徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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徒然草のページ
1.令和3年8月7日
”沢村栄治 裏切られたエース”(2021年2月 文藝春秋社刊 太田 俊明著)は、1934年に創設された読売ジャイアンツの前身・大日本東京野球倶楽部に投手として参加し1937年に日本職業野球連盟の第1回最高殊勲選手に選ばれた天才投手・沢村栄治の野球と人生を紹介している。
沢村栄治は1917年三重県宇治山田市生まれで、京都商業学校、現在の京都先端科学大学付属高等学校の投手として、1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場した。1試合23奪三振を記録するなど、才能の片鱗を見せた。1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退し、その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦し、5試合に登板し4試合は先発した。日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人であり、1947年彼の名を冠した沢村賞が制定され、該当者のない場合を除き、優秀投手に毎シーズン贈るとされている。来日したアメリカ大リーグ選抜チームと静岡草薙球場で対戦したとき、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらの超一流打者に対し好投した。試合はゲーリッグのホームランにより1対0で惜敗したが、そのときの善戦の模様は今日まで語り伝えられている。戦前のプロ野球界で、NPB史上初の最多勝利を獲得し、NPB史上初の最高殊勲選手も受賞した。史上2人目のシーズン防御率0点台、史上初の投手5冠に輝き、史上初のノーヒットノーラン達成など、さまざまな記録を打ち立てた。実働5年間の通算成績は、登板試合105、投球回765と3分の1、63勝22敗、防御率1.74、奪三振554、完投65、完封20であった。獲得したおもなタイトルは、最多勝利2回、最優秀勝率1回、最高勝率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手1回であった。太田俊明氏は1953年千葉県松戸市生まれ、東京大学在学中は硬式野球部の遊撃手として東京六大学野球で活躍した。卒業後は総合商社などに勤務し、1988年に坂本光一の筆名でで執筆した、甲子園を舞台にしたミステリーで第34回江戸川乱歩賞を受賞した。2013年の定年退職を機に小説執筆を再開し、2016年に第8回日経小説大賞を受賞した。2020年に亡くなった野村克也氏は、著書で、沢村栄治なかりせば私もいない、と書いているそうである。沢村栄治は日本プロ野球における、その年の最高の先発完投型投手に贈られる沢村賞に名を残す、職業野球黎明期の伝説的投手である。その名は、野村氏の言葉を引くまでもなく、日本野球史に燦然と輝いているが、実は沢村の職業野球における全盛期はわずか2年弱に過ぎない。1936年から1943年の8年間で63勝22敗が、不世出の天才投手・沢村栄治の職業野球における生涯成績である。沢村と同時期に同じ巨人軍などで活躍したビクトル・スタルヒンが、通算で303勝176敗、1シーズンだけで42勝をあげた時代に、この数字ぱ不世出と呼ばれる投手としてはまったく物足りないと言わざるをえない。では、数字的にはこの程度の投手がなぜ沢村賞に名を残し、時代の異なる知将・野村氏をして、沢村栄治なかりせば、と言わしめる存在になったのか。それには、もちろん理由かあり、著者はそれを書くのが、本書の目的であるという。日本における野球の最初は、1871年9月30日に横浜の外国人居留民とアメリカ軍艦の乗員との間で行われた、現在の横浜スタジアム球場の試合のようである。1872年頃に第一番中学、現在の東京大学の外国人教師・ホーレス・ウィルソンによって、学生たちの間に野球が広まった。1907年に初の有料試合が開催され、1908年にアメリカのマイナーリーグ主体のプロ野球チームが来日した。1909年に羽田球場が建設され。日本運動倶楽部が設立された。1920年に合資会社日本運動協会が設立され、日本のプロ野球の始まりとなった。次いで天勝野球団が設立され、1923年にプロ球団宣言が行われた。1923年に関東大震災の震災被害により、日本運動協会と天勝野球団ともに解散し、日本運動協会は阪神急行電鉄により宝塚運動協会として再結成された。1929年に宝塚運動協会が解散され、1934年12月26日に大日本東京野球倶楽部、東京巨人軍、現在の読売ジャイアンツが設立された。大日本東京野球倶楽部は、読売新聞社社主であった正力松太郎氏によって設立され、正力氏が初代オーナーとなった。正力氏は読売中興の祖として大正力と呼ばれ、それぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。1934年の暮れ、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム・大日本東京野球倶楽部の結成に参加した。沢村が学校を中退してプロ入りしたのは、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったためであった。等持院住職の栂道節氏が、同年大日本東京野球倶楽部専務取締役に就任する市岡忠男氏に沢村を紹介した。等持院は京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院で、足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。市岡氏は、早稲田大学野球部監督、読売新聞社社員、大日本東京野球倶楽部初代総監督、日本職業野球連盟初代理事長、東京巨人軍初代代表を歴任した。読売新聞社は1931年にアメリカ大リーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や東京六大学野球などとの対戦が組まれ、成功を収めた。しかし、1932年に野球統制令により学生選手のプロ選手との対戦が許可制になり、実質的に興業ができなくなった。そこで市岡氏、浅沼誉夫氏、三宅大輔氏、鈴木惣太郎氏の4人は、野球統制令対策として職業野球チームを結成することを正力松太郎社長に働きかけた。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で職業野球団発起人会が開かれ、6月11日には創立事務所が設けられた。この時、市岡氏は沢村を勧誘して入団を実現させた。沢村はプロ野球リーグが始まる前の1935年に、第一次アメリカ遠征に参加し、21勝8敗1分けの戦績を残した。同じ年の国内での巡業では22勝1敗で、翌1936年の第2次アメリカ遠征でも11勝11敗をあげた。そしてプロ野球リーグが開始された1936年秋に、プロ野球史上初、昭和初、20世紀初、大正生まれ初のノーヒットノーランを達成した。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。1937年春には24勝・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出された。さらにこの年は2度目のノーヒットノーランも記録するなど、黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。しかし、徴兵によって甲種合格の現役兵として帝国陸軍に入営、1938年から満期除隊の1940年途中まで軍隊生活を送り日中戦争に従軍した。前線で手榴弾を多投させられたことから、生命線である右肩を痛めた。また戦闘では左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染した。復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなった。しかし、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成した。その後、応召により予備役の兵として軍隊に戻り、1941年終盤から1942年を全て棒に振り、さらにはサイドスローで投げることも出来ず、肩への負担が少ないアンダースローに転向した。しかし、制球力を大幅に乱していたことで好成績を残すことが出来ず、1943年の出場はわずかだった。投手としては、1943年7月6日の対阪神戦の出場が最後で、3イニングで8与四死球と2被安打で5失点で降板となった。公式戦最後の出場は同年10月24日、代打での三邪飛であった。1944年シーズン開始前に巨人からついに解雇され、移籍の希望を持っていたが、鈴木惣太郎氏から諭されて現役引退となった。その後、南海軍から入団の誘いがあったが固辞した。現役引退後、1944年10月2日に2度目の応召があり、同年12月2日、フィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、屋久島沖西方にて27歳で戦死した。1959年に野球殿堂入り。1966年6月25日に第27回戦没者叙勲により勲七等青色桐葉章を追贈された。巨人は沢村の功績をたたえて、背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した。また、同年に沢村の功績と栄誉を称えて沢村栄治賞が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなった。沢村はよく、ホップする快速球を投げたと言われる。日本プロ野球における最高球速は、2016年に日本ハムファイターズの大谷翔平が記録した165キロである。2015年に、これまでないと信じられてきた全盛期の沢村か試合で全力投球する映像か発見された。沢村は現代でもほとんど見られないほどの、全身の力を効率的に使った流れるようなフォームであった。投手の球速を、投球の際の腰の移動速度と利き腕の移動速度の比から推定すると、投球映像のコンピューター解析では比率は5.38であった。これは150キロ前後の速球を投げる現代のプロ野球のエース級の5.0を凌駕し、大谷氏の5.41に近いという。当時、悪条件の中で投げた沢村が、気象条件のよいときに本来のフォームから全力投球したら、いったいどれだけ速いボールを投げたのだろう。いち野球ファソとして、それか知りたくて、著者は沢村栄治を訪ねる旅に出たという。
第1章 沢村栄治と正力松太郎ー職業野球への胎動/第2章 甲子園のエースから職業野球のエースへ/第3章 ベーブ・ルースとの対決ー東京巨人軍の誕生/第4章 職業野球リーグの創成/第5章 「私は野球を憎んでいます」/第6章 戦場と球場/第7章 そしてプロ野球が生まれた
2.8月14日
”壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分”(2019年4月 NHK出版刊 尾脇 秀和著)は、一人の人間が二つの名前と身分を同時に保持して使い分け百姓でありつつ武士でもあったりする壱人両名について融通を利かせて齟齬を解消することを最優先した江戸時代特有の秩序冠を解説している。
江戸時代の身分は世襲で固定されていたといわれるが、実際には自在に身分をまたぐ人々が全国に大勢いた。壱人両名という言葉は、江戸時代の史料に見られる、江戸時代の人々が使用したナマの表現である。同義語として、壱人弐名、一鉢両名、一身両名などがある。「壱」(「壹」)と「一」とは全くの別の漢字だが、古来通用されるので、一人両名などの表記も当然混用される。数値の表記でも「壱」を一般的に使用し、幕府の文書でも壱人両名の表記が多い。著者は、最も代表的な表記であった「壱人両名」を、これらを総称する学術用語として使用している。ちなみに壱人両名という言葉は今ではすっかり死語で、一般の辞典には載っていない。しかし「日本国語大辞典」(第二版)という、現在日本最大規模の辞典ともなると、「一人両名」という項目で、「一人で二つの名を持っていること」という意味が掲載されている。百姓が、ある時は裃を着て刀を差し、侍となって出仕する-周囲はそうと知りながら咎めず、お上もこれを認めている。なぜそんなことが、広く日本各地で行われていたのであろうか。尾脇秀和氏は1983年京都府生まれ、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程を修了し、京都近郊相給村落と近世百姓で博士(文学)号を取得し、現在、神戸大学経済経営研究所研究員、佛教大学非常勤講師である。江戸時代の身分はピラミッド型の士農工商で、一生変えられないと考えられてきた。しかし、ある時は侍、ある時は百姓、と自在に身分を変える名もなき男たちが、全国に無数にいたという。江戸時代は身分制度で身動きのできない窮屈な時代だったという概念を、根底から覆すこととなろう。なぜ別人に成りすますのであろうか、お上はなぜそれを許容したのであろうか。公家の正親町三条家に仕える大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の二人は、名前も身分も違うが実は同一人物である。それは、時間の経過や環境の変化で、名前と身分が変わっだわけではない。大小二本の刀を腰に帯びる帯刀にした姿の公家侍の大島数馬であると同時に、村では野良着を着て農作業に従事するごく普通の百姓の利左衛門でもあった。いわば一人の人間が、ある時は武士、ある時は百姓という、二つの身分と名前を使い分けていたのである。江戸時代中期以降、様々な壱人両名が、江戸や京都などの都市部から地方の村に至るまで、あちこちに存在していたことが確認できるという。伊勢国の、とある村の百姓彦兵衛は、別の村では百姓仁左衛門でもあった。武蔵国のとある村に住む神職村上式部は、その村の百姓四郎兵衛でもあった。近江国大津の町人木屋作十郎は、別の村では百姓清七でもあった。陸奥盛岡藩士の奈良伝右衛門は、同藩領の富商・佐藤屋庄六でもあった。幕府の御家人である河野勇太郎の父河野善次郎は、江戸の町の借家で商売を営む町人の善六でもあったなどなど。これらは、子供の留吉が成人して正右衛門に改名したというような、時間の経過などによって名前や身分が変化し移行したのではない。ある時は佐藤屋庄六でありつつ、またある時は奈良伝右衛門でもあるといったように、一人で二つの名前と身分を、同時に保持して使い分けていた。「士」であると同時に「商」でもあるなんて、絶対にいるはずのない存在であるが、現実にはそれは広範に存在していた。壱人両名の存在は、幕府の公的な記録でも、百姓・町人らの私的な記録でも、覆しようのない明白な事実として確認できるという。いつの時代も世の中は、原則や綺麗ごとや建前だけでは成り立たない。どんな物事にも本音と建前があり、表と裏がある。表だけ建前だけを見たのなら、江戸時代は身分が厳格に固定されていて流動性に乏しい姿しか見えてこない。しかし、本音と建前、表と裏の両方を見た時、壱人両名のような存在が、全く否定しようのない事実として浮かびあがってくる。数多の壱人両名の男たちは、誰もが知っている、名のある歴史上の人物ではなく。名もなき者たちである。壱人両名というあり方に注目した時、長い期間、変わらなかったように見える江戸時代の社会、とりわけ身分の固定とか世襲とかいわれているものの、本当の姿が見えてくる。江戸時代、一般庶民にとっての士農工商という言葉は、社会を構成する諸々の様々な職種の総称である。この四種類しか身分・職種がないとか、あるいは士・農・工・商という四段階の階級序列だとかいう意味ではない。世の中は、政治をする人、食糧生産に従事する人、服を作る人、物を交易する人など、様々な職種の存在によって成り立っている。政治もして、米も野菜も作り、魚も獲って、服も作る、などを一人でこなすことはできない。だから、ある程度の文明が形成された社会では、分業によって社会が構成され、人はその社会の一員として、果たすべき役割を担うようになる。江戸時代における士農工商は、そのような社会的分業と、それによる人々の差異を当然あるべき状態とする前提のもと、一般には肯定的な意味で使われていた言葉である。江戸時代の人々は、このような社会的分業意識に基づいて、現在自分が受け持つ役割に精勤し、その役割を次代に継承させていけば、現状通り社会は安定し、自分も、家も、国も繁栄し続けるという価値観を持っていた。その社会の安定には、各自がその役割を果たす上での、秩序も必要不可欠となる。特に治者と被治者、君臣・父子・夫婦・兄弟・長幼など、その人の社会的立場に基づく上下の差別も重視された。上位者は下位者への慈愛、下位者は上位者への敬意を求められ、その逸脱はあるまじき行為とされる社会であった。それゆえ、その地位・役割に相応しい行動と務めを果たす分相応の生き方が美徳とされた。江戸時代の社会は差(たが)いと別(わか)ちがあることを大前提として、それを肯定した上に成り立っていた社会である。江戸時代は、近現代社会とは異なる価値観や仕組みで成り立ち、人々はそれを当然として生きていた。現代社会での差別(さべつ)という言葉は、理不尽で不当な扱いを受ける、絶対的な悪としての意味で使われる。江戸時代の差別(しゃべつ)は、太陽と月は違うとか、犬と猫は違うとかいうような、当たり前の物事の差異や区別を意味する言葉であった。社会的分業と分相応の意識と相まって、差別は社会を安定させる秩序そのものでもあり、ほとんど肯定的な意味でしか使われていなかった。江戸時代と現代とで、字面も訓みも全く同じ言葉が使われていたとしても、その意味が同じでないことも多い。ゆえに過去の史料に見える言葉を、現代社会の語感や意味で読みとらないよう、十分注意せねばならない。検討する時代においてその言葉がどのような意味で使われていたかについて、当時の価値観や社会構造に即して、その時代における意味を正確に踏まえる作業が、歴史学の研究において考察の前提として重要である。現代人から見ると、壱人両名の状態は奇妙で面白く見える。名前だけでは別人だが実は同一人物、ある時は武士、またある時は町人だなんて、事実は小説よりも奇なり、という感じがする。だが、別に他人を面白がらせようと思って、そんなことをしているのではない。そこにはどんな理由があったのであろうか。壱人両名を考えることは、江戸時代はどんな社会だったかを明らかにする、一つの視点ともなるのである。事実ありのままではなく建前を重視した処理は、百姓・町人たちばかりではなく、大名が幕府に対して行う手続きにおいても慣行化していた。例えば大名には、生前に相続者を選定して幕府に届け出ておかねばならない規則があった。届け出がない状態で大名の当主が死ねば相続は認められず、原則としてその大名家は断絶となる。しかし実際はそんな状態で当主が死んだ場合、家臣や親族たちがなお当主存命の体を装って、当主が病床から後継者を届け出るという手続きを行った。つまり、死ぬ前にちゃんと届け出ていたという状況を建前として作り出すことで、無事に相続が認められたのである。このほか、相続人として幕府に届け出ている長男が死んだ場合、次男を長男本人ということにしてこれとすり替えた事例や、当主が17歳未満で死去すると相続が認められないという先例上の規則を意識して、幕府に実年齢とは異なる年齢を届け出る年齢操作が、様々な事情によって常態化していた。これらはいずれも「公辺内分」と呼ばれ、幕府には一切秘密裏に進められた。しかしその内情は、実は幕府も承知の上であり、表向き知らない体で黙認していたのである。真実なるものは、平穏な現状を犠牲にしてまで、強いて白日の下に曝される必要はない。事を荒立てることなく、世の中を穏便に推移させることこそが最優先されるべきであり、秩序は表向きにおいて守られていればよい。そのように考えて、うまく融通を利かせて調整・処理するのが、長い天下泰平の期間に醸成されていった。これが江戸時代の秩序観なのであり、壱人両名はその秩序観に基づいた顕著な方法であったといえる。特に非合法とされた壱人両名は、事実に即せば明らかに、支配される側の下位の者が、支配する側たる上位の者に虚偽の申告を行っている行為である。だが支配側が、それをうまいことやっているだけだとして黙認していることも多い。ただ何かしらの要因でそれが表沙汰になった場合、その事実は、上下の差別を重視する社会の秩序に反するから、処罰せざるを得ないだけのことなのである。江戸時代の社会秩序は、極端に言えば、厳密に守られている必要はない、ただ建前として守られているという体裁がとられていることを重視するのである。壱人両名は、このような江戸時代の秩序観に基づきつつ、社会の秩序を表向き維持して、波風を立てず現実的に推移させる、作法・慣習の一つであった。社会構造が国民を一元的に管理する近代国家への改変に伴って否定されて変化し、作法・慣習としての意味を喪失し、国家に不都合な偽詐として消滅させられていった。それは暗黙の了承下で行われていた調整行為であったがゆえに、やがて人々の記憶からも綺麗に忘れ去られていった。けれども、壱人両名を作り出していた本音と建前のあり方、特に建前的な調整行為を是とする秩序観は、現代社会でも変わらないものではないか。
序 章 二つの名前をもつ男/一章 名前と支配と身分なるもの/第二章 存在を公認される壱人両名-身分と職分/第三章 一人で二人の百姓たち-村と百姓の両人別/第四章 こちらで百姓、あちらで町人-村と町をまたぐ両人別/第五章 士と庶を兼ねる者たち-両人別ではない二重身分/第六章 それですべてがうまくいく?-作法・習慣としての壱人両名/第七章 壊される世界-壱人両名の終焉/終 章 壱人両名とは何だったのか/主な参考文献・出店史料
3.8月21日
”婆娑羅大名 佐々木道誉 ”(2021年4月 文藝春秋社刊 寺田 英視著)は、元弘の乱から建武中興の争乱が生んだ自由奔放な武人といわれ室町幕府の要職につき守護となり権勢をふるい入道して道誉と号し佐渡大夫判官入道といわれた佐々木道誉の生涯を紹介している。
婆娑羅=ばさらは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉で、実際に当時の流行語として用いられた。語源はサンスクリット語で、”vajra (伐折羅、バージラあるいはバージャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)を意味していた。平安時代には、雅楽・舞楽の分野で、伝統的な奏法を打ち破る自由な演奏を婆娑羅と称するようになった。身分秩序を無視して実力主義的で、公家や天皇といった名ばかりの権威を軽んじ、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識であった。鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指すようになった。室町時代初期、南北朝時代に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽となった。足利将軍執事で守護大名の高師直兄弟や、近江国守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国守護大名の土岐頼遠などは、ばさら的な言動や行動でばさら大名と呼ばれ、ばさらの代表格とされている。佐々木道誉は、足利幕府草創期の不動の重臣であり歴戦の強者でもあり、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護であった。華道、香道、茶道、連歌、そして能・狂言まで、現代日本人の美意識の源流はこの男にあったという。寺田英視氏は、1948年大阪府生れ、上智大学文学部史学科を卒業し、文藝春秋社に入社後、主として編輯業務に携わり、2014年に退社した。在学中から武道に親しみ、和道流空手道連盟副会長・範士師範を務めている。佐々木道誉は佐々木高氏のことで、一般的に佐々木佐渡判官入道、佐々木判官、佐々木道誉の名で知られ、道誉(導誉)は法名であり実名は高氏である。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極道誉または京極高氏とも呼ばれる。初めは、北条氏得宗家当主で鎌倉幕府第14代執権の北条高時に御相伴衆として仕えた。1331年に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では、道誉は幕府が編成した鎮圧軍に従軍した。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、1332年に供奉する阿野廉子・千種忠顕らと共に隠岐島へ配流された際には、道誉が道中警護などを務めた。後醍醐帝を隠岐に送り出し帰京したのち、後醍醐の寵臣で前権中納言の北畠具行を鎌倉へ護送する任にあたる。しかし道中の近江国柏原で幕府より処刑せよとの命をうけ、同年6月19日に具行を処刑した。後醍醐配流後も河内の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、後醍醐も隠岐を脱出して伯耆国船上山に立て籠った。1333年に幕府北条氏は、下野の足利高氏、後の尊氏らを船上山討伐に派遣した。しかし高氏は幕府に反旗を翻し、丹波国篠村で反転して京都の六波羅探題を攻略した。この時期の道誉自身の動向については良く解っていないが、足利高氏と道誉が密約して連携行動を取ったことを示す逸話がある。足利尊氏、上野の新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、六角時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となった。尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。1335年には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に道誉も従軍した。時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、道誉も上総や相模の領地を与えられた。後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めたが、新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられた。しかし、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に、道誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。建武の乱では、足利方として駿河国での手越河原の戦いに参加したが、新田義貞に敗れ弟の貞満らが戦死した。道誉自身は義貞に降伏し、以降新田勢として従軍して足利方と争ったが、箱根・竹ノ下の戦いの最中に新田軍を裏切り足利方に復帰した。この裏切りにより新田軍は全軍崩壊し敗走し、道誉を加えた足利方は新田軍を追い京都へ入り占拠した。しかし、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は京都を追われ、兵庫から九州へと逃れた。この時、道誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。九州から再び東上した足利軍は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇・義貞らと戦った。道誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に、9月中旬から29日まで補給路である琵琶湖を近江国を封鎖する比叡山包囲に当たった。やがて尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立し、尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立し、後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させた。道誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任した。1337年に、勝楽寺に城を築き、以降没するまで本拠地とした。1340年に長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴した。朝廷内部でもこれに同情して幕府に対し道誉を出羽に、秀綱を陸奥に配流するように命じた。ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に道誉父子は上総に配流された。山門に悩まされる尊氏・直義兄弟には、道誉を罰するつもりなど毛頭無かったものと推察されている。翌年、何事もなかったかのように幕政に復帰し、引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行った。1348年の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍し、帰還途中に南朝に奇襲を受け次男の秀宗が戦死した。室町幕府の政務は当初もっぱら弟の直義が主導したが、1350年から観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が発生した。道誉は当初師直派であったが、擾乱が尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属した。南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、1351年に尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨の赤松則祐と共に討伐命令を受けた。これは陰謀であり、尊氏は道誉を討つためと称して京都から近江へ出兵し、義詮は則祐討伐のため播磨へ出陣し、事実上京都を包囲する構えで、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈で、事態を悟った直義は逃亡した。道誉は以後も尊氏に従軍し、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言した。尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し、直義は失脚し急逝した。1358年に尊氏が薨去した後は、2代将軍義詮時代の政権において政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停した。この頃、道誉は義詮の絶大な支持のもと執事の任免権を握り、事実上の幕府の最高実力者として君臨した。婆娑羅を一身に体現したのが佐々木道誉である。婆娑羅は何よりも誰よりも、道誉と結びついている。道誉の家すなわち佐々木家、京極家は、宇多天皇の孫雅信王に出自し、近江を根拠地とする宇多源氏である。鎌倉時代には、京において検非違使を務める家でもあった。婆娑羅大名と言えば高師直や土岐頼遠の名もすぐに浮ぶが、彼らが時を得顔にふるまうのは一時で、戦上手ではあるが、美意識と教養の広さ深さにおいては、遥かに道誉に及ばないだろう。道誉に象徴される婆娑羅とは、単なる乱暴者の所業をいうのではない。日本人の美意識と深くかかわる何かがそこに潜んでいる。婆娑羅の内実は、能狂言から茶の湯、立花、聞香、連歌にまで及ぶ、幅広い文化の享受者であり、庇護者であり、指導者でもあった。本書で、南北朝という動乱と向背常なき時代を生き抜いた道誉の婆娑羅ぶりを通して、自由と狼籍の間に潜む日本人の出処進退と美的感覚を瞥見している。人間という社会的存在にとって永遠の難問である自由、すなわち根源的主体性の在処を垣間見る小さな足掛かりを得たいと願うという。第一章と第二章は、道誉が生きた時代背景と出自についての概略である。面倒であれば第三章の道誉の婆娑羅ぶりから読み始めて下さってもよい。興味の赴くままにお読み戴ければ、著者としては十分満足であるという。
