徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1. 平成29年8月5日
”サハラ砂漠 塩の道をゆく”(2017年5月 集英社刊 片平 孝著)は、ラクダのキャラバンで運ばれる塩の交易アザライに密着した往復1500キロ、42日間の大旅行を写真と文章で紹介している。
サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠である。南北1,700千米に渡り面積は約1,000万平米であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占めている。サハラ砂漠全体の人口は約2,500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住んでいる。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。その他、重要な都市としては、ヌアディブー、タマンラセト、アガデズ、セブハ、インサラーが挙げられる。かつてこのサハラの奥地に、金と同じ重さで取引された岩塩があった。いにしえの黄金都市トンブクトゥからサハラ砂漠奥地のタウデニ岩塩鉱山への、いのちの塩を求めての旅であった。片平孝氏は1943年宮城県生まれの写真家で、1969年からサハラに魅せられ、砂漠の旅を続けた。1972年にハウサ族のラクダのキャラバンに密着し、サハラの塩の道の東西ルートを踏破した。この時、命懸けで塩を運ぶ人々の姿に感動し、以来、塩を産出する土地を求めて、世界中で取材を続けている。サハラにおいてもっとも希少な資源は水であるが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底奥深くに眠っている。この化石水は現在の気候条件下では再生不可能なものであり、使用しきってしまえば一瞬にして無用の長物と化すと言われている。サハラはさほど鉱物資源の多い地域ではないが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在する。サハラでもっとも豊富で価値のある資源は石油である。とくに砂漠北部のアルジェリアとリビアには豊富な石油が埋蔵されており、アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメル油田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えている。また、モロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵されている。西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は全長約90千米以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれる。この採掘は全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっている。このほか、砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在し、ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきた。また、砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されて、ほかに見るべき産物のないニジェール経済の牽引車となってきた。また、北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきた。また、サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっている。歴史上においては、サハラでもっとも貴重な鉱物は塩であった。古来、人々は、塩を手に入れるために命を賭して戦い、様々な工夫と知恵を絞ってきた。古代から近代に至るまで、多くの国の財政は塩にかけた税金で賄われていた。フランス革命は、塩にかけた重税に対する民衆の怒りの爆発でもあった。塩は時に思いもよらない力と価値を生み出す。かつて金と同等の希少価値を持つ塩があった。塩が奴隷の体重と同じ重さで取引された時代もある。しかし、現代の塩は台所の隅っこでただの調味料として無関心に扱われ、塩の摂り過ぎは健康を害するとして悪者扱いされることさえある。塩は、人の命を繋ぎ、人の命を破壊する諸刃の剣でもある。塩のふるさとは太古の海だ。大昔に海だったサハラ砂漠には、海塩をはじめ、湖塩、岩塩など、地球上のすべての塩が存在している。なかでもサハラ砂漠の奥地に産出する岩塩は、かつて王者の商品とまで呼ばれ、塩の採れない西アフリカ内部の森林地帯では金と同じ重さで取引されるほど、大変な貴重品だった。アフリカの政情は、空模様のように変わる、たまたま治安が良くなった年があった。2002年に世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデュ鉱山に行けるようになったことを知った。2003年12月にアザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛んだ。初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていた。本書はこのときの記録である。
第1章 タウデニ岩塩鉱山への旅立ち/第2章 タウデニ岩塩鉱山/第3章 タウデニからの帰り道/第4章 旅の終わりの試練
2.8月12日
”大江匡衡”(2006年3月 吉川弘文館刊 後藤 昭雄著)は、平安中期に漢詩文の才で栄達をめざした文人官僚大江匡衡の生涯を紹介している。
大江匡衡=おおえのまさひらは、平安中期の詩文の才に秀でて優れた漢詩文を制作した文人官僚で、一条天皇の侍読などを歴任し、藤原道長と緊密な関係を築き、晩年は尾張・丹波の国守を務めた。後藤昭雄氏は1943年生まれ、1970年九州大学大学院文学研究科博士課程修了し、1982年に九州大学文学博士となった。鹿児島県立短期大学講師、静岡大学教育学部講師を経て、1983年大阪大学教養部助教授、1994年同文学研究科教授となり、2007年定年で名誉教授となった。2008年から2013年まで成城大学教授を務めた。大江匡衡は村上天皇の代である952年に、大江音人を祖とし菅原氏=菅家と並ぶ学問の家柄の大江氏=江家に生まれた。平安時代中期の儒者・歌人で中納言・大江維時の孫、左京大夫・大江重光の子で、官位は正四位下・式部大輔、中古三十六歌仙の一人であった。大江氏は菅原道真の失脚後に飛躍し、聖代とされている村上朝には、匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となった。父の重光は、対策に及第している文人官僚であった。晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩によれば、大江匡衡は7歳で読書をはじめ、9歳で詠作を行ったという。964年に13歳で元服し、祖父の維時から教戒を受けた。ただし、維時は実際には963年に死去している。966年に15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格して擬文章生となった。紀伝道を学び、973年に省試に合格して文章生となった。なお、この時期に父の重光が死去している。976年~978年ころ、赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を妻としている。匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られ、仲睦ましい夫婦仲より匡衡衛門と呼ばれたという。979年に対策に及第した。985年に襲撃され、左手指を切断された。犯人は藤原保輔とされている。991年に仁康上人が河原院で五時講を行った際に執筆した願文により名声を高め、侍従に任官した。998年に従四位下に叙され式部権少大輔に任官し、一条天皇の侍読となった。1009年に文章博士となり、尾張守となった。東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至った。匡衡が文人として活躍するのは一条天皇の時代であるが、一条朝こそ平安朝文学の精華である”源氏物語”や”枕草子”を生み出した時代である。それぞれの作者である紫式部と清少納言は、一条天皇の后として寵愛を競い彰子と定子に什える女房であった。さらに、歌人として和泉式部、また匡衡の妻である赤染衛門がある。一般的には、一条朝は女流文学が華やかに花開いた時代、というイメージで理解されているに違いないが、それだけではなかった。文字に仮名に対して真名があるように、文学にも仮名の文学に対して漢字の文学=漢詩漢文があった。仮名文学全盛の時代と見える一条朝においてさえ、男性の貴族たちの間では、和歌よりも漢詩の方が、文学として正統な、より価値のあるものと評価されていた。平安朝の漢文の名篇を選録した”本朝文粋”には、匡衡は作者別では最も多い数の作品が収められている。ただし、表や願文、奏状など、上流貴族の依嘱を受けて制作した作品がかなりある。このことは、文人として匡衡が重要な位置にあったことを示すものである。また、広く貴族社会の中にあっては、詩文制作の専門家という限定的立場に置かれていたことを物語る。匡衡の伝を叙述していくに当たって最も基本となるのは、もちろん匡衡が作った詩文である。匡衡には詩集”江史部集”があり、130首余りの詩と29首の詩序が収められている。平安朝には多くの文人詩人が登場したが、その詩文集が現存するのはごくわずかな人々であり、匡衡はその数少ない幸運な詩人の一人であった。また、匡衡は歌人としても、中古三十六歌仙の一人で、歌集”大江匡衡集”を持っており、すなわち和漢兼作の詩人であった。匡衡の生涯を追っていくうえで、妻で歌人である赤染衛門の存在は大きい。匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、名儒と称された。また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めた。公卿としての地位を望んだが果たせずに終わった。
第一=稽古の力(誕生とその時代/少年期/大学での修学/赤染衛門との結婚)/第二=帝王の師範(官途に就く/文章博士/帝師として)/第三=学統の継承(尾張赴任/京へ帰還/再び尾張へ/丹波守への遷任と死/詩文と和歌/子供たち)/人と文学/系図/略年譜/参考文献
3.8月19日
”平田篤胤: 交響する死者・生者・神々”(2016年7月 平凡社刊 吉田 麻子著)は、かつて国粋主義の元祖とされ国学において宣長学の俗化と捉えられてきた篤胤の知られざる生涯を紹介している。
平田篤胤は、戦後、皇国史観の元祖、狂信的国粋主義者という偏った見方でしか語られず、また、無視され続けてきた。しかし、平田家に伝わる膨大な新資料を整理すると、その実像は、若くして亡くなった妻や、幼くして亡くなった子を思う、家族愛にあふれている。また、現代にも通ずる日本独自の豊かな死生観を探究した、江戸後期を代表する思想家でもあった。吉田麻子氏は1972年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程単位取得退学し、現在、学習院女子大学・相模女子大学・東海大学などで非常勤講師を務めている。1998年に、それまで未公開だった先祖伝来の気吹舎資料の調査を、平田篤胤神道宗家当主より許された。また、2001年に、当時、国立歴史民俗博物館館長であった宮地正人氏と出会い、その指導を仰ぎながら共に調査を進めた。平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、1776年出羽久保田藩生まれ、成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となった。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎=いぶきのや、家號を真菅乃屋=ますげのやといい、医者としては玄琢を使った。1843年に67歳で亡くなり、墓所は秋田市手形字大沢にあり、国の史跡に指定されている。東京都渋谷区に篤胤を祭った平田神社があり、千葉県旭市に平田篤胤歌碑が残されている。死後、神霊能真柱大人=かむたまのみはしらのうしの名を、白川家より贈られている。復古神道、古道学の大成者であり、大国隆正によって、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人=うしの中の一人として位置付けられている。平田篤胤という人物について、これまである偏ったイメージをもって批判的に語られてきた。たとえば、倫理学者の和辻哲郎は篤胤を、”日本倫理思想史”の中で、狂信的国粋主義の変質者と呼んでいる。また、思想史研究者の安丸良夫は篤胤の思想を、”日本ナショナリズムの前夜”の中で、人間の頭脳か考えうるかぎりもっとも身勝手で独りよがりな議論と評している。篤胤の語る死後の世界は、実は日本神話の神々の織りなす壮大なコスモロジーの中に含み込まれて構想されている。そこでは、日本を中心とした世界観が思想全体を覆っていて、日本が世界のもとの国であると主張している。日本の万事万物は万国にすぐれている、あるいは、わが天皇が万国の大君などといった、極端な文言か並んでいる。そのような側面が、篤胤没後の幕末維新期に、尊皇攘夷と王政復古運動、廃仏毀釈、祭政一致など、一連の社会的な情勢や展開に多大な影響を与えたと言われている。さらに、戦前の国家主義に利用されるといった、大きな歴史的経緯にも関わることとなったことから、篤胤についての偏った見方が生まれ無視されることとなった。しかし、未公開だった気吹舎資料の厖大な書簡や草稿類は、これまでのような単純な裁断を許さない迫力を有していた。そこには、戦前の国家主義や国粋主義といった言葉には、とうてい収まりきれない、豊かな感性と思想があった。そのことによって、もういちど篤胤の書いた書物に立ち戻って考えたいという欲求が湧き上がってきた、という。篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していた。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などに精通し、心霊現象、死後の世界、霊魂の実在、パワースポット、生まれ変わり、神などなどを考察した。人が生きているあいだには、どうしてもそのように穏やかな波間にたゆたっているわけにはいかなぐなることかある。なんとなく、あるような、ないようなではすまされない、この世ならぬものへの止みがたき希求の瞬間が訪れる場合かある。それは、社会的環境やその変化によってもたらされることもあり、また個人の人生における何らかの衝撃による場合もあろう。平田篤胤は、江戸時代後期の日本においてその瞬間を迎え、自身の強い実感と現実とのあいだにある混沌とした大きな闇を、なんとか言葉で解明し、他者に説き広めようとした。死後の魂の行方や、この世ならぬものの存在の有無といった問題は、実は私たちか死んだ後に関わってくる話ではない。まさに生きている私たちの世界がどのように成り立っているか、あるいは人間が生きるということはどういうことなのかを捉え直すことに他ならない。少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛している。名も無き庶民を、人間か生きることを、まるごと肯定している。にもかかわらず、中心としているのは人間ではない。では何を中心としているのかといえば、海、山、川、雨、風、稲など、万物にやどる八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂である。生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることかできないということである。この篤胤独自の哲学は、江戸時代の平田門人たちだけでなく、現代社会に生きる私たちにとっても、けっして見過ごせないものであるように思われる。篤胤の、生きている人間を中心としないヒューマニズムと、それを支えていた日本の前近代的な感性は、現代社会のありようを見つめ直す、大きなヒントになるのではないか。
第1章 平田国学の胎動/第2章 西洋の接近と『霊能真柱』/第3章 地城の奇談と平田門人/第4章 世界像と祈り/第5章 生の肯定、死生の捉え直し/第6章 近世後期の知識人たち/第7章 平田国学における倫理/第8章 広がりゆく書物と篤胤の最期
4.8月26日
”いのちの器 - 医と老いと死をめぐって ”(1994年8月 PHP研究所刊 日野原 重明著)は、著者が70代のときに医と老いと死をめぐって思うところを執筆した随筆集である。
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏は、自宅で静養を続けていたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去、享年105歳であった。1911年山口県生まれ、京都帝大医学部卒、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めた。また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めた。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。予防医療の重要性を唱え、1954年、聖路加病院内に民間として初の人間ドックを開設した。また、成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを習慣病と呼んで病気の予防につなげようと1970年代から提唱した。子供のころはステンレスやプラスチックやディスポーザブルの器はなく、たいていの容れ物は土でできた陶器や磁器の容れ物であった。小さな手に待った大切な器を落として当惑したり、叱られたことを思い出す、という。私たちの今のからだは、ステンレスでもプラスチックでもなく、朽ちる土の器である。その中に何を盛るかが、私たちの一生の課題である。若い時から、一生をかけて盛る、土でできたいのちの器を、いのちゆえに器も大切にしたいものである。1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれた。父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中だった。日野原重明氏は父親の影響を受け、7歳で受洗した。1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居した。1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居した。1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めた。1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格したが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学した。1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学した。大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送った。1934年に京都帝国大学医学部2年に復学した。父親はいつも前向きに、新しいものを求めていきいきと生き続けた。生前、骨になるまで伝道し続けたいと口ぐせのように言っていたという。その言葉通りに、81年の生涯を最後までキリスト教の伝道に捧げ、神から与えられたいのちを燃焼し尽くした。信仰の人、努力の人、実践の人であったが、それにも劣らぬ強い信仰心をもち続けた母親によって、自分の小さないのちを生かす道を示され、今日までの医師としての歩みを続けてきたという。第二次世界大戦勃発の翌年に、戦時下で燈火管割下の暗い式場で静子と結婚の式を挙げ、戦後に三人の男の子が生まれた。第二次大戦中は、応召した海軍で少尉となったものの、学生の時に病んだ胸の傷痕のために召集はなく、東京・築地の聖路加国際病院で昼夜を分かたず忙しく診察に明け暮れしているうちに、やがて終戦を迎えた。壮年期を、戦前、戦後の激しい時代の中に過ごし、それから、はや半世紀が経過しようとしている。医学の研究と教育と臨床に熱中して働き、自分の壮年期の終わりを意識しないうちに還暦を迎えていた。それから矢のように年月が過ぎ、親しい後輩と教え子の数人に招かれた席が喜寿の祝いとなった。還暦の2年前には、思わぬアクシデントとして、よど号のハイジャックに遭遇した。生還してからは全く刷新された思いで、今日までの生活をフル回転し続けた。貝原益軒も、老後の一日は若き時の十日に、一月は一年に値し、老後は、あだに日を暮らすべからずと言っている。喜寿を過ぎて今を生き、高等学校や大学での良き友、良き師、良き文学や美術、音楽との出会いでとり入れられたことを感謝している。この本の中で、第一部は昭和63年に一年にわたって中日新聞(東京新聞)に連載したものに加筆したものである。第二部のうち最初の5篇は、平成元年に、雑誌、歯界展望に連載したものに手を加えて転載したものであるという。
いのちの四季
いのちを考えよう・正月はよい習慣を身につける絶好の機会/健全な心を宿す・たとえからだは病んでも心こそ朽ちない宝/成人病・医学の進歩よりも意識の革命を/人生の半ば・最後の審判のための意義ある記録を残す/脳死・市民が参加する英国の倫理委員会に学ぶ/病者・じっと耐えて雪解けの春を待つ細い竹/耐寒と心・春を待つ思いは生きるエネルギー源/入試と人間形成・創造力と高い感性は受験では育たない/卒業式・山また山の人生への出発点/難聴・音の世界から隔離される人間の孤独/お墓・家の中にも故人が愛用した品物を/季節の言葉・自然への共感性を絆としてきた日本人/花冷え・老人のカゼは軽くても早く受診を/習慣病・「人は習わし次第」病気予防は各自の責任/婦人の健診・奥さんの健康にも愛のこもった配慮を/科学技術・最先端の技術よりも「養生」あっての医学/人生の第六期・健やかな老後は誕生日の禁煙から/急病に備える・かかりつけの主治医を持つことの大切さ/母への言葉・成人してからも時には心の会話を/老齢者社会と男性・家庭中心の生活が老人の健康を育む/
先人の医師に学ぶ・医師を正しく選択し心の交わりを持つ/病気の一次予防・衣食住の悪習慣を改める生活のデザイン/音の公害・駅や空港を騒音のない健やかな環境に/いのちと時間・かぎりある未来の「時」をどう刻むか/第三の人生・定年十年前から生き方を組み立て直そう/ヘレンーケラーに学ぶ・心やからだに痛みのある人の友となる/自助と庇護・病から立ち上がる心を支えるもの/エイズ・患者と共存しながら蔓延を防ぐ教育を/自殺を避ける術・うつ病の早期治療で悲劇を防ぐ/言葉と手紙・手で書かれた「ふみ」の中のさまざまな人生/義務教育と生涯学習・何をどう学ぶかこそ、生き方の選択/ハートの日・文明国家の病から心臓を守ろう/終戦記念日・耐えることを経験しない豊かな時代の不幸/北米のホスピス・生涯の終わりに贈る優しく気高い愛/気象情報と健康情報・医師の言葉を生活に上手に取り入れる/リハビリ会議に思う・「世話される」日は誰にも必ず訪れる/文明国の怠慢・聴診器・血圧計もない救急車のお粗末さ/ガンは避けられる・生活習慣を改めることで予防できるガン/老人国家と病気・北欧で学んだ尿失禁者への温かな配慮/糖尿病・「肥ゆる秋」でなく「心高める秋」に/老いに再び光を・医学の進歩で取り戻す「心の窓」/心身のリハビリ・周囲の接し方でボケは正常に戻る/セルフ・チェック・通信サービスの進歩でより正確な健康管理/「文化」の本質・からだという朽ちる土の器に健やかな精神/中高年のストレス・医師に「自分」を打ち明け、行く道の指針を/三歳児・周りの人との距離を直感で判断する子供/健やかな人間
自然からの恵みに感謝しよう/紅葉に寄せて・自らを自らの色素で染める人生の秋/自己投資・いのちのサポートとしての定期健診/ノーベル週間・医学研究者に愛の心をどう育てるか/人生の冬に・「最期の光」に人は何を求めるか/心の中の春・健やかな魂はいつまでも生き続ける
医と老いと死をめぐって
病人と医師・もっと心と肌で触れ合う信頼関係を/言葉と医療・病は語り合いの中で癒される/患者の生き甲斐・病人を孤独にさせてはいけない/死を学ぶ・自分のものでない痛みや不安を汲み取る感性/病名告知・死んでいった友の遺した言葉の重さ/老いる・外の世界とふれあう場を作ってあげよう/人間ドツク・病気とは発見すべきものでなく予防すべきもの/老人の正常値・老人の健康評価にはゲタをはかせて/老人医療の行方・患者とコンピューターの間で/人生の苦しみ・生・老・病・死を超える出会い/人生の悦び・患者の側に立った終末医学の確立を/死を看取る・もの言えず死んでいくことの淋しさ/いのちのうつろい・生と死の狭間で精一杯生きる
5.平成29年9月2日
”廃線紀行 - もうひとつの鉄道旅”(2015年7月 中央公論新社刊 梯 久美子著)は、東北海道の根北線から鹿児島の交通南薩線まで各地に散在する廃線から50を精選して踏破し往時の威容に思いを馳せつつ現在の姿を活写している。
廃線とは、廃止になった鉄道路線のことである。絶景廃線と呼びたくなる路線がある一方で、ありふれた景色の中を通っているが、歩いてみると何とも楽しい路線も少なくない。もしあなたが鉄道が好きで、歩くことも好きなら、ぜひ廃線歩きを経験してみてほしい。きっと、鉄道旅の新しい楽しみ方を発見できるはずだ、という。梯久美子氏は1961年熊本県生まれ、父親は自衛官で5歳のとき熊本から札幌に転居した。北海道札幌藻岩高等学校、北海道大学文学部国文学科卒業後、社長室勤務を経て編集・広告プロダクションを起業した。2001年よりフリーライターとして雑誌にルポルタージュを執筆し、2006年に第37回大宅壮一ノンフィクション賞、2017年に第68回読売文学賞、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞した。5歳になる年の夏の引っ越しは、親子5人、鉄道で日本をほぼ縦断する大移動で、子供たちにとってはまさに非日常の胸おどる経験であった。車窓を流れる景色もシートに伝わる振動も駅弁の彩りも、幸福な記憶として刻まれたのだろう。以来、鉄道の旅をこよなく愛するようになった。鉄道旅の楽しさの大きな要素は、心地よいスピード感である。近くの景色はすばやく流れ、遠くの風景はゆっくり変化する。だが、歩く速さでしか発見できないものもある。雑草の陰に隠れたキロポスト、錆びかけた信号機や警報機、蔓性の植物がからみついた架線柱などなど。廃線に魅せられたのは、子供の頃から地図を見るのが好きだったことに加え、ここ10何年か歴史にかかわる取材を多くしていることが関係している。何の痕跡も残っていない区間を古い地図を頼りにたどるようなとき、いかにも鉄道の線路っぽくゆるやかなカーブを描いている道を見つけて、これは線路跡が転用された道路ではないかなどと推測する。地面の上を水平方向に移動するのは地理的な旅であるが、廃線歩きにはこれに、過去に向かって垂直方向にさかのぼる歴史の旅が加わる。廃線の旅の必携アイテムは地図と年表で、両方をポケットに入れて歩いていると、廃線とは、地理と歴史が交わる場所であることに気づく。天災、戦争、線路の付け替え、モータリゼーションの普及、そして過疎、さまざまな理由で鉄道は消えていった。だが昔の路盤を歩いていると、いま自分が踏んでいる土の上を、かつて多くの人々の人生を乗せて列車が走っていたことを実感する。廃線歩きの基本は、かつての線路の跡を徒歩でたどることである。線路が撤去されずに残っている新しい廃線では、レールや枕木を踏みながら歩く経験ができるし、明治時代に廃止になった路線でも、アーチが美しいレンガ造りのトンネルや、どっしりとした石積みの橋脚などが、ちゃんと残っている。線路の跡を徒歩でたどると、走っている列車から見るのとは違った景色が見えてくる。何度か廃線を歩いていると、だんだん痕跡を見つけるコツがわかってきて、たとえば線路跡に沿って石やコンクリートの段差が続いていると、これはホームの跡だな、と見当がつく。靴底に硬いものが触れて地面を見ると、とっくにレールが撤去された道床から、白っぽく風化した枕木がなかば土に埋もれながら顔を出していたりする。本書では、北海道から鹿児島県まで、古くは明治40年に廃止になった関西鉄道大仏線から、新しいところでは平成19年に廃止になったくりはら田園鉄道および鹿島鉄道まで、100年間の廃線の歴史をたどった。平成22年1月から同26年12月まで、読売新聞の土曜夕刊に連載した紀行文の中から、50本を選んでまとめてみた。
はじめに 歩く鉄道旅のすすめ
北海道・東北
下夕張森林鉄道夕張岳線/国鉄根北線/国鉄手宮線/定山渓鉄道/岩手軽便鉄道/くりはら田園鉄道/山形交通高畠線/国鉄日中線
関 東
鹿島鉄道/日鉄鉱業羽鶴専用鉄道/足尾線/JR信越本線旧線/日本煉瓦製造専用線/東武鉄道熊谷線/陸軍鉄道聯隊軍用線/東京都港湾局専用線晴海線/横浜臨港線・山下臨港線
中 部
新潟交通電車線/JR篠ノ井線旧線/布引電気鉄道/JR中央本線旧人日影トンネル/国鉄清水港線/名鉄谷汲線/名鉄美濃町線/名鉄三河線(猿投-西中金)/名鉄瀬戸線旧線
近 畿
三重交通神都線/国鉄中舞鶴線/蹴上インクライン/江若鉄道/JR大阪臨港線/姫路市営モノレール/三木鉄道/関西鉄道大仏線/天理軽便鉄道/近鉄東信貴鋼索線/紀州鉄道
中国・四国
JR大社線/下津井電鉄/靹軽便鉄道/国鉄宇品線/JR宇部線旧線/琴平参宮電鉄(多度津線・琴平線)/住友別子鉱山鉄道(上部鉄道)
九 州
JR上山田線/九州鉄道大蔵線/国鉄佐賀線/大分交通耶馬渓線/高千穂鉄道/鹿児島交通南薩線
6.9月9日
”足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍”(2016年5月 戎光祥出版社刊 山田 康弘著)は、明応の政変で追放され全国を流浪するも不死鳥のごとく舞い戻り二度も将軍の座に就いた波瀾万丈な生涯を紹介している。
足利義稙=あしかがよしたねは、室町幕府第10代将軍で、父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟の義視、母は日野富子の妹に当たる裏松重政の娘で、初名は義材=よしき、将軍職を追われ逃亡中の1498年に義尹=よしただ、将軍職復帰後の1513年に義稙と改名した。山田康弘氏は1966年群馬県に生まれ、学習院大学文学部史学科、同大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)で、日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、学習院大学、国立東京・小山両工業高等専門学校非常勤講師を務めている。足利義稙は、1466年に義視の子として、父の近習・種村九郎の邸で生まれた。1467年1月に応仁の乱が勃発すると、父義視は兄である将軍義政と対立して、9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。この時、東軍の武田信賢が義材を護り西軍に送り届けたという。1473年に義政の子義尚が9代将軍となり、1477年11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は西軍の一角であった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護のもとにあった。1478年7月に大御所・義政と義視の和議が正式に成立した後も、美濃国に留まり続けた。義材は1487年に義尚の猶子として元服し、義尚の母日野富子らの推挙で、美濃在国のまま従五位下左馬頭に叙位された。1489年に、義尚が旧西軍であった近江国の六角高頼征伐の在陣中に死去した。義稙は父義視、土岐成頼、斎藤妙純に伴われて上洛し葬儀に参列しようとしたが、細川政元の反対で葬儀終了後に入京した。政元は、義尚と義材の従兄弟の香厳院清晃を将軍後継者候補に推していた。しかし、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定した。1490年に大御所足利義政が没してのち幕府の実権を握り、義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐、河内出陣の軍を起こしたが、これが原因で細川政元と対立し、1493年4月政元のクーデターにより逮捕され、将軍を廃立された。将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れた。1499年に京都奪回を企図したが果たさなかった。その後も諸大名の軍事力を動員して、京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。1507年に細川政元が暗殺され細川家が分裂状態に陥ると、義尹は将軍への復帰の好機と見て、1508年4月に大内家の軍事力に支えられ、中国地方や九州の諸大名とともに、山口から海路上洛しようとした。同年6月に京都を占領して、11代将軍義澄や高国と対立していた管領細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。政権は、管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていた。大内義興が周防国に帰国すると、管領細川政元の養子の高国と対立し、1521年に細川晴元・持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われた。戦国時代は、足利将軍家にとって厳しい時代であった。各地の大名たちは、もはや将軍の命令をかつてのようにはきちんと遵守しなくなった。また、将軍は、政情不安によって京都から地方にその居所をしばしば移さざるをえなくなった。かつて戦国時代の足利将軍について、もはや権力を失い重臣たちの傀儡になってしまった、などと評価されてきた。しかし、近年、戦国時代の足利将軍に関する研究は少しずつ着実にすすんでいて、そのような評価は誤りであることがしだいに明らかにされつつある。戦国時代の将軍たちは、決して傀儡ではなかったし、決して無力でもなかった。厳しい環境の故か、戦国期の歴代将軍は、足利義稙をはじめ、知将・名君が多かった。将軍たちは、みずから登用した側近らの補佐をうけながら、戦国期にいたっても京都内から、将軍のもとになお大量に持ちこまれていたいろいろな訴訟をさばいていた。さらに、全国各地の大名たちにさまざまな栄典を授与し、大名たちから依頼があれば紛争調停をおこなっていた。このように、足利将軍は戦国時代にいたっても、一定の政治的役割を果たしていた。この時代の足利将軍については、一般はもとより専門の研究者のあいだですら関心が低く、織田信長と死闘を演じた足利義昭をのぞけば、戦国期における個々の将軍について論じた伝記すら今のところない。戦国期の将軍のなかでとくに足利義植をとりあげたのは、現代ではあまり知る人のいない義稙の波瀾万丈な生涯を広く一般に紹介したい、とかねてから願っていたからにほかならない。足利義稙は、戦国時代を懸命に生き、いくども挫折しながらそれでもあきらめずに戦いぬいた。義植の人生は、急上昇と急降下のくり返しであった。しかもこの間、将軍の身でありながら逮捕されたり、毒殺されかかったこともあった。また、大嵐のなかを脱獄したこともあったし、夜中に刺客に襲われ、自ら剣をふるってこれを撃退する、といった危難に遭遇したこともあった。義稙は戦国時代を懸命に生き、いくども挫折し苦悶しながら、それでもあきらめずに挑戦しつづけた。とかく現代では無力・無能であったといわれる戦国時代の将軍たちが、本当はどのような人びとであったのかを知る手がかりもあたえてくれる。近年、歴史学関係者のあいだでは、義稙のような隠れた英雄を発掘し、紹介していこうという動きが生じつつある。隠れた英雄から戦国時代を眺めてみるのも一興であろうし、これまで気づかなかった戦国時代の新しい側面がみえてくるにちがいない。
第Ⅰ部 思いがけなかった将軍の地位
第一章 応仁・文明の乱はなぜ起きたのか/第二章 義稙はなぜ将軍になりえたのか/第三章 義稙はなぜ外征を決断したのか
第Ⅱ部 クーデターと苦難の日々
第一章 義稙はなぜ将軍位を追われたのか/第二章 義稙はいかにして反撃したのか/第三章 義稙はなぜ大敗してしまったのか
第Ⅲ部 ふたたびの栄光と思わぬ結末
第一章 義稙はなぜ将軍位に返り咲けたのか/第二章 義稙はいかにして政治を安定させたのか/第三章 義稙は賭けに失敗したのか/第四章 義稙の人生を振り返って
7.9月16日
”江戸の長者番付 ”(2017年3月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)は、歴史資料に基づいて江戸時代の様々な職業の年収を明らかにしている。
江戸幕府の八代“暴れん坊”将軍の年収は1294億円であったという。その将軍に勝るとも劣らない1000億円超の年収を稼いでいた人物がいたそうである。菅野俊輔氏は1948年東京都目黒区生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業、3度の食事より江戸の咄が大好きという江戸文化研究家である。現在、早稲田大学エクステンションセンターや毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室などで、江戸のくずし字や江戸学など、江戸を楽しむ講座の講師をつとめながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍している。もともと、番付は大相撲における力士の順位表で、正式には番付表という。ここから転じて、その他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる。長者番付は、今でいう高額納税者公示制度である。この制度は、政府が数千万~数億円単位の高額納税者を2006年まで公示していた。公示された高額納税者の名簿は、一般的に高額納税者番付や長者番付として用いられた。2005年4月1日から個人情報保護法が全面施行されたことを受け、この制度は廃止された。むかしの東京、江戸は、失われたワンダーランドで、たくさんの謎があった。江戸の長者番付とお金持ち事情は、その最大の謎といえる。江戸は、18世紀の前半に100万都市になった。徳川将軍家の城下町であるため全国の大名や旗本・御家人の屋敷が並び、江戸の範囲といわれる四里四方の6割の広さに50万人の武士が住んでいた。残りのうち、2割が寺社で、僧侶や神官が暮らしていた。そして、残り2割の地に、50万の町人が住んでいた。それゆえ、住宅に工夫を施した結果、裏店とよばれる集合住宅の長屋に7割の35万人が住んでいた。御三家の紀州家から8代将軍となった徳川吉宗と町奉行の大岡忠相越前守が江戸の改革に努め、18世紀の後半は、江戸っ子にとって住みやすい大都会になった。歌舞伎や出版、料理ブームなど、いかにも江戸らしいユニークな文化がおこり、彩色の浮世絵も誕生している。19世紀になると全国的に旅ブームが到来し、武都の江戸は、古都の京、商都の大坂とともに三都と呼ばれ、観光都市になり、全国からたくさんの人びとが訪れた。江戸のお金は複雑で、金・銀・銭の三貨があり、それぞれの単位が違っていた。金貨は高額貨幣、銀貨は中間で、銭貨は低額貨幣で、19世紀に通用した貨幣には、一両小判、一分金と一分銀、一朱金と一朱銀、四文銭と一文銭などがあった。18世紀の後半から、金貨と同じように貨幣一枚の価値が統一された計数貨幣も鋳造されるようになった。長屋住まいの江戸っ子は、文を単位とする銭貨で暮らしていた。旅に出かける人は、小粒とよばれた一分銀や一朱銀をたくさん持ち、道中で銭に両替して、草鞋代、団子代、旅龍代などを払っていた。本書では、金一両=約16万2000円、銀一匁=約2700円という算出で、今のお金に換算している。江戸には武士と町人が生活していて、武士の給料・収入は百石とか百俵というように米が基準となっていたが、町人の給料・収入はお金であった。時代がくだると貨幣経済が進展し、武士も自家用分を除いて換金するようになったが、給料・収入がお金に変わることはなかった。農村に住み、田畑を耕して米や野菜を生産する農民は、税金の年貢を現物で納めていたが、時代がくだると畑作での収穫の分をお金で納めるようになった。そんな江戸時代に、人びとは、どのくらいの給料・収入を得て、どのように豊かな、あるいは、慎ましい生活を送っていたのであろうか。将軍・大名から下級武士、長屋に住む町人、歌舞伎役者、花魁、豪商まで、そのフトコロ事情を丹念に探ってみたという。
ついに発表、江戸の長者番付ベスト10。1位.吉宗 1294億円、2位.加賀前田家 1134億円、3位.越後屋 17億円、4位.寛永寺 7億3710万円、5位.大岡忠相奉行 2億2226万円、6位.歌舞伎役者 1億7820万円、7位.銀座大黒常栄 1億3300円、8位.花魁 1億2960万円、9位.長谷川平蔵 1億230万円、10位.奥女中 3502万円、次点.杉田玄白 2268万円。
1章 江戸の長者番付ベスト10―年収“億”をはるかに超えるお金持ちたちがズラリ
2章 江戸時代、あの職業・この商売の意外な給料事情―貧乏武士は年収100万円以下、町人・農民は意外にも…
3章 比べてビックリ!江戸のおもしろ給料比較―大岡越前と鬼平、金持ち大名と貧乏大名、千両役者と花魁…
4章 江戸っ子はなぜ、“宵越しの金”を持たなくても生活できたのか-長屋暮らしの庶民はいくら稼いで、どう使っていた?
