように対峙していくべきなのかということは、誰にとっても重要な問題である。錯覚は、人間であればある程度共通して体験できる現象であり、私達の生活の身近なところで役立ってもいる。例えば、視覚の錯覚を利用して、視聴者に立体的な映像を提示する立体テレビ、聴覚の錯覚を利用して2本のスピーカーだけでも多チャンネルのサラウンドのような音響を再現したステレオ放送などがそうである。大人の時間が短いということは、時間と錯覚と関連している。昔は15分でできていたことが最近では30分程掛かるようになりあっという間に時間が過ぎた気になるが、これもある意味では錯覚である。時計の時間と人間の感じる時間とには、ズレがあるのである。心の中にある心的時計が、さまざまな要因によって進み方を変えるために、大人の時間は短く子供の時間は長く感じられる。まず、加齢に伴う身体的機能の低下が、時間を短く感じる1つの要因として挙げられる。年齢を重ねていくうちに、動きが緩慢になるだけではなく、モノを見て判断するのにも時間が掛かるようになる。まだそれ程時間は経っていないだろうと感じていても、実際には時計の刻む1分、1時間、1日、1年は心的時計と比べると早く進んでいるため、あっという間に時間が経った気になる。また、子供の頃は、運動会や文化祭、遠足や修学旅行など月ごとにさまざまなイベントがあり、毎日が新しい出来事の連続であった。待ち遠しい気持ちで早く時間が過ぎないかなどと思うと、時間がなかなか経たずにゆっくり感じる。同じように、時間経過に注意が向けば向く程、同じ時間でもより長く感じられる。このように、大人になると時間が経つのが早く感じるのは、代謝や記憶されている情報量が大きく関係している。また、認知される変化の数や刺激の有無なども関係しており、時間の心理的長さは年齢に反比例するという考え方もある。

第1章 ヒトはどうやって時間を感じているのか/第2章 文化がヒトの時間を作る/第3章 カラダ時間とココロ時間/第4章 子ども時間に比べて大人時間はなぜ速く流れるのか

32.3月25日

 ”広岡浅子自伝”(2015年8月 KADOKAWA刊 広岡浅子著/吉良芳恵解説)は、明治時代に活躍した女性実業家・広岡浅子が書き残した文章のの数々を紹介している。

 広岡浅子は、2015年度下半期放送のNHK連続テレビ小説、”あさが来た”の主人公のモデルであった。あさドラは2015年9月28日から2016年4月2日に放送され、放送期間平均視聴率は23.5%となり、連続テレビ小説としては今世紀最高を記録した。その原作は、古川智映子著”小説 土佐堀川 女性実業家・広岡浅子の生涯”である。本書に収録しているのは、広岡浅子が書き残した自伝、複数の雑誌に寄稿した文章、そして日本女子大学関係者に対して語った講演録である。浅子は自伝の中で、すなわち神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をしたと述べている。吉良芳恵氏は1948年大分県生まれ、1971年に津田塾大学 学芸学部英文学科を卒業し、1975年に早稲田大学文学研究科日本史専攻を修了した。その後、横浜市立大学非常勤講師、日本女子大学非常勤講師、助教授を経て、現在、日本女子大学文学部史学科教授を務めている。広岡浅子は1849年に山城国京都油小路通出水の小石川三井家6代当主・三井高益の4女として生まれた。小石川三井家は京都市上京区大黒屋町に広大な屋敷を構え、一部は現在、ホテル、ルビノ京都堀川になっている。浅子は高益50歳のときの娘で、別腹の子で母親の名は不明であった。17歳で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋の第8代広岡久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚した。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術などを独学するようになった。異母姉の春は1847年生まれで高喜の養女として三井家に入家し、浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁いだ。浅子は20歳で明治維新を迎え、夭逝した正饒の長男に代わり加島屋当主となった夫の弟の広岡久右衛門正秋と夫と共に、加島屋の立て直しに奔走した。1884年頃から炭鉱事業に参画し、筑豊の潤野炭鉱を買収して開発に着手した。単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に、坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられている。男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、しばしば狂人扱いされたという。1888年に加島銀行を設立、続いて1902年に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥となった。土倉庄三郎の紹介により、1896年に梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の著書”女子教育”を手渡された。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は、女子教育に大いに共感し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして、政財界の有力者に協力を呼びかけた。そして、広岡家、三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年の日本女子大学校設立に導いた。日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員となった。夫は女子大学校の創立委員の一人であった。1904年に夫が亡くなり、事業を娘婿の広岡恵三に譲り、以後は女子教育や婦人事業に貢献することを是とした。1909年に大学病院で胸部の悪性腫瘍手術を受け、年末に大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合い、1911年に宮川経輝より受洗した。その後は、社会貢献事業と学問に専念し、長井長義らに学ぶ傍ら、愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動した。ペンネームは九転十起生で、明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から一代の女傑と称えられた。1914年から死の前年の1918年まで、毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で、若い女性を集めた合宿勉強会を主宰した。参加者には、若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。浅子の残した資料からは、時代という制約の中で、女性が自立して生きることの困難さと、それゆえにこそ、独立独行でその克服に立ち向かった人の強さが伝わってくる。

第1章 浅子の自伝
第2章 浅子が一般誌で語ったこと(現代の婦人についての感想/日本婦人の三大使命/大正の婦人に望む/核心なき良妻賢母/青年の修業/二人の力の充実/指導者の覚醒/磨かれた二つの人格/選り抜き『一週一信』/これからの勝利者/隣邦中国に対する日本婦人の責任)
第3章 浅子が大学で語ったこと(私と本校の関係を述べて生徒諸子に告ぐ/教育/会員は社会の感化力たれ/家庭部員の猛省を促す/私は女子大学講義をいかにして学びつつあるか/この秋に心霊の修養を思え)
特別収録 大隈重信による弔辞/解説 実業家広岡浅子の闘い

33.平成29年4月1日

 ”ぷらり日本全国「語源遺産」の旅”(2013年3月 中央公論社刊 わぐりたかし著)は、ふだん何気なく使っている言葉が誕生したと言われる土地100カ所以上を旅して歩き言葉の歴史や物語をつづった17話である。

 語の由来を語源または語原というが、語の意味、発音、表記は時と共にしばしば変わるため、語源がいつも明らかとは限らない。また、言語の起源を考えることにも繋がるため、すべての語源を明らかにすることは難しい。わぐりたかし氏は1961年東京・広尾生まれ、桐蔭学園高等学校を卒業し、東北大学法学部法律科を中退し、慶應義塾大学文学部通信教育課程を卒業し、大阪府立大学大学院経済学研究科博士前期課程を修了した。学生時代に”アメリカ横断ウルトラクイズ”で放送作家デビューした。その後、ディレクターやプロデューサーも兼務しながら、幅広いジャンルで数々のヒット番組を生みだし、企画・構成・演出・プロデュースに携わった。世界でただ一人の語源ハンターとして、さまざまな言葉が誕生した由来の地たる語源遺産を訪ね、新聞のコラムなどに執筆している。べっぴんさんといえば、2017年度上半期放送のNHK連続テレビ小説のタイトルであるが、“ベっぴん”の語源遺産を訪ねる旅のテーマソングは、植村花菜の大ヒットナンバー”トイレの神様”しかない。トイレには、それはそれはキレイな女神様がいるんやで、だから毎日キレイにしたら、女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで。この曲のおかげで、“ベっぴん”という懐かしい言葉が現代によみがえった。べっぴんの語源遺産は、東海道五十三次の古田宿にかつてあった一軒の割烹店にある。べっぴんという言葉が大流行したのは、このお店に由来しているとのことである。情報の出元は、明治22年に創刊された日本初の月刊グラフィックマガジン”風俗画報”である。風俗画報は、江戸時代の風俗の考証や、東京の新風俗、地方風俗を主に紹介していて、貴重な史料となっている。その第72号に元祖べっぴんの逸話が載っているという。それはこんな話である。古田宿にあった織清という割烹店が、江戸で評判となっていた鰻の蒲焼きを、自分の店の新しいメニューに取り入れようと考えた。そして、職人を江戸からスカウトしてきて、安価で提供することにした。その売り出しの際、織清の主人が友人に相談した。店の前をいく通行人の目をくぎ付けにするような、気の利いた宣伝文句を看板代わりに掲げたいと思うのだが、何かないものだろうか。すると友人は、しばし思案に耽っていたかと思うと、やおら筆をとり、頗別品、と漢字三文字をしたためたという。作戦がズバリ的中し、鰻の蒲焼きは大ヒットとなり、頗別品は織清の記名物となった。この噂と評判は、たちまち東西に知れ渡った。このように面白い語源遺産を巡る旅は、楽しすぎてやみつきになるという。おまけに、旅をすればするほど日本が好きになる。日本語が愛おしくなってくる。大げさでもなんでもなく、日本に生まれてきてよかったなとさえ思う。語源を、机上のウンチクや雑学のたぐいだと思い込んでいるとしたら、大間違いである。インターネットや雑学本を拾い読みして、知ったつもりになっていると、それこそもったいない。いっしょに語源遺産の旅に出よう、と思わず誘いたくなる。語源は生きている。各地にひっそりと息づいていると言ってもいい。日本全国の語源遺産を旅すれば、それを実感することができるだろう。普段、なにげなく使っている言葉が生まれた舞台はどこなのか、その背景にはいったいどんな物語が秘められているのか、あたかも言葉のミステリーに挑戦する探偵にでもなったかのように現地を旅して、秘密のベールを一枚一枚、楽しみながら丁寧にめくっていく。するとそこには、驚くような出会いや発見のよろこびが待っている。言葉の出来となった神話や伝承を発掘して楽しみ、言葉の奥深くに眠っている歴史や物語に出会い、ゆかりの海や川、野山を歩き、まつわる事物や人物、祭事や遺跡、神社仏閣などを訪ね、自分の目で見て、自分自身で体験しながら、地元の方々とじっくりゆっくりコミュニケーションをとって、のんびりまったり、よもやま話をする。そうすることによって、語源は単なるウンチクや雑学をはるかに超えて、この国に生きてきた、そして生きている人々の生活や心情に思いを馳せる魔法の鍵となる。土地土地で出会う言葉の物語は、時には人生を振り返らせ、日々の生活を見直すきっかけになることすらある。心温まる希望や驚きに満ちあふれたストーリーもあれば、涙にむせぶ悲劇に出会うこともある。なかにはとびっきり美味しい話もある。気がつくと、日本を再発見する旅をしているのだなと、つくづく思う。本書は、厳選した十ヒの言葉、十七の旅にご案内しようと思う。