はじめに 名物道誉一文字/第1章 佐々木氏の出自と家職、そして若き日の道誉/第2章 動乱の時代ー両統迭立と三種の神器/第3章 婆娑羅ーその実相と文化人道誉(妙法院焼討/立花/聞香/連歌/能狂言/茶寄合/楠木正儀と道誉/大原野の大饗宴/肖像自賛と道誉の死)/第4章 婆娑羅から傾奇へー変容と頽廃/第5章 根源的主体性と自由狼藉の間/あとがき 主要参考文献 佐々木道誉略年譜と関連事項
4.8月28日用
”小池一子 はじまりの種をみつける”(2021年5月 平凡社刊 小池 一子著)は、日本のファッションやアート、デザインの世界で先駆的な仕事を成し遂げてきたクリエイティブ・ディレクターの小池一子が来し方と人となりを語っている。
クリエイティブ・ディレクターは、企業や団体が広告宣伝を行う際に、そのビジュアル制作や広告戦略を指揮する仕事である。依頼主からPRしたい商品やサービスの概要、あるいは広告戦略の方針を聞いた上で、どのような手法を使って宣伝すればより効果的なのか検討し、企画や戦略を練っていく。広告宣伝の方法には、テレビCMや新聞広告、雑誌広告、ポスターや車内広告、店頭キャンペーン、インターネット広告など、いろいろな種類がある。これらを組み合わせながら、より広く周知できる方法を考案していく。広告の手法が決定すると、コピーライターやCMプランナー、アートディレクターらを集め、ポスターやCMなどの広告物の制作を行っていく。このときクリエイティブ・ディレクターは、依頼主に提案した通りの広告物が完成するようにスケジュールや品質の管理を担当する。似たような職種として、アートディレクターが挙げられ、企業によっては同じ職業として扱われることもある。しかし、制作物のビジュアルの監修が業務の中心であるアートディレクターに対して、クリエイティブ・ディレクターはビジュアル監修に加え、広告戦略の立案にも大きく関与する。そのため、美的センスやスタッフをまとめるリーダーシップだけではなく、広告手法に関する幅広い知識や経験が必要とされる。小池一子氏は1936年2月6日に、教育学者の父・矢川徳光と母・民子の間に、5人姉妹の4番目として東京に生まれた。作家で翻訳家の矢川澄子氏は、次女であり姉である。1943年に、政治家で出版社を営む小池四郎伯父と、洋裁研究所を主宰する元子伯母の養子となった。1944年の小学3、4年の時に、静岡県田方郡函南村へ疎開し、父・四郎が創設した青年訓練所のコロニアル様式の住宅で暮らした。終戦後、父・四郎が死去したが、しばらく伊豆伊東に居を構え、のち東京へ戻った。1948年に、クリスチャン・スクールの恵泉女学園中等部に入学し、高等学校まで同学園で学んだ。1954年に、早稲田大学文学部演劇科に入学し、2年時に、英文科へ転科したが、在学の5年間は、学生劇団「自由舞台」にほとんどの時間を費やし、演劇に没頭した。1959年に大学を卒業後、姉・澄子の紹介で堀内誠一氏の監修するアド・センターに入社した。同年創刊の『週刊平凡』(平凡出版、現・マガジンハウス)の連載ページ「ウィークリー・ファッション」にて、はじめて編集、執筆を担当した。以後、ファッション、デザインを中心に、執筆や編集の仕事が本格化した。久保田宣伝研究所(現・宣伝会議)でコピーライター養成講座に通った。1961年にアド・センターを退職し、フリーランスになり、高野勇氏、江島任氏と「コマート・ハウス」を設立した。1962年に編集を担当した広報誌『プワンティングインク』の創刊にアートディレクターとして田中一光氏を迎え、以後、多くの重要な仕事をともに行った。三宅一生氏との出会いもこの年のことであった。1965年にアメリカのサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ヨーロッパのロンドン、パリ、ミラノへ初めて外遊した。1966年に森英恵氏の顧客向け冊子、タブロイド判『森英恵流行通信』創刊号より編集と執筆を担当した。ヨーガン・レール氏を取材し、生涯の交友が始まった。1969年に企画、コピーライティングで「池袋パルコ」立ち上げに参加し、西武グループの広告活動に様々な提案を行った。訳詞を手がけたミュージカルの「ファンタスティックス」の公演が行われた。1970年に旭化成の研究室に参画し、テレビコマーシャルの仕事にも携わった。1973年の冬休みに、三宅一生氏、皆川魔鬼子氏とロサンゼルスヘいき、ニューヨーク、メトロポリタン美術館で開催されていた「Inventive clothes 1909-1939」展に出合った。1975年にこの展示会を京都で開催すべく、「現代衣服の源流」展と題し、企画、実施に奮闘した。主催は京都国立近代美術館と京都商工会議所、会場は京都国立近代美術館で、アートディレクターは田中一光氏、空間は杉本貴志氏、マネキン製作は向井良吉氏であった。同年にコマート・ハウスを退職し、米国・ハワイ大学所属機関「東西文化研究所」へ美術館学の研修のため半年間留学した。1976年の在米中に、「世界クラフト会議」参加のためメキシコヘ行った。田中一光氏からのハワイヘの電話で、東京デザイナーズ・スペースに発起人として参加した。ハワイから帰国後、有限会社オフィス小池を設立し、後に株式会社キチンに改称した。西武美術館のアソシェイトキュレーターとなり、1977年開催の「見えることの構造」、1979年開催の「マッキントッシュのデザイン展一現代に問う先駆者の造形 家具・建築・装飾」以降、数多の展覧会に参画した。1977年にファッションデザインを最初に美術館で取り上げた「三宅一生。一枚の布」展が西部美術館で開催された。1978年に三宅一生の本『三宅一生の発想と展開』の編集を担当し、青山に構えられた編集室に龍る日々で、実施に奮闘した。主催は京都国立近代美術館と京都商工会議所、会場は京都国立近代美術館で、アートディレクター・構成は田中一光氏、写真は横須賀功光氏、操上和美氏ほかであったった。1979年に「無印良品」の企画・監修に参画し、1980年から販売が開始された。同年に「浪漫衣裳」展の図録を編集し、京都国立近代美術館で開催された。翻訳を手がけたジュディ・シカゴ著『花もつ女-ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』がパルコ出版から出版された。1981年に、アムステルダムのアート・ディレクターズ・クラブ主催の「ジャパンデイ」でパネル・トークを行った。同催事のため、田中一光氏と『日本の色彩』を出版し、翌年リブロポートからも刊行された。ダイアナ・ヴリーランド著『アルール美しく生きて』の監修、翻訳を行った。1980年度ファッション・エディターズ・クラブFECを受賞した。1982年に演出家の渡辺浩子訳・演出のミュージカル「キャバレー」の訳詞を担当し、博品館劇場で公演が行われた。1983年に佐賀町エキジビット・スペースを設立し、主宰となった。佐賀町エキジビット・スペースは、1927年竣工の「食糧ビル」の空間を1983年に再生し、2000年までの17年間、小池一子が設立・主宰した日本初のオルタナティブ・スペースである。現在進行形のアートを発信し、森村泰昌氏、内藤礼氏、大竹伸朗氏、杉本博司氏ら多数のアーティストを輩出した。2011年に「佐賀町アーカイブ」が3331 Arts Chiyodaに開設され、現在に至っている。1927年竣工のかつては廻米問屋市場として栄えた「食糧ビル」の空間を再生し、1983年から2000年までの17年間、現在進行形のアートを発信した日本初のオルタナティブ・スペース「佐賀町エキジビット・スペース」である。森村泰昌氏、内藤礼氏、大竹伸朗氏、杉本博司氏、立花文穂氏など多数のアーティストを輩出した。2011年より「佐賀町アーカイブ」として、佐賀町エキジビット・スペースの活動と資料、作品コレクションを検証し、展示し、語り、学ぶ、アーカイブをショーケース化するという新しい試みをスタートした。1995年に、「日本文化デザイン会議95群馬」による日本文化デザイン賞授賞委員長に就任した。1996年に佐賀町エキジビット・スペースの活動が賞され、財団法人日本文化藝術財団(京都)から第三回日本現代藝術振興賞を受賞した。1997年に、DNP文化振興財団主催で現代グラフィックアートセンターで開催された、大竹伸朗「プリンティング/ペインティング」展のキュレーションを行った。2000年に国際交流基金主催で佐賀町エキジビット・スペース閉廊で開催された、ヴェネチア・ビエンナーレ第7回国際建築展日本館「少女都市」のキュレーションを行った。同年に、特定非営利活動法人AMP(Art Meeting Point)を設立した。2002年に食糧ビルディング解体にともない開催された、「エモーショナル・サイト展」の実行委員となった。2006年に70歳で武蔵野美術大学を退任し、名誉教授となった。鹿児島県霧島彫刻ふれあいの森の、作品・作家選定委員となった。2008~2009年は、ロンドンでの研修で日英を行き来する日々となった。2011年に、アーツ千代田3331内に「佐賀町アーカイブ」を設立し、「佐賀町アーカイブ」と題し、大竹伸朗氏、内藤礼氏、野又穫氏、森村泰昌氏の展覧会を開催した。2012年に三宅一生デザイン文化財団主催で21_21DESIGN SIGHTで開催された「田中一光とデザインの前後左右」展のキュレーションを行い、同時刊行の同名書籍の企画・編集を行った。2014年に、合ディレクター清水敏男氏の企画で銀座四丁目名古屋商工会館で開催された、「いまアートの鏡が真実を映す」展の実行委員となった。2015年に良品計画発行の書籍『素手時然』の編集と執筆を行った。2016から2020年まで十和田市現代美術館館長に就任し、第68回全国美術館会議にて理事に就任した。2018年に、エイボン女性年度賞2017大賞を受賞し、2019年に第22回文化庁メディア芸術祭功労賞を受賞した。2020年に群馬県立近代美術館で開催された、展覧会「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」の企画、キュレーションを行い、同カタログの編集、執筆を行った。同年に平凡社から著書『美術/中間子小池一子の現場』を出版し、良品計画から『MUJI IS』を編集、執筆し、刊行された。2021年に「東京ビエンナーレ2020/2021」の総合ディレクターとなり、企画展「東京に祈る」のキュレーションを行った。「東京ビエンナーレ」は、戦後の復興期に上野の東京都美術館で行われていた国際展で、中でも1970年、「人間と物質」をテーマにした第10回は日本の美術史に大きな足跡を残すものであった。そこから半世紀が経ち、アートや芸術のあり方も大きく変化した今の東京で、新しいフレームや仕組みを実験する場として「東京ビエンナーレ」を2020年に始めることにした。著者は、素晴らしいクリェイターたちと人生で出会えたことは、もう感謝としか言いようがないという。お互いに心からわかりあって、一緒にものをつくることができる関係というのは何にも代えがたいことである。価値観が共有できる人と何かを生み出すということ、それが自分にとっていちばん楽しいことで生活の基本であるという。
鍬と聖書が育んだ情緒/才気あふれるクリエイターたちと/衣服と美術、ものづくりの現場で/日本の社会で女性として生きるということ/はじまりの種をみつける/のこす言葉/略歴
5.令和3年9月4日
”マスターズ ゴルフ「夢の祭典」に人はなぜ感動するのか”(2021年3月 筑摩書房刊 本條 強著)は、男子ゴルフの四大メジャー大会の一角を占めるマスターズについてなぜ全ゴルファーのあこがれのトーナメントになったのかを解説している。
四大メジャー大会は、マスターズ・トーナメント、全米オープン、全英オープン、全米プロ選手権の4つを指している。マスターズは、球聖ボビー・ジョーンズが作った私的な大会がメジャーに発展していったものである。1934年にジョーンズと友人で実業家のクリフォード・ロバーツの企画により、"オーガスタ・ナショナル・インヴィテイション・トーナメント(Augusta National Invitation Tournament)"と題して開幕された。アメリカ合衆国ジョージア州のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブを会場に開かれている。マスターズというタイトルはジョーンズが嫌っていたが、当初ロバーツが考えていたもので、1939年にマスターズというタイトルになったという。本條 強氏は1956年東京生まれ、成城大学を卒業して出版社に勤務し、ゴルフやテニス雑誌の編集と記者を経て、スポーツライターになった。1998年に創刊して編集長を務めた”書斎のゴルフ”は、教養ゴルフ誌として人気を博したが、2020年惜しまれつつ休刊となった。現在、武蔵丘短期大学客員教授を務め、書斎のゴルフWEB編集長、関東ゴルフ連盟広報委員である。2021年マスターズが、2021年4月8日から4月11日までオーガスタナショナルGCで開催され、松山英樹が優勝した。前年王者のダスティン・ジョンソンに着せてもらったグリーンジャケットのほか、勝者の証としてオーガスタナショナルGCのクラブハウスを模したトロフィなどを手にした。松山は賞金207万ドル=約2億2697万円を獲得し、2013年のプロ転向後、PGAツアーの公式競技だけで得た生涯獲得賞金は3329万ドル=約36億5024万円に上る。その上、マスターズは優勝者に翌年以降の永続的な出場権を付与している。連覇がかかる2022年大会では、開幕前に歴代王者が集う恒例行事、チャンピオンズディナーのメニュー決めも担当する。また、他のメジャー3大会については、向こう5年間の出場権を確定させた。主戦場のPGAツアーでも、2025年から2026年シーズンまでのフルシードと、ザ・プレーヤーズ選手権の出場権を獲得した。マスターズの舞台となるオーガスタナショナルというゴルフコースは、溜息の出るほど美しいところだという。緑の絨毯のような芝生は陽光できらきらと輝き、アザレアと呼ばれるつつじの花は赤や白など様々な色合いで何千本と咲き乱れている。小川が流れ、池があり、松林が聳える、まさに桃源郷のようなゴルフの世界が広がっている。そしてこのすばらしい舞台で繰り広げられるマスターズは、いつも奇跡的なドラマを生み出してきた。マスターズとは名手たちのことであるが、出場する選手は腕が際だっているだけでなく、各国各地域を代表する盟主たちでもある。世界のゴルフ盟主たちが一堂に会して、世界一の座を争うからこそ、信じ難い筋書きのないドラマが生み出され、ゴルフの神様だけしか知り得ない悲劇と喜劇が起きるのである。人の一生まで変えかねないマスターズという大会は、ゴルフのメジャー4大会の一つである。メジャー4大会は、1860年に第1回大会が開催された世界最古のトーナメントである全英オープン、1895年に初大会が行われた全米オープン、1916年に始まった全米プロ、そして1934年に開催されたマスターズである。これら4つの大会はグランドスラム大会とも呼ばれ、それらのすべてを制した者はグランドスラマーと呼ばれる。4大大会のなかで、毎回同じコースで開催されるのはマスターズだけであり、一ゴルファーの意志で大会が催されることになったのもマスターズだけである。その一ゴルファーとは、1902年ジョージア州アトランタ市生まれのロバート・タイアー・“ボビー”・ジョーンズ・ジュニアである。父親のすすめで幼少期からゴルフを始め、弁護士として生計を立てながらも世界のトップアマチュアとして活躍した。ホビー・ジョーンズは当時の4大大会、全英・全米アマ、全英・全米オープンのタイトルを次々に獲得した後、それらの4大会を1年の間にすべて制した、史上初のグランドスラマーである。アマチュアなのにプロをも倒して勝利していった世界最強のゴルファーであるが、偉業を達成した後、潔く引退してしまった。その自制心に富むプレー態度から球聖、ヒッコリーシャフト時代の最も偉大な選手の一人であることから木のシャフトの伝説と呼ばれた。1930年に競技から退くと、海外メジャー・マスターズの大会創設や、開催コースであるオーガスタナショナルGCの設計にも携わった。しかし、1948年に脊髄空洞症の診断を受け、ひどい痛みと麻痺に悩まされた。車椅子生活を余儀なくされ、1971年12月18日に69歳で亡くなった。ホビー・ジョーンズが仲間だちと愉しいゴルフをしたいと思って、生まれ故郷アトランタのすぐ近くに造り上げたのが、オーガスタナショナルGCである。そのコースは大変に美しく、非常に戦略的に富んだ世界に誇るチャンピオン・コースとなった。しかもジョーンズの仲間たちは世界に名だたるチャンピオンばかりであり、必然的にジョーンズの催す大会はメジャー大会に匹敵するものとなった。1974年には世界ゴルフ殿堂が設立され、殿堂入りを果たした。生涯アマチュアとしてプレーし、球聖としてゴルフ史に名を残した。クリフォード・ロバーツは1894年アイオワ州モーニングサン生まれ、少年時代は経済的に困窮した家庭生活を送った。兄と学校の校長を殴打した後、卒業前に学校を去り、成功した旅行用衣料品のセールスマンとして働いた。その後、投機的な石油とガスのリースと生産のプロモーターとして働いた。1921年に行われた石油・ガス業界の大規模な委員会は、ウォール街株式仲買人になるための財政的手段を提供した。1920年代後半に、レイノルズ&カンパニーのパートナーになり、生涯にわたってその地位を維持した。1932年に、ロバーツとジョーンズは、ジョージア州オーガスタに、オーガスタナショナルGCを共同設立した。ロバーツは1931年から1976年まで、オーガスタナショナルGCの会長を務めた。1934年にロバーツとジョーンズは、マスターズ・トーナメントを開始し個人的にトーナメントへの招待状を送った。ロバーツは1934年から1976年まで、マスターズ・トーナメントの議長を務めた。1977年にロバーツは癌で数か月間健康を害し、辞任から1年後の1977年9月29日に83歳で、オーガスタのアイクの池のほとりで銃弾で自殺した。死後、メモリアムの議長に指名された。マスターズ・トーナメントは、毎年4月2週目の日曜日に最終日を基準に開催されている。出場選手は前年度の世界各地のツアーでの賞金ランキング上位者、メジャー優勝者などであり、マスターたちしか出場できないことから、ゴルフの祭典として敬愛されている。優勝賞金は開幕当初は特に定めないで、3日間の入場収入などを基に決定する。優勝者には優勝賞金に加えて緑色のブレザー、通称、グリーンジャケットが贈られる。優勝者はもれなくオーガスタナショナルGC名誉会員となり、当大会への生涯出場権が与えられる。しかし、2002年に大会を主催するマスターズ委員会が、一定水準のスコアでラウンドできなくなった選手に対して出場辞退を要請する手紙を送るようになった。その後、BIG3と呼ばれたアーノルド・パーマーは2004年(当時74歳)、ジャック・ニクラスは2005年(当時65歳)、ゲーリー・プレーヤーは2009年(当時73歳)に引退を表明し、競技者としての出場を終えた。3人は2012年から名誉スターターとして大会初日に始球式を行っているが、2016年はパーマーが辞退を表明した。他のメジャーは毎回開催コースが異なるが、マスターズは毎年同じオーガスタナショナルGCで開催される。このコースはとりわけグリーンの難度が高く、別名、ガラスのグリーンとも呼ばれ、アプローチショットやパットでのボールコントロールが難しい。1961年に南アフリカのゲーリー・プレーヤーが優勝し、初のアメリカ人以外の優勝者となった。黒人ゴルファーはマスターズトーナメントから禁止されていたが、1975年に、リー・エルダーが黒人選手として初めて出場した。そして1997年に、タイガー・ウッズがトーナメントで優勝した最初の有色人種になった。2000年にフィジーのビジェイ・シンがオセアニア勢初、2009年にアルゼンチンのアンヘル・カブレラが南米勢初、2021年に日本の松山英樹がアジア勢初の優勝を果たした。歴史ある全英・全米オープンと肩を並べる本物のメジャー大会になるのは並大抵のことではない。ゴルフコースのすばらしさ、出場する世界屈指のプロが繰り広げるドラマがあってこそであり、それを伝えるメディアがあればこそである。テレビの出現とともに、それらをダイレクトに視聴者に伝えることができるようになり、マスターズは本物のメジャー大会に昇格していった。マスターズが開催されるようになってから80年以上を経過した今もなお、4大大会を1年の間に制した者は出ていない。多数年に渡って4大大会を制した者でさえ、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガン、ゲーリー・プレーヤー、ジャック・ニクラウス、タイガー・ウッズの5人しかいない。ホビー・ジョーンズが成しとげた偉業を再現できる者が今後出現するかどうか、大いに愉しみなところである。本書では、マスターズの起源、舞台のオーガスタナショナルGC、またマスターズのその魅力、どんなドラマが生み出されたのかなど、そのすばらしさの秘密を、物語とともに詳細に解明している。
はじめに マスターズの魅力を余すところなく伝えます/第1章 オーガスタに宿るマスターズの精神/第2章 マスターズがメジャーになった秘密/第3章 ニクラウス、「帝王」の時代/第4章 マスターズは世界のドラマに/第5章 絶対王者、タイガーとその後の混戦時代/おわりに マスターズを愛する一ゴルファーとして
6.9月11日
”幣原喜重郎”(2021年3月 吉川弘文館刊 種稲 秀司著)は、外務次官、駐米大使、ワシントン会議日本首席全権を経て外務大臣として協調外交を展開し、戦後は内閣総理大臣に就任し憲法改定にあたるなど我が国に多大な影響を与えた幣原喜重郎の生涯を紹介している。
幣原喜重郎は大正・昭和の外交官,政治家で、1915年以後大隈重信,寺内正毅,原敬内閣の外務次官を務め,1924年加藤高明内閣の外務大臣に就任した。その後、第1次若槻礼次郎,浜口雄幸,第2次若槻内閣の外務大臣を歴任し,いわゆる幣原外交を行ったが、満州事変の収拾に失敗して下野した。1945年10月に東久邇稔彦内閣のあとを受け首相となり、占領軍の政策に従って憲法改正に着手した。労働組合法,選挙法改正などを成立させ,1946年4月の総選挙以後,野党の共同戦線に敗れ総辞職した。その後,第1次吉田茂内閣の国務大臣を務め,進歩党総裁となった。本書は、幣原の生涯を、多彩な史料や新聞雑誌記事、議会議事録などを駆使して辿り、複雑な政治事情の中で貫き通した外交理念、信念を考えている。種稲秀司氏は1974年生まれ、2010年に國學院大學大学院文学研究科博士課程後期を修了し、広島大学文書館客員研究員などを経て、現在、國學院大學文学部兼任講師、博士(歴史学)である。幣原喜重郎は1872年堺県門真一番村、現、大阪府門真市の豪農の家に生まれた。官立大阪中学校から、第三高等中学校を経て、1895年に東京帝国大学法科大学を卒業した。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり、2人の成績は常に1、2位を争ったという。大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年に外交官試験に合格し、外務省に転じた。英米、オランダに赴任したのち、1915年に外務次官、1919年に駐米大使に任ぜられ、大使在任中にワシントン会議全権を務めた。その後、二度にわたって外務大臣を務め、国際協調と中国に対する内政不干渉を掲げた幣原外交を展開した。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会・立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。1920年代の自由主義体制における国際協調路線は幣原外交とも称され、軍部の軍拡自主路線と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求した。東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。1926年に蒋介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶した。しかし、1927年に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも陸軍大臣が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は、金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部から軟弱外交と非難された。1931年夏、広東政府の外交部長が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失し、多摩川畔にあった三菱系の農場に移った。戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任した。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いたという。当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。GHQのマッカーサーと1946年1月24日に会談し、平和主義を提案した。皇室の護持と戦争放棄の考えを、幣原の側からマッカーサーに述べたとされる。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た憲法問題調査会がまとめた松本案であった。旧憲法下最後、そして女性参政権が認められた戦後初の総選挙となる1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、日本自由党が第一党となり総辞職し、第1次吉田内閣が発足した。幣原は無任所の国務大臣として入閣し、のちに復員庁総裁兼務となった。1947年の第23回衆議院議員総選挙で初当選し日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加した。しかし、片山内閣の社会主義政策を批判して、幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加し衆議院議長に就任した。1951年の議長在任中、心筋梗塞のため満78歳で死去した。幣原は英語に長けた先進的な国際人であり、ワシントン会議では、1920年代の東アジア秩序の軸となるワシントン体制成立のキーマンとなった。しかし、現時点で信頼できる幣原の伝記は少なく、日本近現代史の重要人物でありながら幣原の伝記が書かれなかったという。2019年の夏に、昭和20~26年分の幣原の手帳が公開されたが、これは公務日程と会見した人物の名前のごく一部をメモしただけのものである。幣原の心中が窺える記述はほぼ皆無で、内容の記述はなく「憲法」や「詔書」の字句もない。他の史料や報道から面会したことが確認できる人物の名前が記されていないことの方が多いなど、参照に際しては細心の注意が必要な史料である。外交官という機密を重視する職業柄もあり、また克明な記録は大戦中の空襲で焼失したためでもある。陸奥宗光や小村寿太郎、加藤高明もそうで、大戦を挟んで活躍した重光葵の史料が残っているのは例外である。幣原本人は話し好きだったが、機微な政治、外交の詳細は一切口外しなかったということで、口の堅さは有名であった。感情を表にすることを避け、プライペートを語ることも少なかった。幣原の手帳も家族や親族に関する記載はほとんどなく、学生時代からの友人もあまり幣原の人間像を語っていない。夫人の話では、まじめ一点ばりという答えしか帰ってこなかったという。幣原は何人も憎めない温厚な人格者であったが、かえってこれが幣原像に見えにくくしている。人が良すぎて自慢話や自らの弁解、人の批判、さらには事実でも他人に迷惑をかける話を一切しなかったそうである。幣原の自伝とされる『外交五十年』も、新聞記者に出放題に話したことをそのまま速記に書き取られたのがもとであった。幣原本人は不満もあったが、吾を謗るものはその謗りに任すと言い、誤りを正そうとはしなかった。これまで幣原は、議会演説や『外交五十年』から、戦前に国際協調外交を展開し強硬外交や軍部の台頭に強く抵抗した平和主義者で、戦後は日本国憲法第九条制定のキーマンとなったと理解されてきた。しかし、幣原は容易に本心を明かす人物ではなく、平和主義者というイメージだけが先行している。むしろ近年の研究では、幣原は日本の利益擁護を重視し、門戸開放主義や国際連盟に代表される新外交、言い換えればグローバルな国際協調の動きに双手をあげて賛成したのではなかったと指摘されている。本書では、幣原の生涯を描くことを通して、政治家、外交官として何をなしたのか、信念は内外の複雑な政治事情のなかで貫き通せたのか、国際協調外交や日本国憲法に結びつくものなのかを考えるという。そのため、最新の研究や未刊行史料は勿論、雑誌、聞記事、議会議事録を調査し、理想と現実のなかで、時と場所によって微妙に異なる言動、対外的アピールの重視や戦後の政治活動なども明らかにしたとのことである。
第1 おいたち-親の熱意と人の縁/第2 外務省入省と結婚/第3 日露戦争からワシントン会議まで-幣原協調外交の形成過程/第4 第一次外相時代と田中外相期/第5 満洲事変とその前夜-第二次外相時代/第6 満洲事変後から第二次世界大戦期まで-在野時代/第7 内閣総理大臣への就任と日本国憲法の誕生/第8 終戦直後の政党政治-政党政治家時代/第9 日本の外交官・幣原喜重郎-現実主義と理想主義のはざまで/略系図/略年譜
7.9月18日
”北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚からみる戦国大名”(2017年12月 平凡社刊 黒田 基樹著)は、名門今川家で寿桂尼の子として生まれ北条氏康に嫁いだ瑞渓院について政略結婚からみる戦国大名家の具体像に迫っている。
