徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
|
空白
|
徒然草のページ
1.令和2年8月1日
”ヒトは120歳まで生きられるのか 生命科学の最前線(2019年10月 文藝春秋社刊 田原 総一朗著)は、日々研究が進められているゲノム編集、iPS細胞、デザイナーベビー、ヒトゲノムなどの病気や老いを克服しようとする生命科学の最前線を紹介し人類の長きにわたる寿命との闘いについても触れている。
一般に、人間が生まれてから死ぬまでの時間のことを寿命という。この長さには非常に個人差があり、生まれてすぐ死ぬ人間もいれば、100年以上生きる人間もいる。しかし、あまりに短い場合、大抵は事故であったり、病気であったりと不本意な理由があることが多い。人間は特に問題がなければ老人になって衰えて死ぬものだとの考えから、老衰で死ぬことを寿命と言うことが多い。100歳の人が死ねば、大抵は寿命だからねと言われる。田原総一朗氏は1934年滋賀県生まれ、1953年に滋賀県立彦根東高等学校を卒業し、作家を志して上京し、日本交通公社で働きながら、早稲田大学第二文学部日本文学科に在籍した。文学賞に何度か応募したが箸にも棒にもかからず、作家を目指すことを断念し、志望をジャーナリストに切り替えて、3年間でほとんど通っていなかった二文を辞めた。1956年に早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業した。NHK、朝日新聞、日本教育テレビなどのマスコミを手当たり次第受けたが、どれにも受からず、11社目にして初めて合格した岩波映画製作所に入社した。カメラマン助手をつとめた。1964年に東京12チャンネル開局とともに入社して、ディレクターとして、ドキュメンタリー番組などを手掛けた。その後フリーとなり、ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスターとして、またドリームインキュベータ社外取締役として今日に至る。名前だけは誰もが知っているいろいろな生命科学の課題に、日本の最高峰の研究者たちが易しく答えている。人間はどこまで変わっていくのか、その時、世の中はどう変わるのか。アメリカでは、1970年代に「遺伝子組み換え」技術が開発された。1980年にはその技術が熟し始め、数々の実用化かおこなわれていた。私たち人間の体は、およそ37兆個の細胞で構成される。それぞれの細胞にはDNAが存在していて、そのなかに遺伝情報である「遺伝子」が含まれている。私たちの髪や目の色、身長、手や足の形といった個人的な特徴は、この遺伝子の情報によって決定されている。動物や植物も同様で、遺伝子組み換え技術を使うと、種の垣根を越えて、遺伝子を交換することができるようになる。アメリカでは、この遺伝子組み換え技術を利用して、様々な商品が登場していた。たとえば、石油を食べ石油汚染を浄化するバクテリア、古新聞や木材くずなどの廃棄物をブドウ糖に変えるカビー、肥料がなくても育つ麦・絹をつくる大腸菌、さらに、インターフェロンなるがんの特効薬や不老長寿の薬、などなどである。それは、まるで現代の魔法そのものであった。ある若い分子生物学者は、遺伝子工学はあらゆる産業を根底から変えると語調を強めて言ったという。化学工業、薬品会社はもちろん、化粧品会社、清涼飲料水会社、繊維会社など、あらゆる企業で遺伝子工学部門が新設された。それらの会社が、優秀な技術者の凄まじい争奪戦を繰り広げた。一方で、遺伝子組み換え技術の危険性も指摘された。生物を改造できるということは、これまで神聖にして犯すべからざるものとされてきた人間の生命自体を操作し、改造することが可能になるかもしれないのである。また、人類を絶滅に追い込むような恐るべき新生物がつくられる可能性もある。遺伝子工学は、一方では私たちの想像力を限りなくかきたてるが、同時に強い懸念もかきたてる諸刃の剣である。この技術の誕生と発展は、宗教や哲学など人類が培った文化を、根底から揺さぶる可能性があった。この種の技術は日進月歩であり、2010年を過ぎたころ、遺伝子操作の技術に、突如として、ゲノム編集という大きな技術革新が起きた。ゲノムはDNAに含まれる全ての遺伝情報の総称であり、生物の設計図全体と言える。この設計図を、自由自在に編集できるようになったのである。これまでよりも正確に、目的の遺伝子を狙い撃ちして操作できるようになり、特定の遺伝子の働き方を容易に変えられるようになった。この技術の登場によって、人間はついに神の領域に足を踏み入れたのではないかと思われる。技術は開発されて少し時間を置くことで、さまざまな広がりや、逆に問題点があぶりだされる。ゲノム編集は遺伝子組み換え技術に比べ、遺伝子操作に要する期間やコストが大幅に圧縮されるばかりでなく、この技術が応用できる農畜産物の対象品目が飛躍的に増大する。この種の技術が一般化するためには、コストの問題は重要であり、そこをクリアするとなれば爆発的に広まることになる。さらに、この技術革新は農畜産物の生産以上に、医療分野への応用で大きな衝撃を与えている。従来の医療は個々の病気や病状に対応する、いわば対症療法であったが、ゲノム編集では、個々の病気を引き起こす根本的な集団である「遺伝子の変異」を直接治療できる可能性が高まってきた。現に、ゲノム編集によって、従来の医療では手がつけられなかった難病を克服するための取り組みも始まっている。人類は長きにわたって寿命との闘いを続けてきた。病気や老いを克服しようとする医療は日々研究が進められ、2006年には、iPS細胞の登場によって、「再生医療」が注目されるようになった。ゲノム編集の登場により、この変化はもう一歩先の段階に突入したのかもしれない。日本人の寿命は年々延びてきて、今や、人生百年時代とも言われる。さらに言うなら、少なからぬ学者が、将来的には平均寿命は120歳に到達するかもしれないと指摘している。1963年時点で153人だった日本の100歳以上人口は、54年後の2017年には6万7824人に増えた。2016年に米国の研究チームが、「人類の年齢の限界は115歳」という論文を科学雑誌「ネイチャー」に発表した。これまでの人間の最高齢記録を分析したところ、1960年ごろには110歳前後に、1990年ごろには115歳前後に伸びたが、それ以降は伸びが鈍化しているという。記録上、最も長生きしたのは、1997年に122歳で亡くなったフランス人ジャンヌ・カルマンさんであるが、この人は例外中の例外らしい。日本でもこれまでに115歳を超えた人は10人もいない。ある分子遺伝学者の研究では、人間の寿命には上限があり、それを超えることは恐らくできないだろうという。過去100年でこれだけ医療が進歩し、平均寿命は伸びているにも関わらず、最高寿命には自然界の限界があってそれを超えられないというのである。どれだけ健康的に長生きしても寿命は寿命、ある年齢に達すると人間の体も期限が切れてしまうのではないか。また、寿命が延びるということはいいことばかりではない。100歳以上まで生きるのが当たり前になれば、社会全体の高齢化が進み、年金制度が破綻する可能性も出てくる。日本では少子化か進んでいるが、これが人口のピラミッドを激変させつつあることがすでに明らかになっている。定年制などの既存の社会システムが崩れ去り、まったく新しい制度設計が必要になるだろう。そして、そもそも人間の幸せとは何かという、人間の根源的な問いにも直面することになるはずである。著者自身も80代の半ばで、普通の人は「終活」などといって人生の閉じ方を考える。しかし、ヒトが120歳まで生きられるとするならば、まだ、3分の2を生きたに過ぎない。この本のための取材は、著者の人生観すら変えることになると思いながら取材を始めたとのことである。
第1章 ゲノム編集によって世界が変わった/第2章 iPS細胞の開発がもたらしたもの/第3章 iPS細胞による「心不全」治療/第4章 がん治療はここまで進歩する/第5章 遺伝子の改変はどこまで許されるのか/第6章 人はどのようにして120歳社会を生きるのか
2.8月8日
”Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男”(2017年6月 文藝春秋社刊 佐々木 健一著)は、つい30年前まで謎の墜落の不安と隣り合わせだった世界の空について事故の原因を突き止め世界の航空安全に多大な貢献をした日本人気象学者の人生を紹介している。
かつて、18ヵ月に一度の割合で、100名を超す人々が離着陸時に突然、上空から地面へと叩きつけられ、一瞬にして命を失う謎の墜落事故が頻発していた。1975年12月、藤田哲也は、ある航空機事故の謎に挑もうとしていた。米国気象界の中心であるシカゴ大学の教授となり、10年が過ぎて55歳になっていた。きっかけは、思いもよらない相手から掛かってきた一本の電話だった。人命がかかっているので原因を是非あなたに解明してほしいという、イースタン航空のマイアミ本社から電話である。その痛ましい墜落事故の原因調査は、すでにアメリカ政府の航空機事故調査機関NTSB(国家運輸安全委員会)によって行われていた。それにもかかわらず、事故を起こした航空会社から原因究明の依頼があったのだ。佐々木健一氏は1977年札幌市生まれ、早稲田大学卒業後、NHKエデュケーショナルに入社し、ディレクターとして企画・制作に携わった。第31回ATP賞優秀賞、アメリカ国際フィルム・ビデオ祭2016ドキュメンタリー部門シルバースクリーン賞、第40回放送文化基金賞優秀賞などを受賞している。藤田哲也は1920年福岡県企救郡曽根村、後の北九州市小倉南区生まれ、1939年に小倉中学校、現在の福岡県立小倉高等学校を卒業し、在籍時に第一回理科賞を受賞した。1943年に明治専門学校、現在の九州工業大学工学部機械科を卒業すると同時に、同大学で助手となり、その後、物理学助教授に就任した。1945年に広島・長崎への原爆投下を受け、それらの被害調査に派遣された。1947年に現在のみやま市の江の浦で起こった竜巻を調査した。脊振山頂測候所の観測小屋で、所長と助手の3人で雷雲の観測を実施した。脊振山麓の南西から強い雷雲が吹き上げ、山頂上空に達すると、20メートル毎秒以上の強風が吹き、気圧計が大きく変動することを観測した。測候所の自記計が捉えた風と気圧変化のデータを分析して、上昇気流に乗って空高く発達した雷雲の下部、脊振山頂の高さに、今まで知られなかった下降気流があることを検証した。1953年に東京大学で博士号を取得した。同年に、背振山の米軍レーダーサイトにあったごみ捨て場から、ホレイス・バイヤーズシカゴ大教授によるサンダーストーム・プロジェクトのレポートを偶然拾い、同教授宛に自分の研究内容の一部を送付した。すると、同教授から研究内容と才能を見出され同大学に招聘され渡米し、同大学の気象学客員研究員となった。1957年にノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行った。1965年にシカゴ大学教授に就任し、九州工業大学の第二回嘉村賞を受賞した。1968年にアメリカ市民権を取得した。1971年に竜巻の規模を示す Fujita-Pearson Tornado Scale (F-Scale) を考案した。1975年にジョン・F・ケネディ国際空港で発生した航空機事故の調査を行い、ダウンバーストの研究を本格化させた。藤田が渡米した当時、トルネードが多く発生するアメリカにおいて、発生の回数は記録されていたが、その規模等は記録されていなかった。そこで藤田は、ミズーリ州カンザスシティの気象予報センター長であった アラン・ピアソンと共に、トルネードによる建物の破壊の程度などから、その最大風速を推定する方法を考案した。通称藤田スケールと呼ばれるトルネード階級表は、国立気象局で1973年から採用され、現在では国際的な基準として広く用いられている。藤田は多くのトルネードを分析した結果、トルネードが発生するには、まず親雲が存在することが前提条件であると考えた。そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この発生メカニズムを実験室で再現して見せた。1975年にジョン・F・ケネディ国際空港でイースタン航空66便着陸失敗事故が発生した際、当初この事故はパイロットの操縦ミスが原因であるとの結論が出た。しかし、それに納得のいかなかった航空会社が藤田に事故原因の再調査を依頼した。藤田哲也の名は、日本ではあまり知られていないが、アメリカではフジタの名は、日本よりもはるかに有名だった。毎年数百もの竜巻が発生する竜巻大国アメリカでは、日本の地震や台風のように、頻繁に竜巻被害のニュースがメディアに躍る。竜巻の強さはF1、F2、F3などと伝えられるが、それは地震の震度のように、竜巻の強さを風速や被害状況から分類するこFスケールを指す。この尺度を世界で初めて考案したのが、藤田哲也だった。なお現在では、改良されたEFスケールなどが使用されている。戦後、アメリカヘ渡り、竜巻研究で名を成した藤田は、米国気象界でMr.トルネードの異名を持っていた。世界で発生する竜巻の3分の2が集中するアメリカに比べると、日本で竜巻が発生することは稀である。過去に何度か日本のメディアでも藤田が紹介されたことはあったが、人々の記憶にその名が刻まれることはなかった。32歳でアメリカヘ渡った藤田は、わずか十数年の内に竜巻研究の第一人者となり、気象学の常識を次々と塗り変え、一目置かれる存在となった。しかし、米国気象界で確固たる地位も名誉も手に入れていた50代半ばになって、突如大きな波紋を呼ぶ新説を発表した。それが、謎の墜落事故を引き起こした原因のダウンバーストだった。空港付近でごく短い時間に強い下降気流が発生したことを突き止め、その発生プロセスを解明し、旅客機の墜落はこのダウンバーストに起因すると指摘した。新説発表から約10年もの間、藤田は激しいバッシングと論争の渦中に身を置いた。だが、怯まず、自身の説の立証に命を燃やした。藤田が提唱した未知の気象現象ダウンバーストが発見・解明されていなければ、世界の空は未だ暗然たる闇に覆われたままだったであろう。現在、飛行機は、様々な交通手段の中で最も安全な乗り物の一つとされている。米国内で航空機に乗り死亡事故に遭遇する確率は、わずか0.0009%だという。米国内で自動車に乗って死亡事故に遭遇する確率0.03%と比較すると、33分の1以下の確率である。1979年にドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証してから、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備されるようになった。1983年にダウンバーストの存在について論争が続いていたが、レーガン大統領の専用機エアフォースワンが着陸した6分後にダウンバーストが発生し、格納庫が破壊された事故が発生した。米空軍が対策を講じる過程で、ダウンバースト論の正当性が認められた。1989年にフランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与された。1991年にシカゴ大学名誉教授となり、日本では勲二等瑞宝章を受章した。そして、1998年に糖尿病により自宅で享年78歳で永眠した。ダウンバーストとトルネードの研究における世界的権威として知られ、その優れた業績から Mr. Tornado、Dr. Tornadoとも称された。また、観測実験で得た難解な数式なども、見やすい立体図などの図解にしてしまうことから、気象界のディズニーとも呼ばれた。日本、アメリカ、戦争、原爆、死、そして、謎の墜落事故、これらはすべてダウンバーストの発見という一点に向かって繋がっているかのようだった。気象学者の誰もが,そんな現象は起こらないと言っていたダウンバーストとマイクロバーストの存在を証明し,それによって民間ジェット旅客機の墜落事故をゼロにしたのである。本書は、2016年5月2日に放送されたNHKのシリーズ・ドキュメント特別番組の企画・制作過程の取材をもとに、番組では紹介できなかった内容を大幅に盛り込んで再構成し、書き下ろされたものである。
序章 離陸/第一章 魔の風/第二章 謎の男/第三章 幸運/第四章 米国/第五章 日本/第六章 原爆/第七章 論争/第八章 勇気/第九章 変化/第十章 人生/終章 着陸/主要引用参考文献・年賦
3.8月15日
”アフリカを見る アフリカから見る”(2019年8月 筑摩書房刊 白戸 圭一著)は、経済成長が止まり国力が低下している日本に対し多くの国で経済成長が持続し平和と民主主義の定着が進み激変したアフリカについて現在のアフリカの状況の中で今後の日本はどう向き合えばよいかを述べている。
アフリカは、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つである。地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国があり、西サハラを含めると55カ国である。かつてヨーロッパ諸国から暗黒大陸と未開の地のように呼ばれ、ヨーロッパにはあまり知られていなかった。また、その存在を認めようともされなかったが、実際にはヨーロッパより古い歴史と文明があった。白戸圭一氏は1970年生まれ、立命館大学大学院国際関係研究科修士課程でアフリカ政治研究を専攻し、毎日新聞社に入社し、鹿児島支局、福岡総局、外信部を経て、ヨハネスブルク特派員、ワシントン特派員などを歴任した。2010年の日本ジャーナリスト会議賞を受賞した。2014年に三井物産戦略研究所に移り、欧露中東アフリカ室長などを経て、2018年から立命館大学国際関係学部教授を務める。本書は朝日新聞社のウェブメディアに、2017年4月から2019年4月までの2年間、月1回のペースで書き続けた連載エッセイからいくつかを抜き出し、加筆修正したものである。アフリカについての入門書ではなく、特定の問題を論じた専門書でもない。現代アフリカ社会の諸相に焦点を当てつつ、時にアフリカ側に自らの視座を定めて日本を観察したエッセイ集である。著者が初めてアフリカに足を踏み入れたのは、1991年2月に大学の探検部員で仲間と6人でニジェールという国を訪れたときだった。ニジェールは、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する共和制国家である。内陸国で、アルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアの7カ国と国境を隣接する。首都はニアメで、ハウサ族、ジェルマ・ソンガイ族、カヌウリ族、トゥアレグ族、トゥープー族、プール族等などがいる。ニジェールを訪れた当時、日本の3.35倍の広さの同国には、大阪府の人口よりやや少ない約817万人が住んでいた。首都ニアメの人口は確か50万程度だったと記憶している。都市と都市、村と村の間に人の姿はなく、サバンナが地平線の彼方まで続いており、車は幹線道路でも30分に1台見かけるかどうかだった。生まれて初めてアフリカ大陸に足を踏み入れた著者を待っていたのは、天井知らずの開放感であった。当時のアフリカ全体の人口は約6億4900万人で、このうちサハラ砂漠以南のアフリカ49カ国の人口は約5億700万人だった。日本の約80倍の広さの大地に、日本の4倍程度の人間が住んでいたに過ぎなかった。日本の街の暮らししか知らなかった若造にとって、アフリカはどこまでも広かった。首都ニアメから遠く離れた半砂漠の村にテントを張って住み込んだ。井戸水をすすり、下痢やマラリアに悩まされながら、農作業や祭りの様子を映像に収めてテレビ番組を制作したり、紀行文を執筆したりした。その時の体験が契機となって、以来30年近くにわたって断続的ながらもアフリカに関わり続けているという。アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定で、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多く、政治的に安定している国はごくわずかである。完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、15カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析されている。このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの難民が発生している。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴ったスラム化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている。1991年当時の日本は世界第2の経済大国であり、バブル経済に沸いていた。一方、アフリカ諸国の多くは世界の最貧国であった。バブルが弾けた後も日本の政府開発援助ODAの総額は、1990年代を通じて世界最大で、多額の援助がアフリカに供与された。少なくとも1990年代までの日本・アフリカ関係の基調は、援助する豊かな日本と援助される貧しいアフリカであった。しかし、日本とアフリカを取り巻く状況は、いまでは大きく変わった。日本の経済成長はほとんど停止し、1990年には世界第6位だった1人当たり国内総生産GDPは、2018年には世界24位にまで低下した。いまや国内には、アンダークラスと呼ばれる平均年収186万円の人々が、930万人存在すると言われている。人口減少社会が到来し、少子高齢化の流れが止まらないのに、女性が働きながら子供を育てやすい社会に向けた改革は遅々として進まない。阪神淡路、東日本と二度の大震災を経験し、原発事故が起きた。閉塞感と不寛容な空気が社会に横溢し、インターネット空間には他人を罵倒、冷笑する言葉が溢れている。一方のアフリカは、一部の国・地域では武力紛争が続いているものの、平和と民主主義の定着が各地でみられる。多くの国々で経済成長が長期にわたって持続し、初等就学率が上がり、乳幼児死亡率の顕著な低下が観察される。数年前から、アフリカの様々な国に出張するたびに、昔とは何かが違うと感じることが多くなったという。ひと言でいえば、初めてアフリカを訪れたころのような開放感がないのだ。特に都市部では目に見えて人が増え、しばしば日本以上に過密なのである。いまサブサハラ・アフリカでは、かつて人類が経験したことのない勢いで人口が増えている。国連が2017年に公表した世界人口予測によると、2015年7月1日現在、世界人口は推定約73億8300万で、このうちサブサハラ・アフリカは9億6923万人だった。注目すべきは人口増加率の高さである。2010~15年の世界の人口増加率が年平均1.19%だったのに対し、サブサハラ・アフリカ2.74%だった。予防接種の普及や栄養状態の改善で死亡率は低下し、多産多死だったサブサハラ・アフリカの社会は、徐々に多産少死の社会に変質している。2100年には、世界の人口上位10力国の半分をサブサハラ・アフリカの、ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザユア、エチオピア、ウガンダが占める見通しである。ニジェールの2010~15年の人口増加率は3.84%の高率であり、2015年時点で約1989万の人口が2100年には1億9218万に達すると予測されている。人口が爆発するサブサハラ・アフリカは、食糧、若者の雇用機会、エネルギー、土地や水資源などの環境への負荷など様々な課題に直面するだろう。とりわけ対策が急がれるのが、人口爆発によって増え続ける胃袋を満たすための農業の改革である。「でも、もう援助は必要ありません、日本企業の皆さんぜひ投資して下さい」と、ここ数年アフリカ諸国の政府関係者から、そんな言葉を聞く機会が増えたという。貧困や飢餓が蔓延していた1990年代までのアフリカを知る者としては、隔世の感を禁じ得ない。だが、今やアフリカが援助対象地ではなく、投資対象地として世界の注目を浴び、アフリカの人々もそれを自覚している。一人当たりGDPは今なお日本には遠く及ばないが、日本社会の停滞とは対照的に、アフリカ諸国は総じて上り調子にある。ビジネスフロンティアとしてのアフリカの存在感は急上昇し、アフリカは貧困削減支援を一方的に受け入れるだけの大陸から、各国の企業がしのぎを削る大陸に急速に変貌した。自分たちの方が進んでいると信じて疑わなかった日本人が気づかぬ間に、両者の差は急速に縮まり、ケニアにおけるキャッシュレス決済の普及のように日本の先を行くビジネスモデルも出現している。こうした状況の変化を受け、日本はアフリカの発展にどのように貢献すべきかという従来の発想に基づいた関係ではなく、日本とアフリカの双方に利益をもたらす関係を構想してみたいと考えたそうである。新しい関係を構築するためには、アフリカを知るだけではなく、アフリカという鏡に映し出されている日本の姿を観察し、自画像を適切に再認識する必要があるだろう。アフリカという鏡を用いて日本社会の病巣をあぶり出し、日本の再生に向けた手がかりを得たいとの思いもあるという。
I アフリカを見るアフリカから見る
第1章 発展するアフリカ/1 援助ではなく投資を/2 激変する世界-躍進と変革のエチオピア/3 「危険なアフリカ」の固定観念
第2章 アフリカはどこへ行くのか/1 アフリカ農業-アジアで見た発展のヒント/2 「愛国」と「排外」の果てに/3 「隣の友人」が暴力の担い手になる時/4 若き革命家大統領は何を成し遂げたか
第3章 世界政治/経済の舞台として/1 中国はアフリカで本当に嫌われているのか/2 中国がアフリカに軍事拠点を建設する理由/3 北朝鮮は本当に孤立しているのか/4 アフリカに阻まれた日本政府の「夢」/5 アフリカの現実が迫る「発想の転換」
第4章 アフリカから見える日本/1 武力紛争からテロヘ-変わる安全保障上の脅威/2 南アフリカのゼノフォビア-日本への教訓/3 アフリカの小国をロールプレイする/4 忘れられた南スーダン自衛隊派遣
Ⅱ アフリカに潜む日本の国益とチャンス
4.8月22日
”幕末武士の京都グルメ日記-「伊庭八郎征西日記」を読む”(2017年7月 幻冬舎刊 山村 竜也著)は、肌の色が白く麗しいと評された美男で隻腕のラストサムライとして知られる伊庭八郎が将軍・家茂の京都上洛に帯同した際に記した日記を中心に紹介している。
遊撃隊長として榎本武揚とともに戦い、26歳にして五稜郭で散った伊庭八郎は、死の5年前の1864年に将軍・家茂の京都上洛に帯同した。「征西日記」には京都を食べ歩く日常が綴られ、ある日はうなぎに舌鼓を打ち、ある日は赤貝を食べ過ぎて寝込んでしまったりしている。本書は初めて全文を現代語訳し、当時の政情・文化とともに詳細な解説を加えたものである。山村竜也氏は1961年東京都生まれ、中央大学を卒業し、歴史作家・時代考証家として活躍している。幕末や戦国時代の歴史物小説を執筆し、主に新選組を題材とした作品を出版した。2004年からNHK大河ドラマ「新選組! 」「龍馬伝」「八重の桜」、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」(資料提供)、東宝映画「清須会議」など、多くの時代劇作品の考証を担当した。伊庭八郎は1844年に江戸で生まれ、幕末から明治にかけての武士・幕臣で、諱は秀穎=ひでさとといい、隻腕の剣客として知られる。幕末江戸四大道場の一つに数えられる御徒町の剣術道場・練武館を営む心形刀流宗家を、養子となって継いだ伊庭秀業の長男である。伊庭家では実力のある門弟が宗家の養子となって流儀を継承することが多いが、秀業も実子ではなく養子とした秀俊に継がせており、秀穎はこの義理の兄にあたる秀俊の養子となって後に宗家を継いだ。秀業は八郎が生まれた翌年に隠居し、門人の併和惣太郎が伊庭家を相続した。さらに1858年に隠居の秀業が病死したため、惣太郎は軍兵衛の名を引き継ぎ、軍兵衛秀俊と改めた。そのとき16歳であった八郎は、養父秀俊のもとで心形刀流の修行に励んだ。幼少の頃は剣術よりも漢学や蘭学に興味があり、剣術の稽古を始めたのは遅くなってからだったが、二人の軍兵衛の教えによって剣才が花開き、次第に頭角を現した。伊庭の小天狗、伊庭の麒麟児と異名をとるようになり、江戸幕府に大御番士として登用された。剣は天狗のように強く、有名道場の御曹司で、そのうえ白哲の美男となれば、江戸の女性たちがほうっておかなかったというのも無理のないことだった。そんな伊庭八郎が一冊の日記を書き残しており、八郎の親友であった中根淑=香亭という漢学者によって、1902年に公開された。「伊庭八郎征西日記」がそれであり、1864年1月の第14代将軍徳川家茂の上洛の際、警護のためにこれに随行した八郎が書き記した「御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳面」が元になっている。1864年正月の将軍家持上洛の際、八郎をはじめ直新陰流、北辰一刀流など腕利きの剣客50名で奥詰隊が発足した。1865年5月に将軍家茂が長州征伐のために上洛し、八郎ら奥詰、講武所剣槍方は再び随行した。江戸に無事に帰り着いた八郎は、9月になって父秀俊と同じ奥詰に任じられた。このときは、1866年7月に家茂が急死して解兵になるまで、1年以上の長期にわたり大坂に滞在することになった。10月に徳川慶喜により軍制改革が行われ、奥詰と講武所剣槍方は遊撃隊に改編された。1867年10月に大政奉還がなされると、薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍の武力衝突の気運が高まり、八郎ら遊撃隊も戦闘にそなえて上京した。そして年明けの1868年1月3日、両軍は京都南郊の鳥羽・伏見で激突し、戊辰戦争が始まったが、幕軍は新政府軍に敗れて江戸に敗退した。八郎にとって初めての実戦となったこの日、敵の銃弾が甲冑の上から胸に当たり衝撃で吐血し卒倒した。これ以後の八郎は、「征西日記」を書いた者と同一人物とは思えないほど、激烈な戦士に変身をとげることになったという。江戸帰還後、遊撃隊の一部と共に木更津に行き、請西藩主・林忠崇に協力を要請した。協力に応じた請西藩士を含んだ遊撃隊は、前橋藩が守備する富津陣屋を無血開城させて武器弾薬を接収した後、房総半島の館山から出帆し、相模真鶴に上陸した。その後、伊豆韮山、甲府、御殿場、甲州黒駒、沼津と転陣し、途中で加盟する者も多数あったので、沼津滞陣中に遊撃隊を再編成し、八郎は第二軍隊長となった。5月に彰義隊が上野戦争を始めるとこれに呼応し、新政府軍の江戸入りを阻止するため、箱根の関所を抑えようとして小田原藩兵と戦闘となった。いったん和睦が成立したものの、再び敵対した小田原藩と箱根山崎で戦いが起こり、湯本の三枚橋付近で足に被弾した。さらに背後から小田原藩士に左手首の皮一枚を残して斬られ、八郎は振り向きざま下方から心行刀流剣認識の一突きで相手を絶命させた。八郎は従者の阪本鎌吉に担がれ、その場から味方陣地の早雲寺へ逃れた。左腕は途中から先を切断したが、切断面から二寸程の骨が飛び出ていたという。八郎は小刀ですっぱり削り落とし、以後、左手は不自由となりながら戦い抜いた。江戸退却の後、八郎などの離脱者を除いた遊撃隊士は人見・林らに率いられ、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊の長崎丸に乗って、奥州へ向かった。八郎は病院船で治療を受けていて遅れて奥州へ向かったが、乗船した美賀保丸が銚子沖で座礁してしまった。なんとか上陸を果し、改めて奥州へ向う手立てを講ずることとなり、杉田廉卿の勧めで横浜の尺振八宅に潜伏した。11月に尺振八の斡旋により、八郎に付き添っていた本山小太郎とともにアメリカ艦で箱館へ向かった。箱館到着後、旧幕軍役職選挙で、歩兵頭並、遊撃隊隊長となった。徹底抗戦を主張し、隻腕でありながらも遊撃隊を率いて奮戦したが、木古内の戦いで胸部に被弾した。箱館病院で治療を受けていたが、当時の医療ではなす術は無く、致命傷となった。箱館撤退の際、傷病者が搬送された湯の川ではなく、五稜郭に入ることを希望し、開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干して自決した。「御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳面」は残念ながら失われているが、活字化されたものが1917年に雑誌に掲載され、さらに1928年に日本史籍協会叢書に収録された。これらは現在では人手困難ながら、図書館を利用すれば閲覧が可能である。八郎の残した唯一の文章であり、1864年1月14日から同年6月25日までの163日間の日記となっている。注目すべきなのはその内容で、勇ましいタイトルとは裏腹に、初めて京都に上った八郎が、今日はどこに観光に行った、今日は何を食べたなどといった、ごく日常的な行動が事細かに記されていることである。時代はすでに幕末の動乱期に突入しており、京都では前年に名高い新選組も結成され、倒幕派の志士を厳しく取り締まっていた頃のことである。その同じ京都で、徳川将軍を護衛して上京した幕臣の八郎が、政治向きのことには背を向けて、観光、グルメにいそしんでいるとはなんとのんびりしたことであろうか。また公務関係についても記されているが、公的文書などの内容が記されている割に、同世代の勤王志士の日記にあるような時勢論については触れていない。虫歯で稽古を3日休んだり、鰻の味についての批評を行うなど、当時21歳であった伊庭八郎の等身大の姿が伺える内容もある。そんなほのぼのとした八郎の世界を広く知っていただきたいと思い、今回「征西日記」の全文とそれに詳細な解説をつけた本書を刊行するに至ったという。本書を読みながら、八郎と一緒に名所めぐりをしたり、美味しいものを食べたりしている気分にひたっていただきたいとのことである。
第1章 将軍とともに上洛 元治元年(一八六四年)一月~二月/第2章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(一八六四年)三月/第3章 しるこ四杯、赤貝七個 元治元年(一八六四年)四月/第4章 京から大坂へ 元治元年(一八六四年)五月/第5章 お役御免 元治元年(一八六四年)六月
5.8月29日
”懐良親王 日にそへてのかれんとのみ思ふ身に”(2019年8月 ミネルヴァ書房刊 森 茂暁著)は、後醍醐天皇の皇子として征西大将軍に任ぜられた懐良親王の生涯をたどり南朝を強力に支えた九州南北朝史についての研究の現状、課題、成果を振り返っている。
懐良親王=かねよししんのうは生年は定かでないが、1348年6月23日付の五条頼元文書に、懐良が成人したとあり、当時の成人とは数え20歳ぐらいのことと考え、逆算して1329年と推測されている。没年については、1381年初頭に、母の三十一回忌として、妙見寺に宝篋印塔を奉納したものがあるため、この時期まで生存していたのは確実である。これは、長らく埋もれていたが、1916年に発見された。没年として広く伝わっているのは1383年4月30日であるが、この説は根拠が弱いと言われている。森 茂暁氏は1949年長崎県生まれ、長崎県立島原高等学校を卒業し、1972年に九州大学文学部史学科を卒業した。1975年に九州大学大学院文学研究科博士課程中途退学し、九州大学文学部助手となり、1980年に文部省教科書検定課勤務し教科書調査官を経て、1985年に京都産業大学教養部助教授に就任した。その後、山口大学教授を経て、福岡大学人文学部教授を務め、2020年に定年退職した。文学博士で専攻は日本中世の政治と文化と南北朝時代が専門であるが、室町時代にも関心が深い。懐良親王は1329年生まれの後醍醐天皇の皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族である。官位は一品・式部卿で、征西将軍宮と呼ばれる。外交上は、明の日本国王として良懐=りょうかいを名乗った。建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、1336年にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の援助を得て数年間滞在した。その後、1341年頃に薩摩に上陸し、谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族の勧誘に努めた。ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。1350年に観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入った。筑前の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となった。しかし、1352年に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦いで一色軍に大勝した。さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、西牟田讃岐守ら南朝方は、1359年の筑後川の戦いでこれを破り、1361年には九州の拠点である大宰府を制圧した。幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経・渋川義行を九州探題に任命したが、九州制圧は進まず、1367年には幼い3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之が、今川貞世を九州探題に任命して派遣した。1369年には、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を日本国王に命じるという、明の太祖からの国書が使者楊載らによりもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし国王を捕えるという書面であった。これに対して、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で遣わしたところ、今度は国王が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと”太祖実録”にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われ、やりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。その後、今川貞世に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定された。懐良親王は征西将軍の職を後村上天皇皇子の良成親王=ながなりしんのうに譲り、筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。良成親王は1369年に四国に渡って南朝方を統率、のち九州に帰って1375 年に征西将軍職を譲り受け、九州南朝方の中心となった。菊池武朝、阿蘇惟武らを率いて今川貞世を追討し、大いに兵威があがり、相良氏、禰寝氏らをも旗下に加えたが、まもなく勢力を失った。日本の歴史を振り返ってみると、九州は日本列島のなかでも自立性・独立性の高い地域だった。九州が日本の歴史の牽引力となったり、やがて到来する新しい時代のさきがけとなったりする事例は枚挙にいとまない。よきにつけあしきにつけ、九州はその時代時代の最先端を突き進んでいた。それは九州が地理的にみて中国大陸と最も近く、貿易・交易などを通して得られる文化的・経済的なメリットがあったことも考慮しなければならない。また、九州は変革エネルギーの噴火口であるといって過言ではない。中央権力が、こうした潜在的な実力を蓄えた九州に強い関心を示し、それを支配下に置こうとしたのもまた自然なことであった。九州の特性として、時として反権力・反中央の激しいエネルギーを奔騰させた。しかしその裏に、事大主義と中央直結思考が伏在していることも見逃せない。1333年4月、後醍醐天皇の使者からの討幕密勅を受けた足利尊氏が、そのための軍勢催促を秘密裡に行ったとき、頼ったのは主として九州の有力武士であった。1336年2月の尊氏の九州下向、そしてこれに続く3月の筑前多々良浜の戦いも同様に考えることができる。父親の尊氏と激しく確執した直冬に関連する事柄にも、そのことがあらわれている。京都での父親尊氏との権力闘争のあおりで1349年9月、九州に逃れた直冬は世直し主のような期待感を持たれつつ九州の国人たちに支持されて短期間のうちに勢力を拡大させた。しかし、1351年3月、直冬が鎮西探題に任命され将軍勢力に取り込まれると、今度は逆に国人たちの支持を失って急速に勢力をしぼませた。そこには土着の思想も強く息づいているし、九州の国人たちが持つ反中央の性格も色濃くあらわれている。かといって、九州は反中央一辺倒であるのではない。中央直結思考も持ち合わせていたので、時として日和見主義にもみえた。鎌倉時代最末期の菊池武時の鎮西探題襲撃事件のとき、菊池武時が1333年3月に決起したにもかかわらず、一味同心を契ったはずの少弐氏や大友氏は時期尚早とみて約束を履行しなかった。弱体化したとはいえ、いまだ健在の鎌倉幕府に反旗を翻しても勝ち目はないだろうとの打算からである。しかし同年5月には幕府をめぐる状況が一変したため、少弐・大友・島津の三雄を含む九州の武士たちは大挙して鎮西探題を攻撃して壊滅に追い込んだ。このような基本的性格を持つ九州を支配下に置くことの重要さを、時の支配者たちは十分に認識していた。後醍醐天皇もその一人で、窮地に立たされた南朝を盛り立てるためには九州をとりこむのが最良の手段であることに気づいたのである。後醍醐天皇が皇子の懐良を九州に派遣した最大の理由はここにあったといってよい。九州は後醍醐天皇の系譜をひく南朝勢力の最大の支持基盤であったことが特筆される。全国規模でみると、征西将軍官懐良親王率いる九州南朝軍は南朝勢力の屋台骨としての役割を担った。この九州南朝勢力のありようを最も直接的にうかがわせる一級史料が”五條家文書”である。この文書は、福岡県八女市に所在する五條家に伝来する古文書群の称で、現在、全365通の古文書が全16巻の巻子本に表装されている。この文書を抜きにして、九州の南北朝を語ることはできない。日本列島を構成する島々のなかで、九州は独特の歴史と文化をはぐくんできた。それは中央から遠く離れた九州が地域的に完結しているという地形的な特質もさることながら、地理的にアジア大陸と最も近く、海外の文化といちはやく接触しやすいという地政学的な利点にもよるであろう。そのような長い歴史を通して育まれた九州武士たちの主体性が、京都や鎌倉におかれた朝廷や幕府などの中央権力を相対化することを可能にしたのかもしれない。
序 章 懐良親王と九州の南北朝時代/第一章 懐良親王の九州下向/第二章 伊予国忽那島時代・薩摩国谷山時代/第三章 肥後国菊池時代/第四章 追風としての観応の擾乱/第五章 大宰府征西府の全盛時代/第六章 征西府の衰滅過程/第七章 懐良親王の精神世界/終 章 九州南朝の終焉/参考文献/懐良親王略年譜
6.令和2年9月5日
”由利公正 万機公論に決し、私に論ずるなかれ”(2018年10月 ミネルヴァ書房刊 角鹿 尚計著)は、福井藩の財政再建で頭角を現し坂本龍馬の推挙により維新政府財政担当となり幾度もの抵抗や左遷を受けながらも殖産興業と公議公論の発展に尽力した由利公正の生涯を紹介している。
由利公正は越前福井藩士で藩主の松平慶永(春嶽)に重用され、1857年に藩の兵器製造所頭取となって造船事業に携わり、一方で、将軍継嗣運動一橋派に関係した。慶永が隠居謹慎を命ぜられると、大老井伊直弼を除くことを計画した。藩に招聘された横井小楠の指導のもと、物産会所をおこして財政整理、物産振興にあたった。1861年末には輸出物産300万両に上り、藩金庫には黄金50万両蓄蔵の成果をあげた。維新後は新政府の徴士・参与となり、会計基金300万両の調達、太政官札の発行など、明治政府の財政面を担当し、五か条の御誓文の起草にも関係した。角鹿尚計氏は1960年大阪市天王寺生まれ、歌号・旧名は足立尚計である。1983年に皇學館大学文学部国史学科を卒業し、福井市立郷土歴史博物館学芸員となった。2002年に角鹿国造家(旧万性院家)を継承し、氣比神社宮司に就任した。2015年に福井市立郷土歴史博物館長となり、2020年に博士(文学)皇學館大学を取得し、引き続き博物館長を務めている。由利公正は日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家で、子爵、麝香間祗候、旧姓は三岡、通称を石五郎、八郎、字を義由、雅号に雲軒などがある。由利公正の名前の読み方は、きみまさ、きんまさ、コウセイの 3 説が併存する。1829年に、越前松平家32万石の藩士の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれた。幼年より苦しい家計を援け、槍術などの武道で名を馳せ、藩の兵器製造に手腕を発揮した、橋本左内の指導する藩校明道館で兵学を講じた。左内の制産・公議公論の政治思想を受け継ぎつつ、左内没後は熊本から招聘された横井小楠に師事して実学に感銘を受けた。藩の殖産興業策を実施するため、小楠と共に西国各地へ出張している。下関では物産取引の実情を調査し、長崎では藩の蔵屋敷を建ててオランダ商館と生糸販売の特約を結ぶなど、積極的な経済政策を推進した。民富めば国の富む理である、という民富論的な富国策を実践して、藩財政の建て直しに功績があった。越前国福井藩16代藩主の松平慶永が幕府政事総裁職に就任すると、その側用人に就任した。長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策した。福井藩主導による開国、公武合体を進めるため、有志と挙藩上洛を計画しその首謀者となったが、藩論二分し遂に頓挫して罪を得、家督を実弟に譲り蟄居した。福井にて蟄居・謹慎中に坂本龍馬の来訪を受け、新政府が取るべき経済政策について談義した。このことが新政府への参画を求められたことへ結びついた。龍馬とは大変気が合ったようで、2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は、龍馬の船中八策と思想的な基本が共通している。龍馬は公正と会見して帰京した時期に、新政府綱領八策を自筆している。龍馬の推挙により新国家の財政担当として徴用され、徴士・参与となった。「五箇条の御誓文」の草案である「議事之体大意」を起草し、新政府の財源確保を大政官札の発行で補おうとした。その後帰京して福井の官吏として地方行政に手腕を発揮し、やがて再度徴用されて東京府知事となり、東京不燃化計画など民生の諸政策に尽力した。府知事時代の1872年に銀座大火が発生し、現在の丸の内、銀座、築地の一帯が全焼した。当時の東京は木造家屋が多かったため、東京を防火防災都市とすべく、銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建て銀座大通りの幅員するなど、都市改造計画を立案・実行に移した。藩閥政治から公議政体の実現のため、板垣退助らと民撰議院設立建白書に名を連ねた。その他、民力向上のため、有隣生命保険株式会社の設立、日本興業銀行既成同盟会等の要職に就いた。史談会の会長にも推薦された。幕末明治期を駆け抜けた志士たちの中では長命で、子爵・勲一等・従二位という高い地位にまで上り詰めた。明治の元勲と呼ばれる人物と言えぱ、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛をはじめ、薩長という藩閥出身者の名を挙げる。また倒幕か佐幕か、開国か攘夷か、常に二極の抗争の結果、明洽維新がなされ、わが国が近代化に邁進したというのがこれまでの教科書的な一般認識であった。しかし、最近の研究では、新たな史料の相次ぐ発見などにより第三極の立場が注目されつつある。これは、公武合体で政権を一つにして外国と交易し、そのうえで公議公論・公議政体論を実現して、近代国家にデモクラシーをいち早く導入しようとするものである。その関係で、越前福井藩の藩是と行動が注目されつつある。福井藩の幕末維新に生き、明治新政府において財政の指導者となった由利公正の存在は、知られながらもあまり注目されてきてはいない。公正の伝記でまとまったものはいくつかあるが、いずれも大著の上に戦前の刊行物であり、理解しやすい啓蒙書とは言えない。そこで本書は、公正の入門書・研究書・啓蒙書として大方に利用されることを念頭において執筆したという。生涯のうちにこれだけ多岐にわたる多くの事績を残した元勲は、公正の他に例があるだろうか。しかも、生涯の理念・信条は、どのような課題に直面しても動揺はない。旧政体の江戸幕府が終焉し、明治の近代国家に移行して、大きく価値観の変化した時代にあっても、一貫して変わることはなかった。その理念・信条とは、尊皇、経綸、公論であると言える。橋本左内が数え年15歳時にして認めた啓発録の五訓のように、公正もまた幼・青年時の体験に基づく志にぶれることなく、ほぼ80年という長い生涯を剛直な精神で生き貫いた。左内らとともに吉田東篁門下で養った崎門学に基づく尊皇は、藩から天皇親政という天下への時代の転換にあっても動揺はなかった。公正の尊皇は春嶽のそれと違うことなく、福井藩是の根幹であり、天皇親政の元での政体こそ、議会政治である公議公論、公議政体論なのであった。左内と師、小楠の政治・経済思想を実行した経綸と、この二人を提唱者・指導者として明君松平春嶽を中核とした福井藩是たる公論を、近代国家の政体として実現させることに尽くした。公正の生涯を概観する時、およそに言えば藩政時代の「三岡義由」時代と、維新後の「由利公正」時代の二期に分けることか出来る。これは、木戸や大久保らにも言えることであるが、公正も藩政時代に、粛清・暗殺・戦死・病死等で維新を見得なかった志士たちの偉業を維新後実現に向けて懸命に尽力したのである。現代は長寿社会で、第二の人生と言えば定年後を指すが、当代の日本人にとって第二の人生か維新後であったとみれば、第二の人生を生きた公正らの責務こそ、国家・社会にとってきわめて重要な立場にあったと言える。維新後の公正の仕事こそ、福井藩論の集成であり実現であった。本書は博物館の所蔵史料など多様な史料と新出の史料・文献を極力活用し、これまでの研究業績を参考として、波瀾に満ちたその生涯を追ったという。これまでも指摘されてきたように、『由利公正伝』には公正の記憶違いや、創作と思われる実話が少なからずあり、とくに年月の表記には注意を要する。これらは『子爵由利公正伝』でかなり改められたものの、まだ充分とは言えない。この二書の伝記を尊重しつつも、改めるべき記述や年月の表記は修正に努めたという。
第1章 家系と家族/第2章 福井藩士三岡石五郎/第3章 安政期までの公正と福井藩政/第4章 殖産興業と公正/第5章 藩から天下へ/第6章 新政府の綱領制定と財政策/第7章 東京と福井/第8章 東京府政の改革と発展/第9章 社会への広遠な活動と功績/第10章 栄光と終焉
7.9月12日
”レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー”(2019年12月 集英社刊 斉藤 泰弘著)は、15世紀末から16世紀にかけて、フィレンツェ、ミラノやローマを拠点に画家、彫刻家として、また美術以外にも技術者として活躍したルネサンスを代表する万能人レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を紹介している。
レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア・フィレンツェのアンドレア・デル・ベロッキオに師事し、1472年に画家組合に登録し、1482年からミラノの宮廷で画家、彫刻家、建築家、兵器の技術者として活躍した。1499年にフランス軍がミラノを占領したため居を移し、マントバ、ベネチア、フィレンツェに滞在したが、1506年に再びミラノに戻り、科学的研究や運河の構築計画などを試みた。1513年に教皇レオ10世に招かれてローマに滞在し、1516年にフランス王フランソア1世の招きでアンボアーズ近郊のクルー城に赴き、同地で没した。斎藤泰弘氏は1946年福島県生まれ、1978年京都大学イタリア文学大学院博士課程中退、1990年から京大助教授、1997年から文学研究科教授を務め、2010年に定年退任し名誉教授となった。専攻はイタリア文学、イタリア演劇で、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿研究の第一人者であり、1980年に第三回マルコ・ポーロ賞を受賞した。2019年はレオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなってちょうど500年の節目の年に当たるため、この機会にもっと深く知ってほしいという願いから、この本を書くことにしたという。レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年生まれ、フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチという。レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味である。音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿をのこした。1452年4月15日に、フィレンツェ共和国から約20km離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと、農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親は、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚し、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去した。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。レオナルドは、正式にではなかったが、ラテン語、幾何学、数学の教育を受けたようである。レオナルドの幼少期は、さまざまな推測の的となっている。1466年に、14歳だったレオナルドはフィレンツェでもっとも優れた工房のひとつを主宰していた芸術家、ヴェロッキオに弟子入りした。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、さまざまな分野に及んでいた。ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったという話がある。20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。その後、おそらく父親がレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日にペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである。1476年のフィレンツェの裁判で、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたという。1476年以降1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録は残っていない。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。1478年1月に、レオナルドはヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作という最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からも制作依頼を受けた。しかし、前者は未完成のまま放置され、後者はレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。1482年から1499年までミラノ公国で活動し、『岩窟の聖母』は1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼、『最後の晩餐』(1495年 - 1498年)はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院からの依頼であった。レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルド制作予定のブロンズ像の原型用粘土像「巨大な馬」を、射撃練習の的にして破壊したという。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへ避難した。ヴェネツィアでは、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった。1506年にレオナルドはミラノを訪れ、1507年にフィレンツェに戻り、1504年に死去した父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた。1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられた。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子や友人たちとともに過ごした。そして、1519年5月2日にクルーの館で死去した。レオナルドは、一生の間に、ごくわずかな数の絵画作品と、膨大な数の《手稿》(ノートブックのこと)を、しかもややこしい「鏡文字」で書き残した。鏡文字とは、鏡に映さないと普通の字に読めない、つむじ曲がりの文字のことである。この本では、レオナルドのミラノ時代に限って、制作した絵画や彫刻を、レオナルドの目を通して見ることによって解説したという。後世に残る重い作品を作り上げるには、軽くて、はかなくて、気晴らしになるような時間か必要である。ミラノ時代にはそれがふんだんにあった。この時代、レオナルドは戦時には恐ろしい武器の発明家や軍事技師として活躍し、平時には宮廷の祝祭で奇想天外な夢の舞台を出現させるなど、宮廷のエンターテイナーとしても活躍した。30歳からの20年近くにわたるミラノ時代は、心からの情熱と喜びをもって自分の責務からの逸脱行為に熱中できた、レオナルドの人生の中で最も幸せな時代であった。これまで研究者たちは、レオナルドの輝かしい姿に目がくらんで、その暗部が見えていなかったようなので、この本ではこれまで人の立ち入ることのなかった舞台裏にも踏み込んで検証してみたという。
