徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1.令和元年8月3日
”柳 宗悦・「無対辞」の思想”(2018年5月 弦書房刊 松竹 洸哉著)は、民衆的工芸である民藝の美の発見者で日本民藝館を創設した柳 宗悦の無対辞=一(いつ)なる美一(いつ)なる思想の核心に迫る。
柳宗悦は民藝の美の発見者として広く知られてきた。民藝とは一なる美、つまり、根源の美の提示であった。しかし無対辞の一なる思想、すなわち存在するものの一切を全肯定する思想が顧みられることはほとんどなかった。民藝の思想の核心にあったのは、世界を美醜正邪に分けて二元的にとらえる近代思想を超えようとするものだった。本書は、雑誌”道標”28号(2010年春)から58号(2017年春)にかけて連載された全15回の、”柳宗悦ノート”を下敷きにしている。恩師と仰ぐ渡辺京二氏に出版のことを強く薦めていただき、弦書房に刊行を引き受けていただいたという。弦書房は福岡県福岡市中央区に本社を置く人文系の出版社で、地元九州や山口関連の著作を多く刊行している。松竹洸哉氏は1946年に福岡県八女郡で生まれ、1964年に福岡県立八女工業高電気通信科を卒業した。職業遍歴を経て、1973年に福岡県小石原焼早川窯、ついで上野焼英興窯で焼き物の修行をした。1976年に熊本県菊池市で独立開窯し、1990年まで個展、グループ展、公募展等で作品を発表し、2000年以降は個展のみを行っている。柳宗悦は1889年に東京府麻布区市兵衛町二丁目において、海軍少将・柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を卒業ごろから同人雑誌“白樺”に参加する。東京帝國大学哲学科に進学し宗教哲学者として執筆していたが、西洋近代美術を紹介する記事も担当した。やがて美術の世界へと関わっていき、ウォルト・ホイットマンの直観を重視する思想に影響を受け、芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となった。1913年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業し、1914年に声楽家の中島兼子と結婚した。母・勝子の弟の嘉納治五郎が千葉・我孫子に別荘を構えていたため、宗悦も我孫子へ転居した。やがて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った。陶芸家の濱田庄司との交友も、この地ではじまった。白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていた。フランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手した。宗悦が自宅で保管していたところ、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教が、その彫刻を見に宗悦の家を訪ねてきた。浅川が手土産に持参した染付秋草文面取壺を見て、宗悦は朝鮮の工芸品に心魅かれた。1916年以降たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された。1924年にソウルに朝鮮民族美術館を設立し、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示した。民藝運動は、1926年の日本民藝美術館設立趣意書の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に、用の美を見出し、活用する日本独自の運動である。21世紀の現在でも活動が続けられている。日本民藝館の創設者であり民芸運動の中心人物でもある柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた。柳は日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。また、江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年以来、木喰の事績を求めて、佐渡をはじめ日本各地に調査旅行を行った。柳は、こうして収集した工芸品を私有せず、広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移し、濱田庄司、河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる民藝運動を展開した。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移し、大原孫三郎より経済面の援助を得て、1936年に東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した。本館は第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきた。高度済成長期に民藝運動が隆盛したのは、前近代的な感性を民藝の思想がすくい得たからだったということができる。しかし日本近代において失われたものが何であったかを問うような問題意識は、今や昔のことであるという。社会的なアイデンティティーにかかわる苦しみと悲しみを宗悦は思想的に俎上し、より普遍的な愛の問題としてこれと向き合っていった。そこで依りどころとしたのが、美のイデアヘの愛=エロスをもってする”一(いつ)”なる思想であった。万物は”一者”、すなわち、対辞なき一なるものから流出したものとする新プラトン主義であった。宗悦はその思想が宿る文学や芸術、キリスト教神秘主義や西洋哲学を渉猟しながら、さらにこれを仏教思想において観ていった。そして同時に民衆的工芸、すなわち、民藝という文字なき美の世界を、天性の直観を働かせながらコトバにしていった。そこに結晶したのが、西洋美学を対象化した未聞の美の思想であった。宗悦はその美の思想をもって、世界を分節・差別化して二元的にとらえる近代思想を超克しようとした。根幹にあったのは、世界には意味を有しないものはないという全肯定の思想であった。柳宗悦は単に民藝の美の発見者に止まるものではなく、はるか文明論的な次元でその何たるかを根源的に問おうとした思想家であった。
Ⅰ 永遠相に生をみつめて/第一章 文学・芸術・哲学/第二章 神秘主義/第三章 工芸美の発見
Ⅱ 此岸の浄土/第四章 民藝―「文字なき聖書」/第五章 民藝運動/第六章 此岸に彼岸をみつめて
柳宗悦年譜
2.8月10日
”顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 「読顔術」で心を見抜く”(2015年1月 中央公論新社刊 山口 真美著)は、顔のもつ力、顔の魅力、特殊な感情について読み解き、人の顔を記憶することにかけて一流の人とフツーの人の違いをみながら顔を覚えるテクニックを解説している。
顔を見る能力といってもさまざまな力があり、顔を見ることは複数の異なる能力に分かれる。顔を見ることは複雑であり、大切な能力である。人間にとって重要な機関の集合体で、コミュニケーションツールでもある顔について、いろいろな真実が次々と明かされる。山口真美氏は1964年神奈川県生まれ、1987年中央大学文学部心理学専攻卒業、お茶の水女子大学大学院人間発達学専攻単位取得退学、博士(人文科学)である。(株)ATR人間情報通信研究所滞在研究員、福島大学生涯学習教育研究センター助教授を経て、中央大学文学部心理学研究室教授を務めている。乳児の顔認識の発達についてユニークな手法で研究を続け、日本顔学会理事などを歴任している。顔は見る人と見られる人の関係の中にあり、人と話しているときに相手がいい顔に見え出したら、相手もまたこちらいい顔に見てくれているものである。いい顔とは何かは難しい問題であるが、私たちは顔を客観的に見ることはできず、必ずその人に対するイメージを重ね焼きにしてしまう。よく顔は第一印象が大切だといわれるが、それは次に会ったときに、どうしても第一印象を重ね焼きにして顔を見てしまうからである。顔を見るときにイメージが重ね焼きされるとすれば、相手にどのようなイメージを持たれているかが大切になってくる。イメージが良ければいい顔に見られるし、悪ければ悪い顔に見られるのである。人とのコミュニケーションに自信があるか、人に騙されやすいところがあるか、イメージチェンジや化粧をすることは好きな方か、写真に撮られることは好きな方かなど、これらはすべて顔を見る能力を示している。相手の表情からその感情を読み取ることが得意か、人の顔を覚えることが得意か、指名手配の犯人を街中で見つけだすことはできると思うか、街中で芸能人を見つけることは得意か、幽霊や亡霊を見ることができるかなど、顔を見る能力といってもさまざまな力がある。顔を見ることは複数の異なる能力に分かれ、顔を見ることは複雑であり、大切な能力なのである。ホテルマンらの顔のエキスパートはなぜ、天才的能力を示せるのであろうか。相手の顔を覚えることは、究極のおもてなしともいえるもので、顧客の満足は計り知れない。実際に顔を覚えられるかどうかというと、これはなかなか大変なことである。顔を覚えることは仕事の上では千人力である。何十年も会っていない知りあいの顔を、思い起こせることだけでも凄い。ましてやその顔を雑踏から探しだすのはフツーの人には難しく、驚異的な能力と言っていいであろう。顔を見る能力には個人差があり、人の顔の認知について人一倍優れた能力を保持する人をスーパーレコクナイザーと呼ぶそうである。スーパーレコグナイザーは、2009年にハーバード大学とユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者が、人並み外れた顔認識能力を持つ人々のために造った用語である。スーパーレコグナイザーは一度見た顔はほとんど憶えており、何千もの顔を記憶し思い出すことができるという。人口の1?2%がスーパーレコグナイザーであり、これまでに見たことのある顔の80%を思い出すことができると言われている。ホテルのドアマンのプロフェッショナリズム、そして天然系のスーパーレコクナイザーについて、あらためて強調しておきたいのは、顔を読む、すなわち読顔術は立派な能力だということである。本書は、この読顔術を明らかにしていき、その際、認知心理学の顔認知の研究が発見した数多くの知見に基づいて解説していく。興味がわきそうなエピソ~ドや余談をまじえながら、さまざまな角度から顔を探究していく。1限目では、顔のもつ力について証明していく。選挙で選ばれるのは、顔だとする研究がある。人は顔に編されやすく、あちこちに顔が見えすぎる結果、妄想となる可能性もある。アイドルの魅力についても考察している。2限目では、顔の魅力を読み解いていく。日本では、なぜかわいい顔がウケるのであろうか。かわいい魅力を美人と比較しながら解読している。3限目では、怖いという特殊な感情について読み解く。人類がどのように恐怖とつき合ってきたか、その文化差にも触れている。4限目では、逃亡犯がどうして周囲に気づかれないかを出発点として、人の顔を記憶することにかけて一流の人とフツーの人の違いをみながら、顔を覚えるテクニックをマスターしていく。5限目では、よい印象をつくりだすための知識を提供している。自分を表現するための写真写りや化粧の大切さ、そして目、特に黒目と瞳孔の魅力について読み解く。6限目では、顔を読み取る際の文化差と表情の文化差について学ぶ。男女の違いについても読み解く。顔を読み解くコツと表現のコツ、そして顔の魅力の秘密を把握しておくと、人間関係に役立つことであろう。
オリエンテーション
1限目 その問題、「顔学」が役立ちます!/2限目 「かわいい」顔と美人顔、どっちが好き?ー「顔」から魅力を読み取ること/3限目 怖い顔、不審な顔、無表情-恐怖の脳科学/4限目 顔の記憶マスターはどこが凄いのか?/5限目 「よい」印象のつくり方-証明写真から化粧テクニックまで/6限目 異文化間、男女間でこんなに違う「顔」の見方
サマリー/文 献/あとがき
3.8月17日
”空と湖水-夭折の画家 三橋節子”(2019年7月 文藝春秋社刊 植松 三十里著)は、病気のため利き腕切断後も大作を描き続けた伝説の画家の35年の凄絶な生涯を描いた長編小説である。
35歳という若さで亡くなった女性画家三橋節子氏については、1977年に梅原 猛氏によって”湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死”で紹介されている。本書は作家の植松三十里氏による女性画家三橋節子氏についての伝記的小説である。植松三十里氏は1954年埼玉県生まれで静岡県育ち、静岡雙葉高等学校、東京女子大学文理学部史学科卒業後、1977年に婦人画報社入社し、1980年に退社後は、7年間アメリカで暮らした。帰国後、建築関係のライターとなり、2002年に九州さが大衆文学賞の佳作となり、2003年に第27回歴史文学賞を受賞した。2005年に小学館文庫小説賞優秀作品に入選し、2009年に第28回新田次郎文学賞、第15回中山義秀文学賞を受賞した。三橋節子氏は昭和14年(1939年)3月3日京都府生まれ、京都市立芸術大学美術学部を卒業した。夫は日本画家の鈴木靖将氏、長男は元バドミントン選手の鈴木草麻生氏、姪はチェンバロ奏者の三橋桜子氏である。京都市立芸術大学は京都市西京区大枝沓掛町13-6に本部を置く日本の公立大学である。1950年に設置され、美術学部は1880年創設の京都府の画学校が起源である。画学校では、修業年限3年間のうちに文人画や大和絵、狩野派など日本の美術の諸派を学ばせた。1891年に京都市美術学校と改称、1894年に京都市美術工芸学校と改称、1901年に京都市立美術工芸学校と改称し、1909年に京都市立絵画専門学校を新設・開校した。1945年に京都市立絵画専門学校、京都市立美術専門学校と改称、1950年に京都市立美術専門学校をもとに京都市立美術大学が創立された。1969年に市立美術大学と市立音楽短期大学が統合し、京都市立芸術大学となり2カ所で開学した。1974年に梅原猛教授が学長となった。京都市立芸術大学は、古くは京都画壇の中心地であったと言われ、また京都の陶磁器、漆工芸、染織などの地場産業に多くの人材を供給して活発化させた。明治以来、多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成してきた。1980年に、東山区今熊野の美術学部と左京区聖護院の音楽学部が、洛西ニュータウン付近の西京区大枝沓掛町に統合移転した。大津の市街が途切れる山裾に、市内でもっとも歴史ある長等公園が広がる。名刹の三井寺と山続きの場所の斜面を登っていくと、節子没後20年目にあたる平成7年に開設された大津市立三橋節子美術館がひっそりとたたずんでいる。長等公園内にあり、長等創作展示館に併設されている。長等公園近くにアトリエを構えていた三橋節子氏の作品を収蔵・展示するほか、絵画、工芸制作のためのスペースなどを備えている。美術の世界にかぎらず、若くして世を去った人の作品には、何かしら私たちはひかれるものがある。夭折の理由は、戦争や病気、事故などさまざまだけれど、おそらくその短い生涯に、作家たちの凝縮された、エネルギーの結晶のようなものを、そこに感じるからかもしれない。鈴木靖将氏と結婚して3年、節子に子供が2人できて、新進気鋭の画家としても注目される中で、鎖骨にできた腫瘍が見つかり、転移を抑えるために右腕を切らなくていけないと診断された。見舞いに来た子供を抱きしめて、片腕を失うのはつらいが、この子たちのために生きると言ったそうである。節子は画家の命とも言える右腕を切り落とした上で、左手で画業を続け、やがて36年の短い生涯を終えた。著者はかつて月刊誌で時代を生きた女たちという女性人物伝を、毎月ひとりずつ連載していたという。そこで三橋節子氏を取り上げようと、美術館へ取材に行ったのが最初だった。展示室で初めて目にした実物は、あらかじめ見たパソコンの小さな画面に映し出されたものとは、まったく印象が異なっていた。縮小してしまうと単一の色に見えるが、画面全体にペインティングナイフで何色も塗り重ねて、下の色が点描か何かのように顔を出す。それによって作品に、深みや味わいが表現されていた。作品の奥に、彼女の短くも、ひたむきな人生が垣間見えた、その時、三橋節子氏を主人公にして小説を書きたいと思ったという。作中にも登場する夫の鈴木靖将氏は、今も大津市内の自宅を拠点に、日本画家として活躍している。著者は、”時代を生きた女たち”を書いた後で、もういちど美術館に出かけて、お目にかかり、小説として書かせていただきたいと、お願いした。かつては何度も映画化の話などがあったが、フィクションはすべて断ってきたそうである。でも著者の既刊の作品を何点か読んで、ご了承いただけたという。昭和51年の父親・三橋時雄氏編纂の「吾木香」や、昭和52年の京都市立芸術大学の学長だった梅原猛氏による「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死」、昭和61年の三橋時雄氏の「岸辺-娘三橋節子」などを丹念に参照した。また、平成30年の春に聞かれた「鈴木靖将展」という個展を訪ねた。夫婦の馴れ初めや、資料にない厳しい闘病生活のエピソードなどは、直接、教えていただいたものもある。それから、三橋節子氏関係の資料を何度も見返し、些細な記述や絵の片隅からも、節子の心情を推し量りつつ書いた。作中の出来事は、「吾木香」巻末の年表になぞらえた。読んで興味を持たれたら、ぜひとも大津の美術館を訪ねて欲しい。そして実物を見て、そこに投影された三橋節子氏の生涯を、ご自身の目で確認していただきたい。
4.8月24日
“白隠-禅とその芸術-”(2015年2月 吉川弘文館刊 古田 紹欽著)は、江戸時代中期に禅の民衆化に努め臨済禅中興の祖といわれる白隠慧鶴の生涯と研鑽の過程を辿っている。
白隠慧鶴は1686年に駿河国原宿、現・静岡県沼津市原生まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧で、幼名は岩次郎、諡は神機独妙禅師、正宗国師である。15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験したという。しかし、信濃飯山の正受老人・道鏡慧端にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続けた。古田紹欽氏は1911年岐阜県山県郡伊自良村生まれで、10歳で土地の臨済宗妙心寺派の古刹・東光寺に小僧として養われた。翌年からは郡上八幡町の同じく妙心寺派の慈恩寺に養われ、やがて東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に進学し、1936年に卒業した。その後、禅思想を中心とした仏教哲学と日本文化の研究で著名な仏教哲学者で生涯の師となる鈴水大拙と出会った。国内に留まらず広く欧米で持論を講じ、英文の著書も多く、禅をZENという世界共通語となした。師を敬愛し、北海道大学、日本大学の教授となり、禅の思想的研究、とりわけ禅の公案や禅僧の語録書の研究に優れた業績を遺した。白隠慧鶴は、1700年に地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、沼津の大聖寺息道に師事した。1703年に清水の禅叢寺の僧堂に掛錫するが、禅に失望し詩文に耽った。雲棲?宏の”禅関策進”によって修行に開眼し、諸国を遊方した。美濃の瑞雲寺で修行し、1708年に越後高田の英巌寺性徹のもとで、趙州無字の公案によって開悟した。その後、信州飯山の道鏡慧端、正受老人のもとで大悟し、嗣法となった。正受老人にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得た。のちに禅修行のやり過ぎで禅病となるも、1710年に京都の北白川で、白幽子という仙人より内観の秘法を授かって回復した。その白幽子の机上にはただ、”中庸””老子””金剛般若経”のみが置かれていたという。この経験から、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。また、他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めている。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからである。1716年に諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷した。地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させた。駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠とまで謳われた。更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したという。白隠はまた、広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いたことでも知られる。その総数は定かではないが、1万点かそれ以上とも言われる。絵はおそらく独学と思われるが、1719年の達磨図はすでに巧みな画技を見せている。1763年に三島の龍澤寺を中興開山し、1769年に松蔭寺にて示寂した。現在、墓は原の松蔭寺にあって県指定史跡となり、禅画も多数保存されている。本書は1978年に木耳社から出版された古田紹欽著”白隠-禅とその芸術”の復刊である。この本は1962年に二玄社から初版がでており、当時より再版が望まれた名著であったが、発行元で版が焼失したために実現せず、15年を経てやっと再版されたという。白隠という人はその生涯に書きのこした幾多の著述を見てもわかるように、漢詩文にかけても、和語、詩歌、僅謡にかけても傑出した力量をもち、近世の禅者のなかでこの人くらい多才な人はまずいない。それでいて往々多才の人にありがちな神経質な、才気走ったものを全く見受けることがない。何ごとによらず走っては落ち付きを失い、重味・厚床となると坐っているものには到底勝てない。白隠は才気にかけては走る能力を充分もったが、短距離の走者にはならなかった。自からのもったその能力を極力うちに押えた。白隠の筆と墨との重床・厚味は、いうならば走る能力を持ちながらあえて走らず、じっと坐ることにつとめた重床であり、厚床である。もとより吹けば飛ぶような坐りではなく、脂ぎった重力でどっかと坐ったその重床・厚味は、そこにすごみさえもった。白隠くらい墨のもつ重床・厚床を筆に現わし活かした人は、日本の絵画史上まず稀である。墨の絵画、即ち墨の絵は墨によるものには違いないが、水墨画に見られる墨の濃淡とは別に、同じ墨の色ながらそこに重、軽、厚、薄を別けるものがまたあるのである。その重床・厚床を描くとなると、それは画法の能くするところではなく、この点、白隠と肩を並べてそれを能くなし得た人は或は皆無といっていいかも知れない。何といっても墨の濃さに見られる白隠の画は素晴しい。もし禅を眼で捉えるというのであるならば、あの濃墨をもってした白隠の画なり、書なりを見るのが一目瞭然である。古来、禅者は好んで達磨像を初めとして多くの祖師像を描いている。白隠はそれを最も多く画いた一人である。殊に達磨を画題として選んだものが数多い。そこには白隠の筆と墨の重味・厚味がまざまざと知られる。面壁9年の達磨の坐りっ放しの重床・厚味が確かに見られる。白隠には、ものを活かし動かす力としての禅があった。白隠は修行の心得として、禅味に耽着することを極力誠め、いくら修行を積んでも腐った禅は何の役にも立たないとした。さすがに白隠の書画を見ると、その重縁・厚縁の生きて躍動するものが紛ろうかたなく見られる。
新版の序にかえて/初版の序/白隠が白隠になるまで/白隠の禅(禅の真実性の追求/孤危険峻と世俗性/禅と学問との間/禅と念仏/坐禅和讃のこと)/白隠の芸術(禅を画く/達磨図/臨済・大灯の画像/自画像/戯画の中の禅/逸格の書/再説・白隠の書画)/最晩年の白隠/あとがき/『白隠』を読む…高橋範子
5.8月31日
”移民と日本人-ブラジル移民110年の歴史から-”(2019年6月 無明舎出版刊 深沢 正雪著)は、25万人もの日系移民が地球の反対側のブラジルに渡ってから110年経ったのでその歴史と現在を紹介している。
ブラジル移民は、ブラジルに移民すること、または、ブラジルに移民した人々を指す。1500年にポルトガル人によってブラジルが発見された当時、ブラジルの人口はおよそ240万人程であったと推定されている。その後ブラジルはポルトガルによって植民地化され、その後1822年に独立を勝ち取るまで、およそ6万人のポルトガル人がブラジルに移民したと考えられている。独立以降港が開放されるとポルトガル以外の移民も急増した。日系、アラブ系、イタリア系、レバノン系、パレスチナ系、アフリカ系、ギリシャ系などのブラジル人である。ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、1908年以降の約100年間で13万人の日本人がブラジルに移住した。深沢正雪氏は1965年静岡県沼津市生まれ、1992年からサンパウロ市にある日本語新聞「パウリスタ新聞」で研修し、1995年にいったん帰国した。1999年に群馬県大泉町でブラジル人コミュニティの内情を書いた”パラレルワールド”で、潮ノンフィクション賞を受賞した。2001年にサンパウロ市の日本語新聞「ニッケイ新聞」に入社し、2004年から編集長を務めている。地球上で最も日本から遠い場所であるはずのブラジルには、世界最多190万人もの日系人が住んでいる。ブラジルの日系人がそれだけ多くても、注目される機会はごく少ない。日本では、いったん国を出た人は、日本人の視野から飛び出した存在になってしまい、祖国の土を踏むまで思い出されることはないのだ、という。昨今、何ごとも地球規模で考えることが常識になっている。だが、日本における人の移動の認識は、なぜか変わらず、日本列島内にとどまっているのである。日本史上稀に見る民族大移動のはずだが、移民船に乗った途端、歴史の本からは煙のように消えてしまう。日本人がどこから来たかは盛んに論じられるが、不思議なことに、どこへ行ったかは論じられない。ブラジルでは永住資格で住む者も、日本人と認識される。日本に住んでいる外国人が、普通にベトナム人、中国人と言われるのと同じである。だが、日本の人は、外に出たら日系人と区別したがる。これは、島国意識が根底にあるのではないか、と思われる。日本を出た日本人が、移住先の国にどんな影響を与えたか、どんな歴史をたどったかは、広義での日本史、日本史の延長、もしくは世界史と日本史の接触点だと思う。少なくとも、なぜ彼らが日本を出たのか、どのような傾向の人たちが日本を出ようとしたのかまでは、完全に日本史の範囲内ではないか。この部分の話を、この本には集めてある。1803年に、陸奥国出身の津太夫や善六ら5名が初めてブラジルに上陸した。1892年に、ブラジル政府が日本人移民の受け入れを表明した。1895年に、日伯修好通商航海条約が締結された。1908年に正式移民が開始され、1915年に初の日本人学校である大正小学校が開設された。1941年に日本人移民受け入れが停止され、1942年に日伯国交断絶となった。1945年に、第二次世界大戦においてブラジルが日本に宣戦布告した。1951年に日伯の国交が回復し、1953年に日本人移民の受け入れが再開された。1973年に移民船による移民が廃止され、1989年に日本の出入国管理法が改正され、日系ブラジル人就労者の受け入れが開始された。2008年に日本人移民100周年を迎え、2018年に110周年となった。世界最大の日系社会が、なぜ、どのようにブラジルに築かれ、そのことがブラジルに、世界に、どのような影響を与えているのかを探ることは、日本が世界に影響力を広げる方法を知るという国益に叶うことかもしれない。このようなミッシングリンクは、時をさかのぼって丁寧に調べていかないと、埋めることはできないだろう。日本人のメンタリティには、今でもどこか島国意識が残っている。飛行機の時代になっても、世界と地続きという意識が希薄な人が多いのではないか。だから、移民船で日本を離れた後は、その人の動向は関心の外になる。でも、地球は狭くなり、現在は出た人もすぐに戻ることがある。出た人からの祖国への働きかけ、遠隔地ナショナリズムが世界に影響をあたえている部分もある。それに、たとえその移住先のブラジル籍に帰化したところで、心の中までブラジル人になる訳ではない。なろうとしても、そう簡単になれる訳ではない。だいたい日本語で国内と書くと、日本国内という意味にとられがちで、海外邦字紙としてはとても困る。日本語を使っている国は、基本的に日本しかないから仕方ない。だが、海外において数人単位(二世、三世も含めて)で日本語が日常的に使われている場所が幾つかある。その貴重な一つがブラジル日系社会であり、日本語圏と言っていい場所である。日本の日本語とのズレという意味で一番困った言葉は、なんといっても海外につきる。この言葉が持つ、どうしようもない島国感覚には、いつも頭を悩ませている。海の向こう=外国という感覚が、日本語の中には染みついている感じがする。これは、日本以外で生活言語として使われていないことが、主たる原因ではないかと思う。その反対に、ブラジルに来た当初、現地の新聞で日本に関する記事を読んでいて、よく諸島という表現に出くわして、ハッとさせられた。島と言えば、伊豆大島とか八丈島のことであり、本州は島ではないと漠然と思っていたのである。ブラジルの大陸感覚から言えば、日本はたしかに諸島である。日本人も島国根性という言葉を自嘲的に使う。だが、リアルに島に住んでいると日常的に自覚している日本国民はかなり少ないだろう。このような感覚が、日本の日本語にはしみ込んでいる。ブラジルで使われている日本語はコロニア(ブラジル日系社会)語と言われるが、コロニア語には日本を外から見てきた視点があり、日本の日本語にまとわりついている、島国感覚を浮き彫りにする作用がある。この大陸の日本語感覚が、いつか日本にフィードバックされれば、グローバルに使える日本語に磨き上げる試金石になるのではないか。明治という社会が生み出した海外移住政策は、当時の日本の社会状況を理解しないと移民の本当の気持ちは分からない。同様にブラジルという社会が分からないと、移住先で移民がどんな思いをしたのかも分からない。国から外にでた日本人の歴史、移民史には、日本国内の歴史のB面が刻まれている。彼らの想いを書き留めることは、決して余聞ではない。
序章/1 420年前に南米に来た日本人の歴史/2 明治という時代に不満があったものたち/3 マージナルマン/4 カトリック系キリスト教徒の流れ/5 プロテスタントと自由民権運動のつながり/6 明治政府と距離を置いた宮家/7 なぜ日系人の中で沖縄県系人が一番多いのか?/8 ブラジル移民の歴史から学べること
6.令和元年9月7日
”柳田国男-知と社会構想の全貌”(2016年11月 筑摩書房刊 川田 稔著)は、民俗学の祖として知られ狭義の民俗学にとどまらない柳田学として日本近代史上に燦然と輝く柳田国男の知の体系と知の全貌を再検討している。
柳田国男は、農政官僚、新聞人、民俗学者としてフィールドワークを積み重ね、近代化に立ち後れた日本社会が、今後いかにあるべきかを構想し、社会の基層にあるものが何かを考え尽くした。川田 稔氏は1947年高知県生まれ、1971年に岡山大学法文学部を卒業し、1978年に名古屋大学大学院法学研究科博士課程を単位取得満期退学し、1987年に「法学博士(名古屋大学)となった。1978年に名古屋大学法学部助手、1980年に日本福祉大学経済学部講師、1989年に同社会福祉学部助教授、1990年に教授となった。1996年に名古屋大学情報文化学部・大学院人間情報学研究科教授となり、2012年に定年で退任し、名誉教授、日本福祉大学子ども発達学部教授となり、2018年に退任した。専攻は、政治外交史・政治思想史で、近代日本の政治外交史、政治思想史を専門としている。柳田国男は1875年兵庫県神東郡田原村辻川生まれ、明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年に日本学士院会員となり、1951年に文化勲章を受章し、1962年に勲一等旭日大綬章を受賞した。父は儒者で医者の松岡操、母たけの八人兄弟の六男として生まれた。幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境の布川、現・利根町に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や、貧困にあえぐたちに強い印象を受けた。隣家の小川家の蔵書を乱読し、16歳のときに東京に住んでいた三兄・井上通泰、帝国大学医科大学に在学中と同居し、図書館に通い読書を続けた。三兄の紹介で森鴎外の門をたたき、17歳の時、尋常中学共立学校、のちの開成高等学校に編入学した。この年、田山花袋を知り、翌年、郁文館中学校に転校し進級した。19歳にして第一高等中学校に進学し、青年期を迎えた。東京帝国大学法科大学政治科卒業後、1900年に農商務省に入った。高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに、次第に民俗的なものへの関心を深めた。そして、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになった。当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた怪談ブームのさなか、新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して、”遠野物語”を執筆した。他に、宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌”郷土研究”を創刊した。方言周圏論、重出立証法などで、日本民俗学の理論や方法論が提示された。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に、内省の学として位置づけられてきた。柳田国男はさまざまなイメージがもたれている。たとえば、山間僻地の厳しい生活のなかに生まれた伝承の卓越した記述者として。あるいは、日本民族の起源について、かつて黒潮に乗って列島に移住してきたとするロマンあふれる仮説を提起した人物として。また、しばしば国語の教科書にもとりあげられている”雪国の春”や”海南小記”にみられるような、陰影に富んだ印象深い紀行文の作者として。さらには、各地の伝説や昔話に通暁し、カッパや天狗、一つ目小僧などの妖怪についても造詣が深い博識の人として。そして、村々の祭やそれをめぐる信仰など人々の日常生活に関わる伝統的習俗についての最初の本格的な研究者として。だが、柳田の知的な世界は、これらのイメージよりもさらに広く深いという。柳田は、日本民俗学の創始者として知られている。近代化以前における日本の生活文化の全体像を明らかにすることが、民俗学研究の課題だった。当時の人々の生活は、近代化とともに西欧化されつつあったが、他面、近代化以前の伝統的な生活文化を色濃く残していた。生活文化の西欧化された側面は比較的よく知られていた。だが、近代化以前の生活文化は、全体的な相互連関が分断され、その個々の意味が忘れ去られていく状況にあった。柳田は失われつつある伝統的な生活文化の全体像を、改めて描き出そうとしたのである。そのために、文献資料に止まらず、広く民間伝承を収集・分析する新しい方法を確立した。民間伝承には、人々の風俗・習慣、口承文芸、伝説・昔話などが含まれる。柳田は、一般の人々の実生活の全体とその歴史を学問的に把握しようとした、独創的な研究者だったといえる。また柳田は、近代日本の代表的な知識人・思想家の一人でもある。知的世界は、民俗学の領域のみならず、政治・経済・歴史・地理・教育など、人文科学一般に及んでいる。そして、そのような柳田の「知」は、日本社会の将来についての独自の「構想」に支えられていた。国のあり方、社会のあり方についての構想が、柳田の広範な知的活動のバックグラウンドとなっていた。また逆に、その構想・思想それ自体が、知的活動の果実でもあった。柳田の知と構想は、現在でもなお示唆的な内容をもっている。そこで本書は、柳田の知的世界とそれを支えている構想を明らかにするとともに、その現代的射程を考えていきたいという。本書では、その広がりと深さを、できるだけ平明に伝えるよう努めた。
序章 足跡と知の概観/第1章 初期の農政論/第2章 日本的近代化の問題性-危機認識/第3章 構想1-地域論と社会経済構想/第4章 構想2-政治構想/第5章 自立と共同性の問題/第6章 初期の民間伝承研究から柳田民俗学へ/第7章 知的世界の核心1-日本的心性の原像を求めて/第8章 知的世界の核心2-生活文化の構造/終章 宗教と倫理
7.9月14日
”82歳。明日は今日より幸せ”(2016年11月 幻冬舎刊 金 美齢著)は、日本統治下の台湾に生まれ留学先の日本で台湾独立運動に関わりながら家庭を築いて一男一女を育て、通訳、英語講師、日本語学校校長などで大活躍してきたこれまでの人生を振り返り、何歳になってもいつも前向きで日々ハッピーに生きる秘訣を語っている。
著者はマイナスのカードを四枚持ち、一枚目は台湾入であること、二枚目は女性であること、三枚目は結婚し子どもがいること、四枚目は高齢者であることであったが、これらすべてのマイナスのカードをプラスに変えたという。金 美齢氏は1934年に台湾で生まれ、1945年に日本が敗戦し台湾は中国人による国民党政権となった。日本統治時代の台湾の台北の裕福な家庭に生まれ、1953年に台北市内の台北市立第一女子高級中学を卒業した。その後、結婚し、国際学舎=留学生会館に勤務した。1956年に離婚し、1959年に留学生として来日し、早稲田大学第一文学部英文学科に入学した。1962年に台湾に一時帰省し、その後、台湾民主化運動を日本で推進し、反政府ブラックリストに載り政治難民となった。1963年に同大修士課程に進学し、1964年に東京大学博士課程在籍の周英明氏と学生結婚した。大学院生のときから、聖心女子学院、東京女子大学、東京理科大学、フェリス女学院大学の講師を歴任し、早稲田大学では1996年3月に至るまで20年以上にわたり英語教育に携わった。1971年に早稲田大学大学院文学研究科博士課程を単位修了し、1975年から1976年まで英国ケンブリッジ大学客員研究員となった。1988年に学校法人柴永国際学園JET日本語学校を設立し、JET日本語学校校長を務め、現在、同校名誉理事長である。1992年に反政府ブラックリストから削除され、31年ぶりに台湾に帰国した。1993年からテレビでの提言活動を開始し、2000年に台湾総統府国策顧問に就任したが、2006年に台湾総統府国策顧問制度は廃止された。2009年に日本国籍を取得し、2017年秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。現在、日台の親善にも努め、政治、教育、社会問題等でも積極的に発言する、テレビ討論番組の論客として知られている。負け組と勝ち組という言葉が定着して久しいが、そんなことを他人に決められるゆえんはない。いくら今、世間から負け組とジャッジされているとしても、最終的に自分は勝つと信じて突き進めばいい。大切なのは、自分の力と未来を信じて、最後まで諦めないことだ。著者が台湾独立運動に身を投じている間、人々から白い目で見られて敬遠されたこともある。勝てもしない闘いに人生を懸けるなんてバカだと面と向かって言われたこともあった。夫も、孤独で長い闘いを強いられてきた。けれども、今、著者の頭の中にはファンファーレが鳴っているという。最終的に、著者は人生で勝利を収めた。どんなに国民党に虐げられようとも、台湾の未来を諦めず、56年間闘ってきた。そして今、国民党は落ちぶれて、勝ったのは自分だという。なぜ、諦めることなく突き進むことができたのかを考えてみると、一番最初に思い浮かぶのは、能天気ということだ。ブラックリストに載って台湾に帰れなくなり、親の死に目に会見ず、遺産も全部放棄しなくてはいけないなどいろいろなことが起こっても、状況を恨むことなく、それかどうしたと開き直ってしまう。第二に、自分には劣情がない。最初から持ち合わせていなかったのかはわからないが、やっかみやコンプレックス、やきもちなどの感情が一切ないことに、最近気が付いた。努力もそれほどしていないし、学校の成績がよかったわけでもない。でも、それが全然コンプレックスにはなっていない。やりもしないくせに、やろうと思えばいつでもできると思っている。自分より素晴らしい人がいても、嫉妬することもない。素直にその人のよいところを認めるから、自分には好きな人がたくさんいる。好き嫌いかはっきりしているので、嫌いだと思ったら最初から付き合わないのも、下手に嫉妬心が生まれない理由かもしれない。第三に、自分はツッパリだ。辛いことや大変なことが起きても、それを受け入れて肥やしにする。辛いことがあると避けて通る人もいるが、ときにはしっかり受け止めることも大切だ。避けてばかりで遠回りしていては、いつまでたってもゴールに到達することはできない。不利な状況にあっても、自分は負けを認めないし、最終的に自分は勝つと信じて歩んできた。来日当時、第三国人といわれた旧植民地の人間は非常に地位が低かったので、日本で暮らして行くことにおいては明らかなハンデを負っていた。しかし、台湾出身だということは、視点を変えると、アウトサイダーとしての目を持っているということだ。しかも、長い間日本に暮らし、インサイダーとしての目も持っている。つまり、自分は複眼的に物を見ることかできるということだ。これは、生きていくうえで大きな強みになる。日本しか知らない、狭い世界しか知らない人に比べると、比較できるからこそわかることがある。女性であることも、以前は大きなマイナスだった。現在も、女性であるがために正当な評価をされず悔しい思いをしている人がいると思う。けれども、世の中をよく見てほしい。男はだらしがないではないか。自分は女、強いんだからと、胸を張っていればいい。自分がちゃんと仕事をしていれば、女であることがプラスになることはいくらでもある。なぜならライバルが少ないから。次に子どもがいるということ、これもまたプラスに変換できる。世の中の半分は女性であり、そのうちの多くは、結婚をして子どもを産んでいる。つまり、大多数の人が経験することを自分自身も経験できたということによって、発言には説得力が生まれる。最後に、高齢者であるということ。82歳の自分は、大いに威張っている。高齢というマイナスのカードをひっくり返して、自分はプラスにした。曲がりなりにも、自分は長いこと人生を歩んでいる。年寄りだということは、それだけ多くの経験を積んでいるということだ。人間は、生まれる国や親を選べない。DNAは生まれた瞬間に決まっているからもうどうしようもないというが、DNAが人生を占める割合は半分くらいだと思う。もう半分は、自分かどう生きていくかによって決まるのだ。だから、せめて残った半分は、真っ当に生きていたいと思っている。衣食住すべてに関心を持ち、カンファタブルにハッピーに生きたい。もちろん、そのためには努力がいる。その当たり前のことを見過ごして、生きている人か多いのではないだろうか。自分はこれまで歩いてきた人生に100%満足している。幸せだと思える理由は、やるべきことをやってきたからだと思う。しかも、それはやりたいことだった。やるべきことと、したいこと、そしてできることが一致したというのは、本当にありかたいことだった。
第一章 「台北一の不良娘」が台湾独立運動へ/第二章 思いもかけず結婚し、想定外で母になり/第三章 働いて稼いで、ハッピーに使う/第四章 小さな楽しみを重ねる、毎日の贅沢/第五章 日本って本当に素敵な国/終 章 明日は今日より幸せに
8.9月21日
”教皇フランシスコ-南の世界から”(2019年3月 平凡社刊 乗 浩子著)は、アルゼンチン育ちで2013年に南半球からの最初のローマ教皇となり世界の注目と敬意を集めているフランシスコの果たそうとしている課題や実績を明らかにしている。
フランシスコは第266代ローマ教皇で、2013年3月19日にサン・ピエトロ広場において就任ミサが執り行われた。長らくキリスト教世界を支えてきたヨーロッパでは、近年信者が減少し、南の世界での増加か著しく、ヨーロッパ以外から教皇が選ばれたのはおよそ1300年ぶりである。フランシスコ教皇の激動の半生を描く映画”ローマ法王になる日まで”が、2017年6月に日本でも公開された。1960年代、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ青年はアルゼンチンで司祭への道を歩み始めた。当時の軍事独裁政権下では、3万人もの人びとが行方不明になったと言われる。そこで、司祭としてイエズス会アルゼンチン管区長として、人びとと神に忠実に生きようとして苦悩した。大切な仲間や司祭、友人が次々苦難に遭う辛い日々を、ベルゴリオは神父として生きることになった。乗 浩子=よつのやひろこ氏は中国・大連市生まれ、1958年に東京女子大学文学部を卒業し、1980年に上智大学大学院外国語学研究科で国際関係論を専攻した。1958年から世界経済調査会研究員となり、1981年から国学院大学、日本大学等で非常勤講師となり、1988年から帝京大学文学部国際文化学科教授、1999年から同大学経済学部経済学科授となり、現在、退職している。専攻は、ラテンアメリカ近現代史、国際関係史である。いわゆる近代化論は、近代化の進展にともなって宗教は死に至ると予言してきたが、実際には信者は増えつづけている。また冷戦体制が揺らぎ始めた1970年代以降イスラム・パワーが台頭し、一方で1960年代のバチカンの民主化路線を反映して、南欧、ラテンアメリカ、アジア、東欧のカトリック勢力は民主化に大きな役割を果たした。なかでも東欧のカトリック国ポーランドヘの当時の教皇の働きかけが、一党支配体制からの脱却を促し、冷戦体制崩壊につながった。冷戦後、世界各地で起きている文明の衝突的な宗教がらみの紛争や衝突に平和的に取り組むためにも、宗教指導者の役割はかつてより大きくなっている。ベルゴリオは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた。父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員、母のレジーナ・マリア・シヴォリもイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。小学校を卒業すると、教育上の配慮から会計士事務所に働きに出された。サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。1958年3月にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始めた。1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。その後、1964年から1965年にかけて、サンタフェ州のインマクラーダ学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。1967年に本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学した。1969年12月にラモン・ホセ・カステジャーノ大司教によって司祭に叙階され、また、1970年に修士号を取得した。1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した。 指導力を高く評価され、1973年7月にアルゼンチン管区長に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めた。1980年から1986年の間に、サン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務めた。1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院に在籍した。その後、アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務めた。1992年5月に、ヨハネ・パウロ2世によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教に任命された。同年6月に、ブエノスアイレス大司教のアントニオス・クアラチノ枢機卿の司式によって、司教に叙階された。1997年6月にブエノスアイレス協働大司教に任命され、1998年2月にクアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となった。また同年11月より、アルゼンチン居住の裁治権者をもたない東方典礼カトリック教会信者の、裁治権者を兼任した。2001年2月に、ヨハネ・パウロ2世によって聖ロベルト・ベラルミーノ教会の枢機卿に任命された。そして、枢機卿として、ローマ教皇庁5つの管理職的な地位に就いた。宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していたベルゴリオ枢機卿は、個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになった。2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した直後の使徒座空位の間には、聖座とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になり、新教皇を選出するコンクラーヴェに選挙枢機卿の一人として参加した。ベルゴリオ枢機卿は、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰された。コンクラーヴェでベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇ベネディクト16世として2013年まで在位した。ベネディクト16世が2013年2月をもって辞任したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日より実施されたコンクラーヴェにおいて、翌3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出された。
序章 宗教の復権/第1章 カトリック大陸、ラテンアメリカ/第2章 教皇フランシスコへの道/第3章 バチカンの動向/第4章 アフリカとアジアでふえるキリスト教徒/第5章 民主化を促した教会―冷戦体制崩壊へ/第6章 プロテスタントの拡大とカトリックの対応/第7章 教皇フランシスコの課題と実績/終章 回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』―環境・人権・平和
9.9月28日
“橘 諸兄”(2019年7月 吉川弘文館刊 中村 順昭著)は、藤原四兄弟が疫病に倒れると政権の中枢に立ち聖武天皇の度重なる遷都や東大寺大仏の造営など天平期の諸政策を主導した奈良時代の政治家の橘諸兄を紹介している。
8世紀の日本は、律令制の時代、平城京の時代であり、文化的には天平文化とも称されている。天平文化の最盛期は、東大寺大仏と正倉院宝物で代表され、聖武天皇と光明皇后を中心に考えられることが多い。その同時代の重要な政治家の一人が橘諸兄=たちばなのもろえである。五世王にすぎなかった諸兄はいかにして政界の頂点に登りつめたのか。最新の発掘成果にも触れつつその生涯を描き出す。中村順昭氏は1953年神奈川県生まれ、1978年に東京大学文学部を卒業し、1982年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退した。文化庁文化財保護部美術工芸課文部技官、文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授で博士(文学)である。橘 諸兄は奈良時代の皇族・公卿で、初名は葛城王(葛木王)といい、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となった。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子であり、母の橘三千代は、光明子(光明皇后)とは異父妹にあたる。橘諸兄は737年に藤原武智麻呂らが疫病で亡くなった後、756に致仕するまで20年近くの間、右大臣・左大臣として太政官のトップの座にあった。奈良時代の8世紀の政治を政権のトップに立った人物で見ると、藤原不比等、長屋王、藤原武智麻呂、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡、藤原永手などとなり、藤原氏とそれ以外とが交互に権力を握った。奈良時代の朝廷は、皇族と藤原氏が権力の座を巡り争っていた時代である。この両者の争いは、超絶金持ちエリートだった長屋王という皇族が729年に藤原氏の策略で自殺に追い込まれて以後、藤原氏の圧倒的勝利に終わった。藤原氏は朝廷の主要な役職を占め、朝廷を支配した。藤原氏を中心にした観点では、藤原氏対反藤原氏の対立という図式を設定して、政権交代を経て藤原氏が勢力を拡大していったととらえることも行われている。藤原不比等(藤原氏)、長屋王(皇族)、藤原四兄弟(藤原氏)、橘諸兄(皇族)というふうに、藤原氏と皇族が交代して政権運営することになった。橘 諸兄は和銅3年=710年に無位から従五位下に直叙され、翌年に馬寮監に任ぜられた。元正朝では、霊亀3年=717年に従五位上、養老5年=721年に正五位下、7年=723年に正五位上と順調に昇進した。神亀元年=724年に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に叙せられた。6年=729年に長屋王の変後に行われた3月の叙位にて、正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられた。天平3年=731年に諸官人の推挙により、藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ、公卿に列した。天平4年=732年に従三位、8年=736年に弟の佐為王と共に、母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗った。9年=737年4月から8月にかけて、天然痘の流行によって、太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去した。9月には、出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して、応急的な体制を整えた。翌年=738年に諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となった。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。11年=739年正月に諸兄は従二位に昇叙されたが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させた。同年4月に石次に加え、自派の官人である大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させた。12年=740年8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行った。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判と、藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸した。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。15年=743年に従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年=749年4月についに正一位に陞階した。しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになった。同年11月の聖武上皇が病気で伏していた際、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けた。この讒言については聖武上皇が取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳=756年2月に辞職を申し出て致仕した。9歳=757年1月6日享年74歳で薨去した。諸兄の没後間もない同年7月、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死した。藤原不比等、武智麻呂、仲麻呂、永手らを藤原氏ということで一律にとらえることが適切なのだろうか。また長屋王、橘諸兄、道鏡は、それぞれの置かれた政治状況が異なっていて、反藤原氏と一括するのは一面的にすぎよう。とりわけ橘諸兄は、もと葛城王と称する皇親であったが、母は県犬養 橘三千代で、光明皇后と父は異なるが母は同じ兄妹でもあった。藤原氏を代表する光明皇后と諸兄は、互いに支え合うような側面もあった。子の奈良麻呂がクーデタを計画したとき、大伴氏や佐伯氏などの伝統的豪族を同士としていた。諸兄も守旧派と位置づけられることもあるが、橘氏は諸兄に始まる新興氏族でもある。このように橘諸兄には多様な側面があり、天平期の政治を考えるうえでは諸兄をどのように位置づけるかが重要な問題となる。そのためには諸兄の経歴、事績などをきちんと把握する必要があり、本書はそのための試みである。