5章 江戸の超大金持ちたちの華麗なる(?)生活-将軍とその妻から、百万石の大名、豪商、義賊まで
6章 じつは一番貧しかった?武士の悲しいフトコロ具合-傘張り、金魚飼育、朝顔づくり…欠かせぬ内職で生活費はハウマッチ?
8.9月23日
”古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人”(2016年1月 中央公論新社刊 諏訪 勝則著)は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた戦国武将で後に数寄者として多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった織部の生涯を紹介している。
古田織部を主人公として描いた歴史漫画作品として、”へうげもの”=ひょうげものが知られている。第1巻は2005年12月22日に発売され、最近の第24巻は2017年6月23日に発売された。この作品の第1巻から第9巻までが全39話で、2011年4月から2012年1月にかけて、NHK BSプレミアムにて放送された。”へうげる”=剽げるとは、ふざける、おどける、の意味である。織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献し、他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となった。利休の死後は、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられた。古田織部は、単なるへうげものではない。諏訪勝則氏は、1965年神奈川県生まれ、國學院大學文学部文学科卒業、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、現在、陸上自衛隊高等工科学校教官を務めている。古田織部という名前は茶人としての呼称で、武人としては古田重然=しげなりという名前である。1543年に美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟・古田重定の子として生まれ、後に伯父・重安の養子となった。織部の名は、壮年期に従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来している。古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、1567年に織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚した。武人としての織部は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた。そこには、秀吉の名幕僚として出生街道を歩んだ華やかな姿は見られない。代官・補佐役・調略役として着実に職務に専念する、地味な武人として活動した。美濃土岐氏の家臣から始まり、信長に属してからは、中川清秀と姻戚関係を結び、摂津・播磨攻略の一翼を担った。本能寺の変直後には秀吉に与し、明智光秀討滅に貢献した。賤ヶ岳合戦において清秀が陣没したため、その嫡男秀政を支え、小牧・長久手合戦や四国遠征に参加し、補佐役として活躍した。秀吉の晩年には御伽衆として活動した。千利休ほどではないにしろ、秀吉の側近くにあって、諸将への連絡調整や助言等を行っていた。関ヶ原合戦では徳川方に属し、佐竹義宣の調略に成功している。武人との交流は盛んで、まず、伊達政宗・島津義弘・同家久・佐竹義宣・南部利直・毛利秀元・小早川秀包・北条氏盛ら、戦国大名とその一族の人々を門弟としていた。次に、細川幽斎・同忠興・松井康之・織田有楽・黒田如水・浅野長政・同幸長・大野治房・和久宗是・猪子一時・有馬豊氏・小堀遠州・上田宗箇・金森長近・同可重・九鬼守隆・古田重勝・村上頼勝・桑山重勝・同元晴・寺沢広高・竹中重利・別所吉治・藤堂高虎・石川貞通・池田利隆ら、織田・豊臣系の武将たちとの交流があった。次に、徳川家康・秀忠を始め、本多正信・本多正純・土井利勝・榊原康政・松平正綱・水野守信・板倉重宗ら徳川家とその重臣たちにも茶の湯について指南していた。このように、旧豊臣系、徳川系を問わず、分け隔てなく交流し、軍事・政治的なネットワークは確たるものであった。文人との交流も盛んで、平時は文芸に勤しみ、秀吉・家康時代は、公家社会の最上位近衛信尹=このえ のぶただから連歌の指導を受けるなど、文事に一層精進していた。師の千利休を始めとして、津田宗及・同宗凡・神屋宗湛・松屋久好・住古屋宗無・今井宗久・同宗薫・武野宗瓦・藪内紹智といった茶人と深く関わった。また、近衛信尹・今西洞院時慶ら公家衆とも交わりを持った。さらには本願寺教如・万里小路充房・文英清韓・松梅院禅昌・木阿弥光悦・松花堂昭乗とも親しかった。市井の文化の担い手である京都の下京衆などにも茶の湯を伝授した。こうして、茶の湯を趣味とする風流人の数寄者として、多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった。誠実な人柄で周囲の人々に丁寧で気配りの利いた対応をしながら、最上を追い求める孤高の芸術家でもあった。村田珠光によって創始され、武野紹鴎を経て、千利休が大成させたわび茶を継承した。そして、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって、織部好みと呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休は自然の中から美を見いだした人だが、作り出した人ではない。古田織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっていると言われる。2014年の古田織部400年遠忌に合わせて、京都市北区上賀茂桜井町に古田織部美術館が開設された。
第1章 一犬茶人に至るまで-生誕から信長時代 織部の生い立ち/信長の家臣として/文芸活動
第2章 利休の門人となる-豊臣政権確立期 秀吉に臣従/茶人としての道/中川家を支援/紀州・四国遠征/武将としての飛躍
第3章 師の側近として-天下人秀吉の時代 武家茶人/小田原遠征/秀吉の茶頭
第4章 天下一の茶匠-関ケ原合戦前後 合戦前夜/織部焼/関ヶ原合戦本戦/合戦後
第5章 巨匠の死-大坂夏の陣まで 東奔西走の日々/将軍家の茶匠/織部死す
終 章 織部の実像 武家文人/芸術家織部
主要参考文献/古田織部略年譜
9.9月30日
”奇妙で美しい 石の世界 ”(2017年6月 筑摩書房刊 山田 英春著)は、さまざまな石の模様の美しい写真とともに国内外のさまざまな石の物語を紹介している。
石は地球にだけあるものではない。人間は月に行き石を待ち帰ってきた。宇宙を漂う大きな石塊に向けて機械を飛ばし、石の粉を回収した。また、遥か昔に地球に落ちてきた石を調べて、水の起源を、そして生命の起源を探っている。石はあいかわらず世界の謎を解くカギなのだ。自然界の謎を石が背負っているように、石は人の心の謎を背負っている。山田英春氏は1962年東京都国分寺市生まれ、1985年に国際基督教大学を卒業し、出版社勤務、デザイン事務所勤務を経て、1993年に装丁家として個人事務所を開設した。瑪瑙コレクターとしても世界的に知られ、いろいろな石を紹介した著書があるほか、ウェブサイト=LITHOS GRAPHICSでさまざまな石を紹介している。著者は鉱物学や岩石学の専門家ではないが、初めに基本的なことを説明している。石の模様に興味をもつようになったきっかけは、フランスの学者ロジエ・カイヨワの”石が書く”という、石の模様と人の想像力に関する、一冊の本だったという。カイヨワは、石の模様は人間が独自に作り出してきたと自負する芸術に先立って、より広く普遍的な美が存在するという事実を、つねに暗示し、思い出させる密かな声なのだという。石の模様を見ると、人がものを見て美しいと感じる感覚とは何なのかということを考えずにはいられないし、人間が生み出してきた造形、とくに抽象美術をさまざまに思い起こす。石を科学的に分類すると、鉱物と岩石に分けられる。鉱物は一定の化学組成をもった結晶質のもので、単一の元素の結晶もあれば、複数の元素が結びついた物質の結晶もあり、化学式で表すことができる。私たちが宝石と呼んでいるもののほとんどが、純度の高い鉱物の大きな結晶をカットして磨いたものである。結晶は原子や分子が規則的なパターンで配列された個体で、それぞれの鉱物特有の形の癖である晶癖というものがある。たとえば水晶は先が尖った六角柱形、黄鉄鉱は正四面体や十二面体の姿になりやすい。この形の簡明な美しさ、そして色や透明感に惹かれ、鉱物の結晶を愛好、コレクションする人は多い。一方、岩石は細かい数種の鉱物の粒の集合したものである。岩石は地中のマグマ由来の火成岩、泥や砂などの堆積したものが固まった堆積岩、岩石が熱や圧力の作用で変質した変成岩の三つに分類される。さらに火成岩は、地中のマグマがゆっくりと冷えて固まった深成岩と、流れ出した溶岩が固まった火山岩に分けられる。深成岩には花尚岩、かんらん岩などが、火山岩には玄武岩、流紋岩などがある。河原に落ちているような普通の石はほとんどが岩石ということになるが、鉱物の結晶の多くは岩石の穴の中に入っている。日本で観賞石というと、主に天然の岩石の形を愉しむものが多い。石を本の台座に置き、その形を山景などにみたてて愉しむ水石も、ほとんどが岩石である。本書で紹介する石のほとんどはいわゆる宝石ではないし、水晶などの大きな鉱物の結晶でもない。一部は岩石だが、石の外形を見せるものでもない。ここで扱うのは主に、ある鉱物の微細な結晶が集合しつつ、他の鉱物と混じり合ってできた塊を切った断面、つまり、石の中に立体的に入っている造形を取り出し、平面的に見せたものである。かなりの部分は瑠璃、ジャスパー、オパールといった、シリカ=二酸化ケイ素を主成分にしたものである。シリカが結晶したものは石英と呼ばれる。石英は私たちが上に乗っている地面を構成する鉱物で二番目に多いものである。石英の大きな結晶は水晶と呼ばれ、石英の目に見えないごく微小な結晶が集合して塊になったものは玉髄=カルセドニーと呼ばれる。この玉髄にいろいろな鉱物が混じることで、色や形のバラエティーが生まれる。それらは日本では瑠璃と総称されているが、欧米の宝飾の世界では色、模様の特徴別にさまざまな名が使われてきた。オレンジ・赤茶色のサード、赤味の鮮やかなカーネリアン、緑色のクリソプレーズ、平行線の縞模様のオニキス、そして、曲線の美しい縞模様のあるアゲート、樹木のような形が入っているデンドリティック・アゲート、苔のような、水草のような形が入っているモス・アゲートなど、数十種にもおよぶ名前がある。これら石英系の石が見せる色彩と造形には、他の鉱物を圧倒する多様性があり、名前の多さはそのバラエティーの豊富さを示している。こうした名前の使い方は地域によっても微妙に異なる。日本語の瑠璃は英語のアゲートの訳として使われるが、イコールではない。アゲートは模様の美しい玉髄だけに使われる名前なのに対し、日本では無色透明な玉髄も瑠璃と呼ぶことが多い。また、日本で玉髄という名は、地域によってはまた違ったタイプの石に使われることもある。本書では、やや日本での用法に寄せた形で、色のついた、模様のある玉髄全般を瑪瑙と呼ぶことにする。本書では、三つのパートに分けてさまざまな石について紹介している。まず、石の特徴的な模様と、それを人々がどう受けとめてきたかという話”石は描く”、次に石の造形にこめられた地球の歴史、地域の歴史、ひとつの時代の話についての”石は語る”、そして、石を追い求めてきた人の歴史、私か石を探し求めた話の”石を追う”である。それぞれの項はほぼ独立したものになっているため、読む順番は問わないが、先に掲載されている項目で紹介したことがらを受けて書かれているものも多い。
石は描く フィレンツェの石/縞模様の誘惑/モリソン氏の芸術的なジャスパー/虹を探して/インドの「木の石」)
石は語る オーストラリアの奇妙な石たち/ドラゴンの卵、亀の石/スコットランドの小石
孔雀石の小箱
石を追う 花の石/サンダーエッグの女王とその息子/「小さな緑色の怪物」/コロンビアの瑪瑙
10.平成29年10月7日
”木曽義仲”(2016年11月 吉川弘文館刊 下出 積與著)は読み直す日本史シリーズの1つで、木曽で育ち以仁王の令旨を得て木曽で挙兵し平氏を都から追い払うも頼朝の派遣軍に敗れた源義仲の悲劇の生涯を紹介している。
源義仲は源為義の孫で幼名駒王丸と言い、木曽山中で育ち木曽冠者と称された。後白河天皇の第三皇子以仁王=もちひとおうの平氏討伐の令旨を受けて、源頼朝・源行家に呼応して挙兵し、平維盛を倶利伽羅峠で破り、京都に入って朝日将軍とよばれた。しかし後白河院と対立し、源範頼・源義経の追討を受け近江国粟津で戦死した。下出積與=しもでせきよ氏は1919年石川県生まれ、1941年東京帝国大学文学部国史学科卒業、金沢大学教授、明治大学教授を歴任し、1989年定年退任し、名誉教授となった。1975年に東大文学博士、道教、神道などを研究した歴史学者である。本書の原版は、金沢大学助教授時代の1966年に、日本の武将シリーズの1つとして、人物往来社から刊行された。源義仲は、河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれた。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館と伝えられている。義賢はその兄義朝との対立により、大蔵合戦で義朝の長男義平に討たれた。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されたが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。1180年に以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死した。義仲は9月に兵を率いて北信の源氏方救援に向かい、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へ向かった。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵した。1181年に小県郡の白鳥河原に3千騎を集結し、城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。1182年に北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示した。1183年に頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化した。5月11日に倶利伽羅峠の戦いで平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して、破竹の勢いで京都を目指して進軍した。6月10日に越前国、13日に近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めた。7月25日に都の防衛を断念した平氏は、安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して西国へ逃れた。後白河法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。27日に後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻った。28日に義仲が入京し行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられた。30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになり、義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重の守護を担当した。8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられた。後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮=惟明親王か四之宮=尊成親王のいずれかを擁立することに決めた。ところが義仲は、以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう朝廷に申し立てた。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。義仲は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない粗野な人物として疎まれる契機となった。後白河法皇は9月19日に義仲を呼び出し、平氏追討に向かうことを命じて出陣させた。義仲は、腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届き、10月9日に法皇は頼朝を本位に復して赦免し、14日に宣旨を下して東海・東山両道諸国の支配権を与えた。一方、義仲は西国で苦戦を続け、水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、戦線が膠着状態となった。まもなく、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報に接した。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京した。20日に義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、後白河院に激烈な抗議をした。義仲の敵は、すでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。また、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。11月4日、源義経の軍が布和の関にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固めた。頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため対抗できる戦力の増強を図るようになった。数の上では義仲軍を凌いだ段階で、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は、義仲に対して最後通牒を行なった。それは、ただちに平氏追討のため西下せよ、院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば宣旨によらず義仲一身の資格で行え、もし京都に逗留するのなら謀反と認めるというものであった。18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入り、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。11月19日に、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃した。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。御所から脱出しようとした後白河法皇は捕縛され、義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉した。20日に義仲は、五条河原に光長以下百余の首をさらした。21日に松殿基房と連携して毎事沙汰を致すべしと命じ、22日に基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。28日に新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握した。10日に源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。1184年1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦工作や後白河法皇を伴っての北国下向を模索した。しかし、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされ、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。戦いに敗れた義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びたが、20日に近江国粟津で討ち死にした。享年31歳であった。本書は、義仲の生涯に沿って出来事の事実や意義・評価を叙述している。義仲と関わりのある様々な人物や地域について幅広く言及し、特に北陸の武士や地理について詳細な点が注目される。また、古文書・古記録が限られていることもあり、後世に成立した”平家物語”諸本への視線が注目される。
駒王丸
大倉館/薄幸の孤児/木曽へ隠れる/関東と信州/木曽次郎義仲/源仲家
木曽谷の旗挙げ
義仲と中原一族/旗挙げ/市原の戦/上野進出/越後の城氏/義仲の陣営/横田河原の合戦/北陸武士の動向
倶利伽羅の合戦
義仲、危機一髪/不和の背景/志水冠者義高/平家の北陸快進撃/般若野の衝突/義仲の作戦/倶利伽羅の合戦/勝利に蔭にひそむもの/敗軍の集結/篠原の挽歌/斎藤別当実盛/木曽武者と「かり武者」/平軍帰洛
義仲上洛
大夫房覚明/山門工作/叡山の返牒/義仲と覚明/一門評定/法皇雲隠れ/後白河法皇/平家都落ち/哀愁の武者/義仲上洛
旭将軍
義仲の栄進/自然児/義仲の栄進/自然児/義仲と行家/北陸宮/武士の洛中狼藉/十月宣旨/頼朝の手腕/水島の敗戦/法住寺殿の焼打ち/宇治川の戦い/旭将軍の末路/木曽殿最期/乳母子/木曽の家
木曽義仲年譜
11.10月14日
”最後の辺境 - 極北の森林、アフリカの氷河 ”(2017年7月 中央公論新社刊 水越 武著)は、現在にも存在する文明の侵食を許さない隔絶された土地を写真と文章で紹介している。
辺境とは、都から遠く離れた土地や国境を指す。交通網の発達で、今や辺境・秘境と呼ばれる地域は地球上に少なくなっている。しかし、まだ十分にわかっていない地域、行くのが困難な地域は残っている。ヒマラヤの高山氷河、アマゾン源流の大瀑布、アフリカ最奥部の密林地帯などは、現在も存在する辺境である。これらの地は、空白地帯が失われた現在では最後の辺境である。水越武氏は1938年愛知県豊橋市生まれで、1958年に東京農業大学林学科を中退後、写真出淵行男に師事し、山岳を中心とした自然写真を撮ってきた。1999年に第18回土門拳賞、2009年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、高い評価を得ている。3、4歳のころ、早朝に雨戸を開けると、空高くを隊列を組んだ雁か飛んでいた。そして、さまざまに形を変え、小さくなって遠くへ消えていった。著者がの夢や希望はこの時見た雁に強く影響されているようだ、という。高くには山があり、遠くには地平線があった。早くから山に目覚め、動植物に惹かれ、遠い未知の大地に足を運んだ。写真と出会って多様な世界と向き合うようになっても変わらなかった。日本列島の旅だけでは窮屈で、海外に出て行った。まだ人間を拒絶している自然の聖地を好んで訪ね、レンズを向けて来た。好奇心の赴くまま、ひたすら自分の足で歩いてきた。その目的地は高く遠くに飛んで行った雁と重なる、という。第1章は、地図の空白部を歩くカラコルムの五大氷河(1979年)、 第2章は黄河源流の幻の山アムネマチン(1981年)、第3章は極北の森林限界ブルックス山脈(1995年)、 第4章は世界最大の水量を誇るイグアスの滝(1998年)、第5章は赤道直下の高山氷河アフリカ(1999年)、第6章は豊かな水に恵まれた巨木の森北アメリカ西部沿岸(1999年)、第7章は地上最後の秘境コンゴ川流域の熱帯雨林(2000年)、第8章は聖なるバイカル湖(2003年)を取り上げている。ヒマラヤの写真は、フランス国立図書館、イタリア国立トリノ山岳博物館、豊橋市美術博物館、東京都写真美術館に収蔵されている。ここで取り上げた山行や旅は、ホテルや乗り物に頼って行動できるものではなく、それぞれ厳しい旅だった、という。それだけにさまざまな思いが今も鮮明に蘇ってくるそうである。なかには突然、夢にも思わなかった旅のチャンスを与えられ日本を離れることもあったが、体の中を風が吹くようにアイデアか生まれ、資料を集め、仲間を募り、資金調達など5年、10年とかけてやっと実現できたものもあった。現地に行っても困難か待ち構えていた。アフリカのウガンダではエボラ出血熱に脅かされ、孤立したが、パリから飛んできた国境なき医師団の帰りの便で危うく脱出した。またエクアドルの首都キトではクーデターか起き、反乱軍の銃砲に逃げ惑うこともあった。しかし人間の生活圏から離れ、人を寄せつけない山平森の奥地に入ってしまえば素晴らしい自然の王国が待っていた。今まで見たこともない多様な地形、珍しい生き物を目にした。時間を忘れ、幸福感に満たされた。辺境とは厳しい自然環境が人間を寄せつけず、不毛の地として見捨てられていた所である。また一方で、汚れのない自然が息づいていて、原始地球と出会える所でもある。地球を彩る多様な自然の王国は興味の尽きない所だった、という。また、取り上げたかったのにここに収めることかできなかった地域があるそうである。まず、南米の大河、アマゾン河源流域のマヌーとギアナ高地であるが、この地域を一生の仕事として取り組み、何冊も著書を遺した友人が近くにいた。次に、ブータン王国とニューギュアは、それぞれの最高峰、7570mのガッケルプッズムと4884mのカールステンツピラミッドを登りに行って、両方ともアタックを前に撃退された。このように、収めることかできなかった地域がある一方、さまざまな困難と出会う中で撮影された写真は、どれも素晴らしいものばかりである。本書は、山岳写真家としての著者の集大成の意味もあると思われる。
12.10月21日
”オホーツクの古代史 ”(2009年10月 平凡社刊 菊池 俊彦著)は、環オホーツク海地域の3世紀から13世紀ころまでのさまざまな人々が存在した謎に満ちた古代文化の輪郭を紹介している。
オホーツク海は本格的な流氷域としては北半球の南限であり、沿岸地域では独特の古代文化であるオホーツク文化が拡がっていた。この文化の担い手は海での生業を基盤とする海洋民であると同時に、大陸と日本列島を北回りのルートで仲介する交易民でもあった。菊池俊彦氏は1943年群馬県生まれ、1967年北海道大学文学部史学科卒業、4月から北海道大学文学部附属北方文化研究施設考古学部門助手、1978年から同大学文学部助教授、1986年から同大学文学部助教授、1991年から同大学文学部教授、2000年から大学院文学研究科歴史地域文化学専攻東洋史学講座教授を務めた。2006年に北海道大学を停年退官し、同名誉教授に就任した。1997年に北方文化の研究で濱田青陵賞を受賞した。日本列島は、太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海によって囲まれている。この4つの海のなかで、最北に位置するのがオホーツク海であり、この海に接している北海道の東北部沿岸は、冬期に流氷が漂着することで知られている。オホーツク海は北海道の北部と東部の沿岸が面するだけで、日本の歴史に登場することはほとんどなかった。そのため、これまでオホーツク海沿岸の古代史か語られる機会はなかったと言ってよい。オホーツク文化の遺跡はオホーツク海沿岸のほか、日本海沿岸にもいくつか分布しているが、太平洋沿岸にはまったくない。また、オホーツク文化の遺跡はもっぱら沿岸にあるだけで、内陸部にはまったく見出されない。オホーツク文化の遺跡からは、アザラシ、トド、オットセイのような海獣、クジラやさまざまな魚の骨が大量に出土している。それは、オホーツク文化の人たちが海に依存して生活していたことを示している。沿海の生活者であるにもかかわらず、オホーツク文化の人たちは家畜としてブタとイヌを飼い、その肉を食べていた。そのような習慣と伝統は大陸の諸民族のところにある。また、オホーツク文化の遺跡からは大陸製の青銅製品や鉄製品か出土している。それはオホーツク文化の人たちが大陸の人たちと交流し、交易していたことを示している。オホーツク文化の年代は3世紀から13世紀と推定されているが、そのころの大陸、特にアムール河流域やオホーツク海北岸にはどのような古代文化があったのであろうか。オホーツク文化の遺跡のうちではサハリンの遺跡が古く、オホーツク文化の人たちはサハリンから北海道に南下して来たことが知られている。最盛期には千島列島を東に進出して、カムチャツカ半島の近くまで居住していた。沿海の生活者、海獣狩猟、クジラ猟、ブタやイヌの家畜飼育、大陸との交易、このような特徴を待ったオホーツク文化の人たちはどのような人たちだったのであろうか。20世紀初めに、オホーツク文化の遺物の類例として、エスキモー民族の彫刻品や鈷先が指摘されて話題をよんだ。それ以来、オホーツク文化の人たちはどんな民族だったのか、という問題をめぐる議論には、エスキモー民族説、アリュート民族説、サハリンのアイヌ民族説、大陸からの移住者説、大陸の黒水靺鞨=こくすいまつかつ渡来説、サハリンのニヴフ民族説と、さまざまな見解が発表されている。靺鞨は、中国の隋唐時代に中国の北方に存在した集団である。中国の史料によれば、7世紀に、長安を去ること1万5000里にある流鬼国から朝貢の使節がやって来たという。流鬼国はどこにあったのか、という問題はすでに19世紀中ごろに中国の学者によって、カムチャツカ半島であろうという見解が発表された。19世紀末には、フランスの学者が同じくカムチャツカ半島説を発表した。そして、20世紀初めに、日本の学者によって流鬼国はサハリンにあったという見解が発表された。しかし、その後もカムチャツカ半島説は支持されてきた。いったい、流鬼国はどこにあったのであろうか。また、流鬼とはどんな民族だったのであろうか。流鬼国の朝貢使節の話によれば、流鬼国から北へ1か月行程のところに夜叉国があるという。夜叉国はどこにあったのであろうか。また、夜叉とはどんな民族だったのであろうか。著者は、流鬼はサハリンのオホーツク文化の人たちで、夜叉はオホーツク海北岸の古コリャーク文化の人たちだったのではないか、と考えている。そして、流鬼はニヴフ民族に相当し、夜叉はコリャーク民族に相当すると考えることができる。環オホーツク海では、かつてニヴフ民族やコリャーク民族か活動して、大陸の諸民族と交流し、交易していた。そのことを中国の史料は伝えていて、それは流鬼と夜叉の交易だったと考えられる。本書は、このような環オホーツク海の知られざる諸民族の古代史を紹介しようとしている。
第1章 流鬼国の朝貢使節/第2章 流鬼国はどこにあったのか/第3章 オホーツク文化の大陸起源説/第4章 オホーツク文化と流鬼/第5章 夜叉国と環オホーツク海交易
13.10月28日
”大内義弘 - 天命を奉り暴乱を討つ”(2017年3月 ミネルヴァ書房刊 平瀬 直樹著)は、室町幕府を支えて大内氏の礎を築いた大内義弘がなぜ滅亡したのか、領国の統治や一族の争いなどからその生涯に迫っている。
大内義弘は南北朝・室町時代の守護大名で、妙見信仰を重んじ、自らのルーツを朝鮮半島に求めて一族の結束を高めたが、応永の乱を引き起こし滅亡した。妙見信仰は仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいい、原姿は道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。平瀬直樹氏は1957年大阪府生まれ、1986年京都大学文学研究科国史学卒業、1986年同大学大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻研究指導退学、山口県文書館勤務を経て、金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系教授を務めている。大内義弘は1356年生まれ、大内家の第25代当主で、第24代当主の大内弘世の嫡子である。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など、子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗った。南北朝時代から室町時代の武将・守護大名で、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護を行った。室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築いた。1371年に、九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州へ渡った。九州における南朝の勢力追討に功績を挙げ、1372年に大宰府を攻略し、父と共に帰国した。1374年に長門国と豊前国の守護職に任命され、幕府から今川貞世の救援を命じられたが、父が命令を拒否したものの、義弘は父に従わず、翌年に自ら九州に出陣して各地を転戦し、懐良親王を奉じる菊池武朝に大勝した。1375年に筑前世振山の合戦で一時劣勢を強いられたが、義弘が士卒を励まし力を尽くして戦い、菊池・松浦・千葉連合軍を打ち破った。1377年の肥前蜷打の戦いや肥後臼間白木原の戦いにも、弟満弘とともに参戦し活躍した。1380年に父が死去し弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛が起こり、翌年に将軍・足利義満の支持を得て勝利した。その後、満弘と和解し、義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つことになった。室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かった。そのため、第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して、花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強した。義弘は義満の家臣として忠実に働き、1389年に義満が厳島詣のために西下すると、周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなった。義弘は幕政の中枢に参加し、在京することが多くなった。1379年に高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道まで追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られた。1385年に満弘から石見国を没収し、代替として豊前国が与えられ、以後の満弘は大内氏の九州拡大の中核として活躍した。義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して、管領・細川頼之を失脚させた。1389年に土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させた。1391年に11カ国の守護を兼ねた大勢力の山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐し、山名氏3カ国を残すのみとなった。このような義満の権力強化策に義弘は協力して出陣し、陣を構えて戦い武功を立てた。1392年に山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6か国の太守となった。1392年に南朝との仲介・和睦斡旋を行って南北朝合一にも尽力し、義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に足利将軍家に準じることを認める御内書を発している。しかし、1397年に義満が北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた際、諸大名の中で義弘のみは、武人としての信念を貫いて従わず、義満の不興を買った。同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣したが苦戦が続き、筑前で満弘が討死を遂げた。にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていった。1398年に満弘を討たれた報復として九州に出陣して、少弐家を討った。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。あまり世間に知られていない大内義弘であるが、明徳の乱や南北朝合体など、幕府政治の節目に重要な役割を果たしており、室町幕府は彼の功績なくして統一政権となることはできなかったであろう。幕府を支えていたにもかかわらず、最後に義弘は反乱を起こしたのである。この反乱は、弘世・義弘の二代にわたって築き上げた大内氏の、幕府内での地位や獲得した支配領域を、元も子もなくしてしまうような危険な賭けであった。ところが、乱ののち義弘の子孫は、謀反人という汚名を背負ったような様子はない。それどころか、義弘の後継者たちはより強力な大名になり、ますます幕府からも頼られる存在になった。義弘自身が滅んでも、大内氏の歴史が終わったわけではない。大内氏には、後の世でさらに成長する芽が残されていた。義弘は、挙兵に当たり、天命を奉り暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜんとす、というスローガンを掲げている。義弘の政治的・軍事的な動向は、第1~3、6、7章で扱っており、義弘が足利義満への忠節から反逆に転ずる経緯について述べている。第4・5章では、義弘が支配した地域の特性に焦点を当てている。第8章は義弘亡き後の時代を概観している。義弘は、忠節を尽くしたにもかかわらず、義満が自分を裏切ったことが許せなかったのである。理不尽な仕打ちに対抗するために義弘が取った行動は、現代の我々も共感できる点があるのではないだろうか。現代でも、自分の置かれた環境を変えることができなくても、納得できる仕事や作品を残したりすることによって、自分の死後、子孫が社会を進歩させたり、自分の考えが世の中を変える一助となる希望を抱くことができると思える。
序 章 室町幕府と朝鮮王朝のはざまで
第1章 大名への成長/多々良氏から大内氏へ/父弘世の時代
第2章 在京以前/幕府体制内へ/康暦の政変と大内氏の内紛/足利義満の瀬戸内海遊覧
第3章 幕府への貢献/明徳の乱/南北朝合体交渉
第4章 周防・長門の支配/大内氏の本拠地/都市の発展/交通の発展
第5章 支配領域の拡大/石見国への進出/安芸国への進出/豊前国への進出/海賊と倭寇
第6章 義弘の自己認識/在京中の意識/自己認識の形成
第7章 反 乱/反乱への道程/堺籠城/戦いの始まり/義弘の最期/反乱の真相
第8章 義弘亡き後/乱の余波/その後の大内氏/義弘の記憶
終 章 大内義弘という人物
参考文献
大内義弘略年譜
14. 11月4日
"ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 "(2017年7月 文藝春秋社刊 中野 雄著)は、1挺数億円で取引されスター・ヴァイオリニストは必ずどちらかを使っているといっても過言ではない銘器の不思議を解明している。
