徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1.平成30年8月4日
”植物はなぜ薬を作るのか”(2017年2月 文藝春秋社刊 斎藤 和季著)は、動かないという選択をした植物は生き残り戦略としてどのようにして、ポリフェノール、解熱鎮痛薬、天然甘味料、抗がん薬等の薬を作ったのか最先端の研究成果で説きあかす。
植物は多種多様な有機化合物を生合成している。薬用植物の主たる成分は、デンプン、イヌリン、脂肪油、タンパク質、蝋、粘液、ゴム樹脂、精油、バルサム樹脂、トリテルペン、ステロイド、サポニン、カウチュック、タンニン、リグナン、リグニン、配糖体、アルカロイド、カルシウム塩などである。人類はおそらく文字として歴史に残されていないくらいの大昔から、薬用植物を用いてきたと考えられている。モルヒネやキニーネ、ヤナギの成分から作ったアスピリン、生薬を用いる漢方薬など、人間は古代から植物の作る薬を使ってきた。しかし、つい最近まで、なぜ、どのように植物が薬を作るのかは解明されていなかった。根源的なメカニズムがわかってきたのは、2000年代に入って植物のゲノム配列が決定されてからのことである。斎藤和季氏は1977年東京大学薬学部製薬化学科卒業、同大学院薬学系研究科に進学、1982年薬学博士号取得、1985年千葉大学薬学部助手、1987年ベルギー・ゲント大学分子遺伝学教室博士研究員、現在、千葉大学大学院薬学研究院・教授、薬学研究院長・薬学部長、理化学研究 所環境資源科学研究センター・副センター長を務めている。生薬学、薬用植物や植物成分のゲノム機能科学、バイオテクノロジーなどの研究と教育に携わり、文部科学大臣表彰科学技術賞、日本生薬学会賞、日本植物生理学会賞、日本薬学会賞を受賞している。地球の人口は21世紀中に100億人に達するだろうと予想されている。薬となる植物成分に限らず、光合成に依拠した植物の自立的な生産性は、食料、燃料、工業原料を作り出し、さらに二酸化炭素の循環の鍵として、宇宙船地球号に同乗している人類の生存を支えている。人類は命の源である植物のことをもっと良く理解し、上手に利用しながら、人類と植物の関係も新しい段階に進まなければならない時代に来ている。植物は私たち人間に優しくするために、私たちの体に良いものを作っているわけでは決してない。植物は、厳しい進化の歴史の中で、極めて巧みに設計された精密化学工場によって、多様な化学成分を作るという機能を発達させて、進化の歴史の厳粛な審判に耐えてきたのである。私たち人間は少しだけ借りて使わせてもらっているに過ぎない。本書は、著者が長い間釈然としない思いのままでいた違和感を題材にした、いわば、もの言わぬ植物からの伝言メッセージである。植物はなぜ、どのように、このような多様な化学成分を作るのか、という根源的な問題を、植物の側から捉えることに重きを置いたという。 著者は、植物化学成分が植物のなかでどのようにできるかという生合成の解明の研究からスタートし、その後、植物での遺伝子組換えや、バイオテクノロジーに応用する研究に携わった。さらに、2000年以降ゲノム時代に突入してからは、メタボロミクスとゲノム機能科学研究に研究領域を広げた。この間、一貫して、薬用植物などの多様な植物で作られる多様な植物成分の不思議さに魅せられていましたという。とりわけ、なぜ、植物はかくも多様な化学成分を作るのだろう?どのようにして、多様な成分を作るのだろう? これを作る酵素やその遺伝子は、どのように進化してきたのだろう?このように特異的な化学成分=二次代謝産物は、植物にとってどのような役割や意義があるのだろう? という根源的な問題に取り憑かれている。同時に、おそらく人類の誕生とともに、このように多様な植物化学成分を薬として使い、さらに常に新薬を開発しつつある、人類の知恵の素晴らしさにも驚かされている。さらに、おそらく本来的に植物成分を介して相互作用している、植物と人類を含めた生命同士の関わりあいも、大きな関心事である。第一章では、東西での医療に関する考え方の違いも交えて、植物からの薬につて考える。第二章では、薬になった植物成分について、身近な例を挙げながら解説する。第三章では、なぜ植物は薬を作るのかという問題について、いくつかの実例を挙げながら考える。第四章では、どのように植物は薬の元になる物質を作るのか、その仕組みについて考察する。第五章では、このような薬になる成分を作る仕組みが、どのように進化したかについて考える。第六章では、その仕組みを応用したバイオテクノロジーによる植物成分の人工的な生産について見ていく。最後に、第七章では、人類はどのように植物と相互共存していくべきかについて考え、未来の展望と期待を述べる。
第一章 植物から作る薬
■古代から人類は植物が作る薬を使ってきた/チンパンジーも薬を使っている/薬の発見はセレンディピティーによる■自然からの薬「生薬」/「生薬」自然にもっとも近い薬/「生薬学」は薬学の源泉/「本草学」は薬草についての知識■薬はどのように天然物から開発されたのか?/中国最古の薬物書『神農本草経』/近代薬学はモルヒネの単離から始まった/東西の薬に対する考え方の違い/医薬学における要素還元主義/東洋における全体システム主義/医療における西洋と東洋の融合/現在では医師の9割が漢方を使っている
第二章 薬になった植物成分
■ケシを原料とする鎮痛薬モルヒネ/ケシ坊主から採れるアヘン/モルヒネの鎮痛作用/なぜ、ケシはモルヒネを作るのか?■解熱鎮痛薬アスピリンはヤナギの成分から/ヤナギの成分サリシン/アスピリンの作用を解明してノーベル賞受賞/植物の全身に危険を知らせる■タバコやコーヒーなどの嗜好品における植物成分/ニコチンは猛毒/ニコチンで昆虫や小動物を撃退/お茶やコーヒーに含まれるカフェイン/アレロパシー■天然甘昧料となるグリチルリチンを含む甘草/甘草は漢方で最も使われている生薬/甘草の主成分グリチルリチンはサポニンの一種/グリチルリチンの植物における役割■植物からの万能薬-ポリフェノール/ポリフェノールは代表的な植物成分/抗酸化作用とはどういうもの?/薬になったポリフェノール/ポリフェノールの植物における役割/乾燥と紫外線を防ぐフラボノイドとアントシアニン/タンニンの渋み戦略/植物の生長をコントロールするフラボノイド■植物から得られる抗がん薬/臨床的に用いられている四つの抗がん薬/ニチニチソウが作るピンカアルカロイド/タイヘイヨウイチイから発見されたパクリタキセル(タキソール)/キジュのエキスから作るカンプトテシン/ポドフィルム属植物からのポドフィロトキシン/毒性のある成分を作る植物への疑問
第三章 植物はなぜ薬を作るのか?
■植物の生存戦略が多様な代謝産物をもたらした/「自然の恵み、植物からの贈り物」は大きな誤解?/動けない植物の巧みな生存戦略/生命が持つべき属性/その1 同化代謝戦略-太陽エネルギーと土からの栄養による光合成/その2 化学防御戦略-様々なストレスに対する化学兵器による防御/植物の作る防御物質が薬になる理由/敵を寄せつけない強い生物活性 アトロピン ベルベリン グルコシノレート/どんな敵にも対応できる豊富なバリエーション/敵は虫や病原菌ばかりではない/葉の形や向きを変えてストレスを避けることも/化学成分でもストレス撃退/栄養が足りなくなったときも植物成分が役立つ/その3 繁殖戦略-化学成分で相手を引き寄せる/夜、放たれる甘い香り■植物は何種類の成分を作るのか?/植物成分は何種類あるのか?/地球上にある植物種の数/一種の植物種に含まれるメタボローム/地球上の植物成分の数
第四章 植物はどのように薬になる物質を作るのか?■植物は自然を汚さない精密化学工場/個人的な経験から/地球を汚さない緑の精密化学工場■一次代謝と二次代謝(特異的代謝)/一次代謝はどの生物種にも共通している/最低限生きるための一次代謝産物/よりよく生きるための二次(特異的)代謝産物/二次(特異的)代謝は何のためにある?■植物の二次代謝経路から作られる成分とは/共通の前駆体で分類される/主な二次代謝経路は五つ ①ポリケチド経路-便秘に効く大黄やアロエの成分はこの経路から ②シキミ酸経路-スパイスや心地よい香りの芳香成分を作る ③イソプレノイド経路-柑橘類やハッカ、樟脳、甘草、ジギタリスなどの多様な植物成分を生み出す ④アミノ酸経路-モルヒネ、ニコチンなどアルカロイドを生成 ⑤複合経路・抗酸化性フラボノイドやキニーネ、抗がん薬の成分を作る
第五章 植物の二次代謝と進化のしくみ■植物はなぜ、自らが作る毒に耐えられるのか?/毒性成分に対する自己耐性のしくみ/毒を液胞に隔離してしまう/細胞の外や隣の蓄積空洞に吐き出す/標的タンパク質を変異させる/カンプトデシンを作る植物の自己耐性-新しい仮説/酵素に突然変異が?/突然変異は人間の耐性がん細胞にも起きていた/カンプトデシンを作る植物の中で同じような変異が/進化の途中にある植物種/抗がん薬の耐性を予知できる?■新たに分かってきた進化のしくみ/アミノ酸代謝から分岐してアルカロイドを作る/ルピナスのスイート変種とピター変種/ビター変種だけに発現する酵素遺伝子/シダ植物でも同じ進化が起こっていた/生合成遺伝子群がクラスターとしてゲノム上に集まる/なぜクラスターを作っているのか?■進化における植物成分と摂食動物の相互協力/トウガラシのカプサイシンと鳥の奇妙な協力関係/ジャガイモの毒とアンデスのピクーニャの関係
第六章 バイオテクノロジーと植物成分
■植物のゲノム構成/植物細胞の中では/核染色体ゲノム/葉緑体とミトコンドリアのゲノム■ゲノミクスからの発展-すべてを見るオミクス/「オーム」と「オミクス」のもたらした革新的進歩/オミクスによって遺伝子機能を決める/メタボロミクスによってわかること■植物の遺伝子組換えとゲノム編集/遺伝子組換えとそのインパクト/遺伝子機能を決める逆遺伝学/私たちの生活と遺伝子組換え植物/青いバラ-夢はかなう/パープル・トマトで長生きできる?/今、話題のゲノム編集とは?■遺伝子を使って微生物で植物成分を作る/抗マラリア薬アルテミシニンを作る/甘草の甘味成分グリチルリチンを作る
第七章 人類は植物とどのように相互共存していくべきか?
地球を汚さない精密化学工場/生物多様性とゲノム多様性/生物多様性ホットスポット/新薬の6割は天然物からのヒント/遺伝資源の持続的な利用とCOP10/宇宙船地球号を支える植物-未来に向けて
参考文献一覧
2.8月11日
”筑波常次と食物哲学”(2017年10月 社会評論社刊 田中 英男著)は、身の回りのものをことごとく緑色で揃えていた緑の麗人の異名を持っていた農本主義者・筑波常次の講演録と著者との対話録を中心に様々な回想が綴られている。
筑波常次は、1930年に、東京・代々幡町代々木で侯爵の筑波藤麿の長男として、また山階宮菊麿王の孫として生まれた。山階宮菊麿王は、京都山科の門跡寺院・勧修寺を相続した山階宮晃親王の第一王子である。弟に、真言宗山階派大本山勧修寺門跡の筑波常遍がいる。祖母に当たる香淳皇后の母と筑波藤麿の母は姉妹であり、今上天皇ははとこにあたる。筑波常次は、学習院初等科から学習院中等科に進み、2年生の時、茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所で修練中、いじめを受けたことがあったそうである。1945年に、学習院中等科2年修了の資格で海軍経理学校に第39期生として入学した。戦後は農業に関心を持ち、山階鳥類研究所設立者の伯父・山階芳麿の紹介で、日本農業研究所の臨時農夫となった。1948年に東京農業大学予科に入学したが中退し、1949年に東北大学農学部に入学した。1953年に卒業し、東北大学学院農学研究科修士課程に入学した。専攻は作物遺伝育種学で、1956年に修了した。同年、法政大学助手、専任講師、助教授を経て、1968年に依願退職した。同年、青山学院女子短期大学助教授に就任し、1970年に同校を依願退職した。1981年まで、フリーランスの科学評論家として著述業に従事する傍ら、早稲田大学教育学部などで非常勤講師を務めた。1982年に早稲田大学政治経済学部助教授、1987年に同教授となり、2001年に定年退職した。日本農業技術史、生物学史の研究で知られた。田中英男氏は1943年福岡県大牟田市生まれ、法政大学文学部在学中から筑波常治に師事したという。筑波常次氏は2012年4月13日金曜日に亡くなった。この週の月曜日は9日であった。食事の予約をするので、4月13日か、4月9日のいずれがよいかと師に伺うと、どっちでもいいですという返事であったという。場所は、神楽坂のうなぎ屋である。日時は、4月9日午後6時、これが師との最後の夕餉となった。このうなぎ屋は、先生とはじめて会食したところで、桜が散り葉桜となった頃であった。師は この時33歳。弟子は20歳で、献立はやはりうなぎであった。師は、この時法政大学の教師、たぶん助教授であったろう。弟子は、日本文学科の学生であった。筑波常治は、1961年に”日本人の思想-農本主義の時代”を上梓して、社会的反響を呼び起こした。以後、”米食・肉食の文明””自然と文明の対決””生命科学史”など多数の著作を通して、精力的に現代文明批判を展開した。農本主義は、第二次世界大戦前の日本において、立国の基礎を農業におくことを主張した思想もしくは運動である。明治維新以降、産業革命による工業化の結果、農村社会の解体が進むと、これに対抗して農業・農村社会の維持存続をめざす農本主義が成立した。商品経済が浸透した封建末期や帝国主義段階の後進資本主義国で、農業の危機に際して唱えられた。特に日本やドイツでは軍国主義やファシズムと結び、富国強兵の基調となった。筑波常治のいう農本主義は、これとは異なったものである。”日本人の思想-農本主義の時代”は、日本人の思想論の壮大なデッサンにむかう途中の作業としての、農本思想史に関するデッサン集である。農本思想史のさまざまな断面について、いく枚かのデッサンを描いてみる必要を感じ、デッサンなりに力を入れて練習したものであるという。第一の論文では、日本の農業技術のうち、品種改良の歴史とその技術を、第二は、日本における農学の成立史を振り返り、日本のアカデミズムの性格を解明することを志した。第三の論文では、日本での進化論の運命をたどりながら、キリスト教あるいはギリシャ的合理主義になっていると考えてよい。筑波常治を忘れられた思想家であるといい、また最後の農本主義者であるというのは、少なくとも、現在の日本の思想の根源がどこに発しているかの答えの幾つかがここにあると確信できるからである。筑波常治の今日的な意味を辿る筋道が認められる。第四の論文では、農業史の歴史をふりかえり、日本人に根づよい道徳主義の歴史観の源泉を掘
りおこす。第五の論文では、戦争中から戦後にかけて隆盛をきわめた家庭菜園を手がかりに、日本人の生活がいかにふかく伝統とむすびついていたかを探求している。第六の論文では、戦後における農本思想の存続をあきらかにし、日本人の実感主義ないし大衆崇拝のよりどころを追求している。このデッサンの肉付けは、”雑種について-ハイブリッド・ライス-」で第一の論文の補完がなされ、第二、第三論文については”米食・肉食の文明”において展開されている。第四および第五の論文は、”農業における価値観”で展開されている。そして、第六の論文は、”日本の農書”のベースになっていると考えてよい。
序にかえて-神保町から神楽坂へ
1 食物は世界を変える 講演録/食物史へのチチェローネ/雑種について-ハイブリッド・ライス考-/味の科学と文化/食物が歴史を作る
2 知恵の献立表 対話録/筑後の青と鎌倉の緑/チャタレー夫人VSマダム・ボーヴァリー/日本と英国/玄人と素人/グルメ時代の酒と煙草/ペルーへの旅/場末のおせち料理/新古今的/猫と犬/一冊の本/ダ・ヴインチとミケランジェロ/彼岸花/残酷な料理方法/職人の味/歯医者の”かくし味”/注文の多いラーメン屋/古本のベル・エポック/本居宣長と良寛和尚/飢餓世代の対話
3 まずしい晩餐/京都・山科・勧修寺への道/武州・粗忽庵を哭す/変革期の思想家-谷川雁・丸山真男・筑波常治/ある芸術家への手紙/最後の農本主義者
4 食後のコーラス/神保町物語/小津安二郎は世界一であるか/”筑豊”の子守歌/映画監督・森崎東/藝術空間論/黄昏の西洋音楽
エピローグ 食わんがために生きる-飢餓の恐れ
3.8月18日
“上杉鷹山と米沢”(2016年3月 吉川弘文館刊 小関 悠一郎著)は、”なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬ成りけり”で知られる名君・上杉鷹山の思想と行動とゆかりの地を紹介している。
上杉鷹山は、1751年に高鍋藩江戸藩邸にて秋月種美の次男として生まれ、幼名は直松、直丸、名は治憲と称した。1759年に米沢藩主上杉重定との養子内約により、1760年に重定の世子となり上杉家桜田藩邸へ移った。出羽米沢藩藩主上杉家9代を継ぎ、後に、倹約を奨励し、農村復興・殖産興業政策などにより藩財政を改革した。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。小関悠一郎氏は、1977年宮城県仙台市生まれ、2008年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了、博士(社会学)として、現在、千葉大学教育学部准教授を務めている。江戸幕府の成立からおよそ150年、18世紀なかばの日本社会は、大きな時代の変動を経験しつつあった。全国で商品生産が進み、特産物生産地帯が飛躍的に発展する一方で、その社会には貧富の格差が顕在化しつつあった。他方で、幕府・諸藩は財政窮乏の度を深めて苦しい生活を余儀なくされる武士が増え、商品生産の成果を吸収しようとする幕府・諸藩の政策が各地で百姓一揆に直面するなど、政治・社会の秩序の大きな動揺を経験した。上杉鷹山は1766年に元服し勝興と名乗り、従四位下弾正大弼に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治憲と改名した。1767年に重定が隠居して治憲が米沢藩主となり、1769年に幸姫と婚礼をあげ初めて米沢に入った。当時、大名は誰も彼も華美な生活の中に生まれ育っていて、財政赤字の原因などはさっぱり、というありさまであった。そんななか、少しでも厳しい年貢取り立てや慣行を破る新法が出されれば、年々うち続いてそこかしこから一揆徒党の情報が入ってきた。慣行を破る新法々の主要なものの一つには、幕府・諸藩が、特権商人・有力農商層らと結んで実施した殖産政策をあげることができる。商品生産の発展を踏まえて、それぞれの利益を追求する動きが、政策レベルで課題とされたといえる。それは、江戸時代の政治・社会がそれまで培ってきた規範や秩序を破り、貧富の格差を一層拡大する方向性をはらむものでもあった。幕藩の為政者たちは、人びとの政治的社会的意識・秩序の動揺と変容にいかに対峙し、どのような選をするかが問われはじめていた。本書は、こうした時代のなかで、名門大名上杉家に養子に入り、出羽国米沢藩主として政治改革を行ったことで有名な上杉鷹山の生涯とその足跡をたどろうとするものである。鷹山は上杉家の祖・謙信から数えて10代目の上杉家当主にあたっている。その謙信と数次にわたり川中島で対峙した武将武田信玄が詠んだ歌に、”為せば或る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ”というのがある。やればできるし、やらなければできない。できることをできないといってやらないのは愚かなことだ、といった意味である。これとよく似た”成せば成る成さねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬ成りけり”と詠んだのが鷹山である。上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両、現代の通貨に換算して約150億から200億円に累積する一方、石高が15万石、実高は約30万石であった。初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。加わえて農村の疲弊や、寛永寺普請による出費、洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸での生活費を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果、1769年に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。1773年に改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したがこれを退けた。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。1785年に家督を前藩主・重定の実子で治憲が養子としていた治広に譲って隠居したが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移った。1802年に剃髪し、米沢藩領北部にあった白鷹山からとったと言われる鷹山と号した。1822年4月2日早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に享年72歳で死去した。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所にある。
〝成せば成る〟上杉鷹山への眼差し
Ⅰ 上杉鷹山の履歴書/藩主への道/「仁政」を求めて-明和・安永改革の展開/隠退の謎/寛政の改革)/日本史教科書のなかの藩政改革/人物相関/
Ⅱ 藩政改革の思想/学問・知識と藩政改革/「明君」と民衆/「改革」のシンボル-明君像の形成と変容)-/仁政徳治と法治主義/
Ⅲ 米沢をあるく/米沢城跡/祠堂(御堂)跡/上杉神社・稽照殿/松岬神社/餐霞館遺跡/上杉家廟所(御廟所)/米沢市上杉博物館/市立米沢図書館/藉田遺跡/黒井半四郎灌田紀功の碑/常慶院/長泉寺/春日山林泉寺/酒造資料館 東光の酒蔵/普門院・羽黒神社/文教の杜ながい・丸大扇屋)/
参考文献/上杉鷹山略年表
4.8月25日
”松永久秀と下剋上-室町の身分秩序を覆す”(2018年6月 平凡社刊 天野 忠幸著)は、室町時代初めに畿内を支配し室町幕府との折衝などで活躍し権勢を振るった松永久秀について最新の研究成果から武家社会の家格や身分秩序に挑む改革者としての側面を紹介している。
室町時代において、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す下剋上が起こった。応仁の乱によって将軍の権威は失墜し、その無力が暴露するに及んで、守護大名の勃興と荘園制の崩壊を招き、実力がすべてを決定する時代が現出したのであった。その結果、将軍は管領に、守護は守護代に取って代られ、農民は一揆をもって支配階級に反抗するようになった。足利将軍が管領細川氏に、細川氏が家臣三好氏に、三好氏が家臣松永氏にそれぞれ権力を奪われ、松永久秀が将軍足利義輝を襲って自殺させた。松永久秀は戦国時代の武将で大和国の戦国大名であり、官位を合わせた松永弾正の名で知られる。三好長慶に仕えて頭角を現し、将軍から主君と同等の待遇を受けるなど権勢を振るった。天野忠幸氏は、1976年兵庫県生まれ、大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(文学)で、専門は日本中世史である。滋賀県立大学、大阪市立大学、滋賀短期大学、関西大学、奈良県立医科大学の非常勤講師を務め、2016年から天理大学文学部歴史文化学科歴史学専攻准教授となり今日に至っている。松永久秀は1508年生まれで、生い立ちについては不明な点が多く、山城国西岡の商人説、阿波国市場の武士説、摂津国五百住の百姓説など諸説がある。著者は、妙福寺の伝承の信憑性から、摂津国五百住村に住む土豪であったとの説に拠っている。久秀は32歳頃に細川晴元の被官・三好長慶の書記として仕えたとされる。やがて、合戦でも能力を発揮するようになった。1540年に、三好長慶が連歌田を円福寺、西蓮寺、東禅坊の各連衆に寄進する内容の書状に、久秀の名が見られるのが初見である。1542年には、三好勢の指揮官とし出陣した記録が見られる。久秀は弾正忠、弾正少弼、山城守、霜台、道意とも言い、戦国時代の下剋上の代表として最もよく知られた戦国武将である。小説やドラマでは、主家の三好氏や、将軍の足利義輝を暗殺し、東大寺の大仏を焼き払うなど、常人ではできないことを、一人で三つもしたことで恐れられたとされる。さらに、織田信長に三度も歯向かうが、二度までも許されたとし、その最期は、1577年に信貴山城の天主で信長が望んだ平蜘蛛の茶釜を道連れに自害するなど、強烈な個性の持ち主として描かれている。こうした多くの逸話から、久秀は忠誠心のかけらもない謀叛人、神仏を恐れぬ稀代の悪人というマイナスイメージがある。一方、実力主義の果断な名将、築城の名手、名物茶器に命を懸けた茶人というプラスイメージもあって、戦国乱世を象徴する人物として魅力を放ってきた。”信長公記”の作者・太田牛一は、将軍義輝を討ち取ったのは、三好長慶の養子義継と松永久秀の嫡子久通であるのに久秀とした。別のところで、討ったのはすでに死去していた長慶としていて、正確な情報をつかんでいなかったために混同したようである。また、”常由紀談”の作者・湯浅常山は、朱子学を重んじる立場から久秀を反面教師として、幕藩体制下の家格秩序を守ることを説こうとした。”日本外史”の作者頼山陽は、久秀の三悪と、信長が欲した平蜘蛛の釜をうちこわし自害する最期を記した。久秀に限らず、戦国武将は、江戸時代に創作されたイメージが流布していることの方が多い。21世紀になってから、細川氏や三好氏を中心に畿内の政治史を叙述する視点が出された。足利氏・細川氏・畠山氏・六角氏・三好氏の本格的な研究が進み、その成果が研究者同士で共有され始めた。松永久秀も、三好氏研究や戦国期の大和研究から独立し、専論が出されるようになり、その実像がわかるようになってきた。本書では、こうした研究成果を踏まえて、松永久秀を戦国時代の政治や社会状況の中で考えていきたい。その際、下剋上とは何かということと、織田信長英雄史観を超えて実像に迫るということの、二つの視点に留意したい。室町時代の身分秩序の頂点に位置したのは、天皇を除くと足利将軍家であった。足利氏が、公家・武家・寺家の権門、および中央と地方に君臨していた。戦国時代に実力のある者が上の者を否定するといっても、それは鎌倉幕府草創以来の身分秩序の改変であり、言うは易く行うは難しであった。畿内近国でも織田信長は、主君の斯波義銀や足利義昭を殺害していない。その結果、義昭の身分秩序や家格秩序の改変は、戦国時代といえども、決して容易ではなかった。現在、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は三英傑として誰もが知る存在であり、中でも信長の人気は非常に高い。頼山陽は信長の行動を非常事であるからやむを得ない処置であったと擁護し、勤皇の視点を持ち込んだ。戦後、信長を勤皇の視点から語ることはなくなったが、革命児としての位置づけは変わっていない。松永久秀は、三好長慶に登用され、その家臣として頭角を現わした。そして、三好氏の下で大和一国を支配するようになる。そうした過程で、下剋上と呼ばれている久秀の行動の実態をとらえていく。また、足利義昭や織田信長の上洛に際し味方したのに離反している点は、信長英雄史観にとらわれずに、むしろ義昭幕府や織田政権の矛盾として、その要因を探っていきたい。
はじめに-“戦国の梟雄”が戦ったものはなにか/第1章 三好長慶による登用/第2章 幕府秩序との葛藤/第3章 大和の領国化/第4章 幕府秩序との対決/第5章 足利義昭・織田信長との同盟/第6章 筒井順慶との対立
5.平成30年9月1日
”日本のワインで奇跡を起こす-山梨のブドウ「甲州」が世界の頂点をつかむまで”(2018年7月 ダイヤモンド社刊 三澤茂計/三澤彩奈著)は、伝統ワイナリーの夢を継ぎ世界屈指のコンクールで最高賞を連受賞した中央葡萄酒株式会社の革新的な父娘の挑戦を紹介している。
中央葡萄酒は、1923年に初代・三澤長太郎氏が勝沼に創業したのが始まりである。1959年に設立されたのが中央葡萄酒株式会社で、三代目にあたる三澤一雄氏が現在の土台を築き、ワインブランド”グレイス”が誕生した。ぶどう栽培からのワインづくりをモットーに、従来からの2haの農園に加えて、新たに8haの農場を拓いた。1980年には12万本のワインを貯蔵する熟成庫を地下に設け、1983年に国内初の原産地呼称ワイン=勝沼町原産地認証ワイン第1号を醸造した。1996年に新しい甲州種ぶどうを生み出すため、毎年500粒の種蒔きからの実生栽培に入った。1998年に日本初の国際ワインコンクールで最優秀国産ワインのトロフィーを受賞し、計4大会でトロフィーを受賞した。2002年にワールド・アトラス・オブ・ワイン第5版に、グレイス甲州が記載された。2005春にはぶどうの植栽が全て完了することとなり、ブドウ栽培に力を入れている。ただし甲州種については、一部の農家に限定して原料ぶどうの契約栽培を実践している。ワインの香りや味わいはブドウが決定づけるとの確信があり、醸造に関しても出来る限りナチュラルなワイン造りを信条としている。現在、4代目の三澤茂計氏が社長に就任し、2007年から長女が醸造責任者として腕を振るっている。三澤茂計氏は1948年山梨県甲州市生まれ、東京工業大学を卒業し大手商社勤務を経て、1982年に中央葡萄酒株式会社入社、1989年より代表者を務めている。2009年に海外展開を目的とした甲州オブジャパン=KOJを設立し、甲州という品種や産地の認知向上に貢献してきた。2014年に主力銘柄”キュヴェ三澤”で、世界で最も権威があるといわれるワインコンクール、デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード=DWWAで、日本で初めて金賞を受賞した。三澤彩奈氏は現在、中央葡萄酒株式会社取締役栽培醸造責任者を務めている。マレーシアのワインイベントを手伝った際、自社ワインを愛飲してくれていた外国人夫婦に感激してワイン造りの道へ入ったという。ボルドー大学ワイン醸造学部=DUADに入学し、卒業後、更にブルゴーニュの専門学校にも通い、2006年フランス栽培醸造上級技術者資格を取得した。その後、家業に戻り新たな知見を吸収しつつ、ブドウ栽培や醸造を父とともに見直してきた。そして、スパークリングワインやロゼワインなど新たな仕込みにも挑戦し、DWWAでは2014年以来、5年連続金賞を受賞し、2016年にはスパークリング部門でも最高賞を受賞した。15年前、新たに拓いた三澤農場は、勝沼ぶどう郷駅から40キロ離れた県北麓に位置している。ブドウ畑は南に望む富士山をはじめ四方が山に囲まれた、いわば盆地山梨の縮図でもある。東には深田久弥の終焉の地・茅ヶ岳があり山麓は広大で、EUにも輸出している”グレイス茅ヶ岳・甲州”の重要な産地である。北には八ヶ岳があり冬の八ヶ岳おろしは冷たく厳しいため、植え替えたばかりの若木となれば凍害から守るためにブドウ樹に藁を巻きつける。西に仰ぐ南アルプスには3000m級の山々が連なり、西から流れ込む低い雨雲を遮る。この地の日照時間が日本一である所以であり、標高700mにあり、夏には爽やかな南風が心地よい冷涼感をもたらす。ブドウは、その土地の条件や気候によって特有の成分が育まれ、ワインの出来栄えは、ブドウ個性の良し悪しに左右される。そして、栽培と醸造に関わる人が存在し、ワインにその土地独特の風味が醸し出される。世界各地にある銘醸地で必然的に良いブドウが生まれるわけではなく、恵まれた条件を備えていることに加え数十年、数百年の努力の積み重ねが背景に存在している。ワインは商品としての存在価値が第一であるが、伝播する文化の側面をもち合わせている。こうした合目的性と不変性の間をさまよいながら、ワインの魅力に取り憑かれ深く掘り下げようとしてきた。1975年からはじまる良い食品づくりの会では、伝統に基づき本物への希求を続け、食の4条件と4原則を掲げ、異業種でありながら互いに切磋琢磨してきた。4条件は、なにより安全、おいしい、適正な価格、ごまかしがないであり、4原則は、良い原料、清潔な工場、優秀な技術、経営者の良心である。甲州というワインは甲州という品種のブドウから造られた白ワインであり、コーカサス地方に発祥したワイン専用のブドウ品種の系統をもっている。シルクロードを通って中国大陸を渡り日本へたどり着いた、ミステリアスなブドウである。甲州という品種は、4ヘクタールの自社畑から試行錯誤の末に結実した、小房で糖度の高いブドウである。このブドウからは、今までの甲州とは格段に違うワイン用ブドウの味わいが感じられた。本書は二部構成で、第1部”成長前夜”は、父・茂計氏により、甲州の栽培と醸造を工夫し、産地として国内外でPRすることに腐心してきた軌跡について、ワイン産業全体の動きも踏まえながらまとめられている。第2部”飛躍のとき”は娘・彩奈氏が、シーズンオフに南半球のワイナリーで武者修行して鍛えられてきた様子や、そうして海外で学んだ科学的な栽培・醸造手法の実地にどう生かしてきたのか、また醸造家・小売店・消費者それぞれのワインの見方の違いなど日ごろの気づきも含めてまとめている。父の書斎で、ドイツ生まれでイギリスの経済学者であるF.アーンストーシューマッハーの”スモール・イズービューティフル”という言葉を大切にしているという。
はじめに 三澤彩奈
第1部 成長前夜 三澤茂計/第1章 “二流"の悔しさを忘れない/第2章 失敗が照らした新たなる道/第3章 貪欲に吸収する
第2部 飛躍のとき 三澤彩奈/第4章 「夢」を追い続ける/第5章 新たな挑戦を恐れない/第6章 さらなる高みをめざして
おわりに 三澤茂計
6.9月8日
”オッペケペー節と明治”(2018年1月 文藝春樹秋社刊 永嶺 重敏著)は、カチューシャの唄やゴンドラの唄と並んで明治期最大の流行歌の一つとなった文明開化の世相を風刺するオッペケペー節を通して明治20年代ころの近代化が始まった時代の空気に迫っている。
明治20年代は大日本帝国憲法が公布され、最初の総選挙が実施され、最初の議会が開かれた。議会政治の幕開けであり、ほかにもあらゆる面で日本に近代が訪れていた。そんな時代に広まり、いまとなっては忘れ去られてしまったオッペケペー節は、誰が作り誰が歌い始めたのであろうか。本書は、このような流行歌の伝播過程に関する問題に、オッペケペー節を題材にして取り組んだ試みである。永嶺重敏氏は1955年鹿児島県生まれ、九州大学文学部史学科卒業、図書館短期大学別科修了し、東京大学経済学部図書室に就職した。以後、法学部附属明治新聞雑誌文庫、史料編纂所図書室、駒場図書館、情報学環図書室、文学部図書室に勤務した。出版文化・大衆文化研究者で、日本マス・コミュニケーション学会、日本出版学会、メディア史研究会に所属している。オッペケペー節は、明治24、5年ごろ、日本中の人々が口ずさんでいた七五調の歌で、途中や末尾に、オッペケペッポー、ペッポーポーという囃子ことばが入る。ひょうきんな言葉の響きとは裏腹に、その歌詞には、心に自由の種を蒔け、洋語をならふて開化ぶりなど、政治的なメッセージや、鋭い批判、風刺があふれていた。これが文明開化の荒波に翻弄されていた当時の民衆の心をつかんだ。関西の落語界出身の川上音二郎が、寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされる。しかし、創始者は川上の師匠であった桂文之助(二世曽呂利新左衛門)の門人の3代目桂藤兵衛であったという説が有力である。桂藤兵衛は1849年大坂安治川通3丁目の米屋の子として生まれた。17、8歳の頃、初代桂文枝の男衆に入り、文馬を名乗り、九郎右衛門町の大富席の前座に出た。数年後、文車と改名し、その後、初代桂文之助=2世曽呂利新左衛門の門下となり、文字助を名乗った。暫く東京へ赴き6代目桂文治の世話になったり、名古屋の林家延玉門下で修行していた時期もある。帰阪後、1882年頃から京都を根城に、1885年3月、桂文左衛門門下で3代目桂藤兵衛を襲名した。木遣崩し、鎌倉節、オッペケペー節、郭巨の釜堀=テケレッツのパーなどをはやらせた。川上音二郎は1864年筑前国博多中対馬小路町生まれ、父親の川上専蔵は福岡藩の郷士で豪商であった。旧制福岡中学校の前身に進学したが、継母と折り合いが悪く、1878年に家を飛び出し大阪へ密航した。その後、無銭飲食で追われつつ江戸にたどり着き、口入れ屋・桂庵の奉公人に転がり込むが長続きせず、吉原遊郭などを転々とした。増上寺の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る福澤諭吉と出会い、慶應義塾の学僕・書生として慶應義塾に学び、一時は警視庁巡査となった。しかし長続きせず、反政府の自由党の壮士となった。1883年頃から自由童子と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1885年に講談師の鑑札を取得し、1887年には改良演劇と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助に入門し、浮世亭◯◯と名乗った。やがて、世情を風刺したオッペケペー節を寄席で歌い、1889年から1894・1895年の日清戦争時に最高潮を迎えて大評判となった。川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げし、同年、東京の中村座で板垣君遭難実記などを上演した。おおぎりに余興として、後鉢巻きに赤い陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして歌った。東京では、同年6月浅草中村座で歌った。人気が出ると歌詞は10数種類できていたという。東京でもオッペケペー節が大流行した。歌の変遷史に関する研究書も数多く出され、どの時代にどのような歌が流行したのか、おおよそ知ることかできるようになった。しかし、各時代に流行した歌かいったいどのようにして日本各地に広まりていったのかという歌の伝播過程となると、ほとんどわかっていない。また、オッペケペー節はいわゆる演歌の系譜とも関連してとらえられることか多く、演歌の元祖、演歌の第一号と位置づける事典もあるほどである。東京ではオッペケペー節を歌いながら唄本を売り歩くオッペケペー売りか街頭や縁日に群れをなすようになり、吉原の芸妓たちもオッペケペー節を盛んに歌い出したという。しかし、現在ではオッペケペー節はまったく歌われることもない。オッペケペー節には、いくつもの謎が解明されないまま残されている。そもそもこの歌を誰が作ったのか、誰か最初に歌い始めたのかさえわかっていない。さらに、テレビ、ラジオ、レコードもない時代に、この歌がどうやって日本全国に広まっていったのかについても皆目わかっていない。このような時代に、オッペケペー節という歌かどのようにして誕生し、大流行して、日本中で歌われるようになっていったのか。オッペケペー節の謎を追いかけなから、明治20年代の日本社会を探検する旅を楽しんでいただきたい。本書は、電波や音声メディアかまだまったく普及していない明治中期に、オッペケペー節という唄がどのようにして日本社会の津々浦々へ飛んでいったのか、その飛行の跡を追跡する試みである。
序章 よみかえる「オッペケペー節」
第1章 「オッペケペー節」関西で生まれる/京都の落語家グループと「オッペケペー節」/川上音二郎の台頭
第2章「オ″ペケペー節」東京公演で人気沸騰する/「オッペケペー節」関東へ向かう/「オッペケペー節」九州・東北へ拡がる/中村座公演と「オッペケペー節」の大当たり
第3章 「オッペケペー節」東京市中で大流行する/オッペケペーブームと印刷メディア/「オッペケペー節」の伝播ルート/「オッペケペー節」の歌われ方
第4章「オッペケペー節」全国で歌われる/最初期の伝播例/若宮万次郎の壮士芝居ルート/壮士芝居の拡がりと「オッペケペー節」/鉄道・蓄音器・選挙と「オッペケペー節」/その他の事例
第5章 「オッペケペー節」と声の文化/〈声の文化〉から〈文字の文化〉へ/「オッペケペー節」と声の文化
終章 その後の展開
参考文献
資料一「オッペケペー節」の替え歌 J
7.9月15日
“グアテマラを知るための67章【第2版】”(2018年7月 明石書房刊 桜井 三枝子編著)は、先住民の言葉で”薪になる木の豊かな場所”に由来し先コロンブス期にはマヤ文明が栄え現在も国民の過半数はマヤ系インディヘナの新たに発展を目指すあるグアテマラの現況を活写している。
グアテマラ共和国は太平洋とカリブ海に面した中央アメリカ北部の共和制国家で、北にメキシコ、北東にベリ-ズ、東にホンジュラス、南東にエルサルバドルと国境を接している。地形的には、北緯16度で北と南の二地帯に分け、さらに南部を山岳高原地帯と太平洋海岸地帯の二つに分けると、全体としては三地帯に分けられる。グアテマラは、緑豊かな森林と霊鳥ケツァル、世界遺産マヤ文明のティカル遺跡の国、として知られてきた。美しい刺繍の民族服をまとう先住民マヤ人は、遺跡とともに旅行社の観光案内の広告塔として登場する。本書はマヤの国と言われているグアテマラの現実を知ってもらうために、考古学年代から本書刊行の2018年という現代に至るまで、自然、文化・言語、歴史、政治・経済、社会・人権・教育、芸術・観光などについて総合的に理解できるように9部67章で構成されている。編著者の桜井三枝子氏は1944年生まれ、元大阪経済大学人間科学部・人間科学研究科教授で、京都外国語大学ラテンアメリカ研究所客員研究員である。博士(上智大学、地域研究)で、専攻は文化人類学、メソアメリカ地域研究である。執筆者は、茨城大学人文社会科学部教授・青山和夫氏、デロイトト-マツファイナンシャルアドバイザリ-合同会社国際開発アドバイザリ-シニアアナリスト・大木雅志氏、京都外国語大学外国語学部教授・大越翼氏、アタバル言語センタ-経営者・片桐真氏、関西外国語大学外国語学部特任教授・加藤隆浩氏、外務省参与・前駐グアテマラ特命全権大使・川原英-氏、文化人類学専攻・小坂亜矢子氏、専修大学経済学部教授・狐崎知巳氏、タペストリ-ア-ティスト・小林グレイ愛子氏、神戸市外国語大学・京都大学名誉教授・小林致広氏、グァテマラマヤ文化友好協会理事・近藤敦子氏、たばこと塩の博物館主任学芸員・榊玲子氏、名古屋文理大学健康生活学部准教授・杉山立志氏、グアテマラデルバジエ大学考古学人類学研究センタ-准教授・鈴木真太郎氏、元京都外国語大学教授・高林則明氏、京都市立芸術大学芸術資源センタ-非常勤講師・滝奈々子氏、京都外国語大学名誉教授・辻豊治氏、明治大学商学部特任准教授・敦賀公子氏、デルヴァジエ大学講師・テロン、アンドレア氏、国際フェイアレグリア連盟事務局イエズス会士・トゥリオ・ゴメス,マルコ氏、弘前大学教育学部准教授・富田晃氏、金沢大学人間社会研究域附属国際文化責源学研究センタ-教授・中村誠一氏、摂南大学職員・最谷川来夢氏、公益財団法人日本博勧館協会専務理事・半田昌之氏、摂南大学外国語学部准教授・藤井嘉祥氏、慶塵義塾大学法学部教授・本谷裕子氏、兵庫県立大学名誉教授・眞鍋周三氏、グアテマラデルヴァジエ大学大学院研究科教員・マルティネス,アラセリ氏、京都産業大学文化学部教授・村上忠喜氏、国立民族学博物館名誉教授・八杉佳穂氏、南山大学国際教養学部教授・安原毅氏、上智大学外国語学部教授・吉川恵美子氏、在エルサルバドル日本国大使館動務・吉田和隆氏、米国テキサス大学オ-スティン准教授・ロメロ,セルヒオ氏と、きわめて多数である。経済的には、エルサルバドルと共に中央アメリカの中位グループに属するが、1960年から1996年まで続いたグアテマラ内戦により治安や政治においてグアテマラ社会は未だに不安定な状態にある。グアテマラでは、36年間におよぶ陰惨な内戦がアレバロ・アルス大統領とゲリラ側最高司令官ロランド・モランの間で締結された1996年の和平協定で終わりを告げ、それから22年間が過ぎた。2006年に旧版『グアテマラを知るための65章』が上梓されてから12年が経ち、内戦終了後の混乱を経て急激な変貌を遂げる現状を見ると、旧版を改訂する必要が生じた。本書では、旧版の執筆者を主体として現状の追加補足を行った。専門分野で活躍し、すでにグアテマラに関する優れた専門書や論文を出版したベテラン研究者、新進気鋭のグアテマラ人と邦人の若手研究者たち、さらにグアテマラ在住のグアテマラ通の各氏が筆を競っている。読者はどの章から読み始めてもよく、本書内でテ-マや視点が重なる場合には、その章へ誘導されるように工夫がなされている。また、巻末に掲載した執筆者各氏が提供した内外の参考文献こそが、さらに奥深く調査研究を進めたい読者には最強の知的宝庫として役立つであろう。