はしがき/生い立ち(父祖/県犬養三千代/五世王)/皇親官人としての葛城王(藤原不比等と葛城王/長屋王政権/長屋王の変/藤原武智麻呂政権と葛城王/藤原武智麻呂政権の政策/橘宿禰諸兄)/疫病大流行(藤原四兄弟の死/橘諸兄政権の成立/阿倍内親王の立太子/疫病後の政策/橘諸兄の相楽別業)/彷徨五年(藤原広嗣の乱/関東行幸/恭仁京/国分寺造営/紫香楽行幸と大仏建立/難波遷都と安積親王の死/平城還都/彷徨五年期の政策)/左大臣橘諸兄の政権(橘奈良麻呂のクーデタ計画/皇太子阿倍内親王/陸奥の産金/平城還都後の政策/橘諸兄の家産)/橘諸兄と藤原仲麻呂(孝謙天皇の即位/橘諸兄の致仕と死/橘奈良麻呂の変/橘諸兄の子孫たち)/橘諸兄関係系図/天皇・皇族略系図/略年譜
10.令和元年10月5日
”アメリカ本土を爆撃した男”(2018年5月 毎日ワンズ社刊 倉田 耕一著)は、1997年に亡くなりニューヨークタイムズ紙に「米国本土に爆弾を落とした唯一の敵」と紹介された藤田信雄海軍中尉の数奇な運命を紹介している。
藤田信雄氏は帝国海軍の軍人で、最終階級は飛行兵曹長、終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉である。帝国海軍の伊号第25潜水艦(伊25)から、零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して、航空機によるルックアウト空襲爆撃を敢行したし。太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるという任務であった。倉田耕一氏は1952年秋田市生まれ、業界紙記者を経て1968年産経新聞社に入社し、秋田支局、水戸支局、東京本社などに勤務した。現在はフリーランスとして活動している。著者は生前の藤田氏と交流があり、遺族が保管していた藤田氏の日記27冊分を解読した。1950年に、東郷神社境内に建つ潜水艦殉国碑の前で、潜水艦死者慰霊祭が行なわれた。高松宮宣仁殿下が台臨され、東郷神社宮司、筑土龍男の先導により席に着かれた。慰霊祭は、『日本海軍潜水艦史』上梓を機に実現の運びとなり、生存者440名、遺族360名が参列した。1942年に4月18日に、日本本土が初めて空襲に見舞われた。米空母から発艦したドーリットル中佐が指揮するB25爆撃機16機が、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃した。通報を受けた陸海軍の航空隊は、行き違いなどもあって、結局有効な反撃をすることができなかった。翌19日、霞ヶ関の軍司令部は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。ドーリットル隊は、民間人に対する攻撃を行ない、小中学校まで爆撃の的とした。軍令第三課で朝から会議が開かれ、果てしない議論が繰り返されていた。「国民は敵機の侵入を許した陸海軍を非難している」「九機撃墜という発表は嘘だといっておる」「これはなんとしても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」「どうやってやるのだ?」「航空母艦の使用は連合艦隊が承知すまいぞ」「しからば潜水艦から飛行機を飛ばすしかなかろう」「そんな荒業をやってのける飛行士がいるだろうか?」当時、旧日本海軍の空戦猛者には、真珠湾攻撃を空から指揮した淵田美津雄氏、ゲンダサーカスの源田実氏、ゼロ戦で撃墜記録をたてた坂井三郎氏がいた。会議に出ていた筑土龍男大尉は、「あの男しかいない」と思った。それは、帝国海軍のエースパイロットの藤田信雄氏だった。藤田氏は1911年生まれ、1932年から1945年まで、大日本帝国海軍の水上機の天才的な操縦者であった。終戦まで総計6000時間も飛行して、かすり傷一つも受けなかったという。太平洋戦だけでも、北はアラスカから南は豪州のタスマニアまで、自分の下駄ばきで前後10回も敵地上空を飛行した。飛行記録で最たるものが、米大陸本土爆撃であった。戦時中は機密保持ということで、この人の名前はついに公表されなかった。また戦後は、膨湃として起こったアンチ軍国主義の波のなかで、完全に忘れ去られた。藤田氏は九州の寒村で生まれ、エリートとはいえない旧海軍の准士官を長年にわたってつとめた、典型的な日本の地方人である。しかし、ことフロート付き水上機の操縦ということになると、長い日本の航空史のなかでも、藤田氏の右に出るパイロットを探すのはむずかしい。それだけでなく、危険きわまりない潜水艦からのカタパルト射出飛行を専門とした。このずば抜けた操縦の腕前によって、アメリカへの前人未踏の爆撃行に選ばれた。愛機の正式名称は零式小型水上偵察機で、全長わずか8.5メートルであった。低翼複座で、エンジン出力は340馬力、巡航速度85ノット(毎時158キロ相当)であった。ちっぽけな空のミジェットと対照的に、オレゴンの密林は巨大であった。高さ百メートルに達する樹木や、雲つくばかりの超弩級針葉樹があって、老樹森々として聳えていた。そんな魔の森に、わずか76キロの焼夷弾で劫火を巻き起こそうとしても、多雨であったその年の秋においては、全く話にならない作戦であった。1942年4月21日、軍令部に呼び出された藤田氏は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への空爆命令を拝した。藤田氏はこの作戦で生還する自信がなく、出発前日の8月14日に家族に宛てた遺言書を残した。8月15日、横須賀より伊25でアメリカへ向かった。9月9日水曜日の午前6時、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上した。藤田氏と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾を積み飛び立った。藤田氏の投下した焼夷弾のうち1個は、オレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに落ちた。焼夷弾によりブルッキングズの東約15キロの地点でぼやが発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火され、木が一本燃えただけであった。その前夜に雨が降っていたため森林はとても湿っており、爆弾の効力はほぼなかったのである。爆撃実施後、伊25は警戒中のアメリカ陸軍航空軍の航空機によって攻撃を受けた。アメリカ軍の攻撃によりいくらかのダメージを受けたにもかかわらず、3週間後の9月29日、藤田氏は2回目の爆撃を行うため出撃した。ケープブランコ灯台を目印に、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。伊25はSSカムデンとSSラリー・ドヘニーを撃沈し帰還した。1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。 藤田氏はその後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。終戦後、藤田は地元の茨城県土浦市に戻り、工場勤めをしていた。だが1962年5月20日、政府首脳より都内の料亭に呼び出され、池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に面会し、その場でアメリカ政府が藤田氏を探していることを告げられた。ブルッキングズ市は、かつての敵国の英雄である藤田氏をフェスティバルの主賓として招待したのだった。その後、藤田氏は1990年、1992年、1995年にも、ブルッキングズを訪れた。1997年9月30日に85歳で死去したが、その数日前に、ブルッキングズ市の名誉市民となっていた。2012年5月に、娘の浅倉順子氏と息子の藤田文浩氏らがブルッキングスを訪問し、現地の図書館や空爆地域を訪れ、現在も交流が続いているという。
第1章 老兵の追憶/第2章 米本土ヲ空襲セヨ/第3章 昨日の敵は今日の友
11.10月12日
”久坂玄瑞-志気凡ならず、何卒大成致せかし”(2019年2月 ミネルヴァ書房刊 一坂 太郎著)は、松下村塾の門下生で変革を熱望するも藩を滅亡寸前まで追い込み25歳のとき禁門の変で命を散らした久坂玄瑞の生涯を紹介している。
久坂玄瑞は幕末の長州萩藩士で、吉田松陰に学び高杉晋作とともに松下村塾の双璧といわれた。脱藩上京し長州の藩論を、公武合体から尊王攘夷路線に変えることに成功した。江戸の英国公使館襲撃、下関の外国艦隊砲撃などに参加したが、禁門の変に参戦して負傷し自刃し志なかばで命を落とした。一坂太郎氏は1966年芦屋市生まれ、1990年大正大学文学部史学科を卒業し、元東行記念館副館長・学芸員で、現在までに、国際日本文化研究センター共同研究員、萩博物館特別学芸員、防府天満宮歴史館顧問、至誠館大学特任教授を歴任した。主に、長州維新史を中心に研究執筆している。国内政治の混乱と西洋列強の外圧により、各地で変革を熱望するエネルギーが勃興し、200年以上つづいた幕藩体制を打ち砕いた。それが、幕末という時代の大きな魅力であろう。幕末の主役たちは戦国時代などとは異なり、権力者である大名や公家ではない。有志とか志士と呼ばれる、名もなき若者たちであった。かれらは本来なら国や藩の政治に、直接関与できる身分ではない。ところが、時代の要請に応じるかのように歴史の表舞台に颯爽と登場し、縦横無尽に活躍した。あまりにも生き急ぎ、10代、20代で生命を散らした者も多い。この時代に、若さ藩士たちが中心となり、藩という巨大組織を動かしたのは、なんといっても長州藩毛利家だろう。古田松陰が尊王攘夷論を唱え、その門下生たちが強引に藩を引きずって、幾度か修羅場に立ちながらも、ついには徳川幕府を打倒した。そのエネルギーは、凄まじいとしか言いようがない。久坂玄瑞は1840年長門国萩平安古本町、現・山口県萩市生まれ、父は萩藩医の久坂良迪の三男・秀三郎として生まれた。幼少の頃から、城下の私塾の吉松塾で四書の素読を受けた。この塾には、1歳年長の高杉晋作も通っていた。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、藩の医学所である好生館の居寮生となった。1856年に、兄のように慕う中村道太郎のすすめで九州に遊学した。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から、松陰に従学することを勧められ、萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった。3度の手紙のこのやりとりの後しばらくして、玄瑞は1857年晩春に正式に松門に弟子入りした。松下村塾では晋作と共に、村塾の双璧、晋作・吉田稔麿・入江九一と共に、松門四天王といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、1857年12月5日に、松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。1859年10月に、安政の大獄によって松陰が刑死した。1861年12月に、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った。参加者は、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名であった。この頃から、玄瑞と各藩の志士たちとの交流が活発となった。特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった。初め藩論は、長井雅楽の航海遠略策、公武合体に傾きつつあり、藩主は長井に朝廷に参内させた。これに対し玄瑞は反駁し、長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。1862年正月に、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月に長井失脚に成功した。1862年8月に建白書を藩主に上提し、これが藩主に受け入れられて長州藩の藩論となった。10月に玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊王攘夷化した。そして、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。12月に、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。1963年正月に、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した。5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とした。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したもので、後の奇兵隊の前身となった。5月10日から外国船砲撃を実行に移し、アメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行った。この戦いで、旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということが明らかになった。5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物の姉小路公知国事参政が暗殺され、藩は5月28日に玄瑞を朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための、使者に伴わせて京都に向かわせた。6月1日に、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎、吉田稔麿、野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった。玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光、白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した。しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に、長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受けた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。長州藩は朝廷に攘夷御親征の建白書を提出し、8月13日に三条実美ら長州派公卿の尽力により、大和行幸、御親征の詔勅が発せられた。しかし幕府は長州の独断攘夷を問題視し、8月18日に長州藩をはじめとした急進尊攘派の動きを封ずる挙に出た。攘夷親征の延期、長州派公卿の更迭が行われ、長州藩は宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられ、公武合体派が天下を圧する時期が再び到来した。この情勢のなか、玄瑞は政務座役に任じられ、藩の要職として後事を策するため、京都詰めを命じられた。1864年4月に、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都を離れ、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を要請した。6月4日に長州にて進発令が発せられ、玄瑞は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。6月24日に玄瑞は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を起草し、朝廷に奉った。7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わり、幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促した。7月17日に男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれ、大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は卑怯者と怒鳴り、最年長で参謀格の真木和泉の言により、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。蛤御門を攻めた来島は会津藩隊と交戦したが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、指揮官の来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなり、来島は自害した。来島隊の開戦に遅れて到着した玄瑞・真木らの隊は、鷹司輔煕邸に近い堺町御門を攻めた。門を守備する越前藩隊を突破できなかったため、隊の兵に塀を乗り越えさせて鷹司邸内に侵入して交戦した。玄瑞自身は鷹司邸の裏門から邸内に入り、鷹司輔煕に朝廷への参内に付随し、嘆願をさせて欲しいと要請したが拒絶された。越前藩隊は会津藩から大砲を借り受けて表門から邸内を攻めたため、長州兵は各自逃亡を始めた。鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は共に自刃しようとする入江九一を説得し後を託したが、入江は屋敷を脱出する際に越前兵に見つかり、槍で顔面を刺されて死亡した。最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて自害して果てた。享年25歳であった。松下村塾で松陰の教えを受けた90余名の門下生のうち、高杉晋作と久坂玄瑞は突出した存在で、双璧とか竜虎と言われて、いまも語り継がれている。いずれも20代の若さで、明治という新時代を見る事なく亡くなっている。
第一章 誕生から九州遊歴まで/第二章 吉田松陰との出会い/第三章 「有志」として政治活動/第四章 吉田松陰との別れ/第五章 江戸での「横議横行」/第六章 「横議横行」の挫折/第七章 「奉勅攘夷」の挫折/第八章 「禁門の変」に斃れる/主要参考文献/久坂玄瑞略年譜
12.10月19日
”本をサクサク読む技術-長編小説から翻訳モノまで”(2015年8月 中央公論新社刊 齋藤 孝著)は、本をサクサク読むポイントは楽しむことと数をこなすことであり途中で挫折したり中身をすぐ忘れる対策として本の養分を瞬時に吸収できるいろいろなノウハウを提示している。
作品がフィクションであれノンフィクションであれ、著者が歴史上の偉人であれ無名の新入であれ、ハツとしたりホツとしたりするような一文に出会うことはよくある。その一瞬があるだけで、この本を読んでよかったと思えるのではないか。読書で得られるのは知識や情報だけではなく、もっと深い部分で心の支えになったり、考え方や生き方を教えてもらったり、自分のをつくってもらったりすることに意義がある。いきなりそういう本に出会えなくても、複数の本を芋づる式に読んでいるうちに行き着く、ということはよくある。巷では膨大な情報が飛び交い、一瞬にして消費されて価値を失う昨今だからこそ、こういう出会いはより輝きを増すのではないか。齋藤 孝氏は1960年静岡県生まれ、東京大学法学部公法コースを卒業し、同大学院教育学研究科学校教育学専攻博士課程を満期退学した。日本学術振興会特別研究員、世田谷市民大学講師、慶應義塾大学非常勤講師、明治大学文学部専任講師・助教授を経て、現在、明治大学文学部教授を務めている。第14回新潮学芸賞、56回毎日出版文化賞特別賞を受賞した。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論で、テレビ番組のコメンテーターとしても活躍している。いま、本が売れないといわれ続けているが、たしかに学生の読書量も、ひと昔前に比べればずいぶん減った。各出版社は売り上げを上げるため、出版点数を増やす傾向にある。毎日のように大量の新刊が誕生するため、本の寿命が短くなった。しかし見方を変えれば、それだけ著者が増えたということでもある。かつて新書といえば岩波新書か中公新書ぐらいしかなかった時代で、本を出せるのは有名な大学の先生だけとほぼ決まっていた。しかし今や新書は百花擦乱で、あらゆるジャンルの人が著者として名を連ねている。本を書いてみたいという人にも、新しい出会いを求めている読者にとっても、いい環境といえるのではないか。読者も、それをきっかけとして、本のおもしろさに目覚めるようになるかもしれない。著者は、スタンダール、ゲーテ、ドストエフスキー、ニーチェなどの世界文学や、ソクラテスやアリストテレス、『徒然草』、『奥の細道』といった古典などを読むべきだ、という教養主義を持論としている。自分の軸をつくった5冊が表にして掲げられている。講談社学術文庫の勝海舟『氷川清話』は、中学生のときに1年間カバンに入れて持ち歩いた、勝海舟の壮大な世界観、人間観に大きな影響を受けたという。みすず書房の全2巻メルロ=ポンテイ『知覚の現象学』は、大学で研究分野にしようと思った身体論の研究基盤をつくってくれたという。中公文庫のニーチェの『ツァラトゥストラ』は、毎年大学の教え子だちとまえがきを音読していて、自分を乗り越えていくための本だという。光文社古典新訳文庫の全5巻ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は、人生とは何かという問いに答えてくれるという。中公新書の石光真人(編著)『ある明治人の記録』は、会津大の魂が込められた本で、日本人の魂が感じられ、浪人時代に号泣しながら読んだという。読書のメリットや読書の効果にはいろいろなことが考えられる。本そのものが嫌い、という人はあまりいないと思う。その有用性も、誰もが認めるところであろう。ただし、たとえばテレビやネットに比べ、いささか面倒くさい媒体であることは間違いない。活字を追うという作業は、相応にエネルギーを使うのである。本はボリュームがあり、途中で眠くなる人、筋立てがわからなくなって迷子になる人、一冊を読み終えるまでに膨大な時間がかかる人、あるいはこれらの事態を想定し、最初から面倒くさかって本に近づかない人も多いのではないか。しかし、読書をすることで新しい知識を吸収することができ、いままで知れなかったことを知ることができ、世界が広がった経験をすることが可能である。本を読むことはストレスを和らぐのに最も良い方法であり、読書をすることのワクワク感が高り、ストレスが気にならなくなる。読書をすることで作中の言い回しや表現方法も学ぶことができ、適正な言い回しができるようになれば、コミュニケーション力も向上する。読書をすれば語彙力や表現方法を身につけることができ、言い回しなどを自分の文章に活用することもできる。読書をすることで自分が知らない世界を知ることができ、自分の友達や周りの人の生き方や、行動の仕方に妙に納得感が生まれてくることがある。読書して本に書いてある文字を読むことで、文字から情景をイメージすることになり、本の内容を自分に置き換え、左脳から右脳に頻繁に情報を転送し、脳が活発に動き脳が活性化する。読書は思考のパッケージであり、自分が今まで考えられなかった思考パターンにより、いままで気づかなかったことに気づくことができる。読書の効果の基盤は疑似体験と知識習得であり、自分が経験しないことを、教訓とともに、学び、疑似体験することができ、新しい知識も身につけることができる。そして、本を読めば読むほど本を読むスピードが上がり、知識が増えれば増えるほど本で語られている内容の理解が早まる。読者にとって、生涯の師または友となるような良書に意外に簡単に出会えるかもしれない。一文も逃さず全文をきっちり読むべきだという正論はたしかに正論であるが、その正論ではたくさんの本を読めない人のために本書を書いたという。何かのきっかけで、もっと知りたいという対象が現れたら、何も遠慮する必要はない。10冊でも20冊でも、気の済むまで関連する本を漁ればいい。この貪欲さが読書の原動力になり、どんな本でもサクサク読めるとすれば、好奇心はいっそう刺激されるはずである。とにかく数をこなすことが大切で、本書では蔵書1000冊をめざすことを提案している。一見すると膨大な量であるが、実はそうでもない。本書を読んで、ちょっと書店にでも寄ってみようかとか、ネットでおもしろそうな本でも探してみようという気になったとすれば幸いである。そして、手に取った本をサクサク読む快感を、おおいに昧わっていただきたい。
1章 「読破」するにはコツがある(並行読書のススメ/新書から始めよう/昔の受験勉強を今の読書に活かせ/「見る」も「眺める」も読書のうち)/2章 長編小説を挫折しないで読む方法(登場人物がややこしい長編小説の読み方/自分に合う小説はこうして探せ)/3章 「ビジネス常識」としての経済小説、歴史小説入門(経済小説で経済を知る/知識ゼロからの歴史小説入門)/4章 難解な翻訳書・学術書を読みこなすコツ(難解な本をクリアする法/海外古典文学を読まずに死ねるか/英語ビギナーのための洋書読書術/ド文系のための理系本攻略法)/5章 本を選ぶヒントー王道から邪道まで(「新刊情報」に敏感になろう/「ベストセラー」から得られる二つのメリット/レーベルごとの個性を知る/自室に書棚はありますか?)
13.10月26日
”箕輪城と長野氏”(2011年1月 戎光祥出版社刊 近藤 義雄著)は、武田信玄、北条氏政の猛攻に屈せず箕輪城と上野国を守り抜いた長野業政と一族の興亡を詳細に描いている。
群馬県には大小様々な城館跡が500ヶ所以上もあり、大部分は中世に築かれたもので、近世の城郭や陣屋は1割にも満たない。近世城郭のほとんどは中世にあった城を拡張したので、前橋城は厩橋城の跡に、高崎城は和田城の跡に、沼田城や館林城はそのままの名称で継承されている。中世城跡のなかで、太田市の金山城と群馬郡箕郷町の箕輪城は、城の構造・歴史上の重要性から、他の諸城跡よりはるかに重要な意味をもつ城跡である。いわば上野国の東西の双璧ともいえる城で、金山城の由良氏と箕輪城の長野氏は、ともに広域にわたる城団を組織し、戦国時代における上野の歴史の中心舞台となった。近藤義雄氏は1920年群馬県生まれ、群馬県師範学校を卒業し、1953から1980年まで群馬県教育委員会に勤務した。その後、群馬県文化財保護審議会会長、群馬県史編さん委員等を経て、1998から2006年まで元かみつけの里博物館長、2006年に高崎市文化財調査委員を務めた。箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城で、国の史跡に指定されている日本100名城の一つである。榛名白川によって削られた河岸段丘に、梯郭式に曲輪が配された平山城で、城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500m、南北約1,100m、面積約47haにおよぶ広大なものであったが、現在にのこる遺構は石垣・土塁・空堀跡が認められる。東西相並ぶ二つの城跡が、一方の金山城跡は早くに国指定史跡となっているのに、箕輪城は1984年にようやく県指定史跡になったばかりである。二城の差は、金山城が新田氏関係の城として皇国史観の時代から早くも注目されてきたが、箕輪城は戦国時代においては金山城以上に重要な意味をもつ城であったにもかかわらず遅れてしまった。遅れた原因は、箕輪城と長野氏に関する基本資料がほとんどないということもあった。箕輪城は、1512年に戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚=なりひさによって築かれた。1526年に業尚の子の信業=のぶなりによって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。戦国時代の上野国は、東上州は新田氏一族の流れ、また西上州は中世以来、分立した武士団が各地にあって統一は容易ではなかった。高崎地域は和田氏、倉賀野氏、碓氷郡地域は安中氏を始め、松井田氏、北群馬地域は長尾氏などの武士団があり、上野国府も長尾氏が支配していた。それらの中にあって長野氏も国府の西方、長野郷の地に土着し、榛名山の東方を中心に居住していた。長野氏は、古代上野国府の役人として国府内に居住していた一族で、中世後期には長野の地に土着して在地名を名乗るようになった。長野郷は古代の東山道が通り、都人が上野国府へ来る通路であった。戦国時代を迎えると、平地の長野地域では戦略的に不安となり、要害の地を選んで築城することになった。そして、榛名山麓に鷹留城が造られたが、鷹留城は小山の上に造られたので日常生活が何かと不便であったため、山城から丘城へと移動したのが箕輪城であった。箕輪城は小高い丘に築かれた平山城で、西は白川、南は湿地に囲まれた天然の要害である。上には本丸、御前曲輪、二の丸、三ノ丸が深い堀に囲まれ、さらに外堀を巡らしていた。また、周辺には支城が各地に造られ、榛名山東麓一帯が箕輪城団となった。戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、1558年に上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎が、侵攻を繰り返す場であった。このようななかで信業の子長野業正=なりまさは、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、名君と謳われて長野氏全盛時代を築いた。業正の代には武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。1561年11月に業正が没すると、14歳(17歳説あり)で子の業盛=なりもりが家督を継いだ。業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始し、近隣の城を落とし調略を仕掛けて寝返らせた。1565年頃に箕輪城は孤立し、翌年に武田軍が箕輪城へ総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たず、9月下旬に遂に落城し、業盛は自刃して果てた。長野氏時代は、業尚、憲業=のりなり、業政=なりまさ、業盛の4代が箕輪城を本拠にしていたと考えられている。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種が城代に任じられた。1570年頃に内藤昌豊が城代となり、1575年に長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。1582年2月の天目山の戦いで武田氏が滅亡し、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し、箕輪城を接収し厩橋城に入った。内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っていたが、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。北条氏は神流川の戦いで一益を破り、内藤昌月はこれに下り北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。1590年に豊臣秀吉の小田原征伐の際に、箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、1598年に高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。本書は、昭和60年に上毛新聞社より刊行した同名書籍を戎光祥出版の求めに応え、再び世に問うたものである。掲載写真や地図図版の類についても、新撮や新収録で旧版とは面目を一新させた。軍記物や伝承など以外に、新史料の発見がほとんどなく決定しかねる問題ばかりであった。築城の年代、長野氏の出自や行動をはっきり示してくれるものはなく、多分に想像・推定する以外になかったという。
第1章 戦国時代の上野国/第2章 長野氏のおいたち/第3章 長野氏の城館と経済的基盤/第4章 成長する長野氏と業政の登場/第5章 長野業政を支えた”長野軍団”/第6章 箕輪城の攻防戦/第7章 長野氏が信仰した神社・寺院/第8章 箕輪城の変遷/略年表
14.令和元年11月2日
“新貿易立国論”(2018年5月 文藝春秋社刊 大泉 啓一郎著)は、もはや輸出大国ではなくなった日本についてグローバルな視点で現実を直視し日本経済復活のための新たなモデルを示そうとしている。
かつての日本は、加工貿易を得意としてきた。加工貿易は、原材料や半製品を他国から輸入し、それを加工してできた製品や半製品を輸出する貿易の形である。戦後の日本は、貿易立国を合言葉に経済発展を遂げてきた。貿易立国は、資源の乏しい国が外国から原油・鉱石等の鉱産物、また原材料の類を輸入して国内で加工し、製品を輸出して得た利益で国の経済を維持することである。日本はついには、アジアで真っ先に先進国入りを果たしたが。いま発展の原動力となった輸出が不振である。大泉啓一郎氏は1963年大阪生まれ、1986年に京都府立大学農学部を卒業し、1988年に京都大学大学院農学研究科修士課程を修了した。その後、東レ・ダウコーニングに就職し、1990に三井銀総合研究所、現・日本総合研究所に入所し、2012年に京都大学博士(地域研究)となった。現在、日本総合研究所調査部環太平洋戦略研究センター主任研究員、法政大学経済学部非常勤講師、JICA社会保障課題別支援委員会委員を務めている。アジアの人口変化と経済発展、アジアの都市化を巡る経済社会問題、アジアの経済統合・イノベーションなどの調査・研究に取り組んでいる。日本は、これまでリードしてきた工業製品の優位性が揺らぎ、かつては世界の10%ちかくを占めてきた日本の貿易シェアは低下する一方である。貿易立国というこの国のかたちが、危機に瀕している。経済のグローバル化、技術のデジタル化という、かつてとは大きく異なる環境を背景に、新興国・途上国が台頭し、日本を含めた先進国の地位が低下している。貿易立国と呼ばれる代表的な国は、その国の輸出依存度を見ることで把握することができる。この依存度は国民ひとりあたりの国内総生産または国民所得に対する輸出入額の比率のことを指す。輸出依存型経済は、自国の市場だけですべての産業を自給自足的に成立させることが難しく、国外市場への輸出や国外供給地からの輸入に頼らざるを得ない経済状況である。一般的に国内総生産が小さい国であるほど、輸出依存度が大きいといわれている。この観点から、現在、貿易立国と呼ばれる代表的な国は、輸出依存度66%のオランダ、58.8%の台湾、57.8%のアイルランド、45.7%のスイス、43.9%の韓国などである。これに対して、日本の輸出依存度は15.2%となっており、実際には内需依存型の経済である。内需依存型経済は、自国の市場の中で産業を自給自足できる経済状況をいい、日本では、高度成長期時代に内需依存型経済の代表的な傾向が見られた。1980年代に米国との貿易摩擦が起こり、1980年代半ばから輸出依存度が低くなっているが、1980年代前半も輸出依存度は15%を下回っていた。日本は、もともと輸出依存型ではなく、内需依存型の構造になっていたのである。しばしば日本は貿易立国と言われるが、実際は世界的に見ると輸出依存型ではなく、長期にわたり内需依存型の経済を維持してきた。しかし、1980年以降の日本人の消費性の傾向は年々変化し、国内市場のみを意識して産業を発展させていくことは難しい状況である。かつて、人口規模では世界の3%に満たない日本が、1980年代半ばには世界貿易の輸出シェアが10%台に迫っていた。工業製品に限れば約15%であった。しかし、2016年度には4%にまで低下している。貿易収支は2011年には、東日本大震災の影響もあって、31年ぶりに赤字に転落した。現在は黒字を回復したが、黒字幅は震災前の半分程度である。また、自動車を中心とする輸送機器や生産機械などの一般機器、電気機器、化学品の黒字がいずれも縮小傾向にある。米国の輸入全体における日本のシェアは、1986年の22%から30年後の2016年には6%まで縮小している。1985年から1992年までは米国最大の輸入国は日本であったが、2016年では、中国、メキシコ、カナダに次ぐ第4位となっている。日本製品の競争力低下の原因は、経済のグローバル化を背景にした中国などの新興国、途上国の台頭である。中国の対米輸出額は2016年で4820億ドルと、日本の3倍以上であり、貿易黒字も3660億ドルで5倍以上となっている。長期的なトレンドで、中国向け輸出の主力である中間財や資本財が減少している。中国の技術水準が高まり、日本からの輸入に頼っていたのが、中国国内で生産することが可能になったのであろう。自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)、米国を除く環太平洋経済連携協定(TPP)参加11カ国の新協定TPP11などの、関税の撤廃や規制緩和は、もはや特効薬にはならない。スマートフォンやパソコン、液晶パネルや半導体などの電子電機部門は、韓国や台湾に圧倒されている。新興国では、デジタル技術を活用したビジネスが次々に立ち上がりつつある。したがって、日本製品の技術力は高くブランド力もあり、関税引き下げで価格競争力が高まれば、貿易大国に復活できるとは言えなくなっている。購買力の平価ベースのGDPでは、新興国・途上国の経済規模はすでに先進国を追い越している。アジア開発銀行は、世界におけるアジアのシェアは、2010年の27%から2050年には52%にまで上昇するという見通しを示している。地理的な場所にこだわらず、日本の生産力を生かすメイド・バイ・ジャパンを追求する時期にきている。日本が復活するためにはどうすればいいのか。著者は、成長トレンドにあって、日本国内の工業地帯に匹敵するほど大きな、日本企業の集積地があるASEANとの連携を提唱する。その上で、国内で開発・生産するメイド・イン・ジャパン戦略と、新興国・途上国へ生産拠点を移すメイド・バイ・ジャパン戦略の使い分けを説く。私たちの目は先進国との競争に向きがちであるが、いま求められているのはライバルであり、パートナーでもある新興国・途上国の潜在力を客観的に評価し、新しい事業モデルを検討することである。日本が貿易立国であり続けるためには、新興国・途上国経済の台頭のダイナミズムを理解し、対応することが重要である。序章では、日本は輸出を梃子にアジアで真っ先に先進国入りを果たし、貿易立国を成し遂げたが、その輸出が1990年代以降振るわず、日本はもはや貿易大国ではなく黄昏を迎えているようにみえると言う。第1章では、世界貿易において日本のプレゼンスが低ドしていることを確認する。第2章では、新興国・途上国経済か台頭してきた背景や特徴について考察する。第3章では、新興国・途上国経済か台頭する時代において、ASEANと日本の関係も急速に変化していことを指摘する。第4章では、ASEANから中国やインドなどの新興国を狙うというメイド・バイ・ジャパン幟略を検討する。第5章では、中長期的なASEANとの連携強化の方向性を、ともに成長するをキーワードに検討する。第6章では、拡大する富裕層をターゲットにして、日本の輸出拡大を狙うメイド・イン・ジャパン戦略を検討する。第7章では、日本の競争力を高めるための視点を提示する。
序章 貿易立国の復活に向けて/第1章 変わる日本の立ち位置/第2章 新興国・途上国の台頭/第3章 「アジアと日本」から「アジアのなかの日本」へ/第4章 ASEANから新興国・途上国を開拓するーメイド・バイ・ジャパン戦略/第5章 新興国・途上国とともに成長する/第6章 日本から富裕層マーケットに切り込むーメイド・イン・ジャパン戦略/第7章 日本の競争力をいかに高めるか
15.11月9日
”聖徳太子の寺を歩く-太子ゆかりの三十三カ寺めぐり”(2007年9月 JTBパブリッシング刊 林 豊著 南谷恵敬監修)は、聖徳太子の救世観音化身伝承に因み、33カ寺を中心にその他の太子開基の縁起を持つ主な寺院を含め50カ寺を紹介している。
聖徳太子ゆかりの寺を網羅し、それぞれの概要、歴史、伝説、収蔵文化財ガイドである。聖徳太子は574年生まれで、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女である。別に厩戸皇子、厩戸王とも呼ばれ、聖徳太子という呼称は後世の諡号である。推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行った。遣隋使を派遣して進んだ中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。他に、仏教や儒教を取り入れ、神道とともに信仰し興隆につとめた。著者の林 豊氏は1939年大阪市生まれ、関西大学を卒業し、大阪府職員を経て、編集デザイン会社代表を務めている。刊行時現在、ルポライターとして雑誌、地方紙、企業PR誌等に執筆し、民族芸術学会会員、旅行ペンクラブ会友である。監修者の南谷恵敬氏は1953年大阪市生まれ、大阪大学文学研究科博士課程を修了し、刊行時現在、四天王寺国際仏教大学教授、四天王寺執事を務めている。写真家の沖 宏治 氏は1938年広島県生まれ、関西大学を卒業し、貿易商社在職中に写真家を志して退職し、若狭成价、田中幸太郎両氏に師事して国画会等に出品してきた。刊行時現在、写真工房UNISONを主宰し、書籍、雑誌、官公庁パンフレット、企業PR誌等の写真を担当している。聖徳太子は厩戸前で生まれたので厩戸=うまやどと命名されたとの伝説がある。また、母が実母・蘇我小姉君の実家であるおじの蘇我馬子の家で生まれたので、馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。さらに、豊聡耳=とよさとみみ、上宮王=かみつみやおうとの別名も有り、法起寺塔露盤銘には上宮太子聖徳皇、『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸(豊聡耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。聖徳太子という名称は、死没129年後の751年に編纂された『懐風藻』が初出と言われている。日本の歴史上の人物の中で、聖徳太子ほど様々なイメージをもって語られる人物はいないのではないだろうか。太子の一生は、『日本書紀』に既にみられるように、かなり古い時期から伝説的に語られ、その後、平安時代の中期に編纂された『聖徳太子伝暦』で集大成されるまで、多くの伝記が存在した。『伝暦』では、その跋文に語られるとおり、太子の事績には歴史的事実と超人的な伝説が混在し、それらをひっくるめて太子の真実だとする態度が示される。つまり、平安時代には既に太子は崇められるべき超人的存在として認識されていたのである。太子の誕生は、今日では敏達天皇3年(574)とされる。父は橘豊日皇子(後の用明天皇)、母は穴穂部間人皇女で、伝説では同年1月1日、厩の前でご誕生になられたとされる。誕生地は橘寺とされているが、これは仏祖釈尊の誕生の事績になぞらえた説話と考えられ、このような仏伝の影響は、太子の様々な事績で顕著である。太子を「和国の教主」と信仰する上での仏伝の投影と考えてよいだろう。同じことは2歳「南無仏と称す」にもいえる。これも釈尊の誕生時の「天上天下唯我独尊」の獅子吼になぞらえた説話であろう。特に幼少時の事績ではこういう傾向が強く、太子の凡人とはかけ離れた能力を強調したり、幼いころから仏教に帰依された姿が伝えられる。3歳「桃花より青松を賞す」、4歳「進んで父君の笞を受く」、5歳「文章を読破する」など、太子の聡明さ、素直さを強調している。7歳「六斎日(殺生を禁断する日)を設ける」、12歳「日羅との出会い」、13歳「弥勒石像の渡来、三尼の出家」などは仏教との機縁を示す説話である。青年期の太子は、父君用明天皇の病とその崩御という悲しい出来事があり、その折も太子は寝食を忘れ看病された。その姿は、後世孝養太子像として多くの寺院で製作され、礼拝されることになった。用明天皇崩御の後、14歳「物部守屋との合戦」で正式な史料『日本書紀』に登場する。このとき、後に政権を支える蘇我馬子と協同歩調をとられるのであるが、その背景には仏教という大陸伝来の新宗教の受容という大きな目的の一致があった。その後、崇峻天皇が即位したが、馬子が権力を強め、ついには馬子が崇峻帝を暗殺するという事件が起きて、政治の混乱が続くことになった。崇峻天皇の後を継いだのは、敏達天皇の皇后であり、蘇我氏の血を引く太子の叔母でもあった女帝の推古天皇であった。天皇は即位と同時に聖徳太子を摂政に任命し、すべての政治をまかされ、ここから太子の華々しい政治改革が始まった。まず「三宝興隆の詔」を発し、仏教を正式に受容して、朝儀の整備を実行して国家としての体制を整えた。その後の「冠位十二階の制定」、「十七条憲法の発布」、「遣隋使の派遣」等々、着々と国家体制の確立に努めた。太子は49歳の折、病を得てついにその生涯を閉じた。同じ時、最愛の妃であった膳大郎女=かしわでのおおいらつめも逝去したという。その後、太子の一族は、蘇我蝦夷・入鹿によって全員亡ぼされ、太子の血統は絶えることとなった。これが、後世の人々にとって、太子の偉大な業績に比して、そのあまりにも悲劇的である運命をより際立たせることになったことはいうまでもない。太子にまつわる多くの伝説や奇譚が伝えられており、本書で紹介される寺院にはそれぞれに特有の太子伝説が存在する。本書は『四天王寺誌』1997年1月 ~2001年7月に掲載された「太子の寺」を加筆訂正のうえまとめたものである。
聖徳太子の寺:橘寺ー聖徳太子誕生/向原寺・石川精舎跡ー仏教の伝来/西琳寺ー牟原の後宮/鶴林寺ー法師かえり/道明寺ー仏法の広まり/大聖勝軍寺ー蘇我・物部の決戦/野中寺ー船氏の里/飛鳥寺ー馬子の寺/金剛寺ー名工止利仏師/四天王寺ー日本最初の官寺/勝鬘院〔愛染堂〕-四箇院の設置/瓦屋寺ー四天王寺の瓦/西教寺ー太子の師/法隆寺ー斑鳩の太子/久米寺ー太子の弟/広隆寺ー秦氏の寺/斑鳩寺ーもう一つの斑鳩/頂法寺〔六角堂〕-日出ずる国の使者/達磨寺ー片岡の飢人/平隆寺ー鹿の菩提寺/額安寺ー熊凝の道場/大安寺ー大官大寺/中宮寺ー母の死/叡福寺ー太子の旅立ち/西方院ー太子の乳母/法輪寺ー山背大兄王の選択/世尊寺ー南海の香木/朝護孫子寺ー信貴山の毘沙門天/中山寺ー石の唐櫃/百済寺ー百済僧の寺/長命寺ー修多羅の山/石馬寺ー石になった馬
その他の聖徳太子ゆかりの寺:長福寺・成福寺跡・大福寺・百済寺・定林寺跡・神童寺・乙訓寺・法観寺(八坂塔)・芦浦 観音寺・長光寺・願成就寺・観音正寺・蓮華 寺・浄土寺・法安寺・香園寺・営麻寺
聖徳太子関連年表/主要人物略記/聖徳太子関係系図/掲載寺院の拝観時間、拝観詳細一覧
16.11月16日
”半藤一利 橋をつくる人 (のこす言葉KOKORO BOOKLET)”(2019年5月 平凡社刊 半藤 一利著)は、いま89歳であるがまだまだやる気まんまんの昭和史の第一人者が語る波瀾の生涯と痛快人生を紹介している。
平凡社の「のこす言葉」シリーズに、ベストセラー『昭和史』で著名な作家、半藤一利氏が登場した。伝えておかねばならない戦争の時代として、平成から令和に変わったいまこそ、昭和史は伝えておかねばならない歴史である。半藤一利氏は1930年東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し、文藝春秋社に入社し、週刊文春、文藝春秋編集長、取締役などを経て作家となった。先祖は長岡藩士で、東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区に生まれた。実父は運送業と区議をつとめ、近所に幼少期の王貞治が住んでいて顔見知りだった。東京府立第七中学校に入学し、1945年3月の東京大空襲では逃げまどい、中川を漂流し死にかける体験をした。茨城県の県立下妻中学校を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎え、卒業後に東京へ戻った。浦和高等学校 (旧制)を学制改革のため1年間で修了し、東京大学へ進学した。大学ではボート部で活躍した。東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、1953年に文藝春秋新社に入社した。流行作家の坂口安吾の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、冗談めかして坂口に弟子入りしたと称している。続けて軍事記者の伊藤正徳の担当となり、日本中の戦争体験者の取材に奔走し、週刊文春に無署名で人物太平洋戦争を連載した。社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催した。半藤は座談会の司会も務め、さらに取材して1965年に単行本『日本のいちばん長い日--運命の八月十五日』を執筆した。売るための営業上の都合から大宅壮一の名前を借りて大宅壮一編集として出版された。単行本は20万部、角川文庫化されて25万部が売れた。この他にも30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出した。その後、漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋の編集長になった。ムック「目で見る太平洋シリーズ」「日本の作家百人」「日本縦断・万葉の城」を手掛けた。次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執った。1977年4月に、文藝春秋編集長の田中健五と入れ替わる形で、田中が週刊文春編集長に、半藤が文藝春秋編集長に就任した。1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となったが、2年後に第9号で休刊した。この間の編集長時代の13年ほどは、本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていた。1993年に、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞を受賞した。出版責任者として、書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の『「文芸春秋」にみる昭和史』を監修した。専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身した。近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、歴史探偵を自称している。1998年に『ノモンハンの夏』で山本七平賞、2006年に、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞した。2009年に語り下ろしで出版された『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』は単行本で45万部、平凡社ライブラリーでは23万部の売れ行きを示した。2015年に、第63回菊池寛賞を受賞した。妻の半藤末利子は、作家の父・松岡譲と夏目漱石の長女の母・筆子夫妻の四女で、漱石周辺に関する随筆を多く執筆している。夏目漱石は義祖父、松岡譲は岳父である。夏目漱石が大正5年8月24日、芥川龍之介と久米正雄に宛てた長い手紙で、文壇や世間の評判を考えるのでなく、人間そのものを根気よくただ一筋に押し続けるのであって、パッと出た火花のような一瞬のものは後には残らないと書いている。同じようなことを、兼好法師が『徒然草』で、「されば、一生のうち、むねとあら圭ほしからむことの中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし」と書いており、松尾芭蕉も『笈の小文』で、「ついに無能無芸にして只此一筋に繋がる」と書いている。これは、と思う三人の先人が、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですと同じことを言っている。あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものにならない。ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでが難しい。自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを10年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれる。何でもいい、それが著者の場合は「昭和史」だったという。改めて1から昭和の歴史に取り組んでよかったのは、自分のなかでわからなかったこと、つまりどうしてここでこうなっちゃうのかな、というところが理解できたことである。昭和史という一つの流れを、大づかみだけれど丁寧に辿っていったことは、ものすごく勉強になったという。よく「歴史に学べ」というが、「歴史を学べ」のほうが今の日本人には正しいと思う。まずは知ること、そうして歴史を学んでいれば、あるとき突然、目が開ける。今は戦前と違って、いくらでも各国の人の交流があり、悲惨な戦争体験の人たちが元気なうちまだ大丈夫であるが、その先のことは、少し下の世代、さらに若い人たちの双肩にかかっている。そのためにも、今を生きる人と昭和史のあいだに橋を架ける仕事をしなければならない。自分の人生を漢字一字にたとえるとすると「漕」であり、艇だけじゃなく昭和史も漕ぎつづけてきた。ゴールはなくても、飽きずに一所懸命に漕いできた。「続ける」ということ、決して諦めず、牛のようにうんうん押していくことである。