第1章 レオナルドが鏡文字を選んだ理由/第2章 はるかなるミラノへ-都落ちの原因は?/第3章 失われた騎馬像についての感想からなにが分かるか?/第4章 ミラノ公国はどんな国だったのか?/第5章 軍事技師と宮廷芸術家として/第6章 天国の祭典/第7章 野蛮人のパレード/第8章 『白貂を抱く貴婦人』はどんな女性だったのか?/第9章 サンセヴェリーノ夫妻の肖像画/第10章 ミラノ宮廷のエンターテイナー/第11章 『最後の晩餐』はなぜ名画なのか?/第12章 ミラノ脱出
8.9月19日
”北澤楽天と岡本一平 日本漫画の二人の祖”(2020年4月 集英社刊 竹内 一郎著)は、いま世界中で注目されている日本の漫画・アニメの礎を作ったのは原型を作り出した二人の先人漫画家である北澤楽天と岡本一平であったという。
北澤楽天は雑誌の風刺画を描いたのを皮切りに、漫画におけるキャラクターの重要性や日本初の少女漫画を生み出した。岡本一平は新聞に挿絵を描いたのち、コマ割りと文章を組み合わせて大河ドラマ的な作品を作るストーリー漫画の原型を作り出した。そして、漫画雑誌や全集・作品集も大ヒットさせ、経済、社会、文化的にも大きな影響を残した。竹内一郎氏は1956年福岡県久留米市生まれ、横浜国立大学教育学部心理学科を卒業し、後日、博士号(比較社会文化学、九州大学)を取得した。九州大谷短期大学助教授をへて、宝塚造形芸術大学教授、校名変更で宝塚大学東京メディア芸術学部教授を務めている。大学在学中の1977年に、劇団「早稲田小劇場」で鈴木忠志に師事し、1981年に山崎哲らと劇団「転位・21」を創設した。1983年に自らの劇団「オフィス・ワンダーランド」を旗揚げし、作・演出を担当し、1991年に文化庁新進芸術家派遣研究員制度でフィリピンに留学した。竹内 一郎の名前で劇作家・演出家・評論家として、また、さい ふうめいの名前で漫画原作者、ギャンブル評論家として活動し、2006年に第28回サントリー学芸賞を受賞している。世界中にテレビが普及した時代、各国は安価で子供が喜ぶ番組のコンテンツを求めていた。そのとき、手塚治虫という天才が、大胆にコストカットしてアニメーションをつくる方法を考案した。1963年に放送が開始された「鉄腕アトム」は、世界初の毎週放送される30分アニメーションである。これは日本の子供ばかりか、輸出されてアメリカの子供も魅了し、続く「ジャングル大帝」はさらに受け入れられた。筆者は、日本漫画、ジャパニメーションを生み出しだのは、長い間手塚治虫だと思ってきた。それは間違いないが、近年、手塚にはさらに源流があると考えるようになったという。それが北澤楽天と岡本一平であり、手塚以前に日本漫画史に光り輝きながら存在する巨人だったことに気付いたそうである。明治期に北澤楽天、大正・昭和前期に岡本一平という巨人がいて、二人が切り開いた地平に手塚治虫は立っている。そう考えると日本漫画の歴史がすっきりと見え、巨人である楽天、一平から、同じく巨人・手塚にバトンタッチされ、それが現代に受け継がれていると考えると、日本漫画史が一気通貫する。既存の漫画研究史と異なる漫画史が湧き起こり、明治以隆、楽天、一平の育てた壮大な「漫画のスピリット」が、手塚に流れ込んで、やがて日本漫画ジャパニメーションの隆盛につながった、という流れを解説するのが本書の目的である。北澤楽天は1876年東京市神田区駿河台生まれ、本名は保次、北澤家は代々、埼玉の大宮宿で問屋名主、御伝馬役、紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役を務めた名家であった。楽天は洋画を洋画研究所大幸館にて堀江正章から、日本画を父親の保定からそれぞれ学んだ。楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルであった。1895年に横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社し、同紙の漫画欄を担当していたナンキベルから欧米漫画の技術を学んだ。ナンキベルが日本を去った後、その後継者として同紙の漫画を担当するようになった。1899年に今泉一瓢の後を継いで時事新報の漫画記者となり、「支那の粟餅」で初めて時事新報の紙面を飾った。1902年に同紙の日曜版漫画欄「時事漫画」も扱うようになった。作品には、ダークス、アウトコールト、オッパーなどのアメリカのコミックストリップ作家の影響を強く受けていた。1905年にB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌「東京パック」を創刊した。この雑誌は、朝鮮半島、中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売された。1912年に雑誌を出版する有楽社が経営に失敗して版権を手放したため雑誌を退き、退社後新たな出版社を創設して「楽天パック」「家庭パック」を創刊したが、1年3ヶ月で廃刊になった。終刊後は再び「時事新報」を漫画活動の中心に据え、1921年に時事新報から「時事漫画」が日本最初の新聞日曜漫画版として独立し、カラー漫画欄を手掛けるようになった。1929年にフランス大使の斡旋により、パリで個展を開催し、その際、教育功労章を受章した。知名度と漫画界への影響力を買われて、太平洋戦争中には日本漫画奉公会の会長も務めていた。その後、読売新聞、東京日日新聞、報知新聞など他紙が日曜漫画版に相次ぎ参入したため読者を奪われ、1931年7月に時事新報を退社して事実上第一線から退き、10月に時事新報の日曜漫画版も終刊となった。時事新報退社後、芝白金の自宅に「楽天漫画スタジオ」を開き、翌年に「三光漫画スタジオ」と改名して後進を指導した。戦況の悪化に伴い1945年に宮城県遠田郡田尻町に疎開し、1948年に大宮市盆栽町に居を構え、新しい自宅を「楽天居」と称し日本画を描く日々を送った。1955年に脳溢血のため自宅で死亡し、翌年、大宮市の名誉市民に推挙され名誉市民第1号となった。1966年に旧宅跡に大宮市立漫画会館、現さいたま市立漫画会館が設立された。楽天は日本初の職業漫画家とみなされることもあり、その漫画の人気は、現代における漫画が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた。岡本一平は1886年北海道函館区汐見町に生まれ、津藩に仕えた儒学者岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭の長男である。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事した。この時、美術学校の同級生の仲介で大貫カノと知り合い、後に和田英作の媒酌で結婚した。しかし、岡本家には受け入れらなかったため、2人だけの新居を構えた。1910年に東京美術学校西洋画撰科を卒業し、帝国劇場で舞台芸術の仕事に関わった。その後、夏目漱石から漫画の腕を買われ、1912年に朝日新聞社に紹介されて入社し漫画記者となった。新聞や雑誌で漫画に解説文を添えた漫画漫文という独自のスタイルを築き、大正から昭和戦前にかけて一時代を画した。美術学校時代の同級で読売新聞社記者の近藤浩一路とともに、一平・浩一路時代と評された。1929年5月に刊行を開始した「一平全集」に5万セットの予約が入ったのを機に、12月から1932年3月にかけて一家でヨーロッパを旅した。帰国後、漫画漫文集「世界漫遊」などをものし、また、一平塾という漫画家養成の私塾を主宰し、近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑らを育て、後年は小説にも進出した。妻の大貫カノは小説家の岡本かの子であり、長男の太郎ら3人の子を授かったが、次男と長女は夭折している。1939年にかの子が亡くなり、1941年に山本八重子と再婚した。太郎とは異母弟妹にあたる4人の子を授かった。作詞家としても活動し、1940年発売の「隣組」は戦時下にも関わらず、ユーモアのある歌詞で親しまれた。1945年に岐阜県加茂郡白川町に疎開し、終戦後、ユーモアを織り込んだ十七文字形式の短詩「漫俳」を提唱した。1946年より加茂郡古井町下古井に移り、1948年に脳内出血で当地で没するまで文芸活動を行った。手塚が第二次世界大戦後に漫画をエンターテインメントにし、アニメーションの形式に変えて世界に発信したことが、現在の日本漫画=ジャパニメーションの隆盛につながっている。この前提として、明治期に西洋文明を取り入れた日本で、北澤楽天がエンターテインメント性を取り入れ、漫画雑誌を大ヒットさせた。次に、岡本一平が大河ドラマの形式を漫画に取り入れ、全集をはじめ漫画を売りまくった。ふたりが社会現象をつくったことが、現在の日本漫画の状況への布石になっていると、著者は考えている。漫画はまだまだ発展途上の文化であり、ウェブが情報発信の中心に座り、今日、漫画のスタイルは国境を越えボーダーレスになってきている。今後どのような展開をするのか見当もつかない部分もあり、やがては、まったく異なる視点の漫画史が生まれる可能性もあるという。
第一章 ジャパニメーションの発展と手塚治虫/第二章 北澤楽天の生涯と業績/第三章 岡本一平の波乱の人生と功績/第四章 楽天山脈と一平山脈に連なる弟子たち/主な参考文献
9.9月26日
”二条良基”(2020年2月 吉川弘文館刊 小川 剛生著)は、初め後醍醐天皇に仕えたがのち北朝に仕え、関白,太政大臣,摂政などを歴任しながら博学多識で南北朝時代の歌人連歌作者として知られる二条良基の生涯を紹介している。
二条良基は1320年生まれ、五摂家の一つ二条家の当主で、北朝に仕えた公家である。官位は従一位太政大臣に昇り、摂政・関白に4度(数え方によっては5度)にわたり補され、晩年は准三后の栄誉を年得て、文字通り位人臣を極めた。文才にも恵まれ、幅広い分野にわたり著作を遺している。和歌では頓阿ら和歌四天王を重用し、歌道師範家に代わり指導者となった。また、連歌の発展には最も尽力し、救済ら連歌師と手を携え、中世を代表する詩として大成させた。小川剛生氏は1971年東京都生まれ、1993年に慶應義塾大学文学部国文学専攻を卒業し、1995年に同文学部修士課程を修了し、1997年に同大学院博士課程を中退した。1997年に熊本大学文学部講師、2000年に同文学部助教授となり、同年、二条良基の研究で文学博士の学位(慶応義塾大学)を取得した。専攻は中世和歌史で、2009年に慶應義塾大学文学部准教授、2016年に慶應義塾大学文学部教授となり現在に至る。2018年に兼好法師の研究で第3回西脇順三郎学術賞を受賞した。二条良基は1327年に8歳で元服して正五位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進した。13歳の時に元弘の変が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われた。このため、二条家は鎌倉幕府より断絶を命じられる状況に追い込まれたが、翌年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に復帰して、建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕えた。二条道平は近衛経忠とともに内覧・藤氏長者として建武政権の中枢にあり、新政が実質上開始された1333年に姉の栄子が後醍醐天皇の女御となり、良基も14歳で従二位に叙された。1335年に父・道平が急逝し、翌年に足利尊氏によって政権を追われた後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を成立させた。叔父の師基は南朝に参じたが、この年17歳で権大納言となっていた良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、後見であった曽祖父師忠とともに京都にとどまり、北朝の光明天皇に仕えた。光明天皇もこれに応えるべく、1338年に良基に左近衛大将を兼務させ、その2年後に21歳で内大臣に任命した。内大臣任命の前年には母を、任命の翌年には曽祖父・師忠を相次いで失ったが、その間にも北朝の公卿として有職故実を学ぶとともに、朝儀・公事の復興に努めた。1343年に右大臣に任命されたが、同時に左大臣には有職故実の大家で声望の高い閑院流の洞院公賢が任じられた。一条経通・鷹司師平と前現両関白はともに公賢の娘婿であり、良基と公賢は北朝の宮廷において長く競争相手となった。1345年に良基最初の連歌論書である『僻連抄』が著された。南北朝時代、朝廷は実権を喪失し、関白の職も虚位であったとされる。二条良基は公家政治家としてより、文学史上の功績によって記憶されている。しかし、良基は政治的な無力感から文学に逃避したような人物ではない。長く執政の座を占めた良基は、南朝の攻撃、寺社の強訴、財政の逼迫といった危機に絶えず対処しなければならなかった。こうした北朝の危機は、室町幕府の内証に原因があり、公家にはどうすることもできなかった。しかし、良基は政務への意志をいささかも失わず、足利義満ら室町幕府要人と提携することで山積する問題に対処しようとし、ついには公武関係の新しい局面を拓いた。このことが伝記の主要なテーマである。1346年に27歳で光明天皇の関白・藤氏長者に任命され、2年後の崇光天皇への譲位後も引き続き留任した。1351年に足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止された。光明・崇光両天皇期の任官を全て無効とされて、良基は後醍醐天皇時代の従二位権大納言に戻されたが、公賢は改めて左大臣一上に任命された。南朝では既に二条師基が関白に任じられていて、良基の立場は危機に立たされた。良基は心労によって病に倒れたが、それでも 御子左流の五条為嗣とともに南朝の後村上天皇に拝謁を計画するなど、当初は南朝政権下での生き残りを視野に入れた行動も示した。しかし、1352年に京都を占領した南朝軍が、崇光天皇・光厳・光明両上皇、皇太子直仁親王を京都から連行したため足利義詮は和議を破棄し、直仁親王を後村上天皇の皇太子にして両統迭立を復活させる和平構想も破綻した。義詮は光厳上皇の母西園寺寧子を治天に擬し、その命によって新たに崇光の弟弥仁王を後光厳天皇として擁立して北朝を復活させる構想を打ちたてた。足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受ける形で、良基は広義門院から関白還補の命を受け、昨年の南朝側による人事を無効として崇光天皇在位中の官位を戻した。和平構想に失敗した公賢とその縁戚の一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で、良基と九条経教・近衛道嗣ら少数の公卿らによって運営された。1353年に南朝側の反撃によって京都陥落の危機が迫ると、足利義詮は後光厳天皇を良基の押小路烏丸殿に退避させ、そのまま天皇を連れて延暦寺を経由した後美濃国の土岐頼康の元に退去していった。押小路烏丸殿を占拠した南朝軍は良基を後光厳天皇擁立の張本人として断罪し、同邸に残された二条家伝来の家記文書は全て没収されて叔父師基の元に送られた。そのような状況であったが、良基は病身を押して後光厳天皇のいる美濃国小島へと旅立ち、先に小島にいた叔父の今小路良冬に迎えられ天皇に拝謁した。垂井に移った天皇や良基を迎えに尊氏が到着し京都に復帰し、後光厳天皇は以後、良基と道嗣を重用するようになり、京都に留まっていた経通や公賢は二心を疑われていよいよ遠ざけられた。1354年暮に南朝軍が京都を占領し天皇や良基は近江国に退避したが、これは短期間に終わった。これ以後は南朝の攻勢も弱まりやや落ち着いた時期を迎え、1356年に救済・佐々木道誉らとともに、『菟玖波集』の編纂にあたり、翌年春までに完成し准勅撰となった。1357年に南朝に奔った元関白近衛経忠の子・実玄を一乗院門主から排除しようとして、北朝側の大乗院が引き起こした興福寺の内紛において、良基が藤氏長者として裁定にあたった。裁定は経忠の系統を近衛家の嫡流として扱い、かつ自分の猶子・良玄を実玄の後継者とするものであったため、興福寺や近衛道嗣、洞院公賢、さらに室町幕府の不満が高まった。実玄を支持する一乗院の衆徒が奈良市中で大乗院派に対する焼き討ちを行ったのを機に、1358年に次期将軍に内定していた足利義詮が関白の更迭を求める奏請を行った。良基は関白就任から13年目にして窮地に陥り、辞意を表明し正式に九条経教と交替した。良基は関白の地位を追われたものの、依然として内覧の職権を与えられ、自ら太閤を号して朝廷に大きな影響力を与えた。また、文化的な活動にも積極的に参加し、1363年に二条派の歌人頓阿とともに著した『愚問賢注』が後光厳天皇に進上され、次いで足利義詮にも贈呈された。関白職は九条経教から近衛道嗣に移り、天皇側近としての地位を固めつつあったが、若い道嗣は良基の敵ではなくやがて辞任して、良基が関白に還補された。1366年に長男師良が内大臣に任じられ、三男は一条房経急逝によって断絶した一条家の後継者となり経嗣と名乗った。1367年に義詮の要請によってやむなく鷹司冬通に関白を譲ったが、良基の朝廷内部での権勢は相変わらずであった。この年の暮れに義詮が急死し、足利義満が室町幕府三代将軍となり、細川頼之が執事となった。1369年に良基の長男・師良が関白に就任し、1371年に後光厳天皇は後円融天皇に皇位を譲った。同年に興福寺の内紛が再燃し、興福寺衆徒は内紛の元凶は実玄を庇護した良基にあるとして、1373年に良基を放氏処分にした。しかし、良基は謹慎するどころか春日明神の名代である摂関の放氏はありえないと述べて全く無視し、翌年に後光厳上皇が危篤に陥ると直ちに参内して善後策を協議した。興福寺衆徒を非難し続けた後光厳上皇の崩御が衆徒を勢いづけ、後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性に迫られた朝廷と幕府は要求の全面受け入れを決定し、良基も続氏となって神木も3年ぶりに奈良に戻った。人間として見たとき、良基の内面にはすこぶる複雑なものがあったようである。北朝に信任されたが、生涯、後醍醐天皇を敬慕した。最高位の公家であるのに、地下の連歌師、また、佐々木導誉ら婆娑羅大名とも親しく交際した。王朝盛代を理想とし、朝廷儀式の復興に意欲を燃やすいっぽうで、言い捨ての座興に過ぎない連歌を熱愛し、雑芸にも理解を示した。近年、初期室町幕府の研究が深化し、将軍権力の内実が朝廷との関係から再考されている。これを踏まえた、精緻な観察が必要である。また、当時の学芸の諸分野において、良基と交流を待った人物はたいへん多い。これも堂上から地下、あるいは公家・武家・禅林にわたっており、同時代への強い影響力を証するが、ここでは俯瞰的な評価が求められよう。
第1 二条殿/第2 大臣の修養/第3 偏執の関白/第4 床をならべし契り/第5 再度の執政/第6 春日神木/第7 准三后/第8 大樹を扶持する人/第9 摂政太政大臣/第10 良基の遺したもの
10.令和2年10月3日
”スマホの中身も「遺品」です デジタル相続入門”(2020年1月 中央公論新社刊 古田 雄介著)は、他人では詳細が把握しづらく金銭的な価値を持つものが増えたため相続の場で問題化し始めている、故人のスマホやパソコンそしてインターネット上に遺されるデジタル遺品について問題点を整理している。
インターネットの普及によって、さまざまな情報をパソコンやスマートフォンで管理する人が増えている。パソコン、スマートフォン、クラウドなどには個人情報が記録されているが、情報の持ち主が死亡し遺品となったものをデジタル遺品という。 持ち主が亡くなり遺品となったデジタル機器に保存された、データ、インターネット上の登録情報などの種類は多岐にわたる。SNSのアカウント、知人や友人の連絡先、日記や予定表、ネットショッピングの利用履歴、クレジットカード情報、ネットバンクの情報、IDやパスワードなどである。故人のデジタル機器を引き継いだ遺族が、データを消去しないまま機器類を売却したり、リサイクルショップに引き取ってもらったりすると、思いもよらぬトラブルに遭遇するリスクがある。古田雄介氏は1977年愛知県生まれ、2000年に名古屋工業大学工学部社会開発工学科を卒業し大豊建設株式会社に入社した。2001年に同社を退職し葬儀社の株式会社聖禮社に入社した。2002年に同社を退職し編集プロダクションの株式会社アバンギャルドに入社した。2007年に同社を退職しフリーランス記者として活動を始めた。2016年に記者活動と並行して一般社団法人デジタル遺品研究会ルクシーを共同設立し代表理事に就任した。2019年にデジタル遺品研究会ルクシーを解散し現在に至る。主なデジタル機器は、パソコン、スマートフォン、タブレット、モバイルルーター、USB、NAS、SDカードなどである。モバイルルーターにSIMカードが挿入されている場合は、SIMカードの解約と返却が必要になる。デジタルカメラやレコーダーなどは情報端末以外なので、デジタル遺品の範疇外とされることもあるが、重要な情報などが記録されている場合、知らずに第三者に売り払い情報が漏洩してしまう危険性もある。デジタルの中に保存されている情報は、大きく分けるとテキスト、写真、アプリであるが、さらに細かく見るといろいろなものがある。クレジットカート情報、ネットバンキング、SNS、ブログ、知人が写っている写真、メール、ブラウザなどである。いずれにしても、デジタルの中に残っている個人情報は、流出すると悪用される危険があるので、取り扱いに注意する必要がある。遺族は故人のデジタル遺品の中身を確認せずに、安易にオークションやリサイクルショップに売り払ってはならない。著者が相談を受けた60代の女性は、長年連れ添った夫が亡くなりスマホのパスワードが分からずに困っているとのことであった。故人は1年前にガラケーからスマホに乗り換えたのをきっかけに、旅行先にもデジタルカメラを持って行かなくなり、もっぱらスマホで家族や仲間との写真を撮るようになったそうである。不慮の事故死だったため、亡くなる直前までの元気な様子の写真がスマホに残されているはずであるが、端末にロックがかかっているため中身が見られない。指紋認証はもう使えないが、パスワード入力でロックを解除できることが分かっていたので、夫の生年月日や孫の誕生日など思いつく限りのパスワードを人力したが、一向にロックが解除できなかった。スマホを契約している会社に相談にいっても、中身についてはノータッチで、どうにも打つ手がなくなった。機種によっては、連続でパスコード入力をミスしたら工場出荷時の状態にする設定が選べる端末もある。残念ながらこの状態になったら、スマホを元どおりに復旧することは不可能である。遺品は持ち主が亡くなったときに生まれ、家の中を見渡せば、仕事道具や趣味のコレクション、普段使っているマグカップ、書斎の椅子、玄関を開けたら愛車に自宅などがあふれている。今では、遺品は目に見えているものだけではなくなっている。たとえば、スマホやパソコンの中に保存されている写真やメール、各種のデータ、インターネット上にあるフェイスブックやツイッターといった自分のSNSページなどもれっきとした遺品候補である。いまや老若男女を問わず、デジタルの機器やサービスを使わない生活はほとんど考えられなくなった。デジタルが私たちの生活に本格的に浸透し始めたのは1990年代であり、1995年にはWindows95が発売され、インターネットが流行語大賞にノミネートされた。民生機としてのデジタルカメラで初のヒット作となったカシオ計算機のQV-10が売り出されたのもこの年である。1999年にはNTTドコモが携帯電話向けにiモードをスタートさせ、2000年には一般家庭でのパソコン普及率が過半数に達した。ADSL等の常時接続環境も広まり、数年後にはインターネット普及率も5割を突破した。2008年にはアップルのiphone3Gの国内販売がスタートし、スマートフォンが流行する嗜矢となった。社会の枠組みとしても、デジタルやインターネットを活用するのが当たり前となり、2009年から株式等振替制度により上場会社の株券がすべてペーパーレス化した。2010年には銀行以外の企業でも送金業務を認める資金決済法が施行され、電子決済サービスが生まれる基礎となった。現在、国を挙げて推し進めているキャッシュレス化も、デジタル環境なくしては成り立たない。それだけ重要な存在となったデジタルの資産であるが、遺品となったあとの流れがピンと来ない人のほうが多いのではないか。いざというときに頼りにできる道筋が、デジタル遺品に関してはほとんど存在していない。デジタルは市井の道具としてまだ30年程度しか経っておらず、人類が遺品として対峙した歴史はさらに浅いのである。それだけに整備が不十分で粗が目立つところも多々あり、想定していないような事態が発生して、提供する側が右往左往することも珍しくない。所有者の死後、遺された側ではどうすることもできないようなことも普通にあるようである。しかし、備えることはできるので元気なときからとれる対策はたくさんあり、その経験や知識は遺される側に立ったときにも大いに役立つであろう。所有者が亡くなったあとに発生するデジタル遺品特有の問題は、大きく二つに分けられる。一つはデジタルだから起きる問題であり、もう一つは業界の未成熟さが招く問題である。この二つを区別して捉えることが、デジタル遺品を過度に怖がらない第一歩だと確信しているという。2005年にティム・オライリーが提唱したWeb2.0にちなんで、遺品2.0を提唱している。デジタル遺品といっても遺品の一ジャンルにすぎないが、表面的なところでこれまでの遺品と随分違うところがある。多くの人が避けては通れないほど生活に浸透しているので、従来の遺品観にデジタル要素も混ぜ合わせ、少し本腰を入れてバージョンアップして向き合わないと厄介な存在になるのではないか。おりしも、相続法が約40年ぶりに大幅改正され、この激変のなかで相続対象としてのデジタル遺品への向き合い方も深まっていくであろう。以前からある遺品もデジタルの遺品も、フラットに扱える遺品2.0の時代を迎えるのに絶好の機会ではないかと思う。逆にこの機を逃すと、相続の枠組みが現実のはるか後手に回ってしまい、余計な手間やストレスに晒される可能性が高まるかもしれない。デジタルの遺品に落ち着いて向き合い相続や整理を滞りなく済ませ、心ゆくまで故人を偲ぶのことが普通にできる手助けとなれば幸いである。紙のぬくもり、手書きのニュアンス、デジタルの無機質感、インターネットの仮想感、これらは本質の表面に色を加える程度のものという気がする。デジタルの持ち物が遺品になっても、デジタルの包みさえ剥がしてしまえば、あとは従来の遺品と同じように扱える。ただ、その包みがちょっと見慣れないものであるうえ、剥がすのを手伝ってくれる人がまわりにおらず、下手をしたら包んだ側も剥がす方法を考えていなかったりする。ところが、例外はどんなジャンルにもあるようで、従来の遺品と置き換えにくいものもある。それが故人が残したSNSやブログ、ホームページなどであり、従来の遺品と比較するととても特殊な存在ではないか。誰かの思惑があって誕生したわけではなく、サービスが提供され続けるなかでその辺縁に自然発生した、奇跡の形見といえるが、それはまるで海の漂流物のようである。デジタル遺品回りの環境は、これから数年でどんどん整っていくはずであるが、先行するのは財産関連であり、思い出関連は遺族からの働きかけがなければなかなか先に進まないであろう。今の時代だからこそ残りうる故人の縁というものがあるが、それに気づくにはデジタルの遺品と等身大で向き合わなければならない。正体不明なベールを取り除けば、デジタルという表層も剥がしやすくなるし、デジタルならではの故人の縁と出合う可能性は高くなるであろう。それはきっと良いことだと思うし、今後も多くの人との力を合わせて、デジタル遺品をフラットな存在にしていければと考えているという。
第1章 「遺品2.0」の時代 なぜデジタル遺品は厄介なのか/第2章 インターネット資産ー頼るべきは「法」よりも「個」/第3章 遺族としてのデジタル遺品整理術/第4章 遺す立場としての今日から始めるデジタル終活術/第5章 「5年先」「10年先」を見据えるデジタル遺品のこれから
11.10月10日
”名門水野家の復活 御曹司と婿養子が紡いだ100年”(2018年3月 新潮社刊 福留 真紀著)は、江戸時代に忠重流、忠分流、忠守流、諸流があった水野家で忠重-忠清流の松本藩主時代に第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となるも復活を果たした忠友=ただともと忠成=ただあきらの奮闘を紹介している。
水野家宗家は徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。江戸時代前の宗家は、緒川城主・刈谷城主であった。織田信長の時代に武田勝頼への内通を疑われ、水野信元と跡継ぎの信政が殺害され断絶となったが、その後、難を逃れた一族は信長に再興を許された。江戸時代には忠重流、忠分流、忠守流、諸流に分岐し、忠重流は宗家で結城藩主家であったが、沼津藩主家・鶴牧藩主家・諸分家に分かれた。忠分流は安中藩主家・紀伊新宮藩主家・諸分家となり、忠守流は山形藩主家・諸分家となった。忠重-勝成流は第5代・勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となったことがあったが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許された。忠重-忠胤流は遠江浜松藩主・松平忠頼を招いた茶会において忠胤家臣と忠頼家臣が口論を起こし仲裁に入った忠頼を忠胤家臣が殺害してしまい忠胤は切腹を命じられ廃藩となった。忠重-忠清流は第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となったが、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許され、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍して大名に復帰し、後、駿河沼津城を与えられ城持ち大名となった。大名復帰後、当主が側用人や老中といった幕府要職に就任する機会が多くなった。忠守-忠元流は代々監物を名乗り帝鑑間に詰め、唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。忠分-分長流は第3代信濃守元知が乱心して妻女である出羽山形藩水野氏水野監物忠善の娘を殺害したため改易となり、その後子孫は旗本として存続した。忠分-重央流は重央のとき徳川頼宣の附家老となり、その後子孫は江戸詰め家老の役にあり、基本的に江戸で政務を取った。名門水野家の忠重-忠清流は、当主の乱心による江戸城松之廊下での刃傷事件で、譜代大名から旗本へ転落したが、忠友と忠成の二代にわたる水野家復活の道程を史料を基に紹介している。福留真紀氏は1973年東京都生まれ、東京女子大学文理学部を卒業し、お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了し、2003年に博士(お茶の水女子大学・人文科学)となった。東京大学史料編纂所特任研究員、長崎大学准教授などを経て、現在、東京工業大学准教授を務めている。水野氏は清和源氏を称する日本の氏族で、戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に、尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び、最盛期には24万石と称される勢力となった。宗家のほか大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。水野家は近世大名家を輩出した一族の一つで、江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続けた。享保の改革や天保の改革に関与するなど、幕政を主導する立場に立つこともあった。幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、改易となった上野安中藩の藩主や、紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。そして、維新後は、大名の水野家はすべて子爵に列した。徳川幕府初代将軍家康の生母の於大の方は、刈谷城主水野忠政の娘に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、1542年12月26日に嫡男竹千代、のちの家康を産んだ。竹千代誕生の翌年、於大の方の父忠政が死去し、兄信元が水野家当主となると、水野家は今川家と手を切り、織田家との同盟関係を強めたため、今川家の傘下にあった松平家は於大の方を離縁した。その後於大の方は、阿久比城主久松俊勝と再婚した。於大の方が竹千代と再会するのは、1560年に桶狭間の戦いの先鋒として出陣し、久松の館に立ち寄った際のことだった。1587年に二人目の夫久松俊勝が亡くなると、翌年、於大の方は髪をおろし伝通院と号した。その後、母華陽院と自分の位牌と肖像画を水野家の菩提寺に奉納した。忠友は於大の方の弟忠重の四男忠清の家系で、忠清を初代とすると8代目の当主にあたる。忠清は家康・秀忠・家光に仕え、信濃国松本藩7万石の藩主となった。2代目忠職は大坂城代、3代目忠直は帝鑑之間席、4代目忠周は奥詰、小姓を務め帝鑑之間席と、代々、古来御譜代としてそれなりの地位を得ていた。ところが、名君と期待された5代目忠幹が、25歳という若さで死去した。その弟である6代目忠恒が、1725年にある事件を起こした科により、水野家は松本藩七万石を改易、信濃国佐久郡7000石の旗本となった。家康の生母の実家のまさかの転落であった。復活の期待を背負った7代目忠穀は、3代目忠直の9男で書院番頭、大番頭を務めたが、36歳で病死してしまった。御家再興の望みを託されたのは、忠穀の嫡男で8目代の忠友であった。本書は、水野家再興の宿命を負い、老中まで上り詰めた御曹司忠友と、その婿養子で9代目当主となり、やはり老中となる忠成の奮闘の道をたどる。忠友は1731年に大身旗本水野忠穀の長男として生まれ、父死去に伴い12歳で家督を相続し、1739年徳川家治小姓、1758年小姓組番頭格、1760年御側衆を経て、若年寄となった。1765年に三河で6000石の加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ再び大名に復活した。さらに駿河沼津2万石に移り、2度の加増を経て最終的に3万石となった。幕府では一貫して田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄、側用人、勝手掛老中格を経て、正式な老中になった。1786年に意次失脚と同時に忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の息子を廃嫡とし、代わりに分家旗本の水野忠成を養嗣子とした。遅きに失した感は否めず、天明の打ち壊しを期に失脚し、松平定信の指令で免職の憂き目にあった。10年後に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の1802年に死去し跡を養嗣子の忠成が継いだ。忠成は1762年に旗本岡野知暁の次男として生まれ、1778年に2000石取りの分家旗本水野忠隣の末期養子となり、忠隣の養女を娶って家督を相続した。10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、1785年に従五位下大和守に任官した。翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘八重と再婚した。1802年に忠友の死により沼津藩主を継ぎ、奏者番に任命された。翌年には寺社奉行を兼務、以後、若年寄・側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭した。1817年に松平信明の死を受けて、老中首座に就任した。義父・忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なった。世の風潮が、吉宗政権期では質素、家重政権期では華美な雰囲気となり、田沼意次の時代である家治政権期ではそれが極まった。家斉政権期に松平定信が将軍補佐を務めるようになると、再び質朴に戻った。忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となり、文政小判の改鋳によって通貨発行益をもたらしデフレ不況から好景気へと引き上げた。当時、庶民には、「水の出て 元の田沼となりにけり」と皮肉られた。1834年に73歳で死去し、三男の忠義が跡を継いだ。本書では、水野家再興の宿命を負い、奮闘し続けた御曹司忠友と、その婿養子忠成の真の姿に迫っていこうとしている。資料として本人の手による私的な書状や日記などが見出されていないが、公務日記や公的記録などの史料に加え、家臣たち以外の周囲の人々、後世の人々がどのように恨えていったのかがわかる史料を含め、多くの人々の視線を積み重ねて多角的に分析している。
第1章 「松之廊下刃傷事件」ふたたび/第2章 名門水野家、復活す/第3章 水野忠友、その出世と苦悩/第4章 悪徳政治家としての忠成/第5章 有能な官僚としての忠成
12.10月17日
”祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り”(2018年10月 平凡社刊 谷口 桂子著)は、祇園のお茶屋「みの家」の女将の一日、「みの家」の歴史、祇園の今昔、しきたり、母である先代のことなど祇園の四季や京都の四季を語っている。
祇園の名はインドにあった祇樹給孤独園=ぎじゅぎっこどくえんと呼ばれた僧園の名前を略したものである。祇樹給孤独園は、古代、中インドの舎衛国=しやえこくにあった、祇陀=ぎだ太子の庭園の祇陀林=ぎだりんを、須達=しゆだつ長者が買って、寺院=祇園精舎を建てて釈迦に寄進したものである。今の八坂神社は、元の祭神であった牛頭天王=ごずてんのうが祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、1868年の神仏分離令により改名された。牛頭天王は平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきた。御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが京都の祇園祭の起源であるとされる。八坂神社は西門前、四条通を中軸とした鴨川以東一帯の地をいうが、その称は一定していない。清水寺・祇園社への参詣路にあたるという立地によって、早くから辺りに茶屋が存在していた。谷口桂子氏は1961年三重県四日市市生まれ、東京外国語大学外国語学部イタリア語学科を卒業した。小説、エッセイ、人物ルポ、俳句を雑誌などに発表しており、人物ルポは元首相、ノーベル賞受賞者から、山谷の日雇い労働者まで幅広くインタビューを手がけてきた。24歳で鈴木真砂女に出会って作句を始め、のちに加藤楸邨「寒雷」へ所属したが、現在は無所属である。八坂神社は明治以前は鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する。鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。お茶屋とは今日では、京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のことで、東京のかつての待合に相当する業態である。芸妓を呼ぶ店で風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られる。料亭(料理屋)との違いは、厨房がなく店で調理した料理を提供せず、仕出し屋などから取り寄せることである。かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒であったが、今日では見られない。歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払った。料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われた。客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任であった。茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は、抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則があった。客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれなかった。今でも京都ではこのルールが残っていて、料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっている。料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになる。「みの家」は京都市東山区八坂新地末吉町にあり、最寄駅は祇園四条駅である。先代の女将、千万子は、瀬戸内寂聴が瀬戸内晴美の筆名時代の1972年に、祇園に取材して著した小説『京まんだら』のモデルとして知られている。この小説は、「みの家」の女将で吉村千万子という、京都生まれでも無いのに祇園に店を立ち上げた実在の人物である。小説中、「竹乃家」として書かれるお茶屋は「みの家」、千万子は「芙佐」、その子の薫は「稚子」として登している。京都祇園に生きる女性達の表と裏の素顔,その恋愛や生き方を描いた興味深い話で、京都の歴史や風物も織り交ぜられて華やかな作品になっている。「みの家」には美空ひばり、イサムーノグチら、著名な客が多くいたが、作家の瀬戸内寂聴もその一人である。寂聴は祇王寺の智照尼のことを『女徳』に書き、智照尼の紹介で祇園に詳しい中島六兵衛を知り、「みの家」を訪れるようになった。何百年と続く老舗のお茶屋が、代々一族に受け継がれて栄える中で、当代の「みの家」女将の吉村薫の母親で、先代の女将の吉村千万子は、十代で祇園のお茶屋に奉公し、23歳で自分の店を持った。ほかに、旅館「吉むら」などお茶屋以外の事業も成功させて、女実業家といわれた伝説の人物である。千万子の母親は離婚して女の子を連れて故郷の山口に帰り、帰ってからおなかに子供がいることに気づいたという。その子供が千万子であり、1919年に山口県で生まれたが、訳あって母親は子供二人を連れて大阪に出て、駅前でくらわんか餅を売って生計を立てた。千万子は子供ながら母親の仕事をよく手伝って、その姿を見ていた京阪電鉄の人の紹介で、尋常高等小学校を出てすぐ、祇園のお茶屋「みの家」に養女に来た。しかし養母は病気がちで、千万子が16歳のときに亡くなってしまい、実家の母親はすでに亡くなっていたため、18歳年上の姉夫婦の家に厄介になっていた。その後、仲居の修業を希望して、紹介してもらって「よし松」というお茶屋にやってきた。その店で甘粕大尉に出会い、甘粕には贔屓にしてもらったという。にもかかわらず、千万子は店の上等でない客の呉服屋の番頭と恋仲になり、大八車で夜逃げ同然に飛び出した。そして、途絶えた「みの家」を1942年に二人で再興し、子供も二人できたが、その後、店に客できていた薫の父親と出会って、慰謝料をつけて追い出したそうである。千万子は一時、旅館「吉むら」の他に、鉄板焼きの店「楼蘭亭」、スナック「チマ子」と手広く店を経営した。愛嬌のある可愛いい人で、頭もよく、愚痴は言わず、笑い上戸で泣き上戸の、情の濃い、情け深い人であったという。そして、奔放な恋愛を繰り返す一方で、千万子は義理を欠かさない人だった。「みの家」の先代の墓参りを忘れたことはなく、月命日に京都にいないときは、従業員を代理で行かせた。薫は贅沢三昧に育ち、「あば」と呼ばれる乳母がつき、千万子は自分ができなかったことを子供たちにさせようと、薫は琴、兄はバイオリン、姉はピアノの習い事をさせた。薫には中学生のときから家庭教師がつき、アメリカのハイスクールを出た先生に英会話の個人レッスンを受けた。新し物好きの千万子はテレビもいち早く購入した。夕食後は近所の人が見に集まるため、座布団を並べるのは薫の役目だった。お茶屋の娘は「家娘」とよばれ、よそから来た「奉公」と区別される。京都には祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街があるが、「みの家」がある祇園町の家娘は舞妓に出さない。薫は公立高校の試験に落ちて、私立の二次試験を受けて女子高に入学したが、その後、再入試を受けて公立に入り直した。その公立高校を落第しそうになり、かつて英会話を習っていた先生のいるアメリカに1969年に渡った。半年後に帰国してから男の人に出会い、その相手と駆け落ちして結婚した。親同士が話し合い、千万子が以前経営していたスナック「チマ子」を、薫が祇園で新たに始めた。薫が「みの家」の若女将となるのはそれから21年後に、千万子が亡くなってからである。21歳で結婚して、別れたのは27歳のときであった。著者は四半世紀ほど前、編集者に連れられて「みの家」を訪れて、女将の薫と出会った。薫はたおやかな京言葉を操り、繕わないかわいらしさの一方で、筋の通らないことには京おんなの芯の強さと誇りで対処していた。出会いと縁に感謝しつつ、客層もお茶屋も変わっていく時代に、この先も「みの家」が末永く栄えていくことを心より願っているという。
第一章 女将の一日/第二章 『みの家』の歴史/第三章 お座敷という表舞台/第四章 おかあちゃんのこと/第五章 祇園の四季/京都の四季/第六章 『みの家』のご縁/第七章 祇園今昔/第八章 お茶屋の暮らし/第九章 身近な神仏/第十章 『みの家』のこれから
13.10月24日
”藤原冬嗣”(2020年8月 吉川弘文館刊 虎尾 達哉著)は、平安前期の藤原北家の貴族で嵯峨天皇の信任厚く初代蔵人頭を務め側近として政界の頂点に立ち摂関家興隆の基礎を築いた藤原冬嗣の生涯を紹介している。
藤原冬嗣は右大臣・藤原内麻呂の二男で、平安時代の藤原北家隆盛の素地をつくったと評される。後の嵯峨天皇が皇太弟となったとき、東宮大進=とうぐうだいしん東宮亮となり、皇太弟の信任厚く、天皇即位後は昇進が著しかった。810年3月に初めて蔵人を置いたとき蔵人頭を兼ね、同年9月の薬子の変後式部大輔=しきぶたいふ、ついで翌年参議に昇進し、以後右大臣となり、淳和天皇即位後、左大臣に昇進し、嵯峨朝および淳和朝初期の重要政務に関与した。虎尾達哉氏は1955年青森県生まれ、1979年に京都大学文学部史学科卒業、1983年に同大学院文学研究科博士課程中退し、1997年に京都大学博士(文学)となった。1999年にロンドン大学東洋アフリカ学院客員研究員となり、現在は鹿児島大学法文学部教授を務めている。藤原冬嗣は775年生まれ、平安時代初期の公卿・歌人で、母は飛鳥部奈止麻呂の娘,百済永継、官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣であった。桓武朝では大判事・左衛士大尉を歴任し、806年に桓武天皇が崩御し皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位し、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。平城天皇が即位すると従五位下・東宮大進に叙任され、翌年に東宮亮に昇進した。平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めた。809年4月に平城天皇は発病し、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考え、禍を避けるために譲位を決意した。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対したが、天皇の意思は強く同年4月に神野親王が即位し嵯峨天皇となった。809年の即位に伴い、冬嗣は四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任された。810年正月に平城上皇は旧都の平城京へ移ったが、観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こった。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成は、この対立を大いに助長した。当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあり、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。平城上皇と嵯峨天皇とが対立し、810年9月に薬師の変が起こったが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着した。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。薬子の変に際し嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、冬嗣は巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられた。乱後の11月に従四位上に叙せられ、翌年に参議に任ぜられて公卿に列した。その後も、812年正四位下、814年従三位、816年権中納言、817年中納言と、嵯峨天皇の下で急速に昇進した。そして、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣を追い越し、819年には右大臣・藤原園人の薨去により、大納言として台閣の首班に立ち、さらに821年に右大臣に昇った。823年4月10日に嵯峨天皇は突如として宮中から京内の冷然院に遷った。右大臣の冬嗣が召喚され、嵯峨天皇から詔が下された。冬嗣は嵯峨天皇の東宮時代に東宮坊宮人として仕え、即位後の薬子の変の際には新設の蔵人頭として嵯峨天皇を助け、嵯峨朝後半期の長期に及ぶ深刻な被災期も筆頭公卿として嵯峨天皇を支え続けた。まさしく側近中の側近であり、嵯峨天皇の長年の宿志を知らなかったはずはない。その冬嗣でも、いざ嵯峨天皇の口から譲位の意志を伝えられたとき、当惑の色を隠せなかったという。意志を尊重しつつも、もし一人の天皇と二人の上皇がいることになれば、天下が持ちこたえられなくなると諫めた。嵯峨朝後半期以降、連年のように列島を襲った自然災害に対処し、冬嗣は悪化の一途を辿る国家財政の建て直しに筆頭公卿として心を砕いた。一天皇とは大伴親王、ほかの二上皇とは平城上皇と嵯峨新上皇だが、平城上皇はすでに政治の世界から身を退いて久しい。嵯峨新上皇もかつての当事者として、冬嗣同様、あるいはそれ以上にかつての二所朝廷を苦い経験として胸に刻んでいた。長期の災害による国家の窮地から脱しきれていない状況の下、財源の逼迫に加え王権分裂の危機まで招来するような種子は播きたくない。国政を預かる政府の最高責任者として、万に一つの危険であっても摘み取っておきたかった。しかしながら、結局嵯峨天皇は譲位の宿志を貫いたため、もはや翻意を諦めるほかなかった。冬嗣は嵯峨天皇の側近中の側近であり、平安初期においてその積極性と唐風文化への傾斜から、ひときわ光彩を放った嵯峨天皇の政治は、この冬嗣の存在なしにはありえなかった。淳和朝に入り、825年に淳和天皇の外叔父の藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、冬嗣は左大臣に昇進したが、翌年7月24日に享年52歳で薨去した。最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将で、没後まもなく正一位を贈られた。平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称された事から、閑院大臣と言われる。冬嗣は人としての器量が温かくかつ広く、見識も豊かで文武の才を兼備し、対応も柔軟で物事に寛容に接し、よく人々の歓心を得たという。嵯峨天皇は東宮時代からこのような逸材に日々接し、やがてこれを重用して厚い信頼を寄せた。それゆえ、ことに冬嗣が筆頭公卿となった嵯峨朝後半の政治は、嵯峨天皇の政治であると同時に冬嗣の政治でもあった。政治家冬嗣が冬嗣のすべてではなく、藤原氏の族長でもあった。藤原氏といえば、ともすれば権力の中枢にあって栄華や富貴を誇った人々を思い浮かべがちであるが、それはごく一部である。すでに平安初期においても、同族中に貧しく生活に困難を来すような人々が多く存在した。冬嗣は族長としてそのような人々を救済する策を進んで講じたほか、藤原氏一族に多大の貢献を行った。冬嗣は摂政良房・関白基経の父・祖父であり、自身天皇家との姻戚関係を積極的にとり結ぶことによって、のちの摂関家隆盛の基礎を築いた。初代の蔵人頭、勧学院の創設者、興福寺南円堂の創建者としても名高い。冬嗣がどのようにして嵯峨天皇の側近となり、どのようにして支え、やがてともにどのような政治を進めていったか。嵯峨朝ひいては平安初期の政治を正しくまた豊かに理解するためには、人格・才能ともに秀でたこの冬嗣という政治家の実像に何としても迫らねばならないという。また、冬嗣の生きた時代はいわゆる文章経国思想の隆盛期であった。冬嗣も嵯峨天皇や他の多くの貴族・宮人同様、詩歌をよくする当代一流の文人であった。文人冬嗣は、実は薫物=たきもの合香家でもあった。薫物とは各種の香料を調合して作る練香のことで、平安時代の香といえばこの薫物であった。冬嗣は後世、その薫物の調合を考案する合香家の嚆矢と目され、薫物の歴史は冬嗣に始まるという。さらに、冬嗣は自身仏教に深く帰依したが、平安仏教の二大祖師、天台宗の最澄と真言宗の空海にとって、特に有力な支援者の一人であった。本書は、薬子の変や頻発する自然災害に大きく左右された時代に生きた、非凡な政治家の生涯に迫っている。
第1 父・内麻呂の時代/第2 官僚としての冬嗣/第3 冬嗣政権への道/第4 嵯峨朝後半期の冬嗣政権/第5 淳和朝初期の冬嗣政権/第6 さまざまな冬嗣ー族長・文人・合香家・仏教外護/第7 冬嗣の死とその後
14.10月31日
”広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡”(2017年8月世界思想社刊新村恭著)は、1955年に初版が刊行され60年以上をかけて改訂が重ねられてきていまや「国語+百科」辞典の最高峰と言われる「広辞苑」の来歴と編者の新村出=しんむらいずるを紹介している。