Ⅰ グアテマラへの誘い/第1章 「薪になる木の豊かな場所」-多様な自然環境/第2章 歴史的変遷-行政区分と経済構造/第3章 グアテマラの地名-多くはナワトル語を起源・第4章 多様な人-と多様な文化-インディヘナとは、ラディーノとは/第5章 トウモロコシを育て食べる最高の技術をもつ人-食事の科学/第6章 旧都アンティグア市-世界遺産都市を散策する/第7章 新都グアテマラ市-拡大する都市化の光と影/第8章 交通インフラ事情-首都における深刻な交通渋滞/第9章 グアテマラと日本との関係-外交関係樹立80周年
Ⅱ マヤ文明の時代/第10章 ティカルとキリグア-マヤ文明の世界遺産/第11章 ティカル国立公園-日本の協力がきわだつ複合遺産/第12章 グアテマラ考古学界の現状-マヤ文明研究の最前線/第13章 ペテン県セイバル遺跡の調査から-マヤ文明の起源と盛衰の探求/第14章 西部高地三都市を訪ねて-ケツァルテナンゴ、チチカステナンゴ、ソロラ
Ⅲ スペインの征服と植民/第15章 ペドロ・デ・アルバラ-ドのグアテマラ征服-間断なく続く戦い/第16章 初代グアテマラ総督-アデランタ-ド・ドン・ペドロ・デ・アルバラ-ド/第17章 異文化との衝突と植民地支配体制の確立-スペイン人支配者と先住民/第18章 キリスト教の布教と先住民-神の名におけるマヤ先住民の支配/第19章 『ポポル・ウ-フ』と先住民文書の世界-植民地時代を生き抜く叡智/第20章 征服者セバスティアン・デ・ベラルカサル-中南米の歴史に大きな影響を及ぼしたコンキスタド-ル/21章 現中米5カ国を包含するグアテマラ総監領時代-メキシコ市やリマ市に次いで
Ⅳ スペインからの独立と近現代/第22章 独立前後-中米連邦共和国の成立と解体/第23章 独裁の時代-独裁者たちとアメリカ資本/第24章 民主主義の芽生え-10年間の春の季節/第25章 民主主義の挫折-内戦の勃発/第26章 あそこに火を放ったのは誰だ-スペイン大使館の悪夢/第27章 2015年大統領選挙-コメディアン出身の大統領誕生
Ⅴ 現代の政治と経済/第28章 新自由主義-開発につながらない自由化・開放化/第29章 米国企業の利権-バナナ産業を中心に/第30章 新経済政策-貧困問題をどうとらえるか/第31章 マキラド-ラ-韓国資本に支えられるアパレル産業の発展/第32章 マキラド-ラの労働問題-深まる労働者の窮状/第33章 拡大する中国のプレゼンスと台湾-近年高まる中国との経済関係/第34章 ディア・デ・プラサ-買い物・情報交換の重要な場である定期市/第35章 ソロラ地方の市場網-アルティプラノ南部の市場から/第36章 先住民の商人-9割以上がマヤ系先住民/第37章 大規模卸売商人の活動と生業構造の変動-1990年代のマヨリスタたち/第38章 米国のグアテマラ人-移民組織と国際送金/第39章 グアテマラとメキシコの国境-トランスナショナルな空間から考える移民問題
Ⅵ 紛争を乗り越え多文化主義へ/第40章 反乱と抵抗の500年-先住民による大地と尊厳の防衛/第41章 先住民族の権利-多文化性認知と自治権行使/第42章 国内武力紛争・ジェノサイド-長期内戦の構図/第43章 和平協定と残された課題-道半ばの協定履行/第44章 市民の安全保障・マラス-治安悪化のコスト/第45章 女性の権利拡大に向けて-女性運動のプロセス/第46章 エリ-ト教育から大衆教育への歩み-フェ・イ・アレグリア(信仰と喜び)教育の定着/
Ⅶ 宗教と伝統/第47章 プロテスタントの布教とカトリックの対応-カトリック改革派の浸透/第48章 中西部高地先住民の織りと装い-民族衣装の語り①/第49章 村ごとに異なる華やかな祭礼衣装-民族衣装の語り②/第50章 布が語るマヤ十字-グアテマラの民族衣装に魅せられて/第51章 グアテマラの仮面-伝統と変貌/第52章 マシモン(サンシモン)儀礼の諸相-甦るマヤの祖先神/第53章 サンティアゴ・アティトランの守護聖人祭-祭儀でまとまる強い絆/ 第54章 エスキプラスの黒いキリスト-中米和平樹立の地に教皇訪問 Ⅷ 言葉と人々/第55章 インディヘナの言語-マヤ諸語・シンカ語・ガリフナ語/第56章 マヤ文字-高度なメソアメリカ文明の象徴/第57章 テキスト-低地と高地に見られる特徴/第58章 現代の先住民言語状況-社会言語学的観点から/第59章 グアテマラ総監領のナワ系言語の役割-多言語社会におけるリンガ・フランカ/第60章 ガリフナの町-リビングストンの賑わい
Ⅸ 文化と芸術/第61章 アストゥリアスと〈魔術的リアリズム〉-時代に先駆けた中南米的現実への覚醒/第62章 モデルニスモにはじまる現代文学-トラウマとしての反革命クーデター/第63章 屋須弘平-100年前のアンティグアに暮らした日本人写真家/第64章 グアテマラ映画-映像文化の創成をめざして/第65章 グアテマラ現代演劇小史-「グアテマラの春」に双葉が芽吹いた/第66章 豊潤なグアテマラ音楽-祭礼音楽からロック・マヤまで/第67章 21世紀グアテマラの博物館-様-な貢献と新しい着眼点
グアテマラを知るための参考文献
8.9月22日
”武田勝頼-試される戦国大名の「器量」”(2017年9月 平凡社刊 丸島 和洋著)は、生き残りをかけて信頼が問われた乱世に偉大な父の跡目を継いで武田氏滅亡への道をたどった勝頼の不運の正体を探り戦国大名の本質を見ようとしている。
武田勝頼は諏訪勝頼とも言い、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名で、甲斐武田家第20代当主である。通称は四郎、当初は諏訪氏=高遠諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼、あるいは、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。丸島和洋氏は1977年大阪府生まれ、2005年に慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(史学)で専門は戦国大名論である。国文学研究資料館研究部特定研究員などを経て、現在、慶應義塾大学文学部非常勤講師、立教大学文学部兼任講師、早稲田大学エクステンションセンター講師、戦国史研究会事務局長を務めている。2016年のNHK・大河ドラマ”真田丸”では、黒田基樹氏、平山優氏と共に時代考証を担当した。ドラマの中に従来とは異なる新しい見解をかなり入れている。武田勝頼は1546年に武田晴信=信玄の四男として生まれたが、生誕地や生月日、幼名は不明である。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人で、実名不詳の乾福院殿である。武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は1541年に信虎を追放する形で家督を相続すると、諏訪氏とは手切となった。1542年に諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡した。晴信は側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、1546年に勝頼が誕生した。躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の義信や次男・信親に関する記事は見られるが、勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、”甲陽軍鑑”では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年に信玄の死により家督を相続した。強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退し、これを契機に領国の動揺を招いた。その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図った。しかし、織田信長の侵攻=甲州征伐により、1582年3月11日に嫡男・信勝とともに天目山で自害し、平安時代から続く甲斐武田氏は、戦国大名家としては滅亡した。近世から近現代にかけて、神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など。相対する評価がなされてきた。武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。武田勝頼という人物の研究が進展したのは、2000年代に入ってからのことである。2003年に柴辻俊六氏によって”武田勝頼”という伝記が新人物往来社から刊行された。それ以前の本格的人物伝は、1978年に上野晴朗氏が著した”定本武田勝頼”がほとんど唯一のものであった。上野氏の著書は一次史料を駆使しつつも、当時の史料的制約と前提となる研究状況から、”甲陽軍鑑”に依拠する面が多いことは否めない。その点で、柴辻氏の”武田勝頼”は大きな画期となり、同書刊行と前後して、勝頼期の武田氏研究が進められた。それ以前の武田氏研究は、あくまで信玄期が中心であり、勝頼期の研究は、補完的なものにとどまっていた。したがって、その人物像や歴史的位置づけも深められることは少なく、信玄の築いた領国を滅ぼした人物というマイナス評価が主であった。しかしながら、研究の進展により、勝頼像は一変してきた。特に、山梨日々新聞社の”山梨県史”通史編と、鴨川達夫氏の”武田信玄と勝頼”は、勝頼は信玄の負の遺産を受け継いだ人物という視点を確立させた。また長篠合戦に関する議論が再び活性化している点も見逃せない。近年大きく進展した分野のひとつが、軍事史だからである。このような研究動向は、武田氏を滅ぼした織田信長を相対化する研究が相次いだことで加速してきた。そこでは、信長が当初から全国統一を目指していたわけではなく、新将軍足利義昭のもと、室町幕府の再建に乗り出していたことがほぼ確定された。戦国大名研究の進展により、戦国大名とは全国統一を目指した権力ではないということが明らかにされていたから、信長も同様ということになる。同時に、信長の勝因とみなされてきた、兵農分離、鉄砲三段撃ち、楽市楽座なども相対化された。楽市楽座は他大名でも一般的にみられる政策と評価されたり、兵農分離、鉄砲三段撃ちは存在そのものが否定されりした。本書の課題は、こうした歴史的事実と、現在の研究動向をつなぎあわせた場合、武田勝頼という戦国大名には、どのような歴史的評価を与えればよいかに尽きる。もちろん、勝頼権力の前提として武田信虎や信玄が存在することはいうまでもないが、本書では信玄期の勝頼にかなりの紙幅を割くこととした。
第一章 勝頼の出生と高遠諏方氏相続/第二章 思いがけない武田復姓/第三章 武田氏の家督相続と不安定な基盤/第四章 長篠合戦/第五章 内政と外交の再編/第六章 甲相同盟崩壊と領国の再拡大/第七章 武田氏の滅亡──戦国大名の本質/武田勝頼関連年表/主要参考文献
9.9月29日
”走り続ける力”(2018年7月 毎日新聞出版刊 山中 伸弥著)は、iPS細胞による再生医療の実現に向け、京大iPS細胞研究所を率い、苦闘する日々を紹介し、ノーベル賞科学者の栄光と挫折を語っている。
2007年にiPS細胞=人工多能性幹細胞の作製に成功したと発表してから、11年になった。iPS細胞技術を一日でも早く患者の皆さんのもとへという思いで、京都大iPS細胞研究所のメンバーや、国内外の研究者が研究に取り組んできた。努力のおかげで予想以上のペースで研究が進み、いくつかの病気では臨床応用の可能性が見えてきている。山中伸弥氏は1962年大阪府生まれ、神戸大学医学部卒業、大阪市立大学大学院医学研究科修了、学位は大阪市立大学博士(医学)である。米国グラッドストーン研究所博士研究員を経て、1996年に大阪市立大学医学部助手となった。1999年に奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター助教授、2003年同教授、2004年京都大学再生医科学研究所教授、2010年4月から京都大学iPS細胞研究所所長を務めている。皮膚細胞からiPS細胞を作りだすことに成功し、成熟細胞が初期化され多能性をもつことの発見により、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。また、ドイツのロベルト・コッホ賞、カナダのガードナー国際賞、米ラスカー賞、イスラエルのウルフ賞、京都賞など国内外の科学賞を多数受賞している。2011年に米国科学アカデミー外国人会員、2012年に文化勲章を授与されている。日本学士院会員で、京都市名誉市民、東大阪市名誉市民、奈良先端科学技術大学院大学栄誉教授、広島大学特別栄誉教授、ロックフェラー大学名誉博士、香港大学名誉博士、香港中文大学名誉博士などの称号を授与された。私たちの体は一個の受精卵が分裂し、多種多様な細胞へ分化して作られている。いったん分化した細胞、例えば皮膚の細胞は皮膚のままで、皮膚の細胞が突然筋肉の細胞になることはない。細胞の種類ごとに運命が決まっているのである。iPS細胞は細胞に少数の遺伝子を導入することで細胞の運命がリセットされ、受精卵のような状態になったものである。どんな細胞にも変化し、ほぼ無限に増殖する能力がある。私たちはこの特徴を生かし、病気の治療法の開発に向けた研究を進めている。iPS細胞を使う研究には、再生医療と創薬がある。再生医療とは、iPS細胞などから体の組織や臓器を作り、病気やけがで損なわれた機能を補う医療である。2014年には、理化学研究所のチームが中心となり、加齢黄斑変性という目の病気を持つ患者の皮膚細胞からiPS細胞を作り、そのiPS細胞から網膜の細胞シートを作製し、患者の目に移植した。これはiPS細胞を使った世界初の臨床研究で、臨床応用の可能性を示す大きな一歩であった。2017年3月には、事前に備蓄しておいた他人の細胞から作ったiPS細胞を使って、同様の手術が実施された。iPS細胞のもう一つの可能性は創薬、つまり新しい薬の開発である。患者の細胞からiPS細胞を作り、それを患部の細胞に変化させると、病気の症状を細胞レベルで再現できる。その細胞にいろいろな物質を投与して、細胞の状態を改善できれば、その物質が薬の候補になると考えられる。11年前に、世界のチームと競い合う中、最初にヒト・iPS細胞の作製に成功したという論文を発表した。やっと人でできた、でも、これからだと緊張したのを思い出すという。これは、マラソンに例えるとゴールが分かった感じであり、ゴールまでの道は決して平坦ではなく立ち止まる余裕はない。山中教授は40代半ばから趣味としてずっとランニングを続けている。京都大学に出勤している日は昼休みに走り、休日は近所を走り、出張にもランニングシューズを持っていき、日本だけではなく、世界中を走り回っている。2018年2月には、毎日新聞社主催の別府大分毎日マラソン大会に出場した。マラソンをはじめ、いろいろなスポーツで同様のことがいえるが、練習すればしただけ一定の成果か出るというのは人生の大きな励みになる。しかし、本業である研究は、やればやるほど成果が出るというものではない。研究で成果を出すには、マラソンで目標タイムを達成するまでの6年間よりも、はるかに長い時間がかかる。実験の9割は失敗するし、自分が進んでいる方向が正しいかどうかも容易にはわからない。研究を挫けずに続けるためには、失敗から学び続けることが重要である。失敗をおもしろいと感じられるかどうかが、研究を続けられるかどうかの分かれ目のように感じられる。自分の仮説通りの実験結果が得られるともちろんうれしいのであるが、予想外の結果でも落胆せずに、何かを学び取る姿勢が研究者には必要である。むしろ、未知の現象に遭遇したことに喜びを感じ、それを解き明かそうと研究のモチベーションにしていくことが重要だという。この11年のあいだ、さまざまな難病に苦しむたくさんの患者から、この病気をiPS細胞で治せるのはいつですかという質問を何回もいただいたが、基礎研究の成果を臨床で使えるレベルにするには、とても長い時間がかかる。例えば、約30年前に父の命を奪ったC型肝炎は、原因のウイルスが分かった1989年から特効薬販売まで25年近くの時間を費やした。基礎研究が臨床応用され、研究結果が花開くまで、20年、30年という時間がかかることは珍しくない。それは、動物実験をはじめとする基礎研究の結果をもとに薬の候補物質を見つけるといった、地道なプロセスによって治療法を開発し、それが人にも効果があるか、危険な副作用がないかなどを非常に慎重に検討する必要があるからである。本書ではiPS細胞研究に関する情報はもちろん、研究者が日頃どう考えどのように研究を進めているのかという点にも触れている。これから長い時間をかけて医療応用に向かって進んでいくiPS細胞研究のほか、未来のノーベル賞を目指せるような基礎研究を育てるには、優秀な指導者や充実した設備だけではなく、基盤となる社会の理解が必要である。そのために、研究者からの情報発信は今後ますます重要になると思われ、社会との適切なコミュニケーションを大切にしていきたいという。本書は、2017年に毎日新聞に”走り続けて”として、月一回、一年間連載したコラムが元になっている。せっかくなので、コラムをそのまま載せるだけではなく、著名な方々との対談や、いろいろな側面からの取材も含め、盛りだくさんの内容に編集していただいた。
第一部 走り続けて
第一章 走り続けてⅠ|臨床応用というゴール/第二章 走り続けてⅡ|私のビジョン/第三章 江崎玲於奈氏と語る、日本の科学技術の未来/ 第四章 井山裕太九段と語る、国際的に活躍するヒント
第二部 人間・山中伸弥
第五章 素顔の山中伸弥/第六章 Be open minded|山中教授と世界的バイオリニスト、レイ・チェン氏との友情/第七章 なぜ走り続けるのか/第八章 iPS細胞と再生医療研究の現状
10.平成30年10月6日
”ふしぎな県境-歩ける、またげる、愉しめる”(2018年5月 中央公論新社刊 西村 まさゆき著)は、日本各地に存在する複雑怪奇な県境について、そのような県境がなぜ生まれたのか、実際に行ってみると何があるのか、地元の人は不便ではないのかなど、県境マニアの著者が全国13ヵ所の県境を検証している。
一般的に県境は、川の上だとか、山の稜線に沿って引かれていることが多い。しかし、川の上や山の稜線に境目か実際にあるわけではなく、よくて県境かあることを示す標識やカントリーサインと呼ばれる看板か申し訳程度に立っているくらいである。そのため、県境を見に行くという趣味は、境目は見えないけれどここか境目だと思うとテンションがあがるという、形而上的な興奮や感動であるため、写真などのビジュアルでは伝えにくいというジレンマを抱えている。西村まさゆき氏は1975年鳥取県倉吉市生まれ、196年に上京し編集プロダクションに14年勤務し、その後、フリーライターになり、主にインターネットサイトで、地図、地名、県境などに関する記事を執筆している。県と県を分け隔てる線、県境であるが、現地におもむくと、たいてい線すらも引かれていないところか多い。こんな県境にいったいどんな魅力があるのか、不思議に思う方も多いかもしれない。たとえば、県境マニアというマニアが三県境と呼んでいるポイントがある。その名のとおり3つの県か境目を接する場所のことで、日本全国に48ヵ所あるといわれている。そのほとんどが水上や山の上にあるため、実際に行くことはもちろん、近づいて見るといったことも難しい。しかし、そんな三県境のなかでも、渡良瀬遊水地そばにある群馬、埼玉、栃木の三県境は、日本で唯一、鉄道駅から歩いて数分で行くことかできる。そのため、歩いて気軽に行ける三県境として県境マニアの聖地になっている。そこはもともと川の上であった。しかし、あの有名な足尾銅山鉱毒事件で発生した鉱毒対策で設けられた渡良瀬遊水地が造成される際、もともと県境が引かれていた河川の流路か変わったため、田んぼの中に突然三県境が出現した。つまり、県境が昔の河川の痕跡として存在しているのである。群馬、埼玉、栃木の端っこが接する場所は、なんの変哲もないただの田んぼのあぜ道でしかないが、あぜ道をまたいで歩けば、たったの二歩で埼玉、栃木、群馬をわたり歩くことかできる不思議な場所である。ところが、県境マニアはそこで満足し珍しい場所にきたなでは終わらない。なぜこんなヘンテコな境目が引かれることになったのかに思いをめぐらす。県境は一見、空間と空間を分け隔てているだけのように見えるが、なぜそこに県境か引かれることになったのかを考えると、たちまち時間を背負った存在にもなり深い意味が出てくる。県境マニアは、県の境界線の、この線からそれぞれの県の広大な県土が始まっていること、そしてその境界線の歴史、そこに関わる人々の営みに思いをはせる。ただの一筋の境界線を、地理や歴史をも含めた、立体的な魅力を持った境目として見ている。境界の魅力は、県境のみに限らない。町丁目の境界や市区町村境、果ては州境や国境に至るまで、境界となるものに関しては必ずそうなった理由が存在する。境界マニアは、そういった目に見えない物語を肌で感じるために、さまざまな境界線をめぐるのである。境目好きの人間であれば、何もなくてもこの道が群馬県と栃木県の境目かなどと、盛り上がることができるのだけど、あまりそういうものに興味のない人を県境に連れて行っても、何がすごいのか今ひとつピンとこないことか多い。そこで、見ただけでひと目で境目かわかるような場所、そんな場所かあれば、県境初心者の人でも十分楽しめるのではないだろうか。そんな思いで目を皿のようにしてグーグルストリートビューを探していたところ、県境初心者でも楽しめそうな場所が東京都練馬区と埼玉県新座市の間にあった。大泉学園駅からバスに乗り、目的の県境が近いバス停まで移動した。しばらくすると、県境近くのバス停の天沼マーケット前に到着した。バス停を降りると、県境はすぐそこにあった。そこには、かつてこれほどまでに県境か明確にわかる場所はあっただろうかというほど、明らかに歩道のつくりが違っていた。車道のアスファルト舗装も、ちょうど東京都練馬区と埼玉県新座市の県境で切れ目か入っている。県境の明瞭さが予想以上で、練馬区のアスファルトは粒が粗くて擦ると痛そうと、皮膚感覚で県境を堪能できる。県境がこれだけ目に見えてわかると、たしかに面白い。グーグルストリートビューで見られるが、やはり、本物を実際に見るというのは違う。最近は境界探訪の趣味がこうじて、国境をめぐりはじめた。まだそんなにめぐったわけではないけれど、ドイツ、オランダ、ベルギーの国境、韓国と北朝鮮の軍事境界線、中国と香港の境界など、行けそうなところからめぐっている。ただ、国境は、県境のように、軽い気持ちで境界にまたかって写真をとったりしてふざけることかできないところか多い。韓国と北朝鮮の国境である板門店に行ったときなどは、ピースなどはもってのほかで、引きつった笑顔で憲兵の横に近づき、記念写真を撮るのが精一杯だった。一方、ペルギーとの国境に近いオランダにバールレ=ナッサウという町がある。町の中に無数のベルギーの飛び地が存在し、さらに、そのベルギーの飛び地の中にオランダの飛び地が入れ子になっているという、複雑な国境を抱えた町である。オランダもベルギーもシェングン協定という、国境審査なしで国境を行き来できる協定に加盟している。この町の国境は、日本の県境ほどの気持ちで越境できるようになっている。もちろん、境目をまたいでの記念撮影も可能である。国境や境界の話になると、境界かあることの良し悪しを語ろうとする向きがある。しかし、境界がいさかいのもとになっているからと、区切るための目印でしかない境目を取り去ったとしても、それは問題の根本的な解決になるわけではない。境界線は、そこに境界を引く必要性かあって初めて引かれるものである。そういった人の営みを、何十年、何百年と積み重ねてきてその形になっている。いわば、境界線はその土地の歴史が刻み込まれた記念碑でもある。県境などの境界が、なぜそこに引かれているのかをニュートラルな目線で見つめ直すと、今まで気付かなかったことにいろいろと気付けるのではないだろうか。
1練馬に県境がひと目でわかる場所があるので見に行った/2店舗内に県境ラインが引かれているショッピングモール/3東京都を東西に一秒で横断できる場所/4「峠の国盗り綱引き合戦」で浜松と飯田が仲良すぎて萌え死にそう/5蓮如の聖地に県境を見に行く/6標高二〇〇〇メートルの盲腸県境と危険すぎる県境/7福岡県の中に熊本県が三ヵ所もある場所/8日本唯一の飛び地の村で水上の県境をまたぐ/9県境から離れたところにある「県境」というバス停/10埼玉、栃木、群馬の三県境が観光地化している?/11湖上に引かれた県境を見に行く/12カーナビに県境案内をなんどもさせたかった/13町田市、相模原市の飛び地の解消について担当者に話を聞く
11.10月13日
“松井 友閑”(2018年9月 吉川弘文館房刊 竹本 千鶴著)は、戦国時代から安土桃山時代の武将で織田信長の信任篤く政権を支え、堺代官、外交交渉役としても活躍した松井友閑の生涯をたどる初の伝記である。
松井友閑は織田信長の法体の側近で、舞の師匠を経て家臣となり、堺代官をつとめながら、将軍足利義昭や上杉・伊達・大友ら大名家、本願寺などのほか、逆心家臣との交渉役として活躍した。文化の才にも秀で、政権の茶の湯を統括し、大名茶湯の世界を作り上げ、晩年は文化人として過ごした。竹本千鶴氏は1970年神奈川県生まれ、1993年に國學院大學文学部史学科卒業、2004年に同大学院文学研究科日本史学専攻博士課程後期修了して、博士(歴史学)学位を取得した。現在、國學院大學・京都造形芸術大学講師を務めている。松井友閑は京都郊外の松井城で生まれたが、生没年はおろか、親、兄弟、家族もわからない。一般に知られている氏名は松井友閑であるが、それすらも確かな歴史史料にもとづいているとは言えない。加えて、肖像画も残されておらず、いわばないない尽くしである。松井氏は友閑の祖父の松井宗富が室町幕府8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々の幕臣として仕えていた。友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、1565年に永禄の変で義輝が三好三人衆らによって暗殺されると、後に織田信長の家臣となった。1568年の信長入京後は京畿の政務にあたり、信長の右筆に任じられている。右筆=ゆうひつは、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官である。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。右筆は、部将の華々しい活躍と比べると一見地味な役同りのようだが、信長政権を内側から、つまり信長のかたわらで主君を支えた有能な側近衆であった。友閑と信長との関係は、滋賀県の蘆浦にある観音寺に伝わる信長の書簡からうかがい知ることができる。信長は観音寺に宛てて、当地に滞在しているイエズス会の医師を派遣するよう求めた。理由は、友閑に腫れ物ができたのでその診察のためとあった。状況によっては外科的な治療も必要となるので、その分野の知識を有する者を求めたのである。これは、家臣を案じる信長の心中を読みとることができるエピソードであろう。信長にこれほど心配される友閑とは、いったいどのような人物であったのだろうか。信長の家臣といえば、羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家など軍事にすぐれた部将が有名であるが、先に登場した右筆の武井夕庵や楠長請、そして京都所司代の村井貞勝ら主に内政に携わった者の存在も軽視することはできない。だが、友閑はたんなる事務方だったわけではなく、独自の部隊を持ち、ことのほか信長からの信任篤く、重用されている人物であった。友閑に関わる史料をひもとけば、友閑が信長の吏僚として内政外交に、そして文化活動にと幅広く活躍した様子を見てとることができる。信長から重用された友閑の足跡をたどり、その生涯を明らかにすることが本書の課題である。友閑に関する研究は、主として二つの分野からなされている。ひとつは、戦国期に自治都市として繁栄を極めた大坂・堺に焦点を絞った研究のなかで、代官としての友閑に着目したものである。この関係で、友閑は文治的官僚として有能であったためにこの職についていたという指摘がある。いまひとつは信長の家臣団研究のなかで、側近としての友閑に着目したものである。この関係で、友閑の右筆説を否定したものがある。友閑の多岐にわたる才能はどこで培われたものであったのかは、はっきり分からない。謎めいた人物であるが、ただひとつ明らかなことは、信長なくして友閑の生き様を描くことは到底できなかった、ということである。舞の師匠とその弟子からはじまったと思われる友閑と信長との関係は、信長のための名物収集にはじまり、客人接待や寺社に関する奉行を経て、堺代官の就任という主従関係にいたった。だが、友閑は堺に常駐することはなく、信長の行動に合わせて移動する側近であった。それはひとえに、友閑が信長の意を直接受け、それを伝達および実行するためである。友閑はトップクラスの、ごく限られた吏僚のひとりとして、信長と奉行との間を取りもつなど、政権内における命令系統の中枢に位置した。また、対外的に信長にとって侮ることのできない存在であった。上杉謙信との外交のため春日山城に赴き、将軍足利義昭と交渉した。本願寺との和睦に際しては、信長の御意実行役、代弁者として奔走し、大徳寺や石清水八幡宮などの寺社、伊達や大友といった大名との窓口ともなった。こうして友閑は内政外交にいかんなくその手腕を発揮し、果ては近衛前久や勅使など公家衆からも一目置かれる存在になった。友閑の行動の軌跡は、そのまま信長政権の発展過程をたどる旅でもある。信長のもとには多くの有能な家臣が集結していたが、友閑のように多方面に、ことに政治と文化の両面で信長を支えた者はほかにはいない。信長が唯一訪問した家臣の茶会は、友閑の茶席だけであった。この一事をもってしても、信長と友閑との関係の深さをおしはかることができる。こうした人柄と知性とが友閑の最大の持ち昧であり、またそれを武器に
困難でデリケートな交渉や調停をなしとげてきた。信長が信頼を寄せるのも納得の逸材であり、友閑もまた、信長からの篤い信任にこたえ、友閑の生涯は信長とともにあった。本能寺の変当時、友閑は堺で茶会を催して徳川家康を歓待中であり、変を知ると上洛を目指したが途中で断念し、堺の町衆に変の勃発と信長の死を報じた。変後は豊臣秀吉に接近し、堺の代官として以後も活躍したが、1586年6月14日に突然不正を理由に罷免され、その後の消息は不明である。また、秀吉から利用価値を認められていた4年間、友閑が何を考えていたのかを示す史料は残されていない。
第1 友閑点描 /出自/名前と号/素養/松井姓/子息とされる人たち
第2 師匠から家臣へ /信長のための名物収集/饗応の場への参席/寺社奉行および取次
第3 初期の活動 /堺での名物収集と代官就任/はじめての対外交渉/大徳寺と上賀茂社との相論
第4 信長側近と堺代官の兼務 /将軍義昭との交渉と「堺衆」掌握/信長茶会での茶頭と蘭奢待截香の奉行/伊達家との外交
第5 宮内卿法印として多忙な日々のはじまり /宮内卿法印任官/本願寺との和睦交渉/信長の妙覚寺茶会とその跡見/信長の御意伝達役
第6 最高位の信長側近として /堺と京都を往復して/信長御成の茶会/政権下の茶の湯統轄と信長の堺御成/内政外交に活躍の日々
第7 ゆるぎない地位、そして突然の悲報 /饗応役と勅命講和の交渉/「王国の寧日」/信長のもとでの最後の任務/亡君信長の重臣として
第8 晩年 /混沌とする政局にのまれて/秀吉政権下における立場/堺代官の罷免とその後
略年譜/参考文献
12.10月20日
”ガンより怖い薬剤耐性菌”(2018年6月 集英社刊 三瀬勝利/山内一也著)は、世界中で薬剤耐性菌が蔓延し将来において感染死者数がガン死者を上回る可能性があるため耐性菌蔓延の現状と対処法を解説している。
人類はいまふたつの医学上の危機に直面している。ひとつはペニシリンなどの抗菌薬が効かない薬剤耐性菌が蔓延し死亡者数が増加していること、もうひとつは感染症のみならず、アレルギー、ガン、肥満、ぜんそく、自閉症、生活習慣病、潰瘍性大腸炎などの患者数が増えていることである。これらの危機は治療等で抗菌薬を乱用し、人が生きていく上で欠かせない腸内や皮膚の細菌・微生物を殺してきたのが原因である。三瀬勝利氏は1938年愛媛県生まれ、薬学博士で、東京大学薬学部卒業後、厚生省所管の研究機関で種々の病原細菌の研究に従事している。山内一也氏は1931年神奈川県生まれ、東京大学名誉教授で、東京大学農学部卒業後、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所などでウイルスの研究に従事してきた。薬が効かない恐ろしい多剤耐性菌による感染症が、明日にもあなたを襲うかもしれませんと書くと、何と大げさなことを書く人だと一笑に付される人がいるかもしれない。もっともなことであるが、筆者(三瀬氏)自身に降りかかってきた問題である、という。2017年7月に都内の病院の検査で、大腸ガンと肝臓に転移したガンが発見された。ガンの全摘出手術は難しかったが、幸いにも日本有数の名医に巡り合い、2018年の春の段階ではいちおう落ち着いている。このとき、肝臓の半分を切除する大手術だったこともあり、多剤耐性菌による手術後の感染が避けられなかった。退院した後、不注意もあり、多剤耐性菌による再感染が起こり、2ヶ月近くもの再入院を余儀なくされた。その間、外科処置の苦痛や、多剤耐性菌の感染がもたらす強烈な悪心、嘔吐、悪寒、高熱などで悲鳴をあげることが再三であった。注意していただきたいことは、もしも読者の中に、長年にわたって無用な抗菌グッズを使用したり、消毒薬や抗菌薬を乱用している人がいたら、自分が持つ腸内細菌叢などに多剤耐性菌が多くなり、怪我や手術で入院した後には、多剤耐性菌による感染で悩まされるリスクが増大すると思われる。現在の外科分野では、執刀医の手術の腕前はもちろん重要であるが、薬が効かない多剤耐性菌対策の適否が患者の入院期間の長さや生死までをも決定する。現在の人類はさまざまな危機に直面しているが、医学の分野でも大変に大きな危機に直面している。あまり表だって語られることがないが、医学の分野での危機は2つである。第一は、ペニシリンなどの抗菌薬が効かない薬剤耐性菌の蔓延による死亡者が急増していることである。これまで肺炎などの感染症に効果があった抗菌薬が、効かなくなってきているのである。イギリスの研究グループの調査によると、現在の状態が改められなければ、2050年には薬剤耐性菌による世界の感染症の死亡者数は年間1000万人に達すると予想されている。現在世界中のガンによる死亡者数は年間880万人と推定されているので、抗菌薬が効かない細菌による死亡者数は現在のガンを凌駕する恐ろしい数になる。第二は、アレルギー、肥満、喘息、潰瘍性大腸炎などの患者数が急増しており、その増加にストップがかからなくなっていることである。特に若者や幼児での急増が目立ち、患者数はほぼ毎年のように増加している。第一の危機と第二の危機が発生した原因は無関係のように思われるが、実は密接な関係がある。近年、人間は、ヒトと、ヒトの大腸の内部などに共生している細菌などの微生物とが分かち難く結合した複合生物である、という生物学上の新しいパラダイムが、アメリカのレダーバーグによって2000年に打ち立てられた。ヒトと共生している微生物とヒトは、それぞれの遺伝子群が結びついたキメラ状態になっている複合生物=超生物と見なされるべきだ、と述べている。キメラという言葉は、複数の異なる生物に由来する組織や細胞などから成る複合個体を指している。我々の大腸などにはたくさんの細菌が棲みついており、その数は100兆個にも上る。こうした細菌は我々に免疫力をつける役割や、食べ物の消化を助けて栄養を与える役割、外部から侵入してきた悪辣な病原微生物を抑える役割など、実に多くの恩恵を我々に与えてくれている。ところが、これら細菌の中で我々に有益な作用をもたらす善玉菌が抗菌薬などの乱用によって消滅したり、絶滅しかかっている。抗菌薬は多くの悪玉菌をやっつけてくれるが、同時に共生している善玉菌の方も巻き添えを喰らって殺滅・追放されている。その結果として、抗菌薬が大々的に使用される以前と比較して、アレルギー、喘息、肥満、潰瘍性大腸炎のような、難病などが急増しているのである。ヒトに共生している腸内細菌叢の構成が異常をきたすことで引き起こされる病気には、先に挙げたアレルギーなどのほかに、クローン病、自閉症、リウマチなども含まれる。我々と共生している細菌が殺滅されることが原因のひとつとなり、さまざまな病気が引き起こされている。そればかりか、抗菌薬の乱用は、薬の効かない薬剤耐性菌を生み出し、感染症の死亡者数の増加に直結している。1940年代から始まった抗菌薬の医療への大規模な使用は、感染症の制御に多大な役割を演じてきたが、いまや、新たな危機を人類にもたらしている。細菌もある数以上になると情報交換をして共同戦線を張り、不利な環境などをやり過ごす。例えば、ヒトが抗菌薬で細菌を退治しようとしても、細菌の方は全員で化学物質を出して連絡を取り合い、バイオフィルムという名前の生物膜の障壁を作って抗菌薬から逃れようとする。一度、病原細菌がバイオフィルムを作ると、抗菌薬が障壁の内部に浸透できないために効果が激減し病気の治療は難航する。ペニシリンをはじめとする抗菌薬が見境なく乱用されたため、細菌の側も防御態勢を取り始め、今や、ほとんどの病原菌で抗菌薬が効かない薬剤耐性菌が発生・蔓延し、薬剤耐性菌だらけになっている。ウイルス感染症に抗菌薬を使うことで、我々人間の重要な構成部分である有用な共生細菌を殺し、同時に薬が効かない薬剤耐性菌を生産しているとも言える。近年は新しい抗菌薬の開発が非常に難しくなっており、ヒトには強い毒性を示さないが病原微生物だけに強い毒性を発揮する、感染症の治療薬にふさわしい化合物の種類は、限定されていることを示唆している。本書では、我々人類が直面している危機の現状を紹介すると共に、微生物の特性や行動様式を紹介することで、具体的な感染症対策も提示している。
プロローグ 感染症の薬が効かなくなっている!/第1章 感染症の治療薬と薬剤耐性/第2章 抗菌薬の乱用がもたらした2つの災害/第3章 感染症を引き起こす病原微生物とその対策/第4章 ガンや循環器病の原因になる微生物/エピローグ 明らかになりつつある人体内の共生微生物の世界/用語解説/参考文献
13.10月27日
”日本人は、なぜ富士山が好きか”(2012年9月 祥伝社刊 竹谷 靭負著)は、日本最高峰の独立峰で優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られ数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与え気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている富士山は心の山だという。
標高3776.24 mの富士山は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。奈良・平安時代から江戸時代に至るまで多くの歌や随筆、絵画によって描かれてきた富士山は、いまや日本美の象徴であり日本人の心の山となっている。竹谷靱負氏は、本名・竹谷誠、1941年東京生まれ、富士山北口の御師である竹谷家の長子で、父親は出生前に出征、戦死したため、母親の生家である東京・武蔵野市で育った。ペンネームである竹谷靱負は、富士山北口に戦国期より約400年続く富士山北口御師である竹谷家の世襲名である。早稲田大学理工学部応用物理学科入学、1967年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、同年より日本電気株式会社中央研究所に勤務した。同社在職中の1981年に理学博士となり、1987年より拓殖大学工学部情報工学科助教授、1991年同大教授。2009年同大名誉教授となった。富士山学、富士山文化、富士信仰(富士講、富士塚など)に関する研究にも取り組み、現在、富士山の文化研究、富士山学専門家の第一人者である。富士山は古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至った。富士山は、日本一の山-これについて異論を唱える人は少ないであろう。東京の東京らしさは富士を望み得る処にある、といって憚らなかったのは永井荷風である。江戸っ子に限らず、富士山が予期せぬところで見えると何かしら得をした気分になるし、その日一日よいことがありそうな予感がする。それどころか、畏敬の念というか、手を合わせたくなるから不思議である。なぜ富士山が日本一なのか、日本一高い山だからだろうか。そういえ
ば、最近はあまり歌われなくなったが、明治43年の文部省唱歌「ふじの山」の歌詞を見ると、やはり高く聳える富士山だからこそ日本一ということになる。
一 あたまを雲の 上に出し/四方の 山を 見下ろして/かみなり さまを下に きく/ふじは 日本一の 山
二、青ぞら 高く そびえたち/からだに 雪の きもの きて/かすみの すそを とほく ひく/ふじは 日本一の 山
第三期・国定教科書『尋常小学岡語読本』巻六(大正7~12年)中にある「日本の高山」では、兄弟の少年が富上山について無邪気な会話をしている。そして最後に、「高くて名高いのは、どの山ですか」「それは富士山さ」と書かれている。明治28年に台湾が日本の統治下に入ったため、日本一の高山は台湾の最高峰・3952mの玉山になったが、兄弟は、台湾を含めた当時の日本の中で、山の偉大さを高さだけでなく名高さでも測ると、日本一の山は富士山だと主張したのだった。富士山に対する名高さの観念は、古代、万葉歌人・高橋虫麻呂は、富士を「くすしくもいます神かも」と詠ったことにも見られる。古代の富士は噴火を続けていて、貞観の大噴火をはじめとする度重なる噴火により、古代人はそこに荒ぶる神の姿を見て、霊妙な富士のイメージを増幅していったのであろう。さらに、富士山の特殊性はその山容の美しさにあり、富士山が好きな理由を尋ねられたら、たいがいの日本人は「美しいから」「崇高に見えるから」「独立峰だから」などと答えるにちがいない。平安期から中世にかけての多くの絵画・絵巻にその誇らしげな姿が表現され、文学においても同様に、万葉歌人・山部赤人は富士を「神さびて高く貴き」と詠い、江戸期の漢詩人・石川丈山は「八面玲朧、面向不背」と詠んだ。いずれも霊妙な富士のイメージに加え、完全なシンメトリーをもつ円錐形の山容が、美を醸しだしているという富士山讃歌である。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山、日本百名山、日本の地質百選に選定され、1936年には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年に特別名勝、2011年に史跡、さらに2013年6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。第一章「富士山は両性具有の山である」では、祭神論が語られている。第二章「富士山は、神仙郷である」では、三峰論が考察されている。第三章「富士山はどこにでもある」では、各地にあるところ富士(ご当地富士)を文化的に解説されている。第四章「富士山は外国からも見える」では、富士山は蝦夷や朝鮮や琉球からも見えるという。第五章「富士山は世界に誇る山である」では、葛飾北斎や横山大観の富士が取り上げられている。そして、第六章では「富士山は心の山である」となっている。
第一章 富士山は、両性具有の山である/富士山には、人格がある/遥拝する山から、登拝する山へ/富士山の祭神は、男神か?女神か?/庶民が登拝する山へ
第二章 富士山は、神仙郷である/なぜ子供は、富士山をギザギザの三峰に描くのか?/富士山を三峰としたのは誰か/伝説と神話の中の富士山/富士図のイコノロジー
第三章 富士山は、どこにでもある/「ところ富士」という文化/富士山と国粋主義/外国にもある「ところ富士」
第四章 富士山は、外国からも見える/蝦夷からも、見えた?/朝鮮からも、見えた?/琉球からも、見えた?/日本型中華思想の表現
第五章 富士山は、世界に誇る山である/北斎はなぜ、富士を仰がせたのか/横山大観の得た境地-「心神」