遊びつくした子ども時代/大空襲と雪中鍛練/ボートにかけた青春/「昭和史」と出会った編集者時代
/遅咲きの物書き、「歴史の語り部」となる/「のこす言葉」(直筆メッセージ)
人間八十歳を超えると「一期一会」を日々意識する。人の生命には「果て」あり、つまり「涯」である。中国の『荘子』にいわく。「生に涯あり、されど知に涯なし」。八十九爺はそれで頑張っている。されば諸兄よ、奮闘努力せよ。
17.11月23日
”徳川斉昭 ー 不確実な時代に生きて”(2019年6月 山川出版社刊 永井 博著)は、幕末の水戸藩主で徳川慶喜の父として知られ維新後の評価も毀誉褒貶が顕著な徳川斉昭の生涯を追いながら新出史料も交えつつ全体像を描き新たな視点も加えて紹介している。
徳川斉昭は第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれ、母は公家日野家一門の外山氏、名は虎三郎、敬三郎であった。初めは父・治紀より偏諱を受けて紀教=としのり、藩主就任後は第11代将軍徳川家斉より偏諱を受けて斉昭と名乗った。幕末の重要人物でありながらこれまで評伝がなく、ドラマ、小説等では、頑迷固陋な攘夷主義者という一面的な取り上げ方がされてきた。しかし、実は現実的には攘夷は不可能であると認めており、開国も是認していたが、その交易和親の実現は年若い松平慶永に託したという。永井 博氏は1958年生まれ、1983年に國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程前期を修了した。1997年から茨城県立歴史館に勤務、管理部教育普及課主任研究員、史料部歴史資料室首席研究員、学芸部学芸第二室首席研究員、史料学芸部学芸課長・部長を歴任した。2007年から常磐大学非常勤講師(歴史学)を務め、2019年現在、常磐大学非常勤講師(博物館学)を務めている。斉昭は江戸時代後期の親藩大名で、常陸水戸藩の第9代藩主、江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。もはや老いた自分は世間から期待されている以上、一生、攘夷之巨魁を演じ続けるつもりである、と述べたことがある。慶永は松平春嶽として知られ、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家である。越前国福井藩16代藩主で、春嶽は号で、諱は慶永である。田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男で松平斉善の養子、将軍・徳川家慶の従弟であり、英邁な藩主で幕末四賢侯の一人と謳われいた。慶永は慶喜の将軍擁立運動を繰り広げた一橋派の中心人物で、徳川一族として斉昭とも親しい間柄であった。斉昭は1800年3月11日に水戸藩江戸小石川藩邸で生まれ、治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学び、聡明さを示した。治紀には成長した男子が4人いて、長兄の斉脩は次代藩主であり、次兄の松平頼恕は1815年に高松藩松平家に養子に、弟・松平頼?は1807年に宍戸藩松平家に養子に、と早くに行く先が決まったが、三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残された。生前の治紀から、他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない、と言われたという。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがあるからである。1829年に第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となり、大名昇進を画策する附家老の中山信守を中心とした門閥派より、第11代将軍・徳川家斉の第20子で斉脩正室・峰姫の弟である恒之丞を養子に迎える動きがあった。学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を継いだ。1832年に有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚し、藩政では藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い、藩政改革を実施した。斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる。全領検地、藩士の土着、藩校弘道館および郷校建設、江戸定府制の廃止などを行った。また、大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。その影響力は幕府のみならず全国に及んだ。またこれにより、水戸、紀州、尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞する。宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した。1844年に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられた。その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって、1846年に謹慎を解除され、1849年に藩政関与が許された。1853年6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している。また、江戸の石川島で洋式軍艦を建造し、幕府に献上した。1855年に軍制改革参与に任じられるが、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もあった。1857年に阿部正弘が死去して堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立した。さらに第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼らに対して、実子である一橋慶喜を擁して一橋派を形成して直弼と争った。しかしこの政争で斉昭は敗れ、1858年に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福=家茂を第14代将軍とした。このため、1858年6月に将軍継嗣問題と条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、1859年には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となった。そして、1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で享年61歳で急逝した。幕末は未来が予測しづらい不確実な時代であった。そのなかにあって斉昭は、前例のない改革に挑戦し続けた。その最終目的な、欧米に対抗しうる強い国家を実現することであり、そのためのスローガンが尊王攘夷であった。まず、わが国の歴史的背景に裏づけられた、天皇を中心とした政治体制を確認する尊王があり、ついで対外的な緊張感を高めることにより、天皇を中心とした国民の統合を強靭なものにして、改革を推進する体制をつくる攘夷がある。もともと別個の概念であった「尊王」と「攘夷」は、斉昭のもとで初めて一連のスローガンとなり、強力な藩、さらには国家づくりの指針となり、斉昭の行動理念となった。こうした政治的行動をひとまず置いて、徳川斉昭という人物全体を何をどう評価すべきでであろうか。ペリー来航以後の、とくに幕政とのかかわりという側面については、すでに多くの著作のなかで触れられてきているにもかかわらず、その生涯を追った伝記はほとんどない。全体像へのアプローチが難しい状況である。そうしたなかで、斉昭の全体像
の一端だけでも広く一般に紹介したい、それが本書述作の目的である。
第1部 水戸藩主徳川斉昭(第1章 松平敬三郎紀教ー「潜龍時代」/第2章 藩政改革)/第2部 「副将軍」徳川斉昭(第1章 斉昭の処分と再登場/第2章 幕政参与と安政の大獄)/余話 「家庭人」としての斉昭
18.11月30日
”『蝶々夫人』と日露戦争 大山久子の知られざる生涯”(2018年2月 中央公論新社刊 萩谷 由喜子著)は、世界的な大ヒット・オペラ『蝶々夫人』誕生に深く関わった大山久子の生涯を紹介している。
大山久子は『蝶々夫人』のモデルだったわけではなく、『蝶々夫人』のオペラの主人公だったわけでもない。夫の大山綱介の海外赴任に同行してジャコモ・プッチーニと知り合い、プッチーニに直接日本の音楽を教えた人物である。綱介はロシアとの開戦直前に、二隻の軍艦の争奪戦に死力をつくした人物である。そこには鈴木貫太郎、高橋是清、さらには堀口大学の父親や三浦環などの歴史的人物も次々と登場する。開戦直後に二隻の軍艦はイタリアから横須賀に到着した。その翌日にミラノ・スカラ座で初演されたオペラ『蝶々夫人』は失敗であったが、数か月後の再演は大成功であった。萩谷由喜子氏は東京都文京区生まれの音楽評論家、ジャーナリストで、女性音楽家を中心に音楽史を研究している。幼時よりピアノ、日本舞踊、長唄、筝曲の稽古に通い、立教大学で西洋音楽史を学び、卒業後音楽教室を主宰している。音楽評論を志鳥栄八郎に師事し、中国のFMラジオ、クラシック音楽番組の放送原稿執筆を機に本格的に音楽評論の道に入った。日本三曲協会会員、山田流協会会員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員である。『蝶々夫人』はマダム・バタフライとも言われる。アメリカの弁護士ジョン・ルーサー・ロングの短編小説をもとに制作された、アメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコの同名の戯曲である。ロングはアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士で、作品は1898年にセンチュリー・マガジン1月号に発表された。プッチーニ作曲の同名のオペラは、この2作品をもとに制作されたものである。オペラは2幕もので、プッチーニ作曲の「西部の娘」「トゥーランドット」の二作と合わせたご当地三部作の、最初の作品である。長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いている。1904年2月17日にミラノのスカラ座で初演されるも失敗であったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版は成功し、以来、標準的なレパートリー作品となっている。色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びた。 その後「ラ・ボエーム」「トスカ」と次々と傑作を生み出した。「蝶々夫人」は、プッチー二が音楽家として脂の乗り切った時期であった。「トスカ」を発表してから次のオペラの題材を探していたが、1900年にロンドンで、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇した。英語で上演されていたため詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。同年にプッチーニはミラノに戻ると、イルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始された。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手した。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集めた。日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励み、当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。1902年にはプッチーニは、パリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われている。1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負った。春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされたが、プッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日に脱稿した。現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっている「蝶々夫人」だが、1904年2月17日ミラノ、スカラ座での初演はプッチーニの熱意にもかかわらず振るわなかった。初演で蝶々夫人を演じたロジーナ・ストルキオは、拍手ひとつなく舞台裏で泣き崩れた。プッチーニは同作の成功を誓い、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じたという。落胆したプッチーニだったが、すぐさま改稿に取りかかった。改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ大成功を収めた。その後、ロンドン、パリ公演と、プッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっている。日露戦争は、1904年2月8日から1905年9月5日にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となった。日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられ、最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を全面的に承認されたほか、ロシア領であった樺太の南半分を割譲され、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を移譲された。同様に、東清鉄道の旅順・長春間支線の租借権も譲渡された。大山久子は、旧長州藩士で明治政府の官僚となる野村素介の娘だった。東京女子師範学校付属高等女学校に学び、そこで幸田露伴の妹で、日本の西洋音楽受容を牽引したピアニスト兼音楽教授の延と親交を結んだ。夫は旧薩摩藩出身の外交官・大山綱介で、夫の海外赴任に同行しプッチーニと知り合った久子は、世界的な大ヒット・オペラ『蝶々夫人』誕生に深く関わることになった。一方、日露戦争で日本勝利の一因となる二隻の軍艦『日進』『春日』はイタリア製であり、アルゼンチンが発注したものだったが、その日本転売にあたっては久子の夫綱介の功績が大きかった。西洋音楽と日本人の関わりがエピソード豊かに描かれる一方、世界の中で徐々に存在感を高めていく近代日本の姿が、大山綱介・久子夫妻の生涯から浮かび上がる。
第1章 野村久子と大山綱介/第2章 軍艦/第3章 オペラ『蝶々夫人』ができるまで/第4章 軍艦争奪戦の英雄たち/第5章 日露戦争/第6章 三浦環の『蝶々夫人』への道/第7章 久子の後半生
19.12月7日
“カルピスをつくった男 三島海雲”(2018年6月 小学館刊 山川 徹著)は、会社の売上げより国の豊かさと日本人の幸せをひたすら願った誰もが知る国民飲料カルピス社創業者の三島海雲の生涯を紹介している。
カルピスは乳酸菌飲料で、原液は非常に高濃度であるためそのままでの飲用は推奨されていない。水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とする。原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や日本軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われている。山川 徹氏は、1977年山形県上山市生まれのルポライター、ノンフィクション作家である。東北学院大学法学部、國學院大學文学部2部を卒業し、在学中より雑誌の編集に携わり、大学卒業後にフリーライター となった。2007、2008年には北西太平洋の調査捕鯨に同行し、捕鯨に携わる若者たちやラグビーなどの取材を続け、各誌に様々なルポルタージュを発表している。三島海雲は1878年に大阪府豊島郡下萱野村、現・箕面市萱野の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息として生まれた。13歳で得度し、本願寺文学寮、現在の龍谷大学を卒業後、英語教師として山口の開導教校に赴任した。しかし、その職を辞し、仏教大学、現在の龍谷大学に編入した、1902年に、日本語教師として清朝が統治する中国大陸に渡った。1905年に中国大陸、北京で教師として暮らしたあと、雑貨などを売買する行商会社を立ち上げた。馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売した。やがて日本陸軍から買い付けを依頼されたり、モンゴル王公から仕入れを頼まれたりして、中国とモンゴル高原を行き来して様々な事業を手がけるようになった。1908年に日本軍部から軍馬調達の指名を受け、内蒙古、現内モンゴル自治区に入り、ケシクテンでジンギスカンの末裔、鮑=ホウ一族の元に滞在した。そこで酸乳に出会い、体調を崩し瀕死の状態にあったが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたという。しかし、当初の目的であった緬羊事業に失敗し、辛亥革命を機に1912年に清朝が滅亡すると、中国大陸の状況が劇変した。1915年に日本に帰国し、心とからだの健康を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、製品開発に取り組んだ。1917年に、カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立した。発酵クリーム、脱脂乳に乳酸菌を加えた醍醐素、生きた乳酸菌が入ったキャラメルなどを開発し販売したが、ことごとく失敗した。帰国から4年後の1919年に、無一文になってしまった41歳のとき、試行錯誤を繰り返してモンゴル高原で親しんだ乳製品に着想をえたカルピスの開発に成功した。そして、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功し、7月7日にカルピスとして発売した。この時のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れのビンで、ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装だった。1922年に水玉模様の包装紙を巻いたものになり、カルピスのパッケージの水玉模様は、発売日の七夕に因んで天の川をイメージした。最初は青色地に白い無地玉で、1949年に色を逆にし、白地に青い水玉とした。仏塔の基壇に隨道を穿つという一風変わったデザインにはモデルがある。中国の北京市街から約50キロ北西の山峡に築かれた居庸関に建つ過街塔という史跡である。居庸関は、いまから約2500年以上も昔の春秋戦国時代、モンゴル高原に暮らす遊牧民族の侵略に備えて、燕という国が建設をはじめた要塞である。万里の長城と連結されて関所の役割を果たした居庸関は、交通と交易の要衝となり、蒙古と呼ばれたモンゴル高原と中国を結び、たくさんの人や物が往来した。過街塔は1343年に元朝の皇帝が建立した仏塔で、塔を載せたアーチ型の門は雲台と呼ばれる。雲台の隨道には、漢字、チベット文字、ウイグル文字、西夏文字、元朝の公用文字だったパスパ文字、サンスクリットの言語を記すためのランツア文字で、旅人の安全を祈願した経が刻まれている。それほど多様な言語や文化を持つ人々が、燧道を通り、モンゴル高原に向かったのである。明治時代に、三島海雲というひとりの日本人青年が居庸関を通り、モンゴル高原に向かった。三島は草原に生きる遊牧民から乳製品を振る舞われ、その体験が日本初の乳酸菌飲料カルピスを生んだ。三島について書かれた書物は、50年近く前に刊行された自伝がいくつかあるだけである。国立国会図書館などに足を運んでも、数十年前の古い資料が並ふものの、本格的にまとめられた評伝は見つからなかったという。知人に尋ねても誰も知らない、モンゴルに詳しい人はカルピスのルーツが、遊牧民が作る乳製品にあると知ってはいたものの、情報はそこまでだった。カルピスは誰もが知る飲料であるが、いまその産みの親である三島を知る人はほとんどいない。96年の生涯を生き抜いた三島は、過街塔を模した顕彰碑が建つ和田堀廟所に眠っている。創案者を慕うカルピス社のOBは、毎年7月7日に決まって墓参りをしたという。カルピスウォーターのペットボトルにも、発売当時の包装紙に採用された水玉模様のデザインが用いられている。七夕にちなんで、青地に白の水玉という天の川をイメージした図案が、戦後に白地に青といういまも使われているデザインに変わった。この包装は、宇宙の縮図である。天体には無数の星がある。丁度カルピスの水玉模様であって、遠方にある星は薄く、近くの星は白く強く光っている。そういう意味でもカルピスの今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものである。右から左下へ斜めにしてあるのは、天の川を形取ったのである。三島は、戦後すぐ富士山麓で見た、ちぎれ雲の間にあらわれた空の色に魅入られたという。その色といったら、実に何とも形容のつかない深みのある色をしていた。そこで三島は、天体の色をカルピスの包装箱に応用したのである。断雲の間の深さ極みなし 百光年のみとりたたえて。1923年に、ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号を変更した。国利民福は、企業は国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、そして幸せにしなければならないという三島が唱えた経営理念である。マーケティング活動にも優れ、サンスクリット語の仏教用語が語源の「カルピス」という特色ある商品名を考案し、「初恋の味」というキャッチフレーズを採用した。黒人マークは国際コンペで募集されたもので、また、関東大震災時に善意から無料でカルピスを配給したことも知名度向上に貢献した。三島の生涯の根底には仏教精神、仏教哲学があり、学生の頃より、国利民福という、国の利益と人々の利益としていた。三島は、会社の売上げより国の豊かさ、そして日本人の幸せをひたすら願った。いま、新自由主義がもたらした格差と分断が広がる社会で、社会や他者を顧みる余裕は奪われてしまったのではないか。何よりも三島が辿った道は、私たちが生きるいまにつながっている。
序章 カルピスが生まれた七月七日に
第一章 国家の運命とともに/一 仏像を焼き棄てた少年/二 学僧たちの青春/三 日本語教育の名の下に/四 山林王と蒙古王
第二章 草原の国へ /五 死出の旅路/六 遊牧民という生き方/七 別れの日
第三章 戦争と初恋/八 カルピス誕生と関東大震災/九 健康と広告の時代/十 焦土からの再生/十一 東京オリンピックを迎えて
第四章 最期の仕事/十二 仏教聖典を未来に/十三 父と子
終章 一〇〇年後へ/カルピスの里帰り/タイムカプセル
20.12月14日
”日本を救う未来の農業-イスラエルに学ぶICT農法”(2019年9月 筑摩書房刊 竹下 正哲著)は、日本の農業の国際競争力のなさを改善する上でいちばん参考になるのは今や農業大国となったイスラエルの最先端技術を駆使した農法を学べば日本の農業問題はほとんど解決できるという。
今大きな危機が迫りつつある。日本の農業が壊滅するかもしれないという危機だが、そのことに気づいている人は多くない。一般に農業問題というと、低い自給率、農家の減少、農家の高齢化、担い手不足、耕作放棄地の増大、農地の減少などが思い浮かぶが、実はこれらは大きな問題ではない。農業は変わるはずがない。なぜなら、農業とは5千年以上の歴史を持つ人類最古の産業だから。それは土を相手にする技術であり、土や自然が5千年前と変わらないのであれば、農業も変わるはずがない。いや、変わってはいけない。そう考える人も多いことだろう。しかし、農業もやはり変わらなければならない、と著者は考えている。しかも、ただ変わるだけではいけない。社会の変化と同じように、急速にドラスティックに変わらないといけない。なぜなら、そうしないと日本の農業は滅びてしまうからだ。本書では、日本農業に迫りつつある危機を解説するとともに、それを乗り越えるための手段を提案している。竹下正哲氏は1970年千葉県四街道市生まれ、北海道大学農学部、北海道大学大学院農学研究科で学び、2004年に博士号(農学)を取得した。1999年大学院在学中に冴桐 由のペンネームで第15回太宰治賞を受賞し、その後、民間シンクタンク、環境防災NPO、日本福祉大学講師などを経て、拓殖大学国際学部教授となった。日本唯一の文系の農業として知られる国際学部農業コースの立ち上げに尽力し、栽培の実践を重視した指導を行っている。かつて青年海外協力隊でアフリカに行ったことをきっかけに、世界中のフィールドを回り、海外の農業現場に精通している。2015年に初めてイスラエルを訪問し、衝撃を受けたという。農業は、私たちが生きていく上で必要不可欠な穀物や野菜といった食物を育てている。土を耕し、水を活用し、植物という自然の恵みを、気候や天候といった不確実な環境のなかで育む、高度な知識と技術と経験が求められてきた。そんな農業分野に、いまICTやロボット、AIなどを活用した次世代型の農業が登場し、注目を集めている。ICTとはInformation and Communication Technologyの略称で、情報伝達技術と訳され、ITとほぼ同義である。ICTでは情報・知識の共有に焦点を当てており、人と人、人とモノの情報伝達といったコミュニケーションがより強調されている。海外では、ITよりICTのほうが一般的である。農業に関しても、これから急速な変化が次々と起きていくことになる。まさに革命と呼べる激変が起きるだろう。でも、それはかつてなかったチャンスと捉えることもできる。たとえば農業AIロボットが登場してくれば、人間は単純労働から解放されることになる。もはや雑草取りで腰を痛めなくてもよくなるのだ。それだけでも、農業のイメージが変わるだろう。必然的に、まったく新しい形の農業になっていく。日本の農業はずっと鎖国を続けてきた。戦後70年間以上、国を閉ざし、海外の農業を決して見ようとしてこなかった。ひたすら国内だけを見る内向きの農業を展開してきた。それは世界との競争を放棄したことを意味しており、その結果、農業技術の進歩はストップしてしまった。実は日本の農業の生産効率は、1970年代からまるで向上していない。日本の農業は世界最高レベルと信じている人は多いことだろう。だが、それはもはや正しい認識とは言えない。確かに1980年代ぐらいまでは、日本農業は世界をリードしていたかもしれない。でも今は、農業後進国になっていると言わざるを得ない。というのも、日本が鎖国をして長い眠りについてしまっている間に、世界の農業は著しく進化してしまったからだ。センサーネットワーク、IoT、衛星画像、グラウトシステムを使った農業は、ヨーロッパ、アメリカ、イスラエルなどではもはや当たり前になっている。インドもそれに追いつきつつあり、中国もここ数年で海外の巨大企業を次々と買収することで、ハイテク農業を会社ごと吸収しつつある。それだけ世界の農業は熾烈な戦いを繰り広げている。日本は植物工場という独自の路線を2000年代に展開しようとしたが、うまくいかなかった。補助金がなくなった途端に次々と倒産しているのが現実である。理由は、植物工場はコストが余りにかかりすぎ、採算をとることが難しいためだ。ヨーロッパやイスラエルには、より洗練された栽培システムがあって、しっかりと利益が上がる仕組みになっている。今の時代、あらゆる産業は世界を相手に戦うことを強いられている。確かに、このまま鎖国を続けていけるのならば、それもいいだろう。しかし、現実的には、鎖国をこれ以上続けることは難しい。もはやグローバル化の波は止めようがなく、それらは共通して、日本農業が世界に開かれることを強く要求してきているし、農業補助金を廃止することも求めてきている。これからは、たとえ日本の国内であっても、海外の農産物と戦っていかねばならない時代となってしまった。このまま指をくわえているだけだと、日本の農業は壊滅し、すべて海外に飲み込まれてしまう可能性が高い。そうならないためにも、日本の農業は変わらないといけない。生産効率が今の2倍、3倍になれば、すなわちlヘクタールあたりの収量が今の2倍、3倍になっていけば、その分価格を下げることができるようになってくる。価格が下がれば、世界と対等に戦うことができるようになる。元々味は世界一なので価格さえ適正範囲に入ってくれば、むしろ世界一強い農産物になることができる。すると、農業が滅びるどころか、世界トップクラスの農業大国になることもできる。アメリカやヨーロッパ諸国のように、工業と並んで、農業も主要な成長産業になれる。農業が、日本の経済成長を引っ張ることだってできるかもしれない。すべては栽培法の改善にかかっている。そしてその栽培法は、今後10年の間に、テクノロジーの進化に合わせて急激に変わっていくと見込まれている。そのとき、イスラエルという国の農業が、大いに参考になると考えている。ほとんど雨が降らないイスラエルが有数の農業輸出国になっている。イスラエル農業の根幹を支えるのはドリップ灌漑で、農地に小さな穴が等間隔に開けられたチューブが張り巡らされ、穴からポタポタと点滴のように水を出して植物に水をやるシステムである。与えられた水がどれだけ作物に吸収されたかを示す水利用効率でいうと85~95%である。日本の灌漑の多くは、水田のように一気に水を流し込むのが一般的だが、これでの水利用効率は40~60%にすぎない。このドリップ灌漑は、イスラエルの不利な降雨条件と土壌の問題を一気に解決するだけでなく、クラウド農業やAI農業の基盤となる技術である。イスラエルが通ってきた道は、日本がこれから歩まねばならない道を先導してくれているように見えるという。
第1章 日本に迫りつつある危機/第2章 すべてを解決する新しい農業の形/第3章 最先端ICT農業とは―イスラエル式農業/第4章 イスラエル式農業の日本への応用実験/第5章 近未来の農業の形
21.12月21日
”戦国大名・伊勢宗瑞”(2019年8月 KADOKAWA刊 黒田 基樹著)は、北条早雲の名で知られる北条氏の初代・伊勢宗瑞についての近年の新史料の発見による人物像を紹介し新しい政治権力となった戦国大名の構築過程を明らかにしている。
伊勢宗瑞は俗称を北条早雲といい、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名である。北条氏の始祖として知られているが、その出自など多くがなぞにつつまれていた。一介の素浪人が妹または姉の嫁ぎ先の今川家を頼って駿河に下向し、そこで出世してさらには関東に進出するという、立身出世物語として描かれることが多かった。黒田基樹氏は1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修を卒業した。1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)単位取得満期退学、1999年に駒澤大博士 (日本史学)号を取得した。2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり現在に至っている。歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めている。あたかも今年は、宗瑞が死去してから500年という記念すべき年にあたっている。北条家の本拠であった神奈川県小田原市では、「北条早雲公顕彰五百年」として、宗瑞の事績を偲ぶ様々なイベントが企画されている。本書は、伊勢早雲庵宗瑞についての、最新の研究成果をもとにした、初めての本格的な評伝書としようとしている。伊勢宗瑞は江戸時代からつい近年まで、北条早雲の名で知られてきた。そこでは、戦国大名の魁、下剋上の典型、大器晩成の典型などと評価されてきた。しかしながらここ30年における研究は、そうした人物像を大きく書き換えてきている。宗瑞に関する新たな史料が見いだされ、またその解釈についても深化がすすめられてきた。何よりも、宗瑞をとりまく、京都や東海、そして関東に関する政治状況についての解明が大きく進展し、それによって宗瑞の置かれていた状況や、行動の意味についての理解も著しく進展をみるものとなっている。北条早雲こと伊勢 宗瑞は、室町時代中後期、戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であり、戦国大名の嚆矢として活動した。諱は長らく長氏=ながうじまたは氏茂=うじしげ、氏盛=うじもりなどと伝えられてきたが、現在では盛時=もりときが定説となっている。通称は新九郎、号は早雲庵宗瑞、生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつある。伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはない。一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘、現井原市で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主であったことがほぼ確定した。近年の研究で、早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになっている。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に、盛定の所領の備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられている。身分の低い素浪人ではなく、井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。その縁で早雲の姉または妹の北川殿が義忠と結婚したと考えられている。北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている。文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸、後の今川氏親を生んだ。文明8年(1476年)に、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の合力と記されている。北川殿の弟または兄である早雲は駿河へ下り、双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させ、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者、長谷川政宣の小川城に身を寄せた。今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。文明11年(1479年)に、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。長享元年(1487年)に、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となった。早雲は伊豆との国境に近い興国寺城に所領を与えられて駿河へ留まり、今川氏の家臣となった、早雲は甥である氏親を補佐し、駿河守護代の地位にあったとも考えられている。この頃、早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘、南陽院殿と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれた。早雲が、11代将軍足利義澄の異母兄の堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。本書では、伊勢宗瑞の生涯について、当時の史料を中心にしながら、できるだけ詳しく取り上げている。宗瑞に関する史料は、その後の北条家歴代と比べれば、著しく少ない状況にある。あわせて、新史料が確認されることも、極めて稀な状況にある。しかしながら、宗瑞に関する史料がすべて、十分に検討されたものとなっているかといえば、そうとはいえない状況にあった。あらためて丹念に史料を検討してみると、これまで十分に解釈されていなかった事柄や、見過ごされてきた事柄が、いくつも存在していたという。現在の宗瑞像において大きな前提となっている事柄に、室町幕府の有力官僚の出身であったという出自の問題と、かつての通説よりも二回りも若かったという年齢の問題があろう。前者は戦後における宗瑞研究の蓄積による成果であるし、後者は著者が20年ほど前に提示したものである。そこから、宗瑞像は大きく転回するものとなったといって過言ではない。その後においても、宗瑞に関する研究はわずかずつではあるものの、堅実に進展をみるものとなっていた。この機会に、それらを集大成し、最新の宗瑞像をまとめておこう、というのが本書のねらいとなっている。
第一章 伊勢宗瑞の登場/第二章 伊豆経略の展開/第三章 伊豆国主になる/第四章 相模への進出/第五章 両上杉家への敵対へ/第六章 相模の領国化/第七章 政治改革の推進
22.12月28日
”アーネスト・サトウと倒幕の時代”(2018年12月 現代書館刊 孫崎 亨著)は、幕府を支援していたイギリスを薩長の側に付かせ日本の政治体制を大きく変え江戸城無血開城へつながった日本名・佐藤愛之助または薩道愛之助というイギリスの外交官アーネスト・サトウを紹介している。
サー・アーネスト・メイソン・サトウは、1843年に非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄で、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つドイツ人の父親とイギリス人の母親の三男としてロンドンで生まれた。父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったが、非国教徒が学位を取れる保証がなかったため、アーネストはプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学し1859年に首席で卒業した。さらに、宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学し、ローレンス・オリファント卿著『エルギン卿遣日使節録』を読んで日本に憧れ、1861年にイギリス外務省へ通訳生として入省した。駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により、清の北京で漢字学習に従事した。孫崎 亨氏は1943年旧満州国鞍山生まれ、第二次世界大戦終結にともない、父の故郷である石川県小松市に引き揚げ、小松市立松陽中学校を経て金沢大学教育学部附属高等学校を卒業した。東京大学法学部在学中に外交官採用試験に合格したため、1966年に大学を中途退学し外務省に入省した。イギリス、ソ連、米国、イラク、カナダでの勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任した。城西国際大学大学院人文科学研究科講師、東アジア共同体研究所理事・所長、ハーバード大学国際問題研究所研究員、ウズベキスタン駐箚特命全権大使、外務省国際情報局局長、イラン駐箚特命全権大使、防衛大学校人文社会科学群学群長、筑波大学国際総合学類非常勤講師などを歴任した。アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、一時帰国の期間を含めて計25年間になる。1862年9月8日に、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。当初、代理公使のジョン・ニールは、サトウに事務の仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会ったが、その際に五代友厚・松木弘安(寺島宗則)が捕虜となっている。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃する。1864年、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されたので、引き続き日本に留まることを決意した。オールコックはサトウを事務の仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなった。また、ウィリスと同居し親交を深めた。1864年8月20、長州藩は京都の蛤御門等で武力を行使したが、幕府、会津藩、薩摩藩の兵力に負けた。この時点では、薩摩藩と長州藩は敵対関係にあった。そして長州藩征討の勅命が発せられ、薩摩藩の西郷隆盛は長州征討の参謀格であった。1865年4月、通訳官に昇進し、この頃から伊藤や井上馨との文通が頻繁になった。この往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館の立場などを互いに情報交換した。サトウはこの頃から「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めた。10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行した。11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行、神戸・大坂に上陸し、薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員と交わった。このころから、日本語に堪能なイギリス人として、サトウの名前が広く知られるようになった。1866年3月から5月にかけて週刊英字新聞に匿名で論文を掲載し、この記事が後に『イギリス策論』という表題で、サトウの日本語教師をつとめた徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼んだ。1866年3月7日に坂本龍馬の斡旋で薩長連合が成立し180度変わったが、この連合が倒幕の中心になるにはまだ脆弱であった。アーネスト・サトウは、将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものであるから、現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないと主張した。また、現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきであるとも主張した。イギリスの軍事力が強固であることは、当時政治に関与していた者は皆知っていた。その中、アーネスト・サトウの『イギリス策論』によって、イギリスは倒幕側についたことを人々は知った。幕末期におけるアーネスト・サトウの活躍はこれで終わらず、江戸城の無血開城にも関わっていそうである。無血開城は勝海舟と西郷隆盛との問での合意であるが、アーネスト・サトウは双方にパイプを持っていた。パークス公使の発言が無血開城に貢献し、江戸城が無血開城され、勝海舟が江戸から去る時、愛馬の伏見をアーネスト・サトウに贈った。アーネスト・サトウは、戦いの中で、倒幕側と幕府側の双方に太いパイプを持っていたのである。外交史を見ると、一方に食い込むという人物はいるが、戦いの双方と密な関係をもったのは稀有な存在と言える。アーネスト・サトウを偲んだ石碑が千代田区一番町にあり、「1898年、当時のイギリス公使サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました」と記されている。アーネスト・サトウは類まれな外交官であり、相手国の歴史の動きに深刻な影響を与えたという点では、アーネスト・サトウ以上の人はほとんどいない。徳川幕府が終わり明治政府が出来るというのは日本史の中の一大転換期には、歴史の流れから言って、様々な可能性があった。幕府と倒幕派に分かれ内戦を続けるという可能性、幕府が朝廷と連携して延命を図るという可能性、幕府が倒れ新政権が出来るという可能性である。この時期、イギリスやフランスの持つ影響力は決して小さいものではなく、イギリスは倒幕側の雄である薩摩藩と長州藩を各々、薩英戦争、馬関戦争で破っている。もし、イギリスが幕府側を支援していたら、倒幕側の圧勝にはならなかったであろう。事実、一時イギリスは幕府を支援していたのである。こうした中で、アーネスト・サトウは倒幕に与し、重要な役割を演じた。幕末に、勝海舟と話が出来る、西郷隆盛と話が出来る、木戸孝允と話が出来る、伊藤博文と話が出来る、こんな人物は、アーネスト・サトウ以外にいたであろうか。なお、アーネスト・サトウは戸籍の上では生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時の1871年に武田兼(カネ, 1853-1932)を内妻とし3人の子をもうけた。兼とは入籍しなかったものの、子供らは認知して経済的援助を与え、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せて植物学者として育て上げた。長男の栄太郎は1900年にアメリカ・コロラド州ラサルへ移住して農業に従事し、現地の女性と結婚してサトウダイコンの生産者として暮らしたという。
第1章 アーネスト・サトウの来日/第2章 「桜田門外の変」から「生麦事件」へ/第3章 高まる「攘夷」の動き/第4章 薩英戦争後、薩摩はイギリスとの協調路線へ/第5章 国際的、国内的に孤立する長州藩/第6章 薩長連合の形成と幕府崩壊の始まり/第7章 イギリスと、幕府を支援するフランスの対決/第8章 倒幕への道/第9章 江戸城無血開城
23.令和2年1月4日
”限界のタワーマンション”(2019年6月 集英社刊 榊 淳志著)は、タワーマンションは眺望の良さや豪華な共用施設に目を奪われるが、大規模修繕、災害リスク、子育て環境、健康影響、資産価値などで限界にきているという。
タワーマンションはタワマンとも呼ばれ、普通のマンションと比べて際立って高いマンションであり、建築基準法などの構造基準の違いから、階数にしておよそ20階以上であることが決められている。一般的には、高さ60m以上のもの、または環境アセスメント条例が適用される高さ100m以上のものを指している。超高層建築物は一般的な建築物と違い、国土交通大臣の認定を受けることが義務付けられていている。著者は、タワマンでの実際の暮らしぶりや、タワマン住民と非タワマン住民の間の溝、交通・保育園・学校の整備状況などを調査し、果たしてタワマンは人間の住み家としてふさわしいのかと問題提起している。榊 淳司氏は1962年京都市生まれ、同志社大学、慶應義塾大学文学部を卒業し、1980年代後半のバブル期以降、四半世紀以上に渡ってマンション分譲を中心とした不動産業界に関わった。一般ユーザーを対象に住宅購入セミナーを開催するほか、新聞や雑誌に記事を定期的に寄稿し、ブログやメルマガで不動産業界の内幕を解説している。1997年に容積率の緩和が盛り込まれた建築基準法の改正が行われ、これまでよりも高く大きな建物が建てられるようになった。その後次第にタワーマンションが増えてきて、まず都心の再開発エリアで、2000年代前半には湾岸エリアで、そして2010年以降は東京湾の埋め立てエリアへ拡大した。2010年ころからは、地方都市や東京郊外エリアへ広がっていった。タワーマンションの魅力の第一は高層階からの眺望であろう。高層階から見渡す景色は素晴らしく、昼でも夜でも心を気持よくしてくれる。山に登った時に感じる、視界を遮らない気持ちよさを、タワーマンションでは毎日味わう事ができる。カーテンをしなくても外から人に見られるとはなく、開放的であり、風通しがよく、日当たりも最高である。東京ではタワーマンションの夜景は本当に素晴らしく、街にはダイヤモンド級の光が溢れ、それを眺めながら過ごす生活は代えがたい。都会の摩天楼を見下ろす生活はセレブのそれと同義であり、高額なタワマン住戸の所有者であることは輝かしいことかもしれない。また、高層階からの眺望だけではなく、施設内にある使って良い施設が充実していることもあげられる。たとえば、プールやフィットネスジム、パーティールームやゲストルーム、バーなども付いているタワーマンションが多い。高層マンションを活かし、上階にてパーティー等が時間貸しできる施設があり、利用できるジム・プールがマンション内にあり利用できる。友人や地方からの家族などが遊びに来たとき、格安でそのマンション内のゲストルームに宿泊ができる。最近では、駅直結やスーパー・保育園・など複合施設と直結しているタイプや、温泉付マンションで自分のお風呂の蛇口を捻ると温泉が出る等の新たな魅力をもったタワーマンションが続々と登場している。高層階は特に、虫が殆どいないため窓を開けても虫の飛来を恐れる必要がなくなる。空に近いほどカラっとして風も強く、夏でも窓を開けていると快適に過ごせる。冬は日差しが部屋を暖めてくれるので、心地良い季節を過ごすことができる。タワーマンションの多くは、エントランスが広く、地震の重さに耐えれる構造の素材が使われているため、とても豪華な材質で作られている。さらに、コンシェルジュのサービスが付いているタワーマンションが多く、御用聞きとして何かと便利な生活を送る事ができる。これらのことから高くそびえ立つ、設備も整ったタワーマンションに憧れるユーザーも多いようである。日本で最初のタワーマンションは埼玉県の与野ハウスで、高さ66mの21階建て、総戸数463戸である。1976年に建てられ、エントランスや中庭が広く、木々が生い茂り、敷地内に幼稚園があるなど複数の施設が入った集合住宅となっている。当時としてはたいへん画期的な設計で、当初は周辺で与野ハウスのみが高くそびえ立ち、ランドマーク的な存在であった。中には、スーパー、ドラッグストア、本屋、コンビニ、ショッピングモールがあり、今ではさいたまスーパーアリーナや、コクーンシティができ、大変賑わった地域に立っている。しかし、著者は、分譲タワーマンションの建造は、日本人の犯している現在進行形の巨大な過ちであるという。この本を書くために、何年もの時間を費やしてタワーマンションについてのさまざまな資料を集め、取材を重ねた。その結果、タワーマンションという住形態がかなりのレベルで不完全かつ無責任なものであるという現実を、目の前にまざまざと突き付けられた。もしかしてこれは、旧約聖書に記されたバベルの塔の建造に等しい、日本人の犯している壮大な過ちではなかろうか。バベルの塔を造ろうとした人類は神の怒りを招き、その結果、人類は恐ろしいばかりの分断を招いてしまった。この神話は日本の未来を暗示しているように思える。タワーマンションを購入し、住んでいる人にも近い未来に恐ろしい不幸がやってくるのではないかと考えている。そのことをほとんどの人は気付いていない。ましてや、多額の費用を払ってタワーマンションを購入し、そこに嬉々として暮らしている人は、この不都合な現実から目を背けている。規模の大きなタワーマンションは一見華やかである。しかし、それはあくまでも一見である。マンションの区分所有者には、その住戸に住めるという権利とともに、義務も生じてくる。そのマンションを保全するための費用を負担し、時には必要な業務を担う、という責務が課せられる。管理費や修繕積立金を支払い、順番が回ってくれば管理組合の理事や理事長としての責任を果たすことになる。タワーマンションは、その建築構造上の宿命として高額な保全費用がかかる。タワマンの保全に必要な修繕費は、通常のマンションである板状型に比べて二倍以上である。さらに、その額は築年数を重ねるごとに膨らんでいく。大規模な修繕工事は、おおよそ15年に一度の割合で必要とされる。築30年ほどでエレベーターや給排水管の交換が必要になってくる。タワーマンションは、外壁の修繕工事を行わなければ雨漏りが発生しやすい建築構造になっている。したがって、定期的な大規模修繕が欠かせない。しかし、そのための積立金が不足しているタワマンが実はかなり多いのではないか。積立金が不足すれば、臨時に徴収するか、銀行から借り入れるしかない。そのことに、数百から数千戸単位の住民同士が合意形成できるのだろうか。約15年後、2回目の大規模修繕工事を行うことができないタワマンは、雨漏り、あるいは給排水やエレベーターの不具合などで、かなり住みにくい状態になる可能性が高い。もちろん、資産価値も急激に低下する。さらに、タワーマンションは人間の健康や成育に看過できない悪影響を及ぼしている可能性もある。著者は、あらゆる意味でタワーマンションという住形態は限界にきているという。そういった観点から、多くの日本人が住みたがっているタワーマンションという住形態の、さまざまな死角に光を当てている。
序章 タワーマンションが大好きな日本人/第1章 迷惑施設化するタワーマンション/第2章 タワーマンション大規模修繕時代/第3章 災害に弱いタワーマンション/第4章 タワーマンションで子育てをするリスク/終章 それでもタワーマンションに住みますか?