「広辞苑」は岩波書店が発行している中型の日本語国語辞典で、編著者は新村出、新村猛である。昭和初期に出版された「辞苑」(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を広辞苑と改めて出版された。最新版は2018年1月発行の第七版である。中型国語辞典として三省堂の「大辞林」と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多い。収録語数は第七版で約25万語で、日本国内から世界の社会情勢や約3,000点の図版、地図などを収録し、百科65501事典も兼ねる働きを持っている。新村恭氏は」1947年京都市生まれ、新村出は祖父にあたる。名古屋で育ち、1965年に東京都立大学人文学部に入学、1973年に同大学院史学専攻修士課程を修了し、岩波書店に入社した。人間文化研究機構で本づくりの仕事に携わり、現在はフリーエディターで、新村出記念財団嘱託となっている。新村出は1876年山口市生れ、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男であった。「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名されたという。1889年に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室・新村信の養父にあたり、元小姓頭取の新村猛雄の養子となった。静岡尋常中学、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学文科大学博言学科を卒業した。在学中は上田萬年の指導を受け、この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年に東京高等師範学校教授となり、1904年に東京帝国大学助教授を兼任した。1906年から1909年までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事した、1907年に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。エスペランティストでもあり、1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表としてJEA代表の黒板勝美とともに参加した。1936年に定年退官まで,同大学の言語学講座を28年間担当した。1910年に文学博士の称号を得,1928年に帝国学士院の会員に推され、退官後は京大名誉教授を務めた。1933年に宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年に正メンバーに選ばれ、同年1月に昭和天皇に国書の進講を行った。1967年に90歳で亡くなり、没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。南蛮交易研究や吉利支丹文学、は平凡社東洋文庫などで再刊されている。またその業績を記念し、1982年から優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されている。終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年に初版が発刊された「広辞苑」の編者として知られているが、どんな人で何をしたかはほとんど知られていない。長男は広島高等学校教授を務めた新村秀一氏、次男は名古屋大学教授を務めたフランス文学者の新村猛氏で、孫には、大谷大学教授を務めた西洋史学者の新村祐一郎氏、桜美林大学教授を務めた中国文学者の新村徹氏、編集者(岩波書店等)の新村恭氏がいる。著者は、祖父・出の伝記は、本来、兄・徹が書くはずであったが、1984年に48歳で不慮の死をとげたため、自分が書くことになったという。祖父・出については、伝記はもとより研究者がそのある面をとりあげた本も一冊としてない。変転も激しい長い年月を生き、突出した角がなく、茫洋としてとてつもなく広い事績をのこしたため、書くのが難しく書き手がいなかったのではないか。自分は研究者でももの書きでもないが、祖父・出を見送ったのが20歳のときで、新村家の空気のなかで育ち生きてきた。また長く出版のしごとをしてきて、辞書づくりについても肌で知っている。幸いにして、まだ整理・公開するにいたっていない、祖父・出の日記や書簡等をみることができる立場にあり、新村家の生の声を伝えながら、「広辞苑」の物語を書くことに挑戦しようと思い立った。「広辞苑」につながる辞書の刊行は、祖父・出の意図によるものではなかった。それは、信州出身の出版人、岡茂雄の企画であった。あらためて、出版社の存在の大きさを考えさせられる。とくに、辞典の場合は、単行本以上にその位置が重要であった。岡は、小出版社・岡書院をたちあげ、大正後期から、人類学・民俗学・考古学を中心に活動を開始していた。新村出のものは、1925年に『典籍叢談』を1930年に『東亜語源志』を出版している。岡は出に、中高校生あるいは家庭向きの国語辞典の「御著作」を願いでた。岡の申し入れにたいして出は即座に、「そのようなものには興味をもたない」とことわった。しかし、岡は出の温厚な人柄に惚れ込み、父親のように慕っていたため、容易に引き下がらずに食い下がり、そしてついに条件付きの応諾を得た。その条件は、昔、東京高等師範で教えたことがあり、京都府立舞鶴高等女学校の教頭を退いて福井に隠棲している溝江君が手伝ってくれるなら引き受けてもよいということだった。溝江八男太は、大正後半期に『女子文化読本教授資料』などの編著書を刊行しており、出の蔵書のなかにもある。岡は出とは、かつての教え子というだけの関係でなく、国語教育・教材を通じて出と親しかったと思われる。出が溝江を指名したのは、岡の「中学・高校生向け」との要請から当然ともいえる。しかし、中高校生をこえて一般向けの辞書もふくめての協力者としても、研究者や研究者の卵よりも、一定の経験をもった中学・高校の国語の教師を中心に据えるほうが、実際的でよいとの考えが出にはあった。出の意向を受けて、岡は溝江家を訪問し、溝江の百科項目を含めたいとの希望を容れて三者の合意がなった。溝江は、能勢朝次、三ヶ尻浩、久保寺逸彦、後藤興善、今井正視、竹内若子らの協力を仰ぎ、作業はスタートした。岡は、予定していたのよりもはるかに大部になるので、小出版社の岡書院では難しい、他社との共同あるいは移譲を考えた。まず、同郷の先達、岩波茂雄に伺いをたてたが、岩波にはいったんことわられた。岡・新村の辞書は、一方で移譲を申し出る出版社があるも、祈り合いがつかずしているうちに、渋沢敬三の仲介によって、博文館から刊行されることになった。アチックミューゼアム、常民文化研究所をつくった渋沢は、民俗学を出版の核においていた岡と親交があった。博文館は当時の大手出版社であり、取次大手の東京堂、共同印刷、広告店、製紙会社、教科書会社などを傘下に収めていた。岡は、提示した条件を博文館がすべてのんだことで決断し、新村出の了解を得るべく、渋沢とともに京都に向かった。岡は実質的な共編者となり、分身となって尽力した。そして、順調な進行をみた『辞苑』は、1935年2月5日に発行され、A5判本文2286頁、約28万語収録、定価4円50銭(発売時特価3円20銭)、発行・博文館、組版・開明堂、印刷・共同印刷であった。末尾には総画引きによる漢字の難訓音索引、常用漢字表、品詞の活用表などが付載され、表紙は博文館の希望で赤色で、当時は「赤本」とも呼ばれた。『辞苑』は発売前に、注文が多いことから増刷が決まり、好評のうちに刊行された。岡は、博文館からの小型国語辞典刊行の希望を伝え、これは出と溝江の反対はあったが、刊行の方向となった。この学習用に、よりウェイトをおいた小型の国語辞典は、1938年に『言苑』として刊行された。1941年の改訂が行われるよていであったが、刊行できず、のびのびになって、完成に近くなった時は戦局が悪化し、博文館が確保していた用紙も空襲で灰燈に帰し、共同印刷の活字銅版も爆撃で失われる事態となった。改訂版の刊行は中止となったが、完成間近の校正刷(ゲラ)があり、後の「広辞苑」の基となった。敗戦によって事態は一変し、アメリカの軍事支配となりGHQは日本の民主化のために、財閥解体の方針をもっていた。大事業体となっていた博文館は解体され、戦争協力出版の罪も問われる方向となった。新村猛は岩波書店で改訂を引き受けてもらうべく行動を開始した。猛は、岩波の幹部職員と相談、合意を得たうえで鎌倉で静養中の岩波茂雄を訪ね、友人の久野収の仲介もあって岩波の承諾を得た。1948年に、岩波書店のなかに新村出辞書編纂室ができた。『辞苑』のときは出が溝江を指名したが、今回は出と岩波が協議しながら編者側のスタッフを決めた。編纂主任には、冨山房で辞書づくりの経験のある国文学者の市村宏が就任した。出の日記には、岩波書店の人たちが折にふれて訪ねてきたことが記されている。出が学士院の総会等で上京の折には、必ず岩波書店に立ち寄り、多くの岩波の人、関係者と語り合っている。「広辞苑」は、当初は、新村出の「辞海」「辞洋」がよいとの希望で、仮に「辞海」とされていた。しかし、1952年に、新たに金田一京助編「辞海」が三省堂から刊行されるに及んで、別の名称を考えなければならなくなった。岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂した。1954年に、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると判明した。そこで、「新辞苑」の名を撤回して、「広辞苑」として登録することになった。戦後生じた大きな社会情勢の変化、特に仮名遣いの変更や新語の急増などにより、編集作業はさらに時間を要することになった。新村父子をはじめとする関係者の労苦が実り、1955年5月25日に岩波書店から「広辞苑」初版が刊行された。以後、1969年第二版発行、1976年第二版補訂版発行、1983年第三版発行、1991年第四版発行、1998年第五版発行、2008年第六版発行、2018年第七版発行という経過をたどっている。著者の希望は三つ、あとに続く世代に新村出の生涯と人となりを知ってもらうこと、研究者の為した跡と生きざまを読んでもらいたいこと、日本社会の大きな変化の歴史を味わってもらいたいこと、であるという。
1新村出の生涯(萩の乱のなかで生を享けるー父は山口県令/親元離れて漢学修業ー小学校は卒業してない/静岡は第一のふるさと/文学へのめざめ、そして言語学の高みへー高・東大時代/荒川豊子との恋愛、結婚/転機、欧州留学/水に合った京都大学ー言語学講座、図書館長、南蛮吉利支丹/戦争のなかでの想念/京都での暮らしー晩年・最晩年/新村出が京都に残したもの)/2真説「広辞苑」物語(『辞苑』の刊行と改訂作業/岩波書店から「広辞苑」刊行へ/「広辞苑」刊行のあとに)/3交友録(徳川慶喜の八女国子ー初恋の人/高峰秀子/佐佐木信綱/川田順/そのほかの人びと)
15.令和2年11月7日
”天才 富永仲基 独創の町人学者”(2020年9月 新潮社刊 釈 徹宗著)は、江戸中期に醤油屋に生まれ独自の立場で儒教や仏教を学び世界初の研究を成し遂げ日本思想史に大きな爪痕を残し31歳で夭折した天才・富永仲基の思想に迫っている。
父・富永徳通(芳春)は大坂の醤油醸造業者で、父の創設した懐徳堂で三宅石庵に儒学をまなび、のち仏教や神道もおさめた。神儒仏の経典に通じ,主著「出定後語」では、世界に先駆けて仏教経典を実証的に解読した。結果導いた「大乗非仏説論」は、それまでの仏教体系を根底から揺さぶり、本居宣長らが絶賛するなど、日本思想史に大きな爪痕を残した。神・儒・仏三教の成立過程での後代の宗教や倫理の形骸化を批判し,現実に生きる誠の道を説いた。釈 徹宗氏は1961年大阪府生まれ、大阪府立大学大学院人間文化研究科比較文化専攻博士課程修了し、浄土真宗本願寺派如来寺住職の傍ら、龍谷大学文学部非常勤講師に就任した。その後、兵庫大学生涯福祉学部教授を経て、相愛大学副学長・人文学部教授となり現在に至っている。論文「不干斎ハビアン論」で涙骨賞優秀賞(第5回)、『落語に花咲く仏教』で河合隼雄学芸賞(第5回)、また仏教伝道文化賞・沼田奨励賞(第51回)を受賞している。仲基は1715年大阪生まれ、懐徳堂の五同志の一人富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の3男として、北浜の醤油醸造業・漬物商を営む家で生まれた。通称は道明寺屋三郎兵衞、字は子仲、号は南關、藍關、謙斎で、弟に富永定堅(荒木定堅、蘭皐)、富永東華がいる。江戸時代大坂の町人学者、思想史家で、懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。1730年・15歳のころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主・三宅石庵に儒学を学んだ。若くして『説蔽』を著し、儒教を批判したため破門されたという。ただし、これは仲基を批判する仏教僧側からの主張であり、事実としては疑われている。その後、田中桐江のもとで詩文を修め、20歳のころ家を出て、宇治の黄檗山萬福寺で一切経の校合に従事した。黄檗宗の仏典の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった。1738年・24歳のとき『翁の文』を著述し、のち1745年に仏教思想の批判的研究書『出定後語』を刊行し、独特の大乗非仏説(法華経、般若経などの大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく後世の産物という主張)を唱えた。後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという「加上」の考え方にあり、その根底に「善」があることが即ち、聖と俗とを区別する根本であるとする。この説は、本居宣長、後には内藤湖南や村上専精により評価された。また、思想に現れる民族性を「くせ」とよんでこれに着目した。インドは空想的・神秘的、中国は修辞的で誇張する、日本は隠すくせがある、と述べて、それぞれの文化を相対化し比較観察した。思想的特色を文化類型としてとらえ比較観察する視点を提唱し、文化人類学的発想を先取りした独自の思想家として知られる。さらに、宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、デイヴィッド・ヒュームやフリードリヒ・ニーチェに比する見方もある。ほかに、古代中国の音楽から日本の雅楽に至るまでの音律の変遷をたどった、漢文による20歳代の時の著作『楽律考』がある。著作を多く記し、その学問は思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。1746年に31歳で死去したが、内藤湖南は日本が生み出した第一流の天才だと言ったそうである。湖南は1866年生まれの漢学・儒学の流れを汲む東洋史研究者で、名は虎次郎、号は湖南である。戦前の邪馬台国論争、中国における唐宋変革時代区分論争などで学界を二分した。1925年に行われた「大阪の町人学者富永仲基」という講演において、湖南は仲基を稀代の天才であると紹介し、仲基の研究がどれほどすごいものであるかを述べている。湖南はすでに明治中頃から仲基についての文章を何度か発表しており、歴史に埋没しそうになっていたひとりの町人学者へ光をあてることに成功したと言える。ほかに、東洋史学者の石濱純太郎、評論家の山本七平、日本文学者の水田紀久、宗教学者の姉崎正治、哲学者の井上哲次郎、仏教学者の村上専精、インド思想学者の中村元なども、仲基の天才性を評価している。天才の条件は、一つは独創性、もう一つは早熟ということだとすれば、仲基は天才の呼称にふさわしい人物である。同時期の人たちにはなかなか理解されないことがあり、誰もがすぐに理解できる内容や思想ではたいした独創性と言えない。そして、多くの人が長年にわたる研鑽・努力で到達する地平へと、早い段階でやすやすと飛躍してしまう。仲基はまさに独創的であり、長い間にわたって理解されず、早熟・早逝の人生であった。仲基は18世紀を生きた大坂の町人であり、市井の学者であった。はじめに儒教を学び、独自の手法で仏教経典を解読し、そこで展開された加上説は今なお輝きを失っていない。他にも言語論や比較文化論などを駆使したオリジナリティの高い思想で、儒教・仏教・神道を批評している。それらの著作によってわかるのは、仲基のオリジナリティあふれる方法論や思想である。その1、「加上」:思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足がかりにして、さらに先行思想を超克しようとする。その際には、新たな要素が付加されるというのが仲基の加上説である。つまり、そこにはなんらかの上書き・加工・改変・バージョンアップがなされているとする。その2.「異部名字難必和会」:異部の名字は必ずしも和会し難しで、同じ系統の思想や信仰であっても、学派が異なると用語の意味や使い方に相違が生じ所説も変わる、そのつじつまを無理に合わせようとすると論理に歪みが生じる、とする立場である。その3.「三物五類」:言語や思想の変遷に関するいくつかの原則である。三物とは、①言に人あり、②言に世あり、③言に類ありの三つを指す。五類とは言語の相違転用のパターンを5つに分類したもので、張、泛、磯、反、転を挙げている。その4.「国有俗」:国に俗ありで、思想や信仰には文化風土や国民性が背景にあることを指摘したものである。仲基は「くせ」とも表現し、言葉には三物五類の諸条件があり、思想や教えが分かれる。さらに、国ごとに民俗・文化・風土の傾向があって、そのために説かれる思想・教えが異なっていく、ということである。その5.「誠の道」:どの文化圏や宗教においても共有されているもので、人がなすべき善を実践していく道を指す。「道の道」とも表現し、人が道として歩むべき真実の道だと仲基は考えた。1から4は、いずれも、現代の人文学研究において前提となるべき態度であると言えるであろう。すでに18世紀の日本に、このような方法論を独自に構築していた人物がいたのである。仲基と言えば「大乗非仏説論」の先駆者として知られている。これは、大乗仏教の経典は釈迦が説いた教えではないとする説である。江戸時代の半ばにおいて、仏教の思想体系を根底から揺さぶる立論を、世界に先駆けて世に出したのである。しかもそれを独力で成し遂げたのであるから、数多くの人たちが天才と評するのも無理はない。大乗仏教が釈迦の説いた教えではないという議論は、インドでも古くから論じられてきたことである。ただ、仏典を思想史的に解明するという方法論をとったのは、やはり仲基が世界で初めてであると言える。仲基が蒔いた種は、その後、国学者たちの仏教批判を生み出し、近代における大乗非仏説論争の源流となった。哲学者の井上円了、宗教学者の姉崎正治、真宗僧侶の村上専精らによる近代知性と仏教学の展開によって、大乗非仏説問題は今日においてもしばしば俎上に載せられている。そして、今日の議論を通して考察しても、仲基の立論は色あせるものではなく、仲基の眼力がいかにすごかったかがわかる。最初は釈迦の直接説いた教えから始まったものが、文字化されずに口伝だったので、いろいろ加上や分派があって、阿含経典群が成立した。さらにそこから、「法華経」、「大集経」「涅槃経」、「楞伽経=りょうがきょう」(禅宗)、最終的に密教経典群が生まれたと考えたのである。これは、おおよそ現代の研究結果と符合している。他にも、「大乗仏典にも異なる系統がある」といった慧眼や、宗教聖典の権威性に足をすくわれることなく読みこんでいく姿勢や、文化という側面からアプローチするところなど、注目すべき点はいくつもある。仲基は西洋近代の学術方法論を学んだわけでもないのに、独自の工夫で同様の方法論を編み出したのであった。それでは、ごI緒に富永仲基の思想をひもといてみましょう。
序 早すぎた天才/第1部 富永仲基とは何者だったのか/第2部 『出定後語』上巻を読む/第3部 『出定後語』下巻を読む/第4部 『翁の文』と『楽律考』/第5部 富永仲基はどう語られてきたか/近代への“道”
16.11月14日
”量子コンピュータが変える未来”(2019年7月 オーム社刊 寺部雅能/大関真之著)は、量子系においてエネルギーを消費せず計算が行えることを示されたことに端を発し1980年代に始まった量子コンピュータの現在と未来を俯瞰している。
量子コンピュータは、重ね合わせや量子もつれと言った量子力学的な現象を用いて、従来のコンピュータでは現実的な時間や規模で解けなかった問題を解くことが期待されるコンピュータである。量子ゲートを用いて量子計算を行う原理のものについて研究がさかんであるが、他の方式についても研究・開発は行われている。従来の一般的なコンピュータの素子は、情報について0か1のビットで扱うが、量子コンピュータは量子ビットにより、重ね合わせ状態によって情報を扱う。量子コンピュータは、量子ビットを複数利用して、古典コンピュータでは実現し得ない規模の並列コンピューティングが実現すると言われる。本書は、量子コンピュータとは何か、世の中で何が起ころうとしているのか、ということについて、コンピュータと社会の接点を伝えている。寺部雅能氏は1983年生まれ、2005年に名古屋大学工学部電気電子情報工学科を卒業、2007年に同大学院量子工学研究科修士課程を卒業し、2007年に株式会社デンソー入社した。2011年にENSO Automotive Deutshcland GmbHに出向し、現在、株式会社デンソー先端技術研究所担当係長を務めている。専門はコンピュータアーキテクチャ、車載通信、センサ信号処理、MOT、標準化である。大関真之氏は1982年生まれ、2004年に東京工業大学理学部物理学科を卒業、2006年に同大学院理工学研究科物性物理学専攻修士課程を修了、2008年に同大学院理工学研究科物性物理学専攻博士課程を早期修了した。2008年に東京工業大学産学官連携研究員、2010年に京都大学大学院情報学研究科システム科学専攻助教、2011年にローマ大学物理学科プロジェクト研究員となり、現在、東北大学大学院情報科学研究科応用情報科学専攻准教授を務めている。専門は、統計力学、量子力学、機械学習で、手島精一記念研究賞博士論文賞受賞、日本物理学会若手奨励賞受賞、文部科学大臣表彰若手科学者賞受賞、ITエンジニア本大賞技術書部門大賞受賞などを受賞している。近年、量子コンピュータという言葉を新聞やビジネス誌、インターネットなどで聞くことが多くなってきた。解説書も増えてきたが、それらの記事や本は専門的すぎるか、逆にふわっとした内容のどちらかに偏ったものが多く、量子コンピュータが結局いったいどんなもので、何の役に立つのか、いまいちピンとこないことが多いのではないか。量子コンピュータの歴史は、1980年にポール・ベニオフが量子系においてエネルギーを消費せず計算が行えることを示したことに端を発し、1982年、ファインマンも量子計算が古典計算に対し指数関数的に有効ではないかと推測した。これらに続き、1985年、ドイッチュは、量子計算模型と言える量子チューリングマシンを定義し、1989年に量子回路を考案した。1992年に、ドイッチュとジョサは、量子コンピュータが古典コンピュータよりも速く解ける問題でドイッチュ・ジョサのアルゴリズムを考案した。1993年に、ウメーシュ・ヴァジラーニと生徒のイーサン・バーンスタインは、万能量子チューリングマシンと量子フーリエ変換のアルゴリズムを考案した。1994年にピーター・ショアは、実用的なアルゴリズムであるショアのアルゴリズムを考案し、量子コンピュータの研究に火をつけた。1995年に、アンドリュー・スティーンやピーター・ショアにより、量子誤り訂正のアルゴリズムが考案された。1996年に、ロブ・グローバーにより、その後、様々なアルゴリズムに応用されるグローバーのアルゴリズムが考案された。同年、セルジュ・アロシュは、実験的観測によって量子デコヒーレンスを証明し、量子デコヒーレンスが量子コンピュータ実現への障害となることが実証された。1997年に、エドワード・ファーリとサム・グットマンにより量子ウォークが考案され、1998年に、量子コンピュータ用のプログラミング言語である、QCL (Quantum Computation Language) の実装が公開された。2000年代にはハードウェア開発に大きな進展があり、イオン・トラップ型量子コンピュータの研究が進展した。2011年に突如として、カナダの企業ディー・ウェイブ・システムズが量子コンピュータの建造に成功したと発表した。このコンピュータは量子ゲートによるコンピュータではなく、量子焼きなまし法による最適化計算に特化した専用計算機である。2014年にグーグル社は、UCSBのジョン・マルティニスと連携し量子コンピュータの独自開発を開始すると発表した。2016年にIBMは5量子ビットの量子コンピュータをオンライン公開した。そして、2019年にIBMはCESにおいて世界初の商用量子コンピューターを開発したと発表した。グーグルは世界最高速のスーパーコンピューターが1万年かかる計算問題を、量子コンピューターは3分20秒で解くことに成功して量子超越性を世界で初めて実証したと発表した。実は、量子コンピュータが「何に使えて、どんなことに役立つのか」まだ世界中の誰もわかっていない。こんなことに使えるだろう、役に立つだろうと信じて、世界中の研究者たちが研究を進めている段階である。どんな技術も、はじめは世の中との溝があるもので、AIともてはやされる機械学習も、画像認識というわかりやすい成果が出てきてはじめて世間からの注目が集まった。そういったわかりやすく実用的な応用と量子コンピュータがめぐり合うのはこれからである。本書は、今のうちから量子コンピュータをもっと身近に感じてもらおう、という想いのもと執筆された。なぜ研究段階である今の時点からかと言えば、機械学習が世の中を大きく変えていこうとしているように、量子コンピュータが世の中に与える影響もきっと大きなものになると考えられるからである。量子コンピュータの基礎を突き詰めても、前に進まないことばかりである。その利用先を考え始めたときに、初めてどこに向かうべきかを見いだすことができた。工場内の無人搬送車の最適化問題の定式化、それを量子アニーリングを利用して解くというのは奇跡であった。それが当たり前になって、活用しているところが現れ始めていることも、昨日見た景色と今日見た景色が変わるという最高の体験である。現在も、量子コンピュータの新しい利用法が生まれ、そしてさらに性能を引き上げる要素技術の発表がなされ、時々刻々と未来へと突き進んでいる。今のうちから量子コンピュータに注目しておけば、きっといろいろな業界の未来を先取りすることができるのではないか。1章で量子コンピュータを取り巻く世の中の動向を、2章で量子コンピュータが何かを示す。3章で自動車業界および製造業の未来がどう変わるか、実証実験の事例を踏まえながら示す。そして4章では、社会でさまざまな分野をリードする13の企業の方々に、量子コンピュータで変わる未来の展望を聞いてみた。最後の5章に、こういった新しい分野でどうイノベーションを起こしていくのか、産学共創の視点で展望を描いた。人工知能に人間の仕事が奪われるかも、なんてささやかれるこの時代、次の変革は量子コンピュータで起こるのかもしれない。量子コンピュータの分野が非常に面白いのは、まず、世界で誰も作り上げたことのないものを作ること自体にも魅力があり、そのできたものを利用する体験にも価値があるという
Part 1 量子コンピュータとは
Chapter 1 量子コンピュータはもう目の前に!?
Chapter 2 量子コンピュータは難しい?
・特別寄稿コラム D-Wave Systems Bo Ewald氏
Part 2 量子コンピュータで世界が変わる
Chapter 3 量子コンピュータで変わる車と工場の未来
・株式会社デンソー
Chapter 4 量子コンピュータで世界を変える企業が描く未来
・株式会社リクルートコミュニケーションズ
・京セラ株式会社・京セラコミュニケーションシステム株式会社
・株式会社メルカリ
・野村ホールディングス株式会社・野村アセットマネジメント株式会社
・LINE株式会社
・株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)
・株式会社みちのりホールディングス
・株式会社ナビタイムジャパン
・株式会社シナプスイノベーション
・株式会社Jij
Chapter 5 量子コンピュータと社会のこれから ―リーンスタートアップと共創が世界を変える―
17.11月21日
”天神様の正体 菅原道真の生涯”(2020年9月 吉川弘文館刊 森 公章著)は、天神様として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰を背景に全国で学問の神として祀られる菅原道真について異例の出世や突然の左遷などその起伏ある生涯を紹介している。
菅原道真は845年生まれの、貴族、学者、漢詩人、政治家で、参議・菅原是善の三男、官位は従二位・右大臣、贈正一位・太政大臣である。忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、寛平の治を支えた一人で、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめた。しかし謀反を計画したとして、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後、すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神という神格で祀った。天神とは国津神に対する天津神のことであり、特定の神の名ではなかったが、菅原道真が没するとすぐに、天満大自在天神という神格で祀られた。つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ、火雷天神と呼ばれるようになった。後に、火雷神は眷属として取り込まれ、新たに日本太政威徳天などの神号が確立し、さらに、実道権現などとも呼ばれ、仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。儒者の家に生まれた道真は、なぜ政治の世界で異例の出世を遂げたのであろうか。また、なぜある日突然、大宰府に左遷されたのであろうか。森公章氏は1958年岡山県生まれ、1981年に東京大学文学部国史学科を卒業、1988年に同大学院博士課程単位取得退学し、同年奈良国立文化財研究所文部技官となった。1994年に高知大学人文学部助教授となり、1998年に文学博士(東京大学)を取得し、2001年に東洋大学文学部教授となり現在に至る。本書は京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮や東京の湯島天神など、全国で学問の神として崇敬される菅原道真の生涯を解明しようとするものである。その探究に際して、まず曽祖父古人に至る土師氏の歴史から検討し、どのようにして学問の道につながるのかから考えてみたい。そのうえで、祖父清公、父是善などの父祖の事績をふまえて、九世紀後半の時代を生きた道真の諸相を考究したいという。道真の曾祖父は土師古人で、土師氏の祖の野見宿禰は出雲国造出雲臣と同じく、天穂日命を遠祖とする。宿禰は実際に出雲から畿内ヤマトに到来し、当麻邑の当麻鍬速と拘力したことで著名で、これは相撲の起源として名高い。その後、宿禰は垂仁天皇の朝廷にとどまった。当時、天皇の弟倭彦命を埋葬したとき、この頃はまだ近習者を殉葬する風習があり、凄惨な光景が繰り広げられていた。宿禰は、殉死者に代えて埴で作った形象を墳墓に立てることを提案し、出雲から土部百人を喚び、人・馬や種々の形を作った。土師氏は奈良時代になっても負名氏=なおいのうじとして喪葬儀土師氏の職能儀礼を担当する特異な律令宮人として存続していた。奈良時代の終わりに至って、ようやくこの状況を脱却して一般宮人への転換の道を模索した。古人の申請に続いて、土師安人らは平城京の北の居地にちなんで秋篠姓への改姓を願い出ている。また、土師氏には四系統があったが、その一つの毛受腹の一族は大枝(大江)朝臣へと改姓している。菅原・秋篠氏もこれに追随する形で、菅原朝臣・秋篠朝臣となった。古人らの菅原氏が先導する形で、土師氏全体の改氏姓が図られた。古人らの言によると、土師氏はかつては吉凶両儀式に関与していたが、その後、凶礼専従になっていたという。道真の父親は菅原是善、祖父は菅原清公、曾祖父は遠江介・菅原古人で、古人の氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰であり、先祖は土師氏である。道真には編著として”日本三代実録””類聚国史””新撰万葉集”があり、漢詩文集として”菅家文草””菅家後集”などがある。いずれも歴史・文学史上で重要な書目とされている。政治史上では宇多天皇に起用され、蔵人頭から議政官に昇任し、最初に関白となった藤原基経の子時平と相並ぶ形で太政官の上首者になった。次の醍醐天皇のときには、左大臣時平とともに右大臣にまで昇進している。しかし、901年正月、突如大宰権帥に左遷され大宰府下で死没した。その後、怨霊として猛威を振るったうえで、十世紀中葉には、天満自在天神、天神様として奉祀され、今日につながる天神信仰、学問の神として崇敬される状況が成立している。道真は累代の儒者の家に生まれ、詩人・詩臣を自認しながらも、自分の嫌う鴻儒としての役割を務めていくことになった。宇多天皇には数々の失策・失敗があり、この国の常として、下の者が責任を取ることが求められ、道真は諌臣として直言を行い、宇多天皇との大きな信頼関係を築くことができた。しかし、それゆえに大臣として頂点に立たされ、学閥の対立や貴種の人々の妬みをうけた。また、年齢差や宇多太上天皇・法皇に仕える二君への奉仕などもあって、醍醐天皇には諌臣としての信頼を得ることができないままに昌泰の変で左降、大宰府での死を迎えたと要約される。道真の没後、疫病がはやり日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらに、清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出て、これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られていて、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。道真が亡くなった太宰府には、先に醍醐天皇の勅命により藤原仲平によって建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮で崇奉された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に、一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命で大阪天満宮が建立された。987年には北野天満宮天神の勅号が下され、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。道真は基経が関白になる際の、宇多朝初期の阿衡事件にも若干関与しており、この事件の経緯や道真の役割の有無などには、なお解明すべき点が残っている。また宇多朝には寛平度遣唐使計画があり、道真の建議によって遣唐使は中止ないし廃止されたと考えられてきたが、近年では遣唐使派遣の是非は未解決のまま、907年の唐の滅亡もあり、自然消滅になったとみるのが有力な見解である。この点を含めて、宇多朝の寛平の治と呼ばれる政治改革において道真が果たした役割いかんなども、なお不明の部分が多い。基経・時平と道真の関係には新しい視点も呈されており、昌泰の変の真因に関してもさらに考究すべき点がある。著者は、こうした道真をめぐるさまざまな論点に留意しながら、学問に携わる者としても窒に興味深いその処世と生涯、そして正体を明らかにすることを期したいという。
土師氏の願い-プロローグ
父祖たちの足跡/土師氏の歴史/曽祖父から父まで
道真の立身/対策及第まで/文章博士として/讃岐守時代/阿衝事件
政治への参加/寛平の治/寛平度遣唐使計画/宇多朝から醍醐朝へ
左遷と死、そして天神様へ/昌泰の変/道真の死と怨霊から天神へ
その後の菅原氏-エピローグ
18.11月28日
”トランパー 伊予吉田の海運偉人伝”(2016年1月 愛媛新聞サービスセンター刊 宮本 しげる著)は、
勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人で山下汽船・山下財閥の創業者として知られ海運王と呼ばれる山下亀三郎についてその生涯を紹介している。
幕末から太平洋戦争までの近代史は、わが国の歴史上かつてない大変革が起こり、幾多の戦争が続いた時代でもあった。人が歴史をつくり、人はその歴史によって栄枯盛衰の道をたとり、海運の歴史も様々な人物が登場し、ドラマチックに物語が展開した。江戸期の海運は当初鎖国制度により、大型船の建造は制限され、小型船による沿岸航路が中心だった。豪商の河村瑞賢は、仙台から江戸への「東回り航路」や酒田から大阪、江戸への「西回り航路」を開発し、江戸後期は弁財船が全国で四百隻以上も動いていた。当時わが国は、世界でも有数の内航海運大国であったといえよう。トランパーとは、海運用語で船会社が運航する不定期船サービスの俗称で、車に例えれば、客の希望に応じて、臨機応変、何処へでも走るいわばタクシーである。その後、幕末の動乱期には旧来の帆船から、近代的な蒸気船へと大転換し、わが国の近代国家建設と共に、海運も変革の時代を迎えた。新政府が掲げた富国強兵政策で海運・造船がクローズアップされ、船舶の大型化により外航海運が急成長した。その草創期に、山下亀三郎は群雄割拠する海運界ヘデビューした。宮本しげる氏は1949年宇和島市吉田町生まれで、山下亀三郎、村井保固、清家吉次郎のいわゆる吉田三傑が創設した吉田小学校、吉田中学校、吉田高等学校を卒業した。1967年にジャパン近海に入社し、親会社の合併等で社名は、ナビックス近海、商船三井近海、商船三井内航と変わった。2008年に船会社勤務を終え、内航大型船輸送海運組合の理事・事務局長に就任し、2014年に退任した。山下亀三郎は1867年伊予国宇和郡喜佐方村、現、宇和島市吉田町の庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。宇和島の旧制南予中学校、現、愛媛県立宇和島東高等学校に入学したが、1882年に同校を中退し出奔した。大阪に出たが、家出少年を雇ってくれるところはなく、京都の友人を頼って祇園清井町の下宿宿に世話になり、小学校の助教員を務めた。京都の生活で、新島襄を助けて同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになった。山本の勧めで東京に出て、明治法律学校、現、明治大学に入学した。ここには、明治民法の起草者であった法学者の穂積陳重が出講していたので、個人的に法律学の教授を受けた。「ドロ亀」というあだ名を持ち、後に自ら無学であるかのように記しているが、実際は勉強にも精励した一面もあった。22歳の時に、明治法律学校を退学して、富士製紙会社に入るが長続きせず、次に大倉孫兵衛紙店の店員となった。その後、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店などを転々とした。1892年に横浜出身の朝倉カメ子と結婚するが、翌年に池田商店は倒産した。山下は1894年に、横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始めたが、事業はうまくいかず店をたたんだ。当時は日清戦争の時期にあたり、石炭業界は好景気に沸いていたため、竹内兄弟商会の石炭部に入り、石炭輸送の必要から初めて海運業と接した。1897年に竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えた。1903年に初めて船主になり、手付けの1万円を支払い、残りの11万円の金策に奔走し、保険会社、取引先と第一銀行横浜支店長心得の石井健吾から調達した。手に入れた英国船ベンベニニー号(2,373トン)を喜佐方丸と命名し、海運業に乗り出した。船舶経営の経験に乏しい山下は、横浜・上海航路の事業に着手したが、最初は燃料代にも事欠く有様であった。しかし、同じ愛媛県出身の海軍軍人・秋山真之から、日露開戦近しの情報を入手していた。山下は喜佐方丸を購入すると早速、元伊藤博文首相秘書官だった近親の古谷久綱を通じて、1903年に徴用船の指定を受けた。納期までに無事に喜佐方丸を海軍に引き渡し、1904年に第二喜佐方丸を購入し、直ちに海軍に徴用船として提供した。さらに他社の貨物を手配し、他社船でこれを運送する海運オペレーションの分野にも進出した。日露戦争後、1907年に入ると日本は深刻な戦後不況に突入し、山下はこの影響をもろにうけ、さらに北海道の木材事業にも失敗し、数百万円の負債を背負った。山下は菱形償却法という返済方式を考え、最初は少しずつ利益が出るようになったら多く返済すると債権者を説得し、20年の菱形償却返済を認めさせた。1909年以降、外航海運が好転し海運業の発展により、この負債をわずか7年で完済した。1911年に資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足し、本店は東京市日本橋区北島町、現、東京都中央区日本橋茅場町に移転し、支店も神戸に開設した。1914年に第一次世界大戦が勃発したことにより、山下汽船が繁盛することとなった。1917年に山下汽船合名会社が資本金1000万円の山下汽船株式会社に改組となり、1922年に山下汽船鑛業株式会社と改称した。1924年に名称を山下汽船株式会社に戻し、1941年で山下汽船株式会社は55隻のオーナーとなった。1942年に長男の太郎が二代目社長に就任し、その後、海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際した。1943年には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商と称された。政府関係の委員にも就任し、第二次世界大戦末期には行政査察使に就任し、北海道視察に行った亀三郎は、病を得て1944年に死去した。その後、1964年に新日本汽船と合併して、株式会社山下新日本汽船となり、それ以降、合併を繰り返し、現在、株式会社商船三井が存続会社である。亀三郎は主宰した山下汽船を世界有数のトランプオペレーターにし、日本海運の伸展と船権拡張に寄与した。また、山下汽船から多くの人材が輩出され、いわゆる山下学校と称された。また、郷里を始め各地に学校を設立するなど社会事業にも力を尽くした。明治から昭和初期にかけて、日本郵船と大阪商船の2社が飛びぬけていたが、太平洋戦争開戦時において、山下汽船はこの2社に迫る会社となっていた。しかし敗戦により財閥解体で、山下汽船は1946年に第二次持株会社指定、1947年に第五次持株会社指定を受けた。本書は、幕末から明治、大正、昭和、平成の今日まで約150年にわたる永い物語である。「がいな男」の「がい」というのは、愛媛南予地方の方言ですごい、たいへんという意味で、「がいな男」とは海運王と呼ばれた山下亀三郎のことである。手掛けた当時ベンチャービジネスだった石炭や海運は、新政府が掲げる富国強兵、殖産興業の波に乗り、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。だが、がいな男に大きな試練が待っていて、1943年の著書の表題にある「沈みつ浮きつ」の人生はまだ始まったばかりだった。その後、亀三郎の不定期船サービスは、世界の7つの海を席巻し、YAMASHITA LINEは、海運のブランドとなった。山下亀三郎が「トランパーの雄」と呼ばれた所以であり、亀三郎のもとには、白城定一、石原潔、浜田喜佐雄ら優秀な若者が、いわゆる「山下学校」に集い丁稚から叩き上げられた。だが、若者の一人、喜佐雄は1930年に山下汽船を去った。筆者は、喜佐雄がなぜ大恩のある亀三郎のもとを離れたのか、それが大きな疑問であった。この離反劇の謎に迫るのが、執筆する一つの動機でもあるという。筆まめだった喜佐雄は、赤裸々にわが人生を綴り多くのアーカイブを残した。筆者はこれらの文献をひもとき、亀三郎生誕150年の2017年を記念して本書を書き下ろした。
第1章 明治の山下亀三郎/第2章 大正の亀三郎と店童・浜田喜佐雄物語/第3章 昭和の亀三郎と大同海運設立/第4章 戦後の山下汽船と大同海運/参考文献
19.令和2年12月5日
”細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり”(2018年8月 吉川弘文館刊 稲葉 継陽著)は、戦国武将細川忠興を父と仰ぎ明智光秀を祖父に持つ細川家熊本藩初代藩主の細川忠利の国づくりのあり方とポスト戦国世代の生き方を紹介している。
細川忠利は1586年に細川忠興の三男として生まれ、母は明智光秀の娘・玉子=細川ガラシャで、幼名は光千代、始め長岡姓を称したが、1600年に徳川家康の命で細川へ復姓し、細川内記を名乗った。幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれている。江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦である大坂の陣に徳川方として参戦し、1620年に豊前小倉藩藩主細川家二代、1632年に肥後熊本へ転封になり、熊本藩主細川家初代となった。稲葉継陽氏は1967年栃木県生まれ、1990年に立教大学文学部史学科を卒業し、1996年に同大学院文学研究科博士課程退学した。2000年に熊本大学文学部助教授、2007年に准教授となり、2009年に永青文庫研究センター教授となった。博士(文学)で、専門は日本中世史・近世史(荘園制研究、村落研究、地域社会論、領国支配=初期藩政研究、細川家文書の研究)である。細川ガラシャを母に持つ忠利は、いわばポスト戦国世代であった。戦国武将を父と仰ぐ忠利の世代は、戦国動乱から天下泰平の確立へ転換する最大の変革期の渦中で育ち、統治者としての自己を形成した。忠利による国づくりのあり方を通して、この重要な時代の特質を理解するのが本書のテーマである。世子だった長兄の忠隆が1600年の美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた、天下分け目の関ヶ原の戦いの後に廃嫡された。すると忠利が江戸に人質に出されて、二代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が1604年に世子となった。次兄の興秋は、弟の家督相続の決定に不満を持ち、翌年の1605年に細川家を出奔した。1608年に小笠原秀政と登久姫の次女で徳川秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、千代姫は1609年に豊前国中津城に輿入れした。本能寺の変は明智光秀が織田信長を討ったことで知られているが、忠利と保寿院の婚姻と光尚の誕生で本能寺の変で仇敵となった明智氏と織田氏の家系が合体し、縁戚関係に発展した。1619年に長男光利が誕生し、1620年に父から家督を譲られて小倉藩主となった。1622年に、かつて出奔して大坂城に入城し、大坂の陣を大坂方として戦い、戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちに家老にした。1632年に肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封され、後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任した。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。1637年の島原の乱は江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦であるが、忠利はこの乱に参陣して武功を挙げた。かつての一向一揆のように一揆が拡大長期化すれば、外交窓口として最も重要な直轄地である長崎をはじめ九州の支配はおぼっかなくなる。そうした事態を防ぐために大規模な軍事動員を行い、社会を戦国乱世の状況に逆戻りさせてはならないという認識があったのであろう。わけても、幕府中枢の権力から離れた遠国である九州での国づくりを担当した忠利の任務の重みは、特筆すべきものだった。江戸時代初期の大名家にとって、土一揆の戦国時代はいまだ遠い過去ではなかった。武士領主と百姓とが互いの武力行使を抑制しながら、支配をめぐるぎりぎりの交渉を続け、その限りで土一揆の凍結が維持された。戦国の一揆の世に歴史を逆戻りさせてはならないと、エリート忠利が統治者としての自己を実現していった。忠利は村々が核となって形成されていた地域社会と向き合い、実践から得られた経験を蓄積していかねばならなかった。社会の現実や百姓の政治意識、さらに政治的意思を無視した支配者、あるいは公私の区別をつけることができない支配者に、ポスト戦国世代の体制づくりは不可能であった。忠利の祖父は細川藤孝(幽斎)と明智光秀であり、忠利こそポスト戦国世代のサラブレット々と呼ぶにふさわしい。幽斎は初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を逐われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。光秀は初め越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し、ついで織田信長の家臣となった。義昭の上洛に尽力し、義昭と信長に両属して申次を務め、京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加、1571年に近江坂本城主となり、1575年に丹波の攻略に着手し、1579年に八上城の波多野秀治らを下して平定した。1580年に亀山城主となり、ついで細川幽斎、筒井順慶、中川・高山諸氏を与力として付属され、京都の東西の要衝を掌握し、美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成した。天下泰平は、国郡境目相論とともに土一揆を長期凍結させることによって実現された。その画期となったのは、大名家と百姓の武力行使と武装権や公訴権を対象とした豊臣政権の一連の政策であった。本書の主人公忠利は秀吉・家康の次の世代で、天下泰平の確立を担った大名を代表する人物である。武士領主による新しい地域統治のあり方を体系化して安定させ、それを基礎にした政治秩序を立ち上げて、天下泰平のかたちを確立することを目指した。そうして戦国の動乱へと歴史を決して逆行させないことが、忠利らポスト戦国世代の歴史的な使命であった。忠利の、細川家当主であった1621年から1641年までの約20年間の実践は、諸大名を代表する統治者として、自己を鍛え上げる過程であった。そして、1641年に父に先立って享年55歳で死去し、長男の光利が跡を継いだ。200年間以上も維持された天下泰平は、日本の民間社会を成熟させ、同時代の世界史上でも稀な江戸時代の長期平和であった。じつはこれが日本社会の成熟を実現させる条件となり、したがって近代日本のあり方を決定づけたのではないか。こうした観点で年表を見れば、江戸時代の歴史が鎌倉幕府成立期から戦国動乱にいたるまでの、いわば戦争の中世を克服した地点に成立し、そして長期維持された、平和の歴史であった事実に気づくであろう。長期に及んだ天下泰平は、技術・経済・教育・思想などの諸分野で、民間社会の成熟をもたらし、その後の日本とアジアの歴史に大きな影響を与えた。江戸時代の平和状態がいかにして長期維持されたのか、その秘密にあらゆる角度からせまることは、現在、日本史研究における最も重要なテーマの一つとなっている。
ポスト戦国世代とは―プロローグ/波乱の家督相続と国づくり(誕生から家督相続へ/国づくりのはじまり―代替りの改革)/豊前・豊後での奮闘 国主としての試練(三斎・忠利父子の葛藤/百姓・地域社会と忠利/寛永の大旱魃と領国・家中)/肥後熊本での実践 統治者としての成熟(熊本への転封と地域復興/肥後における統治の成熟/「私なき」支配から「天下」論へ)/細川家「御国家」の確立 「天下泰平」のもとで(島原・天草一揆と「天下泰平」/忠利の死と熊本藩「御国家」)/「天下泰平」と忠利―エピローグ
20.12月12日用
”神社で拍手を打つな! 日本の「しきたり」のウソ・ホント”(2019年11月 中央公論新社刊 島田 裕巳著)は、日本人がしきたりと思っている行事にはごく最近生み出されたものが少なくなく、私たちはいろいろなしきたりとどう向き合えばいいのかを示唆している。
神社に掲げられる二礼二拍手一礼は伝統的な作法ではない、初詣は鉄道会社の営業戦略だった、郊外の墓参りはバブルが生んだ年中行事である、結婚式のご祝儀もお葬式の半返しも伝統ではない、そもそもクリスマスはキリスト教に関係がない、という。島田裕巳氏は1953年東京都生まれ、1976年東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、同大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1984年同博士課程満期退学(宗教学専攻)した。放送教育開発センター助教授、日本女子大学助教授を経て、1995年に教授に昇任したが同年に退職した。2005年から2008年まで東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、2006年より中央大学法学部兼任講師となった。2008年より東京大学先端科学技術センター客員研究員、2013年より東京女子大学現代教養学部人文学科非常勤講師となった。現在、宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長として活躍している。拍手=かしわでは神道の祭祀や神社・神棚など神に拝する際に行う行為で、柏手と書かれることもあるが誤りである。かしわでという呼称は、拍の字を柏と見誤った、あるいは混同したためというのが通説である。神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教で、伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。持統紀に、即位した新天皇に群臣が拝礼と拍手をした記載があり、初めて天皇を神に見立てる儀礼として即位式に柏手が取り入れられ、定例化したとされる。奈良時代には、天皇の即位宣命が読み上げられた後、参列した百官が拍手で応えたそうである。これはひざまずいて32回も手を打つという形式で、現代の立って行う形式とは異なっていた。799年の元日朝賀に渤海使が参列していて、天皇を四度拝むのを二度に減らし、拍手もしなかったということである。神道には確定した教祖、創始者はなく、公式に定められた正典も存在しない。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。神社は日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設で、産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られている。一般的にみられる神棚は小型の神社を摸した宮形の中に、神宮大麻や氏神札、崇敬神社の神札を入れるものである。これは札宮といい、狭義にはこれを神棚と呼び、神職の家などの神葬祭を行う家には、祖先の霊をまつるための神棚がある。他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い御神体をまつる神棚もある。拍手は両手を合わせ左右に開いた後に再び合わせる行為を指し、通常、手を再び合わせる際に音を出す。音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためといわれている。両手を合わせる際に指先まで合わせる作法と、意図的にずらす作法がある。ずらす作法にも、途中からずらす作法と、最初から最後までずらしたままの作法がある。また、神葬祭や慰霊祭などにおいては音を控えめにする作法もあり、音を控えめにするのは儀式の静粛さを損なわせないためなどと説明されている。神社で行われる参拝作法の再拝二拍手一拝など、3回以下のものは短拍手・短手と呼ばれ、出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社の4回、伊勢神宮の8回など、4回以上手を打つものは長拍手・長手と呼ばれる。他に、8回打った後に再度短拍手を1回打つ八開手もある。神葬祭で音を微かに打つ偲手・忍手・短手や、直会で盃を受けるときに一回打つ礼手などもある。明治維新前は神仏習合の影響が大きく、拝礼の作法は地域によりさまざまで、手を合わせて祈る、三拍手、四拍手などがあった。明治8年に式部寮から頒布された神社祭式に、再拝拍手と記されたことから、統一化の動きが始まった。現在の「二礼二拍手一礼、再拝二拍手一拝」は、明治40年に神社祭式行事作法が制定され、その中でひとつの作法が定義されたものである。昭和17年に内務省神祇院教務局祭務課が編集した神社祭式行事作法に、「再拝、二拍手、一揖、拍手の数を二とす」と記載され、昭和18年1月1日より施行された。しきたりとは、一般には昔から行われてきたならわしとして考えられている。昔から受け継がれてきた伝統だから、それに従うべきだというわけである。しかし、しきたりのなかには新たに生み出されたものが少なくない。とくに最近では、商売として商業資本の手によって導入された新たなしきたりが広まっている。一方で、社会が変化することで、古くからのしきたりは意味を失ったり実行することが難しくなっていたりする。しきたりは栄枯盛衰をくり返すので、新陳代謝が伴うのである。そのことを踏まえるなら、私たちはしきたりに接するとき、それが本当に昔から続けられてきたのかを考える必要がある。あるいは、そのしきたりに従うことに意味があるのかを検討してみる必要がある。神社で拍手を打たないということは、その一歩になる。拍手を打たない場合、必要なのは神に対して礼拝をする手段として、いったいどういう方法があるのかを考えることである。二礼二柏手一礼だと、そこには、神に対して祈る時間が含まれず、ただ神を崇めるだけで終わってしまう。果たして私たちはそれで満足できるのであろうか、という。もっとこころを込めて神に祈る時間が必要だと思えてきたら、どうしたやり方をとればいいのであろうか。神社には、「二礼二拍手一礼」を勧める掲示がなされていたりして、テレビ番組でも、このやり方が正式な参拝の仕方だと紹介されることが多い。しかし、神社の掲示にも、テレビ番組でも、なぜ二礼二拍手一礼でなければならないのかという根拠は示されていない。礼拝の仕方を神が定めることはあり得ないので、あくまで人間が定めたしきたりである。神社界の組織として神社本庁があり、すべての神社ではないが、多くの神社はこの神社本庁の傘下にある。神社本庁のホームページの参拝方法という項目を見ると、永い間の変遷を経て現在、「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっていると記されている。二礼二拍手一礼ではなく二拝二拍手一拝となっているが、意味は同じである。なぜそうした作法が基本形になったのか、その経緯は説明されていないし、根拠も示されていない。教えを説く存在がいない神道の世界では、どんなことについても、経緯、背景、根拠を明確に説明することができない。そのため、しきたりについての説明は自ずと曖昧なものになってしまうのである。しきたりは、その背景にある宗教の世界、信仰の世界の成り立ちを明らかにしていくための鍵になる。しきたりにただ従うのではなく、そうしたところまで考察を深めることが重要なのである。しきたりは、私たちの生活のあり方と密接に結びついている。その点では、しきたりを見直すことは、私たちの生活をこれまでとは違った角度から見ていくことにつながる。そして、しきたりの変遷には、私たちが経てきた歴史ということがかかわっている。いったい、現在の社会において、どういったしきたりが求められるのであろうか。そのあり方はどうあるべきかについて、考えなければならないことは多岐に及ぶ。この本をきっかけに、読者がしきたりの世界について考えてくれるようになれば、著者としてこれほど嬉しいことはないという。