寿桂尼は駿河国の戦国大名の今川氏親の正室で、藤原北家、勧修寺流の中御門家の出自、父は権大納言中御門宣胤、子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)などがある。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し、尼御台と呼ばれた。北条氏康は戦国時代の武将、相模国の戦国大名で、後北条氏第2代当主の北条氏綱の嫡男として生まれた。後北条氏第3代目当主で、母は氏綱の正室の養珠院である。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残し、武田氏、今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。瑞渓院は戦国大名の北条氏康の正室、氏康とははとこ同士で、瑞渓院は法名、実名は不詳である。父は駿河国守護今川氏親、母は寿桂尼、兄弟に今川氏輝、今川義元、今川彦五郎、異母兄に玄広恵探、子に男子は、長男新九郎(夭折の氏親、天用院殿)、次男北条氏政、三男北条氏照、四男北条氏邦、五男北条氏規、女子では今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿の母がいる。黒田基樹氏は1965年東京都世田谷区生まれ、1898年早稲田大学教育学部卒業、1995年駒澤大学大学院博士課程(日本史学)単位取得満期退学。1999年駒澤大博士 (日本史学)、2008年駿河台大学法学部准教授、2012年教授、今日に至る。歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めている。戦国大名家の女性をみていくうえにおいて、実家の存在はとても重要である。結婚して、婚家に身を置いたとしても、実家からは家臣が付けられ、また「化粧料」などと称された所領が与えられていて、それによって基本的な生活が維持された。あくまでも実家の人間であり、実家に支えられていることで、婚家における地位も、相対的な自立性が維持されるというかたちになっていた。実家が滅亡などしてしまうと、生活はすべて婚家に依存することになり、その政治的な地位は、婚家の扱いに決定的に委ねられるものとなった。ましてや幼少期に実家が滅亡などしてしまったら、家臣も付けられず、所領も与えられない、その立場は著しく弱く、婚家の扱いにまったく依存せざるをえないものとなった。また夫の死後、子が当主になっても幼少などの場合には、後見として事実上の主人として振る舞うことになるが、そうした場合にも、実家の存在の有無は大きかった。もう一つ踏まえておきたい事柄が、実家と婚家との家格の違いである。実家が婚家よりも格上の場合、婚家における地位は相対的に尊重され、そこでの政治的立場も強く、やはりその自立性が維持されるものとなった。ましてや実家が主人、婚家が家来、あるいは実家が寄親、婚家が与力などの上下関係にあった場合には、主人同然の扱いをうけるものとなった。瑞渓院は、駿河の戦国大名・今川氏親の娘である。今川家は、室町時代に足利氏御一家の一つとして、室町幕府秩序のなかで高い政治的位置にあった。南北朝時代以来、駿河国守護を歴任した名家であった。父の氏親は、いち早く戦国大名権力を確立させ、初期の戦国大名として代表的な人物で、駿河・遠江二ヶ国を領国とし、さらには三河経略をすすめていた。これに対し、婚家の北条家は、実はその今川家の御一家の出身にあたっていた。氏親の母の北川殿は、北条家初代となる伊勢盛時(宗瑞、いわゆる北条早雲)の姉で、宗瑞はその関係から今川氏親の後見を務めながら、自ら伊豆・相模二ヶ国を領国として戦国大名へと転身を遂げた存在であった。宗瑞は戦国大名となった後北条氏の祖・初代であり、宗瑞の代の時はまだ伊勢姓であった。戦国大名の嚆矢であり、その活動は関東における戦国時代の端緒とされる。後北条氏は正式な名字は北条(北條)であるが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではく、両氏族の繁栄期には時代的に狭間がある。後代の史家が両者を区別するため、後世の伊勢氏流北条家には後北条と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から、小田原北条氏あるいは相模北条氏とも呼ばれる。北条家は元々は備中伊勢氏であり、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していた。北条の名字にこだわり改姓した理由は、上杉氏らから外来の侵略者とみなされたことから、扇谷上杉氏に代わる相模国主としての正当性を得るため、鎌倉幕府代々の執権北条氏の名跡を継承したからだと考えられている。北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に5代続いた。氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、宗瑞の別名として伝わる「長氏」「氏茂」「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられる。氏綱は宗瑞の後を継いで、領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、勝って兜の緒を締めよの遺言でも知られている。氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦において小弓公方を滅ぼした。この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に川越城の密約による決裂までは大いに協調した。氏綱は関東管領として、古河公方を背景として勢力拡大の根拠とした。この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。氏康期の1553年に甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立し、信濃において山内上杉家、越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。1568年末には武田氏の駿河今川領国への侵攻によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅した。この際に、北条氏に亡命した今川氏当主の今川氏真に迫って、氏政の子である国王丸を養子として今川氏当主の座を譲らせ、駿河今川領国を支配する大義名分を得た。しかし、越相同盟は次第に形骸化し、国王丸を今川氏当主にして駿河を併合する計画も、駿河を占領する武田軍に敗れたことで失敗に終わった。1546年の河越夜戦により、扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後に、関東公方足利氏を追って古河城を治めた。しかし、今川家における立場は、その一門衆にあたる御一家というものであった。外部の政治勢力からは、今川家とは区別された、独立した戦国大名として認識されるようになっていったが、宗瑞自身は終生、甥氏親の後見を自任していたとみられる。関東での軍事行動のかたわら、今川家の本拠・駿河国駿府にしばしば滞在するほどであった。瑞渓院が北条家に嫁いだ時、実家の今川家のほうが、明らかに婚家の北条家よりも格上であった。そうした立場が、その後の北条家における地位や立場を、大きく規定したことはいうまでもない。本書は、戦国大名小田原北条家の三代目当主の北条氏康の正妻であった、瑞渓院を主人公にするかたちをとって、北条家興亡の歴史を辿ろうとするものである。もっとも、瑞渓院その人に多くの史料や事蹟があるわけではない。そもそも、瑞渓院という呼び名自体が死後におけるもので、本名は不明である。当時の名すら伝えられていない存在ではあったが、実際は戦国大名駿河今川家の初代・今川氏親を父に、「女戦国大名」とも称された寿桂尼を母にもつ、当時では極めて名門の出とされる人物なのである。そして嫁いだ相手が、小田原北条家の三代目当主となる北条氏康であった。氏康は、武田信玄や上杉謙信と互角の抗争を繰り広げ、関東の領国化をすすめて、北条家を日本でも有数の戦国大名へと成長させた存在である。それだけでなく、後世においても、領民支配にあたる民政に卓越した才能を示した戦国大名として知られる名将名君であった。瑞渓院は、氏康がまだ北条家の嫡子の立場にあった1535年頃に嫁いだが、氏康が北条家当主になると御前様の立場になり、1571年に氏康が死去した後は、大方様として存在した。さらに、北条家が滅亡する1590年の小田原合戦の最中に自殺を遂げることで、人生の最期を衝撃的な幕引きで閉じることになった。瑞渓院は、まさにこの50年余にわたる、北条家の最盛期をともに生き続けた存在といってよい。本書で瑞渓院を主人公に取り上げるのは、戦国後期の北条家におけるその存在を再認識しつつ、かつ北条家の動向を瑞渓院の立場から俯瞰することである。これによって、これまでのような当主中心の歴史とは異なった具体像により迫ることができると思うからである。戦国大名家が大名当主の家族を中核にして形成された組織であり、それを動かしていたのが、まさしく人間であったからに他ならない。そもそも瑞渓院の婚姻自体、今川家・北条家の双方にとって、大大名の政略結婚として初めてのケースであった。そして、その子どもたちも一様に、同じような政略結婚を経験していった。戦国大名家同士による政略結婚には、どのような特徴が認められるのか、そのことも本書で注目しておきたい事柄となっているという。
はじめに 合戦や外交だけでは見えない大名家の実像/第1章 実家・今川家の人びと(名家・今川家の生まれ/クーデターで今川家当主となった父・今川氏親 ほか)/第2章 夫・氏康と子どもたち(北条氏康に嫁ぐ/北条家は今川家と同等になる ほか)/第3章 北条と今川の狭間で(今川氏輝・彦五郎の急死/「花蔵の乱」の勃発 ほか)/第4章 北条家の御前様(御前様として/相次ぐ子どもたちの婚儀 ほか)/第5章 子どもたちとの別れ(御太方様になる/早川殿との別離 ほか)
7.9月25日
”越前福井藩主 松平春嶽 明治維新を目指した徳川一門”(2021年8月 平凡社刊 安藤 優一郎著)は、福井藩の藩内改革を推し進めのち幕政にも深く関わり誰よりも早く大政奉還を唱え公武一和を目指した第16代藩主・松平春嶽の生涯を紹介している。
松平春嶽とは松平慶永のことで、第11代将軍・徳川家斉の弟徳川斉匡の8男で、松平斉善の養子となり,1838年に越前福井藩主松平家16代となった。春嶽は号で、諱は慶永、他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。中根雪江らを登用して藩政の改革をすすめ、将軍継嗣では一橋慶喜を擁立し、1858年に大老井伊直弼と対立して隠居謹慎となった。1862年に政事総裁職について公武合体につとめ、1869年に民部卿兼大蔵卿。翌年すべての公職を辞した。安藤優一郎氏は1965年千葉県生まれ、早稲田大学教育学部社会学科地理歴史専修を卒業し。同大学院文学研究科博士課程を満期退学し、1999年に寛政改革期の都市政策の研究で早大文学博士となった。国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務めた。JR東日本大人の休日倶楽部、NHK文化センターなどで、生涯学習講座の講師を務めている。松平春嶽は江戸城内の田安屋敷に1828年10月10日に生まれ、幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが以前より内定しており、1837年11月25日に正式決定した。1838年7月27日に松平斉善が若年で突然死去し、跡継ぎがいないことから、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院や、第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶の計らいにより、9月4日付で急遽松平錦之丞が養子とされた。10月20日に正式に越前松平家の家督を継承、わずか11歳で福井藩主となった。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を授かって慶永と名乗った。1839年1月10日に位記・口宣の通知があり、1月11日に日野前大納言邸において、正四位下・少将の位階・官職が与えられた。2月頃より、慶永と肥後熊本藩主・細川斉護の娘・勇姫との縁談交渉が越前藩より持ちかけられ、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認された。そして、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出し、財政基盤を盤石にすることに努めた。1840年1月に藩政の旧守派の中心人物であった家老・松平主馬が罷免され、以降の藩政は改革派に理解を示す家老岡部左膳や、側用人天方孫八・秋田八郎兵衛らが主導権を握った。そのもとで、中根雪江、鈴木主税、浅井八百里、平本平学、長谷部甚平、石原甚十郎ら改革派が活躍した。中根らの補佐を受け、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行った。また、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、老中首座の阿部正弘ら諸大名とも親交を深めた。1853年にアメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、攘夷・海防強化を主張し、斉昭に軍艦建造や参勤交代制の緩和などの提言を行った。その後、阿部正弘らとの交流や、藩士の橋本左内の影響を受けて開国派に転じた。代家慶が1853年に死去すると,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。家慶は生前,水戸の徳川斉昭の第7子を愛して一橋家の養子に入れていたが,実子の家定を廃してその一橋慶喜を後継者と決めるほどの勇断は下せないまま世を去った。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、1858年に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福と決した。同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し、1859年に隠居謹慎処分が下り安政の大獄となった。1860年3月3日に桜田門外の変で直弼が暗殺され、9月4日に恐れをなした幕府により謹慎を解除された。1862年に島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入した。7月6日に慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。1864年に一時京都守護職に就任し、朝議参予ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年12月に慶喜が将軍職に就いたが、春獄はその施政に大きな影響力をもった。京都に集まった宗城、容堂、島津久光の3名とともに、参予会議の四侯として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその勅許の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、春獄の建言・助言が大きな役割を果たした。幕府側で春嶽と政治姿勢を共有する人物が勝海舟であり、勝との関係は非常に良好で、身分は違ったもののあたかも盟友のような存在だった。勝は特に薩摩藩との太いパイプを背景に、江戸無血開城の立役者となった。西郷隆盛に代表される薩摩藩と勝の関係の深さは、幕末史ではよく指摘される点である。一方、薩摩藩と春嶽率いる福井藩の深い関係は一般にはあまり知られていないのが現状である。しかし、福井藩と薩摩藩の関係はきわめて濃密で、幕末の政治史を語る上で薩長両藩の関係に匹敵するほどの政治ラインを形成していた。維新回天の推進力となったイメージか今なお強い薩長同盟よりも、薩越同盟と言えるような両藩の連携の方が幕末の政局を牽引していたのである。しかし、両藩は慶喜の将軍擁立運動以来、十年余にもわたって政治行動をともにしたが、幕末の最終局面で挟を分かつことになった。薩摩藩はパートナーを長州藩に変更し武力で慶喜率いる徳川方を打倒し、明治維新が実現する運びとなった。幕末史は幕府認薩摩藩・長州藩など外様諸藩の対抗関係で語られるのが一般的で、福井藩のような第三極の存在が注目を浴びることはあまりない。しかし、福井藩・薩摩藩の連携か崩れ、薩摩藩・長州藩が連合したことで権力闘争の決着がついたという事実は重要なポイントであるという。大政奉還・王政復古で、新政府の議定職の一人に任命されたが、戊辰内乱から慶喜への厳しい処分が進む政界の方向に反発した。1869年に民部卿、続いて大蔵卿兼務を最後に、1870年7月、42歳でいっさいの公職を退いた。以後、自らの体験を歴史的に回顧した『逸事史補』など多くの著述をまとめた。最後の将軍徳川慶喜は大政奉還により江戸幕府の歴史にみずから幕を閉じた将軍として名を残したか、それよりも早く大政奉還を唱えていた大名が春嶽であった。大政奉還と浅からぬ因縁かあった坂本龍馬を勝海舟に紹介したことで知られ、幕末の四賢侯、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平春嶽の一人にも数えられる。春嶽は主役にはなり切れなかったものの、幕末史のキーポイントに必ず登場している。それは、福井藩の政治姿勢が、幕府本体、その敵方となる薩摩藩などとも等距離外交を展開したことで、いねば第三極としての存在感を示していたからである。春嶽は徳川家独裁の政治を必ずしも志向せず、公論を旗印として諸侯会議、すなわち雄藩連合論の共和政治を模索する政治姿勢を取った。本書では松平春嶽そして福井藩の動向に焦点を当てることで、従来の薩摩藩・長州藩・土佐藩、あるいは幕府や会津藩か主役の幕末維新史ではみえてこない歴史を解き明かしている。第一章では、春嶽の政治姿勢の背景となった福井藩の歩みに注目している。第二章では、薩摩藩など外様大名との連携により幕政進出を目指した春嶽の意図に迫っている。第三章では、薩摩藩の後押しにより政治的復権を遂げた春嶽か、政局の舞台となった京都からの退去に追い込まれる過程を追っている。第四章では、薩摩藩との連携を強化することで、慶喜や幕府を牽制する役回りを演じた春嶽の意図を探っている。第五章では、薩摩藩との連携が崩れていった背景を明らかにしている。第六章では、明治維新後の春嶽の事績を追っている。エピローグでは、幕末史における春嶽の歴史的役割を総括している。
プロローグ/第1章 春嶽、越前福井藩主となるー親藩大名の苦悩/第2章 大老井伊直弼との対決ー安政の大獄/第3章 政事総裁職への就任と横井小楠ー慶喜・春嶽政権の誕生/第4章 薩摩藩との提携路線を強めるー「薩越同盟」の可能性/第5章 戊辰戦争という踏絵ー新政府の主導権を奪われる/第6章 維新後の春嶽ー福井藩の消滅/エピローグ
8.令和3年10月2日
”後醍醐天皇と建武新政”(2021年5月 吉川弘文館刊 伊藤 喜良著)は、鎌倉幕府を倒し天皇中心に行った建武の新政を行ったがわずか3年弱で失敗に終わり足利尊氏により武家政治の再興を許した後醍醐天皇についてその生涯を紹介している。
後醍醐天皇は日本の歴史上において、もっともよく知られた天皇の一人である。討幕のために陰謀を繰り返し、兵を挙げて捕らわれ、隠岐に流罪になっても、強い意志をもって鎌倉幕府を滅ぼした。1333年7月4日=元弘3年に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒し、建武政権を樹立させ自らの親政を行った。建武の中興とも表現され、広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。しかし、建武政権は3年弱しか存続できなかった。後醍醐天皇は鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれなかった。1336年11月13日に、河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は崩壊した。足利尊氏・直義等の軍勢に京都を占拠され、足利幕府が成立した直後に吉野に逃れた後醍醐は、そこで再起をはかろうとするがならず、失意の中で死去した。以後、南北朝動乱と呼ばれる戦乱が長期間にわたって続いた。不徳の天皇、聖王、異形の王権と言われ、1人さみし(1334)い建武の新政を行った後醍醐天皇ほど、歴史的評価の揺れ動いた人物はいない。伊藤喜良氏は1944年長野県に生まれ、1974年に東北大学大学院文学研究科博士課程修了・博士(文学)、1976年に山梨県立女子短期大学講師、1978年助教授を経て、1990年福島大学行政社会学部助教授、1992年教授となった。2000年に福島大学学生部長、2009年に副学長となり、同年に定年退職し、その後、福島大学特任教授、第一工業大学教授を務めた。現在、福島大学名誉教授で、福島県文化財保護審議会会長、福島市史・塩川町史・石川町史・ふくしまの歴史等の編纂委員会委員などに就いている。鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立し、相互に皇位を交代する両統迭立が行われていた。文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。しかし、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は、自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るため、両派の排除とこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱と2度までも発覚した。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や、後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で、幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが、幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げた。足利尊氏は、京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼした後、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府が滅亡した。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還して富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始した。しかし、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促し、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。足利高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ、尊氏と改めのち鎮守府将軍に任命された。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は、奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐は妥協策として護良親王を征夷大将軍に任命した。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が、義良親王を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立した。尊氏の弟の足利直義が、後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立した。元弘4年(1334年)に立太子の儀が行われ、恒良親王が皇太子に定められたが、この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、新設機関における権限の衝突など、混乱が起こり始め新政の問題が露呈した。将軍職を解任され建武政権における発言力をも失っていた護良親王は、武力による尊氏打倒を考えていたとされ拘束されて鎌倉へ配流された。建武2年(1335年)に、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが、北条高時の弟泰家を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて、政権転覆を企てる陰謀が発覚した。公宗は後醍醐の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こり、高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し、直義らが追われる中先代の乱が起こった。この危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めたが、後醍醐は要求を退け成良親王を征夷大将軍に任命した。尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かったが、後醍醐は追って尊氏を征夷大将軍ではなく征東将軍に任じた。しかし、時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否して、そのまま鎌倉に居を据えた。尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反した。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた新田義貞を、君側の奸であると主張しその討伐を後醍醐に要請した。後醍醐は尊氏のこの要請を拒絶し、義貞に尊氏追討を命じて出陣させたが、新田軍は1335年12月に箱根・竹ノ下の戦いで敗北した。1336年1月に足利軍は入京し、後醍醐は比叡山へ逃れたが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して、いったんは足利軍を駆逐した。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京し新政は3年弱で瓦解した。同月、後醍醐は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立した。9月に後醍醐は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣したが、兵糧もつき周囲を足利方の大軍勢に包囲された。10月に比叡山を降りて足利方と和睦し、和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせ、後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し花山院に幽閉された。後醍醐は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言した。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷が対立する南北朝時代が到来し、1392年の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。後醍醐天皇と建武政権ほど近代歴史学、近代の学校教育、思想等に与えた影響力の大きな人物や政権はない。建武政権を樹立した後醍醐天皇について、その評価も近代と現代では大きく分れているのも、歴史上他に例をみない。また、前近代と近代における評価もこれまた大きく異なっている。後醍醐天皇について、明治初期までの一般的評価は「徳を欠く」評判のよくない天皇であった。しかし、それ以後、後醍醐天皇の討幕という行為について、明治維新の「王政復古」を重ね合わせ、天皇の絶対化のために政治的なイデオロギー操作がおこなわれた。皇統において、南朝が「正統化」されるだけでなく、「不徳の天皇」後醍醐は、もっとも「徳のある」天皇、「聖帝」となり、建武政権は「王政復古」をなさしめた歴史上もっとも価値ある政権に位置づけられた。皇国史観という特異な「歴史観」により、後醍醐天皇と建武政権は近代天皇制国家の国民支配、東アジア諸国への侵略の道具とされてしまった。戦後にいたると、評価は大きく変化した。南北朝動乱時代を革命的な時代とみなし、皇国史観に決別して、社会構成のあり方と人民の役割を重視する論文等が発表され、建武政権は復古反動政権と位置づけられた。その後、研究はすすみ、建武政権を君主独裁政権をめざした政権、封建王政を志向した政権、異形の王権であった等、さまざまな見解が提起されてきた。本書は建武政権の成立過程から、その政策の特徴、権力機構のあり方、公家・武家による人的構成、当時の評判・批判、建武政権の解体過程等の諸側面について、現在まで明らかになっていることを分かりやすく叙述することを目的としたものであるという。このような検討を通して、後醍醐天皇の意図したものは何であったのかを見ていくものとする。鎌倉時代から、明治維新まで、武人による「武家政治」が続く中で、例外的に「文治政治」を試みたことをどのようにみたらいいかという点に視点
を当ててみたいという。
はじめに/第1章 建武政権成立の歴史的前提(海の中の日本/日本の北と南/支配矛盾の拡大/苦悩する鎌倉幕府/王統の分裂と幕府)/第2章 陰謀から討幕へ(後醍醐の親政/天皇「御謀反」/畿内騒然/鎌倉幕府の滅亡)/第3章 建武政権の一年(後醍醐の帰京/夏から秋へ/春を謳歌する)/第4章 新政権の中央と地方(討幕一年後の状況/物狂の沙汰/地方の国衙と陸奥国府/東国と鎌倉将軍府)/第5章 矛盾と批判(栄華と憤怒の公家と武家/公武一統/「公武水火の世」への批判)/第6章 落日の日々(中先代の乱/建武政権崩壊へ/動乱の世へ)/終章 変転する建武政権の評価(「悪王」から「聖帝」へ/王権の性格をめぐって/東アジア世界の中の建武政権)/おわりに/補論 後醍醐天皇の評価をめぐって―「暗君」から「聖帝」への捏造
9.令和3年10月9日
”広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密 ”(2021年4月 集英社刊 竹村 公太郎著)は、浮世絵は人々を楽しませ和ませる美術品だったのと同時に報道写真や記録映像の役割をも果たしていたという著者の視点から江戸の地形や歴史の謎を解き知られざる江戸幕府の政治や仕組みの秘密に迫ろうとしている。