1.べっぴん-「べっぴん」は、鰻の蒲焼きだった
2.やぶ医者-語源の地で、ホンモノの「やぶ医者」とご対面!
3.十八番(おはこ)-発見!團十郎もびっくり「十八番」の「お箱」
4.トロ-名付け親は、三井物産の係長、安達一雄さん!
5.タニマチ-大阪・谷町筋で、元祖タニマチの外科医を発見!
6.春一番-島に刻まれた「ハルイチ」の悲劇とは
7.折紙付き-鑑定家のルーツ、本阿弥家で語源大スクープ!
8.太鼓判-太鼓判の直径は、わずか1.5センチだった\\!
9.金に糸目を付けない-破格の800円で「糸目」をゲット!
10.ぎょっとする-由来となった「虎」の背中をこすってみると...
11.ろれつが回らない-京都・大原は「ろれつ」のふるさとたった!
12.銀ブラ-元祖「銀ブラ」には、正しい道順があった!
13.感謝感激-足かけ2年の大旅行で「神の宿る島」ヘ!
14.うんたらかんたら-それは、宇宙と交信する呪文だった!
15.濡れ衣-悲しくも切ない2つの「濡れ衣物語」
16.しっぺ返し-特別公開、これが「しっぺ」だ!
17.完璧-古代史の謎…完璧の語源「玉璧」ってナニ?!

34.4月8日

 ”さようならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について”(2016年10月 中央公論新社刊 家入 一真著)は、インターネットは、社会、経済、文化、時間、家、あらゆるものをつなぎ変化させたが、いまその輪郭は消失し閉ざされつつあるという。

 インターネットは、世界中にある複数のネットワークを相互に接続することで構築された巨大なネットワークである。便利な機能として、Webサービス、電子メール、映像/音楽の配信、情報の共有や公開、情報検索システム、オンラインショッピング、インターネット電話、離れた場所のコンピューターの遠隔操作などがあげられる。いまやPC中心の時代からスマホ中心の時代に移行しつつあり、ネットは日常的なプラットフォームとなっている。家入一真氏は1978年福岡生まれ、中学時代にいじめによる引きこもり、登校拒否を経て中退し、画家を目指し油絵を学ぶも、親の交通事故など家庭の事情で断念し、22歳でpaperboy&co.を起業した。JASDAQ市場最年少で上場し、その後、退任し、40社ほどのスタートアップベンチャーへの投資を行いながら、BASEやCAMPFIREの創業、都内で多数のカフェの立ち上げ、現代の駆け込み寺リバ邸の立ち上げなどをしている。サーバー事業やプラットフォーム事業、さらに都知事選まで、インターネットと共に人生を歩んできて、その世界に別れを告げ、やってくる未来の姿を考える。インターネットなんて、ハサミのようにあたりまえに存在するもので、わざわざ賞賛する価値があるような対象ではないと考える20歳の若者がいた、という。しかし、著者にとってのインターネットは、10代半ばの引きこもりのさなかに光を与えてくれた大きな存在であった。そこから紆余曲折を経て、インターネットにかかかる会社を設立し20代で上場を果たした後も、やはりインターネットを通じてたくさんの人とつながり、飲食店やシェアハウスなどを手がけ、ネット選挙解禁後には、それをフル活用して都知事選を戦い、ネットとともにその人生を進んできた。インターネットはやはり無限の可能性を秘めた世界であり、ときには見たことのないようなものを生み出し、ときには中央集権的な構造にとらわれていた、いろいろなものを私たちの手に取り戻してくれる、無条件に賞賛される存在だった。しかし若者は、FacebookもTwitterも必要ない、LINEさえあればいい、という。つながりたい人とだけちゃんとつながっていれば、それ以上は必要ないのだ。著者は20歳の時の経験から、インターネットの向こうには想像できないくらい大きな世界が広がっていて、つながり始めていた。そして、その世界こそが、これからの時代、自己表現や発信の中心となるに違いないと強い興奮を覚えた。現在、世界はさらに大きくつながり続け、結果として、目前の若者はむしろ小さな世界にこそ、大きな価値を見出していたのである。著者は最近になって、そういった実際の姿が見えていない人たちとのつながりが、いったいどれだけの価値を持ちうるのか、どこかで疑問にも感じ始めていた、という。つながりすぎたせいなのか、伝えたいと思ってもいないような人にまでメッセージは容易に届いてしまい、想定をしていないような反発をもらうことも増えた。では、インターネットと私たちはどこへ向かうのだろうか。今現在あらためて考えてみれば、インターネット上だろうと、現実の世界で大きな声を持つ人がやはり発信力を持ち、行きすぎたつながりは、お互いを見張っているような居心地の悪さや炎上をどこかしこで引き起こすようになった。さらに、常時接続や無線回線が当然となり、スマートフォンの登場、そしてIoTの流れもあり、インターネットにつながっているかどうかを、自覚しなくなってしまった。その結果として、インターネットそのものの姿はほとんど見えなくなったのかもしれない。そして見えなくなって、インターネットがその輪郭を失った今、弱い人たちやマイノリティが守られる聖域としての期待からかけ離れた、逃げ場のない、むしろ息苦しい世界になりつつあると感じている。これから起こるであろう変化や、可能性を否定するつもりはないが、インターネットと私たちにどんな未来がやってくるか、ということについては大いに関心がある。インターネットと半生を歩んで見てきた景色、もしくは新しく見えてきた景色をここで整理し、その姿を浮かび上がらせてみたい。だから今こそ、消えかけたインターネットの輪郭を取り戻す旅へと出かけませんか。

はじめに
 インターネットが「ハサミ」?/小さな世界の大きな価値/じゃあインターネットとぼくらはどこへ向かうんだろう
前章 インターネットが消える前に
 インターネットという言葉の意味が変わった/無意識のネット接続/輪郭を失うことによるリスク/インターネットは最初に儀式を失った/そして「輪郭」を失ったインターネット
第1章 やさしかったその世界─ユーザーからプラットフォーマーになるまで
ぼくは確かにインターネットに救われた/やさしかった小さな世界/つながりたいことの可視化/「破壊の道具」や「逃げ込める先」としての期待/爆発し始めた自己表現/現実世界を侵食するインターネット/信じるに足る世界は確かに存在した
第2章 さよならインターネット─その輪郭を喪失するまで
「Web2・0」で決壊が始まった/ギークのためのインターネットの終わり/現実と同じ「つながり」をもたらすSNS/「Web2・0」の向こう側に姿を現したもの/即物的で現実的な期待の中で/ソーシャルゲームに参入しなかった理由
第3章 輪郭が失われた世界─まだそこは信頼に足るものだったのか
 終わりの始まり/クラウドファンディングという光/輪郭が溶けたことによるポジティブな側面/「個人」の再発見/政治とインターネット/そして余る「時間」/インターネットの輪郭をつかまえる
第4章 インターネットは「社会」の何を変えたか
 インターネットは何を変えて、変えなかったのか
社会 インターネットの世界はむしろ縮小している/祭りの場すら閉ざされる/インターネットに怯える人々/警備員だらけの相互監視社会/パノプティコン化したインターネット/シェア、フラット、フリー
文化 あふれる表現者と不足する鑑賞者/無理強いされた表現としての「批評」/「欲しがらない名無しさん」から「欲しがる名無しさん」へ/かつての「匿名性」は奥ゆかしさをもたらしてくれた/目出し帽を被る覚悟
経済 インターネットがポジティブな変化をもたらした分野/激減したコミュニケーション・コストがもたらしたこと/進む「CtoC」と「シェア」/コピーできるものにお金は集まらない/お金に生まれた新しい価値/善意も炎上する
第5章 インターネットは「私たち」の何を変えたか
時間 誰もが別の時間を歩み始めた/細切れになった時間/常に「オン」の弊害
空間 不幸な伝言ゲームが蔓延した/あえて伝言ゲームをしたがる人たちの登場/サードプレイスの登場
人 人の価値はポイントで決まる/「装置」になりたい人/人は「概念」にもなれる/あなたの友達はネットが選ぶ/変わる家族の意味
第6章 ぼくらはインターネットの輪郭を取り戻せるのだろうか
インターネットの輪郭を取り戻すということ/分断された世界の外へ向かおう/エクスターネット的/Six degrees の外に行こう/世界を強制的に変えてみよう/書店に行こう/プラットフォーマーになろう

35.4月15日

 ”何を捨て何を残すかで人生は決まる”(2016年4月 青春出版社刊 本田 直之著)は、自ら考え選択し幸せに自由に暮らしていくには人生を身軽にして持たない生き方が大事であるとしてその考え方や手法を伝えている。