1章 神社で拍手は打つな/2章 初詣は鉄道会社の発明/3章 マイカーが生んだ墓参り/4章 結婚式に祝儀など持っていかなかった/5章 どう考えても無駄な半返し/6章 クリスマスはキリスト教の行事じゃない/7章 ハロウィンの起源は江戸時代の花見/8章 商業資本としきたり/9章 怪しげなしきたりに踊らされてどうする
21.12月19日
”義経伝説を作った男-義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝”(2005年11月 光人社刊 土井 全二郎著)は、いろいろある源義経にまつわる英雄伝説のうち大陸に渡って成吉思汗=ジンギスカンになったという説についてその元となった小谷部全一郎の生涯とともに紹介している。
源義経は平安時代末期の武将で、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄であり、河内源氏の源義朝の九男として生まれ、仮名は九郎、実名は義經である。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられたが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けた。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる治承・寿永の乱が起こるとそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。土井全二郎氏は1935年佐賀県生まれ、京都大学経済学部を卒業し、朝日新聞社に入社し、編集委員を務めた。日本海洋調査会代表で、南極観測船、捕鯨母船に同乗しての現地取材をはじめ、超大型タンカー、コンテナ船、自動車運搬船、練習帆船、客船、フェリーなどの乗船取材にあたった。本書は、「ジンギスカンは源義経なり」という夢を追いかけ、常識に挑みつづけた希代のつむじ曲がりの破天荒な生涯に迫っている。源義経は幼名を牛若、牛若丸といい、生まれて間もなく平治の乱で父義朝の死に見舞われ、母の常盤御前に連れられて放浪の旅に出た。平家の追及をかわすため京都・鞍馬寺に預けられたものの、16歳で元服し源九郎義経と称した。義朝の異母兄弟を含めて八番目の子どもだったが、すでに叔父に当たる為朝が鎮西八郎を名乗っていたことから、遠慮して九郎としたといわれる。鞍馬の山中で天狗相手に剣術修業を積み、京の五条大橋で武蔵坊弁慶をへこませて家来にした。兄の頼朝が兵を挙げるや、その傘下に馳せ参じ、木曽義仲相手の宇治川の戦いで勝利した。続いてさしもの権勢を誇った平家一門を、一の谷の戦いにおける鵯越えの逆落とし、屋島の奇襲、そして壇ノ浦の海戦で滅亡に追い込んだ。一連の戦いでは、宇治川の先陣争い、義経八艘飛び、那須与一の弓、敦盛最後など、数多くの合戦秘話が生まれている。そうした大きな功績を挙げたものの、その後、兄頼朝との確執が深まって追われる身となり、現在の岩手県平泉へ落ち延びた。ここで藤原一族にかくまわれたのだが、頼朝のたび重なる義経追捕の要求と脅しに屈した藤原泰衡の夜襲により、衣川の館で31歳で壮絶な最後を遂げたといわれる。この若武者の華麗で英雄的な行動と、一転して迎えたあまりにも悲劇的な結末は、広く世の人びとの深い同情と共感の念を誘った。都落ちの道行きの過程で生まれたいくつもの逸話が、日本人好みの哀感あふれるエピソードを織り込んで長く語られることとなった。これは、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』や藤原兼実の日記などの官撰書に記載された正史に目を通しただけでは、決してうかがうことのできない物語であった。義経の一代記を読み込んだ『義経記』(全8巻)はすでに14世紀には成立していたといわれる。支配層である京の公家や武士階級とは全く縁のない、衆生によって歓迎され、語り継がれ、読み継がれてきた。義経は時の朝廷から与えられた佐衛門少尉・検非違使の官職と、やがて「五位」の位に叙されたことから、大夫判官と呼ばれていた。ここから、弱い立場の者が強権力に健気に立ち向かう姿に声援を送ることを「判官贔屓」といわれるようになった。伝説には、不死伝説、義経=ジンギスカン説ほかがある。不死伝説では、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方・北行伝説」と呼んでいる。1799年に、この伝説に基づき蝦夷地のピラトリ、現・北海道沙流郡平取町に義経神社が創建された。しかし、この伝説を証明する考古学上の確証は、現在に至るまで一切提示されておらず、その伝説を信じたいとする域を出ていない。義経=ジンギスカン説は、北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場し、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗=ジンギスカンになったとする。江戸時代に、清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあったという噂があった。また、12世紀に栄えた金の将軍に、源義経というものがいたという噂もあった。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端であるという。既に存在した、義経が大陸渡航し女真人=満州人になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられた。明治時代に、末松謙澄がケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』として日本で和訳出版されブームとなった。大正時代に、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいた。アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。この調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、1924年に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなり、現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによる。小谷部全一郎は1868年に母親の実家の秋田市寺町生まれ、父親は秋田藩の菓子御用商で秋田市上肴町に在住であった。兄弟は不明で、戦国時代の武将・白鳥家の子孫だとしている。1880年に上京して、本郷の原町要義塾で漢学・英学・数学を学んだ。このころ、末松謙澄の『義経再興記』、原題は『偉大ナ征服者成吉思汗ハ日本ノ英雄義経ト同一人物也』を読んで、影響を受けたという。この本の種本は江戸時代末期、オランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトが著した『日本』であり、義経は平泉では死なず、蝦夷に渡り、大陸へ行ったとされている。1885年に北海道にわたりアイヌと出会い、アイヌを支援する宣教師に感激し、牧師の仕事を目指そうと思ったとされる。父親の任地である会津から、できるだけ陸路でシベリアから渡米しようと計画し、北海道、択捉島、シベリアに渡ったが、そこで日本に送還された。1888年に神戸から貨物船のカナダ国籍の帆船でアメリカへ旅立ち、皿洗い、コック、農業労働などを続けて生活費と学費を稼いだ。1年後ハンプトン実業学校、現、バージニア大学に入学し、1890年にハワード大学、現、ワシントン大学神学部に入学した。1894年に卒業し、イエール大学神学部へ学士入学し、1895年に卒業し神学士となった。ハワイ布教を経て、1898年に横浜へ帰国し、横浜の紅葉坂教会で牧師を勤めていた。在米中に見聞した先住民教育に感銘を受け、星亨駐米大使にアイヌの救済・学校教育の請願を行い、坪井正五郎が宣伝していた北海道旧土人教育会の主唱者の一人となった。北海道にて教育者、牧師となり虻田学園を創立したが、学童減少や、資金難、有珠山爆発などにより休校となった。1919年に満州・シベリアに日本陸軍の通訳官として赴任し、このときジンギスカン=義経の痕跡を調べるべく、満州・シベリアを精力的に取材した。1920年に帰国し、軍功により勲六等旭日章を授与され、陸軍省は小谷部を嘱託として遇し、佐官待遇相当の陸軍大学校教授に招聘しようとした。小谷部はこれを辞退して著作活動に専念し、1923年に『成吉思汗ハ源義経也』が完成した。元の題名は『満蒙踏査・義経復興記』で、再版10回を越える大ヒットとなったが、翌年、成吉思汗は源義経にあらずと、歴史学・人類学・考古学の各学者反発意見をずらりと並べられいっせいに猛反論された。以降、この本に刺激・触発されて、さまざまな論議が交わされ、語られ、あるいは新説・新解釈が出されるようになった。現代になってもなお、「義経=成古思汗」をテーマとした類書が数多く出版されている。アメリカの最高学府で学んだほどの男が、なぜこのような一見突拍子もない説を唱えるに至ったか、なにを訴えたかったのか。これは、明治、大正、昭和と、ものの見方が極端に振れた時代にあって、何といわれようと己の信念と甲斐性を頼りに、金にも地位にも名誉にも背を向け、真一文字に駆け抜けた男の物語である。
序論 源義経の謎/第1章 義経と日本人/第2章 小谷部全一郎がゆく/第3章 語り継がれる北行伝説/第4章 そしてアメリカへ/第5章 アイヌ教育に九年/第6章 満州をゆく/第7章 「成吉思汗ハ源義経也」/付 義経北行伝説ルート
22.12月26日
”世界の美しい図書館”(2014年12月 バイインターナショナル社刊 関田 理恵著)は、世界遺産として登録されている歴史的図書館や最新鋭の名建築のものまで世界各国の豪華な図書館とユニークな施設を100館掲載している。
図書館は知の宝庫であり、地図(図版)の「図」、書籍の「書」を取って、図書とし、図書を保存する建物という意味であった。図書、雑誌、視聴覚資料、点字資料、録音資料等のメディアや情報資料を収集、保管し、利用者への提供等を行っている。基礎的な蓄積型文化施設の一種であり、博物館が実物資料を中心に扱い、公文書館が非定型的文書資料を中心に扱うのに対して、図書館は 出版物を中心に 比較的定型性の高い資料を蓄積する。本書はPIE BOOKS=ピエ・ブックスの1冊であるが、発売元は株式会社パイ インターナショナルとなっている。ピエ・ブックスを刊行してきたピエ株式会社とパイ インターナショナルは、これまで互いに協力して、デザイン書・ビジュアル書を中心に、新鮮な出版を心がけてきた。2017年1月に、パイ インターナショナルがピエ株式会社を吸収合併し、経営の効率化を共に目指して、国内外へ向けたブランディングの強化を図った。パイ インターナショナルは1971年7月に豊島区で設立され、魅力ある文化・優れたクリエイターと、世界との懸け橋でありたいとしている。PIEはPretty(かわいい)、Impressive(感動的な)、Entertaining(楽しい)で、円であり丸く、丸いのは地球であり、そこに世界が存在している。パイという名前はおかあさんが作ってくれる食べ物であり、家庭的で親しみがありいろいろなものがミックスされている。世界のさまざまなデザイン・アート・文化を世界に紹介したい、届けたい。新鮮で、やさしく可愛らしい、親しみのある書籍づくりをめざしたいという思いをこめている。人類が「書き記すこと」をはじめたのは、紀元前3000年~3400年頃の古代メソポタミアだといわれる。古代メソポタミアの文書は粘度板に刻まれていた。粘度板の保管場所としての図書館がいつ頃誕生したのかは分かっていないが、シリアの古代都市エブラ宮殿遺跡から、紀元前2250年頃に書かれた粘度板が大量に保管された文書館が発見されている。紀元前7世紀にはアッシリア王アッシュール・バニパルの宮廷図書館があり、アッシリア滅亡時に地下に埋もれたまま保存された粘土板文書群が出土した。ヘレニズム時代の図書館としては、紀元前3世紀のアレクサンドリア図書館が著名である。この図書館は、付近を訪れる旅人が本を持っていると、それを没収して写本を作成するというほどの徹底した資料収集方針を持っていた。さらに、薬草園が併設されており、今日の植物園のような遺伝資源の収集も行われていた。つまり、今でいう図書館、公文書館、博物館に相当する機能を併せ持っており、古典古代における最高の学術の殿堂となっていた。古代の図書館の中でも「世界三大図書館」として名高いのが、アレクサンドリア図書館、ペルガモン図書館、ケルスス図書館である。アレクサンドリア図書館では、図書館への放火により全ての蔵書が失われてしまった。ペルガモン図書館はトルコのミュシア地方にあり、ケルスス図書館はトルコのエフェソス遺跡にある。古代の図書館は繁栄の象徴でもあり、古代ギリシャでは紀元前600年頃には図書館と文書館が大いに発展した。上流市民は書物の個人コレクションを収蔵して、美しい建物を競って建てた。プラトン、ヘロドトスといった学者たちも大規模な個人図書館を所有していた。中でも哲学者アリストテレスの図書館は数々の伝説を生み、その蔵書は何世代も後のアレクサンドリア、コンスタンティノープルにまで伝えられていったという。一般市民も利用できる公共図書館が、初めて設立されたのもギリシャで、紀元前500年頃のアテナイとサモスでは、公共図書館が発展していった。西洋世界では、5世紀から9世紀にかけて多くの都市が戦乱によって荒廃し、ギリシヤ・ローマ時代の知の遺産である公共図書館は姿を消していった。一方、ビザンツ帝国が台頭し、首都コンスタンティノープルの図書館では、ギリシャとローマの古典の収集が続けられた。5世紀のコンスタンティノープル図書館では、数千冊に及ぶさまざまな分野の書物を所蔵する大図書館を運営していたとされる。収蔵本の大半は羊皮紙の巻き物で、金のインクで書かれたものもあった。コンスタンティノープルは本の輸出で知られ、多くの本がイスラム圈の図書館に運ばれ、学問の発展に寄与した。この時期の大規模な図書館は西洋ではなく、イスラム圈と東アジアにあった。中世イスラムでの中でも著名な図書館は、アッバース朝の第7代カリフ・マムンがバグダードに設立した「知恵の館」である。天文台や学校などを備えた、近代の大学の先駆ともいえる施設で、西暦830年に建てられた同館には150万もの書物が所蔵されていたという。イベリア半島でアンダルスのウマイヤ朝が成立すると、コルドバには7つの図書館が建設され、カリフの図書館だけで40万巻の蔵書があった。だが、これらのコレクションは、戦争による略奪やコーランのみを認めるイスラム教徒の手により、12世紀にはほとんどが失われてしまった。中世の西洋の図書館といえば、ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」に登場する修道院図書館を思い浮かべる人も多いだろう。小説の中では8万5千冊もの蔵書があったことになっているが、当時の修道院には多くても500冊ほどの蔵書しかしかなかったという。11~13世紀にかけての中世盛期になると、学問の中心は修道院から大聖堂の学校へと移り、聖堂の図書館が発展し、大量の本を所職するようになっていった。1200年代のソルボンヌ大学には28基の書見台があったという記禄があるが、本格的な書架はなく、貴重な書物の多くは祭壇の近くにしまわれていたり、書見台に鎖でつながれていた。14世紀に入りルネサンスの時期には、多くの富裕層が個人図書館をつくるようになった。また14世紀の終わりには、ヨーロッパには70を超える大学が存在するようになり、そのほとんどに図書館があった。1452年には、イタリアにヨーロッパで最初の自治体の財産としてすべての市民に聞かれた図書館、マラテスティアーナ図書館が開館した。教会の会衆席に似た座席が並び、本は座席前の書見台に鎖でつながれている作りは、当時の図書館の典型だった。1564年にはヴェネッイアにマルチアーナ図書館が誕生し、3廊式の均幣のとれた空間はその後の図書館建築に大きな影響を与えた。1450年頃にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を発明すると、印刷工房はヨーロッパ中にまたたく問に広がった。16世紀の初頭には膨大な数の本が印刷されるようになり、本の価格も大幅に下がったが、図書館の形態変化がおこるのは16世紀末から17世紀初頭にかけてである。この時期、イングランドでつくられたのが「ストール・ライブラリー」で、その姿はオックスフォード大学図書館に残るハンフリー公爵図書館に見ることができる。壁に書籍を収納する「ウォール・システム」の図書館は、17、18世紀のヨーロッパで盛んに設計された。多くの修道院や宮殿に影響を与えたウォール・システムの図書館は、スペインのエル・エスコリアル修道院副書館だといわれる。長さ68mもの壁面に天丈までの高さの巨人な書棚が据え付けられ、本がずらりと陳列された。本は壁を飾る装飾の一部になり、開架式閲覧室という図書館のイメージも決定づけた。ケンブリッジ大学にも、画期的な建築のレン図書館が1695年に完成した。特筆すべきは、書棚よりも高い場所につくられた窓から、豊かな光が降り注ぐ点である。書棚は壁にそって並ぶと同時に、伝統的なストール・ライブラリーのように壁面から直角に書棚を配した。このレイアウトは後の回書館建築に大きな影響を与えることになった。18世紀には、壮麗なバロック様式と曲線を多用するロココ様式の図書館が多く建設されるようになった。内装に施された豪華な装飾には、さまざまなメッセージが込められた。たとえばバロック様式の代表的な図書館として名高い宮廷図書館には、施主であるカール6世を神格化した姿の天井画や、ギリシャにアルファペットを伝えたとされる、カドモスの物語がルネッド壁面の半円形部分に描かれている。壮麗な図書館は、当時の権力者の威光を見せつける格好の舞台装置であった。18世紀末から19世紀初頭にかけて、バロックやロココ様式の反動として、古代ギリシヤ・ローマの建築をもとにした、新古典主義の図書館が多く建てられた。特徴である切れ目のない半円筒ヴォールドの天井は、パンノンハルマ修道院図書館や、国民議会図書館にその特徴を見ることができる。19世紀に入ると機械化が進み、ますます多くの本が世の中に出回るようになった。図書館の規模も大きくなり、設備や運営方法にも大きな改革が見られるようになった。1850年には、フランスに鉄製の屋根がつかわれたサント=ジュヌヅイェーブ図書館が誕生し、1866年にはアメリカに鉄製の書架とガス灯を備えたジョージ・ピーポデイ図書館が完成した。大英博物館図書室は完全な鉄骨構造で建てられ、垣根をドームにすることで支柱のない、直径約40mもの大空間をつくることができた。この放射状のレイアウトは、その後多くの図書館で採用されていった。
ザンクト・フロリフン修道院図書館/アルテンブルク修道院図書館/アドモント修道院図書館/オーストリア国立図書館(宮廷図書館)/メルク修道院図書館/マルチアーナ図書館/アンブロジアーナ図書館/パンノンハルマ修道院図書館/ストラホフ図書館/ザンクト・ガレン修道院図書館/チューリッヒ大学法学部図書館/フィンランド国立図書館/ストックホルム市立図書館/ヴェンラ図書館/デンマーク王立図書館ブラックダイヤモンド/ブランデンブルク工科大学図書館/シュトゥットガルト市立中央図書館館/ハンブルク大学法学部図書館/ベルリン自由大学文献学図書館/ドゥスリングン図書館/フンボルト大学グリム・センター/ヨハネス・ア・ラスコ図書館/ヴィブリングン修道院図書館/アンナ・アマリア図書館/ヘルツォーク・アウグスト図書館/マリー・エリザベート・リューダー・ハウス/ミニビブ/デルフト工科大学図書館/アムステルダム公共図占館中央館/グラス・パレスライブラリ/ユトレヒト大学図書館/スパイケニッセ公共図書館/サント=ジュヌヴィエーヴ図書館/フランス国立図書館リシュリュー館/国民議会図書館/シヤンテイ城図書鮪/メデイアテック・ア・ヴェニシュウー/メソン・デュ・リーブル/ピエールヴィーヅライブラリーアンドメディアセンター/ペッカム公立図書館/シーリー歴史図書館/大英博物館セント・パンクラス本館/バーミンガム公共図書館/オックスフォード人学ボドリアン国政館ハンフリー公爵図書館/ラドクリフ・カメラ/オックスフォード大学コドリントン図書館/大英博物館図書室/ダブリン大学トリニティ・コレッジ図書館オールド・ライブラリー/アイルランド国立図書館/TEA-テネリフェ・エスパジオ・デ・ラ・ザルテス/マドリード地域ドキュメンタリーセンター/カルロス・サンタマリア・センター・ライブラリ/エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院図書館/コインブラ大学ジョアニナ図書館/アヴェイロ大学中央ず書館/新アレクサンドリア図書館/アル・バブタン中央図書館/コーラン図書館/ディヴィッド・サスーン図書館/中国国家図書館新館/籬苑書屋/中嶋記念図書館/武蔵野美術大学図書館/多摩美術大学八王子図書館/成蹊大学図書館/せんだいメディアテーク/金沢海みらい図書館/旧弘前市立図書館/北九州市立国際友好記念図書館/国際こども図書館/大阪市立中之島図書館/ビクトリア州立図書館/議会図書館/バンクーバー公共図書館中央館/ザンテユスタシユ図書館/イエール大学バイネヴキ貴重書・手稿図書館/ブルックリン中央図書館/ニューヨーク公立図書館スティーブン・A・シュワルツマン館/モルガン図書館&博物館/シカゴ公共図書館/アイオワ州法図書館/ジョンズ・ホプキンス大学ジョージ・ピーボタイ図書館/アメリカ議会図書館/ワシントン大学スザロ図書館/フランシス・A・グレゴリー図書館/ウ川アム・O・ロックリッジ・ベルヴュ
23.令和3年1月2日
”エンジェル投資家とは何か”(2019年12月 新潮社刊 小川 悠介著)は、創業間もない企業に対し資金を供給し投資の見返りとして株式や転換社債を受け取る富裕な個人としてのエンジェル投資家について誕生から現在までと今後について紹介している。
創業間もないスタートアップ企業にお金を投じるエンジェル投資がいま、空前のブームとなっている。本田圭佑氏、田村淳氏、為末大氏など、有名人も続々参入している。エンジェル投資家は、起業家のスタートアップを助ける個人投資家である。通常、創業後まもない起業家は、資金調達の面で苦労を強いられる。創業時は説明できる実績が無いため、銀行や金融機関、ベンチャーキャピタルの融資を受けにくいからである。こうした資金調達の問題を解決してくれるのが、エンジェル投資家の役目である。金融機関やベンチャーキャピタルに比べて扱う金額は少ないが、起業家に必要な資金だけでなく、人脈を生かしたビジネス面でのバックアップ、精神的サポートなど、次世代起業家を応援する新しい投資の形を実践している。小川悠介氏は1983年生まれ、2008年早稲田大学を卒業し、日本経済新聞社に入社し、パナソニック勤務を経て、2017年から共同通信社記者を務め、現在、本社経済部にて民間企業や株式市場の取材を担当している。エンジェルという用語は、イギリスで演劇事業に資金供給する富裕な個人を表現した言葉に由来する。1978年に、ニューハンプシャー大学教授、同大学ベンチャーリサーチセンター創設者のウィリアム・ウェッテル氏が、創業間もない企業に投資する個人を表現する言葉として使用し始めた。自らが所有する資金を投資するという点で、他社が出資した資金を投資するベンチャーキャピタルとは異なる。投資判断は個々人の判断に帰するが、実際に投資対象となっているのは信託や有限責任会社、投資ファンドなどである。2018年に早稲田大学が開いた「起業家養成講座」で、フリーマーケットアプリ大手、メルカリCEO山田進太郎氏は大学時代に、創業初期の楽天にインターン生として入社し、ネットビジネスのイロハを学んだ。2000年前後は、起業を支援する投資家は数えるほどしかおらず資金調達が難しかったため、すぐには起業せず、フリーランスのエンジニアの道を選んだ。日本は、戦後復興の成功体験ゆえに大企業主義から抜け出せず、起業後進国、起業不毛の国とも言われた。しかしこの四半世紀で日本の起業家を取り巻く環境は様変わりし、投資家のすそ野が広がり、若者たちが気軽に起業に踏み切るようになった。特に近年は創業間もない企業にポケットマネーで積極的に投資するエンジェル投資家が登場し、米国に比べて遅れていたスタートアップ業界のエコシステムを大きく進化させた。エンジェル投資家はスタートアップ企業を支援する個人の投資家で、その成り手は過去に起業して成功した富裕層が多い。ビジネスで培った目利き力を生かし、銀行などに代わって、会社の評価が定まらない成長初期の企業に自己資金を提供する。投資する金額は数百万円から1000万円前後が大半で、自身の判断でリスクを負って投資する。単に資金を提供するだけではなく、起業経験を基に経営を助けるコンサルタントとしての役割を担うのも特徴である。資金を返還する期限もないので、じっくりと腰を据えて投資できるのも強みとされる。そして、資金提供の見返りとして株式などを受け取る。投資後に会社の事業が順調に成長すれば、保有する持ち株の評価も上昇する。イグジット(出口戦略の達成)は投資資金を無事に回収することで、会社が新規株式公開したり、ほかの企業に買収されたりした場合に株式を売却することによって現金化する。エンジェル投資は長期保有が前提であり、一部の例外を除いて、イグジットまで、多くは10年以上の年月を要する。エンジェル投資の醍醐味は、ホームラン級のリターンを期待できる点である。現オラクル共同創業者でエンジェル投資家のアンディ・ベクトルシャイム氏は、1998年に偶然出会ったスタンフォード大学の学生二人から検索エンジンのデモを見せられ、瞬時に潜在的な可能性を見抜き、その場で10万ドルの小切手を切った。学生はその資金を元手に友人宅のガレージでグーグルを創業し、その後、爆発的な成長を遂げ、2004年のIPO時には、保有株式の価値は3億ドルを超えたという。最近では、ウーバー・テクノロジーズに投資したジェイソン・カラカニス氏のように、決して裕福とは言えない家庭の出身者もいる。IT系メディアの記者を経て、ブログ関連会社を創業・売却し、エンジェル投資の世界に入った。2010年に2万5000ドルを投資し、2019年のIPO時には、保有株式の時価は1億ドルを上回ったという。いまでは、一般企業で働く会社員や定年退職したシニアの姿も少なくなく、各地で投資家コミュニティができていて、リスクを分散させながら気軽に投資を楽しんでいるという。日本でも、起業家兼エンジェル投資家の有安伸宏氏は2013年に家計簿アプリのマネーフォワードに投資し、これが大当たりした。2013年に行った初めての投資案件で、2017年のIPO時に200倍以上のリターンをたたき出した。2018年にスタートアップ企業としては稀にみる大型上場を果たしたメルカリは、2013年の創業から上場までに6回ほどの資金調達を実施し、累計170億円超を集めた。手に入れた潤沢な資金を使って攻勢を強め、瞬く間にユニコーン企業に成長した。仮に創業時に100万円を投資していた場合、株式上場時に初値ベースで約100億円を獲得したと推測される。しかし、エンジェル投資は極めてリスクの高い投資でもある。約280万社が活動する日本では、毎年10万社が開業し、約1500社が投資家からの出資を受ける。IPOまで辿り着けるのは約90社であり、会社の新設件数を母数として単純計算すると、約0.09%の確率となる。M&Aによる第三者への売却の道もあるが、スタートアップ企業への投資は「千三つ」の世界と言われる。新設された会社の大半は途中で厳しい現実に直面し、倒産に追い込まれる。中小企業庁の調査によれば、新たに設立された会社のうち1年以内に約2割が廃業する。株主の地位は債権者に劣後するため、大抵は保有する株式はただの紙切れとなって出資金は回収できない。倒産という最悪の事態を避けられたとしても、スタートアップ企業はピボットと呼ばれる、事業転換が日常的に起きがちである。投資家は自信満々で投資しても大半は失敗で終わり、そこそこの自信で投資した案件はほぼ失敗するという。株式の流通性も極めて悪く、上場株のように購入した株式を途中で転売することは現実的にハードルが高い。配当など株主還元がない場合が多く、期間中に利息が生じるわけでもない。ただし、いくつかの投資に三振しようが、一つでもホームランを打てば、余り有るリターンを得られるベーブールース効果がある。例えば1000万円の投資を10社にしたとして、9社が倒産しても1社が100倍になれば9億円のプラスになる。このため、数10のスタートアップ企業に分散投資をし、その中から1つ、2つのホームランを狙うのが基本的な投資戦略になる。欧米の動きが先行しており、アメリカでは約30万人のエンジェル投資家が活動している。担い手は年間収入20万ドルを超える高所得者が中心で、資産運用の一部をスタートアップ企業への投資に割り当てている。エンジェル投資の総額は年間300億ドル規模に達するとみられ、全米のベンチャーキャピタルの投資額の約2割に相当する。日本の場合は正確なデータはないが、スタートアップ投資に減税を適用するエンジェル税制の利用実績に基づく推定額は、約40億となっている。日本の新規開業率は5%を割り込む水準なのに対し、米国は約10%に達する。単に開業の件数が多いだけでなく、ウーバーやテスラなどの革新的な企業が、次から次へと生み出されている。新興国が台頭する中、米国の株式市場の時価総額は約30兆ドルと、今なお1国で世界の過半を占める。エンジェル投資家は、ベンチャーキャピタルが二の足を踏むような型破りなアイデアにも、思い切って投資する傾向があり、果敢にリスクを取ることが産業競争力を下支えしている。まず第1章では、エンジェル投資家の成り手の多くが20代から30代のミレニアル世代に属する起業家出身の若者であることを明らかにし、大胆にリスクを取って投資をする狙いや動機に迫っている。第2章では、スポーツ選手やタレントなど様々な領域の有名人がエンジェル投資に乗り出し、ペンチャーキャピタルや大企業との間で有望案件の争奪戦が過熱している現状を取り上げている。第3章では、インターネットを通じて一般の会社員がスタートアップ企業に手軽に投資できるサービスが相次いで登場していることを紹介している。第4章では投資マネーの流人でバブルとも指摘される足元のブームの行方について論じている。
第1章 誕生(エンジェル投資家とは何か/日米の投資家の顔ぶれ/投資のプロセス/大金を投じる理由)/第2章 争奪(セレブ投資家の台頭/急拡大するプロの投資集団/「有望株」獲得へ火花)/第3章 革命(ネットでエンジェル投資/「株式型」に参入続々/起業家との「出会い」仲介/利用企業は「一石四鳥」)/第4章 狂宴(起業天国トーキョー/越境するエリート人材/ブームの行方)
24.1月16日
”カナダ 歴史街道をゆく”(2017年5月 文藝春秋社刊 上原 善広著)は、2017年7月1日に建国150周年を迎え誰もが笑顔になれる癒される国として注目を集める広大な国土を持つカナダの歴史の道をたどりつつ横断・縦断したルポルタージュである。
最初にカナダを発見したのは、イギリスのヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家ジョン・カボットと、セントローレンス川を探検したフランス人ジャック・カルティエである。当時、大西洋を西北に向かえばアジアに到達する通路があると信じられ、カボットはこの西北航路発見のためニューファンドランド島に到達し、この付近の海域が豊かな漁場であることを知った。この知らせを聞いて、フランスやポルトガルの漁師が大西洋を横断してニューファンドランド沖で漁をするようになった。17世紀初めにフランス人が、セントローレンス川流域に入植したのがカナダの始まりである。1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれた。1867年に英連邦内の自治領となり、1931年に事実上独立国家となった。上原善広氏は1973年大阪府松原市生まれのノンフィクション作家で、被差別部落出身である事をカミングアウトし、部落問題を中心に文筆活動を行っている。羽曳野市立河原城中学校、大阪府立美原高等学校を卒業し、スポーツ推薦で大阪体育大学に入学した。在学中に20歳で学生結婚し、1996年に同大を卒業して中学校の体育非常勤教師となった。冒険家を志して単身渡米し、米国で1年間ほどを過ごし、23歳の時にロサンゼルスの日系新聞でフリーライターとしてデビューした。2010年に第41回大宅壮一ノンフィクション賞、2010年に咲くやこの花賞文芸その他部門、2012年に新潮45編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞大賞、2016年にミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞した。1997年に当時23歳で、アラスカからメキシコまでを、ハンティング用のカートに荷物を積み込み、約1万キロを1年かけて踏破したという。カナダのユーコン準州、ブリティッシュ・コロンビア州を3ヵ月ほどかけて縦断した。それはかつてのゴールドラッシュの道を、逆にたどるルートでもあった。当初歩いたアラスカ・ハイウェイは、もともと第二次世界大戦のとき、対日本軍用に半年ほどで緊急に拓かれた軍事道路であった。ハイウェイ沿いにある小さな町の博物館には日章旗が飾られていた。第二次大戦後、日系人が開いた歴史あるロッジでは、同じ日本人ということで食事をご馳走になったりもした。そのときカナダに何か奇妙な縁を感じ、いつかこの地を再訪したいと思い続けてきたという。2015年にカナダを旅することになったとき、かつて自分が歩いたルートはもちろんであるが、今度はカナダの歴史が始まった東海岸から旅を始めることにした。カナダは先住民と移民によってできた国だから、その歴史は移民の歴史であるといっても過言ではない。2017年はカナダ建国150周年に当たるが、それは東海岸に上陸した移民たちが、北米大陸を横断して西部に至り、国を形づくった歴史の頂点でもある。そのルートを辿ることによって、カナダの移民史を肌で感じると共に、日本とも無関係でない移民について肌の温感で考えたかったという。強烈な個性をもつ隣国アメリカと比べて、カナダは大自然以外あまり印象に残っていない。しかし2015年に中道左派の自由党から、当時43歳のジャスティン・トルドーが首相に就いたことは、日本でも広く報道された。そしてアメリカで保守の権化、ドナルド・トランプが大統領になったことで、アメリカとの違いがより鮮明になった。2015年から2年かけて、実質6ヵ月、東西南北約1万キロを旅することになった。プリンス・エドワード島からトロントまでは自転車で、トランス・カナダ・トレイル=カナダの歴史街道を走り、その後はバス、鉄道、レンタカーなどあらゆる交通手段を駆使した。2015年5月に、日本からトロント経由でプリンス・エドワード島に着いたときには、深夜1時になっていた。プリンス・エドワード島は、日本人にとって”赤毛のアン”で馴染みある島だが、同時にカナダの歴史の中で重要な島でもある。人口は14万人ほどで、島がそのままプリンス・エドワード島州となっており、カナダの中ではもっとも人口が少ない。1526年以降、フランスのフランソワ1世が探検家ジャック・カルティエをしばしばカナダに派遣し、セントローレンス川流域を探検させた。プリンス・エドワード島は、1543年にカルティエによって発見され、16世紀半ばにこの地はフランス領となった。1608年にフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランが、セントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地を創設した。ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は、1627年にヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねた。1642年にはモントリオールにも植民拠点が創設されたが、植民地経営はなかなか発展せず、ルイ14世のもとで植民地を王領とした。1682年にド・ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領と宣言し、1712年にヌーベルフランスはメキシコ湾にいたるルイジアナ植民地にまで拡大した。しかし、この頃から世界各地で英仏の対立が激化し、英国のアメリカ植民地との間に一連の北米植民地戦争が開始された。この一連の抗争の最後となる七年戦争が勃発すると、ニューイングランドの英軍はケベックを襲撃し、1759年に英仏両軍はアブラハム平原で激突したが、仏軍の大敗に終わりケベックは英軍の占領下に置かれた。1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となった。英国議会は1774年に、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認するケベック法を制定した。これは今日までケベックにフランス色が残る決定的な役割を果たした。翌年アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を呼びかけてきたが、フランス系住民は応じなかった。モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモントリオールを占領し、ケベック市に迫ったが撃退された。1783年に戦争が終結し、アメリカ合衆国が成立すると、アメリカのロイヤリストは国内に残ることを嫌い、ノバスコシアやケベック東部に大挙して移住した。1793年にアレグサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えて大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していった。1812年の米英戦争が勃発すると、カナダは再び米国軍の占領の脅威を受けたが、上カナダにおける米軍の侵攻は撃退された。南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによるカナダ併合の危機が高まった。英国議会はカナダを統一するため、1867年に英領北アメリカ法を制定し、両カナダやノバスコシア、ニューブラウンズウィックなどを併せた自治領カナダ政府を成立させた。この立法によってカナダは英連邦の下で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれたが、外交権はまだ付与されなかった。ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算19年間在任した。この時代のカナダは新興の意気に燃える発展期であった。1871年にはブリティッシュ・コロンビアも自治領政府に参加し、1885年カナダ太平洋鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた1905年までには、西部地域の発展によりノースウェスト準州からマニトバ州とサスカチュワン州が成立した。1926年にイギリスはカナダに外交権を付与し、英国議会は1931年に英連邦諸国は共通の国家元首に対する忠誠心で結びついているだけであると決議した。このウェストミンスター憲章によって、カナダは実質的には独立を達成したとされる。プリンス・エドワード島はカナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島である。もともとは先住民ミクマック族が暮らしており、島はアビグウェイト=波間に浮かぶ揺りかごという、ロマンチックな名で呼ばれていた。1864年に、ノバスコシア、ニューブランズウィック、プリンス・エドワード島の3植民地による沿海同盟が企画され、シヤーロツトタウン会議が開催された。そこにカナダ建国を目指すオンタリオとケベックの連合カナダが参加することになり、当初は沿海同盟の会議だったものが、カナダ連邦政府の設立を目指す会議になった。この記念すべき第一回会議がプリンス・エドワード島で聞かれたことから、後にプリンス・エドワード島は連邦結成の揺りかごと呼ばれるようになった。しかしプリンス・エドワード島政府は、連合カナダにオブザーバーとして参加を認めただけで、カナダ連邦への参加を頑なに拒んでいた。プリンス・エドワード島は、カナダの中でもイギリス本国の伝統と文化を重視する島だったからである。その後もケベックなどで引き続き会議は行われ、1867年7月1日に連邦政府が発足したが、それでもプリンス・エドワード島は参加しなかった。島内で強引に進められた鉄道建設で島の経済が破綻状態になって、カナダ連邦からの援助を受けるようになると、ようやく1873年にカナダ連邦に参加することになった。沿岸部ではニューファンドランドが参加に否定的で、ニューフアンドランドがカナダ連邦に参加したのは1949年と、つい最近のことである。1年目はプリンス・エドワード島からウィニペグまで、2年目は東端の地ニューファンドランドを起点に、鉄道でトロントからバンクーバー、さらに北上して北極圏のタクトヤクタックまで踏破した。カナダ全土に張り巡らされたトランス・カナダ・トレイルという古い街道や、廃線になった線路跡などのトレイルを自転車でめぐったり、建国の礎となった大陸横断鉄道に乗って西海岸に到達し、先住民と共にユーコンで狩りをしたりした。1万キロ以上6ヵ月に及ぶ、長いようで短い旅が終わった。旅を終えて思ったのは、カナダは多様性と共生する国であるということであるという。同じく移民大国である隣国アメリカで、人種による分離と対立が深刻な社会問題となっていることを思えば、カナダは世界でもっとも移民政策が成功している国である。医療費は無料で、高校までの授業料も免除されているが、そのぶん税金が高く設定されている。大富豪が生まれにくい代わりに、貧困層は手厚い福祉で保護されている。資本主義にあって、社会主義の良さも取り入れた独特な政策である。独立心旺盛なケベックや、先住民問題なども抱えているが、それらを考慮しても、カナダという国の魅力に陰りは見えないという。島国日本とはあまりに地理的・歴史的背景が違うが、外国人労働者などの受け入れや、貧困などの社会問題の対処について、カナダから学ぶべき点は多いという。
第一章 カナダ史の始まり/第二章 フランス語圏を旅する/第三章 トロントから大陸横断鉄道へ/第四章 ウィニペグからアルバータ/第五章 ロッキーを越えてバンクーバーへ/第六章 北極海への縦走
25.1月23日
”ヤン・フスの宗教改革 中世の終わりと近代の始まり”(2020年7月 平凡社刊 佐藤 優著)は、人を時代を動かし大転換をもたらした思想はどのように生まれたのか、危機の時代のいまこそ学ぶべき宗教改革の真髄を15世紀チェコのヤン・フスの宗教改革を通じて明らかにする。
危機の時代には革新的な思想が誕生する。ヤン・フスの宗教改革は、ルター、カルヴァンに先んじ、社会と教会が一体化した中世に教会の権威を否定し、近代的な民族・国家誕生の契機となった。フスはチェコ出身の宗教思想家、宗教改革者で、ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判した。聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会は1411年にフスを破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。佐藤優氏は1960年東京都渋谷区生まれ埼玉県大宮市育ち、幼少時は日本キリスト教会大宮東伝道所に通っていた。1978年浦和高等学校を卒業、1年間の浪人を経て同志社大学神学部に進学した。その後、同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得した。研究のテーマは、”チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について”であった。大学院修了後はチェコスロバキアのプラハのカレル大学留学と、本格的にフロマートカに関する研究をするという希望を持っていたが断念した。外交官専門職になればチェコスロバキアに行けると考え、1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省した。しかし、外務省から指定された研修言語は希望していたチェコ語ではなくロシア語で、5月に欧亜局ソビエト連邦課に配属された。1986年夏に、イギリス・ロンドン郊外ベーコンズフィールドの英国陸軍語学学校で英語やロシア語を学んだ。1987年8月末に、モスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。1988年から1995年まで、在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、日本帰任後の1998年に、キャリア扱いに登用され、国際情報局分析第一課主任分析官となり、2000年までの日露平和条約締結に向けて交渉を行った。外交官としての勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師や東京大学教養学部非常勤講師を務めた。現在、同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授を務めている。本書は、2018年5月から19年2月まで、東京で行われた同志社講座”宗教改革とは何か?”の記録に、大幅な加除修正を加えることによってできたものである。フスは、1369年にボヘミア地方のプラハの南南西75キロメートルにあるフシネツで生まれた。両親はチェコ人で貧しい生活を送り、教会で奉公して生計を補った。ボヘミアは神聖ローマ皇帝カール4世の時代に文化的な隆盛を迎え、プラハは独立の大司教区となり、プラハ大学、後のプラハ・カレル大学が創設された。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わった。1380年代半ば頃に、フスは勉強のためにプラハに赴き、1393年に学術学士号を、1394年に論理学士号を、1396年に学術修士号を取った。1400年に僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命された。イギリスで教会を批判し、聖書による信仰を回復することを説いたウィクリフの教説を知ってその影響を受けた。カトリック教会の世俗化を厳しく批判するようになり、1402年にプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者にも指名され、チェコ語で説教を行った。大司教ズビニェク・ザイーツのもと、フスは1405年には組織の説教者となった。フスの説教は、ベーメンの貴族や民衆に広く受け容れられ、影響力を持つようになった。1412年にローマ教皇の贖宥状の発売を批判すると、ついに破門された。1414年に皇帝ジギスムントの召集したコンスタンツ公会議に召還されると、フスは自説を主張する機会と考えてそれに応じた。公会議は、3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ、教会を正常化するために召集された。ジギスムントがフスも招待したので、全ての議論を決したいと願い喜んでコンスタンツへの訪問を決めた。審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、翌1415年7月6日に火刑に処せられた。フスの思想は、教会の誤りを正し聖書に基づく信仰に戻ることに主眼があり、ローマ教皇の権威を否定したのでもなかった。また、ウィクリフの聖餐の秘蹟を否定した化体説批判には同調していなかったので、急進的なものではなかったが、コンスタンツ公会議では危険思想の烙印を押された。フスの思想はむしろその処刑後、封建領主としての教会に苦しめられていた民衆の抑圧からの解放と、ドイツ人に抑えられていたチェック人の自由を求める民族的自覚と結びついた。フス派は急進派のタボル派と穏健派に分裂し、皇帝が穏健派を取り込んで急進派と戦うという構図となり、フス戦争が1419年から1436年まで起こった。最終的には急進派が敗れ、皇帝と穏健派の勝利となり、フス派の穏健派はその後も信仰を認められた。フス戦争後のチェコのベーメンでは、神聖ローマ皇帝によるカトリック教会保護に対して、ウトラキストというフス派穏健派もその信仰を認められて大きな勢力を保った。またフス派急進派の流れをくむ人々はチェコ同胞団を結成し、たびたび弾圧を受けたがなおも存続していた。さらに、フスの火刑からほぼ100年経った1517年に、ルターによって宗教改革が始まると、ルター派のプロテスタントもチェコに進出してきた。ウトラキスト、チェコ同胞団、ルター派の非カトリック三派は、1575年にチェコ人の信仰告白を発表し、神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家のルドルフ2世はそれを承認した。宗教改革には時代のハイブリッド性があり、宗教改革は中世の現象とも近代の現象とも言うことかできるという。三十年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約は、プロテスタント、カトリックの争いを終結させた。この条約締結には、神聖ローマ帝国内の各領邦国家もひとつの国として参加し、内政権と外交権を有する主権国家として認められた。この結果、覇権を握っていたハプスブルク帝国は衰退したため、この条約を区分として中世と近代を分けるのである。ただしこの時点ではまだ、国民、民族訳される近代的なネイションは生まれていない。近代的なネイションは、1789年のフランス革命によって誕生し、ナポレオンに征服された国々では、国民が一体となりナショナリズムが発揚し、第一次世界大戦の背景となった。中世と近代の両方にかかっている宗教改革とは何だったか、当時のヨーロッパの秩序を壊して近代という新しい世界をつくった宗教改革の構造を知ることで、いまの混迷する時代への視座を身に付けることかできる。通常、宗教改革と聞くと、ドイツのマルティン・ルターを思い浮かべるが、実はボヘミアで、ルター、カルヅアンに先んじて、15世紀に宗教改革の大運動か起きているのである。それか、フスとフスを支持する人々であるフス派によって起きた宗教改革である。筆者は、ルターでもカルヴァンでもなく、ヤン・フスとフス派の宗教改革か近代への扉を開いたと考えているという。残念ながら、これまで日本語には、ヤン・フスとフス派の宗教改革を知るためのよい専門書がなかった。1956年に、チェコの傑出したプロテスタント神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカがが編著者となった、論文集”宗教改革から明日へ-近代・民族の誕生とプロテスタンティズム”が刊行された。ルターの宗教改革から500年にあたる2017年に、筆者は監訳という形でこの論文集の日本語版を出した。2017年は新書から専門書まで宗教改革を扱った本が出たが、ボヘミアの宗教改革をテーマにした本はこれだけである。フロマートカは、無神論を国是とする国で、教会に対する圧力が加えられている時代に、先祖から受け継いだ歴史的な遺産、フスの宗教改革の回復に取り組んだのである。本書では、第一章で、フスとフス派の宗教改革運動を題材に近代とはどんな時代であったのかを見ていく。第二章は、特に終末に焦点を絞り、フス改革の神学的背景を見ていく。同時に、キリスト教神学の基礎的な知識にも触れていく。第三章では、近代のチェコの歩みを振り返り、近代の終焉に我々か直面している課題を明らかにする。第四章では、フロマート力の”宗教改革から明日へ”をテキストに、キリスト教神学の立場から、フスとフス派の宗教改革の内在論理を追い、21世紀に生きる日本人の我々か受け継ぐべき遺産を明らかにする。現下の日本が直面する危機を克服するために、本書を活用して欲しいという。この世で起きていることすべてを信仰心でしっかりと見れば、今日の困難と憂慮の責任を、他の誰にでもなく自分に課す気になるだろう。
序章 いま「宗教改革」を知ること/第1章 チェコの宗教改革者ヤン・フス/第2章 フス宗教改革の内在論理/第3章 近代チェコ史から見る民族、国家とキリスト教/第4章 フス宗教改革の遺産
26.1月30日
”赤星鉄馬 消えた富豪”(2019年11月 中央公論新社刊 与那原 恵著)は、武器商人として日清戦争の頃に巨万の富を築いた父親から巨万の富を継ぎ日本初の学術団体を設立しブラックバスを芦ノ湖へ移入し日本ゴルフ界の草創期を牽引したにもかかわらず何も書き残さず静かに姿を消した赤星鉄馬の生涯を紹介している。
赤星鉄馬は1883年東京生まれ、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男六女の長男)で、莫大な遺産を相続した実業家である。赤星家の財産は弥之助が築いたもので、弥之助は1853年生まれ、磯長孫四郎の子で赤星家の養子となり、東京に出て金貸し業その他の事業に関係して財をなした。鉄馬は1901年に東京で中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学した。留学中にペンシルベニア大学卒業後、1910年に27歳で帰国し、大阪の開業医の娘と結婚した。政府関係者に随行して、夫婦で世界一周の新婚旅行をした。父親の死去にともない、家業を継いだ。与那原恵氏は1958年東京都生まれ、1996年に雑誌『諸君!』掲載のルポで、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞した。2014年に第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した。赤星鉄馬は知る人ぞ知る戦前の富豪であるが、名前を聞いてすぐに分かる人は多くない。鉄馬の存在は、これまで日本の近現代史の中でほとんど知られてこなかった。鉄馬は、趣味から派生したブラックバスの研究書を除いて、日記や回想録といった文章を一切書き残さず、インタビューにも応じなかったからである。著者が鉄馬の名前を知ったのは、前著”首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像”を執筆中のことだったという。鎌倉芳太郎は大正末期から昭和にかけて琉球芸術の調査を行い、琉球文化全般の膨大な史料を残した人物である。カメラとガラス乾板を携えて大正期から沖縄本島・離島、奄美大島各地を巡り、風景や建造物、工芸品など千数百点の写真を撮影した。それはいまも当時の沖縄を記録した貴重な画像となっている。芳太郎が登場した時期の沖縄では、のちに沖縄学と名付けられる研究が始まっていたが、本土では注目されていなかった。2019年10月末に火事で焼失した首里城は、大正末、取り壊しが決定していたが、それを阻止できたのは芳太郎の働きかけもあったからである。国宝指定されたものの沖縄戦で失われ、戦後は琉球大学の建設によって、城壁などの一部がかろうじて残されているだけだった。その首里城は、1992年に復元され、以後、首里城は四半世紀をかけて沖縄を象徴する文化遺産として受け入れられていった。芳太郎の足跡を取材していた著者は、1923年に芳太郎が啓明会という学術財団から多額の資金提供を受けている資料を発見した。その頃の芳太郎は全くの無名の青年で、まだ実績のない在野の研究者にすぎなかった。啓明会は、芳太郎が行おうしていた琉球芸術調査に対して、今のお金に換算して3回にわたり総額約2000万円もの調査費を支給していた。そのような時代に、無名の在野の研究者に2000万円を出した富豪がいたということがすごく不思議だったという。啓明会は基礎的な文献や資料の収集、研究に重きを置いて助成活動を行っていた。学術界の重鎮のほか、無名の研究者や女性研究者も支援するなど、当時においてかなり先進的な取り組みをしていた。記録を調べてたどり着いたのは、啓明会は鉄馬から100万円(現在の約20億円に相当)の提供を受けて設立された財団という事実だった。啓明会は近代日本の学術研究の基礎を築き、設立当時は国内の全研究助成費の5分の1を占めるほど大きな存在感を示した。だが、鉄馬は財団の名に赤星の名を使用させず、運営にも親族を一切かかわらせなかったため、すぐには名前が出てこなかった。資金を提供した赤星鉄馬という人物は謎のままで、資料には具体的なことが何も書かれていない。いったいこの人は何者なんだろう、とがぜん興味が湧いてきたという。鉄馬は1917年に父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却した。後に国宝となった物件が多数含まれたことから、赤星家売立と呼ばれた。総額510万円以上にのぼる高額の落札額を記録し、当時の最大規模の売立となった。1918年に、文部省管轄としては日本で初めての学術財団となる財団法人啓明会を設立し、美術品売却益の5分の1に相当する金額を奨学資金として投資した。資金は出したが、赤星自身はこの財団の運営に一切関わらず、親族にも関わらせなかった。1913年に設立された、赤星家の資産運用保管の目的の泰昌銀行の頭取であったが、1920年に松方巌率いる十五銀行に経営権を譲渡した。1923年時点では、千代田火災保険の監査役だけが肩書きで、新聞では、一向に事業という様な事業をしてないと評された。1923年の関東大震災で麻布鳥居坂の邸宅が倒壊し、震災後は東京府北多摩郡武蔵野村、現在の武蔵野市に転居した。吉祥寺の一角で、成蹊大学前のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会の敷地である。当初は、アメリカから持ってきた住居を移築して住んでいた。鳥居坂の邸宅跡には、国際文化会館が建てられている。1925年に、公害や乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川湖沼の回復を目的に、味がよく釣って面白い魚という触れ込みで芦ノ湖へオオクチバス(ブラックバス)を移入した。1934年に、アントニン・レイモンド設計の新居が完成した。外観は修道院の門から見ることができ、邸宅の敷地は3万坪で、一部は成蹊大学となっている。鉄馬を追いかけるように旅をするうちに、親族や身近にいた人たち、交錯した人物など、思わぬ人びとがつぎつぎと姿をあらわした。それとともに、幕末から明治、大正、そして昭和の時代が浮かびあがってきた。本人は釣りに関することを除いて書きのこしていないが、それでもさまざまな資料をあたるうちに、その生涯が見えてきた。絶大な力を待った野心的な父弥之助に対して、複雑な思いも抱いたであろう。鉄馬は通算8年におよんだ米国留学の体験が、内面に大きな変化をもたらした。さらに、兄のような存在の樺山愛輔の尽力もあって、啓明会が誕生し、近代学術研究の蓄積という大きな遺産が今日にのこされた。愛輔は伯爵樺山資紀の長男で、13歳でアメリカに留学し、1885年にコネチカット州ウェズリアン大学に入学、その後、1887年にアマースト大学に編入した。アマースト大学卒業後、ドイツ・ボン大学に学んだ。帰国後、国際通信、日英水力電気、蓬来生命保険相互などの取締役、千歳火災海上再保険、千代田火災保険、函館船渠、大井川鉄道各社の重役を務めた。1922年襲爵、1925年貴族院議員、1930年ロンドン軍縮会議日本代表随員となった。太平洋戦争中、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して、終戦工作に従事した。1946年に枢密顧問官に就任し、翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止、公職追放となった。その後、グルー元駐日米国大使から寄せられた基金を基に社会教育事業資金グルー基金創設に尽力した。鉄馬の趣味は馬の研究と釣りとバラの栽培で、新橋の花柳界では粋人として知られた。朝鮮京城附近に広い牧場、成歓牧場を所有し、道楽として馬を飼養した。吉田茂や、白洲正子の父でもある実業家の樺山愛輔、三菱財閥の4代目・岩崎小弥太といった重鎮と深い親交を持った。鉄馬は、莫大な資産を受け継いだゆえの苦悩もあっただろう。富がなくても不幸があるように、富があっても多くの不幸を避けることはできない。鉄馬の資産は後世のために有意義に使われ、やがて赤星家の資産はあらかた失われ、自身は静かに消えていったのである。鉄馬が人生を満喫したのは、米国留学時代に集中していたと思われる。のちの時代状況も相まって心痛も多い日々を慰めたのは、釣り糸を垂れる時間であり、ときに水面を眺めながら、自身の人生を振り返ることもあったであろう。その人を記憶する人がいるかぎり、また没後であっても、その人とあらたに出会う人がいるかぎり、その人は時代を超えて生きるのである。