ストラディヴァリとグァルネリは、ともに17~18世紀に活躍したヴァイオリン製作者である。過去に幾度も本物かどうかの聴き比べが行われたが、著名な音楽専門家でも見事に外しまくり、現代のものとの間に音色の違いはないという結果が出ている。にもかかわらず、ストラディヴァリの相場は下がるどころか上がる一方であった。なぜこんなことが起こるのであろうか。中野 雄氏は1931年長野県松本市生まれ、東京大学法学部卒業、日本開発銀行を経てオーディオ・メーカーのトリオ役員に就任、その後、代表取締役、ケンウッドU.S.A.会長を歴任した。昭和音楽大学、津田塾大学講師を務め、現在は、映像企業アマナ等役員、音楽プロデューサーとして活躍し、LP、CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞、芸術祭優秀賞、文化庁芸術作品賞など受賞した。アントニオ・ストラディバリ(1644年 - 1737年)は、イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者である。弦楽器の代表的な銘器であるストラディヴァリウスを製作したことで知られている。ニコロ・アマティに師事し、16世紀後半に登場したヴァイオリンの備える様式の完成に貢献した。1680年にクレモナのサン・ドメニコ広場に工房を構えると、若くして楽器製作者としての名声を得た。2人の息子と共にその生涯で1116挺の楽器を製作したとされ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、ギターを含む約600挺が現存している。グァルネリは、イタリア、クレモナ出身の弦楽器製作者一族であり、アンドレーア・グァルネリ (1626年 - 1698年)、ピエトロ・ジョヴァンニ・グァルネリ (1655年 - 1720年)、ジュゼッペ・ジョヴァンニ・バッティスタ・グァルネリ (1666年 - 1739年)、ピエトロ・グァルネリ (1695年 - 1762年)、バルトロメオ・ジュゼッペ・"デル・ジェズ"・アントーニオ・グァルネリ (1698年 - 1744年)が知られている。単にグァルネリといえば、バルトロメオ・ジュゼッペ・"デル・ジェズ"・アントーニオ・グァルネリの制作した弦楽器を指すことが多い。アントニオ・ストラディヴァリとバルトロメオ・ジュゼッペ・"デル・ジェズ"・アントーニオ・グァルネリの二人の製作した楽器が、この世界で至高の逸品とされ、その秘密に迫るべくこれまで数え切れないほど多くの、学者、研究者、職人たちが日夜研究を続けてきた。しかし、その秘密なるものを応用して、往年の巨匠二人のような作品が誕生したという話も、量産化に成功したという話も聞いたことがない。その間に銘器の価格は高騰を続け、1挺の値段はいまや数億円となり、日本人では高嶋ちさ子氏がストラディバリウス・ルーシーを2億円で購入、千住真理子氏がストラディバリウス・デュランティを2~3億円(正確な金額は非公表)で購入しているという。現代最高クラスの名手たちから今なお愛され続けている。その美しい音の秘密はヴェールに包まれ、世界中の職人や科学者がなんとかその謎を解き明かそうとしのぎを削ってきた。音楽家は、自分の持っている楽器の性能を超える演奏をすることが出来ない。ヴァイオリンにしても、ピアノにしても、あるいは、管楽器、打楽器にしても、あらゆる楽器には、製造過程で造り込まれた潜在的な音楽表現能力が内在している。これは人間を含めた生物の世界と同じで、遺伝子の存在と似ていると言ってもいいだろう。一人ひとりは容貌が異なり、体格が異なり、運動能力も智力、性格も異なる。長い人生行路の中で、努力や教育訓練によって智力も運動能力も大きく変えることはできるが、そこに天性の個体差の壁というものがあることは誰にも否定できない。人間と他の動物との差、人間という生き物それぞれの個体差を貴らしたのは、もしかしたら神の意思かもしれないけれど、音楽を奏でる楽器に個体差を付与したのは人間である。ヴァイオリンを作るか、ピアノを作るか、はたまたフルートを作るかを決めるのは当該の楽器を製作する楽器製作者の意思である。ヴァイオリンを作る、ピアノを作るといっても、どんな音のする、どのような音楽表現力を持つ楽器を作るのかというのは製作者の目的意識と製作能力によるのである。目的意識とか製作能力というのは、極めて不可解かつ説明困難な人体現象である。何故ヴァイオリン属なる弦楽器がわれわれ音楽愛好家の関心を呼ぶかというと、第一にはその価格-そして、その価格の安定性である。ストラディヴァリウスとかグァルネリとかいう銘器の大部分には、歴史上、その楽器を蒐集・保管した貴族、富豪、趣味人や、演奏に使用した音楽家の名前がつけられている。往年のコレクターや名演奏家の名前以外にも、ヴァイオリンの銘器にはさまざまな特徴的な名前が付けられている。これらの銘器の所在は一流の楽器店主なら常時把握していて、所有者が手放す瞬間を虎視耽々と狙っている。有名な楽器はその履歴とともに立派な図鑑に収められており、贋作を掴まされる惧れまず無い。ただし近年、銘器の価格は異常という言葉以外では表現できないほどの急騰ぶりを見せている。神田侑晃氏の2002年の著書にはストラディヴァリウスとデルジェスの価格は2億円前後とされているが、いまでは10億円以上すると言われている。ヴァイオリンという楽器の価値を決めるのは、製作者によって楽器本体に埋めこまれた音楽表現能力である。ヴァイオリンのなかの銘器は、古今の芸術家の作品と同じように、限られた歴史上の才能によってこの世に産み出されたものであって、作品を産み出す才能自体が人類の歴史上、限定されたものと考えられる。ヴァイオリンという楽器について、常に古今の芸術作品と、その創作の秘密に想いを致さなければ、市場で取引きされている途轍もない価格について理解することはできない。さらに厄介なのは、この芸術作品-実は音楽を演奏する道具に過ぎないということなのである。
プロローグ~二大銘器は何故高価なのか/第1章 ヴァイオリンの価値とは何か/第2章 ヴァイオリンという楽器Ⅰ~その起源と完成度の高さ/第3章 ヴァイオリンという楽器Ⅱ~ヴァイオリンを構成する素材と神秘/第4章 アントニオ・ストラディヴァリの生涯と作品/第5章 グァルネリ・デル・ジェスの生涯と作品/第6章 閑話休題/第7章 コレクター抄伝/第8章 銘器と事故/最終章 封印された神技/エピローグ
15.11月11日用
"わたくしたちの旅のかたち 好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる "(2017年2月 秀和システム刊 兼高かおる/曽野綾子著)は、異文化に触れる喜び、忘れられない出会い、旅をすることで得られる知恵と元気などを50年来の知己が初めて語り合う。
ひとりは、テレビ番組"兼高かおる世界の旅"で世界中を旅した兼高かおる氏、もうひとりは、各国を取材し、戦争・社会・宗教など幅広いテーマで執筆している作家・曽野綾子氏である。兼高かおる氏は1928年神戸市生まれ、父親はインド人である。香蘭女学校卒業後、ロサンゼルス市立大学に留学、その後、ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍した。1958年にスカンジナビア航空が主催した世界早回りに挑戦し、73時間9分35秒の当時の新記録を樹立した。兼高かおる世界の旅を、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーとして製作した。放送は1959年12月13日から1990年9月30日にかけて30年10か月の間、TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送された。2007年5月6日からTBSチャンネルで再放送が開始された。取材国は約150か国、1年の半分を海外取材に費やし、放送回数は1586回、全行程は721万kmであり、地球を180周した計算になる。1986年から2005年まで、横浜人形の家館長を務めた。外務大臣表彰、菊池寛賞、文化庁芸術選奨、国土交通大臣特別表彰、紫綬褒章受章などを受賞した。現在、日本旅行作家協会名誉会長、淡路ワールドパークONOKORO兼高かおる旅の資料館名誉館長、東京都港区国際交流協会会長などを務めている。ミクロネシアのマーシャル諸島に自分の島=カオル・エネを持っている。82歳になった現在でも世界各国を飛び回っている。時々刻々と変化する世界の情勢は常にじかに見なければならないという方針で、独身である。曽野綾子氏は1931年東京都葛飾区立石生まれ、二女として生まれたが姉が亡くなり一人娘として育てられた。母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院であったが、敗戦前後10か月ほど金沢に疎開し学校も金沢第二高等女学校に変わった。1946年に東京に戻り、聖心女子学院に復学した。戦後父親は姻戚を頼って米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となり、妻子を田園調布に置いて単身赴任した。曾野は1948年夏に実際ここに滞在しアルバイトまがいの手伝いをしていた。同年にカトリック教徒として洗礼を受け、洗礼名はマリア・エリザベトである。1951年に臼井吉見の紹介で、現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第15次"新思潮に加わった。22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚し、23歳で芥川賞候補となり文壇にデビューした。以後、次々に作品を発表し、30代で不眠症に苦しむが、新しい方向性にチャレンジするうち克服した。1995年から2005年まで日本財団会長職を務め、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任した。2000年に元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた。1979年ヴァチカン有功十字勲章、1993年恩賜賞・日本芸術院賞、2012年菊池寛賞を受賞した。精力的な執筆活動の一方、各種審議会委員も務め、世界に視野を広げた社会活動でも注目を集めた。昭和20年の終戦と同時に、それまで敵国たったアメリカが憧れの対象になった。岡晴夫が歌う"憧れのハワイ航路"が大流行したが、当時はまだ海外への渡航は自由化されていなかった。庶民はバラック住まいに代用食で、海外旅行など、夢のまた夢だった。同時代を生きた二人が初めてあったのは50年前で、場所は六本木のエクアドル大使館だったという。昭和34年から、日本初の海外紀行番組"兼高かおる世界の旅"がはじまった。番組が伝える海外の文化や風俗は、日本人の憧れと旅情をかき立てた。観光目的の渡航が自由化されたのは、その5年後の昭和39年のことだった。しかし、海外旅行の費用は乗用車1台分より高く、庶民にとってはまだまだ高値の花だった。昭和45年は高度成長にわく日本の空に、初めてパンアメリカン航空のジヤンボジェット機が登場した。以降、高価だった旅行代金は大幅に引き下げられ、海外旅行は一気に身近になった。農協をはじめとする団体旅行が大ブームになり、多くの日本人が世界へ飛び立った。それからも、急激な円高とバブル経済の恩恵で出国ラッシュは続いた。昭和54年に創刊された"地球の歩き方"を片手に貧乏旅行を楽しむバックハッカーも激増した。旅慣れた日本人にとつても、世界はまだまだ感動の宝庫で、アフリカとの深い縁がはじまったという。時代は昭和から平成になり、同時にインターネットの登場で、世界は一つにつながった。しかし、グローバル化が叫ばれる一方で、若者の内向き志向は加速し、海外渡航者数は年々減少の一途をたどっている。逆に訪日外国人の数は大幅に増加し、日本の歴史や伝統文化の魅力は、外から再発見されつつある。
第一章 戦後、アメリカの豊かさへの憧れ
同時代を生きた二人/戦中・戦後の女学校/「女工さん」の仕事が好きだった/なぞの留学生/ガラリと変わった戦後の暮らし/真の国際人とは?/進駐軍と「レーション」/代用食の「身欠きニシン」はミイラの匂い!?/「お嬢ちゃま」では生きられない/紳士的だった進駐さん/富士屋ホテルでのアルバイト/ホテルは憧れだった/ハワイ経由でアメリカへ留学/初めてのカルチャーショック/強烈だったインド・パキスタンの旅/海外へ出て行く勇気をくれた英語
第二章 海外はまだ高値の花
『兼高かおる世界の旅』がはじまった/日本の常識は世界の常識じゃない/出されたものは、なんでも食べた/才能は自分一人では磨かれない/「いい男」だったケネディ大統領
/初めてのアメリカ暮らし/アメリカの豊かさに魅了される/「自由の国」アメリカ/日本式の「才覚」か、アメリカ式の「マニュアル」か…
第三章 海外が身近になった一九七〇年代
越路吹雪さんとグアム/飛行機が元気だった時代/鄧小平とタン壺/ウォッカで乾杯!/世界は思った以上にルーズ/日本の「当たり前」を疑う/理解できない習慣もある/その国のタブーを知っておく/日本人のマナーは超一流/世界には「食」に関するタブーもある/「命をいただく」現実と向き合うこと/人を見たら「泥棒」と思え?/五分の一までは値切れる/買い物で国際交渉術を鍛える
第四章 アフリカとの出会い
アフリカとの深いご縁がはじまった/アフリカの古風な伝統/自分の年齢を知らない人々
/砂漠の民の慈悲と掟/アフリカにはトイレがない!?/健康管理は自己責任/モーパッサンとサバイバル/旅の必需品は、ゴム草履/スーツケースに「牽引用ロープ」!/サハラ砂漠を照らす満天の星/星、そして静寂。アラブは戦とは無縁な世界だった
第5章 これからの日本、そして旅のかたち
変わりゆく日本/優れた文化を伝える伊勢神宮/日本はほんとうに貧しいのか/『世界の旅』はプロローグ/大切なのは、「違い」を認め合うこと/ペルー元大統領フジモリ氏との交流/「私人」であればお助けする/民主主義か独裁か/「平等」を求め過ぎると後退する
/「富」が文化をつくる/お金持ちになったら何をする?/シニア世代におすすめしたいクルーズの旅/ツアーに参加する旅もいい
16.11月18日
”ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン”(2011年7月 講談社ビジネスパートナーズ社刊 松永 秀夫著)は、官約移民の父と言われるアメリカ人ロバートー・ウォーカー・アーウインの生涯を紹介している。
ハワイの日本人移民は、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとで、1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民と言い、以降1908年までの移民を自由移民と言う。R.W.アーウィンは、1885年2月8日の東京市号のホノルル入港で第1回官約移民を実現し、東京・青山に住んで最後は日本の土になった。松永秀夫氏は1926年生れ、法政大学卒、三友新聞社に勤務し、編集局長を務めた。現在、日本海事史学会、太平洋学会、日本移民学会の会員とのことである。ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。1860年に日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託した。日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受けた。その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年にサイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなった。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年日布修好通商条約が締結された。1885年に日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込んでハワイに渡った。官約移民制度における具体的な交渉は、後に移民帝王とも言われる在日ハワイ総領事R.W.アーウィンに一任されていた。アーウィンは井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士の星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋=私約移民が行われるようになった。その後、1900年に移民会社による民約移民が廃止になり、ハワイへの移民は、自由移民だけとなった。自由移民は、官約移民・民約移民の時代を通じて、もう一つの移民の方法として法的には並存していた。またこの他に、密入国などの不法な手段による渡航もあった。日本からの移民は、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡った。移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げてきた。アーウィンは1844年にデンマーク・コペンハーゲンで生まれ、1866年23歳のときにパシフイック・メイル・スチームシップ日本駐在員として横浜に赴任した。パシフイック・メイルは1847年に設立され、サンフランシスコ・パナマ間の航路を引受けた船会社である。1848年のカリフォルニア州のゴールドラッシュに出会い、乗船客の急増に伴って利益をあげ、基盤を築いた。南北戦争後、1865年にアメリカ政府から年間50万ドルの郵便輸送契約を結び、サンフランシスコ・ハワイ・日本・上海・香港の定期航路に乗り出した。アーウィンは1869年に横浜のウォルシュ・ホール商会に入社し、長崎のウォルシュ商会に勤務した。このとき、後に正式に結婚する18歳の武智いきを同行した。1873年にフィッシャー商会の設立に参加した。1874にハワイ王国代理領事に就任した。1876年に三井物産が発足したが、アーウィンは1877年にロンドン代理店主になった。1878年にロンドンを離れ横浜に戻り、1879年に三井物産顧問役に就任した。1880年に三井物産に蒸気船会社設立を勧告し、在横浜ハワイ総領事代理に再任された。1881年に横浜でカラカウア王を出迎え、ハワイ国総領事に就任しハワイ国代理公使兼任を受命した。1882年に武智いきと正式に結婚した。これが日米間初の正式な国際結婚と言われている。この年、共同運輸会社の発起人会で取締役待遇になり、井上外務卿により、布哇国移住民事務局日本代理者と承認された。1884年にハワイからイアウケア全権公使が来日し、井上外務卿から移民提議を承認された。アーウィンは、ハワイ国政府代理官・移住民事務局特派委員を兼任した。こうして、1885年の第1回官約移民を実現したのである。1925年に82歳で永眠し、勲一等旭日大綬章に叙せられた。
第1章 横浜のPM社に入社/第2章 日本人少女と巡り会う/第3章 長崎から帰り外債仲裁/第4章 三十一歳でハワイ王国代理領事/第5章 「先収会社」に加勢/第6章 新設商会で存分な行動/第7章 ハワイ国王の来遊に大役/第8章 国賓の礼遇で応対/第9章 ハワイ国歌で出迎え/第10章 フランクリン由来で紹介/第11章 私邸にカラカウア王/第12章 日本の優遇を謝す/第13章 新たに海運会社設立/第14章 ハワイ少年二人が留学/第15章 イギリスで汽船建造/第16章 特命公使の移民を諾す/第17章 「布哇に往けよ」の論評/第18章 約定書草案も掲載/第19章 府県で違った対応/第20章 天然痘で渡航延びる /第21章 ハワイ島民から厚遇/第22章 罷業があっても第二回船/第23章 渡航条約と二社合併/第24章 横浜-ホノルル直行船/第25章 好感呼んだ禁酒と教化/第26章 無賃渡航費を有料に/第27章 グアテマラで「虐待事件」/第28章 官約移民の役割を終えて/第29章 十年間・官約の意味/第30章 ハワイ国をしばしば去来/年表/引用・参考書
17.11月25日
”チェリー・イングラム-日本の桜を救ったイギリス人 ”(2016年3月 岩波書店刊 阿部 菜穂子著)は、明治以後の急速な近代化と画一的な染井吉野の席巻から消滅の危機にあった日本独自の多種多様な桜の保護に尽力したコリングウッド・イングラムの生涯を紹介している。
ビクトリア女王時代の19世紀後半に、日本から観賞用の桜がやってきた。大英帝国の最盛期、世界各地からいろいろなものがイギリスに持ち込まれた勢いにのって、サクラも海を渡ったのである。20世紀に入って、ロンドンの東にあるケント州の植物収集家、コリングウッド・イングラムは3度日本へ足を運び、多くの桜を持ち帰った。イングラムは日本の桜とヨーロッパ原産の桜を交配させて多くの新種を作り、またたく間に桜の権威となってサクラ男と呼ばれた。阿部菜穂子氏はジャーナリストで、1981年国際基督教大学卒業、毎日新聞社記者を経て、2001年8月からイギリス人の夫と息子2人でロンドン在住、イギリス社会、とくに教育問題や家族政策について日本の新聞、雑誌に寄稿している。イギリスにはたくさんの桜が植栽されている。イギリスでは、じつにさまざまな品種の桜が復活祭をはさんで次々と開花していく。花の色は白、ピンク、紅とそれぞれちがい、花期も少しずつずれているため、桜の季節は3月末から5月なかばごろまで長く続く。復活祭を祝う桜の光景はまるで、長い冬のあいだに眠っていた人間の魂が多様な桜の花びらとなって蘇り、そこここで生命力を躍動させるかのように見える。イギリスの桜の風景は、ひとことで言うと多様なのである。日本では染井吉野がいっせいに咲いて街全体を薄桃色に染め、わずか1週間程度でまたいっせいに花びらが散っていく。しかし、日本生まれの桜はイギリスでは故郷とはちがう風景をつくったのである。染井吉野一色に染まる祖国の風景を見慣れている在英日本人の多くは、イギリスの多様な桜の風景にとまどいすら覚える。そして、イギリスの桜は日本の桜とはちがう種類ではないだろうかとささやき合う。この多様な桜の風景を演出したのが、コリングウッド・イングラムである。イングラムは、ビクトリア王朝下の1880年にイングラム家の3男としてロンドンで生まれた。祖父ハーバート・イングラムは、当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞”イラストレイテッド・ロンドン・ニュース”の創設者で、父親ウィリアム・イングラムは2代目経営者として新聞事業を発展させた。2代にわたる財産の構築により、一家は裕福だった。大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華を極めていた。コリングウッド・イングラムは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけた。日本への初訪問は1902年のことで、その旅ですっかり日本びいきになった。長い鎖国を終えて姿を現した日本は独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かであった。イングラムは、1906年にフローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れた。桜との出会いは、第一次大戦後の1919年のことであった。この年に妻と3人の子供をもつ一家の主として、ケント州南部の村ベネンドンに新居のザ・グレンジを購入して転居した。そのとき新居の庭に植えられていた桜の大木2本が目にとまり、ヨーロッパではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し研究しようと思い立った。その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集した。日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な桜園が誕生した。1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしかチェリー・イングラムと呼ばれるようになった。イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた多様な桜であった。英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年に日本へ桜行脚に行くことを決意した。旅の計画を助けたのは、鷹司信輔=たかつかさのぶすけ公爵で、鳥の研究のためヨーロッパに遊学中に英国でイングラムと知り合った。貴族院議員でもあり豊かな人脈をもつ有力者で、まもなく日本の桜愛好家の会の会長になった。鷹司公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。当時、日本では伝統文化が近代化の波の中で失われつつあり、園芸界にも商業主義が蔓延し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していた。イングラムはその現実を見て、日本の大切な桜が危ないと危機感を抱き、桜を英国へ持ち帰って保存しようと決意した。京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に珍しい桜を探した。欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて、穂木を英国に送ってほしいと頼み込んだ。これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着した。イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出した。こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜 が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、桜の競演を繰り広げてきた。日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていった。イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなった。
第一章 桜と出会う/第二章 日本への「桜行脚」/第三章 「チェリー・イングラム」の誕生/第四章 「本家」日本の桜/第五章 イギリスで生き延びた桜/第六章 桜のもたらした奇跡/関連年表/参考文献
18.平成29年12月2日
”閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済 ”(2017年5月 集英社刊 水野 和夫著)は、資本主義の終焉によって経済成長の時代は終わりこれから生き残るのは閉じた帝国であるという。
グローバリゼーションを否定するかのような動きが、先進国の国民のなかで急速に広がっている。利潤をもたらしてくれるフロンティアを求めるために地球の隅々にまでグローバリゼーションを加速させていくと、地球が有限である以上、いつかは臨界点に到達し、膨張は収縮に反転する。経済成長を追求すると企業は巨大な損失を被り国家は秩序を失う時代になり、これまでの世界経済の常識が逆転している。これは、保護主義的な政策を打ち出している米トランプ大統領の登場や、欧州連合からイギリスが離脱を決めた動きにも如実に表れている。21世紀は大転換期であり、米英・欧州・中露・日本の経済はどう変わるのであろうか。水野和夫氏は、1953年生まれ、1977年早稲田大学政治経済学部卒業し、1980年早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了後、国際證券、三菱証券、三菱UFJ証券を経て、三菱UFJモルガン・スタンレー証券入社、金融市場調査部長、執行役員、理事・チーフエコノミストになった。2008年東洋英和女学院大学院非常勤講師、2009年埼玉大学大学院客員教授、2012年12月経済学博士(埼玉大学)、2013年日本大学国際関係学部教授を務めている。歴史、哲学、宗教、社会学、文学など、さまざまな分野の本に、歴史の危機を読み解く手がかりを求め、現代の長い21世紀が長い16世紀以来の大転換の時代であることに思い至ったという。長い16世紀に起きた最大の転換とは、古代・中世と続いた閉じた宇宙という世界観が、無限空間という世界観にとって代わられたことであった。ローマ帝国以来の陸の時代から、オランダ、イギリス、アメリカが覇権を継承していく海の時代への転換でもあった。そして、人類を救済するために蒐集が行われたのであるが、21世紀の現在、資本を蒐集すればするほど、能力差では説明ができないほどに格差が広がっている。その結果、アメリカで白人の自殺率が高まったり、ヨーロッパでテロが横行したりするなど、社会秩序が乱れてきている。もはやフロンティアがなくなった長い21世紀は、時代の歯車が逆回転している。つまり、世界史は再び、閉じてゆくプロセスに入ると同時に、陸の時代へと舵を切ろうとしている。事実、アメリカの衰退とともに、EU、中国、ロシアといったかつての陸の帝国が存在感を強めている。長い目で見れば、国民主権国家と資本主義からなる近代システムも完璧ではなく、近代システムを解体するときもいつかはやってくる。その先に展望されるポスト近代システムとして、閉じた帝国と定常経済圏のふたつがある。長い21世紀という混乱期を経て、世界は複数の閉じた帝が分立し、その帝国の中でいくつかの定常経済圏が成立する。この理想に近づくことができた帝国こそが、うまく生き延びていくのであろうという。閉じた帝国という中世回帰の動きは始まったばかりであり、建前上は主権国家システムが継続している。近代を維持・強化しようと考える勢力と、ポスト近代への移行を目指す動きとのせめぎあいが起きているのである。その機能不全が、歴史における危機となってあらわれているのが現在の状況である。歴史の危機を前半と後半に分ければ、前半は既存システムが優勢で、後半は新しいシステムを目指す勢いが徐々に増してくるというのが、これまでのパターンである。資源争奪のための戦争が起こる前に、各国が自国の生存にのみ興味を払う主権国家システムを捨て、閉じた帝国が定常経済を築き、帝国内の秩序に責任をもつようにしなくてはならない。その新しい時代に向けて先頭を走る国や地域は、どこであろうか。2008年から鈴木忠志氏が演出する演劇を富山県で毎年観続け、そこから大きな衝撃を受けたという。日本の国には灯がついているかい、と主人公の娘がたずねると、父は、どの国にだって灯なんかあるはずがないじゃないかと答える。娘に、アメリカはどうだろとたずねられ、父は、もちろん消えたよ、おまえ、今日はどうかしているぞと答える。そしてしばらくして外で騒ぎがあり、それを見に行った娘が、日本が、父ちゃん、日本が、お亡くなりにと報告する。初演された1991年という年は、生産力競争の破綻がソビエト連邦解体と日本のバブル崩壊で明らかになった年である。この中で、父が、日本にもアメリカにも灯なんかついていない、というのは、資本主義の終焉と結びつくように思ったそうである。これからも、アメリカとともに成長教の茶番劇を演じ続けるのか、ポスト近代システムの実験へと一歩を踏み出すのか。世界的ゼロ成長が完成しつつある今、日本は危機の本質に立ち戻って考えなくてはならない。
はじめに-「閉じていく」時代のために/第1章 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」/第2章 例外状況の日常化と近代の逆説/第3章 生き残るのは「閉じた帝国」/第4章 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化/第5章 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」/第6章 日本の決断―近代システムとゆっくり手を切るために/おわりに-茶番劇を終わらせろ
19.12月9日
”中村正義の世界 反抗と祈りの日本画”(2017年8月 集英社刊 大塚 信一著)は、病魔と闘いつつ日本画壇の閉鎖的な風土のなかで多数のユニークな業績を残した中村正義の生涯と作品を紹介している。
中村正義は1924年に愛知県豊橋市の蒟蒻工場を営んでいた家に生まれ、1931年に松葉小学校に入学した。卒業後、豊橋市立商業学校に入学したが、1940年に病気のため中退した。療養中に南画家の夏目太果に水墨画を学び、日本画家の畔柳栄子に膠彩画を学んだ。1942年に畔柳の先生だった杉山哲朗に師事した。1943年に父親が死去し1946年に母親が死去した。空襲で家を失った正義は、豊橋郊外に仮住まいをした後、松葉町の焼け跡に一間のバラックを建てて仮住まいから通って絵を描いた。1946年に上京して中村岳陵の蒼野社に学んだ。同年に第2回日展に”斜陽”が初入選し、翌年に第32回院展に初入選を果たした。その後、戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、日本画壇の風雲児と呼ばれた。大塚信一氏は1939年東京都生まれ、聖学院高校を経て、国際基督教大学教養学部卒業後、1963年に岩波書店へ入社した。思想編集部、岩波新書、現代選書、著作集など数々のシリーズ・講座・著作集を企画・編集した。1990年に編集担当取締役、1996年に代表専務取締役を経て、1997年から2003年まで代表取締役社長を歴任した。中村正義は子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできなかったが、22歳で日展に初入選したちまち頭角を現した。1950年に第6回日展に”谿泉”を出品し特選となった。1952年にも”女人”で特選を受賞した。その後肺結核療養のため、1957年まで制作を中断した。1960年に第3回新日展の審査員となるも、1961年に神奈川県川崎市細山に転居し日展を脱退した。以後、個展を開きながら活動し、1967年に直腸癌の手術を受けた。1970年に東京造形大学の日本画教師となり、1974年に人人会を結成し、第1回人人展を開催した。1975年に東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走し、第一回東京展を実現させた。1977年4月16日に肺癌のため享年52歳で死去した。速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その後、破天荒な画風に転じ、日本画壇から激しいバッシングを受けた。外の世界に仕事を求めた結果、映画用の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手がけた。スキャンダラスな舞妓、300を超えるグロテスクな顔、奇妙な仏画などを描いた。中村正義の作品には、自画像、風景画、舞妓、花、仏画、歴史に題材をとった絵、人物画、社会風刺画、顔の連作など多様なものがある。しかし、それらがどう関係しているのか、正義のなかでそれぞれどのような位置を占めているのか、もう一つはっきりしない。近年、正義の画業の本質を、閉鎖的で封建的な日本画画壇、あるいは政治や社会の動向、つまり時代に対する鋭い批判を前面に置いて捉えようとする考えがある。それはそのとおりであるが、正義の作品から強い批判精神を除いてしまっては、その本質はけっして捉えられないであろう。でも正義の作品を見ていると、どうしてもそれだけだとは思えなくなってくる。画壇のエリートだった男が、なぜそのような絵を描き続けたのであろうか。異端の画家の生涯を見直し、その作品を解読を試みることにする。中村正義の生涯について骨太なタッチで提えるとどうなるか。そこから正義の芸術家としての独自なあり方が浮んでくるかもしれない。なぜ正義は舞妓を描いたのか。そしてなぜあのような特異な舞妓像を生涯描き続けたのか。なぜ正義は多くの仏画と風景画を描いたのか。また生涯描き続けたのか。正義はなぜ多数の自画像を含めて顔の連作に取り組んだのか。顔にこだわった理由は何なのか。どうして自分か描いた顔の絵に、何回も何回も手を入れなければ、気がすまなかったのか。このような視点から、中村正義という近代日本が生んだ特異な画家の生き方と作品に迫ろうとしている。正義は1965年に、ルオーの作品の前に立って、少なからぬ心の動揺を禁じえないことを、しばしば経験すると書き始めている。ある時は、その激しさが、狂気の如く、ある時はそのお道化ぶりが、人を嘲笑するかの如く、圧倒的におおいかぶさってくる。そしてその激しさは、誠実に、厳しく、生きぬいた、人間の努力の、熱烈な、証でもあるかの如くと続けた。この正義の言葉は、そのまま正義自身について妥当すると思う、という。ルオーはキリスト教の信仰をもって、キリスト、道化、娼婦などを描いた。そして修正と加筆をくりかえした。それは神への祈りそのものの作業であったはずである。正義は舞妓像を、仏画を、山水画を祈りとして描いた。それは、自分の仏性に根拠を求めて祈り、描いたといえるのではないか。また、最後の最後まで顔を描き続けた正義と比する意味で、正義と同じく52歳で1993年に亡くなった女性画家ハンナ・ウィルケについて考えている。ウィルケは自らの肉体を素材に作品を制作したが、そこに祈りはない。正義は面話という手法で自分の内面を徹底的に探求しつつ、まるで化物のような顔を描き続けた。正義は舞妓という日本社会の歪んだあだ花を糾弾し、水俣などの公害問題、汚職事件を追及した。また、日本画壇の古い体質とその伝統的美意識の虚妄性に果敢に挑み続けた。その意味で、徹底した反抗心の持ち主だったといえるであろう。しかし、舞妓・仏画・山水画そして顔を描き続けているうちに、自らの死の自覚とあいまって、それは祈りへと変わってきたのであった。なお、主要作品116点がオールカラーで掲載されている。
プロローグ Kさんへの手紙/第1部 中村正義の生涯/第2部 中村正義の絵画、その秘密(なぜ舞妓を描き続けたのか;仏画と風景画の意味;顔の画家)/エピローグ Kさんへの第二信
20.12月16日
”ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド ”(2014年7月 春秋社刊 D.S.ブレイク著/細野容子監修/浅田 仁子翻訳)は、19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくったマザー・エイケンヘッドの生涯と功績を紹介している。
ホスピスは緩和医療のことで、治る見込みのない病気の患者の苦痛や死の恐怖を和らげ、尊厳を保ちながら最期を迎えるケアである。近代ホスピスの5人の母と称されるのは、マザー・メアリー・エイケンヘッド(1787-1858)、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)、シシリー・ソンダーズ(1918-2005)、キュプラー・ロス(1629-2004)、マザー・テレサ(1910-1997)である。このうちマザー・エイケンヘッドは、ホスピスケアの原点を創ったことで知られている。著者のジューナル・S・ブレイク氏は、アイルランド・コーク生まれ、コーク大学にて修士号、ハル大学にて博士号取得した。現在、ダブリンのマリノ・インスティテュート・オヴ・エデュケーションの学寮在住の、著述家・修道士=クリスチャン・ブラザーズである。監訳者の細野容子氏は京都府生まれ、住友病院、新生会第一病院などで臨床看護を経験し、広島国際大学をへて、岐阜大学医学部看護学科教授を務めている。訳者の浅田仁子氏は静岡県生まれ、お茶の水女子大学文教育学部文学科英文学英語学専攻卒業の翻訳家である。ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指していた。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。近代的ホスピスの源はアイルランドのメアリー・エイケンヘッドの働きに遡るが、ホスピス運動が普及するには1967年に創設された英国:聖クリストファーズ・ホスピスを待たねばならなかった。メアリー・エイケンヘッドは1787年にアイルランドのコークで生まれ、1858年にダブリンで71歳で亡くなった。当時のコークは人口8万人の港町で北玄関橋と南玄関橋の間には、旧市街の壁に囲まれた地域が広がり、住民の多くが密集して暮らしていた。メアリーの父親のディビッドはスコットランド出の医師で、薬局を運営する薬剤師でもあった。ディビッドはプロテスタントであったが、母親のメアリー・スタックポールはカトリックで商家の出であった。当時、宗派の違う者が結婚した場合、息子は父親の宗派を継ぎ、娘は母親の宗派を継ぐのが普通であった。しかし、エイケンヘッド夫妻の場合は、まだ若くて愛に夢中になっていた母親が、生まれる子供はみな父親の宗派で育てることに合意していた。子供は4人で、メアリーを筆頭に、ふたりの娘アンとマーガレット、息子セント・ジョンを授かった。息子は病気がちで、10代後半に亡くなった。メアリーは、1878年4月4日に、父親の教区教会のセント・アン教会、通称シャントン教会で英国国教会派聖公会の洗礼を受けた。メアリーは体が丈夫でなかったため、当時の医療通念に従い、イーソンズ丘に住んでいた乳母のメアリー・ローク夫人に養育してもらうことになった。イーソンズ丘はシャントン教会北の高台にあり、低地より健康に良いとされていた。また、若いエイケンヘッド夫人は、自分の子供たちがプロテスタントとして育てられることを気にかけて、敬虔なカトリック信者のローク夫人に娘を託したようにも思われる。ミー・ローク、つまりロークお母ちゃんと、その優しい夫のダディー・ジョン=ジョンお父ちゃんは、この後メアリーの教育に重要な役割を果たすことになった。ローク夫人は成長の段階に合わせて幼子の世話をし、メアリーは深い愛情を込め、夫人を第二の母として生涯敬慕した。夫人はカトリック教会の儀式に従い、秘かに幼いメアリーにカトリックの洗礼を受けさせたといわれている。エイケンヘッド医師と若い妻は週に一度やってきて、娘の健康の改善状況を調べ、維持費と衣類を渡していた。ローク夫人はメアリーを実の子のように世話をし、自立することを教えた。メアリーもときどきはグランド・パレードを訪ね、妹たちに会っていた。1793年にメアリーが6歳になったとき、エイケンヘッド医師はドーンツ・スクェアの家族のもとにメアリーを戻そうと決意した。メアリーは近くのプロテスタントの学校に通って、読み・書き・計算にフランス語、刺繍、音楽、ダンスのほか、社交上のたしなみなどを教わった。エイケンヘッド医師はフランス革命のスローガンである、自由、平等、博愛に大きな影響を受け、プロテスタント、カトリック、非国教徒の尊厳と雇用に対する公正な扱いに賛同していた。この運動の国民的指導者に対し軍の報復運動が発生したとき、その指導者をエイケンヘッド家にかくまったりした。エイケンヘッド医師には、信仰の問題や病弱な息子の健康問題で悩まされていた上に、1798年の暴動による政治的副産物に悪影響を受けるようになった。そこで、今までずっと働きつづけ充分な蓄えもできたので、診療所を売り引退して暮らそうと決意するに至った。その結果、一家は転居しなくてはならなくなり、1799年にコーク市南部のラトランド通りにある、以前よりはるかに大きくて広々とした家を購入した。このころ、エイケンヘッド夫人の姉妹の未亡人で、長く大陸で暮らし、夫の死後、ブルージュのあるカトリックの修道院に付設された賄いつきの寄宿舎に移り住み、修道女の生活を忠実に真似た信仰生活を送っていたレベッカ・ゴーマン夫人がアイルランドに帰ってきた。ゴーマン夫人は、12歳となった利発なメアリー・エイケンヘッドに多大な影響を与えることになった。メアリーは信仰について何度も長く話しこみ、借りたさまざまな本を熱心に読んだ。やがて、エイケンヘッド医師は1801年の年末に重体に陥り、所属する教会から牧師が来て共に祈ったが亡くなった。死に瀕して、自分からカトリックの司祭に会わせてほしいといい、妻の教派のカトリック教会に入った。父親の改宗と死は、メアリーがカトリック教会に入る道を開いた。それから何年もの後、メアリーは、貧しい人びとのひどい状態を思うと、心が震えてなりません、でも、みじめな金持ちのことを思うときのほうが、はるかにおぞましくなります、と書いている。メアリーは、心から神を信じ熱心に祈りを捧げた敬虔な女性であった。しかし、数多くの心配事や問題に対処しなくてはならなかった上に、病気や激痛にも苦しんだ。体の痛みは年齢と共に悪化していき、晩年はベッドから離れられないようになり、移動には車椅子が必要であった。メアリーには長年抱いていた夢があり、貧しい人びと、特に、貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開こうとした。こうして、1834年にダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院し、一病棟にシスターをふたり、医師をひとり置いた。この病院は、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院になった。この種はしっかり根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長しつづけている。