第六章 富士山は、心の山である/「富士は心の山なり」/病んでいる富士山は、日本人の心の労(いたつ)き/「噴火後の富士」を想定する
14.平成30年11月3日
”鉄道御普請最初より エドモンド・モレル”(2018年8月 ミネルヴァ書房刊 林田 治男著)は、明治初期のお雇い外国人の一人で英国人初代技師長として在職期間20カ月弱という短いなかで鉄道建設を指揮し日本の近代化を支えたエドモンド・モレルの生涯を紹介している。
明治5年=1872年と言えば日本はまだ開国間もない頃で、鉄道の技術などは皆無だったと言われている。明治政府はイギリス公使ハリー・パークスの推薦を受け、セイロン島で鉄道敷設の指揮をしていたエドモンド・モレルを日本に招いた。モレルは初代鉄道兼電信建築師長に就任し、以後、日本の鉄道建設の指揮に当たり、明治5年に日本で初めて新橋?横浜間に鉄道が開業した。林田治男氏は1949年長崎県生まれ、1980年山口大学大学院経済学研究科修士課程修了、1983年 京都大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学、大阪産業大学経済学部教授を経て、現在、大阪産業大学名誉教授を務めている。維新政府は、欧米先進諸国に早く効率的に追いつくことを目指し、多くのお雇い外国人を日本に招いた。それは殖産興業、富岡強兵のためである。当時アジアでは、日本やタイ王国などの一部を除いて欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。明治政府ではそれを回避するために、富国強兵を推し進めて近代国家を整備することを掲げていた。明治初年においてその動きは、ともすればすくなからぬ日本人の反感を買うおそれがあった。そこで、日本人に西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、大隈重信・伊藤博文らは鉄道の建設を行うことにした。また、元々日本では海上交通が栄えていたものの、貨物・人員の輸送量が増えていたため、陸上交通においても効率化を図る必要があった。ひと口にお雇い外国人とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、明治元年から明治22年までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍者は2,690人である。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。とりわけ鉄道関係は、英国人を中心に総勢200名余と最も多かった。このうち、初代技師長として活躍したのがモレルである。エドモンド・モレルは1840年11月にイギリス・ロンドンのピカデリー、ノッティング・ヒルに生まれ、キングス・カレッジ・スクールとキングス・カレッジ・ロンドンに学んだ。オーストラリアのメルボルンにおいて土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのオタゴ地方の自治体で技術者として5か月、ウェリントン地方の自治体の主任技術者として7か月働いた。1865年5月にイギリス土木学会の準会員に推薦され入会している。この間、1862年2月にロンドンにおいてハリエット・ワインダーと結婚している。モレルは1866年1月から北ボルネオにあるラブアン島において、石炭輸送用の鉄道建設に当たった。モレルがラブアン島にいつ頃まで滞在していたのかはわかっていない。1867年にはアメリカ公使館員のポートマンが、江戸幕府の老中小笠原長行から江戸・横浜間鉄道敷設免許(日本人は土地のみ提供)をうけ、明治維新後の新政府に対してその履行を迫った。明治政府は、この書面の幕府側の署名は新政府発足以降のもので、外交的権限を有しないものである旨をもって、却下している。当初は東京と京都・大阪・神戸の間、すなわち日本の屋台骨となる三府を結ぶ路線と、日本海側の貿易都市である敦賀へ米原から分岐して至る路線を敷設しようとしていた。このころは版籍奉還から廃藩置県に伴い、政府が約2400万両もの各藩負債を肩代わりすることになったため、建設予算が下りなかった。民間からの資本を入れてでも鉄道建設をおこなうべきだという声が出たが、実際に鉄道を見ないうちは建設が進まないと考えて、とりあえずモデルケースになる区間として、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設を行うことに1869年に決定した。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは、かねてから日本に対する売り込みを行っていた鉄道発祥国のイギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた、駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。モレルは、日本での鉄道導入に際して外債の発行を依頼されたホレイショ・ネルソン・レイと、1870年2月にセイロン島のガレにおいて会談し、日本へ赴いて鉄道建設の指導をすることになった。日本には夫人を連れて赴任している。1870年4月に横浜港に到着した。イギリス公使ハリー・パークスの推薦があり、その職務への忠実性も評価されたモレルは、建築師長に任命された。モレルは早速5月に、民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に、近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出した。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めている。さらに、森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良いと、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行い、外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになった。こうしたことから、日本の鉄道の恩人と賛えられている。日本側では1871年に日本の鉄道の父とされる井上勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。モレルは在職20ヵ月足らずで結核に冒され、栄えある鉄道開業式を見ることなく30歳で息を引きとった。不幸が続き、夫人も後を迫うように半日後に亡くなった。モレルの遺志は、建築副役のジョン・ダイアックらに受け継がれ、外国人技師の指導を受けた線路工事が終わり、伊藤などを乗せて試運転も実施、停車場などの整備も順次進められ、明治5年5月に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が仮開業した。近代化に果たした功績に対する感謝の念に加え、夫妻の悲劇が欽道の歴史に関心のある人びとの心に刻み込まれたという。横浜の外国人墓地にはモレル夫妻の墓が建てられ、昭和37年にはその偉業を称えて鉄道記念物に指定された。また、旧横浜駅であった桜木町駅構内にも、モレルのレリーフが設けられ、その功績を今なお静かに伝えている。
序 章 モレルとは何者か/語り継がれてきた人/学界の多数説と森田説
第一章 英国時代/誕 生/家 庭/キングス・カレッジにおける学業/結 婚/父方と母方の家族
第二章 技師となる/修行時代/メルボルン/ニュージーランド/土木学会
第三章 鉄道と関わる/ラブアン在勤/ラブアンの環境と総督/南豪州
第四章 日本へ/赴 任/後日譚/軌間決定/来 日
第五章 日本在勤/契約上の地位/鉄道建設/死亡、遺言/日本側史料/死亡記事
第六章 貢献と動機/技量と貢献/技能と赴任の動機
参考史料・文献/エドモンド・モレル略年譜/巻末史料/人名・事項索引
15.11月10日
“ダブリンで日本美術のお世話を-チェスター・ビーティー・ライブラリーと私の半世紀”(2014年8月 平凡社刊 潮田 淑子著)は、ダブリンの小さな美術館を手伝う日・愛、二つの国をつないだ日本人主婦の半世紀の自伝的エッセイである。
チェスター・ビーティー・ライブラリー(CBL)は、アイルランド共和国ダブリンの図書館、美術館、博物館で、1954年に開館した。鉱山業界の有力者だったアルフレッド・チェスター・ビーティー卿のコレクション、特にイスラム世界、インド、日本、中国の美術品を多く収蔵している。現在の図書館はビーティーの生誕125周年記念であったダブリン城 の敷地に2000年2月7日に開館したものであり、2002年にヨーロッパの今年の博物館に選ばれた。潮田淑子氏は1931年水戸市生まれ、東京女子大学日本文学科卒業、1960年よりアイルランド、ダブリンでの生活を始めた。1970年よりチェスター・ビーティー・ライブラリーで学芸員の仕事に関わり、1996年に退職(1980年まではボランティア、以後正規職員)した。2006年に外務大臣賞受賞、2007年に旭日双光章を受章した。春まだ浅いアイルランドの地に降り立ってから、50年以上になる。ダブリンにまだ日本大使館もなく、心細い思いをしながらも夢中で毎日を過ごした。著者は日々、簡単な日誌を書いていた。それらに少しずつ手を加え自分史のようなものを書いてみようと思っていながらも、雑務に追われるまま机の引き出しにしまわれていた。そんなある日、上梓を勧めてくれた方が二人いた。一人は夫の大学時代からの親友で、ご夫妻でアイルランドを度々訪れていた。もう一人は2005年9月に着任され、2007年の日本とアイルランド外交樹立50周記念行事を成功させた日本大使である。大使は着任数日後ご夫妻で自宅にお出でになり、それからの2年3か月の大使としての活躍しながら、ご親切なお心遣いをしていただいた。その一つが、記念行事の一つとして”聞き語り日愛半世紀”を大使館のホームページに掲載することであった。1960年3月14日に、生まれて初めての飛行機で息子と一緒に旅をした。どんよりと曇ったロンドン空港に降り立ったのは午後2時過ぎ、肌寒い3月中旬の昼下がりであった。空港には、東京大学からICI=Imperial Chemical Industriesフェローとしてダブリン大学に招かれて、半年前から勤務している夫が出迎えてくれていた。夫は息子の成長ぶりに驚き、息子は泣きそうな顔で抱かれ、著者は安堵して目には涙が出た。そして、外務省からの研修生でオックスフォード大学に留学中の友人の車で、ロンドン市中のホテルに到着した。ホテルの窓から見えるロンドンは、たくさんの煙突か並び立ち、暖炉からの黒い煙がもくもく立ち上っていた。夫の案内で2日間のロンドン見物を行った後、アイルランド行きの飛行機に乗った。やがて英国航空の小さな飛行機で、一路ダブリンヘ飛んだ。半年ぶりに親子揃っての新しい生活か始まる国アイルランドの地を、感慨深く踏みしめた。主人の大学での同僚が車で迎えてくれ、夕暮れの街を一路新居へ向かった。この家からダブリンの生活か始まり、そしてチェスター・ビーティー・ライブラリーと出会うことになった。日本大使館がなかったころは、アイルランドを訪れる日本人はあまり多くはなかったが、それでも次第に増えてきた。ダブリンの小さな日本人社会は、大きな家族のように助け合って過ごしていた。親切すぎるアイルランドの人々の温かな心遣いに支えられて、みな異国にいることなどを忘れて快適な日々を送った。大使館との本格的なかかわりの始まりは、愛日文化協会の立ち上げであった。1968年当時、在留邦人はまだ数が少なかったため、アイルランド人で日本の文化や芸術に関心をもってくれていた人たちと数十人で結成して、いろいろな活動を始めることとなった。ここに夫婦とも発起人の仲間に入れられて、夫は運営委員に任命された。この協会は、後にできた愛日経済協会と合併して、現在も愛日協会として活動を続けている。1970年に、文化協会の最初の活動の一つとして、日本語講座が始められ、その講師を頼まれた。週に一回、二時間の授業だった。受講生はさまざまだったが、若い学生は少なく、むしろ知識階級の成人が多かった。講座はこれだけでおしまいとはならす、続いて、アイルランド外務省から、若い外交官に日本語を教えることを依頼された。教えはじめると、決まった時間に公務で出席できない生徒が出て、そのために自宅で特別授業をすることになった。教えた外交官のなかの4人は、その後次々と日本勤務を命じられた。本来の文化協会の日本語講座では、受講生が増えて助手が必要になったとき、日本からの留学生の手を借りることがしばしばあった。ある日、日本大使館から電話があり、日本語を早急に覚えたいという英国人の女性がいるので、一度連絡して会ってくれませんかと言う。その女性は、1968年から、ダブリンで、チェスター・ビーティー・ライブラリーの学芸員第二号として、日本関係の収蔵品のカタログ作成にあたるために雇われたのであった。しかし、日本語を学ぶのは今回が初めてで、一日も早く学習を始めたいとのことであった。しかも、日本語の学習といっしょにカタログの作成も同時に始められるようにしてほしいという、不可能に近い要望を口にした。そこで、いっしょにカタログ作りを始めて、時間のゆるすかぎりいっしょに仕事を進め、彼女には、愛日協会主催の授業にも出てもらうことにした。こうして、チェスター・ビーティー・ライブラリーでのボランティアの仕事が始まった。思えば、日本大使館からの一本の電話が生活プランを大きく変えてしまったのだった。この年の1月19日に、アルフレッド・チェスター・ビーティー卿が、モンテカルロのプリンセスーグレイス病院で亡くなった。若き実業家だったアメリカ時代にその財を築き、93歳に近い長寿を全うした。1月29日に、アイルランド史上初めての外国人の国葬が、ダブリン市のパトリック大聖堂で営まれた。チェスター・ビーティー卿の遺言により、生涯をかけて収集した文化財のうち、西洋絵画は国立美術館に、東洋の武器・武具類は軍の関係の軍事博物館に寄贈された。東洋の武器・武具には、日本刀をはじめ、日本製の火縄銃、甲冑なども含まれている。そして、東洋美術関係の所蔵品はすべて、チェスター・ビーティー・ライブラリーに寄贈されることとされていた。政府は、寄贈された偉大な文化遺産の展示館の建設の準備や、二人の学芸員の雇用の準備を始めた。この年の9月には、チェスター・ビーティー卿の邸宅の近く、小さな図書館とギャラリーの開館にこぎつけたのであった。
アイルランドに半世紀のはじまり/チェスター・ビーティー・ライブラリーとの出会い/お向かいは日本ホッケーの父/ダブリンの小さな家族・大きな家族/CBLを手伝いはじめたころ/チェスター・ビーティー卿とそのコレクション/「ヘブンリー」/「奈良絵本」から世界へ日本へ/東京・京都での奈良絵本国際研究会議/京都の夜/戻ってきた財布/娘に聞いたこと/表装、病気、摺物カタログ/中尊寺の美酒/ダブリンで司馬遼太郎氏と会う/チェスタ~・ビーティー・コレクションの里帰り/京洛に古老を訪ねて/ある日の学芸員の仕事/トリニティ大学で日本文化史講義/ピーター・モース氏と大北斎展/『長恨歌図巻』の数奇な運命/「甦る在外名画展」への道筋/テレビ番組「時を越え国境を越えて」/国文研によるCBL目録/ダブリンで二度めの奈良絵本国際会議を/2013年4月の京都から
16.11月17日
”河合継之助-近代日本を先取りした改革者”(2018年3月 日本経済新聞社刊 安藤 優一郎著)は、権力闘争に狂奔する中央政界の動向から距離を置きあくまでも長岡藩にとどまって富国強兵に邁進し近代日本を先取りした河合継之助の生涯を紹介している。
河井継之助は、戊辰戦争で新政府軍相手に善戦しつつも非業の死を遂げた悲劇の武士として知られているが、実は、戊辰戦争に至るまでのその人生はほとんど知られていない。このイメージの元になったのは
、司馬遼太郎の歴史小説”峠”である。この小説は1966年から1968年まで毎日新聞で連載され、継之助没後100年の年に当たる1968年に新潮社から単行本として刊行された。継之助は西郷・大久保利通・木戸孝允のように京都を舞台に政治活動に奔走したわけではなく、坂本龍馬のように脱藩して活動の場を広げることもなかった。権力闘争に狂奔する中央政界の動向からは距離を置き、あくまでも長岡藩にとどまった上で、藩の富国強兵に邁進した。安藤優一郎氏は1965年千葉県生まれ、早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期過程満期退学、文学博士(早稲田大学)である。国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務めている。大学の生涯学習講座の講師のほか、JR東日本のおとなの休日倶楽部ナビゲーターとして、旅好きの中高年の人気を集め、NHKラジオ深夜便などでも活躍した。河井継之助は1827年に越後長岡城下に生まれた。継之助は幼名・通称で、読みは”つぎのすけ”、諱は秋義、号は蒼龍窟、禄高は120石であった。奇しくも同じ年に、明治維新の立役者となる西郷隆盛が鹿児島城下に生まれた。二人は藩をおのおの牛耳ると、幕末の動乱の渦中へ自ら飛び込んでいく。しかし、その政治的立場は真逆であった。継之助が仕えた長岡藩は、徳川家と運命をともにすることを義務付けられた譜代大名牧野家が藩主である。その上、継之助を抜擢した藩主牧野忠恭は京都所司代や老中などの重職を歴任した幕閣の大物で、いわば与党の重鎮と言えよう。かたや西郷は、もともとは徳川家と主従関係のなかった外様大名の代表格たる薩摩藩島津家の家臣だった。薩摩藩という最大野党を率いる実質的なりリーダーである。だが、それ以上に二人には決定的な違いがあった。出身母体である藩の実力差である。薩摩藩77万石に対し、長岡藩はその10分の1にも満たない7万4千石で、結局のところ、継之助はその限界を乗り越えることができなかった。1842年に元服し、1843年に生贄の鶏を裂いて王陽明を祀り輔国を誓った。1852年に最初の江戸遊学を行い、斎藤拙堂、古賀謹一郎、佐久間象山らの門をくぐった。ペリーが来航した1853年に、藩主牧野忠雅に建言書を提出し、御目付格評定方随役に任命され帰藩したが、2ヶ月で辞職した。1857年に家督を相続し外様吟味役に任命された。1858年に江戸へ再度遊学のため長岡を発ち、1859年に古賀の久敬舎に再入学した。1860年に江戸へ戻り、横浜でファブル・ブランドやエドワード・スネルらと懇意になった。1863年1月に京都詰となり藩主牧野忠恭の所司代辞任を要請し、9月に公用人として江戸に詰め忠恭の老中辞任を要請したが、願い叶わず辞職し帰藩した。1865年に外様吟味役再任され、3ヶ月後、郡奉行に就任し藩政改革を開始した。1866年に町奉行を兼帯し、1867年3月に評定役・寄会組になり、4月に奉行格加判となり、10月に年寄役の中老となった。大政奉還を受け、12月に藩主牧野忠訓と共に上洛し、朝廷に建言書を提出した。1868年4月に家老となり、家老上席、軍事総督に任命され、5月に小千谷談判が決裂し、新政府軍との抗戦を開始したが、8月に戦闘中の傷がもとで享年41歳で死去した。継之助の人生は、長岡藩の官僚として藩政を立て直すことに捧げられた。来るべき近代日本を見通し、その魁の役割を長岡藩に担わせようとしたのである。そもそも、長岡藩が中央政界に進出したのは大政奉還により幕府が倒れた後であり、その期間は1年にも満たない。継之助の真骨頂は、何よりも長岡藩の藩政改革で成果を挙げたことに求められる。国際事情に通じた開明派藩士として、明治政府の近代化政策を先取りしようとした人物だった。当時、諸藩が共通して直面した問題は財政難である。財政再建を実現して藩政改革に成功したと評価される人物としては、薩摩藩の調所広郷、長州藩の村田清風の名前がよく知られている。それぞれ藩政改革に成功して藩の富強化を実現し、それぞれの藩は幕末に雄藩として中央政界に乗り出す基礎となった。継之助は備中松山藩の藩政改革に成功した家老山田方谷のもとで、その極意を会得した。これを長岡藩で実践することで、藩の富強化を実現していった。継之助か改革に専念できたのは、大政奉還までのわずか2年ほどでしかなかった。その成果が十分に表れる前に戊辰戦争となり、改革は未完に終わった。藩財政はV字回復を成し遂げたものの、ハイリスクーハイジターンな商取引で得た利益が大きかったようである。政治情勢が急変しなければ、長岡藩の藩政改革に成功して富国強兵を実現した開明派藩士として歴史に名を残したはずである。しかし、大政奉還後の権力闘争の渦に自ら飛び込んだことが継之助の評価を難しくしてしまう。長岡藩は小藩である上に、それまで国政から遠ざかっていたにもかかわらず、藩主を奉じて朝廷と徳川家の間を周旋しようというのは無理があった。新政府と徳川家・会津藩の間を周旋する力があると過信した結果、無謀な戦いに長岡藩を巻き込んでしまった。実力をはるかに超えたものを長岡藩に求めたことが、不幸な結果を招いた。万策尽きた継之助は新政府との戦いに踏み切った。結末からみれば、継之助が政治的判断を誤ったことは否めない。戦場となった長岡城下や領内の村々は荒廃し、長岡藩主従も藩地を捨てて流浪した。土地や家財を失った領民が続出し、明治政府はその救済に迫られた。戦後、継之助に対する怨嵯の声が沸き起こるのは避けられなかった。戊辰戦争がなければ、継之助は藩政改革に成功した俊才として後世に名声を残しただろう。戊辰戦争が運命の分かれ道となったことが、その評価を複雑なものにしてしまった。本書は、2018年に継之助没後150年を迎えるに当たり、戊辰戦争と結び付けられがちな河井の生涯を読み直すことで、その歴史的役割を解き明かそうとしている。
プロローグ 河井継之助が目指したもの/1 越後長岡藩に生まれる-大望を抱く/2 生涯の師に出会う-諸国を遍歴する/3 藩主牧野忠恭の信任を得る-国政に背を向ける/4 藩政改革に取り掛かる-経論の才を発揮する/5 動乱の地京都へ-火中の栗を拾う/6 藩政のトップに立つ-危機が迫る/7 総督として政府軍を迎え撃つ-判断を誤る/8 その後の長岡藩-相反する評価/エピローグ 河井継之助とは何だったのか
17.11月24日
”いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画”(2017年6月 集英社刊 原田 マハ著)は、アート小説の旗手として自身の作家人生に強い影響を与えた絵画、美術史のなかで大きな転換となった絵画、後世の芸術家に影響を与えた革新的な絵画などを厳選して26点を紹介している。
そこに、いちまいの絵がある。その絵には、さまざまな記憶が刻み込まれている。画家の思いが込められている。それらのすべては、絵にバッケージされて、いまを生きる私たちにそっくりそのまま届けられる。たったいちまいの絵、ただそれだけであるが、そこには光がある。私を、あなたを、私とあなたが生きる世界を変える力が、その絵には秘められている。原田マハさんは1962年東京都小平市生まれ、小学6年生から高校卒業まで岡山県岡山市育ち、岡山市立三門小学校、岡山市立石井中学校、山陽女子高等学校を卒業した。その後、関西学院大学文学部日本文学科と早稲田大学第二文学部美術史科を卒業し、馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時に、ニューヨーク近代美術館に派遣され勤務した。2002年にフリーのキュレーターとして独立し、2003年にカルチャーライターとして執筆活動を開始し、2005年日本ラブストーリー大賞、2012年山本周五郎賞受賞、2017年新田次郎文学賞を受賞している。美術館を訪れ、1枚の絵の前に立つ。そこは作品を描いた画家がいた場所であり、画家の魂が最もこもっている場所である。フェルメールの絵を見ている自分が立っている場所に、フェルメールも立っていたのである。実際の絵を見に行くことの素晴らしさのひとつは、この体験ができることである。いちまいの絵を前にして佇んだとき、急に胸がどきりとしたことがある。2015年冬、ニューヨーク、メトロポリタン美術館で開催された特別展、マダム・セザンヌを観たときのこと、30点以上に及ぶセザンヌ夫人、オルタンスの肖像画が待ち受けていた。そんなにもいっぺんに彼女の肖像画を観るのは初めてのことだった。すべて同じモデルであり、すべてセザンヌの筆によって描かれた絵である。それなのに、ひとつとして似ていない。さらには、一枚いちまい、絵の隅々まで、セザンヌの遺伝子としかいいようのない空気が満ち満ちていた。立っている場所は、セザンヌその人が立っていた位置じゃないか。その瞬間、急に胸がどきりとした。絵の中のオルタンスがみつめているのは、見ている人ではない。彼女の夫、セザンヌなのである。そして、カンヴァスをあいだに挟んで、そこに立っていたのは画家、ポール・セザンヌなのである。その瞬間、百数十年の時を一気に飛び越えて、セザンヌのすぐ近くに佇んだ気がした。エクス・アン・プロヴァンスにある、北向きの窓からやわらかな光が差し込むアトリエ、何時間ものあいだ、ひと言も語らずに向き合う画家とモデル、夫と妻がいるひそやかで私的な空間に、私は連れていかれたのだ。そんなふうにして、いつも、いちまいの絵との出会いを待っている。新しい物語を創り出すきっかけが与えられる瞬間を待っているのだ。本書は、美術史において大きな転機を与えた絵画、美術の新時代の幕開けとなった革新的な絵画など26作品を、独自の視点と体験を交えて綴った1冊である。数多くの歴史に残る名画の中から、美術史的に重要な作品であることは言うまでもないが、さまざまな絵と付き合ってきて、特に忘れられないエピソードや個人的な思い入れがある作品を選んだという。最初に紹介するのは、この1枚で美術史は塗り替えられたと解説するピカソの”アヴィニヨンの娘たち”である。18歳で初めてパリを訪れたピカソは、パリ時代初期の青の時代を経て、明るい色調のばら色の時代で次第に名声を得ていく。しかし、それに安住せず、アートの既成概念を打開する衝撃的な次の一手を模索していた。満を持して世に送り出したのがこの作品であり、この作品とピカソは、20世紀初頭のキュビスムを牽引していく存在となった。そして、そのピカソが唯一無二の師と尊んだのがセザンヌである。ここでは、妻オルタンスを描いた肖像画”セザンヌ夫人”が紹介されている。一見、不機嫌そうなつまらなさそうな表情のセザンヌ夫人であるが、この1枚を見つめれば、いかにセザンヌが妻に熱いまなざしと愛情を注いでいたかがわかる、こうして、26点の作品のそれぞれについて、画家の思い、メッセージ、愛や苦悩を、作家ならではの視点で綴っている。
一枚目 アヴィニヨンの娘たち パブロ・ピカソ/二枚目 秘儀荘「ディオニソスの秘儀」 不明/三枚目 聖フランチェスコの伝説 ジョット・ディ・ボンドーネ/四枚目 プリマヴェーラ(春) サンドロ・ボッティチェリ/五枚目 最後の晩餐 レオナルド・ダ・ウィンチ/六枚目 セザンヌ夫人 ポール・セザンヌ/七枚目 バルコニー エドゥアール・マネ/八枚目 大壁画「睡蓮」 クロード・モネ/九枚目 エトワール エドガー・ドガ/十枚目 星月夜 フィンセント・ファン・ゴッホ/十一枚目 アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 グスタフ・クリムト/十二枚目 真珠の首飾りの少女 ヨハネス・フェルメール/十三枚目 ブリオッシュのある静物 ジョルジョ・モランディ/十四枚目 マドリッド、1808年5月3日 フランシスコ・デ・ゴヤ/十五枚目 ダンス アンリ・マティス/十六枚目 夢 アンリ・ルソー/十七枚目 ゲルニカ パブロ・ピカソ/十八枚目 おまえの口に口づけしたよ、ヨカナーン オーブリー・ビアズリー/十九枚目 黒の正方形 カジミール・マレーヴィチ/二十枚目 Number 1A, 1948 ジャクソン・ボロック/二十一枚目 シーグラム壁画 マーク・ロスコ/二十二枚目 テワナ衣装の自画像、あるいは・・・ フリーダ・カーロ/二十三枚目 聖マタイの召命 M.M.ダ・カラヴァッジオ/二十四枚目 オルナンの埋葬 ギュスターヴ・クールベ/二十五枚目 叫び エドヴァルド・ムンク/二十六枚目 道 東山魁夷
18.平成30年12月1日
”司馬江漢 「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生”(2018年10月 集英社刊 池内 了著)は、油絵・銅版画の技法を日本で最初に確立し地動説を我が国で初めて紹介した科学者で奇行を繰り返しては人々を混乱に陥れた旅日記を著した文筆家の司馬江漢の生涯を紹介している。
今日ではほとんど知られることのない人物の司馬江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者で、浮世絵師の鈴木春重は同一人物である。稀代の変人として知られ、まさしく江戸のダ・ヴィンチとでも呼ぶべき存在であった。没後200年にあたる2018年というタイミングで、破天荒な生涯の全体像を描き出そうと試みている。池内 了氏は1944年兵庫県生まれ、京都大学理学部物理学科卒業、同大大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了、博士(理学)である。北海道大学理学部助教授、東京大学東京天文台助教授、国立天文台理論天文学研究系教授、大阪大学理学部宇宙地球科学科教授、大阪大学大学院理学研究科教授、名古屋大学大学院理学研究科教授を経て、名古屋大学名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授を務めている。司馬江漢は江戸の町家に生まれ、司馬の姓は、長く住んだ芝新銭座に因むものである。中国人ではなくレッキとした日本人、それも江戸っ子であった。その生き様をさまざまな文献で辿るうちに、実に興味深い多才で多能な人物であるとわかり、こんなすごい日本人がいたことをお知らせしたいと思い、是非本にまとめたくなったという。江漢は生まれつき自負心が強く、好奇心旺盛で、絵を好み、一芸を持って身を立て、後世に名を残そうと考えていた。15歳の時、父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信に学んだ。19歳のころ、紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵の版下を描いた。25歳ころ、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入った。27歳のころ、源内の鉱山探索に加わり、30歳のころ源内のエレキテルを知った。33歳のころ、良沢の門に入り大槻玄沢らの蘭学者に接し、37歳の時玄沢の協力により蘭語文献を読み、銅版画の製作に成功した。42歳の時、江戸に参府していたオランダ商館の外科医ストゥッツエルの所持していた1720年刊のジャイヨ世界図を模写した。一人で長崎への旅に出て一ヶ月余滞在し、オランダ通詞の吉雄耕牛や本木良永らと交流した。ストゥッツエルの紹介でロンベルク商館長を訪問し、オランダ船に乗船する機会を得た。平戸で松浦静山に会い、所蔵の洋書類を見聞した。江漢は江戸時代の日本を代表する優れた画家で、ほかの有名画家三人分くらいの業績があり、日本絵画史に大きな足跡を残した超一流の人物であった。生涯諸侯や高官に仕えることがなく、自分の作品を売ることを生業として、まさに町絵師として意気高く生きた。そして、日本において最初に地動説を世に広め、無限宇宙論の入り口に立っていた。科学とは縁遠いはずの町絵師が地動説に興味を示して人々に紹介し、果ては点々と星が分布する宇宙にまで想像を馳せていた。いわゆる江戸後期の町民文化の華が咲いた時代に、博物学的立場から文化の高揚に寄与した人物と言える。西洋科学を日本に紹介した、日本初の科学コミュニケーターであった。実に多彩な才能を持って多くの分野に手を出し、日本初となる仕事をいくつも遺したのだが、むしろこの道一筋を高く買う日本的伝統のために無視されることが多かった。さらに、学者の論を学んでそれを広く伝える役割に徹したのだが、日本では学者の論を重んじて素人の自由な発想を軽んじる気風があるため、正式の歴史に書き残されることがなかった。その上、彼は口が悪くて傍若無人な振る舞いをし、意識して世間を惑わす事件を引き起こしたことが何度もあって、人柄や行状を良く思わない人も多くいた。それやこれやで、江漢は歴史上の重要人物としてはほとんど忘れられた存在になっている。しかし、それでは残念である。こんな多芸で愉快で面白い人物がいたのだと、広く伝えたいと思うようになった。第一章と第二章で、江漢の幼い頃の生い立ちと町絵師として独り立ちするまでの知られざるエピソードをまとめている。平賀源内が江漢の人生に大きな影響を与え、エッチングや洋風画に手を染める契機となったことは、人の繋がりの妙を考えさせられる。第三章では、押しも押されもせぬ有名な町絵師となった江漢は、ほぼ一年かけて絵の修行を名目にした長崎旅行を行なったのだが、その一部始終をまとめる。長崎旅行で江漢が大きな刺激を受けたのが西洋文化の合理性であり、強い魅力を感じたのが人文地理学で知った世界の中での日本という視点である。江戸に戻ってから彼は貪るように西洋紹介の本を読み、窮理学に深入りしていった。もともと器用であった江漢は、望遠鏡や顕微鏡、温度計や気圧計を手にするや自分でも製作し、それを使って虫や星の観察をし、日々の気温や湿度を測るということが日課になった。第四章では、窮理師江漢の姿について記述している。そして、日本に地転の説を紹介した本木良永と出会って地動説のエッセンスを知り、最初の著作の和蘭天説ではまだ天動説に固執していたが、やがて地動説に傾き刻白爾天文図解で地動説の立場を表明するようになった。西洋から250年遅れて地動説を日本に広める上で功があったとともに、宇宙論ではほぼ同時代の西洋と同じレベルまで空想するようになっていた。第五章では、江漢の地動説への関わりをまとめている。第六章では、江漢が蘭学仲間から排除された経緯を取り上げる。第七章では、江漢の晩年になってからの奇妙な行動を取り上げる。第八章では、晩年に書き残した掛軸や色紙を取り上げて、江漢の庶民的発想、平等主義、封建制への疑いなどについて論じている。
第一章 絵の道に入るまで/第二章 町絵師江漢の誕生と成長/第三章 旅絵師江漢/第四章 窮理師江漢/第五章 地動説から宇宙論へ/第六章 こうまんうそ八/第七章 退隠・偽年・偽死/第八章 不言・無言・桃言
19.12月8日
“弘法大師と出会う”(2016年10月 岩波書店刊 川崎 一洋著)は、弘法大師空海の歴史的事跡、伝説、美術、書、著作、思想などを多数の写真とともにわかりやすく解説している。
空海は774年に讃岐国多度郡屏風浦、現:香川県善通寺市で生まれた。父は郡司・佐伯直田公=さえきのあたいたぎみ、母は阿刀大足の娘あるいは妹で、幼名を真魚=まお、と言った。誕生日は6月15日とされるが、これは不空三蔵の入滅の日であり、正確な誕生日は不明である。平安時代初期の僧で、弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖である。日本仏教の大勢が奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。川崎一洋氏は1974年岡山県に生まれ、幼少のころより真言宗僧侶になることにあこがれ、高野山で得度し修行した。高野山大学大学院博士課程修了、博士(密教学)で、専門は、密教史、仏教図像学である。現在、四国八十八ヶ所霊場第28番大日寺住職、高野山大学非常勤講師、高野山大学密教文化研究所委託研究員、智山伝法院嘱託研究員、善通寺教学振興会専門研究員を務めている。空海は788年に平城京に上り、上京後、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。789年に15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。792年に18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道を専攻した。793年に大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある”聾瞽指帰”を著して、俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。”大日経”を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられており、さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。この時期、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修め、室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたという。洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。803年に医薬の知識を生かして推薦され直前に東大寺戒壇院で得度受戒し、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発したものの悪天候で断念した。翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡った。第16次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。805年2月に西明寺に入り滞在し、ここが空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐三藏法師で、密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果和尚から伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられた。806年に20年間の予定を2年間で帰国したため、帰京の許可を得るまで大宰府の観世音寺に滞在することになった。816年に朝廷より高野山を賜り、821年に満濃池の改修を指揮した。822年に太政官符により東大寺に灌頂道場真言院を建立し、平城上皇に潅頂を授けた。823年に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場にした。828年に京に私立の教育施設、綜芸種智院を開設した。四国八十八ヶ所霊場に属する寺院の一日は、お遍路さんが携える鈴の、その音に明け、その音に暮れる。遍路シーズンの三月ともなれば、たくさんの鈴の音が重なり合い、春の陽光とも相まって、境内はキラキラと輝いて見える。総延長、およそ1400キロメートル、四国をぐるりと一周して、弘法大師ゆかりの88の霊場寺院を巡るのが、四国遍路である。伝承によれば、815年に42歳を迎えた大師が、若かりし日に厳しい修行を積んだ四国の地を再び訪れ、それらの霊場を定めたといわれている。元来、僧侶がおこなう特殊な修行の一つであった四国遍路は、戦国の乱世が終焉を迎え、社会と経済が安定した江戸時代、一般の庶民の間に急速に広まった。お遍路さんには常に弘法大師が付き添ってサポートするという、同行二人の信仰が生まれ、それは、21世紀の今も確かに息づいている。現在、四国遍路を経験する人の数は、年間に10万人とも15万人ともいわれている。故人の冥福を祈るため、願いを叶えるため、自分探しのため、観光を楽しみながら何となく癒しを求めての巡礼である。目的はさまざまであるが、人々は弘法大師への帰依を表す、南無大師遍照金剛という8文字の言葉を、繰り返し口ずさみながら旅を続ける。遍照金剛は、弘法大師が唐の都の青龍寺で濯頂の儀式を受けた際に、師の恵果和尚から授かった名前であり、真言密教の本尊である大日如来を指す。弘法大師空海は、今からおよそ1200年前に実在した宗教者であり、語学や文学、芸術のみならず、土木や建築にも能力を発揮した日本を代表する天才である。また一方では、人々のために清水を湧出させたり、巨岩を動かしたり、一夜にして寺院を建立したりと、数々の超能力を発揮した、不思議な伝説に彩られた聖者でもある。いまでも大師に出会える場所がいくつかある。高野山奥之院、御影堂、東寺の弘法市、関東三大師(川崎大師、西新井大師、観福時)などである。そして、やはり四国は大師の本拠地であり、多くのお遍路さんが四国に足を踏み入れている。88ヶ所の霊場寺院の大師堂には、それぞれ表情豊かな大師の像が祀られており、遍路修行者を出迎えてくれる。また、大師に出会えるのは霊場寺院の立派なお堂の中だけでなく、霊場と霊場をつなぐ遍路道沿いの各所には、小さな大師堂がいくつも建っている。
第1章 生涯を辿る/第2章 霊跡を巡る/第3章 姿をイメージする/第4章 芸術に触れる/第5章 著作を読む/第6章 言葉に学ぶ
20.12月15日
”僕は頑固な子供だった”(2016年10月 ハルメク社刊 日野原 重明著)は、命とは人間が持っている時間のことという105歳の著者がどうしても書いておきたかったという初めての自叙伝である。