第1章 父、弥之助/第2章 武器商人/第3章 米国留学/第4章 華麗なる人脈/第5章 啓明会/第6章 釣りと建築/第7章 恐慌と暗殺の時代/第8章 最期の日々
28.2月13日
”牡蠣の森と生きる 「森は海の恋人」の30年”(2019年5月 中央公論新社刊 畠山 重篤著)は、大反響を呼んだ読売新聞朝刊の連載「時代の証言者」をもとにした「牡蠣じいさん」として知られる宮城県気仙沼の牡蠣養殖家の初めての半生記である。
本書は、読売新聞朝刊に2018年12月17日から2019年2月9日まで掲載された「時代の証言者・森は海の恋人」全36回の原稿を加筆、再構成したものである。対談の聞き手の鵜飼哲夫氏は1959年生まれ、中央大学を卒業し1983年に読売新聞社に入社、1991年から文化部記者、現在、読売新聞東京本社編集委員を務めている。ウサギや野鳥が友だちだった幼少期、父の仕事を継いで養殖に励んだ若き日々、森に目を向けるきっかけとなったフランスへの旅、すべてを津波が押し流した東日本大震災、そしてそれを乗り超えるまでを一気に語り下ろしている。「森は海の恋人」は2009年に気仙沼で設立されたNPO法人の名称で、環境教育・森づくり・自然環境保全の3分野を主な活動分野とする特定非営利活動法人である。さまざまな環境問題が深刻になりつつある現在、自然環境を良好な状態にできるか否かは、そこに生活する人々の意識にかかっている。そこで、自然の雄大な循環・繋がりに焦点を当てた事業を展開し、森にあって海を、海にあって森を、そして家庭にあって生きとし生けるものすべての幸せを思える人材を社会に提供しつづけていきたいという。畠山重篤氏は1943年中国・上海生まれ、養殖漁業家で、現在、京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授を務めている。父親は会社員だったが、第二次世界大戦終戦後、故郷の舞根、現、宮城県唐桑町へ戻り、牡蠣養殖を始めた。宮城県気仙沼水産高等学校卒業後、家業である牡蠣養殖を継ぎ、北海道から種貝を取り寄せて宮城県では初めて帆立の養殖に成功した。牡蠣は、ウグイスガイ目イタボガキ科とベッコウガキ科に属する二枚貝の総称である。海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材の貝殻として利用されてきた。約2億9500万年前から始まるペルム紀には出現し、三畳紀には生息範囲を広げた。浅い海に多く極地を除き全世界に分布し、時に大規模に密集した漏斗状のカキ礁の化石が出土することもある。着生した基盤に従って成長するために殻の形が一定せず、波の当たり具合などの環境によっても形が変化するために外見による分類が難しい。雌雄同体の種と雌雄異体の種があり、マガキでは雌雄異体であるが生殖時期が終了すると一度中性になり、その後の栄養状態が良いとメスになり、悪いとオスになるとされている。畠山は、牡蠣の森を慕う会、現、「特定非営利活動法人森は海の恋人」代表で、『森は海の恋人』『リアスの海辺から』『日本<汽水>紀行』(日本エッセイストクラブ賞)などの著書がある。日本は高度経済成長期を迎えていた1964年頃から、舞根を含む気仙沼湾沿岸では生活排水で海が汚染されて赤潮が発生するようになった。それに染まって売り物にならない血ガキ の廃棄を余儀なくされ、廃業する漁師が続出するようになった。子供の頃に山も歩き回った畠山は、陸にも原因があると感じていた。確信に変わったのは、1984年のフランス訪問で、磯に魚介類が豊富で河口の街で稚ウナギ料理が出されたのを見て、ロワール川を遡ると広葉樹林があったのを目の当たりにした。当時、気仙沼湾に注ぐ大川には水産加工場の排水が流れ込み、上流部では安い輸入木材に押されて針葉樹林が放置されて保水力が落ち、大雨で表土が流されていた。畠山が上流での森づくりを呼び掛けると漁師仲間70人程度が賛同した。地元の歌人熊谷龍子が発案した「森は海の恋人」を標語にした。熊谷龍子氏は1943年気仙沼生まれ、宮城県鼎が浦高等学校、宮城学院女子大学日本文学科を卒業し、1967年「詩歌」に参加して前田透に師事した歌人である。当時の活動に対しては、外部からは活動への批判・疑問も寄せられたほか、大川上流が岩手県という行政の縦割りも障害になった。母が新造漁船用にと貯めていたお金も使って北海道大学教授に科学的調査を依頼したところ、気仙沼湾の植物プランクトンなどを育む鉄、リン、窒素などが大川から供給されていることが実証された。環境保護機運の高まりもあって、大川上流の室根山、現在の矢越山への植樹運動が広がり、小中学校の教科書にも掲載された。2011年の東日本大震災では母親が死去し、津波で漁船や養殖用筏が流出したが、植樹祭は上流の住民らが継続し、養殖業も息子らが再開させた。畠山は四半世紀に渡り、2万本以上の木を植えてきた。本業の時間を割いて植樹を続けるのは手間がかかる上、効果が現れるのは50年後である。養殖業は、生物を、その本体または副生成物を食品や工業製品などとして利用することを目的として、人工的に育てる産業である。古代ローマではカキが養殖されたほか、資産家の投資先の一つとして養魚池の経営があったという。養殖するためには対象となる生物の生態を知る必要があり、安定した養殖技術の獲得までには時間がかかる。魚介類に関しては、卵あるいは稚魚・稚貝から育てることが多い。反面、飼育親魚からの採卵と管理環境下での孵化を経た仔魚および稚魚の質と量の確保が困難な魚種の場合、自然界から稚魚を捕らえて育てる蓄養が行われる。養殖には、漁の条件や捕獲環境を管理できることで、捕獲時のダメージによる劣化を防ぎ時間やエネルギーなどの各種コストを抑えられる。また、魚種によっては天然環境に比べ成長が早めることが技術的に可能であることなど、明確なメリットがある。魚が逃げ散ったりしないように管理して、給餌や漁獲を容易にするため、海の沿岸域や淡水の湖沼などに様々な施設が作られる。魚介類の種類に合わせて、海面生け簀や筏、養魚池などが使い分けられる。海水魚の一部は、海水の水質を保って内陸部で育てる閉鎖循環式陸上養殖が可能になっている。東日本大震災の津波で、畠山の養殖場は壊滅的な被害を受けた。中でも、畠山の養殖にとって命ともいえる舞根湾の海中には、瓦礫や泥が降り積もった。そうした状況にもかかわらず、畠山は、養殖を再開させることを決めた。根底には、半世紀にわたり海と共に生きてきた男の「海を、信じる」という信念があったという。1960年に三陸を襲ったチリ地震津波では、畠山は地震後、驚異的な早さで成長するカキを見た。1965年以降、赤潮が頻発するようになった気仙沼の海が、長い時間をかけて元の姿を取り戻していくのを経験した。海を恨んではいない、海は必ず戻ってくるからという。あらがいがたい自然と向き合う時、立ち向かうのではなく、受け入れ信じる。そして、自分が今できることを精一杯やることが大切だと畠山は考えている。舞根湾は天国のような海で、300km近くつづく三陸リアス式海岸の真ん中あたり、宮城県気仙沼の地にあり、沖合にある大島か天然の防波堤となっていて、とても静かで深い海である。湾には二本の川か流れ込み、森からの養分が運ばれ、牡蠣の養殖には絶好の漁場である。沖に出ると遠くに見える台形の山が室根山で、山測りといって、漁師か位置を確認し、天候を予測するための大事な山である。「森は海の恋人」の活動は、室根山での植樹から始まった。漁師が山に木を植え、海を豊かにする活動「森は海の恋人」を始めて、2018年で30年となった。植樹したブナ、ナラなど広葉樹は約5万本となり、体験学習にやってきた子どもは園児から大学生まで1万人を超える。海と川、そして山をひとつながりの自然として大切にする実践は高く評価され、2012年に国連の「フォレスト・ヒーローズ(森の英雄たち)」に選ばれた。あの過酷な津波でも、海に恵みをもたらす森や川の流域の環境は壊されず、海はよみがえり、牡頼養殖も復活した。日本全国には大小3万5千もの川があり、それか森の養分を運び海を育んでいる。川の流域か豊かであれば、この国の未来は間違いない。2018年10月に75歳になった「牡礪じいさん」であるが、じいさんになっても牡蠣は先生である。カンブリア期に誕生し、人間の生活から出たものか流れてくる河口に棲息する牡礪は、人間の歴史を全部知っている。だから、わからないことか起きたら、牡頼に聞けばよいという。
1 牡蛎じいさんの半生記(少年時代/必死の日々/漁師が山に木を植える/プランクトンは生きていた)/2 折々のエッセイから(森は海の恋人(「第2回地球にやさしい作文」通産大臣賞、一九九二年)/森は海の恋人(『中学国語3』収載、1997~2005年度)/津波はもう結構(2010年5月)/蝋燭の光でこの手記を書く(2011年5月)/『牡蛎と紐育』書評(2012年3月)/豊かな森が海を救ってくれた(2016年4月)/沈黙の海からの復活(2019年3月)
29.2月20日
”江戸の村医者 本田覚庵・定年親子の日記にみる”(2003年2月 新日本出版社刊 菅野 則子著)は、江戸時代後期から明治初年にかけて絶えず村政の中心にありながら地主としてまた家業の医者として地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じた本田家の人びとを紹介している。
本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡を少々自分の手で書き遺しており、二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどるという。覚庵と定年の二人は、親と息子、江戸と明治、村医者と民権家、というように一見すると対照的な存在のようにみえる。二人の日記も見方によっては対照的で、覚庵は日々の出来事をほとんど感情を交えることなく淡々と綴っている一方、定年は折にふれては感情を吐露している。近藤勇・寺門静軒らとも交流のあった医者であり文人の父と、民権家として奔走した息子が、新時代の到来をどう受けとめたか、幕末から明治へという時代の転換期を駆けぬけた父と子の姿を描いている。菅野則子氏は1939年東京生まれ、1962年に東京女子大学文理学部を卒業し、1964年に東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程を終了した。1993年に幕末農村社会史研究で都立大学博士(史学)となり、一橋大学経済学部助手を経て、京大学文学部教授を務め、2010年定年退任し、現在、帝京大学名誉教授である。明治維新を境に、それまでの人びとを取り巻く状況がめまぐるしく転換した。支配の仕組み、生活基盤、生活様式、人びとの価値観、何から何までが大きな変化を遂げていった。しかし、この変化は決して成り行きに任せてなったものではない。そこにはきわめて確然とした人為が働いていた。そしてこの移行期に多くの人びとは、それぞれに思いをめぐらせていた。農民は農民なりに、町人は町人なりに、藩士は藩士なりに、大名は大名なりに、朝廷は朝廷なりにである。現在の東京・多摩地域の農村史料をみると、その当時の上層農民同士がたがいに親戚関係にあることが多い。こうしたつながりをもつ上層農民の人たちは、いわゆる豪農層とよばれた。広くは中間層として位置づけられるこうした人たちは、広範なネットワークの中にあって、どのようにこの時代と対峙していったのだろうか。当時、絶えず村政の中心にありながら、地主として、また家業の医者として地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じ、それらを通して広範な人びとと交流をもっていた人がいた。豪農とも中間層の一員としても位置づけられる、本田家の人びとである。本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡をわずかではあるが自分の手で書き遺している。本書は、この二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどっている。本田家が谷保村と関わりを持つようになるのは、17世紀前半の四代源右衛門定之の時からである。本田家の始祖は本田定経で、上毛白井、現、群馬県にあったという。しかし、何らかの理由で定経は天正年間に越後国鮫ケ尾城で戦死し、一子源兵衛定寛、本田家二代の別名定弘が、母とともに武州川越、現埼玉県川越市に移住した。定之は馬術を修めるとともに調馬師となり、徳川三代将軍家光から四代家綱の頃まで幕府の厩舎に勤めていた。そのころから馬の調教と獣医とを家業にするようになり、三代源兵衛定直を経て、四代の時、寛永年中に谷保の現在地へ移り、以後代々の時をこの地でかさねることとなった。五代文左衛門定保は、同じ家業を以て広島藩松平家に仕えて十人扶持を受けるなど、村との関わりもまだそれほど深いものではなかった。定保の跡を継いだ六代市三郎重鐙は石田新田を拓いた。江戸中期までの本田家は、馬の調教や獣医を家業とし、幕府や広島藩に勤仕するほどの家柄であった。七代源之丞定庸は下谷保村の関家から入っており、この頃から徐々にこの土地に定着し、地主としての成長を開始し、八代源太郎定雄を経て幕末に至るまで着実に土地を集め大地主となっていった。本田家がいつ頃から医家として活動を始めたのかはわからないが、村医者としての活動がはっきりとするのは九代孫三郎定緩からである。18世紀末から19世紀前半には、すでに村医者として近隣に知れわたった存在であったようである。本田家の屋号となる「大観堂」も定緩の時に名乗り始めて、称した「孫三郎」が、以後、本田家の当主の通称となった。以後、十代定位、十一代定済(覚庵)、十二代東朔、十三代定年(退庵)とこれを受け継ぎ、1886年に定年が弟定堅に医業部分を譲って別家させるまで、本田家は、谷保村の唯一の村医者として活躍した。本田覚庵は江戸時代の武蔵国多摩郡下谷保村、現在の東京都国立市谷保の地主・在村医で、通称は孫三郎、名は定済・定脩、号は謙斎・安宇楼・楽水軒である。1814年に谷保村の大地主本田家の貫井村新屋分家に生まれ、母方の実家でもある本家本田孫三郎の養子となった。覚庵は1832年に江戸に出て、麹町の産科医に入門し、本草学・鍼灸を学び、多和田養悦の輪読会に参加し、丸薬の調合に従事し、武家屋敷への往診に同行した。同年に養父昂斎の病気を伝える飛脚便があり、急遽帰郷した。1833年2月13日に昂斎、1834年11月13日に祖父随庵の死を見届け、1837年頃医業を開始した。近隣地域や是政(府中市)、国分寺(国分寺市)、貫井(小金井市)、砂川(立川市)、日野(日野市)に往診し、産科を専門として難産や流産の後始末に立ち会ったという。本田定年は明治時代の地方行政官・民権家・書家で、通称は孫三郎、号は退庵である。武蔵国多摩郡下谷保村名主、神奈川県第十大区一小区戸長、北多摩郡役所書記を務めた。書記時代は公務の傍ら自由民権運動に関わり、晩年は東京に書法専修義塾を開いて書道を教えた。1865年2月21日に父覚庵、1867年9月15日に兄東朔が急死して急遽家督を継ぐことになった。医術は未熟だったため、伊豆国賀茂郡長津呂村から覚庵の同門武田宗堅を招いて医業を任せ、診療収入を宗堅のものとする代わりに無償で医業を学んだ。公務に忙殺される中、医術開業試験で必修となった西洋医学を学ぶ時間もなく、医業の継続を断念し、1875年に宗堅を帰郷させ、昭和初期まで婦人病薬黒竜散を製造販売した。1886年に谷保村・青柳村・本宿村・四ツ谷村・中河原村連合戸長となったが、1ヶ月で辞任し、三男定寿に家督を譲った。この二人には共通するものも少なくなく、村政をリードしていく村役人として、村内一の地主として、地域の文人として、新時代の到来とどのように絡み合っていったのか。二人のたどった道筋を通して、支配が幕府から新政府に転換された多摩に生きた人びとの時代感覚をも捉えることができたらという。
一章 谷保村に生きた本田家の人びと/(一)江戸時代の谷保村/(二)本田家の系譜/(三)遺された本田家の蔵書/(四)家族と経営/(五)地主として/(六)村役人として
二章 村医者・本田覚庵の生涯/医の昔と今「覚庵日記」/(一)覚庵と江戸/(二)村に生きた覚庵/(三)覚庵がみた幕末の政治社会情勢/(四)多彩な人びととの交流/(五)覚庵の死
三章 文明開化・自由民権と本田定年/(一)定年と維新/(二 定年の文化活動/(三)村のリーダー・定年/(四)活躍する民権家・本田定年
終章/時代の転換/「自由の権」/新時代に向けての人材/「官」と「民」/ほんとうの「開化」とは
参考文献
30.2月27日
”アルツハイマー病は治せる、予防できる”(2016年9月 集英社刊 西道 隆臣著)は、認知症のうち60~70%を占めるとされるアルツハイマー病について近い将来治せる病気になるという驚きの研究最前線を紹介している。
アルツハイマー病は発見から約100年経ったが、いまだ根本的な治療薬がない深刻な疾病である。アルツハイマー病は脳が萎縮していく病気で、アルツハイマー型認知症はその症状である。認知機能低下、人格の変化を主な症状とし、認知症の60-70%を占めている。日本では、認知症のうちでも脳血管性認知症、レビー小体病と並んで最も多いタイプである。認知症は2025年には患者数700万人を超えるといわれ、その約60%を占めるのがアルツハイマー病である。治療薬開発に最も近づいたとされる研究者が、最新の研究成果を明らかにする。西道隆臣氏は1959年宮崎県生まれ、筑波大学生物学類卒業後、東京大学大学院薬学系研究科修了した薬学博士である。東京都臨床医学総合研究所・遺伝情報研究部門主事を経て、1997年より理化学研究所脳科学総合研究センター・神経蛋白制御研究チーム・シニアチームリーダーを務めている。2014年に株式会社理研バイオを設立し、代表取締役を兼ねている。日本で認知症が広く知られるようになったのは40年ほど前である。きっかけは、1972年に発表された有吉佐和子の小説『恍惚の人』だといわれている。当時、認知症は老人性痴呆と呼ばれ、その介護を描いたこの小説は200万部を超えるベストセラーになり、映画化もされた。そこでは、老人性痴呆の症状と介護、記憶の障害、異常な食欲、徘徊、家族も時間も場所もわからなくなった高齢者が引き起こす数々の問題が描かれた。そして、それに振り回され介護に疲弊する主人公や家族の姿は、人々に衝撃を与え社会問題化した。その後実態調査が行われ、1985年時点の認知症高齢者は全国で59万人と推計された。報告書では、30年後の認知症高齢者数を185万人と予測し、急激に増大すると予想していた。しかし実際には、30年後の2015年、認知症高齢者は500万人を超えている。認知症が増えた最も大きな要因は、日本人の平均寿命が延びたことにある。江戸後期の日本人の平均死亡年齢は、30歳に満たなかったともいわれる。近代化が図られた明治後期~大正初期でも、平均寿命は女性で44.73歳、男性は44.25歳であった。今や、人は何歳まで生きることができるのか、120歳なのか150歳なのかと真剣に検討される時代である。平均寿命が延びるにつれ増加してきた病気には、白内障、加齢黄斑変性、骨粗粗症、変形性腺関節症、肺炎、心臓病、糖尿病、がんなど、そして認知症がある。いずれも年をとるほどかかる危険が高まる、加齢が危険因子である病気で、実際、高齢の患者が増えている。加齢が危険因子である病気は、老化と密接にかかわっている。長寿と老化は分かちがたく結びついているので、高齢者にはさまざまな老化現象が現れる。老化現象は、個人差はあるがだれにでも起きる生理的な現象で異常ではない。しかし機能の低下があまりに急激に進行したり、異常な老化現象が起きるなど、生体 機能が障害されるようになると病気である。認知症とは病気の名前ではなく、昔でいえば呆け、つまりこれまでできていた知的な活動ができなくなった症状や状態をいう。何らかの脳の病変によって記憶や思考などをはじめとする高度な脳の働きが落ち、元に戻らなくなったために、社会生活に支障が起きる。そのため医療に加えて介護が必要になり、現在でも、認知症にかかわる医療・介護費用の総計は年間14兆円を超えているのではないかともいわれている。超高齢社会に突入している日本で急激に増加している認知症のコストは、これからの社会に重大な影響を及ぼす。だから、今、認知症対策が急がれており、ことに重要な課題となっているのは、アルツハイマー病の治療法・予防法の確立である。アルツハイマー病になると、脳の細胞が死滅していき認知症になる。アルツハイマー病には治療法がなく、予防する方法もないのが現状である。私たちが日々、生活を営んでいると必ずゴミが出るのと同じように、休みなく働く私たちの脳の細胞ではゴミが出ている。暮らしのゴミでは自治体などによる回収・リサイクルが行われているように、脳にもゴミの処理システムがある。脳細胞が出すゴミはタンパク質の一種であるが、脳内で分泌される酵素によって分解され、血液中に流されていくのである。脳内におけるタンパク質代謝が、他の臓器にまして重要であることは、さまざまな神経疾患の研究から明らかになりつつある。アルツハイマー病・プリオン病・ポリグルタミン病の発症には、それぞれ、βアミロイドペプチド・プリオンタンパク質・ポリグルタミンペプチドの蓄積が深く関っている。多くの神経細胞が分裂後細胞であるため、その機能と生存を維持するために、タンパク質代謝によるタンパク質品質管理機構に強く依存している。ところが、この脳のゴミがたまってしまうことがあり、ある要因によってゴミを分解する酵素が減ってしまったりその働きが弱くなったりすることがある。すると脳細胞の中はゴミがたまっていき、やがてゴミに埋もれていく。脳細胞の内外がゴミで埋め尽くされれば、その細胞はゴミの毒にやられて死滅してしまう。そして隣の細胞でも、そのまた隣でもといったように、細胞死が連鎖する。すると、細胞死が起きた部位が担っていた脳の機能が失われ認知症になる。酵素が滅ったり働きが弱くなったりする要因は加齢であり、年とともに酵素の働きが衰え、ゴミは少しずつたまっていくようになる。だれの脳でも起こっていて、ゴミはゆっくりたまっていく。たまりはじめてからアルツハイマー病の発症までは、20年以上もかかることがわかっている。そのゴミのたまりはじめが早いか遅いか、あるいはたまり方が早いか遅いか、そうした違いによって、ある人は早くにゴミがたまり、ある人はなかなかゴミがたまらずにいる。早くにゴミがたまる人は若年性アルツハイマー病になるが、多くは高齢になってからアルツハイマー病になる。ずっと遅くまでゴミがたまらないでいた人は、アルツハイマー病にならずに人生をまっとうすることになる。アルツハイマー病になるメカニズムは、まだ完全には解明されていない。では、アルツハイマー病の治療はどうすればよいかは、ゴミがたまらないようにする、ゴミを速やかに取り除くことである。しかし、これが実現できておらず、アルツハイマー病を治す方法は現在のところない。アルツハイマー病は、最先端の研究、医療をもってしても治すことのできない病気なのであろうか、著者はそんなことはないという。本書ではアルツハイマー病とは何か、どのように解明されてきて、しかし治療法が開発されていないのはどうしてかが説明されている。理化学研究所脳科学総合研究センターは、今、アルツハイマー病を治すことができると確信しているそうである。これまでだれも考えつくことのなかった画期的な根本治療法の開発に取り組み、実現しようとしている。実験は最終段階に到達し、これが実用化されれば、アルツハイマー病は注射で、あるいは飲み薬で治すことができ、予防することができるようになるという。本書に書かれているのは、真に科学的知見に基づいたアルツハイマー病の病理の解明、およびその克服への道筋である。
第1章 認知症とは何か/第2章 アルツハイマー病の症状と治療薬/第3章 アルツハイマー病の病変に迫る/第4章 アルツハイマー病の遺伝子/第5章 アルツハイマー病治療法開発への道のり/第6章 アルツハイマー病は治せる、予防できる/第7章 アルツハイマー病克服へ向け、今できること、必要なこと
31.令和3年3月6日
”辰野勇 モンベルの原点、山の美学”(2020年3月 平凡社刊 辰野 勇著)は、かつて世界最年少の21歳でアイガー北壁とマッターホルン北壁に登攀し後に資本金ゼロからの起業した著者がアウトドアブランド・モンベルの原点と登山から学んだ人生哲学を語っている。
アイガーはベルナーアルプスの一峰でスイスを代表する山で標高は3970mである。ユングフラウ、メンヒと並び、いわゆるオーバーラント三山の1つとされる。マッターホルンはアルプス山脈に属する標高4478mの山で、山頂にはスイスとイタリアの国境が通っている。アイガー北壁は高さ1800mの岩壁で、グランド・ジョラスの北壁、マッターホルン北壁とともに、困難な三大ルートの1つとして知られ、アルプスの三大北壁と呼ばれている。アイガー北壁は、1934年から1958年までに25回の登頂が試され、13回67名が登頂に成功したが、15名の死者が出ている。1963年8月、芳野満彦氏、渡部恒明氏らが、日本人として初めてアイガー北壁に挑んだが成功しなかった。1965年8月、高田光政氏が日本人として初まて登攀に成功した。1969年7月、辰野勇氏、中谷三次氏の2人が、日本人としては二番目となる北壁登攀に成功した。1969年8月、加藤滝男氏、今井通子氏、加藤保男氏、根岸知氏、天野博文氏、久保進氏の6人が、赤い壁直登ルートを拓いた。1970年1月、森田勝氏、岡部勝氏、羽鳥祐治氏、小見山誓雄氏の4人が、冬季日本人として初登攀に成功した。1970年3月、遠藤二郎氏、星野隆男氏、小川信之氏、三羽勝氏、嶋村幸男氏、高久幸雄氏、深田良一氏の7人が、冬季直登ルートに日本人として初めて登攀に成功した。1978年3月、長谷川恒男氏が冬季単独登攀に、日本人として初めて成功した。マッターホルン北壁は非常に切り立っており、熟練者であっても困難なルートとされる。1965年8月、芳野満彦氏と渡部恒明氏がマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成した。冬季での登攀は1967年2月、小西政継氏、遠藤二郎氏、星野隆男氏が日本人として初めて成功させた。また、1977年2月、長谷川恒夫氏が冬季単独登攀を日本人として初めて成功させた。辰野勇氏は1947年大阪府堺市生まれ、日本の登山家、冒険家、カヌーイストである。父親は寿司屋を営み、8人兄弟の末っ子であった。1954年に堺市立湊西小学校入学したが、当時は病弱で学校行事の金剛山登山に参加できなかったという。1960年 に堺市立大浜中学校入学し、山歩きやキャンプに夢中になった。1963年に大阪府立和泉高等学校入学し、ハインワツヒーハラーのアイガー北壁登単記に感銘を受け、同北壁の登単を決意し、同時に山に関する起業を志した。ハインリヒ・ハラーは1912年生まれのオーストリアの登山家、写真家で、幼少のダライ・ラマ14世と交流を持つ数少ない人物であった。グラーツ大学にて地理学を専攻し、1938年にフリッツ・カスパレクおよびドイツ人隊のメンバーと共にアイガー北壁の初登頂に成功した。その後、辰野氏は高校を卒業して名古屋の玉沢スポーツに就職し、そこでクライミングーパートナーの中谷三次氏と出会った。1967年に中谷氏と、冬季前穂高岳の屏風岩鵬翔ルート登単・雲稜ルートを初めて下降した。同年に大阪の登山用品店白馬堂に転職し、1968年に中谷氏と冬季前穂高岳の屏風岩緑ルート登単・鵬翔ルートを初めて下降した。同年に剣岳源次郎尾根の中谷ルートを初めて登単した。そして、1969年に中谷氏と、アイガー北壁登単を21歳の世界最年少で達成した。また、マッターホルン北壁登単にも成功し、一シーズンに二大北壁の登撃に成功した。1970年に日本初のロッククライミングスクールを開校し、総合商社株式会社丸正産業に入社し、繊維部産業資材課に配属された。1975年に丸正産業を退職し、大阪市西区立売堀にて株式会社モンペルを設立した。一ヶ月後に、山仲間であった真崎文明氏、増尾幸子氏が加わった。モンベルはアウトドア総合メーカーで、本社は大阪府大阪市西区新町2丁目にある。Light & Fast、Function is Beautyをコンセプトに、テント、バックパック、寝袋、登山靴、レインウェア等各種アウトドア商品を扱っている。モンベルグループとして、モンベル、ベルカディア、北陸モンベル、ネイチャーエンタープライズ、モンベルアメリカ・インク、モンベルスイスSAの7社がある。2017年現在、グループ全体での従業員は970名を数え、アメリカとスイスにも現地法人を設立している。2019年は自然災害の多い大変な年であったが、個人的な出来事として、50年ぶりにマッターホルンに登ったことが大きいという。スイスとイタリアの国境にあるマッターホルンは、実はそんなに難しい山ではなかったそうである。50年前にアイガー北壁に登った後、辰野氏と中谷氏はさらにマッターホルン北壁にも登った。そして、頂上から標高差3000m下のツェルマットまで、一気に駆け下りた。この数年は毎年スイスを訪れていて、アイガーやマッターホルンを見上げるたびに、もうI度登ってみたいという気持ちが募ったそうである。そしてついに、2019年に再挑戦することになったが、ただひとつ、高山病だけが心配であった。今回は高山に体を慣らすために、登頂前日に標高4164mのブライトホルンに行った。しかしそれがかえってよくなくて、一気に高山病になってしまい、マッターホルン登攀前夜は、スープしか口にすることができなくなった。体調面では大変であったが、気持ちは充実していたという。ルートを知りつくした地元の最強の山岳ガイドと一緒で、絶大な信頼を寄せていた。体はしんどかったが、心はまったく折れなくて、下りたいとか、やめたいという気持ちは微塵も起きなかった。パルスオキシメーターで血中酸素濃度を測ると通常ではあり得ない数値だったことから、半分くらい登ったところでガイドから、下りようかとアドバイスされた。しかし相談の末、頂上を目指すことにした。頂上に立てたことは、心底嬉しかったという。山頂の稜線は幅が1mくらいで、その両側は1500mの絶壁で切れ落ちていたが、まったく恐怖心はなかったそうである。登山家の端くれとして、山は下から見上げているだけではつまらない、マッターホルンの頂上にもう1回立ってみたかった。まだまだ自分は進行形で存在していることを、確かめたかったという。座右の銘は「馬なり、道なり」である。これは自分で思いついた言葉で、馬に乗って手綱を引かずに、鞭を入れずに、馬が行くままに身を任せる、道のままに身を任せる、という意味を込めた。馬はいちばん道のことを知っていて、石があれば除けるし、川があれば越えるわけだから、人はその背中に乗って自然体で進んでいけばいい。チーターは獲物を狙って突進していくけれど、捕獲できないとわかったらプイッと横を向いて、あんなものいらないと諦める。挑戦をするけれど、ある一定のところで見極めて、ダメだと思ったらすぐに止める。でも一方で、目標を立ててうまくいかなくとも、そこに可能性があれば、「失敗」ではなく「不都合」と考えて、あきらめずに挑戦し続けるしぶとさも持ち合わせている。二つ道があったら、どうしても難しい方を選んでしまう性分だという。
寿司屋を営む両親の背中を見ながら/山の世界で生きていこう/登山から学んだ人生哲学/起業するということ、モンベルの経営理念/五〇年ぶりのマッターホルン、そして未来へ/付記 五〇年目のマッターホルン
32.3月13日
”新装版 「遊ぶ」が勝ち”(2020年3月 中央公論新社刊 為末 大著)は、世界陸上選手権やオリンピックに出場し引退後はスポーツと教育に関する活動を行う走る哲学者がその原動力となった「遊び」についての考え方を述べている。
スポーツというと険しい表情で練習を積み重ねるイメージが強いかもしれないが、賢い生き方は「遊び」を持つことであるという。競技生活の晩年に、記録が伸びず苦しかったときに出会った名著に、重要なヒントがあったそうである。それは1938年のヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』で、人間の本質を「遊戯」に見出した。この本は1938年にオランダのハールレムで出版され、翌1939年にスイスでドイツ語に翻訳・出版された。ホイジンガは1872年生まれのオランダの歴史家で、フロニンゲン、ライデンの各大学教授を歴任した。歴史を法則化することに反対し、歴史における非合理的要素の役割を高く評価して、文化史・精神史に関する独特の業績を残した。ホモ・ルーデンスとは、遊ぶ人のラテン語=Homo ludensで、ホモ・サピエンス=考える人・知恵ある人が人間のラテン語の学名のように、人間を定義して遊ぶ存在が人間であることを唱えた。遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質である。歴史学、民族学、そして言語学を綜合した独自の研究は、人間活動の本質が遊びであり、文化の根源には遊びがあることを看破した。為末 大氏は1978年広島市佐伯区生まれ、広島市立五日市中学校から広島県立広島皆実高等学校を経て法政大学経済学部を卒業した。1992年に全日本中学校選手権2年100mで7位入賞し、1993年に全日本中学校選手権100m・200mで優勝した。国体少年B200mでは第2位、ジュニアオリンピックでは当時の日本中学記録を更新した。1993年中学ランク1位であった種目は、100m、200m、400m、走幅跳、三種競技A、三種競技Bの計6種目であった。110mH、走高跳でも1993年中学ランク100位以内を達成した。1994年に国民体育大会少年B100m・400mで2冠、1996年にインターハイで400mの当時の日本ジュニア新記録を樹立して優勝した。日本ジュニアでも400m優勝、世界ジュニア選手権代表に選出され、400mと、1600mリレー走に出場した。同年の広島国体で、400mと400mHで当時の日本高校新記録・日本ジュニア新記録をマークして優勝した。400メートルハードルの49秒09は日本高校記録・ジュニア記録・当時の世界ジュニア歴代5位であった。1997年に世界室内選手権で1600mリレー走に出場し、2番手で走り6位入賞に貢献した。高校卒業後は法政大学に進学し、入学直後の日本学生選手権では1600mリレー走の2走を務めて優勝した。1998年に日本学生選手権400mH優勝、1999年にユニバーシアード代表に選出され出場し、準決勝進出を果たした。2000年に日本学生選手権で48秒47の日本学生新記録を樹立し、シドニーオリンピック代表に選出された。入賞が期待されたが、予選で終盤に強風にあおられて転倒し準決勝進出を逸した。2001年に大学5年生になり、東アジア大会代表に選出され400mHで準優勝し、1600mリレー走2走に出場しマイルで優勝した。同年に、世界陸上の400mHに出場し、準決勝で48秒10の日本新記録を樹立し、決勝ではさらにタイムを縮め47秒89で日本新記録をマークした。五輪・世界選手権を通じて、日本人初の短距離種目の銅メダルを獲得した。2001年の世界陸上エドモントン大会・2005年の世界陸上ヘルシンキ大会の男子400mハードルにおいて、銅メダルを獲得した。オリンピックには、2000年にシドニー・2004年にアテネ・2008年に北京と、3大会連続で出場した。大学卒業後、大阪ガスに入社したが退社し、2004年からアジアパートナーシップファンド(APF)に所属し、プロ陸上選手となった。2006年にクイズ$ミリオネアで1000万円を獲得し、それを元手に翌年春、東京丸の内で東京ストリート陸上をプロデュースした。また、陸上競技の魅力をより多くの人に知ってもらいたいとの思いから、全国各地の小学校で様々な種目の選手と共に実演するイベントも企画した。2007年から3年間、APFグループのウェッジホールディングスの取締役も務めた。2008年の北京オリンピック終了後、ボロボロになっても行ける処まで走りたいとして、2012年のロンドンオリンピックを目指して現役を続行することを決めた。2010年に一般社団法人アスリート・ソサエティを設立し、代表理事の一人となった。2011年に広島にクラブチーム、エーミームを設立し、所属先も変更になった。2012年に、ロンドンオリンピック出場の可否に関わらず、今季限りで引退すると宣言した。長居陸上競技場でおこなわれた日本選手権男子400メートル障害予選に2組で出場したが転倒し、完走するも組最下位に終わり、現役引退を表明した。2012年に、地方地域の廃校や公共の宿泊施設を活用し、スポーツ合宿を中心とした宿泊事業を展開する、株式会社R.プロジェクト取締役に就任した。同年に、プロジェクト・為末大学を開始した。2013年に、かつて所属し取締役も務めていたAPFが、金融商品取引法違反の疑いで課徴金の対象となった。このとき、為末氏は、APFはスポンサーという認識だったといい、他の人に投資を勧めた事実は一切ないと回答した。2014年に、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員となった。2015年に、ブータン五輪委員会のスポーツ親善大使に就任した。同年に、国立競技場整備計画経緯検証委員会委員となった。2015年に、株式会社コロプラの社外取締役に就任した。2017年に、V・ファーレン長崎のフィジカルアドバイザーに就任した。現在はスポーツコメンテーター・タレント・指導者などで活動中で、株式会社R.プロジェクト取締役、株式会社侍代表取締役となっている。『ホモールーデンス』に書いてある遊びの世界、それはまさに為末氏が競技を始めた頃感じていた世界であり、現役の間中ずっと自分の内なるモチベーションを支えてくれたものだったという。楽しいから走っている、走りたいから走っているのである。遊びは知能を有する動物が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わない。たとえ他者への悪意に基づく行動であっても、当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる。遊びと聞くと大方の日本人は、真面目の対極だと感じてしまうけれど、実際には遊びは真面目と共存しうる。一所懸命に子どもは遊ぶし、大人も大真面目に休日の趣味の時間を過ごす。遊びは決してふざけることではなく、むしろ我を忘れて何かに熱中することだと思うという。遊びは遊び自体が目的で自主的であり、義務感に弱い。大人の仕事が遊び化しにくいのは、目的があり組織の都合があり期限とノルマがあり、クオリティをある一定以上保たなければならないからである。それは仕方のないことで、これまでの社会であれば、ある程度人が淡々と作業をこなすことで産業は成り立ってきた。ところが最近になり、コンピューターや機械の発展で、人間が行っていた作業的な部分が随分取って代わられるようになった。もはや単純作業は。効率がいいという理由で、人間を使う必要がなく、その傾向は加速しつつある。一体人間はこれから、どんな役割を担うのであろうか。イノペーションやクリエイティビティというのが大事だと言われる時代に入り、この遊び感がそれらに大きく影響しているのではないか。生真面目にこれまでの文脈の延長線上に何かを積み上げていくだけでは、どうしてもイノペーションは起きにくいし、クリェイティビティも生まれにくい。人間にしかできないことがこれから先の社会に求められているとしたら、遊びの中にヒントがあると思う。遊びで磨かれた五感的な直感、遊びを入れる感覚、楽しいという気持ちである。大人が遊び続けるのはとても難しい。社会から役割を与えられ、常に目的を問われ、ノルマに追われる社会の中で遊び続けることはとても難しい。でも、その中でどう遊ぶかというのが人間の知恵であり、また人間にしかできないことなのではないだろうかという。
助走路 遊びって何だろう?/第1ハードル スポーツと遊び/第2ハードル 身体を遊ぶ/第3ハードル コミュニケーションが遊びを拓く/第4ハードル 教養から遊びへ/第5ハードル キャリアと「遊び感」/ゴール 「遊び感」の可能性
33.3月20日用
”スーパーリッチ 世界を支配する新勢力”(2020年10月 筑摩書房刊 太田 康夫著)は、上位1%の超富裕層が富の50%を支配しコロナ禍でさらに格差が広がる中で、スーパーリッチの政治、経済、社会に及ぼす影響と分断社会の今後を予測している。
富裕層=ミリオネアは、主な居住用不動産、収集品、消費財、および耐久消費財を除き、保有資産額100万ドル以上あるいは1億円以上の個人や世帯を指す。このうち、保有資産額3000万ドル以上あるいは5億円以上は超富裕層=ビリオネアと呼ばれる。2018年の世界の超富裕層数ランキングでは、世界に26万5490人いるとされ、最多国はアメリカ合衆国、最多都市はニューヨークである。アメリカでは、the
top 1%と呼ばれる全米上位1%の保有資産を持つものは、羨望の的であり神の如き存在とされる。アメリカの超富裕層の富は、新型コロナウィルス危機が始まった2020年3月からのわずか2カ月半で、19%増えたようである。ニューヨークなどで都市封鎖が続く6月初め、米国のあるシンクタンクの研究者が明らかにした試算では、増加額は5650億ドルで、約600人の保有する富の総額は3兆5120億ドルにまで膨れ上がったという。いま超富裕層が急拡大する傾向にあり、政治、経済、社会に及ぼす影響が強まっており、その動向抜きには社会の行く末は語れない。太田康夫氏は1959年京都生まれ、1982年に東京大学を卒業し、同年、日本経済新聞社入社し、現在、日本経済新聞社編集委員を務めている。バブルの絶頂期、その崩壊、不良債権問題などについて、30年余り金融を追い続けてきたという。フランスのあるコンサルティングファームが発表した2019年の世界の富裕層数ランキングでは、1位アメリカ、2位日本、3位ドイツ、4位中華人民共和国、5位フランス、6位イギリス、7位スイス、8位カナダ、9位イタリア、10位オランダとなっている。スイスのある金融大手の集計による2018年の世界の超富裕層数ランキングでは、1位アメリカ、2位中華人民共和国、3位日本、4位ドイツ、5位カナダ、6位フランス、7位イギリス、8位香港、9位イタリア、10位スイスとなっている。野村総合研究所は、日本で2020年に、預貯金、株式、債券、投資信託、一時払い生命保険や年金保険など、世帯として保有する金融資産の合計額から負債を差し引いた「純金融資産保有額」を基に調査を行った。総世帯を5つの階層に分類し、各々の世帯数と資産保有額を推計し、純金融資産保有額が1億円以上5億円未満の富裕層、および同5億円以上の超富裕層を合わせると132.7万世帯であったという。このうち、富裕層は124.0万世帯、超富裕層は8.7万世帯であった。富裕層と超富裕層をあわせた2019年の世帯数は、2005年以降最も多かった2017年の合計世帯数126.7万世帯から6.0万世帯増加した。富裕層・超富裕層の世帯数はいずれも、安倍政権の経済政策であるアベノミクスが始まった後の2013年以降、一貫して増加を続けているという。2017年から2019年にかけて、富裕層および超富裕層の純金融資産保有額は、それぞれ9.3%(215兆円から236兆円)、15.6%(84兆円から97兆円)増加し、両者の合計額は11.1%(299兆円から333兆円)増えた。また、富裕層・超富裕層の純金融資産保有総額は、世帯数と同様、2013年以降一貫して増加を続けている。過去10年近くにわたって、富裕層・超富裕層の世帯数と純金融資産保有額は増加している。その要因は、一つは株式などの資産価格の上昇による保有資産額の増大、もう一つは金融資産を運用している準富裕層の一部が富裕層に、そして富裕層の一部が超富裕層に移行したためと考えられる。ただし、2020年はコロナ禍の中においても株価は上昇しているものの、多くの経済指標は悪化しており、今後の富裕層・超富裕層の世帯数や純金融資産保有額に影響を与える可能性がある。トランプ元大統領が国家非常事態宣言を出したのが3月13日で、春先まで株価が
最高値を更新するなど繁栄に酔いしれていた米国経済は急暗転した。このため4月の失業率は14.7%と、1930年代の世界恐慌以来最悪の水準に跳ね上がった。ところが、失業者が急増した3月18日から6月4日までのあいだに、アマゾン創業者のシェフ・ベソスは362億ドル、フェイスブック創案者のマークーザッカーバーグは301億ドルなど、ビリオネアは富を大きく伸ばした。富の源泉は主に保有株式であり、コロナ危機の影響で米国株が旧来型の業種を中心に大幅に下落するなかで、電子商取引のアマゾンやSNSのフェイスブックは、アフター・コロナの世界で一段と強みを伸ばしている。株式時価総額が1兆ドルを超えるようなアフター・コロナの勝ち組企業の経営者と、コロナで追い詰められた失業者の格差が一段と開いている。アメリカに暗い影を落とす貧富の格差は、実は歴史的な水準にまで広がっている。貧富の格差は大恐慌と第二次世界大戦の影響でいったん縮小したものの、1982年ごろから急拡大している。格差に関して貧しい人の悲惨さが取り上げられることが多いが、格差を広げたのは主に豊かな人たちの方であろう。上位1%の所得シェアは1982年には10%程度だったが、2017年には22%に達している。コロナで人々が苦しむのを余所目に、ビリオネアが富を増やしたのは特異な現象ではなく、この40年のあいだに豊かな人がより豊かになるドラスティックな富裕層世界の変革が起きたのである。日本が輝いていたように見えた1980年代後半、地価が高騰し富裕層が急増し、金満文化が花開いた。日本の夢のような時代はバブルの崩壊で短命に終わったが、その後、米国はIT時代を切り開き、欧州は経済通貨統合で新市場を作り、中国は資本主義的な手法を取り入れた社会主義で高成長を続けた。アメリカなどで起きたのは市場原理を重視した経済運営と、インターネットやスマートフォンの拡大に支えられた情報化とがもたらした資産価格の上昇であり、その結果、富裕層が激増した。中国やロシアでは経済改革の過程で、都合よく制度を変更させ利権獲得を狙うレントシーキングが横行し、かつての国有組織を民営化した企業を支配した人たちが大金持ちになった。レントシーキングは、民間企業などが政府や官僚組織へ働きかけを行い、法制度や政治政策の変更を行うことである。自らに都合よく規制を設定したり、都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤であるレントを得ることを目的とする。世界的に富裕層が増え金満文化が広がり、ニューヨーク、パリ、モナコ、香港などは、バブル期の東京をしのぐスーパーリッチーシティとなった。主導するのは保有資産が10億ドルを超えるビリオネアであり、新貴族文化と言えそうな新しい富裕層ワールドが現出している。フォーブス誌の2020年のランキングでは、ビリオネアの数は、アメリカ614人、中国389人なのに対し、日本は26人で、インド、香港、台湾、韓国の後塵を拝している。日本にいると金融ビッグバン、小泉構造改革、アベノミクスなどさまざまな改革が打ち出されたが、富裕層ワールドでの地盤沈下は隠しようがない。新型コロナウィルスが襲い掛かった現在の世界は、大恐慌以来、戦後最悪などと形容される危機に直面している。感染症は人々の暮らしを変え、コロナ後、世界の風景は一変するとも言われている。コロナ危機発生後もビリオネアの富が増えたことが象徴するように、富裕層を生み出すIT巨大企業群のGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、アフター・コロナの在宅時代の主役であり続ける。ワクチン開発にかかわる製薬会社も、あらたな富裕層の供給源になる。富裕層は感染から疎開し、より安全に、より豪華に暮らし、人目を避けつつ豊かな生活を送るようになっている。人種差別ともあいまって暴動が発生したのは、格差が容認できないほどに開いた表れである。それを政治が無視できなくなると、富裕層を富ませた仕組みにメスが入る可能性はなくはない。政治の在り方が問われる局面になるが、政治を握っていたり、強い影響力を持っていたりするのは富裕層である。筆者は、そう簡単に新貴族文化はゆるがないだろうという。本書は、急速に変容しながら膨れ上がったスーパーリッチの世界を多角的に分析している。一章では保有資産が10億ドルを超えるビリオネアの増加を、二章では5000万人に迫るミリオネアの動向を、それぞれ取り上げている。三章はそうした富裕層の衣食住などの変化を追っている。四章では格差の拡大が社会問題になりつつある状況に迫っている。
第1章 超富裕層時代の到来(ビリオネアの素顔/ビリオネア時代の意味)/第2章 スーパーリッチ(富裕層)の新潮流(激増するミリオネア/最も影響力があるチャイナ・リッチ/若く勢いのあるウーマン・リッチ/新しい価値観を持つミレニアル・リッチ)/第3章 作られる新貴族文化(富裕層は、どんな日常を送っているのか/衣食住の新展開 ビジネス化する「みせびらかし文化」)/第4章 危うさはらむ新格差社会(表に出始めた新支配者/傲慢さ増す富裕層、固定化する階層/可視化する格差/社会不安のリスクー拡大する抗議活動、上級市民への反発/問われる民主主義)
34.3月27日
”ベートーヴェン 音楽の革命はいかに成し遂げられたか”(2020年11月 文藝春秋社刊 中野 雄著)は、数々の名曲を生み出し音楽界へ革命をもたらし楽聖と称えられ2020年に生誕250年を迎えた大作曲家のベートーヴェンの波乱の生涯と創作の軌跡を俯瞰している。
クラシック音楽の世界には、常人では達成不可能な偉業を成し遂げた巨匠が何人かいる。その一人であるベートーヴェンはウィーン古典派様式の完成者で,ハイドン,モーツァルトと並びウィーン古典派三巨匠と呼ばれる。西洋音楽の代表的巨匠の一人であり、どのジャンルにおいても史上最高の傑作を生み出してきた。手掛けたほぽすべてのジャンル、交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタなどが、すべて傑作揃いである。交響曲は全九曲、ピアノ協奏曲は全五曲、弦楽四重奏曲は全一六曲、ピアノ三重奏曲は全七曲、ピアノ・ソナタは全三二曲、ヴァイオリン・ソナタは全一〇曲、チェロ・ソナタは全五曲ある。後世の演奏家はこれらを「全集」として生涯レパートリーにし、ステージで挑戦し愛奏する。レコード会社はクラシック音楽部門のドル箱として、LP、CD、DVD、LDなど、競って「全集」をリリースする。このような作曲家は、音楽史上ベートーヴェンただ一人である。しかも、どのジャンルにおいても作品には史上最高の傑作が含まれている。中野 雄氏は1931年長野県松本市生まれ、東京大学法学部を卒業し、日本開発銀行、現・日本政策投資銀行に入行した。その後、オーディオ・メーカーのトリオ、現・ケンウッド役員に就任し、代表取締役、ケンウッドU.S.A.会長を務めた。昭和音楽大学・津田塾大学の講師、映像企業アマナなどの役員も歴任した。音楽プロデューサーとして活躍し、LP、CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞、芸術祭優秀賞、文化庁芸術作品賞などを受賞した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年に神聖ローマ帝国ケルン大司教領、現・ドイツ領のボンで、父・ヨハンと、宮廷料理人の娘である母・マリア・マグダレーナの長男として生まれた。七人兄弟であったが四人が早世し、一年前に生まれたマリアは生後六日で死に、実質的に長男の立場で育ったという。なお、出生に関する興味深い逸話もいくつか紹介されている。自分の生まれた年月を1770年12月でなく1772年12月だと、頑固に信じていたらしいのである。なぜ自分の年齢を2歳下とこだわったのか、真相は分からないという。また、フリードリッヒ二世のご落胤であるという説があったそうである。フリードリヒ二世は第3代のプロイセン王、いわゆるフリードリヒ大王のことで、優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努めた君主を指す。音楽家として祖父の偉業を受け継いだのは、ベートーヴェンひとりであった。ベートーヴェン家の祖先はフランドル地方、現在のベルギーの出身であった。音楽家の家系で、祖父のルートヴィヒは5歳のときメヘレンのサン・ロンボー教会付属の聖歌学校に入学し、声楽のほかオルガンなど鍵盤楽器の奏法を修得した。13歳で卒業し、あちこちの教会で礼拝時にオルガンを弾くようになり、19歳でルーヴァンのサンーピエール教会の合唱指揮者に任命された。21歳でケルンの大司教に技量を認められて同地に移り、やがてボンの宮廷楽団の聖歌隊員兼バス独唱者として勤務するようになり、後に、宮廷楽長に任命された。ベートーヴェンが3歳のとき亡くなったため、ベートーヴェンは祖父から家庭内で直接音楽教育を受ける機会には恵まれなかった。一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手、のちに楽長で、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父の援助により生計を立てていた。父のヨハンも宮廷歌手のテノールであったが、元来無類の酒好きで収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮したという。1774年ごろよりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。当時ボンでも名を知られていた、ウォルフガンク・アマデウス・モーツァルトを目標に、自宅で徹底的な英才教育をはじめた。モーツァルトの父のレオポルトは高い識見の持ち主で、わが子に対する教育は徹底して実に適確であった。これに対し、ヨハンがわが子に対してとった行動は罵声と殴打であったという。幼いときからベートーヴェンに、クラヴィーアを習得させるために暴力を振るった。小さな子供なので、楽器の前に台を置いてベートーヴェンを立たせ、ことあるごとに殴り、ときには地下室に閉じ込めたりした。酒場で痛飲した後に自宅に帰り、眠っているわが子を揺り起こしてクラヴィーアに向かわせるなどという乱暴な行為も日常茶飯事であったらしい。しかし、幼児期のベートヴェンは、モーツァルト級の神童ではなかった。記録によれば、1778年にケルンでの演奏会に出演しているものの、その後、公開演奏会の記録は途絶えている。1782年11歳のときより、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。しかし、最愛の母・マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し、その後はアルコール依存症となり失職した父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンに、才能を認められて弟子入りを許され、11月にウィーンに移住し、まもなくピアノの即興演奏の名手として広く名声を博した。20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化し、28歳の頃には最高度難聴者となった。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には遺書をしたためて自殺も考えた。しかし、芸術への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいった。1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれた。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。40歳頃には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。生涯独身であったが、「不滅の恋人への手紙」にみられる熱烈な恋愛も経験している。1810年に「エリーゼのために」を献呈したテレーゼ・マルファッティには、強い結婚願望があったという。しかし、付き合った女性はすべて貴族出身であったため、当時の身分制社会では結婚は許されなかった。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番やミサ・ソレムニスといった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は、辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏すことになった。翌年3月23日には死期を悟って遺書を認めた。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた56年の生涯を閉じた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなり、翌年亡くなったシューベルトも参列した。クラシック音楽の世界には、常人では達成不可能と断言せざるをえない偉業を成し遂げた巨匠が何人かいる。バッハ、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ロッシーニ、ワーグナー、ヴェルディなどである。ではそのベートーヴェンとはいかなる人物であるのか、その作品と人生を語り尽くすことは至難の業であり、不可能と言えるかもしれない。しかし本書が2020年の生誕250周年という節目の年に刊行され、この不世出の人物の人生と作品の一端をご理解いただけるとしたら、これ以上の喜びはないという。貴族の家庭や社交の場であったサロンの娯楽物で、そのほとんどが一度限りの使い捨ての憂き目を見ていた音楽を、不滅の「芸術作品」に仕上げたという行為は、ベートーヴェンが人類に贈った最大の遺産である。