 忙しく働いているのに金銭的な余裕が感じられず、 気が付くとスケジュールが埋まり自分の時間が減っている。いつの間にか付き合う人の多くが、仕事関係の人ばかりになっている。自分の暮らす部屋を眺めると、なぜ買ったのかよくわからない物がいくつも転がっている。いったいぜんたい、このままでいいのだろうか。本田直之氏は1968年生まれ、明治大学商学部産業経営学科卒業、サンダーバード国際経営大学院経営学修士取得、シティバンクなど3社の外資系企業を経てバックスグループの経営に参画し、同社で常務取締役としてジャスダック市場の株式上場を果たした。2004年にレバレッジコンサルティング株式会社を設立し代表取締役社長兼就任、日米のベンチャー企業への投資育成事業を行い、現在、8社の社外取締役・顧問を兼務している。著書は、経営術、個人ブランディング、ライフスタイル、読書術、時間術、思考法、人脈術、勉強法、MAC活用術、トレーニング、ハワイ本、面倒くさがりややなまけもののための本、小説など多岐にわたり、韓国、台湾、中国で翻訳版も発売されているほか、日本や海外で各種の講演も多数行っている。また、経営者を中心としたトライアスロンチーム、Alapaを主宰し、ハワイ、東京に拠点を構え、仕事と遊びの垣根のないライフスタイルを送っている。学校を出て、仕事を始め、充実していた目々のはずだったのが、ふと立ち止まった時に、何かが違うと感じてしまった。仕事や人間関係を抱え込みすぎて息苦しくなっている。そんな違和感に悩まされたことはないだろうか。もしあるなら、自分らしく自由に生きることと、持たない生き方をお勧めする。持たない生き方とは、持ち物を減らす断捨離やミニマリズム、シンプルライフなどといった暮らしのスタイルやノウハウではない。大事なのは、物を減らすことではなく、自分にとって必要なモノを見極め、それを選び取り、見た目ではない豊かさを手に入れることである、そのために、自ら考え、選択し、幸せに、自由に暮らしていく生き方を提案したい。どう時間を使い自分を成長させ、どんな人と付き合いいかに働いて稼いでいけば、幸せを感じられる状態にたどり着けるのか。真剣になればなるほど、自分にとって大切なモノと、そうではないモノの違いを明確にする必要が生じる。そして、いらないと思ったら世間の常識に反していてもスパッと手放すことである。捨てる勇気を持ち実践すること、それができた時、人は、自分は自由に幸せに生きていると実感できる。現実のわたしたちの暮らしを見回してみると、周囲には判断を鈍らせるノイズが溢れている。あれも欲しいこれも欲しいといって物を手に入れた特に感じる一瞬の充足感を追い求めると、物欲には限りがないので欲望に引っ張られてしまうことになる。物を追いかける暮らしには相応の経済力が必要で、物を買うためにたくさん稼ぎ、やりたくない仕事もすることになる。稼いだらご褒美として使ってしまい欲しかった物が手元に残るが、どこか満たされず次の欲しい物をみつけ欲望は際限なく広がっていく。欲望の対象がぼんやりと広がれば広がるほど、持たない生き方を実践するのは難しくなっていく。こうした罠から抜け出すためには、まず、当たり前とされてきた常識を疑うことである。今の日本は物質的にほぼ何もかも揃った状態になっていて、ストレスフルな仕事や人間関係を続けたとしても、その先に幸福感々満足感はないのではないか。これはいまでは、草食系と呼ばれる若者をはじめ、若い世代にとって当然の感覚になっているようである。こうした縛りから逃れ、何かが違うという違和感から解放されるためには、いらないモノをあらかじめ決めておくことが重要である。いるかいらないか、やるかやらないか、持つか持たないか、会うか会わないか、これらについてどう考えるかを、自分で考えて選択していくことである。もし何を望んでいるか明確にわからないのなら、まずはやりたくないことだけを紙に書き出してみよう。その結果、物のないシンプルな暮らしをあなたが選び、実践しているなら、それも持たない生き方であり、逆にこれだけは集めると決めたコレクションを眺める時聞か幸せなら、それもまた持たない生き方と言える。何かを手に入れる時には、相応の努力や痛みが伴う。どの道を試すにしろ、あなたが自分で決め、行勤しなければ始らない。不都合が生じた時も、受け止める覚悟が必要である。生き方にまつわるあらゆる局面で、何を捨て何を残すかを、自分の価値観に照らしあわせて選択していくこと、この決断があなたの人生を形作っていくのである。

第1章 「人生を縛る常識」を持たない/第2章 「なくてもいい物」を持たない/第3章 「必要以上のつながり」を持たない/第4章 「やらなくていい仕事」を持たない/第5章 「振り回されるほどのお金」を持たない

36.4月22日

 ”ゴッホ〈自画像〉紀行”(2014年11月 中央公論社刊 木下 長宏著)は、ゴッホが残した多くの自画像を分析しカラー図版76点を使ってその作品世界を丹念に読み解こうとしている。

 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年にオランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。1869年から画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働いたが、1876年に商会を解雇された。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年にアムステルダムで神学部の受験勉強を始めたが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルスの援助を受けながら画作を続けた。弟や友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、生活や考え方を知ることができる。ゴッホは感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。木下長宏氏は1939年滋賀県生まれ、同志社大学大学院文学研究科修了、京都芸術短期大学教授を経て、1998年から2005年まで横浜国立大学人間科学部教授を務め、1993年に芸術選奨新人賞を受賞した。ゴッホの絵で生前に売れたものは”赤い葡萄畑”1枚のみだったと言われているが、他に売れた作品があるとする説もある。死後、回顧展開催、書簡集や伝記出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。ゴッホは37歳で自ら命を絶ち、画家人生はわずか10年あまりにすぎないが、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残した。その10年間は大きく前期と後期の二つに分げることができる。前期は1880年6月から1885年11月までのオランダ時代、後期は1885年11月から亡くなるまでの1990年7月までのフランス時代である。1885年11月から1886年2月はベルギーのアントワープにいたが、この時期はフランス時代の予備期と考えられる。ゴッホが残した作品のうち、ゴッホが描いたと考えられる自画像は42点で、油彩と素描の胸像であり、図18では一枚の紙に複数の自画像を描いているので、2点と数えた。そのほか、”アニエール公園の風景””タラスコン街道を行く画家””レンブラント「ラザロの復活」模写の3点も自画像と考えられる。自画像というのは、ふつう、鏡に映っている自分の顔や胸から上ぐらいの姿を、カンヴァスに描いた絵のことを指す。油彩で描かれるものが多いが、鉛筆や木炭、チョークで描いたものもたくさんある。自分の全身像を描いたり、他人に扮したりした自画像もある。そこで、鏡に映っている自画像は鏡像、胸から上を描いた肖像は胸像と呼び分ける。ゴッホの自画像もほとんど鏡像で、胸像の形式をとっている。ゴッホはある時期に集中して自画像と取組んでいる。前半のオランダ時代には自画像を制作していない。後半のフランス時代に自画像を制作している。その間、パリ時代の2年間に34点と集中し、アルル時代には6点、サンーレミ時代は4点と、減少していく。そして、南フランスの施療院からフランスの北中部のオーヴェル・シュルーオワーズヘ移った最後の2ヵ月間には、141点もの油彩、ドローイング、エッチングを遺しているが、自画像は一点も制作していない。ゴッホが自画像を描いたのは、画家人生の後半の33歳から37歳になるころまでの4年余りの間だけなのである。ゴッホが自画像を描こうとしたのには内的な理由があった。自画像を集中的に制作するのは、絵画に対する取組み方と深く関わっているはずである。そうだとしたら、その自画像を追いかけ考えていくことによって、ゴッホという画家の遺した作品へより近づくことができ、その絵の理解を深めることができるのではないか。絵描きになろうとして絵を制作し始めてから、なぜ5年半ものあいだ、自画像に興味を示さなかったのか。そして、その後の4年間に自画像を制作し、最後の2か月はなぜまったく自画像の筆を執らなかったのか。自画像を一つ一つ見ていくと、これまで既成概念で塗り固められていた像とは異なる画家ゴッホの姿が立ち現れてくる、という。それは、独特の画風が決して自分の意に反して狂気を背負ってしまった結果なのではなく、一人の男が生を享けた時代社会を、自分か納得できるように生き抜いて、一心に人生を送ろうとした、その過程を映し出したものであることを教えてくれる。

プロローグ ゴッホと自画像
1 牧者への夢-自画像以前の時代
 「一本の道」-画家になるまで/畑を耕すように描く-エッテン、ハーグ、ヌエネン
2 自問する絵画-自画像の時代
 鏡に映らない自己を描く-パリ/日本の僧侶のように-アルル
3 弱者としての自覚-自画像以降の時代
 遠くへのまなざし-サン・レミ・ド・プロヴァンス/背景の肖像画へ-オーヴェル・シュル・オワーズ)
付 描かれたゴッホ 
エピローグ 自画像の人類史を駆け抜ける

37.4月29日

 ”源実朝 歌と身体からの歴史学”(2016年9月 KADOKAWA刊 五味 文彦著)は、鎌倉幕府の若き三代将軍としての源実朝の政治、紛争、仏道、和歌などの全体像を詳細に検証している。

 源実朝は、1192年に源頼朝の子としては第6子で四男、政子の子としては第4子で次男、として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就いた。1218年に武士として初めて右大臣に任ぜられたが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺され、わずか28年の生涯を閉じて鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として”金槐和歌集”があり、小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。五味文彦氏は1946年甲府市生まれ、甲府第一高等学校を経て1968年に東京大学文学部国史学科卒業、同大学院人文科学研究科を経て東京大学文学部助手、助教授、教授を歴任し2006年に定年退職、2006年に放送大学教養学部教授を務め2016年に定年退職した。日本中世史専攻、2004年に第26回角川源義賞を受賞した。実朝の生涯をおおよそ10年で区切ると、最初は1192年の出生から将軍にいたるまで、次は1203年の征夷代将軍から和田合戦にいたるまで、そして1213年の和田合戦後から1219年に殺害されるまでと区分できる。実朝は、源頼朝が征夷大将軍に補任された直後に生まれた。頼朝は幕府の有力者を集めて将来の守護を頼み、祖父北条時政の保護の下で大きな期待をかけられて成長した。頼家が跡を継いで将軍となり有力御家人との対立が深まるにつれ、その存在は次第に重みを増していった。頼家が重病になった1203年8月には、関西38カ国の地頭職を譲られた。9月に頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉されると、ついに将軍に立てられた。当初は時政や政子、北条義時の補佐、後見を必要としたが、1204年7月には直接に政道を聴断した。やがて将軍家政所を整備し、政所を中心にした幕府の訴訟、政治制度を充実させていった。1209年に従三位になって公家に列すると、将軍家政所下文を発して政所に実権を集め、次々と新たな政策を展開していった。その政治には京都の政治の影響が強く、また積極的に京風の文化を取り入れた。京都から侍読を招き、後鳥羽上皇の寵愛する西御方の姉妹で坊門信清の娘を妻にした。後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌にも、当代は歌鞠をもって業となす武芸廃れるに似たり、と批判されるほどに執心した。詠んだ和歌30首を藤原定家に送って指導を求め、和歌は死後に”金槐和歌集”としてまとめられた。御所の寝殿を中心とする文化空間を整備し、東国に京風の文化空間を創っていった。しかし、子が生まれなかったことから後継者問題が起き、政子は上洛して後鳥羽上皇の皇子頼仁を後継者として迎える約束をとりつけた。官位は次々と上昇したが、かえって関東の御家人に大きな危惧を生んだ。特に和田合戦後、反北条勢力の御家人の批判と京の勢力との板挟みにあった。それを慰めたのが栄西で、中国伝来の良薬を勧め、その効能を記した書”喫茶養生記”を進呈した。次いで現れたのは東大寺の大仏を鋳た宋人陳和卿で、その影響で唐船を建造して渡宋を試みたが、船は由比の浦に浮かばず朽ち果てた。1216年に政所の充実をはかったが、京の勢力を警戒する動きが強まった。1219年1月に右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に詣でた直後に、甥の公暁によって侍読の源仲章と共に殺害された。実朝の存在はさまざまな意味において極めて興味深いことは、多くの著名な文学者が触れていることを見てもわかる。しかし、実は実朝に迫ってゆくのは容易ではなく、基本的史料の”良妻鏡”だけでは実朝の肉声をとらえるのは難しい。実朝の肉声に迫には改めてその詠んだ和歌から考えてゆかねば、実朝に肉薄するのは困難であると思う。ただし重要な点は、実朝は和歌を学びはしたものの歌人として生きることを考えていたわけではないことである。実朝が専門歌人であるならば、定家や後鳥羽院に倣って百首歌を初学として詠んだであろうが、その形跡はまったくない。したがって、実朝の歌から読み取り聞き取るべきなのは、その肉声から発する実朝の思いであり、実朝が何を目指していたのかを知ることであろう。武家政治は泰時の段階に定着したが、幕府草創を担った頼朝や、後鳥羽上皇が推進した政治と文化に学び、武家の政治と文化の礎を築いた意味において、実朝の存在はもっと高く評価されるべき、という。