聖路加国際病院名誉院長だった日野原重明医師は、105歳でも現役で活動しておられた。自宅で静養を続けていたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去された。1911年に山口県で生まれ、京都帝大医学部を卒業し、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めた。医学・看護教育の改善にも尽力し、予防医学、終末医療の普及推進などに貢献し、生活習慣病という言葉を生み出し、常に医療の変化の先端を走ってきた。また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めた。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。人生105年といえば、さぞや長く果てない道のように思われることだろう。人生は川の流れに例えられるが、その勢いはたゆみなく、今、ようやく大海へとそそぐ緩やかな流れに身を任せているような心地である。これまでは医学関連のものから生き方エッセイに至るまで、たくさんの書物を著し、その中で自分の経験についても触れてきた。しかし、日野原重明という一人の人間を深く顧みたことはなかった。これまでの人生は、ちょっとした日本の近現代史のようでもある。太平洋戦争が始まったときは30歳で、日本があれよあれよという間に軍国化していった。東京大空襲も玉音放送も、そして復興から高度経済成長に至る中で、1960年代後半の学生紛争に関わっていたし、よど号ハイジャック事件に巻き込まれた。バブル崩壊後に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件も、聖路加国際病院で対処している。自分ながら多面的な生涯を、こうして自宅のソファに座って振り返ってみると、しきりと思い出されるのは幼い日々のことである。これまで人生を彩ってきたさまざまな出来事は、たぶん、幼い自分の中にすでに孕まれていたのだと思う。今の私の基盤でもある行動力や勇気、負けん気といったものの根っこは、幼い日の思い出の中にすでにあるからである。105歳になろうとする今も、これから先、自分が社会の中で何をすべきなのかを考えるために、今在る自分がいかにしてできてきたのかを振り返りたいという、日野原医師は、1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれた。父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中であった。日野原医師は父親の影響を受け、7歳で受洗した。1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居した。1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居した。1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めた。1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格したが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学した。1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学した。大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送った。1934年に京都帝国大学医学部2年に復学し、1937年に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手に就任した。1938年に北野病院や京都病院で勤務し、1939年に京都帝国大学医学部大学院博士課程心臓病学専攻に進学し、京都大学YMCA地塩寮に住んだ。1941年に聖路加国際病院の内科医となり、1942年に結婚し、1943年に京都帝国大学医学博士の学位を取得した。1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官したが、急性腎臓炎のため入院して除隊となった。1951年に聖路加国際病院内科医長に就任し、エモリー大学医学部内科に1年間留学した。1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐研究・教育担当に就任した。同年、闘病中の母が脳卒中で死去した。1953年に国際基督教大学教授に就任、以後4年間、社会衛生学などを講じつつ同大学診療所顧問なども務めた。1958年にバージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のため、リッチモンド記念病院で死去した。1970年に福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放された。1970年に学校法人津田塾大学評議員に就任し、文部省医学視学委員となった。1971年に聖路加看護大学副学長および教授に就任し、1974年に聖路加国際病院を定年退職した。 社会構造の変化によって、いまでは医療の現場でも多様な状況に対応せざるを得なくなった。日本では高齢化が急速に進み、がんや心疾患などによる死亡率も高まっている。一方、大きな事故や災害が発生するたびに救急医療の問題も指摘される。その現状を見据え、生活習慣病の予防や救急医療のシステム整備に取り組んできたが、何よりそれを担う人材の育成が急務であろう。そうした医療の現場では絶えず命の尊厳と向き合うことになる。それだけに人間性をも高める医学教育を構築したい。その使命感から、現行の教育制度を改めようと働きかけてきた。日本の医療をよりよくすること、それが活動の原動力になっている。そのためには医師として現役であることが大事で、たとえ車いすの生活になっても旺盛な好奇心は変わらないと自負している。むしろ、車いすに座った視線から世の中を見ると、また違った景色が見えてくる。そして、とても楽しみにしているのは、2020年に開催される東京オリンピックを見ることである。かつて東京の街が熱狂の波に包まれた1964年の東京五輪のときは50代で、体操や柔道、マラソンで活躍する日本人選手の姿に胸を熱くした。100歳を超えた今、またあの華やかな舞台をこの目で見られるのかと思うと、それだけで生きる力も湧いてくる。最後に、自分自身がイメージする最期について書いておく。それは、地平線のかなだの断崖といった平面的なイメージではなく、常に回転を続ける独楽が上方に向かって進んでいくというものである。その角度はいろいろだろうが、常に一瞬前よりも上へと向かっている。音楽で徐々に強く大きくなっていくときの、クレッシェンドという言葉がふさわしいだろう。最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するだろう。もっと生きたかった、もっとしたいことがあった、といった欲望が浮かんでくることはなく、ただ、感謝の思いだけを伝えたいという。
プロローグ 105歳の私からあなたへ/第1章 負けず嫌いの「しいちゃん」/第2章 若き日にまかれた種 /第3章 「医者」への道を歩む/第4章 アメリカ医学と出合って/第5章 「与えられた命」を生かすため/第6章 いのちのバトン/第7章 妻・静子と歩んだ日々/にエピローグ 人生は「クレッシェンド」
21.12月22日
”夢を持ち続けよう ノーベル賞 根岸英一のメッセージ”(2019年12月 共同通信社刊 根岸 英一著)は、50年前にアメリカへ渡り化学の分野で頂点を極め2010年にノーベル化学賞を受賞した著者が、子ども時代、学生生活、会社員の経験、そして研究に没頭した日々を振り返る。
若い人なら一度は自分自身を、そして日本を外から客観的に見詰めて、自己評価をすることが成長への第一歩である。大きな夢を抱きそれをかなえるための手段を身につけようと最高の師を求め、自分が最も輝ける活躍の場を求めて世界に出ていった、という。根岸英一氏は1935年満州国新京、現中国吉林省長春生まれ、1958年東京大学工学部を卒業後、帝人に入社し、1963年に米ペンシルベニア州ペンシルベニア大学で博士号取得し、再び帝人を経て、1999年から米インディアナ州パデュー大学で特別教授を務めた。1936年に、南満洲鉄道系商事会社に勤めていた父の転勤に伴い、濱江省哈爾濱市、現在の黒竜江省ハルビン市に転居して少年時代を過ごした。1943年に、父の転勤で日本統治時代の朝鮮仁川府、現在の大韓民国仁川広域市、次いで京城府城東区、同ソウル特別市城東区で過ごした。第二次世界大戦後の1945年に、東京都目黒区に引き揚げ、親戚一同と過ごした。深刻な食糧不足などを解消するため、神奈川県高座郡大和町、現大和市南林間へ転居して、大和小学校および新制の大和中学校へ進学した。神奈川県立湘南高等学校に進学する際に、高校から年齢が1歳若く入学できないと通知されたため、大和中学校の教諭約10人が交代で高校を説得して入学許可が下りた。高校のクラブ活動は合唱部に所属し、絵画部にも所属した。絵画部の2学年上に石原慎太郎が在籍していたが、レベル差を感じて根岸は絵画部を短期間で退部した。高校在籍当初は成績優秀な生徒ではなかったが、2年へ進級した後に猛勉強した結果、2年2学期から卒業まで学年トップかトップタイの成績を修めた。1953年に湘南高等学校を卒業し、同年17歳で東京大学に入学した。大学3年の時、胃腸障害をこじらせ一時入院し、1年留年して1958年に東京大学工学部応用化学科を卒業した。在学中に帝人久村奨学金を受給した縁もあり、同年に帝国人造絹絲、現帝人へ入社した。その後、1960年に帝人を休職して、フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学した。1963年にPh.D.を取得し、帝人中央研究所に復帰するが、学界の研究者への転身を決意した。日本の大学での勤務を希望していたが職場が見つからず、1966年に帝人を休職してパデュー大学博士研究員となった。1968年パデュー大学助教授、1972年シラキュース大学助教授に就任して、帝人を正式に退職した。1976年シラキュース大学准教授、1979年ブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任した。同年のブラウン教授のノーベル賞受賞式には、随伴者の一人として式典に出席した。1999年から、パデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にある。2010年に帝人グループ名誉フェローに招聘され、2011年に母校ペンシルベニア大学から名誉博士号を授与された。独立行政法人科学技術振興機構の総括研究主監に就任し、同機構が日本における活動拠点となっている。2010年にノーベル賞を受賞し、その功績により文化功労者に選出され文化勲章も受章した。初めてアメリカに行った1960年というのは、まだ日本が戦後の傷を引きずっていたころであった。50年前には日米の差は大きく、ずいぶんいろいろなことでびっくりしたものである。とてつもない国もあったものだ、そういう国と戦争したんだという感慨を覚えた。しかしいまはそうではなく、日本も一流だし日米の差はかなり接近している。だからといって日本の若い人が、何もアメリカやヨーロッパに行かなくてもいい、海外に出なくてもいい、ということになるとは思わない。若い人に向かって、ただやみくもに海外と言っているように受け取られているとしたら、それは違う。専門である化学のコンペテイションの場は、もはや世界である。化学だけではなく、音楽やスポーツの世界でもそうである。いまやわれわれのプレーグラウンドは世界である。単に海外ではなく、世界でトップのところを探して、そこに競争の場を求めるべきである。分野によっては、それは既に日本かもしれないが、いままではアメリカとかヨーロッパが多かったのは事実である。さまざまな分野で最高のものを追究している人のところに行って勉強してみるというのは、若い人にとって大きなチャレンジの方法ではないかと思う。学ぶための師も世界単位で探し、世界の競争の中でトップになることを目指すべきである。そういう環境に自らを置くことにより、自分のレベルを知り、このまま進むべきか、それとも方向転換するべきか、より客観的な視点に立って、自己を見詰められるというメリットもある。世界を相手にするということを考えると、コミュニケーションのツールが必要である。やはりまだ当分の間は、英語が世界語であるといえるでろう。世界に出ていく準備を整え、自分の高い夢を設定したら、あとはそこに向かってあきらめずに、徐々に徐々に時間とともに突き詰めていくことである。つかむものは何もノーベル賞でなくてもいい。そういう自分のパッセージを築くことが大切なのである。1901年に始まったノーベル賞の受賞者は、これまでの110年間に700~800人である。その間にこの世に生まれた人はおよそ100億人と考えると、約1000万人に1人ということになる。過去、50年を振り返ってみると、東京大学を卒業してフルブライト全額支給スカラシップをいただいた時点で、ノーベル賞を受賞する確率は1000分の1くらいになっていたかもしれない。その数年後、パデュー大学のブラウン先生の弟子として迎えられた。先生には約400人の弟子がいて2人が受賞したので、ブラウン研究室からは約200分の1の確率でノーベル賞受賞者が出ている。その後、シラキュース大学助教授、パデュー大学教授、そしてブラウン特別教授に選ばれたこと、さらにその間にいくつかのアメリカ、日本、ヨーロッパの化学分野での最高レベルの賞をいただいたことなどを振り返ると、過去10年間くらいにノーベル賞の確率も100分の1あるいは10分の1くらいにないていたと思ってもよいかもしれない。運不運は人間誰にでもあるが、大きな夢を実現するのには運に頼るだけではなく、それ以外の道があることも間違いないと信じよう。自立しながらも協力的であれ、適切な競争を通じて秀でよ、最善を尽くすでは通常で全く不十分、問題を抱えたまま暮らすな。
はじめに 若者よ海外へ出よ!/第1章 夢をかなえた朝/第2章 ブロークンイングリッシュでいいじゃないか/第3章 幼少期~学生時代/第4章 大学時代、そして社会へ/第5章 再びアメリカへ/第6章 研究者として/第7章 大学での日々/第8章 科学の未来を育てる/第9章 ライフスタイルも追求型/第10章 豊かな人生にするために
22.12月29日
”コンビニ外国人”(2018年5月 新潮社刊 芹澤 健介著)は、移民不可にもかかわらず世界第5位の外国人労働者流入国になった日本において全国の大手コンビニで働く外国人店員を丹念に取材してその切ない現実をルポしている。
いまや全国に55,000店舗以上を数えるコンビニは、どこへ行っても当たり前の存在である。24時間オープンの売り場には弁当や飲み物がぎっしり陳列されているだけでなく、USBメモリから冠婚葬祭のネクタイに至るまで、突然の”しまった””忘れた”にもかなりの確率で対応してくれる。コンビニはまさに現代日本人の生活に密着した近くて便利な社会インフラである。コンパクトで高機能であるという点も、ある意味で日本を象徴するスタイルだろう。そんなコンビニにいま。異変”が起きている。今回、コンビニで働く外国人や周辺の日本人を取材して、数多くのインタビューを試みた。日本各地をまわり、ベトナムにも足を運んだ。とくに都心のコンビニではその変化が顕著である。コンビニで働く外国人たちが目に見えて増えており、彼らは日本語はペラペラだし外国人スタッフ同士の会話も日本語である。コンビニで働く外国人たちはなんでこんな増えたのであろうか、また、ふだん何してる人たちであろうか。芹澤健介氏は1973年沖縄県生まれ、茨城県つくば市育ちで、横浜国立大学経済学部を卒業し、ライター、編集者、構成作家で、NHK国際放送の番組制作にも携わっている。長年、日本在住の外国人の問題を取材してきた。コンビニで働く外国人に最初に興味を待ったのは2012年頃のことである。当時住んでいた浅草の周辺では、コンビニでアルバイトをする中国人スタッフがぽつぽつと増えはじめていた。東日本大震災以降、一時は外国人観光客の姿をほとんど見かけなくなった浅草で、また別の形で外国人を見かけるようになったと物珍しく感じていた。それからわずか数年で状況は一変した。都心のコンビニでは外国人のいる風景が日常になった。外国人が増えたのはコンビニだけでなく、スーパーや飲食店でもよく見かけるようになった。普段はわれわれの目に触れることのない深夜の食品工場や宅配便の集配センター、オリンピック会場の建設現場、地方の農家、さらには漁船の上でもいまや大勢の外国人が働いている。日本で働く外国人は増加の一途をたどっているのである。2016年には外国人労働者の数がついに100万人を超えた。そのうちの4万人以上がコンビニでアルバイトをしている。東京23区内の深夜帯に限って言えば、実感としては6~7割程度の店舗で外国人が働いている。昼間の時間帯でもスタッフが全員外国人というケースも珍しくない。名札を見るだけでも、国際色豊かなことがわかる。しかも、この傾向はいま急速に全国に広がりつつある。大阪、神戸、名古屋の栄、福岡の中洲・天神といった繁華街のコンビニでは、すでに外国人スタッフは珍しい存在ではなくなっている。いまや、全国平均で見ると、スタッフ20人のうち1人は外国人という数字である。こうした状況が広がる背景には、コンビニ業界が抱える深刻な問題がある。全時間帯で常に人手が足りない店舗もあり、業界内では24時間営業を見直すべきという声も出始めている。しかし、いまのところ大手各社が拡大路線を取り下げる気配はない。そうした拡大路線が続く一方で、人手不足にあえぐ現場では疲弊感が広がっている。店の前にバイト募集の貼り紙を出して1年以上になっても、まったく反応がない。どうしてもシフトに穴が空いてしまう場合は、深夜でもオーナー自身が対応しているようである。これまで外国人を雇ったことはないが、今後は考えていかないと店が回っていかない、という。外国人スタッフは、コンビニのバイトは対面でお客さんと話す機会が多いので日本語の勉強にもなるとか、日本の文化を勉強するにもいい、という。工場で働くより楽しいし効率的で、お店によっては廃棄のお弁当を食べていいから食費も浮く。日本人が敬遠するコンビニのアルバイトを、外国人が引き受けているようにも感じる。現代の日本人は、外国人の労働力によって便利な生活を享受しているということになる。いま、コンビニだけでなく日本の至る所で外国人が働いている。スーパーや居酒屋、深夜の牛丼チェーン店で働く外国人もいる。一般の日本人の目には触れない農場や工場、介護施設などで働いている外国人も大勢いる。好むと好まざるとにかかわらず、現実としてわたしたちの生活は彼らの労働力に依存している。コンビニで働く外国人は、おそらく、もっとも身近な外国人労働者であり、雇う側からすると。便利な労働力である。彼らをさまざまな角度から見ていくことで、彼らが暮らしている社会、すなわち日本という国の実相や課題が自ずと浮かび上がってくるに違いない。世界に先駆けて本格的な人口減社会に突入し、あらゆる方面で縮小をはじめた国の、今後の可能性について考える一助にしてもらえれば幸いである。約1年におよんだ取材の中で、じつに多くの外国人から話を聞いた。出身国もさまざまで、改めて数えてみると12力国・地域にもなり、日本人を含めれば優に100名以上に取材協力していただいた。当初の問題意識は、昨今のヨーロッパの移民問題などを鑑みながら、外国人労働者を受け入れるべきか受け入れざるべきかというものであったが、すでにそういうことを言っている状況にないこともわかってきた。留学生のアルバイトは週に28時間までが法定の上限であるが、実際にはこの上限を超え不法就労せざるをえない留学生が多い。日本への渡航に際し、多くの留学生が高額な借金を抱えている。一方で日本経済の現場は人手不足に苦しんでいるため、外国人労働者への期待が大きい。こうした経済・社会的背景が、不法就労の発生に繋がっている。近年、日本語学校が乱立・急増しており、教育機関としてのレベルの低下が懸念されている。現に人材派遣業化した一部の日本語学校で、組織ぐるみの不法就労助長や、留学生への人権侵害、経済的搾取が発生している。そうした留学生を支援・救済するセーフティーネットづくりは、一部の自治体や弁護士団体、NPOなどが取り組んでいるが、十分に機能しているとは言い難い。彼らの置かれている環境を知れば知るほど、何かが間違っているという思いが強くなった。外国人留学生にまつわる問題は複雑に絡み合っていて、糸口をひとつほどいてもつながる先にはまた別の混沌と暗闇がある。現在、東京大学の大学院で経済を学んでいるベトナム人留学生は、日本のことは好きだし、これからもずっと日本と関わっていきたい、という。しかし、いま日本には外国人が増えて困るという人もいるが、東京オリンピックが終わったらどんどん減っていくであろう。東京オリッピックの後は、日本は不況になると思うからである。日本はすでに労働人口も減り続けているので、本来は外国人の労働力をうまく使わないと経済成長できないが、外国人はきっと増えない。そうなるとより多くの労働力が減って、日本の経済はますます傾いていくだろう。すべての問題が解決されるのは、ひょっとすると日本が外国人から愛想をつかされて、誰も日本を目指さなくなったときかもしれない。そのとき、日本は労働力不足でにっちもさっちも行かなくなっているような気もする。だが、諦めてはいけないのだと思う。こんがらがった糸は丁寧にほどいていかなければならない。
はじめに/第1章 彼らがそこで働く理由/第2章 留学生と移民と難民/第3章 東大院生からカラオケ留学生まで/第4章 技能実習生の光と影/第5章 日本語学校の闇/第6章 ジャパニーズ・ドリーム/第7章 町を支えるピンチヒッター/おわりに―取材を終えて
23.平成31年1月5日
“藤田嗣治 手紙の森へ”(2018年1月 集英社刊 林 洋子著)は、1920年代のパリを拠点に活躍した最初の日本人美術家として知られる藤田嗣治の没後半世紀に際して遺族の手元以外から見つかった多くの書きもの=日記や手紙を紹介している。
藤田嗣治は1886年東京市牛込区新小川町生まれのフランスのエコール・ド・パリの代表的な画家で、第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動した。日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の乳白色の肌とよばれた裸婦像などが西洋画壇の絶賛を浴びた。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。父・藤田嗣章は、大学東校で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進した。林 洋子氏は1965年京都府生まれ、1989年東京大学文学部美術史学科卒、1991年同大学院修士課程修了し、東京都現代美術館学芸員となった。その後、パリ第1大学博士課程修了、博士号取得、2001年京都造形芸術大学助教授、2007年准教授、2015年国際日本文化研究センター客員准教授を務めている。近現代美術史、美術評論が専門で、文化庁 芸術文化調査官を務めた。2008年にサントリー学芸賞、2009年に渋沢クローデル賞ルイ・ヴィトンジャパン特別賞、日本比較文学会賞を受賞した。著書に、『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』2008年、『藤田嗣治 手しごとの家』2009年)、『藤田嗣治 本のしごと』2011年、『藤田嗣治 手紙の森へ』2018年などがある。藤田は熊本県師範学校附属小学校、高等師範附属小学校、高等師範附属中学校を卒業し、森鴎外の薦めもあって、1905年に東京美術学校西洋画科に入学した。当時の日本画壇は、フランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した自画像は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれていた。精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選した。1911年に長野県の木曽へ旅行して作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚し、新宿百人町にアトリエを構えた。しかし、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻した。1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構え、後に親友とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合った。彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリングらと交友を結んだ。1914年に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに、描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。このころ初めて藤田の絵が売れ、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。シェロン画廊で開催されたこの最初の個展でよい評価を受け、絵も高値で売れるようになった。面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立された。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができ、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声が高まった。2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、フランス人女性リュシー・バドゥと結婚した。リュシーは教養のある美しい女性だったが、酒癖が悪く夫公認で詩人と愛人関係にありその後離婚した。1931年には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへ向かった。その後1933年に南アメリカから日本に帰国し、1935年に25歳年下の君代と出会い一目惚れして、翌年5度目の結婚をして終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。その後再びパリへ戻ったが、1914年9月に第一次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけた。終戦後の連合国軍の占領下において、戦争協力者と批判されることもあり、1949年に日本を去ることとなった。フランスに戻った時にはすでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命していたが、その後もいくつもの作品を残した。1955年にフランス国籍を取得し、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。藤田はヨーロッパで初めて本格的に勝負し、相応の成果をあげ、作品を現地で売ることで生活できた最初の日本人美術家、パイオニアであり、2018年は藤田が逝って50年にあたる。太平洋戦争下の作戦記録画への前のめりな取り組みや振る舞い、そしてその後の離日、国籍変更、カトリックヘの改宗など、前半生の功績をかき消すほどのノイズが多い作家でもある。こうした毀誉褒貶のはげしい、生々しい存在が、死後、時間が経過し、次第に歴史的存在へと、身体感覚が希薄になるなかで、残した作品だけでなく、日記や手紙の存在が確認され、整理公開、復刻が進んでいる。本書は、生前の画家が書いた手紙をテーマとしている。藤田のもとに残っていた来信はそう多くないが、藤田から手紙をもらった人、もしくはその遺族や関係者の手元に残っていた。それらは、家族あて、同業の美術家あて、コレクターなど支援者あてと三種類に大別できる。航空郵便の全盛期、目方を軽減するための裏面が透けるような薄い便箋に、インクでぎっしり書かれた文字群には相手への思いのこもったイラストレーションが添えられることもしばしばであった。こうした紙の上の手しごとをまとめることが、藤田の多面性のいっそうの理解につながると願う。いくつかの手紙は、藤田の人生の転機の証言者となるはずである。さあ、手紙の封を切ろう。
第一信 明治末の東京からはじまる/第二信 一九一〇年代の欧州から、日本の妻へ/第三信 一九二〇年代のパリで/第四信 一九三〇年代 中南米彷徨から母国へ/第五信 太平洋戦争下の日本で―後続世代へ/第六信 敗戦の影―パリに戻るまでの四年半/第七信 フランク・シャーマンへの手紙―GHQ民生官との交流/終 信 最晩年の手記、自らにあてた手紙としての
*フランク・シャーマンは、元連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政官で、藤田の戦後のアメリカ・ フランス行きを支援した人物。
24.1月12日
”鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂”(2018年9月 平凡社刊 金子 拓著)は、500の兵が立てこもる難攻不落の長篠城に攻め寄せる大群の勝頼軍を「某にお任せ下され」と頭を垂れた名もなき侍の名が後世に伝わった理由を解き明かす。
鳥居強右衛門=とりいすねえもんが歴史の表舞台に登場するのは1575年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。強右衛門は奥平氏に仕えていた武士であるが、身分や、どの程度の禄をもらっていたのかなどははっきりとわかっていない。資料によると、強右衛門は三河国宝飯郡内の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。武田家の当主であった武田信玄が元亀4年4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返った。金子 拓氏は1967年山形県生まれ、1990年東北大学文学部国史学科卒業、1997年東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了、東北大学文学博士で、1998年に東京大学史料編纂所助手、2007年に中世史料部門助教、2013年から准教授を務めている。奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌、後の奥平信昌は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していた。天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失した。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡した。当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村で武田軍の兵に見付かり、捕らえられた。武田氏側は強右衛門に、城内にいる味方に対し、もう援軍は来ないから諦めて開城せよと伝えれば召し抱えてやろうと提案した。この提案を強右衛門は受諾したふりをし、いざ味方の前に出されたとき、まもなく援軍がやってくるのでもう少しの辛抱だと叫んだため、怒った武田軍によって殺害されてしまった。名のある戦国武将ではなく、一介の伝令にすぎない強右衛門のことを知っている人が、このようにいまの時代も少なからずいるらしいのは、よく考えれば不思議なことである。理由のひとつは、武士としての自己犠牲の精神、忠義の心が人びとを感動させたことにあるのだろうが、ほかにも大きな理由が存在すると思われる。それは、強右衛門の姿を描いたとされる旗指物の図像である。この絵は、強右衛門が、長篠城の味方に対し援軍が来ると叫んだあと、傑にされ殺害されたときの姿を描いたものとされている。原本は東京大学史料編纂所が所蔵し、白地の絹に全身真っ赤に描かれた裸一丁の半裸の人物が傑柱に大の字に縛りつけられ、口をむすんで大きな目をかっと見開いている。一度見たら忘れがたい、強烈な迫力に満ちた図像である。なぜこのような図像が制作され、現代に至るまで受け継がれてきたのであろうか。本書では、このような疑問について考えながら、強右衛門の人物のことが述べられている。第一部の各章では、鳥居強右衛門が使者として働いた長篠城の攻防戦とはどのようないくさであったのか、このいくさが長篠の戦いにどのようにむすびつくのか、このいくさのなかで、いかなる事情で強右衛門が使者として立てられることになったのか、強右衛門の死を伝える史料にはどのようなものがあるのか、彼の死は後世、江戸時代の記録においてどのように描かれ、その人物像はどのように変容してゆくのか、といったことがらを考えている。第二部の各章では、強右衛門の姿を描いた旗指物に焦点を当てる。この旗指物を制作した落合道次という人物について、なぜこの図像をみずからの旗指物としたのか、どのような立場の武士であったのか、子孫たちは家祖道次が制作した旗指物をいかにして受け継いだのか、といったことがらを考えてみる。第三部では、江戸時代において、文字によって語られてきたり、旗指物図像の流布によってつくりあげられたりしてきた虚像”としての強右衛門像が、近代以降いかなる経緯をたどって増幅、再生産され、現代のわたしたちが頭に描く彼の姿につながってくるのか、どのような背景によって『国史大辞典』の項目や、『水曜どうでしょう』のようなテレビ番組に流れこむのか、といったことを眺める。鳥居強右衛門を通して、ある種の歴史認識の形成と展開・受容といった問題を考えたい。
第1部 鳥居強右衛門とは何者か(長篠の戦いに至るまで/長篠城攻防戦と鳥居強右衛門/鳥居強右衛門伝説の成立)第2部 落合左平次道次背旗は語る(目撃者・落合左平次道次/旗指物の伝来と鳥居強右衛門像の流布/指物としての「背旗」/よみがえる「落合左平次指物」)第3部 伝承される鳥居強右衛門像(近代の鳥居強右衛門/三河武士鳥居強右衛門)
25.1月19日
”古河藩”(2011年2月 現代書林社刊 早川 和見著)は、信任厚き譜代が城主の関東平野枢要地で雪の殿様や桃まつりにみられる小江戸の優美が煌めく古河藩を紹介している。
一国の統治は過ぎても不足でも適わない中庸こそが大切として、3代将軍徳川家光のとき大老となって大名統制を断行した土井利勝は、徳川の世の礎を築いた。古河の街には、藩主と共に学問振興を図った家老・鷹見泉石の勉学の精神が今なお脈々と連なっている。早川和見氏は1953年古河市生まれ、故・千賀忠夫氏に師事し、郷土史全般、古文書解読法等を学んだ、千賀史学の継承者である。1993年に第18回郷土史研究賞特別優秀賞を受賞し、現在、古河の文化と歴史を護る会会員、古河郷土史研究会会員で、日本歴史学会、山形県地域史研究協議会、東亜天文学会等に所属している。古河は関東平野のほぼ中央部に位置する内陸性気候の地で、夏は湿度を伴った猛暑となり、冬は北西からの強烈な”からっ風”によって厳寒となることが多い。古河の地名は大変古く、古来より河岸があり、河川交通が盛んで人々の往来が多く栄えていたことが『万葉集』からも知られる。古河城は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての御家人である下河辺行平により築城された。室町時代になると、足利尊氏は関東統治のために鎌倉府を設置した。初代鎌倉公方(関東公方)は尊氏の子基氏であった。鎌倉公方は基氏の曾孫で第4代持氏の時、京都の第6代将軍で尊氏の曾孫義教と対立した。永享の乱を引き起こして持氏は自害させられ、鎌倉府は滅亡した。義教の没後、持氏の遺児成氏は罪を許され、1449年に鎌倉に戻って第5代鎌倉公方となった。1454年に成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことを端緒として、享徳の乱が引き起こされた。山内上杉家は憲忠の後継者に実弟の房顕を立てて体制を立て直し、室町幕府の第8代将軍足利義政に支援を要請した。成氏は房顕を武蔵分倍河原で破ったが、房顕の支援を決定した義政が駿河の今川範忠を動かし、1455年に後花園天皇より成氏追討の綸旨と御旗を賜って成氏を朝敵としたため、成氏は鎌倉を放棄して古河を本拠とした。以後、成氏の系統は古河公方と呼ばれた。成氏は、1457年に修復が完了した古河城に正式に入城した。当時の古河公方は下総・下野・常陸に及ぶ強大な勢力圏を誇った。成氏は幕府の派遣した堀越公方の足利政知や上杉家と抗争を続けたが、1477年に成氏は和睦を申し出て、5年後に幕府と古河公方家は和睦した。成氏は1497年に病死し、息子の政氏が第2代古河公方となった。政氏は外交方針をめぐって嫡子の高基と対立し、父子が不和になって内紛を起こし、最終的に高基が勝利して政氏は追われ、高基が第3代古河公方となった。高基の実弟の義明が還俗し、上総守護代の武田氏の勢力を背景にして小弓公方として独立するなど、次第に古河公方の衰退は明らかになっていった。高基は勢力挽回のため、関東で台頭し始めていた北条早雲・氏綱に接近し、嫡子晴氏の正室に氏綱の娘を迎えて北条との連携を図り、1538年には小弓公方を滅ぼした。 高基の跡を継いだ晴氏は関東管領上杉憲政に接近して氏綱の嫡子氏康と敵対し、1546年に武蔵河越で氏康と戦い兵力では圧倒的に優位ながら大敗した。以後、古河公方家は後北条家の影響下に置かれ、その勢力範囲内の各所を居所として転々とした。晴氏は1560年に死去し、子で第5代の義氏は北条準一門として古河公方に立てられたが、嗣子が無く天1582年に死去し、古河公方は断絶して後北条家より以後は古河に城番が置かれた。1590年に関白豊臣秀吉により小田原征伐が行なわれ、7月に後北条氏が滅び、8月に秀吉の命令で、駿河など東海に5カ国を領有していた徳川家康は関東8カ国に国替えとなった。家康は古河を重要視し、嫡男松平信康の娘婿である小笠原秀政を3万石で入部させた。秀政は荒廃していた古河城を修復・拡張し、隆岩寺を開基した。1601年に、信濃守護の末裔の秀政を家康は故郷に2万石加増の5万石で戻し、秀政は信濃飯田へ移封された。徳川家康は、古河城を江戸城の支城と位置付けて、北部防衛の拠点として極めて重視した。城主には、譜代大名の中でも特に信任の厚い者を人選している。こうしたことから、藩主においても老中等の要職者が多数輩出した。そして古河藩と江戸城との関係は、単に政治、軍事的な結び付きにとどまらず、水陸運における北関東の枢要地として大消費地江戸との経済的、文化的等の関係を一層深め、古河における小江戸化が形成されていった。古河藩は江戸時代下総国葛飾郡 を領有した藩で、奥州街道の重要地点にあったため、藩主は譜代大名がほとんどである。古河藩主は国替されることが多く、多くの譜代大名から任じられている。小笠原氏の3万石に始り、松平 (戸田) 氏2万石、小笠原氏2万石、奥平氏 11万石、永井氏7万2000石、土井氏16万石、堀田氏9万石、松平 (藤井) 氏9万石、松平 (大河内) 氏7万石、本多氏5万石、松平 (松井) 氏5万8000石、土井氏7万石である。その中の代表格が土井家であり、同家の入封は前期・後期の2回で、その期間は1世紀半を超える。古河城のシンボル御三階櫓は、藩祖の土井利勝によって創建されたものである。土井家本家11代目当主土井利位=としつらは、筆頭老中まで昇進する一方で、日本で最初に蘭製顕微鏡で雪の結晶を観察したことで知られている。その雪の殿様こと土井利位を補佐した家老が鷹見泉石である。古河藩史に初めて正面から取り組んだ頃、著者は幕末の古河城内には、歴代大名家の在藩時の史料が、きちんと一貫して累積されているものだと思い込んでいたそうである。しかし、大名家の交替の際、在藩史料については次に入部する大名には事務引き継ぎはされないで、移封地へ持って行ってしまうようである。古河には、江戸時代後期から明治時代に入るまでの土井家の藩政記録しかなく、他の10家にわたる大名家時代の記録は、残念ながら存在していない。このため本書においては、古河藩大名家としては土井家を中心とせざるを得なかったという。
第1章 古河藩成立以前と藩初の展開/第2章 土井家治政の初期/第3章 お家再興と移封、そして再封/第4章 古河藩再封後の財政問題/古河藩社会が直面した時代の動き
26.1月26日
”現代語訳 老子”(2018年8月 筑摩書房刊 保立 道久著)は、人の生死を確かな目で見つめ宇宙と神話の悠遠な世界を語り世のために恐れずに直言する老子の内容を整理し明快に解きほぐしている。
老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、多くの反権威主義的な業績を残した中国春秋時代における哲学者で、道家・道教の始祖としての知られている。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられ、道教のほとんどの宗派で老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。書物『老子』を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり生きた時代について激しい議論が行われている。保立道久氏は1948年東京生まれ、1973年国際基督教大学卒業、1975年東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1976年に東京大学史料編纂所助手、1987年同助教授、1995年同教授、2005年から2007年まで同所長をつとめた。歴史資料の電子化・データベース化に早くから取り組み、成果は東京大学史料編纂所で古文書フルテキストデータベースとして公開されている。これまで、老子は中国の春秋時代、孔子(前552~479)とほぼ同時代の人物とされてきた。司馬遷の『史記』には、老子が孔子に礼を教えたとか、老子が中国の衰えたのを見限って西の関所を出るとき、関守の尹喜に頼まれて、一気に5000字の『老子』を書き下ろしたなどとある。しかし、最近では、『史記』の記載のほとんどが伝説にすぎないとされている。また学界では、そもそも老子は、「道家」と呼ばれる系列の思想家たちが作り出した虚構の人物であるという意見も多い。そうでないとしても、書籍としての『老子』には多数の人々の手が入っているという意見が圧倒的である。しかし著者は、『老子』を虚心に読んでいると、それが全休として緊密にまとまった思想的な統一性、一体性をもっていることを、誰しも感じるのではないかという。『荘子』は長い時間をかけて集団的に書き継がれたものであるが、『老子』はやはり一人の人物が執筆したと考える方がよいという。『老子』の成立は、中国の南、揚子江流域の「楚国」に深い関係があることは一般に認められている。1993年に、中国湖北省荊門市の郭店という町の古墓から、竹簡本の「楚簡」と呼ばれる『老子』が出土したためである。「楚簡老子」と呼ばれるこの竹簡本は、郭店の古墓に埋葬されていた王族または貴族の所持品で、そのために墓に納められたものである。この竹簡本は甲・乙・丙の三本が出土し、甲本は39枚、乙本は18枚、丙本は14枚の竹簡からなる。甲・乙・丙三本あわせても総字数は2046字ほどで、これは現在の完本『老子』の5分の2ほどに過ぎない。それでも、ここに『老子』の基本部分が発見されたことは画期的なことであった。この墓は中国の考古学者の見解では紀元前300年から270年頃の造営であるとされているが、墓の造営が少し遅れる可能性があることから、たとえばこの墓の造営を紀元前255年とし、また埋葬された人物が50歳で死去したという見解もある。その20年前くらいから順次に竹簡を人手したと仮定すれば、この竹簡は紀元前275年頃に作成されたことになる。もし楚簡の本になる原稿を書いた紀元前280年に老子が40歳であったとすると、老子の生まれたのは紀元前320年頃ということになる。長寿であったとされることから、たとえば90歳まで生きたとすると、その死没は紀元前230年になる。この年代観を取ると、老子の活動期は、孟子(前372?~289?)の生存時代の最後に重なる。『老子』の中には明らかに孟子に対する批判を意図した文章があるので、うまく話が合う。なお、全体で約5000字からなるという現在の『老子』の形が確認できるのは、もっと遅れる。それは、1973年に湖南省長沙市の馬王堆の墳墓から発見された『老子』である。「楚簡老子」は哲学や人生訓を中心としたやや素撲な内容であるのに対して、帛書に反映した加筆された『老子』は政治と社会についての洞察や華麗な比喩が付け加えられて複雑な構成となっている。孔子のいう「礼」と老子のいう「徳」には、趣旨として相似するところがある。老子の段階においては、国家的・文明的な知識体系がすでに形成されており、それを批判するなかから東洋における初めての本格的な哲学が立ち上がってきたのである。
序 老子と『老子』について/老子は実在したか?/『老子』は老子の書いたものか?/『老子』の初稿は紀元前280年頃?/『老子』の生存年代は紀元前320年頃から230年頃?/老子と孔子、『老子』と『論語』
第1部 「運・鈍・根」で生きる
第1課 じょうぶな頭とかしこい体になるために/1講 象に乗って悠々と道を行く/2講 作為と拘りは破綻をまねく/3講 勉強では人間は成長しない/4講 大木に成長する毛先はどの芽に注意を注ぐ/5講 自分にこだわる人の姿を「道」から見る/6講 丈夫な頭とかしこい身体/7講 自分を知る「明」と「運・鈍・根」の人生訓/コラム①「明」の定義
第2課 「善」と「信」の哲学/8講 無為をなし、不言の教えを行う/コラム② 不言の教の定義/9講 上善は水の若し/コラム③ 「善」の定義/10講 「信・善・知」の哲学/11講 「善・不善≒信・不信」を虚心に受けとめる/12講 民の利と孝慈のために聖智・仁義を絶する/コラム④ 「孝慈」の定義/13講 「言葉の知」は「文明の病」
第3課 女と男が身体を知り、身体を守る/14講 女と男で身体の「信」をつないでいく/15講 女が男を知り、男が女を守り、子供が生まれる/コラム⑤ 易・陰陽道・神仙思想と日本の天皇/16講 家族への愛を守り、壊れ物としての人間を守る/17講 赤ん坊の「徳」は男女の精の和から生ずる/18講 母親は生んだ子を私せず、見返りを求めない/19講 男がよく打ち建て、女がよく抱く、これが世界の根本/20講 柔らかい水のようなものが世界を動かしている
第4課老年と人生の諦観/21講 力あるあまり死の影の地に迷う/22講 私を知るものは希だが、それは運命だ/23講 老子、内気で柔らかな性格を語る/24講 学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい/25講 人には器量の限度がある、無事に身を退くのが第一だ/26講 老子の処世は「狡い」か
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学
第1課 宇宙の生成と「道」/27講 混沌が星雲のように周行して天地が生まれる/28講 私は和光同塵の宇宙に天帝よりも前からいた/29講 私の内面にある和光同塵の世界/30講 知とは五感を超えるものを見る力である/31講 道は左右に揺れて変化し、万物はそれにつれて生まれる/32講 天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている/33講 老子はギリシャのソフィスト、ゼノンにあたるか?