第1章 ベートーヴェンの家族、そしてその幼時/第2章 一八世紀の文化都市ボン/第3章 ウィーン時代の始まり/第4章 ベートーヴェンの初期/第5章 傑作の森ーベートーヴェンの中期/第6章 ベートーヴェン後期の傑作群
35.令和3年4月3日
”「腸寿」で老いを防ぐ 寒暖差を乗りきる新養生法”(2020年1月 平凡社刊 松生 恒夫著)は、は、長寿をまっとうするため不調を訴える人特に腸のトラブルを抱える人に長寿の要である腸を健康に保つためにはどうすればいいかを解説している。
人生100年時代という言葉が当然のように使われるようになってきた。2019年9月の住民基本台帳のデータでは、日本には100歳以上の人か6万9785人いる。日本人の平均寿命は、2018年の厚労省資料では、男性81.25歳、女性87.32歳と、世界でもトップクラスの長寿となっている。長寿は腸寿でもあり、腸のコンディションがよい健康な人の国になっていることが分かる。人間の体には、健康を維持してくれるような機能が自然と備わっているのである。しかし、それは、体のコンディションが整っている時に限られる。毎日のように、腸のトラブルをかかえた患者を診察していると、便秘や下痢など腸のコンディションが悪い人が多数存在し、年々、増加傾向にあることがよくわかるという。松生恒夫氏は1955年東京都生まれ、1980年に東京慈恵会医科大学を卒業し、同大学第三病院内科助手、松島病院大腸肛門病センター診察部長を経て、2004年1月より松生クリニック院長をつと務めている。医学博士、日本内科学会認定医、日本消化器内視鏡学会専門医・指導医、日本消化器病学会認定専門医で、腸寿に関する著書が多数ある。人間の体にはホメオスタシスという、恒常性を保つための大きな機能かある。これは人間の体を常に一定の状態に保つことであり、たとえば、気温が上昇し、体温にも影響か出そうだと体か感じたら、汗を出して体温を調節する。さらに、体に病原菌などか侵入した際には、発熱、嘔吐、下痢などの症状が出現する。これはその病原菌に対して、体か反応している証明なのである。このように人間の体には、体内環境が変化したら、それを元の状態に戻そうとする機能か備わっている。恒常性は体内の水分、体温、血液やリンパ液などの浸透圧やpHなどをはじめ、病原菌の排除や傷の修復、さらに加齢による体調の変化にまで及んでいる。2016年の国民生活基礎調査によると、日本には便秘に悩む人が、人口11000人当たり、女性で45.7人、男性で24.5人もいる。これは、国民のおおよそ500万人以上もの人が、腸のコンディションを損なっているということになる。腸のコンディションがよくなげれば、腸の病気にかかる可能性も必然的に高くなるであろう。腸の病気にならないまでも、腸の不調、便秘、下痢などの症状は、精神面にまで影響をおよぼすことかあり、精神的な不調を生じさせてしまうことすらある。さらに、最近の季節や気候の変動をみてみると、50年前とは明らかに異なっている。そして、この季節や気候の変動に、腸や体がついていけない人か多数存在する。このような状況がくるとは、誰もか予測しなかったことであり、病気の内容も変化してきているという。そこで、日々を健康に過ごすための方法を考えなくてはならない。長寿をまっとうするために、四季のなかでどのように健康的に過ごすかについては、養生法という東洋医学の考え方がある。養生は生を養うことであり、人間の身体の状態を整えること、健康を増進すること、病気の自然治癒をうながすことなどを指す。養生法は、健康を維持したり健康を管理したりして長寿を全うするための方法の総称である。四季を通して健康を維持・管理し、いかに長寿をまっとうするかを説く。戦国時代から後漢時代の中国では、戦争が相次ぎ、世が乱れ、世俗的になっていた。そうした世俗的な世から逃れるために、隠遁を重視したり無為自然を重視する老子や荘子などの思想が盛んになった。その動きの中で、過度な飲食を慎み、規則正しい生活を重視した養生という考え方が生まれた。その後、養生は、疾病予防、強壮、老化防止などの手段として医学に取り入れられていった。老子は養生として静をもって生を養うことを重んじ、静的な養生法として気功を提唱した。孔子は静の養生と動の養生が有機的に結合したものを重んじ、動静結合を提唱した。華佗は動をもって生を養うことを重んじ、運動主体の養生法を生み出し、中国の太極拳や日本の柔道・空手などに影響を与えた。日本では、貝原益軒により『養生訓』が書かれた江戸期からさかんに言われてきた。『養生訓』は1712年に福岡藩の儒学者、貝原益軒が83歳の時に書かれ、実体験に基づき健康法を解説した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いているところに特徴がある。季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調の管理をすることにより、初めて健康な身体での長寿が得られるものとする。すべてが自身の実体験で、益軒の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都など物見遊山の旅に出かけるなど、仲睦まじく長生きしたという。しかし、気候も生活も劇的に変わるいま、その考えだけでは十分とはいえない。不調を訴える人、特に腸のトラブルを抱える人が急増するなか、長寿の要である腸を健康に保つためにはどうすればいいかが重要になっている。そこで、本書では、これまでの養生法と比較して、最近の季節・気候にあわせた食生活や日常生活について、いまのところ判明している範囲内で良い方法を提案したいという。この100年の間に、日本の平均気温は1度以上も上昇している。さらに2019年は、10月に入っても都心の最高気温か夏日を記録してさえいる。そして10月12日から13日にかけて日本を襲った超大型の台風19号は、いままでの経験では考えられないほどの大雨を降らせた。このような気候の変化か激しい状況下で、季節を通して、快適に健康的に過ごすにはどうしたらよいか、というテーマで書いたのが本書である。腸のコンディションを整えるということは、体の恒常性を保ち健康で長生きするために非常に重要である。腸が健康であることは、元気で長生きにつながり、長寿イコール腸寿と呼んでよいといえるであろう。小腸は複雑に絡み合っていて、大腸は上下左右に小腸を囲んでいる。重力に逆らって食べ物を送らなければならないため、筋肉や腸管が収縮する蠕動運動や分節運動が必要になってくる。腸の動きが悪くなってくると、消化吸収や排泄といった腸の働きが低下し、本来、排泄されなければならない不要な老廃物や毒素が長期にわたって体内に溜まることになる。下腹部の張りや腹痛の原因になっているだけでなく、便秘をはじめニキビや肌荒れなどの肌トラブルも引き起こす。1日に2回しか食べない欠食やダイエットに共通しているのは、食物繊維の不足である。食事の量が減ることで、食物繊維の摂取量も減ってしまう。食物繊維には、水に溶けやすい水溶性食物繊維と溶けにくい不溶性食物繊維がある。前者は小腸における吸収を穏やかにして血糖値の上昇を抑えたり、コレステロールを吸着して対外へ排出したりする。後者は排便をスムーズにしたり、同時に有害物質を排出して大腸がんのリスクを下げてくれたりする。腸は自律神経によって支配され、体が冷えると自律神経の中の交感神経が優位になり、腸の動きや働きが停滞する。また、交感神経が優位になると、血流が悪化して腸の血流量も減り、腸管運動が低下してしまう。腸管免疫力という言葉があるように、腸には体全体の約7割の免疫細胞が集まっている。腸の不調によって免疫力も低下し、例えば風邪をひきやすくなり、万病の元にもなっている。そこで、腸を温める腸温活が必要であり、体の内外から腸を温めるには、入浴、運動、食事など、さまざまな方法がある。入浴でもっとも効果的に腸を温められるのは半身浴であり、運動をするならウォーキングがお勧めである。食事でいえば腸に有効な食べ物をとることで、代表的なものはオリーブオイルなどである。本書を通じて、最近の季節や気候の変動に対して、新たな養生法を知って、日本の四季を通した食材を見直すことで、上手に良好な腸ライフを手に入れていただければ幸いである。
はじめに/序 章 まずは腸を知ることから/第1章 気候の変化に〝腸〟も悲鳴を上げている/第2章 唱えられてきた養生法とは/第3章 季節のここを注意しよう/第4章 春バテ・秋バテに起きやすい胃症状/第5章 高温多湿による食の変化に対応する/第6章 キーワードは「腸冷え」を防ぐこと/終 章 新たな養生法を知って〝腸寿〟を目指そう/あとがき
36.4月10日
”福地桜痴 無駄トスル所ノ者ハ実ハ開明ノ麗華ナリ”(2020年10月 ミネルヴァ書房刊 山田 俊治著)は、東京日日新聞を主宰し政界へ進出するも自らの党の結成が認められず議員を辞職しその後は座付作家として糊口をしのぎのち多くの書籍を残した福地桜痴の浮き沈みの多い人生を描いている。
天下の双福と言われた福地桜痴と福澤諭吉は、幕末から維新を生きた同時代の人で、諭吉が5歳年上であった。福澤の死の際に両者の人物が比較され、福地は才能においては福澤よりも優るが、意思の強固さでは福澤が数段上であると評された。福澤は後世に名を残し、福地は後世に忘れられる人になったのであろうか。福地は戊辰戦争が起こると、1968年4月に江戸で「江湖新聞」を発刊した。柳河春三の「中外新聞」と並び庶民の人気を集めたが、官軍が江戸に入ると佐幕派とにらまれ、5月に糾問所に連行、投獄され新聞は廃刊になった。1870年に大蔵省御雇となり、伊藤博文に従い渡米し、翌年また岩倉使節団に随行して欧米を回った。1874年に官を辞して、「東京日日新聞」、現毎日新聞に主筆として入社した。東京日日は社説欄を設け、福地の論説は新聞界のみならず世間の注目を浴びることになり、部数は急増した。1876年に社長に就任し、1877年に西南戦争が起こると自ら戦地へ出張し、その記事は人気を集めた。署名入りの社説は、言論界、実業界、政界に影響力をもち,1879年に東京府会議長に推され、1882年に立憲帝政党を組織した。また、前後4回に及ぶ外遊の見聞から演劇改良運動に心を寄せ、1888年に日日新聞を去ってからその運動に専念し、以後、小説、戯曲を執筆し、歌舞伎座の創立にも力を尽くした。山田俊治氏は1950年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期満期退学した。横浜市立大学国際文化学部助教授、2000年に教授となり、のち、同都市社会文化研究科教授を務め、2016年に定年退任して名誉教授となった。福地源一郎は、幼名八十吉。号星泓のち櫻癡、新字体では桜痴、別号吾曹と称した。福地桜痴は本名を福地源一郎と言い、1841年に長崎で儒医・福地苟庵の息子として生まれた。幼時から長川東州について漢学を学び、15歳の時に長崎で通詞・名村八右衛門のもとで蘭学を学び、のち、江戸に出て英学を学び。幕府に通弁、翻訳家として出仕した。1857年に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。1860年に御家人に取り立てられ、1861年には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加した。1865年には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、西洋の演劇や文学にも興味を持った。1866年3月に帰国後、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として、蔵米150俵3人扶持を与えられ、旗本の身分に取り立てられた。しかし、開国論の主張が攘夷派に敵視され、不平に堪えず遊蕩に耽った。1867年10月の大政奉還の際に、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出した。その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としないなどの理由から容れられることはなかった。江戸開城後の1868年5月に、江戸で「江湖新聞」を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ。」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。これは明治時代初の言論弾圧事件で、太政官布告による新聞取締りの契機となった。その後、徳川宗家の静岡移住に従い静岡に移った。同年末に東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立てた。仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流し、その後下谷二長町で私塾日新舎、後の共慣義塾を開いて英語と仏語を教えた。1870年に渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国した。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、1873年に一行と別れてトルコを視察して帰国した。1874年に大蔵省を辞し、政府系の「東京日日新聞」発行所である日報社に主筆として入社した。署名入りの社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。1875年に地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務め、1877年に西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向いた。山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣し、現地からの戦争報道を行い、ジャーナリストとして大いに名を上げた。東京への帰途に、木戸孝允の依頼で京都で、明治天皇御前で戦況を奏上した。1878年に渋沢栄一らとともに、東京商法会議所を設立した。下谷区から東京府会議員に当選して議長となり、東京株式取引所肝煎にも推挙された。1881年に私擬憲法を起草し、軍人勅諭の制定にも関与した。この頃、下谷の茅町の自宅で豪奢な生活を送り、自宅は俗に池端御殿などと呼ばれ、多くの招待客が訪れていた。1882年に丸山作楽、水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行、制限選挙等を政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けた。しかし、政府は超然主義を採ったため、存在意義を失い翌年に解党した。桜痴居士福地源一郎の評判は決してよいものではなく、佐々木秀二郎「福地源一郎君伝」によると、文壇では大元帥と称され、花街では大通人と称せられた。また、高瀬松吉「才子伝福地源一郎」によると、文章をー読するとみな堂々たる学士記者と思うが、面談すると尋常の幇間者流と思うのみと言われた。鳥谷部春汀は失敗した御用新聞記者と見なし、唯だ才を侍んで羈束する所なく、放縦にして謹慎の思慮を欠くと断じた。そのためか、福地の文業を評価する場合でも、人生の失敗者というイメージは拭えなかったのである。外国奉行配下の通詞として幕末に二度洋行するも、幕府が瓦解してしまった。維新期に「江湖新聞」を発行するも、筆禍に遭ってしまった。維新後は伊藤博文の貨幣制度調査に随行して渡米し、岩倉使節団にも参加したが、1874年には大蔵省を辞すことになった。東京日日新聞を主宰して「太政官御用」の政論紙に改革し、西南戦争に従軍した戦況報道で新聞記者の声価を高め、1881年の政変後に漸進主義の立憲帝政党を組織した。しかし政府から認められず、官報を引き受けられずに日報社に打撃を与え、東京府議会議員として汚名を着て退社した。演劇改良事業として1889年に歌舞伎座を創業したが、自らの負債で座付作者となり、演劇脚本や小説、歴史評論、新聞論説などで売文生活を余儀なくさせられた。また、晩年には衆議院議員になったが、その在任中に亡くなった。こうしてみると、生涯は必ずしも成功者の人生ではなかったかもしれない。それでも、福地の生涯を一貫させているのは書くことであった。ただ、その文章は失敗者の逸話に満たされて読まれてきた。福地の死に際して、夏目漱石が残した野村伝四郎宛書簡に、「桜痴といふ人の逸話を読んだがあれは駄目な人間だ。然し当人は余程えらいと思つてる。生前は可成有名でも死ねばすぐ葬られる人だ」と書かれていた。福地の文章の多くは同時代の問題を扱う新聞論説や、虚構の小説でも同時代と切離し難く、時代状況に縛られていた。それゆえ時代を超えて評価されることはなかったが、逆にそれゆえに時代を映す鏡にもなるのである。徳川幕府の崩壊と富国強兵という時代を生きて書き残した文章を通して、福地の生きた時代を生き直してみることはできないか。それとともに、その文章を福地に付与された先入観から可能な限り遠ざかって、現代に問い直してみたいという。
第一章 書く世界から自立の道へ/第二章 外国方幕臣として/第三章 幕臣の明治維新/第四章 翻訳から大蔵省御用掛へ/第五章 時事的言論人として/第六章 政治の世界へ/第七章 政党設立の挫折/第八章 日報社を手放す/第九章 文筆業への道/第十章 生活のために書く/第十一章 時代の中で/第十二章 思想転向を迫られる時代/第十三章 再び同時代に向けて/第十四章 理想を語る/第十五章 書くことの達成/参考文献/略年譜
37.4月17日
”長州ファイブ サムライたちの倫敦”(2020年10月 集英社刊 桜井 俊彰著)は、長州藩より渡英を命じられ先進的な知識を身に付けて帰藩した長州五傑=長州ファイブと呼ばれたロンドン大学開校早期に留学した5人のサムライたちの生涯を紹介している。
長州ファイブと呼ばれる五傑とは、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の5人の若い長州藩士のことである。 伊藤は初代の内閣総理大臣、井上馨も初代の外務大臣、山尾は工部卿となり「工業の父」と呼ばれ、遠藤は造幣局長を務めた「造幣の父」、野村は「鉄道の父」といわれている。2006年に地方創世映画として、『長州ファイブ』のタイトルで映画化され、萩市・下関市の地元企業や市民の全面協力体制で創られた。幕末期にサムライの身分を捨て、命がけでロンドンに渡った長州藩の志士たちのチャレンジを描いている。桜井俊彰氏は1952年東京都生まれ、1975年に國學院大學文学部史学科を卒業し、1997年にロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン史学科大学院中世学専攻修士課程を修了した。歴史家、エッセイストで、主な著書に、”物語ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説””消えたイングランド王国””イングランド王国と闘った男””英国中世ブンガク入門”などがある。長州五傑は江戸時代末期に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。1863年6月4日、井上、山尾、野村の3名が、藩主より洋行の内命を受けた。6月14日に洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、6月21日に江戸に到着した。6月22日に、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ねて洋行の志を述べ、周旋を依頼した。ガウワーからは船賃が約400両が必要で、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされた。江戸到着後さらに伊藤と遠藤が増え、5人分の費用の5000両が必要になった。洋行にあたって藩主の手許金から1人200両、井上・伊藤・山尾の3人で600両を支給されたが足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談したところ、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があり、藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸すということになった。当時の藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させて、5000両を確保することができた。6月27日に、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船、チェルスウィック号で横浜を出港して、上海に向かった。このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れて、志道家を離別している。7月3日頃、上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会した。当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していて、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦やその他の蒸気船を目の当たりにした。ここで、攘夷という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から、開国へと考えを変えていったという。上海からは井上と伊藤は525トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、915トンのティークリッパー ホワイトアッダー号で出港し、11月4日にロンドンに到着した。伊藤、遠藤、井上はアレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄留したという。長州五傑の留学生は、ウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの法文学部へ聴講生の資格で入学した。1864年4月に、日本から連合国が長州藩に対し重大な決意をするに至ったとの報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意した。4月中旬に井上と伊藤はロンドンを発ち、7月13日頃横浜に到着した。伊藤と共にガウワーに会い急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げた。両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコックと会見した。自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。やがてイギリス公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は、到着から12日後と決まった。7月21日にイギリス艦に乗り豊後姫島まで送られ、7月27日に山口に着き藩の事情を聞いた。幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する、という藩の方針が決定しているとのことであった。7月28日に井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴えた。7月29日に藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言したが、藩の趨勢から方針転換は困難ということであった。7月30日に井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれたが、7月31日に藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に伝えられた。その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるかを、藩主に伝えるよう要請した。8月3日に井上は、藩主よりイギリス軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられた。8月6日に井上は伊藤と共に姫島のイギリス艦に行き、攻撃猶予を談判したがうまくいかなかった。9月4日に井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、9月5日に前田孫右衛門とで小船に乗り艦隊に向かった。途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃し、9月7日に艦隊の兵士2千名が上陸した。9月8日に井上は講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い、伊藤と共に講和使節としてイギリス艦に行ったもののうまくいかなかった。9月9日に井上は外国兵による大砲の分補に立ち会い、9月10日に井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行ったが談判はならなかった。9月14日に井上は講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、やっと講和条約を締結した。残った3名の遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生である薩摩藩遣英使節団たちの存在を知り、交遊している。遠藤は1866年に、野村と山尾は1869年に帰国した。五人はロンドンの進歩的な大学であるユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、通称UCLに入学し、好意的な雰囲気に助けられて学究の徒となり、近代文明を貪欲に吸収していった。イギリスを去る時期はそれぞれだったが、勉学を積み、どの日本人よりも早く近代への意識革命を成し遂げ、帰国後、全員が各自の分野で新生日本のリーダーとなっていった。井上馨は外務卿として鹿鳴館時代を築き、さらには外務大臣として不平等条約の改正に終始向き合っていった。伊藤は日本初の内閣総理大臣となり、生涯で都合4回、伊藤内閣を組み、文字通り明治日本のトップとなった。山尾は工部省のトップとして日本の工業、造船界を牽引し、また盲唖学校の開設に尽力し、障害者教育にも生涯をささげた。遠藤は造幣局長としてお雇い外国人から貨幣鋳造を学び、人材を育てながら見事日本人だけの手でそれを成し遂げた。井上勝は東京横浜間の鉄道開設を皮切りに、鉄道庁長官として日本全国に鉄道網を広げることに邁進した。二人が新生日本を率いる政治家となり、三人が近代日本を建設した技術官僚となったのである。イギリスヘの長く荒い航海、ロンドンでの勉学の日々、そして帰国後にそれぞれが拓いていった道から誰一人として脱落することがなかったのは驚くべきことである。長州藩が五人をイギリスに送ったのは、攘夷という考え方のオプションの一つである大攘夷を実行するためだった。大攘夷とは攘夷を実行するための戦略的な考え方で、先に藩の人間を外国に派遣し、西洋の文化と技術を吸収させ、帰国後、その知識をもって国を強化してから完全な攘夷を実行するという考えである。しかるにその結果、日本に帰ってきた五人が全員、当初の目的、長州藩が期待した大攘夷の実行どころか、遥かにスケールの大きい近代日本建設のための大仕事を成し遂げてしまった。五人はイギリス留学に選ばれただけあってもともと優秀な人材揃いだったことにあるが、注目すべきはその優秀さの中身である。五人は素直さと柔軟性という、何でも学ばなければならない日本の夜明けを担う留学生として、最高の資質を備えていたのである。もう一つは、じつはこれが最大の要因かもしれない。UCLは1826年に創立された、イギリスで三番目に古い大学である。UCLができるまでは、イギリスにはオックスフォードとケンブリッジしかなく、しかも両校に進学できるのはアングリカンすなわち英国国教徒のみだった。非アングリカンにも、海外の人間にも広く門戸を開いたのがアンチ・オックスブリッジを旗印に掲げた、自由、反骨、無宗教の大学、UCLだった。そんなUCLにとって開校以来最も早期に海外から迎え入れた学生が、日本からの長州ファイブだった。2013年7月3日に、「長州ファイブ来英150周年」を記念した式典が、同大学で盛大に聞かれている。近代日本と学問の自由・門戸開放を掲げたイギリスの反骨の大学UCLは、限りなく深い絆で結ばれている。そして、それは今もずっと続いているのである。この物語で彼ら長州ファイブの歩んだ道を、とりあえず筆者の好きな井上勝をメインに、でもほかの四人もしっかり追い、併せてUCLのことも追々紹介していきたいという。
プロローグ 英国大使が爆笑した試写会での、ある発言/第一章 洋学を求め、南へ北へ/第二章 メンバー、確定!/第三章 さらば、攘夷/第四章 「ナビゲーション!」で、とんだ苦労/第五章 UCLとはロンドン大学/第六章 スタートした留学の日々/第七章 散々な長州藩/休題 アーネスト・サトウ/第八章 ロンドンの、一足早い薩長同盟/第九章 鉄道の父/エピローグ 幕末・明治を駆けた五人/あとがき/長州ファイブ年譜
38.4月24日
”明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語”(2020年7月 中央公論新社刊 田中 ひかる著)は、唯一の私立医学校でありながら女子の入学を許可していなかった済生学舎に女性である自身の入学を認めさせることで女性の医学への門戸を開かせた、荻野吟子、生沢クノに次ぐ日本で第3の公許女医、高橋瑞の生涯を紹介している。
高橋 瑞は医師となった後に高橋瑞子と名乗ったが、戸籍名は高橋 瑞または高橋みづで、別名、高橋ミツ、高橋みつとなっている。1852年に三河国幡豆郡西尾、後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町で、中級武士の西尾藩藩士の家に、9人兄弟の末子として誕生した。父は高名な漢学者と言われ、和漢の学に造詣が深かったことで、瑞は強い向学心を抱いて育った。幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなく、1862年に瑞が9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去した。高橋家の家督は長兄夫妻が継ぎ、瑞子は学問を望んだが、兄から、女に学問は不要と言われ希望を絶たれた。裁縫の教えを兄嫁に乞うたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけた。この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていたという。田中ひかる氏は1970年東京都生まれ、都立青山高等学校、学習院大学法学部を卒業した。予備校・高校非常勤講師などを経て、1999年に専修大学大学院文学研究科修士課程にて歴史学を、2001年に横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程にて社会学を専攻した。学術博士で、女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行っている。瑞子は1877年に東京の伯母から養女に迎えたいと乞われて上京したが、伯母の家ではすでに養子が迎えられており、結婚を前提とした話であった。伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出た。そして生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められたという。相手は小学校の教員であり、生活の上でも不安がないと思われたが、これも失敗して離婚した。この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられている。当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではなかった。瑞子は手に職を付けることを考え、産婆への道を志した。当時、産婆は例外的に女性のみが勤めることのできる稀有な職業であり、その上、収入も安定し、政府や地域社会に認められた職業でもあった。産婆会の会長の津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年に瑞子は前橋に移り、知人の紹介により磯の助手として住み込みで勤めた。瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至った。1876年に東京府で産婆教授所が設置され、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期であった。瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾、後の東京産婆学校で学んだ。学費は磯が援助し、瑞子は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加え、紅杏塾でその実践を裏付ける理論を学んだ。そして1882年に紅杏塾を卒業して内務省産婆免許を取得した瑞子は、内務省の免許を持つ日本でも数少ない先駆的な産婆であった。磯は瑞子を自分の後継者にと考えていたが、瑞子は東京での産婆開業資格を取得後、前橋に戻らずに東京に留まり医師を志した。医師と産婆の違いを明確に理解し、産婆では救いきれない命があると考え、高い向学心により産婆の仕事に満足できなかった。磯の夫は産婦人科医で、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことも背景にあったそうである。しかし当時、女性は医学校の入学も医師開業試験も受験資格がなかったため、瑞子は内務省衛生局長に直訴して現状を訴えた。瑞子は勉強のために大阪の病院での実地で、内科、外科、産婦人科を学んだ。翌年に前橋に戻って、新産婆の看板を出して開業し、当時の正式な免許を得た産婆の1人であったことで名声を博し、産婆として大いに活躍した。1883年に内務省で女子の開業医試験の受験が許可され、1884年に荻野吟子が医術開業試験に合格した。瑞子はこの報せを新聞記事で読み、女子に医師への道が開かれたと知ったが、開業試験の受験には医学校での勉強が条件に課せられていた。女子も入学できた医学校として成医会講習所、後の東京慈恵会医科大学があったが、このときは学費が不足していて断念した。続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩いた。済生学舎は純然たる開業試験の予備校で、月謝も月ごとの分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校であった。済生学舎は、後年には女子の入学を許可したが、当時はまだ不許可であったため、瑞子は校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くした。3日目に校長の長谷川泰に会うことができたが、色よい返事はなかったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可された。1884年に済生学舎で初の女生徒となったが、瑞子を苦しめたのは資金面で、頼れる親戚は皆無であり、産婆で稼いだ資金に津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足であった。勉強の傍ら内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出した。1885年に医術開業前期試験に合格し、続く後期試験にあたっては臨床試験があったため、順天堂医院に実地研修の申し入れたが女子は不許可であった。しかし当時の自宅の隣人が順天堂医院の院長の甥であったため、甥の進言を得て受け入れが許可され、同医院で女性初の医学実地研修生となった。1887年に後期試験に合格し、1888年に36歳にして日本で第3の公許女医として登録され、知人たちの援助を得て、日本橋の元大工町に高橋瑞子医院を開業した。瑞子は男のような気性であったため、江戸っ子気質の現地の人々から支持され、開業早々から盛況であった。困窮者からはあえて診察料を受け取らず、金持ちからも必要以上の診察料を取りたてることもなく、患者たちから慕われたという。そのため、魚屋からは新鮮な魚が、八百屋からは野菜や果物が届けられ、生活にも困ることはなかったそうである。1890年にドイツのベルリン大学で本場の医学、特に産婦人科学を学ぶことを望み、留学資金の調達は開業時の借金の貸主の援助を得、ドイツ語については津久井磯の義孫に家庭教師をお願いして勉強した。周囲の反対を振り切って日本を発って、下調べも紹介状もない独断でドイツに渡航した。ドイツでもどの大学も女子の入学を許可していなかったが、親日家で聡明な下宿先の女主人の尽力の末に、瑞子はベルリン大学に受け入れられた。入学こそできなかったが、聴講生としての受講、臨床実験の見学も許可され、産婦人医学を修めることができた。ベルリン大学のコッホ研究所に勤めていた北里柴三郎らは、その勇気と執念深さに驚くと共に感心した。岡見 京のようにアメリカにわたって女医となった例はあるが、医師の資格を得てからドイツへ留学した日本女性は瑞子が初であった。しかし、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血し、滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、1891年に重症のまま帰国した。一時は命すら危ぶまれたが、帰国後は病状が奇跡的に回復し日本橋で再開業した。ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり、同業者の間でも羨望の的となったという。瑞子は明治政府が定めた医事制度のもとに誕生した、荻野吟子、生渾久野に続く三人目の女医である。帝国憲法発布、帝国議会開設と近代化を急ぐ日本政府は、人材確保のため欧米各国に官費留学生を送っていたが、それは優秀な男子に限られていた。津田梅子、山川捨松などアメリカヘの女子留学生は前例があったが、ドイッヘの女子留学生、それも私費で渡ろうというのは瑞が最初である。しかし、この留学はあまりにも無計画なものだった。ドイツの大学は女子留学生どころか、自国の女子学生の入学さえ認めていない。もう一つ、瑞子はドイツ汽船に乗ればドイツにたどり着くと思い込んでいるが、この船はシンガポールまでしか行かないのだった。ようやく洋食や洋式便座に慣れた頃、船はシンガポールに到着し、なんとかドイツ行きの船に乗り換えを果たした。その頃、在ドイツ公使館の職員たちは、本国から初の女子留学生かやってくるという報に想像をたくましくし、沸き立っていた。この中には、のちの首相西園寺公望もいたが、期待は呆気なく裏切られる。日本から女医が来たというので、公使館員達が大騒ぎして迎えに出てみると、妙齢の貴婦人と思いきや、板額の生れ更りのような中婆さんなので二度吃驚した、記録が残されている。同じく1890年に、瑞子より1つ年上で、公許女医第一号として名を馳せていた荻野吟子は、突如13歳年下のキリスト教伝道師と結婚して世間を驚かせた。吟子は女医第一号としての名声や、婦人団体幹部の肩書きを惜しげもなく捨て、クリスチャンによる理想郷を作るという夫の夢を叶えるため、北海道へ渡ることを決意した。最初期の公許女医二人は、偶然にも同時期に自らの医院を閉め、片や夫とともに新天地へ、片やドイツ留学へと新たな道を歩み出したのであった。本書には、高橋瑞のほか、公許女医第一号の荻野吟子、第二号の生渾久野、第四号の本多鐙子、東京女子医大創設者の吉岡蒲生など複数の女医を登場させている。史料に見られる言動から浮かび上かってくるそれぞれのキャラクターが個性的である。今日、女医という言葉は差別用語と見なされるが、初期の公許女医たちは女医として差別され女医として生きた。女医が登場してから135年経ち、医療現場で活躍している女性医師は7万人を超えている。
第1章 父の遺言を胸に/第2章 女医誕生までの道/第3章 済生学舎での日々/第4章 新天地へ/第5章 お産で失われる命を救う/主要参考文献
39.令和3年5月1日
”勝つために9割捨てる仕事術”(2019年10月 青春出版社刊 村上 和彦著)は、競争に勝ちミッションを達成するためには戦略を一点に絞り込みそれ以外は9割捨てる覚悟で集中して攻め続け捨てることで得られるものの大きさに気づけという。
捨てるというのは意外と難しいことで、どこまでも利益を追求するのがビジネスであり、すべてが欲しいというのが人情である。捨てることがチャンスを放棄することを意味するのであれば、ためらわれるのは無理もないが、捨てることは二度と手に入らなくなるということではない。著者は元日本テレビプロヂューサーで、あの最強ガリバー番組「笑っていいとも!」に後発の「ヒルナンデス!」がなぜ勝てたのかを語っている。村上和彦氏は1965年神奈川県小田原市生まれ、神奈川県立小田原高等学校、筑波大学第2学群比較文化学類卒業後、1988年に日本テレビ放送網(株)に入社した。スポーツ局に所属し、ジャイアンツ担当、野球中継、箱根駅伝など担当し、その後制作局に移った。ジャーナリスティックな番組から深夜帯のバラエティ番組まで、幅広いジャンルで実績を上げた。2004年まで高橋正弘チーフプロデューサー、2008年6月末までに政橋雅人、福地聡チーフプロデューサー、2009年6月末までに染井将吾チーフプロデューサー、2010年末までは鈴江秀樹チーフプロデューサーの番組に携わっていた。2011年1月からは、バラエティーセンターに移籍し、安岡喜郎チーフプロデューサーの担当する番組に携わった。「ザ・サンデー」の総合演出として、北朝鮮の飢餓・脱北問題を題材としていち早く取り上げた。また芸能コーナーやスポーツコーナーではバラエティ色を強く出して、全盛期には平均視聴率15%以上を獲得した。 その後「スッキリ!」では加藤浩次・テリー伊藤のバラエティ色を前面に出して、視聴率を大幅に引き上げた。日本テレビの中では、情報番組の正統的な演出ができる人材であると同時に、エッジの立った企画・演出を次々に生み出す特異なクリエイターとして知られている。退職するまで制作局専門部長を務め、2014年7月31日にて日本テレビを退職しフリーランスに転向した。2015年4月からはテレビ東京系の朝番組「チャージ730!」の監修として、初めて他局番組のプロデュースを行った。そして、2019年に京都造形芸術大学にて客員教授と広報戦略室長に着任した。「森田一義アワー 笑っていいとも!」は、フジテレビ系列で1982年10月4日から2014年3月31日まで、毎週平日の12:00から13:00に生放送されていた帯バラエティ番組である。通称は「笑っていいとも!」、略称は「いいとも!」といい、スタジオアルタから一般観客を入れて毎日生放送を行っていた。タモリが司会を務める番組の中では、テレビ朝日系列「タモリ倶楽部」に次ぐ長寿番組であった。1982年10月4日から、スタジオアルタからの生放送を行っていた帯バラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」の後継番組として放送開始された。1982年10月24日日曜日には、「もう一度笑ってる場合ですよ!」の後継番組として、派生番組の「笑っていいとも!増刊号」が放送開始された。フジテレビ系列局がない地域においては他系列局で遅れネットも実施され、他に派生番組として年末年始の生放送特別番組や、夏の生放送大型特別番組、番組改編時期(春3月・秋10月)の特別番組なども放送された。当時の人気お笑いタレントが勢揃いしていた「笑ってる場合ですよ!」の後を受けて、当時深夜色の強いタレントだったタモリを総合司会に起用した。「楽しくなければお昼じゃない!」(当時のフジテレビのキャッチフレーズ「楽しくなければテレビじゃない!」のもじり)がコンセプトであった。番組放送開始から半年も経たないうちに視聴率が上昇し、同時間帯の年間平均視聴率では、1989年の統計開始から2013年までの25年間連続で民放横並び首位を獲得した。しかし、末期には日本テレビの「ヒルナンデス!」やTBSの「ひるおび!」に視聴率で越されることが多くなった。「ヒルナンデス!」は、2011年3月28日から日本テレビ系列で、月曜日から金曜日の11:55 - 13:55に生放送されている情報・バラエティ番組である。2011年3月25日を以て終了した「DON!」の後継番組で、これまでの情報番組路線から一転し、同枠としては1968年10月の番組改編以来、43年ぶりにバラエティ枠となった。番組の開始が発表された時には「南原清隆のお昼ナンです。」という仮タイトルがあった。30代以下の若年の主婦の視聴者をターゲットとして、グルメ・ファッション・エンタメ・ニュースなどの情報を紹介する企画や、人気スポットを巡るロケ企画、ミュージシャンの生演奏などのコーナーがある。番組開始から2012年3月30日までは事前番組として、11:25から11:30に「まもなく!ヒルナンデス!」も放送されていた。スタジオは観覧方式で、観覧者は18歳以上の視聴者からハガキと公式サイトで募集している。かつて「ヒルナンデス!」は、50歳以上の女性層と50歳以上の男性層を積極的に捨てたという。そのせいで世帯視聴率も「捨てる」ことになった。しかし、世帯視聴率はあとになってから奪取することができた。惜しみながら捨てたものの中には、優先順位があとになっただけで、本当の意味では捨てていないものもあるということである。もちろん「決別」という意味で捨てるものもある。もし、大事なミッションと併存できないものがあれば、それは捨てるしかない。しかし、ミッションを深く理解することで、捨てることに抵抗は感じなくなるはずである。いつもハッピーで仕事を面白がってやっている結果、自然とライバルに勝っている、そんな状況を作るにはどうすればいいかについて書いている。この際、順番はどうでもいい、「仕事が面白い」「ライバルに勝つ」「あなたがハッピーになる」、この3つを同時に実現することが大事なのである。今回、「結果を出すための仕事術」というテーマを語るにあたってベースにしているのは、日本テレビ在職中に新番組「ヒルナンデス!」を立ち上げ、モンスター級の人気番組「笑っていいとも!」を倒すまでにの経験である。過去、さまざまな番組が「いいとも!」に挑戦しては、返り討ちにあってきた。テレビ局のビジネスモデルはとてもシンプルで、しかも明確な結果がすぐに明らかになる。そのため番組制作には、戦略作りや企画、チーム作り、マーケティングなど、ビジネス全般に活用できる仕事術が散りばめられている。意外と地道で泥臭い部分も多いため、きっと様々な職場、職種で参考にであるという。そしてもうひとつ、どんなときも「面白さ」を追い求めているのがテレビマンというものである。この本では、「面白いかどうか」という判断基準を、あらゆる仕事において活用しようという提案もしていくという。もうひとつ、仕事がハッピーな存在であるかどうかを決める大きな要素がある、それは、「勝ち」と「負け」である。自由市場で生きている限り必ずライバルは存在し、いつも負けっぱなしでは収入が減り存続が危ぶまれる。それではハッピーでいられるわけがなく、ライバルとはウインウインとか三方良しではなく、勝ったほうがハッピーに近づける。テレビ番組にもいろいろあって、自分が本当にやりたいと思う番組作りばかりできるわけではない。大事なことは、面白い仕事をより面白くなるようにやり、つまらない仕事は少しでも面白がってやれるように、工夫をすることである。仕事を楽しくする最大の要素はミッション達成であり、期待された使命をクリアすることが成功体験となる。プロジェクトリーダーは結果を出さなければならないプレッシャーを受けつつ、さまざまなプランニングをしてタイムスケジュールを管理し、部下の育成や人間関係にも気を配らなくてはならない。はじめは小さいプロジェクトで小さな成功を体験し、少しずつ大きなプロジェクトを率いるリーダーになっていく。そのプロセスで大事なのは、戦争における攻撃のセオリーのひとつの「一点突破」であり、言葉を変えれば「9割は捨てる」ということである。あちこちをばらばらと攻めるのではなく、ここというポイントを重点的に攻めることをいう。そこさえ奪ってしまえばその後が圧倒的に有利になるという場所や、相手の弱点などに戦力を集中し、分厚い攻撃をしかける。「一点突破」を実行するには、「ミッション咀嚼」「障壁をイメージする」「視点を変える」「戦略を絞り込む」の4つのステップで進むのがいい。この本ではリーダーが直面するさまざまな課題について、この「一点突破4ステップ」を活用して解決する方法を紹介していくという。絶対にかなわないと思うような強敵に立ち向かい逆転するには、どうしたらいいか。知っているのと知らないのとでは大違いで、やるとやらぬとでは天国と地獄の違いがある。
プロローグ9割捨てれば仕事は一気に面白くなる/第1章 それは「いいともを倒せ」の一言から始まった 仕事で一番大切な「使命(ミッション)」との向き合い方/第2章 難攻不落の強敵の弱点、見つけたり 一点で勝つための「戦略」の作り方/第3章 見えなかった敵の後ろ姿をとらえる 誰もが持っている「企画力」の鍛え方/第4章 ついに最強のライバルを倒す 最後に差がつく「チームカ」の高め方/エピローグ 9割捨てればビジネスが一気に強くなる/おわりに 搭てることで「得られるもの」の大きさに気づく
40.5月8日
”壬生藩”(2019年3月 現代書館刊 中野正人、笹﨑 明著)は、シリーズ藩物語の一冊で歴史ある蘭学の城下町として知られる現在の栃木県下都賀郡壬生町に居城を置いた壬生藩の歴史を紹介している。
壬生町は栃木県の県央南部に位置し、下都賀郡北部に属する人口約4万人の町である。壬生町は壬生城の城下町であり、日光西街道壬生通りの宿場町でもあった。ただし、現在の壬生町に属する地域がすべて壬生藩領であったわけではなく、旧南犬飼村の一部には、宇都宮藩領に属していた地域も存在する。また1年あまりで廃藩になったものの、上田地区には下野上田藩が存在していた時期がある。2005年に那須郡西那須野町が合併し那須塩原市となって以来、栃木県内で最も人口の多い町である。戦国大名だった壬生氏は、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条方について敗れ滅亡した。関ヶ原の戦い後の1602年に、信濃国高島から外様の日根野吉明が1万900石で入封して立藩した。1635年に譜代の阿部忠秋が2万5000石で入り、以後、三浦氏、松平氏、加藤氏が次々に入転封し、1712年に若年寄の鳥居忠英が3万石で入って以後は、鳥居氏8代が明治維新まで続いた。中野正人氏は1958年栃木県栃木市生まれ、現在、壬生町立歴史民俗資料館館長、濁協医科大学非常勤講師を務めている。笹﨑 明氏は1961年栃木県栃木市生まれ、壬生町立図書館司書ののち、現在壬生町立生涯学習館に勤務している。壬生氏は、初代胤業から綱重・綱房・綱雄を経て義雄に至る5代130年のあいだ、壬生城と鹿沼城を主城として、下野の中央から北西部に勢力を伸ばしていた。壬生氏に関して直接物語る史料は少なく、壬生氏が差し出した文書も30点あまりで、その事績の多くは謎である。その最大の謎は、歴史への登場の仕方であり、京都の公家、壬生家に武家を望む胤業が、戦乱の続く関東に下向して興した家が下野壬生氏だという説がある。壬生家は官務家といわれている家柄で、身分的には地下という昇殿を許されない中級クラスで、領地としての荘園は関東にはなかった。藤原摂関家につながらない家柄の胤業が、京都よりも一足先に戦乱の続く関東で、京都の公家出身ということだけで、力を得ることができたのであろうか。一方で、「壬生町史」編纂の時に掲示された、壬生氏は宇都宮氏の一族の横田氏の出身とする見方もある。横田氏の中に壬生三郎と注記される朝業がいること、胤業の業が横田氏の通字であることが理由である。横田氏出身なら、壬生氏が短期間で宇都宮氏の宿老となるまでが説明しやすい。壬生氏の出自については、壬生官務家説や横田氏説のほか、古代壬生氏の末裔とする説もあるが、いずれも確実な史料はなく、壬生氏の出自を説明する決定打となれていない。出身の詮索はひとまず措いて、戦国の下野に、突然壬生城を本拠に「壬生」を名乗る勢力が現れ、下野の北西部に勢力を伸ばしていたことは紛れもない事実である。初代胤業の登場から50年あまりで、二代綱重の時代には壬生氏は鹿沼進出を果たし、壬生・鹿沼周辺地域に地盤を築き、さらに北方の日光山に影響を持つ勢力へと成長していた。日光山は、勝道上人の開山以来、山岳信仰や天台寺院として、東国一帯の信仰を集めていた大勢力である。壬生氏の三代綱房は、二男の昌膳が座禅院住持に就任すると、自分は日光山領の村々を支配する惣政所職に就任した。聖と俗の支配者として、六六郷といわれる日光山領の村々を壬生氏の勢力に組み込むことで勢力を拡大した。さらに、宇都宮氏の内証を利用しながら勢力を拡大した。四代綱雄はその力を背景に宇都宮氏内部でも中心的な立場となっていった。しかし、1555年に壬生氏隆盛の基礎を築いた綱房が死去し、芳賀高定の謀殺ともいわれる綱房の急死は、壬生氏の栄華に翳りをもたらした。1557年暮れに、北条氏あるいは佐竹氏の支援を受けた広綱・芳賀高定らの攻撃を受け、綱雄は9年にわたって居座った宇都宮城から追われた。1562年に、宇都宮広綱による謀殺により綱雄が急死した。綱雄亡き後の鹿沼城には徳雪斎が入り、綱雄の子義雄は壬生城に入った。1576年に、壬生家の実権を掌握していた叔父の徳雪斎を打倒して、鹿沼城への入城を果たし、名実とも壬生氏五代目としての地位を確立した。1590年の豊臣秀吉の小田原城攻めでは、義雄も小田原城に寵城し、竹浦口を守備した。鹿沼城や壬生城には、宇都宮氏・佐竹氏などの反北条方の勢力が攻め寄せ、防戦に追われた。劣勢の中で小田原城開城を迎えたが、義雄は陣中で死去し帰国することはなかった。義弟の皆川広照により謀殺されたともいわれ、宇都宮仕置によって壬生氏は改易となり、前田利家らが鹿沼城や壬生城の接収にあたった。壬生氏の領地は結城城の結城秀康に与えられ、壬生城や鹿沼城は廃城となった。日光山も壬生氏と同類と見なされ、門前町と足尾を除く六六郷のほとんどを没収され、壬生氏の時代が終わった。結城秀康10万1000石の領内となって10年余、1600年に関ケ原の戦いが勃発した。壬生では戦乱の影響は皆無であったが、その後の大名の再編は、壬生にとっても大きな影響を及ぼした。結城秀康は、実父が徳川家康であることから、関ケ原の戦い後間もなく大きく加増され、67万石の大々名として越前北ノ庄城へ転封となった。秀康の旧領は、数名の大名や旗本、あるいは幕府の直轄地へと変わっていった。そのひとつが壬生であり、新たに壬生城主となったのは日根野吉明で、信濃諏訪高島城主から1万石余で壬生に封じられた。徳川家との関係でいえば外様であり、外様ということが日根野氏にとっては不運となった。日本60余州、大名の総入れ替えが行われている中で、当主が幼少であることと戦功のないことを理由に所領を削られた大名の移封されたのが壬生藩であった。左遷大名の行き先としての壬生藩の歴史が幕を開け、外様の日根野吉明に代わり、譜代の阿部忠秋と三浦正次が、相次いで壬生城主になった。三代将軍家光の側近の二人は、一城の主としては壬生城が初めてだった。阿部忠秋は六人衆、のちに若年寄と呼ばれる重職を担い、やがて老中へと出世していった。阿部忠秋は、1602年に阿部忠告の二男として生まれ、兄の惣太郎某は早世していたため忠秋が嫡男であった。1611年に9歳で家光の小姓となり、1633年に六人衆となり、翌々月に老中となった。三浦正次は、1599年に三浦正重の長男として生まれ、1607年に家康・秀忠に拝謁して、家光の小姓になった。秀忠・家光の上洛や日光社参への供奉や各所への使者などを務めたのち、1633年に六人衆となった。1638年の島原の乱では督戦の使者として島原に赴き、島原城落城を見届けて江戸に復命した。1641年に三浦正次の跡を継いだ安次は、三浦氏三代の中で、最も長い41年という藩主の在位期間は、歴代藩主の中でも、二番目に長いが、幕閣に名を連ねることはなく、一大名として生涯を終えた。三代目の明敬は1658年に安次の長男として生まれ、1672年に家督相続の前に壱岐守に叙任された。三浦家の三代目となるのは1682年で、翌年、奏者番に任じられた。以後、34年間、68歳まで奏者番のままという経歴であった。初代正次・安次・明敬という三代54年にわたる三浦家が藩主の時代は、寛永から元禄という江戸時代を通じても安定した時期と重なる。犬公方の悪名高い五代将軍徳川綱吉だが、人材登用で元禄の繁栄を支えた将軍でもある。元禄時代の壬生藩主、松平輝貞と加藤明英は、綱吉の恩寵で幕府の要職に就いた。松平輝貞は1665年生まれ、阿部忠秋・三浦正次とともに六人衆であった松平信綱の孫で、父輝綱が亡くなると六男であった輝貞は5000石を分封された。1675年に家綱に拝謁ののち綱吉につかえた。1688年に中奥の小姓を経て翌二年に御側となり、従五位下右京亮に叙任された。1692年に壬生藩主となり、翌年に御側となり、翌翌年に柳沢吉保と同じ御側御用人となった。1695年には、綱吉の御成を迎えるため江戸屋敷の北側に屋敷地が下賜された。初めての御成があった席で、綱吉から直々に1万石の加増と上野国高崎藩への転封が命じられたため、壬生藩を去ることとなった。1695年に、若年寄の加藤明英が近江水口藩主から2万5000石で壬生藩主となった。加藤家は加藤嘉明、加藤清正、加藤貞泰の三家とも豊臣秀吉の家臣で、のちに徳川家に臣従した外様大名である。明英は1652年に加藤嘉明の孫の明友の長男として生まれ、1684年に家督相続し、翌年、従五位下佐渡守に叙任された。また、奏者番兼寺社奉行、のち、若年寄という幕府の要職に任じられた。それまで外様大名が幕閣の一員となることはなかったが、綱吉の従来からの枠にとらわれない人材登用によるものであった。若年寄としての明英の事績は、1688年金銀改鋳の責任者として、老中阿部正武とともに惣督に任じられた。若年寄としても藩主としても、公人としての明英は、順調な人生を歩んでいた。ただ、個人としては実子に恵まれず、養子とした弟明治にも1711年に先立たれた。綱吉は、嫡男の鶴松の逝去以降子宝に恵まれなかったことから、兄徳川綱重の長男家宣を世嗣と定めた。家宣の将軍就任後の2年間は、主君に疎まれて悶々とした晩年だったようである。明英の死後、家督相続した孫の嘉矩は、1712年に近江水口藩への転封を命じられ、壬生藩主の加藤家は、実質的には明英一代となった。松平輝貞も、とくに職務上の失態等は伝わっていないが、綱吉の死後は側用人を免じられた。