第1章 幼少期―里親に育てられたコークでの日々/第2章 慈愛の種―シャンドンの鐘の近くで/第3章 貧しい人びとの叫びを聞く/第4章 使命を明確に―「神さま、道をお示しください」/第5章 成長と拡大―駆け出しの修道会/第6章 新たな冒険と先駆けの日々/第7章 混乱期―成長の痛み/第8章 病床からのリーダーシップ―衰弱と苦悩の只中で/第9章 ハロルズ・クロス―「主よ、汝の与えたまいしときは尽きました」/参考資料
21.12月23日
”僕はこうして科学者になった”(2016年7月 文藝春秋社刊 益川 敏英著)は、宿題嫌い、英語嫌いがノーベル賞を受賞するまでの来し方行く末をユーモアあふれるエピソードでつづった自伝である。
中日新聞・東京新聞に掲載された連続コラムをまとめたものに、ノーベル賞受賞講演録を加えている。益川敏英氏は1940年名古屋市中川区生まれ、昭和区、西区で少年期を過ごし、向陽高等学校を経て名古屋大学理学部を卒業し、1967年に同大学大学院理学研究科博士課程修了、同大学理学部助手、1970年に京都大学理学部助手、1976年に東京大学原子核研究所助教授、1980年からから2003年まで京都大学基礎物理学研究所教授、理学部教授、大学院理学研究科教授、基礎物理学研究所教授、基礎物理学研究所所長を歴任した。2003年に京都産業大学理学部教授、2007年に名古屋大学特別招聘教授、2009年に京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学特別教授を務めた。第25回仁科記念賞(1979年度)、第1回J.J.サクライ賞(1985年)、第75回日本学士院賞(1985年度)、朝日賞(1994年度)、第48回中日文化賞(1995年度)、欧州物理学会2007年度高エネルギー・素粒子物理学賞を受賞し、2008年にはノーベル物理学賞を、南部陽一郎、小林誠と共同受賞した。また、2001年に文化功労者となり、2008年に文化勲章を受賞している。なぜ科学に興味を持ち研究者を目指したのか、どんないきさつでノーベル賞を受ける研究に収組んだのか、そしていまどんなことを考えているのかなどを綴っている。生家は戦前は家具製造業で、戦後は砂糖問屋を営んでいた。科学や技術の雑学に詳しかった父親の影響で、科学に興味を持った。しかし学校の勉強は大嫌いで、宿題など一回もやったことがなかった。次第に数学や理科は進んで勉強するようになったが、英語嫌いは今に至るも直っていない。英語の論文は書かないし、ノーベル賞受賞記念のスピーチも初めて日本語でやらせてもらった。高校の成績も悪かったが、新聞で名古屋大の物理学者・坂田昌一教授が発表した画期的な学説を知り、大学進学を決意した。父親との大ゲンカの末に進学を果たした。同級生との激論や、思わず吐いてしまう暴言の影響などものともせず研究に取り組み、ノーベル賞を受賞することになるテーマ”CP対称性の破れ”に出会った。学生時代から議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させた。その背景には、仁科芳雄から、武谷三男、坂田昌一に至る研究環境と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動があるようである。ノーベル物理学賞を受賞して生活がいろいろ変わったが、一番変わったと思うのは駅のホームの歩き方とのことである。それまでは勝手な場所を歩いていたけれど、賞をもらってからは線路から離れて必ずホームの中央を歩くようになった。なぜかというと、握手を求めて突然に手が飛び出てくるからである。考え事をしながら歩いているとき、目の前に急に何か出てきたら人間はびっくりして飛びのくものである。もしホームの縁を歩いていたら、レールの上に飛びのかないとも限らない。最近はだいぶなくなってきたけど、もうそういう癖がついたという。特に東京からの下りの新幹線は名占屋の人がたくさんいるので、よく声を掛けてもらい色紙を出されたこともある。とっさに思い付きで、”よく間違えられるんですが、私は双子の兄弟のデキの悪い弟の方なんです”と言うと、さっと色紙を引っ込めて立ち去ってしまったそうである。兄弟はなく、ちょっとした冗談のつもりだったが悪いことをしたとの付記がある。受賞の知らせのノーベル財団からの電話が高飛車で、腹が立ったという。それゆえ、大してうれしくない、バンザーイなんてやらないよと述べた。若いいころアインシュタインの相対性理論を勉強して不思議に思ったが、いまふたたびその謎にあこがれて同時ということの意味を考え続けているそうである。時間は実に不思議で、いつかあなたと払の時問が交差して、もしかしたらどこかの駅のホームに同時に存在することだってあるかもしれない。あとがきで、若い人には憧れとロマンを持ってほしいという。
握手/予感/カチン/泣いた/爆弾/砂糖問屋/砲台/銭湯の道/図書館通い/ばれた/英語嫌い/卒業文集/坂田教授/尾頭付き/決闘状/調べろ/ぶつけ合い/六〇年安保/暴言/浮気性/さん付け/坂田研究室/奇妙な現象/入試廃止/恋人は/式の真実/不採用/十年遅れ/組合活動/湯川先生/小林誠君/やろうか/だめだ/六種類だ/理解されず/目利き/お墨付き/仁科賞/空白の十年/親孝行/ばかやろう/博士論文/最後の一つ/最大の危機/予知能力/予言通り/突っ切れ/もてなし/どっちだ/消える本/ダーチャ/私と猫/ごちそう/入院/原発講義/原発の後始末/科学と戦争1/科学と戦争2/科学と国境/平和憲章/科学とスパイ/恩師の言葉/二百年後/井の中の蛙/ドンーキホーテ/棚上げ/英語は大事/まだ謎解き/CP対称性の破れが我々に語ったこと
22. 12月30日
”魯山人 美食の名言”(2017年9月 平凡社刊 山田 和著)は、晩年まで篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など様々な顔を持っていた魯山人について、素材選び、料理の秘訣、美食の周辺、美食にふさわしい器などを通して美食観を浮びあがらせようとしている。
北大路魯山人は1883年に京都市上賀茂北大路町で、上賀茂神社の社家・北大路清操、社家・西池家出身の登女の次男として生まれた。魯山人の本名は北大路房次郎で、家系は士族の家柄だった。魯山人は生涯を懸けて美食を追求し、料理も芸術である、天然の味に優る美味なし、もともと美味いものはどうしても材料による、食器は料理の着物である、良い料理を作ることは人生を明るくするなど、その本質をつく名言の数々を残した。山田 和氏は1946年富山県砺波市生まれ、1973年より福音館書店に勤務し、1993年に退社しノンフィクション作家となった。1996年に講談社ノンフィクション賞、2008年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかったという。魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は生まれる4ヶ月前に自殺し、母親は魯山人を大津市坂本の農家に預け失踪した。しかし、家では放置状態だったため、預けた1週間後に紹介した巡査の妻が再び連れて帰った。そして、出生から5ヶ月後に巡査の服部家の戸籍に入ったが、すでに服部巡査は行方不明で、秋には巡査の妻が病死した。そこで、この2人の養子の夫婦が、義理の弟である幼い魯山人の面倒を見ることになった。3歳のとき義兄に精神異常が出てその後死亡し、4、5歳のときに義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せた。幼い魯山人はこの家で義姉の母から激しい虐待を受け、2、3ヶ月後に見かねた近所の人の紹介で、竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人の養子となった。魯山人は、以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなった。福田家では、6歳の頃から炊事を買って出て、炊事の中で味覚と料理の基本を学んだ。10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ住み込みで出された。13歳の前に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが、家計的な問題もあり断念した。養父の木版の手伝いを始め、扁額や篆刻などの分野の基礎的な感覚を身に着けた。一字書の書道コンクールでは、天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚を受賞した。以後も応募を続けて次々と受賞し、14、5歳のとき、賞金で絵筆を買い我流の絵を描き、また、西洋看板描きとしても活躍した。20歳のとき母の所在を知り東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志した。21歳のとき、日本美術協会主催の美術展覧会に出品し、褒状一等二席を受賞し頭角を現した。その後住み込みで版下書きの仕事を始め、22歳のとき、町書家・岡本可亭の内弟子となり、その後3年間住み込んだ。やがて帝国生命保険会社に文書掛として出向し、24歳のとき、福田鴨亭を名乗って可亭の門から独立した。25歳のときに結婚し、夏に長男が誕生した。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込み、合間に畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。26歳のとき、母と共に朝鮮に旅立ち、母を京城の兄のところへ送り、3ヶ月ほど旅したあと、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活した。京城滞在1年弱で上海に向かい、当時、書家・画家・篆刻家として名高かった呉昌碩に会った。29歳の夏に帰国して書道教室を開き、半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここでは福田大観の号で、天井画、襖絵、篆刻など数々の傑作を残した。30歳のとき長男の兄が他界して、33歳のとき母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿と名乗った。北大路魯山人の号を使いはじめ、魯卿と数年併用した。その後も、長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活し、食器と美食に対する見識を深めた。また、内貴清兵衛とその別荘の松ヶ崎山荘で交流も深め、料理に目覚めていった。34歳のとき、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営した。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出した。38歳のとき、会員制食堂・美食倶楽部を発足させ、自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作した。42歳のとき、東京・永田町に星岡茶寮を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。44歳のとき、宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して、本格的な作陶活動を開始した。星岡茶寮は、昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごしたが、昭和21年に銀座に自作の直売店・火土火土美房=かどかどびぼうを開店し、在日欧米人からも好評を博した。昭和29年にロックフェラー財団の招聘で、欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問した。昭和30年に、織部焼の重要無形文化財保持者に指定されたが、これは辞退した。昭和34年に肝吸虫による肝硬変のため、横浜医科大学病院で死去した。日本料理を根本から変えたと言われる魯山人の料理の実力は、料理全般に関する幅広い知識や、鶴や蝦蟇や山椒魚まで調理した希有な食体験からだけではなく、鋭敏な味覚と大自然に対する理解、どんな妥協をも許さない本物志向、美術鑑賞眼、演出力、そして何よりも相手を感動させたいという一心から生まれたものである、という。そして重要なのは、魯山人の人生にとって食は美味以前に、幸福そのものでなくてはならなかったことである。幼いときにおさんどんを通じて味わい続けた幸福の記憶は、のちの魯山人を支配し、食の巨人・北大路魯山人の誕生に繋がっていった。
プロローグ 魯山人の人生観──断固として生きる
いろいろな生き方もあろうが
第一章 素材選びと料理の秘訣
もともと美味いものは、どうしても材料によるので/天然の味に優る美味なし/新鮮に勝る美味なし /真の美味はシュンにあり/昔の料理は至極簡単なものであった。(中略)(それで充分だったのは)材料がしっかりしたものであったからだ /吸い物、清し汁は一切濃口(?油)ではいけない/総じて魚の大きいのをよろこぶ人は、味覚の発達しない、味の上でのしろうとと言えよう/そもそも米の飯を、日本料理中、もっとも大切な料理のひとつだと心得ている者があるだろうか
第二章 美食の周辺
(私のように)裕福ならざる者が料理道楽をやり出しますと /(星岡茶寮の経営者として)我々が他と少し違うところは/お料理は即刻即用が大切であります/うまいものを食うと人間誰でも機嫌がよくなる/家にまだたくさんございますから、帰ったらお送りしましょう/米一粒でさえ用を完うしないで、捨て去ってしまうのはもったいない
第三章 美食にふさわしい器とは
食器は料理の着物である/私の作品は大抵、食物である限り、盛り方さえ上手であれば調和する自信があります/坐辺師友(中略)努めて身辺を古作の優れた雅品で満すべきである
23.平成30年1月6日
”列島縦断「幻の名城」を訪ねて ”(2017年4月 集英社刊 山名 美和子著)は、全国の城を旅して歴史の中で朽ち果て今は遺構だけを残すかつての名城の中から48の城を紹介している。
名城とは、すぐれた城、りっぱな城、名高い城である。日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請と、門や塀を造る作事からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれている。本書が扱うのは、何層もの天守閣がそびえる国宝の名城ではなく、見事な構造を備えながらも朽ちていき、今は遺構を残すのみの場所である。山名美和子氏は1944年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒業後、東京・埼玉の公立学校教員を経て作家になり、今日まで主に歴史ものを執筆している。古代から近世まで、長い歴史を歩んで残る城跡は4万とも5万ともいう。近ごろは城郭ファンの幅が広がり、建物跡もなく、石垣さえない戦国期の城跡にも関心が持たれるようになった。敗将に心を寄せ、ゆかりの城を訪ねる人もふえたという。天守や櫓のそびえる近世の城も、もちろん人気が高い。城址めぐりのタイムトラベルは、地図を片手の第一歩から始まる。道を折れ、ふいに石垣や土塁示姿をあらわすと、出合えたよろこびが込みあげる。まずは虎口と土塁があれば城は成り立つ。堀は、石垣は、土橋はと、過去への旅に夢中になる。城は命や財産を守ろうという目的をもって設けられた構造物だが、それだけではない。動乱をかいくぐった城跡には、たくさんの栄光や激闘のドラマが刻まれている。城址に残る質朴な美、あるいは豪壮なたたずまいに魅了されながらも、哀愁が込みあげてくる。武将たちの足音が響いた曲輪、勝どきをあげ、勝利の美酒に酔った館、無念を噛みしめて散った砦、女たちが愛しい人を想いたたずんだ望楼、寄せ来る敵に負けじと若武者が矢をつがえた城門などなど。城をめぐれば、生と死を懸けた人びとのいとなみが、熱く追ってくる。城は攻防の砦である。戦国動乱の時代、城を舞台に幾多の戦いがくりひろげられ、勝者と敗者を生み、次第に姿を変えていく。やがて数百年の歳月が過ぎ、たくさんのドラマを秘めたまま、草木に埋もれ、土に覆われ、開発の波にさらされ、城址は朽ち果てていった。しかし、たとえ戦の炎で焼き尽くされたとしても、城跡にたたずめば、そこに存在した城郭がありありと浮かびあがる。古城をたどって戦国武将や中世豪族の軌跡を追い、埋もれた秘話を探訪し、悠久の時の流れに刻まれた歴史の断片に迫っていきたい。城をイメージするとき、堀や石垣があり、御殿が莞を連ね、大守がそびえる、そんな姿を描くのがふつうである。しかし、中世から江戸時代までに築かれた城の多くは、いまはない。戦乱や災害で失われ、江戸初期の一国一城令では、全国で3000あった城が170に激減した。さらに、明治を迎え不要になった城は、廃城令によって破却され、あるいは売却されて姿を消し、吹き渡る風に石組や堀跡をさらすのみとなった。だが、建物はなくても、爛漫の杏、緑陰や紅葉、雪景色と、城址は季節によりさまざまな情景を映しだし、栄華を誇った威容を偲ばせる。苔むした石垣、草木に覆われた土塁の高まり、樹木に埋もれた堀跡、屹立するし岩の城門跡、これらに出合うと、まるで発見者になったような興奮を覚える。国宝や世界遺産の城、御殿や櫓がみごとに再興された城への旅もいい。だが、戦や風雨にさらされながらも遺構を残す城跡は、かぎりない夢想をかきたてる。いまは幻と潰えた城を、北は北海道から南は沖縄へと訪ね、そこに生き、戦い、生を終えた人びとの息吹きを探して歩いた。遺構の数々は、生と死を懸けた戦国の英知や勇気、そして悲哀さえも多弁に語りかけ、現代に生きる者を魅了し、圧倒し、やがて郷愁に誘いこむ。今日見られる天守の最初のものは、織田信長が建造した安土城の天守といわれている。最初に、2年で幻となった天下人・信長の巨大城址の安土城を紹介している。この城は炎上のあと長い眠りについた城跡であり、かつては信長がこの豪華華麗な天守に起居した。続く名城として、琵琶湖の汀に残る明智の夢の跡の近江・坂本城を紹介している。以下、ほかの46の名城が紹介されている。
「幻の名城」地図
第一章 これぞ幻の名城i石垣と土塁が語る戦いと栄華の址
[西目本編]安土城/近江 坂本城/小谷城/一乗谷館/信貴山城/大和郡山城/竹田城
[東日本編]春日山城/躑躅ヶ崎館/新府城/興国寺城/石垣山城/小田原城/金山城/箕輪城/高遠城/九戸城
第二章 大東京で探す「幻の名城」
江戸城/武蔵国から東京への大変貌のなかで/平塚城(豊島城)/石神井城/練馬城/渋谷城と金王八幡宮/世田谷城と豪徳寺/奥沢城と九品仏浄真寺/深大寺城と深大寺/滝山城/八王子城
第三章 櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ
金沢城/上田城/福岡城/津和野城/女城主 井伊直虎ゆかりの城/井伊谷城/松岡城
第四章 再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ
五稜郭/会津若松城/松前城/伏見城/忍城
第五章 古城の風格をいまに伝える名城
弘前城/丸岡城/備中松山城
第六章 北の砦チャシ、南の城グスクの歴史
アイヌにとっての砦チャシ/シベチャリチャシ/ヲンネモトチャシ/首里城/今帰仁城/中城城/座喜味城/勝連城
巻末資料 日本の「城」とは何か
24.1月13日
”日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE ”(2017年2月 講談社刊 加茂 佳彦著)は、日本以上に進んだ社会を築いたアラブ首長国連邦=UAEは夢とおカネが湧き出る国だったという。
領域はかつて、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えた。その後、ペルシアの支配、イスラム帝国の支配、オスマン帝国の支配を受けた。16世紀にはポルトガルが来航し、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配した。現在のUAEの首都はアブダビで、東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接している。商圏として中東・アフリカという将来性豊かな広大な後背地を擁し、欧米のビジネスマンはイスラム世界、アフリカ大陸へのアウトリーチの準備に余念がない。GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。UAEは石油の国であるが世界一が目白押しである。世界一高いビル、世界一大きいモール、世界一長い自動制御都市鉄道、世界一高い懸賞金の競馬レースなどである。海外就労地として米国人に最も人気の国で、外国人居住者の比率が最も高く、世界最大級を誇る政府系投資ファンドがある。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブであり、中東一円へのゲートウェーでもある。加茂佳彦氏は1952年生まれ、東京大学工学部卒業後外務省に入省し、さらにアマースト大学を卒業した。その後、内外で勤務し、在ヒューストン総領事、在ホノルル総領事、在アラブ首長国連邦特命全権大使を歴任した。2015年に外務省を退官し、国立研究開発法人海洋研究開発機構国際審議役、2016年に同志社大学グローバル・コミュニケーション学部、同志社女子大学大学院国際社会システム研究科で非常勤講師を務めている。アラブ首長国連邦は、アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家である。首長国とは、アブダビの旗のアブダビ首長国、ドバイの旗のドバイ首長国、シャールジャの旗のシャールジャ首長国、アジュマーンの旗のアジュマーン首長国、ウンム・アル=カイワインの旗のウンム・アル=カイワイン首長国、フジャイラの旗のフジャイラ首長国、ラアス・アル=ハイマの旗のラアス・アル=ハイマ首長国である。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。しかし、筆者は、2012年から2015年までの様々な体験は、今までの中東のイメージをまったく塗りかえるような新鮮なものであった。中東といえば、紛争続きの不穏な政情に揺れ、テロ事件が各地で頻発し、難民が流出する地城でしかないと刷り込まれてきた。このイメージ自体は一概に的外れだと言えないが、日本人の常識に囚われていては見えてこないもう一つの中東の顔がある。ここがあの中東の国かと疑いたくなるほど超近代的都市が築かれ、治安も良く緑もあって世界中の商品が手に入る。さらに、世界中からやってきた外国人があたかも自分の国に居るかの如く社会の隅々にまで進出し、皆で協力し合ってUAEという国を動かしている。世界最先端のグローバル社会が息づいていて、仕事を求める外国人だけではなく、ビジネスチャンスを探して世界中の企業がUAEに注目している。ドバイ、アブダビはアフリカ情報がどこよりも多く、早く出回る情報ハブであることと関係している。これは、両都市がアフリカヘの航空ハブであることの帰結である。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブでもある。UAEに軸足をおいて、今後躍進が期待されるアラブ世界、イスラム世界、アフリカ大陸にアウトリーチすることも大いに有望である。戦乱に明け暮れ停滞に沈む不幸な地域の一角に、UAEのようにまったく違う中東もあることを承知してもらいたい。現在世界の人々は、このまったく違う中東に大きな関心を寄せ、積極的に関与して、そこから最大の利得を引き出そうとしている。この常識破りの国UAEが全世界に提供している様々な好機や便益を、ひとり日本人だけが知らないままでいいわけはない。我が国におけるUAEについての情報不足は相当深刻であり、特に一般読者向けの啓蒙書がほとんど見当たらない。外国との関係強化の第一歩は相手のことをよく知ることである。UAEには我々が注目すべき中身があるのに、情報不足のため日本での関心も十分に掘り起こされているとは言い難い。UAEについてもっと多くの人に知ってもらいたいとの思いに突き動かされ、また、自分が書かなければ誰が書くのかと自らを奮いたたせて本書を執筆したという。紛争や政治不安が続く中東にあって、政治的安定を保ち、経済的繁栄を続けるUAEは異彩を放っており、今や世界を代表するグローバル国家となり、人類の未来の可能性を感じるほどである。ただし、民主制をとっていないことや、若者のモラールの阻喪、居住者間の貧富の格差などは国の統治や社会の在り方に根差した容易ならざる問題であり、本書でも適宜触れていく。克服すべき問題はあるにせよ、また石油の富に恵まれた幸運はあるにせよ、UAEはやはり刮目すべき国であり、実際に体験したUAEの魅力と強さを、ひとつひとつ明らかにしていきたい。
第一章 これだけは知っておきたいUAE/第二章 伝統と超近代が融合するUA/第三章 UAEの面白さがわかるレア体験/第四章 海賊が支配したこともあった歴史/第五章 中東・アラブ情勢の中で/第六章 UAEの繁栄は盤石か/第七章 実は深い日本との縁/第八章 グローバル社会UAEで働く/巻末付録 こだわりのUAE特選ガイド
25.1月20日
”世界の地下鉄駅 ”(2017年11月 青幻舎刊 アフロ(写真)・水野久美(テキスト)著)は、インパクトあふれる魅力的な国内外の地下鉄駅を華麗な写真を中心に厳選して紹介している。
世界中の都市に張り巡らされている地下鉄は、華麗かつ幻想的に空間が彩られている。いくつかの地下鉄は、まるでアートギャラリーかと思うほど美しくインパクトがある。本書は、世界の36箇所の地下鉄駅の斬新で華麗なアーティスティックな空間をきれいな写真と簡潔なテキストで紹介している。テキストを担当した水野久美氏は、愛知県犬山市生まれ、大学卒業後、編集プロダクションに所属した。そして、旅行ガイドブックやグルメ情報誌などの制作に携わり、2004年4月に独立した。現在、フリーライターで、カルチャースクールの世界遺産講座講師を務める他、日本文化チャンネル桜の番組のキャスターを務めている。著書には、”いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城””世界の廃船と廃墟””世界の国鳥”などがある。写真を担当したアフロは、株式会社アフロ /Aflo Co.,Ltdで、 東京都中央区築地に本社のある、資本金4,000万円、創業1980年、創立1982年11月、従業員数139名(2016年1月現在)の会社である。地下鉄の歴史は19世紀のイギリスのロンドンから始まった。1863年1月10日にメトロポリタン鉄道のパディントン駅からファリンドン駅の間、約6kmが開通した。当時のイギリスは鉄道の建設が盛んであったが、ロンドン市内は建物が密集しており地上に鉄道を建設できなかったためである。この路線を計画したのはロンドンの法務官であるチャールズ・ピアソンで、1834年に開通したテムズトンネルをヒントにしたとされる。車両は開業当初から1905年に電化されるまでは蒸気機関車を使用していた。硫黄を含む煙が発生するため、駅構内は密閉された地下空間ではなく換気性を確保した吹き抜け構造となっていたほか、路線の一部も掘割であった。イギリスでの開業後はしばらく間があき、30年近くたった19世紀末~20世紀初頭に欧米の各地で建設されていった。1875年にトルコのイスタンブールで地下ケーブルカーが開業した。1896年にハンガリーのブダペストでも本格的地下鉄が開業した。ブダペスト地下鉄は当初から電化されており、これは地下鉄としては世界で最初の電化路線であった。さらに1898年にはアメリカ合衆国のボストン、そして1900年にはフランスのパリにおいて開通した。ドイツのベルリンでも1880年頃には地下鉄を通す計画が存在したものの反対勢力によって計画が遅れ、開通は1902年であった。第一次世界大戦が開戦するまでには西ヨーロッパや北アメリカの大都市に、第一次世界大戦中から20世紀半ば頃まではヨーロッパ各地の中都市や日本を中心に建設が行なわれていたが、1970年代以降はアジアなどの発展途上国での建設が盛んになった。地下鉄は今や都市交通の基軸という機能美だけでなく、狭い、暗い、怖いといった圧迫感を払拭するユニークなパブリックアートが多数取り入れられている。たとえば、剥ぎ出しの岩盤が迫るストックホルムのソルナ・セントラル駅には、約lkmにわたり炎のように燃える赤い空とスプルースの本の森が描かれている。産業汚染で脅かされていた北欧のヘラジカや、清流で釣りをする親子など、迫りくる当時の危機と葛藤が表現されている。一方で、ストックホルム中央駅であるT-セントラーレン駅は、地下鉄全3路線が交わり混雑するブルーラインのフラットホームがあり、乗客の精神か落ち着くようにブルーが採用されている。さらに、クングストラッドゴーダン駅もストックホルムにあるが、駅名の由来でもある隣接の王立公園の歴史を示す独創的なアートが特徴である。このように、それぞれの駅には異なったアートがあり、アートに込められた背景を知ればその国や地域の特性が見えてくる。アートギャラリーをめぐるように心華やぐ幻想的な地下空間の魅力を楽しんでいただきたいという。
1.ヨーロッパ
ソルナ・セントラム駅(スウェーデン/ストックホルム)T‐セントラーレン駅(スウェーデン/ストックホルム)、クングストラッドゴーダン駅(スウェーデン/ストックホルム)、アール・ゼ・メティエ駅(フランス/パリ)、ヴェストフリートホフ駅(ドイツ/ミュンヘン)、ハーフェンシティ大学駅(ドイツ/ハンブルグ)、ハイデルベルガー・プラッツ駅(ドイツ/ベルリン)、聖ゲッレールト広場駅(ハンガリー/ブタペスト)、カナリー・ワーフ駅(イギリス/ロンドン)、ベイカー・ストリート駅(イギリス/ロンドン)、サザーク駅(イギリス/ロンドン)、ダンテ駅(イタリア/ナポリ)、トレド駅(イタリア/ナポリ)、オライアス駅(ポルトガル/リスボン)、パコ・デ・ルシア駅(スペイン/マドリード)、コムソモーリスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、スラブ大通り駅(ロシア/モスクワ)、マヤコフスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、ルミャンツェヴォ駅(ロシア/モスクワ)、ゾロティボロタ駅(ウクライナ/キエフ)
2.北・中央・南アメリカ
34丁目‐ハドソン・ヤード駅(アメリカ/ニューヨーク)、81丁目自然史博物館駅(アメリカ/ニューヨーク)、デュポンサークル駅(アメリカ/ワシントンD.C.)、ハリウッド/ハイランド駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ハリウッド/バイン駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ミュージアム駅(カナダ/トロント)、コピルコ駅(メキシコ/メキシコシティ)、カルデアル・アルコベルデ駅(ブラジル/リオデジャネイロ)
3.アジア
バールジュマン駅(アラブ首長国連邦/ドバイ)、アストラムライン新白島駅(日本/広島)、美麗島駅(台湾/高雄)、復興駅(北朝鮮/平壌)、北土城駅(中国/北京)、雍和宮駅(中国/北京)、国博中心駅(中国/重慶)、烈士墓駅(中国/重慶)
26.1月27日
”新大陸が生んだ食物 ”(2015年4月 中央公論新社刊 高野 潤著)は、いまの日々の献立に欠かせなくなったいろいろな中南米原産の食物をカラー写真と文章でたどっている。
私たちが日常的に目にする食材の多くや、世界各国の代表的な料理に使われている有名な食材も、大航海時代以降にようやく世界中に広まったものである。たとえば、サツマイモは中央アメリカ、南メキシコ、ジャガイモは南米のペルー南部チチカカ湖周辺、トウガラシはメキシコ、ズッキーニは中米、ピーマンは熱帯アメリカ、カボチャは南北アメリカ、トマトは中南米のアンデスの高原地帯、インゲン豆は中央米、ピーナッツは南米、ヒマワリは北米が原産である。高野 潤氏は1947年新潟県生まれで、写真学校卒業後、1973年からペルーやボリビア、アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、チリなどを歩き、アンデスやアマゾン地方の自然 、人間、遺跡などを撮り続けている。山野を歩きつづける生活を通して、中南米原産植物の数の多さを知ったという。高度差数千メートルを持つアンデス山脈の地形や気候気温の変化が、それぞれの地で植物を育み、原産種の宝庫といっていいほどの豊かさを生んできたに違いない。15世紀末から16世紀にかけてのコロンブスの新大陸到達や、スペイン人によってマヤ、アステカ、インカなどの文明か征服されてから、それらの中南米原産植物かヨーロッパへ伝わり、やがて、アフリカ、アジア、そして日本へと伝播した。中南米原産種の味覚はその発祥地や経由地を含めて、多くの人たちが何千年も受けついで育てつづけてきた努力の結実といっていいだろう。アンデスやアマゾンを歩きながら、植物の存在か不思議に思えてしかたかなかった。陸地上の大小無数の動物たちのほとんどか棲息していられるのも、植物が用意してくれる環境があるからこそといってもいいだろう。そうした環境への動物たちの依存は、そのまま、そこで食べ物が得られるという依存に重なっているところか多い。人間を含めて、すべての生を応援している植物が、密接に人の生活に結びついてきた例もある。一つが日本の稲、一つがアマゾンのヤシ、もう一つがチチカカ湖内にあるウル族の浮島一帯に密生しているトトラである。米は昔から日本人の食の中心を支えつづけてきただけではなく、神事に供えられ、日本の酒文化を育てた日本酒を生んだ。稲はしめ縄に使われるほかに、縄、藁ぶき屋根、藁靴、草履、草鮭、雨具、畳の台、俵、燃料、家畜の飼料、畑の肥料など、たくさんの用途に使われてきた。ヤシは、もしヤシかなかったら先住民が果たして生活してこられただろうかと疑問に思ったほど、昔から生活の基本に関わってきた。固い樹皮は床、壁という建材に、吹き矢の筒、弓とその矢に取りつける鏃、投げ槍などの狩猟具に使われてきた。葉は屋根、壁、寵材などに用いられ、葉の骨のような芯部は吹き矢、新芽は繊維になって袋やハンモックなどに利用されてきた。食の面では多くの果実か果物として食べられたり、なかには酒に加工されたり油か採取されたりするものもある。また、新芽が生野菜として食べられる種類もある。トトラはウル族たちの住の根底ともなる居住地を確保するために敷きつめられ、住居は屋根や壁を含めてまるごと、そのなかに敷く寝床にも利用されてきた。ほかに、大小の小舟や魚獲りのための簾状の網などをつくっていた。また、近くの密生地に好んで棲む水鳥の卵や親鳥を採取狩猟し、茎の根本部分を生食用にしたり花部分を胃腸薬に用いたりしてきた。この三つは、生きる、活かされるというところで、人間と植物か同盟しあったような関係にあるが、これら以外にも日本の稲と類似しているものとして、アンデスのトウモロコシかある。薪の入手が難しい高地では、茎や穂軸を燃料としていた。牛馬か飼われるようになってからは、収穫後の茎を飼料に使ってきた。似た多面性は見られないものの、ジャガイモはアンデス高地で生きる人たちの生活の基本となる輪のなかに組みこまれていた。アルパカやリャマの糞が、燃料以外にも肥料としてジャガイモの成長と結びつき、家畜に優れた獣毛を育ませている寒冷気候が、ジャガイモの保存食づくりに結びついていた。このように高地ではジャガイモ、アルパカやリャマ、寒冷気候か、ここだけにしか生まれないというセットの形で連鎖しているのである。何千年も前からつづけてきた人間の努力の積み重ねにも驚かされるが、その期待に応えて、人間がもっとも必要とする食べ物を産んでくれた栽培植物の偉大さにも驚かされる。地球上に多くの人たちが生きてこられたのも、大昔に自分たちを見つけてくれた人間の側に寄り添って、芽を出して実ることを怠らなかったそれらの植物かあったからこそということにもなる。そうした作物や果実類のなかに中南米の原産種か含まれているのである。本書では、世界へと広まったもののなかから、日本人の生活に浸透したもの、あるいは浸透しつつあるものを、原産地の地形環境や気候、食利用などを含めて紹介している。
第1章 作物や果実との出会い
驚きだったジャガイモ食/自炊生活とともに知った現地の作物や料理/温暖な山間のトウモロコシ生産地/豊富な作物が実るバージェ地方/アマゾン域と海岸地帯
第2章 トウモロコシ
栽培地の広がり方/時代とともに変化した川の流域とアンデネス栽培/寒冷気候対策のパンキイ栽培/文明の要所とトウモロコシ栽培地/昔のトウモロコシ食/インカ時代から飲まれていた濁り酒チッチャ/食材としてのトウモロコシ
第3章 ジャガイモ
祖としての野生種/ワルワルやコチャ方式によるジャガイモ栽培/アンデス世界を変えたチューニョやモラヤ/ジャガイモ農地の今昔/自然が与えた困難と試練/古典種系ジャガイモと出会う/地中の芸術品を試食する/保存食用品種のクシ、ワニャ、ルキ/ジャガイモ利用の料理
第4章トウガラシ
アンデス側を代表するロコトの栽培地/南北に広がるロコト/「水棲亀の子亀」というトウガラシ/代表的な激辛トウガラシ/料理とトウガラシ利用/ロコトが支える食文化/幅広いトウガラシソースの素材
第5章 豊富な原産作物と果実類 `
奇跡の植物キヌア/サツマイモやカボチヤ、マカやヤコン/色も形も違うさまざまなアボカド/パパイヤとパイナップル/チョコレートの原料カカオ/カシューナッツとブラジルナッツ
おわりに 人と結びついてきた植物の不思議
27.平成30年2月3日
”ぶらりあるき北海道の博物館 ”(2017年11月 芙蓉書房出版社刊 中村 浩著)は、2005年から始まったぶらりあるきシリーズの18冊目で自ら北海道の博物館を145か所も訪問して感じたままをまとめた記録である。
2005年のパリに始まりヨーロッパ編5冊を終えたあと、2012年から東南アジア編の刊行を開始し、2016年のチェンマイ・アユタヤでシリーズそのものを終了させようと思っていたという。しかし、日本については奄美・沖縄しかなかったため、せめて北海道はやっておきたいと以前から考えていたそうである。中村 浩氏は1947年大阪府生まれ、1969年立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒業、大阪府教育委員会文化財保護課勤務を経て、大谷女子大学文学部専任講師、助教授、教授となり現在、名誉教授で、高野山真言宗龍泉寺住職を務めている。文学博士で、専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学、日本仏教史である。大学退職後で時間の余裕ができ北海道に飛んだとのこと、でも実際に行ってみると、北海道はあまりにも広く博物館施設が点在していて交通機関が不便なことなどから、当初の目算通りにはいきそうにないことがわかった。また、取材完了まで何年もかけると、閉館・休館など、博物館の状況が変わってしまうという新たな問題も生じたという。北海道は四季の自然をはじめ、数多くの歴史遺産を