浮世絵師の祖は菱川師宣とされており、師宣は肉筆浮世絵のみならず、版本挿絵も手掛け、後に挿絵を一枚絵として独立させた。浮世絵版画は当初墨一色の表現であったが、その後、筆で丹を彩色する丹絵、丹の代わりに紅で彩色する紅絵、数色の色版を用いた紅摺絵、多くの色版を用いる錦絵と発展した。幅広い画題に秀でた浮世絵師や、特定の分野が得意な浮世絵師がいたが、画題としては、役者絵、美人画、武者絵、名所絵などさまざまである。浮世絵版画の作成においては、版元、浮世絵師、彫師、摺師の協同・分業によっていた。浮世絵師の役割は、版元からの作画依頼を受け、墨の線書きによる版下絵作成、版下絵から作成した複数枚の主版の墨摺に色指し、摺師による試し摺の確認を版元と共に行うなどであった。主な浮世絵師の系譜として、菱川派、鳥居派、宮川派、勝川派、葛飾派、北尾派、鳥文斎派、歌川派、国貞系、国芳系が挙げられる。広重は幼いころからの絵心が勝り、15歳のころ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、歌川豊廣に入門した。翌年、師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年=1818年に一遊斎の号を使用してデビューしました。竹村公太郎氏は1945年神奈川県生まれ、1970年東北大学工学部土木工学科修士課程を修了し、同年建設省に入省した。博士(工学・名城大学論文)で、一貫して河川、水資源、環境問題に従事してきた。宮ケ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て、国土交通省河川局長などを歴任した。2002年国土交通省を退職後、(公財)リバーフロント研究所代表理事を経て、(特非)日本水フォーラム代表理事・事務局長、人事院研修所客員教授を務めている。歌川広重は1797年に、江戸の八代洲河岸定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。安藤広重と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切である。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。広重は1809年2月に母を亡くし、同月に父が隠居したため、数え13歳で火消同心職を継ぎ、同年12月に父も死去した。1821年に同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。1823年に養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。1832年に仲次郎が17歳で元服し、正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋と号を改め、また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めた。始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、1828年の師・豊廣没後は風景画を主に制作した。1830年に一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになった。この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか、絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。東海道五十三次は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。または、江戸幕府のある江戸・日本橋から朝廷のある京都・三条大橋までの間の53の宿場町を繋げたものである。古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられた。東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった。「東海道五拾三次之内」は、1833年に版元の保永堂(竹之内孫八)と僊鶴堂(鶴屋喜右衛門)から共同出版され、のちに保永堂の単独出版となった。また、1849年頃に丸屋清次郎の寿鶴堂から出版された「東海道」は、画中の題が隷書で書かれているため隷書東海道と呼ばれている。「名所江戸百景」は、広重が1856年2月から1858年10月にかけて制作した、連作の浮世絵名所絵である。広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられたが、最終的には完成しなかった。二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として、版元・魚屋栄吉から刊行された。魚屋栄吉は江戸時代末期の浮世絵の版元で、小田屋、魚栄と号し、幕末に下谷新黒門町上野広小路で営業し、歌川広重、歌川国貞、2代目歌川広重、3代目歌川広重などを扱った。江戸末期の名所図会の集大成ともいえる内容で、幕末から明治にかけての図案家梅素亭玄魚の目録1枚と、119枚の図絵から成る。何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多い。視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。江戸は1854年の安政の大地震で被害を受けており、名所江戸百景は災害からの復興を祈念した世直しの意図もあった点が指摘されている。広重の生きた江戸時代後半は、社会が豊かになり、化政文化と呼ばれる爛熟した江戸文化が花開いた時代であった。東海道や中山道などの五街道が整備され、お伊勢参りや富士講などの旅行が、庶民の関心を集めた時代でもあった。この時代には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」がベストセラーになり、葛飾北斎の「富嶽三十六景」が大ヒットし、名所絵のブームが起こった。そんな時代を背景に、広重の才能に注目した保永堂が、僊鶴堂と共に制作したのが「東海道五拾三次之内」で、1833年に初めて発表された。これによって名所絵の名声を確立した広重が、さらに円熟し脂ののった時期に描いたのが1856年に始まった「名所江戸百景」である。小学生向けでも中学生向けでも、社会や日本史の教科書を開いてみると、必ずと言っていいほど、広重や葛飾北斎といった浮世絵師の作品が掲載されている。写真や映像がなかった当時、浮世絵は、人々を楽しませ、和ませる美術品であったのと同時に、報道写真や記録映像の役割をも果たしていたと思われる。筆者は建設省と呼ばれていた時代から、40年近く、国土交通省に勤務していたが、そのほとんどの期間、河川やダムに関する部署に所属していたという。技術者の仲間内では、河川屋と呼ばれ、地形と気象を相手に、何百年も前の祖先たちが行った防災・水害対策に思いを馳せるクセが、身に染みついたそうである。古文書や古地図はあったもののなかなか読み解けなかったが、古地図と並んで浮世絵が、過去の日本人が何を考え何をしてきたかを教えてくれる、とても貴重な歴史資料となりまたデータとなったという。中でも広重の描く浮世絵は有用で、風景描写の中に多くの情報量が含まれていた。広重が絵に描いた何気ない物や人や動物に気づかされることが何度もあり、江戸の人々の生活や社会はこういうことだったと、歴史の謎解きをしてくれているようであった。これまでの何冊かの著作に、地形から歴史を読み解く竹村史観などのフレーズが付けられているが、その発想の原点は広重の浮世絵をじっと見つめることにあったかもしれない。著者は、この本では、江戸時代の経済、文化、そして日本人の原点などについて、広重の絵で謎解きをしていきたいということである。
第1章.日本橋から始まる旅-もっと薄く、より小さくが、日本人のアイデンティティ-/第2章.「参勤交代」と「統一言語」/第3章.水運が形成した情報ネットワーク/第4章.戦国のアウトバーン、小名木川/第5章.関東平野の最重要地、軍事拠点「国府台」/第6章.馬糞が証明する 究極のリサイクル都市「江戸」/第7章.広重の〝禿山〟から考える エネルギー問題/8章.下谷広小路-防災都市の原点-/第9章.日本人と橋造り-対岸への願望-/10章.日本堤と吉原の遊郭-市民が守った江戸-/第11章.遊郭の窓から500年の時空へ 〝高台〟という仕掛け/第12章.ヤマタノオロチが眠る 湿地都市の宿命/第13章.文字通りの鳥瞰図/第14章.日本の命の水の物語/第15章.歴史が生んだ近代-牛から電車へ-/第16章.近代化の象徴、鉄道開通と住民運動の始まり
10.10月16日
”阪谷芳郎”(2019年3月 吉川弘文館刊 西尾 林太郎著)は、日清・日露戦争で戦時・戦後財政の中核を担い大蔵大臣、東京市長、連合国経済会議日本代表を歴任した近代日本の大蔵官僚・政治家の阪谷芳郎の生涯を紹介している。
阪谷芳郎は日本資本主義の父ともいうべき渋沢栄一の女婿で、法律学者にして東京帝国大学教授の穂積陳重を義理の兄とするなど、華麗な姻戚関係を持つ一方、その官歴・経歴も華麗であった。東京英語学校、大学予備門を経て、1884年に東京大学文学部政治学理財学科を卒業し、同年大蔵省に入省し、主計局長、大蔵次官を務めた。1906年1月から1908年1月までの間、第1次西園寺内閣蔵相の任にあって、日露戦争時の財政処理・戦後経営に手腕を発揮した。1912年から1915年まで東京市長、1917年から1941年まで貴族院議員(男爵議員)を歴任した。専修大学の学長も務め、百会長と言われたほど多くの法人、団体の会長などで活動した。父親の朗廬は、渋沢栄一の推薦により近代統計の始祖である杉亨二のいる太政官政表課に1875年1月から9か月ほど勤務しており、芳郎は父からも影響を受け統計の重要性に開眼したとみられている。西尾林太郎氏は1950年愛知県に生まれ、1974年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、1981年に同大学院政治学研究科博士後期課程を退学し、のち博士号(政治学)を取得した。北陸大学法学部助教授、愛知淑徳大学現代社会学部教授を経て、現在 愛知淑徳大学交流文化学部教授を務めている。阪谷芳郎は1863年後月郡西江原村、現・岡山県井原市に、幕末に開国派として活躍した漢学者の阪谷朗廬の四男として生まれた。1873年に父親の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年に東京英語学校に入学し、1880年に東京大学予備門を卒業した。1884年に東京大学文学部政治学科を卒業後、大蔵省に入省し、傍ら専修学校や海軍主計学校で教鞭をとった。1888年に渋沢栄一の娘と結婚し、会計法など財務に関する法律の整備に力を注いだ。1894年の日清戦争では大本営付で戦時財政の運用にあたり、戦後の財政計画も担当した。1897年に大蔵省主計局長となり、1899年に法学博士の称号を与えられ、1901年に大蔵省総務長官に就任した。1903年に大蔵次官となり、日露戦争では臨時煙草局製造準備局長と臨時国債整理局長も兼任し、軍事費の調達と戦後の財政処理を行った。1906年に第1次西園寺内閣の大蔵大臣を務め、1907年に日露戦争の功績により男爵が授けられた。1908年に大蔵大臣を辞任して大蔵省を去り、半年間外遊した。1912年から1915年まで東京市長を務め、在任中、明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立に尽力した。市長辞職後、1917年に貴族院男爵議員に選ばれ、その死去まで在任した。1928年に日本ホテル協会会長に就任し、専修大学にも教員として出講し、のち学長を務め、創設者の一人で初代学長だった相馬永胤死後の大学運営を取り仕切った。多くの会社・学校・団体や事業に関与し、百会長と評された。よく英語に通じ、カーネギー平和財団の会議や、パリ連合国政府経済会議などに出席した。大日本平和協会、日本国際連盟協会の創設にも関わり、外地の日本語教育に熱心で、日語文化学校を創設した。帝国発明協会では、1917年から1941年までの長きにわたり会長を務めた。都市計画にも関心が深く、蔵相在任時に神戸港築港計画を決定し、またのちに都市美協会会長も務めた。ただし、後日港湾を管轄する内務省から越権行為と非難され、閣内紛糾の一因となった。芳郎の人生は、大きく4つに分けることが出来よう。第一に、生まれてから東大を卒業するまでの21年間で、修学期ともいうべき時代である。第二に、大蔵省人省から蔵相辞任までの24年間で、大蔵省時代である。第三に、蔵相辞任から貴族院議員となるまでの9年間で、3回洋行し、東京市長を務めた時期である。第四に、貴族院男爵議員に互選されてから、死去するまでの24年間で、貴族院時代である。第一期の修学期の舞台は東京で、父朗廬の配慮で箕作秋坪の三叉学舎に学び、東京英語学校・大学予備門を経て、東京大学文学部に進学し政治学・経済学を学んだ。東大時代の恩師田尻稲次郎の世話で大蔵省に入り、第二の時期が始まる。官僚となって間もなく、渋沢栄一の次女琴子と結婚し、大蔵省において主計官、主計局長、次官と累進し、明治憲法体制における金融・財政制度の構築に大きく関わった。日清・日露戦争では戦時財政の中核を担い、日露戦争後、第一次西園寺内閣の蔵相を務めた。阪谷は大蔵官僚として功成り名遂げたのである。第三の時代は、阪谷にとって最も実りがあり、豊かな時代であったかもしれない。宿願であった欧米周遊を果たし、ベルン国際平和会議に委員として参加し、さらに第一次世界大戦に伴う連合国経済会議に日本政府代表として出席した。この3回の洋行で阪谷は国際的な知見を広め、国際的な人的ネットワークを作り上げた。この間、約2年半ではあったが東京市長を務め、岳父渋沢栄一とともに明治神宮の東京誘致に成功した。芳郎は、明治神宮奉賛会の実質的な責任者として外苑を中心に明治神宮の整備を続けた。出来上がった神宮の森は、今日、東京都民にとり、大規模で貴重な緑の空間となっている。大きな政治的制約も受けず、第二の時代、すなわち大蔵省時代に培い、手に入れた日本を代表する官庁エコノミストとしての名声をバックに、芳郎が比較的自由に活動できた時代であった。第四の時期は、第二・第三の時期に獲得した知見に基づき、政治・経済・外交を縦横に論じ、貴族院議員として政治に参画した。芳郎は田尻稲次郎や若槻礼次郎など大蔵省の先輩・後輩たちのように勅選議員にはなれなかったが、男爵として7年ごとの互選により、24年間にわたり貴族院に議席を維持した。この間、清浦奎吾首相より会計検査院長就任や、2度にわたって枢密院議長ないしは副議長から同顧問官就任要請があったが、すべて断っている。いずれも政治的中立性が要求されるポストで、特定の問題について、社会的に論じたり、書いたりすることが憚られた。しかし、芳郎は政治家であることを選んだが、政党に入ることはなかった。桂系の元官僚である阪谷は政友会に入ることはせず、また桂太郎との微妙な人間関係により桂自ら組織した同志会に入会を誘われることはなかった。芳郎にとって政党に自らの居場所を見出すことは困難であり、男爵議員として貴族院に自らの居場所を見出そうとした。加藤高明や若槻礼次郎は、桂の遺産とも言うべき政党の同志会と憲政会の首領として首相となった。しかし、芳郎は貴族院の指導者の一人でしかなかった。昭和初年には、自ら組織した院内会派「公正会」が一人一党主義による組織替えをしたため、組織におけるひとりの長老ではありえたが、指導者であることは困難となった。第二次護憲運動後は政党内閣の時代が到来し、貴族院を政治の前面に立てなくなった。芳郎は政党というバックを持たなかったし、衰退しつつあった山県・桂系官僚閥に依存するところが小さかった。そこで、大蔵省時代のキャリアと知見、そして第二の時代に得た知見や海外での経験とによる貴族院政治家であることを目指した。明治憲法体制の会計部門、すなわち財政のお目付け役として、重厚な国老を演じようとした。戦後、芳郎は、高橋是清発案の歳入補填公債、赤字公債の発行を抑止するための方途を講じた。戦前の会計法に替わって新たに制定され財政法は、公債や借入金でもって国の財政を購うことや公債の日本銀行引き受けを原則として禁止した。現在、この規定が現実政治の場でどの程度有効であるかはともかく、芳郎の指摘は、少なくとも戦後の財政法に生かされている。芳郎晩年の畢生の事業は、東京・横浜万博の開催であった。それは皇紀2600年奉祝という形で、日本初の万博として計画されたが、日中戦争のため延期された。しかし、第二次世界大戦後、場所を変え、より大規模に大阪万博や愛知万博という形で開催された。日本万博協会は、芳郎たちによる幻の東京・横浜万博の抽選券付回数入場券が、戦後の混乱の中で多数回収されないままになっていたことを考慮し、2つの万博での使用を認めた。ここにも芳郎の活動の痕跡を看ることができる。芳郎は、原 敬、高橋是清、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸らのように、政治家としてトップリーダーではなかった。しかし、権力の中核にこそ身を置かなかったが、明治憲法体制下において衆議院とほぼ対等な権限を待った貴族院の議員として、歴代の政府を質し、社会に情報を発信し続けた。いわば政界のサブリーダーであり、脇役プレイヤーであった。その芳郎が、近代日本の展開とどのように関わったのか、官僚出身の政党政治家とはどのように異なった道を歩んだのか、本書はこの点に留意しつつ阪谷の生涯を描こうとするものである。
はしがき/第1 誕生から東京英語学校卒業まで/第2 東京大学文学部政治学理財学科に入学/第3 大蔵省時代/第4 日清戦争と戦後経営/第5 金本位制度の導入/第6 日露戦争と戦時財政/第7 日露戦後経営と大蔵大臣阪谷/第8 二度の外遊/第9 東京市長時代/第10 第一次世界大戦と連合国パリ経済会議/第11 幻の中国幣制顧問/第12 貴族院議員になるー「公正会」を設立/第13 関東大震災からの東京復興と昭和戦前期の貴族院/第14 「紀元二千六百年」奉祝に向けて/第15 日米開戦直前の突然の死/おわりに/略系図/略年譜
11.10月23日
”古九谷の暗号 加賀藩主・前田利常がつくった洗礼盤”(2019年1月 現代書館刊 孫崎 紀子著)は、古九谷と前田利常と洗礼盤の3つを手掛かりに大村・長崎と共にキリスト教の三大布教地だった加賀藩ゆかりの古九谷の平鉢はそもそも食器などではなく実はキリシタンの洗礼盤だったという。
南蛮貿易によりキリスト教が布教され、1605年の日本の信者数は75万人ともいわれる。加賀でも高山右近の影響で多くの大名が信者となり、前田利常の時代にも多くのキリシタン藩士を抱えたが、バテレン追放令により表向きは棄教した。利常は自分のために犯した大坂の陣等の罪の洗礼ができるよう、キリシタンのシンボルを忍ばせた古九谷の絵皿=洗礼盤を藩士に贈ったという。キリスト教会には、洗礼の儀式を行うための聖堂に付属した洗礼堂があり、それは古くは矩形の小さな一室で,アプスの部分に洗礼盤が置かれていた。アプスは壁面に穿たれた半円形、または多角形に窪んだ部分である。4世紀頃からドームをもつ建造が始められ,通例そのプランは八角形であった。これは完全なる数7の次の数をとったもので,洗礼によってキリスト教徒としての生活が始ることを象徴した。10世紀までは成人に対する浸水洗礼を行うものであったため,水槽を備え,しばしば聖堂から独立して豪華な装飾を施した壮大なものも建てられた。しかし、幼児洗礼の一般化でイタリア以外は小規模化し,次第に聖堂内部の一小室に移り,さらに洗礼盤が置かれるだけとなった。洗礼盤は洗礼の用聖水の容器で、東方教会では重要ではなかったが、西方教会において特に浸礼よりも灌水が一般的となった11世紀頃より用いられるようになった。石,大理石,金属,木などでつくられ,通例聖堂内部の正面入口近くに置かれた。孫崎紀子氏は1948年生まれ、金沢大学薬学部を卒業し、同医学部附属ガン研究所助手を経て、1971年に結婚後、外交官である夫と共に、ロンドン、モスクワ、ボストン、バグダード、オタワ、タシケント、テヘランに住んだ。2014年から2017年まで、上智大学・山岡三治教授の文学研究科文化交渉学特講の講師を務めた。九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の五彩手、通称、九谷五彩という色鮮やかな上絵付けが特徴の磁器である。古九谷は江戸時代に、加賀藩支藩の大聖寺藩領九谷村で、良質の陶石が発見されたのを機に始まった。藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後、1655年頃に、藩の殖産政策として始められたが、約50年後に突然廃窯となった。窯跡は加賀市山中温泉九谷町に、1号窯、2号窯と呼ばれる2つが残っている。廃窯から約1世紀後、1807年に加賀藩が京都から青木木米を招き、金沢の春日山に春日山窯を開かせた。これを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立ち、これらの窯の製品を再興九谷という。同じ頃、能美郡の花坂山で新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。1816年に寺井村で生まれた九谷庄三は、17歳の時に小野窯に陶匠として招聘され、能登の火打谷で能登呉須と呼ばれる顔料を発見した。後の九谷焼に多大な影響を与え、26歳で故郷に戻り寺井窯を開き、西洋から入った顔料を早い時期から取り入れて彩色金欄手を確立した。明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、新久谷として欧米で人気を集めた。1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に、西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子をはじめとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。前田利常は、1594年に加賀藩祖・前田利家の庶子四男として生まれた。母は側室の千代保、寿福院で、利家56歳の時の子である。下級武士の娘であった千代保は、侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて利常が生まれた。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられ、初めて会ったのは利家が死の前年に守山城を訪ねたときのことであったという。1600年9月に、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となった。同年、跡継ぎのいなかった長兄・利長の養子となり、諱を利光とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた。徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになった。1605年6月に利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となった。利常は同母の兄弟がおらず全て異母兄弟であったため、すぐ上の兄である知好、末弟の利貞らと協調することができなかった。また、義母の芳春院と生母の寿福院が、次兄・利政の子の処遇をめぐって対立するなど、内憂に苦しめられた。1614年の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、徳川方の中でも最大の動員兵力で、大坂方の真田信繁軍と対峙した。家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した。1615年の大坂夏の陣では、家康から岡山口の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた。前田軍は大坂方の大野治房軍と戦い、苦戦しながらも勝利した。大坂の陣の終了後、家康から与えられた感状で、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してそれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んで認められた。利常、洗礼盤、古九谷の三つの言葉には、お互い繋がりはないように見える。しかし、利常と古九谷については繋がりがあり、利常は加賀百万石前田藩の三代目の藩主、古九谷は加賀藩ゆかりの焼物である。なお、本書で扱う古九谷とは、伝世品古九谷平鉢とよばれる焼物に限定されている。この伝世品は加賀藩の旧家から発見された古九谷を指し、平鉢とは深さのある大皿(直径30~40cm余)のことで、加賀ではこのように呼んでいるという。伝世品古九谷平鉢の特徴は、独特の見事な色絵であり、そのほとんどが肥前有田で焼かれた磁器素地の上に描かれている。その焼かれた窯も発掘品から同定されており、主に山辺田窯で焼かれたものとされている。山辺田窯の活動期間は限られていて、寛永中期の1630年代後半から10数年で、1650年初めには理由不明の廃窯を迎えたといわれている。この期間は加賀藩では利常の時期に当たり、火皿全体を塗りつぶすことのできる経済力を持つのは、当時は藩主以外に考えられないことである。古九谷は佐賀からこの素地を移入し、加賀で色絵が描かれたが、利常はなぜ古九谷を作らせたのであろうか。ここにもう一つの言葉、洗礼盤が関わってくる。洗礼盤とは、キリスト教信者が信者になるための儀式、洗礼に使われる器である。しかし、加賀にはかつてこの地にキリシタンがいたとか、キリスト教の布教が栄えた時代があったということについて、現在はその影も残っていない。ところが実際は、ローマには、日本で活発な教会は、長崎、大村、金沢との記録がある。実は、有名なキリシタン大名の高山右近が、金沢に26年間も住んでいたのである。秀吉の禁教令下、利常の父である藩祖前田利家が右近を加賀藩に招き、利常の兄である二代藩主利長が庇護し、加賀ではキリスト教の布教は保護されていたのである。利長存命の間、キリスト教は禁教となっていたが、加賀藩内では実は禁教は緩やかだった。しかし、家康のバテレン追放令により、ついに右近はマニラに追放となってしまった。1614年に右近がマニラヘ去り、その年に利長が亡くなり、折しも時は大坂冬の陣を迎えた。利常は幕府側より参戦し、それに続く夏の陣での勝利のあとは、幕府の禁教今に忠実に従い、厳しく藩内に臨んでいった。しかし藩内の事態は複雑で、それまでに加賀藩では、主たった藩士はほとんど全てがキリシタンとなってしまっていたのである。愚か者を装い、奇妙な言動で幕府の眼をそらしながら、実は加賀百万石の基盤をつくったとされる利常の、藩内キリシタンに対する絶妙な対策が古九谷の誕生であった。本書で、踏み絵、次いで鎖国へと続く厳しい禁救令下、伝世品古九谷平鉢に陰に陽に描きこまれているキリシタンマークと水の意匠に、そして巧妙な利常の意図に、是非ともご注目いただきたいという。
はじめに/第1章 加賀の利常とキリシタンの間/第2章 三一二枚の追賞/第3章 隠されたキリシタンマーク/第4章 「洗礼盤」の誕生と利常の守り/第5章 炭倉の三人の侍はどこへ/第6章 キリシタンの残照/第7章 利常の関与ー図柄はどこから?/参考文献/図版出典一覧/あとがき
12.10月30日
”宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性”(2020年9月 平凡社刊 大西 泰正著)は、宇喜多直家の子で豊臣秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て,文禄・慶長の役には朝鮮で活躍し若くして豊臣政権の五大老に大抜擢された宇喜多秀家の生涯を紹介している。
15世紀末から16世紀末、室町幕府が完全に失墜し、守護大名に代わって全国で戦国大名が勢力を増した。日本史上の中でも戦国時代は、現代においてもなお伝説的な武将が多く存在している。宇喜多氏は備前国の戦国大名で、本来は、地形に由来する浮田姓であるが、嫡流は佳字を当て宇喜多または宇喜田、庶流は本来の浮田を称した。宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていた。広く一般に敷衍している通説で、百済の3人の王子が備前の島に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわした。後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多や浮田を名乗ったとする説がある。応仁の乱とそれに続く長い抗争を経て、赤松氏は山名氏を排して播磨・備前・美作の支配を守護として取り戻していった。宇喜多氏はまだ山名氏の影響が残る文明期に、宇喜多寶昌と宇喜多宗家の名が西大寺周辺の金岡東荘に権益を持つ土豪として文献に表れている。当初は緩やかに赤松氏の支配に属する在地領主であったが、赤松政権内での守護代別所氏と浦上氏の主導権争い、さらに浦上村宗による下剋上の動きの中で浦上氏との紐帯を深めた。その軍事力を認められ宇喜多久家の子能家は浦上氏の股肱の臣として活動し、多くの戦功を立てた。しかし、浦上村宗の死もあっていったん没落し、能家も殺害された。能家の孫直家は、浦上宗景の傘下の国衆として台頭し、縁戚をも含めた備前の豪族を次々と滅ぼし、宗景と時に敵対し、時に協力しつつ浦上氏を圧迫するまでに成長した。美作に進出した備中の三村家親に対して、正攻法を避けて鉄砲による暗殺に成功した。三村氏とは数度に亘り干戈を交えるも、ついには備前に進行した三村軍を撃退した。その後、安芸の毛利氏と結び、浦上氏や備中の三村氏に対抗し、三村氏を毛利氏が滅ぼした後、毛利氏の余勢を借りて主家であった浦上氏を滅ぼした。東より押し寄せる織田氏に対し、初めは抵抗していたが、羽柴秀吉の誘降を受けて織田方に寝返った。毛利氏・織田氏の勢力争いに乗じて才覚を発揮し、ついに備前一国に飽き足らず、備中の一部や播磨の一部・美作などにまで勢力を広げた。直家の子秀家は、父直家が死んだときまだ幼かったため秀吉に育てられ、本能寺の変後に政権を握った秀吉のもとで直家の遺領を安堵され、備前岡山城主となった。秀吉の晩年期には、秀家は五大老の一人となり、備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、徳川・上杉・毛利・前田・島津・伊達に次ぐ第七位の大大名で、その絶頂期を迎えた。大西泰正氏は1982年岡山県生まれ、2007年 に京都教育大学大学院を修了し、専門は織豊期政治史で。現在、石川県金沢城調査研究所所員を務めている。金沢城調査研究所は、加賀藩の政治・文化・経済において中心的役割を果たした金沢城について、文献・絵画資料、遺構・遺物資料、伝統技術資料等、総合的な調査研究等を行っている。宇喜多秀家は1572年に、備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれた。1581年に父・直家が病死し、1582年に織田信長の計らいにより本領を安堵され家督を継いだ。信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮を執り、宇喜多三老ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。同年6月2日、秀家11歳の時、本能寺の変が起こって信長が死去した。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなった。元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗り秀吉の寵愛を受けて猶子となった。1584年に、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。1585年に、紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸後、阿波戦線に加わった。1586年に、九州征伐にも豊臣秀長のもと、毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎とともに日向戦線に参加した。1587年に、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられた。1588年に、豊臣秀吉の養女・豪姫を正室に迎え、外様ではあるが秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。1590年に、小田原征伐にも参加して豊臣政権を支えた。1592年に、文禄の役の大将として出陣し。李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定にあたった。1593年1月に、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。1594年5月20日に、朝鮮での功により、参議から従三位・権中納言に昇叙した。1597年に、慶長の役では毛利秀元と共に監軍として再渡海し、左軍の指揮を執って南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍した。1598年に日本へ帰国し、秀吉によって五大老の一人に任じられた。1600年に、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として福島正則らと死闘を繰り広げたが、小早川秀秋の裏切りによって瞬く間に敗北を喫し、家康によって改易の憂き目に遭った。1606年に、史上初の流人として八丈島へ配流となった。1655年に八丈島にて死去した。16世紀の終末期、豊臣秀吉が樹立した我が国全土を支配下におく政治権力は、一般的に豊臣政権と呼ばれる。徳川家康が関ヶ原合戦に勝利して徳川幕府成立の素地を固めた1600年、あるいは家康が征夷大将軍に就任して幕府を開いた1603年をその終期とみれば、秀吉の旧主織田信長の横死から数えても、豊臣政権の存在期間はわずか20年程度であった。そのわずかな期間の、さらに一時期、政権の意思決定は、複数の有力大名に委ねられた。1598年8月18日、専制をほしいままにした秀吉が伏見城にて病没した。残された後継者秀頼は6歳の幼児に過ぎないため、関ヶ原合戦までの約2年、秀頼の代行を5人の「大老」や5人の「奉行」が務めたが、「奉行」よりも「大老」の方がはるかに格上であった。ほんの一時期だが、徳川家康・前田利家・字喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五人の「大老」が国政を左右した。しかし、備前岡山の大名字喜多秀家は、関ケ原合戦に敗れて没落し、大名としての字喜多氏は滅亡した。そのため関係史料は散逸し、具体的な動向もほとんど追究されず、一般的にも著名とはいいづらい。豊臣政権の最高幹部であったにもかかわらず、秀家という人物は事実関係の多くが不明のまま、歴史的に正しく評価される機会を逸してきた。豊臣政権の構造や、政権にまつわる事実関係を解き明かすには、家康・利家らへの注目に加えて、秀家の動静を具体的に見定め、その知見を議論に組み込む必要があろう。ひるがえっていえば、秀家に視点を据えた検討が、新たな歴史像、豊臣政権像を切り開く可能性をもっているという。秀家は一地方大名にとどまらず、豊臣政権の「大老」として、短期間とはいえ、16世紀末の日本の国政に深く関わった重要人物である。しかし、近年にいたるまでその足跡は、不明確な伝承をベースに、あいまいに語られるのが通例であった。秀家と宇喜多氏についての研究自体のこうした停滞は、関係史料、特に同時代史料の残存数の絶対的不足にあるとみられ、筆者もまた、近年までそう考えてきたという。したがって、秀家の経歴も特に厳密な検証を経ることなく、近世以来の各種伝承が通説として語られている場合が少なくない。たとえば、①呼称、②元服の時期、③婚姻の時期という秀家の基本的情報についてすら諸説紛々である。おおむね20世紀段階では、①呼称は幼名=八郎、②元服の時期=天正13年(1585)3月、③婚姻の時期=天正17年春、という理解が通説といえる。論拠はいずれも、岡山藩士土肥経平の編著「備前軍記」という編纂史料であるらしい。そこで、同時代史料の断片と各種の編纂史料を比較検討すると、①幼名=八郎説には特段の問題はない。八郎を通称のように用いた形跡もあるが、②元服の時期が不明確な以上、これを幼名でなく通称とのみ断ずるのは不適切であろう。「八郎という幼名が通称としても用いられた」と想定すべきではなかろうか。②元服の時期はいま述べたように定かでない。天正13年説は、「備前軍記」でしか確認できないからか、近年は言及が避けられている。③婚姻の時期は、筆者が同時代史料を検証して、天正16年正月以前に絞り込んだ。ちなみに、②の元服と③の婚姻の年代について、現在の筆者は天正15年の可能性を探っているという。第一章では、秀家がなぜ豊臣政権の「大老」にまで立身できたのかを、4つの理由から解き明かす。第二章では、秀家による家臣団統制について考える。第三章では、大名字喜多氏の内紛、字喜多騒動について熟考する。第四章では、関ヶ原敗戦後、なぜ秀家が生きのびることができたのか、を考える。