プロローグ 壬生藩物語……その前に……/第一章 壬生藩と大名/第二章 壬生城本丸御殿と徳川将軍家/第三章 名門鳥居藩の誕生/第四章 壬生藩鳥居家の学問/第五章 壬生の幕末動乱/エピローグ 醫・医まち壬生/参考引用文献
41.5月15日
”立花宗茂 戦国「最強」の武将”(2021年1月 中央公論新社刊 加来 耕三著)は、立花の3千は他家の1万にも匹敵すると言われたほど精強な軍団を率い各地の戦いで目覚ましい武功を立て日本無双と言われた立花宗茂の生涯を紹介している。
立花宗茂は九州地方を中心に活躍した戦国武将で、島津征伐や朝鮮出兵など、激戦を重ねて生涯無敗であった。関ヶ原の戦い後に一度は浪人の身になるも、徳川家に取り立てられると、大阪夏の陣などで活躍し、再び大名としての地位を与えられ、ついに旧領復帰を果たした。関ヶ原の戦いで改易された大名で、旧領に大名として復帰できたのは宗茂ただ一人である、加来耕三氏は1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、学究生活に入り同大学文学部研究員として2年間勤務した。1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物、組織の復権をテーマにしている。古流剣術のタイ捨流免許皆伝。合気道四段で、川崎家(本名:川崎 耕一)は東軍流宗家であったという。現在は著作活動のほか、テレビ・ラジオ番組への出演や、番組の時代考証、企画・監修・構成に携わっている。立花宗茂は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、1567年に豊後・国東郡筧、現、大分県豊後高田市に大友氏の重臣・吉弘鎮理、のちの高橋紹運の長男として生まれた。幼名は千熊丸と言ったが、後に彌七郎と改められた。1568年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を、翌年、父・鎮理が継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、元服後は高橋統虎と名乗った。1581年7月に石坂という地で戦闘があり、実父・高橋紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣した。秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦いで初陣を飾り、敵将の堀江備前を討ち取って戦功を立てた。同年8月、男児の無かった大友氏の重臣・戸次鑑連が、宗茂を養嗣子として迎えたいと希望してきた。道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたり、同僚であった。紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から、最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出した。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代=ぎんちよと結婚して婿養子となり、名も戸次統虎=べっきむねとらと改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。同年11月に養父道雪・実父紹運と共に、嘉麻・穂波の地に出陣した。立花・高橋の軍勢は朽網鑑康=くたみあきやすの救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景との原鶴の戦いで戦闘した後に、無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。両方の激戦は立花高橋300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。1582年4月に、秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いで、宗茂は500の伏兵を率いて戦った。岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将・笠興長隊300人を駆逐し、150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し、原田親秀の早良城を焼き落城させる功を挙げた。同年11月、立花山城で御旗・御名字の祝いを行い、名字を戸次から立花に改めた。同年12月の宗像領侵攻にも、道雪に従って出陣した。1583年3月の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って、宗像氏貞の居城許斐山=このみやま城と杉連並の龍徳城を落城させ降伏させた。1584年8月に、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣し、宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、これを撃破し更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した。立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、1585年に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まった。1586年に、島津忠長・伊集院忠棟が5万を号する島津軍を率いて筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にした。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し、島津本陣への奇襲に成功したが、島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げた。その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ、義を専ら一に忠誠無二の者であるとして、ご家人となしたまわりますよう要請されたという。その後も秀吉の九州平定で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とした。さらに南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した。戦後、秀吉はその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を、その忠義も武勇も九州随一であるとして高く評価したという。室町時代の中葉、11年におよんだ応仁の乱に始まり、150年近くを経て、大坂の陣が終息した元和偃武までの期間、活躍した大名や豪族を戦国武将と呼びならわしてきた。群雄割拠の戦国時代に最も合戦に強かった武将と言えば、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗といった武将の名があかって来るかと思う。では、生涯、不敗の武将と問えばどうだろうか、筆者は立花宗茂を推すという。宗茂は、独眼龍の伊達政宗や人気の高い真田幸村と同じ生年1567年であった。東北地方を代表した政宗や戦国最後の戦である大坂の陣で活躍した幸村と異なって、宗茂は活躍の年齢が比較的若く、場所も綺羅星の如く群雄が割拠した九州が主戦場であった。また、奇跡的な大勝利をおさめたのが目下、一般にタブー視されがちな朝鮮出兵=文禄・慶長の役であったため、その力量を正当に評価されていない嫌があった。しかし、その将才・軍才は群を抜いていて、島津氏の大軍を支えた戦いでは、群がり攻め来る島津5万余騎の猛攻を、宗茂は4000余人を率いて龍城戦を行い、みごと守り抜いた。また、朝鮮出兵の最中、反撃に転じた李如松率いる明国43000、李氏朝鮮10万余の連合軍に対して、宗茂がわずか3000余の寡兵をもって大勝をあげた。これは日本戦史上、空前絶後の奇跡的大勝利であった。さらに、西軍の主将・石田三成が東軍の総大将・徳川家康に挑んだ関ヶ原の戦いにおいて、宗茂は自らが担当した近江の大津城攻めにおいて、みごと降参、開城させていた。生涯不敗伝説の中でも、とくに以上の3つは日本史を通観しても重大であった。宗茂の凄味は、関ヶ原で友軍が大敗してもまったく動揺しなかったところにあった。大坂城に入城すれば、最終的に勝利を得られると信じていたのだという。ところが、大坂城内の毛利輝元は、事前に家康と連絡を取り合い、そもそも戦う意志がなかった。宗茂は失望し、それでも粛々と手勢2500を率いて柳河に戻り、黒田如水や加藤清正の説得に応じて開城におよんだ。筆者はこのおりの宗茂の心境は、いまの新型コロナウイルス感染症の流行、世界的規模の感染爆発の中で、日常生活を突然、奪われた現代人と同じではなかったかという。しかし、いつまでも立ち止まっていては、過去に取り残されてしまう。宗茂はもう駄目だと茫然自失することなく、己れの宿命に立ち向かった。そして、なんと、宗茂は20年の歳月をかけて、柳河に大名として復帰を果たしている。関ヶ原敗戦のおりが34歳。柳河再封が決まったのは54歳のときであった。このような奇跡はほかに例がなく、なぜ、宗茂は返り咲けたのか、この奇跡の軌道を、宗茂の人間力に求め、解明するのも本書の目的の一つである。
序章 九州三国志/第1章 二人の父と共に/第2章 立花山での籠城/第3章 日本無双ー宗茂と豊臣政権/終章 二十年後の返り咲きの真相
42.5月22日
”赤ちゃんと体内時計 胎児期から始まる生活習慣病”(2021年2月 集英社刊 三池 輝久著)は、生後1歳半から2歳にほぼ完成し生涯にわたり健康に強い影響をもたらすヒトの体内時計について基本的な知識とその治療法、睡眠障害との関係、発達障害との関連などを提示している。
赤ちゃんのひどい寝ぐずりや夜泣きの原因には諸説があるが、著者は、誕生直後は超日リズムで生活していた赤ちゃんが、乳児期に概日リズムを身につけるときのズレに原因があるという。すなわち、赤ちゃん自身の体内時計と社会活動のリズムとの間でずれが生じることで、睡眠障害や不機嫌さを起こすのである。この状態は、赤ちゃんが時差ぼけを起こしているようなもので、心身に様々な影響が出ることを意味する。三池輝久氏は1942年熊本県生まれ、1968年に熊本大学医学部を卒業し、1984年に医学博士となり、1977年~1980年米国ウエスト・ヴァージニア州立大学に留学した。その後、熊本大学医学部小児発達学講師、助教授をへて、1984年に教授となり、2003年熊本大学医学部附属病院長を経て、2008年に定年退任し、名誉教授となった。日本小児神経学会理事長、日本発達神経科学学会理事長、日本眠育推進協議会理事長などを歴任し、30年以上にわたり子どもの睡眠障害の臨床および調査・研究活動に力を注いだ。2016年に、熊本県玉名地域保健医療センターにて、子どもの睡眠と発達外来を開設した。生物には生まれつきそなえていると考えられる時間測定機構があり、体内時計、生理時計などど呼ばれている。生物時計は通常、人の意識に上ることはない。しかし睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼしており、夜行性・昼行性の動物の行動も生物時計で制御されている。鳥が渡りをする時に太陽の位置を見て方角を定めることができることなどから、生物時計が確かに存在していることが知られている。他にもミツバチが外界から隔てられ日の光も入らない巣の中で仲間に蜜の方向をダンスで知らせる方法も、その時刻での太陽の方角を規準に時計機構が介在していると想定されている。また、植物の花・芽の形成が日長に支配される現象も、時計機構と密接な関係がある。時間生物学は、日、週、季節、年などの単位で経時的に変化する生物のリズムを研究する学問である。生物時計には、サーカディアンリズム=概日リズム、光周期性=光周性などが知られている。1960年ころから生物時計に対する生物学者の関心が高まってきて、日本でも1970年代に研究が活発になり、生物リズム研究会が生まれ、1990年代に日本時間生物学会へと発展した。1962年ドイツのユルゲン・アショフは、自ら光を遮断した状態で約1週間を過ごした。ヒトの概日リズムは、睡眠-覚醒・深部体温・尿中ステロイドホルモンなどが、いずれも24時間よりも周期が長く、その後の研究で25時間に近いことが示された。ヒトそれぞれの概日リズムは異なっており、平均的には24時間15分である。内在的な概日リズムは、1729年にフランスの科学者ジャン?ジャック・ドルトゥス・ドゥ・メランによって、初めて科学論文として報告された。植物のオジギソウの葉が、外界からの刺激がない状態でも約24時間周期のパターンで動き続ける就眠運動に気づいた。概日リズムとは、約25時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している。一般的に体内時計とも言い、厳密な意味では、概日リズムは内在的に形成されるものであるが、光や温度、食事など外界からの刺激によって修正される。動物では25時間の明暗の周期に従っており、完全な暗闇の中に置かれた場合には、25時間に同調しない周期となる。これをフリーランと呼び、こうした非同調した周期は明暗などの刺激によりリセットされる。脳の視交叉上核が、体内のそうした周期に影響を与えているとみなされている。周期的でない周期におかれることによる概日リズムの乱れは、不快感のある時差ボケを単純に起こしたり、概日リズム睡眠障害となる場合がある。光周性とは、昼の長さ(明期)と夜の長さ(暗期)の変化に応じて、生物が示す現象である。北半球では、昼の長さ(日長)は夏至で最長となり、冬至で最短となる。生物は、このような日長変化を感知することで、季節に応じた年周期的な反応を行うと考えられている。光周性は、1920年にアメリカのガーナーとアラードによって発見された。二人は、同じダイズの種子を少しずつ時期をずらして蒔いたところ、それぞれ生育期間が異なるにもかかわらず、どの個体もほぼ同じ時期に花を咲かせることに気づいた。このことから、花芽の形成時期を制御している条件が、土壌の栄養状態や空気中の二酸化炭素濃度などではなく、日照時間、正確には明期の長さではなく暗期の長さであることを発見し、光周期的反応とした。動物・植物を問わず、多くの生物で光周性が認められる。動物では渡りや回遊、生殖腺の発達、休眠、毛変わりなど、植物では花芽の形成、塊根・塊茎の形成、落葉、休眠などが光周性によって支配されている。中でも花芽の形成と光周性の関係については最も研究が進んでおり、有名である。動物の夜行性・昼行性やオジギソウの葉の開閉などの、一日を単位とする周期的反応は日周性と呼ばれ、生物の体内時計による。なぜ、赤ちゃんは夜すんなりと寝てくれないのであろうか、夜泣きで親を困らせるのであろうか、眠ったと思ってもすぐに起きて泣き機嫌が悪いのであろうか。寝ぐずり、夜泣き、日中の機嫌の悪さなど、親泣かせの赤ちゃんの睡眠の問題は子育ての大きな悩みの1つである。多くの保護者が、なぜ寝てくれないのか、どうすれば泣きやむのかと、辛い思いをしているのではないであろうか。子どもに睡眠の問題があると、母親のうつ症状、夫婦仲の悪化、赤ちゃんへの虐待まがいの行動など、家族機能が全体的に低くなるなど、他の家族メンバーにも影響があると指摘されている。家族の健康にまで影響を与える赤ちゃんの寝ぐずりや夜泣きの原因には諸説あって、多くの医療従事者がこれだと認める決定的な背景は今のところ未解明の状態にある。ただ近年、国内外で報告される研究論文では、睡眠や食事のあり方といった生活習慣と関連づけるものが増えている。著者はかねてよりこれと似た考えをもってきて、自身の臨床研究の結果から、さらに踏み込んだ説として次のような原因を想定しているという。赤ちゃんは、誕生直後に3~4時間の睡眠・覚醒リズム、つまり、超日リズム体内時計で生活している。その後乳児期になって、昼と夜が明確になる約24時間単位の概日リズム体内時計を身につける。そのとき、身体の中の体内時計と、身体の外にある社会活動リズムとの間にずれが起こると、睡眠障害や不機嫌さを起こすと同時に自律神経機能を含む体調に懸念が生じるという。赤ちゃんの身体の中にある体内時計があちらこちらでばらついていたり、学校や社会生活のリズムとうまく同調していなかったりすると、心身に様々な影響がでるのである。寝ぐずり、夜泣き、日中の機嫌の悪さは、体内時計の働きが実際の生活に十分に同調できていないことを知らせるアラートかもしれないのである。リズムは身体の中でも刻まれていて、睡眠中は低く活動時には高い体温の変動、夕方には睡眠のため、早朝には活動のために分泌されるホルモンの調節、といった具合である。ヒトの活動や生命維持と、リズム現象は切っても切り離せない関係にあり、ヒトはリズムによって生かされているといっても過言ではない。休みたいときに眠れず、動きたいときに起きられないという、時差ぼけによって起こる体調不良が、実は、一見普通に生活をしているようにみえる日本の多くの人々に、赤ちゃんにさえ起こっている。この現象は、グローバル化した世界の先進国に共通して当てはまるといわれている。著者は1990年代から、生体リズム混乱、非定型的時差ぼけ、小児慢性疲労症候群について、長年研究をつづけてきたという。ヒトの体内時計は生後1歳半から2歳にはほぼ完成するといわれている。かつてのような早寝早起き型の社会では、赤ちゃんの体内時計は勝手に発達していくもの、すくすくと健康に育っていくものとして強く意識しなくてもよいものであった。しかし、年齢を問わず夜型生活が基本となった現代社会では、赤ちゃんの体内時計は放置して自然に育つものでなくなり、周囲の大人がポイントをおさえ、実際の生活場面で学びとらせることが必要になった。胎児期から乳児期の日々の営みは、地球での生活にどう適応すればよいのかを赤ちゃんに教えるよい機会である。本書では、赤ちゃんの正しい睡眠・覚醒リズムや体内時計の知識、実践方法を様々なかたちで提供している。
はじめにーヒトはリズムで生きている/第1章 ヒトと体内時計/第2章 体内時計は発達する/第3章 赤ちゃんと概日リズム睡眠障害ー発達障害との関係/第4章 眠れない赤ちゃんー生後1カ月まで/第5章 眠るタイミングがつかめない赤ちゃんー生後1カ月から2歳まで/第6章 胎児期から始まる生活習慣病の予防/第7章 治療 正しい眠り方を教えるー体内時計の調和を図る/あとがきにかえてー身体のリズムを取り戻すことはできるか
43.5月29日
”イーロンマスク 世界をつくり変える男”(2018年1月 ダイヤモンド社刊 竹内 一正著)は、スペースX、テスラ・モーターズ、ソーラーシティ、ニューラリンクなどを創業し、ラリー・ペイジ、マーク・ザッカーバーグ、ジェフ・ベゾスを超えたと言われるイーロン・マスクの来し方行く末を紹介している。
宇宙開発で人類を火星に移住させると言い、電気自動車でガソリン車に代わりEVを普及させると言い、エネルギーでサスティナブルな社会の実現を謳い、その他、音速での新交通システム、時速200キロでの地下交通システム、AIに対抗する脳科学などを提唱している。破壊的実行力を持ち、地球の未来を左右する壮大なヴィジョンはどこから生まれたのであろうか。竹内一正氏は1957年岡山県生まれ、徳島大学大学院工学研究科修了し、米国ノースウェスタン大学客員研究員を経て、松下電器産業株式会社(現パナソニック)に入社した。PC用磁気記録メディアの新製品開発、PC海外ビジネス開拓に従事した後、アップルコンピュータ社にてマーケティングに携わった。その後、日本ゲートウェイ(株)を経て、メディアリング(株)の代表取締役などを歴任した。シリコンバレー事情に精通し、現在、コンサルタント事務所「オフィス・ケイ」代表を務めている。イーロン・リーヴ・マスクは、1971年南アフリカ共和国・プレトリア生まれのアメリカの実業家、エンジニア、投資家である。宇宙開発企業スペースXの創設者およびCEO、電気自動車企業テスラの共同創設者、CEOおよびテクノキング、テスラの子会社であるソーラーシティの会長等を務めている。1989年にカナダに移住し、1995年に24歳でスタンフォード大学を退学し、Zip2を設立した。1999年に28歳でX.comの元となる総合ネット銀行計画を始動し、Zip2をコンパックへ現金3億700万ドルで売却した。2000年にX.comがコンフィニティと合併し、ブランド名はConfinityのPayPalとなった。PayPal Holdings Inc.、通称ペイパルは、電子メールアカウントとインターネットを利用した決済サービスを提供するアメリカの企業である。PayPalアカウント間やクレジットカードでの支払い、口座振替による送金を行う。アメリカを中心に広く普及していて、190の国と地域で利用でき、21通貨以上に対応していて、2011年現在、世界中で2億2000万のアカウントが開設されている。2001年にロサンゼルスに移住し、火星関連の会合へ参加し始めた。2001年にロシアへロケット購入のため旅立ったが、ロシアでのロケット購入は失敗に終わった。2002年に31歳で商業宇宙ベンチャー設立を決意し、SpaceXを設立した。スペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ、通称スペースXは、カリフォルニア州ホーソーンに本社を置くアメリカの航空宇宙メーカーである。宇宙輸送サービス会社である他、衛星インターネットアクセスプロバイダでもある。火星の植民地化を可能にするための宇宙輸送コストの削減を目的に設立された。いくつかのロケットのほか、貨物宇宙船ドラゴンや衛星スターリンクを開発しており、これまでにスペースXドラゴン2で国際宇宙ステーションに人間を飛ばした実績がある。2002年にPayPalをebayへ15億ドルで売却した。2003年にTeslaのJ. B.ストラウベルと出会い、電気自動車プロジェクトへの支援を行った。エバーハードとターペニングがTesla Mortorsを設立し、マスクは650万ドルを出資し筆頭株主となった。テスラはアメリカのシリコンバレーを拠点に、二次電池式電気自動車と電気自動車関連商品、ソーラーパネルや蓄電池等を開発・製造・販売している自動車会社である。本社所在地はカリフォルニア州パロアルトであり、社名は電気技師であり物理学者であるニコラ・テスラにちなんでいる。従来の多くの自動車メーカーは、付加価値を付けて高くても買ってもらえるようなクルマをつくるか、できるだけ安くつくって数多く売るという経営モデルであった。多くの自動車メーカーの起源を見ると、自動車以外の事業で資産を築いた人間が、それを元手に工場を立ち上げたという場合がほとんどである。しかしテスラの場合は異なり、過去に多くのクルマを販売してきたわけではなく、マスクは個人の資産だけでテスラを立ち上げたわけでもない。マスクは株式市場から投資を受けることで、テスラを立ち上げる資金を調達した。2019年にテスラは世界で約36万7500台を販売したが、実態は売れば売るほど赤字ともいわれている。ただしテスラの場合、投資家から資金を得ることが目的であり、将来テスラがEV市場で一人勝ちする時代が来たときに、しっかり利益を確保できればよいという考えである。2005年にロードスター試作車の1代目が完成した。2006年にTeslaの社員数が100人に到達し、EP1とEP2が完成した。2007年にTesla社員数が260人に到達し、ロードスターの量産に取り掛かった。2009年にモデルSを記者発表会で披露し、2012年にモデルSを発売した。しかし2013年にモデルSの販売不振によりTeslaが危機に陥ったが、全社員による営業により奇跡的に黒字決算となった。2014年にモデルSに4WDとオートパイロット機能を追加し、2016年にスーパーチャージャーの有料化を発表した。しかし、2021年4月17日、テキサス州ヒューストン郊外で、誰も運転席に座っていない状態で走行していたTeslaの車両が立木に衝突し、男性2人が死亡した事故が起きた。モデルSはゆるいカーブを曲がり切れず、道路外に飛び出したという。しかも、通常、車両火災は数分で鎮圧されるが、今回は4時間近くも続き、長時間の火災は電気自動車のバッテリーが再発火を繰り返していたためと報じられている。SpaceXは当初2004年にファルコン1の打ち上げを予定していたが、2006年になって最初の打ち上げが行われたものの結果は失敗であった。2007年にファルコン1の2回目の打ち上げが行われたが、結果は失敗であった。2008年7月にファルコン9の点火試験に成功したが、8月のファルコン1の3回目の打ち上げも結果は失敗であった。そして、9月のファルコン1の4回目の打ち上げで成功し、12月にNASAから12回分の補給契約を獲得した。2010年6月にファルコン9初の打ち上げに成功し、2012年5月にドラゴンによる国際宇宙ステーションへの物資補給に成功した。国際宇宙ステーションとのドッキングは、民間企業では初の快挙であった。2006年にリンドン・ライブがSolarCityを設立し、マスクは会長兼筆頭株主となった。2014年にSolarCityは シレボを2億ドルで買収し、ソーラーパネルを内製化した。2015年に発電能力は2GWとなり、年間発電量は2年8TWhに到達した。いまSolarCityは世界有数のソーラーパネル設置会社であり、家屋の上にはソーラールーフがある。そして、ガレージ内には新しいバッテリーシステムと、車の充電器であるPowerwall 2がある。コネクテッドシステムによって太陽エネルギーが家中に、そして当然ながらTeslaにも供給され、ソーラールーフ+バッテリー+電気自動車となる。そして、2016年12月、フォーブスの世界で最も影響力のある人物ランキング21位に選出された。2019年にフォーブスが発表した「アメリカで最も革新的なリーダー」ランキングでアマゾンCEOのジェフ・ベゾスと並び第1位の評価を受けた。近年、世界を一変させたビジネスリーダY‐と言えば、誰を思い浮かべるであろうか。スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ペソス、マークー・ザッカーバーグ、そんな面々を思い浮かべる人は多いであろう。たしかに、ジョブズは洗練されたプロダクトと、まったく新しいビジネスモデルを生み出し、人々のライフスタイルを一変させた。シェフ・ベソスが作り出したアマゾンは世界中の流通システムを変え、人々の「買い物」という概念を完全にひっくり返した。あるいは、サッカーパークのフェイスブックは人々のコミュニケーションのあり方を変え、現実の世界に革命をもたらす原動力ともなった。しかし、そんな彼らの破格の活躍でさえ霞んでしまうほど、イーロンーマスクが実現しようとしている「未来」には、とんでもないスケール感と奇想天外さが溢れている。グーグル創業者の一人、ラリー・ペイジは、もし、自分の莫大な財産を残すとしたら、慈善団体ではなく、イーロンーマスクに贈る、彼なら未来を創れるからだという。ラリー・ペイジだけでなく、世界中の名だたる投資家が
イーロッーマスクが描く未来に期待を寄せ、莫大な資金を投資している。マスクは誰もが無謀だと吐き捨てたプランを、次々と実現させている。まったく新しいテクノロジーを開発しつつ、自らのビジネスを成功させ、同時に巨大な既得権者とも戦っている。それは、世界を変え未来を作る仕事であり、マスクという男の一挙手一投足に多くの人が注目し、ワクワクし、痛快ささえ感じるのであろう。著者はマスクは現代のコロンブスと捉え、誰もが切り捨てる荒唐無稽な発想でもそれを実現させ、本当に未来を切り開くかもしれないと期待する。本書では、マスクの「破壊的実行力」を生み出す14のルールを抽出して、型破りな戦いでの輝ける成功と、目を覆いたくなる失敗を紹介しつつ、イーロンの考え方や行動を紐解いていこうとしている。
イーロン・マスクとは何者なのか?/理想を掲げた現実主義者になるービジョンに実行力を近づける/社会全体を見ろ、世界の未来を担え!-スケール感を2段階アップして考える/どんな失敗でも、正面から受け入れるー絶望をモチベーションに昇華する/ギブン・コンディションを超えるー「ワク」を取っ払う図太さ/ひとつの成功なんかで満足しないー21世紀を切り拓く起業家の正体/最後はトップがリスクを取るーやり抜く組織はリーダーがつくる/常識は疑え、ルールを壊せー絶望をモチベーションに昇華する/すべてを、ハイスピードで実行するー頭脳とフットワークの両輪を回す/相手が強敵でも、怯まず戦うー攻撃は合理的かつ客観的に/常にオープンであれー自ら「矢面に立つ」覚悟を持つ/本質に立ち戻って考えるー日本企業にこそ必要な思考法/世界を変えるビジネスモデルを構築するー点から線に、線から面に拡大せよ/時流に乗り、大勝負に出るー勝敗を分けるタイミングの見極め方/株主の言うことなんか聞くな!-ぶれない信
44. 令和3年6月5日
”駒形丸事件 ――インド太平洋世界とイギリス帝国”(2021年1月 筑摩書房刊 秋田 茂/細川道久著)は、1914年にカナダ・バンクーバーで起きた日本ではほとんど知られていない小さな事件を通してミクロな地域史からグローバルな世界史までを総合的に展望している。
駒形丸事件は、日本船籍の「こまがた丸」(駒形丸)に当時イギリス帝国統治下のインド臣民360人が乗ってカナダへ移民を企て1914年にヴァンクーヴァーに到着したが24人だけ上陸が許され他は追い返されてインドに戻った事件である。北アメリカでのアジア人移民排斥の代表的例として歴史に残った事件である。2016年5月に、カナダの首相が100年ぶりに下院で公式に謝罪し、「カナダ政府を代表し駒形丸事件を謝罪する。100年以上前のことだが、ひどい不正が行われた」と述べた。そして、「乗客が経験した痛みや苦しみはどんな言葉をかけても消えることはない」と謝罪した。約100年前のカナダ政府の移民制限強化措置を批判し、受け入れ拡大の姿勢を改めて強調した。秋田 茂氏は1958年広島県福山市生まれ、広島大学文学部を卒業し、同大学院文学研究科博士後期課程を中退した。大阪外国語大学外国語学部助手・講師・助教授を経て、大阪大学大学院文学研究科教授を務めた。専門は、イギリス帝国史、東アジア国際関係史、グローバルヒストリーで、2003年に博士(文学)の学位を取得した。第20回大平正芳記念賞、第14回読売・吉野作造賞を受賞した。細川道久氏は岐阜県生まれ、東海高等学校を卒業し。東京大学文学部西洋史学科を卒業した。1988年に同大学院人文科学研究科博士課程をへて、鹿児島大学法文学部助教授、2003年より教授に就任した。専門はカナダ史・イギリス帝国史で、2005年に東京大学から博士(文学)の学位を取得した。2008年にカナダ出版賞を受賞した。バンクーバーはカナダ太平洋岸に位置すし、世界で最も住みやすい都市として、つねに上位にラックされてきた港湾都市である。中心部のダウンタウンからスタンレー公園へ向かうハーバー・フロットの遊歩道は、市民の憩いの場である。観光の定番コースでもあり、特に夏場は、早朝から日没まで、散策、ジョギング、サイクリングをする老若男女でにぎわう。新型コロナウイルスが世界的に猛威をふるう以前には、日本からも大勢の観光客や留学生がバンクーバーを訪れていた。その遊歩道の脇に、鉄板とアクリル製板の記念碑が建っている。「駒形丸事件」を追悼する「駒形丸メモリアル」である。コール・ハーバーと呼ばれるこの一帯には、ヨット、クルーザー、水上飛行機が数多く停泊しているため、陸側にある「駒形丸メモリアル」に目をとめる人はそう多くない。メモリアルは駒形丸をイメージし、そこにはインド人乗客の名前が刻まれている。今からおよそ100年前の1914年、駒形丸に乗ってバンクーバーにやってきたインド人の大半(376人のうち、再上陸を認められた20人などを除く352人)が、カナダ政府によって上陸を拒否された。駒形丸は、旧日本帝国の関東州・大連市に本拠を置いていた神栄汽船合資会社所有の3085トンの貨客船である。1890年にイギリスのグラスゴーで建造され、ドイツの船会社が購入し、シュトゥッベンフークと命名され、1894年に、同じくドイツの船会社に売却されシチリアと改名された。ヨーロッパ各地から移民をモントリオールやニューヨークに運んでいたシチリアは、1913年に神栄汽船合資会社に売却され、駒形丸と改められた。日本の門司と香港間の石炭輸送に用いられるようになり、1914年にインド人商人グルディット・シンと駒形丸の貸船契約を結んだ。シンはシーク教徒のビジネスマンで、当時のイギリス帝国の規則に挑戦するため、私財を投じて駒形丸をチャーターしたのである。4月に駒形丸は、シンが募ったカナダヘの移民を希望するインド人を乗せて、香港を出航し、日本経由でバンクーバーに向った。5月にバンクーバーに到着したものの、2カ月間、接岸を許されなかった。結局、乗客のほとんどはカナダ上陸を認められず、駒形丸は再び太平洋を戻らざるをえなかった。バンクーバーを後にした駒形丸は、日本とシンガポールを経由した後、9月末にコルカタ、旧カルカッタ近くに到着したが、約20キロ離れたバッジ・バッジに移動させられた。そして、そこで乗客の多数が、現地インド政庁の警察と軍によって逮捕・監禁・殺害された。これはコルカタの悲劇(虐殺)と呼ばれ、バッジ・バッジには、インド独立後の1952年に、首相ジャワハルラール・ネルーが除幕した追悼記念碑が建てられている。カナダによるインド人乗客に対する上陸拒否は、カナダ政府とインド人移民の対立という単純な図式でとらえきれるものではない。イギリス帝国の自治領であるカナダが、カナダ人と同じイギリス帝国の臣民であるインド人を公然と排斥することはできなかった。しかも、インド人の処遇問題は、イギリス帝国全体に影響を及ぼしかねなかった。一方、イギリス帝国に限らず、欧米世界には、インド人を含むアジア移民を蔑視する考えが根強く、カナダがインド人移民の入国を制限することは当然視されていた。また、インド人移民の多くが、生活の糧を求めるためにカナダにやってきたが、宗主国イギリスのインド統治に対する抵抗運動と関わっているのではないかと疑いをもたれていた。当時、北米、ヨーローパ、そして日本などにも、こうした抵抗運動の活動家やそれに共鳴する知識人がおり、同胞のインド人の移民を支援していた。抵抗運動の主力は、パンジャーブ地方の尚武の民である、シク教徒であった。このような状況下で、イギリス政府も、インド政庁も、インド人移民の動静に眼を光らせていたが、駒形丸の乗客も例外ではなかった。乗客376人の内訳は、シク教徒340名、ヒンドゥー教徒12名、ムスリム24名であり、圧倒的多数がシク教徒であった。しかも、駒形丸がバンクーバーを退去し、再び太平洋を横断している最中に、第一次世界大戦が勃発し、グルディット・シンや関与するインド人たちへの監視が強まった。駒形丸事件はコルカタの悲劇で幕を閉じたが、その後、シンガポールのインド軍歩兵部隊の反乱、パンジャーブ州アムリトサルの虐殺事件などとともに、戦後のインド・ナショナリズムを高揚させるきっかけとなった。当時のインドは、イギリス帝国を経済・軍事面で支えてきた重要拠点であった。そのためイギリスは、同盟関係にあった日本の協力を得ることで、インド太平洋世界を安定させ帝国支配の維持を図ろうとした。駒形丸事件は、インド・カナダ・イギリスの直接的な当事者だけでなく、インド太平洋世界やイギリス帝国、日本やアメリカ合衆国など、広域の世界の歴史的動態と結びつけてとらえる必要がある。イギリス帝国の直轄植民地で自由貿易港であった香港でチャーターされた駒形丸は、上海、門司、横浜を経由して、バンクーバーに向かい、帰りは、横浜、神戸、シンガポール経由で、インドのバッジ・バッジに到着した。この航路は、19世紀中葉の交通革命によって汽船が登場して以降、海底電信ケーブルなど、さまざまな技術革新によって結ばれたルートである。インドや中国から多くの移民がインド洋や太平洋を渡っており、先の航路はそのルートの一部であった。それはまた、モノ・カネ・情報を運ぶルートでもあった。インド太平洋世界は、歴史的な実態をともなう広域の地域である。従来の研究では、カナダ史、インド史、日本外交史というように、国ごとのバラバラの一国史で語られており、相互のつながりや関係は無視されてきた。本書は、ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルの4つの層での相互の結びつきを重視するグローバルヒストリーの手法を使って、駒形丸事件を描き出す。そして駒形丸事件が、インド・ナショナリズムの勃興だけでなく、イギリス帝国体制を変容させ、日本を含めたインド太平洋世界の台頭を促す契機にもなったことを示したい。
第1章 一九ー二〇世紀転換期の世界とイギリス帝国の連鎖(イギリス帝国の構造/「アジア間貿易」の形成と移民/日英同盟とインド太平洋世界/「帝国臣民」としてのインド人移民ー南アフリカにおけるガンディー)/第2章 インド・中国・日本ー駒形丸の登場(中国人・日本人移民の排斥/インド人移民排斥ー「連続航路規定」/グルディット・シンの事業計画と日本帝国)/第3章 バンクーバーでの屈辱ー駒形丸事件(上陸拒否/裁判/強圧と抵抗/退去/駒形丸退去後のカナダ)/第4章 駒形丸事件の波紋(寄港地日本での駒形丸ー横浜から神戸へ/「コルカタの悲劇」-バッジ・バッジ騒乱/「駒形丸事件」からアムリトサルの虐殺へ)/終章 インド太平洋世界の形成と移民(港湾都市のネットワークとトランス・ナショナリズム/「帝国臣民」の論理・再考)
45。 6月12日用
”老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文 ”(2019年2月 誠文堂新光社刊 野中 根太郎著)は、勝ち残り社会を強く否定しいつの時代にも人々の心を癒し弱者を鼓舞してきた老子の思想の全文について現代語訳、書き下し文、原文に加え、一文超訳を掲載している。
「老子」は、「論語」と並ぶ中国生まれの大古典である。しかし、中国でそれぞれ儒教、道教として長く生き、政治にも応用されたが、それはあくまでも表面的なものにすぎなかった。「老子」「論語」を素直に胱めぱすぱらしい内容で、今でも哲学、思想、生活の知恵として大いに役立つのがよくわかる。「老子」は「論語」に対する批判の書として登場した。その哲学は深く、またまるで現代の宇宙論としても通用する内容から、為政者の政策、そして私たち庶民の日常の心がまえまで考えさせてくれる。「論語」と「老子」は対立する思想哲学を持つが、どちらも国家、社会、私たちの暮らしをよくしていくために考え抜かれて提案されたものである。野中根太郎氏は早稲田大学を卒業し、海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わってきた。海外に進出し、日本と日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛される実感を得てから、日本人に影響を与えてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになったという。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。老子は中国の春秋戦国時代の思想家で、道家の祖である。老子の履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親である真妙玉女または玄妙玉女が、流星を見たときまたは昼寝をしていた際に、太陽の精が珠となって口に入ったときに老子を懐妊したという。62年間、あるいは、80年間、81年間、72年間または3700年間など諸説あり、も胎内におり、梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産した。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話もある。一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。『史記』によれば、老子は紀元前6世紀の人物とされ、姓は李、名は耳、字はまたは伯陽となっているが、生没年は不詳である。楚の苦県厲郷曲仁里(河南省)の人で、周の守蔵室(図書室)の書記官である。伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願い、この時書かれた書が『老子道徳経』だという。これが『老子五千言』ともいわれ、単に『老子』として知られている。『道徳経』は上巻の道経と下巻の徳経とに分かれ、現象界の背後にある本体を道とし、それから付与される本性を徳とし、無為自然の道と処世訓や政治論を説いている。諸子百家のうちの道家は老子の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は老子を始祖に置いている。老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで老子の血筋を主張する者は多い。老子の呼び名は、偉大な人物を意味する尊称と考えられている。著者はこれまで、「論語」「孫子」について書き、今回引き続いて「老子」を書かせてもらったという。三冊はいずれも古代中国の古典であり、「孫子」は今では中国のみならず、世界中で兵法に関する第一の書として通用している。「論語」に始まる儒教は、中国の歴代王朝が採り入れたもので、特に科挙などの試験科目として詳しく学ばれた。しかし、日本では、科挙は取り入れず、「論語」の教えはもっぱら一般大衆の教養と道徳面で大きな影響を与えた。日本人らしさとか日本人の精神を形成しているのは、武士道とする見方も多い。武士道にこれといった教典があるわけではないが、その理論的基礎を解明したものに新渡戸稲造著の『武士道』がある。武士道のなかの道徳的な教養は、孔子の教えが武士道における最も豊かな源泉であったという。ただし、新渡戸はこの後で、孔子の教えは日本人が本能的に認めていたものを確認させたものにすぎないとする。日本人の一番の特質は、諸外国のよいと思われるものを取り入れて、うまく咀嘔の上、自分たちのものにしていくことであろう。そもそも日本人は漢字からかなをつくり、漢字とかなを併用してきた。漢字とかなの表音文字や表意文字双方の利点を生かし、柔軟で幅広い思考ができることになったことで日本人の特質をさらに伸ばしていった。新渡戸の『武士道』は、武士道に影響を与えたものとして、「論語」の前に仏教と神道を紹介し、「老子」は挙げていない。現代では、「老子」は一部の人たちに熱狂的に支持されているが、「論語」ほどは知られていないようである。しかし、「老子」の日本文化への影響は大きく、「老子」を祖とする道教が、中国から入ってきた仏教に相当影響を与え、日本の神道そのものにもかなり取り入れられてきた。「老子」の数々の教えは、まるで日本のことわざのように定着している。「大器晩成」や「足るを知る」などは有名であるが、宮本武蔵の名言「千里の道もひと足ずつ運ぶなり」は、老子の「千里の行も足下より始まる」そのものである。『徒然草』の兼好法師は、いわゆる隠人君子のような生き方に憧れ、実践している。著者は、見方によって「老子」は「論語」以上に日本に根づいてきたともいえるという。兼好法師は日本人の典型のような人で、「老子」「神道」「仏教」「論語」などをうまく取り入れている。聖徳太子の「十七条の憲法」の第一条は明らかに「論語」の影響があるが、道教の考え方も取り入れている。これからの日本人も、日本人としての特質をうまく身につけていくことがより大事であろう。そうすることで自分という人間の本当の価値を高め、パワーアップしていく源泉になるであろう。著者は、そのために「老子」「論語」は自分のものにしていくとよいと思っている。今、「老子」を学んでいくと、「道」の哲学や[無為]の思想などから、それがつながっているように思える。そして、親鸞や浄土宗、浄土真宗の教えが理解しやすくなった。親鸞が「老子」を愛読していたのもうなずける。いや、他の仏教者や昔の日本の知識人たちも「老子」を読み込んでいたのである。そういう意味で「老子」は、仏教ともかなりの親近性があった。このことから現代人、特に今の日本人にとって原点の一つである「老子」は必読の書である。本書は、こうした問題意識から生まれた。だから、「老子」の内容については多くの争いがあるものの、これまで一般に形成されてきた解釈を中心としている。入門書として最適で、かつ坐右の書、基本となる本を目指したという。本書はそのベースとなるものであり、「老子」は難解なところがあるものの、日本人に与え続けた影響を考えると、自分なりの見方と解釈をしていくことが必要ではなかろうか。
體道第一/養身第二/安民第三/無源第四/虚用第五/成象第六/韜光第七/易性第八/運夷第九/能爲第十/無用第十一/檢欲第十二/?恥第十三/贊玄第十四/顯徳第十五/歸根第十六/淳風第十七/俗薄第十八/還淳第十九/異俗第二十/虚心第二十一/益謙第二十二/虚無第二十三/苦恩第二十四/象元第二十五/重徳第二十六/巧用第二十七/反朴第二十八/無爲第二十九/儉武第三十/偃武第三十一/聖徳第三十二/辯徳第三十三/任成第三十四/仁徳第三十五/微明第三十六/爲政第三十七/論徳第三十八/法本第三十九/去用第四十/同異第四十一/道化第四十二/偏用第四十三/立戒第四十四/洪徳第四十五/儉欲第四十六/鑒遠第四十七/忘知第四十八/任徳第四十九/貴生第五十/養徳第五十一/歸元第五十二/益證第五十三/修觀第五十四/玄符第五十五/玄徳第五十六
淳風第五十七/順化第五十八/守道第五十九/居位第六十/謙徳第六十一/爲道第六十二/恩始第六十三/守微第六十四/淳徳第六十五/後己第六十六/三寶第六十七/配天第六十八/玄用第六十九/知難第七十/知病第七十一/愛己第七十二/任爲第七十三/制惑第七十四/貪損第七十五/戒強第七十六/天道第七十七/任信第七十八/任契第七十九/獨立第八十/顯質第八十一
解説/序 今なぜ老子なのか/一 老子の成り立ち/二 老子の人物像/三 老子の日本への影響/四 老子と孔子の違い~「道」と「徳」の捉え方など~/参考文献
46.6月19日用
”悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝”(2018年7月 新潮社刊 浦久 俊彦著)は、悪魔ブームをブランディングに用い全身黒ずくめの姿で繰り出す超絶技巧で人々を熱狂させた史上最強のヴァイオリニストであるパガニーニの生涯を紹介している。
ニコロ・パガニーニは1782年にイタリアのジェノヴァに生まれ、5歳の頃に父親からマンドリンを与えられ、7歳の頃からヴァイオリンを始めた。父アントニオ・パガニーニは商人で音楽好き、母はテレサ・ボチャルドといい、二人はカルトゥソのパッソ・デッラ・ガッタ・モラのヴィコ・フォセ・デル・コレに住んでいたらしい。12歳でジェノヴァのサン・フィリッポ・ネリ教会で公開デビューし、13歳でパルマに行き、作曲家のアレッサンドロ・ローラに会うが、ローラは自分に教えることがないと知りパエルに学ぶよう示唆した。パエルは自分の師であるガスパラ・ガレッティに託し、芸術性の低いレッスンを30数回で切り上げ、その後は独学で勉強した。14歳の時、ナポレオン軍のイタリア侵攻で家族はラマイローネに移住し、18歳まで、父と一緒にロンバルディの首都で演奏活動を続けた。評判が高まるに従い甘やかされ女性関係が過度になり、ギャンブルに手を出すようになり、リボルノからジェノヴァに戻った。19歳の時、演奏活動を中断しギターを特訓し短期間でマスターした。ヴァイオリニストの兄カルロの働くオーケストラが、サンタクローチェ祭に出演することを知りロッカに行き、9月14日出演が成功し、地元のナショナル管弦楽団のコンサートマスターに就任した。23歳の時、ルッカの支配者であるナポレオンの姉妹エルサ・バッキオッキが到着し、2つの主要オーケストラを解体再編成し室内管弦楽団とし、その第二ヴァイオリストになった。25歳の時、ソロ・ヴァイオリニストに就任した。26歳の時、室内管弦楽団が解散し、宮廷弦楽四重奏団となり、ヴァイオリニスト兼フェリックス・バッキオッキ王子のヴァイオリン教師に任命されたが、その立場に満足せずやがて宮廷を去り、更にヴァイオリン演奏法の追求に専念した。31歳の時、ミラノのカルカノ劇場での演奏会では、批評家をして世界一のヴァイオリニストと称賛された。そして巨万の富を築いたが、守銭奴にして女好きで、無神論者の烙印を押され、遺体となっても欧州をさまよった。浦久俊彦氏は1961年生まれ、文筆家・文化芸術プロデューサーで、一般財団法人欧州日本藝術財団代表理事、代官山未来音楽塾塾頭、サラマンカホール音楽監督を務めた。19歳で渡仏し、パリで音楽学、歴史社会学、哲学を学び、フランスを拠点に作曲、音楽研究活動に携わった後、2007年に三井住友海上しらかわホールのエグゼクティブ・ディレクターに就任した。現在は独立した立場のプロデューサーとして、多分野のアーティスト達とのコラボーレーションによるオリジナル企画を手がけている。現代は、パフォーマンスの時代である。クリエーションよりも、パフォーマンスがもてはやされる。何を「つくるか」ではなく、何を「どうみせるか」に価値がある時代といえるという。これは政治や経済の世界だけではない。一般にクリェーティヴな分野と思われている企画や広告の世界も例外ではないし、クリェーティヴとイコールとみられているアートの世界でさえそうである。たとえば、クラシック音楽の世界で、現代の音楽家といって誰もが思い浮かべるのは、パフォーマーの演奏家であり、クリエーターの作曲家ではない。歴史的な大作曲家はともかく、現代の作曲家たちは、演奏家たちが華やかなステージでスポットライトを浴びることに比べれば、注目されることの少ない日陰の身といっていい。かつてはそうではなく、クリエートに価値があると考えられた時代もあった。18世紀から19世紀にいたる近代西洋音楽の全盛期は、クリエーターだけが巨匠として名を残すことができた。バッハも、モーツァルトも、ベートーヴェンも、ショパンも、すぐれたパフォーマーでもあったが、何より偉大なクリエーターであった。その巨匠たちの時代に、たったひとりの異端児がパガニーニであった。パガニーニが西洋音楽史に名を刻んだのは、何よりも圧倒的なパフォーマンスゆえであった。作曲家として後世に与えた影響もはかりしれないが、それでも、ヴァイオリニストとしてのパフォーマンスが与えた衝撃的なインパクトとは比較にならない。パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで、13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、パガニーニの演奏技術は悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ、と噂されたという。いまから200年も前に、悪魔というアイコンを自らのブランディング戦略に活かし、その名声だけでなく悪評をも自身のブランド価値を高めるために利用した。そして、かつてどの音楽家もなしえなかった莫大な富と名声を築いた。芸術とは創造であると考えられていたような時代にあって、その悪魔的なパフォーマンスが、社会現象ともいえる圧倒的な熱狂の渦に大衆までをも巻き込んだ。西洋音楽の象徴的な楽器として誕生したヴァイオリンの、5世紀に及ぶ歴史のなかで、パガニーニに匹敵するヴァイオリニストは、現在にいたるまでただのひとりも現れなかった。これは凄いことであるが、その人物像を知ろうとしてもなぜかはっきりしない。ベートーヴェンとほぼ同時代を生きた歴とした近代人でありながら、パガニーニには謎めいたところばかりである。悪魔と呼ばれたヴァイオリニストで、そのニックネームのせいもあってか、怪しげな逸話とか、虚実が混ざり合ったエピソードが、いまだにひとり歩きしている。蜘蛛のような腕が異様に長く、やせ細った不気味な風貌と無表情で無口な性格も、怪しげな悪魔伝説に尾ひれを付けた。黒いマントに身を包んで、ロウソクが灯る薄暗い舞台に登場し、固唾をのんで静まりかえる客席をじろりとにらみつけると、観客は震えあがったという。少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、毒素を抜くために下剤を飲み始めた。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退した。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去した。悪魔という噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置された。パガニーニをまともに描いた書物は、世界中を見渡してもあまりなく、ましてや日本ではほぼ皆無である。日本でパガニーニの評伝を書いた人は、おそらくまだ誰もいないはずである。資料を集めながら驚いたのは、伝記、研究論文、書簡集などほかに、当時のヨーロッパの歴史資料や、社会、風俗、経済にかんする資料のなかに、パガニーニの名前が頻繁に登場してくる。パガニーニが、いかに当時のヨーロッパの流行の最先端にいたかがわかった。パガニーニの出現は西洋文化史にとって、まさにスキャンダルだった。ヨーロッパ中が、悪魔と呼ばれたこの男に圧倒され、熱狂し、魅了された。パガニーニは流行のシンボルのもので、ヴァイオリンという楽器を片手に、まさにヨーロッパに君臨し、ヨーロッパを虜にした。パガニーニ・ショックともいうべき、この社会現象が19世紀ヨーロッパにもたらした衝撃と波紋は、到底ひとりの音楽家の伝記とか、音楽というジャンルに収まるようなものではない。著者は、仕事で南フランスに出張した折りに、パガニーニのヴァイオリンがいまも眠るイタリアのジェノヴアまで足を伸ばしたという。そこでようやく、パガニーニの愛器であったクレモナの名匠グァルネリ最晩年の名器「カノーネ」に対面することができた。その楽器は、人を惑わせる妖しい光など放ってはいなかった。まるで時の襞に吸い込まれるようなおだやかな艶を湛えた、息を呑むほどに美しい楽器であった。そこには、不思議と澄み切った静寂と、凛とした美しさがあった。まるで名匠の手になる太刀の鋭い刃先のようでもあった。伴侶ともいえる楽器が悪魔の魔法の杖などではなく、ひとつの美しい楽器であることがわかったとき、ようやくパガニーニが書けるような気がしたという。
第1章 悪魔誕生/第2章 ナポレオン一族との奇縁/第3章 喝采と栄華の日々/第4章 悪魔に魂を奪われた音楽家たち/第5章 晩年と死/第6章 パガニーニ幽霊騒動/第7章 神秘の楽器ヴァイオリン
47.6月26日
”遊王 徳川家斉”(2020年5月 文藝春秋社刊 岡崎 守恭著)は、在位50年で子どもは50人以上あり泰平の世のはまり役で賄賂と庶民文化花盛りの文化文政の世を築いた11代将軍徳川家斉の生涯を紹介している。