残す極めて魅力に富んだ地域である。博物館施設も、総合博物館、歴史博物館、美術館、科学博物館、動物園、植物園、水族館、産業博物館など多種多様な施設が設置されている。日本の博物館の総数は1256館あり、最も多い東京都の95館、次に長野県の85館、そして北海道が65館を数える。博物館類似施設は全国で4430館あり、北海道は272館で、長野県の277館に次ぐ設置数となっている。北海道の博物館は設置数が多いだけでなく、その種類や内容も多種多様なものがある。本書は、博物館の展示の特徴がわかるように分類して編集してある。
総合博物館・地域の博物館 北海道博物館〔札幌市〕/札幌市時計台/小樽市総合博物館運河館/余市町歴史民俗資料館/苫小牧市美術博物館/市立函館博物館/市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)/旧函館博物館一号・二号/箱館奉行所復元建物/五稜郭タワー「五稜郭歴史回廊」〔函館市〕/登別市郷土資料館/仙台藩白老元陣屋跡〔白老町〕/沙流川歴史館〔平取町〕/旭川市博物館/網走市立郷土博物館/知床博物館〔斜里町〕/羅臼町郷土資料館/標津町ポー川史跡自然公園/標津町歴史民俗資料館/中標津町郷土館/同緑ヶ丘分館/米町ふるさと館〔釧路市〕/釧路市立博物館/ふるさと歴史館ねんりん〔芽室町〕
北海道開拓に関する博物館 北海道開拓の村〔札幌市〕/旭川兵村記念館/鳥取百年記念館〔釧路市〕/帯広百年記念館
アイヌ・北方民族に関する博物館 サッポロピリカコタン(アイヌ文化交流センター)/北方民族資料室〔札幌市〕/函館市北方民族資料館/アイヌ民族博物館〔白老町〕/アイヌ生活資料館〔登別市〕/知里幸恵銀のしずく記念館〔登別市〕/二風谷アイヌ文化博物館〔平取町〕/萱野茂 二風谷アイヌ資料館〔平取町〕/二風谷工芸館〔平取町〕/川村カ子トアイヌ記念館〔旭川市〕/アイヌ文化の森伝承のコタン資料館〔鷹栖町〕/アイヌ文化情報コーナー「ル・シロシ」〔旭川市〕/道立北方民族博物館〔網走市〕/阿寒湖アイヌコタン・阿寒湖アイヌ生活館〔釧路市〕
政治・行政・軍事に関する博物館 札幌市資料館/知事公館〔札幌市〕/赤れんが庁舎〔札幌市〕/樺太関係資料館〔札幌市〕/赤れんが北方領土館〔札幌市〕/北鎮記念館〔旭川市〕/博物館網走監獄/姉妹町友好都市交流記念館〔斜里町〕/北方領土館〔標津町〕/十勝川資料館〔池田町〕
考古学に関する博物館 手宮洞窟保存館〔小樽市〕/フゴッペ洞窟〔余市町〕/モヨロ貝塚館〔網走市〕/釧路市埋蔵文化財調査センター/史跡北斗遺跡展示館〔釧路市〕
産業博物館・企業博物館 サッポロビール博物館〔札幌市〕/雪印メグミルク酪農と乳の歴史館〔札幌市〕/千歳鶴・酒ミュージアム〔札幌市〕/ニッカウィスキー余市蒸溜所〔余市町〕/ウィスキー博物館〔余市町〕/男山酒造り資料館〔旭川市〕/池田ワイン城〔池田町〕/ビート資料館〔帯広市〕
水産業・林業に関する博物館 小樽市鰊御殿/よいち水産博物館〔余市町〕/旧下ヨイチ運上家〔余市町〕/旧余市福原漁場〔余市町〕/函館市北洋資料館/マリンポトス・くしろ〔釧路市〕/木と暮らしの情報館〔旭川市〕/りんさんし博物館〔旭川市〕/クラフト舘〔旭川市〕
交通・運輸・科学に関する博物館 小樽市総合博物館(本館)/函館市青函連絡船記念館摩周丸/函館空港ギャラリー/エアーポート・ヒストリー・ミュージアム〔千歳市〕/大空ミュージアム〔千歳市〕/炭鉱と鉄道館〔釧路市〕/鉄道記念館・愛国駅〔帯広市〕/札幌市立青少年科学館/余市宇宙記念館(スペース童夢)/旭川市科学館サイパル/オホーツク流氷館〔網走市〕
動物園/動物に関する博物館 札幌市円山動物園/ヒグマ博物館〔登別市〕/旭山動物園〔旭川市〕/釧路市動物園/おびひろ動物園/阿寒国際ツルセンター(クルス)〔釧路市〕/神馬事記念館〔釧路市〕/馬の資料館〔帯広市〕
水族館/魚に関する博物館 サンピアザ水族館〔札幌市〕/札幌市豊平川さけ科学館/おたる水族館/千歳水族館/登別マリンパーク ニクス/標津サーモン科学館
植物園 北海道大学植物園〔札幌市〕/札幌市北方自然教育園/函館市熱帯植物園/北邦野草園〔鷹栖町〕/帯広野草園
教育・スポーツ・娯楽・宗教に関する博物館 コロポックル(木路歩来)館〔旭川市〕/釧路市立こども遊学館/札幌ウィンタースポーツミュージアム/さっぽろ雪まつり資料館/天使の聖トラピスチヌ修道院 〔函館市〕
人物を顕彰した博物館・記念館 函館市文学館/三浦綾子記念文学館〔旭川市〕/井上靖記念館〔旭川市〕/箱館高田屋嘉兵衛資料館/港文館〔釧路市〕/土方歳三函館記念館/石川啄木函館記念館/北海道坂本龍馬記念館〔函館市〕/西川徹郎文学館〔旭川市〕/バチェラー記念館〔札幌市〕/宮部金吾記念館〔札幌市〕/植村直己記念館〔帯広市〕/北島三郎記念館〔函館市〕/大乃国記念室〔芽室町〕
大学博物館 北海道大学総合博物館〔札幌市〕/北海道大学農学部博物館〔札幌市〕
美術館 北海道立近代美術館〔札幌市〕/三岸好太郎美術館〔札幌市〕/本郷新記念札幌彫刻美術館/北海道立旭川美術館/旭川ステーションギャラリー/雪の美術館〔旭川市〕/西美の杜美術館〔美瑛町〕/釧路湿原美術館〔釧路市〕/道立帯広美術館
世界遺産・自然公園のガイダンス施設 知床世界遺産センター〔斜里町〕/知床自然センター〔斜里町〕/知床森林生態系保全センター〔斜里町〕/ルサフィールドハウス〔羅臼町〕/羅臼ビジターセンター/春採湖ネイチャーセンター〔釧路市〕/釧路湿原ビジターラウンジ展示室〔釧路市〕/阿寒湖畔エコミュージアムセンター〔釧路市〕
28.2月10日
”常識が変わる スペシャルティコーヒー入門 ”(2016年12月 青春出版社刊 伊藤 亮太著)は、堀口珈琲の代表者によるおいしいコーヒーを求めている人への道案内の書である。
株式会社堀口珈琲の創業者は代表取締役会長の堀口俊英氏で、1990年に東京・世田谷で創業した。1996年に現在の世田谷店の場所に移転し、法人化して有限会社となった。1999年に喫茶店・レストラン向けの業務用コーヒー需要の増加に対応するため、狛江店を開店した。2001年にカフェやビーンズショップの新規開業の支援を本格化し、2002年に堀口珈琲研究所を設立した。2004年に株式会社化し、狛江店を現在の場所に移転した。2008年に上原店を開店し、産地への積極的な開拓を通し生豆の調達の充実を図った。伊藤亮太氏は2013年から代表取締役社長を務め、コーヒー豆の小売・通販、コーヒー豆の卸売、生豆の卸売、喫茶店の運営、コーヒー学習講座の実施、開業支援等のコンサルティングなどを行っている。1968年千葉県銚子市生まれ、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業で、卒業後、宇宙開発事業団に10年間勤務した。1997年からの3年間の米国駐在時にコーヒーの可能性に目覚め、2002年にコーヒー業界に転身した。2003年に有限会社珈琲工房ホリグチに入社した。入社以来一貫して海外のコーヒー関係者との連絡調整を担当し、コーヒー産地へも頻繁に足を運んだ。コーヒー業界では、スペシャルティ、サスティナブル、サードウェーブなど、新しい言葉が次々出ている。スペシャルティコーヒーは、特別な素晴らしい風味特性を持つコーヒーのことである。サステイナブルコーヒーは、スペシャルティコーヒーの中でもさらに持続可能な営農によって栽培されたコーヒーである。スペシャルティコーヒーという言葉は、1974年にアーナ・ヌーツェン氏が業界紙のインタービューで、自分の販売するインドネシアやエチオピア、イエメンの豆を指して使ったのが最初である。そして、1978年に、特別な地理条件や微小な地域の気候がユニークな風味を持つコーヒー豆を生み出すと、一歩進んだ見解を示した。サードウェーブコーヒーは、一般に、ファーストウェーブ、セカンドウェーブの次の段階をさしていとされている。ファーストウェーブはコーヒーを大量に販売しようとするコーヒー業者たちを指し、消費を飛躍的に増大させることか使命であった。セカンドウェーブは職人気質を意味し、コーヒーの仕事を始めた時期が1960年代後半であろうと1990年代半ばであろうと、原料の産地や焙煎に関心をもつなど共通の傾向があった。しかしスターバックスなど一部は大企業化し、コーヒーの自動化と均質化へと向かってしまった。サードウェーブは、コーヒーを自動化・均質化しようとした一部のセカンドウェーブに対する反動である。2003年にトリシュ・ロスギブ氏が、アメリカのロースターズギルドの会報で使ったのが最初である。ロスギブ氏は当時滞在していたノルウェーでの経験をもとに、そこで知り合った小規模なコーヒー業者のことを念頭にサードウェーブという言葉を使った。それはコーヒー業界にいる人やその考え方、行動のあリ方であって、決して時代区分やブームのことではなかったという。サードウェーブという言葉は第三の波ということではなく、日本では曲解されている。19世紀前半までにアメリカの家庭にはコーヒーが普及していたし、19世紀後半になっても生のコーヒー豆を買って自宅で焙煎するのが一般的だった。1960年代~70年代にも、深煎り浅煎りを問わず、各地で高品質なコーヒーを取り扱っていた人々が存在していた。また、セカンドウェーブでは、本来の小規模で職人気質を貫いた人たちまでもが大規模なコーヒーチェーンとともにシアトル系といっしよくたにされてしまった。伊藤氏は、サードウェーブという言葉を定義することができず、するつもりもないという。しかし、言葉がこれだけ普及したのは、単に言葉のインパクトが強かったからではなく、はじめに何らかの同時代的な現象を多くの人が認識したからである。実際、小規模なコーヒー業者とは遠く離れた立場にいる人たちでさえ、サードウェーブという言葉を用いるようになっている。サードウェーブの例が端的に示すように、外国から来た考え方を無批判に受け入れてしまったり、歪めて広めてしまったりする傾向が、最近の日本のコーヒー業界には強いように思われる。こうした中にあって、コーヒーを買う側はもちろん、売る側にもコーヒーに関する情報を読み解くリテラシーが求められていると感じる。本書は品質の高いコーヒーを求める人やそういう人たちに商品を提供する側の人たちを主な読者として想定し、その人たちかコーヒーリテラシーを高める一助になることを目指している。コーヒー入門という言葉が書名の一部となっているが、本書はコーヒー全般についての入門書ではない。コーヒーの飲用の歴史には触れていないし、コーヒーのおいしい淹れ方を使用器具別に解説してもいない。おすすめのコーヒーを産地別に紹介しているわけでもなく、焙煎のテクニックを指南しているわけでもない。一冊の本として完結させるために必要な情報を除き、それらは先行する数多の書籍や雑誌、ムックなどにできるだけ委ねるというのが、本書の基本姿勢である。本書で取り上げているのは、コーヒーの本質にかかわったり、コーヒーの品質を大きく左右したりするにもかかわらず、あまりに当たり前か地味だったからか、あるいは難しかったからか、これまで他書があまり取り扱わなかったことが中心である。第1章を含め最初の3つの章は飲み物としてのコーヒーかできるまでについて記述しているので、そうしたことに十分知識がある人や、それほど関心がない人は、いきなり第4章や第5章を読み、必要に応じて前の章に戻るのもおすすめという。
1 種子から生豆まで・ミクロ編/2 種子から生豆まで・マクロ編/生3 豆から飲み物まで/4 スペシャルティコーヒー/5 サステイナブルコーヒー
29.2月17日
”AIが文明を衰滅させる ガラパゴスで考えた人工知能の未来”(2017年12月 文芸社刊 宮崎 正弘著)は、人類の知能を超える衝撃に始まったAIの近未来が明るいのか暗いのかについてガラパゴスで考えた未来を紹介している。
AI=人工知能は、計算機=コンピュータによる知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野である。人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア・コンピューターシステムなどを指している。そのAIがついにチェス、将棋、囲碁のチャンピオンを負かしたことで大きな話題になっている。チェスは1997年、将棋は2013年、囲碁は2017年に、パターン認識による記憶回路の優劣は機械が勝ると証明された。AIが人間を超える日は本当に来るのであろうか、ドローンがすでに実用化されているが兵士も機械化されつぎにロボット戦争が地球を変えるのであろうか、文明の進化に背を向けたガラパゴスの古代生物のたくましさふてぶてしさは逆説なのであろうか、人間の文明は何処へ向かい何を目指すのであろうか、大量の失業者を適切に産業の配置換え再編に適応させることが可能なのであろうか。宮崎正弘氏は1946年金沢生まれ、早稲田大学中退で、在学中は日本学生同盟に所属し、日本学生新聞編集長を務めた。その後、雑誌の企画室長を経て貿易会社を経営、1982年から評論活動を始め、現在は、拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めている。国際政治、経済の舞台裏を独自の情報で解析する評論やルポタージュに定評があり、同時に中国ウォッチャーとして中国33省を踏破し健筆を振るっている。ガラパゴス諸島は東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島で、正式名称はコロン諸島である。日本の技術について、ガラパゴス化という言葉が生まれた。孤立した環境の日本で最適化が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残される。それだけでなく、外国から汎用性と低価格の製品や技術が導入されると、最終的に淘汰される危険に陥る。進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句であるが、ガラパゴスの意味が転じて古代生物が生き残っている比喩としても用いられる。そこで著者は、AI文明の近未来を正反対に文明に取り残された場所から考えてみよう、と思い立ったという。スマホが携帯電話をこえて主流となり、パソコンは小型化し、多機能化して海外でも通信がきるようになった。パソコンから携帯電話、インターネットに匹敵するような次のビジネスは、あらゆる事象を変革するだろう。デジカメはいまでは2000万画素が常識であり、世界の奥地からでも配信が出来る。世界のニュースを同時に共有できる時代となった。ガラパゴスのホテルに泊まったときの驚きは、エレベータはないのにWifi設備がちゃんとあったことだという。世界の果てで撮影したスマホの写真を地球の裏側に瞬時に送ることも可能となり、メディアの送り手が交替した。フェイスブック、ブログ、ツイッターで少数意見が多数意見となり、マスメディアの情報操作がしにくくなった。米国におけるリベラルなメディアの劇的な影響力低下に繋がり、部数が激減した。いずれ多くの新聞は経営難から消えて無くなるだろう。IoTとはあらゆるモノ、事象かコンピュータに繋がるという意味である。コンピュータなどの情報・通信機器ばかりか、存在する様々な物体に通信機能を持たせ、インターネットに接続したり、あるいは相互に通信しあって自動認識や自動制御、遠隔計測などを行うことが含まれる。産業革命で機械化が進むと多くの単純労働が雇用を奪われたが、コンピュータ化によっては銀行も人員整理がすすみ、工場では自動化で人間が不要となる部署が増えた。株式投資でも、いまやAIが判断し、企業業績を科学的に分析し、さらに為替、金利要因を加えての売買ソフトが組み込まれ、瞬時にして取引か成立する。そしていま、フィンテックの導入によって、5年後には多くの銀行員が失職する怖れが出ている。また、これまで生き残る職種とされてきた会計士、弁理士、行政書士、税理士といった専門業にも、失業の大波か押し寄せるという。かくして、何かとてつもないことが日本ばかりか世界中で始まろうとしている。人類史上最大のパラダイムシフトである。しかし一方では、サイバー攻撃などで、AI時代への懸念、不安がますます大きくなり、AIロボット兵士やAI核ミサイルなどが大きな懸念材料となっている。AIには明るい未来だけでなく、深刻な問題も山積みである。
プロローグ 機械が人間を支配する/第1章 AI近未来は明るいのか、暗いのか/第2章 ガラパゴスで考えてみた/第3章 ツイッター政治という新現象/第4章 文明の進歩と人類の衰退/第5章 「こころ」の問題とAI/エピローグ AIで精神は癒されない
30. 2月24日
”物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説”(2017年10月 集英社刊 桜井 俊彰著)は、人種的・言語的にイングランドと異なるウェールズがいかにイングランドに抵抗し統合されたかを知ることができる。
イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの地域から成り立っている。これらの地域は、その歴史的経緯からイギリスでは別個の国という感覚で人々に認識されている。イングランドと同様にほかの3国は英国議会に議席を持つと同時に、それぞれ独自の地域議会や政府があり首相や閣僚もいる。イギリスをいろいろな言語を待った多様な民族がいるミニ大陸と仮定して考えてみると、少し見えてくることがある。桜井俊彰氏は1952年東京都生まれ、1975年に國學院大學文学部史学科を卒業し、広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立した。1997年ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン史学科大学院中世学専攻修士課程修了し、現在、歴史家、エッセイストとして活躍している。ウェールズはイングランドの西隣、ブリテン島の南西部に位置し、面積は約2万平方キロメートルである。日本の四国と東京を合わせたほどの広さで、この中に約311万人が暮らしている。イギリスの総人口6565万人のうちの、約4.7%を占めている。ウェールズの人々は公用語である英語を話し、同時に、独自の言葉であるもう一つの公用語、ウェールズ語を話している。ウェールズ人は、かつてヨーロッパに広く住んでいたケルト人の末裔である。ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などに、その民族と言語が現存している。アーサー王伝説は中世後期に完成し、トマス・マロリーがまとめた、アーサー王を中心とする騎士道物語群である。内容は、アーサーの誕生と即位、アーサー王の宮廷に集った円卓の騎士達の冒険とロマンス、聖杯探索、ランスロットと王妃グィネヴィアの関係発覚に端を発する内乱の4つの部分に分けられる。トマス・マロリーは1399年生まれのイングランド人で、その生涯に関して確実とされるものは少ない。ケルトの民ブリトン人の島だったブリテン島をローマ軍が征服し、属州として支配を開始したのは1世紀中頃であった。5世紀に入るとローマは撤退、アングロサクソン人が侵入を始めた。ウェールズという言葉は、侵入者アングロサクソン人がブリトン人を呼んだよそ者という意味の、古い英語からきている。1066年にノルマン征服王ウィリアム1世がイングランドを征服したが、ノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降も、イングランドから度重なる侵略を受け続けたが、ウェールズはその都度撥ね返して独立を守ってきた。1258年にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズ大公を名乗り、ウェールズ公国が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。1282年、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた。このような過程を経て、ウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していった。1455年からの薔薇戦争の際、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、やがてウェールズ人がイングランドの王となるときを迎えた。ヘンリー・テューダーはイングランド中部レスターシャー州で行われた戦い、世にいうボスワースの闘いでウェールズのシンボル、赤竜を軍旗に掲げて兵を鼓舞し、シェイクスピアに大悪党として描かれたイングランド国王リチャード3世を葬った。ヘンリー・テューダーこそ、イギリスを世界に覇を唱える海洋国家へと導いていったエリザベス1世女王の祖父であり、近代英国史の幕を開けたテューダー朝の開祖のヘンリー7世である。ヘンリー7世は、戴冠式から1年後に誕生した最初の息子に、アーサーという名前をつけた。残念なから、聡明との評判高き王子アーサーは15歳の若さで病死した。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法によるウェールズ統合により、単一国家イングランド王国あるいはイングランドおよびウェールズとし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は、同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになった。本書は、イングランドに押されっぱなし、負けっぱなしだったウェールズの、この大逆転のときにまで至る、その抗争の歴史を辿ってみるものである。これは、今日のイングランドとウェールズの関係を正しく見ていくため、さらに、UKのこれから進んでいく道をしっかりと見極めていくために必要な知識である。
プロローグ 「よそ者」と呼ばれた人たち/第1章 ブリトン人から、ウェールズ人へ/第2章 ノルマン人西へ、ウェールズへ/第3章 独立を懸けた最後の戦い/第4章 赤龍の旗のもとに/エピローグ ウェールズよ、UKよ、何処へ
31.平成30年3月3日
”レンズが撮らえた F・ベアトの幕末 ”(2012年11月 山川出版社刊 小沢健志・高橋則英監修)は、幕末の時代を外国人戦場カメラマンの目で捕えた日本の各地の写真を紹介している。
フェリーチェ・ベアトはイギリス領ゴルフ島出身の報道写真家で、1863年に来日し、1864年の下関戦争に従軍し、1863年~1884年まで日本に在住した。日本滞在中、江戸期の各地の風景とさまざまな階層、職業の人々や風俗を撮影したほか、横浜、長崎、京都、大坂、神戸、鎌倉、箱根、富士登山、下関戦争、東海道、中山道、日光街道ほかも撮影した。アルバムは、幕末期の駐日オランダ総領事ポルスブルックのコレクションにある、一冊の和装丁アルバムで、現オランダ海洋博物館所蔵となっている。ほかに、イギリス艦船エンカウンター号の海軍中尉であったダグラス所蔵のものもある。2つとも和製本の4つ目綴じで、同じ柄の赤い絹表紙となっているが、なかにある写真の枚数と台紙数は異なっているという。監修は小沢健志氏と高橋則英氏、執筆は田中里美氏、天野圭悟氏、三井圭司氏、谷 昭佳氏である。小沢健志氏は1925年生まれ、日本大学法文学部卒業、九州産業大学大学院教授、日本写真芸術学会名誉会長などを歴任している。日本の幕末から明治期の写真に関する研究については第一人者で、先駆的な研究を行った。高橋則英氏は1978年日本大学芸術学部写真学科卒業、日本大学芸術学部助手、専任講師、助教授を経て、2002年から日本大学芸術学部教授を務めている。専門領域は写真史、画像保存で、近年は日本初期写真史の調査や研究を行っている。田中里美氏は2005年日本大字芸術学部写貞学科卒業、2007年日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程映像芸術修了、日本大学芸術学部写真学科専任講師。天野圭悟氏は法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了、初期写真研究家で主要な研究テーマは近世文化史。三井圭司氏は日本大学博士課程満期退学、東京都写真美術館学芸員。谷 昭佳氏は植田正治写真美術館学芸員を経て、2000年から東京大学史料編纂所史料保存技術室技術専門職員。F・ベアトは、撮影した写真の多くは古くから知られていたにもかかわらず、過去には永くその正体が明らかでない写真家であった。ベアトの写真は歴史的価値が高いものであるが、このような重要な仕事を行った写真家の事歴が永く不明であったのは不思議なことである。ベアトは1834年、当時イギリス領であったイオニア海のゴルフ島、現ギリシア領の出身である。1825年にイタリアのヴェネチアに生まれたとする説やほかの説もあるが、いずれにしてもイタリア系の血筋であった。ベアトの姉(もしくは妹)のマリアはイギリスの写真家ジェームス・ロバートソンと結婚した。その関係で、オスマン帝国造幣局の主任彫刻師を務めていたロバートソンから、ベアトと兄のアントニオは写真の技術を学んだと考えられる。1855年、ロバートソンがクリミア戦争に従軍することになり、ベアトも助手としてクリミアに赴き撮影を行った。イギリスの写真家ロジャー・フェントンが従軍撮影した写真が有名であるが、フェントンがコレラにかかり帰国したため、ロパートソンがその代わりとして従軍した。ロバートソンとベアト兄弟はその後、パレスチナやエジプトで撮影を行った。1857年にはロバートソンがインドにおけるイギリス市の公式写真家となり、ベアトも1858年にインドに赴いた。ベアトはその後1860年には、アロー戦争ともいわれる第二次アヘン戦争の撮影しようと、イギリス軍司令官サー・ホープーグラントとともに中国に渡った。ここでもベアトは、北京の紫禁城の見事なパノラマ写真などを撮影したが、北京南東の大活砦の戦いでは戦闘後の城壁の内部など、戦争のリアリティーを伝える写真を撮影した。戦争写真家としての十分な経験と実績をもったベアトが日本へやってきたのは、1863年の春ごろである。来日してすぐにベアトは、エメェ・アンベール率いるスイス外交使節団の江戸市中視察行に同行して撮影を行った。その後、横浜外国人居留地にスタジオを構えて活動を始めたが、イラストレイテッド・ロンドン・ニューズの特派員で画家であるチャールズ・ワーグマンと共同経営であった。ベアトは中国でワーグマンと知り合い、ワーグマンは1861年にひと足先に来日していた。1864年の下関戦争の際もワーグマンとともに従軍した。日本での撮影はどこでも自由に行うということはできず、開港地から十里四方に設けられた外国人の遊歩区域が生な撮影場所であった。横浜や、同じ開港地である長崎で多くの撮影を行った。また、外交使節団とともに行動することで遊歩区域外の撮影を行うことができた。1867年にはオランダ総領事ポルスブルックー行の富士登山に同行し、箱根や富士吉田での撮影も行った。この時期ベアトは日本各地で、外交筋からの依頼や海外の新聞への寄稿などのため精力的に撮影を行った。ベアトのように大判の原板で確かな技術により、幕末の記録を行った写真家はほかにいない。ベアトの写真の素晴らしさは、優れた技術によって江戸期の日本の様子を数多く現在に伝えている点である。その後、ベアトは1877年には、スタジオを建物やネガなども含めてスティルフリート&アンデルセンに売却し、写真から離れ、投機的な事業に専念することになる。そして洋銀相場や米相場で大きな損失を出して財産を失い、1884年に20年余り過ごした日本を離れた。ベアトという写真家には、波乱万丈という言葉がふさわしいと思われる。また、ベアトについてはまだ謎に包まれていることも多い。しかし未だその全容は明らかではないとはいえ、ベアトという優れた写真家の仕事は歴史のなかで光彩を放っている。
F.ベアト写真アルバム/F.ベアトの見た幕末の日本/フェリーチェ・ベアトについて/フェリーチェ・ベアトの生涯/幕末日本の風景/幕末日本の風俗/史料からみるベアト/下関戦争とフェリーチェ・ベアト/最初期ベアトアルバムの史料的考察
32.3月10日
”岩瀬忠震 五州何ぞ遠しと謂わん”(2018年1月 ミネルヴァ書房刊 小野寺 龍太著)は、ハリスと談判して日米通商条約を作り上げ井伊直弼の慎重論を押し切って独断調印した開国の立役者の岩瀬忠震を紹介している。
五州とは五大州のことで、世界を地理学的に分けた5つの州の総称である。アジア州、ヨーロッパ州、アフリカ州、アメリカ州、オセアニア州を指す。ただし、ほかの分類もある。岩瀬忠震=いわせただなりは幕末の日本の外交・防衛・通産の高級官僚であって、漢詩・和歌・絵画にも堪能だった無頼の一男児である。五言絶句”航海誰か自ら任ず”に、”只許す、碧翁知ると、五州何ぞ遠しと謂わん。吾、亦、一男児”とある。男児たる自分は五大州を股にかけて往くのだという意気込みが感じられる。小野寺龍太氏は1945年生まれ、1963年福岡県立修猷館高等学校卒業、1967年九州大学工学部鉄鋼冶金学科卒業、1972年九州大学大学院工学研究科博士後期課程単位取得退学、現在、九州大学工学部材料工学科教授を経て、九州大学名誉教授と務めている。工学博士であるが、日本近代史、特に幕末期の幕臣の事跡を調べている。岩瀬忠震は江戸時代後期の幕臣、外交官で、列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に幕末三俊と顕彰された。旗本・設楽貞丈の三男として、江戸芝愛宕下西久保で生まれた。血縁をたどると、麻田藩主青木一貫の曾孫、宇和島藩主伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林家の大学頭の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。1840年に岩瀬忠正の婿養子となり、家禄800石の岩瀬家の家督を継いだ。1843年に昌平坂学問所大試乙科に合格し、成績が優秀だったため褒美を受けた。1849年に部屋住みより召し出されて西丸小姓番士となり、同年に徽典館学頭を命じられた。翌年甲府へ出張し、老中首座・阿部正弘より時服を拝領した。1年後江戸に戻り徽典館学頭としての功績が認められ、白銀15枚を拝領した、次いで、昌平坂学問所の教授となった。1854年に阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。その後も外国奉行にまで出世し、1855年に来航したロシアのプチャーチンと全権として交渉し、日露和親条約締結に臨んだ。1858年にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な外交官であった。同年、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で徳川慶喜を支持する一橋派に属し大老となった井伊直弼が、反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷された。1859年には蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した。1861年に44歳で失意のうちに病死したが、維新後に正五位を贈られた、島崎藤村の”夜明け前”にも登場する偉人である。少なくとも日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない。安政4年=1857年に書いた建白書を読めば、明治維新の精神がその10年以上前に述べられていることに驚嘆するという。維新後の日本の進路が明確に述べられており、西郷、大久保、木戸の三傑や近頃流行の坂本竜馬などは、10年後に岩瀬の後を追ったまでである。彼らは元々、藩の武人であって己の藩の権力拡張を第一義とし、日本の将来を見通したわけではなかった。もちろん彼らも成長して立派な政治家になったが、先見性という意味では岩瀬に百歩を譲るという。現在、岩瀬忠震の名は日米通商条約に調印した人物としてのみ史上に残っているが、日米条約の前に長崎でオランダ・ロシアとの通商条約に調印していた。この条約は岩瀬のイニシアティブの下に日本側から蘭露に提示したものであって、ペリーとの日米和親条約調印後わずか3年で外国に通用する条約草案を作ったというのは驚くべき偉業であった。この素地があったからこそ、日米条約もほぼ対等なものに仕上がったのである。またこのような外国交渉に尽庫している間も、出張の道中に炭鉱があれば坑道にもぐって石炭塊を掘り出し、港や海峡を通ればその地理を平面図に描き、砲台を見分し、西洋型船の建造に当たった。岩瀬は先見性のある官僚であったが、一方で稀に見る人間的魅力があった。魅力の第一は、意気に満ちた爽快な生き方である。開国貿易という政洽的目的を達成するためには右顧左眄せず、思った通りに直言、実行し、自己保身などは一切考えなかった。井伊直弼にも橋本左内にも幕府の小史にも、相手の身分の高下を問わず自分の信念を熱誠をもって披歴した。儒教道徳に忠実で、主家の徳川家、特に遠祖家康を尊敬していたが、日本全体の興隆のためには徳川家を越えて、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城などの諸藩主や、橋本左内のような陪臣とも喜んで協力した。それが災いして井伊直弼によって永蟄居という重罰を加えられたが、忠震は決して後悔しなかった。このような快活な性格に止まらず、見ぬものに憧れるロマンティックな気分があり、真の自然愛好家でもあった。それを表現できる文学的才能と書画の才を持ち合わせ、絵画は日本画の専門家が嘆賞するほどのものであるし、漢詩や和歌はその時々の気分をよく表現している。海外雄飛の夢も単に論理から割り出したものではなく、ロマンティックな性情にその萌芽があったとみるべきである。しかも夢想家ではなく、快活な滑稽の才があって、日本人外国人を問わずみなを笑わせた。これまで大きく取り上げられることのなかった幕末の偉人の評伝であり、一次史料を多く用いてその魅力に迫っている。
序 開国の立役者・岩瀬忠震/第1章 無為の青年期/第2章 儒者としての4年間/第3章 鯤=こん、化して鵬=ほうとなる/第4章 貿易開始の主張と日蘭日露通商条約締結/第5章 長崎往復道中日記から 付録 日記「和田嶺から諏訪湖」/第6章 横浜開港意見書と当時の一般世論/第7章 ハリスとの交渉-日米修好通商条約/第8章 日米通商条約の勅許下らず/第9章 井伊直弼の登場と日米通商条約調印/第10章 オリファントの見た忠震と安政の大獄/第11章 作事奉行への左遷/第12章 蟄居と終焉/岩瀬忠震略年譜
33.3月17日
”装丁、あれこれ”(2018年1月 彩流社刊 桂川 潤著)は、本に生命を吹き込む装丁という仕事にまつわるあれこれを紹介している。
装丁は書物を形づくることやその方法をいい、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。装幀と書かれることもあるが、正しくは装い訂める=よそおいさだめる意味の装訂であるとも言われている。書画の表具を意味する幀が好まれ、装訂の略用表記の装丁とともに定着している。広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は外箱のデザイン、また製本材料の選択までを含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼び、装幀と本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを図書設計家と括る場合もある。桂川 潤氏は1958年東京生まれで、立教大学大学院文学研究科前期課程修了の装丁家・イラストレーターである。キリスト教系NGOや研究所の勤務を経て、1995年からブックデザインの仕事をはじめ、2010年に第44回造本装幀コンクール日本書籍出版協会理事長賞を受賞した。本書は”出版ニュース”の連載コラム”装丁”に掲載された2012?2017年分をまとめたものである。明治までは、造本作業は単に製本と呼ばれ、明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘じるという意味の装釘が使われ始めた。装釘は、装い釘うつを意味する熟語として中国古代より存在した熟語である。1920年代後半からは、釘との連想を避けて装幀と表記することが多くなった。1946年に発表された当用漢字表には幀・釘ともに入っていなかったため、1956年の国語審議会報告では装幀、装釘には装丁が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。装幀とブックデザインという言葉は、同じ意味で使われることもそうでない場合もある。ブックデザイン、カバーデザイン、カバーイラストレーションと分けて表記されている場合は、ブックデザインはカバーを除いた書籍本体のデザインのみを意味する。著者は、装丁家と名乗っても、まず何の仕事か理解してもらえないという。ブックデザイナーと言いかえると少しは通じるけれど、今度は、本のデザインって、いったい何をデザインするんですか、と訊ねられる。奥さまは、ご主人がこの仕事をするまで装丁という職能を知らなかったそうである。本の顔と姿かたちを誰が考え出すのか、と訊ねると、そんなの自然に出来ると思っていた、と返されて絶句したとのことである。言われてみると、いっさいの作為を感じさせず、自ずから生じたように映る装丁こそ、理想の装丁かも知れない。編集者が装丁した本には、通常、装丁者名が記されない。編集者装丁はテクストに寄り添う装丁であり、そのゆかしさに独特の魅力があった。しかし、時代とともに書物の量産化・商品化が進み、装丁にも広告デザイン的なテクニックや鋭い批評性が求められ、さらに多忙を極める編集者からは装丁に携わる余裕が奪われた。結果、装丁家が編集作業から独立した書物の演出家として脚光を浴び、百花線乱のブックデザインが奸を競うようになった。多機能端末が登場した2010年以降、書籍電子化の波を受けて、紙の本と装丁は消えてしまうのかと、あちこちで訊ねられたそうである。しかし5年を経た今(原稿執筆時点)、出版状況はいっそう厳しいけれど、紙の本はどっこい生きている。魅力的な本屋やブックカフェが話題を呼び、ブックイベントが各地で催され、本と装丁の面白さに惹かれる人が以前より増えたように感じる。世の流れは未だ油断ならないが、存外一本調子ではなさそうだという。装丁論と出版文化論を通じて、本をめぐる真摯なる問いである、理想の装丁とは何かを徹底的に考えようとしている。
「理想の装丁」装丁備忘録2012-2017
2012年 電子本は、これから?/本から離れようつたってそうはいかない/《ソウテイ》あれこれ/なぜリアル書店で本を買うのか/やはり本屋が面白い/3・11後のデザインの可能性/「ゆるい」装丁の時代/日本の電子出版を創ってきた男たち/本と電子書籍の定義は?/電子書籍の「表と裏」/”モノ”から。コト”へ、物”から語り”へ/PDF写真集の試み
2013年 紙の本ならではの装丁/物である本の儚さ/二枚腰のしたたかさか求められる装丁家/「本の気配」を感じるということ/「本の未来」について/仕事の域を超えてゲラ読みに熱中した一冊/映画『世界一美しい本を作る男』を観て/坂川事務所の集大成
2014年 電子カレンダーと手帳/本を舞台に真剣勝負/韓国の書籍装頓と装禎家/装丁はモノから切り離せない/制約を楽しむ/世の流れは「手書き」へ/「偶然の装丁家」/リアルな本の存在意義/菊地信義の批評性/鈴木成一の仕事/紙の本と電子本を知り尽くした山田英春/二冊の写真集
2015年 変幻自在の「和田ランド」/祖父江版『心』/『工作舎物語』/デザイナーの仕事/中小出版、当面はPDFで電子出版?/韓国のブックデザイン/ミシマ社のブックデザインに注目/『書影の森』(みずのわ出版)について/一箱古本市に参加して/エンブレム問題とブックデザイン/坂川栄治流/小さな出版社のもっとおもしろい本
2016年 年末進行のアルゴリズム/本の顔は背である/ブックデザイン派の装丁/ミシマ社と春風社/昨今のラフ、カンプ事情/西日本の個性的な書店・版元巡り/広告出身のブックデザイナー/BBOは地域の祭りに成長/俳句と装丁/本とは何か/「鈴木…久美さん。おーっ!」/鳥海鯛の書体
2017年 花森安治の装釘集成/加藤典洋さんの三冊/身体としての書物/「世界のブックデザイン」展から/紙の本は美しくなければ…/装丁のいい本は中身もいい/佐藤正午本の装丁/韓国の本屋事情/タラブックスの本づくり/たかが帯、されど帯/装丁家ふたりのエッセイ/17年のキーワードは「地方」
〈予感〉を包み込む
私が装丁家になった理由/現実と異界をつなぐ扉/予感を包み込む
あとがき/初出一覧/人名索引/事項索引
34.3月24日