第2課女神と鬼神の神話、その行方/34講 星々を産む宇宙の女神の衆妙の門/35講 谷の神の女陰は天地の根源である/36講 世に「道」があれば鬼神も人を傷つけない/37講 天下は壷の形をした神器である。慎重に扱わねばならない/コラム⑥ 「物」の定義/38講 胸に陽を抱き、背/に陰を負い、声をあわせて生きる/39講 一なる矛盾を胸に抱いて進め
第3課 「士」の衿持と道と徳の哲学/コラム⑦ 「徳」の定義/コラム⑧ 老子の「徳」と孔子の「礼」/40講 希くの声をしるべにして道を行く/コラム⑨ 「聖人」の定義/41講 士の「徳」は「道」を実践すること/42講 実践の指針、無為・無事・無味の「徳」/43講 「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ/44講 玄徳は女の徳との合一を理想とする/45講 契約の信は求めるが、書類を突きつけて人を責めることはしない/46講 戸を出でずして世界を知ることが夢
第4課 「士」と民衆、その周辺/47講 士たる者は故郷の山河を守る/48講 人々の代表への信任は個人に対するものではない/49講 士は民衆に押れ押れしく近づくものではない/50講 士と百姓の間には激しい風が吹く/51講 民の前に出るときはあくまで控えめに/52講 器「善」と「不善」をめぐる老子と親鸞/53講 赦しの思想における老子とイエス・キリスト
第3部 王と平和と世直しと
第1課 王権を補佐する/54講 我から祖となれ、王となれ/55講 無為の人こそ王にふさわしい/856講 正道を進んで、無為・無事・無欲に天下を取る/57講 王の地位は落ちていた石にすぎない/258講 知はどうでもいい。民衆は腹を満たし、骨を強くすればよい/59講 知をもって国を治めるものは国賊だ/60講 政治の本道は寛容と保守にある
第2課 「世直し」の思想/61講 王権の根拠と土地均分の思想/コラム⑩ 老子の土地均分思想と分田論/62講 王が私欲をあらわにした場合は「さようなら」/63講 「無用の用」の経済学/コラム⑪ 「器」の定義/64講 有り余りて有るを、取りで以て天に奉ぜん/65講 倫理に欠陥のある人々が倫理を説教する/66講 朝廷は着飾った盗人で一杯で、田は荒れ、倉庫は空っぽ/67講 民衆が餓えるのは税を貪るもののせいだ
第3課 平和主義と「やむを得ざる」戦争/68講 固くこわばったものは死の影の下にある/69講 戦争の惨禍の原因は架空の欲望を作り出すことにある/70講 士大夫の職分は武ではない/71講 軍隊は不吉な職というほかなど/72講 老子の権謀術数/73講 自衛戦争はゲリラ戦法でいく/74講 首切り役に「死の世界」をゆだねない
第4課 帝国と連邦制の理想/75講 理想の王はすべてに耐えぬかねばならない/76講 理想の王は雑巾役として国の垢にまみれる/77講 万乗の主でありながら世界を軽がるしく扱う/78講 肥大した都市文明は人を狂わせる/79講 平和で柔軟な外交で王を補佐する/80講 大国と小国の連邦においては大国が遜らねばならない/81講 小国寡民。人はそんなに多くの人と群れなくてもよい
27.平成31年2月2日
“神饌-供えるこころ-奈良大和路の祭りと人”(2018年3月 淡交社刊 写真・野本暉房/文・倉橋みどり)は、奈良県内各地の神社の祭礼で神前に献じられる神さまへのお供え物=神饌のいろいろなすがた・かたちを多数の写真と文章で紹介している。
祭りで、神様にお供えする食べもの=神饌は、日本の神社や神棚に供えられ、御饌=みけあるいは御贄=みにえとも呼ばれる。奈良大和路に残る祭りでは、それぞれに特色のある食べものを神饌とし、独特な作法でお供えするところが少なくない。そこには大和の祭事の歴史と魅力はもちろん、その土地の方々の祭りに対する思いが色濃く感じられる。野本暉房氏は1940年大阪府生まれ、一般企業に勤務の傍ら趣味で写真を始め、1968年頃から各種コンテストに応募、アサヒカメラ年度賞(1970年・自由写真の部、1972年・課題写真の部、1973年・カラー写真の部)、シュピーゲル賞(1973年)はじめ、受賞・入選多数ある。2000年より写真家として奈良大和の風景、祭事の撮影に専念し、独特の視点と優れた取材力による魅力的な写真作品で注目を集めている。2010年に入江泰吉賞(日本経済新聞社賞)を受賞、日本写真家協会(JPS)会員、奈良民俗文化研究所研究員である。倉橋みどり氏は1966年山口県生まれ、山口女子大学国文科卒業、地域文化誌『あかい奈良』の編集長を経て、奈良きたまちのアトリエ「踏花舎」を拠点に雑誌・新聞での企画・執筆を手がけ、奈良の文化や歴史を発信する「NPO法人文化創造アルカ」の代表として講座やイベントを実施している。入江泰吉旧居コーディネーター、武庫川女子大学非常勤講師を務めている。NPO法人文化創造アルカは、2012年11月法人として認可され、これまで軽視されがちだった近代・現代を中心に、奈良の歴史や文化などの魅力を掘り下げ、日本文化全体の理解を深め、ともに考え、さらには記録として未来へ伝えていくために、勉強会・講演会などの催しと出版活動などを行っている。今回、その神饌をテ~マに選び、どのような神饌が供えられるのかを中心に、地元での神饌の準備が整うまでの様子や、祭りでの人々の表情などを合わせて紹介している。一年の節目に行われる日本の祭は神事と祭礼から成りたち、神事の際にはその土地の人々が特別な恩恵を享受した食物を神饌として捧げ、神迎えを行ってきた。捧げられる神饌は主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれてきた。儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする直会=なおらいとよばれる儀式が行われる。現在では、1871年に打ち出された祭式次第に準拠した生饌と呼ばれる、素材そのものを献供する丸物神饌が一般的になった。それ以前には熟饌とよばれる、調理や加工を行った、日常生活における食文化の影響が伺えるものも神饌として献供されていた。そして、一部の神社では伝統に則ってこの形式の神饌の献供が引き継がれており、これらの神饌は他の地域に見られない特徴を有することから、特殊神饌とも呼ばれる。特殊神饌の献供を行う神社は全国各地に存在するが、奈良県内の代表的な例として、奈良市の春日大社春日祭「御棚神饌」「八種神饌=やくさのしんせん」と率川神社三枝祭、桜井市の談山神社嘉吉祭「百味の御食=ひゃくみのおんじき」などが挙げられる。神饌の調製は竃殿=へついどの(春日大社)、大炊殿=おおいどの(賀茂御祖神社)など、専用の建物がある社はそこで調製を行う。あるいは、特別の施設を持たない社では社務所などを注連縄を用いて外界と分かち、精進潔斎した神職や氏子の手で作られる。火は忌火が用いられ、唾液や息などが神饌にかからないよう、口元を白紙で覆う場合もある。また、近親者に不幸があった者は調製に携わることが許されないなど、調製には細心の注意が払われる。 春日大社で行われる春日祭などの勅祭では、明治以前には宮中から大膳が参向し、御物の調製にあたった。1884年の明治天皇の旧儀復興の命で神饌は特殊神饌に戻されたが、調製は春日大社の神職の手で行われている。祭事、民俗行事の取材をしていていると、神事の初めに上げられる神饌にまず目を引かれる。神饌について、神社庁などで定める基準があるのか調べても、これでなければならないというものはないようで、それぞれの神社の故実や伝承によって行なわれている。本書は、神社庁の公認のものはなく、学術的なものでもなく、著者がおもしろいと興味を待ったものを中心にまとめている、という。奈良大和の祭事、神饌などはどちらかというと、静かでおとなしめの感があるが、丁重さは他より感じられるものがたくさんある。また、本来の食べ物を中心とした神饌だけでなく、おもてなしの演出とも言える、舞、唄、火、水なども含めて取り上げた。神様には元来私欲のお願いごとをするというものではなく、荒ぶる神を鎮める、国土、民の安寧を祈るというものだと言われる。今年もおかげさまで野山の幸も海川の幸も得ることができましたと、神様にその報告と感謝をし、捧げるのが神饌だと思われる。同じことならその容器などにも飾りや化粧をして、演出もすればより喜んで頂けるだろうとのおもてなしの気持ちで、凝ったものが作られてきたのであろう。由緒や謂れを尋ねても、民俗行事などでは、大方は昔からそうしてきたようだし、意味はわからん、との答えが多い。民俗伝承とはそういうものでもあり、それがまた興味津々なのである。どうしても目を引く神饌を取り上げることになり、祭礼の日に特殊神饌など目を引く神饌に興味を感じる。しかし、多くの神社では毎朝に「日供」と呼ばれる神饌を上げおり、神饌の基本とも言えるもので見落としてはならない。こうした祭事や神饌などは、日本人の精神文化の形成に影響を与えてきた大きな要因であったのではないか。近代化激しい時代で祭事も簡素化省略化される傾向がないでもないが、こうした文化の伝承は続いて欲しいと願う。
第1章 神饌の色色/第2章 神饌のかたちの不思議/第3章 いのちを供える/第4章 舞を供える、音を添える/第5章 火を供える、水を供える/第6章 神饌ができるまで/第7章 直会のよろこび
28.2月9日
”中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流”(2018年11月 吉川弘文館刊 清水 亮著)は、まっすぐで分け隔てない廉直な人物で坂東武士の鑑として伝わる武蔵国男衾郡畠山の在地領主・畠山重忠の武士としての生き方を描いている。
鎌倉初期の武士で武蔵国畠山荘の荘司重能の子・畠山重忠は、頼朝挙兵当初は平氏に属して頼朝に敵対したが、のち頼朝に服属した。治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。清水 亮氏は1974年神奈川県生まれ、1996慶應義塾大学文学部を卒業し、2002年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学し、博士(文学)となった。現在、埼玉大学教育学部准教授を務めている。畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。畠山氏が成立した12世紀前半から中葉は、日本中世の成立期にあたる。この時期、日本列島各地に天皇家・摂関家・大寺社を最高の領主とする荘園が形成される一方、各国の国管が管轄する国訴領もまた中世なりの郡・郷として確定されていった。武士の多くは在地領主であったが、全ての武士が在地領主であったわけでも、在地領主の全てが武士であったわけでもない。武士とは武芸を家業とする職業身分であり、地方の所領に本拠を形成し、収益を取得する在地領主とはそもそも異なる。2000年代に入って、武士団と地域社会との関わりについての研究は大きく進んだという。とくに、武士の本拠・本領とその周辺の地域社会との関係が明確になってきた。武士の本拠が館だけでなく、地域の流通・交通の要衝である宿や、地域社会の安寧を保障する寺社と結びついて形成されていた。武士はこのような本拠を拠点として、地域における交通・流通の主導者、地域信仰の保護者の役割を果たしていた。頼朝時代の御家人集団が、鎌倉殿のもとでの平等性とそれぞれの勢力の差に基づく差別をともに孕んでいた。また、中世前期の武士を考える上で欠くことができないのが京都との関わりである。武士身分を認証するのは王権であり、清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏に系譜を引く武士たちは王権の認知を受けた正統的な武士である。一方、国管軍制の拡充過程で武士に認定された者たちも存在しており、その武士身分を認証するのは国街であるから、王権に認証された軍事貴族クラスの武士よりは格下である。武士・武士団には家格・勢力に応じた階層性があった。畠山重忠・畠山氏は在地系豪族的武士で、その軍団は在地系豪族的武士団と呼称できそうである。畠山氏は、郷村規模の所領を持つ地方中小武士を郎等・目下の同盟者として抱えていた。本書では、近年の武士研究・在地領主研究の達成をふまえ、武士・在地領主としての畠山重忠・畠山氏のあり方をできうる限り具体的に示すことを目指すことになる。畠山重忠の振る舞い・言説に関する史料は多く残されているが、そのほとんどは鎌倉末期に成立した『吾妻鏡』や、『平家物語』諸本の記事である。重忠個人の言説一つ一つの実否はともかく、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本などに示された重忠の姿は、武士としての重忠、武士団・在地領主としての畠山氏のあり方をそれなりに投影しているのではないだろうか。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えた。坂東八平氏は、平安時代中期に坂東に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏である。8つの氏族に大別されていたため、八平氏と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々であるが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられる。秩父氏は日本の武家のひとつで、桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東8平氏のひとつに数えられる。平良文の孫で桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。秩父平氏の直系で、多くの支流を出した名族で、武蔵国留守所総検校職として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館を居城とした。初代の平将恒は、武蔵介・平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。1180年8月17日に、源義朝の三男・頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵した。この時、父・畠山重能が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。8月23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走し、相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇した。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。8月26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡した。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った。9月に頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。河越重頼は、娘の郷御前を頼朝の弟である源義経に嫁がせることに成功した。しかし、義経が失脚すると重頼・重房親子もこれに連座して討伐され、秩父氏惣領の地位は畠山重忠に与えられた。奥州合戦では、源頼朝に従い畠山重忠が先陣を務めたほか、江戸重長も従軍している。1204年11月に、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。1205年6月に、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。時政の娘婿の稲毛重成が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じた。こうして、畠山重忠の乱が起こり、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた。これは、鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つであった。
畠山重忠のスタンス―プロローグ/秩父平氏の展開と中世の開幕(秩父平氏の形成/秩父重綱の時代)/畠山重能・重忠父子のサバイバル(畠山氏の成立と大蔵合戦/畠山重忠の登場)/豪族的武士としての畠山重忠(源頼朝と畠山重忠/在地領主としての畠山氏)/重忠の滅亡と畠山氏の再生(鎌倉幕府の政争と重忠/重忠の継承者たち )/畠山重忠・畠山氏の面貌―エピローグ/あとがき
29.2月16日
”15歳のコーヒー屋さん-発達障害のぼくができることから ぼくにしかでないことへ”(2017年12月 KADOKAWA刊 岩野 響著)は、10歳で発達障害のひとつのアスペルガー症候群と診断され中学校に通えなくなったのをきっかけにあえて進学しない道を選んだ15歳のコーヒー焙煎士の来し方と行く末を紹介している。
発達障害とは、生まれつきの脳機能の発達のアンバランスさ・でこぼこと、その人が過ごす環境や周囲の人とのかかわりのミスマッチから、社会生活に困難が発生する障害のことである。アスペルガー症候群は発達障害のひとつで、発生率は約4,000人に1人程度であるといわれ、対人関係の障害、コミュニケーションの障害、パターン化した興味や活動の3つの特徴を持ち、言葉の発達の遅れや知的発達の遅れがない場合を指す。厚生労働省はアスペルガー症候群を、広い意味での自閉症のひとつのタイプであると定義している。アスペルガー症候群を含む自閉症スペクトラムについては、これまでのところ確実に断定できる原因はないが、先天的な脳の機能異常により引き起こされていると考えられている。岩野 響さんは2002年生まれ、10歳でアスペルガー症候群と診断され、中学生で学校に行けなくなり、あえて高校に進学しない道を選び、料理やコーヒー焙煎、写真など、さまざまな「できること」を追求してきた。そして2017年4月に、群馬県桐生市の自宅敷地内に「HORIZON LABO」をオープンした。幼い頃から調味料を替えたのがわかるほどの鋭い味覚、嗅覚を生かし、自ら焙煎したコーヒー豆の販売を行っている。コーヒーに興味を待ったのは、じつはカレー作りがきっかけだという。学校に行かなくなった中学1年の冬、ずっと家にいて家事をやりはじめ、夕飯を作るのがおもな仕事であった。八百屋や魚屋に買い物に行き、鯖の味噌煮や肉じゃがなどを作っていたが、ある日突然、スパイスからカレーを作りたいと思い立った。どうせだったらスパイスから作りたい、せっかく作るのなら、おいしいものがいいという単純な気持ちであった。そこで、スパイスの本を探してきて読みあさり、それぞれの特徴を覚え、世界中のカレーの歴史や製法なども勉強した。カレーがどうしてコーヒーにはまるきっかけになったかというと、カレーの隠し味にインスタントコーヒーを入れてみたら、おいしいことに気づいたからである。さらに豆から挽いたコーヒーを入れるともっとおいしくなることがわかつて、どんどんのめりこんでいった。スパイスカレー作りにはまっていた頃、両親のお店にやってくるお客さんにカレーを振る舞うと、おいしいと食べてくれた。でも、だんだんカレーよりもコーヒーのほうに夢中になっていった。その頃、両親の仕事関係の人から、コーヒーが好きなら焼くところからやらなきやダメ、と手回しの小さなコーヒー焙煎器を譲ってもらった。焙煎をしてみたら、味の変化がすごくおもしろくて、もっとやりたいと意欲がわき、これが人生の転機になった。両親の仕事関係の人や友人、知人たちは、とても心配してくれて、この豆を飲んでみてと持ってきてくれたり、この店のコーヒーがおいしいと教えてくれたり、コーヒーを職業にしている人を紹介してくれたりした。そして、地元のコーヒー屋から誘っていただき、スマートロースターという、大型焙煎機を触らせてもらえることになった。そんな中で出会えたのが、2013年に閉店した伝説の喫茶店、東京・南青山にあった”大坊珈琲店”の大坊勝次さんであった。大坊さんとの話しの中で、コーヒーの焼き加減のポイントはすごく近く、また深くて甘いコーヒーというコーヒーの好みが似ていた。その後は、大坊さんに飲んでほしいと思えるコーヒーが焼けたときに、豆を送らせてもらっている。味覚や嗅覚には点数がつけられないし、正解というものがないので、いいと思うコーヒーがお客さんにもおいしいと思ってもらえるのか、じつは心配であった。でも、大坊さんとコーヒーの話ができて、味の話題について共感してもらえたことで、目指すコーヒーのイメージはこれでいいと自信になった。この頃両親は、仕事場に連れていってくれて、いろいろな人に会わせてくれた。そこで、たくさんの仕事やお金の稼ぎ方があることを知った。それまで仕事はどこかの企業に勤めるものと思い、中学を卒業したら高校に行って、次は大学に行って就職をすると考えていた。障害があろうがなんだろうが、生きていかないといけない。では、どうやって生きていけばいいのか、どんな方法で稼ぐのか、働くとはどういうことなのか、どんな方法があるのか。この頃に出会った大人の人たちに、いわゆる一般的な会社勤めをしなくても、もっと自由に稼ぐ方法があると教えてもらった。自分はだんだん、「これでいいんだ」「このままでもいいんだ」「ぼく、いけるかも」という気持ちになることができた。家族で行ったフランス旅行で、道端のおしゃれなコーヒースタンドを見かけ、いいな、ああいうお店を持ちたいなと思った。そこでは、ひとりで、ビンテージのカップやコーヒー器具を使ってコーヒーを販売していた。決して高価なものを並べているわけではなかったが、その人のセンスとアイデアを感じられる素敵なコーヒースタンドであった。そこから、自分ひとりでできる方法がないか、と考えはじめた。ある日、自宅の空いている倉庫を、パパと一緒に改装してお店にできないかな、と両親に伝えた。母はできそうだと喜んでくれ、父も自分の家でしかも自分たちで改装すれば、資金もほぼかからないしいいアイデアだねと賛成してくれた。
はじめに
第1章 幼少期のぼく
ぼくはアスペルガー症候群/小さい頃の記憶は、じつはあいまいです/小学校3年生で教室にいられなくなる/はじめて先生やみんなに認められた!
□「発達障害」を知らなかった私たち 母・岩野久美子
幼少期の響は、とにかく寝ない赤ちやんでした/シャンプーや洗剤のボトル集めに夢中/同世代の男の子と興味、関心が全然違う/「もしかして耳が聞こえていないの?」と聴力検査を受ける/保育士さんに相談できなかった理由/小学校3年で発達障害の診断を受ける/よい先生との出会いで気づいたこと/「育てる」より「サポート」でいい/お互いがよくなるために「家族会議」を開く
□男親として考えたこと 父・岩野開人
違和感はあるものの、確信が持てない/弟の方ができることが多い!?と気づく/学校がつまらなそうだった響/障害を知り、たきまち将来が不安になる/障害者を取り囲む「社会の現実」に直面
第2章 大きな壁にぷつかった中学時代
なにがなんでも校則を守ろうとしていた/体を鍛えるためにバドミントン部へ/教室にも、部活にも、ぼくの居場所がない/はじめて自分が発達障害であると知る/学校に行けなくなった
□中学校は波乱の幕開け 母・岩野久美子
「家庭の問題は家庭で解決してください」/提出物という落とし穴/「もう学校に行かなくていいよ」の一言を言ってあげられない/「何でも障害のせいにしないで!」との叱責/できることに目を向けたら、可能性が広がった/傷ついた心をプラマイゼロの状態に戻す
□不器用なのが響のよさ 父・岩野開人
響には「なんとかしてあげたいな」と思わせる才能がある/一般的なルートに乗らなくてもいい!
第3章 働くごとで新しい世界が広がる
これからの生き方を模索する日々/家事をしたり、父の仕事を手伝ったり/ぼくがコーヒーに目覚めたきっかけ/小さな手回しの焙煎器が人生を変えるきっかけに/コーヒー界のレジェンドとの出会い/もっと自由に稼ぐ方法はある/コーヒー屋さんをオープンしてみたい/回転準備と販売計画
□できることと、できないことを理解する大切さ 母・岩野久美子
「100円でも稼げないと生きていけないよ」/高校進学の道を検討してみたものの/15歳の4月にどうしてもオープンさせたかった/家族全員で障害をポジティブにとらえていく
口響を知ることで、ぼく自身が成長できる 父・岩野開人
そばにいたいから「仕事」を生み出す/わが子と一緒に働くことの楽しさ/毎日が新入社員/焙煎士が適職だと確信した理由
第4章 ぼくの仕事はコーヒー焙煎士です
2017年4月、「HORIZON LABO」をオープンーン!/コーヒー屋さんの1日/何度やっても飽きることがない、コーヒー焙煎の魅力/味のイメージを膨らませるために/人見知りのぼくもコーヒーのことなら饒舌に/過敏な味覚と嗅覚が焙煎の役に立つ/じつは小学校低学年のときから、隠れてコーヒーを飲んでいました/焙煎を通じて自信を取り戻す/「HORIZON LABO」はまだまだ進化していく/自分の障害を受け入れた瞬間/誰にでも、自分の生きやすい場所はある/自分の好きなことを仕事にしているから障害がない
□響は、そのままでいい 母・岩野久美子
家族という小さな社会を回していく
□小さな焙煎器から始まった、大きな世界 父・岩野間人
一歩踏み出せば、人とのつながりができる/ものの考え方や見方ひとつで、人生は変わる
解説 数々の選択が、よい結果につながっている 星野仁彦(心療内科医・医学博士)
おわりに I
ぼくができるごとから、ぼくにしかできないごとへ/できるごと探しを積み重ねていったその先に
30.2月23日
”五大友厚 富国強兵は「地球上の道理」”(2018年12月 ミネルヴァ書房刊 田付 茉莉子著)は、薩摩藩に生まれ幕末に渡欧し帰国後明治政府に出仕し、辞任後数々の事業を手がけ、商法会議所、商業講習所、株式取引所などを創設し大阪実業界の基盤を築いた五代友厚の功績を振り返っている。
五代友厚は1836年に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷に、薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれた。江戸時代末期から明治時代中期にかけての薩摩藩士で大阪経済界の重鎮の一人である。当時、まさに瓦解に及ばんとする萌しのあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。田付茉莉子氏は1944年生まれ、1974年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了、現在、一般財団法人日本経営史研究所会長を務めている。幕末の動乱期にあって、ほとんどの志士たちが攘夷思想を抱いていたなかで、ヨーロッパに眼を向けていた人物は数少ない。一般によく知られているのは、ペリー艦隊に小舟を漕ぎ寄せて渡米を計画した吉田松陰であるが、その渡航の試みは無計画・無謀な企てであって、当然のことながら失敗した。これに対して五代は、薩摩藩という開明的な藩を動かし、藩の事業として留学生を率いて渡欧を実現した。五代は、時代を突き抜けたグローバルな視野の持ち主で、ヨーロッパ諸国が世界に活躍している時代を正しく認識し、日本もその一員とならなくては国の将来はない、と喝破したうえでの綿密な渡航計画であった。大久保利通や西郷隆盛といった下級武士出身の志士たちと違って、五代は上級武士の出身であったから、直接的に斉彬の影響を受けて育った。1851年に元服して才助と名乗り、1857年に郡方書役となり、長崎遊学を命ぜられ、長崎で勝海舟と出会い、イギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーと知己を得た。グラバーと共に上海に渡航し、ヨーロッパ諸国の租界が軒を連ね、世界有数の国際都市へと発展しつつあった都市の活気に触れた。1862年に藩庁より舟奉行副役の辞令が下り、蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴き、上海で高杉晋作らに出会った。1863年に薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送された。1865年3月にグラバー商会が手配した蒸気船オースタライエン号で、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立った。薩摩藩留学生を引率してのヨーロッパ渡航は、五代の見聞の幅を大きく広げた。5月にイギリスのサウサンプトン港に到着、即日、ロンドンに向かい、7月にベルギーに行き、9月にプロシアから、オランダを経由して、フランスへ行った。1866年2月に薩摩の山川港に帰着し、直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられた。イギリスやフランスでの知見に基づいて、五代は世界の強国の拠って立つ経済的基盤を理解し、斉彬のめざした富国強兵を、きわめて現実的に追求していった。帰国後の五代は、志士としての活躍もしたが、蒸気船、開聞船長として、資金調達と武器・艦船の調達などの商業活動にほとんど専念していた。刀を切り結び立ち回ることはなく、自らの役割を限定的に自覚して遂行したのである。その意味で五代は、同時代のいわゆる志士とは明確に一線を画していた。1867年1月に小松清廉、グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手した。5月に幕府が崩壊すると、御納戸奉公格という商事面を担った。1868年に明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられた。2月に外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来た。5月に外国権判事、大阪府権判事に任命され、初代大阪税関長に就任した。9月に大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当した。政府に大阪造幣局の設置を進言し、グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を6万両で購入する契約を結んだ。1869年5月に会計官権判事として横浜に転勤を命じられたが、2か月で退官し下野した。以後、金銀分析所、大阪通商会社、為替会社の設立に尽力し、鉱山経営として天和鉱山を手掛けた。また、造幣寮(現・大阪造幣局)、弘成館(全国の鉱山の管理事務所)、朝陽館(染料の藍の製造工場)、堂島米商会所の設立を行った。1878年8月に大阪株式取引所(現・大阪取引所)、9月に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任した。ほかに、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)を設立した。五代友厚の事績を評価するときに、東の渋沢、西の五代と並び称されることが多い。商法会議所や商業講習所を設立し、実業界の組織化に大きな貢献をしたという点では、東京の渋沢栄一に匹敵する役割を、西の大阪で果たしたからである。一方で、五代は政商として岩崎弥太郎と並び称されることも多い。大蔵卿大隈重信と結んで三菱財閥を築き上げた岩崎に対して、内務卿大久保利通と五代の関係が比定されているのである。五代が政商とされるのは、北海道開拓使官有物の払い下げ事件によってであり、日本史の教科書ではこの一件だけ取り上げる本が多い。しかし、事業家としての資質は、渋沢や岩崎と五代とのあいだには大きな違いがあった。渋沢は、自ら事業を起こすよりは、財界の組織者として能力を発揮した。一方の岩崎は、政府の保護を利用して事業で成功し、のちに財閥を築いた。渋沢にとっても岩崎にとっても、事業意欲と資本蓄積意欲は表裏一体であった。五代もまた、自ら事業を起こして経営する実業家であった。そして、数多くの大事業の創業に関わった点では、渋沢や岩崎と共通するものがある。しかし五代の事業意欲は、蓄財を最終的な目的とはしておらず、殖産興業と富国の実現を理念としていた。在来産業に代わって近代工業を根づかせ、それによって国際収支の悪化を防ぎ、植民地化の危機を回避しようとした。その事跡をみるならば、五代は単に大阪の恩人にはとどまらず、近代産業の父として渋沢に先んじる存在であった。日本の近代を築く志にこだわった数少ない事業家であり、さらに大久保をバックアップする偉大な論客でもあった。
序 章 幕末薩摩藩と五代友厚/第一章 西欧近代に学ぶ/長崎遊学と上海渡航/薩英戦争から薩摩藩英国留学生の派遣へ/第二章 日本の近代化に向けて/ヨーロッパの視察/十八箇条の建言/幕末における志士活動/第三章 明治政府に出仕/在官時代の活躍/造幣寮の設立/辞官と帰郷/第四章 実業界でのスタート/金銀分析所の事業/活版印刷の普及と出版事業/第五章 鉱山業の展開/鉱山業と弘成館/主な鉱山の経営/弘成館の業績/第六章 製藍業の近代化と失敗/製藍業と朝陽館/経営難から破綻へ/第七章 その他事業への出資/大阪製銅会社/貿易事業への関与/その他の事業投資/第八章 商法会議所と財界活動/明治初年の政界活動/大阪商法会議所の設立/商業講習所と商品取引所/財政政策の建議/終 章 五代友厚の生涯、果たした役割/五代をめぐる人びと/五代友厚の逝去/五代の顕彰と事績/参考文献/おわりに/五代友厚略年譜/人名・事項索引
31.3月2日
“絵師の魂 渓斎英泉”(2019年1月 草思社刊 増田 晶文著)は、文化文政時代に葛飾北斎に私淑し美人画・春画で一世を風靡し千数百点の作品を残した浮世絵師・渓斎英泉を題材にした書下ろし時代小説作品である。
渓斎英泉は1791年に、江戸市中の星ヶ岡に下級武士政兵衛茂晴の子として生まれた。本姓は松本であったが、父の政兵衛茂晴が池田姓に復して以後は池田を名乗り、本名は義信であるが、茂義といった時期もある。字は混聲、俗称は善次郎、のちに里介と名乗った。菊川英山の門人で、画号は渓斎、国春楼、北亭、北花亭、小泉、涇斎といい、天保の改革以後は戯作や随筆に専念し、戯作者としては可候を名乗った。増田晶文氏は1960年大阪府東大阪市生まれ、清風高等学校、同志社大学法学部卒業、会社員生活を経て、1994年から文筆業に専念している。1990年代から2000年初頭まで、スポーツ、お笑い、教育、日本酒、自動車など幅広いジャンルのノンフィクション作品を単行本で発表してきた。1998年にナンバー・スポーツノンフィクション新人賞、2000年に小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した。2010年より小説へ移行し、2012年には初の書き下ろし小説を上梓し、人間の果てなき渇望を通底テーマに、さまざまなモチーフの作品を発表している。渓斎英泉は、12歳から狩野典信の弟子という狩野白桂斎に画技を学んだが、15歳の元服を機に、16歳か17歳かで安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕官した。侍奉公には不向きだったのか、17歳の時に上役と喧嘩沙汰となり、讒言によって職を追われた。20歳の時、父と継母が相次いで亡くなり、3人の妹を一人で養う身となって、狂言作者の道は挫折を余儀なくされた。この時、先の水野壱岐守家に仕える多くの血族からの支援もあったが、善次郎はそれをよしとせず、流浪のうえ、一時、狂言役者篠田金治、後の2世並木五瓶に就いて、千代田才市の名で作をなした。また深谷宿にて菊川英二に寄寓、浮世絵師菊川英山の門人格として、本格的に絵筆を執ることとなった。ここからが善次郎の才能の発露であり、浮世絵師渓斎英泉の始まりであった。師の英山は4歳年上でしかない兄弟子のような存在ながら、可憐な美人画で人気の絵師であった。英泉は英山宅の居候となって門下で美人画を学びつつ、近在の葛飾北斎宅にも出入りし、私淑をもってその画法を学び取っていった。著者は、浮世絵を前にしてのけぞったのは、渓斎英泉の美入画が初めてだったという。むっちりと妖艶、婀娜っぽいだけでなく、内面に蛇が棲んでいる女を描きつづけた。彼女たちの魅力は、うつくしい、かわいい、艶っぽいで収まりきらず、とても全体像をあらわせない。英泉が紡いだ錦のように豪奢な女は、菱川師宣から鈴木春信、鳥居清長、鳥文斎栄之とつづく美人画の系譜から大きくはみ出し、喜多川歌麿にもまけない強烈なオリジナリティーを醸している。知名度では、歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重ら四天王という面々におよばないものの、十傑をあげるなら、英泉は指おって名をかぞえるに値する絵師であろう。英泉の美人画は海をわたり、ジャポニスムに傾倒する画家に注目された。とりわけ、フィンセント・ファン・ゴッホは、1886年刊行の”パリ・イリュストレ”誌に掲載された英泉の”雲龍内掛の花魁”にはげしく感応した。また宋・明の唐画を好み、書を読み耽ることを趣味とする人でもあった。文筆家にして絵師である英泉は、数多くの艶本と春画を世に送り出している。22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本”絵本三世相”を発表した。24歳の時ころには、それまで可憐に描いていた美人画のほうも、この時分から英山色を脱して独自の艶を放つようになった。妖艶な美人画絵師としての英泉はこの分野で磨かれ、26歳の時には北斎から譲られた号、可候をもって、合巻”櫻曇春朧夜=はなぐもりはるのおぼろよ”を発表した。挿絵とともに本文も自ら手掛け、以後、艶本は毎年のように作られさまざまな隠号をもって人気本を世に送り出した。文政5年=1822年の”春野薄雪”は傑作と名高く、”閨中紀聞 枕文庫”は当時の性奥義の指南書であった。30歳ごろからは人情本や読本の挿絵も手掛け、曲亭馬琴の”南総里見八犬伝”の挿絵も請け負っている。文政12年3月の大火による類焼で家を失った上、縁者の保証倒れにも見舞われた。英泉は尾張町、浜松町、根津七軒町、根岸新田村、下谷池ノ端、日本橋坂本町2丁目の植木店に居住、根津では若竹屋忠助と称して遊女屋を経営した他、坂本町では白粉を販売していた。天保の改革の時勢を迎えたのちは、画業はもっぱら多くの門人に任せて、自らは描く事は減少し、一筆庵可候の号をもって合巻や滑稽本を主とする文筆業に専念した。主な門人に、五勇亭英橋、静斎英一、泉蝶斎英春、春斎英笑、米花斎英之、英斎泉寿、貞斎泉晁、紫嶺斎泉橘、嶺斎泉里、一陽軒英得、山斎泉隣、磯野文斎、信斎英松、春斎英暁などがいる。著者は、類例のない、艶やかで凄味たっぷりの女を描いた絵師の英泉のやむにやまれぬ衝動、果てなき渇望をつきとめたいと躍起になったという。英泉は十数年もの苦節を経験し、メインストリームに躍りでてからも紆余曲折はつづいた。英泉の軌跡は、栄光と失意、再生の繰り返しにほかならない。英泉の画業にもっとも影響を与えたのは、画狂老人出こと北斎だった。北斎は慈父という側面が強く、北斎もまた英泉をよく可愛がり、節目ごとに導いてくれている。英泉は、私淑こそすれ、浮世絵界の大派閥の北斎一門には加わらず、対抗する歌川一党にも背を向けた。とりわけ、同時代を生き、人気で先行した歌川国貞へのライバル心は強烈だった。トレンドになびく俗人、ビジネス第一の本屋への反発もなまなかではない。そのくせ、世の動向や書肆の思惑に右往左往されられどおしであった。だが、最後は知命の心境に達し、最盛期の美人画と後年の風景画でみせた、個性を貫き昇華させる強烈なプライド、これこそは英泉の真骨頂だろう。
第一章 前夜/第二章 美人画/第三章 裏の絵師/第四章 世間/第五章 暗雲/第六章 災厄/第七章 青の時代/第八章 絵師の魂/終 章 富士越龍
32.3月9日
”折口信夫 神性を拡張する復活の喜び”(2019年1月 ミネルヴァ書房刊 斎藤 英喜著)は、歌人としてまた万葉学者として知られ釈迢空の筆名で活躍した折口信夫の神道学者としての姿を軸に学問と生涯を紹介している。
折口信夫は1887年生まれの国文学者、国語学者であり、国学院大学・慶応大学教授を務めたが、同時に、釈迢空と号した詩人・歌人でもあった。日本文学・古典芸能を民俗学の観点から研究し、歌人としても独自の境地をひらいた。成し遂げた研究は折口学と総称され、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。斎藤英喜氏は1955年東京都生まれ、日本大学芸術学部卒業、法政大学文学部日本文学科卒業、成城大学大学院文学研究科修士課程修了、1990年に日本大学大学院文学研究科博士課程満期退学した。その後、宗教学者・日本文学者・神話学者として、日本大学文理学部講師、椙山女学園大学短期大学部助教授を経て、2000年に佛教大学文学部歴史文化学科助教授、2004年に同教授となり現在に至っている。折口信夫は1887年2月11日大阪府西成郡木津村生まれ、1890年木津幼稚園、1892年木津尋常小学校、1896年育英高等小学校、1899年大阪府第五中学校にそれぞれ入学した。1901年に15歳になったとき、父親から”万葉集略解”を買ってもらい、雑誌に投稿した短歌が入選した。1902年に成績が下がり暮れに自殺未遂を起こした。1903年にも自殺未遂を起こした。1904年の卒業試験で4科目が落第点となり、原級にとどまった。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかったという。1905年に天王寺中学校を卒業し、医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学した。藤無染と同居し、この頃に約500首の短歌を詠んだ。1907年に予科を修了し、本科国文科に進んだ。國學院大學において、国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受けた。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年に國學院大學国文科を卒業し、1911年に大阪府立今宮中学校の嘱託教員、国漢担当となった。1912年に伊勢、熊野の旅に出た。1913年に”三郷巷談”を柳田國男主催の”郷土研究”に発表し、以後、柳田の知遇を得た。1914年に今宮中学校を退職し、上京した。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという。1916年に國學院大學内に郷土研究会を創設し、”万葉集”全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行した。1917年に私立郁文館中学校教員となり、”アララギ”同人となって選歌欄を担当した。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動した。1919年國學院大學臨時代理講師となり、万葉辞典を刊行した。1921年に柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行を行った。1922年に雑誌”白鳥”を創刊し、國學院大學教授となった。1923年に慶應義塾大学文学部講師となり、2回目の沖縄旅行を行った。1924年に”アララギ”を去って、北原白秋らと歌誌”日光”を創刊した。1925年に処女歌集”海やまのあひだ”を刊行した。1927年に國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪れた。1928年に慶應義塾大学文学部教授となり、芸能史を開講した。1932年に文学博士の称号を受け、日本民俗協会の設立にかかわり幹事となった。1935年に3回目の沖縄旅行を行った。1940年に國學院大學学部講座に民俗学を新設した。1941年に太平洋戦争が起こり、藤井春洋が応召した。1944年に藤井春洋が硫黄島に着任した。春洋を養嗣子として入籍したが、大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕が発表された。8月15日に敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もった。1948年に日本芸術院賞を受賞し、第一回日本学術会議会員に選出された。著者は、古代文学研究の道に進み、古代文学研究の最先端において、折口学から多くの影響を受けながらも、折口信夫はすでに乗り越えられていくべき対象となっていたという。しかし、古代文学研究の先行研究者としての折口信夫とは違うところから、再び折口信夫に出会い直しすることになった。きっかけは2006年に刊行した新書の中で、折口の古代研究もまた、近代における読み替えられた日本神話の一つとして読める可能性に気が付いたからである。折口信夫を読み始めた最初の頃に、神道関係の論文が第20巻”神道宗教篇”の1巻分しかなかったのが不思議であった。1巻だけにまとめたのは、折口はあくまでも国文学者、民俗学者なのであって、神道の専門的な学者ではないという認識に基づくのだろうと、なんとなく考えていた。しかし、著作を読んだらすぐに気が付くように、いくつかの論文を読み込んでいくと、それらは神道と無関係な論文ではなかった。折口にとって文学や芸能の歴史的な研究は、どれも神道史の研究と不可分にあったのである。改めて折口信夫について論じたものや折口学を研究した著作を見渡してみると、神道史の研究者としての折口にポイントを絞ったものがないことに気付いたという。馬渡憲三郎・石内徹・有山犬五編”迢空・折目信夫事典”には、折口信夫と深い関わりを待った神道関係の人物は、一人も登場していない。一方、神道関係の人物を研究する近代神道史研究のプロパーの論考を見ると、折口信夫との関係を本格的に論じているものはほとんど見当たらない。神道学者としての折口については、あたかもブラックボックスのようになっているのではないか。ブラックボックスを開封するために、改めて、古本隆明を始発点に、古代文学研究を経置づけ、そうした視点から折目を読み直すことで、これまで見えなかった折口信夫の可能性、面白さが浮かんでくるという感触を持つたという。
序 章 「神道学者」としての折口信夫/第一章 「折口信夫」の誕生まで/第二章 「よりしろ」論と大正期の神道、神社界-「髯籠の話」「異訳国学ひとり案内」「現行諸神道の史的価値」-/断章1 弟子たちとの生活/第三章 神授の呪言・まれびと・ほかひびと-「国文学の発生」-/第四章 沖縄へ、奥三河へ-「琉球の宗教」「古代生活の研究」「山の霜月舞」-/第五章 「神道史の研究にも合致する事になつた」-「神道に現れた民族論理」-/断章2 二つの大学の教師として/第六章 昭和三年、大嘗祭の現場から-「大嘗祭の本義」-/第七章 折口信夫の「アジア・太平洋戦争」-「国学とは何か」「平田国学の伝統」「招魂の御儀を拝して-/第八章 神々の「敗北」を超えて-「神道の友人へ」「民族教より人類教へ」「道徳の発生」-/断章3 食道楽/終 章 「もっとも苦しき たたかひに……」/参考・引用文献・資料/折口信夫年譜/折口信夫引用著作索引
33.3月16日
”がんの練習帳”(2011年4月 新潮社刊 中川 恵一著)は、今や日本人の2人に1人は経験するというがんについての予防策、告知、心構え、検診、治療、痛み、費用、最期などを練習し平常心でのがんとのつきあいを目指している。
がんという語は悪性腫瘍と同義として用いられることが多く、悪性腫瘍は一般に癌や悪性新生物とも呼ばれている。しかし、平仮名の「がん」と漢字の「癌」は同意ではなく、漢字で「癌」というと悪性腫瘍のなかでも特に上皮由来の癌腫=上皮腫のことを指す。平仮名の「がん」は、癌や肉腫、白血病などの血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で悪性腫瘍を表す。中川恵一氏は1960年東京生まれ、1979年に東京大学教養学部理科入学、1985年に同医学部放射線医学教室入局、1989年にスイス、ポール・シェラー・インスティチュート客員研究員となった。1993年に東京大学医学部附属病院放射線科医員、1997年に東京大学大学院医学系研究科生体物理医学専攻放射線大講座講師、その後、助教授となった。2005年に東京大学医学部附属病院緩和ケア診療部長、2007年に准教授となった。悪性腫瘍は、遺伝子変異によって自律的で制御されない増殖を行うようになった細胞集団=腫瘍のなかで、周囲の組織に浸潤しまたは転移を起こす腫瘍である。悪性腫瘍のほとんどは、無治療のままだと全身に転移して患者を死に至らしめる。ヒトの身体は約60兆個という膨大な数の細胞からできている。そして、髪の毛が抜けたり、皮膚の細胞が垢になったりするなど、毎日、なんと、8000億もの細胞が死んでいく。そして、死んだ細胞の数だけ、新しい細胞が、細胞分裂の形で生まれている。つまり、2、3か月でカラダの細胞は全部入れ替わってしまう計算になる。細胞分裂はもとの細胞のコピーを作ることで、細胞の設計図であるDNAをコピーすることが一番大事になる。しかし、人間の細胞がやることなので、DNAのコピーの際にミスをすることがある。これが突然変異であり、1日に数億回も起こると言われている。実は、このコピーミスが起こらなければ、現在の私たちの存在はないのである。38億年前に誕生したバクテリアのような生物はいつまでたっても、同じDNAのままで進化せず、変わらないからである。DNAのコピーミスは進化の原動力なのであるが、正確にコピーできなかった細胞は出来損ないで、まずは生きていけないのである。しかし、ごくまれであるが、コピーミスの結果、スーパー細胞が生まれることがある。その特徴は死なないということで、ある遺伝子に突然変異が起こると、細胞は死ぬことができなくなり、止めどもなく分裂を繰り返すことになる。こうした遺伝子の代表ががん遺伝子であり、反対に細胞の分裂を止める働きをするのががん抑制遺伝子である。がん抑制遺伝子が突然変異の結果働かなくなると、分裂を抑えることができなくなり、細胞は無限に増殖を続けることになる。死なない細胞=がん細胞の誕生であり、がんは進化の代償とも言える。そして、寿命が延びれば、がん抑制遺伝子に突然変異が起きうる期間が長くなり、がん細胞の発生の可能性が増えていく。最近の研究では、がん細胞は健康な人の体でも1日に5000個も発生しては消えていくことがわかっている。しかし、毎日5000個の死なないがん細胞ができるわけではなく、できたばかりのがん細胞は免疫細胞=リンパ球にその場で退治される。リンパ球は、不審な細胞を見つけ出して、自分と同じDNAの細胞でないと判断すると、殺してしまうのである。しかし、がん細胞の場合は少々やっかいな点があり、もともと私たちの正常な細胞から発生しているので、細菌などと比べると、免疫細胞が異物と認識できにくいのである。それでも免疫細胞は、できたばかりのがん細胞をなんとか識別して攻撃し死滅させている。しかし限界はあり、加齢によって免疫力も低下するので、年齢とともに、がん細胞を見逃す確率は高まっていく。がんは、簡単に言えば、細胞の老化であり、日本は、世界一の長寿国になった結果、世界一のがん大国となったというわけである。腫瘍が正常組織との間に明確なしきりを作らず浸潤的に増殖していく場合、あるいは転移を起こす場合、悪性腫瘍と呼ばれている。無制限に栄養を使って増殖するため生体は急速に消耗し、臓器の正常組織を置き換えもしくは圧迫して機能不全に陥れ、異常な内分泌により正常な生体機能を妨げ全身に転移することにより、多数の臓器を機能不全に陥れる。ただし、がんはとにかく怖いと思っているなら大間違いだという。怖いのは、がんではなく、がんを知らないことである。日本人のおよそ2人に1人ががんになり、日本人の3人に1人ががんで亡くなっている。65歳以上の高齢者に限れば、2人に1人ががんで死亡している。今やがんの半数以上が治癒する時代なので、高齢者の大半ががんになっている計算になる。こうした割合は世界一高いものであり、日本は世界一のがん大国と言える。しかし、日本人は、がんのことを知らない、いや、知ろうとしないと言ってもよい。受験にしろ、結婚にしろ、就職にしろ、巷にはハウツー本、マニュアル本があふれ、人々はその予習に余念がない。しかし、日本人の2人に1人が体験するがんについては、予習がとてもむずかしくなっている。自然の一部である自分の死を思うどころか、私たちはまるで死なないつもりで生きているかのようである。平和で豊かな現代日本では、がんだけが死のイメージを持っているため、がんはタブーになってしまっている。しかし、2人に1人であるから、がんを人生の設計図のなかに織り込んでおく必要があり、その予習は絶対に必要である。がんと告知されると平常心ではいられず、頭が真っ白になったまま、あれよあれよという間に不本意な治療を受け、後遺症に苦しんで後悔する、といった例が少なくない。実際には、乳がんではお乳は切り取らないですむことが多く、子宮頸がんでも前立腺がんでも欧米では臓器を摘出する外科手術より、メスを入れない放射線治療の方が主流である。しかし、多くの日本国民はこうしたがんの常識すら知らないため、がんになる前にがんを知る練習が必要なのである。本書は、がんとはいったい何者か、がんにならない生活とは、早期発見のためのがん検診の大切さ、がんと言われた時の心構え、治療法の選択のコツ、がん治療にいくらかかるのか、がんの痛みとのつきあい方、などなど、実用的な情報を、分かりやすく解説している。本書で練習しておけば、実際にがんと言われてもあわてずにすみ、がんと闘っている人には、がんをどう治し、どうつきあうか考える上での羅針盤になると思われる。そして、がんを知ることは、老いとその先の死を考えることにもつながる。がんこそが、現代のメメント・モリ=死を想えであり、がんを正面から見つめることが、日本人の死生観の再生のきっかけにもなると思われる。
まえがき――「死なないつもり」の日本人へ
練習1 本当にがんを知っていますか?