春待ちて霞の袖にかさねよと霜の衣のおきてこそゆけ
へさ見みれば山もかすみてひさかたの天の原より春は来にけり
古寺の朽木の梅も春雨にそぼちて花ぞほころびにけり
桜花散らば惜しけんたまぼこの道行ぶりに折してかざらむ

1 東国の王
 和歌から実朝を探る/将軍にいたるまで/将軍実朝の成長)
2 王の歌 試練を乗り越え/和歌を詠む喜び/実朝の徳政)
3 歌から身体へ
 慈悲と無常/和田合戦/合戦の影響
4 王の身体
 再起を期して/家名をあげるべく/主なき宿となりぬとも

38.平成29年5月6日

 5月6日用

 ”珍樹図鑑”(2016年10月 文藝春秋社刊 小山 直彦著)は、樹木が織り成す自然の造形の美しさ、不思議さ、おもしろさを紹介している。

 珍樹ハントは、デジカメやスマートフォン片手に、樹木の幹や枝に、動物や有名人にそっくりな模様や形=珍樹を見つけることである。見つけた珍樹を撮影し、名前をつけることで、そこに存在価値が生まれる。自分だけの樹木のオリジナルキャラクターを作ることが可能である。小山直彦氏は1965年東京生まれ、森や公園などで珍しい樹木を見つける珍樹ハンターである。主に東京の森や公園を探索し、珍樹という獲物を日々狙っている。なかでも一番の楽しみは、動物などの生き物や、人間の顔に似た樹木を探すことである。最近は、イマジネーションを使って幹の模様や枝の形を何かに見立てて写真を撮る、珍樹ハントという遊びを公園の新しい文化として提案している。一日一樹を目指して毎日ハント中で、これまでに、この道十数年、2000点を超えるコレクションがあるという。公園の売店休憩所で珍樹ハンター小山直彦写真展を開催したり、公園のサービスセンターでそっくりさんを探せ!珍樹ハンターといくオモシロ樹木観察会などを開催している。何故こんな奇天烈なことを始めたのかというと、もともといろいろなものが顔や別の形に見えるたちだったそうである。それは空に浮かぶ雲を動物にたとえるようなロマンチックなものではなく、物心ついた頃から家の壁のしみなどを眺めては妄想しながら何かに見立て、それを自分だけの秘密のランドマークとして残し、通学の途中などで一人遊びを楽しんだという実に地味なものだった。そして友達が枝を使って刀や釣り竿などを作って遊ぶなか、樹本のことが可哀想で枝を折ることもできない少年だった。妄想癖と樹木愛が融合して、珍樹ハンターが誕生したというワケである。本格的に始めたのはフリーランスになった約10年前のことで、フリーの時間か増えてから緑のある場所へより多く出かけるようになった。すると厳しい仕事環境から離れたことで、少年時代のように心にゆとりができたのだろう。次第に発想や想像力が高まり、樹木がより様々なものに見えてきた。そしてこの魅惑的な自然の世界にのめり込み、いつしか珍樹ハントはライフワークとなった。珍樹ハントの極意は、たくさん歩いてたくさんの樹木に出会うことである。出会った樹木の数だけ、珍樹の発見数は高まる。樹木は向こうからやってこないため、こちらから会いにいかなければならない。心にゆとりがある時でないと、いくら観察しても珍樹の発見率は低いままである。悩みがあったり、考えごとがあったり、はたまた体調が悪かったり、心が疲れていたりすると、集中力がとぎれやすく見つかりにくい。珍樹の評価は、見立て方の精度によって変わるし、おもしろさも増してくる。見立て方や感じ方はその人の主観や感性、性別や年齢などによって大きく異なるため、珍樹には正解がない。だれが見ても賛同する一目瞭然なリアルな珍樹であればいいのだが、ちょっと首をひねるような難解な形の珍樹の場合はいろいろな見方や意見が出る。珍樹ハントの醍醐味は、探して写真を撮ることだけではない。自分で見つけた珍樹をジャンル別に整理して、コレクションしていくとおもしろい。撮りためた珍樹を分類していくと、さまざまな傾向が見えてくる。テーマをもって珍樹ハントすることは、ただ目的がなく探すよりは楽しい。珍樹を見つけたら、まずはそれを記録するためにカメラで撮影する。常に撮影ができるようにカメラを備えておきたいものだが、最近はスマートフォンや携帯電話を持っていれば撮影ができるため、とても便利な時代になった。珍樹との出会いは一期一会であり、次回撮ろうと思っていても、その後その樹木が伐採されたり、台風などで折れたりすることがあるため、見つけたら必ずカメラに納めたい。珍樹ハントは、山より公園の方がベターである。確かに山にはたくさん樹木があり、自然も公園に比べると山の方が圧倒的に豊かだが、珍樹の発見率が高いのは公園なのである。なぜ公園なのかというと、針葉樹より広葉樹の方が見つけやすく、さらに人の手が加わった樹木の方が珍樹になりやすい傾向にあるからである。珍樹ハントは、健康にいい、脳が活性化する、お金がかからない。そして病みつきになる!子どもからお年寄りまで楽しめる。

ベストセレクト/2000点以上のコレクションから激似を選出。えっ、コレが樹木!?目からウロコのそっくりさん登場
有名人/大物歌手や政治家、お笑い芸人、イケメン俳優などテレビや映画でお馴染みのあの顔この顔、大集合
キャラクター/ねずみ男、ろくろ首などの妖怪や、正義の味方・ウルトラマンも現る。浅倉南やメイの可愛い顔も必見!
人体/顔だけではない。手や後ろ姿など、人の身体に見える樹木たち。一度見たら忘れられないインパクト
動物/森がまるでサファリパークのよう。コアラなどの可愛い小動物や、ソウさん、クマさんたちも続々出現
水族館/イルカ、ウミガメなど水の生き物が森で隠れんぼ。子供たちも大喜びの「森の水族館」へようこそ!
バード/幹や枝が、オウム、フクロウ、ツルなどのモノマネを演じる。これぞユニークなバードウォッチング
物/ケヤキでできた洋式トイレ、イチョウの水中メガネ、ミズキの靴、これらすべて正真正銘のウッド製
十二支/自分の干支を探してみるのもおもしろい。ネズミからイノシシまで、十二支の動物たちがずらり勢揃い!
文字/枝や根っこの巧みな筆遣いが、お見事。よくぞここまで曲がったものだと、自然の妙にただただ感心

39.5月13日

 ”平将門の乱(戦争の日本史)”(2007年4月 吉川弘文館刊 川尻 秋生著)は、いまだに各地に残り今なお人々の絶大な信仰を集める平将門の知られざる実像とその時代を紹介している。

 承平天慶の乱は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大し、やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになった。そのこじれから国衙の戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成した。そして、京から赴任する受領たちと対立し、西国各地を襲撃して、朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛けた。まず、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて平将門の乱が収拾され、その後、西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。実際には両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれた色合いが強いようである。川尻秋生氏は1961年千葉県香取市生まれ、1984年早稲田大学第一文学部日本史学卒業、同大学院文学研究科修士課程修了、千葉県教育庁文化課博物館準備室、千葉県立中央博物館学芸研究員を経て、2007年早稲田大学文学学術院准教授、2011年早稲田大学文学学術院教授を務めている。平将門の乱は、藤原純友の乱とともに、日本古代における最も大規模な反乱であった。”将門記”によれば、将門は新皇=新しい天皇と称し、坂東に独立国家を建設しようとした。もしこれが真実なら、長い日本史上を見渡しても、このような構想を待った人物はほかにいないだろう。将門は桓武平氏高望の孫で、父は鎮守府将軍良将である、なお、良持だという説もある。若いとき上京して一時期、摂関藤原忠平に仕えたこともあった。志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い、いまの茨城県の豊田、猿島、相馬の3郡を支配した。935年に父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いが生れ、おじ国香やその姻戚の常陸の豪族源護の子らを殺したことで、おじ良兼、良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。将門はこれを打ち負かしたが、護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚された。運よく恩赦に浴し許され帰国したが、以後もおじたちとの争いは激しさを加えたが、これを抑えこみ国司の抗争に介入した。939年武蔵国において権守の興世王、次官の源経基、郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが,経基によって朝廷に訴えられた。その矢先、常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で、将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃し官物を奪って放火したため、この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ、下野、上野、武蔵、相模の諸国を配下におき、八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称した。坂東八カ国の独立を宣言し、下総国猿島郡石井に王城の建設を始めたが、940年に朝廷の追討軍との争いに破れ、飛んできた矢が額に命中して討死した。言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。中世、将門塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、将門の祟りと恐れられた。時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、1309年に神田明神に合祀された。現在、東京都千代田区には将門の首塚があり、壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説が語り継がれてきた。戦前まで国家から逆賊の熔印を捺され、表向きの歴史からは忌み嫌われてきた。しかし、武士の信仰や民間信仰には全国各地に将門伝説が残り、将門の後裔を称する氏族も少なくない。こうした将門人気は衰えることを知らず、小説などの題材としてもしばしば取り上げられてきた。学問的にみると、近年、平安時代の貴族の日記や儀式書などの基本史料の研究が進み、10世紀の社会システムについての研究が急速に発展してきた。10世紀を古代国家から中世国家への転換点と見て、この時代の歴史を研究することが前近代の日本列島の成り立ちを解明する鍵になると考えられるからである。こうした研究によっても、10世紀の社会、とくに在地についての具体的なイメージはつかみにくいというのが実状である。9世紀末まで編纂されていた正史が、”日本三代実録”を最後としてなくなり、以後まとまった史料がほとんど存在しないためである。断片的な史料や研究成果をいくらつなぎ合わせても時代像を描きにくいのである。”将門記”で詳細な史料が残されている将門の乱は、総体的に10世紀の実相を描くのに適しているといえよう。将門の乱研究は、行き詰まった分野ではなく、逆に10世紀研究に新たな息吹を吹き込むことのできる材料である。そこで、第一に、最近の10世紀研究の成果を十分に吸収しながら、記事をできるだけ丁寧に読み込むこと、第二に、丁寧に各種の史料をみていくと、これまで将門の乱研究に用いられたことのなかったものや、写本調査によって、新たに読めるようになってきた史料が判明してきたこと、第三に、将門の乱のみならず、将門の乱が後の歴史に与えた影響を、明らかにすること、第四に、武力の意味をもう一度考えてみたいということをもくろんでいるという。