はじめに/第一章 豊臣政権と「大老」秀家/第二章 二つの集団指導/第三章 宇喜多騒動の実像/第四章 秀家はなぜ助命されたのか/おわりに/史料出典一覧/主要参考文献/宇喜多秀家関連年表
13. 令和3年11月6日
”「スパコン富岳」後の日本 科学技術立国は復活できるか”(2021年3月 中央公論新社刊 小林 雅一著)は、最新の性能ランキングで3期連続の4冠を達成して世界一に輝いた「富岳」によって電子立国・日本は復活するのか新技術はどんな未来社会をもたらすのかなどを解説している。
国際社会における日本の競争力低下が取り沙汰されて久しい。中でも科学技術力の弱体化はしばしば指摘されるところで、確かに日本の論文発表数や世界大学ランキングの順位などは近年停滞、ないしは下落傾向にある。加速する少子高齢化や人口減少なども相まって、今後日本が衰退の道を辿るのは必至と見る向きも多いが、それは本当だろうか。そうした悲観論者に問いたい。日本の理化学研究所と富士通が共同開発した「富岳」は2020年、スパコンの計算速度などを競う世界ラッキングで2連続の王座に就いた。巨額の開発資金、そして大規模な設計チームの並み外れた頭脳と集中力が求められるスパコン・プロジェクトは、その国の経済力や科学技術力など国力を反映すると言われる。実際、過去四半世紀以上に及ぶ世界ランキングで首位に認定されたのは日本と米国、そして中国のスパコンだけである。しかも直近では日本の富岳が1位である。3期連続4冠達成 TOP500、HPCG、HPL-AI、Graph500にて世界第1位を獲得し、TOP500、HPCG、HPL-AIにおいて3期連続の世界第1位を獲得した。これを見る限り、日本の科学技術力は今なお健在で、世界でもトップクラスに位置していると見るのが妥当ではないか。確かに往年の勢いはないが、だからと言って今後も衰退の一途を辿ると決めつけることもできまいという。小林雅一氏は1963年群馬県生まれ、東京大学理学部物理学科を卒業し、同大学院理学系研究科を修了後、雑誌記者などを経てボストン大学に留学しマスコミ論を専攻した。ニューヨークで新聞社勤務、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て、2006年よりKDDI総研リサーチフェローとなり、情報セキュリティ大学院大学客員准教授も兼務している。「富岳」は理化学研究所の「京」の後継となる、日本のスーパーコンピュータである。2014年に開発開始、2020年より試行運用、2021年に本格稼働した。名称については2019年2月から4月まで公募を行い、5月にポスト「京」ネーミング委員会により7案に絞られ、更に理化学研究所理事会議により「富岳」に決定された。ハードウェアは、富士通が開発したCPUのA64FXを搭載し、京の約100倍の性能と、世界最高水準の実用性を目指している。ソフトウェアは、IHK/McKernelという名前の軽量マルチカーネルオペレーティングシステムを使用しており、LinuxとMcKernelの両方を使用し、同時に並行して動作する。設置場所は兵庫県神戸市・ポートアイランドの理化学研究所計算科学研究センターで、主要ベンダーは富士通である。日本の科学技術力についての問題は、競争力の低下に歯止めをかけ、再び上昇に転じさせるには、どうすればいいかということである。単に人口が減少するという理由だけで、それができないと断じるのは早計に過ぎるだろう。本書は富岳のようなスパコンの中核をなす「半導体」、そしてその活用対象として今、最も期待されている「AI(人工知能)」という2つの分野に焦点を当て、日本が再び科学技術立国として歩み出すための道を探っている。かつて1980年代、日本はDRAMと呼ばれる記憶用部品を中心に,世界の半導体市場を席巻した。半導体は産業の米と言われ、この分野を完全に掌握した日本は、便利で洒落た電気製品を世界市場に出荷して巨額の貿易黒字を稼ぎ出した。当時、日本はハイテク・ジャパンや電子立国などと世界から称賛された。しかし、その後の日米半導体協定などを境に、日の丸半導体、ひいては日本のエレクトロニクス産業は競争力を失っていった。その後、1990年代のインターネットーブームを境に、世界のハイテク産業を支配したのはGAFAに代表される米国の巨大IT企業だった。今、米国の巨大IT企業があらためて半導体技術に力を注いでいる。折からのAIブームに乗って、ディープラーニングと呼ばれる機械学習を高速にこなすAIチップの自主開発に乗り出したのである。AIを使った製品やサービスを生み出すソフトウェア開発競争が飽和し、今後はむしろ半導体のようなハードウェア技術がこの分野における競争力の源泉になると見られるからである。ここに日本の勝機が生まれようとしているのである。日本の半導体産業には底力があり、その卓越した設計能力は今なお健在である。理研と富士通が自主開発し、富岳に搭載した超高速プロセッサA64FXは、AI処理も得意としている。これは世界的にも高い評価を受け、米国の主要スパコンーメーカーHPEクレイも、今後このプロセッサを自社製のマシンに搭載することを決めた。A64FXには、1980年代から日本のエレクトロニクスーメーカーが技を磨き、その後も脈々と受け継いできたベクトル型プロセッサ、あるいはSIMDと呼ばれる技術が活かされている。こうした日本の伝統的技術が今、AIチップのような最近の半導体製品がARMと呼ばれる標準アーキテクチヤに従って、装いも新たに蘇ろうとしている。これは単にスパコン開発に止まらず、スマホやタブレットなどモバイル端末からウェアラブル端末、クラウド・サーバー、今後の自動運転車などからIoT製品まで、さまざまな分野に用途を広げている。富岳に搭載されたA64FXもARMアーキテクチヤに準拠しているため、今後スパコンで培われた最高レベルの技術をコンシューマー製品からサーバーなど企業向けまで広範囲のビジネスに応用していくことができる。ここに日本産業界の新たな可能性が拓かれようとしているが、チャンスを日本が確実に掴み取るためには、技術開発の礎となる先端科学の研究者をしっかりサポートする体制が必要である。世界最高の科学計算能力を誇る富岳は、本来そのために作られたようなもので、宇宙シミュレーションやがんゲノム医療など基礎研究から、新型コロナウイルス感染症対策に至るまでさまざまな領域で活用されている。他方、科学技術立国の再興をめざす日本が世界市場での存在感を取り戻すには、国内だけを見ていてはだめである。目を世界に向ければ、今、米国と中国は21世紀のハイテク覇権をめぐって激しい争いを繰り広げている。進境著しい中国企業は、米国政府による部品・技術の輸出規制など一連の制裁によって、国際市場での成長が阻まれている。基本的に米国政府が主導権を握る米中ハイテク覇権争いが、実は米国自身にもマイナスとなり、両国が次世代の技術開発で手間取る間に日本企業が世界市場で再び台頭するチャンスが生じているという。詳細は第4章で取り上げており、これは一つの事実として受け止めるべきであろう。そして最後の第5章で、スパコンの次に来ると言われる夢の超高速マシン「量子コンピュータ」の現状を展望している。ここでも米中間の技術開発競争は熾烈を極め、両国を代表する巨大IT企業や主要大学などが、互いに量子超越性と呼ばれるブレークスルーを達成した、と主張し合っている。しかし仮にそうだとしても、それを可能にした重要技術の多くは、実は日本の研究者が生み出したものである。この豊かな科学的資産を最大限に活用し、日本は21世紀を切り拓く量子コンピュータの開発でも、世界をリードしていく決意としたたかさが求められている。本書は月刊『中央公論』に連載された「スパコン世界一 『富岳』の正体」と題する記事を大幅に加筆・増強した内容となっているという。富岳を生み出した日本のコンピュータ技術力の源流は「FUJIC」にあり、1956年当時の富士写真フイルムに勤務していた技術者、岡崎文次氏(1914~98年)がほぼ独力で作り上げたそうである。FUJICの4ヵ月後に稼働し始めたETL MarkⅢ、あるいは東京大学や東芝の共同開発で1959年に完成したTACなどが最初期の日本製コンピュータとして知られている。この頃、東京大学理学部物理学科の高橋秀俊研究室に所属していた大学院生、後藤英一氏(1931~2005年)は、真空管に代わり動作が安定して故障しにくいパラメトロンという日本独自の論理素子を発明したことで知られる。この素子を使って、東大のみならず日立製作所、富士通、日本電気なども次々と国産計算機を開発していった。残念ながら、その後はより動作速度の高い素子トランジスタにとって代わられ、パラメトロン・コッピュータの時代は長く続かなかった。しかし1986年に、後藤博士はパラメトロン技術とジョセフソン素子を結合させた磁束量子パラメトロンを発明した。この新しい素子は現在、グーグルや1BM、マイクロソフトなどと競うように量子コンピュータを開発しているカナダのDウェイブが、基本的な要素技術として自社製のマシンに採用している。岡崎氏や後藤氏のような先駆者が切り拓いた豊かな土壌の上に、世界ナンバーワンのスパコン富岳が育まれたとすれば、伝統の力は今も生き続けていると見るべきであろう。後に続く科学者やエンジニアがそれを受け継ぎ、発展させてくれることを期待したい。日本の将来はそれにかかっていると言っても過言ではないだろう。
はじめに/日本の科学技術が世界を再びリードする日/第1章 富岳(Fugaku)世界No.1の衝撃(富岳のAI処理能力で、GAFAも追い越せる/スパコン開発に必須な「技術への投資感覚」)/第2章 AI半導体とハイテク・ジャパン復活の好機(富岳の「使いやすさ」は米中スパコンを圧倒ー性能ランキング「TOP500」創始者に訊く/逆転の発想から生まれた注目AI企業の自主開発スパコン)/第3章 富岳をどう活用して成果を出すかー新型コロナ対策、がんゲノム医療、宇宙シミュレーション(コロナ治療薬の候補を富岳で特定ー創薬シミュレーションの実力/がん患者の命を救う全ゲノム解析とAI-富岳で劇的スピードアップ/富岳を使えば銀河形成の過程を忠実に再現できる)/第4章 米中ハイテク覇権争いと日本ーエクサ・スケールをめぐる熾烈な国際競争/第5章 ネクスト・ステージ:量子コンピュータ 日本の実力/おわりにー先駆者が切り拓いた豊かな土壌
14.11月13日
”蓑虫放浪 蓑虫山人放浪伝 ”(2020年10月 図書刊行会刊 望月 昭秀著)は、14歳のとき郷里の美濃を出て北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々を自由に旅した漂泊の画人・蓑虫山人の足跡を明らかにする。
蓑虫山人こと、土岐源吾は、14歳で生母なかを亡くし郷里を出奔して放浪の旅に出、長崎で鉄翁祖門にまなび、東に名所あると聞けば行って絵にし、西に遺跡あると聞けば行って掘り起こし、絵と書を好み縄文遺物の発掘まで手がけた。鉄翁祖門は1791年生まれ、幕末長崎で活躍した南画家で、木下逸雲・三浦梧門と共に長崎南画三筆とされる。長崎銀屋町の桶職人日高勘右衛門の子で、11歳で父を亡くし華嶽山春徳寺13世玄翁和尚に養育された。幼少より画を好み、はじめ唐絵目利の石崎融思に漢画を、1804年からは来舶清人の江稼圃に師事して南画を学んだ。1820年に春徳寺14世住持となり、1827年に51歳の田能村竹田が春徳寺の鉄翁を訪問したことがある。蓑虫山人は21歳の時にミノムシを見て、あのような虫にも家があると感じ、天幕のような笈を自作し蓑虫を号とした。ミノムシはチョウ目・ミノガ科のガの幼虫で、一般にはその中でもオオミノガ、チャミノガの幼虫を指す。幼虫が作る巣が藁で作った雨具の蓑に形が似ているため、日本ではミノムシと呼ばれるようになった。ミノムシは身の回りの繊維であれば、葉や枝でなくても蓑を作り上げる。このため、毛糸くずや細かく切った色紙の中に蓑を取り去った幼虫を入れると、色鮮やかな蓑を作り上げる。秋に蓑を作るため俳句では秋の季語となり、ミノムシ自体は発声器官を持たないのだが、季語では「蓑虫鳴く」と扱われている。蓑虫山人は幕末から明治時代の絵師であり、考古学者でも造園家でもあった。しかしホラ吹きであり、蓑虫山人の語ったことや残された逸話のすべてを信じるわけにはいかないという。死後120年経っている人物だから、いくら疑ったところで、すでにいくつかの真偽は不明である。そこで本書では、可能な限り状況証拠を集め、蓑虫山人の行動を推測することにした。望月昭秀氏は1972年静岡市生まれ、現在、ニルソンデザイン事務所代表の傍ら、2015年からフリーペーパー「縄文ZINE」編集長をつとめている。ニルソンデザイン事務所は、2004年に個人で設立され、2013年に株式会社に法人成りした。 グラフィックデザイン全般を行い、主に書籍の装丁デザイを行っている。「縄文ZINE」は、望月氏が作る縄文時代をテーマにしたフリーペーパーである。2015年8月に創刊され、2018年12月現在第9号まで発行され、ユニークに縄文時代の紹介をしたり、縄文的視点でさまざまな物事をとらえ考えたりする内容となっている。年に3回毎号3万部を発行し、日本全国300カ所以上で配布され、グッズの販売、合本の出版・販売を行い、楽しみにしてくれる読者も増えてきているという。もともとは望月氏の個人的な企画から始まった雑誌であるが、号を重ねるごとに各地で新しい縄文ファンを発掘しているそうである。この雑誌を作成しようとぼんやりと考え始めた2014年から2015年当時、世間では「縄文」というコンテンツは、「誤解」と「偏見」にまみれて語られることが多かった。一方で縄文好きは先鋭化し、好きな人とそうでない人の間には渓谷のように深くて広い断絶がひろがり、その両岸には大きな隔たりが存在していた。「縄文ZINE」の発行の理由も実は孤独な魂の叫びの一種で、縄文の楽しさを共有したいという魂の叫びだという。田附 勝氏は1974年富山県生まれ、埼玉県立和光国際高等学校を卒業後、写真を独学で学んだ。1995年から1996年にかけてスタジオFOBOSに勤務し、1998年にフリーランスとして活動を開始した。全国を走るデコトラとトラックドライバーを撮影し、初の写真集を2007年に発表し、2012年に第37回木村伊兵衛写真賞を受賞した。蓑虫山人こと、土岐源吾は1836年美濃国、現在の岐阜県安八郡結村生まれ、家は豪農で父は好事家であった。本書は、幕末から明治初期にかけて日本という国を放浪し続けた、一人のホラ吹きの夢を追いかけたルポルターである。蓑虫山人は各地を放浪しその地の名勝や民俗を記録したが、幕末期には九州に滞在していたようである。その後約10年間足取りが一部を除いて途絶えた後、1878年に岩手県水沢、現・奥州市に水沢公園を造園し、その後、約10年間、東北地方に身を置いた。水沢公園は岩手県奥州市水沢中上野町にある都市公園で、岩手県有数の桜の名所として知られる。現在の水沢公園は500本以上の桜が咲き、樹齢300年のヒガンザクラの古木の群生は県の天然記念物に指定されている。園内には後藤新平の銅像、斎藤実の銅像、高野長英の碑、正岡子規の句碑、松平悦子の墓、七重の塔、戊辰戦争の弔魂碑、水沢公園史碑、太宰先生之碑、国体記念碑などがある。蓑虫山人は1887年に、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡の発掘調査を行った。遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見された。江戸時代にはここから発掘されたものは亀ヶ岡物と言われ、好事家に喜ばれ、遠くオランダまで売られたものもある。1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。1889年に学術調査が行われ、1895年と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われた。現在、現地には遮光器土偶をかたどったモニュメントが建てられているが、その背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土している。この時期に神田孝平の知遇を得て、遺跡発掘についての報告を神田に手紙で送り、それが日本人類学会 が発行する「東京人類学雑誌」に掲載された。日本人類学会は、自然人類学に関連する諸分野の研究者を中心とした学術団体で、設立は1884にさかのぼり、日本で最も古い学会の一つである。人類学上の事項を研究し、これに関する知識の交流をはかることを目的とし、学術集会の開催 、機関誌の刊行 、内外諸学会との交流、公開シンポジウムの開催などの活動を行っている。神田孝平は1830年美濃国不破郡岩手村生まれ、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家である。兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任した。牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学び、幕府蕃書調所教授となり、1868年に同頭取に昇進した。江戸開城後の1868年に、明治政府に1等訳官として招聘された。蓑虫山人は、1887年に一度上京しその後は再び東北に戻り、1895年に秋田県滞在中に唯一の肖像写真を残している。1896年に帰郷するが居場所が見つからず、笠松で地元民から「竹をくれるなら絵を描く」という条件で竹を集めて庵を作った。1897年に完成して「籠庵」と名付けられた庵は、車に乗せられて約15km離れた志段見まで移動して据え付けられたという。1899年には名古屋市の長母寺に身を寄せ、翌年2月に他の寺に出向き入浴した後に倒れて死去した。長母寺は愛知県名古屋市東区にある臨済宗東福寺派の寺院で、1179年にこの地の領主であった山田重忠の開基により創建された。当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号したが、1263年に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛した。中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進されたが、文禄年間の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もある。江戸時代前期の1682年に、尾張藩二代目藩主徳川光友の命により禅僧・雪渓恵恭が再興した。長母寺付近を流れる矢田川は、1868年、1896年、1903年、1911年、1925年に、度々洪水を起こした。1891年の濃尾地震により、本堂が倒壊したが、その後再建された。蓑虫山人とはいったい何者だったか、折り畳みの家を背負って旅をしたアドレスホッパーだった、幕末に西郷隆盛を助けた、勝海舟、山岡鉄舟とも知り合いだった、青森・亀ヶ岡で、あの遮光器土偶を発掘したなどなど。蓑虫の名は、バックパッカーのように生活用具一式を背負い、時には折り畳み自在の寝幌に一夜を過ごす旅のスタイルから、蓑虫山人自身が名付けたものである。奇想天外で独立独歩、そしてユーモアの達人。その人柄は多くの人々から愛され、各地にはいまも蓑虫山人が描き残した絵日記が残っている。絵日記には、幕末から明治という、ウィズコロナ時代のいまよりもさらに激動の時代を、愉快に生きた蓑虫山人と人々の暮らしが生き生きと描かれている。絵日記を眺めていると、自然と心が和み、また、蓑虫山人は人生を愉しくする天才だったと思えてくる。閉塞的な世情にも響くものがあり、2020年のいま、あらためて蓑虫山人への注目が集まっている。著者は東北地方へ足を運んだのが2006年で、それから15年近く通い続けているそうである。ある時、青森県の浪岡町にある、蓑虫山人が描いた「土器図石器図絵屏風」の存在を知ることになった。縄文時代というものに興味を持っていたけれど、幕末から明治に移り変わる激動の時代に、こんな温かな絵を残す絵師がいたのかといたく興味を持ったという。2011年に東北地方で撮影したものを一冊の写真集にまとめ、ひと区切りがつくはずだったが、震災がありそれから心の在り方が平穏を取り戻すまでに数年を要した。2013年になってから、蓑虫山人の屏風絵は、浪岡町中世の館の静かな館内でガラスケースに収められていた。資料を見た時に感じていた以上に、現物を見てみれば土器や土偶への思い入れや優しさが惨んでいた。そして、それを鑑賞する人に伝えたいと強く思って、縄文ZINEで編集長を務める望月昭秀氏に出会い、蓑虫山人の企画を雑誌に持ち込んだり、二人で取材の旅に出掛けたりして、最終的にはこの本を作るまでに至ったという。
序/年表/1、源吾/2、幕末/3、土偶/4、変人/5、放浪/6、美濃/笈の記2020/あとがき/参考文献
15.11月20日
”徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇”(2021年7月 吉川弘文館刊 小池 進著)は、徳川2代将軍秀忠の3男、3代将軍家光の弟で、駿河・遠江・甲斐・信濃など55万石を領し駿府城を居城として駿河大納言と呼ばれた徳川忠長の生涯を紹介している。
徳川忠長は江戸時代初期の大名で、1606年に秀忠の3男としてて江戸城西の丸に生まれ、母は浅井氏、幼名は国松、通称は駿河大納言と言われた。誕生日は5月7日説(徳川幕府家譜)、6月1日説(慶長見聞録案紙)、12月3日説(幕府祚胤伝)など、諸説がある。徳川家康の孫にあたり、父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも、容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたという。竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着した。父母の寵愛を一身に集め,兄の家光をさしおいて世子に擬せられたが、実現しなかった。秀忠より庶子扱いされ、松平姓を与えられ松平を称した。徳川姓が許されていた叔父の徳川義直や徳川頼宣には、宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長にはまだそれがなかった。小池進氏は1960年千葉県我孫子町生まれ、1985年に東洋大学大学院文学研究科修士課程を修了し、東洋大学文学部助手となった。2000年に同大学大学院文学研究科博士後期課程を修了し、博士(文学)の学位を取得した。現在、東洋大学非常勤講師・聖徳大学兼任講師などを務めている。徳川忠長は1616年(あるいは1618年)に甲府23万8000石を拝領して甲府藩主となり、のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。しかし、元服前で幼少の国千代が実際に入府することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。1620年に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長とした。1623年に家光の将軍宣下に際し権中納言に任官し、織田信良の娘の昌子と婚姻した。1624年に駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは、駿河大納言という名称で呼ばれるようになった。忠長は自分が将軍の実弟であることを理由に満足せず、大御所である父の秀忠に、100万石を賜るか自分を大坂城の城主にして欲しいという嘆願書を送ったという。しかし、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始めようになった。忠長の要求を知った家光からも、かつて敵対した豊臣家が所有した大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われるようになった。1626年に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行した。これと前後して忠長は弟で後の会津松平家開祖となる保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたという。しかし、最大の庇護者と言える存在であった母の江が死去したのを機に、忠長は深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始め、自身が気付かぬ内に家光との確執を深めていくことになった。1626年に家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛ける際に、大井川に無許可で施工したことが問題視され、家光の不興を買ってしまうこととなった。さらに駿府では、武家屋敷造成のために寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係にさらに大きな摩擦を生じた。1630年の浅間神社付近の賎機山の猿狩りでは、禁止されている神社付近で殺生を行なった。そもそも賎機山では、野猿が神獣として崇められ殺すこと自体が禁止され、また浅間神社は祖父家康が14歳の時に元服した、徳川将軍家にとって神聖な場所であった。そのような場所で猿狩りを行うのは、将軍家の血を引く者といえども許されないことであった。止めるよう懇願する神主に対し、忠長は反対を押し切って狩りを続け、1240匹もの猿を殺したとされている。さらに、その帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及んだ。これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。1631年に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長が寺で休息した際、小姓が雪で濡れていた薪に火を付けられなかったことに癇癪を起こし、手打ちにしてしまったという。事態を知って悲憤に駆られた小姓の父親が幕府に訴え出て、忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に忠長を勘当し、処分を家光に一任している。家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促して忠長もこれに同意し、一時平静を取り戻したが、結局は回復しなかった。これまでの乱行の数々もあって、遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまい、忠長は甲府への蟄居を命じられた。その際に秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うたが、許されなかった。1632年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されなかった。一説では、秀忠本人からも面会を拒絶されたとしている。秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収された。同年10月20日に、安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下された。その際に、朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易された。1633年12月6日に、幕命により高崎の大信寺において切腹し、享年28歳で亡くなった。墓は43回忌にあたる1675年になって大信寺に建立され、2021年現在、高崎市指定史跡となっており、硯箱、切腹に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。忠長は将軍家に連なる兄弟であったにもかかわらず、自害に追い込まれたのはなぜであろうか。世継の地位が決まらぬまま兄と同等に育てられた幼少期、兄弟の蜜月関係が保たれた駿府藩主時代、乱行から改易・自害に至るその全生涯を追い幕藩政治史のなかに位置づける。これまで、徳川忠長を真正面にすえた研究はほとんどないといってよい。多くは江戸幕府政治の展開過程のなかで、とくに家光政権の成立との関わりのなかで間接的にふれられているにすぎない。そのなかでは、忠長が改易された理由に関することが多く言及されてきた。忠長が改易されたのは、その粗暴な行動が武家諸法度に抵触したもので、幕府にすれば、将軍の弟でも厳正な処分を下すことを天下に明示するねらいがあったとしたなどである。また、元和・寛永期は幕府の大名強圧時代で、大名にとっての恐怖時代であり、大名を改易するために、罪状が明瞭を欠くものや軽微なものでも、それを口実とした疑獄性の強い改易が行われた。忠長の改易は幕府の法度に触れたもの、さもなくば嫌疑に触れたるものとされた。その後、社会経済史研究が主な対象となり、幕府政治史や制度史の研究は後景に退いていた。そうしたなかで、家光のライバル忠長という図式が定着されてきた。家光にとって忠長はライバルであり、怖い存在だけに前からの予定行動であったにちがいないという。家光の親政開始にあたり幕府権力強化のために、生まれながらの将軍権力を行使して改易したものとする。また、寛永段階では国主の資格を問題にする必要はなく、忠長はその思想的基盤をととのえるための、きわめて重要で、しかもなくてはならない無法者にされたのであり、デッチあげられたという考え方もある。「兄弟は他人の始まり」という、今日でもそれまで仲のよかった兄弟が親の遺産をめぐって泥沼の裁判を繰り広げるといった話はそれほど珍しいものではない。また日本の歴史を振り返っても、たとえば皇室では穴穂部皇子と崇峻天皇、天智天皇と天武天皇、武家においても源頼朝と義経、足利尊氏と直義といった、兄弟による権力闘争の例は枚挙にいとまがない。江戸時代においても、これらにならんで仲のよくない兄弟として、真っ先に思い浮かぶのが徳川家光と忠長の兄弟ではないだろうか。家光はよく知られた人物であるが、いっぽうで弟の忠長については、それほどという向きもあるかも知れない。この二人の確執ついては、忠長の自害からおよそ半世紀後には、早くも世上に流布していたようである。新井白石は『藩翰譜』のなかで、まだ家光が竹千代、忠長が国千代といったころ、父の将軍秀忠は弟の国千代をふかく可愛がり跡継ぎにしようと考えていたとしている。これを知った竹千代の乳母春日局が、家康の側室お勝の方を介して駿府の家康にその旨を訴えたところ、驚いた家康は急ぎ江戸に下り、何かにつけ兄の竹千代を優先し弟の国千代を押し下がらせた。また秀忠に対しても、庶子を世継に立てることは天下が乱れる基であると教え諭した。すると秀忠の考えも改まり、竹千代が世継に決まったが、このゆえに兄弟の仲も険悪になり、ついには忠長は殺害されたと世人は伝え、書物にも記されている。しかし、新井白石は家光と忠長の不仲・確執はまったくの虚構だったとする。そうだとすれば、じっさいに二人の関係はどのようなものだったのか。いっぽうで、秀忠夫妻の兄弟に対する接し方はいかなるものだったのか。そして、なぜ忠長は領地を没収され、ついには自害までしなければならなかったのだろうか。本書は、兄の家光との関係に留意しながらも、弟の忠長の方に視点をあてて、誕生から死去に至るまでの生涯を、二人の生きた時代の政治・社会状況を視野に入れながら明らかにしようとしている。また、諸問題を再検討するとともに、忠長の改易から自害に至る事件を幕藩政治史のなかに位置づけてみようとする。