24.1月11日
“心房細動のすべて-脳梗塞、認知症、心不全を招かないための12章 ”(2018年12月 新潮社刊 古川 哲史著)は、不整脈の王様と呼ばれ、脳梗塞、認知症、心不全の原因にもなる心房細動について患者や家族が知っておくべき基礎知識、最新治療法、予防のための生活習慣を解説している。
心房細動は、心臓の中でも心房という部位で異常な電気信号が起こることが原因で生じる不整脈である。加齢や弁膜症、高血圧症などが原因で、動悸・ふらつき・失神などの症状が続いて心不全になると、息切れやむくみなどが出現する。心房が洞房結節の刺激によらずに速く部分的に興奮収縮し、規則的な洞房結節の活動が伝わらず、心室の収縮が不規則な間隔で起こる。患者数は約170万人で、田中角栄、長嶋茂雄など、罹患した著名人も多い。古川哲史氏は1957年東京都生まれ、1983年に東京医科歯科大学医学部を卒業し、1990年に同大学院博士課程を修了し、1989年に医学博士となった。1995年に東京医科歯科大学難治疾患研究所助教、2000年に秋田大学医学部助教授を経て、2004年に東京医科歯科大学難治疾患研究所先端分子医学研究部門生体情報薬理学教授となった。心房細動は不整脈の一種である。不整脈は心臓の脈拍が正常とは異なるタイミングで起きるようになった状態のことで、脈が速くなる「頻脈」、脈が遅くなる「徐脈」、予定されていないタイミングで脈が生じる「期外収縮」がある。不整脈の緊急度や治療方法は千差万別である。健康な人にも生じる不整脈は健康被害はなく、放置しても問題ない。一方、命にかかわる不整脈も存在し、この場合は積極的な治療介入が必要とされることがある。心房細動は非常に患者数が多く、21世紀の心臓の流行り病といわれている。特に高齢者に多く、超高齢化社会を迎えた我が国では社会問題となりつつある。心房細動では、脳梗塞を合併することが最大の問題である。なぜなら、心房細動に合併する脳梗塞は特に重症となり、12%の人が数日で亡くなり、40%の人が寝たきりあるいは要介護となるからである。現在では脳梗塞の予防法は飛躍的な進歩を遂げ、心房細動だと分かっている人ではかなりの確率で脳梗塞を予防することができるようになった。そこで新たな問題となってきているのが、心房細動だと診断がついていない潜在性心房細動(隠れ心房細動)である。隠れ心房細動の患者は日本に約80万人いるといわれ、脳梗塞の予防が行われないので、高頻度で脳梗塞が起こる。例えば、元巨人軍監督の長嶋茂雄氏も、隠れ心房細動か原因で脳梗塞を発症してした。隠れ心房細動の患者を見つけ、脳梗塞を予防することが現代医学の大きなチャレンジなのであるが、2018年時点では有効な方法は残念ながらない。また、心房細動の治療はかなり進歩したことから、時代は心房細動の治療から予防へとシフトしつつある。心房細動は、生活習慣病の一種であり、生活習慣の改善である程度予防できる。しかし、どのようにしたら心房細動の発症を予防できるかについては、十分周知されていない。そこで、まず心房細動とはなんぞやを説明し、後半で隠れ心房細動を見つけるためには、心房細動にならないためには、の2つの重要テーマを取り上げて説明したいと思う。心臓は、心筋細胞における電気信号をもとにして、規則正しさが保たれている。心臓は右心房、右心室、左心房、左心室の4つの部屋に分かれており、右心房に存在する洞結節が電気信号の基点となる部位である。洞結節から発せられた電気信号は、右心房から左心房、両心室へと順次伝わりる。この順序だった電気活動が乱れたり、遅くなったり、速くなったりすると不整脈が発生する。不整脈にはたくさんの種類があり、多くの医師にとっても苦手な病気の1つである。医師は専門でない病気でも診なくてはいけない時があるが、専門でない医師にとってできたら診たくないと感じる病気がいくつかある。それは、白血病、神経変性疾患、および不整脈が3大疾患ではないかという気がする、という。著者が研修医だった35年前、白血病はとにかく治療が難しい病気であった。ローテーションで血液内科を回った当時、本当に白血病は治らず、日々無力感を感じていた。幸い今では、ずいぶん治療法が進んだと聞いているが、そうはいっても専門家以外の医師にとっては、できれば診たくない病気の1つではないであろうか。神経変性疾患の代表はパーキンソン病やアルツハイマー病などである。これらは、血液検査やレントゲン写真、CTなどの客観的な検査ではなかなか診断を付けることができない。不整脈も、白血病や神経変性疾患などと同じように、専門以外の医師には敬遠されがちである。治療が難しい、診断が困難という以外に、不整脈の中には一瞬で死に直結するという怖さを併せ持つものもある。不整脈の分類は基本的に2つの観点から行われる。1つは不整脈の起こる場所、もう1つは不整脈の性質(重症度)である。そして、不整脈の名前は、不整脈の起こる場所と不整脈の性質(重症度)という2つの要素の足し算で付けられる。まず不整脈の起こる場所によって「心房○○」、「心室△△」という不整脈の名前が付けられ、2つに分類される。次に性質(重症度)であるが、これは心室、あるいは心房が興奮する回数によって次の4つに分けられる。頻拍、粗動、細動、期外収縮である。この2と4から、8タイプが不整脈の基本形となる。また、虚血性心疾患や心臓弁膜症などを原因として電気伝導路に異常が生じると、治療が必要な心房細動や心室細動などの不整脈を呈することがある。その他、先天的な遺伝子異常、電解質異常、薬剤の副作用などによりQT延長症候群という状態を起こすがある。QT延長症候群の状況下では、トルサード・ド・ポワンツと呼ばれる危険な不整脈を呈することもある。心房細動は非常に多くの人が罹患していて、有名人で心房細動にかかったことが公表されている例もいくつか知られている。心房細動は脳梗塞を高い頻度で合併し、その脳梗塞が重症化しやすいことが大きな問題である。心房細動は特に高齢者に高頻度に発症し、患者の生活の質を著しく低下させるので、超高齢化社会を迎えているといわれる日本では、大きな社会問題となりつつある。隠れ心房細動の発見や心房細動の予防は、医療機関側の努力だけでは達成できない。皆さんと医療機関側の共同作業で初めて達成できるチャレンジである。そこで、皆さんと是非情報を共有して、心房細動にならないため、脳梗塞にならないため、ひいては健康な老後を送るための一助に本書がなることを、心から願っている、という。
第1章 不整脈の王様! 心房細動の正体を探る/第2章 どんな人が心房細動になりやすいのか/第3章 3大症状「動悸」「めまい」「息切れ」と無症状/第4章 3大合併症「脳梗塞」「認知症」「心不全」/第5章 どうやって見つけるか/第6章 断固戦うか、共存するか―心房細動の治療/第7章 カテーテルアブレーションという治療法/第8章 脳梗塞をどう防ぐか/第9章 隠れ心房細動をどうやって見つけるか/第10章 心房細動を予防する6つの生活習慣/第11章 心臓の老化を防ぐ食事の鍵はポリアミン/第12章 進化した心臓
25.1月18日
”ラボ・ガール-植物と研究を愛した女性科学者の物語”(2017年7月 化学同人社刊 ホープ・ヤーレン著/小坂恵理訳)は、小さい頃から研究室を持つことを夢見て自分は絶対にラボ=研究室を持つんだという強い決意のもと相棒ビルとともに様々な困難を乗り越えながら理想のラボを築きあげていく女性科学者ホープ・ヤーレンの自伝である。
ホープ・ヤーレンは、1969年9月27日にミネソタ州オースティンで生まれた。父親はコミュニティーカレッジの研究者で、物理学と地球科学の初歩を42年間にわたって教えていた。自宅はメインストリートの南にある大きなレンガ造りの家で、4ブロック西には父が1920年代に過ごした家が、8ブロック東には母が1930年代に過ごした家があった。160キロメートル南にはミネアポリスがあり、8キロメートル北はアイオワ州との州境だった。この町のほぼすべての住民と同じく、曽祖父母は1880年ごろに始まったノルウェーからの集団移住に参加してミネソタにやって来た。この町の住人の例にもれず、先祖について知っているのはそれだけで、ふたりの祖母のどちらにも会っていない。ふたりとも生まれる前に亡くなり、祖父のほうはひとりは4歳のとき、もうひとりは7歳のときに亡くなった。父親は一人っ子であったが、母親には10人以上の兄弟姉妹がいた。3人の兄たちは大きくなると順番に家を出ていったが、実を言えば、いつの間にかいなくなっていた。お互いに何日も話す機会がなくても、決してめずらしいことではなかった。コミュニティーカレッジは町の西のはずれにあって、町は、6.5キロメートルほど隔てた2つのサービスエリアにはさまれていた。父親は研究室をこよなく愛し、兄たちにとっても自分にとっても大好きな場所だった。壁は軽量のコンクリートブロック製で、半光沢のクリーム色のペンキが厚く塗られていた。目を閉じて心を集中させると、ペンキの下のセメントの手触りを感じることができる。おそらく内部には、黒いゴムの羽目板が接着剤で張られていたはずだ。作業台の上には、まぶしいほど銀色に輝くノズルが等間隔で引っかけられていた。場所全体が清潔で開放的でがらんとしていたが、引き出しのなかには興味深いものの数々が並べられていた。磁石、針金、ガラス、金属など、どれにも何らかの用途があり、見ていると想像力が膨らんでいく。扉の横の戸棚には爾の数値を読み取るためのテープが入っている。手品の道具のようだが、マジックを披露するだけでなく謎を解明するのだから、手品よりもすごい。テープを引き出してちぎり、唾液、水、ルートビア、尿などの溶液にひたし、変化した後の色を確認するのだ。父親が実験室の鍵をまとめて管理していたので、娘には特別の待遇が約束された。一緒に実験室に行けば、いつでも好きな装置で遊ぶことができた。冬の夜長には、父親とふたりで実験室の建物を独占したものだ。まるで城主と皇子のように実験室を歩き回りながら作業に熱中していると、外の凍てつく寒さなど忘れてしまう。父が翌日の講義の準備をしているあいだ、娘は実験やデモンストレーションのために準備の整った装置をひとつずつ点検し、あとから学生たちが困らないように細心の注意を払った。消灯時間は9時なので、8時には家路についた。実験室を出ると、まずは窓のない小さな父親のオフィスに立ち寄る。最後に建物を出るのはいつも二人だったので、父親は廊下を一往復した。最初にどの部屋もきちんと鍵がかかっているか確認し、戻りながら電気をつぎつぎと消していく。最後に娘が電源を切り、それから外に出ると父親が扉を閉め、鍵がきちんとかかっているか二度点検した。外に出ると、二人はトラックヤードに立って寒い夜空を見上げた。この空の向こうには冷たく果てしない宇宙が広かっている。遠い銀河でいまだに燃え続ける巨大な火の玉から発せられた光が、何光年もの時間をかけて地球まで届き、暗い夜空を華やかに彩っている。3キロメートル以上の道のりを徒歩で帰宅するあいだ、会話を交わさないことが習慣になっていた。無言で寄り添うのは北欧系の家族にとって自然な形であり、おそらく最も心地よいのである。子どものとき、世界中どこでも自分の小さな町と同じような営みが繰り広げられていると思い込んでいたが、家を離れ誰もが温かい気持ちでさりげなく愛情を表現している様子を見て、ずっと切望してきたことが実践されていて驚いた。母親は子ども時代、モーア郡で最も貧しくて最も利発な少女だったそうだ。高校の最上級生のときには、毎年全米から頭脳明晰な学生を集めて開催されるウェスティングハウス・サイエンス・タレント・リサーチの第9回大会で、選外佳作賞を受賞している。入賞にはあとI歩およばなかったが、これをきっかけに母親は選ばれた人間の仲間入りをした。1950年に母親と一緒に選外佳作賞を受賞した人のなかには、後にノーベル物理学賞を受賞したシェルドン・グラショーや、1966年にフィールズ賞を獲得したポール・コーエンがいた。選外佳作賞のご褒美として、ミネソタ科学アカデミーに1年間ジュニア名誉会員としての参加を許される。大学への奨学金を給付されるわけではなかったが、母親は田舎町からミネアポリスにやって来て、ミネソタ大学で化学を勉強するかたわら学費を稼いだ。1951年当時、大学生活は男性を対象にして設計されていて、通常はお金に不自由しない男性が対象であった。結局母親は故郷に戻り、父と結婚して4人の子どもに恵まれ、20年間を子育てに費やした。しかし、最後の子どもがプレスクールに入ったらミネソタ大学に再入学し、学位を取得する夢を持ち続けた。そして選択肢は通信教育に限られたので、英文学を自宅で学び、ほとんどの日々を母親の庇護のもとで過ごし、ごく自然に門前の小僧として学問の世界に入っていった。父親のようになりたいと切望する一方、不屈の精神の持ち主である母親と同じ道を歩む運命を覚悟していた。自分にふさわしい人生をつかみそこねた母親と同じ目標を掲げ、高校を一年早く卒業すると奨学金でミネソタ大学に入学した。母親も父親も3人の兄たちも、家族全員が通った大学だ。最初は文学を専攻したが、自分にふさわしいのは科学のほうだということがすぐにわかった。科学の講義で取り上げるのは未解決の社会問題であり、身の回りの現象を素直に受け入れられず問題をとことん追求する傾向は、理系の教授たちから好まれた。過去や現在の状況に対処するよりも、疑問に正面から立ち向かうことにこそ自分の潜在能力は発揮されるのだ。再び研究室で心おきなく、あらゆるおもちゃで好きなだけ遊ぶ自由を許されたのだった。成長するのは誰にとっても長くて苦しいプロセスだが、そのなかでひとつ何時か自分のラボを持つことだけは確信していた。自分が抱いた科学者への夢は本能的なもので、それ以外の理由はない。ヤーレンはミネソタ大学で地質学の学部教育を修了し、1991年にカム・ラウドを卒業した。そして、1996年にカリフォルニア大学バークレー校で土壌科学の分野で博士号を取得した。論文では、植物におけるバイオミネラルの形成をカバーし、プロセスを調べるために新しい安定同位体法を使用した。1996年から1999年までジョージア工科大学助教授を務め、その後、ジョンズ・ホプキンス大学に移り2008年まで滞在した。ジョージア工科大学では、化石植物を用いた先駆的な研究を行い、1億1700万年前に発生した第2回メタンハイドレート放出イベントを発見した。また、コペンハーゲン大学でフルブライト賞を1年間受賞し、DNA解析技術を学んだ。ジョンズ・ホプキンスにいる間、ヤーレンはアクセル・ハイバーグ島の化石林の仕事でメディアの注目を集めた。木の研究では、4500万年前に島の環境条件を推定することができた。共同研究者とともに、酸素同位体の枯渇を分析し、新世の間に大きなメタセコイアの森林が繁栄することを可能にした気象パターンを決定した。ジョンズ・ホプキンスでの研究には、古体ゾルに見られるDNAの最初の抽出と分析、および多細胞生物のDNAに存在する安定同位体の最初の発見も含まれていた。ヤーレンはジョンズ・ホプキンスを離れ、ハワイ大学の教授職に就いた。研究では、安定同位体分析を用いて、異なるタイムスケールにおける環境の特性を決定することに焦点を当てた。2016年9月1日以来、ヤーレンはオスロ大学地球進化力学センターのウィルソン教授の下で、生物と化石生物が環境とどのように化学的に関連しているかを研究している。原書刊行時はハワイ大学教授、現在はノルウェーのオスロ大学教授である。1992年にノルウェーで行われた地質学の仕事、2003年にデンマークで行われた環境科学の仕事、2010年にノルウェーで行われた北極科学の仕事のための3つのフルブライト賞を受賞している。2001年、ヤーレンはアメリカ地質学会から授与されたドナス・メダルを受賞した。2005年にはマセルワン・メダルを受賞し、マセルワン・メダルとドナス・メダルの両方を獲得した初の女性と4人目の科学者となった。2013年にスタンフォード大学スタンフォードウッズ環境研究所でレオポルド・フェローを務めた。 2018年にオーストラリア医学研究協会賞を受賞し、ノルウェー科学文学アカデミーにも選出された。本書は、研究を一生の仕事にすることを志した一人の女性植物学者が、男性中心の学問の世界で、理想のラボを築きあげていく生き様を綴った感動的な自伝である。女性科学者はいまだにめずらしい存在だが、ヤーレンは科学者以外の自分などは考えられないとして、長年かけて3つのラボをゼロから立ち上げ、3つの空っぽの部屋に暖かみと生命を吹き込んだ。しかも、あとに行くほど規模は大きくなり中身も充実した。現在のラボはほぼ完璧だと言ってもよいという。
第1部根と葉/1. 生い立ちとラボ/2. <木の一生>/3. <待ち続ける種子>/4. 病院の仕事/5. <最初の根>/6. 出会い/7. <葉と成長>/8. 発見,挫折,希望/9. <茎の形成>/10. 初めてのラボ/11. <新天地への定着>/第2I部 幹と節/1. <アメリカ南部>/2. 愉快なクリスマス/3. <菌との共生>/4. 学生とのフィールドトリップ/5. 落葉と年間予算/6. <つる植物>/7. 住む場所/8. <砂漠に生きる植物>/9. 躁/10. 二人は相棒?/11. <地上のシグナル>/12. 眠れない夜の電話/第3部 花と果実/1. <植物の上陸>/2. 譲り受けた実験設備/3. <冬支度>/4. 北極のダンス/
5. <受粉>/6. 結婚/7. <S字曲線>/8. 妊娠,出産/9. <親から子へ>/10. アイルランドの教訓/11. 母として/12. すばらしい日常/13. <生命の維持>/14. 軌跡
26.1月25日
”民俗学読本-フィールドへのいざない”(2019年11月 晃洋書房刊 高岡弘幸/島村恭則/川村清志/松村薫子/編著)は、民間伝承の調査を通して主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究するための13のフィールド物語が織りなす民俗学の思考法などを紹介している。
民俗とは、古くから民間に伝承してきた風俗・習慣である。民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など、古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。本書は、4名の編著者と別の9名の執筆者によって構成されている。髙岡弘幸氏は1960年生まれ、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、現在、福岡大学人文学部教授。島村恭則氏は1967年生まれ、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学、現在、関西学院大学社会学部教授、世界民俗学研究センター長。川村清志氏は1968年生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了、現在、国立歴史民俗博物館准教授。松村薫子氏は1972年生まれ、総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻博士後期課程修了、現在、大阪大学日本語日本文化教育センター、大学院言語文化研究科日本語日本文化専攻准教授。ほかに、執筆者として、兵庫県立歴史博物館学芸課長の香川雅信氏、関西学院大学社会学研究科大学院研究員の孫 嘉寧氏、南山大学南山宗教文化研究所研究員の後藤晴子氏、宮城学院女子大学教育学部教授の大内 典氏、チュラーロンコーン大学文学部東洋言語学科日本語講座専任講師のサンラヤー・シューショートケオ氏、熊本大学大学院人文社会学科研究学部教授の山下裕作氏、福岡大学人文学部准教授の中村 亮氏、千葉県立中央博物館主任上席研究員の島立理子氏、呉市海事歴史科学館学芸課学芸員の藤坂彰子氏が挙げられている。人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明しようとしている。民俗学のどこが個性的なのであろうか。それは、問題の発見とその解明の基盤が、これを研究しようとする者自身の日常経験の積み重ねとしての人生にある点、そしてそこに宿る「小文字」の言葉を重視して議論を組み立てようとする点である。民俗学とは、まず何よりも、当たり前のものとして不思議に思わない自文化.特に私たちが享受しているだけでなく、私たち自身が生み出している生活文化を「異文化」として再発見する「まなざし」であり、そして、再発見した自文化の意味や歴史的変遷などを研究する。日本に生まれ育ったからといって、日本の文化や社会について、どれだけのことを知っているというのであろうか。編著者の一人は、40年近く前、目の前の知っているはずの日本文化がいきなり「異文化」として立ち現れた経験をしたことがあるという。高校生のときからアフリカの広大な大地に憧れを抱き、大学では文化人類学研究会に所属し、将来はアフリカ研究者になることを夢見ていた。サークルで京都市内の秋祭りを調べていたとき、サークルの顧問の先生から「アフリカより日本のほうが不思議で面白い」と言われた。近所の神社に連れて行き、「この中のどんなことでもいいから、説明してごらん」 と言われたが、見慣れたはずの神社の風景、建物、祭りの様子などを、目を凝らして見つめ直したのだが、何一つ説明できなかった。その瞬間以来、日本のありとあらゆる文化や社会が、証明不可能なアフリカ以上の「異文化」として立ち現れるようになった。日本に生まれ育つたからといって、日本のことを知っているとは限らない。むしろ、当たり前すぎるほどのものであるからこそ、不思議を不思議として認識できないのではないか。また、アフリカにせよどこにせよ、外国研究をするためには、日本のことを(ある程度は)知らなければ、問題を発見できないはずだし、比較も不可能なはずだ。そのことにも気づき、文化人類学と並行して民俗学の本を貪るように読み始めたという。ところが、読めば読むほど、日本文化・社会は、「どうだ、私の謎を解き明かせるか」と大きく立ちはだかった。日本文化を「異文化」として再発見し、その意味を解読する、魅力的な学問が民俗学である。窓から見える風景をじっくりと眺めてみてほしい。窓の外には、田んぼや畑が広がっているが、農作業の方法や、農民の生活と農機具の変遷、現代の農業が抱える問題、開拓の歴史をどれほど知っているだろうか。あるいは、鉄筋コンクリートで造られた高層アパートが建ち並んでいるのが見えるが、ここでの暮らしはどのように成立し変化してきたのであろうか。そもそも、なぜこの場所にニュータウンが建設されたのであろうか、寂れきった港が見えるが、昔、海が見えないほど船がひしめきあったという巷町が、なぜこのように衰退してしまったのであろうか。また、目的もなしに街を歩いているとき、ふとバスや電車のなかで乗客の会話を耳にしたとき、友人やバイト仲間と世間話をしているとき、本を読んでいるとき、食事をしているとき、何か心にひっかかりを覚えたことはないであろうか。どんなことでもいい、何か1つでも「謎」や「不思議」が見つかるのではないであろうか。もしそうであれば、見飽きた風景であるはずの田んぼやニュータウン、港町、街の風景、他者が話した何気ない一言、思わず目をとめた文章、大好物の食べ物が、まさに「異文化」として再発見されたことになる。不思議で面白そうな問題を見つけ出したとき、次にするべきことは、おそらく、図書館や博物館に赴き、文献資料、古い地図や写真など、関連しそうな資料を片っ端から調べるであろう。図書館や博物館で抱いた疑問がすべて氷解したならばそれで終わりであるが.どのように優れた内容の書物であっても、すべての疑問に明確に答えてくれるわけではない。そこで、さらに別の文献を探し出して謎を追い求めるタイプの人が出てくるはずである。また、本ではこれ以上のことを知ることができないなら、昔のことに詳しいお年寄りに話を聞いてみるのもいいではないか。解きたい問題によっては、時間とお金をかけて遥か遠くまで行かねばならないこともある。民俗学の概説書には、生業(農業・漁業・林業など)、社会組織、人生儀礼、年中行事、説話伝承、都市化、信仰、妖怪と怪異といった項目が並べられている。概説書によって民俗学の課題を知り、図書館やフィールドに向かうアクセスの仕方もあっていいであろう。しかし、この本を書くために集まった民俗学者たちの考え方はまったく違う。解き明かしたい問題は、あくまで日常生活のなかで、あるいは、フィールドで見つけ出すものであり、決して誰かが事前に用意してくれた所与のものではないと考えている。「民俗」とは生活文化、しかも自分自身が改めて再発見しなければ誰も気がつかない、当たり前すぎるほどのものである。そのため、「民俗」は、誰かに尋ねてみようとしない限り、姿を現わすことなく、沈黙の彼方に消え去ってしまう。だからこそ、重い本や資料をカバンに詰め込み、より深い問いや答えのヒントを授けてくれる他者と出会うために出かけるわけである。本書は民俗学の入門書でもなければ、概説書でもない。フィールドワークの面白さ、奥深さを、素哨らしさを伝えたい。その意味で、本書は民俗学入門以前の書物と位置づけることかできるであろう。
第Ⅰ部 フィールドとしての日常生活/フィールドとしての日常生活―民俗学の原点―(髙岡弘幸)
第Ⅱ部 見えない世界を視る/「好きな妖怪は特にありません」―妖怪博士の告白―(香川雅信)/「桃太郎」と伝説の「語り直し」(孫 嘉寧)
第Ⅲ部 南島への旅立ち/フィールドワークの愉悦と焦燥―宮古島での3か月半―(島村恭則)/長生きと向き合う(後藤晴子)
第Ⅳ部 信仰と実践/祭りをやりながら考えたこと―フィードバックする現場と理論―(川村清志)/「音」の文化を探る/―山伏に「なった」音楽学者―(大内 典)/糞掃衣の真実/―フィールドでの後悔―(松村薫子)
第Ⅴ部 挑戦する民俗学/農業・農村研究というもの/―否応のない現場―(山下裕作)/21世紀のフィールドワークに向けて/―福井県小浜市田烏のナレズシをめぐる地域振興と文化人類学―(中村 亮)
第Ⅵ部 博物館へ行こう!/博物館へようこそ!(川村清志)/博物館が作った「おばあちゃんの畑」というフィールド(島立理)/「戦争」の「記憶」と向き合う場所(藤坂彰子)
27.令和2年2月1日
”真田信繁-幸村と呼ばれた男の真実”(2015年10月 KADOKAWA刊 平山 優著)は、真田幸村の名で広く知られ豊臣方の武将として大坂夏の陣で徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が後世に軍記物などで英雄的イメージで広く知られる存在となった真田信繁をめぐる通説・俗説・新説を根本的に再検証している。
真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、真田昌幸の次男、通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)、真田幸村の名で広く知られている。現代人において、戦国武将では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑と呼ばれる人々をも凌ぐほどの、抜群の知名度と人気を誇る。人気は今に始まったことではなく、江戸時代前期には、すでに真田人気は不動のものであった。近代になっても、1918年に立川文明堂による立川文庫の創刊による影響もあって、明治末年から昭和初期にかけて一大ブームが到来した。平山 優氏は1964年東京都生まれ、立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了、専攻は日本中世史である。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹等を経て、山梨県立中央高等学校教諭を務め、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した。真田を支える十人の優れた家来たちは真田十勇士と呼ばれるが、これは史実ではない。だが、真田と十勇士たちの活躍は、戦前ばかりか、戦後になってもテレビドラマなどで繰り返し放送され、人々を魅了し続けてきた。日本人の真田人気は、天下簒奪の野望に燃え、豊臣氏を滅ぼそうと企む徳川家康と、それを挫くべく、豊臣秀頼を助け知略の限りを尽くして立ち向かう真田幸村という、勧善懲悪という一貫したストーリーにあるだろう。弱きを助け強きを挫くという真田幸村の人物像こそ、日本人好みの理想像と合致している。そして力戦しあと一歩まで家康を追い詰めながら、力及ばず散華する姿は、悲劇性をも併せ持ち、幸村の魅力をいっそう際立たせているといえよう。実戦経験の乏しい信繁が、なぜ徳川方も称賛するほどの軍功をあげることが出来たのであろうか。その実像は、生涯のほとんどについて史料が残されておらず、謎に包まれているといっても過言ではない。確実に判明していることは、信濃国小県郡の国衆真田昌幸の次男であること、父昌幸の命により上杉景勝のもとへ人質に出されたこと、父昌幸が豊臣秀吉に臣従すると上方へ人質として出され、大谷吉隆(吉継)の息女を娶ったこと、1600年の関ヶ原合戦に際し、父昌幸とともに信州上田城に寵城し徳川秀忠軍を撃破したこと、関ヶ原敗戦後、父昌幸とともに高野山に追放され九度山に住居を構えたこと、1619年に豊臣秀頼の招きを受け、九度山を脱出し大坂城に入城したこと、大坂冬の陣では「真田丸」「真田出丸」という砦を大坂城惣構のうち玉造口に築き、徳川方に甚大な打撃を与えたこと、1920年5月の大坂夏の陣で戦死したこと、などである。真田幸村の名が広く知られているが、諱は信繁が正しく、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で幸村の名が使われているものはない。信繁は1567年(または1570年)に真田昌幸の次男として生まれた。真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属していた。伯父の信綱は先方衆として、信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、1575年の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府を離れ岩櫃に移ったと考えられている。1582年3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに、人質として赴いた。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生した。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、1585年には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。織田家臣の豊臣秀吉が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われた。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えた。1590年の小田原遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城・箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。文禄の役においては、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に在陣している。1594年11月に従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜された。豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。秀吉死後の1600年に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍した。留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになった。東軍の徳川秀忠勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った。9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫した。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまった。12月12日に上田を発して紀伊国に向かい、初め高野山の蓮華定院に入り、次いで九度山に移り、蟄居中の1611年に昌幸は死去、1612年に信繁は出家し好白と名乗った。1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣した。信繁は国許にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入った。大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張したが、結局受け入れられずに終わった。大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いた。戦闘で信繁は寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなった。冬の陣の講和後、真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。家康は1615年2月に使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し説得に出たが、信繁は対面をしなかったという。大坂夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、伊達政宗隊の先鋒の片倉重長らを銃撃戦の末に一時的に後退させた。道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死した。退却に際して真田隊はしんがりを務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。5月7日に信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案し、右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させようとした。先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し射撃戦を始め、本格的な戦闘へと突入した。死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行し、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った。信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直隊の大軍を突破し、合わせて徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行した。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。しかし、大野治長が秀頼の出陣要請に行こうとした際、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩した。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。そして、兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされた。毛利隊も攻撃続行をあきらめ、大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった。信繁は四天王寺近くの安居神社の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され討ち取られた。これまで信繁については、数多くの著作が世に送られてきたが、信繁が発給した文書の基礎研究すらなされておらず、また生涯についても軍記物を根拠にした記述が目立っている。本書は、幾多の謎に包まれた不思議な弓取の真田信繁の生涯を、数少ない史料をもとに解き明かしていくことを課題としている。最も頭を悩ませたのは、大坂の陣をどのように評価し、信繁をこの大乱の中で如何に位置づけたらいいのか。また、実戦経験に乏しい信繁が、なぜあれはどの活躍をすることが出来たのをどう理解すればよいかということであったという。
序 「不思議なる弓取」と呼ばれた男/第一章 真田信繁の前半生/第二章 父昌幸に寄り添う/第三章 関ヶ原合戦と上田攻防/第四章 九度山の雌伏/第五章 真田丸の正体/第六章 大坂冬の陣/第七章 大坂夏の陣/終 章 真田信繁から幸村へ
28.2月8日
”三条実美-維新政権の「有徳の為政者」”(2019年2月 中央公論新社刊 内藤 一成著)は、上級公家の出身にして「七卿落ち」で知られる明治維新の立役者のひとりで王政復古後は長期にわたり輔相・右大臣・太政大臣など政府の要職を歴任したがその業績についてはあまり知られていない三条実美の生涯を丹念に追い実像を紹介している。
三条実美は幕末に将軍徳川家茂に攘夷督促の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒となり運動したが、1863年文久3年8月18日の政変で失脚し、七卿落の一人として長州、さらに大宰府に落ちた。その後、王政復古を機に上京し、明治政府の副総裁・輔相、1869年右大臣、1871年太政大臣となり、1885年の内閣制まで同職を務め、以後内大臣、臨時内閣総理大臣を歴任した。内藤一成氏は1967年愛知県生まれ、1996年日本大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学、2004年青山学院大学にて博士(歴史学)を取得した。現在、宮内庁書陵部編修課主任研究官・国際日本文化研究センター共同研究員を務めている。三条実美は1837年に攘夷派の公卿三条実萬の三男として生まれ、幼名は福麿といい、正室の子であった。1854年2月に次兄で三条家嗣子の三条公睦が早世し、公睦には嫡子がいたが、福麿の教育係であった儒者の富田織部の強い推挙によって、福麿が嗣子となり、8月に元服して実美と名乗った。父・実萬は、戊午の密勅の発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなった。1854年10月に実萬が隠居・蟄居し実美が正式に三条家の家督を相続したが、1855年4月に実萬は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去した。1862年に島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始め、関白九条尚忠を退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出した。実美はもともと公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせた。7月から8月にかけて、尊攘派の志士との交流を深めるようになり、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。さらに実萬の養女を妻としていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた。8月に長州藩と土佐藩が、将軍徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として、実美を派遣するよう運動を開始し、10月に実美は勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いた。実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた。1863年1月に親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州関白と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった。2月に尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなり、交渉役に選ばれた実美は慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった。3月に将軍家茂が上洛し実美ら尊攘派は圧迫を強め、上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった。5月10日を持っての攘夷決行を約束させ、孝明天皇は焦土と化しても開港しないという勅を出した。島津久光・松平春嶽・山内容堂などの公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された。幕府は攘夷派公家の筆頭の実美と姉小路公知の懐柔を図ったが、実美については効果がなかった。5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺された。姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛で、長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった。しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは偽勅であり、早々に実美と徳大寺実則を取除くべきであると青蓮院宮に伝えていた。6月に久留米藩より尊攘派の真木保臣が上洛して学習院御用掛となり、実美らに直接影響を与えるようになった。真木を謀臣とした実美は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて朝廷の方針となった。しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮と薩摩藩に対して救いを求めた。青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保の会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のための計画を進めた。8月13日に攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出されたが、8月18日に薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。七卿は長州藩に向かうこととなり、8月19日に京都を出発し長州藩に向かい、兵庫湊から船で長州を目指した。8月24日に、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った。8月26日と27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港し、長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、三田尻御茶屋の招賢閣を居館とした。三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議し、9月28日に平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。協議がまとまらないうちに澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗した。1864年1月に長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田に移った。1月27日に孝明天皇から、七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め朝廷に働きかけ、実美ら五卿もこの動きを支持した。7月に藩主父子の上京と時を同じくして京を目指し、7月21日に讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するために鞆に向かったが出会えなかった。第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられたが、五卿は長州藩と死生存亡を共にする決意を固めていた。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩に移った。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた。1865年1月15日に五卿は福岡藩に上陸し、宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊をへて、2月13日に太宰府に到着した。五卿の身柄は福岡藩が預かるが、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていた。福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると、中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えた。1866年に幕府から使者が訪れ五卿を大坂に移すよう求めてきたが、実美らは動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対した。1867年に中岡慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索し、その候補となった岩倉具視は当初、難色を示したが、岩倉の縁戚の東久世通禧の説得で提携を受け入れることとなった。1967年10月27日に大政奉還が成立し、12月8日に五卿の赦免と復位が達成された。12月14日にこの知らせを受けた五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられた。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となり、1868年に実美は岩倉とともに新政府の副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねた。1869年5月24日に右大臣・関八州鎮将となり、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となった。7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ね、岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し実現させた。1871年に制度改革により太政大臣となり、天皇の代行者として万機条公に決される体制を目指した。幕末の立役者の一人であったが、実美の業績となると、一般の人だけでなく、少なからぬ歴史研究者からも、よくわからないという答えか返ってこよう。明治維新期を代表する政治家といえば、「維新三傑」といわれる西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のほか、板垣退助・江藤新平・伊藤博文・大隈重信・岩倉具視といった名前が次々と出てくる。これに対して、三条実美は明治新政府のトップであったにもかかわらず、その差は歴然である。基本的によくわからないところへ、その評価を決定的に下げたのが、征韓論で知られる1873年の政変であった。紛糾する議論をまとめきれないまま卒倒してしまったことで、政治力に乏しい、お飾り的な存在という人物像か強く印象づけられた。明治維新後、18年ものあいだ政権の頂点にあり、輔相・右大臣・太政大臣といったポストは、大政官制における扇の要にあたるなど、実美の存在はきわめて重要であった。にもかかわらず、今日、その人物像はよくわからないとしたまま、ほとんど置き捨てられている。その結果は、歴史に少なからず空白や歪みを生んでしまっているのではないか。実際、取り組んでみると、たしかに実美は「最も論評の困難な標本」であった。それだけに、歴史的に果たした役割や意義を明らかにするためには、その生涯をできるだけ丁寧にたどるほかないという。
第1章 公家の名門に生まれて/近世の朝廷と三条家―徳川幕府支配のなかで/世に出るまで―父三条実萬と勤王少年時代/安政の開国問題―朝廷の浮上と焦点化)/第2章 尊攘派公卿としての脚光(文久政局への登場―尊王攘夷運動と土佐藩との連繋/時代の寵児―勅使として江戸へ/過熱する攘夷、八月一八日の政変による失脚)/第3章 長州・太宰府の日々(七卿落ちと長州藩―禁門の変、下関戦争の敗北/太宰府での艱難辛苦/幕末政局と太宰府―薩長盟約、攘夷論の転換)/第4章 明治新政府の太政大臣(維新政権の頂点へ―復古革新の象徴的存在/天皇親政の模索―動から静へ/明治六年の政変―留守政府トップの苦悩/明治八年の政変―島津久光とのたたかい)/第5章 静かな退場―太政官制から内閣制へ(迫られる制度の改変―太政官内閣の変質/現実化する天皇親政/伊藤博文の台頭―内閣制の発足と太政官制の終焉/内大臣へ―立憲政治のための自制)
29.2月15日
“阪谷芳郎”(2019年3月 吉川弘文館刊 西尾 林太郎著)は、岳父渋沢栄一と共に明治神宮の造営に尽力し広大な内外苑の基礎を作り日清・日露戦争で戦時・戦後財政の中核を担い大蔵大臣、東京市長などを歴任した阪谷芳郎の生涯を紹介している。
阪谷芳郎=さかたによしろうは1863年備中国川上郡九名村、現井原市生まれ、幕末に開国派として活躍した漢学者の阪谷朗廬=ろうろの四男である。1884年に東京大学文学部政治科を卒業し大蔵省に入省、1885年に専修学校にて経済学と財政学の講義を開始している。1886年に海軍経理学校教授を兼任し、主計局調査課長に就任し、翌年、会計原法草案を起草した。1888年に渋沢栄一の次女と結婚し、1889年に長男が誕生した。1891年に造幣支局長、大蔵省参事官、1897年に主計局長、日清戦争では、大本営付で戦時財政の運用にあたり、1903年に大蔵次官、1906年に第1次西園寺内閣の大蔵大臣を務めた。1907年9月、日露戦争の戦費調達などの功績により男爵が授けられ、1912年7月から1915年2月まで東京市長を務めた。西尾林太郎氏は1950年愛知県生まれ、1974年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、1981年同大学政治学研究科博士後期課程退学、北陸大学法学部助教授を経て、現在 愛知淑徳大学交流文化学部教授を務めている。阪谷芳郎は明治、大正、昭和の三代を生き、明治憲法体制の樹立にも関わり、近代日本という時代を代表する官僚政治家の一人であった。旧体制である幕藩体制の枠組みの中で教育を受け、実務を通じて行政官としての経験を積んで見識を身につけた官僚政治家ではない。生年こそ旧時代だが、教育は明治維新以降の近代教育、特に明治国家の最高学府である東京大学を卒業して、明治国家の要請に応えるべく官僚となった学士官僚である。渋沢栄一を岳父とし、法律学者で東京帝国大学教授の穂積陳重を義理の兄とするなど、華麗な姻戚関係を持つ一方、その官歴・経歴も華麗である。東大・大蔵省の同期に添田寿一、後輩に若槻礼次郎、浜口雄幸などがいる。東大と官僚のルートを経て大臣になった最初の人物は岩崎弥太郎を岳父とする加藤高明、二番目が阪谷芳郎、その後、若槻、浜口らが続いている。阪谷は、元老松方正義の下で、明治憲法体制下の国家財政の根幹創出の一翼を担い、日清戦争の戦時財政と戦後経営を担当した。さらに、日露戦争では戦時財政を一手に引き受け、その功績により華族に列せられ男爵に叙せられた。官を辞して以降、ベルン平和会議に委員として招請され、第一次世界大戦においてはパリ連合国経済会議に日本政府代表として出席した。これらを機会に、国際的にも人的ネットワークを築き、日本を代表する官庁エコノミストとして国の内外に知られた。またその間、東京市長に就任し、明治神宮の誘致と造営に尽力し、今日の広大な神宮内・外苑の基礎を作った。理事長として主導した明治神宮奉賛会は、大都市東京に、広く国民の献金や献木によって人工の森厳な風致を創り出すことに成功し今日に至っている。外苑の神宮球場や神宮競技場は、昭和戦前期日本の最も重要なスポーツ施設であり、後者は国立競技場の前身的存在であった。退官後の主な活動の舞台は貴族院で、1917年から1941年まで、24年11ヵ月の問、貴族院に議席を持ち、第39議会から第76議会まで、都合38回の帝国議会を経験した。貴族院における男爵議員の会派「公正会」の領袖として、政界・官界にその名が知られた。議員在職中、本会議・委員会・分科会での演説を含む議会での発言は、帝国議会議員として最多の412回に及んだ。さらに帝国飛行協会、帝国自動車協会、東京市政調査会、東京統計協会、国際連盟協会、日米協会など、数多くの公益団体の代表などを務めた。他方、教育者、研究者であり、大蔵省入省後間もなく、専修学校や海軍経理学校の教壇に立った。田尻稲次郎や目賀田種太郎ら大蔵官僚が設立した専修学校の教育に長く関わり、後年、専修大学総長に就任するなど、経済学・財政学の教育・研究に大きな足跡を残している。しかし、原敬、高橋是清、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸など、官僚から政党政治家に転じて大臣、首相になった人物が注目される一方、官僚から貴族院政治家に転じた、清浦圭吾、田健次郎、阪谷芳郎らについては、注目されることが少なかった。政治家としてトップリーダーではなくいわば政界のサブリーダーであり、脇役プレイヤーであったためであろう。阪谷の人生は、大きく四つに分けることが出来よう。第一に、生まれてから東大を卒業するまでの21年間で、修学期ともいうべき時代。第二に、大蔵省人省から蔵相辞任までの24年間、大蔵省時代。第三に、蔵相辞任から貴族院議員となるまでの9年間で、3回洋行し、東京市長を務めた時期。第四に、貴族院男爵議員に互選されてから、死去するまでの24年間で、貴族院時代。第一期の修学期の舞台は東京であった。父朗廬の配慮で箕作秋坪の三叉学舎に学び、東京英語学校・大学予備門を経て、東京大学文学部に進学し政治学・経済学を学んだ。東大時代の恩師田尻稲次郎の世話で大蔵省に入り、第二の時期が始まる。官僚となって間もなく、渋沢栄一の次女と結婚し、大蔵省において主計官、主計局長、次官と累進し、明治憲法体制における金融・財政制度の構築に大きく関わった。日清・日露戦争では戦時財政の中核を担い、日露戦争後、第1次西園寺内閣の蔵相を務め、大蔵官僚として功成り名遂げた。第三の時代は、阪谷にとって最も実りがあり、豊かな時代であったかもしれない。宿願であった欧米周遊を果たし、ベルン国際平和会議に委員として参加し、さらに第一次世界大戦に伴う連合国経済会議に日本政府代表として出席した。この3回の洋行で阪谷は国際的な知見を広め、国際的な人的ネットワークを作り上げた。この間、約2年半ではあったが東京市長を務め、岳父渋沢栄一とともに明治神宮の東京「誘致」に成功した。第二の時代に培い、手に入れた日本を代表する官庁エコノミストとしての名声をバックに、比較的自由に活動できた時代であった。第四の時期は、第一第三の時期に獲得した知見に基づき、政治・経済・外交を縦横に論じ、貴族院議員として政治に参画した。田尻稲次郎や若槻礼次郎など大蔵省の先輩・後輩たちのように終身の勅選議員にはなれなかったが、男爵として7年ごとの互選により、24年間にわたり貴族院に議席を維持した。しかし、加藤高明や若槻礼次郎らのように、政党に入ることはなく、桂系の元官僚である阪谷は政友会に入ることはせず、桂太郎との微妙な人間関係により桂自ら組織した同志会に入会を誘われることはなかった。加藤、阪谷、若槻らのような学士官僚でなかった後藤新平は、桂新党に一旦参加はしたが、桂が死去するや離脱し、自らの才覚と実績によって官僚政治家として大成した。阪谷は貴族院の指導者の一人でしかなく、第二次護憲運動後の政党内閣の時代の到来は、貴族院を政治の前面に立てなくした。阪谷は政党というバックを持たなかったし、衰退しつつあった山県・桂系官僚閥に依存するところが小さかった。そこで、大蔵省時代のキャリアと知見、第二の時代に得た知見や海外での経験などによる貴族院政治家であることを目指した。晩年の畢生の事業は東京・横浜万博の開催で、皇紀2600年奉祝という形で、日本初の万博として計画されたが、日中戦争のため延期の止むなきに至った。しかし、それは、第二次世界大戦後、場所を変えてより大規模に大阪万博や愛知万博という形で開催された。日本万博協会は、阪谷たちによる「幻の東京・横浜万博」の抽選券付回数入場券が、戦後の混乱の中で多数回収されないままになっていたことを考慮し、二つの万博での使用を認めた。阪谷は近代日本の展開とどのように関わったのか、官僚出身の政党政治家とはどのように異なった道を歩んだのか、本書はこの点に留意しつつ阪谷の生涯を描こうとするものである。