 なぜ、今、平将門の乱なのか
1 平将門とその時代
 『将門記』とは何か/治安の悪化/将門の本拠地と営所
2 将門の乱を探る
 事件のはじまり/武蔵国への介入/常陸国府との対立/新皇将門
3 独立国家の夢
 藤原純友の蜂起/国家の対応/将門の最期/失われた文字を求めて/戦後処理
4 後世への影響
 平安貴族からみた将門の乱/武士の成立/伝説のなかの将門
 将門の目指したもの

40. 5月20日用

 ”同時通訳はやめられない”(2016年8月 平凡社刊 袖川 裕美著)は、話者の話を聞くとほぼ同時に訳出を行う通訳の中でも花形的な形式の同時通訳者として異なる言語を行き来することで見える世界や表には見えない日々の格闘をユーモラスに描いている。

 通訳とは二つ以上の異なる言語を使うことができる人が、ある言語から異なる言語へと変換することであり、一般的には、異なる言語を話す人たちの間に入り、双方の言語を相手方の言語へと変換し伝える。その中で。同時通訳は、話者の話を聞くとほぼ同時に訳出を行う形態であり、通訳の中でも花形的な形式である。袖川裕美氏はこの同時通訳者の一人で、1980年東京外国語大学外国語学部を卒業、1988年カナダのブリティシュ・コロンビア大学修士課程修了、1996年から4年間、ロンドンのBBCワールドサービスで放送通訳を務め、帰国後、NHK・BS、BBCワールドニュース、CNN、日経CNBCを中心に、放送通訳や会議通訳を行なった。2015年から愛知県立大学外国語学部英米学科准教授を務め、一部通訳の仕事を残しつつ、異文化コミュニケーションのための英語を担当している。通訳と言っても、逐次通訳、同時通訳、ウィスパリング通訳などの違いがある。通訳者は、通訳を行う場所・場面によって、会議通訳、商談通訳、エスコート通訳などがあり、求められているスキルにそれなりの違いがある。逐次通訳は話者の話を数十秒~数分ごとに区切って順次通訳していく方式であり、一般に通訳技術の基礎とされる。話者が話している途中、通訳者は通常記憶を保持するためにノートを取り、話が完了してから通訳を始める。同時通訳は、話者の話を聞くとほぼ同時に訳出を行う形態であり、異言語を即座に自家国言語に訳す能力が必要とされるほか、相手の発言内容をある程度予測する必要もある。通訳者は、ブースと呼ばれる会場の一角に設置された小部屋に入り、その中で作業を行うのが一般的である。ウィスパリング通訳は同時通訳と同一の方式であるが、通訳者はブース内ではなく、通訳を必要とする人間の近くに位置して聞き手にささやく程度の声で通訳をしていく。高価な通訳設備の用意が必要ないため、企業内の会議などで使用されることが多い。同時通訳では、通訳者の音声はブース内のマイクを通して聴衆のイヤフォンに届けられる。同時通訳作業は非常に重い負荷を通訳者に要求するため、2人ないしは3人が同時にブースに入り15分程度の間隔で交代する。時には、ブース内の控えの通訳者が、単語の提供など訳出の協力もする。多言語間通訳が行われる国際会議で特に多用されるが、多言語地域であるヨーロッパでは通訳の需要のほとんどが同時通訳である。同時通訳を仕事にしているというと不思議そうな顔をされる、という。世の中に多い職業ではないせいか、すぐにはピンとこない人も多い。テレビのニュースの同時通訳を例に、これこれしかじかと説明すると、”へえ”と驚かれ、時には”すごい”と言われることもある。そして、英語だったら何でも分かり、右から左に、左から右へと、機械のごとく言葉を転換できると思われる。だが、話はそう単純ではなく、残念ながら、そうすごくはないのである。他の多くの仕事と同じように、四苦八苦しながら取り組むうちに、だんだんこなせるようになっていく地味な仕事である。職人的仕事であり、天性のセンスがいい人はいても、基本は研鑚と経験で技が磨かれる息の長い仕事である。通訳はまた、舞台に出る俳優や演奏家、試合に出るアスリートのように、本番のある仕事である。本番は一回しかなく、相手は毎回違うので、自分だけではコントロールできない不確定要素がある。通訳はリハーサルもないので、自分がどこまでやれるか、事前に予想しきれないリスキーな仕事でもある。毎回、自分の不備を感じつつ、実際にはそれほど頑張れない時を挟みつつ、通訳は終わりのないマラソンのような、かなりマニアックな仕事かなと思う、という。でも、日本語以外の言葉で世界のいろいろな人とコミュニケーションし、その仲介ができることはとても楽しいとのことである。

まえがき──同時通訳は職人+アスリート 
1 同時通訳うちあけ話
 華やかに見えますか?/株価も色気かと思いつつ……/「資料が命」の仕事です/「知的お得感」を求めて/同時通訳は“人間離れ”している?/飛び込んで、知る悦び/テロと私/インフルエンザの誘惑/エージェントのコーディネーター/憧れのヨーヨー・マがすぐそばに 
2 同時通訳が見た世界と日本
 グローバリゼーションは終わった!?/「アンダー・コントロール」と「トラスト・ミー」/ケニヤ大統領の都内視察に同行/ちょっと微妙な香港/「おいしいoishii」を国際語に!/Wow ! 感いっぱいのインド/インド人に比べて日本人は幸せ?/固有名詞にご用心/スウェーデンの社会保障に学ぶ/“親日”に甘えてはいけない/日本ラグビーにしびれる/日本人の英語も、Cool !/コミュニケーションにおける論理と感情/誤訳のメッセージ性と真実/オバマ大統領にオマージュ 
あとがき──ご案内の旅を終えるにあたって 

41.6月9日

 ”「新富裕層」が日本を滅ぼす”(2014年2月 中央公論新社刊 武田知弘著/森卓郎監修)は、金持ちが普通に納税すれば消費税はいらないという。

 日本は世界の10%以上の資産を持っているのに、たった1億数千万人を満足に生活させられない国である。日本に必要なのは経済成長や消費増税ではなく、経済循環を正しくすることである、という。武田知弘氏は1967年福岡県生まれ、西南学院大学経済学部を中退し、1991年にノンキャリア職員として大蔵省に入省、1998年から執筆活動を開始し、1999年に大蔵省退官後、出版社勤務などを経てフリーライターとなった。森永卓郎氏は1957年東京都生まれ、東京大学経済学部を卒業し、1980年に日本専売公社に入社、1982年経済企画庁総合計画局へ出向、1986年三井情報開発株式会社総合研究所へ出向、その後、三和総合研究所への入社を経て、2006年に獨協大学経済学部教授に就任した。今の日本人の多くは、現在の日本経済について大きな誤解をしている。たとえば、あなたは今の日本経済について、こういうふうに思っていないだろうか。”バブル崩壊以降、日本経済は低迷し国民はみんなそれぞれに苦しい。金持ちや大企業は世界的に見ても高い税負担をしている。日本では、働いて多く稼いでも税金でがっぽり持っていかれる。その一方で、働かずにのうのうと生活保護を受給している人が増加し、社会保障費が増大し財政を圧迫している。日本は巨額の財政赤字を抱え、少子高齢化で社会保障費が激増しているので消費税の増税もやむを得ない。”しかし、実はこれは全部、嘘なのであるという。事実とは、むしろ正反対なのである。国や公的機関が発表している誰でも人手可能なデータを見るだけで、それがわかる。たとえば、こういうことを言うと、あなたは信じられるだろうか。”この10年で、億万長者が激増している。”これは、紛れもない真実であり、バブル崩壊以降、日本国民は皆苦しかったわけではなく、日本経済自体は悪くはなかった。また、日本には実は世界的に見ても巨額の資産がある。個人金融資産は1500兆円に達しているが、これもバブル崩壊以降に激増した。アメリカの3大投資銀行であるメリルリンチのレポートによると、金融資産を100万ドル以上持っている日本の富裕層は、ここ数年で激増している。2004年には134万人だった富裕層は、2011年には182万人になっている。182万人というのは、世界全体の富裕層の16.6%で、アメリカに次いで世界第2位である。世界の人口の2%に満たない日本人が、世界の富裕層の16.6%も占めているのである。そして、人口比率から見れば日本の方が富裕層が多く、日本は世界一の富裕層大国と言える。国税庁の確定申告データによると、個人事業者の年収5000万円超の者は、この10年で13倍以上になっている。1999年にはわずか574人しかいなかったが、2008年には7589人に激増している。また、個人投資家の億万長者も激増していると思われる。この10年間、国民のほとんどの収入は下がり続けてきた。一方で、億万長者は激増しているのである。なぜ億万長者がこれほど増えたのかというと、その理由は相続税の減税と高額所得者の減税である。高額所得者は、ピーク時と比べれば40%も減税されてきたからである。この結果、最高で26.7兆円もあった所得税収入の額は、2009年には12.6兆円にまで激減している。この減税分は、ほぼ貯蓄に向かったと言えるであろう。金持ちは元からいい生活をしているので、収入が増えたところでそれほど消費には回さない。だから、減税されればそれは貯蓄に向かうのである。その結果、景気が悪いのに個人金融資産が激増ということになった。個人金融資産の大半は富裕層が持っているのである。今、日本がしなければならないのは、これ以上、国民に我慢を強いることではなく、たっぷりため込んだ者たちの資産を有効に活用することである、という。そこで武田氏が提唱しているのは、無税国債である。これは利息が付かない国債のことで、利子がつかない代わりに相続税が免除される点がメリットとなっている。日本ではまだ発行されたことはないが、政府では無利子国債の発行がたびたび議論、検討されている。無利子国債によって、政府による金利の支払いをなくして短期的に財政の負担を軽減し、経済対策等の財源にあてることを目的としている。しかし、長期的に見れば相続税免除によって税収が大幅に減るため、将来の財政につけが回るようになる。また、無利子国債はタンス預金など、眠っている国民の個人資産を、国の経済対策等のために活かすことを目的としているが、相続税の免除につながることから、金持ち優遇の政策であるとの批判もある。これに対し森永氏は、富裕層への政策を考えるときには、彼らがカネの亡者だということを前提に考えないと実効性を担保できない。慎重に制度設計しないと、逆に富裕層を利するだけに終わりかねない、という。