兄弟の確執?-プロローグ/「越前事」-元和八年の危機/確執の始まりと家臣への道/駿府徳川藩と蜜月時代/自滅への道/改易そして自害へ/「代替わり」の危機とその後の忠長-エピローグ
16.11月27日
”職業としてのシネマ”(2021年5月 集英社刊 髙野 てるみ著)は、1980年代以降、数々の配給作品のヒットでミニシアター・ブームをつくりあげた立役者の一人である著者が、配給、バイヤー、宣伝等、現場におけるエピソードを交え、仕事の難しさ、面白さ、やりがいを伝えている。
製作された映画著作物、つまり上映興行権すなわち著作権を有するネガフィルムをプリントに複製し,これを上映興行するために興行社である映画館に一定期間貸し出すことを配給という。配給業者と興行者との間に上映料の契約が結ばれるが,その値段は作品の興行価値や劇場の等級、すなわち,そのキャパシティや設備や入場料や所在地域,そして上映期日や上映期間などによって決定される。映画配給は外国の映画の日本国内での上映権利を買いつけ、買いつけた後、上映する映画館を決め、宣伝する仕事である。外国の映画会社との交渉になるので、外国語の能力が問われる場合もある。一人前になると、カンヌやベニスなど、華やかな映画祭に参加することもある。キャリアの形成は配給会社に入ってキャリアをスタートするのが一般的だが、経験を積んだ後に自分で会社を起こしたり、フリーで活躍する人もいる。現在のインディペンデント系の配給会社は、個人単位で始められたものが多いが、独立には相当な知識と経験が必要である。本書は業界で働きたい人のための映画業界入門書である一方、ミニシアター・ブーム時代の舞台裏が余すところなく明かされていて興味深い。髙野てるみ氏は1948年東京生まれの映画プロデューサー、エデイトリアル・プロデユーサー、シネマ・エッセイストである。美大卒業後、新聞記者を経てフリーライターになり、女性誌を中心に活動し、エディターとしても関わった。ファッション、音楽、映画を主軸に、各ジャンルで活躍中のオピニオン・リーダーのインタビューを得意としてきた。1985年に広告や雑誌の企画制作をする株式会社ティー・ピーオーを設立した。大手企業PR誌、企業記事体広告などを中心に、宣伝業務、CF 制作、イベント,講演、セミナーの企画・制作と、幅広く活動してきた。1987年にフランス映画を中心としたヨーロッパ映画の輸入配給会社、巴里映画を設立した。カンヌ映画祭などで話題となった映画作品を買いつけ、話題作りをして世に出す仕事を進めてきた。これまでに、「テレーズ」「ギャルソン!」「サム・サフィ」「ミルクのお値段」「パリ猫ディノの夜」などフランス映画を中心に配給・製作を手がけた。ミニシアター系映画興行の新たなマーケットを開拓し、その後もアート作品や文化度の高い作品を世に送り出している。2007年4月より、文京学院大学で”アニメーション論”の特別講師も務めている。株式会社ティー・ピーオーは、東京都千代田区に本店のある、広告・雑誌・書籍の綜合企画制作会社である。雑誌「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」「とらばーゆ」「マリ・クレール」「流行通信」など、1980年代をリードしてきた多くの女性誌で、ファッション、食、旅、著名人インタビューの企画提案、制作などを行ってきた。企業タイアップ編集企画制作や、雑誌作りのノウハウや、有名人のネットワークを活かした企業誌も企画制作している。また、各界で活躍中の著名人の方々の著作の企画プロデュースもし、出版・書籍の取材から執筆、編集協力も手がけている。株式会社巴里映画は、東京都目黒区にあるフランス映画を中心としたヨ ーロッパ映画の輸入配給会社である。日本映画の海外紹介、輸出、映画の共同製作、映画関係印刷物の企画編集、映画人の育成なども行っている。1992年に、日仏合作作品、ヴィルジニ・テブネ監督「サム・サフィ」では、日本側のプロデューサーとなり、数多くのヒットメーキングの技を発揮した。新人監督作品の発掘にも注力し、ニュージーランド映画などを配給している。映画配給は映画産業における業務部門の一つで、単に配給と呼び、配給業務を行う企業を映画配給会社や配給会社と呼ぶ。映画作品を完成させるまでが製作、エンドユーザに向けて上映業務・接客業務を行うのが興行であり、その両部門を結ぶのが映画配給である。経済活動としてみると生産者から商品を仕入れ、小売業者に販売する卸売業にあたる。世界各国において、その国内で製作された映画は、例外を除いて第一に国内配給が行われる。製作者側と配給会社との間で、配給契約を結ぶことでこれが実現する。次に、国外での配給については、製作者側が国外配給権を国内での配給会社や国外セールスを行う会社に委託する場合と、製作者側が直接セールス窓口となる場合がある。一方、国外の作品に関して、配給会社は、自国内での配給権を買い付けて、国内での配給業務を行う。世界各地で催される映画祭や映画見本市にバイヤーを派遣し、所望の作品を見つけて権利者と交渉する。配給会社が買い付ける権利が、劇場公開権のほか、テレビ放映権、ビデオグラム化権といった2次・3次利用を含むオールライツである場合、配給会社が自国内のテレビ局やビデオメーカーにそれらの権利をセールスすることも可能である。自国内に限らず、アジア、ヨーロッパ、北米といったエリアでの権利を含めて、買い付けることもあり、その場合はそれ相応の資金が必要である。映画のセールスとは、配給会社が興行会社や個別の映画館に対して行う営業業務を指す。通常は専門の配給会社が担当するが、映画製作者自身が配給も手掛ける自主配給というケースもある。映画配給会社の仕事は大きく分けて3つあり、すでに制作されているもしくはこれから制作をする映画を買い付けること、買い付けた映画を上映する映画館を確保すること(ブッキング=営業)、映画をヒットさせるために宣伝を行うことである。映画だけでなく、DVDや主題歌などでも収益をあげなければならないのが映画配給会社なので、宣伝は非常に大事な仕事になる。内容は、タイアップ、マーチャンダイジング、前売りチケットの管理、試写会やプレス試写会、完成披露記者試写会や会見、制作発表記者会見、主演男優や女優が来日したときのイベントや記者会見、舞台挨拶などなど。さらに、TVやラジオ、新聞や雑誌、ネットなどでの宣伝など、映画配給会社の仕事は多岐に渡っている。著者が手がけてきたのは、映画ビジネス、洋画配給、そしてミニシアターで上映する単館系洋画配給ビジネスという仕事である。「買い付け」た映画作品を劇場にブッキングして、観客となる皆さんに観ていただく。映画を配給するからには、多くの方々に知っていただく必要があり、宣伝という大仕事も手がける。一度でもヒットを出そうものなら、次のヒットを願って深みにハマつていくことは否めない。ヒットとは、多くのお客さんに観に来ていただき、その作品を面白いと言ってもらうことを狙うのであって、お金持ちになるために邁進するというモチベーションとは少し違う。お金儲けを狙うなら、これほど手がかかる面倒なことには関わらないほうがいい。そうして、あくまで公開される劇場がハレの場で、そこでは配給プロデューサーは不可視の存在であり、あくまで黒子である。前作の「映画配給プロデューサーになる!」が出版されて、かなりの時間が経過したが、仕事内容の変化がほとんどないのには驚くばかりである。AIに取って代わられそうもない仕事かもしれない。映画を観て楽しむ側からは、常に映画は、「キレイごと」「イイとこどり」で語られている。大学で教えていたのは映画論であり、その素晴らしさを広く世に伝えるビジネスである。配給の仕事については、自分から触れたことはないし、尋ねられもしなかった。世の中で映画のことが語られる場合はキレイごとであり、まずは、スターについて、カリスマ的監督について話題にのぼる。完成した映画は、多くの人々の力の結晶で情熱の賜物。素晴らしいと感じられるように、感動できるように作られているのだから、それが観客側から観た映画というものなのだから、それで良いのだ。前もって「盛られた」宣伝によって、すでにかなり「洗脳」されて劇場へと誘われていることに気づいてもいないはずだ。だからこそ、配給という仕事、宣伝という仕事は、表立つ必要がなくていい。著者は、影の存在であるところに、ささやかな誇りを感じてもいる。しかし、自分が好きな映画は、配給会社に就職しても配給できるとは限らないので、映画が好きなら肥給の仕事はしないほうがいいという。配給の仕事には宣伝の仕事がカップリングされている。映画を買い付けてから、劇場公開までの間、ほぼこの業務は続く。映画文化、芸術の話を誇りをもって、映画を作った映画監督になり代わってやる仕事なのだから、売り込みに躊躇など無用である。自社映画の宣伝の渦中ともなれば、よその映画など観ている暇もない。映画は観るのが一番楽しくて、送り手になるのは難しいため、映画好きほど、配給の仕事を避けたほうがよいのは、映画ファンとして好きな映画を観る時間がなくなるからである。
まえがき/第1章 知られざる「配給」という仕事/第2章 配給プロデューサーは「バイヤー」でもある/第3章 配給に「宣伝」はなぜ必要かー1+1=2が不正解な仕事/第4章 「監督」は王様である/第5章 王様に逆らう「女優」と媚びない「俳優」/第6章 パンデミック時代を迎えた「映画館」/あとがきにかえて-映画は決して、なくならない
17.令和3年12月4日
”2035年「ガソリン車」消滅”(2021年6月 青春出版社刊 安井 孝之著)は、製造業における環境問題に対する活動の一つであるカーボンニュートラルに関連して日本政府が打ち出した2035年ガソリン車の新車販売禁止について日本の自動車産業の動向を中心に今後の業界の展望を行っている。
自動車業界の動きが目まぐるしく、100年に一度の大変革の波がうねっている。19世紀末にドイツでガソリン車が発明され、20世紀に自動車産業は大きく成長した。ガソリン車の誕生から100年以上たった今、運転手なしでもクルマが走る自動運転やCO2排出量をゼロにする電動化の開発競争が業界を大きく揺さぶっている。その大変革には欧米や中国の自動車メーカー、米国の巨大なIT企業も参入し、かつてない競争が進行中である。生きるか死ぬかという言葉が、自動車メーカーの経営者の口から飛び出すほどの危機感も漂う。そこに地球温暖化をストップさせようとする世界的な脱炭素への動きが加わり、自動車業界の競争をさらにヒートアップさせた。日本政府も2020年秋に、2050年までにCO2排出量を実質ゼロにするカーボンニュートラルの実現を宣言した。安井孝之氏は1957年兵庫県生まれ、稲田大学理工学部を卒業し、東京工業大学大学院を修了した。日経ビジネス記者を経て、1988年に朝日新聞社に入社し、東京経済部・大阪経済部の記者として、自動車、流通、不動産、財政、金融、産業政策などをおもに取材した。東京経済部次長を経て、2005年編集委員となり、2017年に退職し、現在、Gemba Lab代表、ジャーナリストで、東洋大学非常勤講師を務めている。カーボンニュートラルは環境化学の用語の一つであり、製造業における環境問題に対する活動の用語の一つでもある。日本語では炭素中立と言い、何かを生産したり一連の人為的活動を行った際に、排出される二酸化炭素と吸収される二酸化炭素が同じ量にする、という目標である。カーボンニュートラルな植物利用と炭素量変化の流れを、持続的に繰り返すのがカーボンニュートラルである。植物の茎・葉・根などは全て有機化合物で出来ている。その植物が種から成長するとき、光合成により大気中の二酸化炭素の炭素原子を取り込んで有機化合物を作り、植物のからだを作る。そのため植物を燃やして二酸化炭素を発生させても、空気中に排出される二酸化炭素の中の炭素原子は、もともと空気中に存在した炭素原子を植物が取り込んだものである、そのため、大気中の二酸化炭素総量の増減には影響を与えないため、二酸化炭素=炭素循環量に対して中立である言われる。現在、地球温暖化の進行とそれによる諸影響が問題となっている。地球温暖化の主な原因の一つとして大気中の二酸化炭素の濃度が上昇していることが挙げられ、二酸化炭素の濃度の上昇を抑えることで地球温暖化の進行を抑えようとする動きがある。この動きの中でカーボンニュートラルという概念が頻繁に登場するようになった。そして、人間活動で排出する温室効果ガスの量よりも植物や海などが吸収する温室効果ガスの量の方が多い状態をカーボンネガティブ、人間が何らかの一連の活動を通して温室効果ガス、特に二酸化炭素を削減した際、排出される量より多く吸収することをカーボンポジティブと言う。戦後のエネルギー革命により石油、ガスの普及に伴う炭の需要減で山林が荒廃した。しかし今では、薪ストーブは暖炉とともにカーボンニュートラルの観点からも見直されている。近年、カーボンニュートラルに近い植物由来のバイオマスエタノールなどが使われたり、持続可能性を考慮したうえで薪・枯れ草・木質ペレットなど植物由来燃料の利用が行われたりしている。また廃棄後に焼却されて二酸化炭素を排出する一方で、吸収はほとんどない石油由来のプラスチックの代替として、トウモロコシなどを原料とするバイオプラスチックが製造されている。2007年4月に、ノルウェーのイェンス・ストルテンベルク首相は、カーボンニュートラルを2050年までに国家レベルで実現する政策目標を打ち出した。国家レベルでこのような政策が決定されたのは初めての例だとされている。また、同年12月、コスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領は、2021年までに国家レベルのカーボンニュートラルを実現する目標を発表した。海外においては、Nike、Google、Yahoo!、Marks & Spencer、香港上海銀行、Dellなど大手企業が、自社のカーボンニュートラル化宣言を行い、温室効果ガス削減に取り組んでいる。日本においても、グリーン電力証書を活用した企業の温室効果ガス削減が行われている。しかし、グリーン電力証書については、追加性の要素が不足しているとの声もあり、環境省で取り扱い方針を検討中である。さらに、2020年10月に菅総理が所信表明演説で、2050年にカーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すと宣言した。この宣言によって、自動車業界はカーボンニュートラル化に必要なこととして、車の使用時でのCO2排水を抑えるだけでなく、製造の段階で発生するCO2を抑え、自動車の電動化を計画している。それを受けて2035年に純粋なガソリン車の新車販売を禁止することが決まった。それ以降は国内で、HV(ハイブリッド車)やEV(電気自動車)、FCV(燃料電池車)などしか売ることはできず、新車販売市場からガソリン車は姿を消す。世界的な脱炭素、電動化の流れの中でクルマはどう変わっていくのであろうか、また、テスラ、グーグル、アップル、中国企業が続々と市場参入してくる中で、日本のメーカーは競争力を維持できるでのあろうか。日本経済を支える大きな柱である自動車産業は、今後20~30年の間、大きな変革期を迎え、事業構造を一新させなければならない。自動車産業に関わる550万人といわれる人たちへの影響は計り知れず、その変化は自動車産業にとどまらない。カーボンニュートラルは私たちの生活全般を見直し、人類が200年にわたって燃やし続けた化石燃料を使わない暮らしの実現を意味する。すべての産業と私たちの生活を大きく変える21世紀の産業革命が起きようとしている。ガソリン車の消滅はそのひとコマではあるが、とても重要なひとコマである。人やモノを移動するモビリテイは、インターネットがいくら発展しても人類のリアルな生活にはなくてはならない存在である。大変革には痛みを伴うが、今始まったカーボンニュートラルヘの挑戦は、地球温暖化をストップし、私たちの生活のグリーン化を目指している。また同時に進行するクルマの自動運転は、交通事故死ゼロと高齢になっても自由にどこでも移動できる社会を実現するポテンシャルを持っている。そんなワクワクする理想の未来への新しいカーレースが始まったのである。2050カーボンニュートラルと自動車の電動化問題は、2020年末に降ってわくように現れた。だが前向きにとらえれば、自動車産業がこれまで抱えてきた二つの原罪(環境負荷と交通事故)を100年ぶりに克服できるチャンスが到来したとみることができる。また、今後30年にわたり再エネ発電を誘致できる地方の活性化策にもなる。日本には技術蓄積が少ない風力発電の部品製造や組み立て・建設といった、新しい産業を生み出す力も秘めている。自動車産業が失う雇用も少なくはないだろうが、今後30年の間に生まれる新産業を雇用の受け皿とし、痛みを最小化する努力を続けるしかない。ガソリン車が消滅する日は、理想の姿へのマイルストーンであり、グリーン経済へと日本が進化するチャンスととらえたいとのことである。2021年4月にオンラインで聞かれた気候変動サミットで、バイデン大統領は温室効果ガスを2030年までに、2005年比で50~52%削減すると表明した。菅首相も従来の目標値を見直し、2030年までに2013年比で46%削減すると踏み込んだ。ホンダの三部敏弘社長は、2040年までに世界で売るすべての自動車をEVとFCVにすると宣言した。日本メーカーが得意なガソリン車やハイブリッド車から手を引き、完全な電動化へと大きく舵を切った。期限を切って、完全な電動化を表明したのはホンダが初めてである。一方、日本自動車工業会の会長でもあるトヨタ自動車の豊田章男社長は、自工会の会見で、合成燃料を普及させればガソリン車やハイブリッド車もカーボンニュートラル実現後も走ることができると、EV化一辺倒の動きに改めて釘を刺した。カーボンニュートラルをゴールにしたカーレースは始まったばかりで、ゴールまで目が離せない状況が続く。画期的なイノベーションが起きれば局面が大転換することもあるが、重要なのは私たちが目指しているのは産業や生活をグリーン化し、持続可能な地球に戻すという理想の未来という点である。本書では、現在進行中のカーレースの現状と課題を紹介するとともに、2050年のカーボッニュートラルのゴールに向けてどのように歩んでいけるのか、どんな道がより望ましいかを考え、指し示す。また、私たちの生活がどのように変わるのかもわかりやすく説明している。自動車の電動化についてEV派対反EV派といった極端な二項対立で論じる向きがあるが、この本では丁寧に論述することに注力したそうである。新聞やテレビなどの日々の報道だけでは自動車産業の電動化やカーボンニュートラルの本質を知ることは難しい。それは断片的な内容が多いからであり、本書を書くにあたって、目の前で起きている事実を大づかみに理解することを目指した。自動車産業の未来と私たちの暮らしの行く末の正しい姿を知りたいと思う人たちの一助にこの本がなってくれれば幸いであるという。
はじめに/第1章 ガソリン車の寿命は、あと10余年?「2035年、100%電動化」の衝撃/第2章 ハイブリッド車(HV)・電気自動車(EV)・燃料電池車(FCV)/第3章 一歩先行く中国、米国、欧州…グーグル、アップルも参戦 EV化で後れをとる日本メーカーの秘策は?/第4章 モビリティ革命で生活・仕事が一変!電動化がもたらす、人とクルマと街の新しい関係/第5章 ガソリン車消滅は日本にとって新たなチャンス!?真の「グリーンモビリティ社会」への道/おわりに
18.12月11日
”シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国”(2021年5月 新潮社刊 中村 清次著)は、中国からタリム盆地周縁のオアシス都市を経由しパミールを経て西アジアと結ぶいまなお多くの謎が眠る絹の道シルクロードへの西域三十六か国の旅を案内する。
シルクロードは東洋と西洋を繋ぐ歴史的な交易路であり、紀元前2世紀から18世紀の間、経済、文化、政治、宗教において互いの社会に影響を及ぼしあった。2014年に、中国・カザフスタン・キルギスタンに残る33か所の関連遺跡や寺院などが、「シルクロード」の名で世界遺産(文化遺産)に登録された。シルクロードの概念は一義的ではなく、広義にはユーラシア大陸を通る東西の交通路の総称であり、具体的には北方の草原地帯のルートである草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を通る海の道の3つのルートをいう。狭義には最も古くから利用されたオアシスの道を指してシルクロードという。オアシスの道は中国からローマへは絹、アルタイ山脈から中国へは金が重要な交易品となっていたことから、このルートは「絹の道」あるいは「黄金の道」と呼ばれており、のちに草原の道や海の道が開けるまでは最も合理的な東西の交易路であった。シルクロード貿易は、中国、韓国、日本、 インド亜大陸、イラン、ヨーロッパ、アフリカの角、アラビアにおいて、それぞれの文明において長距離の政治・経済的関係を築くことで、文明発展に重要な役割を果たした。主要交易品は中国から輸出されたシルクであるが、ほかにも宗教、特に仏教、シンクレティズム哲学、科学、紙や火薬のような技術など、多くの商品やアイデアが交換された。シルクロードは経済的貿易に加えて、そのルートに沿った文明間の文化的交易道でもあった。中村清次氏は1939年東京都生まれ、1962年に東京大学文学部西洋史学科を卒業し。NHKに入局後、編成、番組制作を経て、1979~1981年の「NHK特集シルクロード」取材班団長を務めた。当時この特集番組は大きな反響を呼び、芸術祭優秀賞、菊池寛賞など数々の賞を受賞した。2010年春まで福山大学客員教授、聖心女子大学非常勤講師を勤め、現在はNHK文化センターにてシルクロード講座の講師を務めている。著者は週1回のラジオ30分番組「カルチャーラジオ」の6か月分のテキスト「シルクロード10の謎」を書いているし、NHK退職後の仕事として、大学講師とカルチヤセンター教室講師とを合わせ、20年間シルクロードを研究している。また、人生百年時代と言われる今、80歳になったら、さらにシルクロードと仏教の研究に没頭してみようと思っていたそうである。気が付いて我に返ったら百歳、出来るならそんな生き方で終わりたいという。シルクロードという名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:絹の道)として使用したのが最初である。古来中国で西域と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆるオアシスの道=オアシスロードを経由するルートを指してシルクロードと呼んだ。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に英訳されて広く知られるようになった。シルクロードの中国側起点は長安、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあるが、特定の国家や組織が設定したわけではないため、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路である。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民が、東西の文化交流の役割をも担った。東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路はオアシスの道と呼ばれ、このルートをリヒトホーフェンがシルクロードと名づけた。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀~10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。西域南道は、敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあった。4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。現在のG315国道は部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。天山南路=西域北道は、敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。現在のトルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。天山北路は敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートである。紀元後に開かれたといわれ、砂漠を行くふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。現在のG312国道や蘭新線、北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。広大な中国の西端に、かつての「西域」、現在の新疆ウイグル自治区があり、その自治区の東端に、シルクロード史上、極めて重要な湖、ロプノール(モンゴル語:ロプの湖)がある。19世紀の半ば頃から、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、日本と、それぞれ目的は様々であったが、各国が中央アジアヘ探検隊を送り出し、現地の情報を集め貴重な文化財を獲得していった。そうした中、20世紀の初め、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが、ロプノールは1600年を周期に、砂漠の中を北から南へ、南から北へと移動するさまよえる湖だと発表した。その上で、今、湖に水はないが、もうすぐ水は戻ってくると予言した。そして1934年、ヘディンは、水の戻った湖にカヌーで漕ぎ出し、予言は的中したと発表した。この摩詞不思議なロプノール=さまよえる湖説は、今に至るまで、世界中のシルクロード・フアンの心を捉えて離さない物語の一つである。そのロプノールについて、著者たちのシルクロード取材班は、取材の過程で、ある事実を知り驚愕したという。当時、日本にある殆どの世界地図に記されたロプノールは、いずれも、実線で明確に形取られ、その湖面はあたかも満々と水を湛えているかのように、青々と彩られていた。恐らく、スウェン・ヘディンの湖に水は戻ったという発言以来、地図製作者たちは、あと数百年は、湖水がここに止まると確信したのであろう。しかし、ヘディンの発表から45年後の1979年、取材を重ねていく中で動かしがたい確かな証拠により、湖面の何処にも水がないという事実を突き付けられた。当時、アメリカ航空宇宙局の地球観測衛星ランドサットに衛星写真を依頼したが、その結果、間違いなく当時のロプノールにはどこにも水がないことがわかったのである。実は1935年から中国政府は、文物の海外流出を防ぐため、という理由で、外国人への門戸を閉じてしまった。これによって、19世紀半ばから始まった、中央アジア探検家時代は幕を閉じて、以来、年を重ねるごとに、中国内シルクロードは、地上最後の秘境としての度合いを深めていった。「NHK特集 シルクロード」の番組制作のため、著者たちは1979年から取材を始めた。番組は日中共同制作で、NHKとCCTVとの共同取材班であった。訪れた地では、日本チームは何処へ行っても44年振り、或いは45年振りの外国人と呼ばれたという。中国内シルクロードは、かつて「西域36か国」と呼ばれたエリアであるが、それまで40数年にわたり、外国人への門戸が閉ざされていた地であり、まさに撮影するも特ダネであった。忘れてはならないのは、番組放送を契機に中国で始まった、シルクロード分野における研究の飛躍的な発展である。中国歴史書を中心とした従来の文献学に、考古学、言語学、人類学、仏教美術史、宗教学、更には考古学調査に必要な自然科学の分野も加わり、各学術分野の総合研究が始まった。しかし、いくら研究が進んできたといっても、シルクロードの範囲は広大である。本書で取り上げるのは、東は黄河に臨む蘭州から、巨大な砂漠・タクラマカンを挟んで、西は世界の屋根といわれるパミール高原まで、の西域36か国とその周辺に限りたいという。シルクロードを通した、日本と中国・西域との関わりが、思いのほか深いことを示すものが幾つもある。まず、4世紀半ばにオアシス国家・亀茲王国に生まれた鳩摩羅什は、長安で、「金剛般若経」「法華経」「阿弥陀経」「坐禅三昧経」など約300巻に及ぶ経典を漢訳した。日本人は、鳩摩羅什が訳したその経典を今も読んでおり、古代シルクロードは奈良・飛鳥の法隆寺金堂の壁画や仏像などの源流を思わせる大地である。東大寺大仏へとつながる大仏の来た道でもあり、仏教東伝の道を象徴するかのような、我が国との深い関わりを示している。竪笙換(ハープ)、五弦琵琶、四弦琵琶、排蕭、事築、笙、腰鼓、鶏鼓などの楽器は、いずれもシルクロードの全盛期に唐の玄宗皇帝が最も愛した亀茲楽の主役だった楽器である。わが国でも正倉院に宝物として収蔵されていたり、今なお雅楽としてお馴染みの、優雅な音色を奏でる楽器として実際に使用されている。他にも正倉院の宝物には、シルクロード由来の物が幾つもあり、日本がシルクロードの東端とも言われる由縁となっている。現地を取材した際にも感じたことであるが、シルクロードを旅するツアーの講師として現地をご一緒した際に多くの方々が口にしたのが、不思議なことに懐かしいという言葉であったという。それは日本文化の源流が飛鳥・天平文化にあり、そのさらに源流が中国にあり、特に西域だったからではないか。トインビーが、そこで生活したいと憧れるまでに、西域の国々が繁栄したのはなぜか。そしてそれにも拘わらず、なぜ、そうした幾多の王国が、流沙の中に埋もれていってしまったのか。これから皆さんと一緒に、シルクロードを旅するように、その遥かなる歴史の謎を一つ一つ解きあかしていきたいという。