第1 誕生から東京英語学校卒業まで/第2 東京大学文学部政治学理財学科に入学/第3 大蔵省時代/ 第4 日清戦争と戦後経営/第5 金本位制度の導入/第6 日露戦争と戦時財政/第7 日露戦後経営と大蔵大臣阪谷/第8 二度の外遊/第9 東京市長時代/第10 第一次世界大戦と連合国パリ経済会議/第11 幻の中国幣制顧問/第12 貴族院議員になるー「公正会」を設立/第13 関東大震災からの東京復興と昭和戦前期の貴族院/第14 「紀元二千六百年」奉祝に向けて/第15 日米開戦直前の突然の死
30.2月22日
”いま、なぜ魯迅か”(2019年10月 集英社刊 佐高 信著)は、まじめ主義者といい人ばかりの日本にいま必要なのは魯迅の批判と抵抗の哲学だとして作品を論じ縁の深い作家・思想家を振り返る魯迅をめぐる思索の旅である。
魯迅は1881年中国・浙江省紹興生まれ、本名は周樹人、字は予才、ほかに迅行、唐俟、巴人など数十の筆名を用いた。家は祖父が知県も務める中地主だったが、祖父が科挙の不正事件で入獄し、父も病死してにわかに没落し、長子として生活の苦労も体験した。1898年に南京の江南水師学堂に入学したが、内容に不満で退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂に入学した。1902年に官費留学生として日本に派遣され、弘文(宏文)学院を経て、仙台医学専門学校に入学した。このころ思想的には革命派の立場にたち、清朝打倒を目ざす光復会にも加入した。仙台医専在学中、志を文学に転じて退学し、東京に戻って企画した文学運動の雑誌は未成に終わった。強烈な個性と反逆精神をもつ詩人=精神界の戦士を顕彰して、中国にもその誕生を促し、その叫びによって民衆の心を燃えたたせる、というのが当時に描いた中国変革のイメージであった。1909年に帰国し、杭州、紹興で教師をするうちに1911年の辛亥革命を迎え、新政府に教育部員として参加し、北京に移った。辛亥革命後の現実は革命像を大きく裏切るもので、袁世凱の反動のもと、寂寞の時期を送った。1918年に、友人の勧めもあって『狂人日記』を発表、以後『阿Q正伝』等、のちに『吶喊』『彷徨』にまとめられた小説を発表した。これは文学革命に実質を与え、中国近代文学の成立を示すものであるとともに、中国社会と民衆のあり方を振り返り、青年時代の革命像を再検討する意味をもっていた。また一方、鋭い社会・文化批評を込めた雑文を執筆し、やがて著作の大きな部分を占め、中国文学のなかでも独自の一ジャンルとなった。佐高 信氏は1945年山形県酒田市生まれ、山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、郷里・山形県で庄内農高の社会科教師となった。ここで教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため、赤い教師の非難を浴びたという。酒田工高に転じて結婚もしたが、同じく赤軍派教師のレッテルを貼られ、県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚女性との出会いがあり、前妻と離婚し1972年に再度上京した。上京後、総会屋系経済誌編集部員を経て編集長となり、その後、評論家活動に入った。公然とした社民党支持者で、土井たか子らと憲法行脚の会を結成し、加藤紘一との対談集会を開くなど、護憲運動を行なっている。小泉内閣・安倍内閣への批判から、クリーンなタカ派よりはダーティでもハト派の方が良いと、加藤紘一や野中広務、鈴木宗男ら自民党内の左派や旧竹下派人脈との関係を深めた。ロッキード事件で失脚した田中角栄に関しても、かつてはこき下ろしていたものの今ではダーティなハトとして相対的に評価している。現在、評論活動のほか、東北公益文科大学客員教授、元週刊金曜日編集委員、ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク共同代表、先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務めている。魯迅は1925年に、北京女子師範大学の改革をめぐって新旧両派の衝突した女師大事件で、進歩派の学生・教員とともに軍閥政府に抵抗し、いったん教育部員を罷免されましたが、平政院に提訴して勝利を収めました。留学中に一度帰国して朱安と結婚をしていたが、女師大の学生だった許広平と出会い、しだいに愛が生まれた。1926年夏に厦門大学に移ったが、その空気に不満で1927年初め、国民革命の根拠地だった広東に移り、ここで上海クーデターを体験し、思想的にも大きな転機となった。1927年秋に上海に移り、このときから許広平と同居し、1929年に子供が生まれ、その後、死ぬまで上海に住んだ。上海では国民革命の挫折を機に、革命文学を唱える創造社、太陽社から、小ブル文学者と非難を受け、革命文学論戦を展開した。そして、自らマルクス主義芸術論やソビエト文学を精力的に翻訳した。やがて1930年に左翼作家連盟が結成されると、その中心的人物となり、国民党政府の弾圧やその御用文人と、妥協することなく論争した。芸術にも早くから関心をもって、1931年に内山完造の弟嘉吉を招いて木版画講習会を開いたのをはじめ、若い木版作家を養成し、中国現代版画の基礎を築いた。著者は、まじめ主義者と多数に従ういい人ばかりの日本に、いま必要なのが魯迅の「批判と抵抗の哲学」だと言う。魯迅は、徹底して儒教に抵抗し、真ん中を行く中庸では、世の中は変えられないと言った。魯迅は永遠の批判者であり、魯迅の徒として「批判が生ぬるい」という批判は受け入れても、「批判ばかりして」という難癖を受けつけるつもりはないという。「批判をし抜く」ことを基点としているのであり、「お前の批判は足りない」と言われた時にのみ、さらに奮起するとのことである。「批判をし抜く人」は必要であって、そこにしっかりと踏みとどまって批判の言葉を研磨したのが魯迅であった。著者は、残された時間もそう多くないのに、自分には主著と言えるようなものはあるのか、といった疑問がわいて、少なからずうろたえたそうである。「魯迅を生きる」というか、「魯迅と生きる」道を歩んできた著者にとって、それは、ある意味でわが人生を振り返ることであり、書き進めるに従って、改めて自分の中に魯迅が深く入っていたという思いを新たにしたそうである。ドレイは人に所有されることによって自由ではない、しかし、ドレイの所有者もまた所有することによって自由ではない。したがって、人間の解放はドレイがドレイの主人にのし上がることによってではなく、人が人を支配する制度そのものを改革することによってしか実現しない。現在の企業という封建社会、あるいはドレイ社会の改革も、この方向によってしかなしえない。そのためにもまず、ドレイ精神からの脱却が主張されなければならない。会社国家であり官僚国家でもある日本では、精神のドレイが主人の意向を先取りする、いわゆる忖度が大流行りである。まじめナルシシズムの腐臭はそこから立ちのぼるので、批判と抵抗の哲学をもってまじめナルシシズムを捨てることを勧めている。魯迅がそうした腐臭と無縁なのは、己れの力などなにほどのものでもないことをハッキリ知っているからである。努力が報われがたい現実であるからこそ、絶えず刻む努力が必要であることを知っている。著者は、「私は人をだましたい」や「フェアプレイは時期尚早」といった魯迅の刺言を読んで、至誠天に通ず式のマジメ勤勉ナルシシズムから自由になったそうである。魯迅を自らの思想的故郷として、血肉となった作品を論じ、ニーチェ、夏目漱石、中野重治、竹内好、久野収、むのたけじら、縁の深い作家・思想家を振り返る。「永遠の批評家」魯迅をめぐる思索の旅は、孤高の評論家の思想遍歴の旅でもある。
はじめに-いま、なぜ魯迅か/第一章 一九〇四年秋、仙台/第二章 エスペラントに肩入れした魯迅と石原莞爾/第三章 満州建国大学の夢と現実/第四章 上野英信の建大体験/第五章 故郷および母との距離/第六章 魯迅とニーチェの破壊力/第七章 死の三島由紀夫と生の魯迅/第八章 夏目漱石への傾倒/第九章 中野重治と伊丹万作の魯迅的思考/第十章 久野収と竹内好の魯迅理解/第十一章 竹内好の太宰治批判とニセ札論/第十二章 魯迅の思想を生きた、むのたけじ/第十三章 魯迅を匿った内山完造/第十四章 魯迅の人と作品
31.2月29日
”豊臣家最後の嫁-天秀尼の数奇な運命”(2013年2月 洋泉社刊 三池 純正著)は、秀頼の子で大坂城落城後に千姫の養女となり縁切寺として知られる東慶寺の中興の祖となった天秀尼の生涯を紹介している。
天秀尼は鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持に当たり、家康の孫で秀頼の正室の千姫は養母である。大坂城落城以前の天秀尼については記録がない。1615年に大坂城が落城し、秀頼とその母・淀殿は自害し、豊臣家は滅んだ。秀頼の息子は斬首となったが、まだ7歳の少女だった天秀尼は死罪を免れ、千姫の養女となり、家康の命で東慶寺に預けられた。三池純正氏は1951年福岡県生まれ、工学院大学工学部を卒業し、戦国期の歴史の現場を精力的に踏査し、現場からの視点で歴史の定説を見直す作業をすすめている。天秀尼は1609年生まれ、天秀は法号で、法諱は法泰、院号は授かっていない。母の名も、出家前の俗名も不明である。記録に初めて表れたのは大坂城落城直後であり、それ以前には無い。同母か異母かは不明であるが、天秀尼の年子の兄・国松は、大阪城落城の直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが当時の記録にある。天秀尼は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命された。国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、祖母・淀殿の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとある。天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り、落城後に千姫の養女となったと見られる。出家の時期は東慶寺の由来書に、仏門に入り瓊山尼=けいざんにの弟子となったという記述がある。時に8歳であったため、出家は大坂落城の翌年の元和2年であり、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。東慶寺は北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝わり、南北朝時代に後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、室町時代には鎌倉尼五山第二位とされた。かつては、鎌倉尼五山第二位の格式を誇り、夫の横暴に悩む女性の救済場所だった。代々関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持となっており、尼寺でこの格式ということから、天秀尼の入寺する先として選ばれた。また師・瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘・振姫に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は、天秀尼の東慶寺入寺は、恐らく月桂院あたりの入知恵と推察されるとしている。 東慶寺に預けられる際、徳川家康に望みを聞かれた天秀尼は「開山よりの縁切寺法が断たれることのないように」と願い出たという。その後、東慶寺の「縁切寺法」は、1872年まで存続した。天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていたが、塔銘によれば、円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したという記載がある。東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺、駆込寺として有名である。江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのは、東慶寺と上野国の満徳寺だけで、両方とも千姫所縁である。天秀尼について忘れてはならないのが、会津騒動といわれる会津若松藩主・加藤明成の改易事件である。1639年に、会津若松藩主・加藤明成の非を幕府に訴えるため家臣・堀主水が妻や家臣と出奔したが、追っ手が差し向けられ、堀主水は高野山へ、妻は東慶寺へ逃げ込んだ。高野山は明成の要求を受け主水を引き渡し、その後斬殺されたが、東慶寺の天秀尼は明成からの強硬な引渡し要求を拒否し、主水の妻を守ったという。さらに養母・千姫を通じて三代将軍・家光に明成の非を訴え、明成は会津40万石を幕府に返上するはめになった。そして、会津加藤家改易から2年後の1645年2月7日に天秀尼は37歳で死去した。天秀尼の墓は歴代住持で最も大きなもので、側にある墓は天秀尼の世話をしていた女性のものと思われ、一説には豊臣秀吉の側室となりのちに天秀尼の世話役もしていたという甲斐姫のものともいわれるが、真偽は不明である。天秀尼の死によって豊臣秀吉の直系は断絶した。長命であった千姫は、娘の13回忌に東慶寺に香典を送っている。天秀尼の墓は、寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚となっている。著者が天秀尼の取材に初めて鎌倉東慶寺を訪れたのは、2011年の晩秋のころであったという。その日は朝から少しひんやりとした気候であったが、境内はすでにたくさんの観光客でにぎわい、みなそれぞれに紅葉に彩られた東慶寺の風情を楽しんでいた。東慶寺の宝蔵には、天秀尼が父豊臣秀頼への供養として1642年に鋳造したという雲版が残されている。雲版をじっと見ていると、天秀尼の父秀頼への深い思いが伝わってくるという。天秀尼は父秀頼を深く尊敬し、自らが秀頼の娘であることに大きな誇りを持っていたのではないか。大坂城が落城し父秀頼が自刃する直前まで、父や祖母・淀殿のそばにいたものと思われる。そこで父と過ごした日々は短かったが、天秀尼はそのときの思い出を深く胸に秘めてその後の人生を生きていったに違いない。天秀尼の目に映った秀頓とはいったいどんな人物だったのであろうか。資料によれば、秀頼は学問・教養を身につけた賢人であり、最後は自らの意志で家康と戦う道を選ぶことになった。純粋で慈愛に満ちた武将であったゆえ、そのもとに集まった浪人諸将は秀頼のために命を捨てることを厭わず、千姫もそんな秀頼を心から愛し、天秀尼も幼き心に焼き付けた父の雄姿を生涯忘れることはなかったのであろう。人生はちょっとしたボタンの掛け違いで大きく変わってしまうことがある。家康も初めから豊臣家を滅亡させることなど望んでいたとは思えない。また、淀殿も最後は自らが大坂城を出ていくことで、豊臣家を守ろうとした。しかし、秀頼は豊臣家の存続より、武門の意地、さらには浪人たちの誠にこたえる道を選び、結果的に豊臣家を滅ぼすこととなった。もし、家康と秀頼が大坂の陣の前に忌憚なく互いの胸の内を話し合う機会があったなら、このような戦は避けることができたに違いない。大坂の陣は、その後の天秀尼、千姫の人生を大きく変えてしまった。遺児となった天秀尼は、自らの宿命に立ち向かい、最後は、それを女人救済という使命に変えていった。本書はそんな二人の心の通い合いを描いたつもりであるという。
序章 豊臣秀頼の首/第1章 千姫の入輿―徳川家から豊臣家へ嫁ぐ姫/第2章 秀頼の隠し子―存在を秘された二人の子の誕生?第3章 家康暗殺計画―天下人の居城で相次いだ事件/第4章 家康と秀頼―京都二条城で逆転した主従関係/第5章 宣戦布告―浪人を召集して臨んだ大坂の陣/第6章 君主秀頼―滅びゆく豊臣家と親子の対面
/第7章 脱出―大坂城外で捕らえられた兄妹/第8章 天秀尼誕生―十年後の出家と千姫との交流/第9章 会津
加藤家改易事件―大藩と渡り合った天秀尼/終章 宿命を使命にかえて
32.令和2年3月7日
”トウガラシの世界史 - 辛くて熱い「食卓革命」”(2016年2月 中央公論新社刊 山本 紀夫著)は、原産地の中南米からヨーロッパに伝わりわずか500年のうちに全世界の人を魅了するに至った比類ない辛さが魅力のトウガラシの伝播の歴史と食文化を紹介している。
トウガラシは唐辛子、唐芥子、蕃椒とも言い、中南米を原産とするナス科トウガラシ属の果実あるいは、それから作られる辛味のある香辛料である。唐辛子の漢字は、唐から伝わった辛子の意味で、歴史的に、この唐は漠然と外国を指す語とされ、同様に南蛮辛子や、略した南蛮という呼び方もある。唐辛子の総称として鷹の爪を使う者もいるが、正確には鷹の爪はトウガラシ種の1品種である。トウガラシ属は中南米が原産地であり、メキシコでの歴史は紀元前6000年に遡るほど古い。トウガラシ属には数十種が属するが、そのうち栽培種は、annuum(トウガラシ)、baccatum(アヒ・アマリージョなど)、chinense(ハバネロ、ブート・ジョロキアなど)、frutescens(キダチトウガラシ)、pubescens(ロコト)の5種である。トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシには様ーな品種があり、ピーマン、シシトウガラシ、パプリカなど、辛味がないかほとんどない甘味種も含まれる。山本紀夫氏は1943年大阪市生まれ、京都大学農学部農林生物学科を卒業し、同大学院博士課程を修了した。農学博士(京都大学)、学術博士(東京大学)、専攻は民族学、民族植物学で、国立民族学博物館教授を経て、同館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授を務めた。トウガラシは15世紀後半に、ヨーロッパでは純輸入品の胡椒に代わる自給可能な香辛料として南欧を中心に広まった。16世紀にはインドにも伝来し、様々な料理に香辛料として用いられるようになった。バルカン半島周辺やハンガリーにはオスマン帝国を経由して16世紀に伝播した。日本への伝来として、1542年にポルトガル人宣教師が豊後国の戦国大名に献上したとの記録があるが、諸説があるようである。いまや日本の漬け物の生産量第一位を占めるのはキムチであるが、これにはトウガラシが不可欠である。そのせいか、トウガラシの原産地は朝鮮半島だと考えている人が少なくない。また、インド原産だと考える人もいる。これも辛くて刺激的なトウガラシを使ったカレーライスのせいかもしれない。しかし、トウガラシは朝鮮半島原産でもなければ、インド原産でもない。トウガラシの故郷は中南米であり、15世紀の末にコロンブスによってカリブ海の西インド諸島から初めてヨーロッパに持ち帰られた。コロンブスは、唐辛子を胡椒と勘違いしたままだったので、これが後々まで、世界中で唐辛子 (red pepper) と胡椒 (pepper) の名称を混乱させる要因となった。そして、トウガラシはコロンブスの新大陸発見まで、旧大陸ではまったく知られていなかった作物であるが、ヨーロッパからアフリカやアジアなど世界各地にもたらされた。著者がトウガラシに初めて興味をもったのは、40年以上も前の1968年のことだったという。当時、京都大学農学部の学生で、京都大学探検部が派遣したアンデス栽培植物調査隊の一員として、ペルーやボリビアなどのアンデス地帯を踏査していた。アンデスは、ジャガイモをはじめとして、タバコやトウガラシなど多数の栽培植物の原産地なので、これらの栽培植物の起源を探ろうとしていた。ある日のこと、ボリビアの事実上の首都であるラパスの市で珍しいものを売っているのを見つけた。小指の先ほどの小さな緑色の果実で、見たところサンショウのように見えるが、果実を売っていた女性は「ウルピカ」だと言った。その果実を一個だけ味見させてもらったところ、たしかに飛び上がるほど強烈な辛さであった。その味はトウガラシ以外の何者でもなく、ウルピカはトウガラシの野生種だと分かった。それからトウガラシと人間の関係に大きな関心が生まれ、それを知るために中南米の各地を歩きまわった。そして、中南米各地域で採集した900系統あまりのトウガラシの栽培、観察、交配実験などを繰り返し、1978年には「トウガラシの起源と栽培化」(英文)というテーマで学位論文を提出し、博士号を得たという。これまで世界各地におけるトウガラシの利用や歴史を追いかけてきたが、なぜ、人間はあんなに辛いトウガラシを好むのだろうか。食べているときは、汗をかくほどつらいのに、食べおわるとまた辛いものを食べたくなってしまい、トウガラシの辛みには一度食べると病みつきになってしまう魅力がある。人間の舌には辛みを感じる感覚はないが、トウガラシの辛み成分のカプサイシンが舌を強く剌激し、舌の痛覚かそれを感じる。トウガラシを食べると人間の体は、痛みの元となる物質を早く消化し無毒化しようとして、胃腸を活発化させ食欲が増進する。トウガラシは胃腸を活性化するだけでなく、カプサイシンによって体に異常をきたしたと感じた脳は、脳内モルヒネと呼ばれるエンドルフィンまで分泌する。エンドルフィンには鎮痛作用があり、疲労や痛みを和らげる役割を果たし、結果的に、人間は陶酔感を覚え快感を感じる。トウガラシの辛み成分であるカプサイシンには、食欲増進効果だけでなく、ストレスの解消や体内の脂肪の分解を促進する働きもある。カプサイシンは胃腸から吸収されると副腎に作用し、かなり長時間にわたって、アドレナリンを主成分とする人間を興奮状態にさせるホルモンの分泌を促進する。現在、トウガラシを含む香辛料が食品として使われる主な目的は、食欲の増進や風味づけにあると考えられる。しかし、人間が香辛料を使ったそもそもの動機は必ずしも食欲増進や風味づけだけにあったわけではない。肉類や魚介類の品質変化の抑制や腐敗防止の目的でも、香辛料は使われたのではないだろうか。中米でもアンデスでも、まだ人びとが狩猟採集で食料を得ていた時代から、トウガラシが利用されていたことはそのことを物語る。トウガラシの主な辛み成分はカプサイシンであるが、これはカビに対して効力を有し、一部の細菌に対しても強い抗菌性を示すことが知られている。トウガラシはキムチやコチュジャン、辛子明太子などの貯蔵や保存を目的とする食べものに用いられており、腐敗防止という作用を期待してのものだったことかうかがえる。トウガラシの代表的成分はカプサイシンで、生のトウガラシには重量の0.02~0.2パーセント、乾燥トウガラシで0.1~1パーセント含まれている。カプサイシンはトウガラシを食べたときのカーッとした熱い辛さを生み出し、食品として食べたときには、まず口にさわやかで強烈な辛みを引き起こす。そして、辛いと感じることで、大多数の人が汗をかき唾液の分泌も高まる。そのほか、カプサイシンの刺激が脳に伝わるとさまざまな作用が起き、まず、交感神経を刺激して、エネルギー消費を高め、脂肪の燃焼をよくする。同様に、交感神経か刺激されることで血行がよくなり体が温まる。また、ビタミンEよりも高い抗酸化作用があることもわかっている。トウガラシの栄養素のうち、ビタミンやミネラルなどの微量成分では、ビタミソCの量の多いことか特徴として指摘できる。ビタミンCの働きのうち代表的なものとしては、体の老化を防ぐ抗酸化作用がある。ビタミンC以外のビタミンとしては、ビタミンEやA、Kの含量も高い。これらは単独で働くだけでなく、一緒に摂取することでお互いの効果を高めあうことができ、酸化を防止するACE(エース)とも呼ばれる。このほか、トウガラシには医薬品としての用途などもあり、まだまだ知られていない魅力もあり、これらの魅力が明らかにされれば、トウガラシによる辛くて熱い食卓革命は、さらに世界中で広く深く浸透してゆくに違いない。本書の構成はわかりやすいように地域別にしてあり、原産地の中南米に始まり、地球を東まわりに日本で終わるという構成となっている。
第1章 トウガラシの「発見」/第2章 野生種から栽培種へー中南米/第3章 コショウからトウガラシへーヨーロッパ/第4章 奴隷制が変えた食文化ーアフリカ/第5章 トウガラシのない料理なんてー東南アジア・南アジア/第6章 トウガラシの「ホット・スポット」ー中国/第7章 「トウガラシ革命」ー韓国/第8章 七味から激辛へー日本/終章 トウガラシの魅力ーむすびにかえて
33.3月14日
”日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三”(2018年12月 中央公論新社刊 鹿島 茂著)は、阪急、東宝、宝塚などのユニークな発想から生まれたビジネスモデルを実践して各地の事業者達に影響を与えた小林一三の生涯を紹介している。
小林一三は1873年に山梨県巨摩郡河原部村、現在の韮崎市の商家で生まれ、すぐ母が死去し父とも生き別れ、おじ夫婦に引き取られた。高等小学校から笛吹市八代町南の私塾・成器舎を経て上京し、1888年に慶應義塾に入り、塾構内の塾監・益田英次の家に寄宿した。1892年に慶應義塾正科を卒業して三井銀行に勤務し、34歳まで勤め東京本店調査課主任まで昇進した。日露戦争終結後、北浜銀行を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるため、1907年に大阪へ赴任した。しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えとなり、その頃に箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業が有望として岩下を説得し、北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功した。1907年に同社は箕面有馬電気軌道と社名を改めて設立され、小林は同社の専務となった。後にこれが阪急電鉄となり、さらに宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝などを加えて阪急東宝グループになった。鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致などを行い、日本最初の田園都市構想を実現した。そうした手腕が見込まれて、東京電燈、現在の東京電力の経営を立て直し、1940年には第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命された。鹿島 茂氏は1949年横浜市生まれ、湘南高等学校、東京大学文学部仏文学科を卒業し、同大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学した。共立女子大学助教授・教授を経て、2008年より明治大学教授を務め、専門は、19世紀のフランスの社会生活と文学で、当初、フランス文学の研究翻訳を行っていたが、1990年代に入り活発な執筆活動を行っている。1991年サントリー学芸賞、1996年講談社エッセイ賞、1999年ゲスナー賞、2000年読売文学賞、2004年毎日書評賞を受賞した。本書は2015年10月号から2018年12月号までの、雑誌”中央公論”への連載を元にしている。箕面有馬電気軌道は恐慌に見舞われ全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれ、社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。そして1910年に開業し、現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間に電車を走らせた。これに先立ち、線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年に分譲を開始した。サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めた。同年11月に箕面に動物園、翌年に宝塚に大浴場・宝塚新温泉、1914年4月に、三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊を創り上げた。沿線開発は乗客の増加につながり、神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改めた。神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図り、現在の阪急を創り上げる支えとなった。1927年に社長に就任し、日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめた。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を、阪急マーケットと称した日用品販売店を2・3階に入れた。1929年3月に阪急百貨店という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える阪急のイメージを確立し続けている。百貨店事業の成功は、1929年の六甲山ホテルなどの派生事業の拡充、1932年の東京宝塚劇場や1937年の東宝映画の設立などの興業・娯楽事業にもつながり、阪急東宝グループは年々拡大の一途を辿った。その後、1934年に阪急社長を辞任してグループの会長に就任し、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任した。放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人東電電気実験所、昭和肥料の設立にも関わった。そして、第2次近衛内閣で商工大臣となったが、革新官僚の代表格の岸 信介と対立し、企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕され岸が辞職した。しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃され小林も辞職した。終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となった。1951年に追放解除となった後は東宝の社長になったが、1957年1月25日に自宅にて急性心臓性喘息で84歳で死去した。明治時代に、若尾逸平、根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれたが、小林は関西を中心に活動した地方財閥と見なされ、甲州財閥とは区別されている。また、小林は実業界屈指の美術蒐集家、茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、逸翁コレクションと呼ばれている。これらを集めた逸翁美術館が旧邸の雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていた。雅俗山荘は現在、小林一三記念館として一般公開されている。なぜ今、小林一三なのか、それは、小林一三ほど、デカルト的な合理的精神を体現した企業家は日本にはいないと感じているからであるという。デカルト的合理的精神とは、正しい損得勘定ということである。近年、歴史人口学の発達により、出生率と死亡率の相関関係が、その国や地域の文明の進捗度などを計る最も確実な指標として浮上してきている。いまや、この二つの指標の相関値の推移を観察すると、その国や地域の過去ばかりか、未来まで予測できるようになっている。一般に一国ないし一地域の人口状況は、社会の経済発展にともなう医療・保健衛生の整備により、多産多死型の高出生率・高死亡率から、少産少死型の低出生率・低死亡率へと移行するが、その過程は以下の四段階をもって完了する。第一段階の前工業化社会においては、医療・保健衛生状態と栄養状態の悪さゆえ、乳児死亡率が非常に高く全体では高死亡率で、自然増加率は低水準に止まっている。第二段階の工業化社会の到来で、医療・保健衛生状態と栄養状態が改善され、死亡率、とりわけ乳児死亡率が大きく低下するが、出生率は第一段階のまま高止まりし、自然増加率はどんどん高くなる。第三段階の工業化社会の進展により、出生率が死亡率を大きく上回り人口圧力が高まるが、やがて出生率の転換が起きて出生率は一気に下がり、自然増加率は低下し始める。なお、人口そのものは第二段階の影響が残り増加を続ける。第四段階では出生率も死亡率もともに下がり続け、自然増加率は低水準で推移し、自然増加率はマイナスとなり少産少死型が完了し、総人口はやがて減少に転ずる。小林の企業家としてのスタートは1907年の箕面有馬電気軌道の設立と専務取締役就任とすると、それは第二期に相当していた。小林は日露戦争後の日本の若年人口がどんどんと増加していく最も良い時期に、箕面有馬電気軌道を始めたのである。自然増加率が最大になった第二期の起業家である小林には、人口増という強力な後押しがあった。しかしいうまでもなく、小林以外の誰かであっても同じような業績を残せたということではない。人口増という要因をビジネスの浮揚力として利用することを思いついたのは、ひとり小林だけであった。著者は、箕面有馬電気軌道を計画してから分譲地開発を思いついたのではなく、分譲地となるべき土地の安さと優良さに気づいていたがために、箕面有馬電気軌道は行けると判断したのだという。大阪市内に人口が密集しているのは、市内にしか移動手段がないためで、もし郊外への移動手段が整備されたら、人々は大阪を脱出して環境のいい郊外に移動するだろうと、人口学的な発想がひらめいたのである。人口増大期の第二期的な発想から、事業を人口増大という大原理に照らして有望か否かを判断していたのである。21世紀のわれわれは人口状況の第四期にいるが、ちょうど鏡で画像を反転させるように対偶的思考を用いてこれを検討したら、あるいは人口減少期に生きる日本人のヒントになるようなことが見つかるかもしれない。人口はすべてを決める、この点を忘れてはならない。
序章 なぜ今、小林一三なのか?第1部 星雲立志/第1章 実業家なんてなりたくなかった?/第2章 銀行員時代① 仕事より舞妓の日々/第3章 銀行員時代② 耐えがたき憂鬱の時代/第4章 鉄道篇① 鉄道事業との予期せぬ出会い/第5章 鉄道篇② 鉄道と住居が民主主義を育む/第6章 鉄道篇③ アミューズメントで客を呼べ/第7章 劇場篇① 少女歌劇団を発明する/第8章 劇場篇② 男役誕生秘話/第9章 鉄道篇④ 災難が降りかかるほど運がいい/第10章 鉄道篇⑥ 事業は無理してはいけない/第11章 鉄道篇⑥ 阪急vs.阪神/第12章 番外篇① 「阪急」が文化になりえた理由/第13章 百貨店篇① ターミナルデパート「阪急百貨店」の誕生/第14章 経営のイノベーターとして何が革新的か
第2部 第1章 東京篇① 心ならずも東京進出/第2章 東京篇② 電力事業に着手する/第3章 劇場篇③ 宝塚少女歌劇団、大ブレイクの時/第4章 映画篇① ヴィジョナリー・カンパニー「東宝」の誕生/第5章 映画篇② モットーは「健全なる興行」/第6章 劇場篇④ ”東宝の救世主”古川ロッパ/第7章 番外篇② 欧米視察旅行で見た実情/第8章 東京篇③ 楽天地-下町に明るく健全な娯楽を/第9章 東京篇④ 第一ホテル-東京に大衆のためのホテルを/第10章 球団篇 阪急ブレーブスとプロ野球に賭けた夢/第11章 東京篇⑤ 幻に終わったテレビ放送事業/第12章 番外篇③ 阪急沿線に学校が多いのはなぜか/第13章 国政篇① 天才実業家、政界への道/第14章 国政篇② 革新官僚の台頭と軍国化する日本/第15章 国政篇③ 大臣就任-戦時経済の救世主となれるか?/第16章 国政篇④ 革新官僚との戦い/第17章 国政篇⑤ 怪物次官・岸信介との仁義なき戦い/第18章 国政篇⑥ 小林、大臣を「落第」する
第3部 戦中・戦後/第1章 筋金入りの自由主義者、戦時下を生きる/第2章 戦後篇① 自由経済を求め、二度目の大臣就任へ/第3章 戦後篇② 東宝、分裂の危機/第4章 戦後篇③ 新東宝とのバトルを経て、社長復帰/第5章 戦後篇④ 天才実業者の後継者/第6章 戦後篇⑤ 小林一三が遺したもの
あとがき/小林一三年譜
34.3月21日
“古代史研究70年の背景”(2016年6月 藤原書店刊 上田 正昭著)は、古代史の泰斗が自らの古代史研究70年を振り返り、古代史、考古学、民俗学、東アジア史を駆使した上田古代学の背景を語っている。
戦後、古事記、日本書紀などの文献を皇国史観から取り戻していくなかで、古代学は古代を明らかにするために、様々な学の成果、見方を抱え込んで、日本の古代をみようとした。文字史料を批判的に考察しつつ、遺跡や遺物、神話や民間伝承なども総合的に考察することによって、日本古代の実相を明らかにしようとした。上田正昭氏は1927年兵庫県城崎郡城崎町生まれ、1947年に國學院大學専門部を卒業し、1950年に京都大学文学部史学科を卒業した。1963年京都大学教養部助教授、1971年教養部教授、1978年教養部長、1983年埋蔵文化財研究センター長を務めた。1991年に大阪女子大学学長となり、1997年に退任した。専門は古代日本・東アジア史、神話学で、小幡神社宮司、歌人でもあり、京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授、西北大学名誉教授であった。世界人権研究センター名誉理事長、高麗美術館館長、島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長、中国西北大学名誉教授、中国社会科学院古代文明センター学術顧問を務めた。大阪文化賞、福岡アジア文化賞、松本治一郎賞、南方熊楠賞、京都府文化特別功労者、京都市特別功労者、勲二等瑞宝章、韓国修交勲章を受賞した。中学生の時、京都府亀岡市の小幡神社の社家、上田家の養子となり、長じて大学時代から同神社宮司を務めた。1940年1月に、早稲田大学の津田左右吉教授が出版法違反の容疑をうけて早稲田大学教授を辞任した。同年2月に『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』が発売禁止になった。ファシズムによる言論弾圧がきびしくなる時代に中学校に入学し、中学2年生のおりに、担任の先生の自宅を訪問したさい、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』をみつけたという。先生は貸すことをためらったが、強引に借りうけて学校で習っている神典『古事記』『日本書紀』には後の知識で作為されたり、あるいは潤色されている箇所のあることを知った。中学校で習っている上代史には虚偽があるらしいことを実感し、学問とは何かをなんとなく教えられた。上代史の真相を知りたいと疑問と興味をもったのはそのころからである。第二次世界大戦中の1944年4月に國學院大學専門部に入り、折口信夫らに師事した。在学中に古書店から津田の著書を入手し、『古事記』『日本書紀』に対する文献批判に衝撃を受けた。津田と会うことはなかったが、強い影響を受けたという。終戦まで学徒動員で東京石川島造船所などで働いた。1945年8月の敗戦を契機に、神国日本、皇国日本の実態を認識するために、天皇制とは何かを改めて考察しようと決意した。幼年から青年期にかけて、徹底的に学徒は皇国臣民として天皇と皇国に殉ずべきであると教育されてきて、神国日本の決定的な敗北で虚脱と懐疑の淵に投げこまれた。近代日本に創出された天皇制が、古来の伝統にもとづくものであるからというので、その内容を明確に吟味しないで、天皇制が古代から連綿とうけつがれてきたというのは、歴史の実相とは大いに異なる。672年の壬申の乱によって勝利した大海人皇子(天武天皇)の治世のころから、天皇制は具体化すると考えて、上代史の研究をこころざした。1947年に、総合的な文化史を唱える西田直二郎に憧れて京都帝国大学文学部史学科に入学した。しかし、西田は戦時中の戦争協力を理由に公職追放を受けて退職した。京都大学文学部史学科の卒業論文には、『古事記』『日本書紀』の氏族系譜のありようを中心に「日本上代に於ける国家的系譜の成立に就いて」(主論文)、「中宮天皇考」(副論文)をまとめた。これらの論文では大東亜戦争が敗北に終った昭和20年8月15日のその日の、「天皇制とは何か」という19歳のおりの疑問を自分なりに解明することをめざした。京都大学卒業後、高等学校教員を経て京都大学助教授、教授となった。日本古代史の第一人者であり、その学問の特徴は、神話学・民俗学などに視野を入れ、広く東アジア的視野点から歴史を究明するところにあった。2015年は戦後70年になるが、研究史もちょうど70年になるという。70年におよぶ研究史のなかで論争したのは、井上光貞東京大学教授との間であった。邪馬台国問題や日本の3~5世紀を「日本古代貴族の英雄時代」とみなした石母田正法政大学教授の説をめぐって、奴隷制以前の「はつらつたる無政府の状態としての英雄時代」を支持する井上説に対して著者は批判を行った。あるいは、国造制の成立をめぐって、国県制として県主制を国造制の下部組織であると断言する井上説に対して、県主制から国造・県主制への発展を主張とする著者との相互批判などについて論争した。これは論争のための論争ではなく、あくまでも史実を明らかにするための論争であった。プライベートにはきわめて親しい交友関係であったので、今は亡き井上光貞さんのありし日を偲ぶばかりであるという。戦後70年には、1956年に出版した『神話の世界』から数えて81冊目の2015年の『古代の日本と東アジアの新研究』まで、ちょうど研究史70年が重なる。そこで古代史研究70年をかえりみて、生きた歴史を学ぽうとする人びとに、参考になればと思って、70年におよぶ研究史の内実をまとめることにしたという。
第一章 人権問題の考察/「年寄りの達者春の雪」/三つのふるさと/折口古代学と西田文化史学/高校の教師として/京都大学と同和問題/在日の問題/帰化と渡来と/『日本書紀』の「帰化」の用例/大仏の造立と高野新笠/武寧王の血脈/百済王氏の活躍/郊祀のはじまり/『日本のなかの朝鮮文化』/家族の協力
第二章 中央史観の克服/東アジアと古代の日本-日本版中華思想/中央史観の克服/出雲の息吹
第三章 生涯学習・女性学と世界人権問題研究センター/生ける歴史/生涯学習/二つの名誉市民/大阪女子大学学長として/世界人権問題研究センター
第四章 研究史七十年/天皇制とは何か-王道と覇道/私の研究史の歩み/井上東大教授との論争
第五章 朝鮮通信使と雨森芳洲/朝鮮通信使の考察/雨森芳洲の思想/朝鮮通信使と雨森芳洲/韓語司の設立/概説書と入門書
第六章 海外渡航/好太王碑の観察/訪中と民際/雅楽のヨーロッパ公演/パリでの時代祭/モンゴル訪問/ハンギョレ・コンサート
35.3月28日
”享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」”(2017年10月 講談社刊 峰岸 純夫著)は、戦国時代は応仁の乱より13年早く関東で起きた享徳の乱から始まり古河公方と上杉氏の対立による抗争は以降30年近くにわたる戦乱となったという。
享徳の乱は享徳3年12月27日(1455年1月15日)に、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱である。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因もしくは直接の発端となった。峰岸純夫氏は1932年群馬県生まれ、1961年に慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修士課程を修了、1966年に慶應義塾志木高等学校教諭となった。1971年に宇都宮大学教育学部専任講師、1973年に同助教授を経て、1975年に東京都立大学人文学部助教授となった。1982年に同大学教授に昇格後、1989年に東京都立大学附属高等学校校長、1991年に東京都立大学評議員に就任した。1993年に同大学図書館長を経て、1994年に東京都立大学名誉教授となり、その後、中央大学文学部教授を歴任した。専門は日本中世史で、1990年に”中世の東国-地域と権力-”で文学博士(慶應義塾大学)を取得した。天智天皇の死後672年に起きた大友皇子と大海人皇子の間の後継者争いである壬申の乱以来、日本歴史上の内乱には5つの大きな長期戦乱が起こっている。南北朝の内乱(57年間)、享徳の乱(28年間)、応仁・文明の乱(11年間)、アジア・太平洋戦争(盧溝橋事件から8年間)、治承・寿永の内乱(源平合戦の5年間)である。日本列島での戦国時代の開幕は、一般的には応仁元年(1467)に始まる「応仁・文明の乱」が画期とされることが多い。この戦乱で京は焼け野原となり、下剋上があたりまえの新しい時代が訪れた。これに対して著者は、戦国時代は応仁の乱より13年早く関東から始まった、応仁の乱は関東の大乱が波及して起きたものであると説く。足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の次男の基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制であったが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立していた。これを打開するため、第6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした永享の乱が起こった。その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、1440年に結城氏朝などが持氏の遺児の成氏を奉じて挙兵する結城合戦が起こった。これは鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治が行われた。そののち,東国では成氏が鎌倉公方に就任し鎌倉府が再建された。しかし,成氏と関東管領上杉憲忠の両勢力が対立し,1454(享徳3)年に成氏が憲忠を暗殺したことで両勢力の戦闘が開始された。1455年に上杉方支援のために派遣された幕府軍が鎌倉を制圧し,成氏は下総の古河に移り、幕府の意向により上杉方は,将軍義政の弟の政知を関東の公方として伊豆の堀越に迎えた。これ以後東国では,小山氏・宇都宮氏・千葉氏などの豪族勢力とむすんだ成氏方(古河公方)に対して,上杉氏(堀越公方)が対抗し,家臣の長尾氏・太田氏や武蔵・上野の中小国人層を国人一揆として組織した。両勢力は,ほぼ利根川を境に24年にわたる内乱を続けた。この享徳の乱で、東国は畿内にさきがけて戦国動乱に突入した。この東国の内乱は京都に飛び火し、京都では足利義政の後継をめぐる将軍家の家督争いと,畠山氏や斯波氏などの一族の内部分裂が重なり,1467(応仁元)年に細川勝元と山名持豊を頂点とする東軍と西軍の戦闘が京都を舞台にはじまった。この応仁・文明の乱で、西国の守護大名は大軍を率いて京都へ上り,それぞれの軍に属してたたかい、合戦は11年に及び京都は焼け野原となった。享徳の乱の前後における主要な事件を時期区分すると、1期、2期がある。1期では、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏という二大権力の分裂・相剋を基軸とし、幕府が上杉方を直接支援・介入したことで状況がエスカレートし、幕府方=上杉方と成氏方の対立となって展開した。上杉憲忠殺害後、成氏方と幕府・上杉方が各地で激突をくりかえすなかで、成氏は鎌倉を離れて下総国古河に本拠を移し、幕府・上杉方は武蔵国の利根川南岸の五十子=いかつこ陣を本陣としてこれに対抗した。京都の足利義政・細川勝元政権は、幕府方を支える権威として、義政庶兄の禅僧・天龍寺香厳院主を還俗させて、新たな関東の公方にして古河公方に対抗する方針を1457年7月ころに決定した。義政の庶兄は政知と名乗り関東に下ったが、鎌倉に入ることはせず伊豆の堀越にとどまった。しかも、幕府・上杉方の力を結集した成氏方討伐計画が失敗したため、最後まで箱根を越えることができなかった。こうした状況を見据えて、山名持豊らが将軍足利義政・管領細川勝元政権にたいして反旗をひるがえし、応仁・文明の乱が発生したのである。2期はむしろ幕府・上杉方の内訌が問題で、主役は長尾景春という武将であり、これに対峙する太田道濯であろう。長尾氏の家宰職の継承をめぐり景春が謀反を起こし、幕府軍の五十子陣は崩壊し関東の混乱は広がった。やがて、応仁・文明の乱の終息を受けて、成氏と現地の上杉氏、成氏と幕府という二段階の和平で享徳の乱はようやく終わった。しかし、その後、山内・扇谷両上杉の抗争が再燃し、上杉氏体制の分裂はさらに深刻なものとなった。それに古河公方と長尾景春の動き、やがては小田原北条氏の進出が絡みあって、いよいよ本格的な戦国時代となったのである。享徳の乱は単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府、足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した東西戦争である。しかし、これほどの大乱なのに1960年代初頭までまともな名称が与えられておらず、15世紀後半の関東の内乱などと呼ばれていた。関東で起こったこの戦乱は、戦国時代の開幕として位置づけるべきではないか、そのためには新しい名称・用語が必要ではないか、と考え、著者は1963年に享徳の乱と称すべきことを提唱したという。この歴史用語は、その後しだいに学界で認められて、今日では高校の歴史教科書にも採用されるようになっている。しかし、いまだに戦国時代の開始は応仁・文明の乱からという国民的常識は、根強く残っている。それを正すためにも、享徳の乱をメインタイトルとした書を世に問いたかったという。
はじめに 教科書に載ってはいるけれど…
第一章 管領誅殺/1「兄」の国、「弟」の国/2 永享の乱と鎌倉府の再興/3 享徳三年十二月二十七日
第二章 利根川を境に/1 幕府、成氏討滅を決定/2 五十子の陣と堀越公方/3 将軍足利義政の戦い
第三章 応仁・文明の乱と関東/1 内乱、畿内に飛び火する/2「戦国領主」の胎動/3 諸国騒然
第四章 都鄙合体/1 行き詰まる戦局/2 長尾景春の反乱と太田道灌/3 和議が成って…
むすびに 「戦国」の展開、地域の再編
36.令和2年4月4日