第1章 激増する億万長者/第2章 大企業は巨額の資産をため込んでいる/第3章 デフレの本当の真実/第4章 日本経済が抱える二つの爆弾/第5章 消費税が日本を滅ぼす/第6章 消費税ではなく無税国債を/第7章 普通に働けば普通に暮らせる国へ

42.6月10日

 ”東京どこに住む? 所得格差と人生格差”(2016年5月 朝日新聞出版刊 速水 健朗著)は、東京に変化が起こりどこに住むかの重要性が高まっている時代での都市暮らしの最新のルールを探っている。

 人が住む場所はかつて郊外化や人口分散から閑静な郊外の住宅地だったが、最近はにぎやかな都心に移行している。都市に人が集まるのは自然な現象であるが、家賃が高くても都心に住むメリットはなんであろうか。速水健朗氏は1973年石川県生まれ、東海大学卒業、在学中よりアルバイトしていたアスキーにて契約編集者を務めた後、2001年よりフリーの編集者・ライターに転身した。コンピュータ関連の編集者出身であるが、メディア論、都市論から、ショッピングモール研究、団地研究、音楽、文学、格闘技まで幅広い分野で執筆編集活動を行っている。江戸時代の江戸町人たちの長屋暮らしの人口密度に比べれば、いまの一極集中下の東京での都心の暮らしなんて、スカスカなものでしかない、という。ほんのひと時代前までの日本人は、喧騒を離れて生きることが上等であると思っていたが、昨今では、また久々ににぎやかな場所での暮らしが見直されている。世界でも、ニューヨークを始めとする大都市が1970年代前後に迎えていた暗黒時代を抜け、都市再生の時代から、さらには都市復活の時代を迎えている。東京でも、人は復活した都市に再び戻ってきて、都市生活を取り戻しつつある。日本人は引っ越しが嫌いで、生涯移動回数は4~5回くらいとなっている。先進国の移動事情に比べると少なく、アメリカ人の生涯移動回数はこの4倍くらいである。日本人には、1ヵ所に根付いた生活を送る文化が染みついている。だが、これからの時代に、日本人は引っ越しを余儀なくされると思われる。人口減少でこれまでどおりの経済活動の規模が維持できなくなる時代に、東京一極集中という名の人口移動が起きているからである。都市人口が増えると、人口流動が増えるため、平均生涯移動回数は確実に上がっていく。さらに、人口減少が進むことによる不動産価格の変化がある。人口が減る地域の地価は下がり続け、都心の価格はしばらく上がり続けることになろう。こうした環境の変化において、自発的にそこから移動をするかまたは定着を選ぶかで、人生は大きく変わってくる。現代は都市間格差の時代へ変化しており、職業選び以上に、住む都市が人生の格差を生む時代である。自分の置かれた状況を改善する手段として、住んでいる場所を変えることができるかどうかが問われているのではないか。移動は、その人が持つ能力が試される機会でもあり、職業的能力、経済力、コミュニケーション力、テクノロジーヘの適応力が高い人であれば、どこに住もうと生きていける。また、より自分の生き方の好みに見合った場所を探し、楽しく生きられる場所を探して移動を続けていくことができる。住む場所の選び方は千差万別であるが、住めば都とはよく言ったもので、人は誰しも、どんな街だろうと、住んでみることで満足できるというのは一面の真実である。どの地にも文化があり、それがその人の将来に影響を及ぼす。どこに住んだかで芽ばえる哲学や思想がありながら、そこに個人の事情が加わり、さらにその時代がもたらす事情が加わる。人は、かつてよりも、住む場所に対してユーティリティーを重要視するようになっている。ただし、コンビニに近いかどうかは、コンビニの数が飛躍的に増えたため、かつてほど便利さの指標にならなくなった。逆に減ったのがレンタルビデオ店で、いまどきはレンタルDVDは宅配や有料動画配信スタイルに移り変わり、住む場所とは無関係になりつつある。また最近では、スターバックスのような街の雰囲気を左右するチェーン店、また個性的でくつろげるカフェやワインバルがあるかどうかが重視されることもある。ユーティリティー以上に、街の個性が重視されているということかもしれない。住む場所に関する最大のルール変化は、人口集中の原理である。現在の人口集中は、これまでのそれとは性質が違っている。かつての東京への人口流入は、東京の周辺部、つまり郊外への人口拡散を伴うものだった。だが現在の人口集中は、都心部の人口増、つまり最都心部への集中である。本書は、今起こっている東京への人口集中はどういったルールの変化、社会の変化がもたらすものなのかなどについて考察を行っている。

第1章 東京の住むところは西側郊外から中心部へ/第2章 食と住が近接している/第3章 東京住民のそれぞれの引っ越し理由/第4章 なぜ東京一極集中は進むのか/東京内一極集中という現象/人口集中と規制緩和/景気上昇と人口集中/第5章 人はなぜ都市に住むのか

44.6月24日

 ”沖縄・奄美の小さな島々 ”(2013年7月 中央公論新社刊 カベルナリア吉田著)は、最初からガクッとつまずく島の旅で、沖縄・奄美でもローカルな島ばかり歩いた旅のエッセイである。

 沖縄県は日本で最も西に位置する県であり、沖縄本島を中心に363の島々から構成されている。沖縄諸島は南西諸島の中央部に位置し、琉球諸島北半分を占める島嶼群である。明治時代から1972年の本土復帰まで沖縄群島と呼称されていたが、復帰後は沖縄諸島に統一されて呼ばれるようになった。沖縄諸島は、沖縄本島をはじめ、本島の北西海上に位置する伊平屋伊是名諸島、勝連半島沖の与勝諸島、慶良間諸島や久米島などの島々を範囲に含む。また沖縄本島の東方海上約400kmに位置する大東諸島は、琉球弧に含まれないため、地理学上では沖縄諸島に属さないことがあるが、行政的には含まれるのが一般的である。奄美大島は九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島ともいう。本州など4島を除くと佐渡島に次ぎ面積5位の島で、大きな方から順番に、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島となっている。年間の日照時間が日本一短く、大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。指定区域に含まれる島には、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島がある。大きく揺れ動き変動しているのは沖縄本島だけでなく、瀬底、多良間、鳩間等の小さな島から奄美までも同じような傾向が見られる、という。ローカルな島々を歩き回って、現地の人と触れあい島のいまを伝えている。カベルナリア吉田氏は1965年札幌市生まれ、早稲田大学卒業、読売新聞社、女性雑誌、情報雑誌で編集の仕事を行い、2002年よりフリーとなった。航空会社機内誌、島旅雑誌、旅行ガイドなどにエッセイを提供している。沖縄を自分の足で隅々まで歩き、沖縄のいまを見たいという気持ちで沖縄旅を重ねている。最近は、基地問題や再開発による街づくりなど時事、社会問題をテーマに歩くことが増え、気がつくと沖縄本島ばかりを歩いていた。島を歩くのを忘れていたわけではないが、長い間ご無沙汰してしまった島がたくさんある。2003年に沖縄の有入46島を全て歩き、その旅を本にまとめた。そして、2005~2006年にかけて沖縄を自転車で走り、歩いて旅するには大きな島を中心に、いくつかの島を歩いた。それ以来、沖縄の島だけを歩く旅をしていない。この10年で沖縄の社会情勢と、観光を取り巻く環境は大きく変わった。リゾートが出来たり出来なかったりで島が観光化され、手つかずの風景が荒れ、島人の濃密なコミュニティにもヒビが入ることもある。のどかな風景にちらりと映る暗部が気にかかる。島は本来あるべき姿から逸脱しつつあるのではないか。そして、変わりゆく島の姿は日本全体の縮図かもしれない。基地、尖閣問題が本土でも連日報道される一方で、ドラマ人気により八重山人気が爆発、そして収束した。移住人気も一緒に盛り上がった、と思ったら沈静化した。10年前に島を旅したときは、海と空の美しさにただ感動して、人がひたすら優しく見えて旅は終わった。久々に歩いたら、前は気づかなかった別の一面も見えてくるかもしれない。そう思い、数年ぶりに沖縄の島旅に出ることにした。観光化が進んでいない、小さな島を中心に歩こう。そのほうが、よそ行きに飾っていない、島の素顔が見えるはずだからである。そして、沖縄だけでなく、今回は奄美の島も歩こう。奄美も元々は、同じ琉球王国に属していた。沖縄にとどまらず、琉球を知るためには、奄美もそろそろ歩き始めたい。沖縄にも冬は来る。そして冬の間は海が荒れ、島行き船が予定通りに出ないことも多い。だから春になり空気が緩み始めたら、この旅を始めよう。そう思ったのだが、3月の頭に沖縄はもう春だろうと思っていたが、冬がグズグズと居座っていた。伊是名島の玄関口仲田港は北西からの風に弱く、冬場はしばしば定期船が欠航する。波5メートルでは、船はたぶん着かない。だが、飛行機の時間が迫るのでとりあえず乗ろう。その先のことは沖縄に着いてから考えよう。