「5000勝0敗」の闘い/がんの「迷信」あれこれ/「生活習慣」の重要さ/お酒で「赤く」なる人は要注意/タバコ×酒=「食道がん」/早期がんは「めでたい」/がん検査の基礎知識
練習2 働き盛りに告知されて――山田二郎さんの「肺がん」闘病記
診察室で気をつけてほしいこと/若いから安心、ではない/がん治療には「3つの選択肢」しかない/カラダの痛み、金銭的負担は?/判断に迷ったとき、医者にどう聞くか/出社を焦るのは禁物
練習3 切除か温存か、仕事か治療か――佐藤花子さんの「乳がん」闘病記
乳がん即切除ではない/「ホルモン治療」のマイナス点/日本の「放射線治療」は古い/転移とはどういうことか/骨転移の痛み
練習4 男性機能と治療の両立――青山三郎さんの「前立腺がん」闘病記
「PSA」が目安になる/急増する前立腺がん/そもそも「前立腺」とは何か/「生検」で確定する/男性機能が維持できる治療法は/セカンドオピニオンを求めよう/放射線治療の副作用/強度変調放射線治療/小線源治療なら日帰りも/体内のアイソトープの影響/「ピンポイント」でがんを直撃/最先端「粒子線治療」の破壊力/ホルモン治療で女性化する/通院はいつまで
補講 日本の「がん治療」ここがおかしい
「がん登録」の法制化を/日本のがん治療4つの問題点/「日進月歩」の最新治療
練習5 余命と抗がん剤のイタチごっこ――吉田松次郎さんの「直腸がん」闘病記
「標準治療」の確立と「余命告知」/「直腸がん」からの転移/「真実」を告げるべきか否か/「FOLFOX」開始/治療でがんが「進化」する/「アバスチン」と「イリノテカン」/「サプリメント」には要注意/薬がなくなったとき
練習 最期をどう迎えるか――山内千代子さんが向き合った「余命」
「新しい死」に素手で立ち向かう日本人/「余命3か月」宣告/「痛みはがまん」は間違い/「悪液質」の苦しみ/この世から消える恐怖/末期にできる治療/光の向こうに/「死の恐怖」とはなにか/イザナギも西行も私たちも/死を想う意味/がんで死ぬのもわるくない
付録・さらにがんを知るためにお薦めしたい本・サイト
35.3月30日
“リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義 ”(2019年1月 中央公論新社刊 渡辺 靖著)は、公権力を極限まで排除し自由の極大化をめざすリバタリアニズムがいまアメリカ社会で特に若い世代に広がりつつあり従来の左右対立の枠組みではとらえきれないこの新しい潮流についてトランプ政権誕生後のアメリカ各地を訪れ実情を報告している。
リバタリアニズムは自由至上主義や完全自由主義と呼ばれ、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する。福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する政治思想である。新自由主義と似ているが、新自由主義は経済的な自由を重視するのに対し、リバタリアニズムは個人的な自由も重んじる。他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張する。古典的自由主義と同様に自由市場経済を支持するが、論拠は自由市場が資源配分の効率性で卓越するということだけではない。より重視されるのは、集産主義的介入が、自明の権利である個人の自然権や基本的人権を侵害するという点である。渡辺 靖氏は1967年札幌市に生まれ、1990年上智大学外国語学部卒業、1992年ハーバード大学大学院修士号、1997年同大学院博士号取得、1999年慶應義塾大学SFC助教授、2005年慶應義塾大学SFC教授となり今日に至る。ウィルソンセンターフェロー、ケンブリッジ大学フェロー、パリ政治学院客員教授、欧州大学院大学客員研究員などの経歴がある。専門はアメリカ研究、文化政策論で、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞、サントリー学芸賞、アメリカ学会清水博賞などを受賞している。リバタリアニズムという言葉を初めて耳にしたのはアメリカに大学院留学していた1990年代初頭だという。学部時代から思想哲学や国際関係に関心があり、留学先のハーバード大学でマイケル・サンデル教授やロバート・パットナム教授、ジョセフ・ナイ教授などの議論から大いに刺激を受けた。日本の大学を卒業したばかりで、彼らの議論はあまりに高尚かつ難解で、リバタリアニズムの考えは奇抜に思えたという。当時のハーバードには、まだリバタリアン系の学生組織などなかった。しかし、ミレニアルに入ってから、リバタリアニズムのことか次第に気になり始めた。経済政策では保守でありながら、イラク戦争に反対し、人工妊娠中絶や同性婚に賛成するなど、リベラルな姿勢が興味深かった。その後、バラク・オバマ政権の景気刺激策や医療保険制度改革に抗うティーパーティ運動で存在感を高め、2016年の大統領選では民主党にも共和党にも共感できない有権者の受け皿として注目を集めた。とりわけ、今世紀に入って成人になったミレニアル世代の価値観とは重なる点か多い。すでに世代別人口ではミレニアル世代が全米最大となり、2020年の大統領選では有権者数でも最大集団となる。名実ともに、今後のアメリカの政治経済・文化社会・外交安保の牽引役となる。こうした草の根の運動としてのリバタリアニズムは、これまで十分に調査されてこなかった。哲学や政治思想の分野ではすでに多くの研究の蓄積があるが、現実の運動は必ずしも論理的な厳密さや整合性に裏打ちされているわけではない。マレー・ロスバードによると、自由とは個人の身体と正当な物質的財産の所有権が侵害されていないことという意味である。また、犯罪とは暴力の使用により、別の個人の身体や物質的財産の所有権を侵害することである。古典的自由主義者が使用してきた積極的自由の概念は、所有権の観点から定義されていないので曖昧で矛盾に満ちており、知的な混乱と、国家や政府が公共の福祉や公の秩序を理由に個人の権利を恣意的に制限する事を許すことに繋がったという。リバタリアンは、権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗するという信念を持っており、個人の完全な自治を標榜し、究極的には無政府主義同様、国家や政府の廃止を理想とする。また、個人的な自由、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制に反対する。経済的には、レッセフェールを唱え、国家が企業や個人の経済活動に干渉することに強く反対する。また、徴税は私的財産権の侵害とみなし、税によって福祉サービスが賄われる福祉国家は否定する。なお、暴力、詐欺、侵害などの他者の自由を制限する行為が行われるとき、自由を守るための強制力の行使には反対しない。リバタリアニズムでは、私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有する権利を持つとする自己所有権原理を置く。私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は、政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義を唱える。個人が自由に自己の利益を追求し、競争することが社会全体の利益の最大化に繋がるとする。日本では、こうしたイデオロギーの象限は存在しないに等しい。経済的に小さな政府を志向しながら、社会的には愛国心に訴える場合が多く、社会的には国家権力の介在を警戒しつつ、経済的には大きな政府を是認する場合も多い。グローバル化の論理と力学が国家を揺さぶる中、先進国では福祉国家的なビジョンが行き詰まりを迎えて久しい。財政赤字や少子高齢化の問題が重なる日本は尚更である。その一方、明治維新以降、中央集権型の国家発展を遂げた日本では、いまだにお上に頼る傾向か強い。リバタリアアニズムの考えそのものは過激であるが、政府や役所の役割の最低ラインかどこにあるか思考実験しておくのは無益ではなかろう。本書は、あるべきではなくありのままの草の根のリバタリアニズムの動向理解を主眼に据えた。いわば、規範論ではなく記述論としてのリバタリアニズムである。同時に、アメリカのリバタリアニズムは海外にもネットワークを積極的に拡張しているため、アイデア共同体のトランスナショナルな広がりにも着目したという。
第1章 リバタリアン・コミュニティ探訪/第2章 現代アメリカにおけるリバタリアニズムの影響力/第3章 リバタリアニズムの思想的系譜と論争/第4章 「アメリカ」をめぐるリバタリアンの攻防/第5章 リバタリアニズムの拡散と壁
36.平成31年4月6日
”幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像”(2018年3月 現代書館刊 宇神 幸男著)は、シーボルトの娘で様々な苦難を乗り越えて医師となった楠本イネの謎に包まれた生涯を誤説や通説を排し実像に迫ろうとしている。
ドラマの”オランダおいね”で知られる楠本イネは、吉村昭や司馬遼太郎の小説にも登場し、ドラマや小説のイメージが定着している。イネはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘として、文政10年に長崎で生まれた。ドイツ人医師のシーボルトと、丸山町遊女であった瀧の間に生まれた。明治36年まで生きた日本の医師であり、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。宇神幸男氏は1952年愛媛県宇和島市生まれ、宇和島市役所勤務の傍ら小説を執筆している、音楽評論家でもあり、フランスのピアニストの再デビューコンサートを宇和島市立南予文化会館で企画・開催した。また、第10回鳥羽市マリン文学賞に入選し、第9回海洋文学大賞海洋文学賞部門に佳作入選した。近年、シーボルトの顕彰・研究・出版はますます盛んで、毎年、シーボルトに関する何らかの論文が発表されているが、楠本イネの伝記は児童図書や漫画のほかには一冊もない。楠本イネ(稲、以祢、い祢、伊篤)は父と同じ医師になることを志し、さまざまな苦難を乗り越えて夢を実現したと伝えられている。シーボルトの娘、近代医学のあけぼのを生き抜いた混血の女医、偏見に耐えつつ誇り高く生きた美貌の女医などといった通俗なイメージが先行している。ともすれば興味本位に捉えられ、実証的な研究がおろそかにされてきた。イネは日記・身辺雑記・回想録などを残さず、書簡もごくわずかしか伝来していない。楠本イネの生涯は不明なことばかりで、それゆえに本格的な伝記が書かれなかった。楠本は母の姓であり、父シーボルトの名に漢字を当て、”失本=しいもと”とも名乗った。母の瀧は商家の娘であったが、実家が没落し、出島でシーボルトお抱え遊女となり、私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持った。シーボルトは、1828年に、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し、イネが2歳の時に国外追放となった。イネは、シーボルト門下で卯之町の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六=大村益次郎からオランダ語を学んだ。1859年からヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年からポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村益次郎が襲撃された後は、ボードウィンの治療のもと看護し最期を看取った。1858年の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学を学んだ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年に幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義した。シーボルトは1796年神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれた。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師で、医学界の名門であった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授で、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録された。父が31歳で死去した後は、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられた。9歳になったときハイディングフェルトに移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通った。1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学したが、家系や親類の意見に従い医学を学ぶことになった。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー家に寄寓し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学んだ。1820年に卒業して国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業した。しかし町医師で終わることを選ばず、東洋学研究を志して1822年にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となった。1823年にジャカルタ市内の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任した。滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を認められ、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となった。出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学=蘭学教育を行った。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義し、中には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいた。塾生は後に医者や学者として活躍し、シーボルトは日本の文化を探索・研究した。イネはドイツ人と日本人の間に生まれた女児として差別を受けながらも、宇和島藩主の伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの失本イネという名の改名を指示され、楠本伊篤=くすもといとくと名を改めた。1871年に異母弟にあたるシーボルト兄弟の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となった。1875年に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなく、また、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷した。1884年に医術開業試験の門戸が女性にも開かれたが、既に57歳になっていたため産婆として開業した。62歳の時に娘の高子一家と同居のため、長崎の産院も閉鎖して再上京し、医者を完全に廃業した。以後は、弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年に食中毒のため、東京の麻布で77歳で死去した。イネは生涯独身だったが、娘の高子は石井宗謙との間に儲けた子であった。宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして、他のシーボルト門下生から非難された。イネに関する史料はあまりにも貧寒とし、イネは歴史の彼方に影絵のように茫漠としている。著者は通説・誤説・伝承等と史実を開明し、新史料を発掘・駆使して、良質の史料のほぼすべてを本書に収録した。イネと娘の高子の実像に迫り、イネと高子の生涯は波瀾万丈で、悲痛なことは想像をはるかに超えていたという。
第1章 シーボルトの来日と追放/第2章 女医への道/第3章 宇和島/第4章 シーボルトの再来日/第5章 長崎特派員イネ/第6章 明治を生きる
37.4月13日
”がんと人生-国立がんセンター元総長、半生を語る-”(2011年12月 中央公論新社刊 垣添 忠生著)は、がん医療の第一人者が医師としてがん経験者としてまたがんで妻を亡くした夫としてがんと人生を語っている。
著者の垣添忠生氏は2011年現在70歳で、そのうち、国立がんセンターに32年間勤務した。その前後のがんとの関わりを加算すると、40年になる。それはくしくも、奥さまとの結婚生活の期間でもあったという。1941年大阪府に生まれ、1967年東京大学医学部を卒業し、1980年東京大学より医学博士の学位を授与され、その後、都立豊島病院、東京大学医学部泌尿器科助手などを経て、1975年より国立がんセンター病院に勤務した。同センターの手術部長、病院長、中央病院長などを務め、2002年総長に就任した。2007年に退職し、名誉総長となった。公益財団法人日本対がん協会会長、財団法人がん研究振興財団理事を務めた。専門は泌尿器科学であるが、すべてのがん種の診断、治療、予防に関わってきた。がん関連の審議会や検討会などの委員、座長などを数多く務めた。国立がんセンター田宮賞、高松宮妃癌研究基金学術賞、日本医師会医学賞、文部科学大臣表彰科学技術賞などを受賞した。著者は、人生はブラウン運動、つまり分子のゆらぎそのものだと思うという。分子と分子がぶつかって、思いかけない方向に飛んでいく。生き物に対する関心から医学部に進んだが、医師になって泌尿器科を専攻したこと、中でもがんを最大の関心事に選んだこと、誰の指導をどう受け、どんな患者さんに会い、どんな病態を目にしたか、その都度、人生は思いかけない方向に展開していった。奥さまとの出会いも、ブラウン運動そのものであろうという。がんとの40年、妻との40年が、いままでの自分を創ってきた。これからもう10年も生きることかできたら、十分だと考えているとのこと、遺言書をはじめ、自分の身終いの準備を着々と進めているそうである。しかし、生きている間は、ボランティアではあるが、日本対がん協会の会長として、民間でできる対がん活動、すなわちがん経験者、家族、遺族を支援する活動を続けたい。国の対がん戦略と、民間の対がん活動ががっちり手を組めば、血の通ったがん対策か進むことになる。そのためには、日本対がん協会を皆様にもっと認識いただきたい。寄附をいただいて財政基盤を強くして、さらにがん患者、家族、遺族を支援する活動を広げたい。現職中から願ってきた、がん検診と、がん登録を国の事業にすること。この2つの目標に加えて、がんの在宅医療、在宅死を希望する人にそれを届ける体制の構築、および、悲しみや苦しみを癒すことを希望するがん患者の遺族を支援するグリーフーケアの実現がある。この4つの目標の実現に向けて、生ある限り、努力したいという。がんは、現在わが国で最も恐れられ、しかも同時に、どなたも無縁ではいられない病気である。一生のうち、2人に1人ががんになり、がんになった人の約半数か亡くなる。現代人にとって、がんは恐ろしく、かつ普遍的な病気と言える。著者は医師として、がん診療に約40年にわたって携わってきた。また、30代から40代半ばにかけて15年間、国立がんセンター研究所で、がんの基礎研究にものめり込んだ。当時の臨床は今ほど忙しくなかったから、自分の時間を削って二足のわらじを履いたのである。また、自分自身、がんを2回経験した。1回目は国立がんセンター中央病院長時代に大腸がん。これは内視鏡切除により一日も休むことなく治った。2回目は総長時代のこと、センター内に厚生労働省の理解を得て、がん予防・検診研究センターを新設したが、ここを体験受検した際に、左腎がんが見つかり、左腎部分切除術を受けた。どちらも無症状のうちに早期発見し、完治したが、自分自身が、がん患者、がん経験者でもあったことになる。また、奥さまの3度目のがんである、わずか4ミリで発見された肺の小細胞がんを治せなかった。陽子線治療により完治したと思えたがんが、肺門部に再発し、当時の最強の治療を行ったが、再々発し、全身に転移して亡くなった。奥さまは、若い頃から膠原病の一種、SLEをもっていて病弱だったため、自分は若い頃から掃除、洗濯、買物、料理、ゴミ出しなどをして、家事をかなり分担してきた。これが、妻が亡くなった後、何とか自立できた大きな理由の一つであろう。1995年3月、声がしわがれてきたことを契機に発見された甲状腺がんに対して、国立がんセンターで甲状腺右半分切除術と、頚部リンパ節廓清術を受けたそうである。2006年7月には、左肺腺がんか見つかり、左肺部分切除術を受けた。いずれのがんも手術で完治したと考えられる。2006年3月、右肺下葉の真ん中に、4ミリほどの異常陰影が見つかった。あまりに病巣が小さいので、異常所見ではあるが、国立がんセンター中央病院の呼吸器診断の名手にも診断がつかず、経過観察を受けることとなった。3ヶ月後の検査では、何も変化は認められなかった。しかし、2006年9月、6ヶ月後のCT検査では、小病巣は4ミリから6ミリに増大しており、形もダルマさんのように、ややイビツに変形が認められた。がんだと確信され治療に入り、手術を選択すると、右肺下葉切除術となり、術後の呼吸機能障害か心配された。外科医と放射線治療医が種々議論した結果、千葉県柏市にある国立がんセンター東病院で、陽子線治療を受けることとなった。2006年9月から10月、東病院で約1カ月、陽子線治療を受けて、小病巣は見事に消えた。しかし、その約6ヶ月後、2007年3月、右肺門部リンパ節に1つ、転移が見つかった。恐らく小細胞肺がんだろう、と主治医に告げられた。予後不良のがんであり、以後は抗がん剤治療を受けることになり、薬の選択のためにも組織の確認が必須だった。CTガイド下の針生検で、やはり小細胞肺がんの肺門部リンパ節転移と診断された。2007年3月から6月まで、1カ月に1回、シスプラチンとエトポシドの2剤併用による化学療法を受け、7月には、さらに肺門部リンパ節に対して放射線療法が追加された。しかし、10月にCT、MRI、PET検査などで、多発性の脳、肺、肝、副腎転移か確認された。治るどころか、がんは全身に広がったのであった。2007年10月から12月、国立がんセンター中央病院に入院し、たくさんの公務があったが、朝、昼、夕と、可能な限り妻の病室で過ごし、会話しケアした。結婚生活40年のうちで、最も濃密に関わった最も時間を共有できた3ヶ月だったという。2007年12月28日から2008年1月6日まで、病院は年末年始の休暇に入り、12月28日昼頃、自宅に連れて帰り、29日から容態はどんどんと悪化し、30日には意識不明となり、31日の午後から担当医に往診をお願いしたが、担当医の到着前に亡くなったという。本書は、自分自身のエッセイに、読売新聞の”時代の証言者”に27回にわたって連載を加えたものである。文字通り、がんとの半生記である。
第一部がんと人生/私の診療観/患者さんのこと/避けられる不幸/がん経験者/病気になっても安心な国/国立がんセンターに働く人々/旧棟と新棟/臨床研究/トロント留学/研究所時代/東日本大震災/幼い頃/小学校/桐朋時代/空手/学生運動/居合/妻のこと/酒/山/カヌー/妻の病い/喪失と再生
第二部 時代の証言者
38.4月20日
”金融史がわかれば世界がわかる-「金融力」とは何か”(2017年10月 筑摩書房刊 倉都 康行著)は、リーマン危機、ユーロ債務危機、新興国不安などさまざまな金融事件が起こり日本でも未曽有の金融緩和など大きな変化に見舞われた世界の金融像について網羅的かつ歴史的にとらえ世界の金融取引の発展を観察しようとしている。
金融には長い歴史のなかで形成された制度が残り、さらに現代的な問題が幾層にも積み重なっている。金銀という一時代前の地金、中央銀行の変化、変動する為替市場、金融技術の進展といった問題が複雑に絡み合っている。本書は、貿易決済取引や資本取引など、世界の金融取引がどのように発展してきたかを観察し、今後の国際金融の変貌について実務的に考えている。倉都康行氏は1955年鳥取県生まれ、1979年に東京大学経済学部卒業後、東京銀行入行。東京、香港、ロンドンで国際資本市場業務に携わった後、バンカース・トラストに移籍、チェースマンハッタン銀行のマネージング・ディレクターとして資本市場部門の東京代表、チェース証券会社東京支店長などを務めた。2001年に金融シンクタンクRPテック株式会社を設立し、代表取締役に就任した。産業ファンド投資法人執行役員、セントラル短資FX株式会社監査役、産業技術大学院大学グローバル資本システム研究所長、山陰合同銀行社外取締役などを兼務している。国際的な資本市場の実務に精通、金融工学や金融史、内外市場リスクなど幅広いテーマでの分析を行い、日経ビジネスオンライン、日経ヴェリタス、ウェッジなどに定期的にコラムを寄稿している。国際金融いう場には、金や銀という一時代前の地金の問題や、中央銀行の役割の問題もあれば、変動する為替市場や、金融技術、資本市場といった現代的な問題もある。これを網羅的に歴史的に捉えることは、とても難しい。そこで、敢えて”金融力”という言葉で、そうした金融に関連する事象を一括りにし
てみた。現代世界の金融力とは、金融政策への信頼性、民間金融機関の経営力の強さ、市場構造の効率性、金融理論の浸透度、新技術や新商品の開発力、会計や税制などのインフラの強さ、お金の運用力、金融情報提供・分析力など、さまざまに組み合わされる構成要素が、総合的な眼で評価されるものだと考えることができる。したがって、GDPの絶対額が巨大であって、経済力があったとしても、金融力が高く評価されるとは限らない。本書では、第1章では英国の興亡を振り返ってみる。英国も、先行する欧州諸国への挑戦者の立場であった。植民地政策をベースとする貿易政策で徐々に富を蓄積し、いち早く産業革命を成し遂げ、金本位制を導入した。世界の金融覇権を築いた英国は、まさに現代的な金融力を備えた国として栄えたが、二度にわたる世界大戦を契機に国力は疲弊し、経済力も衰えていく。だが、現代においても英国の金融機能は世界の最先端を走り続けており、ニューヨークと並ぶ国際金融市場の要の地位を保っている。第2章では、その英国への挑戦者として台頭する米国を眺めてみる。米国は、欧州の植民地から世界の工業地帯へ変身を遂げたのち、金融において驚くべき発展を遂げた。欧州を舞台とした第一次・第二次世界大戦という、米国にとってはある意味で幸運な事件を経て経済力が蓄積されたという背景もあるが、その機を捉えてドルを基軸通貨とした国家戦略の妙は、21世紀の現在も連綿と続いている。この2つの章はイントロダクションであり、英国の登場、そして英国から米国へと移りゆく金融力の覇権の流れを読み取るのが目的である。第3章以降は、世界の金融構造が大きく変化する1970年代から今日までの風景を、為替市場の変動や金融技術と資本市場の拡大、金融機関の暴走による世界的な危機の発生、中央銀行の非伝統的な政策投入、中国金融の台頭といったトピックスを交えながら、それらが現代の金融像に与える影響や将来像に及ぼすイメージを概観していく。第3章では、変動相場制という未知の世界に踏み込んだ為替市場をメインのトピックスにおき、金の役割を再考しつつ、さらに欧州の通貨戦略の芽生えを取り上げる。金とは一体どういう存在だったのかという問題意識を念頭に置きながら、ポンドから主役の座を奪ったはずのドルはなぜ金との脈絡を断たねばならなかったのか、欧州はそのドルに対して何を考えたのか、といったドルが胚胎する不安要素に焦点を当てる。第4章では、金融技術の発展が示した光と影の部分に焦点を当てながら、中央銀行の役剖がどう変化していったか、通貨切り下げ戦争がどんな展開を生んだのか、マイナス金利という異様な金融政策が金融機関にどんな影響を与えたのか、といった現代が抱え込んだ金融問題を、金融力との関連を意識しながら述べている。第5章では、共通通貨ユーロの構造問題、中国経済の問題を凝縮して抱え込んだ人民元の将来性、ノンバンクの存在感の台頭といった課題を採り上げて、日本の金融像を客観的な視点から整理し、フィンテックという新しい金融と技術の融合がどんな意味合いを持つのかに、思いを巡らせている。各国が金本位制から離脱して、金や銀という地金を通貨の信頼尺度とする制度から国家や中央銀行の信用力に依存する制度へ移行したことは、金融上の大きな変革であったが、1973年の通貨間のレートを市場変動に任せるという選択もまた未知との遭遇であった。その過程で、価格変動リスクと直面した金融市場はデリバティブズなどの金融技術を開発する。また、従来は貿易取引に付随していた各国間の資金移動が、急速な富の蓄積や規制の撤廃・自由化を通じて、時に実体経済と大幅に乖離しがちな資本取引に圧倒されていく。株価や金利、為替など変動する価格への対応の必要性と拡大する資本市場の活用は、1980年代の金融機関の巨大なビジネス機会となった。それは金融技術の高度化を促すとともに、ヘッジファンドなどの新しい金融プレーヤーを生み出すことになる。だが、こうした金融の急発展は社会から遊離した投機的な賭博化であり、経済を混乱させて貧富の差を拡大した、との批判も増えた。2008年にはりリーマン・ブラザーズの破綻を契機に世界経済が急縮小し、大恐慌再来かといった恐怖感のなかで各国の株式市場が大暴落したことはまだ記憶に新しい。金融技術は、レバレッジを使って巨額の資本移動を生むが、それは資本主義が内包する基本原理でもある。過激な相場変動を生むこともあるが、価格変動自体は柔軟なシステム維持のための必要悪でもある。金融は為替変動や株価変動などに対処する手段を企業や投資家に提供すると同時に、市場の暴走を生む土壌にもなり得るという、相反する側面を持っている。それを上手くバランスさせるパワーこそが、望ましい金融力といっても良いかもしれない。我々が盲目的に馴染んできた米国一極主義の世界から、多様化、多極化し始めた世界に移行するなかで、金融力がどういう意味を持つのか、あるいはどういう金融力を指向すべきか、といった問題意識を持つことの重要性は、金融関係者だけに狭く止まるものではないだろう。それには、本書で示したような過去150年程度の歴史の概観が役立つこともあるのではないだろうか。
第1章 英国金融の興亡/第2章 米国の金融覇権/第3章 為替変動システムの選択/第4章 変化する資本市場/第5章 課題に直面する現代の金融力
39.4月27日
”銅像歴史散歩”(2016年3月 筑摩書房刊 墨 威宏著)は、明治期後半に欧米から入ってきて日本各地に存在する銅像文化を全国のいろいろな銅像を訪ね歩きカラー写真と共にエピソードや現地の情報を盛り込んで紹介している。
銅像は、神仏、人、動物などを模して銅で作られた像、および彫刻のことで、青銅=ブロンズで鋳造した像である。とくに記念碑的な彫像を日本では一般に銅像と呼んでいる。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。墨 威宏氏は1961年名古屋市生まれ、一橋大学卒業、1985年共同通信社入社、1993年から文化部記者、2003年末に退社しフリーライターになり今日に至っている。青銅の鋳造技術は古くから発達し、日本でも仏像彫刻などにすぐれた作品があるが、銅像という名称が使われたのは明治以後である。日本に洋風彫刻術をもたらしたのは、1876年工部美術学校開設のとき教師として来日したイタリア人ラグーザである。銅像の製法は鋳造法、吸引鋳造法、ガス型鋳造法などがある。銅像の代表的な製法は鋳造法で、材料は主に青銅が用いられる。木や石、粘土などで型となる像を作り、乾燥させた後に雲母の粉を塗布する。その上から再び粘土を重ね、再び乾燥させる。重ねた粘土を切り分けて剥がし、原型となる像の表面を5~6cm削る。このときに出来た隙間に銅が流し込まれる。下から順に切り分けた粘土を戻し、戻した部分を盛り土で固める。外からは原型が徐々に土に埋まるように見える。隙間に溶けた銅を流し込み、冷えて固まったら再び切り分けた粘土を重ねて土で固める。この手順をすべての像が土の中に埋まった状態になるまで繰り返す。土と表面の粘土を取り除き、表面を磨いたりして成形したら完成する。銅像の歴史は古く、現存する世界最古の銅像はエジプト考古学博物館所蔵のエジプト第6王朝ペピ1世の像である。これはおよそ4000年以上前のものと推測されている。日本では、飛鳥時代から金銅仏が制作されていた。東大寺の奈良の大仏も銅製である。しかし、人物をかたどった銅像がたてられることはなかった。日本初の西洋式銅像は、兼六園の1880年の明治紀念之標・日本武尊の銅像である。東京最古の西洋式銅像としては、大熊氏廣氏が1893年に靖國神社へ建立した大村益次郎像で、女性像としては同じ大熊氏による1901年の瓜生岩子像である。第2次世界大戦が勃発し1941年に金属類回収令が出されて、板垣退助像、渋谷のハチ公像、伊達政宗騎馬像、二宮金次郎像、広瀬中佐、東郷平八郎など軍人像も例外なく再利用された。しかし、戦後復興期には次々と復元された。また、レジャーや観光のために続々と建てられた。今まで手が届かない場所にあった観賞用銅像から、触れることのできる銅像もできた。銅像は悲しい存在である。銅像といえば、ほとんどの人はどんなものか思い浮かべることができるし、東京・渋谷のハチ公像など駅前の銅像は待ち合わせ場所になっている。観光地では記念撮影スポットになる。建てられたときには盛大な除幕式が行われ、ニュースにもなるし、歴史関係のテレビ番組などにも銅像はよく登場するのに、多くの銅像は時間がたてば忘れられ、風景の一部と化して見向きもされなくなる。空き缶が捨てられていたり、放置自転車で囲まれていたり、破損したままになっていたりという銅像も少なくない。古い銅像でもよく手入れされ大切にされている像もあれば、見た目は新しいのに何の説明も付されず放置されている像もある。どんな人々が、なぜその銅像を建てようとしたのか、なぜその地に立っているのか、地域の人々が長い間守ってきたのはなぜか、あるいは露骨に邪魔者扱いされ、移転を繰り返されているのはなぜか。明治期以降の日本の政府や民衆が何を大切にし、何を切り捨ててきたのかが見えてくる気がしたという。銅像が背負うのは日本の政治史であり、文化史、美術史、民俗史、民衆史でもある。またそれぞれの地域史でもある。しかもそれは非公開の文書ではなく、分かりやすい形で目の前に立ち、ときにはこつぜんと姿を消した。失われ、台座のみが残るという事実も含めて銅像は歴史を語る。胴長短足の日本人に銅像は向かないとの批判もあったが、もともと仏像や地蔵の文化があったからだろうか、銅像は日本人に合っていたようで、瞬く問に各地に建てられた。1928年刊の”銅像写真集 偉人の俤”には、600体を超える銅像の写真が掲載されている。この後、小学校に二官金次郎像を建てるブームが起き、日中戦争が始まって軍国主義が高まる中で、軍人像も多数建てられて、さらに数を増やした。銅像って面白いかも、と思ったのは取材を始めてからだったという。美術作品としての良しあしを語れるほどの鑑識眼があるわけじゃない。銅像が表しているのは時代も姿形もさまざまだが、いろんな銅像を見るのが楽しいというのとも違う。それまでは銅像は気にも止めず、視界に入っていただけのただの金属の塊で、風景の一部でしかなかったが、それぞれの銅像が背負っていることを掘り下げていくと、日本の近現代史を語る物証なのではないかと思い至った。著者は銅像マニアではなく、本書のきっかけは共同通信社配信の連載企画”銅像歴史さんぽ”の執筆である。連載企画は2011年8月から約4年間、計200回続いた。記事は各地の多くの新聞に掲載された。銅像の取材は過酷を極めた。高い台座の上に乗る像も多く、しかもほとんどは単色で黒っぽい。逆光では真っ黒になってしまい何の写真か分からなくなってしまう。銅像とトイレ以外に何もない小さな公園で、カメラを手に雲が出るのを待ち続け、不審者に見られることもしばしばであった。雨にも泣かされた。公共交通機関だけではたどり着けない場所に立つ銅像も多かった。”銅像歴史さんぽ”は子どもたちに銅像を出発点に歴史を学んでもらおうと企画した小学生向けの記事だったため、連載での取材を基にほぼ全面的に書き下ろした。
第1章 秘められた歴史/赤い靴はいてた女の子 真偽不明のまま続々と(横浜市/青森県鯵ヶ沢町/里親港区)/二官金次郎 戦時中に「出征」し消える(富山県高岡市/静岡県掛川市/神奈川県小田原市)/上野英三郎・ハチ 飼い主より有名になった犬(津市/墓y都渋谷区/里蔀文京区)/日本武尊 金沢・兼六園に日本最古の銅像釜沢市/塞長千代田区)/楠木正成・西郷隆盛 銅像会社設立を考えた光雲(東京都千代田区/東京都台東区)/石田三成 似てる? 頭蓋骨調査基に制作(滋賀県長浜市)/亀山上皇・日蓮 使い込みで時宗から変更(福岡市)/井伊直弼 横浜開港の恩人はこじつけ(横浜市/滋賀県彦根市)/伊藤博文 銅像倒された初代総理大臣(山口県光市/神戸市)/後塵房之助 凍り付いたまま山中に立つ(青森市)
第2章 謎の銅像/蜂須賀家政 戦争挟み父子交代(徳島市/愛知県岡崎市)/吉良上野介 忠臣蔵の悪役も地元では名君(愛知県西尾市/里足都墨田区)/天女 世界遺産の伝説 能で有名に(静岡市/滋賀県長浜市)/桃太郎 日の丸も背負った童話の英雄(岡山市/大分県玖珠町)/ニホンオオカミ 米国人に買われた最後の捕獲例(奈良県東吉野村/東京都渋谷区/東京都瑞穂町)/新聞少年 高度成長の陰で頑張る子どもたち(東京都港区/横浜市/東京都品川区)/哲学の庭 古今東西の聖人、賢人がそろう(東京都中野区)/アンデルセン 閉園されたテーマパークの残骸(岡山県倉敷市)/大河ドラマ 放送は終わっても像は残る(東京都文京区/福島県会津若松市/神戸市)/オズの魔法使い 商店街に登場した縁薄き童話(名古屋市)/賀川豊彦 失われた初のノーベル文学賞候補(東京都中野区/徳島県鳴門市/東京都世田谷区)/宇宙戦艦ヤマト・銀河鉄道999「命」でつながる町の歴史と漫画(福井県敦賀市/北九州市)/卑弥呼 吉野ヶ里へ案内する謎の女王(佐賀県神埼市/福岡市)
第3章 昭和の記憶/ベーブールースと沢村栄治 米大リーグ大打者に挑んだ若き投手(仙台市/静岡市/東京都文京区)/二十四の瞳・ガラスのうさぎ 子どもたちの戦争体験伝える(香川県・小豆島/神奈川県二宮町)/聖火ランナー 始まりはベルリン ヒトラーの遺産(東京都大田区/長野市/埼玉県川口市)/美空ひばり・三波春夫 思い起こす「歌は世につれ……」(横浜市/新潟県長岡市)/鉄腕アトム 漫画の神様の思い伝える(埼玉県飯能市/里只都練馬区/兵庫県宝塚市)/ドラえもん 悪書から日本の文化「MANGA」 へ(富山県高岡市/東京都豊島区/川崎市)
第4章 源平合戦の虚実/源義仲・巴御前 奇策「火牛の計」で平氏討つ(長野県木曽町/富山県小矢部市)/池月・磨墨 先陣争いの名馬 実はポニーぐらい(東京都大田区)/畠山重忠 気は優しくて力持ち表す(埼玉県深谷市/埼玉帚風山町)/源頼朝 「いい国」ではなかった鎌倉幕府(神奈川県鎌倉市/千葉市/静岡県富士市)/安宅の関 涙の名場面 ゆかり地は二ヵ所(石川県小松市/富山県高岡市)
第5章 戦国武将の盛衰/織田信長・今川義元 歴史変えた古戦場に並ぶ「両雄」(名古屋市/岐阜市/愛知県清須市)/武田信玄・上杉謙信 宿命のライバル 伝説の一騎打ち(長野市/山梨県甲州市/東京都八王子市)/豊臣秀吉 謎残す大出世の出発点・墨俣一夜城(岐阜県大垣市/神戸市/名古屋市)/浅井長政一家 信長を裏切り 一家の運命変える(滋賀県長浜市/福井市)/徳川家康 静岡に人生たどる三体の像(静岡市/愛知県岡崎市)真田幸村 名を残す大坂の陣参戦は中年で大阪市)
第6章 幕末の群像/ペリーとハリス 日本を開国させた二人の明暗(静岡県下田市/千葉県佐倉市/広島県福山市)/佐久間象山・吉田松陰 師も連座 ペジーの船で密航企て(静岡県下田市/長野市/東京都世田谷区)/和宮 悲劇の皇女像が神戸の山中に(神戸市/東京都港区)/清河八郎・坂本龍馬 幕末史劇の幕を開け、閉じる(京都市/山形県庄内町/東京都品川区)/白虎隊 生き残ったことをたたえる(福島県会津若松市)
第7章 銅像が語る文学史/額田王・大海人皇子 万葉集に恋愛ミステリー 真相は?(滋賀県竜王町)/大伴家持 越中では歌三昧 万葉の代表的歌人(富山県高岡市/富山県・二上山)/藤原俊成・西行 戦乱に生きた二人の歌人(愛知県蒲郡市/岡山県玉野市)/松尾芭蕉 『奥の細道』ルートに多くの像(埼玉県草加市/山形県庄内町/岐阜県大垣市)/曽根崎心中 「恋の手本」は幕府が禁止大阪市/兵庫県尼崎市)/石川啄木 石もて追われてもふるさと詠む(盛岡市/東京都台東区)
40.令和元年5月4日
“評伝 田畑政治-オリンピックに生涯をささげた男 ”(2018年6月 国書刊行会刊 杢代 哲雄著)は、2019年大河ドラマ”いだてん”のダブル主人公の一人で戦前・戦後と日本のスポーツ界の発展に尽力し1964年の東京オリンピック招致を成功に導いた田畑政治の生きざまを描いている。