序章 遥かなるシルクロード/第一章 「楼蘭の美女」は、どこから来たのか/第二章 「さまよえる湖」が、もうさまよわない理由/第三章 「タクラマカン」は謎の巨大王国なのか?/第四章 絹と玉の都、ホータン王国の幻の城/第五章 建国の夢が滅びの始まり-ソグド人の悲劇/第六章 奪われた王女-亀茲王、烏孫王女を帰さずに妻とする/第七章 玉を運んで四千キロ-謎の民族・月氏の正体/第八章 楼蘭・?善王国の消えた財宝-天下一の大金持ち王の末路/第九章 仮面をつけた巨人のミイラの謎/第十章 幻の王族画家が描いた「西域のモナ・リザ」/終章 シルクロードはなぜ閉じられたのか-捨てられた敦煌/おわりに
19.12月18日
”チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子”(2018年9月 中央公論新社刊 安藤百福発明記念館編)は、激動の時代に何度失敗しても諦めずに復活を果たしてきた波乱万丈の日清食品創業者・安藤百福の妻として夫をひたすら支えた仁子の生涯を紹介している。
安藤仁子=あんどうまさこは、日本の実業家にして日清食品創業者である安藤百福の3人目の妻である。百福と結婚後、夫の投獄、事業の失敗、財産喪失など、度重なる不運を乗り越えて、世紀の発明と呼ばれるインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成するまで夫を支え、その生涯を共に生き続けた。その人生は、2018年10月から2019年3月まで放送された第99作目のNHK連続テレビ小説「まんぷく」の主人公の1人、立花福子のモデルとなった。「まんぷく」は2017年11月14日に制作発表が行われ、インスタントラーメンを生み出した日清食品、現在の法人格としては日清食品ホールディングス創業者の安藤百福と、その妻・仁子の半生をモデルに、懸命に生き抜いた夫婦の物語であった。主人公・仁子に関した公開資料はほぼなかったため、このドラマのために初めて親族や友人などにインタビューし、生前の手帳や日記を元に資料が作成され、登場人物や団体名を変えてフィクションとした。安藤百福発明記念館は大阪池田と横浜にあり、大阪池田は安藤百福発明記念館 横浜、愛称、カップヌードルミュージアム大阪池田と呼ばれ、横浜は安藤百福発明記念館 横浜、愛称、カップヌードルミュージアムと呼ばれている。大阪池田は1999年に、池田市に「インスタントラーメン発明記念館」としてオープンした。2002年にはラーメン屋「麺翁百福亭」が近隣にオープンし、2008年11月末まで営業していた。2004年に拡張新築、展示物の拡充など改装を図り、2006年には入場者数100万人を達成した。2008年に第6回世界ラーメンサミットが大阪で開催されるのを記念して、正面広場に建てられた安藤百福の銅像の除幕式が行われた。2017年に、施設の名称を「安藤百福発明記念館 大阪池田」、愛称:カップヌードルミュージアム 大阪池田に改称した。現在、入館料は無料で、管理・運営は日清食品ホールディングス関連団体の公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団が行っている。チキンラーメンの開発がなされた研究所の小屋が再現され、ほかにもインスタントラーメンやカップヌードルの製法と改良の歴史が模型とともに展示されている。世界中で発売されているインスタントラーメンのパッケージの展示もあり、有料でスープの種類や各種トッピングを自分で選択するオリジナルのカップヌードルを作るコーナーがある。横浜は広く東日本や世界に向けて安藤百福の功績を伝えるため、2番目の記念館として横浜みなとみらいに建設された。2010年の安藤百福の生誕100周年と、1971年の世界初のカップラーメンの発明40周年を記念して、2011年に開設されたのであった。日清食品ホールディングス株式会社と、公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団が共同運営している。ミュージアムのテーマは、生涯を食の創造開発に尽くした安藤百福の精神の、クリエーティブ・シンキング=創造的思考である。発明・発見の楽しさやベンチャーマインドの大切さを子供たちに伝えることを目的としている。全館、見て、触って、作って、食べる、大人から幼児まで一緒に遊んで楽しめる体験型ミュージアムとなっている。2012年に累計入館者数100万人を達成し、その後も、毎年100万人を超える入館者数を記録し、2019年には累計入館者数800万人を達成した。安藤仁子は1917年に大阪市北区富田町に生まれ、1870年生まれの父親は重信、母親は1879年生まれの須磨である。父親は福島県二本松の神社の宮司の次男、母親は鳥取藩士の娘であった。実家の安藤家は、福島県の二本松神社の神主を務める名門で、父親は大阪で事業に乗り出す資産家であった。子供は三姉妹で、長女は晃江、次女は澪子、そして三女が仁子である。仁子は1929年に小学校を卒業し、金蘭会高等女学校入学に入学した。この小学校時代、教会の英語塾にも通い、英語を学んだ。1931年に重信の事業が失敗し、生活を支えるため14歳で大阪電話局で交換手の見習い職員となり、1年間、高等女学校を休学した。一家は次姉の嫁ぎ先に転居したが、次姉の家も生活が苦しかった。仁子は1935年に18歳で金蘭会高等女学校を卒業し、両親とともに京都市伏見区醍醐に転居した。家計を支えるため、得意な英語と、取得していた電話交換手の資格を活かして、都ホテル、現・ウェスティン都ホテル京都に就職し、正規の電話交換手として採用された。1941年に太平洋戦争が勃発し、翌年25歳のとき、父親が71歳で亡くなった。仁子はホテルでの働きぶりが認められ、フロント係に抜擢された。ここで1944年27歳のとき、大阪で事業を手掛けていた呉百福と出会い、求婚を受けた。一度は仕事の未練から断ったものの、何度もにわたる求婚の末、仁子は好意を受け入れた。1945年に第一次大阪大空襲で百福の工場と事務所焼失したが、数日後、仁子は28歳で、35歳の百福と結婚し、京都・都ホテルで挙式した。父方の先祖に幕末の学者の安積艮斎と歴史学者の朝河貫一がいて、このことは仁子にとって生涯の誇りであった。大阪府吹田市千里山に新居を構えたが、戦局悪化により、百福、須磨とともに、兵庫県上郡に疎開した。終戦後、1946年に、疎開先の上郡から戻り、大阪府泉大津市に転居した。1947年に百福が泉大津の旧造兵廠跡地で製塩事業を開始し、また、名古屋市に中華交通技術専門学院を設立した。製塩事業では従業員として慈善事業同然に、仕事を失った若者たちを仕事に雇い、いつしかその数は百人を超えた。仁子は母と共に、彼らの母親代わりになって、若者たちの面倒を見た。月に1度は誕生会を開催し、アルコールにカラメルを混ぜ、ウイスキーに似せた酒を造って誕生日を祝った。若者たちからは実の親以上に慕われ、小遣いの前借や、恋人とのデートのことまで相談されたという。1947年に息子の宏基が誕生し、仁子は宏基の出産後の肥立ちが悪かったが、百福が研究の一環で材料とした食用ガエルの肉片を食べることで健康を取り戻した。これが栄養食品であるビセイクルの開発のヒントの一つとなった。1948年に、百福が泉大津市汐見町に中公総社を設立し、同時に、国民栄養科学研究所を設立し、栄養食品の開発に当たった。同年、百福が脱税容疑でGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに収監され、財産没収となったため、1949年に家族は、大阪府池田市呉服町の借家に転居した。仁子の母の隠し金で生活しながら、巣鴨プリズンに通い百福と面会した。百福は処分取消を求めて提訴し、税務当局は司法取引を持ちかけたが、百福は応じなかった。仁子は訴訟を取り下げるように頼んだが、夫は頑なに応じなかった。収監から2年後、仁子が子供たちを連れて面会に来て、百福はその姿を見て潮時と思い、1950年に訴訟を取り下げて釈放された。同年、百福が中公総社をサンシー殖産に商号変更し、休眠状態を経て、後に、日清食品として引き継がれた。1951年に百福は信用組合の理事長に就任し、仁子は西国三十三観音霊場の巡礼を開始した。1957年に、百福が理事長をしていた信用組合が倒産し、再び全財産没収され無一文になり、池田市呉服町の自宅でチキンラーメンの開発に着手した。百福が何度も麺の製造に失敗する一方で、仁子はその失敗した麺をブタの餌として販売することで、陰ながら百福を支えた。百福はスープを完成させた後、即席麺の開発に取り掛かったが失敗が続いた。しかし、仁子が、高野豆腐なら水を吸ってすぐ柔らかくなるのに、と何気なく言ったことがヒントとなり、麺に小さな穴を開ける方法を発案した。さらに、ある日の夕食に仁子が天ぷらを揚げているのを見て、天ぷらの表面のわずかな穴を見て、麺を油で揚げて乾燥させる瞬間油熱乾燥法を発見し、世界初の即席麺チキンラーメンを完成した。家族総出で製造、出荷作業を手伝い、仁子はスープ作りを担当した。試作品を受け取ったアメリカからは、500ケースの注文が来たので、仁子たち家族総出でラーメンを作った。その後、大阪市東淀川区田川通りに借りた倉庫を工場に改装し生産を開始した。大阪市中央卸売市場でチキンラーメンを一食35円で発売して爆発的にヒットし、会社の商号をサンシー殖産から日清食品に変更し、本社を東区、現・中央区に置いた。1966年に百福が初めて海外視察し、カップヌードルのヒントを手に入れた。1967年のアメリカ出張の帰り、飛行機の客室乗務員からもらったマカデミアナッツの容器を持ち帰り、仁子が大切に保管していた。そのアルミ蒸着したフタが、のちにカップヌードル容器に採用された。呉服町の借家を出て、池田市満寿美町に転居し、1968年に母親が89歳で亡くなった。1971年に、百福は世界初のカップ麺カップヌードルの開発に成功し、発売を一食100円で開始したが、値段が高いなどの理由であまり売れなかった。しかし、1972年に起きた連合赤軍の浅間山荘事件の際、カップヌードルを食べる機動隊員の映像がテレビで全国中継され、これがきっかけになって売れ始めた。1985年に息子の宏基が社長を継いだが、百福と宏基は経営方針が違いから対立が多く、仁子が巻き添えとなった。その後、百福は娘の明美から電話で諭され、仁子に謝罪した。また宏基が仁子を思い、父の話を聞き入れ、百福もそれを受け入れ、ようやく平穏が訪れたという。仁子の晩年の楽しみは、信仰の人生の集大成といえる四国八十八箇所の巡礼と、日清食品の工場に祀った観音菩薩への日々の参拝であった。百福が目を患うと、目に効く寺を見つけては、必ず立ち寄って参拝した。2003年86歳のとき、石田家の、石田ゆり、いしだあゆみ、石田治子らをモデルにした、NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」が放送された。石田家の実家は喫茶店で、仁子がよく小学校時代の子供を連れて、その店に行っていたという数奇な縁があったことから、放送では、インスタントラーメン発明の物語も放送された。2005年に、百福が夢をかけて開発した宇宙食ラーメンを乗せたスペースシャトルの打ち上げ成功し、野口聡一宇宙飛行士が宇宙ステーションで食した。2007年に百福が96歳で亡くなり、百福の死去から3年後の2010年に、仁子が百福を追うように92歳で亡くなった。仁子の少女期や戦中の困窮期の生涯はほとんど知られていなかったが、没後、遺品として寝室から1冊の手帳が発見された。そこに記された少女時代の思い出を土台に取材を加え、百福との結婚後のエピソード群と共に、仁子の波乱万丈の生涯をまとめ、評伝が2018年に発行された。
序章 観音さまの仁子さん/第一章 家族~両親と三人姉妹/第二章 幼少期~女学校時代の苦しい日々/第三章 百福との出会い~戦火の中で結婚式/第四章 若き日の百福~実業家への挑戦/第五章 戦火避け疎開~混乱の時代を生きのびる//第六章 解放された日々~若者集め塩作り/第七章 巣鴨に収監~無実をかけた闘い/第八章 一難去ってまた一難~仁子、巡礼の旅/第九章 即席麺の開発~仁子の天ぷらがヒント/第十章 魔法のラーメン~家族総出で製品作り/第十一章 鬼の仁子~厳しい子育て/第十二章 米国視察~カップ麺のヒントつかむ/第十三章 仁子の愛~鬼から慈母へ/第十四章 四国巡礼の旅~百福最後の大失敗/終章 ひ孫と遊ぶ~百福少年に帰る/安藤仁子の年譜/参考文献
20.12月25日
”ジュネーブ史”(2021年1月 白水社刊 アルフレッド・デュフール著/大川四郎訳)は、権力抗争を経ながら自由を希求してきたジュネーブについて要塞都市から国際都市となるまでの歴史を概説している。
ジュネーヴ(仏: Geneve)は、スイス西部、レマン湖の南西岸に位置する都市で、フランス語圏に属しジュネーヴ州の州都である。英語ではジェニーバGeneva,ドイツ語ではゲンフGenfと呼ぶ。スイス南西部,レマン湖からローヌ川が流れ出る交通の要所にあり、フランス語地域の精神的中心であり国際的都市である。三日月形のレマン湖の南西側の角を取り囲むように広がり、サレーヴ山、ジュラ山脈等の山地に囲まれ、市内をアルヴ川、ローヌ川が流れている。人口は約19万人、面積は15.93平方km、標高は375mで、チューリッヒに次ぎスイス第2の都市である。スイスの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語であるが、フランス語圏のジュネーヴでは、ほとんどの場合フランス語が用いられる。しかし世界都市であるため、基本的に英語も通用する。金融業が発達しており、プライベードバンクの中心地である。また、国際赤十字,ILO,世界保健機関などの本部所在地で,国際連合ヨーロッパ本部が置かれているパレ・デ・ナシヨンがある。金融,商業の中心で、工業は時計,精密機械,アクセサリーなどがある。また、公園の多い美しい町で,モン・ブラン山の景観に恵まれ,観光地としても著名である。12~14世紀の聖堂、15~16世紀の市庁、1559年創立の大学、図書館、美術館などがある。古代ケルト人の町であったが,1世紀にローマ植民市となった。16世紀にはカルバン派の本拠地であった。1815年にスイス連邦に加盟し、19世紀後半以降、急速に発展した。著者のアルフレッド・デュフール氏は1938年チューリッヒ生まれで、デュフール家は、14世紀以来、ジュネーヴ郊外サティニーに由来する旧家である。中等教育の一時期をチューリッヒで就学したことを別とすれば、少年時代の大半をサティニーで過ごした。名門校コレージュ・ド・カルヴァンを優秀な成績で卒業すると、ジュネーヴ大学法学部に進学した。同学部を卒業後、文学部に学士入学し哲学をも学んだ。ドイツのハイデルベルク、フライブルク両大学留学を経て、法学博士号を取得した。ジュネーヴ大学法学部で教歴を重ね、1980年に正教授に就任した。法制史の講義と研究に従事する一方、法制史研究室主任として、後進の研究者育成にもたずさわった。主たる研究領域は、フーゴー・グロティウス、ザミュエル・プーフェンドルフらの近世理性主義的自然法論が、18世紀スイス・フランス語圏地方の婚姻法および国制にどのように浸透していったのかというテーマである。著者は、ジュネーヴ大学法学部在学中に聴講したポール・グッゲンハイム教授の講義に示唆され、フライブルク大学法学部留学中にハンス・ティーメ教授から直接の指導を受けている。その後、近世理性主義的自然法論の淵源として、スペイン後期スコラ学派にまで研究対象を拡げている。そして、2003年に定年退職し、現在はジュネーヴ大学名誉教授であり名誉法学部長である。訳者の大川四郎氏は1959年鹿児島県生まれ、1986年名古屋大学大学院法学研究科博士課程前期課程を修了した。ジュネーヴ大学法学部D.E.S(高等教育免状)課程を修了し、愛知大学法学部教授となり今日に至る。本書は、著者が母校ジュネーヴ大学法学部で長年講じてきた、「ジュネーヴ法制度史」講義か原型となっている。例年夏学期に開講された講義では、中世から18世紀後半までの都市国家ジュネーヴにおける制度史が講じられた。その範囲を広げ、古くは古代ローマ時代にまで遡り、近くは21世紀初頭までのジュネーヴ史をコンパクトに叙述している。訳者は、1991年10月からスイス政府奨学金留学生としてジュネーヴ大学法学部に留学した。研究テーマは、17世紀スイスを媒介としてヨーロッパ中に伝播した近世理性主義的自然法論が18世紀フランス私法学に及ぼした影響であった。修士論文に相当する論文をまとめるにあたり、著者に師事した。研究を進める傍ら、著者による各種関連講義を訳者は聴講した。このうち、1992年夏学期に聴講した半期間の選択科目の1つが本書の原型となった。奨学金終了後、著者の推薦で法制史研究室の助手として一年間の任期で雇用してもらった。著者が本書の執筆を始めたのは、19934年頃だったと記憶するという。訳者は、修士論文の口述試験を終えると、1995年4月に日本へ帰国した。その後も原稿執筆か続けられ、1997年にようやく本書が上梓された。ただちに著者の了解を得、訳者は翻訳を始めたものの、諸般の事情により、完訳を終えるまでに実に22年もの歳月を要してしまったという。ジュネーヴは、カエサル「ガリア戦記」の冒頭に登場するアロブロゲス人によって築城された城塞都市に始まり、中世ヨーロッパにおける交易と金融の中心地になった。そして、宗教改革の牙城に始まり、現代を風靡する急進主義について開かれた都市へと発展した。その後、後退と発展をくり返し、現在のジュネーヴに至っている。対内的には、度重なる権力抗争を経ながら、自由を希求してきた。対外的には、小国ながら、周辺諸国との間で高度な外交術を駆使して、その独立を獲得し維持しようとしてきた。その延長線上に、今日の国際平和文化都市ジュネーヴがある。ジュネーヴの歴史は古く、ローマ時代までさかのぼり、ユリウス・カエサルがこの地を占領し、ジュネーヴという名前を与えたという。その後、神聖ローマ帝国の支配を受けたが、1315年のモルガルテンの戦い等の独立運動の影響でハプスブルク家から離れ、1648年のヴェストファーレン条約によって正式に独立が認められた。近世にはプロテスタントの一派である改革派の拠点となり、1536年にカトリックのサヴォイア公国から独立し、宗教改革がなされ、ジュネーヴ共和国としての宣言がなされ、ジャン・カルヴァンらによる共和政治が行われた。ジュネーヴ革命とも称される。1602年、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世が、ジュネーヴ支配をもくろみ侵入したが、市民軍の抵抗にあい失敗に終わった。この事件は、サヴォイア公が侵入に使った梯子にちなんで“エスカラード(梯子)”と呼ばれる。現在のエスカラード祭はこの事件にちなんだものである。フォンテーヌブローの勅令の後、啓蒙主義の感化を受けた神学が台頭し、カルヴァン派の正統主義にとって代わった。市民は市参事会を牛耳る門閥のシトワイアンとユグノー企業家のブルジョワに分裂していた。1704年から1782年にかけて、これらに非市民労働者を加えた各勢力が三つ巴となって政権を争った。ユグノーが多かった時計職人がフランスでの迫害から逃れるためにジュネーブへ移住し、時計が地場産業となった。機械式時計に用いられるジェネバ機構はジュネーブにちなんで命名された。1781年に、ブルジョワと労働者が市民総会で間接民主制を採択した。翌年、シトワイアンが保護同盟を結んでいた諸勢力に要請し、ジュネーヴを包囲させた。ジュネーヴは降伏してブルジョワが亡命し、フランスへ逃げた者はフランス革命に関与した。1798年には、ナポレオン・ボナパルトによりフランスに併合された。その後、ウィーン会議において、スイス連邦に加わった。このころからジュネーヴは、スイスの歴史において国際金融市場の司令塔であり続けた。第一次世界大戦と第二次世界大戦中はスイスは中立国であったため、両陣営の外交官や亡命者が集まった。1960年代にファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが、国際投資信託=Investors Overseas Services の本部をジュネーヴに置いた。2017年の調査によると、世界20位の金融センターであり、スイスではチューリッヒに次ぐ2位である。本書は結果的には、文庫本にしては珍しいほど、著しく内容が凝縮された通史となっている。全体を通じて、重要な歴史事象の制度史的背景が立体的に叙述されている。第二編から第三編には、カルヴァン指導下で宗教改革か導入された16世紀、啓蒙思想家ルソーとヴォルテー・ルが活躍した18世紀、赤十字運動を立ち上げたアッリー・デュナンを輩出した19世紀、そして、多数の国際諸機関か設置された20世紀について叙述されている。そして、1848年に成立したスイス連邦よりも歴史か古く、不羈独立の共和国であることを衿持としてきた。しかし、ジュネーヴ史はこれら4つの時代に尽きるものではない。なお、第二版までの本書は第三編第二章で終わっていたが、第三版以後は終章部分か加筆されている。ジュネーヴ気質について、コスモポリタン的な文化の下ではありながら、綿々と続いてきているのは、地元にこだわり、際立って用心深い気風であると述べている。ここには普遍的な思想を志向する哲学者、高遠な信条を奉ずる人道主義者、新しい事に熱狂する上流社会人がいる。その他方、冷静沈着な旧市民、そして、愛郷のジュネーヴ中心主義者もいる。ジュネーヴ気質とは、とっつきにくく、不愛想であり邪樫である。なお、この部分の出自は、1929年の文筆家ロベータ・ドートラ著「ジュネーヴ精神」に由来しているという。
緒論 ジュネーヴ、その起源から司教都市成立まで/第一編 司教領としてのジュネーヴ(第一章 司教都市、封建体制、コミューンの形成/第二章 中世ジュネーヴの最盛期/第三章 政治的独立を目指すコミューンの闘いと司教領の終焉)/第二編 ジュネーヴ、プロテスタント共和国(第一章 プロテスタント共和国の出現とジュネーヴにおける諸制度の再編成/第二章 十七世紀のジュネーヴ/第三章 啓蒙主義時代のジュネーヴ)/第三編 スイスの一カントンそして国際都市としてのジュネーヴ(第一章 スイスの一カントンとしてのジュネーヴ/第二章 国際都市ジュネーヴ/終 章 ジュネーヴ伝説とジュネーヴ精神)/訳者あとがき/参考文献
22.1月15日
”明暦の大火 「都市改造」という神話”(2021年9月 吉川弘文館刊 岩本 馨著)は、世界史上最大級の惨事といわれる明暦の大火が従前の江戸市街地を滅ぼしその後の都市改造が新たな江戸を創り上げたという通説を検証し大火と復興の実像に迫っています。
明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられている。関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと、日本史上最大の火災であり、ローマ大火、ロンドン大火、明暦の大火を世界三大大火とする場合もあるようである。明暦の大火は出火の状況から振袖火事、火元の地名から丸山火事といわれる、明暦3 (1657) 年1月18~19日の江戸の大火である。1月18日未の刻(14時ごろ)、本郷丸山の本妙寺より出火し、神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡し、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡した。1月19日巳の刻(10時ごろ)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火し、飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失した。1月19日申の刻(16時ごろ)、麹町5丁目の在家より出火し、南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火した。焼失町数約500~800、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数が焼け、さらに江戸城本丸はじめ大名屋敷も多く焼亡した。焼死者は約10万に及んだと言われ、江戸時代初期の町の様相は失われた。火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の回向院が建立されたと言われる。幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。岩本馨氏は1978年北九州市生まれ、2000年に東京大学工学部建築学科を卒業し、2002年に同大学大学院工学系研究科修士課程を、2006年に同大学博士課程を修了し博士(工学)となった。2006年に京都工芸繊維大学助手となり、その後、助教、講師を経て、2017年から准教授を務めている。明暦の大火については、その後の幕府の都市改造が新たな江戸を創り上げたという通説について、裏付けのないエピソードを避け、信頼性の高い記録から災害時の天候や焼失範囲などの事実関係を確認し検証している。本妙寺の失火が原因とする説は伝承に基づいており、振袖火事の別名の由来になっている。「お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行った。その帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向いた。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまった。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らした。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。」「当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。」「さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。」この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著した。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して作り話と結論づけたという。次に、江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説がある。当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達していた。もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていたが、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば、都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われているが、明暦の大火では江戸城にまで大きな被害が及んでおり、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている。次に、本妙寺火元引受説は、本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だったが、火元は老中屋敷と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して阿部邸に隣接する本妙寺が火元ということにして話を広めたとする説である。これは火元であるはずの本妙寺が大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を奉納したことなどを論拠としている。災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、江戸幕府の勘定奉行の荻原重秀が元禄時代行った貨幣改悪の遠因となった。明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。また市区改正が行われ、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の両国橋や永代橋などの架橋が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大され、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。さらに防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。しかし、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。紀元64年7月にローマは燃え、大競技場付近から起こった火は、風に煽られてまたたく間に燃え拡がり、6日間にわたって市街地の7割以上を焼いた。当時のローマでは木造建築が不規則に密集していて、それが甚大な被害につながったと考えられる。大火後のローマでは、皇帝ネロのもとで、規則正しい街区の形成、道路の拡幅、建築の不燃化などの都市改造が行われたとされる。当時のローマの人々は、もしやこの大火は、暴君ネロがローマを改造するために仕掛けたものだったのではないかと噂したという。それから1593年後の明暦3年1月に、ローマ大火などとともに世界史上最大級の惨事として挙げられるほどの明暦の大火災が江戸を襲った。ローマ大火と明暦の大火は、時代は遠く隔たってはいるが、その語られ方については不思議と符合する。都市災害のなかで、火災はとりわけ人災としての側面が大きい。そもそも火災は意図的に発生させることが可能なうえに、狭隘な市街地、燃えやすい建築、未熟な消火システムによって被害が拡大されうる。それゆえ大火に遭ったとき、人々は自らの都市が抱えていた問題点に向き合わざるを得ない。焼失した都市が大火後に改造されて相貌を一新したというような説明、あるいはさらにそこから飛躍して、大火はそもそも都市改造のために引き起こされたのだという陰謀論は、その点で人々にとって分かりやすい。明暦の大火についても、放火説はともかく、大火が従前の江戸市街地を滅ぼし、その後の都市改造が新たな江戸を創り上げたという流れは、通説としてさまざまな書籍などで記述されてきた。明暦の大火を江戸の都市史の劃期として捉える史観は、古くは戦前の書籍も見られ、さらに大元をたどれば近世にまで遡る伝統的なものであった。しかしここに挙げられている都市改造の内実については、必ずしもきちんとした実証がなされてきたわけではないため、改めて検討される必要があるように思われる。20世紀段階では、明暦の大火前の江戸について知るための手がかりは、飯田龍一・俵元昭『江戸図の歴史』の「寛永描画図群」と呼ばれる一連の木板図がほとんどであった。これらは江戸の中心部のみを図化したものであった。江戸全域らしい範囲を描いたものとしては「正保江戸図」の存在が知られてはいたが、これは随所に不自然な空白や欠落があり不完全な図であった。大火前の江戸の全体像を知ることはこの時点では不可能だったのであり、それゆえ大火後の江戸の拡張も過大に評価されがちであった。ところが、2006年に大分県臼杵市で寛永末年、西暦1642~43年の江戸の全貌を描いた「寛永江戸全図」が発見され、翌年には仮撮影版が刊行された。また2007年には、大火直後の明暦3~4年、西暦1657~58頃の江戸を描いたとみられる、三井文庫所蔵の「明暦江戸大絵図」の全体を高精細撮影して索引を付した書籍が刊行された。これら新たに発見・紹介された江戸全体図によって、誰もが大火前後の江戸の変遷を詳細に追うことができる環境が整ったのである。そこで本書では、裏付けのないエピソード類の利用を可能な限り避け、信頼性の高い記録から事実関係を押さえることを基本方針とする。あわせて、江戸図類に記載される情報の悉皆的なデータ化により、空間的な変遷を把握することで、明暦の大火とその後の復興の実像に迫っていきたいという。