本島周辺
 瀬底島/今度こそ伊是名島/伊平屋島・野甫島/屋我地島/与勝諸島(平安座島・浜比嘉島・宮城島・伊計島)/津堅島/慶留間島・外地島/奥武島/渡名喜島/粟国島
宮古・八重山
 池間島/下地島/多良間島/黒島/鳩間島
奄美
 加計呂麻島/請島/与路島

45.平成29年7月1日

 ”カレーの歴史”(2013年8月 原書房刊 コリーン・テイラー・セン著/武田円訳)は、いまやグローバルとなったカレーについて、インド、イギリス、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアの世界中のカレーの歴史を読み解いている。

 カレーは、インド系、東南アジア系、洋食系の何れも現在では国際的に人気のある料理のひとつとなっている。現在私たちが食べているカレーには大きく分けて2つの源流がある。1つは、185世紀後半、インドの広城を支配していたイギリス東インド会社の商人たちが、自分たちの舌に合うように現地の料理を大胆にアレンジしたアングロ・インディアンカレー、もう1つは、古くは商人たちの手で、19世紀にはいわゆる離散インド人によって草の根レベルで伝えられ、世界各地の食材や食文化と融合したカレーである。そして、今日では、ヨーロッパや北米、中南米、アフリカ、オセアニアなど、世界中でカレー文化が根付いている。本書には多くのカラー図版とともにレシピも付いており、料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞している。コリーン・テイラー・セン氏はシカゴ在住のフードライターで、インドの食物についての造詣が深く、”シカゴトリビューン””シカゴサンタイムズ”などに寄稿している。竹田円氏は東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、専攻はスラヴ文学で、訳書と翻訳協力が多数ある。カレーは、多種類の香辛料を併用して食材を味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理である。それを元にしたヨーロッパ系の料理や、同様に多種の香辛料を併用して味付けされる東南アジアなどの料理も指す場合がある。カレーは18世紀にインドからイギリスに伝わった。当時、イギリスはインドを植民地として支配し始めていて、インドのベンガル地方の総督だったイギリス人が紹介したといわれている。19世紀に、イギリスで初めてカレー粉が作られた。インドにはカレー粉というものはなく、いろいろなスパイスを組み合わせて、カレーの味をつくっていた。インドのカレーとの違いは、小麦粉でとろみをつけたところにもあった。日本では、明治時代に当時インド亜大陸の殆どを統治していたイギリスから、イギリス料理として伝わった。カレーという言葉の定義は曖昧で、何かと議論の種になる。本書では、カレーとは、スパイスを効かせた、肉、魚、または野菜の煮込み料理で、ライス、パン、コーンミールなどの炭水化物が添えられた食べもの、と定義する。スパイスはその場で手作りしたパウダーでもペーストでも、店で売られている既成のスバイスミックスでもよい。この非常に広い定義には多くの料理が含まれる。イギリス統治時代のインドで生まれた古典的なアングロ・インディアンカレー、タイの洗練されたゲーン、カリブ海の活力みなぎるカレー、日本人が大好きな庶民の味カレーライス、インドネシアのグライ、マレーシアの絶品ニョニャ料理、南アフリカのバニーチャウ、ギボテイ、モーリシャスのヴィンダイ、そしてシンガポールの屋台に並ぶ激辛料理などなどがそれである。カレーの第2の定義として、汁気のあるものもないものも、カレー粉で味つけした料理はすべてカレーと認めることにする。カレー粉とは既成のスパイスミックスのことで、一般的なスパイスミックスの成分は、ターメリック、クミンシード、コリアンダーシード、トウガラシ、フェヌグリークである。こちらのグループには、ドイツのカレー・ヴルスト、シンガポールヌードル、カレーケチャップがかかったオランダのフライドポテト、アメリカのカレーチキンサラダのような多様な異種族混血料理が含まれる。カレーという言葉の起源についてはたくさんの説があるが、おそらく、スバイスで味つけした野菜や肉の炒めものを指す南インドのカリルまたはカリという言葉が元になっているのだろう。そもそもインド人はカレーという言葉を使っていなかった。しかし今日では、インド人も、とくに外国人と話をするときには、家庭で作る煮込み料理全般をカレーと呼ぶことが多い。15世紀後半、ポルトガルが香辛料貿易を支配し、ペルシア湾、マラッカ海峡、インドネシア、インド、南アフリカという広域にまたがる一大交易網を築いた。17世紀、ポルトガルはイギリスとオランダに植民地の大半を奪われた。1807年に大英帝国で奴隷貿易が違法とされ、1833年に奴隷制度そのものが廃止された。これを受けてイギリスは、解放された奴隷に代わる労働力として100万人を超える長期契約労働者をインド亜大陸から、西インド諸島、南アフリカ、マレーシア、モーリシャス、スリランカ、フィジーのプランテーションに連れてきた。新参者のインド人たちは移民先の土地の食材と自分たちの食習慣を合体させて、新種のカレーを作り出した。今日イギリスでは、数千軒のレストランやカレーハウス、ほぼ同数のパブでカレーを食べることができる。また、オランダのハーグやアメリカのニューヨークなどの都市の多くのレストランで、地元の素材で作られる洗練されたカレーを味わうことができる。カレーというグローバルな料理は今も進化し、変化する時代に適応し続けている。

序章 カレーとは何だろう?/第1章 カレーの起源/第2章 イギリスのカレー/第3章 北米とオーストラリアのカレー/第4章 離散インド人たちのカレー/第5章 アフリカのカレー/第6章 東南アジアのカレー/第7章 その他の地域のカレー/第8章 カレーの今日、そして明日

46.7月8日

 ”遣唐使 阿倍仲麻呂の夢”(2015年9月 角川学芸出版刊 上野 誠著)は、科挙を突破し希有の昇進を遂げ唐の重臣閣僚となった阿倍仲麻呂の苦難の生涯をつらぬく夢を日唐交流史をふまえて描きだしている。

 阿倍仲麻呂は698年に大和国に生まれ、筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫、中務大輔・阿倍船守の長男であった。若くして学才を謳われ、717年多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して、唐の都・長安に留学した。同次の留学生には、吉備真備や玄昉がいた。唐名を朝衡または晁衡といい、唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。上野 誠氏は1960年福岡県生まれ、国学院大学大学院文学研究科博士課程後期単位修得満期退学、奈良大学文学部教授(国文学科)、博士(文学)で、万葉挽歌の史的研究と万葉文化論により、第12回日本民俗学会研究奨励賞、第15回上代文学会賞、第7回角川財団学芸賞を受賞している。当時、唐の国力に及ぶ国はほかになく、都・長安は人口100万人の大都会であった。日本の平城京はわずか10万人であった。唐こそ世界を支配することのできる唯一の帝国であった。8世紀の東アジア世界においては、唐の文明を受け入れることで各国の国作りが進められていた。日本はそのうちにあって、世界帝国・唐の文明の果つるところ、辺境の一小国に過ぎなかった。ほぼ20年に一度派遣される遣唐使は、国家の存亡に関わる重い任務を負って、唐に旅立っていったのである。阿倍仲麻呂も、遣唐留学生の一人として唐に渡った人物である。なお、姓は史料ごとに異なり、”阿倍””阿部””安倍””アベ”の表記となっている。本書では、”阿倍”に統一して記すことにする。唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えた。太学は古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関で、官僚を養成する機関であった。科挙は、中国で598年~1905年まで約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。玄宗は唐の第9代皇帝で、治世の前半は太宗の貞観の治を手本とし、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えた。しかし、後半は、楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作ったと言われている。仲麻呂は725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していた。733年に多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行は、かろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄昉は、第1船に乗っていたものの助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で、渤海経由で日本に帰国することができた。734年に儀王友に昇進し、752年に衛尉少卿に昇進した。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐した。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維が秘書晁監の日本国へ還るを送るの別離の詩を詠んでいる。しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流された。このとき李白は仲麻呂が落命したという誤報を伝え聞き、明月不歸沈碧海の七言絶句、哭晁卿衡を詠んで仲麻呂を悼んだ。しかし、仲麻呂は死んでおらず、船は唐の領内である安南の驩州に漂着し、755年に仲麻呂一行は長安に帰着した。この年、安禄山の乱が起こったことから、日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したが、唐朝は行路が危険である事を由に清河らの帰国を認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、760年に左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めた。761年から767年まで、6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年に安南節度使を授けられた。最後は?州大都督を贈られ、770年1月に73歳の生涯を閉じた。歌人として”古今和歌集””玉葉和歌集””続拾遺和歌集”に、それぞれ1首ずつ入首したとされる。”続拾遺和歌集”の1首は、万葉集の阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したものと言われている。百人一首に、”天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”が選ばれている。753年に帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説であるが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え福岡県春日市の御笠山から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。

第1章 新生「大宝律令」の子/第2章 日本から唐へ/第3章 科挙への挑戦/第4章 官人として宮廷社会を生きる/第5章 知恵が救った四人の命/第6章 阿倍仲麻呂帰国/第7章 阿倍仲麻呂と王維/第8章 天の原ふりさけ見れば

47.7月15日

 ”隕石”(2017年5月 白水社刊 マテュー・グネル著/斎藤かぐみ訳/米田成一監修)は、隕石の基礎知識から、発見の歴史、宇宙科学の現在までを詳細に解説し隕石研究の現在の状況を知ることができる。