”東京防災”(2015年9月 東京都総務局総合防災部防災管理課刊 東京都著/かわぐちかいじ寄稿)は、各家庭において首都直下地震等の様々な災害に対する備えが万全となるよう一家に一冊常備され日常的に活用できる防災ブックである。
防災とは、狭義には、災害予防及び災害応急対策をまとめた概念であり、広義には、これに災害復旧、すなわち被災前の状態に戻す意味を含める。災害の概念は広く、自然災害のみならず、人為的災害への対応も含めることがある。類義語として、防災が被害抑止のみを指す場合に区別される減災、防災よりやや広い概念である危機管理などがある。災害の防止策には被害抑止策と被害軽減策の2つがある。被害抑止策は被害が生じないように講じる対策で、土地利用の管理、河川の改修、建物の耐震化、災害の予報・警報などがある。被害軽減策は被害が生じてもそれを少なくし、立ち直りがスムーズになるよう講じる対策で、災害対応マニュアルや防災計画の作成、防災システムの開発、人材育成、災害の予報・警報などがある。次に、災害発生後の対応には応急対応と、復旧・復興対応がある。応急対応は、救助、消火、医療、避難所の運営などであり、復旧・復興は、住宅や生活の再建、心のケアなどである。また、自然災害のメカニズムやそれを抑止する技術の研究、災害予測、防災教育などについても知っておくことが重要である。行政や企業などの組織が行う総合的な防災では、知識や技術、資金や利害関係の調整が求められるため、経営管理的な視点が必要となる。この分野において、防災はクライシスマネジメント・リスクマネジメントの一部として認識されている。災害対策基本法では、災害の応急対応はまず市町村が責任を負うことと規定している。市町村長には、関係機関や住民に災害の通知をする責務、避難勧告や避難指示、警戒区域の設定を行う権限、災害拡大防止のために物件を取り壊すよう要求する権限が与えられている。また、都道府県は、市町村の後方支援や調整を担い、災害救助法に基づく事務も担うほか、被災により市町村が機能しなくなった場合には措置を代行することが認められている。国は都道府県や市町村の更なる後方支援を担う。また、国の機関である気象庁は気象・地震・火山などについて予報や警報を発表する義務を負っている。災害時の対応は主体の違いにより、自助、共助、公助の3つに区分することができる。自助では自ら対応し、共助ではご近所などの共同体で助け合い、公助では消防や自治体に助けてもらう。共助には、ご近所同士のように目に見えて組織化されていないものと、消防団や水防団、自主防災組織のように組織化されているものとがある。近代法が成立した国家では、政府や行政による公助の考え方が浸透した。市民と行政の役割分担が強化された現代では、日常生活で行政に依存する部分があり、災害時にもこの延長として市民は公助が機能することを期待する。しかし、災害時には公助は限定的にしか機能しない上、災害が深刻であるほど公助の機能は低下する。特に瞬時に大量の被災者が生じる地震の場合は顕著で、自助、共助の重要性は高い。「東京防災」は、東京の地域特性や都市構造、都民のライフスタイルなどを考慮し、災害に対する事前の備えや発災時の対処法など、今すぐ活用でき、いざというときにも役立つ情報を分かりやすくまとめた防災ブックである。紙版「東京防災」、ビニールカバー、オリジナル防災マップ、ステッカーなどのA5判の段ボール製のパッケージが、平成27年9月1日より順次配布されてきた。東京都は都内の全世帯配布用として紙版「東京防災」を750万部作成したが、このうち予備の3万部が11月16日から市販されすぐに完売となった。28年3月1日から増刷分が全国の販売店で市販(税込143円)され、令和元年10月1日時点で1冊130円(本体価格)に消費税を加えた価格で販売されている。PDFなら、東京都のホームページ(https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/1002147/1006044.html)にて無料でダウンロードできるという。この東京仕様の防災ブック「東京防災」の活用により、世界一安全・安心な都市“東京”の実現に向け、都民の「自助・共助」の力をさらに向上させていくとしている。なお、東京都のオリジナル仕様であるが、他の地域でも活用できる情報満載である。
プロローグ
01 大震災シミュレーション/地震発生(地震発生その瞬間)/発災直後(発災直後の行動/自宅に潜む危機/外出先に潜む危機/発災時のNG行動)/避難(避難の流れ/避難の判断/避難するときの注意点/安全避難チェックポイント/助け合う)/避難生活(在宅避難/避難所/避難所生活の心得/避難所生活での留意点/要配慮者への思いやり)/生活再建(日常生活に向けて/生活再建に踏み出す/コラム・被災者の声に学ぶ/防災おさらいクイズ/地震そのとき10のポイント)
02 今やろう 防災アクション/今やろう!4つの備え/備蓄(物の備え/最小限備えたいアイテム/備蓄ユニットリスト/非常用持ち出し袋/コラム・日常備蓄)/室内の備え(室内の備え/防止対策のポイント/移動防止器具・落下・転倒/転倒等防止対策チェック/耐震化/防火対策/水道の点検・ガス・電気/コラム・耐震シェルター)/室外の備え(室外の備え/地域の危険度を知る/火災から身を守る場所/コラム・防災公園)/コミュニケーション
(コミュニケーションという備え/防災ネットワーク/マンションの災害対策/会社の災害対策/安否確認と情報収集/防火防災訓練/防災市民組織/消防団/コラム・災害図上訓練/防災おさらいクイズ)
03 そのほかの災害と対策/大雨・暴風/集中豪雨/土砂災害/落雷/竜巻/大雪/火山噴火/テロ・武力攻撃/感染症/コラム・東京の活火山/防災おさらいクイズ
04 もしもマニュアル/緊急(心肺蘇生法/止血/捻挫の応急手当・骨折/切り傷の応急手当/やけどの応急手当/傷病者の負担を軽減する/傷病者の体位管理/傷病者の搬送法/包帯の代用/消火器の使い方/屋内消火栓の使い方
/スタンドパイプの使い方/可搬式消防ポンプの使い方/新聞紙で暖をとる/体温を調節する/足を保護する/脱水症状を防ぐ)/衛生(水道水の保存方法/水の運び方/断水時のトイレの使い方/簡易トイレの作り方簡易おむつの作り方/布ナプキンの作り方/少ない水で清潔を保つ/ハエ取り器を作る)/生活(簡易ランタンの作り方/乾電池の大きさを変える/食器の作り方/簡易コンロの作り方/パーテーションを作る/リュックサックの作り方/簡易ベッドの作り方/枕の作り方・クッション/ロープの結び方/避難生活で行う体操/子供の遊び/身近な素材の活用術
)/連絡(災害用伝言ダイヤル/災害用伝言板)/ワークショップ(家族でやろう防災アクション/地域でやろう防災イベント)
05 知っておきたい災害知識/知識(地震の知識/津波の知識/台風・大雨の知識/さまざまな気象情報/過去の大規模災害)/書類(生活再建支援制度と手続き/日常生活の支援制度)/医学に関する知識/ボランティアに関する知識/インフォメーション(緊急連絡先/防災に関するお問い合わせ/災害対応イエローページ/ピクトグラム凡例
/東京の一日/災害時に配慮が必要な方に関するマーク等/災害時活動困難度を考慮した総合危険度/大震災発生時の交通規制/全国から見た東京/LET'S GET PREPARED 外国人向け今やろう/ENGLISH FOR EMERGENCY 非常時に使える英会話)
安全のしおり(家族で今やろう/自分の情報/家族の情報/メモ)・インデックス(用語解説インデックス/世帯別インデックス/場所別インデックス)・奥付
漫画(大地震発生の直前から直後までの東京をリアルに描いたオリジナル漫画です。自分自身に置き換えて想像し、アクションを起こそう)/TOKYO“X”DAY(かわぐちかいじ)
37.4月11日
”未来企業-生き残る組織の条件”(1992年8月 ダイヤモンド社刊 P.F. ドラッカー(著)/上田惇生他訳)は、1990年代の世界経済の中で企業は経営・組織をどう変えるか、ビジネスマンの心得るべき情報や知識は何かなどについて今にも通じる内容で行動指針を明示している。
1990年代とは1990年から1999年のことで、世界ではソ連が崩壊しアメリカの一人勝ち時代になり、後半からIT化とインターネットの爆発的普及により、ネット社会の時代が始まりを告げようとしていた。しかし、日本では90年代を失われた10年と表現することもあるように、長期の停滞の始まりでもあった。ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは1909年オーストリア・ウィーン生まれ、ユダヤ系オーストリア人経営学者で、現代経営学あるいはマネジメントの発明者である。ビジネス世界の新しい動向をたえず予見し、激動が続く経済や社会の中で、企業やビジネスマンに大きな示唆を与えている。1929年に、ドイツ・フランクフルト・アム・マインのフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー紙の記者になった。1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得した。1933年に発表した論文がナチ党の怒りを買うことを確信し、退職して急遽ウィーンに戻り、イギリスのロンドンに移住した。そこでジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受ける傍ら、イギリスの投資銀行に勤めた。1937年にドイツ系ユダヤ人と結婚し、1939年にアメリカに移住し、処女作”経済人の終わり”を上梓した。1942年にバーモント州ベニントンのベニントン大学教授となり、1943年にアメリカ合衆国国籍を取得した。1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学教授を務め、1959年に初来日し、以降も度々来日した。1971年にカリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務めた。2002年にアメリカ政府から大統領自由勲章を授与され、2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため95歳で死去した。未来学者、フューチャリストと呼ばれたこともあったが、自分では社会生態学者を名乗った。われわれは未来についてふたつのことしか知らない。ひとつは、未来は知りえない、もうひとつは、未来は今日存在するものとも、今日予測するものとも違うということである。そして、続けて、それでも未来を知る方法はふたつあるという。一つは、自分で創ることである。成功してきた人、成功してきた企業は、すべて自らの未来を、みずから創ってきた。もう一つは、すでに起こったことの帰結を見ることである。そして行動に結びつけることである。これをドラッカーは、すでに起こった未来と名付けた。あらゆる出来事は、その発生とインパクトの顕在化とのあいだにタイムラグを持つのである。1990年代は、5つの重要な分野において、企業を取り巻く社会経済環境と、企業の戦略、構造、経営に広範な変化をもたらすことになる。まず第一に、世界経済は、企業人や政治家や経済学者が、今なお当然と考えているものと著しく異なったものとなる。経済関係は、二国間というよりは、ますます貿易ブロック間の関係となってくる。90年代に、ECや北米自由貿易地域に対抗する東アジア貿易ブロックとも言うべきものさえ、日本を中心とする緩やかな関係として出現してこよう。相互主義は、日本および日本の後に続くアジアの虎たちのような、近代的ではあるが、非西欧型の国家を、西欧主導型世界経済の中に融合させるための方法である。第二に、企業は、株式参加、業務提携、国際共同研究開発、共同販売、共同出資による子会社の設立や特別プロジェクトの実施、クロスライセンス等の提携関係を通じて、自らを世界経済へ融合させていくことになる。提携先は必ずしも企業に限らず、大学、医療関係機関、現地政府など、企業以外のものも多い。この傾向の原因はいくつかあり、多くの中堅企業はもとより、小企業でさえも、世界経済の中で活動していかざるを得なくなるという現実がある。市場も同様に急速に変化し、融合し、交差し、互いに重複してきている。第三に、近代的企業組織は、1920年代に誕生して以来発展を続けてきたが、90年代には、過去一度も見られなかったような根本的な再構築を迫られることになる。仕事のあるところに人が移動するのではなく、人のいるところに仕事が移動するようになる。また、いかなる意思決定も必要としない仕事や、直接人と会う必要のない仕事、つまり事務的仕事の大部分は、少なくとも欧米諸国では、今世紀末までに、外に移されていく。生産性の向上のためには、サービス業務を独自の昇進制度を有する独立の外部組織に委ねることが必要になる。企業組織については、企業の大きさがこれからの10年間において、戦略上、重要な意思決定問題となってくる。規模の大きさが企業に与えてきた優位性は、誰でも経営と情報を利用できるようになったことによって、大きく減少してしまった。企業の経営陣たるものは、ますます自らの適正規模、すなわち自らの技術、戦略、市場に合った規模を決めなければならない。第四に、企業の統治自体が問題となる。株式を公開している大企業の所有権は、労働者階級の代表つまり年金基金と投資信託に移りつつある。このことが、大企業の所有権の所在と性格を根本的に変化させてしまう。それゆえ、この変化は、特に企業の統治に重大な影響を及ぼすことになる。富の創造を最適化するには、短期と長期のバランスをとらなければならない。さらに、外製化が、企業のコスト構造に柔軟性をもたせるうえで大いに役立つはずである。その結果として、企業が短期的利益と、将来への投資の双方を実現していくことが可能になるはずである。第五に、国内経済よりも、国際政治の急激な変化が、90年代を支配するようになる。自由世界が、1940年代後半以降道しるべとしてきた、ソ連および共産主義の封じ込めは、政策の成功そのものによって、もはや時代遅れのものとなっている。ここ数十年におけるもう一つの基本政策、すなわち世界的規模における市場経済の復興も、際立った成功を収めた。しかし、今までとは全く異質の新しい問題が生じつつある。環境、テロ、第三世界の世界経済への融合、核兵器と生物化学兵器の封じ込めと廃絶、軍備競争のもたらす世界的汚染の管理などである。これからの10年は、政治的な不連続性の時代となり、今後はますます、国際的あるいは超国家的な政治問題が上位の問題となる。本書は、組織にあって、日々の仕事を行なっている企業人に焦点を当てたものである。各章は広範なテーマを扱っていて、しかもそれらは、執筆時からの5年間にわたって書かれたものである。前方にいかなる変化か待ち受けており、それらの変化が、経済、人、市場、経営、組織に対し、いかなる意味をもっているかについて、理解を深めようと試みている。また、どこで何をし、どこで何をやめるべきかについて、明らかにしようとしている。
1部 経済(未来はすでに到来している/経済学の貧困/国境を越えた経済/貿易から海外投資へ/アメリカの輸出ブームの教訓/低賃金/90年代のヨーロッパ/検証を必要とする日米貿易関係/戦後日本の卓越した武器/日本と日本人についての誤解/ラテン・アメリカを助けることが自らを助けることになる/メキシコの切り札)
2部 人(生産性の新たな課題/企業リーダーの神秘的特性/リーダーシップー格好よりも行動/人、仕事、そして都市の未来/ブルーカラー労働者の凋落/就業規則と職務制限を廃止せよ/共産主義官僚から経営管理者へ/中国の悪夢)
3部 マネジメント(これからのミドル/上司の管理/アメリカ自動車産業の病いの原因/日本の新しい企業戦略/外を歩き回ることによる経営/企業文化/恒久的コスト削減/非営利組織が企業に教えるもの/非営利組織の統治/非営利組織による革命)
4部 組織(会社の統治/未来のマーケティングに関する4つの教訓/企業の成績/研究開発/文書配送室を外に出せ/効果的な研究開発のための10のルール/「進歩のための同盟」への傾向/資本主義の危機/製造の新理論)
終章 1990年代とその先
38.4月18日
”河岸の魚”(1979年3月 国際商業出版社刊 町山 清著)は、「魚河岸」が「東京中央卸売市場」と名をかえても江戸以来魚河岸を舞台にめんめんと引き継がれてきた河岸の魚と庶民文化についてのあれこれを紹介している。
河岸とは川の岸のことで、特に、船から荷を上げ下ろしする所を指している。川岸には市場がたち、特に、魚市場の魚河岸がその中心であり、全国各地にみられる。ここで河岸は魚市場のある河岸の意味になり、呼称は日本橋から江戸橋にかけての河岸に魚市場があったことに由来する。魚河岸とは、江戸時代から日本橋付近にあった魚市場、つまり日本橋魚河岸と、東京都中央区築地にあった中央卸売市場、つまり築地市場の水産物部の通称でもある。江戸に幕府が開かれた当初、魚類は現在の芝浦一帯の地域で売買され雑喉場=ざこばといったが、品川沖でとれた魚類はとくに新鮮であったので、江戸の前の海でとれた魚、すなわち江戸前の芝肴=しばざかなとして珍重された。魚河岸は元来、摂津より来住した漁師たちが、幕府に納める魚類の残余を、市中一般に販売したのに始まるといわれる。その後、徳川家康は江戸の繁栄策として、郷藩三河の出身者にも魚類販売の利権を与えた。日本橋北詰から荒布=あらめ橋に至る河岸一帯に市場を設けて、各地から入荷する魚介類のうちの優れたものはすべて公儀御用としてこの市場で扱わせた。河岸の隆昌は日を追って盛んになり、日本橋界隈は魚介専門の店やこれに関連する店などで大商店街を形成した。日本橋の魚市場は,慶長年間の1596年から1615年まで開かれたとされ,幕府の特許を得た魚問屋が営業していた。江戸の隆盛とともに,本小田原町,本船町,安針町を中心として栄えた。日本橋の魚河岸は明治時代以後も隆盛を極めたが、1923年の関東大地震により600戸を超す卸売店、仲買店が焼失した。そこで、芝浦埋立地に仮設の臨時市場を設け、同年12月に築地に移転した。仮営業・調整の時期を経て、1935年2月に東京市中央卸売市場として本格業務を開始し、都内消費量の大半を取り扱った。そして、2018年10月に施設の老朽化・過密化などの理由により、江東区豊洲に移転した。著者の町山 清氏は明治38年6月12日浦安生まれで、天明年間より代々続く魚問屋八代目である。尋常小学校を出て修業に入り,戦後、仲買い復活運動に功績があり、黄綬褒章,勲四等瑞宝章を受章した。株式会社丸清商店社長、東京魚市場大口卸協同組合理事長,魚がし会会長を務めた。さし絵を描いた沢畑久雄氏は明治44年9月10日茨城県日立市生まれで、久慈浜水産公民学校を卒業し、昭和2年から叔父の魚問屋で修業に入った。株式会社佐和久商店社長、東京魚市場卸協同組合理事長、丸商水産物卸協同組合理事長を歴任した。私たちの身近にあった「魚」が、どんどん遠ざかっていく。食生活の多様化と海の汚染や200海里問題に象徴される、「魚が手に入りにくい状況」がその原因であろう。魚離れという言葉を聞かされると、魚と暮らしてきた著者をはじめ、河岸っ子たちは、とても悲しいという。そんなおり、毎日新聞社からお魚のちょっといい話を書いてみないかと勧められ、週一回、約一年の連載で取りあげた魚は30種ほどであった。毎日新聞連載では「四季の魚」のタイトルであったが、実際に書き進めると、細長い日本列島沿岸では、北と南では旬が春と秋で異なっていたり、とりわけ養殖や冷凍技術の発展で旬という言葉そのものが死語になりつっあることを改めて痛感したという。本書では、普段よく目にする見慣れた魚だけでなく、めったにお目にかからない珍しい魚も多く取り上げられている。四季を通して美味な鰆は、字からして春の季節感をたっぷり味わわせてくれる。実際にたくさんとれるのは、内湾では3~4月の産卵前と晩秋で、量も大差ない。駿河湾などではむしろ秋が主力で、この時期がうまい。昔は、両国の川開きには、サワラの照り焼きが必ず酒の肴にあがったもので、「お盆ザワラ」といい、夏のサワラも結構いける。また「寒ザワラ」というのもあり、文字通り寒中にとれ、この時期のものは身がしまっている。サワラの漁期は、春は4、5月の瀬戸内海で、晩秋は駿河湾が主力、冬の寒ザワラは相模灘、つまり小田原沖で1~3月である。サワラはサバやカツオの一族のサバ科サワラ属で、暖流の魚である。サバ科の魚は総じて紡錘形の典型をなすものが多いが、サワラは細長くやや平べったくおなかか狭いので、狭腹=さわらの名がついたといわれる。サワラの未成魚をサゴチというが、これもほっそりスッキリ、いわゆるる柳腰を「狭腰=サゴシ」といったものがなまったものであろう。関西では、成魚のサワラもサゴシと呼ぶ。サワラ属の中には、今あげたサワラ、いわゆるホソザワラのほかに、やや薄べったいヒラサワラ、台湾や東シナ海にいて2米以上のウシサワラ、ヨコシマサワラ、タイワンサワラなどもいる。サバ科の魚というとサバ、マグロ、カツオなど赤身の魚を連想するが、実は白身の魚もたくさんいて、このサワラも一応白身の扱いである。問屋でも、新米がうっかり乱暴に扱うと、「このバカヤロウ」と親方のバ声がとぶ。身割れさせては、二束三文の値打ちもなくなるからだが、「サワラぬ神に崇なし」などというダジャレのゆえんである。このためサワラを運ぶには、「サワラ箱」という特殊な箱を用いている。江戸時代、初鰹と同様に、サワラも幕府ご指定の「お買いあげであった」、という。江戸川を経て中川にさしかかると、向こう岸に葵の御紋の高張りちょうちんが二丁の舟に積んで日本橋に向かう。すると、役人はのぼってくる舟をめっけては船体改めで、いい魚ほどねらわれる。お買いあげ、といっても、お役人が勝手に値決めする、いわゆる「あてがい扶持」である。本当に幕府、つまり千代田城の御納屋の幕府調進所に納められたのかどうかも分からなかった。そこで、文政12年に魚河岸の西の宮 利八以下5人の問屋主人が幕府に直訴したが、5人が獄死する事件があった。この御納屋騒動で多少改善されたが、幕府の徴発は維新まで続いた。この5人の義人を弔う五輪の塔は、今も両国・回向院にあるという。新聞で書き残した特ダネをたっぷり書きこみ、「河岸の魚」と表題を改めた本書には、こういった興味津々のお話が満載である。
河豚/鮟鱇/白魚/青柳/蛤/鰤/赤?と鮫/海老/鰹/針魚/鰆/鰯/太刀魚と鱧/蟹/鮎/鰺/鯔/鱸/烏賊/鰈・鮃/沙魚/?/鮪/梶木/鯖/鱚/穴子/鯒と女鯒/鯛/黒鯛/初荷/あとがき
39.4月25日
“商いの春秋”(1990年3月 日本経済新聞社刊 田島 義博著)は、著者には流通関係の諸問題をテーマにした多数の著作があり本書には商いや流通革命などを中心とした随筆がいろいろ収められている。
ここに収めた114編の随筆は、年号が平成と改まった直後の1月10日から、12月28日までの1年間、日経流通新聞に連載されたものである。「商の春秋」というタイトルは編集長がつけてくれたもので、単行本にする時、掲載順とは関係なく、テーマの似通っているものを、6つにグループ分けた。田島義博氏は1931年熊本県生まれ、1950年に熊本県立済ー黌高等学校を卒業した。幼少時に両親を失い祖父母に育てられ、高校時代に祖父が亡くなり、高校卒業後は三池炭鉱で働いた。後に会社から奨学金を得て一橋大学に進学したが、大学3年時に結核を発病し2年間の療養生活を送った。1955年に一橋大学社会学部を卒業し、翌年、社団法人日本能率協会に入社し、後年、「マネジメント」誌編集長、「市場と企業」誌編集長等を歴任した。1961年にシカゴ大学に留学、1963年に能率協会を退社し、同年、自ら流通経済研究所を設立した。同年9月から学習院大学経済学部専任講師となり、以後、助教授・教授を歴任し、1970年に経済学部長に就任した。1991年に学校法人学習院常務理事、1992年に専務理事となり、2001年に名誉教授、2002年に学校法人学習院第24代院長・理事長に就任したが、在任中の2006年に75歳で急逝した。日本商業学会会長、日本ダイレクトマーケティング学会会長、社団法人消費者関連専門家会議会長、通商産業省大規模小売店舗審議会会長、国税庁中央酒類審議会会長、農林水産省食品流通審議会会長を務めた。経済産業省産業構造審議会、国税庁国税審議会、農林水産省食料・農業・農村政策審議会等多くの政府委員も歴任した。「日本の流通革命」(1962年・マネジメント新書)、「流通機構の話」(1965年・0976年・1990年・日経文庫)、「現代のセールスマンー情報を運ぶ人たち」((1969年・日経新書)、「インストア・マーチャンダイジングー流通情報化と小売経営革新」(1988年・単行本)、「店頭研究と消費者行動分析ー店舗内購買行動分析とその周辺」(1989年・単行本)、「新版 フランチャイズ・チェーンの知識」(1990年・日経文庫)、「ゼミナール 流通入門」(1997年・単行本)、「インストア・マーチャンダイジングがわかるできる-流通情報化と小売経営革新」(2001年・単行本)、「卸売業のロジスティクス戦略ーサプライチェーン時代の新たな中間流通の方向性」(2001年・単行本)、「マーチャンダイジングの知識 」(2004年・日経文庫)、「歴史に学ぶ流通の進化」(2004年・単行本)「人間力の育て方」(2005年・単行本)などの著書がある。商いは商内とも表記され、国語辞書では、売り買いする商売や売り上げのことを言う。マーケットにおいては、売買取引をすることであり、また取引が活発な時を、商いが多い、取引が少ない時を商いが少ないと言う。商いは飽きないことであり、具体的に、売る商品・サービスに飽きない、営業・売り込みに飽きない、交渉・説得に飽きない、気配り・心配りに飽きない、自分とスタッフの教育に飽きない、向上・改善に飽きない、創意工夫に飽きないなどが挙げられる。春秋は春と秋であり、年月や歳月、年齢やよわいを意味する。また、中国の史書に『春秋』があり、魯国の年次によって記録され、中国春秋時代に関する編年体の歴史書である。体裁は、年・時(季節)・月・日 - 記事、となっている。年限は、上は魯の隠公元年の紀元前722年から、下は哀公十四年の紀元前481年までの242年である。内容は、王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害といった自然災害に関する記事などが主たるもので、年月日ごとに淡々と書かれている。本書は論文や評論ではなく、随筆という形で、いろんな角度から自由に、商業や流通のことが書けるのは大へんな魅力だったという。かつて流通の勉強を始めた時はあまり陽の当たらない分野であったが、このところ国際的なテーマになり、しかも、流通をめぐって日米構造協議がスター小した年に、1年間も書き続ける機会を与えられたことは、全く好運であった。9月末までは週2回、10月からは週3回というペースで、大へんでなかったと言えば嘘になる。とくに4月から学習院大学の経済学部長になったため時間に追われ 推敲が十分できなかったこともあった。しかし何よりも、随筆の書き方が身についていないため、あれも書きたい、これも書きたいと、気ばかり焦って、詰め込みすぎの生硬な文章になったのではないかという。「商の春秋」の章は「商の始まり」から始まり、最後の「私のたまりば」の章は「フィナーレ」で終わっている。今ではだれでも知っている判じものだが、30年近く前、意味がわからなくて、連れの舞妓に一本とられたことがある。京都の木屋町から高瀬川をひとまたぎして、河原町の裏手に入ったところに、「しるこう」という店がある。初めてそこへ利休弁当を食べに行った時のこと、土間の椅子に腰を下ろすと、床の間に奇妙な飾り物がある。大豆を盛った五合マスが二つ並べてあって、そこに「春夏冬」と書いた短冊が立っている。意味がわからなくて首をひねっていると、舞妓が、「これはネ、あきないはマメにますます繁盛と読むんどすエ」と講釈してくれた。秋がないからアキナイというのはわかったが、さて、アキナイがなぜ商業を意味するのだろう。飽きることなくマメに励むからだという説があるが、飽きずに励まねばならないのは、商業に限ったことではない。「秋に担う」がつづまったという説もある。出来秋に収穫物を担って、里から町に売りにくるのを言うとも、出来秋の農家収入を狙って、逆に町から里へ物を売りにゆくのを指すともいう。どちらにせよ、「あきなう」「うらなう」「おとなう」などの変化語尾「なう」は「~する」という意味だから、秋に売り買いするのが「あきなう」「商い」になった可能性は強い。商売あるいは商人を意味する商賈=しょうこの商は、もともと行商のことであり、賈は店売りを指すと教わったことがある。商を訓ずる時、秋の行商の連想から「あきない」となったことは十分考えられる。そして、年の初めに昭和が平成に変わり、一時代を作った人たちがずいぶん亡くなった。本当に昭和が終わったという感じがする。平成元年は十大ニュースを選ぶのに苦労するほど、国内でも海外でも大事件が相次いだ。「商の春秋」は締め切りに追いまくられ、フィナーレを入れて114回とはよくネタがっづいたものである。流通の分野で規制緩和が時代の潮流になってきたのも、平成元年の特徴であろう。消費者本位の流通という原点が示されて、日本の流通もこれからまだ、ひと皮もふた皮もむける必要がある。天安門広場事件もあったが、ペルリンの壁が崩れたのは、世界史的な出来事であった。1989年はフィナーレだが、新しい時代の鼓動は確かに始まっている。
商の春秋/商の始まり/倭人伝の市/目黒と目白/万葉の市/生産の詩/主計と主税/ミセとタナ/店と見世物/たまゆらの酒/富士見酒/そうは問屋が/仲間取引/江戸店もち京商人/金持ちになる妙薬/よき手代/家職三代/見直される江戸時代/大岡越前守/明治の実業家
流通革命のながれ/一冊の本/アイダホーポテト/経済の暗黒大陸/上田辰之助先生/聖トマスの流通正義論/ヤンキー・ベドラー/ウィリアムズパークの町並み/小売りの輪/タテ割り・ヨコ割り/小さな小売店/グルメの流通/歯抜け商店街/競争も重量制に/ボランチャイズ/M&A/お国ぶり/日独流通協議/流通ビジョン/日米構造協議
新機軸を求めて/トマト銀行効果/菊のかおり/荒尾のなし酢/物ばなれ/成長と膨張/中国皿まわし/セールスマンの死/メンデルの法則/前頭葉のあらし/歌舞伎マニア/ノリとハサミ/実験店舗は十軒/情報化の夢/ラッキョウの皮むき/無店舗小売業/エレクトロ・リテイリング/流通ロボット/エレクトロマネー社会
社会は変わる/違いのわかる男たち/もぐらたたき/サービス・エース/男は黙って/営利庵/文化摩擦の背景/経営のものさし/原則のない原則/外交官とレディー/ツケ回しの合理化/危険がいっぱい/ドナウの流れ/戦争と平和/病める社会/川柳づくし/価格革命/静かな夏/国栄えて山河破る/心のオアシス
ぜいたくは素敵/ぜいたくは素敵/精神的高貴さ/キコさんブーム/浩宮さまのご研究/ゼミ旅行/プランドとセンス/メンドリ社会/女はなぜ買うか/祖母の生活技術/わけあり商品/銀座の柳/食は文化なり/食の東西/トンカツ型洋風化/肝っ玉おかみ/京の老舗/禁煙・僅煙・勤煙/冬虫夏草/忙しい道/文字の国
私のたまり場/男の和服/私のたまり場/故郷の花/銀座の原価計算/ホットケさま/外国人ホステス/外国語学習法/民謡をたずねて/ババロア/初めての地方博/ラスベガスの思い出/ダイスの目/ハーネス・レース/麻雀の話/パチンコ/マリンスポーツ/相撲とのつき合い/三年後の国技館/フィナーレ
40.令和2年5月2日
”組織の盛衰”(1993年4月 PHP研究所刊 堺屋 太一著)は、豊臣家、帝国陸海軍、日本石炭産業の巨大組織のケース・スタディーから、機能体の共同体化、環境への過剰適応、成功体験への埋没という三つの死に至る病を検証し、時代の大転換期を生き抜く新しい組織のあり方を提唱する。
組織は共通の目標を有し目標達成のために協働を行うシステムであり、何らかの手段で統制された複数の人々の行為やコミュニケーションによって構成される。たとえば、企業体,学校,労働組合などのように,複数の人々が共通の目標達成をめざしながら分化した役割を担い,それぞれ統一的な意志のもとに継続している。メンバーシップ、階層構造、ポジション、コミュニケーション、自律性、集合的主体として行動ならしめるルールなどから定義される。諸要素を計画的に調整することで、組織は個人で対処できる能力を超えた問題を解決できる。組織の利点は個人の能力を強調・追加・拡張することであるが、計画的な調整を通じて惰性と相互作用の減少が生じるというデメリットももたらされる。将来にわたって存続し続ける組織、世間に対して価値を提供している組織、組織内のメンバーが心地よく働ける組織などが良い組織とされる。企業も資金不足などで倒産することがあり、倒産してしまえばそれ以上社会に貢献を続けることも従業員の雇用を守ることもできない。継続して生き残れる企業であることが必要で、存続し続ける会社の組織は良い組織といえるであろう。業績低迷する企業、硬直した官僚機構、戦後の未曾有の繁栄をもたらした日本的組織を、今、何が蝕んでいるのか。堺屋太一氏は1935年大阪市東区岡山町、現中央区玉造生まれ、本名は池口小太郎で、ペンネームの由来は先祖の商人の堺屋太一から採ったものである。1954年大阪府立住吉高校を卒業し、東大受験に失敗し滑り止めの慶大法学部に入学したがすぐ退学した。2年間の浪人生活の後、1956年に兄と同じ東京大学に合格し、経済学部で大河内一男教授に師事した。1960年に通商産業に入省し、1962年の通商白書では世界に先駆けて水平分業論を展開した。また、日本での万博開催を提案し、1970年の大阪万博の企画・実施に携わり、成功を収めた。その後、沖縄開発庁に出向し、1975年-1976年の沖縄海洋博も担当した。工業技術院研究開発官として3年ほど自然エネルギーに関わるサンシャイン計画に携わった後、通産省を退官した。通産省に在職中の1975年に、近未来の社会を描いた小説『油断!』で作家としてデビューし、その後も多数の小説や、社会評論、政策提言に関する著作を執筆した。2002年に東京大学先端科学技術研究センター客員教授に、2004年に早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授に、2008年に関西学院大学大学院経営戦略研究科客員教授に就任した。この本の目的は二つある。一つは、現在の組織、特に日本の官僚機構や企業組織などの現状を点検して正確に観察認識し、その改革改善と新しい創造に役立つような発想と手法を提供することである。もう一つは、この国に組織論または組織学の体系を広めることである。1992年においても経済は成長し、失業率はきわめて低く、貿易は人類史上最大といわれるほどの黒字だったが、今日、日本経済は不況といわれている。つい3年前までは世界無敵のようにいわれていた日本企業が、今は業績悪化に喘ぐ有様である。日本の経済実態は、決して破滅的なほど悪いわけではない。この国に重大な天災が起こったわけでも、外敵の侵攻危機が迫ったわけでもない。たかだか土地や株が値下りし、消費需要が少々前年割れになった程度である。こうも大騒ぎになるとは、日本の企業組織がいかにも弾力性を欠いている証拠だろう。企業だけではない、政府官僚機構も同様である。長い間、日本の官僚機構は優秀有能と信じられていたが、それもこの2、3年ですっかり潰れてしまった。世界の冷戦構造が消滅しアメリカが日本の追随を喜ばなくなった途端に、日本政府は基本方針の立案も総合調整の実行もできなくなってしまった。財政問題でも教育改革でも公共事業や医療制度の問題でも、この20年間に成果を上げた改善はほとんど見られない。官僚機構という組織が極度に硬直化し、有能な人材を閉塞している。今日の日本人は戦後という特定の時代に長く生きて来た間に、この特定の時代を当り前の状態と思うようになった。安価な安全保障と確実な原料輸入と有利な輸出市場が得られ、内では高度経済成長が続き、企業は押しなべて大発展を続けた。そんな日本人が寄り集まって作る組織も戦後の環境に適応し、それ以外を考えなくなってしまった。今日の日本の組織は、官僚機構も企業組織も個人の家庭も、そんな国際環境と経済状態に適合して形成されている。しかし長い歴史を踏まえて見れば、戦後はきわめて特殊な時代だった。世界には東西対立冷戦構造があったが、1989年末にベルリンの壁が崩れて冷戦構造は消滅してしまった。その直後から日本国内でも土地と株とが値下り、バブル経済の崩壊がはじまった。つまり、国際政治でも国内経済でも戦後は終わり、新しい時代、新しい環境が始まったのである。戦後という特殊な時代に適合した日本の組織が、これに対応して自らを改革し改善するためには、どのような視点から分析し、どのような要点に留意すべきか、それを考えることが大切であろう。本書の第一の目的は、そうした問題意識を持って組織を点検し、これからの知価社会にふさわしい組織の体質と気質を創り出す一助となることである。この本のもう一つの目的は、この国に組織論または組織学の体系を広めることである。今の世の中はすべてが組織で動いているといえるが、その組織に関する調査研究は必ずしも多くはない。近代の学問体系はあらゆる分野を細分化し専門化してきわめて高度な知識と技術を作り上げて来たが、組織に関する研究だけは著しく立ち遅れている。現在の組織についても個々の問題としてはいくらか取り上げられているが、大部分は組織の観察と影響を論じることに主眼が置かれている。そして、組織そのものの種類や要素、機能や構造に関する体系的な理論にまでは到達していない。著者が組織の問題に取り組んだ最初は、20年あまり前の通産省の組織改革に当たって、ヒューマンウェアの研究をはしめた時だったという。通産省退職後、1983年から85年にかけてヒューマンウェア研究会を主催し、数多くの研究者と大量の資料に遭遇することができた。組織論の研究は断続的ではあったものの既に20年を超えたが、その間に社会も技術も、世界も経済も、様々に変わった。ただ日本の組織だけは基本的に変わっておらず、むしろ戦後という特殊な時代にますます過剰に適応しているように見える。冷戦構造と高度成長という環境の中で、あまりにも多くの成功体験を積み上げて来たからである。時代が継続し環境が不変なら、組織の問題は実務の範囲で処理できる。しかし、世界構造が変わり歴史の発展段階が転換しようとする今は、これまでの経験と経緯を離れた観察と思考が必要である。
第一章 巨大組織の生成から崩壊まで 三つのケース・スタディー/導入のための事例
(1)豊臣家-人事圧力シンドロームと成功体験の失敗(2)帝国陸海軍-同体化で滅亡した機能組織(3)日本石炭産業-「環境への過剰適応」で消滅した巨大産業
第二章 組織とは何か 取り残された学問領域-「組織」(1)組織の要素(2)「良い組織」とは(3)組織の目的/(4)共同体と機能体(5)強い機能組織を作った織田信長-もう一つのケース・スタディー
第三章 組織管理の機能と適材 組織作りの巨人/(1)人間学と組織論(2)トップの役割(3)現場指揮者と参謀
(4)得難い補佐役(5)後継者
第四章 組織の「死に至る病」/(1)機能体の共同体化(2)環境への過剰適応(3)成功体験への埋没(4)組織体質の点検(5)組織気質の点検
第五章 社会が変わる、組織が変わる 近代歴史学の欠落部分/(1)旧知価革命と組織変化(2)情報技術の変化(3)高齢化社会と人事圧カシンドローム
第六章 これからの組織-変革への五つのキーワード 戦後型組織の終わり/(1)経営環境の大変化(2)三比主義からの脱却(3)「価格-利益=コスト」の発想(4)「利益質」の提言(5)ヒユーマンウェア(対人技術)の確立(6)経営の理念=あなたの会社の理想像は
41.5月9日
”二十歳の原点”(1971年5月 新潮社刊 高野 悦子著)は、独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点であると述べる青春バイブルで、かつては映画化され最近コミックにもなり、50有余年で230万部超えとなる時代を超えた名著である。
1969年6月24日午前2時36分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線の二条駅と花園駅間の天神踏切西方20メートルで、上り山口・幡生駅発梅小路駅行貨物列車に、線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、年齢15~22歳、身長145センチで、オカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明という記事が、京都新聞の夕刊社会面に載った。自殺した若い女性は高野悦子さん、当時20歳で、立命館大学文学部史学科の3年生であった。下宿には大学ノートに十数冊の横書きの日記が遺された。その一部は同人誌「那須文学」9号(昭和45年8月刊行)に、父親高野三郎氏の編集で、44.1.2~6.22まで掲載された。高野悦子さんは1949年栃木県那須郡西那須野町生れ、西那須野町立東小学校、西那須野町立西那須野中学校、栃木県立宇都宮女子高等学校を経て、立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学した。社会・政治問題に関心を持ち、部落問題研究会に入部したり、学内バリケードに入るなどの活動を経験した。1969年に20歳6か月で自死し、学園紛争が吹き荒れた時代に、自己とは何かを問い、死の直前まであふれる思いをつづった。中学時代から書きつづけていた日記が、死後に『二十歳の原点』(1971)、『二十歳の原点序章』(1974)、『二十歳の原点ノート』(1976)として出版され、いずれもベストセラーになった。『二十歳の原点序章』は1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までの記録である。大学受験の時期から、立命館大学進学での新しい生活のスタートと戸惑い、片思いなど心の葛藤が書かれている。新潮社から発売された「二十歳の原点」がベストセラーになり、その続編として出版された。出版された時期は「原点」の後になるが、実際に書かれた時期は「序章」の方が古い。2009年4月にカンゼンから「新装版」が発行された。『二十歳の原点ノート』は1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までに書かれたものである。新潮社から発売された「二十歳の原点」、「二十歳の原点序章」が続けてベストセラーになり、その続編として出版された。中学校から高校にかけての思春期の心の移り変わりと学校生活での悩みが書かれていて、3作目に当たる本作もベストセラーになった。いずれも、いつの時代にも通じる普遍的な若者の心の深層をとらえた内容となっている。高野三郎氏は1923年生まれ、1946年に京都帝国大学農学部を卒業し、神奈川県庁勤務後、1947年に栃木県庁に入り、教育次長民生部長をへて、1981年に退職した。1982年から西那須野町の町長を2期・8年間務め、2001年に脳こうそくのため自宅にて77歳で亡くなった。『二十歳の原点』は1969年1月2日(大学2年)から1969年6月22日(大学3年)までの記録で、1971年に新潮社から発行された日記である。大学2年から大学3年までの、立命館大学での学生生活を中心に書かれている。理想の自己像と現実の自分の姿とのギャップ、青年期特有の悩みや、生と死の間で揺れ動く心、鋭い感性によって書かれた自作の詩などが綴られている。タイトルは、当時の成人の日である1月15日に書いた、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という一節から取られている。日記は全共闘による東大安田講堂封鎖で学生運動がピークを迎える中、栃木県西那須野町の実家から京都・嵐山の下宿に戻り、20歳の誕生日を迎えた1969年1月2日から始まっている。立命館大でも紛争が激しくなり、大学本部・中川会館が全共闘によって封鎖され、どう立ち向かうべきか焦りが募っていった。2月には大学近くの喫茶店で音楽を聴きながら、思いを巡らした。傍観を止めて自ら行動することを決意し、入試実施を控え騒然としたキャンパスで徹夜した。機動隊が入る事態を目の前にして、ついに全共闘の集会やデモに参加した。3月に京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを始め、違う世界があることを知った。仕事を続けながら学生運動に関わっていくため、下宿から丸太町御前通近くの部屋での一人暮らしに移った。4月に大学3年生になったが、自分の行動を理解してもらえないと、相談相手だった同級生との仲を絶った。アルバイト先の男性に恋心を持ち交際を深め、沖縄返還のデモをきっかけに全共闘のバリケードに泊まるようになった。5月に男性に別の女がいることを知りショックを受けたが、なかなか諦められなかった。立命館大のバリケードは機動隊に追い出され、移った京大では機動隊とのぶつかり合いで警察署に連行された。大学の体制とその下で学生であることを否定し、両親との話合いも物別れになった。6月にアルバイト先で男性に別れを告げようと思うが、できないままの日々が続いた。体を張って取り組んだ全共闘運動に停滞を感じ、行動する熱意がなくなった。午後1時15分、「バイトを終えて独り部屋でジャズをきくと楽しくなる。それが唯一の楽しみだ。バイト先で私は皮肉と悪口ばかりいっていた。これじゃ誰からも嫌われるのは当然です。このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。」(カッコ内は引用)。そして、睡眠薬を買ってきて飲んで20分たってもまだ眠くならない。20錠のんでも幻覚的症状も何もおこらず、しいて言えば口と胃が重たくなった程度である。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコ~ルの方がよっぽどましだ。日記の最後に、「旅に出よう」で始まる詩が書かれている。6月23日未明で日記の記述は終わり、翌24日に列車に飛び込み自殺した。
(以下、引用)。
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旅に出よう
テントとシごフフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古本にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか
原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう
原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう
衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう
小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
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2009年4月にカンゼンから「新装版」が発行された。
読者へ/二十歳の原点/高野悦子略歴/失格者の弁・高野三郎
42.5月16日
”「お金」で読み解く日本史”(2018年5月 SBクリエイティブ社刊 島崎 晋著)は、現代人は近代以降の貨幣経済を当たり前に生きてきたが最近AIの進展で銀行・金融スキームがなくなり様相が激変している「お金」についてその歴史を振り返り役割や存在意義をあらためて考えている。
私たちは、有史以来の物々交換からはじまり、やがて中国や自国の貨幣を使用するに至り、近世・近代以降の貨幣経済を当たり前のように生きてきた。だが、最近は仮想通貨の登場で現金消滅の近未来が現実味を帯びてきて、「お金」を取り巻く様相は激変している。島崎晋氏は1963年東京都生まれ、立教大学文学部史学科東洋史学専攻、大学在学中に中華人民共和国山西大学への留学経験をもつ。大学卒業後は旅行代理店に勤務し、のち編集者として歴史雑誌の編集者を経て、歴史作家になり今日に至る。現在、商品を買った支払いを電子マネーやクレジットカードで処理する人も増え、お金に対する認識を改める必要に迫られている。これまでのところ人類はかろうじて一線を越えるにいたっていないが、近年の状況を見る限りでは楽観は禁物といわねばならないだろう。話を日本に限ってみても、「お金」中心の経済に行き詰まり感があることは否めない。コインや紙幣という実体のある通貨だけでは閉塞状況を打開することはできないと思う。しかし、その代案として決定的なものはいまだなく、各種カードは既存貨幣の存在を前提として成り立つもので、仮想通貨にいたっては定着するかどうかも危うい状況にある。日本経済が「お金」に翻弄される時代はまだ続きそうであり、近年、仮想通貨取引所の事件が立て続けに起きた。また、2013年にキプロスを見舞った預金封鎖などは、完全な他人事と決め込んでいるが、それは大きな間違いである。キプロス危機はキプロスショックとも呼ばれ、ユーロ圏のキプロス共和国で発生した金融危機である。ギリシャ危機により、キプロスの銀行の融資や債券投資に大きな不良債権が発生し、経営が立ち行かなくなったことに起因する。欧州連合(EU)や国際通期基金(IMF)に救済を求めた際に、支援の条件としてキプロスの全預金に最大9.9%の課税を導入することを2013年3月16日にキプロス政府とユーロ圏側が合意した。キプロスで起きたのと同じことが近い将来、日本でも起こりうることを覚悟しておかねばならない。預金の引き出しが停止され、引き出しが再開された時点には、その額が半分近くに減らされているような事態が、絶対起こらないとは断言できないのが昨今の現実である。わたしたちが、これからどのように「お金」と付き合っていくかを考えた場合、「お金」の根本を振り返ってみることで、「お金」が社会に果たす役割などを知り、これからの「お金」のあり方を考えられるのではないだろうか。物々交換から貨幣経済への転換が根付くまで、どれはどの歳月を要したかは見当もつかない。物々交換の開始時期がわからないのだから当然だが、西暦57年に倭の奴国の王による後漢の光武帝への朝貢時に貨幣の存在を認識していたとすれば、その時点から最初の国産貨幣が製造されるまでに約700年が経過していた。東アジア情勢の緊迫にともない、日本でも権力の集中が進められると、貨幣の利便性に着目する者が増え始め、和同開弥の製造にいたった。古代の貨幣には金貨、銀貨、銅銭の三種があったが、日本で基本通貨とされたのは銅銭だった。いつまでも中国大陸からの輸入に頼ってはいられないので、和同開弥をはじめ、国産貨幣の製造と普及に向けての努力が重ねられた。しかし、技術の未熟さから衆人を納得させられるレベルのものが造れず、958年の乾元大宝を最後に、国産通貨の製造はいったん停止された。藤原氏による摂関政治の時代と、国政の運営権が上皇の手に移った院政の時代を経て、やがて、武家政権が誕生することとなった。日本人のあいだに、貨幣経済が広く浸透したのは室町時代のことだった。それまでは全国的に流通させるには絶対量が足りなかったため、貨幣の存在が知られてからも、日常の取引で常用されるまでには、かなりの時間を必要とした。室町時代になって中国大陸から大量の銅銭が流れ込むにおよんで、ようやく日本全国に貨幣経済が浸透した。戦国時代は、天下を取るためには兵を食わせていかねばならず、江戸時代には、天下を治めるには民を食わせていかねばならないという構図もできあがった。上意下達は無条件とはいかず、そのためには食べていくのに十分な手当をしっかりと支給し続けねばならなくなった。武力だけでなく経済的な裏付けがないことには、長く政権を保つことは不可能になった。そういう意味で、江戸時代は「米」中心の経済から「お金」中心の経済への過渡期にあたっていた。民間では商人層の台頭が目覚ましく、生産よりも流通に重きを置くことが始まった。生産から流通までの全体を掌握して、特定の顧客だけを相手にするのではなく、誰にでも開かれた商売をする、現在の商社や百貨店、スーパー、小売店などの前身が生まれた。そして迎えた明治時代には、「お金」での納税が義務付けられるにおよび、人びとはもはや完全に「お金」なしで生きていくことができなくなった。明治新政府は中央集権の体制づくりはもちろん、電信の設置や銀行の設立、鉄道の開設など、あらゆる分野で西洋を手本とした近代化を図った。明治以来の日本には北進論と南進論の二つがあった。帝国主義に遅れて参画した日本には残された場所が少なく、北進をすればロシアと、南進をすれば英仏の利害と衝突するのは目に見えていた。環太平洋全域を自国の市場にしようとしていたアメリカとの関係についても、同じことが言える。第一次世界大戦以降、日本でもできるだけ協調外交が推進され、衝突回避の努力が重ねられた。だが、ニューヨーク株式市場に端を発した世界恐慌が、ブロック経済を招くにおよび、後発の持たざる国は先発の持てる国のお裾分けに甘んじるか、戦争を覚悟の上で手荒な手段に出るしかなかった。かくして第二次世界大戦が勃発したが、そこにいたるまでの日本は途中で何度も大きな選択を経験していた。朝鮮半島の植民地化と満州の事実上の併合は北進論であり、台湾の植民地化と中国本土への進出は南進論に分類され、太平洋戦争勃発の契機となったフランス領インドシナ進駐などは南進論の延長線上にあるものだった。中国と全面戦争をしながら、ソ連の脅威にも備え、米英仏に戦いを挑むなど無謀もいいところだった。戦後日本の復興に弾みをつけたのは朝鮮戦争特需だった。日本が受け負った武器・弾薬以外の軍需品の製造と運搬で、国内産業に復興の兆しが見え、敗戦に打ちひしがれていた日本にとって大きな転機になった。高度経済成長期を経て、日本製品の海外市場は東アジアだけではなく、欧米にも拡大した。1971年に、アメリカが19世紀末以来初の赤字を体験すると政策の大転換を行い、世界経済が変動相場制へと移行すると、日本経済も荒波の上を激しく上下した。西ヨーロッパ諸国が立ち直りを見せはじめると、あらゆる分野で競争が激しくなり、米ドルの価値は急速に下落した。1973年の第一次オイルショックを境に日本経済も陰りが表れ、以来政府は赤字国債の発行により財政赤字の補填に努めた。バブル崩壊後、窮状を打開するには従来の政治家ではダメとの考えも広まっていた。「聖域なき構造改革」「骨太の方針」など様々なスローガンを打ち出しながら、郵政民営化に限らずあらゆる分野での規制緩和が実行された。一連の規制緩和は競争社会にともなうサービスの向上や料金の値下げといったプラスの効果をもたらしたが、その反面、一億総中流意識や終身雇用を完全に打ち砕き、格差社会を到来させることともなった。金融業界を除くあらゆる業界で人員の削減をはじめリストラが実施され、失業率が他の先進国並みに上昇した。正社員の採用をできるだけ抑え、派遣社員に頼る業態も一般化して、若者の貧困化が加速することにもなった。これに追い打ちをかけたのが2008年のリーマンショックと、2011年の東日本大震災である。消費の冷え込みは日本社会全体におよび、バブル崩壊から20年以上におよぶ不景気は、「失われた20年」と呼ばれ、IT産業一人勝ちという格差の構図は、解消される見込みがない。自由競争社会・資本主義の中で、便利になった反面、生き方の選択肢が著しく狭められた。その結果、そこで生じる格差社会にどう対処したらよいのかという点が、日本を含めた国際社会が共通して抱える問題となった。国家や会社をあてにできなくなりつつある状況では、われわれは「お金」に関してはもちろん、生活に関するあらゆる点において、自己防衛に努めなければならず、その際、本書が必ずや参考になるはずである。