田畑政治は、教育者、新聞記者、水泳指導者として活動し、1932年ロサンゼルスオリンピックで水泳監督を務め、1956年メルボルンオリンピックで日本選手団団長を務めた。戦後、東京へのオリンピック招致を訴え、招致活動の中心人物として活躍し、東京開催が決定すると、組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動した。本書は、その最も身近に接してきた著者が、田畑政治みずからが語った原稿を元に、オリンピックに生涯をささげた生きざまを描いている。杢代哲雄=もくだいてつお氏は1927年東京生まれ、スポーツニッポン新聞社評論担当、OYC=オリンピック青年協議会理事長、メーデースポーツ祭典大会理事長などを歴任した。1964年の東京オリンピックに際しては、東京オリンピック選手強化対策本部幹事、選手村情報センター長、選手村新聞編集長として大会運営に参画した。また、世界青年平和友好祭では、1962年にフィンランドで日本スポーツ団長、1968年にブルガリアで日本代表団長を務め、1965年、日ソ青年バイカル湖祭典には日本代表として訪ソするなど、この間数十度にわたって、ソビエト・ヨーロッパ・アジアの各国を訪問、海外のスポーツ事情の視察、交流に尽力した。田畑政治は1898年浜松町成子、現・浜松市中区成子町生まれ、浜松中学、現・浜松北高、旧制一高、現・東京大学教養学部を経て、東京帝国大学を卒業した、その後、1924年に朝日新聞社に入社し、編集局政治部に所属した。大正から昭和の時代の教育者、新聞記者兼水泳指導者で、東京朝日新聞社では政治経済部長などをへて1949年に常務を務めた。1929年に大日本水上競技連盟専務理事、1930年に大日本体育協会専務理事を務めた。1932年の第10回ロサンゼルスオリンピック大会で水泳監督、1936年の第11回ベルリンオリンピック大会で本部役員を務めた。1939年には日本水泳連盟、当時の名称は大日本水上競技連盟会長の末弘厳太郎が大日本体育会、後の日本体育協会理事長に就任したことから、田畑も末弘を支えるべく新たに設けられた理事長に就任した。1946年に日本体育協会常務理事を務め、戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴え、五輪招致活動においては中心人物の一人として、以前から親交のあった人物を招致委員に引き込むなどを行った。1948年に朝日新聞東京本社代表取締役、TJOC総務主事となり、日本水泳連盟会長に就任した。同年のロンドンオリンピック参加を断られた当時の日本代表、古橋廣之進・橋爪四郎らの実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日に開催とし、1949年の国際水泳連盟復帰につなげた。1951年に日本体育協会専務理事を務めた。1952年に朝日新聞社を退社し、1955年に第3回アジア大会(東京)組織委員会事務総長を務めた。1956年の第16回メルボルンオリンピック大会で日本選手団団長を務めた。1959年に1964年の東京開催が決定すると、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し開催に向けて活動した。正式種目に女子バレーボールを加えるロビー活動の、陣頭指揮にも立ったという。1961年に日本水泳連盟名誉会長となり、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対してIOCがこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで、日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになった。最終的に日本選手団は、競技自体が中止された重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で、田畑はJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなった。1964年の東京オリンピックでは、組織委員会事務総長を務めた。1971年に日本体育協会副会長、1973年にJOC委員長、1977年にJOC名誉委員長を務め、IOC功労章(銀章)を受賞した。1984年8月25日に享年85歳で逝去した。田畑のオリンピックにかけた情熱はたいへんなもので、その根底にはクーベルタン男爵とは別な現代人としての哲学があるという。オリンピックで平和を、といったカラ文句ではなく、オリンピックが人類にもたらしてくれる恩恵をいかに活かすかに心を砕いた。特に最近のようなアマチュアリズムの崩壊、オリンピックの金権体質への変転については、田畑は深く憂慮していた。田畑は東京オリンピック以後、回を重ねるごとにエスカレートしてきた商業オリンピックに対し、これはいずれオリンピックは東西に分裂するとまで断言していた。商業主義が先行して政治の突き入る傷口をやたらと拡げる無警戒ぶり、国際的な、それも青年を主体とした相互理解と親善交流、それが起爆剤となっての純粋なスポーツの振興、この大切な目標を見失っている。地球の一大ショーとなりつつあるオリンピックは、いま早く改められねばならぬというのが、田畑の変わらぬオリンピック論であり念願であった。それには世界各国のスポーツ関係者が、アマチュアスポーツの保持とオリンピックを原点に戻す努力をしなければならない。それをせずに、時代が変わればアマチュアリズムという考え方も変わるのは仕方ない、といった思考では、文化としてのスポーツに社会性を与え、スポーツを魅力溢れるものとする指導性は失われる。時代は変わるのが当然であるが、その時代をどのように良い方向に変えていくかコントロールする努力が、時代時代の人の、しかも指導者たちの使命であろう。また、田畑は、今日多くの人の口にのぼる社会体育論を初めて提唱した人でもある。世界にこの社会体育という名称は皆無である。それをあえて日本のスポーツ・体育の広場に投げかけたのは、田畑の長年にわたる日本でのスポーツ・体育の活動をふまえての補完的結語ともいえよう。資本主義も、社会主義も経済は時々刻々と変化する。その変わり方に違いこそあれ、いかに世界を平和の方向に、そして人類の繁栄と幸福のために変化させていくかが肝要である。経済が変われば政治も文化も変化し、影響されるのは当然である。逆に政治や文化をどのように人間に有利に展開させるかが大切であり、経済をコントロールすることの効力もある。人類の残した偉大な人間文化としてのオリンピックを原点に戻す運動には、現実の良い結果としての、誰もが賞賛できるオリンピック大会を実現させる努力をすることこそ必要である。それが原因としてのクーベルタンの理想と発想を呼び起こす誘発力になる。要は現在のスポーツ界のあり方を追究し、同時にオリンピックのよりよき姿を求めることが現代人の使命である。評伝田畑政治と題したものの、これは田畑の単なる伝記ではない。田畑のオリッピック運動の記録には違いないが、同時に現代のスポーツ及び体育人への強い要請であり希望である。だからこそ、今さらではなく、今こそ田畑の足跡と意見が必要なのである。
田畑さんの横顔/古橋廣之進選手らは何を食べて泳いだか/戦後初のアメリカ遠征/織田幹雄さんとマッカーサー/日米対抗水上大会/ロサンゼルス大会の熱気/ヒトラーのベルリン大会/JOCの初仕事/戦後のオリンピック参加/フレンケルの勧告/東京オリンピック組織委づくり/事務総長を辞したいきさつ/無役時代の福吉町事務所/札幌の事務総長を支援せよ/青年平和友好祭の好判断/労働者スポーツ協会創立に協力/田畑副会長就任の挨拶/河野一郎さんとの大構想/モスクワ大会ボイコットに激怒/ヤン・デンマンのスポーツ馬鹿論/田畑さんの極東大会回想/中倉、菅井ドライバーの話
41.5月11日
”イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国”(2018年11月 新潮社刊 熊谷 徹著)は、1948年の独立からおよそ70年で産業を大きく成長させ、近年ではITやテクノロジー、医薬品の分野で目覚ましい発展を遂げ、成長著しいハイテク国家として躍進しているイスラエルを紹介している。
軍事技術、サ イバーセキュリティ、自動運転技術関連の開発力から第2のシリコンバレーと呼ばれ、毎年1000社を超すベンチャーが起業するイスラエルは、いまや米国に次ぐイノベー ション大国となった。ベンチャーキャピタルのGDP比率は日本の約10倍で、そこに急接近するのがドイツと中国である。熊谷徹氏は1959年東京生まれ、1982年早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局し、ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材した。1990年からはフリージャーナリストとして、ドイツ・ミュンヘン市に在住し、過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材、執筆を続けている。イスラエルは中東に位置し、エルサレムを首都とする、面積20770平方キロ、人口888万人の国である。四国よりもやや広い面積の国土に、埼玉県と同程度の人口を持つ。イスラエルは首都をエルサレムと主張しているが、国際的には認められておらず、日本を含め各国はテルアビブに大使館を設置している。もともと、第一次世界大戦時にイギリスがユダヤ人の国の建国を約束と引き換えに戦争協力を求めたことがきっかけで誕生した。第二次世界大戦後の1948年、パレスチナにイスラエルが建国された。しかし、第一次大戦時にイギリスはアラブ人にも同様の約束をしていたため、結果として原理主義者による反発から衝突が起こることとなった。アラブ人のパレスチナ人とユダヤ人の間で、たびたび多数の死者が出る戦争・事件が起きている。そのイスラエルは、近年、中東のシリコンバレーとも呼ばれ、テルアビブでは、超高層オフィスビルに高級マンションが次々に建設され、分譲マンションが飛ぶように売れている。イスラエルは、テルアビブをグローバルなスタートアップ都市にすることを目的として、ベルリン、ロンドン、パリ、ニューヨークなどの都市との起業家同士の交流を積極的に行う機会を提供している。市が世界中の名門大学のIT研究施設を誘致するなか、国を超えたイノベーションを生み出そうとしている。世界の大企業が優秀なスタートアップ企業に注目し、新たなスタートアップが立ち上がるという独自のサイクルを繰り返しながら着実に成長する土台を築いてきた。グーグルのサジェスト機能など、世界で知られている先端技術の中にはイスラエル発のものが数多くある。インテルは1974年からR&D拠点をイスラエルに設置し、同社発の最先端技術の数々は、イスラエル人科学者とエンジニアの存在が不可欠であった。マイクロソフトも2006年に、アップルも2013年の最初にR&D拠点を設置している。特に力を入れているのがサイバーセキュリティの分野で、イスラエルは世界有数のサイバーセキュリティの先進国である。サイバー犯罪、オンライン不正行為の防止と検知、スパイ行為の阻止、ダークネット対策、教育プログラム、重要インフラ施設の保護などを網羅している。21世紀に最も重要な資源は、石油や天然ガスではなく知識と独創性である。多くの日本人は感じていないかもしれないが、世界中で知的資源の争奪戦が始まっている。今年建国から70周年を迎えたイスラエルは、知恵を武器として成長する国の代表選手である。欧米では2010年頃からイスラエルに対する関心が急激に強まっており、多くの有名企業がこの国に投資して、独創的なテクノロジーを持つ小企業を次々に買収している。今日イスラエルは、米国のシリコンバレーに次いで、世界で2番目に重要なイノベーション拠点となった。米国やドイツだけではなく、中国が近年イスラエルとの関係を緊密化している。貿易額、投資額ともに急速に増えつつある。経済のデジタル化を進める中国は、イスラエルのテクノロジーを吸収しようと必死である。日本では、イスラエルの変貌や、同国に殺到する欧米企業、中国企業の動きについて詳しく知っている人は数少ない。イスラエルという国名を聞くと、大半の日本人はハイテク大国というイメージではなく、テロや戦争が絶えない危険な国と考えてしまうのではないか。イスラエルにテロの危険があることは事実だが、それだけでこの国を判断することはできない。テロの危険は欧州や米国も同じことである。日本人が旧態依然とした先入観にしがみついていたら、イスラエルというハイテク立国をめぐる国際的な潮流に取り残される恐れがある。日本の一部の大企業は、2017年頃からようやくイスラエルの重要性に気付き始め、資本参加や拠点の設置を始めたが、欧米や中国に比べて大幅に出遅れたことは否めない。著者は、国際情報に対する視野狭窄症が日本社会に広がっていることに、強い危惧を抱いているという。経済のグローバル化と国際政治の多極化、不透明化か進む今日、最も重要な姿勢は政治と経済の両方を視野に入れることである。我々は、政治と経済の両方を見据えながら、自分の意見を持つことを迫られている。
第1章 中東のシリコンバレー-日本人が知らないイスラエル/第2章 イノベーション大国への道-国家戦略と国民性/第3章 恩讐を超えて-関係を深めるドイツ/第4章 急接近する中国-一帯一路だけではない/第5章 出遅れた日本-危機とビジネスチャンス/参考文献
42.5月25日
”絶家を思う”(2017年3月 新講社刊 長宗我部 友親著)は、長宗我部元親の末弟の親房から17代目当主が、家系も自分の代で終わるかもしれない、関連の墓所はどうするなどの代々の先祖への思いと、当主としての重い務めなどについて思いを語っている。
絶家とは、戸主が死亡したことなどにより家督相続が開始されたにもかかわらず、家督相続人となる者がいないために、やむを得ず家が消滅することである。廃家が戸主の意志を元に行うのに対し、絶家は不可抗力により生じたものになる。時代は変わりつつあり、どの家庭でも一度は考えねばならない課題である。長宗我部友親氏は1942年高知市生まれ、早稲田大学を卒業し、共同通信社に入り、経済部長などを経て、2002年常務監事となり、2004年に退任した。ジャーナリスト、著述家で、長宗我部親房から17代目の当主である。家系図によると、長宗我部家は秦の始皇帝の流れをくみ、初代当主は能俊=よしとしで、第22代当主の盛親=もりちか亡き後、本流が途絶えた。よく知られているのは、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名だった第21代当主の元親=もとちかである。元親は第20代当主の国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘で、正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹であった。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなった。第21代当主の元親は土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げた。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ、土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。元親の四男の盛親=もりちかは第22代当主となったが、戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主となった。関ヶ原の戦いで西軍に属したが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城し、大坂の陣の戦闘に参加したが敗北した。再起を図るため逃亡したが、捕らえられた後に処刑された。盛親の長男の盛恒=もりつねは、大坂の陣で父盛親から参戦要請があり、大坂城へ入り、豊臣方として戦った。しかし大坂城落城後に捕らえられ、父らと共に伏見で斬首された。これにより、長宗我部氏嫡流は途絶えた。親房は本流が途絶えた後の初代当主である、第20代当主の国親=くにちかの四男で、第21代当主の元親の弟筋に当たる。親房は父・国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した。しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした城主・海部友光に襲われ、病の身ながら奮戦するも討たれた。その後、元親は弟の死に激怒し、海部城を攻略したそうである。徳川家に刃向かった長宗我部家は改易となり、江戸時代はずっと別の姓を名乗っていた。それが大政奉還になり、12代の與助重親の代になってやっと長宗我部を名乗れるようになった。著者は高知で好きな場所は浦戸城のあった浦戸であるが、武家の末裔ながら刀剣類については恐ろしい存在だという。先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、刀を見ると寒気がするためである。家には設立と消滅があり、新たに家が設立される形態は、分家、廃絶家再興、一家創立が、家が消滅する形態として、廃家、絶家がある。廃家は、戸主が婚姻や養子縁組などの理由により他の家に入るために、元の家を消滅させることをいう。これは、改正前の民法762条に規定があった。絶家は、戸主が死亡したことなどにより家督相続が開始されたにもかかわらず、家督相続人となる者がいないために、家が消滅することをいう。これも、改正前の民法764条に規定があった。廃家が戸主の意志を元に行うのに対し、絶家は不可抗力により生じる。そして、廃絶家再興とは、廃家・絶家した家を、縁故者が戸主となり再興することである。改正前の民法764条に規定があり、家族は戸主の同意を得て廃絶した本家、分家、同家その他親族の家を再興することができることになっていた。再興した者はその家の戸主となり廃絶家の氏を称するが、廃絶家前の債権・債務など各種の権利・義務を引き継ぐ訳ではない。歴史のある家の当主として、各地に散らばった墓所に参り、ゆかりの地を訪ね、縁ある人に会う旅を続けてきた。今日の少子高齢化の時代、墓移し、墓じまい、無葬に関心が集まっている。先祖や親の墓をどう守っていくか、あるいは次の代に負担をかけることなく、どう対処したらいいのか悩んでいるとのことである。子どもがいないため、養子を入れて無理やり名前を継がせても意味がない。今は個人の時代で家を背負う時代ではないため、いったん家を整理して、後代に迷惑をかけないように整えるのもあり方の一つという。現当主としての責任感から、四国や九州、東北など、各地の墓所をまとめて供養することができないか奔走しているそうである。
第1章 薄れゆく人を思うこころ-落ちこぼれ末裔の不安/後継ぎをどうするか/複雑な時代の不安/系譜とは何であろうか/第2章 ルーツはみんな持っている-名家、名門、そしてお家騒動/姓の発祥の由来/田中、渡辺などいずれも由来が/名家を継いでゆく難しさ)/第3章 先祖の墓と系譜を繋ぐ-「死とは無である」との教え/墓にかける思い/人間はいずれ消え去るもの/遠い郷里への複雑な思い/第4章 土地の人に敬われた先祖-伊達政宗の懐/義民として祀られた末裔/長宗我部の血筋/阿波に眠る人々)/第5章 「墓じまい」と「個」の時代がきた-無理せず流れに任せる/天皇と長宗我部家/時代の変化も見据えて/さて自分はどこに眠る
43.令和元年6月1日
”鷹見泉石-開国を見通した蘭学家老”(2019年2月 中央公論新社刊 片桐 一男著)は、古河藩主土井利厚と利位の二代に仕えて名家老として知られ、いち早く危機意識を持って海外情報の収集に努めた鷹見泉石の本格的な評伝である。
1804年のロシア使節レザーノフ来航時、土井利厚が幕府の対ロシア問題の担当となったため、泉石も対外交渉のための調査に従事した。そして、これをきっかけに蘭学の学習と海外情報の収集を行うようになった。その後、泉石の収集した情報と知見は幕政にも生かされ、利位が主席老中に就任した頃には、土井の鷹見か、鷹見の土井かとうたわれた。片桐一男氏は1934年新潟県生まれ、県立与板高等学校卒業、1967年に法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻博士課程単位取得退学し、同大学助手となった。1968年に文部省職員となり、1983年青学文学博士、1986年角川源義賞受賞、1977年青山学院大学文学部助教授、1981年教授、2003年退任、名誉教授、専門は蘭学史・洋学史・日蘭文化交渉史である。鷹見泉石=たかみ せんせきは1785年下総国古河城下、現在の茨城県古河市四軒町西端の藩士屋敷に生まれた。父は古河藩主土井家譜代の家臣で、当時御使番の役についていた庸見十郎左衛門忠徳という。母は曽我孫兵衛正之の女であった。生母は泉石が8歳の1792年に病没した。泉石が古河で育ったのは1795年、11歳までである。翌年、12歳のときに江戸藩邸に移り、古河藩第十代藩主である土井利厚と利和に近侍した。名は忠常、通称は十郎左衛門、号は泉石の他、楓所、泰西堂、可琴軒を使用し、ヤン・ヘンドリック・ダップルという蘭名も署名に用いた。当時、奏者番、寺社奉行に在任していた利厚は、尼崎城主である松平忠名の4男で、非凡な人物を見込まれ、土井家の第10代目に迎えられた藩主であった。期待どおり、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中と、幕府のエリートコースを進んだ。老中を勤めること21年の長きにわたり、その間の文化元年=1804年には、長崎に来航したロシア使節レザーノフが漂流民を送還して交易を望む、という難問題に直面した。専管老中として、その対処に苦慮、挺身し、1822年には将軍家から1万石の加増をうけて領地8万石とし、財政難にあって特産品の生産をすすめるなど、古河藩の指導に努めた。また、学問もできるうえ書や歌の才もあり、藩校である盈科堂=えいかどうにおいては講書・武芸をすすめ、自筆の「学館記」を掲げて奨励するなど、土井家中興の名君といわれている。泉石は1797年に調役給仕、1799年、15歳で大小姓、1801年、17歳で御部屋附、大小姓近習番、1803年に給人打込席、部屋住料十人扶持、1804年、20歳のとき小納戸格取次となった。この年、利厚がロシア人問題の専管老中となったため、泉石は急速、対外応接の来歴を調査することを命ぜられた。長崎奉行所に問い合わせ、通詞ら町役人にも聞き、さらに幕府の秘庫に資料を探索するなど、藩主に献身的に奉仕した。このときの対外応接資料調査の役務を通じて、泉石は、北方問題と蘭学に開眼、以降、生涯にわたって、この両問題に深入りしていった。1807年に、レザーノフの対日交渉が不首尾に終わったことに端を発した、ロシア人による蝦夷地での乱暴事件である魯寇事件を抱えながら、父の病没に遭い家督を継いだ。1808年、24歳で目付、1813年、者頭から用人にすすんだ。さらに1814年、30歳で家老相談役に加わり、1816年、32歳の年に公用人兼帯となった。この頃から、藩政に加えて幕政にもかかわりを深めていった。1822年、古河藩が1万石の加増を受けて8万石の藩となると、泉石も30石の加増を受けて、計280石取りとなった。藩主利厚が病死すると、泉石は新葬御用掛を務め、次いで新藩主利位家督御用役も務めたあと、御内用勤となった。1831年、47歳で500石を給せられて家老となった。1834年、利位が大坂城代となり、泉石も藩主に従って大坂に赴いた。在任中の1837年、大塩事件が起きると、家老であった泉石は陣頭に立って働き、これを鎮定した。帰府し、藩主に代わって浅草の誓願寺に参詣し、事件の鎮定を報告した。その帰路、泉石は渡辺崋山の許に立ち寄っており、崋山が正装の泉石を描いたのはこのときである。肖像はやがて完成、のち、肖像画の白眉として国宝に指定され、万人の眼を集め続けている。藩主利位は、事件鎮定の同年、その功により京都所司代に、1878年には西の丸老中に進んだ。泉石も京都に赴き、次いで帰府、さらに1879年、本丸老中付きで内用役を仰せ付かり、ますます繁忙をきわめていった。ときの首席老中であった水野越前守忠邦は天保改革を推し進め、利位は海防掛を専管する老中となった。泉石の蓄積された蘭学知識がますます生かされることとなり、海岸御人数調御用掛を務めた。水野忠邦が老中職を失脚すると、利位が首席老中に就任、拡大に努めてきた泉石の人脈がいよいよものをいうときを得た。その頃、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」という、世間の声が聞こえた。泉石の知見は学者や幕府要人に広く影響を与え、ペリー来航を受けた提言書「愚意摘要」は開国と和親通商を主張するもので、抜きん出た先見性を物語っている。1857年正月に妻、富貴死去、翌年、74歳の泉石は、妻女の跡を追うかのごとく永遠の眠りについた。新しく歩み始めた、世界のなかの維新のニッポンの姿を目にすることはなかった。
はじめに―国宝となった鷹見泉石像/第1章 レザーノフ来航/第2章 江戸藩邸で情報収集
/第3章 海外に目を向け、蘭学と欧風趣味にのめり込む/第4章 混迷する幕政・藩政に取り組んで/第5章 古河退隠で蘭学に没頭/第6章 世界のなかの日本を見据えて
44.6月8日
”前田利長”(2018年11月 吉川弘文館刊 見瀬 和雄著)は、信長・秀吉に仕え父・利家の死後は五大老の一人として豊臣秀頼を補佐し270年続く前田家の礎を築いた加賀前田家の2代当主・利長の生涯を紹介している。
前田氏は平安時代前期の貴族・武将の藤原利仁流の系統で、利仁の七男の叙用の子・吉信の三男・為時を祖とする。為時の末裔の季基の代に、美濃国守護代斉藤氏庶家として、同国前田村に居住し前田氏を名乗ったとされる。利仁は藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長の子で、越前国敦賀の豪族・藤原有仁の娘婿にもなっていた。利仁の子孫には前田玄以がおり、玄以は豊臣秀吉に仕え五奉行の一人となり、丹波において大名となったが、子の茂勝の代に江戸幕府により改易された。前田氏は戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。前田氏には、美濃前田家、尾張前田家、尾張荒子前田家、加賀前田家、越中富山前田家、大聖寺前田家、七日市前田家がある。見瀬和雄氏は1952年石川県珠洲市生まれ、1977年金沢大学法文学部卒業、1985年國學院大學大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学、博士(歴史学)で、 金沢学院大学文学部教授を経て、現在、同大学名誉教授を務めている。加賀前田家は、尾張国愛知郡の土豪だった前田利昌の四男・利家を藩祖としている。利家は織田信長に仕えて功績を挙げ、能登国21万石を領する大名となった。信長没後、利家の娘豪姫を養女としていた豊臣秀吉が統一事業を進めた。利家は賤ヶ岳の戦いでは一時は秀吉と対立したが、豊臣政権においては新たに加賀国半国と越中国を加え、加能越の三国にまたがり80万石余を領した。五大老の一人として、徳川家康に次ぐ官位である権大納言になった。二代利長は秀吉没後に家康暗殺を企んでいるとの疑いをかけられたが、利長の母で利家の妻である芳春院が人質になることで疑いは晴れた。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川方についてさらに領地を加増され、江戸時代初期には加賀・能登・越中3国で119万石を領する大大名になった。利長の跡を継いだ弟の三代利常は徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎え、以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返した。加賀藩主は徳川将軍家から特に松平の苗字と葵紋を許され、御家門に準じる家格を与えられた。利長は1562年に、織田信長の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城に生まれた。幼名は犬千代、初名は利勝で、初めは安土城で織田信長に仕えた。1581年に父・利家が能登国を与えられた役の後、父の旧領越前国府中の一部を与えられ、知行3万3千石、府中城に住み、信長の娘・永姫を室に迎えた。1582年の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。1583年に父・利家と共に柴田勝家に与する。1583年の賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退した。父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻めた。このとき、利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。勝家の自刃後は秀吉に仕え、加賀国石川郡のうち、松任4万石を与えられた。1585年に秀吉により佐々成政が支配していた越中国が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。父・利家の監督下にはあったものの、独立大名としての格式が認められた利長は父とは独立した家臣団を編成していた。秀吉から羽柴の苗字を賜り、従五位下・肥前守に叙任された。1586年に従四位下に昇叙し、侍従を兼任し、能登一国を領有した。1588年に豊臣の姓を賜り、1593年に左近衛権少将に転任し、肥前守如元となった。1595年に左近衛権中将に転任し、1597年に参議に補任し、1598年に従三位・権中納言に昇叙転任した。そして、利家の隠居で家督を相続した。1599年に利家が死去し、豊臣家五大老の一角として就任した。戦国末期に生まれ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の下で大名として過ごしたが、この時期は近世統一政権が誕生し、豊臣政権によって戦乱が基本的に終息し、江戸幕府の成立によって近世統一政権が完成した時期に相当する。この激動の時代に、利家が幾多の戦争における活躍によって作り上げてきた前田氏領国を、利長は大きく拡大・発展させ家を護持した。利長を語る場合、多くは守成の功をもって評価するのが常であるが、はたしてそれでよいのであろうか。この疑問は、この十年間、前田家の三代、利家、利長、利常について種々の史料を見る中で、徐々に増幅することはあっても、消えることはなかったという。利長の生涯をいくつかの時期に区分するとすれば、四つの時期に区分できるであろう。一つは、大名になる以前の時期、次に大名となって父利家の隠居とともに家督を継承するまでの時期、さらに家督継承以後、関ヶ原の戦いで加賀国・越中国・能登国三ヵ国を領国とし、幕藩制最大の大名として君臨する時期、最後が、隠居してから亡くなるまでの時期である。第一の時期の最後は、織田信長によって大名に取り立てられた。次の第二期は豊臣秀吉の塵下に連なった。関ヶ原の戦いを挟む第三期は、徳川家康に臣従した。第四期は、家康が将軍職を秀忠に譲るのとほぼ同時に隠居した。そして、その最期は豊臣氏滅亡の直前の時期である。この三人の天下人に付き従った大名はほかにもいるが、所領を移動することなく拡大・発展させた大名は少ない。その意味で、利長は戦国末期の政治の変動の波の中で、最もよくその家と所領を守り発展させた大名の一典型という性格をもっていた。また、千利休の高弟として文化にも通じていたという。
第一 誕生/第二 大名前田利長/第三 利長の越中支配/第四 豊臣政権の中で/第五 利長の妻子と兄弟姉妹/第六 家督相続/第七 関ヶ原の戦い/第八 利長の戦後政策/第九 領国統治と家臣団/第十 隠居と加越能三ヵ国監国/第十一 利長と高山右近/第十二 利長の発病/第十三 三ヵ条誓詞と本多政重召し抱え/第十四 利長の晩年/第十五 利長死後の動き/終章 利長はどのような大名だったか/前田利長関係略地図/前田氏両国図/前田氏略系図/略年譜/参考文献
45.6月15日
“健康長寿は靴で決まる”(2018年10月 文藝春秋刊 かじやま すみこ著)は、人生100年の超高齢社会では足に合った靴を履くことが健康長寿の鍵となるため靴の悩みがある人はもちろん自分はこの靴で大丈夫だと思い込んでいる人にも正しい靴の履き方や選び方をお伝えしたいという。
合わない靴を履いていると、足の骨格が崩れて、外反母趾など足のトラブルばかりか、腰痛や膝痛、肩こりを招くことになり、糖尿病患者は下肢の切断を招くリスクもあるという。いちばんの懸念は、こうした事実を知らない人が多すぎることである。靴を、身体を支え、歩行を助けるツールだと捉えた場合、日本人の大半は間違った靴選びをしていると言っても過言ではない。かじやますみこ氏はノンフィクション作家、放送作家で、神戸大学卒業後、テレビ局制作部勤務を経て、ニューヨーク大学大学院で修士号を取得した。”人生100年、自分の足で歩く””長く働けるからだをつくる”などの著書がある。健康とは、からだに悪いところがなく丈夫で、精神の働きやものの考え方が正常なことである。無病息災という言葉もあり、無病は病気にかかっていないこと、息災はもとは仏の力によって災害・病気など災いを除くことで、転じて、健康で元気なさまをいう。長寿は寿命の長いことで、別に長命、長生、長生きという言葉もある。長寿祝いには、61歳の還暦、70歳の古希、77歳の喜寿、80歳の傘寿、81歳の半寿、88歳の米寿、90歳の卒寿、99歳の白寿、108歳の茶寿、111歳の皇寿がある。厚生労働省が公表している調査結果によると、平成28年時点での日本人の平均寿命は、男性80.98年、女性87.14年となっている。健康上の問題に制限されることなく日常生活をおくることができる期間のことを健康寿命といい、平成25年時点での日本時の健康寿命は、男性で71.19歳、女性で74.21歳であった。平均寿命が延びたことで、高齢者像は大きく変化した。社会活動や地域社会との関わりを積極的に行う生涯現役と考え、年をとっても自分のことを自分で行うという各々の価値基準を持つ高齢者が増加した。さらに、健康への意識を高める高齢者も増え、生活習慣病による受診率も増加している。ところで、著者が靴を見直すきっかけになったのは、交通事故に遭ったことである。歩行中にうしろから来たクルマにはねられて、大腿骨のつけ根を骨折し、股関節をまるごと人工のものに入れ換える手術を受けた。手術はもちろん、そこから1年以上に及んだリハビリも苦難の日々であった。立つこと、歩くことはもちろん、座ることさえ満足にできない。こうした経験を経て、骨や筋肉について深く考えるようになったことが、本書を書く動機にもなった。靴の選び方を誤り、合わない靴-きつい靴はもちろん、大きめの靴もNG-をはいていると、足の骨格の崩れを招き、外反母趾や巻き爪など、足のトラブルにつながるという。足はからだ全体を支える土台なので、足ばかりか腰痛、膝痛、肩こりを招いてしまう。そして年をとり筋力が衰えてくると、歩行や日常生活にも支障が出て、最悪の場合、寝たきりの引き金になってしまう。著者は、交通事故による股関節の手術とリハビリを経て、足と靴の健康に目覚めたという。足病学の知見を取り入れ、間違いだらけの靴選びと、自分に合った靴を見つけられない現状に警鐘を鳴らしている。世界最古の革靴は、2008年にアルメニアの洞窟で発掘された、推定約5500年前のものだそうである。何らかの履き物を履く習慣は、それよりもはるか以前にはじまっていて、4万年前のヒトの化石にも、靴を履いていた形跡が認められるようである。今も昔も、靴は足を守り、歩行を助ける、生活に欠かせない道具なのである。そして、現代の我々は、古代人には想像もつかなかったであろう長寿の時代を生きている。ヒトが生存するためには、自分の足で立って歩くことが非常に重要である。つまり、未曾有の長寿時代を生き抜くには、靴を見直し、足を長持ちさせることがとりわけ大切になる。正しい靴を選ぶためには、自分の足の正しいサイズを知っていることや、ワイズと呼ばれる足の幅や、太さも重要なのである。ワイズは、足の親指と小指の付け根にある骨の出っ張りをぐるりと囲ったサイズのことで、日本では足囲といもわれる。靴の裏などに表記されているEやEEなどの記号が足囲であり、日本ではJISで決められた幅、細い方からA・B・C・D・E・EE・EEE・EEEE・F・Gがある。しかし、サイズを測れば問題解決というわけにはいかない。靴売り場には限られたサイズしか売られていないため、自分にぴったりの靴、ラクに歩ける靴を探しているのに、そのニーズが満たされないのである。紐靴の紐をほどかずにそのまま足を入れる、スポッとかかとが抜ける靴をまあいいかと思って履いてしまう、靴ベラを使わずかかとを踏みつぶすようにして革靴を履く、今日はいつもより歩くからラクな靴にしようと大きめの靴を履いて出かける。どれかひとつでも自分に当てはまったという人は、注意が必要であるという。これらはすべて、やってはいけないことばかりである。履いている人の健康に悪影響を及ぼす可能性のある、危険な靴の履き方、選び方なのである。靴が健康を害するなんて、ちょっと大げさじゃないか。そんなことはない、合わない靴は足の骨格の崩れを助長し、外反母趾や陥入爪=巻き爪など、さまざまな足のトラブルにつながる。足は身体全体を支える土台であり、ひずみが腰や膝、股関節の負担となり、加齢によって筋力が衰えてくると、やがて歩行や日常生活にも支障が出て、最悪の場合、寝たきりになってしまうのである。また、糖尿病を患っている方の場合、ささいな靴ずれが足の潰瘍や壊死、そして下肢切断という恐ろしい事態を招くこともある。たかが靴ずれなどとあなどっていると、深く後悔することになる。人生100年時代を迎え、足腰の健康がますます重要になるなか、この状況はあまりにも心配である。さあ、あなたも靴を見直して、健康長寿、生涯現役をめざそう。
第1章 あなたの足は健康ですか?/ 第2章 すべては足のアーチの崩れから/ 第3章 合わない靴は万病のもと/ 第4章 足にいい靴が見つからない理由/ 第5章 “ぴったりの靴”を探し求めて/ 結びにかえて
46.6月22日
”100歳の100の知恵”(2018年4月 中央公論新社刊 吉沢 久子著)は、今年3月に亡くなった100歳の生活評論家が伝え残す古くて新しい暮らしの知恵100を紹介している。
気がついたら100歳になっていて、こんなに長く生きたのかとちょっとびっくりしている、という。自分の足で立ちたい一心で仕事を始めたのが15歳のときで、出版社の事務の仕事について後に速記者になった。戦後は仕事をしながら栄養学校に通い料理の科学を勉強し、その後、結婚してからも仕事はずっと続けていた。当時は女性は「嫁」という立場で朝から晩までひたすら家族に尽くすことが美徳とされたが、もっと自分らしく生きたいと思いそのための道をいろいろ模索した。効率のいい家事の方法はないかと追求しているうちに、家事評論家・吉沢久子が誕生したそうである。吉沢久子氏は1918年東京都江東区深川生まれ、文化学院文科を卒業し、事務員、速記者などを経て、文芸評論家の古谷綱武の秘書を務めてから、出会ったことをきっかけに1951年に結婚した。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。家庭生活の中からの見聞や、折々の暮らしの問題点、食文化などについて提案し、執筆や講演活動を行い、ラジオ、テレビなどでも活躍した。1969年に家事評論家廃業宣言をして話題となった。姑、夫と死別したのち、65歳からは一人暮らしで30年を超える。2018年1月に100歳を迎えた。家庭の暮らしを見続けて85年、実際の生活のなかから、毎日を楽しく、しあわせに暮らすコツを伝えている。自分が便利だと思って実践してきたことを書き、多くの人に喜んでもらえたのは大きな励みとなった。たとえば1960年代には、次々と発売される新しい電化製品をテストし、使い勝手などを自分で試した。ときにはメーカーから依頼され、発売前にさまざまなテストをしたこともある。1970年代の高度成長期には、食品添加物などについて調べたり、家計をどう管理するかといったことを提案したりした。1980年代になると、仕事をする女性が増えてきたので、忙しい人にも無理なく作れ、しかも栄養のバランスもとれる料理を紹介した。テレビの料理番組にもかかわり、さまざまな料理人から料理のヒントも学び、自分でも簡単でおいしい料理を工夫した。収納や整理整頓術に関しても、実際に自分で試しつつ、これはいいと思ったことは伝えてきたという。やってきた仕事は、つねに日々の暮らしに密着したことばかりで、どんな小さな仕事であっても一つひとつの仕事を丁寧に、全力で取り組もうと心に決め、実際、そんなふうにやってきた。40代から60代にかけては、毎日、追われるように忙しかった。家事と仕事、介護も加わり、毎日どう生活を回すか、知恵をしぼって工夫せざるをえなかった。同時に、いかに気持ちを安定させ、幸福感を得るかといった心の問題も重要な課題だった。79歳の時に、新聞に”吉沢久子の老いじたく考”の連載を始めた。ひとり暮らしも長くなり、高齢になるといろいろな不自由が増えてくる。それをマイナスに考えるのではなく、残りの人生をどのように豊かに、明るく過ごすかを書くことで、しっかり自分の老いと向き合えた。振り返ってみると、15歳から100歳までの間、戦争中の一時期を除きずっと仕事をしてきたことになる。生活を楽しみ、仕事を続けているうちに、知らない間にこの歳になっていたという。ヒント1は、とっておきの食器は自分のために使いたい、である。若い頃から気に入ったものを集めていて、なかには作家ものの陶器や漆器など高価なものもある。あるときふっと、あと何回お気に入りの食器で料理をいただけるか、と思ったそうである。そこで、しまいこんでいた食器をすべて出してきて、ふだん使いすることにした。万が一、割れても、モノには寿命があると思えばいいし、使わないまま眠っていることのほうがよほどもったいない。気に入った器に、好きなおかずを盛って食卓に置くと、それだけで食べなれたものもいっそうおいしく感じられる。それに、器を手に入れたときの情景もふっと蘇ったりして楽しい。器ひとつで、たとえささやかな食事でも贅沢な時間になる。残りの時間、好きなものに囲まれて、豊かな気持ちで過ごしたい。ヒント100は、人のやることに口出しをしない、である。人は人、自分は自分、人は一人ひとり違う価値観や感性を持っているのだから、自分と違っていて当たり前である。だから意見や考え方が違っても、この人はこういう考え方をするのだと思い、見過ごしていればいい。そう思っているからこそ、かえって人に対してわりとやさしくできるのではないかという気もする。日常生活や仕事のなかで人と意見がぶつかっても、自分にとって絶対に譲れないものではないのなら、我慢して相手を受け入れる。ただし、自分の価値観からここだけは譲れないというときは、イヤなものはイヤという態度を貫く。ふだん、なんでもかんでも自分のやりたい放題、我を通すのは、単なるワガママである。ほとんどのことは見過ごして、ここぞというときに自分を通す。それが、人と摩擦を起こさず、それでいて自分らしさを失わずに生きるためのコツかもしれない。第1章は、ご機嫌でいるためには、まずはじめに自分をもてなす、である。毎日機嫌よく暮らすには、自分をもてなすことも必要である。人は生きていれば、さまざまな不如意と向き合わざるをえない。だからこそ、毎日の暮らしのなかで自分を大切に扱い、自分を癒すことが大事なのではないか。第2章は、今も昔も簡素に、清潔にがモットー、実践できる家事のコツ、である。家事を効率よくこなしたら、女性はもっと自由な時間を手に入れることができる。それが、女性の人生を豊かにしてくれるのではないか。第3章は、いくつになってもおいしいものが好き、味との出会いが人生の財産に、である。出歩く機会が減ってきて、一番幸せを感じるのはおいしいものを食べているときである。これはおいしいと思ったものは家庭でも簡単に作れるようアレンジを加え、仕事と家庭を両立させるためできるだけ効率的な料理も自分なりに工夫してきた。第4章は、生きていることが楽しくなる秘訣があります、である。不満グセがついて思考がネガティブな方向に行ってしまうと、人は幸せになれない。毎日の暮らしのなかで、いかに楽しいこと、小さな幸せを見つけるかが大切である。第5章は、自分らしく生きるために「しないこと」、である。100歳まで比較的いつもご機嫌に過ごすことができたのは、自分らしく生きるという思いを持ち続けていたからかもしれない。しないこと十訓は、いわば幸せになるための十訓と言ってもいいかもしれない。振り返ると、いろいろなことがあった100年である。自分かどんな道をたどってきたのか、それをこれからいろいろ考えてみるのも、いいなと思っている。とにかく、一所懸命生きているだけで精いっぱい。あっという間に一日が過ぎてしまう。そんな毎日であるが、ささやかな幸せを大事にし、これからも一日一日、丁寧に生きていきたいと思う。