”伊勢崎藩”(2018年1月 現代書館刊 栗原 佳著)は、藩校の学習堂を設立した日本有数の教育藩で向学心により幾多の危機を克服してきた伊勢崎藩の沿革を紹介している。
伊勢崎藩は江戸幕府の成立当初から存在した。一般的には譜代2万石の小藩で、厩橋=前橋藩主から後に姫路藩主となった酒井雅楽頭家から分岐した支藩というイメージか強い。だが、酒井忠寛が伊勢崎藩主となる1681年まで、伊勢崎藩は数奇な運命を辿った。栗原 佳氏は1989年前橋市生まれ、群馬大学教育学部で社会専攻、学習院大学大学院人文科学研究科で史学専攻、その後、高校地理歴史科の教諭となった。伊勢崎商業高校勤務を経て高崎女子高校に勤務しており、NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん会員である。伊勢崎商業高校には4年間勤務したが、生まれも育ちも前橋市であり伊勢崎に住んだ経験は一度もないという。やっと伊勢崎の土地勘がついてきて、教員生活も慣れてきたところで本書の執筆依頼を頂いたとのことである。伊勢崎藩を最初に支配したのは徳川家康の家臣の稲垣氏で、志摩国鳥羽藩・稲垣氏の祖・稲垣長茂が加増によって1万石を領したことに始まる。長茂は1600年の会津征伐時に牧野康成の大胡城を守備し、1601年に上野佐位郡で加増されて1万石の大名として諸侯に列し、伊勢崎藩主となった。稲垣氏は長茂、重綱と2代にわたって伊勢崎を支配したが、重綱は1614年からの大坂の陣に参戦し戦功を挙げ、1616年に越後藤井藩2万石に加増移封された。治世は僅か16年という短いもので、支配領域は佐位郡という伊勢崎の東武南部の領域のみであった。その後、武蔵川越藩初代藩主で後に上野厩橋藩初代藩主となった、雅楽頭系酒井家宗家初代の酒井重忠の嫡男の酒井忠世が、那波藩という伊勢崎の西部を支配し稲垣氏の旧領をも吸収した。忠世は上野那波藩主、伊勢崎藩主となり、1617年に重忠が死去して遺領の厩橋3万3千石を継ぎ、それまでの領地と併せて8万5千石となった。忠世が厩橋藩を継いだときに、伊勢崎藩領はそのまま厩橋藩領に組み込まれた。1623年に秀忠の嫡子の家光の世継が確定すると、忠世は家光付きの家老の年寄衆に加わった。忠世は1636年に死去し、同年のうちに忠世の跡を継いだ嫡子・酒井忠行も死去した。このため、酒井氏の家督は忠行の嫡男・酒井忠清が継ぐこととなった。このとき、忠清の弟・酒井忠能が、兄より上野那波郡など3郡2万2,500石を分与され、伊勢崎藩主となった。しかし、1662年に忠能は7,500石を加増されて3万石の上で信濃小諸藩に移封され、伊勢崎は廃藩となった。その後、1681年に4代将軍徳川家綱の下で大老を務めた酒井忠清の三男・酒井忠寛が兄・忠挙より2万石を分与され、前橋藩の支藩的な性格を帯びて伊勢崎藩が再立藩した。忠寛が藩主となって以降は、その子孫が伊勢崎藩主となった。その後厩橋藩の酒井氏は姫路藩に移封となり、伊勢崎藩は姫路藩の支藩的存在となった。3度目の正直で酒井氏の安定した支配か確立した。小藩であった伊勢崎藩は財政問題が常にネックとなり、時代を経るにしたがってさらに悪化していった。こうした状況を打開するために藩校で朱子学の教育か始まり、家臣に浸透していった。18世紀の後半には、藩政の重役に朱子学者が多く登用された。藩内は強い師弟関係で結ばれ、伊勢崎藩が浅間山犬噴火で大きな被害を受けた際には善政を行うことで難局を乗り切った。教育はやがて庶民にも広まって郷学が造られ、伊勢崎は日本有数の教育藩となった。日光例幣使道に沿った町の市では、様々な商品か取引された。日光例幣使街道は江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った道である。農村では蚕糸業が発展し、伊勢崎太織を生産するようになり、これが近代以降の絣の町伊勢崎繁栄の基礎をつくった。蚕糸業が発展したことで、幕末開国後は伊勢崎の蚕種か欧米に輸出されるようになった。開国の影響で伊勢崎藩も幕末の緊迫した情勢に巻き込まれていく。戊辰戦争では宗家の意向に従いはじめは旧幕府軍についたが、後に新政府軍側について参戦した。幕末、最後の姫路藩主となった酒井忠邦は、伊勢崎藩の7代藩主・酒井忠恒の九男である。幕末には新政府から警戒されたが、8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。その後、1869年の版籍奉還により忠強の跡を継いだ酒井忠彰は知藩事となり、1871年の廃藩置県により伊勢崎藩は廃藩となった。藩主家は、1884年に子爵となった。なお、この本の中では伊勢崎の名所やグルメも紹介されている。
第1章 伊勢崎藩の成立-幕府の始まりからめまぐるしく入れ替わった伊勢崎藩の支配者/第2章 伊勢崎藩の武士たち-役職に励み、苦しい生活に悩まされ、偉業を成し遂げた武士がいた伊勢崎藩/第3章 浅間山大噴火を乗り越える-関 当義・重嶷父子の活躍-未曽有の大災害を克服し、伊勢崎藩全域に広まった教育熱の高まり/第4章 人々の暮らし-伊勢崎太織生産の拠点や、交通の要衝としての伊勢崎藩を支えた人々の暮らし/第5章 幕末の伊勢崎藩-幕末のめまぐるしい情勢に、藩として対応に追われた時代
35.3月31日用
”池田光政-学問者として仁政行もなく候へば”(2012年5月 ミネルヴァ書房刊 倉地 克直著)は、江戸前期の備前岡山藩主で仁政理念に基づいた藩政を展開し新田開発や藩校開設などを行った池田光政の生涯を紹介している。
池田光政は、1609年生まれの江戸時代前期の大名である。姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男として生まれ、母は江戸幕府2代将軍秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫であった。当時の岡山藩主・池田忠継が幼少のため、利隆が岡山城代も兼ねていた。1613年に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。1616年に利隆が死去したため、幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となった。1617年に幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。1632年に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で嫡男の光仲が3歳の幼少のため、光政が岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後、輝政の嫡孫である光政の家系が、明治まで岡山藩を治めることとなった。本書の大筋は、著者が2009年度から2011年度にかけて岡山大学、大谷大学、九州大学で行った講義によっているという。倉地克直氏は1949年愛知県生まれ、1972年京都大学文学部卒業、1977年京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学、1980年から岡山大学文学部講師、助教授、教授を経て、2007年に社会文化科学研究科教授、2015年に定年退任、現在名誉教授である。なお、池田家文庫は、戦後、岡山総合大学設立期成会が買取り、岡山大学に寄贈された。池田文庫は、光政が鳥取から岡山城に入部して以来廃藩置県に至るまでの、約240年の備前藩藩政資料と池田侯爵家襲蔵の図書類である。内訳は、藩政資料68,083点、和書4,166部22,117点、漢籍653部10,420冊となっている。江戸時代には全国に260あまりの藩があり3000人を超える大名がいたが、現在使われている高等学校の日本史教科書に登場するのは、幕府の老中などを務めたものを除くと、10人にも満たない。池田光政はその数少ない大名の一人で、江戸時代前期を代表する典型的な大名として取り上げられる。この時期の大名はどのような課題に直面し、それをどのように処理しようとしたのか、を説明するために、光政の治績か取りあげられるのである。鳥取藩主としての光政の内情は苦しかったようである。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だった。藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。岡山藩主としての光政は、儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘し、1641年に全国初の藩校花畠教場を開校した。1670年に日本最古の庶民の学校として閑谷学校も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし、備前風といわれる政治姿勢を確立した。干拓などの新田開発、百間川の開鑿などの治水を行い、産業の振興も奨励した。このため光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学と心学を藩学として実践した。光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とし、神仏分離を行ない寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。また、光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行い、庶民の奢侈を禁止した。光政を明君とする評判は当時からあった。三代岡山藩主池田継政は祖父光政を敬慕し、その政治理念を受け継ぐことを理想とした。家中に伝えられた光政の逸話を集めたものに”有斐録”があり、のちに”仰止録””率章録”といった言行録も作られた。いずれも、光政の偉業を賞揚しその言行に依拠することで、家中の結集を図ろうとする意図をもって編まれたものである。時代を経るにしたがって、明君光政像は教訓化、理想化された。また、光政には自筆の日記が残っており、そこに光政の自意識の高さを認めることができる。本書の副題とした言葉は光政の言葉そのままではない。”池田光政日記”1655年4月15日にあるのは、”我等学問者と有名ハ天下ニかくれなく候ニ、仁政行ハ一ツとしてなく候ヘバ、名過候、此天罰ハのがれざる所ニて候”である。光政が学問に志す者であることは天下のだれもが知っている。そうした者であるのに仁政の行いは一つもなく、民に苦しみを与えている。これは名か過ぎて実がないということだ。だから、天罰は遁れられないのであり、今回の洪水は天が自分への戒めとして与えられたものだ、といっている。光政の治者としての個性は、学問者であること、仁政行の実践を目指したこと、常に自己反省を欠かさなかったこと、などが重要な点である。1672年に隠居し藩主の座を長男の綱政に譲り、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した。1681年10月に岡山に帰国した頃から体調を崩し、1682年5月に岡山城西の丸で享年74歳で死去した。巻末に。詳しい年譜が付いている。
第1章 岡山以前の光政/第2章 光政における「家」と「公儀」/第3章 最初の「改革」と「治国」の理念/第4章 二度目の「改革」と「心学者」たち/第5章 最後の「改革」と光政の蹉跌/第6章 晩年の光政
36.平成30年4月7日
”ビジネスエリートの新論語”(2016年12月 文藝春秋社刊 司馬 遼太郎)は、論語そのものではなくサラリーマン生活の支柱になるような古今東西の金言名句を中心に書かれたビジネス社会で働く人々への厳しくも励ましに満ちたエールである。
旧作は昭和35年に、”名言随筆サラリーマン哲学”として六月社から刊行され、昭和47年に”ビジネスエリートの新論語”として六月社書房から刊行された。両方とも、福田定一著となっている。本書は、経新聞記者時代の司馬遼太郎が、本名である福田定一名で刊行した“幻の司馬本”を、単独としては著者初の新書として刊行したものである。著者はサラリーマン記者としてほぼ10年の間に新聞社を3つ変り、取材の狩場を6つばかり遍歴した。最初の数年間は、いつかは居ながらにして天下の帰趨を断じうる大記者になってやろうと、夢中ですごした。しかし、駈出し時代の何年かはアプレ記者と蔑称され、やや長じた昭和35年ころには、事もあろうにサラリーマン記者とさげすまれるにいたっているという。組織を生きるには、何が大切でどんな意識が必要なのであろうか。司馬遼太郎は1923年大阪市生れ、1936年大阪市難波塩草尋常小学校卒業、1940年私立上宮中学校卒業し、旧制大阪高校、翌年旧制弘前高校を受験するも不合格であった。1942年に旧制大阪外国語学校蒙古語学科に入学し、1943年に学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業、翌年9月に正式卒業となった。兵庫県加東郡河合村青野が原の戦車第19連隊に入隊し、1944年4月に満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し12月に卒業した。1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう、いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろうとの疑問を持ち、昔の日本人はもっとましだったにちがいないとして、22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたという。筆名の由来は、司馬遷に遼に及ばざる日本の者、故に太郎から来ている。産経新聞社記者として在職中に直木賞を受賞し、歴史小説を中心に戦国・幕末・明治を扱った作品を多数執筆した。また、多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。ほかに、菊池寛賞、吉川英治文学賞、日本芸術院恩賜賞、読売文学賞、朝日賞、日本文学大賞、大佛次郎賞などを受賞し、また、日本芸術院会員で文化功労者であり、文化勲章も受章している。本書は、著者の深い教養や透徹した人間観が現れているばかりでなく、大阪人であることを終世誇りとして、卓抜なるユーモア感覚に満ちている。論語は孔子と高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。孟子、大学、中庸と併せて、儒教における四書の1つに数えられる。論語は五経のうちには含まれないが、孝経と並んで古来必読の書物であった。顔氏家訓勉学篇では、乱世では貴族の地位など役に立たないが、論語・孝経を読んでいれば人を教えることができるとしている。宋学では論語を含む四書をテキストとして重視し、科挙の出題科目にもなった。大工さんには大工さんの金言がある。その職業技術の血統が、何百年をかけて生んだ経験と叡智の珠玉なのだ。植木職でも陶工の世界でも同じことがいえよう。サラリーマンの場合、いったい、そんなものがあるだろうか。学者、技術家、芸術家などの職業感覚からみれば、まことにオカシナ職業の座にサラリーマンというものは座っている。じつにサラリーマンたるや、きょうは営業課員であっても、あすは庶務課員もしくは厚生寮カントク員と名乗らねばならぬかもしれぬ宿命をもっている。職業がへんてんとして変るのだ。この本で日本のサラリーマンの原型をサムライにもとめたが、サムライも発生から数百年間、サラリーマンではなかった。戦闘技術者という、レッキとした職業人であった。ところか、徳川幕府の平和政策は、いちように彼らをサラリーマン化してしまった。もはや、刀槍をふりまわす殺人家としての金言は要らない。しかし、平凡な俸禄生活者としての公務員に甘んじさせるために、何らかのサラリーマン哲学が必要だった。儒教の中でも、ことに朱子の理論体系か幕府の気に入り、多少の革命思想をふくむ陽明学などは異学として禁じたほどだった。いずれにせよ、儒教のバイブル論語が、江戸サラリーマンの公私万般におよんだ金科玉条であった。本書には、”ユーモア新論語”という副題がふられている。しかし、孔子さまの向こうを張って、昭和の論語を編むという恐るべき考えはさらさらない。最初は、鎌倉サラリーマンの元祖というべき、大江広元の座右訓の”益なくして厚き禄をうくるは窃むなり”である。また、本書の2部に収録、記者時代の先輩社員を描いたとおぼしき”二人の老サラリーマン”は、働くことと生きることの深い結びつき問う、極めつけの名作短編小説である。いずれも、現代の感覚をもってしても、全く古びた印象はないものになっている。
第1部
サラリーマンの元祖/洋服をきた庶民/秩序の中の部品/サラリーマンの英雄/サラリーマン非職業論/ロマンの残党/義務のたのしみ/長男サラリーマン/人生観の年輪/サービスの精神/収支の観念/恒産という特権/明日を思い煩うな/反出世主義/親友道と仲間道/湿地に咲く花/金についての人格/公憤のない社会/グチはお教だ/ホワイト・カラー族/真鍮の人生/約束を守る/顔に責任を持つ/崩れぬ笑い/猫にも劣った人物/奴レイ人種/起こるということ/議論好きは悪徳/職業的倦怠感/無用の長物/上役と下僚/階級制早老/女性サラリーマン/職場の恋愛/女性に警戒せよ/サラリーマンの結婚/大度量の女房/家庭の芸術家/家庭という人生/停年の悲劇/運命論が至上哲学/サラリーマンと格言/不幸という喜び
第2部
二人の老サラリーマン/あるサラリーマン記者
37.4月14日
”幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎”2017年6月 洋泉社刊 中村 彰彦著)は、徳川脱藩と称し鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜け華麗なる転身をした遊撃隊隊長・人見勝太郎の生涯を紹介している。
人見勝太郎は幕臣であったが、後年は、官僚、政治家、実業家に転じ成功を収めた。1843年に京都で生まれ、剣術砲術や儒学を学び、のち徳川義軍遊撃隊に加わり遊撃隊長にもなった。明治元年=1868年に榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国政府が成立したとき、松前奉行を務めた。1876年に七等判事として司法省に出仕し、間もなく内務省に転じた。1880年に茨城県令に任じられ、5年4カ月にわたりその地位にあって腕をふるった。退官後も、利根運河会社社長、台湾樟脳会社設立発起人などを歴任した。中村彰彦氏は1949年栃木市生まれ、宇都宮高等学校、東北大学文学部国文科を卒業した。在学中に第34回文學界新人賞佳作に入選し、卒業後の1973年から1991年まで文藝春秋に編集者として勤務した。同社の雑誌編集部および文藝出版部次長を歴任し、1987年に第10回エンタテインメント小説大賞を受賞し、1991年より執筆活動に専念してきた。1993年に第1回中山義秀文学賞、1994年に第111回(1994年上半期)直木賞、2005年に第24回新田次郎文学賞を受賞した。歴史小説・時代小説を中心に執筆し、日本文藝家協会評議員、憂国忌代表世話人、会津史学会会員、会津親善大使、伊那市ふるさと大使を兼ねている。人見勝太郎は徳川脱藩と称して、旧幕府脱走軍を統率した。徳川脱藩という言葉は、旧幕府、あるいは駿府藩となってからの徳川家を去った者、という意味合いで使用されている。14代将軍徳川家茂が1866年に病死し徳川慶喜が15代将軍に就任したが、翌年に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し勅許を受けた。この時点で江戸幕府は消滅したが、江戸城、二条城、京都守護職、京都所司代、その他の機構はなお存続していたため、幕府という言葉に代わって旧幕府という表現が使われ出した。その後、王政復古を布告済みの新政府は徳川一門の徳川家達に宗家を家督相続させることを確認し、家達に駿河府中城改め駿府城と駿河一円、遠江、陸奥のうちに70万石の土地を与えると決定した。以後、旧幕府の旗本・御家人たちは駿府藩徳川家の家中の者となり、駿府城は1871年の廃藩置県まで存続した。人見勝太郎は、1843年に二条城詰め鉄砲奉行組同心で、御家人10石3人扶持の人見勝之丞の長男として京都に生まれた。1867年に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたった。鳥羽・伏見の戦いにおいて、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張した。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡った。箱館戦争において、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり、五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇し、峠下の戦いに参加した。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。1869年の箱館総攻撃に際して、七重浜に出陣し、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦った。そのとき負傷して箱館病院に入院し、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩に預けられた。1870年に釈放され、5ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊した。維新後は、1871年に静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任した。1876年に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。1877年に群馬県官営工場所長、1879年に茨城県大書記官、翌年、茨城県令を務めた。その後実業界に転じ、1887年に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立し、初代社長に就任した。また、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与した。1897年から旧幕府主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残し、1922年に享年80歳で死去した。人見勝太郎関係資料はかなり少ないが、”人見寧履歴書”と題する回想録を残した。人見は、維新後、寧=やすしと名乗った。かつて著者は、”KENZAN”という小説誌の第14号と第15号に、”幕臣人見寧の生涯”という歴史ノンフィクションを連載した。同誌は第15号で休刊となったため執筆を中断していたが、このところ時間ができたので加筆に取りかかったという。本書は、回想録やほかの史料を参看しながら、幕末維新の荒波を浴びつつ生きた、一代の風雲児の足跡をたどっている。
第1章 幕府の遊撃隊に参加して/第2章 敗退/第3章 転進/第4章 脱藩大名との出会い/第5章 箱根戊辰戦争/第6章 奥州転戦の足取り/第7章 「蝦夷島政府」の誕生/第8章 「好し五稜郭下の苔と作らん」/第9章 戊辰の敗者の彷徨/第10章 辣腕の茨城県令
38.4月21日
”チェコの十二ヵ月-おとぎの国に暮らす”(2017年12月 理論社刊 出久根 育著)は、プラハに移り住んだ絵本画家によるチェコでの日々を綴るエッセイ画集である。
プラハはチェコ共和国の首都であり、東経14度45分に位置する同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市であり、人口は約120万人である。市内中心部をヴルタヴァ川が流れ、古い町並み・建物が数多く現存し、毎年海外から多くの観光客が訪れる。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もある。独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備え、世界で最も美しい都市の一つである。出久根 育氏は1969年東京生まれ、武蔵野美術大学造形学部を卒業し、1998年にボローニャ国際絵本原画展で入選し、1999年にドイツのグリム兄弟博物館ギャラリーにおいて、グリム童話をテーマとする作品を展示・出品した。2002年よりチェコのプラハに在住している。2003年に第19回ブラチスラヴァ国際絵本原画展でグランプリを受賞し、2006年に第11回日本絵本賞大賞を受賞した。挿絵は細部まで緻密に描かれ、登場人物や動物が背後の暗がりから抜き出てくるような質感で描かれている。チェコスロバキアは、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家である。現在のチェコ共和国とスロバキア共和国により構成されていた。建国当初には現在のウクライナの一部のカルパティア・ルテニアも領域に加えられ、首都は現在のチェコ首都であるプラハ、国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年から1989年まで国名はチェコスロバキア社会主義共和国であった。現在のチェコ共和国、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家で、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離して成立した。歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきたが、ヨーロッパ共産圏が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接している。チェコに移り住む前、チェコといえば、カフカの迷宮のような不可思議な街を思い描いていた、という。ドイツからプラハヘ向かう列車の窓に映る風景は、次第に古びた灰色の街へと移行していった。初めて訪れたプラハは、それまで行った西欧のどの街とも違う、重々しい空気をただよわせていた。新参者の観光客には、店の店員はにこりともせず、まるで愛想が無く、外国人には不親切で意地悪な国という印象を持った。けれども縁あってその数年後にプラハで暮らすことになり、現地へ飛び込んでから初めてチェコ語に触れ、最初は若い学生たちに混ざってチェコ語を習った。ドラムに乗って街を散策し、知らない路地をうろうろと歩き回り、週末などには遠方へ足を延ばし、街路樹の林檎やプラムをもいでかじり、知らない土地の人の親切を受けたり、思いがけない出来事にも出遭った。チェコに移り住むことになったのは、突然の決断であった。当時は、まさにこれから取りかかろうという仕事が目の前にあったが、その頃にはパソコンは普及していたから、深く考えもせず、日本を離れて飛んで来てしまったという。メールで仕事のやりとりをしながら、追伸に、近況報告がてらチェコでの身近な出来事を書いていた。それを読んでいた編集者から、毎月きちんと書いてみたらと勧められ、それから、理論社のホームページに”プラハお散歩便り”として連載をすることになった。書き始めてみると、書くために見る、見ると書きたくなる、という具合に、チェコ生活に欠かせない連載ページとなった。無理のないペースで書いてきたため、ときどきお休みしてしまう月もあったが、実に11年にわたって書いてきた。これからも書き続けていきたいという。チェコのカレンダーでは、1月5日は三人の王様の日といって、キリストの誕生を祝いに東方から三人の王様がそれぞれ贈り物を持ってやって来た日である。2月は復活祭の46日前までの3日間は謝肉祭で、キリスト教による四旬節の期間に入る前に行われる。3月は四旬節の最後の日曜日に死を追い出す。冬に別れを告げて春を迎える。3月末か4月は春分の日の後の満月の日のすぐ後の日曜日が復活祭で、キリストの復活を祝う。4月30日は魔女焼きの日で、古くからの異教の習慣として残る春を祝い魔女の人形を焼いて厄を祓う。5月1日は五月祭が行われ、若い青年たちが春の象徴である大きな樅の木のマイカ=五月柱を引いて村中を歩き村にその柱を立てる。5月12日~6月3日はプラハ市内各地でわが祖国で知られるチェコの作曲家スメタナの命日で、プラハの春音楽祭が行われる。7月5日はキュリロスとメトディオスの日で、東ローマ帝国の修道僧が大モラビア帝国に到着しスラヴ語によるキリスト教の布教・普及を始めたことを記念する。7月6日はヤン・フス焚刑の日で、1415年に宗教改革者でチェロの英雄のフスが処刑された日である。9月28日は聖ヴァーツラフの日で、10世紀半ばチェロの守護聖人とされた聖ヴァーツラフ一世=ボヘミア公の命日である。10月28日は1918年のチェコスロバキア独立を記念する独立記念日である。11月2日は死者の日で、死者の魂のために祈りを捧げ墓地に花を飾り蝋燭の火を灯す。11月11日は聖マルチンが白い馬に乗って雪とともにやって来ると言われる日である。冬の到来のシンボルで収穫を祝いガチョウの丸焼きを食べる風習がある。11月17日は自由と民主主義への闘争記念日で、1989年のビロード革命の記念日である。12月6日は4世紀頃の小アジア(トルコ)の司教だった聖ミクラーシュ(ニコラウス)=サンタクロースのモデルの命日である。12月24日はクリスマスイヴである。12月25日は降誕祭(クリスマス)である。
春の風景/火と水と風と土と/ヴェリコノッツェ(復活祭)/ぱにぽうとの魔女/銀河鉄道のネトリツェ/ト イェ シュコダ(ああ、残念)/本当のプルーン/秋の一日-プラハの魔法-/チ47ェルベナー・ジェパの魔法/プラハの秋-ビロード革命の記念日に-/聖ミクラーシユの日/いちごぱたけのちいさなおばあさん/クルコノシェ山地から/シュチェドリーデン(クリスマスイヴ)/マソプスト(謝肉祭)/ザビヤチカ(豚を屠る)/雪景色
39.4月28日
”横山大観-近代と対峙した日本画の巨人”(2018年3月 中央公論新社刊 古田 亮著)は、日本美術院の創立に参加し日本画の近代化に大きな足跡を残した横山大観の生涯を多くのカラー図版とともに紹介している。
今年の4月13日から7月22日にかけて、東京と京都の近代的美術館で生誕150年横山大観展が開催される。40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示されるようである。大観を語ること、それは近代日本画を語ることであり、日本の近代そのものを語ることであるという。大観は明治日本が推し進めた近代化や、日清・日露戦争の勝利、太平洋戦争への邁進と敗北を目の当たりにした。天心没後は再興日本美術院を主宰し、朦朧体とよばれる画風を試みるなど、日本画の近代化に大きな足跡を残した。また、水墨画でも新境地を開拓した。古田 亮氏は1964年東京都生まれ、1989年東京芸大美術学部美術学科卒、1993年同大学院博士課程中退、東京国立博物館美術課絵画室研究員、1998年東京国立近代美術館勤務、2001年同主任研究官となり、2006年から東京藝大大学美術館助教授、2007年から准教授を務めている。美術史学者で、専門は近代日本美術史である。横山大観は1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。府立一中、私立東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだ。1888年に母方の縁戚である横山家の養子となった。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受けた。1889年に東京美術学校に第1期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学んだ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。美術学校卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。この頃より。雅号として大観を使い始めるようになった。1896年に母校・東京美術学校の助教授に就任したが、2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり天心が失脚した。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表した。しかし、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始め、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受けた。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年に文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任した。また、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を1913年にに再興した。以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年に朝日文化賞を受賞、1935年に帝国美術院会員となった。1937年に第1回文化勲章を受章し、帝国芸術院会員となった。同時代を生き、そして若くして亡くなった菱田春草、今村紫紅、速水御舟が、どちらかといえば天才と呼ばれるのと対照的である。大観は、20代でデビューした後、30代は春草とともにはじめた無線描法か膠朧体との非難を浴びた。華やかな活躍は40代からである。50代になると新聞雑誌等では実際に巨匠と呼ばれるようになり、多くの話題作、力作を発表した。戦争中は彩管報国を実践し、太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は戦争責任を問う声も上がった。大観という画家はそうした様々な評価の変遷を経験している。波乱万丈というにふさわしい人生だが、毀誉褒貶が相半ばする評価のなかで、生前から国民画家としての揺るぎない地位も築いていた。大観の人気は、歿後60年を迎え、歴史上の画家となっても衰えを知らない。回顧展が開かれる度に驚異的な観客数を集める、数少ない近代画家のひとりである。その意味で、巨匠大観は今日もっとも信用されている画家のひとりと言うべきかもしれない。大観作品の魅力のひとつは、強い意志と信念とをもって日本人の心を表現しようとした、その気魄とでもいうべきものだろうか。伝えたい何かかある絵は、かならず人々の目に触れる機会を待つものである。ただし、大観の絵はかならずしもすべての人々の心を虜にするわけではない。むしろ、アンチ大観の感情を招いてきたことも事実である。性急な西洋化と帝国主義、そして敗戦後の民主主義への転換という、近代日本の歩みそのものに存する矛盾が、時代とともに生きたひとりの人間に、そして大観作品に、そのまま映し出されている。ひとりの画家が成したことの意味を問うことは難しい。本書の場合、近代日本で日本画という新たな伝統を背負って生きた画家に対して、体制、社会、経済、思想といったことについての時代ごとの変化にも配慮しつつ、やや離れたところから大観像を結ぼうと試みたという。画家の成した仕事はその作品とその表現がすべてである。本書はカラー版として企画され、多くの作品を掲載することかできたため、図版頁だけを追えば、大観の作品史が眼で理解できるようになっている。
第1章 誕生-明治前半期/第2章 苦闘-明治後半期/第3章 躍動-大正期/第4章 大成-昭和初期/第5章 不偏-戦後・歿後
40.5月5日用
”拝啓、本が売れません”(2018年3月 KKベストセラーズ刊 額賀 澪著)は、平成生まれのゆとり作家が直面した出版不況の現実の中でいかに自分の本を売っていくかについて探ろうとしている。
書店員、ライトノベル編集者、ブックデザイナー、Webコンサルタント、映像プロデューサーなど、出版業界だけでなくさまざまな業界で活躍するキーパーソンを取材している。額賀 澪氏は1990年茨城県行方市生まれ、私立清真学園高等学校、日本大学芸術学部文芸学科を卒業した。高校時代に第22回全国高等学校文芸コンクール小説部門で優秀賞を受賞、日本大学芸術学部在学中に第24回舟橋聖一顕彰青年文学賞を受賞した。大学卒業後、広告代理店に勤務し、会社員として働くかたわら、2015年に第22回松本清張賞、第16回小学館文庫小説賞を受賞した。2016年末に広告代理店を退社し、現在、作家業のほか、フリーライターとしても活動している。書籍や雑誌等、紙の出版物の販売額は、再販制度や委託制度に支えられ、出版業界は1900年代後半まで順調に発展を遂げてきた。しかし、ピークの1996年を過ぎると紙の出版物の売上は減少し続け、特に雑誌の売上の落ち込みは業界の大きな課題となっている。過去5年以上、書籍の市場規模は減少傾向をたどっている一方、出版点数は伸びつづけていて、1点当たりの売上高が急激に減少している。市場の縮小に伴い、出版社や書店の数も年々減少している。本が売れなくなった原因については、さまざまな説がとなえられている。たとえば、若者が携帯に小遣いを使い果たして本を買えなくなったこと、若者の活字離れの傾向、新古書店が増えていること、公共図書館の無料貸し出しなどが挙げられている。しかし、流通経路にも大きな変化が見られる。高度経済成長期までは本は主に町の小さな書店で売られ、本の流通は小さな書店の店頭と御用聞きの二本の柱で支えられていた。高度経済成長で人件費が上昇すると、本の流通は書店の店頭での販売だけに頼るようになり、大規模な書店が増えるようになった。さらに、近年、読書好きが書店に集まるのは当然だとはいえない状況が生まれてきている。書店の規模が大きくなりすぎなかなか本を探し出せなくなり、出版点数が多すぎて店頭での回転が早くなり読みがいのある本もあまり出てこなくなった。また、インターネット書店や電子書籍など、本を取り巻く環境の大きな変化があげられる。インターネット書店は時間と場所を選ばすに商品が購入でき、ライフスタイルの多様化に合わせ年々拡大している。出版物についても、書店やコンビニエンスストアでなく、ネット書店で購入する読者が増えてきた。電子書籍は、21世紀に入り日本での市場は拡大し続けている。では、これからどうすべきなのかについては、今後、いろいろな試行錯誤が続いていくと思われる。本書は、そのような試行錯誤の一つであろう。この本が、”面白そうじゃん、買おう”と思った方はどうぞこのままレジへといい、”興味ない、買わない”と思った方はこの本を棚に戻し他の本を手に取ってください、という。そのまま書店を出ていかないでください。本屋さんには、たくさんの面白い本があります。この本はその中のたった一冊です。世界は”面白い本”であふれています、と続く。これは、読書の楽しみ、読書の素晴らしさを思い出して、周囲にそれを伝えていく努力をしていこうというのであろう。登場人物は、平成生まれのゆとり作家・額賀 澪、へっぽこ痛風編集者・ワタナベ氏、作家になりたい額賀の同居人・黒子ちゃんである。ワタナベ氏と、額賀の本をベストセラーにする方法を探して、本を作ることになった。ゆとり世代はお先真っ暗で、老後が不安で死にそうだという。黒子ちゃんはまだ作家デビューはしていないけれど、大手出版社が主催するライトノベルの新人賞で結構いいところまで行ったことがある。二人は都内のワンルームのアパートでルームシェアをして暮らし、六万円の家賃を折半して暮らしている。毎年100人を超える新人が生まれ5年後はほとんどが行方不明という厳しさの中で、二人は日々原稿と戦っている。本書の執筆に関連して取材した相手は、元電撃文庫編集長でストレートエッジ代表取締役社長の三木一馬氏、さわや書店フェザン店・店長の松本大介氏、株式会社ライトアップ・Webコンサルタントの大廣直也氏、カルチュア・エンタテインメント株式会社・映像プロデューサーの浅野由香氏、ブックデザイナーの川谷康久氏である。これらの方々との出会い、本のプロット、執筆、改稿、ゲラ、装幀、本が本屋に並ぶという過程が紹介されている。はたして、本書はどれくらい売れるであろうか。
序章、ゆとり世代の新人作家として/第一章 平成生まれのゆとり作家と、編集者の関係/第二章 とある敏腕編集者と、電車の行き先表示/第三章 スーパー書店員と、勝ち目のある喧嘩/第四章 Webコンサルタントと、ファンの育て方/第五章 映像プロデューサーと、野望へのボーダーライン/第六章 「恋するブックカバーのつくり手」と、楽しい仕事/終章、平成生まれのゆとり作家の行き着く先/巻末特別付録 小説『風に恋う』(仮)
41.5月12日
”藤原秀衡 - 義経を大将軍として国務せしむべし”2016年1月 ミネルヴァ書房刊 入間田 宣夫著)は、豊富な財力をもって中央政界とのつながりを強めながら仏教文化の大輪を花開かせた平安時代末期の豪族の藤原秀衡を紹介している。