序 章 2000年もの間、日本人を本当に動かしたのは「お金」だ!/第1章 こうして物々交換から物品貨幣へ移った古代日本/第2章 中国と日本の「銭」が入り組んだ中世日本/第3章 貨幣制度が本格化し金銀を求めた戦国時代/第4章 独自の貨幣制度で250年間を安定させた江戸時代/第5章 「円」と「銀行」の誕生で近代国家を歩んだ日本/第6章 高度成長とバブルでマネーに狂乱した戦後日本/終 章 こうして始まった!現金消滅の近未来
43.5月23日
”小澤征爾 日本人と西洋音楽”(2004年10月 PHP研究所刊 遠藤 浩一著)は、巨大な伝統を持つ西洋に対して日本人として西洋のグラウンドで繰り広げている孤独な小澤征爾を論ずることによって日本人と西洋音楽ひいては日本文化としての西洋音楽について考察している。
日本人指揮者の小澤征爾が、ウィーン国立歌劇場の総監督に迎えられたのは画期的な出来事であった。オペラの総本山が真の国際化に乗り出したということであり、また日本の異文化受容の到達点を示してもいる。日本人が西洋音楽に近づくには、いい伝統もなければ悪い伝統もないため、まず日本人であることを自覚することから始めることになる。才能豊かな小澤征爾という指揮者を通して、日本人が西洋音楽を奏する意味を問い直してみる。本書は、『月曜評論』、『文語春秋』、『正論』といった月刊誌のほか、『改訂・小澤征爾とウィーン』(音楽之友社)、『サイトウ・キネン・フェスティバル松本 冬の特別公演プログラム』、『小澤征爾音楽塾オペラープロジェクトー 「フィガロの結婚」プログラム』等に発表した文章に加筆、修正を施し、解体し、再構成したもので、ほとんど書き下ろしに近い形になったという。遠藤浩一氏は1958年金沢市生まれ、1981年に駒澤大学法学部を卒業し、民社研の雑誌を編集していた叔父と指導教授の影響を受け、民社党職員となった。民社党は1960年民主社会党として結成、1969年に民社党へ改称、1994年に新進党の結成に伴い解散した。遠藤氏は、民社党本部で月刊誌委員会編集部長、広報部長等を務めた。民社党解党後は拓殖大学日本文化研究所の第2代所長を務め、公開講座を主宰し季刊誌を発行した。また、大学院地方政治行政研究科教授として、後進の指導にあたった。情報工学センター代表取締役、新しい歴史教科書をつくる会副会長、国家基本問題研究所理事、日本国際フォーラム政策委員等を務めた。専門は日本政治史で保守派の論客として知られたが、演劇・音楽にも詳しかった。2014年に新年会に参加した後、体の不調を訴え、その後55歳で死去した。小澤征爾は1935年満洲国奉天市生まれ、1941年に母や兄と日本に戻り、立川市の幼稚園に入園し、1942年に立川国民学校に入学した。1947年に父の仕事の関係で神奈川県足柄上郡金田村に転居し、1948年に成城学園中学校に入学した。片道2時間かけて通学し、ラグビー部に所属し、豊増昇にピアノを習った。ラグビーの試合で右手人差し指を骨折したため、ピアノの道を断念した。1950年に世田谷区代田に転居し、1951年に成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年に齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科(男女共学)へ第1期生として入学した。1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学、現、桐朋学園大学音楽学部へ進学し、1957年に卒業した。短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当した。また、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会では、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめた。1959年にスクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏し、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位となり、ヨーロッパのオーケストラに多数客演した。カラヤン指揮者コンクールで第1位となり、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事した。1960年にアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事した。1961年にニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインに師事した。1961年にNHK交響楽団(N響)、1964年にシカゴ交響楽団、1964年にトロント交響楽団、1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、1970年にサンフランシスコ交響楽団などで指揮者や音楽監督を務めた。1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団を創立し、指揮者として中心的な役割りを果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年に桂冠名誉指揮者となった。1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任し、活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなった。1984年に没後10年を偲び、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催し、これが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなった。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功をおさめた。1998年に長野オリンピック音楽監督、2002年にウィーン国立歌劇場音楽監督に就任した。ウィーン国立歌劇場では、2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまで音楽監督を務めた。2008年に世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した。小澤という指揮者は、リハーサルに際して、オーケストラに向かってあまり演説をしない。余計な講釈は垂れない、時間を浪費しない。指揮者には二つの能力が要求される。バトン・テクニックによって楽員たちから音を引き出す能力と、リハーサル中に言葉と指揮棒によって楽員たちに自らの意思を伝達する能力である。そのリハーサルにおいても、小澤は言葉による伝達、すなわち演説は最小限にとどめようとする。あくまでも棒によって、つまり身体によってオーケストラを操り、音楽を表現しようというやり方は、日本人指揮者として、到達すべくして到達した一つのスタイルと言えるだろう。日本人として他者の在り様をしかと観察し表現する、それが小澤のやり方である。もちろん、言語によるコミュニケーションを拒絶しているわけではない。その場合でも、小澤の指示はあくまでも感覚的、直截的である。小澤たちがサイトウ・キネン・フェスティバルで、毎年密度の濃い演奏を通じて確認しているのは、師である斎藤秀雄が編み出した〈斎藤メソッド〉の普遍性と可能性である。斎藤は弟子たちに徹底的に音楽の基礎文法を叩き込んだ。小澤は折りに触れて、基礎的な訓練ということに関しては〈斎藤メソッド〉はまったく完璧で、世界にその類を見ないと、師匠の功績を称賛する。それは、裏を返せば、西洋音楽の伝統を持たない日本人にとっては、基礎的な訓練が必要不可欠であったということにほかならない。なにしろ、日本人が国民的課題として西洋音楽と取り組み始めたのは、明治5(1872)年、小学校に唱歌、中学校に奏楽という課目が設置されて以来のことである。西洋音楽の移入から戦後小澤ら日本人演奏家が世界で活躍するようになるまでに、100年も経っていないのである。サイトウ・キネン・オーケストラは、世界に類を見ない音楽文法を自家薬寵中のものとした演奏家の集まりである。サイトウ・キネン・フェスティバルは、斎藤の音楽文法の普遍性を証明する場と言える。それは、まさに日本人じゃなければできない証明である。日本、アメリカ、ヨーロッパでは、音程の取り方から音の感じ方、音の大きさ・長さにいたるまで、奏法はまったく違う。オーケストラによっても演奏の仕方は異なるし、演奏家の個性もまちまちである。オーケストラというものは力ずくで言うことを聞かせようとしても、決して統御できるものではない。力を抜いて、自分の意思を楽員に伝え、自分の思うような音楽を奏でさせる。それは斎藤から受けた、オーケストラも室内楽のように他の奏者の演奏を聴きながら奏でるのが基本だ、という教えとも通底する。小澤は、オーケストラをねじ伏せるのではなく、自分の表現したい音楽を、抗いがたい放射によって表わすとともに、一人ひとりの演奏家から表現したい音楽を引き出し、それをハーモニーとして造形していくという指揮法を確立した。そして、小澤の音楽は、音楽的思慕も音楽的教養も持たないが実人生だけは承知している一般聴衆の胸に、直接通ずるものだけが簡潔に表現されている。小澤の音楽的才能は、日本人であるという自意識の上に立脚している。日本人として音楽の基礎文法を徹底的に習得し、譜面の読み方、作品の解釈の仕方が、西洋音楽の悪い伝統に引きずられておらず、きわめて日本的なのである。日本的というのは、謙虚に他者と向き合うことであり、他者の文化を柔軟に受容するという一面を持っている。そしてそれは、常に柔軟に進化を続ける。小澤のように西洋音楽の悪い伝統にとらわれることなく、ひたすら譜面を通して作曲家に直に迫るというアプローチの仕方は、ある意味で、日本人でなければできないことであろう。
プロローグ 音楽には国境がある/第1章 「文化的・平和的掠奪行為」としての西洋音楽/第2章 何人かの「父」/第3章 「透明なブラームス」の是非/第4章 疾走する『荘厳ミサ曲』/第5章 ショスタコーヴィチの「叫び」/第6章 オペラという伏魔殿/第7章 菊池寛とチャイコフスキー/エピローグ 西洋音楽と「からごころ」
44.5月30日
”孤独のすすめ”(2018年2月 中央公論新社刊 五木 寛之著)は、孤独というと何かとマイナスイメージで語られるが歳を重ねれば重ねるほど人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感できるという。
人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、四つの季節が巡っていくのが自然の摂理である。玄冬なのに青春のような生き方をしろといっても、それは無理である。「秋」という字の下に「心」と書いて、「愁」という言葉がある。これは自分自身の問題であり、なんとなく心が晴れず、もの寂しい心持ちを指す。愁いがくっきり見えてくるのが高齢期の特徴であるが、その愁いを逆手にとって、むしろそれを楽しむという生き方もあるのではないか。だとすれば、後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼したほうがよほどいいという。そして、孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたものではない。それどころか、つきせぬ歓びに満ちた生き生きした時間でもある。五木寛之氏は1932年福岡県八女郡生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移った。第二次大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母が死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出した。1947年に福岡県に引き揚げ、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。その後、(旧制)福岡県立八女中学校、福島高等学校を卒業し、1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学した。生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトなどをして暮らしたが、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された。しかし後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなった。大学抹籍以降、ラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、業界新聞の編集長を務めた。同時に、CMソングの詞の仕事を始め、CMの仕事が忙しくなって新聞の方は退社し、CM音楽の賞であるABC賞を何度か受賞した。その後、PR誌編集、ルポやコラム執筆、放送台本などの仕事を経て、大阪労音の依頼で創作ミュージカルを書いた。そして、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられ、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞した。1965年に結婚し、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗った。かねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅した。帰国後、妻の郷里金沢でマスコミから距離を置いて生活し、小説執筆に取りかかった。1966年に”さらばモスクワ愚連隊”により第6回小説現代新人賞を受賞し、続いて同作で直木賞候補となった。1967年に”蒼ざめた馬を見よ”で、第56回直木賞を受賞した。ほかに、1976年に吉川英治文学賞、2002年に菊池寛賞、2010年に毎日出版文化賞などを受賞している。本書は、2015年に刊行された単行本”嫌老社会を超えて”を再構成し、大幅加筆のうえでタイトルを変えて新書化したものである。孤独の時間を楽しみ、老いに伴う体や心の不調を穏やかに受け入れ、自立した生き方を心がけ、心が辛いときには回想することで癒しを得ることができるという。孤独とは、他の人々との接触、関係、連絡がない状態を一般に指し、自分がひとりであると感じる心理状態を孤独感という。孤独とそれに伴う孤独感には、自分と他者、世界との関係で捉えたものや、人間の存在そのものから来る孤独感などさまざまな視点がある。大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じているならば、それは孤独である。孤独にはそれに近い概念が多数存在する。他人から強いられた場合には「隔離」、社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」、単に一人になっているのであれば「孤立」、他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」である。孤独の感じ方は、発達段階の各時期によって異なることが知られている。児童期の孤独感は、物理的にひとりになったときに体験するものがほとんどである。思春期になると、周囲に人がいても疎外感の体験などから孤独を感じるようになる。青年期には他人との関係ばかりではなく、自分の内面との関わり方、考え方の違いが重要な要因となる。老年期になると、単身世帯になる場合や、活動や交際範囲が縮小するなど人や社会とのつながりが減少しがちであり、孤独感との関連性が見られる。また、死を意識するようになり、人生を超えた時間的展望の中で孤独を感じるようになる。五十嵐久雄さんの「春愁や老医に患者のなき日あり」という句は、焦っているわけでもないし、淡々と、おだやかに行く春を惜しんでいる感じが出ている。この中の「春愁」という言葉は、春爛漫の中でなんとなく感じる愁いを表している。それもまた味わい深いもので、人生の最後の季節を憂鬱に捉えるのではなく、おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁いをしみじみと味わう境地である。孤独な生活の友となるのが例えば本であり、読書とは著者と一対一で対話するような行為である。体が衰えて外出ができなくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話ができる。本は際限なく存在しているから、孤独な生活の中で、これほど心強い友はいない。たとえ視力がおとろえて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずである。残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺の世界が広がっていく。誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国であり、孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれる。歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独のすばらしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方のひとつである。また、昔はよかったという老人の繰り言を非難する人がいるが、繰り言は決して甘えではないし、後ろ向きの行為でもない。昔話をするのはむしろ、歳を重ねた人間にとっては豊かさや元気の源といってもいい。人生の後半生は、後ろを向いて進む、振り返って進むことは、「後進」あるいは「背進」といい、むしろ大事なことである。老年期の一番の問題は、生きる力が萎えることである。生きていこうという気力さえ、萎えてしまう。弱っている人や衰えている人に、積極的になれとか、前向きにポジティブに生きろなどというのは、むしろ残酷なことではないか。好奇心も、もともと旺盛な人はいいけれど、そうでない人に突然好奇心を抱けといっても無理であろう。むしろそういった励ましは、自分はこんなふうになれないと、ますます自己嫌悪に拍車をかける要因になりかねない。スピードを落とすとき、ブレーキだけにたよらないでコーナーを気持ちよく回っていくためには、きちんとシフトダウンする必要がある。高齢化社会にどう生きるかを考えたとき、頭に浮かんだのは、減速して生きる、というイメージだったという。それも無理にブレーキをかけるのではなく、精神活動は高めながら自然にスピードを制御する、という発想である。時代はまさに減速の時期にさしかかっており、加速ではなく、スピードを制御することを考えなければならない。しかし、それは後退でも停止でもなく、確実に時代のコーナーを回っていくための積極的な滅速である。そして、気分が滅入ったときはたくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張り出すことである。そうやって回想して咀嚼しているうちに、立ち直る自分がいる。最終的には、人間とは愛すべきものだというあたたかい気持ちが戻ってくるという。
第1章 「老い」とは何ですか/第2章 「下山」の醍醐味/第3章 老人と回想力/第4章 「世代」から「階級」へ/第5章 なぜ不安になるのか/第6章 まず「気づく」こと
45.令和2年6月6日
”沿線格差 首都圏鉄道路線の知られざる通信簿”(2016年8月 SBクリエイティブ社刊 首都圏鉄道路線研究会著)は、近年、東京への一極集中と地方経済の疲弊といった東京と地方の格差に始まり日本が敏感になってきた格差について東京23区の中でも勝ち組と負け組に分けられるという沿線格差を論じている。
新宿、渋谷、池袋、品川、上野などの都心ターミナル駅を起点として、郊外に向けてのびていく鉄道路線は、主に通勤通学のために使われるが、実はこれらの路線にも格差があるという。本書は勝ち組10路線と負け組8路線を発表し、ブランドタウン充実路線から、酒盛り列車と呼ばれる路線まで、各沿線の愛すべき個性を徹底分析している。著者の首都圏鉄道路線研究会は、東京の鉄道路線を中心に各種統計データなどを駆使して、鉄道がもたらす様々な効果効用を日夜研究している。執筆者は、小川裕夫氏、小林拓矢氏、佐藤 充氏、常井宏平氏である。小川裕夫氏は1977年静岡市生まれ、大学卒業後行政誌編集者を経て、フリーランスのライター兼カメラマンとして活動している。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野でほかにエスパニョルを取材している。小林拓矢氏は1979年山梨県甲府市生まれ、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修を卒業し、会社勤務などを経て、2005年よりフリーライターとして活動している。一眼レフカメラを所有し、写真撮影が必要な取材も可能である。佐藤 充氏は大手鉄道会社の元社員で、新幹線や在来線の運行を支えていた。現在はIT企業に勤めながら、フリーライターとして活動している。常井宏平氏は1981年茨城県生まれ、中央大学文学部社会学科を卒業し、出版業界で編集やライティングを担当した。現在はフリーで活動しており、歴史やタウン系などの記事を執筆している。鉄道路線は、主要ターミナル駅から、郊外に向けて放射線状に伸びている。私たちが毎日通勤た通学の手段として活用しているこれらの各路線に固有のイメージや、路線間のヒエラルキーはどのようにして誕生したのであろうか。日本における首都圏は、主に首都圏整備法第2条第1項および同施行令第1条に基づいてと定義され、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の1都7県を指す。この範囲の首都圏総人口は、約4393万人である。法令に基づく定義とは異なる範囲を対象とした首都圏の用例として、首都を中心とする周辺地域を指す用語の東京大都市圏、東京都市圏、東京圏などがある。東京を核とする首都圏には、世界でも類のない数の路線が運行されている。それらの路線は、都心部から郊外に走る路線、都市部のみを走る路線、郊外を中心に走る路線など、さまざまな形態をもつ。生活の場を地方から首都圏に移す際、また首都圏に育っても就職や進学などで生活の基盤が変わったりした際、引っ越しをしなければならない。その際、どのように住む場所を選ぶかの基準で、大きなウェイトを占めるのが路線ではないだろうか。車社会の地方では鉄道に乗る機会さえ限られるので、沿線を意識して住まいを選ぶ習慣がないが、首都圏では働いていれば、多くの人が平日は毎日電車に乗ることになる。どの路線に住むかが暮らしぶりを変えるといっても過言ではないし、だからこそ、どの沿線に住むかは重要な関心事になる。23区の所得水準で見た1位港区と最下位足立区の格差と同じように、誰もが路線間にも格付けや序列があることを薄々気づいていながら、これまであまり公には触れてこなかった。鉄道というのは、それがJRにせよ私鉄にせよ、社会インフラであり、不特定多数の人間が利用するものなので、路線に貴賎なしではないが、その優劣を論じることは憚られてきた面があるのだろうか。人気駅ランキング、住みたい街ランキングといった指標がよく不動産情報とひもづけて発表されるように、人気のあるなしは、鉄道路線にも確かに存在する。また、私たちの普段の会話レベルでも、比較的よく交わされているテーマの一つである。一方で、沿線の総合力、実力というのは、なかなか数値化して表すのが難しい面もある。例えば、各路線の沿線住民の富裕度なり沿線地価と、その路線の利便性が必ずしも一致するとは限らないし、見栄やステイタスを気にしなければ、どこだって住めば都という一面もある。さらに、それぞれの沿線住民にとっての満足や不満も様々だろうから、複眼的に各沿線を見ていく必要がある。第1章では、東京都心部に通う人が利用する19路線をピックアップして解説されている。選んだ基準は、JR山手線に接続しているJR路線、私鉄は都心部と郊外を結ぶ乗客数が多い主要路線、といった具合である。東京メトロ、都営地下鉄は、その鉄道会社の性格上、都心部を走る路線が大半なので、沿線に住宅地が多い路線を選んでいる。沿線の「勝ち組」と「負け組」の選定については、通勤・通学の目的地にいかに早く行けるか、賃貸マンションの相場はいくらか、そういったことを勘案して決めるわけだが、もうひとつ、「沿線のイメージ」も選ぶ際のポイントになる。たしかにイメージで区別されることもあるが、ここではイメージにとらわれず、真の「勝ち組」沿線とはどこなのかを考えてみたい。何をして勝ち組とするのかは、①ブランドタウンが多くて、②接続路線が多く、③遅延も少なく、④混雑していない路線がまず考えられる。とはいえ、閑散とした路線では沿線に活気も出ないので、⑤乗客が多く、成長具合も加味して、⑥乗客が増えている路線と定義してみた。加えて、当の鉄道会社にとっては⑦運賃収入の多寡が重要なポイントになるだろう。なお、混雑率が低い路線を「勝ち組」としてはおかしなことになるので、1日の1㎞あたりの乗客数を示す「平均通過人員」を加えた。「住みたい街(駅)ランキング」などで上位に上がる場所は人気が高く、ゆえにマンションの相場が高い。しかし、高い割に不便だったりすれば、満足度は低くなる。逆に家賃が高くても、それに見合う快適さ、便利さがあれば満足できるだろう。そうした考え方のもとにつくったランキングで1位となったのが、京急本線である。
【勝ち組】1位 京急本線 2位 東海道線 3位 東急東横線 4位 小田急線 5位 総武線 6位 中央線 7位 京王線、京成線 9位 京葉線 10位 東急田園都市線
【負け組】11位 都営三田線、埼京線 13位 東西線 14位 東武東上線 15位 西武新宿線 16位 相鉄本線、常磐線 18位 西武池袋線
※このランキングは私鉄のみのランキングのため山手線などJRの路線は入っていない。
本書では沿線開設の歴史から現在までの発展といった時間軸、相互乗り入れなど接続の便利さや混雑率、さらに駅として栄えているかという駅力など、いくつかの指標を勘案して、各路線の実力を大胆に診断することにした。これが、あるようでなかった「沿線格差」と位置付けた理由である。各路線の分析、格付けについては異論や反論なども生じるかもしれないが、あくまでひとつの見方ではあり、読者の皆様に楽しんで読んでもらえるならば幸いである。
【第1章 首都圏の主要各沿線の通信簿】中央線 /総武線 /東海道線 /埼京線 /常磐線 /京葉線 /東急東横線 /東急田園都市線 /西武新宿線 /西武池袋線 /小田急線 /東武東上線 /京成線 /京王線 /京急線 /相鉄線 /東京メトロ /東西線 /都営三田線 /つくばエクスプレス
【第2章 テーマ別沿線ランキング】お金持ちの沿線ランキング、客数アップ、ダウン路線ランキング …ほか
【第3章 沿線イメージのウソと真実】各沿線に特有なイメージはどうして出来た? ~沿線開発の歴史から現在のヒエラルキー誕生、異変まで
46.6月13日
”インカを歩く”(2001年6月 岩波書店刊 高野 潤著)は、長年アンデスの雄大な自然と伝統の世界を撮り続けてきた写真家が、マチュピチュ、大自然、ビルカバンバなどの紀行を写真と文章で紹介している。
インカは南アメリカのペルー高原を中心に君臨した王とその部族であり、ケチュア語を用い,アイユと呼ばれる一種の血縁・地縁的集団を基盤とした。太陽を信仰し、高度の文明をもち、クスコを首都とするインカ帝国(1250年ころ―1533年)を建設し,1400年代にはチムー文化王国を併合して、北はエクアドルのキト付近から,南はチリ中部のマウレ川に及ぶ版図を占めた。当時皇帝の命令によって、インカと同じ言語を使用していたものを、すべてインカとよぶことになった。ところがスペイン人が侵入してきて、この意味をさらに拡大し、帝国そのもの、またはスペイン的でないものすべてをインカとよんだ。さらにまた、帝国の皇帝をもインカとよぶようになった。正式な帝国の名称はタワンチン・スウユである。タワンチン・スウユとは、四つの地方からなる国土の意味で、帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことによる国名である。高野 潤氏は1947年新潟県生まれ、1972年 に写真学校を卒業し、1973年からペルーやボリビアをはじめとする南米に通い続け、アンデスやアマゾン地方を撮り続けた。インカ帝国は、世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡のマチュピチュから、さらに1000m程高い3,400mの標高にクスコがあった。クスコ王国は13世紀に成立し、15世紀の中ごろから急速に征服を開始し、第9代のパチャクチ皇帝は在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張した。第11代のワイナ=カパックはさらに領土を拡張して、アンデス世界の100万?、南北の距離は4000kmに及ぶ大帝国となった。ワイナ=カパック死後、皇位継承をめぐって争いが起こった。皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。1532年にアタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣いだが、時を同じくしてスペインの征服者ピサロが北端のツンベスに上陸した。ピサロはわずかな部下を率いて進撃し、アタウワルパを欺して捕らえてこれを殺害し、1533年にインカ帝国は滅亡した。その後も1536年には反乱を起こし、最後の皇帝を称したトゥパク=アマルは1572年に殺害された。滅ぼされるまでの間の約200年は栄え、最盛期には80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がった。被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。インカ帝国はアンデス文明の系統における最後の先住民国家で、アステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。国王インカは神の化身,太陽の子であるとされ,祭政・軍事の最高権をもって専制政治を行った。農業が中心で鉄器はなく,青銅器もまれで,木製の掘棒でトウモロコシ,ジャガイモなどを栽培した。インカ文明の特質は、国家の最高神たる太陽神をまつる神殿をはじめ、多数の巨石を使った大建築物に代表される。土器は幾何学文様を組み合わせた,鳥形取手の浅鉢,環状取手の水差しなどの多彩土器に特色がある。青銅器・金銀器は生活用品・装飾用品の両方があり,特に黄金製装飾品にすぐれたものが多い。織物も古い技法を継承して発達し,つづれ織のポンチョなどが有名である。天文・暦学はマヤ文化に及ばず象形文字はないが,キープという結縄文字が知られる。来世を信じ死者を崇拝する風習があり,歴代皇帝はミイラにされて太陽の神殿にまつられた。マチュピチュの遺跡をはじめ、数多くのインカ帝国の遺跡が眠るのは、ビルカバンバ山群の主峰サルカンタイ、海抜6271mである。1973年から1年余、著者はボリビアを中心としたアンデス地方を歩き続けていた。そして2回目となる1975年、リマ市から1時間の空の旅を経て、初めてクスコ市を訪れようとしていた。この時の感動は何年経っても忘れられず、ようやくインカそのものの国に到着しつつあるという実感がこみ上げてきたという。これらの初期の旅から、主にアンデス側を中心に南米と関わり続け、気がついたらいつしか29年ほどが経過していた。アンデスに向かった理由はインカと結びついたアンデスという言葉に惚れたからで、この言葉は、広大、未知、不思議などを感じさせる語感があった。通うにつれて、当初、抱いていたインカに対する魅力は益々膨んだという。それらに呼び寄せられるかのように、マチュピチュを基点としてアンデスに広がるインカ文明の跡を訪ね回った。そして次第に、遺跡だけではなく遺跡を囲む大自然のすべてもまた、インカであるように思われてきた。アンデスを歩きながら、著者かいつも驚かされてきたのがインカの石利用である。ほとんど、石の文明といっても良いほどに、道や城塞、都市、または礼拝や神殿の対象として石を用いている。アパチータ(峠の守り神)信仰をはじめ、多くの伝説もまた石に関連している。小さい石も大切にしたが、より大きな石を求めていたことは、オリャンタイだけではなく、サクサイワマンの大要塞に並ぶ巨石が説明してくれる。インカはなぜ、ここまで石を追い求め続けたのか。きっと、石に対して不動不変のエネルギーを感じ、その力を自分たちの力として受け入れようとしていたとも思えてくる。また、石自体がすべてを支える守り神的な存在だったのかもしれない。ただ石を利用したというだけではなく、築いた城塞やアンデネスは現在もしっかりと残っている。石積みはカミソリの刃も入らないほど精巧精緻を極めているものが多い。クスコ市内には角形の石が組みこまれた外壁もある。このように豪快にして繊細な石の文明を築いたインカ、数々の戦いに勝利したインカ、水・風・地形・気候などの自然環境を理解して応用したインカ、考えはじめるとインカに対するイメージは限り無く膨んでくる。そのインカがわずかなスペイン人征服者によって滅ぼされた。だが、マチュピチュをはじめとする石造りの遺跡の数々は蘇り、たくさんの人々の想像力を刺激し、謎や未知の多い数百年前の世界へと誘ってくれる。そして、一人一人の気持ちの中に生き続けようとする。そのことが何よりも、インカが残した大きな遺産ではないかと思われる。本書では、山や谷、高原に残されたインカの遺跡、また、インカを支え、さらにインカとともに生き続けたアンデス山脈を、実際に見た範囲内で紹介したいという。前半部の多くはインカの象徴でもあるマチュピチュ、それからビルカバンバ地方におけるインカについての話題が中心となる。失われた都市マチュピチュの放棄から発見に至るまでの過程、または、衰退しつつもスペイン人に戦いを挑んだ反乱インカの物語りなどは、舞台となった険しい自然を含めて興味深かった。後半部ではインカが征服した広大な領域、そして、インカの名残りをとどめると思われる村人の主な風習に触れた。アンデスを歩いて気づいたことは、どこにでかけてもそれぞれの地が、小宇宙的な独自の世界を抱えているということであった。それらの空気や気配に接する楽しみが山旅をいつも新鮮にしてくれ、歩き続ける力をも生んでくれたという。
1章 マチュピチュ(天空の都市)/2章 大自然(インカ道/チョケキラウ)/3章 ビルカバンバ(ビトコス/エスピリトゥ・パンパ)/4章 征服された山脈/5章 聖域内の伝統
47.6月20日
”マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術”(2011年8月 ソフトバンククリエイティブ社刊 桑原 晃弥著)は、若くして多くの名言・格言で知られる若きカリスマの成功法則に迫り、速さの感覚をまず変えよう、常に「フリーウェイ」を走れ、天才をまねろ、願望に沿って進め、短期勝負に出るな、人間関係をクールにと紹介している。
マーク・エリオット・ザッカーバーグは1984年アメリカ・ニューヨーク州ウェストチェスター郡ホワイト・プレインズ生まれ、歯科医の父親と精神科医の母親からなる家庭の第2子として生まれた。曾祖父はドイツ、オーストリア、ポーランドから移民したユダヤ系であった。アーズリー高校に入学し2年を過ごしたが、その後、エリート進学校として難関大学入試突破に特化した全寮制高校の1つ、フィリップス・エクセター・アカデミーへ転校した。この頃、友人のアダム・ダンジェロとともに、音楽再生用フリーソフトウェアのサービスを開始した。これは利用者が以前に選択した曲をベースに、聞く曲目を予測してくれる機能が高い称賛を受けたソフトウェアであった。そして、2002年に18歳でマサチューセッツ州のハーバード大学に入学に入学し、2006年卒業予定の学生として登録された。入学後はフラタニティのアルファ・イプシロン・パイに所属した。ハーバード大学在籍時においても、自身のプロジェクトの創出を続けていた。初期のプロジェクト、コースマッチでは、同じクラスを履修している他の学生のリストを参照できるようにした。のちにプロジェクトの1つとして開設したサイト、フェイスマシュ.comは、ハーバード大学内に特定した、ランキングサイトのような画像格付けサイトであった。しかし、ネット上に開設後すぐに、大学の管理部職員によってザッカーバーグのインターネットアクセス権が無効とされたため、サイトがオンライン上に存在したのはわずか4時間程となってしまった。大学のコンピュータ業務部がザッカーバーグを連れ出したのち、ハーバード大学運営理事会によって、コンピュータのセキュリティを破りインターネット上のプライバシーや知的財産の規約に違反したとして処罰された。ザッカーバーグは、自由で公然とした情報の利用を可能にすべきと考えていたことを主張したが、理事会側から認められなかった。桑原晃弥氏は1956年広島県生まれ、慶應義塾大学を卒業し、業界紙記者、不動産会社、採用コンサルタント会社を経て、フリージャーナリストとして独立した。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土、働き方、ワークスキルについて鋭い論旨を展開することで定評がある。著書に”スティーブ・ジョブズ名語録””グーグル 10の黄金律””ウォーレン・バフェット賢者の教え”などがある。ザッカーバーグは、2003年19歳のとき、ハーバード大学の講義情報ソフト「コースマッチ」を開始した。これは、同じ授業を履修している他の学生のリストを参照できるサービスだった。同年の美人投票ソフト「フェイスマッチ」で、大学から観察処分となった。これは、ハッキングで得た女子学生の身分証明写真をインターネット上に公開し、女子学生の顔を比べて勝ち抜き投票させるゲームだった。2004年まだ19歳のとき、ハーバード大学で「ザ・フェイスブック」サービスを開始した。その後、アイビーリーグなど全米の大学に公開し、ザ・フェイスブックを創業した。共同創業者は、ハーバード大学のルームメイト・同級生だったエドゥアルド・サベリンである。その後、アンドリュー・マッコーラム、ダスティン・モスコヴィッツ、クリス・ヒューズなどが加わった。当初は、会員はハーバード大学のドメインのメールアドレスを持つ学生に限定されていたが、ボストン地域の大学、アイビーリーグの大学、スタンフォード大学へと対象が拡大されていった。徐々にさまざまな大学の学生も対象に加わり、2005年には高校生にも開放され、その後ザッカーバーグは大学を休学し、その1年後に中退となった、最終的には2006年から13歳以上のすべての人に開放され、現在はユーザー登録時に13歳以上であることを宣言すれば誰でも会員になれる。2009年のある調査で、ワールドワイドな月間アクティブユーザー数によるランキングで、フェイスブックはもっとも利用されているソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)になった。アメリカ・カリフォルニア州メンローパークに本社を置き、フェイスブックInc.が運営する世界最大のSNSである。フェイスブックという名前は、アメリカの一部の大学が学生間の交流を促すために入学した年に提供している本の通称に由来している。日本語版は2008年に公開され、実名登録制となっており、個人情報の登録も必要となっている。公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にサイトのアクセス数がグーグルを抜き話題になった。2011年には世界中に8億人のユーザーを持つ世界最大のSNSになり、2012年には10億人を突破した。ザッカーバーグの先見性の高さは、インスタグラム社の買収からも伺える。社員わずか13人、売上高もほぼゼロの状態だったインスタグラムを、10億ドルで買収したのである。当初は何が面白いのか分からないという否定的な反応が出たほどのサービスだったが、ザッカーバーグだけが高値をつけた。そして、蓋を開けてみれば大成功の買収劇だった。ザッカーバーグの保有資産は現在、約8兆から9兆円と言われている。長者番付トップのジェフ・ベゾス、2位のビル・ゲイツに次ぐ世界3位の資産家であり、伝説の投資家ウォーレン・バフェットより多くの資産を持っている。ザッカーバーグには名言・格言が数々ある。「お金がないならアイデアを出せ、作ったもん勝ちだ、一人の有能なハッカーは10人もしくは20人のエンジニアに匹敵する、自分たちがつくろうとしているものは自分たちだけで完成するものじゃない、僕たちも山あり谷ありで、本当にいろいろなことがあった」。「人生の節目が来た瞬間は、誰もが気づかない。成功者と凡人の差が生まれるのは、そのあとだ。成功者は、新しいステージにいち早く気づき、確信を持って疾走し始める。凡人はなかなか気づかないし、気づいても走れない。そして、あとになって嘆くのだ、あの時だ。あの時に走ればよかった。」ザッカーバーグはきわめて多数のユーザーを擁し、世界をもっとオープンにするという壮大なビジョンを掲げて、現代を疾走している成功者である。しかし、ハーバード大学の学生寮で、学内限定のソーシヤルーネットワーキング・サービス「ザ・フェイスブック」をスタートさせた時には、そんなビジョンはなかったに違いない。ザ・フェイスブックは、いくつも手がけているプロジェクトの一つにすぎなかったからである。急速にユーザーを拡大し始めてもなお、ザッカーバーグは別のプロジェクトのほうに期待をかけていた。だが、ある時点から、ザ・フェイスブックは人生を賭けるに値する「フェイスブック」に変貌する。ビジョンは世界へと広がり、ザッカーバーグの人生は、ランチャーで加速された飛行体のように飛び出していった。それは、ザッカーバーグの敬愛するアップル創業者でCEOのスティブ・ジョブズの人生とよく似ている。ジョブズも、新製品アップルⅠを開発した創業期には、周囲にいるマニア数百人に売ることができれば成功だと考えていたが、ある時点から突然変わった。アップルⅡでパソコンという新市場をつくり出したばかりか、「宇宙に衝撃を与えるほどのものをつくろう」というビジョンにシリコンバレーを巻き込んでいった。ザッカーバーグもジョプズも、節目となる製品ができた瞬間には、平凡な若者だったと言っていいだろう。けれども、早い時期に、自分がやっていることの可能性に気づく。そして、気づくや否や全身全霊を打ち込んで、世界を変えるために急加速を始めている。このスピード感が彼の持ち味であり、魅力なのである。2004年のスタートから、わずか数年の短期間で大事業をなしたザッカーバーグヘの興味は尽きない。本書は、サッカーパークの発した言葉をキーにして、ものの見方や考え方、行動の仕方をまとめたものである。
第1章 速さの感覚をまず変えよう/第2章 常に「フリーウェイ」を走れ/第3章 天才をまねろ/第4章 願望に沿って進め/第5章 短期勝負に出るな/第6章 人間関係をクールに
48.6月27日
”素晴らしき洞窟探検の世界”(2017年10月 筑摩書房刊 吉田 勝次著)は、いまだに誰も見たことのない未踏の世界が存在する知られざる洞窟に魅せられた探検家が日本と世界各地のいろいろな珍しい洞窟を紹介している。
洞窟は、地中にある一定の大きさの空間で、洞穴とも言われる。一般には地下空間のうち人間が入ることが可能なものをいい、洞口の長径が奥行きよりも小さければ洞長2m程度でも洞窟と呼ばれる。水平方向に伸びている横穴や井戸状に開口している縦穴などがある。通常、洞内空間は大気で満たされている。内部の気温は、一般に洞窟がある外部の平均気温になり、内部は外部と較べると夏は涼しく冬は暖かい。また地中であることも含め、一般に湿度が高い。洞口部では日光が差し込むこともあるが、氷河洞・雪渓洞などを除いて奥部は完全な暗黒となる。洞内空間が地下水・海水・堆積物で満たされている洞窟もある。完全に水没している洞窟は水中洞窟、特に海面下に沈んだものは沈水洞窟と呼ばれる。広義には自然洞窟だけでなく人工洞窟や混成洞窟を含む。吉田勝次氏は1966年大阪府生まれ、洞窟探検家で株式会社地球探検社代表取締役、有限会社勝建代表取締役、社団法人日本ケイビング連盟会長を務めている。20代後半で洞窟にのめり込み、今まで入った洞窟は国内外含め1000以上にのぼるという。元々は登山を趣味としていたが、やがて既に踏破されてルートもほぼ定められた登山には物足りなさを感じるようになり、1994年に雑誌で参加者を募集していた静岡県と愛知県の県境にある洞窟探検に参加した。以降はケイビングを趣味とするようになり、1996年には仲間とともに「Japan Exploration Team」=日本探検チーム、略称J.E.Tを結成した。2011年に一般社団法人日本ケイビング協会(Japan Caving Association)を設立し、洞窟探検のガイドやテレビ撮影のガイド・サポート、洞窟ガイド及びレスキューの育成活動、洞窟に関する学術調査などの活動を行っている。同団体は2016年に名称変更され、現在は一般社団法人日本ケイビング連盟となっている。暗くて、狭い洞窟に入っていくのはなぜ、とよく聞かれるという。危険を犯してまでなぜ洞窟に潜るのか、不思議に思えるらしい。暗くて狭い場所が好きな変人に違いないと思われている節もある。ところが、実は高所恐怖症で閉所恐怖症と、相当な怖がりなのだそうである。高所恐怖症は重いほうで、小学生の頃は、街中の歩道橋でさえ立って歩いて渡れないほどだった。大人になって登山に初めて挑戦したときも、岩壁や氷の壁を登っているときは足がガクガク震えて止らなかった。20代で洞窟探検を始めてからは、洞窟の狭いところを移動しているとき、急に恐怖心が襲ってきて前に進めなくなって、そのまま帰ったこともあったという。深い縦穴に降ろしたロープにぶら下がる瞬間はいつも、ロープが切れるんじゃないか、と不安に思う。それにたくさんの支洞が迷路のようになっている洞窟では時々、迷ってしまうことがある。そうなると緊張感と恐怖心で押しつぶされそうになって、脂汗が出てくる。探検家は向こう見ずと思われがちだが、このように実は相当な怖がりである。なのに、なぜ洞窟に入るのか、と言えば、そこには素晴らしい世界が待っているからである。どのように素晴らしいのか、それを本書で伝えていければと思っているという。子供の頃はバスで一人で観光鍾乳洞へ行くぐらい洞窟が好きだった。そして洞内がライトアップされた観光鍾乳洞でも、ライトアップされていない通路や、これ以上は立ち入り禁止という看板の奥に行ってみたいと思っていた。観光鍾乳洞ではない、自然の洞窟に入る機会に恵まれたのは28歳のときだった。初めて入ったその洞窟は観光化されてないとはいえ、いま思えば入るのは大変でなく見所も少なかった。それでも、洞窟の暗闇の中を進みながらやっと見つかったと思った。目の前は真っ暗なのに、頭の中が明るくひらけた感じがした。自然の洞窟は、大人一人がやっと通ることのできる狭い通路、垂直の縦穴は当たり前である。わずかな空間が水に満たされ、地下河川や地底湖になっていることもよくある。そして、暗闇の中には実に変化に富んだ地形が待っていて、洞窟の奥には入口からは想像できない世界が広がり、その景色は到達した者以外は見ることができない。そして、洞窟の中を進むためには、スキルが必要である。シングルロープテクニックが有名であるが、その他にもスキューバダイビング、ロッククライミング、登山などの技術が役立った。また土砂や岩で埋没した空間を掘り進むための土木技術として、本業の建設業のスキルが活きた。それまでの人生で取り組んできたことすべてが洞窟探検につながった。国の天然記念物でもある山口県の秋芳洞、世界遺産のアメリカのカールスバッド洞窟や、ヴェトナムのフォッニヤ洞窟などのいわゆる観光洞窟には、一年中、大勢の人が訪れる。訪れれば、きっと人それぞれ、洞窟の何かに心が動かされると思う。しかし、同じ洞窟に入る行為でも、こうした観光洞窟の奥の観光化されていないところや、まだ誰も入ったことのない未踏の洞窟に入るようなものこそが洞窟探検である。日本ではまだあまり馴染みがないが、海外とくに欧米ではケイビングというアウトドアスポーツとして人気がある。さらに洞窟探検は、スポーツ的な面からだけではなく、学術的にも興味深いものである。昔の人の住居跡や絶滅した生き物の化石が残っていたり、目の前の生き物がその洞窟だけの固有種だったりする。考古学、地質学、地理学、水文学、古生物学、生物学、人類学など多種多様な学問と密接な関係にある。ただ穴の中に入って帰ってくるだけではなく、入れば何かしら発見がある。現在は、人工衛星のお陰で、奥深いジャングルでさえ容易に空から見ることができる時代である。それにほとんどの山は誰かが登り、地表に人類未踏地はないと言っていいかもしれない。だとすれば、地球上に残された未踏の世界は、深海か地底のどちらかしかない。深海は、潜水調査船に乗らないと行けない。だから、人の力のみで進む探検家にとって残された唯一の未踏の地は、洞窟である。地球上の、まだ誰も足を踏み入れたことのない世界を探検するなら、洞窟探検家になる以外に道はない。ただし、探究心は、前に進むための原動力にはなるが、それだけでは危険を察知して回避したり、戻る適切なタイミングを見誤ってしまう。前に進むのは、探究心が恐怖心に勝っているときであり、逆に恐怖心が探究心を超えたときは、潔く戻る。探検家は冒険家ではなく、臆病なところがあっていい。そのほうが沈着冷静、用意周到になれるからである。おいしいものを食べたい人は、評判のお店や食材に恵まれている土地を調べて、そこをめざす。同じように洞窟に入りたい人は、ふつう洞窟がある場所を調べ、現地へ行く。しかし人類未踏の洞窟を探すには、洞窟があるという情報のないエリアほど可能性がある。最低限必要な情報である、地質と地形の二つを調べて当たりをつけることになる。活用するのはインターネットのグーグルアースで、洞窟がありそうな地形を見つけて、次に地質図・地形図と照らし合わせて場所を特定する。規模的に大きく、距離も長い洞窟のほとんどは、石灰岩が雨水などに溶かされてできたものである。石灰洞窟の場所を見つけるために、当たりをつけたら地質図を机の上に広げ、石灰岩の分布を調べる。さらに石灰岩がつくる地形の候補の中でも、地底に洞窟がありそうな地形の場所を地形図で探す。専門用語でドリーネと呼ばれている、すり鉢状の地形が理想的である。ドリーネは雨水を漏斗のように集め、洞窟を作る原動力となる水を流し込むからである。また、地形図上で目をつけるのは、唐突に川がなくなっていて地下に水が流れ込んでいたり、逆に地下から川が流れ出ている場所である。とくに断崖絶壁から突然川が始まっている場所は、かなり有望である。そうして候補地を絞ったあとは、現地に下調べに行く。現地で得る情報に優るものはない。洞窟探検を、死ぬまでずっと続けたいという。洞窟探検には終わりがないからである。洞窟の探検は、一回行っただけでは終わらないのである。数回の探検で洞窟の全容がわかることはなかなかないし、探検、測量、撮影など目的ごとに必要な装備があって、これらを一度に実施するのは逆に効率が悪い。だから、何度も行く必要があり、たとえば第一章で見た霧穴の探検には28年かっている。また世界各地で洞窟探検をしたいから、この点でもやっぱり終わりは見えない。現在ターゲットにしている洞窟がある国は、日本、中国、ラオス、ミャンマー、メキシコ、タイ、ベトナム、ニュージーフンド、南極、ボリビアなどである。この本は、そんな洞窟探検の魅力を伝えるべく、洞窟探検がどういうものなのか、体験したことのない人でもそのプロセスをイメージできるように心がけて書いたという。もし興味を持って、洞窟探検をしてみたいと思った人がいたら、勝手に洞窟には入らずに、まずは体験ツアーや講習会を実施しているケイビングの団体に連絡してほしいとのことである。
プロローグ洞窟探検への招待/1怖がりの洞窟探検家/2すごい洞窟の見つけ方/3洞窟は危険のかたまり?