第1章 100歳、快適な暮らしの極意ーまず自分をもてなす/第2章 家事は簡単で清潔がいちばん/第3章 伝えたいおいしいもの・新しいレシピ/第4章 楽しくほがらかに生きるには/第5章 「私のしないこと十訓」
47.6月29日
”万年筆バイブル”(2019年4月 講談社刊 伊東 道風著)は、インクブームをきっかけに近年人気復活中の書く愉しみを教えてくれる万年筆について運命の1本に出会い存分に使いこなすための知識と教養を紹介している。
万年筆は、ペン軸の内部に保持したインクが毛細管現象により溝の入ったペン芯を通じてペン先に持続的に供給されるような構造を持った携帯用筆記具の一つである。インクの保持には、インクカートリッジを用いたもの、各種の方法でインクを吸入するものがある。著者は伊東道風=いとうみちかぜという架空の人物で、明治37年=1904年創業の文房具専門店「伊東屋」にて、万年筆やインクのデザイン、販売、修理、仕入れに関わるメンバーを指している。名前は、平安中期の名書家にして和様の開祖、三蹟の一人と称えられる小野道風にちなみ、命名したという。伊東屋は、東京都中央区銀座に本店を構える文房具・画材用品の専門店である。明治37年=1904年6月16日に、伊藤勝太郎が東京・銀座3丁目に「和漢洋文房具・STATIONERY」の看板を掲げ創業した。関東大震災で本店を焼失したり、物資不足のため廃業を決断したりしたが、昭和21年=1946年に、戦火で全焼した伊東屋ビルを復旧し販売を再開した。昭和40年=1965年に現在の本店・本館のステンレスビルが完成し、2012年10月3日に、本店の中2階に設けられていた万年筆コーナーを旧2号館に移転し、万年筆専門館「K.ITOYA 1904」として本店から独立させた。ステンレスビルの老朽化による建て替えのため旧本店本館が閉店し、2015年6月16日に銀座新本店が改築・開店した。現在の万年筆の原型はエジプトのファーティマ朝カリフであるムイッズが、衣服と手を汚さないペンを欲したことから、953年に発明された。その後、1809年9月23日に、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが、特許を取得したのが最初である。イギリスのジョセフ・ブラーマーも7つの特許を取得した。ブラーマーの特許の中には鉄ペンの着想もあり、「fountain pen」の名称を初めて用いた。1819年には、リューイスが2色の万年筆を開発した。また、パーカーが1832年に、てこを利用した自動インク吸い取り機構を開発した。その後の1883年に、アメリカの保険外交員ルイス・エドソン・ウォーターマンが、毛細管現象を応用したペン芯を発明したことが万年筆の基礎となった。万年筆が日本に入ってきたのは1884年のことで、横浜のバンダイン商会が輸入し、東京・日本橋の丸善などで販売された。当時は後半部分がほぼ英名の直訳である「針先泉筆」と呼ばれ、「萬年筆」と命名したのは、1884年に日本初の国産万年筆を模作した大野徳三郎と言われている。末永く使える、という意味で、「万年筆」の訳語を与えたのは内田魯庵というのが通説である。文房具店の伊東屋が仮名までつくり、なぜ今、万年筆を語ろうとしているのか。インターネットが世界中に普及し、携帯電話もパソコンも子供からお年寄りまで使いこなすようになって、手書き文化は廃れていくと思った人も多い。中でも、わざわざインクを入れ替え、手が汚れることもあり、手入れもちょっぴり面倒くさく、一度書いたものは消せない万年筆は、存在自体が重く、一部の愛好家の限られた趣味のように見られた時期もあった。にもかかわらず、ネット全盛の時代に万年筆は復活し、その魅力が見直されてきたというわけである。いったい、なぜなのか。小さなボディに詰まった繊細なメカニック、科学的な構造、世界中のメーカーやブランドそれぞれが考え抜いた「よき万年筆」の哲学の体現、使うほどに自分の癖がしみこみ世界の中のたったI本になっていくという育てる愉しみ、急激に色数が増えた万年筆インクによる個性化時代との相性の良さなどなど。見直されたきっかけはまだまだあるが、一番大きな理由は「万年筆を知れば、毎日が、人生が変わる」ということである。日常を変えてしまうほど使いこなすには、もちろん使う側の知識も大切になる。漠然と選ぶのではなく、自分のための、あるいは贈りたいどなたかのための一本に、何が必要で、何が不要なのか。その基準を知るために、万年筆のプロたちが集まり、知識の体系を編み込んだものが本書である。シンプルなのに複雑、知るほどに虜になるあまたの要素を、一つずつ挙げ、一緒に確認してゆきたい。万年筆の場合、ネットショッピングはあまりお勧めできない。モニター上の画像、情報だけを頼りに買うと、実際に着てみるとしっくりとこないのではないかという不安がある。万年筆も、自分の手で持って、初めて機能する道具である。自分の体の一部となるものは、実際に自分の体で試してみないと、いいか悪いか分からないからである。実際に試し書きをして、自分の目と手を使って選んでいただければと思う。
第一章 「自分だけの一本」の選び方
1 万年筆売り場へようこそ/ネットショッピングでは難しい万年筆探し/プレゼントする場合には……/万年筆の価格帯/ハレとケの筆記用具/書き味を決めるペン先の素材/なぜ金を使うのか、金がよいのか
2 試し書きをしてみよう/最初の試し書きは国産品で/スタンダードな三本/字幅について/太字か細字か迷った時は/万年筆を持つ角度/筆圧と滑らかさ/万年筆の書き味とは/書き味を支えるさまざまな要素
3 インクの吸入方式について/二つの補充方式/吸入式①-ピストン使用のもの/吸入式②-サック使用のもの/吸入のコツ/カートリッジ式/両用式-コンバーターについて/どの補充方式がいいのか?-メリットとデメリット/補充方式と万年筆トラブルについて
第二章 インクと万年筆の正しい関係
1 インク選びのコツ/万年筆にやさしいインク選び/インク選びの「原則」
2 インク粘度と表面張力の話/インクのスピード/表面張力の調整/浸透度とインクの書き味/棚吊りとは何か
3 色材について/染料インクと顔料インク/耐水性と耐久性/リスクが高い顔料インク/明度に関わるリスク/古典インクについて/ペーハー(函)の問題
4 インクのトラブルとメンテナンス/乾燥と蒸発/メンテナンスの目安/インクは万年筆の血液
第三章 万年筆の仕組みと科学
1 万年筆の構成/単純で複雑な道具/パーツ概観
2 万年筆の頭脳「ペン先」/ペン先の構造/毛細管現象と「ハ」の字形の切り割り/ハート穴の役割/切り割りの調整/ペンポイントの重要性
3 万年筆の心臓「ベン芯」/ペン芯の三要素/空気溝とは?/空気溝とインクの設計/櫛溝をみる/櫛溝の幅
4 キャップの役割/必須パーツとしてのキャップ/キャップの種類/インナーキャップとメンテナンス
5 万年筆のボディー-首軸・胴軸を中心に/万年筆の「持ち味」/グリップの位置/持ちやすさの追求/万年筆の重心/重心の多様性パーツの接続部と素材/ボディ素材の歴史/万年筆の”ボンネット”
6 万年筆の個性/機能性から離れて/万年筆のストーリー性/装飾品としての万年筆
第四章より広く、深く知るための万年筆「世界地図」
1 国・地域別で見る万年筆の特徴/二本目を選ぶにあたって/併用するなら三本くらいに/「技術力」の日本/「均一性」対「ハンドメイド」/イタリア・ドイツ・フランス・スイスの違いは/空洞化するアメリカvs.急成長の中国・台湾
2 各国万年筆メーカーの特徴を知る/万年筆メーカーはたくさんあれど…/圧倒的な安定感と安心感「パイロット」/職人技で勝負する「セーラー」/温故知新とチャレンジ精神「プラチナ」/万年筆界の王様「パーカー」/洗練されたフレンチェレガンス「ウォーターマン」/”最高峰”を極めたブランド「モンブラン」/技術はディテールに宿る「ペリカン」/機能美の追求「ラミー」/伯爵家の貫禄「ファーバーカステル」/プロダクトデザインの雄「ポルシェデザイン」/金属を”美”にする「エス・テー・デュポン」/精緻にして色鮮やか「カランダッシュ」/機能とデザインの調和「アウロラ」/イタリアデザイン界の風雲児「ヴィスコンティ」/筆記具の宝石「モンテグラッパ」
ドキュメント パイロットエ場見学ツアー 万年筆ができるまで/年譜 万年筆の200年史/参考 図録 明治・大正「伊東屋萬年筆 営業品目録」
48.令和元年7月6日
”無意味な人生など、ひとつもない”(2017年3月 PHP研究所刊 五木 寛之著)は、人はどんな人生を送ったとしてもこの世に生まれ生きたというだけで人間として大変大きな意味のある仕事をしているという。
人生無意味症候群という精神的な病があり、人生は無意味という事実を改めて認識してしまうことで発症する。人間が極限状態に追い込まれるとこの事実を再認識し、開き直って暴走してしまうことが知られている。そのため、鬱に続く自殺原因の第2位とされており社会問題となっている。しかし、この世には一人として同じ人はいない。どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っている。無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもない。それぞれの宿命を抱きながら、それぞれが死に物狂いで生きている。その健気さを思うと、胸が熱くなるような気がするという。五木寛之氏は、1932年福岡県生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、教員としての父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地を移動した。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去し、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げた。引き揚げ後は、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。1948年に旧制福岡県立八女中学校、福島高等学校に入学し、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って、創作小説や映画評論を掲載した。1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、横田瑞穂に教えを受けゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響でジャズと流行歌にも興味を持った。生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らした。同人誌に参加し、詩人の三木卓とも知り合った、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍されたが、後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなった。1965年に、学生時代から交際していた岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗った。日本での仕事を片付けて、1965年に、かねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅した。帰国後は精神科医をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活し小説執筆に取りかかった。1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞し、1969年には『青春の門』掲載を開始した。金沢で泉鏡花文学賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞の設立に関わり、創設以来審査委員を務めている。1970年に横浜に移り、またテレビ番組『遠くへ行きたい』で永六輔、野坂昭如、伊丹十三らと制作に加わった。1972年から2年間一度目の休筆に入り、その間の1973年に『面白半分』編集長を半年間務めた。1974年に執筆活動を再開し、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の翻訳を刊行し、ベストセラーとなった。。1975年、日刊ゲンダイでエッセイ『流されゆく日々』の連載を開始し、2008年に連載8000回の世界最長コラムとして、ギネス世界記録に認定され、2016年には連載10000回を達成した。1976年、『青春の門・筑豊編』により、第10回吉川英治文学賞を受賞し、1981年から3年間再び執筆活動を一時休止し、龍谷大学の聴講生となり仏教史を学んだ。1984年に執筆活動を再開し、吉川英治文学賞、坪田譲治文学賞、小説すばる新人賞選考委員なども務めた。2002年に菊池寛賞、同年ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を受賞した。2004年に仏教伝道文化賞。2009年にNHK放送文化賞を受賞した。2010年に『親鸞上・下』により、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。著者は、あなたはこの世界でかけがえのない存在であり、今こそその意味を伝えたいという。人の一生は、その一日一日が積み重なって延びてゆく一本の道のようなものかもしれない。前に延びてゆく道筋がはっきりと見える時もあれば、暗闇に包まれて何も見えず一歩も踏み出せないと思う時もある。時に迷い、気づき、歓び、苦しむ、そのどれもがあってこそ人生である。そうわかっていても、やはりまた悩み、苦しむのである。誰かのためだけに生きてきた、孤独に生きてきた、ただ呆然と生きてきた、そのいずれの生き方も、どんな生き方をしようともそれでいい。たとえ周囲から極楽とんぼと言われて馬鹿にされようとも、不幸にも罪を犯し、刑務所の塀の中で一生を過ごすような、そういう人生であっても、人間としての尊い生き方は、あるいは価値というものは少しも変わらないのではないか。しかし、人は何かを成すことがなくても十分ではないか、人間は生まれてきて生き続け、そして人生を懸命に生きており、そこにまず人間の最も大きな価値がある。もし、人よりすぐれた野心やエネルギー、才能などを持ち合わせたなら、それを十分に発揮して世のため人のために尽くせばいい。それは他人に自慢することでもなく、周りが称賛しなければならないことでもない。そういうふうに生まれてきて、そうした才能を開かせる機会を得たことを謙虚に感謝することである。そしてもし無名のまま一生を送ったとしても、この世の中に生まれてきて、そして50年生きた70年生きた、いや、わずかに1年生きたとしても、その生きたというだけで、人間として大変大きな意味のある仕事をしているのではないか。あなたの人生は、この広い世界でたったひとつしかない。この世には一人として同じ人はいないし、どんなに自分が小さなとるに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っている。無意味な存在、無意味な人生など、ひとつもない。ほかと比べて優劣見る必要もないし、真似をする必要もないのである。同じように迷える者、弱き者の一人として生きてきた経験が少しでもお役に立つことがあればと願い、この一冊にまとめてもらうことにしたという。
第1章 大いなるいのちと「私」/無意味な人生など、ひとつもない/あなたが生きるのはなんのためなのか/悩み苦しむ「あなた」、そのままでいい/人間としての「私」と、個としての「私」/変えられないこと、変えられること/今見える道だけがあなたの道ではない/「あれかこれか」より「あれもこれも」/人生は自ずとなるべきようになる
第2章 「今日一日」を生きる/生きる力を与えてくれるもの/「気休め」の効用/こころの傷があなたを支えてくれる/人を本当に力づける励ましとは/歓び上手のススメ/肉声で語り合うことの大切さ/怒りとどうつきあうか/悲しみはいのちを活性化させる/一人で生きるということ
第3章 歳を重ねるということ/生には、立ち止まるべき時がある/「林住期」こそ人生の黄金期/”学び直し”が人生に深みと変化を与える/「必要か否か」ではなく「興味」で選んでみる/歳を重ねて、やりくり上手になる/失ったものではなく、増えていくものを数えよう/死があるから、生か輝く/生きどきがあり、死にどきがある
第4章 ありがとう、おかげさまで/私たちは、すぺて大河の一滴/「天が見ている」という感性/激変する世界にどうむきあうか/どこにでも「地獄」はある/今必要なのは「許し合うこころ」/「理想の死に方」をイメージしてみる/生きていることは、ありえないほど貴重なこと/
ありがとう、おかけさまで
49.7月13日
”のこす言葉 ルース・スレンチェンスカ-94歳のピアニスト一音で語りかける-”(2019年5月 平凡社刊 ルース・スレンチェンスカ著)は、かつて神童・天才の名をほしいままにしたアメリカ生まれの94歳のピアニストの半生を紹介している。
ルース・スレンチェンスカは1925年アメリカ・カリフォルニア州サクラメントの生まれ、幼少期に父親のヴァイオリニスト、ヨゼフ・スレンチンスキから音楽の手ほどきを受け、4歳でステージ・デビューを果たした。父親のヨゼフ・スレンチェンスキはヴァイオリン奏者で、子どもが生まれたらその子を音楽家にすると決めていた。生後12目目の赤ん坊を指さして「この子はいつか世界的な音楽家になる」と予言したとき、居合わせた人々はみな笑った、という。ポーランド生まれで、ワルシャワ、ヘルソン、ウィーンでヴァイオリンを学び、演奏家を目指してアメリカに渡った父親は、家で生徒を教える教師にとどまり、その情熱はすべて娘のルースに注ぎこまれた。ルースはヴァイオリンよりピアノが好きで、3歳半のとき、ヴァイオリンのプレゼントを壁に投げつけて壊してしまったという。それ以前に、父親からピアノの音階、スケールは習っていて、3歳からハ長調の音階を両手で弾く練習を始め、全部の調でひととおり弾けるようになっていた。ヴァイオリンを壊した翌日から新しい日課が始まり、朝6時から毎日、稽古に明け暮れた。1929年、4歳の時に、カリフォルニアのオークランドで初めてのリサイタルを行った。このリサイタルがセンセーションを巻き起こし、名高いピアニストのヨーゼフ・ホフマンの推薦で、奨学金を受けてカーティス音楽院に入学することになった。ルースと父は二人で東海岸のフィラデルフィアに行き、5歳のルースは最年少の生徒として、はるか年上の学生たちに混じって実技や音楽理論などを学んだ。しかし演奏旅行で留守がちなホフマンからなかなかレッスンを受けられず、不満を募らせた父親はルースを連れてカリフォルニアに戻り、ヨーロッパに渡ろうと画策した。ついにスポンサーを見つけ、1930年に家族全員でニューヨークから船出し、ベルリンに渡った。当時最高の教師と言われていたシュナーベルのレッスンを受けるようになって、6歳でベルリンでのデビュー・リサイタルを行った。その頃ベルリンフィルがシリーズで行なっていた朝の演奏会に行くと、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターが指揮をしていた。ラフマニノフのピアノも聴いたし、メニューイン、ハイフェッツ、エルマンのヴァイオリンも聴いた。シュナーベルが演奏旅行に行くことになって、父はまた先生探しに奔走した。アルフレッド・コルトーがベルリンに来ていて、かつてルースはサンフランシスコでピアノを聴いてもらい、パリに来るなら教えてあげる、と言われていた。楽屋を訪ね、いつパリに来ますかと訊かれて、それがパリに引っ越すきっかけになった。ルースは7歳になったばかりで、コルトーのお膳立てでパリでのデビュー・コンサートが行なわれ、大舞台で大成功を収めた。翌日、シャンゼリゼ劇場でパデレフスキのリサイタルがあり、新聞はこの7歳半の最年少者と72歳の最年長者のコンサートを並べて論評したという。重要な先生はコルトーとラフマニノフで、コルトーにはそのアパルトマンに7年間通って教えを受けた。パリでの成功を受けてアメリカ公演の話が持ち込まれ、1933年に8歳でニューヨークのタウンホールでデビューした。モーツァルト以来のもっとも輝かしい神童と評され、ニューヨークータイムズをはじめ、新聞各紙にこぞって取り上げられた。年が明けて9歳のとき、ロサンゼルスのリサイタルに出られなくなったラフマニノフに代わって、急逡、演奏することになった。パリの自宅に戻って少しした頃、突然、会ったこともないラフマニノフから電話がかかってきた。公演でパリに来ていたラフマニノフが、会いたいのでホテルに来てほしいということであった。部屋のピアノでテストをされたあと、準備した曲を次々と聴いてもらい、それ以来、パリに来るたびに呼ばれて宿題を出され、指導を受けることになった。12歳、13歳と年齢が進むにつれ、難曲を力いっぱい弾かせて聴衆を驚かせることに腐心する父に疑問が湧いたという。第二次世界大戦が始まると、アメリカに帰ろうとして、ニューヨーク行きの汽船の切符を手に入れて、出国することができた。14歳でサンフランシスコに戻ったルースは、再び1日9時間、父親と一緒にピアノに向かう生活に戻ったが、翌年のニューヨークのタウンホールでのコンサートは、燃え尽きた蝋燭と書かれてしまった。舞台に出て行って演奏する才能はないと覚悟を決め、音楽以外何も知らないので、学校に行ってどういう教え方がいいのか学びたいと思った。それで、カリフォルニア大学バークレー校を受験し、幸運なことに試験をパスすることができた。16歳の秋に大学生になって心理学を専攻し、学校に通いながら子どもにピアノを教え始めた。ある晩バークレーのパーティーでジュークボックスが壊れ、ダンスを続けるためにピアノを弾いてほしいと頼まれ、ポピュラーソングを弾いた。一人の若者が近づいてきてショパンを弾いてほしいと言い、そこから交際が始まった。音楽好きな23歳のジョージ・ボーンは19歳のルースに夢中になり、2か月後にプロポーズされた。翌日、隣のネバダ州のワノに行って婚式を挙げ、家から逃げ出して最初はジョージの両親の家に住んだ。生活費と学費を稼ぐために、ピアノの家庭教師やベビーシッターなどのアルバイトをした。しばらくして、カトリック系の女学校でピアノ教師の職を得ることができた。ある日、学校の自分の部屋でピアノを弾いていると、バッハ・フェスティバルの関係者に演奏しないかと誘われた。もう批評にさらされることもないだろうと引き受け、これが予想外に好評を博すことになった。その年、1951年は大きな変化の年で、26歳になったルースは、アーサー・フィードラーが指揮するサンフランシスコ交響楽団と協演することになった。サマー・フェスティバルでの公演は大成功を収め、ジョージは跳びあかって喜び、ルースに演奏活動に復帰することを強く勧めた。1954年から4年間、ルースはアーサー・フィードラーの率いるボストン・ポップスーオーケストラと一緒に、ソリストとして全米を公演して回った。折からのクラシック音楽ブームとあいまって、この公演活動で多くのファンが生まれた。1957年32歳のときに、自伝を出さないかという話がきて、この本がベストセラーになった。印税収入で当時の借金をすべて返し、税金を払って残ったお金でニューヨークにアパートメントを買った。1964年からサウス・イリノイ大学のアーティスト・イン・レジデンスに就任し、大学で教鞭を執りながら独自の演奏活動を展開する道を選んだ。大学は1987年に退任し、2003年に初来日し、その後たびたび来日した。2005年の岡山でのコンサートで公開演奏の場から退いたが、録音はその後も続けている。2018年、93歳で東京・サントリーホールで開催されたリサイタルは、大きな感動を呼んだ。
老いは成長の始まり/英才教育か児童虐待か/「燃え尽きた蝋燭」と呼ばれて/コンサートピアニストの日々/新天地を求めて/日本との出会い/のこす言葉
50.7月20日
“六 角 定 頼-武門の棟梁、天下を平定す-”(2019年5月 ミネルヴァ書房刊 村井 祐樹著)は、足利将軍家の後盾となって中央政界に大きな影響力を持ち北近江浅井氏をも支配下に置き最盛期には天下人ともいえる存在だった六角定頼についての初の評伝である。
六角氏は佐々木六角氏とも言い、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った守護大名であるが、藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。六角定頼は戦国時代の武将・守護大名で、室町幕府管領代、近江国守護で、南近江の戦国大名で、南近江守護・六角高頼の二男で、六角氏14代目の当主である。村井祐樹氏は1971年東京都生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、2000年に東京大学史料編纂所助手となった。以後、東京大学史料編纂所助教を経て、現在、准教授となっている。六角氏は近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われている。鎌倉時代、佐々木氏当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、1243年に信綱の長男・重綱の訴えを幕府が入れ、泰綱が嫡流であることは変わりはなかったが、泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれた。これらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化することはできなかった。鎌倉幕府滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方して敗れ降伏した。室町幕府が成立すると、庶流である京極氏の京極高氏の佐々木道誉が出雲守護、飛騨守護などに加えて近江守護に任じられた。その後、六角氏頼が近江守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。なお、京極氏は出雲や飛騨の守護に代々任ぜられ、近江国内でも守護である六角氏の支配を受けない特権を認められた。3代将軍足利義満の頃には四職となり、幕府の要職につき六角氏と対立した。同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など、奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、幕府からの直接の命令を奉じて、守護の命令には従わなかった。領内には比叡山もあり、室町時代を通じて六角氏の支配は安定せず、六角満綱・六角持綱父子は、家臣の反乱により自害に追いやられた。持綱の弟で後を継いだ六角久頼は、京極持清との対立の末に、心労により1456年に自害して果てた。久頼の跡を継いだ六角高頼は、1458年に幕府の命により廃嫡され、従兄・六角政堯が近江守護となった。しかし、政堯は伊庭氏との抗争により、1460年に近江守護の座を高頼に返還させられた。1467年に応仁の乱が起こると、高頼は重臣の山内政綱と伊庭貞隆に支持されて、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、美濃守護の土岐成頼と共に西軍に属した。1478年に応仁の乱が収束すると、1478年に高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚により近江守護の座を与えられた。しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を押領したため、1487年足利義尚自ら率いる幕府軍の遠征が開始されたが、義尚は1489年に近江鈎の陣中で病死し遠征は中止された。1490年に土岐氏に庇護されていた足利義材が10代将軍に就任し、六角高頼は赦免された。しかし、六角氏の内衆が寺社本所領の返還を拒絶したため、翌年に再び幕府軍の遠征が開始された。高頼は再び甲賀に逃れたが、敗北を重ね伊勢でも北畠氏の軍勢に迎え撃たれて逃亡した。足利義材は近江守護の座を六角政堯の遺児の六角虎千代に与えたが、1493年に河内遠征中に管領の細川政元が足利義高を擁立し権力を失った。11代将軍となった足利義高は六角虎千代を廃し、山内就綱を近江守護に任じた。高頼はこの機に乗じて蜂起して山内就綱を京都に追い返し、1495年に足利義高からの懐柔を受け、近江守護に任じられた。1508年に大内義興の上洛により10代将軍足利義材が復権すると、高頼は11代将軍足利義高を庇護した。しかし1511年に、船岡山合戦で足利義澄を擁立していた細川澄元が敗北すると、足利義材に恭順した。その後、高頼は伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた。戦国時代中頃には高頼の次男の六角定頼が登場し、第12代将軍足利義晴や第13代将軍足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与した。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、伊賀国や伊勢国の一部まで影響力を及ぼし、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争った。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争ったが、1560年に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れ、六角氏の勢力は陰りを見せ始めた。そもそもこれまで一般書で六角氏を主題にした著作は皆無に等しく、専門書であっても専論は片手で足りるほどしかないのが実情である。もちろん、地元である滋賀県の郡・市・町が出版した自治体史においては叙述されている。なかでも戦前の最高水準の自治体史と言われる”近江蒲生郡志”において、当主の政治・外交面を含
む各動向の事実関係が取り上げられている。戦後では、”新修大津市史第二・三巻””八日市市史第二巻”における叙述が最も詳細でまとまっている。専門家の研究では、本書の主役である定頼について、戦国期室町幕府研究の中においてその存在が注目され、一部究明されているものの、もとより十分なものとは言いがたい。総じて、戦国期六角氏については、触れられていない、あるいは看過されている事跡が数多く残されたままである。どこかで六角定頼の紹介をせねばと考えていた折、幸いにもミネルヴァ書房から”日本評伝選”という最高の場を与えられたので、ここに年来の研究成果を報告させていただくことにした。前史として定頼の父高頼・兄氏綱、後史として子義賢・孫義弼についてもそれぞれ一章を割いて、定頼の生涯を浮かび上がらせるという形をとった。したがって、事実上の戦国期六角氏列伝ということになる。
第一章 父高頼と兄氏綱-戦国大名六角氏の始まり/1 高頼の登場/2 応仁の乱/3 幕府との和睦から六角征伐へ/4 幕府との宥和/5 氏綱の生涯
第二章 定頼の登場-将軍を庇護し幕府を支える/1 定頼の幼少期/2 定頼と管領細川高国/3 定頼と細川晴元/4 将軍の庇護者定頼
第三章 定頼の全盛-「天下人」として畿内に君臨/1 定頼と天文の騒乱/2 定頼の権勢上昇す/3 天下人定頼/4 天下の執権/5 定頼の晩年
第四章 定頼の事蹟-発給文書に見るその権勢/1 他大名との交渉/2 洛中の相論/3 領国近江の内と外
第五章 子義賢と孫義弼-後継者の苦闘、そして戦国大名六角氏の終焉/1 定頼の後継者/2 家督相続/3 崩壊の序曲/4 観音寺騒動から信長の上洛へ
主要参考文献/附録 戒名集/六角定頼年譜
51.7月27日
”物語 ナイジェリアの歴史 「アフリカの巨人の実像」”(2019年5月 中央公論新社刊 島田 周平著)は、世界におけるアフリカの位置を見直す歴史的転換点にさしかかっている時代にあって、イギリスの統治などを経て人口・経済ともにアフリカ最大の国となったナイジェリアの歴史をたどっている。
アフリカは大きく変わりつつある。貧困と飢餓の大陸といった20世紀のアフリカ観からは今世紀中葉のアフリカの姿を想像できない。国際通貨基金が2015年に発表した数値によると、2001年からの10年間と2011年からの5年間の国内総生産の国別伸び率で、世界上位10力国の半数以上をアフリカ諸国が占めている。アフリカはサハラ砂漠南縁を境に、北のアラブ主義と南のネグロ主義に分けられる。この両者にまたがる唯一の国がナイジェリアであり、ナイジェリアはビアフラ戦争を経験しボコ・ハラムを抱えている。島田周平氏は、1948年富山県生まれ、1971年東北大学理学部地理学科卒業、理学博士である。アジア経済研究所、東北大学理学部助教授、立教大学文学部教授、東北大学教授、京都大学教授等を経て、名古屋外国語大学世界共生学部教授を務めている。日本地理学会賞優秀賞、大同生命地域研究奨励賞を受賞している。ナイジェリア連邦共和国、通称ナイジェリアは、西アフリカに位置する連邦制共和国で、イギリス連邦に加盟している。ナイジェリアという名は、同国を流れるニジェール川から採られている。ナイジェリアという名前は、19世紀後半に英国のジャーナリストであるフローラ・ショーによって使い始められたともいわれる。およそ1億9000万人の人口はアフリカ最大で、世界でも第7位に位置しており、若年人口は世界でも非常に多い。多民族国家で500を超えるエスニック・グループを擁し、そのうち3大エスニック・グループがハウサ人、イボ人、ヨルバ人である。エスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別される。ナイジェリア連邦共和国の公用語は英語であり、宗教はおおまかに南部のキリスト教と北部のイスラム教に二分されるが、少数はナイジェリア土着の宗教を信奉している。西のベナン、北のニジェール、北東のチャド、東のカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通ずる。ナイジェリアの地には、過去数千年間に多数の王国や部族国家が存在してきた。現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の南部ナイジェリア保護領と北部ナイジェリア保護領の合併にもとめられる。英国は行政システムと法制度を設置した上で、伝統的な首長制を通じた間接統治を行った。ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて内戦に陥った。以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続いたが、1999年に安定した民主政権が成立し、2011年の大統領選挙は同国で初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙である。ナイジェリアは人口と経済規模からアフリカの巨人と称されることが多く、2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大の経済大国となり、2015年時点でナイジェリアの経済規模は世界第20位となっている。しかし、2002年以降、ナイジェリア北東部で、世俗の統治機構を廃しシャリーア法の設立を目指すイスラム教の過激派組織ボコ・ハラムによる暴力に見舞われている。度重なる攻撃により1万2000人が死亡し、8000人が身体に障害を負ったという。アフリカはすでに、低所得者層を対象とした持続的ビジネスとして注目を集めているBOPビジネスの対象となっているが、早晩一般のビジネスにとっても有望な市場になると考えられている。アフリカの中で最も注目される国の一つがナイジェリアで、人口規模か大きく経済成長の潜在性も高い国である。圧倒的な人口と経済力を背景に、ナイジェリアはアフリカの中で大きな存在感を示し、とりわけ西アフリカ域内では政治と経済の両面で大きな役割を果たしてきた。西アフリカ諸国経済共同体の中心的メンバーで、西アフリカ諸国経済共同体監視団活動では、常に最大資金拠出と軍隊派遣を行ってきた。また、アフリカ連合においても一定の影響力をもっているが、日本でのナイジェリア認知度高くない。ピラミッドやナイル川で有名なエジプト、チョコレートと野口英世で知られるガーナ、自然動物公園で有名なケニアやマダガスカル、資源豊富な南アフリカなどに遠く及ばない。ナイジェリアは日本では、知られざる大国なのである。国際的にも認知度や評価か低い原因はナイジェリア自身にもあり、独立以来のビアフラ内戦、長期の軍事政権、繰り返されるクーデターというように、負のイメージで捉えられる政治か長く続いてきた。とりわけ1980年代にその悪名を世界に轟かせた汚職や不正の横行、1990年代の軍事政権による恐怖政治などは、ナイジェリアの国際的信用を著しく損なってきた。その結果、アフリカ諸国からでさえ、経済力はあるか政治的に不安定で信頼のおけない国で、人権意識か低く非民主的な国だという評価がなされてきた。1999年に軍政が終わり民主政権が誕生したが、民政か実現すると同時に北部でボコ・ハラムが誘拐事件を起こし、南部のニジェール川河口域では武装集団による地域紛争が激化しはじめ、治安の悪い不安定な国という印象を拭い去ることはできなかった。しかし、大きな転換点を迎えているアフリカにあって、残念ながらナイジェリアがアフリカ型発展の模範国に挙げられることはない。教育水準は高いが、政府の統治能力は高いとは言えず、汚職も多く、伝統的統治システムは残存している。ただし、最大の大国ナイジェリアを今のまま知られざる国としておいて良いはずはない。この国のありようが、今世紀中葉のアフリカの姿に大きな影響を与えることは間違いない。21世紀のアフリカの発展を考えるとき、ナイジェリアは目を離せない枢要な国である。重い課題を背負った大国ナイジェリアは、効率を追求する小国とは違う独自のイジェリア型発展の途を模索するしか方法はないのではなかろうか。そのためには、地域の歴史を丹念にたどりつつ、それらを束ねて共通の歴史へと絢っていく地道で不断の努力が必要であろう。
第1章 ナイジェリア誕生以前:サハラ交易/第2章 大西洋貿易/第3章 奴隷貿易の禁止/第4章 探検と宣教/第5章 アフリカ分割から特許会社支配まで/第6章 イギリスによるナイジェリア植民地支配/第7章 反植民地運動のはじまり/第8章 独立からビアフラ内戦へ/第9章 軍事政権と第二次共和制時代/第10章 民政移管とボコ・ハラム問題
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