徳川家斉は1773年生まれ、親藩御三卿の一橋治斉の長男で、母は岩本正利の娘。幼名は豊千代、院号は文恭院と言った。1779年に第10代将軍・徳川家治の世嗣である家基が急死し、父と田沼意次の後継を工作した。また家治に他に男子がなく、家治の弟の清水重好も病弱で子供がいなかったことから、1781年に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。1786年に家治が50歳で病死したため、1787年に15歳で第11代将軍に就任し、1837年までの50年間在職した。将軍になってからは、前代からの権臣田沼意次を排して、白河城主松平定信を老中首座、将軍補佐に抜擢し、寛政の改革を行なった。しかし定信退陣後は親政し、いわゆる文化文政時代を現出した。将軍の生活が豪奢になり、側室通算40人、子女55人をもうけ、政治の綱紀もゆるみ、放漫政治が展開された。賄賂が横行し、幕政は腐敗し、財政は窮乏化した。1827年に在職40年に及んだ機会に、太政大臣に昇進した。奢侈な風潮は一向にやまず、幕府の財政はますます窮乏化した。そして、隠居後もその死まで大御所として実権をふるい、いわゆる大御所時代を現出した。天保年間に諸国に大飢饉が起ったが、幕府は有効な救済策を講じず、1837年には大塩平八郎の乱が起るにいたった。家慶に将軍職を譲ったが、大御所として政治の実権を握っていた。この間外国船の来航がしきりで、1825年には異国船打払令が出された。岡崎守恭氏は1951年東京都板橋区生まれ、1973年に早稲田大学人文学科し卒業し、日本経済新聞社に入社した。北京支局長、政治部長、大阪本社編集局長、常務執行役員名古屋代表、テレビ東京メディアネット社長などを歴任した。歴史エッセイストとして、国内政治、日本歴史、現代中国をテーマに執筆、講演を行っている。家斉は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免した。代わって、徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとした。寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こった。さらに、尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになった。1793年に家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。ただし、家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を、老中首座に任命した。これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で、定信の政策を継続していった。1817年に松平信明は病死し、他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため1818年から、家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して、収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったため、奢侈な生活を送るようになった。さらに、異国船打払令を発するなど、たび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて、8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なったが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。1834年に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となった。しかし、実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治は続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、1837年に大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめ、反乱が相次ぎ次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになった。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった。1837年に次男・家慶に将軍職を譲っても、大御所として幕政の実権は握り続けた。最晩年は、老中の間部詮勝や堀田正睦、意次の四男の田沼意正を重用した。栄華を極めた家斉であったが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられている。家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷された。そして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。260年に及ぶ徳川幕府で、15人の将軍が出た。当然のことながらまず思い浮かぶのは最初の家康、そして最後の慶喜だろうか。次はと言われると、参勤交代などのいろいろな制度を確立した三代の家光、中興の祖と言われた八代の吉宗であろうか。もう一人となると、犬将軍で知られる五代の綱吉あたりの名前が挙がりそうである。十一代の家斉は、多くの方の記憶の中ではその次くらいに出てくるかどうかであろう。側室を山のように抱え、子供が50人以上もいて、オットセイ将軍とか、種馬公方と鄭楡されていたと聞いて、何となく思い出すといった程度の存在かも知れない。だが家斉は50年というとんでもない長い期間、将軍の座にあった。これは第2位で29年の吉宗をはるかにしのいでいるばかりか、室町時代や鎌倉時代の将軍を含めても圧倒的な第一位である。征夷大将軍を辞めてから最高位の官職である太政大臣の栄誉を得た人物はいるか、現職の征夷大将軍のまま太政大臣にまで昇りつめて二つの職を兼任したのも歴史上、家斉だけである。江戸時代は長く続いていた戦乱の世に終止符を打ち、平和を維持したことが評価され、世界史上でもパックストクガワーナとして特筆されている。家斉の時代はその中でも、とりわけ泰平の世として知られている。家斉がつくった多すぎる子女の扱いに困り、徳川幕府が養子や嫁入りの形で各地の大名家に押し付けた。大名家もこれを受け入れることで、自らの家格の引き上げや借金の棒引きというメリットを享受した。その結果、家斉の名前の一宇をもらった「斉」のつく藩主や、将軍家の姫君の奥方が全国に蔓延し、将軍家を中心とする壮大な親戚ネットワークができ上がった。それは緩やかな統治の強化にも役立ち、幕藩体制のほころびも隠し泰平の世を支えた。家斉は権威と安定の象徴であり、ある意味で最強の将軍だった。家斉の死去と同時に徳川幕府は威権を失って傾き始め、次の将軍の家慶の晩年にはペリーが来航し、これを機に一気に坂を転がり落ち瓦解した。徳川幕府が最後の光芒を放ったのは家斉の時代だったのである。抜本的な改革をなしたわけではなく、対症療法の政治に終始したとも言えるが、強引に無理なことをしないのが逆に泰平の世には向いていた。江戸時代は享保、寛政、天保の三大改革が有名だが、庶民の生活という視点で見ると、実際にはその時代は何かと締め付けが厳しくて暮らしにくかっただろう。これに対して、家斉の時代は武家も町人もいわぱ羽を伸ぱせたのではないか。長期政権ならではの忖度や情実が広がり、側近を重用するお身内政権でもあり、迫りくる危機に正対せず、生ぬるく生きているゆでがえる状態だったのかもしれない。だが、豪奢な政治が醸し出したそれなりに自由な気風の中で、歌舞伎や浮世絵などの文化も花開き、娯楽は庶民にまで浸透した。明治時代になって古きよき時代と懐かしがられたのも、家斉の文化文政の世である。徳川実紀、正確には続徳川実紀の家斉の巻で、家斉は「遊王」と総括されている。「遊」は外遊とか遊学という言葉があるように、本来の遊ぶという意味だけでなく、自由に動くとかゆとりがあるという意味でも使われる。将軍を退任した後の大御所として、家斉は華やかでのびやかな権力者生活を謳歌してきたと思われる。著者は、家斉を名君だったとか、卓抜した指導者だったなどとは言っていないし、そう思ってもいないという。ただ50年も将軍だったことを知ると、多くの人は驚き、その時代が明治の頃には大いに懐かしがられたことを考えると、ちょっと評価が過小かも知れない。その後、病弱で若死した将軍が続き、これも幕府の衰亡につながったことから、家斉の身体が頑健であったことすら評価できなくはない。家斉は泰平の世のはまり役だったのではないかという。
はじめに 家斉のススメ/第1章 「斉」の全国制覇/第2章 十一代将軍への道/第3章 「生」への執念/第4章 「政」はお任せ/第5章 あれもこれも/第6章 赤門の溶姫様/第7章 江戸の弔鐘/エピローグ 浜御殿
48.令和3年7月3日用
”大友義鎮 国君、以道愛人、施仁発政”(2021年1月 ミネルヴァ書房刊 鹿毛 敏夫著)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、戦国大名、キリシタン大名として知られ宗麟の法号を持つ大友氏21代当主の義鎮の生涯を紹介している。
大友義鎮は、1530年に大友氏20代当主の大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれた。傅役は重臣の入田親誠が務め、幼名は塩法師丸と言った。1540年2月3日に元服し、室町幕府の第12代将軍の足利義晴から、一字拝領を受け義鎮と名乗った。1550年に家督を継ぎ,のち北九州6ヵ国の守護となり,大友氏の最盛期を築いた。守護公権力として領土と領海の統治に邁進し、ヨーロッパから訪れた未知なる宗教の宣教師や、外交交渉のために来日したアジアの国家使節に果敢に向き合った。キリスト教に帰依しキリシタンを保護し,ポルトガル貿易を行い,府内、今の大分市を西洋文化の中心地とした。1582年に大村氏、有馬氏とともに、天正遣欧使節を派遣した。鹿毛敏夫氏は1963年大分県生まれ、1986年に広島大学文学部史学科国史学専攻を卒業し、大分県立大分雄城台高等学校、森高等学校の講師、教諭を務めた。1997年に大分県立先哲史料館研究員、主任研究員となり、2005年に九州大学大学院人文科学府日本史学専修博士後期課程を修了した。2005年に国立新居浜工業高等専門学校助教授、2007年に准教授、2013年に教授、2015年に名古屋学院大学国際文化学部教授、2016年に大学院外国語学研究科教授となった。文学博士で、専攻は日本中世史である。大友義鎮は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、戦国大名、キリシタン大名、大友氏21代当主で、宗麟の法号で知られ、洗礼名はドン・フランシスコである。弟に大内義長、塩市丸、親貞など、子に義統(吉統)、親家、親盛などがいる。大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。父は20代当主・大友義鑑、母は公家の坊城氏の娘とする説がある。義鎮は20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こし、1550年2月10日に塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した。義鑑の遺言により義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。1551年に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英を大内氏の新当主として送り込んだ。筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらした。1557年に連合で派遣した遣明船で、義鎮は大内氏所有の「日本国王」印を用いて朝貢した。また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中にした。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利し、1554年に肥前国の守護にも任じられた。しかし父の死以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付いた。1557年に実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると、義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、北九州における旧大内領を確保することに成功した。従来から大友氏は室町幕府将軍家との関係を強化していたが、1559年に足利義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護職に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任された。1560年に左衛門督に任官され、義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を勝ち取った。しかし1562年に門司城の戦いで毛利元就に敗れ、同年に出家し休庵宗麟と号した。その後も足利将軍家に多大な援助を続け、1563年に義輝の相伴衆に任ぜられた。1565年に義輝が家臣の謀反により没し、1568年に弟の足利義昭が新将軍となった。毛利氏は山陰地方の仇敵の尼子氏を滅ぼし、再び北九州へ食指を伸ばすようになり和睦は反故となった。1567年に豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに大友氏重臣の高橋鑑種も加わるという事態が起こったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。1569年に肥前国で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信を制するため、自ら軍勢を率いて筑後・肥前へ討伐に向かったが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため慌てて撤退した。義鎮は重臣の吉岡長増の進言を受け、大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け、周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込んだ。1570年に再度肥前国に侵攻したが、龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ弟の親貞が戦死した。その後大友氏は肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗したが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。1574年に京都で織田信長が将軍足利義昭との抗争に勝利し、義昭は京を追放されて山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けた。1576年に、宗麟は家督を長男の義統に譲って隠居したが、しばらくの間は宗麟と義統との共同統治が行われていた。1577年に、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始し、大友氏は宗麟も出陣したが耳川の戦いで大敗した。耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大もあり、大友氏の領土は侵食されていった。1584年の沖田畷の戦いにて、龍造寺隆信が島津義久の弟の島津家久に敗北を喫し戦死すると、大友氏は立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。しかし翌年に道雪が病死し同地での求心力を失い、これを好機と見た島津義久は北上を始めた。1586年に宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見することに成功した。宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願したが、島津義久はその後も大友領へ侵攻した。個々の拠点をかろうじて防衛しているだけで、豊後は島津氏に蹂躙され、大友家は滅亡寸前にまで追い詰められた。1587年に、毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸した。同年4月の根白坂の戦いにおいて、1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。やがて、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが、島津軍と衝突して島津軍は甚大な損害を出して敗走した。この戦いにより豊臣氏は権威を回復し、秀吉による九州平定を盤石なものにした上、窮地に陥っている大友氏を救った。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した。豊後大友氏の研究はすでに1980年代までに、渡辺澄夫、芥川龍男、外山幹夫の三氏による重厚な研究著書が刊行されている。その成果は、豊後の中世史像を明らかにしたとともに、日本の大名領国制研究の発展に大きく寄与したことはいうまでもない。しかし、20世紀から21世紀への転換をはさんだこの数十年で、その研究環境は激変した。大友館と府内の発掘現場では、今この瞬間にも調査が進められていて、そこでは膨大な量の遺構と遺物が出土し、年度末には毎年数百頁におよぶ発掘調査報告書が刊行されてきた。文献史学の研究者は、もはやこの考古学的成果を無視して論文を書くことはできないし、考古学の研究者もまた、出土遺物を文献に照らし合わせてその位置づけを判断しなければならない。世紀末をはさんだ研究フィールドの環境的激変は、文献・考古・城郭などの細分化された専門分野の垣根を乗り越え、それらを横断し、総合する形での科学的分析を要請している。大友氏に関する「伝説の世界」と「迷信の世界」はいまだ根深く、それを打破するにはこの先も数十年の時間を要しそうだという。大友氏研究の難しさは、こうした後世の二次的編纂物による流言の根深さのみならず、16世紀東アジアでの布教活動の成果を本国に伝える意図で作成されたイエズス会関連諸史料の扱いとも関わる。宗教というバイアスがかかった史料の記述をそのまま鵜呑みして書かれた概説書や時代小説によって、混迷せるキリシタン大名=大友義鎮という悩ましいイメージが定着してしまったのである。歴史研究者は、社会の人々が抱く歴史へのイメージに責任をとらねばならず、史実に近づく道程は果てしなく遠い。様々な可能性を秘めた大友氏の歴史遺産を、分野や世代を超越した学際的チームとして調査・分析していく歩みを続けていく必要があろうという。
序章 大友氏の史的背景と研究史/第1章 大友氏の歴代当主/第2章 領国の拠点/第3章 領国の統治/第4章 経済政策/第5章 硫黄・鉄砲と「唐人」/第6章 建築と絵画への造詣/第7章 アジア外交と貿易政策/第8章 西欧文化の受容と評価/第9章 東南アジア外交の開始と競合/終章 義鎮の政治姿勢と経営感覚
49.7月10日
”新幹線100系物語”(2021年4月 筑摩書房刊 福原 俊一著)は、国鉄最後の名車として知られ2012年の引退後も根強い人気を誇る新幹線100系について綿密な取材をベースに民営化前後の激動の時代に設計開発・計画・運転・保守に打ち込んだ鉄道マンたちの熱い思いを伝えている。
東海道・山陽新幹線は1964年にデビューした0系電車が改良を重ねながら製造され続けていたが、1980年代に入ると古くささが否めなくなった。そこで新幹線のイメージアップを目的に、全体の構成やデザイン、車内設備を大幅に変えた新型車両を導入することになり、1985年に100系電車がデビューした。新幹線100系は、新幹線のイメージを大きく変えた電車で、青と白の塗装や5列の座席は0系を踏襲しつつ、先頭のデザインはシャープなものになった。さらに、2階建て車や個室も導入し、サービス面でも大きく進化した。16両編成中に2両が連結され、このうち1両は食堂車で、1階に厨房があり、2階の食堂は車窓を楽しみながら食事できるよう、大きな窓が設けられた。もう1両はグリーン車で、1階には新幹線初の個室を設置。食事のルームサービスを頼め、グレードの高いサービスが提供されていた。また、客室内には停車駅案内やニュース、天気予報などの情報を提供する電光掲示板を設置し、音楽やラジオ番組の配信サービスも提供し、グリーン車は座席にオーディオ装置を設置した。いまの新幹線で当たり前のように提供されているサービスも、この100系から始まっている。福原俊一氏は1953年東京都生まれで、武蔵工業大学経営工学科を卒業し、東芝の子会社に勤務してきた。鉄道とは別のエンジニアの仕事をする傍ら、電車の発達史を研究し、2013年に会社を定年で退職した。幼少期から鉄道に興味を抱き、5歳のときに投入された国鉄181系電車に魅せられたことが鉄道をライフワークにするきっかけとなり、昭和50年代から鉄道雑誌などに寄稿を続けてきた。電車の技術史や変遷を体系立てて調査し、車両研究をライフワークとして取組んでいる。00系は、かつて日本国有鉄道と本系列を承継した東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)が設計製造した、東海道・山陽新幹線の第2世代営業用新幹線電車である。1970年代になると、1964年の東海道新幹線開業時から運用されていた0系車両の中には経年劣化が生じ始めた。その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度によって運行する新幹線の運行形態そのものにあった。0系車両では快適性のために気密構造を採用したが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力の繰り返しによって、金属疲労のために車体の気密性が保てなくなった。0系車両が初めて設計された営業用の新幹線車両であることや、新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものであった。この状況に合わせ、国鉄は0系の廃車基準を製造後13年と設定し、古い0系車両は新造した0系車両によって置き換えられた。この時点で新形式の投入が行われなかったのには、国鉄の経営状況悪化や労使問題などが影響した。それに加え、当時0系は車両の経年数が揃っていない編成が運用されており、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮された。このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もあった。幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきた一方、0系の基本となるデザイン・内装は1964年の登場当初のままであったため、何度かマイナーチェンジを経た。とはいえ、陳腐化の印象は否めなくなり、新幹線博多開業の際に編成単位で大量増備された車両の取換準備車両が必要となることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まった。そこで、0系の設計を改めたモデルチェンジ車の検討が1980年頃から始まった。100系は、東海道新幹線開業以来活躍を続けた0系から20年ぶりのモデルチェンジ車として、1985年に誕生した。1987年の国鉄民営化を目前に控えた大きな潮流のなか、100系は国鉄・メーカ技術陣が背水の陣で設計・開発に臨んだ車両であった。お客様第一の設計思想が貫かれただけでなく、エクステリア・インテリアデザインに部外の工業デザイナーが本格的に参加した車両で、ビジネスライクな新幹線に旅の楽しさを提供した車両でもあった。民営化後に東海道・山陽新幹線を承継したJR東海・西日本が増備した100系は、カフェテリア車、グランドひかりなど、新生JRのイメージアップに大きく貢献した。そして民営化間もない時期に100系を舞台としたJR東海のエクスプレス・キャンペーンは、日本のCM市場に一大金字塔を打ち立てた。しかし黄金時代が短いのは世の常で、100系誕生の7年後には走行機能全般の改良をはじめ、最高速度270 km/h を実現した300系が誕生し、主役の座を後継車両に譲ることになった。100系は0系と300系の間にはさまれ、技術的にはつなぎの車両だったように見えなくもないが、国鉄末期から民営化初期にかけてのフラッグシップトレインとして輝きを見せた。鉄道関係のニュースサイトのアンケート結果では、もう一度乗りたい新幹線電車は100系が1位で、歴代車両のなかで一番華やかな存在だったなどの意見が寄せられたという。2階建て食堂車・グリーン車を組み入れて富士山麓を颯爽と駆け抜ける姿は絵になる存在で、100系は記録よりも人々の記憶に残る名車だったことは間違いない。そんな名車の足跡を、基礎資料や関係者への聞取りを基軸にまとめたのが本書である。第1章では、1964年の東海道新幹線開業以来増備が続けられた0系の後継車両として、2階建て車両を組み入れたモデルチェンジ車の構想がスタートした当時の背景、そして検討の経過が紹介されている。第2章では、それまでの0系では回転できなかった普通車3人掛シートを回転可能にし、食堂車1両で構想がスタートした2階建て車両がグリーン車1両を2階建て車両(16両編成で2両)に変更した経緯などが紹介されている。第3章では、0系をブラッシュアップした先頭形状と外部色決定の経緯、コスト低減を追求した主回路システム選定の経緯などが紹介されている。第4章では、1985年3月に完成した100系第1陣の量産先行車が、10月から営業運転が開始された経緯や、専任担当試験科の発足、営業運転開始後の初期トラブル克服、お召列車運転の経緯などが紹介されている。第5章では、民営化後の投入予定を民営化までに前倒して投入されたなった経緯、大窓など量産車の設計変更の経緯、新幹線の速度向上と100系量産車の営業運転、1986年11月ダイヤ改正の経緯などが紹介されている。第6章では、100系を舞台にしたシンデレラ・エクスプレス、クリスマス・エクスプレスなどエクスプレス・キャンペーンの経緯や、一連のキャンペーンを企画した担当者の思いなどが紹介されている。第7章では、JR東海・西日本が増備した100系カフェテリア編成とグランドひかりが誕生するまでの経緯、そして100系の全盛期だった92年3月ダイヤ改正までの動向が紹介されている。第8章では、のぞみが運転を開始し100系がわき役に押しやられる契機となった1993年3月ダイヤ改正、その後の落日を経て、最後まで残った山陽こだま運用からも引退し、営業運転を終える2012年3月ダイヤ改正までの動向が紹介されている。100系は国鉄民営化前後、つまり1980年代後半から1990年代前半という日本に活気のあった時代に光り輝いた車両だった。その足跡の一端を本書から読み取っていただければ幸いであるという。
第1章 新幹線モデルチェンジ車の構想/第2章 100系新幹線電車の構想/第3章 100系新幹線電車の開発/第4章 100系量産先行車の営業運転開始/第5章 100系量産車の誕生と国鉄最後のダイヤ改正/第6章 エクスプレス・キャンペーンの主役100系/第7章 100系新幹線電車の進展/第8章 のぞみ時代の100系
50.7月17日
”徳川おてんば姫 ”(2018年6月 東京キララ社刊 井出 久美子著)は、江戸幕府最後の第15代将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍であった徳川慶喜の七男・慶久の四女として生まれ小石川第六天町の徳川邸の屋敷で生まれ育った孫娘自身が綴る波乱万丈な”おてんば”自叙伝である。
大政奉還から150年の節目を迎えた平成29年、祖父・徳川慶喜公の存在にあらためて思いを馳せ、平成の初め頃から書き連ねていた本書の出版を決意したという。大政奉還は、256年続いた江戸時代の終焉というだけでなく、700年近く続いた武家社会の終わりでもある。今の私たちの暮らしは、過去の歴史の積み重ねと、こうした大きな転換点の先に成り立っていることを忘れてはいけないと、昔のことを思い起こす機会が増えたそうである。徳川慶喜は1837年生まれの江戸幕府第15代征夷大将軍で、在職は1867年1月10日から1868年1月3日であった。江戸幕府最後の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍であった。在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍で、最も長生きした将軍である。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に、将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職を務めた。徳川宗家を相続した約4か月後に、第15代将軍に就任した。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ない、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となった。1888年に 静岡県の静岡城下の西草深に移住し、1897年に再び東京の巣鴨に移住した。1901年に小日向第六天町に移転し、1902年に公爵を受爵し、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家の創設を許された。1908年に大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与された。1910年に慶久に家督を譲って、貴族院議員を辞めて隠居した。1913年に死去し、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。正室の美賀子は権大納言今出川公久の娘であるが、いったん関白一条忠香の養女となってから慶喜に嫁いだため、明治天皇の皇后となった忠香の三女一条美子の義姉にあたる。この正室のとの間には1858年に生後5日で夭折した女子がいる。明治になって誕生した10男11女はすべて、2人の側室新村信と中根幸との間に儲けた子女である。徳川慶喜公爵家を継いだのは七男の慶久で、長女は昭和天皇の次弟高松宮宣仁親王に嫁いだ喜久子妃である。慶久は1884年に静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれ、母は側室の新村信、初名は久であった。宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられた。1896年に妹英子とともに、静岡から東京に移り学習院に入学した。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年に父の偏諱をとり慶久と改名した。1906年に学習院高等科を卒業し、1908年に有栖川宮威仁親王の第二王女の實枝子と結婚した。實枝子は有栖川宮最後の王女で、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚した。1910年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に貴族院議員となった。兄は徳川慶光、長女は慶子、次女は喜久子、三女は喜佐子で、四女が久美子である。慶久は1922年に東京府東京市小石川区第六天町54番地の本邸で急死し、没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈された。井出久美子氏は1922年に東京小石川区第六天町の徳川慶喜家に四女として生まれ、父は徳川慶久、母は有栖川宮家から嫁いだ實枝子である。いまでは兄も姉たちも亡くなり、気がつけぱ、この屋敷のことを語れるのは自分だけとなってしまい、書き残し伝えるには今をおいてほかはないという思いで筆を進めたという。武家社会が終わってもまだまだお家が何よりも重んじられていた時代に、徳川がどのような立場にあったか、第六天町の暮らしから学校生活、結婚、夫の戦死と再婚、華族制度の廃止後まで、覚えている出来事を書き綴ている。生まれ育った家は、徳川慶喜終焉の地として知られている場所で、屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地になっている。現住所は東京都文京区春日二丁目であるが、当時の町名にちなんでこの屋敷のことを「第六天」と呼んでいた。今の春日通りと巻石通りの間、神田川へ向かって緩やかに下る高台にあった。その頃は遠くに富士山も見え、広々としてとても静かなところであった。東側の新坂、西側の今井坂にはさまれ、新坂を下る向こう側には、金富尋常小学校があった。新坂を上り春日通りを進んだ先には、徳川家の菩提寺・伝通院があった。家康公の生母の於大の方や、秀忠公の長女の千姫が眠っている。東に歩けば光圀公ゆかりの小石川後楽園もあり、いずれも史跡として当時の面影を今に伝えている。慶喜公が、なぜ最期の地として第六天を選んだのかは、今になって気持ちを察することができるように感じるという。江戸城を追われ、身一つで静岡に隠棲したけれども、やはり最期に暮らすのは江戸、とりわけ徳川に縁の深いこの地でと考えられたのではないか。徳川邸は小石川区小日向第六天町五十四番地で、敷地西側の谷を挟んだ八番地には会津松平家があった。新坂を神田川に向かって下り、丸ノ内線の線路を渡った辺りが、当時の屋敷の正門である。お客様はこの正門から、お客様以外の方は正門の脇の内玄関から、出入りの業者さんは勝手口のような別玄関からと、三つの玄関をそれぞれに使い分けていた。久美子氏が生まれたのは1922年9月22日であったが、22日は慶喜公の月命日で、父慶久の月命日も22日のため、母が届け出を23日にしたという。当時は病院での出産はほとんどなかったため、屋敷に有名なお産婆さんが来て取り上げてもらった。兄弟姉妹も同じお産婆さんだったそうである。生まれた翌年の1923年に、関東一円を大地震が襲った、母と自分は第六天に残っていたが、姉の喜久子と喜佐子、兄の慶光は、夏休みで葉山の別荘にいた。別荘では、茅葺屋根の台所部分が崩壊し女中二人が生き埋めになってしまったが、どうにか無事に助け出されたとのことであった。第六天でも、周囲の家には火災で大きな被害があった。屋敷は元々この場所にあった武家屋敷で、慶喜公が移り住んでからだいぶ増築・改築をした。住んでいた頃は、建物が1300坪ぐらい、そして広いお庭があり、敷地の広さは3400坪とされていた。敷地の西側は石積みの急な崖があり、今も変わることなく当時の姿のまま残っている。北側は高台で、それぞれに庭が付いた戸建の家が長屋のような形で並んでいた。ここは、家令の事務所や住居であったり、主治医や教師の住居として使われていた。家令は江戸時代でいう筆頭家老のような存在で、事務や会計の管理、使用人を束ねる役など、屋敷の運営全般を取り仕切っていた。戸建の南が屋敷の中の口で、使い走りの運転手や請願巡査の長屋があった。請願巡査とは、一般個人からの依頼で派遣された警察官である。自分たちが暮らす屋敷はその南側にあり、敷地の中央であった。屋敷には部屋と中庭がいくつもあり、延びた廊下は長く幾度も曲がり、お寺かお城を思わせる作りであった。屋敷の南側は広い斜面のお庭になっていて、春には芝生の広場にクローバーやタンポポやレングが咲き乱れ、初夏はツツジの花が斜面を彩り、秋になると萩の花がそよいだ。一つ上の姉の喜佐子と自分には八畳間と九畳間の部屋があてられ、二のお方と呼ばれていた。後に高松宮妃殿下となった11歳上の姉の喜久子の部屋は一のお方と呼ばれ、西側の庭に面した洋間と十二畳の和室があり、その隣には母の部屋があった。父・慶久が早くに亡くなり女所帯だったから、9つ違いの長男の慶光は普段屋敷には住まず、御修行所という町のしもた屋で、書生やお付きの者と暮らしていた。日曜日だけ屋敷に戻って来ては、自分たちと遊んでくれた。年子の姉の喜佐子と自分は、毎日の服までおそろいで何をするのも一緒で、まるで双子のように育てられ、お二方様と呼ぱれていた。自分たちはとんでもないお転婆娘で、まるで男の子の兄弟みたいに石垣を駆け上ったり下りたり、鬼ごっこをして庭中を走り回って遊んだという。久美子氏は1941年に旧福井藩の当主で侯爵松平康昌氏の長男である康愛氏と結婚した。康昌氏は1893年生まれ、昭和期の日本の華族、官僚で、旧福井藩主家第19代当主であった。従二位勲一等侯爵で、明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。夫康愛氏は海軍将校として、結婚から3か月後には軍隊生活で、当初は、月に1~2回は自宅に戻ってきていた。1942年に男児を出産したが、男児は2日後に亡くなった。当時の食糧・医療事情の不安定さが分かる。その後、1944年に長女を無事出産したが、戦局が悪化し東京都八王子市に疎開した。幼子を抱えて農作業に薪割り水汲みをこなし、出征した夫の帰りを待つ日々であった。しかし、終戦の翌年届いたのは、夫戦死の報告であった。夫と死別した当時、久美子氏はまだ20代前半で。当時の慣習で本人の意志と関わらず再婚話が出てきた。結局、夫の友人で復員した医師の井手次郎氏と1947年に再婚した。一方。前の婚家である松平家が、血筋を絶やさないために、長女を引き取ったという。久美子氏も徳川家の人間で、家の重みは十分理解しているので、涙を呑んで自分だけが離籍した。2年ほどして次郎氏は横浜市の下町で開業し。忙しいときは久美子氏も手伝ったという。喧嘩のケガ人が駆け込んでくるような現場であったが、持ち前の順応性ですぐに慣れた。とはいえ、酔っ払いがいたり娼館があったりと良い環境ではなく、長男の淳氏も生まれたので、2年たらずでその医院は閉めた。その後は喜久子妃殿下のはからいで、高松宮邸内の官舎に移り、その中に医院を開設し、夫は生涯現役を貫いた。その医院の閉院後は、千葉県で団地住まいをして、デイサービスに通いつつ、静かな余生を暮らした。2004年に次郎氏が死去し、2018年に96歳で本書を出版して作家デビューした。そして、発刊から1か月後、 ホッとしたように静かな眠りについた。本書の最後に、著者の息子の井出純氏が謝辞を述べている。母が執筆を思い立ってから10数年、書き進めては休み、しばらく休んでは再開し、文藝春秋社から東京キララ社様に制作のバトンを引き継いで頂き、ようやく完成までたどり着いたという。
はじめに/第一章 第六天の暮らし/慶喜終焉の地、小日向第六天町/第六天の子供たち/「表」と「奥」の五十人/第六天のお正月/御授爵記念日/おとと様とおたた様/第二章 学校生活/おひい様の学校/「金剛石 水は器」/やりにくい歴史の授業/修辞会、体操会、遠足/御當日/葉山と軽井沢の夏休み/有栖川御流/絵と写真/第三章 結婚と戦争/結婚/新婚生活と戦争の足音/太平洋戦争の開戦/長男・長女の誕生と出征/疎開と空襲/終戦/戦死の知らせ/不思議な巡り合わせと娘との別れ/『精強261空〝虎〟部隊サイパンに死すとも』/第四章 戦後を生きる/再婚・目白での大家族暮らし/横浜の下町で開業/高松宮邸/世が世なら/高輪での暮らし/井手八景/殿下・妃殿下との思い出/第六天再訪/謝辞
51.7月24日
”ダイオウイカvs.マッコウクジラ-図説・深海の怪物たち”(2021年4月 筑摩書房刊 北村 雄一著)は、まったく光が届かない深海に蠢いている想像を超える生物たちについてその異様な姿と習性を迫力の描きおろしイラストで紹介している。
19世紀の船乗りたちが恐怖したシ-サ-ペントやダイダロスモンスタ-、1977年に日本の漁船が引き上げたニュ-ネッシ-は、オオウミヘビや首長竜と言われた。200フィ-ト(60メ-トル)はありそうな巨大な体を持つヘがいる、と言われたようである。太さは20フィ-ト(6メ-トル)を超え、ベルゲの海岸付近の岩礁や洞窟にすむ。首からキュ-ビット(50センチ弱)ほどの長さの毛を垂らし、ウロコは鋭く、色は黒い。その眼は燃えるような光を放つ。このヘビは船乗りたちを恐れさせ、柱のように高く頭を持ち上げて人間をつかまえ、食べてしまう。奇妙な姿をした深海生物、奇怪なれど美しいその姿は、分厚い水に閉ざされて手が届かなかった。しかし2000年代以後、機械の発達で深海生物の写真撮影が可能となった。美しい深海生物の写真で本をつくることには需要があって、つくれば売れた。売れるとわかれば皆が同じものをつくって売るし、実際、類書が多く出た。たくさんつくれば値崩れが起こり、利潤を生み出せない投資は、今や重しとなって景気を低迷させる。珍奇とパクリと投資と景気と不景気の循環。これが深海生物本にも起こった。しかも、数少なかった画像はすぐに使い尽くされてネタがなくなり、深海バブルは終わりをつげた。とはいえ、画像にこだわるから尽きるだけで、ネタ自体はいくらでもある。たとえば深海生物の眼、これだけで本が一冊以上書けるし、チョウチンアンコウだけで一冊本を書くこともでき、あるいは伝説のオオウミヘビで本を書くこともできた。今回、著者が書いたこの本は、オオウミヘビをテ-マにしているという。北村雄一氏は1969年長野県生まれ、日本大学農獣医学部を卒業した。サイエンスライタ-兼イラストレ-タ-として、生物進化から天体まで幅広い分野で活躍している。主なテ-マは、系統学、進化、深海、恐竜、極限環境などで、2009年に科学ジャ-ナリスト賞大賞を受賞している。深海はその過酷な環境と広大な範囲のため、浅海と比べて観察・研究が困難であり、生物が存在するかどうかは長く不明であった。イギリスの博物学者であるエドワ-ド・フォ-ブスは、1839年に行った調査船による観測結果を元に、深海無生物説を提唱した。しかし、その後の底引き網や海底ケ-ブルを用いた各国の調査により、深海から相次いで生物が採取され、この説はすぐに否定された。深海生物の存在を決定的に証明したのは、1872年から1876年にかけて行われた英国海軍のチャレンジャ-号による大規模な世界一周探検航海であった。この航海がもたらした膨大な海洋学的研究成果をきっかけとして、各国の海洋調査は本格化し、深海魚研究の歴史も幕を開けた。生身の人間が直接大深度に潜行することはできないため、深海探査には常に困難がつきまとう。漁網中に混獲されたり、海岸に打ち上げられたりした深海魚も時として貴重な標本となったが、実際に生きている姿を伝える情報は損なわれていることが多かった。19世紀後半以降、ワイヤ-ロ-プや底引き網の改良により大深度からの標本採取が可能になったものの、深海魚を直接観察することは依然容易ではなかった。兵器としての潜水艦は第一次世界大戦時にはすでに実用化されていた一方で、学術目的での潜水機器開発は遅れていた。1928年に有人の潜水球バチスフェアが開発され、ようやく深海魚の観察が可能になった。バチスフェアは無動力ではあったが、深度923メ-トルまでの潜水に成功した。そして1948年に、オ-ギュスト・ピカ-ルにより自前の動力を有した深海探査艇、バチスカ-フが建造された。バチスカ-フは複数の後継機が作られ、深海魚の生態観察や大深度での標本採集に強力な手段を提供した。20世紀後半から現代にかけて、日本のしんかい6500、ロシアのミ-ル、フランスのノティ-ルおよびアメリカのアルビン号などにより、深海魚の生活様式・環境への適応についての情報が蓄積されつつある。海洋は大陸棚の縁を境として、陸に近い沿岸域と、陸から遠く離れた外洋に水平区分される。深海には光合成を行う植物のような基礎生産者が存在せず、深海生物のエネルギ-源となる有機物は主に浅海と陸地から供給される。このため、一般的に深海魚やほかの深海生物は陸に近い海域ほど多く、外洋に出るほど少なくなる。また、熱帯域の外洋では対流が起きないため表層の生物が少なく、利用可能な堆積物に乏しい荒涼とした海底が広がることもある。底地形の特徴はそれぞれの地域によって異なり、底生性深海魚の分布に大きな影響を与える。一方で、深海中層の環境は比較的安定し均質であるため、遊泳性深海魚は広範囲な分布域を持つ種類が多い。太平洋、インド洋、大西洋すべてに分布する深海魚も少なくなく、汎存種とか汎世界種と呼ばれる。遊泳性深海魚の生物群系は主に気候や大陸・島嶼地形の影響を受けながらおよそ20に分類され、これはほかの生物群と比較して著しく少ない区分数である。海を深さによって鉛直方向に区分した場合、表層、中深層、漸深層、深海層、超深海層に分けられる。この区分は漂泳区分帯と呼ばれることもあり、一般に中深層以深に主たる生息水深を持つ魚類が深海魚として扱われる。中深層は水深200~1,000メ-トルで、光合成を行うには不充分ながらも、わずかに日光が届く。水温が急激に変化する層のほとんどがこの領域に存在し、その下には物理的に安定で変化の少ない深海独特の環境が広がっている。中深層の遊泳性深海魚はこれまでに約750種類が知られる。漸深層は水深1,000~3,000メ-トルで、光の届かない暗黒の世界である。水温は2~5℃で安定している一方、生物が利用できる有機物の量は表層の5%にも満たず、深度とともに急速に減少していく。漸深層の遊泳性深海魚には、少なくとも200種が含まれる。深海層は水深3,000~6,000メ-トルで、水温は1~2℃程度にまで下がり、ほとんど変化しなくなる。300気圧を超える水圧は、生物の細胞活動に影響を与え、遊泳性深海魚はほとんど姿を消し、アシロ科・クサウオ科・ソコダラ科の底生魚が見られるのみである。超深海層は6,000メ-トル以深で、海溝の深部に限られ、全海底面積の2%に満たない。水圧が600気圧を超えるこの海域に暮らす深海魚は、深海層と同様にソコダラ科、クサウオ科およびアシロ科に属するごく一部の底生魚しか知られていない。100年以上前の19世紀、海で奇妙な怪物を目撃した報告が相次いだ。それは人間が知る既知の海洋生物ではない。見た目はヘビのようだが、しかしはるかに大きいのでオオウミヘビと呼ばれた。オオウミヘビのことを英語ではシーサ-ペントとか、あるいはグレ-トシ-サ-ペントという。サ-ペントは英語ではなく、ラテン語のセルベンスが由来で、セルペンスの意味はヘビである。だからシ-サ-ペントをそのまま訳せばウミヘビになるのだが、単語としてはちょっと違う。英語では喬虫類のウミヘビのことをシ-スネ-クと呼ぶ。シ-サ-ペントを日本人はオオウミヘビと訳してしまったので、爬虫類のウミヘビと区別がつきにくくなった。しかし、元はスネ-クではなくてサ-ペントで、ヘビではない得体の知れない怪物という意味合いがあった。そして、目撃談を丁寧に読むと、それらはダイオウイカとかリュウグウノツカイとか、深海大型生物の誤認であることが分かった。オオウミヘビ伝説は消えたが、1980年代はまだその名残があった。当時の子供向け怪奇本に必ず登場した怪獣御三家は、ネッシ-、雪男、そしてオオウミヘビである。このうち実在が確かなのはオオウミヘビだけであり、生物学の範躊、それも深海生物の範躊に入る。しかし、オオウミヘビのネタだけで一冊書くと、それはもう深海本ではなくなってしまう。だからオオウミヘビの後は、チョウチンアンコウ、デメニギス、ダイオウグソクムシなどを語る。そして後半3分の1は、生きた化石である深海生物を取り上げる。オウムガイ、コウモリダコ、シ-フカンス、これで一般の人たちが知る深海生物はほぼ網羅し尽くせる。最後のシ-ラカンスでは、変化するものが生き残るという、ダ-ウィンの名言も解説するという。
まえがき 第一章怪物と呼ばれた深海生物/1ダイオウイカ-”巨大海ヘビ”はマッコウクジラのディナ-/2ラブカ-ヘビの顔をした深海ザメ/3ミックリザメ-古代の巨大肉食魚の正統な後継者/4ウバザメ、メガマウス、ニュ-ネッシ--人は見たいものしか見えない/5リュウグウノツカイ-古代から想像力を刺激する容姿/6レプトケファルス幼生-巨大ウナギ伝説の起源 第二章想像を絶する深海の生態/7フビワアンコウ-極端に小さいオスの役割/8デメニギス-透明な頭と巨大目玉の超能力/9ダイオウグソクムシ-無個性という特殊能力 第三章生きた化石は深海にいる/10オウムガイ-貝がイカに進化する過程/11コウモリダコ-独自のニッチで1億6600万年/12シ-フカンス-ダ-ウィン進化論の神髄
52.7月31日
”琉球大国の象徴 首里城”(2020年3月 新泉社刊 當眞 嗣一著)は、琉球王国の政治・経済・文化の中心的役割をはたしてきたグスクである首里城についてその特色と出土した貿易陶磁器、武器・武具、装飾品などを解説している。
琉球王国、琉球國は、1429年年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国である。沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下においた。当初はムラ社会の豪族であったが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であった。1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる保護国となった。その一方、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けなかった。1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。首里城は沖縄方言ではスイグシクといい、琉球王国中山首里、現、沖縄県那覇市にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスクの城趾である。現在は、国営沖縄記念公園の首里城地区、通称、首里城公園として都市公園となっている。沖縄県内最大規模の城で、戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていた。1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により、ほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。2000年12月に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。2019年の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が、全焼、焼失または焼損した。周辺には同じく世界遺産に登録された、玉陵、園比屋武御嶽、石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂、天女橋などの文化財がある。當眞嗣一氏は1944年沖縄県西原町生まれ、琉球大学法文学部史学科を卒業し、沖縄県庁に勤務した。沖縄県教育庁文化課課長、沖縄県立博物館長、沖縄考古学会会長などを歴任、現在、グスク研究所を主宰している。「琉球」の表記は『隋書』が初出で、同書によると607年に隋の煬帝が「流求國」に遣使したが、言語が通ぜず1名を拉致して戻ったという記述がある。「琉球」に落ち着いたのは明代以降で、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされた。14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の三山時代に対して明が命名したもので、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国である琉球國が興ることになったが、国号と王号は琉球國中山王を承継し幕末の琉球処分まで続いた。「琉球」は隋が命名した他称であり、内政的には古くから自国を「おきなわ」、歴史的仮名遣では「お(う)きなは」に近い音で呼称していたとする研究もある。「おきなわ」の呼称は、淡海三船が記した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに、阿児奈波「あこなは」と答えたのが初出である。少なくとも鑑真らが到着した753年には、住民らが自国を「おきなわ」のように呼んでいたことが分かる。また「おもろさうし」には、平仮名の「おきなわ」という名の高級神女名が確認され、現在も那覇市安里に浮縄御嶽、ウチナーウタキ、別名、オキナワノ嶽という御嶽が現存し、県名の由来とされている。その他にも国内外の史料に、「浮縄、うきなわ」、「悪鬼納、あきなわ」、「倭急拿、うちなー」、「屋其惹、うちな」といった表記が散見される。現在の「沖縄」という漢字表記はいわゆる当て字で、新井白石の『南島誌』が初出で、長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。この「沖縄」が琉球処分後の県名に採用され、今日では一般化している。古都首里は丘の上にあり、その南縁部の頂に鎮座しているのが首里城である。平成の復元をへてよみがえった朱塗りの建物と、白色のうねる石垣が南国の空に映え、夜ともなるとライトアップで幻想的な景観をみせてくれる美しい城であった。首里城は、五百有余年にわたって存続し、琉球王国の政治・経済・文化・外交の中心的役割をはたしてきた城であった。また、琉球の築城や土木・建築技術の粋を集めて築城された沖縄を代表する城でもあった。琉球王国は、日本をはじめとして中国、朝鮮、東南アジア諸国との交流を深めるなかで優れた文化を創り上げてきた。その拠点であった首里城は華やかな王朝絵巻の象徴として、今次大戦の直前まで首里の高台でその威容を誇っていた。しかし、太平洋戦争末期の沖縄戦で一帯がもっとも激烈な戦場となり、正殿をはじめ城内および周辺の貴重な文化遺産が失われた。太平洋戦争末期の沖縄戦は、日米両軍の最後・最大の戦闘であり、激しい国内地上戦であった。勝ち目のない捨て石作戦であり、一般住民を巻き込んだ地上戦がおこなわれ、軍事物資も兵力も国民を総動員して供給するという国家総動員体制地方版として戦われた。沖縄戦では、3ヵ月以上にもおよぶ鉄の暴風が吹き荒れた。そのため20数万、という尊い人命が犠牲になり、県民の財産もことごとく奪われ、過去から継承されてきた数多くの貴重な文化遺産も消失することになった。とくに首里城跡の地下深く第32軍の司令部が置かれたこともあって、文化遺産の集中する首里の町は米軍の猛攻撃にさらされることになった。首里城の地上部分の国宝建造物や神社仏閣および石垣や赤瓦がよく保存されていた首里の町並みなど、貴重な文化遺産の数々が破壊されてしまった。また、1950年に首里城跡に琉球大学が設置され、校内所狭しと校舎が建設され、戦禍をくぐり抜けてきた城壁の一部も、大学の設置建設工事によってさらに壊されてしまった。沖縄文化の象徴を失った県民の失望は大きく、これをとり戻したいとする心情は計り知れないものがあり、首里城の復元は戦後の大きな課題になっていった。1950・60年代になると、旧琉球政府文化財保護委員会などによって復元事業が開始され、「守礼之邦」の扁額を掲げた坊門、守礼門や第二尚王統の菩提寺、円覚寺の総門などの文化遺産の復元がおこなわれてきた。1972年の復帰後は、琉球大学の移転計画もあり、その跡地利用の計画が検討され、やがて首里城跡の復元整備事業が復帰後、本格的に推進されることになった。首里城は大まかに内郭と外郭二重の石垣によって構成されている。1972年からはじまった沖縄県教育委員会が所管する首里城外郭の石垣修復事業では、首里城の表となる歓会門や久慶門などの城門とその接続石垣工事が1984年に完成し、その翌年から歓会門と久慶門内郭の復元整備が、首里城城郭等復元整備事業として継続されることになった。この事業はその後も継続的に実施され、東のアザナから南側城壁にかけて首里城外郭を時計の逆まわりに年次的に進められていった。こうして30年の歳月をかけ2002年4月、首里城の外郭をとりまく城壁の整備がすべて終了した。城郭内側の内郭の区域約4ヘクタールについては、沖縄県の本土復帰を記念する国の都市公園整備事業として、公園整備されることが閣議決定された。その公園整備の目玉となる首里城正殿の復元を含め、正殿・御庭ゾーンや城郭ゾーン、および大手城門ゾーンなどの整備なども進行した。さらに城郭外側の区域約14ヘクタールも県営公園事業として随時整備され、沖縄の本土復帰20周年にあたる1992年に、首里城正殿をはじめとする主要区域がよみがえることになった。1992年11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年には「首里城跡」として他のグスクなどとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年4月6日には、日本100名城に選定され、約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了した。そして、再建開始から40年目の2019年10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼した。これまでの、1453年、1660年、1709年、1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となった。不慮の事故をきっかけとして、世界遺産としての顕著な普遍的価値の大きさが改めて4認識されるようになった。同時に、琉球の歴史と文化を見つめなおす機運も生まれてきた。復元したばかりの貴重な建物を焼失したことは残念だが、落胆し立ち止まることがあってはならないだろうという。
第1章 首里城をとり戻せ/1 沖縄戦と首里城/2 首里城を復元せよ/3 よみがえる首里城/第2章 グスクの時代/1 先史時代の琉球/2 グスクの誕生/3 大交易時代/4 グスク時代の発展/5 三国分立から統一へ/第3章 琉球王国の象徴・首里城/1 首里城を鳥瞰する/2 復元整備に伴う正殿の発掘/3 王国の遺物たち/4 北殿と南殿/5 京の内/6 精巧優美な石垣/第4章 琉球王国の終焉と首里城/1 琉球王国の終焉/2 世界遺産になった首里城跡/3 焼失とこれから
「戻る」ボタンで戻る
|
|
|
|