藤原三大の栄華と言われ、初代の藤原清衡が中尊寺金色堂で死去したのは、1218年秋の7月16日のことであった。御曹司と呼ばれた次男の基衡が、兄の小館惟常との二子合戦に勝ち抜いて、清衡の後継者としての地位を確立したのはその翌々年のことであった。そのとき、基衡は27歳で、その子の秀衡は9歳であった。清衡によって始められた仏教立国の事業は、二代目の当主たるべき基衡によって継承され、さらなるレベルアップが目指された。そして、治承から文治年間の争乱期には、軍事優先路線への転換を図って、広域軍政府樹立を目指したが、志なかばで斃れた。入間田宣夫氏は1942年宮城県涌谷町生まれ、1964年東北大学文学部国史学専攻史学科卒業、1968年東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程中退で、同年東北大学文学部助手となった。その後、山形大学助教授、東北大学助教授、東北大学東北アジア研究センター教授などを歴任し、2005年に東北大学名誉教授となった。東北芸術工科大学教授を経て2013年4月に一関市博物館長に就任した。専門は日本中世史で、2004年から2006年まで平泉の文化遺産世界遺産登録推薦書作成委員会委員となり、NHK大河ドラマ”炎立つ”の監修を務めた。藤原秀衡は平安末期の1122年に父は藤原基衡、母は安倍宗任の娘で、奥州藤原氏の三代として生まれた。1157年に基衡の死去を受けて家督を相続し、奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となった。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職で、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率した。この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えたが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として、下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。秀衡は、源 頼朝のライバルとして、日本史の表舞台に登場することになった。1180年に頼朝が関東に挙兵したことによって、その背後を脅かす存在として、奥州の秀衡に対する期待が、京都方面で一挙に高まることになった。一躍、時の人になった秀衡であるが、その人となりについては具体的な情報が決定的に不足している。それもあってか、京都方面では、さまざまな人物像がかたちづくられ、流布されることになった。保守的な公家の間には、秀衡を含めて平泉藤原氏歴代の当主を蝦夷の王=野蛮人の王とみなす伝統的なイメージが消えやらず、強固な存在感を保ち続けていた。それに対して、高野山や東大寺など、仏教界においては、秀衡の評判は上々であった。秀衡は、武家の名門に生まれ、勢徳希世の人にして信心が厚く、仏教の興隆に尽くした理想的な人物であったとされている。公家側にあっても、後白河法皇の周辺では、それに共通するような人物像がかたちづくられていたらしい。通常一般の人びとの間でも、さまざまな人物像がかたちづくられていたのに違いない。けれども、それらの人物像のいちいちについて、それぞれの背景にまで遡って、具体的に検証するという作業が、きちんと行われてきたのかといえば、かならずしもそうとは言い切れない。ましてや、それらの人物像の相互関係などに踏み込んで考えられてきたとは、とても言い切れない。源 義経の保護者として有名で、治承・寿永内乱の中で、源 頼朝の背後をつくことを期待され、地方豪族としては異例の国守に任ぜられたが、結局、兵をあげなかった。しかし、頼朝追討の請文を提出したのは事実で、平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれている。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て、その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが、それは奥羽支配の政庁というべきもので、いま柳之御所跡と称している場所がそれである。臨終の床において、源 義経を総大将として、鎌倉殿源頼朝に立ち向かうべきことを息子らに遺言した。しかし、平泉存続のためのこの方策は実らず悲劇の結末に向かうことになった。秀衡は、蝦夷の王でもなければ、北方世界の王でもない。そうではなくて、兵とよばれる家から台頭してきた地方豪族の一人だったのである。すなわち、時代の流れに向きあうなかで、さまざまな試行錯誤を経ながら、ないしは路線の転換を余儀なくされるなかで、地域的軍政府樹立のとぼくちまで辿りつくことができた人物だったのである。北方世界に向きあう辺境のなかの辺境ともいうべき地政学的な条件を最大限に生かすことによって、あわせて中央政権との対話と交渉を最大限に生かすことによって、人生を切り開くことができた稀有の人物だった。これまで、学界では、秀衡をもって、始めから、蝦夷の王だったとか、北方世界の王だったとかするような伝統的な志向性がもてはやされてきた。それにともなって、秀衡の政権を、長城の外側に根差した北方異民族の国家たるべき遼や金に、さもなければ渤海や西夏になぞらえるような指摘がくりかえされてきた。これに対し、本書では、日本国の内側における歴史の文脈のなかで、中央と地方のないし首都と農村の対話・交流のなかで、秀衡の人生を見すえる。あわせて、内乱のどさくさのなかで、想定外の事態に向きあうことによって、軍事優先路線への大胆な転換をよぎなくされるという秀衡晩年における決断のありかたについて、石母田史学の基本に則りつつ、それを浮き彫りにする。
序 章 さまざまな人物像/第一章 立ちはだかる大きな壁/第二章 偉大な祖父、清衡の国づくりを振り返って/第三章 平泉三代の御館、秀衡の登場/第四章 秀衡を支える人びと/第五章 都市平泉の全盛期/第六章 鎮守府将軍秀衡の登場/第七章 秀衡の平泉幕府構想/第八章 義経を金看板とする広域軍政府の誕生/第九章 文治五年奥州合戦/終 章 平泉の置きみやげ/引用・参考文献/藤原秀衡略年譜
42.5月19日
”凜とした小国”(2017年5月 新日本出版社刊 伊藤 千尋著)は、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーといういま輝いている4つの国の現状を紹介している。
凜としたというのは、態度や姿などがりりしくひきしまっているさまを指している。ここで紹介しているのは、世界に通じる価値観を持ち胸を張って独自の国づくりをする凛とした4つの小さな国々である。それは、中米のコスタリカ、民主化したばかりのミャンマー、米国と国交を回復したキューバ、シルクロードの中心地のウズベキスタンである。伊藤千尋氏は1949年山口県生まれ、下関西高等学校を経て、1973年に東京大学法学部を卒業した。大学4年の夏休みに朝日新聞社から内定を得たが、産経新聞社が進めていた冒険企画に応募し、調査探検隊を結成して東欧に飛んだ。東欧では現地のジプシーと交わって暮らし、日本初のジプシー語辞書を作り、帰国後は新聞にルポを連載した。ジプシー調査でジャーナリズムの醍醐味を知り、1974年に再度入社試験を受けて朝日新聞社に入社した。長崎支局、筑紫支局、西部本社社会部、東京本社外報部を経て1984年から1987年までサンパウロ支局長、1991年から1993年までバルセロナ支局長、2001年ロサンゼルス支局長となった。その後、雑誌編集部員を経て、2009年に定年を迎えるが再雇用で雑誌編集部に勤務し続けている。あなたは、旅に出たいと思ったことはないだろうか、逃げるためではなく、向かう旅である。権力におもねて卑屈に生きるのは貧しい人生である、小粒でも自由で凛とした生き方を貫きたい。就職の内定を断ってルーマニアに飛び、人生を旅で過ごすジプシーことロマ民族を追う流浪の旅で、想像もしなかった生き方に接し、うかがい知れない世界があることを肌で感じ取った。新聞記者になってからも世界を旅し、中南米、欧州、米国の特派員をし、週刊記者としてアジアを回った。退職後はフリーのジャーナリストとして、これまで世界78の国を現地で取材した。記者の目で現地を探り各地を見比べると、大国と呼ばれる国よりも独自の価値観を持ち自立する小国の方が、人間も国も輝いていることを知った。日本は明治以来、ひたすら大国を夢見てまず軍事大国となり、無謀な戦争で挫折したあとは超大国にすり寄り、経済大国になると図に乗って過去の軍事大国に戻ろうと画策する。しかし、気がつけば経済で中国に追い抜かれ不況は長引き、経済大国は有名無実である。正社員を保つことすらできず、年金さえ保障されない。幸福度の世界ランキングは先進国で最下位で、開発途上国よりも下にある。本来の豊かさにおいて、日本は途上国に後退している。本書は、2016年から17年にかけて訪れた、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミヤンマーの旅で目にした記録である。ウズベキスタンとミヤンマーは初めての訪問で新鮮だったし、コスタリカやキューバはそれまでの訪問で得た知識の蓄積を内容に込めた。コスタリカは人口4857万人(2016年)中央アメリカ南部に位置する共和制国家で、北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。この国は1949年、日本に次いで世界で2番目に平和憲法を持った。これにより常備軍を持たない国となったが、非常時徴兵は規定されている。日本と違って完全に自ら創り、しかも本当に軍隊をなくした。周囲の中南米の国々が内戦で明け暮れた時代も、この国だけは平和を維持した。かつてコスタリカの大統領は内戦をしていた周囲の3つの国を回って戦争を終わらせ、1987年度のノーベル平和賞を受賞した。大統領が行ったのは平和の輸出である。自らの平和と中立を保ち世界に平和を広め平和国家としての地位を確立することが、この国の平和外交である。米国のトランプ政権が国境に壁を築き、欧州では難民を閉めだそうとする時代に、コスタリカはだれも排除しないことを掲げた。さらに環境問題では世界の先進国で、エコツアーの発祥の地である。キューバは人口1123万人(2016年)、カリブ海の大アンティル諸島に位置した、ラテンアメリカの共和制国家である。2014年12月に、米国のオバマ大統がキューバとの国交回復を発表し、2015年7月に国交が回復された。その効果は絶大で、それまでキューバを訪れる観光客は年間に300万人ほどだったが、2015年は350万人を超えた。2016年2月には米国とキューバの間の航空協定が結ばれ、2016年にキューバを訪れた観光客は400万人を超えた。米国と国交を回復したキューバでは、個人崇拝をさせない姿勢がカストロの死後も貫かれている。かつて軍服姿の警官が街のあちこちにいたが、今では治安が良くなりあまり見かけなくなった。ウズベキスタンは人口3212万人(2017年)、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国で、北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接している。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。かつてソ違という超大国の傘下にあったこの国は、他の国々とは違って自立に成功した。シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名である。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。ミャンマーは人口 5288万人(2016年)、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家で、独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦であった。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。1948年に英国から独立したあと、穏健な社会主義政権が生まれた。しかし、共産党の武装蜂起、少数民族の反乱、さらには中国の国民党軍が侵入して内戦状態になった。ひどい混乱の中、1962年にクーデターが起き、議会制民主主義を否定し、ビルマ式社会主義という特異な政治体制が敷かれ、社会主義を看板に掲げた軍事独裁政権になった。つい最近まで閉ざされた国だったが、1988年に民主化を求めて人々がゼネストをしき、彗星のように躍り出たのがスーチーさんである。2015年の総選挙でスーチーさんが率いる党が圧勝し、2016年にスーチーさんの側近が大統領に就任し、ようやく民主主義の新政権が発足した。いずれも発展途上であり歴史的、経済的な事情から困難も多いが、懸命に生きようとする姿勢には見習うべきものが多い。世界がグローバリズムの風潮に追いまくられて人間性を失う時代に、経済的には貧しくとも人間としての心の豊かさを求め、自立した独自の価値観を堅持している社会がそこに見えた。凛として主張する姿は、こちらの方が本来の大国のようにも思えたという。
第1章 平和憲法を活用するコスタリカ/第2章 キューバは今―米国との国交を回復して/第3章 シルクロードの中心、ウズベキスタン ソ連後の中央アジアを探る/第4章 闘うクジャク―ミャンマーは今
43.5月26日
”イースター島を行く-モアイの謎と未踏の聖地”(2015年6月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、絶海の孤島で失われた文明の謎を追い隠された聖地を求めイースター島に立つ1000体ものモアイをカラーで紹介している。
イースター島は、南太平洋ポリネシアの東端に位置する、チリ領の火山島である。総面積はわずか163.6?で、瀬戸内海に浮かぶ小豆島ほどの大きさしかない。島を領有する南米チリとは東に3700km、人の住む最も近い陸地ピトケアソ諸島ですら西に2000kmも離れており、まさに絶海の孤島という表現がふさわしい。現地語名はラパ・ヌイで、正式名はパスクア島である。ラパ・ヌイとは、ポリネシア系の先住民の言葉で広い大地を意味する。そして、パスクアはスペイン語で復活祭=イースターを意味する。1722年4月5日にオランダ人の提督ヤコブ・ロッフェーヘンかヨーロッパ人として初めて渡来したが、その日はちょうどキリスト教の復活祭の日であったことに由来する。日本では英称由来のイースター島と呼ばれることが多い。野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、高校時代から山岳地帯や野生動物を撮りはじめ、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求めた。2007年より2年ごとに住処を変えるライフスタイルを続け、現在までに南米チリのパタゴニア、南アフリカ、イースター島などに移住した。今までの渡航先は102ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。スライショーなど講演活動で国内外を飛び回っている。イースター島はモアイの建つ島として有名である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。この海底火山の噴火によって形成された島に、最初の移民が辿り着いた時期については諸説がある。文字記録が無いため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀~5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だった。近年の研究では西暦1200年頃ともいわれる。移民は遥か昔に中国大陸からの人類集団の南下に伴って、台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派で、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は酋長を中心とする部族社会で、酋長の権力は絶対で厳然たる階級制度によって成り立っていた。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。初期のヨーロッパ人来航者は、ホトゥ・マトゥアという首長が一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用とした。イースター島といえば、誰しも思い浮かべるのは、かの有名なモアイ像だろう。虚空を見つめ、海を背にして立ち並ぶ、謎めいた三頭身の石造彫刻である。ミステリアスでいながら、どこかユーモラスでもあるこの石像群は、10世紀から17世紀にかけて、各部族の守り神や墓標として作られたものとされている。アフというプラットホーム状に作られた石の祭壇作りは7世紀?8世紀頃に始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになった。加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在し、採石の中心はラノ・ララクと呼ばれる直径約550mの噴火口跡であった。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。モアイの語源には諸説あるが、島民たちに聞けば、誰しも”生きている顔”のことだという。その名の通り、一見同じように見えるモアイの顔はどれも個性的で、島に約1000体ある石像のなかには、赤いモアイ、正座するモアイ、四本の手を持つモアイなどの変わり種も多い。モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられており、デザインも時代につれ変化していった。モアイは”海を背に立っている”と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。現在、アフに立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。だが、この島の本当の魅力は、モアイだけでは語り尽くせない。断崖絶壁に隠された処女の洞窟アナ・オケケ、水の洞窟アナ・テ・パフ、夏至の日にだけ壁画を照らすアナ・カイ・タンガタなど、洞窟群は200以上ある。また、瑠璃色の宇宙のような火口を持つラノ・カウ火山、絶景を見渡す最高峰テレバカ火山、モアイの大製造工場ラノ・ララク火山など、火山群が70以上ある。さらに、生涯の幸福をもたらす幻の緑閃光、グリーンフラッシュ、全土か熱狂の渦に包まれる島のオリンピックのタパティ祭り、どんなガイドブックにも載っていない、ごく一部の島民だけが知る未開の聖地などもある。イースター島はかつては緑溢れる豊かな島だったが、モアイ倒し戦争や西洋人の来航によって、1万人以上いた島民は約100人にまで激減し、文明は失われてしまった。島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息した。著者はこれまで、取材で計15回イースター島に足を運び、現地でしばらく生活してみたそうである。この島を観光で訪れる人たちの多くかモアイだけ、それもかなり表層的な部分だけを見て満足していることに、少し残念な思いを抱いていたという。そこで本書の前半では、独自に考えたルートに沿ってモアイの歴史的・文化的背景を、できるだけ掘り下げて紹介することに取り組んだ。後半では、滅多に立ち入ることかできない最深部への旅を通して、未だ知られざる、隠された島の素顔を描くことに挑戦したそうである。前半がイースター島の表の顔を紹介したものだとすれば、後半は隠された秘密の素顔を、初めて白日のもとにさらしたものといえるかもしれない。ガイドブックはもちろん、ネットで探してもまず見つけることかできない、特別なガイドが導く特別なイースター島が紹介されている。
第一章 モアイの島
ラパーヌイ ハンガロア村 モアイルート ①アナーケナ アフ・ナウナウ アフーアトウレーフキ ②テーピトークラ ③アフートンガリキ ④ラノーララク モアイの制作ステップ 個性的なモアイたち モアイの運搬について ⑤アフーアカハンガとアフーハンガーテエ(バイフー) アフーアカハンガ アフーハンガニアエ(バイフー) ⑥ビナプー アフータヒラ アフービナプー ⑦オロンゴ 鳥人儀礼
第二章 歴史の島
モアイの眼 ロンゴ・ロンゴの木板島の形成-300万年前~75万年前 最初の居住者-600~900年 モアイの誕生-900~1680年 島の環境問題 モアイ文化の終焉-1680~1722年 部族闘争激化-1722~86年 奴隷狩り-1805~79年 チリによる支配-1879~1903年 ウィリアムソン・バルフォア株式会社-1903~53年 今日の島-1953~2014年
第三章 内なる島
洞窟ルート ①タハイ儀式村 ②アフ・フリ・ア・ウレンガ ③プナ・パウ ④アフ・アキビ ⑤アナ・テ・パフ ⑥アフ・テベウ ⑦アナ・カケンガ(ドス・ペンターナス) ⑧アフ・ハンガ・キオエ ⑨アナ・カイ・タンガタ
第四章 祭りの島
島の日常 タパティ祭り タパティ開催 トライアスロン 競馬ハカペイ 布作り 歌合戦 カイカイコンテスト(あやとリ) 昔話合戦 ハーモニカコンテスト 飾りものコンテスト ファッションショー グループダンス 巨大なモアイ像と山車のパレード 最終日
第五章 聖なる島
パトとの出会い ①ポイケ半島 ②テレバカ火山とグリーンフラッシュ ③ピンクの浜と珊瑚のプール ④モアイと皆既日食 ⑤北部の特別な道(グレートートレック) ⑥生命の樹
終章 祈りの島々
44.平成30年6月2日
”蒲生氏郷物語-乱世を駆けぬけた文武の名将”(2011年6月 創元社刊 横山 高治著)は、織田信長の寵臣で信長の娘・冬姫と結婚し現在の会津若松の基礎を築きわずか40才でこの世を去った蒲生氏郷の生涯を紹介している。
蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主を務め、文武両道にすぐれた武将として戦国乱世を駆け抜けた。大将ながら戦場で抜群の槍働きをなし、平時は城下の整備発展に尽くしたという稀有の名将として知られている。横山高治氏は1932年三重県津市生まれ、明治大学政治経済学部卒業。元読売新聞社会部記者で、読売新聞大阪本社にて河内支局長、連絡部次長などを歴任した。三重県平成文化賞、大阪府知事賞を受賞し、大阪歴史懇談会会長を務めた。蒲生氏郷は1556年に、近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。蒲生家は、日本の貴族の元祖、大職冠・藤原鎌足の流れを汲む名門藤原氏の一族である。母は近江の国守、近江源氏・佐々木六角家の重臣・後藤播磨守の娘で、ともに名門の家系である。幼名は鶴千代、初名は賦秀=やすひで、または教秀=のりひでと言った。1568年に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。鶴千代と会った信長は、”蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん”と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという。鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の一文字を与えられ、忠三郎賦秀と名乗った。1569年の南伊勢大河内城の戦いにて、14歳で初陣を飾った。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した。1570年4月に氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり、一千余騎で参陣し朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され5,510石の領地が加増された。その後、同年7月の姉川の戦い、1571年の第一次伊勢長島攻め、1573年4月の鯰江城攻め、8月の朝倉攻めと小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年からの有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。1582年に信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城へ走って、明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は山崎の戦いで敗死し、その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従った。1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられたが、自身は入城せず家臣の関盛信を置いた。1584年の小牧・長久手の戦いでは、3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。1585年の紀州征伐や富山の役にも参戦し、この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めている。秀吉の諱の一字を下に置く賦秀という名が不遜であろう、という気配りからであった。1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐でも活躍を見せた。一連の統一事業に関わった功により、1590年の奥州仕置において、伊勢より陸奥国会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは、奥州の伊達政宗を抑えるための配置であったと言われている。会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置した。そして、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から若松へと改めた。氏郷はキリシタン大名で洗礼名をレオンと言い、会津の領民にも改宗を勧めた。氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。1592年の文禄の役で肥前名護屋城へと参陣し、陣中にて体調を崩した氏郷は翌年11月に会津に帰国した、1594年春に養生のために上洛したが、この頃には病状がかなり悪化し、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において享年40歳で病死した。蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された。未完の天下人、文武両道の達人、蒲生氏郷は戦国の名将であり、申し子であった。戦国史上、ひときわ輝く名将である。大変な戦略家にして文化人大名であり、もし氏郷が長生きをしていれば、大坂夏の陣も関ヶ原合戦も勃発せず、日本の歴史は少しは変わっていたかもしれない。茶聖・千利休の言として、氏郷を”文武二道の御大将にて、日本に於いて一人二人の御大名”と讃美した言葉が伝わっている。利休七哲の中でも氏郷は筆頭とされ、細川忠興と高山右近とは特に親しかった。戦国武将としては珍しく側室を置かず二人の実子が早世したため、蒲生家の血が絶える遠因となった。不幸にして働き盛りの40歳で世を去り、蒲生家も四代で滅んだが、氏郷は不朽の名将であり、今日の町づくりの先駆者であった。
第一章 湖国に華やぐ日野・蒲生家
「荒城の月」ゆかりの会津鶴ヶ城/戦国風雲の申し子/蒲生の系譜/栴檀は双葉より芳し/近江源氏佐々木氏/痛恨の後藤騒動
第二章 鶴千代、晴れの松坂初陣
織田信長、近江に侵攻/信長、鶴千代にひと目惚れ/伊勢大河内城に初陣/信長に従い各地に出陣/戦国乱世の先鋒/伊勢の関と神戸の両家/伊賀天正の乱
第三章 信長、秀吉の天下布武
本能寺の変/日野篭城、秀吉に従う/清洲会議/伊勢路燃ゆ
第四章 松坂少将、戦雲・金鼓の夢
松ヶ島城血戦と遷都/松ヶ島懐古/松坂開府/松阪を愛した文化人/氏郷はキリシタンか
第五章 みちのく鶴ヶ城の会津宰相
会津転封/みちのく転戦/苦難の奥州平定/鶴ヶ城築城/会津の城下町づくり/氏郷名残りの茶道文化/会津の隠れキリシタン/氏郷と政宗、宿命の闘い/春の山風
第六章 悲愁、春の山風
蒲生家残照/秀吉による毒殺説/晩歌
45.6月9日
”人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事”2016年8月 新日本出版社刊 髙橋 真理子著)は、つなぐ、つくる、つたえるをキーワードに星を介して様々な分野と人をつないでいる宙先案内人による20年間の仕事の記録である。
プラネタリウムや星・宇宙を仕事のパートナーにするようになって、まもなく20年になるという。高校生のときに出逢ったぞオーロラを追いかけ、大学卒業後の大学院では5年間研究生活を送っていた。自分が取り組みたいテーマを見出すことができずに行き詰まったとき、人生に最も大きな影響を与えた一人で、オーロラやアラスカに駆り立てた写真家の星野道夫氏の突然の訃報に接した。星野道夫氏は1952年千葉県生まれ、慶應義塾高校を経て慶應義塾大学経済学部卒業の、写真家、探検家、詩人であった。1978年にアラスカ大学野生動物管理学部に入学し、アラスカの大自然の中で、自然と人の関係性をテーマに、多くの写真と文章を残した。1996年にテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのクリル湖畔に設営したテントでヒグマの襲撃に遭い、43歳で死去した。髙橋真理子氏は1970年埼玉県生まれ、北海道大学理学部を経て名古屋大学大学院でオーロラ研究を行った。星野道夫氏の訃報に際し、いつかミュージアムをつくるという夢を思い出し、科学館で修行を積むことを決心した。1997年から山梨県立科学館天文担当として、全国のプラネタリウムで類をみない斬新な番組制作や企画を行った。2013年に独立し、宇宙と音楽を融合させた公演や出張プラネタリウムを届ける仕事を行っている。最新スペースエンジンUNIVIEWの描く壮大な宇宙映像と、音楽と語りが融合したSpace Fantasy Liveを学校や企業ホールで行なう他、移動プラネタリウム、キャリア教育に関する講演、星・宇宙に関するイベント企画、番組制作、運営に関するコンサルタント、プラネタリウム職員研修などを行った。2014年からは、病院や施設に星を届ける病院がプラネタリウムを重点的に行っている。作曲家・ピアニストの小林真人氏、作詞家・詩人の覚和歌子氏、音楽家の丸尾めぐみ氏などとともに、多面的な宇宙を見せている。2008年人間力大賞・文部科学大臣賞を、2013年日本博物館協会活動奨励賞を受賞した。現在、星空工房アルリシャ代表、星つむぎの村共同代表、日本大学芸術学部・山梨県立大学・帝京科学大学非常勤講師を務めている。青春の日々に、研究で落ちこぼれ、自分は何を目指していたのか、ほんとうは何をやりたかったのかと自問自答したことがあった。やがて、自分とは何かという答えのない深みへと発展し、その井戸に降りたまま、しばらく抜け出られない日々が続いた。どうにも答えが出ずアラスカに出向いたことが一つの光となり、見失った自分を取り戻すことができたという。北海道の自然に魅了され、多くの人々に出会った多感な大学時代を経て、大学院で自然科学の研究の現場に触れてきた。今の目標は、サイエンスと社会の接点をつくりだすことにある。サイエンスそのものより、人間と自然そのものに対する思い入れのほうが強い。ただ、人がやるからサイエンスが面白いのであり、自然があるからサイエンスがある。その視点から、なるべくたくさんの人にとってサイエンスが文化になれば素晴らしいなと想っている。自然に対する愛情や、好奇心がサイエンスをつくりだすということを、研究の現場と一般の人々をつなげられる場所を提供することによって伝えたい。サイエンスを知ることで、得られる新たな驚き、発見がどこかで人間や自然を愛することにもつながるのではないか。ほんとうにつながるかどうかはわからない。けれど、人と人をつなげ、多くの人生を知り、多くの考えに出会う。そうした営みの中にサイエンスがあるということ、驚きは自然が与えてくれるものだということは確信をもっていえる。星野道夫氏にオーロラに憧れた高校生は、研究者から星と人々をつなぐ仕事にふみだした。星空と対峙することの意味を考え、多くの人々に出会い、心から幸せと思える仕事をやってきた。さまざまな実践の中で気づかされてきた星の力を、必要とするであろう人のところに届けるべく、2013年から宙先案内人として活動を始めた。そして2016年に科学館を退職し、星つむぎの村という団体を立ち上げ、あらたなスタートラインに立った。本書は、その仕事に至った背景と、多くのかけがえのない出逢いを語り、星と人とをつなぐ仕事を通して見えた人の思いを述べている。星は、いつもみんなの上で輝いていて、なぜか夢や希望を与えてくれるものである。ぜひ、空を見上げて、自分のこと、将来のこと、家族のこと、友達のこと、いろいろ考えてもらえるといいな、という。
プロローグ-20年前の手紙から/1 そうだミュージアムをつくろう/2 子どもたちの宇宙を原点に/3 「オーロラストーリー」が生み出したもの/4 心の中の星空をドームに―プラネタリウム・ワークショップ/5 星空が教えるめぐる時/6 星を頼りに―ぼくとクジラのものがたり/7 星で心をつむぐ-星つむぎの歌/8 見えない宇宙を共有する/9 星から生まれる私たち/10 遠くを見ること、自分を見ること/11 戦争と星空―戦場に輝くベガ/12 星がむすぶ友情―宮沢賢治と保阪嘉内/13 ほしにむすばれて―人と宇宙のドラマ/14 震災の日の星空/15 手紙を書くこと、見上げること/16 音楽とともに/17 宙をみていのちを想う―医療・福祉と宇宙をつなぐ
/18 星を「とどける」仕事へ/エピローグ-星つむぎの村へ
46.6月16日
”醤油・味噌・酢はすごい-三大発酵調味料と日本人”(2016年11月 中央公論新刊 小泉 武夫著)は、日本の代表的な発酵調味料である醤油・味噌・酢の生成過程、興味深い歴史と文化、驚くべき機能などを詳しく紹介している。
調味料は、料理の素材を引き立て、味付けの決め手となり、古くから用いられてきた。世界で最も広く使われている調味料は、塩、酢、砂糖である。東アジア、とくに日本では、みそ、しょうゆといった、ダイズ原料の発酵調味料がきわめて広範囲に利用されている。ダイズの原産地が東アジアであったからである。しかし、ヨーロッパではダイズの栽培利用が行われていなかったため、そうしたものはなかった。小泉武夫氏は1943年福島県生まれ、実家は小野町の酒造家で、田村高等学校、東京農業大学農学部醸造学科を卒業後、東京農業大学より農学博士号を取得した。1982年に東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授、1994年に財団法人日本発酵機構余呉研究所所長に就任した。2009年に東京農業大学を定年退職、同大学名誉教授、この間、鹿児島大学客員教授、別府大学客員教授を歴任した。現在、広島大学、鹿児島大学、琉球大学、石川県立大学等の客員教授を務めている。専門は、発酵学、食品文化論、醸造学である。発酵調味料の醤油・味噌・酢は、日本の食卓に欠かせないばかりか、海外での需要も年々高まっている。日本人は昔から、美味な食べものや美味しい料理、体にとって大切な食べものなどを、知恵と工夫によって編み出してきた。その中には、目にも見ることのできない微細な生きものである、微生物を使って造り出したいくつかの発酵食品もある。中でも、味付けの基本となる発酵調味料の醤油、味噌、酢を、すでに奈良時代から食卓へ登場させていた。これは、地球上の多くの民族の中でも、特筆すべきことであると言えよう。もしも日本に、この素晴らしい調味料が生まれていなかったら、日本人の食文化はとてもみすぼらしいものになっていたであろう。この三つの発酵調味料にはそれぞれに関連性があって、醸造学的視野から造り方を見たり、発酵学的視野から発酵徽生物を見ると、互いに共通した幾本かの線によって結ばれている。それは、日本人の大昔からの稲作あるいは米食の文化と密接につながっているのである。昔から日本人は水田で稲を育て、その田圃を囲む畔に大豆を植えて同時期に収穫してきたが、これを食事学的に考えてみると、水田は耐であり畔は醤油あるいは味噌汁であって、ここに日本人の食の原風景が読める。日本には特有の気候風土があるため、我が国の国菌である麹菌が、地球上最も旺盛かつ強健に分布棲息している。この菌が米や大豆、麦に繁殖して麹をつくり、醤油、味噌、米酢が得られるのである。初見は奈良時代の播磨国風土記にあり、神様に捧げた蒸米にカビが生え、それをカビタチと言った。さらに、カムタチ、カムチ、カウジ、コウジに語源変化して、今日の麹に至っている。醤油、味噌、米酢を造るのには、共通した麹菌の応用が大昔から続けられてきた。この三大調味料はまた、日本人の食生活においても共通した役創を担ってきた。それはまず、味噌と醤油の美味しさと、酢の酸っぱさといった味の演出である。味噌汁がなければ一汁三菜を基本とする和食は成り立たず、醤油がなければ日本食文化ならではの魚介の生食である刺身も食べられず、酢がなければ酢知えや酢〆はできないし鮨もできない。これらの三つの調味料をさらに調理学的視野から見てみると、そこには食の保存という共通のキーワードか宿っている。近年まで冷蔵庫などなかった時代には、味噌漬けや醤油あるいは溜漬け、酢漬けにしておくことにより、食べものは腐敗から逃れることかでき、美味しく永く貯蔵することができた。さらにこれら三種の発酵調味料は、生臭みを消すのには魔法のような力を持ち、とりわけ地球上最も大量に魚を食べる日本人にとって、最も理想的調味料なのである。また、醤油、味噌、酢は日本人の食事の基本である粒食と実によく調和している。おむすびに味噌あるいは醤油を塗ってそのままでも、それを焼いても粒の飯と実によく合って美味しい。さらに日本人のみの食法である握り鮨では、飯粒に酢を加え、それを握った酢と飯の相性は、生の魚介まで巻き込んで絶妙の美味しさになる。また、この三つの発酵調味料は、いずれも神格化され祀られているという点も誠に日本的である。日本の各地には、味噌神社や味噌天神があったり、醤油や酢を祀る神社がある。発酵調味料は、日本の各地においては地域性の違いによって醸され方や風味の強弱、好み、さらには使い方などに差異かあり、それが地域の食文化として残ってきた。これらのことは、日本人がいかにこれらの調味料を大切にしてきたかを物語る。このように、醤油、味噌、酢は、日本人にとって切っても切れない重要な嗜好品である。また、味噌や酢には健康を維持し、老化を防ぐ保健的機能性がしっかりと宿っている。近年の科学的知見をふまえ、血圧上昇や肥満の抑制、発ガン予防などの驚くべき効能も紹介されている。発酵調味料の歴史や周辺の食文化、さらには現状と今後を理解することは、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された今こそ時宜を得たものである。発酵興味料が日本に誕生していなかったら、今日のこの民族の繊細で大胆、粋にして大らかな味覚の生理的感覚は育っていなかったであろう。日本料理の何もかも、醤油、味噌、酢がなかったら何も語れない。まさに天下無敵の調味料なのである。
第1章 醤油の話-塩のこと/醤油の歴史/醤油ができるまで/日本の魚醤/日本人の醤油観/醤油の現状とこれから
第2章 味噌の話-味噌の歴史/味噌の造り方と種類/味噌の成分/豆味噌のこと/郷土にみる味噌の名産地/味噌の料理と調理特性/味噌の神技、諺と民話/味噌の保健的機能/味噌の現状とこれから
第3章 酢の話-「酢」とは/日本の酢の歴史/酢の造り方と種類/酢と日本人の料理/酢と鮨/酢の保健的機能/酢の現状とこれから
46.6月23日
”「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか-スパリゾートハワイアンズの奇跡”(2018年3月 集英社刊 清水 一利著)は、東日本大震災の影響で利用客が2011年度は38万人に激減したものの翌年度140万人2013年度150万人とV字回復した福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの秘密を解き明かそうとしている。