第1章大洞窟「霧穴」/1入洞まで/2霧穴が見つかるまで/3ベースキャンプの生活/4まだ見ぬ空間を探して
第2章石灰洞窟と火山洞窟/1沖永良部島・銀水洞/2黒部峡谷の未踏洞窟/3ハワイ・カズムラ洞窟
第3章世界のすごい洞窟/1イラン・3N洞窟/2オーストリア・氷の洞窟群/3メキシコ・ゴロンドリナス洞窟/4ヴェトナム・ソンドン洞窟
第4章未踏の地を探して/1ラオスの未踏洞窟/2中国・万丈坑/3洞窟潜水
特別対談/洞窟壁画の謎に迫る 吉田勝次×五十嵐ジャンヌ/1どんなときに絵を描きたくなるか?/2洞窟壁画の研究法/3洞窟壁画を見つけよう!
49.令和2年7月4日
”北条政子-母が嘆きは浅からぬことに候-”(2004年3月 ミネルヴァ書房刊 関 幸彦著)は、平安時代末期から鎌倉時代を生きて鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった一人の傑出した女性の生涯を通して源平争乱から承久の乱までの攻防に迫っている。
北条政子は、伊豆の韮山で勢力を誇っていた北条時政の娘で、伊豆に流されていた源頼朝と恋仲となり結婚した。1180年に頼朝は平家追討の挙兵を行ったが、最初の石橋山の戦いで敗北した。しかし立ち直った頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉に入り政子を迎えた。そして念願叶って平家を滅ぼし、政子も征夷大将軍の夫人となった。頼朝の亡き後は尼将軍と呼ばれ、鎌倉幕府に君臨した。御家人達による合議制を幕府の基本方針とし、これに反対する者は、身内であろうと、功労者であろうと、容赦なく追い払った。1221年に起こった承久の乱では、朝廷に立ち向かうことを恐れた御家人を統率して、上京させた。関 幸彦氏は1952年北海道生まれ、1975年に学習院大学を卒業し、1985年に学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程を修了した。専門は日本中世史で、学習院大学文学部史学科助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年より日本大学文理学部教授を務めている。北条政子は1157年に、伊豆国の豪族の北条時政の長女として生まれた。伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に、政子は頼朝と恋仲になってしまう。1177年20歳のとき、周りの反対を押し切り伊豆の流人だった源頼朝と結婚した。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとしたが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産した。時政も二人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となった。子供は、頼家、実朝、大姫、三幡で、兄弟姉妹には、宗時、義時、時房、阿波局、時子などがいた。1180年23歳のとき、伊豆の頼朝にも以仁王の挙兵の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。源頼朝が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取ったが、続く石橋山の戦いで惨敗した。この戦いで、政子の長兄・北条宗時が討死した。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。1182年25歳のとき、長男で鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが,平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまった。祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまった。同年8月に政子は男子を出産,後の2代将軍・源頼家である。政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒した。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになった。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にさせた。政子の怒りは嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は、貴種である頼朝の正室としては出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったと考えられる。1183年26歳のとき、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下った。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになった。義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。しかし、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。1184年27歳のとき、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めたが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させた。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床についたという。政子は義高を討ったために大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にした。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣したが、大姫が立ち直ることはなかった。範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため、侍女の千手の前を差し出した。重衡は後に東大寺へ送られて斬られたが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去した。範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席した。1185年28歳のとき、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちた。翌年、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得した。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露した。政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めた。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じた。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。奥州へ逃れた義経は1189年に、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣し、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋した。1190年33歳のとき、頼朝は大軍を率いて入京し、後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。1192年35歳ととき、夫の頼朝が武士の統領である征夷大将軍に就任した。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所=みだいどころと呼ばれた。また、次男で3代将軍となる実朝を出産した。1194年37歳のとき、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めたが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。1195年38歳のとき、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床についた。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせたが、2年後に大姫は20歳で死去した。1199年42歳のとき、頼朝は次女の三幡を入内させようと図ったが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれた。親鎌倉派の関白・九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になった。頼朝は再度の上洛を計画したが、落馬が元で急死した。政子は頼朝を弔うため出家し、法名を安養院=あんにょういんといった。夫の死後に落飾して尼御台=あまみだいと呼ばれた。長男の頼家が第2代将軍を継いだ。1203年46歳のとき、頼家が出家し次男の実朝が第3代将軍を継いだ。1219年62歳のとき、実朝が暗殺され、源頼朝の直系が絶えたため、京都出身の藤原頼経を連れてきて、4代将軍にした。政子は尼将軍となり、頼経の後見人となった。1221年64歳のとき、朝廷との間に承久の乱がおこり、尼将軍として鎌倉幕府の武士たちを奮い立たせ、幕府方が勝つ要因となった。1225年に享年68歳で亡くなった。「女房の目出たき例」にとされた北条政子、本書の主題はその政子を中世という時代のなかで語ることにある。小説(文学)風味とは異なる、大説(歴史学)としての人物像の提供にある。70年に近い政子の生涯には、頼朝の妻(御台所)、頼家・実朝の母、さらには尼将軍と、さまざまな立場があった。夫や子女にさきだたれ、運命に殉ずるかの如く生きぬいた政子の人生は、悲劇という枠組みを越え、激しさと大きさがあるようだ。考えてみれば、その生涯には平家の時代も、源平の争乱もさらには承久の乱までもがすっぽりと含まれてしまうのである。まさに彼女が生きた時代は古代から中世への変革期だった。わが国の未曽有の画期にあたるその時代を彼女は自ら体験した。そうした点で政子を論ずることは、同時にわが国の中世を考えることにもつながる。本書が政子とその時代をつねに射程にすえたのもここにある。政子の時代を読み解くことで、武家政権のさまざまが見えてくるはずである。本書の構成は次のとおり。まず本論に先立ち、政子が後の時代にどのように語られてきたのかを概観したい。各時代の政子評を整理することで、その虚像と実像について考えておきたい。本論では政子が生きた時代を対象に、大姫・頼朝・頼家・実朝・義時といった関係人物たちを軸にその生涯を叙述した。彼らを骨格にしたのは『承久記』が代弁するように、政子の人生の節目を象徴している人々と考えられるからだ。そこには彼女が遭遇した政治的事件のさまざまが論ぜられることになる。最後の「伝説を歩く」では、政子にかかわる旧跡を紹介することで本論とは異なる回路を用意してみた。以上が本書の構成である。ここで打ち出した政子論により中世政治史の裾野がさらに広がることを期待したい。
はしがき 関係系図/関係地図
序章 伝説を読む-歴史の中の「政子」たち/第1 大姫の章-建久八年 秋/第2 頼朝の章-建久十年 春/第3 頼家の章-元久元年 夏/第4 実朝の章-建保七年 春/第5 義時の章-貞応三年 夏/第6 政子の章-嘉禄元年 夏
/終章 伝説を歩く-史跡からの証言/参考文献/あとがき/北条政子略年譜/参考資料/人名・事項索引
50.7月11日
”コンビニ おいしい進化史 売れるトレンドのつくり方”(2019年12月 平凡社刊 吉岡 秀子著)は、半世紀にわたって多様な角度から生活に革新をもたらした「コンビニの食」のおいしい変遷、おにぎりとか、スイーツとか、みんなが知っているヒット商品の移り変わりを紹介している。
コンビニは年中無休で長時間の営業を行い、小規模な店舗において主に食品、日用雑貨類など多数の品種を扱う小売店である。1927年にアメリカ・テキサス州の氷販売店「サウスランド・アイス社」で経営を委任されていた「j.j.グリーン」は、氷の需要が高まる夏季には「週7日・1日16時間」と営業時間を延長し、客に喜ばれていた。さらに客からパン、卵、牛乳なども取り扱ってほしいとの要望があり、これらも扱うようになったことでコンビニの原型となった。同店は、後に「セブンイレブン」と改称した。1939年にはオハイオ州で牛乳販売業を営んでいた「J.J.ローソン」が、「ローソンミルク社」を設立し、牛乳のほかに日用品等も販売する小型店「ローソン」をアメリカ北東部にチェーン展開した。このように、コンビニはもともとはアメリカで誕生した業態であるが、後に日本で独自の発展を遂げた。たとえばPOSシステムなどのコンビニのシステムは日本から世界に拡大した。吉岡秀子氏は北海道生まれの大阪育ち、関西大学社会学部マスコミ学科を卒業し、10年の会社員生活を経て、2000年代前半からコンビニ業界の現場取材をライフワークにして現在に至る。自他共に認めるコンビニウォッチャーで、ビジネスやライフ雑誌、ネットニュースなど多数のメディアでコンビニ情報を発信している。『セブン‐イレブンおでん部会-ヒット商品開発の裏側』『セブン・イレブン 金の法則-ヒット商品は「ど真ん中」をねらえ』などの著書がある。経済産業省の商業統計の業態分類としての「コンビニエンスストア」の定義は、「飲食料品を扱い、売り場面積30平方メートル以上250平方メートル未満、営業時間が1日で14時間以上のセルフサービス販売店」を指す。店舗の経営形態には、フランチャイズ・チェーン方式(FC方式)、ボランタリー・チェーン方式(VC方式)、チェーン等に属さない独立経営のコンビニエンスストアなどがある。日本経済新聞の2014年度の調査では、国内市場が初めて10兆円を超える規模に成長した。トップシェアのセブンイレブン・ジャパン、ファミリーマート、ローソンの上位3社だけで、約8割のシェアに達した。2020年2月末の4社合計の総店舗数は50,3285店である。コンビニに代表される都市型小売店の意義は、スペースを売る点にあった。都市の多くの小さな住宅では日用品を備蓄するスペースが少なく、必要になるたびに店で買い足す方法が合っていた。また、コンビニは共働き世帯や単身者が激増し始めた1980年代に、深夜でも利用できる備蓄庫として消費者の支持を得て時間を売る機能の提供を始め、24時間営業はブランド価値の源泉となった。生まれた時から周りにコンビニがたくさんあったコンビニネイティブ世代は、いったい何をおいしいと思い、何に魅力を感じて近所の店を利用してきたのだろうか。セブンイレブンの創業者は、経済成長で日本人が日夜多忙になれば、外で気軽に食べられるおにぎりや弁当、おでんなどが求められると読み、オリジナル商品の開発に乗り出した。コンビニのヒット商品を見れば、その時代の日本人のライフスタイルや消費者ニーズかわかると思われる。昭和の黎明期を経て成長、成熟したコンビニは、平成の30年余りの間で劇的に進化した。令和に入った今は、またそのモデルが大きく変わろうとしている。本書では、まず、コンビニの成長過程と当時のヒット商品を洗い出し、第2ステージとして、セブン・ファミマ・ローソン、各々のヒット商品の進化を探った。なぜ、この商品は生まれたのか、どんなねらいで開発されたのかなどについて、できる限り担当者に会い、開発背景の証言をもらったという。コンビニ大手3社のオープンは、ほぼ同時期である。セブン1号店は1974年に東京・豊洲で、ローソンは1975年に大阪・豊中市で、ファミマは1973年に埼玉県狭山市で、それぞれ1号店をオープンさせた。その他に、北海道の現セイコーマートや山崎製パン傘下のデイリーヤマザキなども1970年代にスタートしている。平成に入った当初の1990年、セブンだけでも4000店舗を超えるチェーンネットワークを構築していた。今では業界全体で6万店に手が届き、あちこちで見かけるようになったコンビニの「食」に、消費者がなじんでいくのは当然であった。1980年代の昭和後半から平成はじめに、「食」の簡便化が行われた。コンビニ黎明期に登場したおにぎりや弁当などか定着し、外で食を買うということが普通になった。代表的なヒット商品は、セブンの「ブリトー」、ローソンの「からあげクン」など、手軽に食べられるものであった。その他、缶切のいらない缶詰である「プルトップ缶」の商品を、初めてセブンが販売を開始した。1990年代には本格志向ヘのシフトが行われた。常温棚にあったサンドイッチなどの調理パンがチルド売り場で販売され、フレッシュな具材が使えるよりになり、おいしさかアップした。また、セブンはアイスクリームもデザートとの新しい発想で、昔ながらのアイスケースを大型のものに変更した。現在の冬アイスー・冬スイーツのルーツはここだといっていい。ファミマはファストフード用の新保温什器の「ホッターズ」をレジ横に導入した。冷たいデザート、温かいおやつの拡充などで、若者や働く男性の集客に成功した。2000年代には差別化商品が台頭した。米飯、麺類、ベーカリー、ファストフードなど、主食や小腹対策のオリジナル食が出ぞろい、どのチェーンも売り場のスタイルはほぼ確立した。そのため同質化を避けてリピーターを獲得するために、このチェーンでしか買えない商品が続々と開発された。コンビニ限定商品にわくわくする消費者が多く見られるようになった。代表作はセブンのオリジナルカップラーメン「有名店ラーメンシリーズ」、セブンプレミアム、ローソンの「おにぎり屋」、ウチカフェスイーツ「プレミアムロールケーキ」、ファミマの「ファミチキ」など、今でもファンに愛され続けるヒット商品が多い。2010年代の平成から令和はじめに中食・健康メニューが増加した。2008年から始まったメタボ健診や、2010年代初頭にブームになった「糖質制限ダイエット」などの影響で、コンビニメニューも「健康」をより意識するようになった。全国で15歳未満の子どもより75歳以上の高齢者の人口が多くなり、深刻な少子高齢社会に突入し、健康寿命を延ばす「食」がますます重視されていった。コンビニメニューも野菜の使用量を増やしたり、既存品を糖質オフヘ転換したりと、商品のヘルシー化に注力した。2011年には東日本大震災が起こり、直後に店を開け続けたコンビニが多かったことから、コンビニの新規顧客として女性やシニアが急増した。買ってすぐ食べるおやつ需要だけでなく、ふだんの食事時に利用される惣菜類の人気が高まった。すでに販売されていたセブンプレミアムを筆頭に、ローソンセレクト、ファミリーマートコレクションなど、多くのオリジナル惣菜シリーズを持つブランドの認知度がアップした。コンビニの食の歴史を俯瞰すると、その変化は「冷蔵庫」から「食卓」ヘというキーワードに集約されるという。昔は必要な物だけ緊急買いしていた場所なのに、いつの間にか入り口に買い物かごが置かれ、献立を考えながら歩く主婦やシニアの姿が目立つようになった。しかし、一方で、流通勢力図の変遷に目を移すと、平成時代はアマゾンはじめ、Eコマースの台頭が著しい時代であった。また、2013年以降は人手不足が深刻となり、人件費の高騰による赤字時間帯の増加に加え、若者人口の減少、高齢化もあり客数が減少した。このため、24時間営業の死守が困難なフランチャイズ店が続出するに至り、加盟店と本部との軋轢が生じる事態が生じるようになった。年間閉店数は2018年が3,610店、2019年が2,050店で、2018年の総店舗数に占める閉店店舗の比率は6.8%となり、経営の厳しさがしのばれる時代になった。これまで進化してきたコンビニの「食」であるが、そんな「今」を思いながら、コンビニの「おいしい軌跡」を想起してほしいという。
はじめにーーコンビニのおいしい変遷
第1章 コンビニおにぎりは、どう進化した?(コンビニおにぎり(1978年~))/第2章 セブンーイレブン(シャキシャキレタスサンド(2005年)/レンジ麺(2006年)/セブンプレミアム(2007年)/セブンカフェ(2013年))/第3章 ローソン(からあげクン(1986年)/おにぎり屋(2002年)/プレミアムロールケーキ(2009年)/ブランパン(2012年))/第4章 ファミリーマート(中華まん(平成初旬~)/ファミチキ(2006年~)/ファミマカフェフラッペ(2014年)/ファミマの焼きとり(2017年))/最終章 ミライのコンビニ「食」(次世代コンビニ、開花間近)
半世紀のヒット商品スペシャル年表/参考文献
51.7月18日
”深海--極限の世界 生命と地球の謎に迫る”(2019年5月 講談社刊 藤倉克則、木村純一編著、海洋研究開発機構協力)は、人類にとって欠くことのできない海の中で海洋のほとんどを占める高圧、低温、暗黒という過酷な環境にある深海の生態系や地球のダイナミズムを紹介している。
深海は高圧の世界で、水圧は10mもぐるごとに1気圧ずつ増えていき、水深1,000mで約101気圧、水深6,500mでは約651気圧である。また、深海は低温の世界でとても寒く、深海の水温は水深約1,000mで2~4℃となり、それより深い海でもほぼ一定である。さらに、深海は太陽の光が届かない暗黒の世界で、太陽の光は水深200m程度で海面の0.1%になり、水深1,000m前後では100兆分の1程度のわずかな光になり、その先は完全な暗黒の世界である。深海の調査には、TVカメラや手の役割をするマニピュレータを搭載した無人探査機などの水中ロボットが用い られるのが一般的である。人間が直接観察することの重要性から、有人の潜水調査船が世界各地で活躍している。海洋研究開発機構(JAMSTEC)には、世界トップクラスの潜航能力、最大潜航深度6,500mをもつ「しんかい6500」があり、日本近海だけではなく、インド洋、南大西洋、カリブ海、など世界中の海で調査を行っている。日本の所有する有人深海探査船は「しんかい2000」と「しんかい6500」であるが、「しんかい2000」は 2003年に引退し、現在は「しんかい6500」だけが稼動している。「しんかい6500」には3名搭乗できるがうち2名はパイロットで、オブザーバーと呼ばれる深海調査を行う学者は1名だけ搭乗できる。およそ秒速0.7mで潜水し、水深6,500mまで2時間ほどで到達する。一度の潜航時間は9時間程度である。JAMSTECは海洋に関する基盤的研究開発、海洋に関する学術研究に関する協力等の業務を総合的に行い、海洋科学技術の水準の向上、学術研究の発展を目指す国立開発研究法人である。2013年、2017年に国立科学博物館において、特別展「深海」を国立科学博物館、NHKなどと共に主催し、大盛況となった。2013年は世紀のスクープ映像と言われた生きたダイオウイカの映像とともに、全長約5mのダイオウイカの標本展示が話題を呼んだ。2017年は「生物発光」や「巨大生物」、「超深海」などに焦点をあて、最新映像や実物が紹介され、それぞれ60万人を超える入場者を記録した。藤倉克則氏は海洋研究開発機構上席技術研究員で、栃木県足利市生まれ、1995年に東京水産大学、現 東京海洋大学修士課程を修了した。博士(水産学)で、専門は深海生物生態学である。海洋科学技術センター、現 海洋研究開発機構に入所以来、有人潜水調査船「しんかい2000」や「しんかい6500」、無人探査機などを駆使して、上席研究員として深海生物研究に取り組んでいる。海洋の生物多様性や海洋プラスチックにも研究対象を広げている。木村純一氏は海洋研究開発機構上席技術研究員で、長野県上伊那郡箕輪町生まれ、1988年に大阪市立大学理学研究科博士課程を修了した。インドネシア共和国地質研究開発センター、福島大学、島根大学教授を歴任後、海洋研究開発機構に入所した。理学博士で、専門は火山学、岩石学、地球化学である。本書は上記2氏のほか、海洋研究開発機構所属の吉田尊雄氏、渋谷岳造氏、諸野祐樹氏、富士原敏也氏、江口暢久氏、木元克典氏、野崎達生氏、山北剛久氏の各氏と、早稲田大学理工学学術院講師の高谷雄太郎氏が執筆している。深海とは水深200mより深い海の部分を指す。深海は深度によって次のように区分され、この区分は漂泳区分帯と呼ばれる。区分者により数値が異なることがある。また、深海層を含めない場合もある。中深層は200 -1,000m、漸深層は1,000-3,000m、上部漸深層は1,000-1,500m、下部漸深層は1,500-3,000m、深海層は3,000-6,000m、超深海層は6,000m以深である。水深4,000-6,000mには地球の表面積のほぼ半分を占める広大な深海底が存在し、ここまでを深海帯としている。これより深い超深海帯は海溝の深部のみが該当し、海全体に占める割合は2%に満たない。世界最深地点は、西太平洋に位置するマリアナ海溝のチャレンジャー海淵で、海面下10,920±10mである。水深200mというのは特に生物に基づいての判断であり、この深さまでは太陽光によってプランクトンが光合成可能であることをその大きな理由としている。この深さでは可視光線はほぼ遮断され、暗黒の世界となる。ただし厳密な測定ではより深くまで通る光はあり、その深さは1,000mに達する。そのため200-1,000mを弱光層、それ以深を無光層と呼ぶ例もある。高水圧・低水温・暗黒・低酸素状態などの過酷な環境条件に適応するため、生物は独自の進化を遂げており、表層の生物からは想像できないほど特異な形態・生態を持つものも存在する。また、性質の相異から表層と深海の海水は混合せず、ほぼ独立した海水循環システムが存在する。海面面積は地球の表面積の7割を占めており、地球の海の平均水深は 3,729mで、深海は海面面積の約80%を占める。21世紀の現在でも大水圧に阻まれて深海探査は容易でなく、大深度潜水が可能な有人や無人の潜水艇や探査船を保有する国は数少なく、深海のほとんどは未踏の領域である。新たな水産資源や鉱物資源を深海に求める機運もあり、1970年ごろから各国が深海探査に乗り出すようになった。これまでに新種の生物やメタンハイドレート、マンガン団塊、コバルトクラスト、熱水鉱床などが次々と見つかっているが、まだまだ深海は未知の世界といえる。また、世界中で問題になっている海洋汚染が、1万m超の深海にまで拡大していることが分かった。アメリカ人の海底探検家のヴィクター・ヴェスコヴォ氏が、太平洋のマリアナ海溝で1日水深1万1000m近くまでの潜水に世界で初めて成功した。深海の水圧に耐えられるよう設計された潜水艇を使い、4時間かけてマリアナ海溝の底を探査したところ、海洋生物のほかにビニール袋やお菓子の包み紙を発見したという。深海は最後のフロンティアともよばれ、世界最深の水深約1,9000mまで到達した人類は、これまでに3人しかいないし、人類がこれまで直接目にした深海は、海底や水中を含めても、全体の1%にも満たないかもしれない。しかし、わずかな場所しか調査していないにもかかわらず、私たちの深海の知識は着実に増加し、その重要性がますます明らかになってきた。深海をもっと調べることで、これまでわからなかった、そして気づかなかった自然の姿やしくみを見いだせるであろう。深海の調査研究は、日本のみならず世界が一丸となって、これからも進められるはずである。深海は最後のフロンティアではなく、最前線の知見を得るフロンティアに進化している。第1章では、光も届かずエネルギー源も少ない深海の生物について、「しんかい6500」がたどった水深6300mでの調査の様子をまじえて紹介している。深海の生物だけでなく、さらに厳しい環境の海底下2.5キロの生物研究までにも迫っている。第2章では、巨大地震の発生メカニズムに迫る深海研究を紹介している。調査船で水深7000mの海底から海底下1000mを掘削し、地震を起こした断層からサンプルを得た様子を交え、巨大地震で何が起きたのかなどについて解説している。第3章では、水産資源、鉱物資源と温暖化などを軸に、人類が深海からどのような影響を受け、また今後受けつつあるのかを解説している。
序章 深海の入り口
第1章 深海と生命/潜水調査船で深海生態系を観る/化学合成生態系とは/共生がもたらす進化いろいろ!/生命の起源と地球外生命/海底下生命圏
第2章 深海と地震/プレートテクトニクスは深海から/巨大地震は深海で起こる/東北地方太平洋沖地震はこうして起きた/地震・津波発生のメカニズムに地震断層を掘り抜いてせまる/南海トラフはどうなる
第3章 人類と深海/海洋酸性化と深層循環/鉱物・エネルギー資源/地球の危機と生物多様性とのかかわり/地震・津波が深海に運んだもの/海のプラスチック問題
52.7月25日
”東京懐かし写真帖”(2019年6月 中央公論新社刊 秋山 武雄著)は、読売新聞都民版に2011年11月からの8年間300回を数える人気連載から選りすぐりの72本を収録し150点にのぼる写真と逸話を通して懐かしいあの頃の古き良き時代を伝えている。
人によって年代は違うが、古き良き時代は誰もが一度は味わう最高の思い出である。しかし、もう二度と出会うことは出来ない。そんな過去の日々を思い求め続けるのは、いまでは単なる幻想でしかないのかもしれない。15歳でカメラを手にしてから70年近く、家業の洋食屋の仕込みが始まる前の早朝に、自転車で都内のあちこちに出かけ撮りためたネガは数万枚にわたるという。秋山武雄氏は1937年東京下町浅草橋生まれ、洋食店「一新亭」を営むかたわら、趣味で都内を撮影し続けている。アマチュアカメラマンらでつくる写真集団の代表で、代表作に写真集『昭和三十年代、瞼、閉じれば東京セピア』などがある。1954年から千葉県浦安町(現・浦安市)を撮り始め、1958年にNHKテレビ懸賞写真コンテストで全国1位となりテレビ出演したことがあった。1963年に写真仲間と写真集団「むぎ」を作り代表となり、NHKテレビ、民放テレビ、雑誌などで古き良き東京の写真を多数発表した。2011年より読売新聞にて「秋山武雄の懐かし写真館」連載中である。2013年よりJCIIフォトクリニック講師を務め、写真集団むぎ代表、日本写真協会会員、三の会講師、ニッコールクラブ会員、ニッコールクラブ浅草支部長を務めた。アサヒカメラ誌年度賞(1979年、1981年)、日本カメラ誌年度賞(1985年)、読売写真大賞(1989年)、第18回土門拳文化賞・奨励賞(2012年)などを受賞した。幼い頃に見た古き良き日本や東京の情景が多数掲載され、著者の撮る写真には、記録性、技術の確かさに加え、温かい眼差しが感じられる。下町の街角や庶民の日常を切りとった写真は、はからずも戦後復興、東京の変貌の記録となった。本職は洋食屋店主であるが、カメラを始めたのは15歳のときだった。小遣いをはたいて月賦で買ったのが始まりで、見様見真似で撮り始め、すぐ面白さに取り憑かれた。18歳になる頃には、写真を撮り続ける条件で家業の洋食屋に入り、その後は、仕込みが始まる前の早朝、自転車で行ける所ならどこへでも出かけて撮影する日々を過ごした。下町の街角や庶民の日常を切り取ることが面白く、来る日も来る日も夢中で撮っていたら、あっという間に65年がたっていたという。今見返すと、これらの写真は図らずも戦後の復興の記録となっていた。撮り溜めたネガは数万枚あり、82歳になった今もカメラは手放せない。もう写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらいである。そんなカメラバカに目を付けてくださったのが、読売新聞の古池記者だった。2011年秋、銀座で開いた個展をご覧になり、すぐ店に飛んできて、「この写真を新聞で紹介したい」と熱く語った。この頃、写真家としても活動していたのでありかたい話だったが、文章はまったくの素人で、記事が書けるか不安であった。古池記者は、「硬い文章ではなく江戸っ子らしい語り口調で書きましょう、記者が手伝います」と言ってくれたので、挑戦してみることにした。それからは、新聞報道やお客さんとの会話をヒントに古い写真を数枚選び、担当記者と原稿を書くという作業が生活に加わった。担当記者は、毎週、一新亭にお邪魔し、秋山氏と打ち合わせをした。「一新亭」は台東区浅草橋にあり、創業100年以上なのに、カレーライスとハヤシライスとオムライスを楽しめる下町の洋食屋で、お店は夫婦お二人で切り盛りしていた。メニューによれば、カレーライスは80円(1957年)→ 700円(2019年)、ハヤシライスは80円(1957年)→1000円(2019年)、チキンライスは80円(1957年)→ 850円(2019年)となっていて、オムライス+メンチは60年間で約10倍値上がりであった。担当記者が初めて秋山氏に会った日、あいさつもそこそこに暗室からスクラップブックを十数冊持ってきて次々と見せてくれた。丁寧に貼られた白黒写真1枚1枚に撮影年月日と場所が記されていた。さらに、パソコンには数万枚の写真が保存されていた。打ち合わせでは、写真の見どころや思い出話を聞かせてもらい、キーボードが思うようにたたけない秋山氏に代わり記事を書いたという。打ち合わせが何とも楽しい時間で、写真も言葉も味わい深く心にしみた。打ち合わせの帰り道はいつも、素敵な映画を見た後のような幸せな気分になったそうである。時々ごちそうになったハヤシライス、これも味わい深かった。激動の昭和も幕を下ろした平成も、ずっと変わらぬ瑞々しい感性で東京を見続けてきたようである。日常生活で当たり前に過ぎてゆくささやかな幸せに目を留め、人と人との心のつながりを大切にする温かい人柄がどの写真にも溢れている。たとえば、「お祝いにご近所総出」の項目では、6月の花嫁が取り上げられている。6月と言えば「ジューン・ブライド」、欧米では「6月の花嫁」は幸せになるという言い伝えがある。梅雨のじめじめとした季節でも、やっぱり若い女性は純白のウエディングドレスにあこがれる。そんなハイカラな写真はないけれど、昭和の花嫁さんたちの姿を通して、ご近所付き合いのことをいろいろ考えてみた。写真は昭和39年(1964年)に台東区鳥越の商店街で撮影したもので、花嫁は4歳下の自分の妹である。仲人さんに手を引かれ、近所にあいさつをして回った。かっぽう着のおばさん、それに子供たちまでもが集まっている。商店街の花飾りも祝福してくれているみたいである。昭和40年代初め頃までは、こんなふうに地元を歩いて、「生まれ育ったこの土地から嫁いで参ります、ありがとうございました」と花嫁姿をお披露目する風習があった。ご近所さんたちは、「○○ちゃん、きれいになったね」「小さいときはおてんばさんだったのよ」なんて声をかけてくれた。式場に向かう前に嫁ぎ先の近所にも寄って、「これから末永くよろしくお願いします」とあいさつする家もあった。ご近所さんというのがどういう位置づけだったか、分かってもらえるだろうか。近頃は、結婚式場やホテルで衣装に着替え、式も披露宴もその場で済ませるのがほとんどである。ご近所さんに花嫁姿を見てもらう機会はなくなってしまった。娘さんが結婚したのは平成になってからだから、式場で完結してしまったそうである。時代の移り変わりは仕方のないことだけど、思い返せば「向こう三軒両隣」に祝福されて嫁ぐのも、いいもんだったと思う。写真は東京の下町の日常生活を中心に、家族、子どもたち、乗り物、労働者、四季のおりおり、戦争の記憶、東京発展の軌跡などである。撮ったときの自分の状況や気持ちが素直に書かれている。
・家族と浅草橋
路地裏あふれる笑顔-浅草橋の子供たち/父と母とサイダーと-家族、銅板、浅草橋/だんらんの指定席-火鉢のぬくもり/思い出も巻き戻して-フィルム/せつなさと優しい記憶-母/お祝いにご近所総出-6月の花嫁/赤ん坊の温かさ役得-ねんねこ半纏/路地裏で確かめた絆-弟のいた風景
・街角の子供たち/僕ら 路地裏の勝負師-ベーゴマの思い出/路地裏 男の勝負-相撲/集団登校 成長の階段-学校の外/かわいい 遊びの相棒-小さなともだち/路地のおままごと-女の子の遊び/自慢の凧 風を集めてI-正月遊び/街の名棋士 真剣勝負-縁台将棋
・身近な乗りもの/静かな民の足-トロリーバス/銀座の顔 そろい踏み-都電と歌舞伎座/隅田川 のとかな足-佃の渡し/行き交う人 街の素顔-踏切/「家族の元に」長い列-ふるさとへ/車擦り合うのも縁?-交通事情/新しい物 ひと目でも-モノレールと羽田/暮らし支えた川の道-水上バス/汽笛響く SL始発駅-両国/散水 ホーム通過します-国鉄の思い出/道の真ん中 ひょいと駅-都電停留場
・働く人びと/ひたひきで大きな母-働く女性たち/絶妙でフンス 職人芸-自慢の腕/熱気あふれる夜明け-築地のにぎわい/厚紙切符、ハサミの音-改札/畳職人 口からスプレー-暮れの光景/カレー80円、家130万円-値段/人命救助 準備から-消防のホース
・四季と年中行事/心も躍る元日獅子舞-佃のお正月/凍える土俵に若い汗-初場所/笑顔あふれる田舎道-山里の春/街の「止まり木」願って-鳥越祭に椅子/しっとり 粋な装い-梅雨/浅草青々 夏へ続く道-植木市/ご先祖様 煙に乗せて-お盆/先祖への思い 届けたい-川と供養/夏休み 元気に早起き-ラジオ体操/私にも絵が描けたら-芸術の秋/暗くなるから帰ろう-家路/新巻きザケ 塩辛かった-アメ横のにぎわい
・日常生活のひとこま/10円玉で「もしもし」-公衆電話/みんな大切にしてた-傘/包んで運んで大活躍-風呂敷/道案内に欠かせない-煙突/吸い殻 紫煙あった街-たばこ/腕に覚え 軒先に札-着物/下町情緒 響かせ歩く-下駄/縁日で出会えた「芸術」-針金細工
・戦争の記憶/焼け野原から力強く-西新井橋近く/忘れない 東京大空襲-昭和20年3月10日/胸に残る 生きる工夫-戦後のにおい/語り継ぐ つらい記憶-戦争と命
・移りゆく風景/思い出 生まれる場所-東京駅/弟妹おんぶし黙々と-大森のコークス拾い/特大サイズの雷蔵-映画看板/あふれる下町の「音」-浅草六区の映画街/バナナ 幸せの甘い味-秋葉原の青果市場/数の変化にワクワク-お化け煙突/開通半世紀の大動脈-首都高/移ろう景色の味わい-浅草の空/都心と下町の”大きな顔”-ガスタンクのある町/町に映えたシンボル-浅草の塔/首都の顔 ほのぼの-新宿駅南口/心弾むづフダイス-屋上遊園/生活支える東京湾岸-豊洲と築地/広い空 目立つ広告-アドバルーン/車窓でお土産品定め-上野動物園と都電
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