 隕石とは、惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたものを指し、分類すると、鉄隕石、石鉄隕石、石質隕石の3つの種類に分けられる。鉄隕石は主に金属鉄からできている限石で、ニッケルも多く含んだ鉄ニッケル合金で、コバルト、金、白金、イリジウムのような貴金属もわずかながら含まれている。石鉄隕石は鉄ニッケル合金と石質のケイ酸塩鉱物がまざった成分の隕石で、石質隕石は主にケイ酸塩鉱物からなる隕石である。マテュー・グネル氏は1971年生まれ、1994年に物理学で修士の学位を取得し、1995年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで研究を行い、1996年にパリに戻ってからさまざまな阻石研究者と交流し、2000年にパリ第7大学から博士の学位を取得し、大英自然史博物館研究員、パリ第11大学講師を経て、2005年よりパリ国立自然史博物館に勤務、2006年に国際隕石学会ニーア賞を受賞し、2008年からパリ国立自然史博物館の教授に就任した。斎藤かぐみ氏は1964年生まれ、東京大学教養学科卒業、欧州国際高等研究院修了のフランス語講師・翻訳家である。米田成一氏は1960年生まれ、1982年東京大学理学部化学科卒業、1987年東京大学理学系研究科化学専門課程卒業、その後、東京大学大学院理学系研究科化学専門課程博士課程単位修得退学、1987年から日本大学文理学部助手、1992年からシカゴ大学博士研究員を経て、現在、国立科学博物館理工学研究部理化学グループ長、理学博士で、専門は宇宙化学、隕石学である。パリ国立自然史博物館の隕石研究者である著者が、私たちをマクロとミクロが行き交う世界へと誘う。隕石は天空から地球に飛来した石であり、その年齢は太陽系の年齢であり、人類が手にできる最古の物体である。隕石は神秘のしるしとして、地と天を同じ目で見るようにと私たちを促すと同時に、最先端の機器を使った科学研究の対象として、現在の研究の様子をかいま見せてくれる。過去と現在を結び、博物学と先端科学を架橋してくれる、そんな存在は阻石の外にはない。隕石の研究は、仏語では宇宙化学、英語では隕石学と呼ぶ。地球外天体と生物圏の相互作用、私たちの太陽系の形成、天体の地質進化、地球上の生命の起源などが課題となる。ヨーロッパで隕石が地球外から来たことが科学者に受け入れられたのは、18世紀末から19世紀初めのことで、以後、本格的な収集・保存が行なわれるようになった。1985年までに発見された2700個の隕石中、落下するところが目撃されたのはおよそ45%である。南極では日本をはじめとして各国の南極観測隊が1985年まででも7500個の隕石を回収した。隕石カタログ2000年版には南極隕石17,808個を含む22,507個が掲載されている。このうち21,514個が石質隕石、865個が鉄隕石、116個が石鉄隕石である。隕石の多くはおよそ45億年ほど前にできたもので、太陽系の初期、惑星が形成された当時の始原的な物質であろうと推定されている。隕石は地表に到達するまでに破片になることもあれば、大きな塊のまま到達することもある。大気との衝突によって多数の破片になり、楕円形の長径数kmから数10kmの地域に、数10個から数100個程度、まれに数万個程度の隕石となって落下する。この場合は数100gから数kg程度のものが多い。大きな塊のまま落ちてくることもあり、北アメリカのバリンジャー隕石孔は直径1.2kmあり、数万トンから数10万トンの質量だったと推定されている。隕石そのものが発見された中で最大なのはナミビアのホバ隕石で、重さ66トンである。隕石の真の価値が理解されるようになるのは20世紀後半になってからである。これは、さまざまな分析技術の進歩によるところが大きい。特にウランの放射壊変を利用した年代測定法か開発され、1956年に地球の年齢が推定されたが、これは地球の岩石とウランをほとんど含まない鉄隕石とを比較することによってなされた成果である。また、一部の例外を除くと隕石の種類にかかわらずほぼ全ての隕石が約46億年の年代を示すことから、太陽系か形成されたのは約46億年前と推定されている。地球の年齢は、地球が小さな原始地球から現在の大きさまで成長する時間が必要なため不確かさが残るが、成長を始めたのはやはり約46億年前と考えられる。なお、地球の内部は現在でも熱く、地球表面が絶えず新しく作り替えられているため、地球の岩石は最も古いもので約40億年、岩石に含まれる鉱物でも約44億年が最古であり、地球の岩石の分析だけでは地球の年齢を求めることはできない。隕石の構成成分をさらに詳しく年代測定すると、炭素質コンドライトに含まれるCAIと呼ばれる包有物が太陽系で最古の年齢を示し、ある分析では45億6720万年±60万年という精度で求まっている。このように、隕石は太陽系の形成から惑星の成長までを記録した物的証拠として計り知れない科学的な価値を持っている。本書はこれらの科学的成果を詳細に解説しており、隕研究の現在の状況を知ることか可能である。日本の隕石についての補足説明もあり、九州の直方隕石は落下が目撃され現代まで破片が保存されている世界最古の隕石であるという、また、東京のコレクションは、国立極地研究所が保有する南極隕石の数は、現在約1万7000個で、その数量は世界有数のものとなっている。

第1章 惑星科学と宇宙化学の基礎知識
 基本的な定義/惑星科学の基礎知識/地球化学の基礎知識/同位体宇宙化学の基礎知識/始源的な天体から物質分化した天体へ/宇宙の玉突き/隕石の分類
第2章 隕石小史
 迷信と驚嘆/十八世紀末の転換点/十九世紀―系統的な研究の始まり/二十世紀―宇宙の時代
第3章 地球上の隕石
 大気圏突入/地球外物質の採集/地球外物質のフラックス/衝突と生物圏/隕石の落下年代/こなたの隕石、かなたの隕石
第4章 隕石の見分け方
第5章 母天体から地球へ
 隕石の起源/隕石の照射年代/隕石の地球までの移動
第6章 コンドライトと太陽系形成
 コンドライトの化学組成と同位体組成/コンドライトとその構成要素の形成年代/カルシウム・アルミニウムに富んだ包有物と鉄苦土性コンドルールの形成/酸素同位体組成の進化/短寿命消滅核種/基質―出発物質/昔の光沢いまいずこ
第7章 天体の地質進化
 衝突と衝撃/コンドライトに見られる熱変成と熱水変成/物質分化
第8章 隕石と生命の起源
 隕石中の地球外生命/隕石中の生命前駆分子/宇宙化学と生命出現の背景状況

49.7月29日

 ”藤原伊周・隆家”(2017年2月 ミネルヴァ書房刊 倉本 一宏著)は、栄華を誇る藤原道長の陰で生きた中関白家の栄光と没落、そしてその後を描いている。

 藤原伊周=これちか、隆家は平安期の公卿の兄弟で、父道隆に引き立てられたが、伊周は父死後叔父道長と対立し花山上皇と闘乱した等の罪で大宰権帥に左遷され、隆家は兄に連座して左遷されたが後に復帰した。隆家は、満州民族を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した1019年の刀伊の入寇事件で海賊を撃退した。倉本一宏氏は1958年三重県津市生まれ、1983年東京大学文学部国史学専修課程卒業、1989年同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学、1997年博士(文学、東京大学)で、現在、国際日本文化研究センター教授を務めている。中関白家は藤原北家の中の平安時代中期の関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称である。道隆は摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男で、花山天皇退位事件で父の意を受けて宮中で活動し、甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。妻・高階貴子は女房三十六歌仙に数えられる歌人である。花山天皇は第65代天皇で、冷泉天皇の第1皇子、母は藤原懐子、円融天皇の譲位をうけ984年に17歳で即位した。しかし、右大臣藤原兼家・道兼父子にはかられ、986年に在位1年余で退位し元慶寺=花山寺で出家した。道隆は990年に父の後を継いで摂関に就任し、自己の系統を摂関家の嫡流にすべく尽力した。関白道隆が全盛期を迎え、個人的能力に秀でた嫡男の伊周は異数の昇進を続け、994年に道長など3人の大納言を超越して内大臣に任ぜられた。次の世代の政権担当予定者としての地歩を固めつつあった。その弟の隆家は参議、庶長子の道頼は権大納言に任ぜられ、娘の定子は一条天皇の中宮、同じく原子は東宮居貞親王=後の三条天皇の妃となった。定子の女官には、”枕草子”の作者清少納言がいた。しかし、彼らの春は永くは続かなかった。995年に道隆と道頼が急死し、中関白家は政権交代のレールを敷き終わらないまま、その中心を失ってしまったのである。その運命の変転の前には、残された者は、あるいはまったく無力に立ちつくし、あるいは空しい足掻きを行って、没落を早めるのみであった。中関白家は、あたかも彗星のごとく光り輝き、そして消え失せていった。その後叔父である道長との権力闘争に敗れた伊周が、花山院闘乱事件などによって大宰権帥に左遷され、隆家もこれに加担したとして連座した。花山院闘乱事件は、996年頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしたところ、伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたとされる事件である。花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり隆家は4月に出雲権守に左遷された。また伊周は、勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流であり、姉弟であった一条天皇・中宮定子の落飾という事態をも招いた。その後、定子は道長の娘である彰子に追いやられるように病没し、遺された敦康親王も皇位に就くことなく病死したため、外戚になることもなかった。伊周の子である道雅も問題行動が多く不遇のまま没し、隆家の家系のみが続いたが、大臣以上を輩出することはなかった。中関白家の人々というのは、単純に言うならば、父の道隆が戯の人、母の貴子が才の人とすると、伊周が才の人、隆家が戯の人、そして定子は両方を受け継いだと言えよう。それに清少納言の影響もあり、笑いに包まれた一家であった。嫡男の伊周は家柄がよくて容貌がよく、学問があって、女性にもてて、自己主張が強く、若くして親の引きで出世した。隆家の方は豪毅にして竹を割ったような性格、また権力者に対しても物怖じしない態度、すぐに暴力に訴える行動様式、にもかかわらず誰からも好か札る立ち位置と、伊周とはまことに対照的な人物像が浮かび上がる。また、結構長寿を得ることができ、多くの子女を儲け、子孫はそれなりに繁栄するなど、伊周とは好対照であった。たとえ不遇な境地にあっても、与えられた立場をしっかり守り、その立場の中で最善を尽くす、そして自らの誇りと矜持は守るといった生き方は、千年を経た今でも強く心を打つ。
第一章 道隆政権誕生まで  兼家雌伏の時代/摂政兼家の誕生と道隆の昇進
第二章 中関白家の栄華   摂政道隆/「中関白道隆」と『枕草子』の世界
第三章 「内覧」伊周    中関白家最後の栄華/伊周の内覧宣旨と道隆の死
第四章 道長政権の成立と長徳の変  道長政権の成立/長徳の変/伊周・隆家の召還
第五章 道長政権下での復権 敦康親王の誕生と定子の死/道長政権下での復権/道長家栄華の「初花」
第六章 呪詛事件と伊周の死 道長・彰子・敦成呪詛事件/伊周の死
第七章 道長の栄華と「刀伊の入寇」 「この世をば」と敦康親王の死/「刀伊の入寇」と隆家/隆家の死
おわりに――中関白家の末裔



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