“東北のハワイ"をコンセプトにするスパリゾートハワイアンズは、常磐興産株式会社が経営する大型温水プール・温泉・ホテル・ゴルフ場からなる大型レジャー施設であり、温泉を利用した5つのテーマパークがある。スプリングタウンは水着を着用して楽しめ、打たせ湯、オンドル、ミストサウナ、ボディシャワーなどがある。温泉浴場パレスは裸で入浴する大浴場で、960平米の大浴場で12種24浴槽の温泉施設である。スプリングプラザは幅20米、高さ3米の滝が印象的な広場である。江戸情話・与市は浴場面積1,000平米、江戸時代の雰囲気がある世界最大の大露天風呂で、ギネス・ワールド・レコーズに認定された。宿泊施設は、ホテルハワイアンズ、モノリスタワー、ウイルポート、クレスト館である。ゴルフ場はスパリゾートハワイアンズゴルフコースで、3コース・27ホールである。清水一利氏は1955年生まれのフリーライターで、PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰し、2011年3月11日、新聞社の企画でスパリゾートハワイアンズを取材中に東日本大震災に遭遇し、スタッフや利用客らとともに数日間の被災生活を強いられた経験がある。スパリソートハワイアンズは、東京から約200キロ離れた福島県いわき市にあり、前身は、まだテーマパークという概念がなかった1966年にハワイをテーマに誕生した、その名も懐かしい常磐ハワイアンセンターである。もともといわき市には大きな探鉱があったが、1950年代後半に炭鉱産業の斜陽化が表面化した。そして、1964年に常磐湯本温泉観光株式会社設立、1965年に常磐音楽舞踊学院設立、1966年に常磐ハワイアンセンターがオープンした。高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年に海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代に、東京方面から多くの観光客を集め、大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として年間120万人強の入場者を集めた。年間入場人員は1968年には140万人を突破し、1970年には155万3千人となりピークに達した。しかし以降は、入場人員は日本の経済状況に合わせて減小し、1975年には年間110万人にまで落ち込んだ。1976年はやや入場人員が増加したものの、1977年以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続いた。1984年には初めて営業赤字を計上したが、1988年に常磐自動車道がいわき中央ICまで全線開通すると、バブル景気に沸く首都圏から一気に来場者が増え、年間140万人超まで増加した。これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始め、1990年のオープン25周年を機にスパリゾートハワイアンズに改名して、スプリングパークをオープンした。同年および翌1991年は年間140万人超の入場人員があったが、バブル崩壊で1992年には年間120万人台にまで減少した。1994年には年間110万人前後となり再び営業赤字を計上したが、1997年に日本一の大露天風呂をオープンして年間120万人を回復した。これまでの、ハワイ、南国というコンセプトに加え、屋内プールや温泉を備えた施設が美白を求める女性の需要に合致した。さらに、東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなど、集客努力が功を奏したものと考えられている。2000年にアクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれた。2005年には、常磐ハワイアンセンター時代の1970年以来の年間利用者数150万人を達成した。2006年には映画”フラガール”が全国公開され、翌2007年には過去最高の年間161万人の入場を記録した。そしてあの東日本大震災が起きた2011年3月11日に、著者はある新聞社の仕事で生まれて初めてハワイアンズを訪れていた、という。東京に帰れなくなった被災者の一人だったのである。あの日を境に、東北の状況は至るところで大きく変わった。それは、スパリソートハワイアンズももちろん例外ではなかった。入場者数、当期利益とも激減して、会社始まって以来の危機といってもいい事態に陥った。 当時、このままでは施設も会社も存続できないかもしれないという不安にとらわれたが、ハワイアンズは不死鳥のように蘇ったのである。映画でも有名なフラガールは、スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチームである。ウォーターパーク内常設会場ビーチシアターにおいて、ほぼ毎日、公演が昼夜1回ずつ行われている。このフラガールによる全国きずなキャラバンは、震災の1か月半後かいわき市内の避難所からスタートした。かつてまだ風当たりが強かった50年前、初代のフラガールたちは、崩れゆく炭鉱社会と家族の生活を、自分たちの手で何とかしなくてはいけないと頑張った。同じように、平成のフラガールたちも、未曽有の大地震と原発事故で危機に直面した故郷を目の当たりにして、今こそ自分たちか立ち上がらなくてはならないと思ったのであろう。全国きずなキャラバンの成功を受け、震災後もフラガールは地元いわきや福島のみならず、東北復興のシンボルとして全国区の人気を集めた。開業以来、50年を超えた今もなお、同施設は各種の温泉や温水プール、フラガールのショーなどが楽しめる人気のリゾート施設である。ハワイアンセンターがオープンし、初年度から予想を上回る大成功をおさめるとすぐ、全国には類似の施設がいくつもできたが、それらはすべて2、3年のうちに経営が行き詰まり、まもなく消えていった。そんな中、ハワイアンズだけが今日まで変わらず生き延びることができたのは、いったいなぜなのだろうか。この施設の何が人々をこれほどまでに惹きつけ今も人気になっているのか、そして、常磐興産は、その人気を維持するためにどんな努力をしてきたのか。幾多の危機や試練を乗り越えることができたのには、二つの大きな要因がある。一つは、常磐炭礦時代の一山一家の精神が社員の中に息づき、探鉱代を超えて辛苦に打ち克つ力になっていたことである。ハワイアンズに関わってきた人間たちが、誰一人ぶれることなく一山一家の考えを貫いてきた。もう一つ、絶対に忘れてはいけないのは、会社を率いるトップの決断力である。経営が安定している企業、危機に見舞われても立ち直ることのできる企業は例外なく、強い統率力で社員を引っ張るトップの存在がある。
第1章 3・11からのV字回復/第2章 創業者の経営哲学/第3章 追い風と逆風/第4章 東北復興の未来戦略/第5章 「生き延びる企業」とは?/終章 「進化した一山一家」を目指して
47.6月30日
”上杉憲顕-中世武士選書13”(2012年11月 戎光祥出版刊 久保田 順一著)は、足利直義の忠臣として南北朝の動乱を生き抜き足利基氏の近臣として初期鎌倉府を牽引して関東管領上杉氏の礎を築いた名将の生涯を紹介している。
上杉憲顕=のりあきは南北朝時代の武将で、建武政権崩壊後、足利尊氏・直義に従って各地を転戦した。1336年に上野国守護となり、暦応年間以後、高師冬とともに鎌倉府の足利義詮、基氏を補佐し、越後国守護も兼ねた。観応の擾乱で直義方として尊氏方の高師冬を鎌倉から追い、甲斐に滅ぼした。その後、直義は尊氏に殺害され、憲顕も両国守護職を没収された。1362年に基氏によって再び両国守護となり、翌年に関東管領に任じられた。久保田順一氏は1947年前橋市生まれ、1970年東北大学文学部史学科国史専攻卒業、群馬県立高校教諭を務めた。退職後、現在、群馬県地域文化研究協議会副会長、榛名町誌編纂委員会専門委員を歴任した。これまで上野の中世在地社会の研究を行ってきたが、その中で上杉氏について触れることはしばしばあったものの、まとまった形で論じることはなかったそうである。様々な史料に当たって検討する中で、いくつかの新たな発見や再確認もあり、それらを論述しながら改めて南北朝の内乱を考えるという有意義な時を過ごせたという。上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族で、上杉重房が宗尊親王に供奉して関東に下り、有力御家人足利氏と結びつき、その家政機関の一員となり、一族の女性が足利氏当主の家時・高氏の母となったことなどから頭角を現した。重房の孫の憲房は尊氏に謀反を勧め、鎌倉幕府滅亡に功をあげた。憲顕は1306年に憲房の子として誕生し、鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において、関東では足利尊氏の弟・直義が後醍醐天皇の皇子・成良親王を報じて鎌倉に鎌倉将軍府を成立させ、1334年1月に成良の護衛として関東廂番が置かれ、六番39名のうち二番番衆の一人として名前が見られる。1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属した。1336年1月に憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死した。弟・憲藤も1338年に摂津国で顕家と戦って戦死したため、憲顕が父の跡を継ぐところとなった。同年に尊氏の命により、戦死した斯波家長の後任として、足利義詮が首長の鎌倉府の執事に任じられた。しかし、その年のうちに突如高師冬への交替を命じられて上洛、2年後に復帰したものの、師冬と2人制を取る事になった。同僚である師冬が常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、1341年に守護国となった越後国には、憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力した。1349年観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京都に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となって、京都から鎌倉に下向した。憲顕は師冬と共に基氏を補佐したが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、子・能憲と共に尊氏に敵対した。1351年に鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取した。次いで甲斐国に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ、自害に追い込んだ。さらに直義を鎌倉に招こうとしたため尊氏の怒りを買い、上野・越後守護職を剥奪された。1352年に直義が死去して観応の擾乱は終結したが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放された。しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮と鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を、密かに越後守護に再任した。1362年に関東管領・畠山国清を罷免し、これに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐し、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとした。この動きを知った上野・越後守護代で宇都宮氏綱の重臣・芳賀禅可は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとしたが、武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退した。これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けたが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止された。こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって、代々の東国武家の畠山国清と宇都宮氏綱が務めていた、関東管領職と越後・上野守護職は公式に剥奪され、新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなった。1367年に基氏が死去し、翌年、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対して政治工作で対抗し、関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して、河越に出陣し鎮圧するのを助けた。これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなった。引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たったが、老齢のために足利の陣中にて死去した。墓所は高幡不動尊の境内に置かれ、上杉堂、上杉憲顕の墳などと称されている。憲顕は足利氏に従って東奔西走し、南北朝の動乱を生き抜いて上杉氏発展の基盤を造った。最後は幼主を盛り立てて権力を握り、成功裏に終わった人生のようにみえるが、動乱の中でその人生は失意と嵯鉄に満ちたものであった。1336年1月の京都合戦での敗北、1337年12月の北畠顕家との富根河合戦での敗北、1352年の薩壕山合戦での敗北、父憲房や兄憲藤らの討ち死に、主と仰ぐ直義の死など、多くの悲痛な体験があった。成功ばかりではなく、多くの失敗から立ち直って築いた人生であり、憲顕の生き方は今の我々にも通じる所があるのではないかという。
第1部 上杉一族の鎌倉進出 第一章 勧修寺流藤原氏/第二章 上杉氏の成立
第2部 関東掌握への道 第一章 鎌倉幕府の滅亡と憲顕/第二章 越後・上野の支配/第三章 観応の擾乱と憲顕
第3部 没落から、再び栄光の座へ 第一章 薩堆山合戦と憲顕の失脚/第二章 雌伏の時代/第三章 再び関東管領に/第四章 憲顕の妻子とその後の山内上杉氏
参考文献/上杉憲顕関係年表/あとがき
48.7月7日
”ひとまず、信じない”2017年11月 中央公論新社刊 押井 守著)は、ネットからのフェイクニュースが世界を覆う時代に与えられた情報をひとまず信じず自らの頭で考えることの重要さを説いている。
1938年10月30日にアメリカのラジオ番組で放送された”宇宙戦争”は、音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられ、多くの聴取者を恐怖させパニックとなった。オーソン・ウェルズが、H.G.ウェルズのSF小説”宇宙戦争”をラジオ番組化したものであった。この作品は虚構と真実があいまいな状況を作り出すのに、まずは成功したと言える。虚偽の情報でつくられたニュースのことをフェイクニュースと言い、主にネット上で発信・拡散されるうその記事を指している。押井 守氏は1951年東京都大田区大森生まれ、父親は私立探偵を営んでいたが、収入はもっぱら後妻の母親によるものだったそうである。都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科を卒業し、就職活動で映像関係の仕事を志望したが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得た。卒業とほぼ同時に、大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚した。大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになった。新たに映像芸術研究会を設立し、自ら実写映画を撮り始めた。1976年にラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、広告代理店の下請けCMモニター会社に転職した。1977年に竜の子プロダクションに応募し合格した。当初は事務雑用を担当していたが、すぐに、アニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂氏、真下耕一氏、うえだひでひ氏とと共に、タツノコ四天王の異名を取るようになった。1979年に私淑する鳥海永行氏に続く形で、スタジオぴえろに移籍した。1981年にテレビアニメ”うる星やつら”のチーフディレクターに抜擢された。1984年にキネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位を記録し、アニメ監督として頭角を現した。1984年にスタジオぴえろを退社し、以後、フリーランスの演出家となった。1995年に発表した”攻殻機動隊”は、米ビルボード誌のビデオ週間売り上げで1位を獲得した。2004年に発表した”イノセンス”は、日本のアニメーション映画としては初のカンヌ国際映画祭オフィシャル・コンペティション部門出品作品となった。2018年現在、日本のアニメーション監督で、世界三大映画祭すべてに出品したことがある唯一の監督である。2008年度から2009年度まで、東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授を務めた。2016年度第44回米アニー賞において、生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞が授与された。現在、映画監督、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイターとして活動している。ウェルズは真実の中に虚構を織り交ぜた。著者が行っているのは、物語は明らかに絵空事かもしれないが、そこに語られる内実にいくばくかの真実が内包されているということである。いくばくかの真実がなければ、映画はただのほら吹きが、金をかけてついた、ただの大嘘になってしまう。”イノセンス”では、人聞という存在の意味を問うた。人間とは何か、これはいまだに問い続けられている哲学的な命題である。どうして自分がここにいるのか、という疑問を人類は絶えず抱き続けてきた。哲学者たちがそれぞれに真実にたどり着こうとしてきた一方で、科学は別のアプローチから人間を解体していく。自分たちの肉体、精神、心の動きまで、化学的な反応で説明できるようになり、いったい人間とは単なる化学的な作用に過ぎないのであって、たとえば愛という感情についても、化学的な作用で説明できるのであれば、特別に意味のあることではないのではないか。人間を科学的に説明できるのなら、精巧にできたアンドロイドと人間を区別できるものは何か。感情があるようにふるまう機械に本当に感情があるのか、それとも感情があるようにふるまっているだけなのか、それを知ることはできるだろうか。感情があるようにふるまうということと、本当に感情があるということに、何か違いはあるのだろうか。ひるがえって、本当に自分たちに心があると言えるのか。愛という感情についても、子孫を残すための設計かもしれない。そのように人間は作られているのであって、それは機械的に、化学的に再現できる時代が本当に来るかもしれない。そう考えていくと、いつか人間と人形の間には何の違いもなくなるのではないか、という根源的な疑問が生まれてくる。突き詰めて考えていくとすべてのものか解体し、意味が消えていく。本当に自分たちが感じているようにこの世界はあるのだろうか。いや、自分たちは本当に存在しているのだろうか。そもそも虚構と真実には違いがあるのか。幸福とは何か、不幸とは何か、どうして仕事をしなければならないのか、仲間は必要なのか。そして、真に映画で描かれるべきものとは、いったい何なのか。これらのことについて考察したのが本書である。インターネットの登場は、社会のありようを大きく変えてしまった。ネットは物流の仕組みを変え、情報の流れ方を変えた。そして、この後はAIが暮らしに大きくかかわってくる。ネットの中には真実も虚偽もある、と言われる。だからこそ、ネットの情報は信用できない。すべてが虚偽ではなく、どこかに嘘が紛れている。だが、それは一見、真実のような顔をして微笑みかけてくる。どれが本当で、どれが嘘なのか、見分けがつかない。本書はの内容はタイトルとはあまりなく、幸福論、仕事論、ニセモノ論、政治論、人間論、映画論について押井人生論と押井哲学が述べられている。幸福論ではハッキリとした具体的な形の幸福があるのか、仕事論では自分に合った理想の仕事があるのか、ニセモノ論ではネット・メディアの情報は所詮嘘なのではないか、政治論では政治家が万能・清廉潔白なのか、などについて書かれている。
序 論-虚構の中に真実を宿らせる/第1章 幸福論-幻想は人を不幸にする/第2章 仕事論-説得する努力を怠ってはいけない/第3章 ニセモノ論-つまり、初めからフェイクなのだ/第4章 政治論-覚悟を決めない政治家たち/第5章 人間論-人間以上に面白いものがあるはずがない/第6章 映画論-「良い夢を見た」でもいいじゃないか
49.7月14日
”朝倉氏と戦国一乗谷”(2017年2月 吉川弘文館刊 松原 信之著)は、一乗谷を拠点に分国法を制定し和歌・連歌・古典にも精通した有力な戦国大名の越前朝倉氏を紹介している。
朝倉氏は但馬国朝倉庄を名字の地とする武士で、南北朝時代に越前守護斯波氏に従って但馬から越前に入った。鎌倉時代の初期、朝倉氏と朝倉庄の西隣の八木庄を名字とする八木氏は、鎌倉幕府の御家人に列し、但馬国に大きな勢力を持った。両氏は同族で、但馬の名族日下部氏の一族で、八木氏は鎌倉時代を通じて八木庄の地頭として発展したが、朝倉庄は後に鎌倉幕府中枢の御家人長井氏が地頭となり、朝倉氏はそれに従属していたと言われる。越前朝倉氏は、但馬の朝倉谷に生まれ、初めて越前へ入国した朝倉広景を祖とし、以後朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家である。日下部を姓とし、氏神として赤淵大明神を崇敬し、三つ盛り木瓜を家紋とした。松原信之氏は1933年福井市生まれ、1957年福井大学教育学部卒業、福井県立高志高校教諭、丸岡高校教諭、福井県史編纂室課長補佐、福井県立南養護学校長、丸岡図書館長を経て現在、坂井市立丸岡図書館小葉田文庫名誉館長と務めている。戦国大名とその領国制の成立は、日本史上で最も興趣深く魅力多い問題の一つである。多くの地方ではこの時期を迎えて、具体的にしかもかなり詳細に歴史展開の実相が調査もでき把握も可能となっている。朝倉氏の先祖については三説がある。景行天皇説、孝徳天皇説、開化天皇説である。景行天皇の苗裔、日本将軍の後胤とする説は、賀越闘諍記や越州軍記などの記述するところである。孝徳天皇-表米親王を祖とする説は、朝倉始末記、朝倉(日下部)系図などで、現在最も一般的な説となっている。しかし、この孝徳天皇説に対して、表米親王とは用明天皇の第三皇子来目皇子のことで、また来米皇子とも書き、これを見誤まって表米親王としたもので、来目皇子には新羅征討の史伝もあるという。そして開化天皇説は、朝倉氏の祖先こそ開化天皇の皇子、彦坐命=ひといますのみことだとする。いずれにしても、朝倉氏の祖先は、但馬国に永住して、代々朝倉郡や養父郡の大領や少領・貫首などを勤めた豪族であった。平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称したとされる。その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠った。朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前の豪族であった。越前朝倉氏の初代当主は朝倉広景で、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となった。室町幕府管領は、室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐して幕政を統轄した。管領は執事から転換した制度であり、1362年にわずか13歳の斯波義将が執事に任じられ、父の斯波高経が後見した。執事は、足利尊氏が室町幕府を開いたときの中央政治の要職であった。斯波氏は足利一門ではあるものの、本家からは独立した鎌倉幕府の御家人の家格を誇っていた。形式上は足利本家と同格だったため、執事に就くのをよしとせず、再三の要請に仕方なく応じた結果である。執事から管領への制度の転換はこの頃のことである。7代目朝倉孝景の時代に応仁文明の乱を契機に、一乗谷を根拠に守護としての地歩を踏み出した。斯波氏の内訌に加え、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から、1467年に応仁の乱が勃発すると、孝景は主家の斯波義廉と協力して西軍として活躍した。御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦に参戦し、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取った。以後、朝倉氏景・朝倉貞景・10代目朝倉孝景と相続し、甲斐・二宮氏等の対抗勢力を漸次に駆逐した。そして、一向一揆の脅威を排除して、戦国大名として越前一国の支配を成就させた。越前は近江・若狭を隔てて京に接続し、北陸へ通ずる京の関門に当たり、京を中心とする幕政や将軍の動向も鋭敏に連動する。近江の京極・浅井氏、また多くはこれらを通して、美濃の土岐・斎藤氏、さらに若狭の武田氏等の動きも、朝倉氏に対して密接な関係がある。朝倉氏領国制の進展を見ると、人材登用制作や一乗谷への集住政策など、新しい方向として史家の注目するものも少なくない。一乗谷は一乗谷川のつくる南北に狭長な谷で、朝倉氏が1573年織田信長によって滅ぼされるまで1世紀有余、越前支配の本拠地となった。朝倉氏による領国統治は比較的安定しており、京都での戦乱を逃れて公家や文化人が多く訪れはなやかな文化が花開いた。日本のポンペイとも言われ、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所が発足し調査や発掘・復原が進められている。従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのは7代目朝倉孝景であると言われていたが、朝倉始末記という流布本にのみ記載されているもので、他に根拠はない。親元日記などの史料により、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明している。特に文化においては、宗淳孝景時代を頂点に、公家・僧侶・芸能人等の文化知識人の下向滞留も多かった。将軍権威の失墜とそれを取り巻く勢力の隆替がはなはだしく、尾張より起こった織田信長が入洛して天下統一の序幕が切って落された。信長は、もと斯波氏の重臣層としてほぼ朝倉氏と桔抗した家格であった織田氏の支流の出身である。越前を地盤とする朝倉氏と尾張を根拠とした信長は、戦国大名としていくつかの通有した条件を具えていた。足利義昭は信長に先んじて義景を頼んだ。そして、義景は信長との角逐に敗亡し去った。著者は年来朝倉氏の研究を続けて多くの成果をあげている。本書は、これらの研究をふまえて、朝倉氏の歴史を平易に述べたものといえよう。
Ⅰ 斯波氏家臣時代の朝倉氏(但馬国時代の朝倉氏/朝倉広景・同高景/朝倉氏景・同貞景/朝倉教景・同家景/黒丸館と朝倉氏/足羽北庄と朝倉氏/一乗城の築城/越前国守護、斯波氏)/
Ⅱ 戦国大名朝倉氏(朝倉孝景時代/朝倉氏景時代/朝倉貞景時代/朝倉孝景時代/朝倉義景時代/朝倉氏一族)/
Ⅲ 朝倉氏の領国経営(一乗谷奉行/府中奉行/敦賀郡司と大野郡司/朝倉氏の兵力/朝倉孝景条々/朝倉宗滴話記)/
Ⅳ 朝倉文化(文化人の越前下向/連歌と和歌/兵学・儒学・医学/絵画・猿楽/禅宗と朝倉氏)/
Ⅴ 戦国村一乗谷(史蹟公園戦国村/一乗城跡/朝倉義景館跡/城戸内の居館跡と遺跡/城戸外の居館跡と遺跡/一乗谷の石仏)/朝倉氏年表/朝倉氏略系図/著者の朝倉関係著作および小論
50.7月21日
“緒方洪庵”(2016年2月 吉川弘文館刊 梅渓 昇著)は、近代日本の担い手を育てた蘭学者・緒方洪庵について蘭医学、適塾、門下生などを紹介している。
緒方洪庵は備中に生まれ、はじめ大坂、のちに江戸で蘭学を学んだ。武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。1838年に大坂で蘭学塾、適塾あるいは適々塾を開いて、多くの門人を育てた。637人の中には、福沢諭吉、佐野常氏、橋本左内、大村益次郎らの名前も見える。梅渓 昇氏は1921年兵庫県に生まれ、1943年に京都帝国大学文学部国史学科を卒業し、1962年に文学博士(大阪大学)となり、1966年に大阪大学文学部教授を務め、1984年に大阪大学を退官し、同名誉教授となり、佛教大学教授を務め、1995年に佛教大学を退任した。専門は日本近代史・軍事史である。緒方洪庵は1810年に豊後国の豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である、備中国足守藩士・佐伯惟因の三男として生まれた。諱は惟章=これあきまたは章=あきら、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。1825年に、大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出た。1826年に中天游の私塾・思々斎塾に入門し、緒方三平と名乗り、以後は緒方を名字とした。4年間、蘭学、特に医学を学んだ。洪庵が中天游を最初の師と選んだのは、身体の構造、疾病の性質についての西洋医学の高度な知識への賛嘆からであった。訳書によって西洋医学を勉強したが、病は生機の変化であり、変化を知るには常態を知らねばならず、常態を知るには内景を明らかにしなければならないという教えがあった。また、西洋の医制は最も厳しく、考拠が明白で試験が確実でなければ、人に施すことができなかった。洪庵はこれらに強い衝撃をうけ、終始これを拳々服膚し、ここに後年の洪庵の西洋医学者としての大成の出発点があった。さらに、中天游が医学よりも理学に傾いていたことも、洪庵の学問研究に若年から深く影響を与えた。物理学や光学など自然科学の広い教養を授けられたことで、洪庵は西洋の自然科学の発展に驚き、たんに医学のみならず、広く科学全体を西洋レベルに近づけようと志向した。1831年に江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。1836年に長崎へ遊学し、オランダ人医師ニーマンのもとで医学を学んだ。この頃から洪庵と号した。1838年に大坂に帰り、瓦町で医業を開業した。同時に蘭学塾・適々斎塾(適塾)を開いた。1845年に過書町の商家を購入し適塾を移転した。洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となったためであった。1849年に京に赴き、佐賀藩が輸入した種痘を得て、古手町に除痘館を開き、牛痘種痘法による切痘を始めた。1850年に郷里の足守藩より要請があり、足守除痘館を開き切痘を施した。1858年に洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。大阪書籍の昭和64年(平成元年)度用の『小学国語』5年下に、「洪庵のたいまつ」と題した司馬遼太郎氏の文章が載せられた。「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。緒方洪庵のことである」に始まり、洪庵の生涯を追いながら、「洪庵は、自分の恩師たちから引きついだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。かれの偉大さは、自分の火を弟子たちの一人一人に移し続けたことである。弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。後世のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない」と結ばれているという。18世紀末から19世紀の半ばにかけての日本の幕末期には、徳川体制が各方面で行き詰まってきていた。そこへ欧米先進諸国から強い外圧が加えられてきたのに対応して、国内に日本の近代化の動きが生じ、やがて明治維新の変革に至った。この幕末期の日本近代化の途上には、幾人かの顕著な先駆者の活動があったが、緒方洪庵もそのひとりであった。洪庵は人びとの病苦を救済することを志し、これをみずからの使命として生涯を貫いた。洪庵の人生は、1863年に終わる54年の間であったが、当時は政治・経済・思想・文化・生活など、あらゆる面において身分制による規制と束縛の時代であった。その時代を強く生き抜いて、かつまた時代に先駆けて、蘭医学者として、当時西洋の最新医学の受容・研究に努めた。同時に、医師として種痘の普及、コレラの治療法に画期的な業績をあげた。とくに、洪庵の大坂を中心とした除痘事業の組織的拡大への活動に、大坂町人の絶大な援助・協力を招来した意義は大きい。また、洪庵は適塾を主宰して、教育者として、多方面にわたる英才の育成に努めた。洪庵は西欧諸国中におけるオランダの衰退傾向や、みずからが修めてきた蘭学の限界を知り、広く英学、その他の広範囲の西洋学者を、国のために急速に育成しなければという決意も持っていた。文久・元治・慶応と幕末の政治的混乱期をへて、洪庵没後5年にして明治維新を迎えると、幕末から徐々に胎動していた日本の近代化が本格化し、こうした思想を持った洪庵の下で育った多数の適塾出身者が、多方面で活躍していった。
第1幼少時代(出生と家系/家族と縁戚/幼少のころ/医学を志す/「出郷の書」)/第2大坂と江戸での修業時代(大坂の中天游塾/江戸での修業時代)/第3長崎での修業時代(長崎での研究生活/洪庵と交際した人びと/修業時代の研究業績)/第4大坂における開業・開塾(開業当時の大坂の社会状況/洪庵、八重と結婚/瓦町に居住/過書町塾に移る/適塾の展開/洪庵・八重の暮らしぶりと子供たち)/第5蘭医学書の翻訳と洪庵(洪庵「適適斎」と号す/洪庵の学問的業積)/第6大坂除痘館の開業とジェンナー牛痘法の普及(ジェンナー牛痘法の輸入//大坂除痘館の開業/一開業医としての洪庵―回勤と治療/洪庵の医学観)/第7晩年の奥医師・西洋医学所頭取時代(母の米寿の祝いと中国・四国旅行/江戸への出仕/奥医師になる/麻疹の流行と将軍家茂の罹患/西洋医学所頭取の兼帯/晩年の江戸暮らし)/第8洪庵の最期(江戸城西丸炎上と急死/妻八重の後半生)おわりに-緖方洪庵の人間像/緒方氏系図/略年譜
51.7月28日
”105歳、死ねないのも困るのよ”(2017年10月 幻冬舎刊 篠田 桃紅著)は、ベストセラーとなった『103歳になってわかったこと』『103歳、ひとりで生きる作法』に続く105歳のエッセイ集である。
100歳=センテナリアンは日本では”百寿”と書かれ、”ひゃくじゅ”や”ももじゅ”と読まれ、他にも上寿=じょうじゅや紀寿=きじゅという呼び方もある。2017年9月の厚生労働省の発表では、100歳以上の高齢者が全国に6万7824人いるとのことである。前年から2132人増え、47年連続の増加である。100歳以上の人数は調査が始まった1963年は153人、1998年に1万人、2012年に5万人、2015年に6万人をそれぞれ突破した。20年間で約6.7倍も増え、国立社会保障・人口問題研究所の将来人口推計によると、総人口は減少する中、100歳以上の高齢者は今後も増え続け、2025年には13万3千人、2035年は25万6千人、50年には53万2千人に上ると予測している。本書は、現在105歳の著者が、年齢との付き合い方、幸福な人生の過ごし方、芸術との向き合い方など、幅広い分野について、自分の歳と折り合って生きる秘訣を語っている。著者の篠田桃紅=しのだとうこう氏は1913年に日本の租借地だった関東州大連に生まれた。映画監督の篠田正浩氏は従弟にあたる。1914年に父の転勤で東京に移り、5歳頃から父に書の手ほどきを受けた。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学んだ。1929年頃から女学校の師である下野雪堂に書の指導を受け、卒業後も2年ほど指導を受けた。1935年から書を教え始め、1936年に東京鳩居堂で最初の個展を開いた。1947年に書の枠を出た抽象的な作品を制作し始め、1951年から書道芸術院に所属して、数年、前衛書の作家たちと交流を持った。1956年に渡米し、1958年までニューヨークで制作を行った。ボストンやニューヨークで個展を開いた。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれた。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得たが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、1958年に帰国した。一躍、時の人となり、新聞・雑誌などの取材対応に追われた。以後は日本で制作し、各国で作品を発表している。1960年から、フィラデルフィア美術館から来日した刷師アーサー・フローリーの勧めでリトグラフ制作を始めた。1968年頃から時折、富士山麓のアトリエで制作するようになった。1979年に随筆集”墨いろ”で第27回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。2003年に90歳記念展を開催し、2013年に篠田桃紅生誕100年を記念する展覧会が開催され、エッセイ集”桃紅百歳”が刊行された。和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出した。以下、本書の中からいくつかを紹介する。”亡くなった人にどこかで会えるかもしれない”では、一生を振り返ったとき、ふっと、思い出した”通りゃんせ”の歌を思い出しましたという。この世には、自分たちの力の及ばない、神秘的な恐れがどうやらある、ということを知った歌だった。子ども心に、この世に生きていることの寂しさ、恐れが芽生えたように思う。人は、宇宙のはかり知れないもののなかの小さな存在としての自分を自覚している。細道の行きは、生を受けてから成人するまでである。親をはじめ周囲の大人に守られているから、よいよい、である。今の自分は冥界へ帰るところで、よろよろ、である。”若き日も暮れる日も、それなりにいい”では、自分の若いときの作品と老いてからの作品を、一堂に眺める機会があったときの感想が綴られている。若いときの作品は、力は充分にあったら、みなぎるような力の線とかたちである。歳を重ねてからの作品は、線の力は弱まり、線に込める心が目立つようになっている。目に見えるものは弱まり、目に見えないものが強くなっているのである。心は、歳をとるにつれて深まっていくので、その心が線に現れてきた。それはそれで、たいへんにありがたいことだと思ったと言う。”過去は確かで幸せなもの”では、昔のことを思い出すのがとても楽しみになったと言う。うんざりしたというようなことは思い出さない。悲しいことも思い出さない。あったことは憶えているが、悲しみが癒えているのであろう。思い出は、楽しかったことでも、悲しかったことでも、こうして残っていること自体が非常にありがたいことだと思う。人生の終わりに過ごす時間は、ふっとしたことが思い出を回帰させる。あのときはこういうことで楽しかった、あのとき友人はこんなことをしていた。思い出がいろいろあることは幸福なことだと感じる。人は時間というものを使って生きていることを、あらためて認識する。”自然にまかせる”では、こういうふうに生きようと決めても、そのとおりにはいかない人生について語っている。フリーハンドで描いていると、作品をつくっているという感覚はない。仕上がってから、ああこういう作品ができたと知るのである。作品は、描いているあいだの自分自身とそのときの時間で変化するから、あらかじめ構想をつくりあげることは無理なのである。人生も同じだと感じている。自分自身、どういうかたちで生きると決めたことはなく、自然にまかせる以外にないと思っている。この頃は、絵を描く日もあるし、一本の線も引かない日もある。描きたくなれば描くだろうと思う。
第一章 歳と折れ合って生きる(亡くなった人にどこかで会えるかもしれない/楽観的に生きる/外界とは積極的に付き合う/今の自分を高く評価する/若き日も暮れる日も、それなりにいい/長生きの秘訣/豊かな時間を過ごしている/目に見えないものを求めている/人間ってこういうもの/なにかの導きがあって今の自分がいる)
第二章 幸福な一生になりえる(生きていく力は授かっている/自分で人生を工夫する/多くを持たないことの幸せ/あなたの運命を受け入れる/今日は出会えるかな?/幸福はあなたの自覚しだい/風はみんなに同じように吹いている/過去は確かで幸せなもの)
第三章 やれるだのことはやる(生き延びる/期待して生きている/生まれたときの自分に信を置く/自分はなにをしたいのか考えるべき/最後まで自分の足で歩く/この世に縁のない人はいる/そのへんでやめておく/命を粗末にしない/「玄」は人生の始めで終わり/「玄」へ続く道)
第四章 心の持ちかたを見直す(自分で自分がわからない/人生の本分が大事/自然にまかせる/筆をとれぱ思い生ず/きものは謙虚、洋服は尊大/日本の木の四角いお風呂は哲学空間/江戸っ子の批判精神/もっと自分たちで生み出す努力を/無知は人生の損/芸術が寄り添ってくれる/なにげない生活のなかに芸術はある/後世に希いを託す)
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