「都市改造という神話」-プロローグ/大火の日(大火前後の江戸と絵図〈江戸の実測図/大火前の江戸図〉以下細目略/明暦三年、正月/三つの大火/大火の被害)/「復興」の実態(焼け跡から/大火後の被災地/郊外へ)/大火以前・以後(江戸のスプロール/始まっていた「改造」/「改造」は前進か)/神話化する大火(『むさしあぶみ』の功罪/「都市改造」幻想)/大火がもたらしたものーエピローグ/明暦3年元日時点の大名一覧
23.1月22日
”真相解明「本能寺の変」 光秀は「そこに」いなかったという事実”(2021年7月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)は、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の信長を不意に襲い自害に追い込んだと言われる本能寺の変について明智側の古文書が石川県内で見つかりこれまでの定説をくつがえす可能性があるという。
本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝に、京都本能寺に滞在中の織田信長を、家臣・明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件である。本能寺は京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山の寺院。で、本能寺の変の舞台として知られる。信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主の織田信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。これにより信長、信忠を失った織田政権は瓦解した。6月13日(西暦7月2日)の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が、豊臣政権を構築していく契機となった。光秀が主君で天下人の信長を討った本能寺の変は、光秀の謀反の真相が明らかでなかったため、これまで日本史上最大の謎とされてきた。しかし、本能寺の変について、その真相を語る新たな史料が令和3年(2021年)1月に発見されたという。金沢市立玉川図書館近世史料館に、加賀藩前田家の史料が収蔵されていて、膨大な史料のなかに加賀藩士が古老の聞き書きをまとめた、『乙夜之書物』三冊本があった。新発見史料は、日本の歴史上、最大の謎といえる、本能寺の変の真相を語っているそうである。菅野俊輔氏は1946年東京生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業、現在、歴史家・江戸文化研究家として、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍している。早稲田大学エクステンションセンター、朝日カルチャーセンター、毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室で古文書解読講座の講師を務めている。本能寺は、当初は本応寺という寺号で、応永22年(1415年)に、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建された。寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。応永25年(1418年)に本応寺はいったん破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)に帰洛して、大檀那・小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建した。永享5年(1433年)に檀那・如意王丸から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を本能寺と改めた。その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し題目の巷と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)の天文法華の乱で、延暦寺・僧兵により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。天文年間の戦国時代に帰洛し、日承上人が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)に平安京の東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路、南・四条坊門小路にわたる一町約120メートル四方に寺地を得て、伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、本能寺を宿所とすることは3回と稀であった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留しており、信長は本能寺を宿所としていた。その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起き、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が切腹したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の命で現在の寺域の中京区下本能寺前町へと移転させられた。伽藍の落成は天正20年(1592年)で、現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)に、江戸幕府から朱印地40石を与えられ、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば、末寺92を数える大寺院になっていた。織田信長は天文3年(1534年)に織田信秀の嫡男として、尾張国・勝幡城で生まれ、幼名は吉法師と言った。天文15年(1546年)に元服し織田三郎信長を名乗り、後見役を織田家の忠臣・平手政秀が務めた。天文16年1547年)に吉良大浜にて駿河勢の今川義元方と対陣し、初陣を果たした。天文18年(1549年)に尾張と敵対していた美濃国の領主・斎藤道三と織田信長の父・織田信秀が和睦し、濃姫を妻として迎え、斎藤道三の娘婿となった。天文21年(1552年)に父親の死去により家督を相続し、天文23年に清洲城に移転した。永禄3年(1560年)に駿河の今川義元を桶狭間の戦いで討ち、永禄6年に居城を小牧山城に移転した。永禄11年(1568年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、将軍職就任を助け天下を取ることを目指した。永禄11年(1570年)に越前国・朝倉家の征伐を開始したが、途中、織田信長の妹・お市の方が輿入れした、近江国・浅井長政が朝倉方に付いた。元亀2年(1571年)に浅井・朝倉軍を匿った比叡山延暦寺を攻撃し、元亀4年に足利義昭を畿内から追放し、室町幕府は滅亡した。天正2年(1574年)に伊勢長島で起こった長島一向一揆を鎮圧し、拠点に立てこもる一揆勢の助命嘆願を拒み虐殺した。天正3年(1575年)に長篠の戦いで武田勝頼軍を、織田・徳川連合軍にて討ち、大量の鉄砲が戦果を挙げ、のちの戦術や戦法に多大な影響を与えた。天正4年(1576年)に琵琶湖東岸の安土山に安土城の築城を開始し、楽市・楽座令などの自由経済政策で城下町の繁栄を図った。この年、第三次信長包囲網によって、京都を追放された足利将軍、本願寺僧兵、越後国の上杉軍、中国勢の毛利軍、さらに家臣の丹波国・波多野秀治や、但馬国・山名祐豊らが、相次いで反旗を翻した。天正8年(1580年)に北条氏政による従属の申し入れを受け入れ、東国まで支配を拡大し、106代天皇・正親町天皇の勅命のもと、石山本願寺と和睦した。天正9年(1581年)に京都内裏東において、織田軍を総動員した京都御馬揃えを催した。明智光秀は享禄元年(1528年)に斎藤道三の家臣で、土岐氏の分家である明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれ、その後、明智城へ移った。天文2年(1533年)に斎藤道三が、稲葉山城から美濃の守護・土岐頼芸を追放して城主となり、実質的に美濃を支配下に治めた。天文4年(1535年)に父 明智光綱が死去し、明智光秀が家督を相続し、叔父で明智城主の明智光安の後見を受けた。天文13年(1544年)に稲葉山城の斎藤道三を織田信秀が攻め入ったが、道三の計略で織田軍は大敗を喫した。弘治2年(1556年)に道三と長男・義龍が長良川の戦いで争い、道三は討ち死にした。このとき、義龍に明智城も攻め落とされ、明智家は離散し、明智光秀は浪人となって、諸国遍歴に出た。永禄5年(1562年)に朝倉家に仕え、加賀一向一揆では、鉄砲隊を50人預かった。永禄6年(1563年)に明智光秀と煕子に娘・明智玉、のちのガラシャが誕生した。永禄8年(1565年)に、三好三人衆と呼ばれた三好長逸、三好政康、岩成友通と松永久秀が二条御所を襲撃し、第13代将軍、足利義輝を暗殺し、光秀は朝倉家を去った。永禄11年(1568年)に足利義昭の足軽衆になり、足利義昭と共に織田信長がいる美濃へと移った。織田信長が足利義昭を立てて上洛し、義昭は第15代将軍に任じられた。元亀元年(1570年)に足利義昭と織田信長が対立を深め、「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政が織田信長を裏切り、織田軍は撤退した。このとき、豊臣秀吉、池田勝正と共に明智光秀がしんがりを務めた。「姉川の戦い」で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突し、織田・徳川連合軍が勝利した。元亀2年(1571年)天正元年に織田信長の命で、明智光秀らが比叡山焼き討ちを実行した。数々の功績が認められ、織田信長より近江国滋賀郡5万石を与えられ、坂本城の築城を開始した。元亀3年(1572年)に「小谷城の戦い」で織田信長に従い、琵琶湖上から水軍を率いて攻撃し、近江の浅井長政を攻めた。天正元年(1573年)に光秀は「槇島城の戦い」で織田信長側で出陣し、足利義昭は降伏して京を追放され、室町幕府が滅亡した。この年、坂本城が完成して連歌会を催し、「一乗谷の合戦」で、織田信長が朝倉義景を破り朝倉家を滅ぼした。天正2年(1574年)に、武田勝頼が東美濃を攻めた「明智城の戦い」に出陣した。天正3年(1575年)に織田軍は「長篠の戦い」で、鉄砲戦術により武田軍を大破し、勝利を収めた。その勢いのまま、越前一向一揆を討伐し、信長はさらに勢力を広げ、丹波攻略に力を入れた。天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて、1570年から続く浄土真宗本願寺勢力の本山・石山本願寺を攻めた。この時期に亀山城の築城にも着手したが、妻・煕子が病にて死去した。天正5年(1577年)に松永久秀の居城「信貴山城の戦い」に参戦し、の戦いで久秀は自害した。天正6年(1578年)に光秀の娘・玉が細川忠興に輿入れした。天正7年(1579年)に織田信長が丹後国を配下にし、明智光秀に一国29万石が与えられた。天正8年(1580年)に光秀が横山城を大改修して、福知山城に改名した。天正10年(1582年)に織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務めた。そして、軍を京に転進させ、本能寺にて織田信長を自害させた。この点についてこれまで諸説があったが、江戸時代の17世紀後半に成立した『乙夜之書物』に収録された、「斎藤利宗遺談」の発見により新たな事実が分かったという。斎藤利宗は明智光秀の重臣、斎藤利三の三男・利宗で、当時16歳の利宗は父・利三に従い、本能寺襲撃に加わった。その利宗によれば、本能寺を襲撃したのは利三率いる先発隊2000余騎で、光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたという。光秀の謀反は突然に思い立ったもので、光秀と重臣の密儀であることが分かったそうである。この発見により、秀吉・家康・朝廷(天皇・公家)・宣教師の関与説、あるいは黒幕説は成り立たないことになった。謀反の理由についても、斎藤利宗遺談を語った加賀藩士の井上重盛(清左衛門)が、後年に『乙夜之書物』の編著者で加賀藩士の関屋政春に語った、次のような話が、政春の10年後の編著『政春古兵談』に収録されていることがわかった。光秀は、稲葉一鉄が旧家臣の斎藤利三の取り戻しを信長に訴えた件で、信長から「稲葉家に返せ」との命令を受けたが、承諾しなかったため、3月に信長の甲斐出陣にお供したとき、信濃諏訪において、信長や小姓たちから執拗な打擲を受けた。また、3月中旬に、安土城を訪れた徳川家康一行の饗応役を信長から命じられたが、その仕様が思し召しにかなっていないとして、できあがってきた膳椀などの器物を堀に捨ててしまうという、衆目のなかで大変な恥辱を与えられた。この2つの出来事は、利三ら光秀重臣の知るところとなり、重臣たちは光秀が謀反を思い立つに違いないと確信し、いまかいまかと光秀の決心を待っていた。光秀が決心したのは、信長父子が京都にいることを知った5月29日のことと推測され、中国出陣の当日となる、翌6月1日の亀山城での軍議の席で告白したという。光秀の謀反は、このような理由・経緯による突発的なものであり、目的は信長と信忠父子を討ち取ることの一点であった。当然、死を覚悟した謀反であり、信長父子を討ったあとのことは、光秀の意識にはなかったといえる。それゆえ、その後の手配りも万全を欠くものであり、とくに長岡(細川)藤孝と筒井順慶を味方に付けることができなかったばかりか、短時日のうちに中国大返しで畿内に戻ってきた羽柴秀吉との合戦の日を予想より早く迎えてしまった。生涯、城攻めばかりで、会戦の経験のなかった光秀にとって、13日の山崎の戦いは勝利の見通しについて自信が持てない戦いだったかもしれない。光秀の三日天下とされる、6月2日~13日の11日間は、家臣の努力はあったものの、信長重臣としての光秀の才能はまったく発揮されていなかった。信長あっての才能だったのであり、13日の山崎の戦いの敗戦後に、不慮の死が待っていたのも、必然ともいえる事態の推移である。そして何よりも、光秀の謀反により天下人信長と後継者信忠の父子二人が同時に死去するという突発事態が現出したことは、山崎の戦いで勝利した秀吉にとって、一躍、歴史の表舞台に主役として登場する契機となった。天下人秀吉の誕生は、ライバル光秀の「謀反」のおかげということができるという。
第1章 信長と光秀の“蜜月”-近年発見の史料で見えてきた特殊な関係(信長と光秀が出会うまで/信長と義昭の“連立政権”/天正年間の”蜜月”時代/武田攻め中国出陣/第2章 謀反の真相ー新発見『乙夜之書物』が明らかにした定説を覆す事実(本能寺襲撃/そして、山崎の戦いへ)/第3章 斎藤利宗と『乙夜之書物』-光秀軍の残党が徳川家旗本になって遺談を残すまで(遺談の主・斎藤利宗のその後/斎藤利宗遺談と進士作左衛門遺談/『乙夜之書物』の編著者・関屋政春)/第4章 “三日天下”の真実ー古文書解読でわかった「本能寺の変」のその後(その後の「本能寺の変」/光秀の“三日天下”/光秀、窮余の”秘策”)/終章 本能寺の変で“勝利”したのは誰か
24.1月29日
”ニッポン巡礼”(2020年12月 集英社刊 アレックス・カー著)は、日本の魅力が隠されているかくれ里を滞日50年を超える著者が自らの足で回った全国津々浦々から厳選した10カ所を紹介している。
「隠れ里」は日本の民話、伝説にみられる一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられた隠れ世である。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、川上から箸やお椀が流れ着いたなどという話が見られる。そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごすが、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできないとされる。一方「かくれ里」は、東奔西走する姿から「韋駄天お正」とあだ名された白洲正子の随筆のタイトルである。世を避けて隠れ忍ぶ村里であり、ひっそりとした寺社、山間の集落、海沿いの棚田、離島の原生林、城下町の白壁、断崖に囲まれた自然の入り江などを指している。著者はかくれ里の、 吉野・葛城・伊賀・越前・滋賀・美濃などの山河風物を訪ね、美と神秘の漲溢した深い木立に分け入り、自然が語りかける言葉を聞き、日本の古い歴史、伝承、習俗を伝えている。アレックス・カー氏は1952年アメリカ生まれで、1974年にイェール大学日本学部を、1977年にオックスフォード大学中国学部を卒業した。イェール大学在学中の1972年に、国際ロータリー奨学生として慶應義塾大学国際センターに留学して、日本語研修を受けた。同年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励んでいる。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀町などで滞在型観光事業を営んでいる。本書は、季刊誌「kotoba」2018年夏号から2019年夏号まで、および、ウェブサイト「集英社新書プラス」で2019年8月から2020年7月まで連載したものを新書化したものである。日本の文化には「表と奥」、「顕と密」のように、常に二つの要素が備わっているように思うという。そこでは「表」より「奥」が、「顕」より「密」が、神秘的で深い意味を持つとされている。つまり、簡単に見ることができず、人目を少々忍ぶくらいのものの方が、すばらしいのである。1971年に、白洲正子が「かくれ里」という本を新潮社から著した。当時は高度成長期の只中で、観光ブーム幕開けの時であったが、白洲正子は金閣寺、銀閣寺などを避けて、主に山奥を巡り、あまり知られていない寺や神社から、日本美の神髄について思考を巡らせた。著者は1994年に、「本物とは何か」というテーマの対談で知り合って以来、彼女のものを見る厳しい目から、たくさんのことを教わったという。白洲正子は1910年生まれで1998年に亡くなった随筆家で、東京市麹町区に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれた。祖父は海軍大将で伯爵だった樺山資紀で、母方の祖父に海軍大将で伯爵だった川村純義がいる。1928年にハートリッジ・スクールを卒業し聖心語学校を中退し、1929年に白洲次郎と結婚した。白洲次郎は1902年神戸市神戸区生まれで、連合国軍占領下の吉田茂の側近として活躍した。終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。白洲正子は1964年に随筆「能面」で第15回読売文学賞を、1973年に随筆「かくれ里」で第24回読売文学賞を受賞している。アレックス・カー氏はメリーランド州ベセスダで生まれ、父親はアメリカ海軍所属の弁護士だった。父親に付き添って、ナポリ、ホノルル、ワシントンD.C.に滞在し、1964年に来日して横浜の米軍海軍基地に居住した。国際ロータリー奨学生として留学中にヒッチハイクで日本中を旅して、旅の途中で訪れた徳島県三好市東祖谷に感銘を受け、1973年に約300年前の藁葺き屋根の古民家?=ちいおりを購入して、修復した上で居住した。庵の名は趣味のフルートから竹の笛の意で名付けたもので、現在、国の登録有形文化財に指定されている。1998年から2007年まで、旅行記者のメイソン・フローレンス氏との共同所有を経て、現在は特定非営利活動法人により管理がなされており、冬期を除き宿泊体験ができる。アレックス・カー氏は、1974年から1977年までローズ奨学生としてオックスフォード大学ベリオール・カレッジへ留学し、中国学学士号と修士号を取得した。1977年に宗教法人大本国際部基金により再来日し、1997年まで日本の古典美術研究を行った。1989年より、庵での生活や歌舞伎、美術コレクションなどに関する自身の経験に沿って、変わりゆく日本の様子を執筆し、「新潮45」にて連載した。1993年にそれらを1冊にまとめた「日本の残像」を出版し、1996年には、英訳版「LOST JAPAN」を出版した。 同著書が日本での執筆家活動のはじまりとなり、以降数々の著書を出版している。 2001年には日本の景観、自然環境、公共事業のダメージに伴う観光の低迷など、日本が抱える諸問題について研究したものを、「犬と鬼」にまとめて出版した。1986年から1993年まで、米国系不動産開発会社トラメル・クロー東京代表、1996年に国際日本文化研究センター客員助教授を務めた。1997年からタイに第二の活動拠点を設け、タイを中心にミャンマー、インドネシア、ラオスなど東南アジアの文化研究を進めている。現在は、日本とタイを行き来しながら、文化活動の幅を広めている。日本では京都の町屋再生事業、コンサルティング事業を手がける株式会社庵=いおりを2003年に創業し、講演、執筆、コンサルティング事業も手がけている。これまで古民家再生の仕事で全国を走り回ってきたが、それはほぼ僻地巡りの日々だったといえる。加えて、この数年は白洲正子の跡を辿るように、神の力、仏の力とは何か、ということを考えながら、折あらば、かくれ里を探し歩くようになったという。今日では表となる社寺や町並みには大勢の観光客が押し寄せて、特別感が薄れてしまっている。それゆえに、誰もが行けるところより、知る人ぞ知るちょっと隠れた場所が魅力的に感じられ、それを見つけた時に心は大きく癒やされるそうである。日本にはお遍路のように、何世紀も昔から巡礼の習慣があるが、古民家再生もかくれ里を訪ね歩くことも、どちらも一種の巡礼であり、その中で数々の発見があった。そのような隠された本物の場所を紹介したいという思いをもとに、2017年から2年をかけて、あらためて「ニッポン巡礼」の旅に赴いた。ジャーナリストと写真担当者と三人で、秋田の奥地、奄美大島の突端、伊豆諸島の青ヶ島と、長い時間をかけて辿り着く地は、文字どおり現代の「かくれ里」といえるところばかりである。もう一つ、「かくれ里」とは「忘れ里」の意味もあると考えているので、大津市の日吉大社と三井寺、山口県の萩市、東京近郊の三浦半島など、僻地でないところにも足を運んだ。名だたる観光地を訪ね歩いているという人でも、そこから少しはずれた場所は素通りしていることが多いものである。となれば、その人は日本の真髄を見逃しているのかもしれないと思う。そこで、読者のみなさんと一緒に巡礼に旅立ちたい。「人が知らないところは、人に知らせたいし、知らせると、たちまち汚されてしまうのは、ままならね世の中だと思う」(白洲正子)。それゆえ、ここで紹介する場所には、ぜひとも行かぬよう、最初に心からのお願いを申し上げておきます、という。
1 日吉大社、慈眼堂、石山寺(滋賀県)/2 羽後町田代、阿仁根子(秋田県)/3 能登半島(石川県)/4 八頭町、智頭町(鳥取県)/5 奄美大島(鹿児島県)/6 萩(山口県)/7 三井寺(滋賀県)/8 南会津(福島県)/9 青ヶ島(東京都)/10 三浦半島(神奈川県)
25.令和4年2月5日
”みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生”(2020年11月 東京キララ社刊 徳川和子/山岸美喜著)は、徳川慶喜の孫、徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫、徳川和子による手記を元に貴重な史料と多数の写真で綴る家族の物語である。
松平和子として生まれ華族として育った幼少期から、23歳で公爵・徳川慶光と結婚して徳川和子となり、長女、次女が生まれた戦前の暮らしから、戦後、華族制度が廃止され長男が生まれた後の暮らしまでを紹介している。徳川慶喜は1837年生まれの江戸幕府第15代征夷大将軍で、在職は1867年1月10日から1868年1月3日であった。江戸幕府最後の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍であった。在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍で、最も長生きした将軍である。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に、将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職を務めた。徳川宗家を相続した約4か月後に、第15代将軍に就任した。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ない、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となった。1888年に 静岡県の静岡城下の西草深に移住し、1897年に再び東京の巣鴨に移住した。1901年に小日向第六天町に移転し、1902年に公爵を受爵し、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家の創設を許された。德川慶光は江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の孫で、1913年に公爵、徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女、實枝子の長男として東京市小石川区第六天町の屋敷で生まれた。1922年に父が急死したため10歳で襲爵し、伯父が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。1938年10月5日に、会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚した。松平保男は旧会津藩主、松平容保の七男で会津松平家の12代目当主である。松平容保は陸奥国会津藩9代藩主で、京都守護職を務めた。江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主、松平義建の六男庶子として生まれた。1846年に実の叔父にあたる会津藩第8代藩主、容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられた。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。松平保男は1900年に海軍兵学校を卒業し、1902年に海軍少尉に任官し、横須賀水雷団第1水雷艇隊付となり、日露戦争に出征した。1905年に海軍大尉に昇進し、鎮遠分隊長とし日本海海戦に参戦した。1910年に長兄、松平容大の死去に伴い、子女がいなかった容大の子爵位を継承した。最終階級は海軍少将で、貴族院議員を務めた政治家でもある。本書収載の「みみずのたわごと」は、親族に配られた私家版をもとに、私家版未収の原稿を追加し、直筆原稿原本を参照の上、全体を再構成したものである。第1章みみずのたわごとは、徳川慶喜の孫・徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫・松平和子(徳川和子)による手記である。第2章歴史の中に生きる家族は、徳川和子の孫である山岸美喜が、家族の歴史が日本の歴史であるという立場から、本手記を出版する背景などを解説している。第3章徳川慶喜家写真帖は、写真で綴る徳川慶喜家4代の歴史である。徳川和子は1917年に東京市小石川区第六天町で、旧会津藩主松平容保の5男で子爵、海軍少将、貴族院議員の松平保男の4女として生まれた。母親は旧沼津藩主子爵、水野忠敬の4女であった。本書を取りまとめたのは、松平容保の玄孫の山岸美喜氏である。同氏は1968年生まれ、徳川和子の長女、安喜子の次女である。現在、クラシックコンサートの企画事業を手掛けるとともに、「徳川将軍珈琲」宣伝大使も務めている。徳川将軍珈琲は、徳川慶喜のひ孫にあたる、叔父の徳川慶朝氏が茨城でコーヒー豆の開発と販売に取り組んでできたものである。慶喜も大のコーヒー好きと伝えられ、2017年9月に慶朝氏が亡くなったため、玄孫の美喜氏が宣伝大使となった。慶朝氏が亡くなってから資料整理を続け、自身の祖母でもある、徳川和子の手記をまとめた。和子は生まれた家のことは、取り壊されて建て替えられたのであまり覚えていないという。最初の記憶は、1921年頃、邸新築のため一時家令の飯沼の舎宅に住んでいた時に、妹・順子が生まれたことだった。その家のお勝手には、もちろん水道があったが、玄関脇にポンプ式井戸があって、向かい側の長屋の人たちも使っていた。生まれてすぐの頃に父が大病をしたため、母は毎日病院へ行っており、そのあと今度は、母が死に掛かったそうで、あまり親に甘えることができなかった。そのため無口で周りの人に気を遣ってばかりいて、自分でも損な性格だと思っていたそうである。和子は1921年に女子学習院幼稚園に入園した。祖父にあたる容保は正室にはお子がなく、父親たちは側室の、田代孫兵衛の娘の佐久さんという方の子供である。新築の邸には、このおばあちゃんの部屋もできていたが、完成前に亡くなったので子供のおねんねの部屋になった。この部屋は、八畳の二の間続きで床の間と出窓もあり、手洗いも付いていて立派であったが、日当たりは悪く陰気であった。一方、1910年に他界した、容保の長男、松平容大の未亡人のお住まいは、二階建てで見晴らしも最高で、おまけに納戸を入れて上下二間ずつ四部屋もあった。新邸は、1922年か23年にできたかと思うが、普請場は本当に楽しい遊び場で、カンナをかけている大工さんのそばで、木っ端をもらって積み本などをしていた。和子は1923年9月に、女子学習院に前期入学した。9月1日のこと、学校ごっこの準備のため、黒板を取り付けたり小さい椅子を並べたりしていた。すると、突然ものすごい音と一緒に家が揺れ動き始め、何がなんだかわからないまま隣の勉強部屋までこけつまろびつ行った。その時、執事室から長い廊下を走ってきた家令に抱き上げられて、廊下の出口から外に出ようとした途端、目の前の石灯龍が音を立てて倒れてきた。おまけに屋根から瓦がザザーツと降ってきた。9月1日11時58分32秒に発生した、マグニチュード7.9と推定される関東大地震であった。幸いして助かり、家も新築のため潰れなくて済んだ。1933年4月に女子学習院本科を卒業した。同年、裏千家不審庵に入門し、以後、50年間断続的に、茶の湯に親しんだ。1938年10月に公爵、徳川慶光と結婚した。1940年に、夫の最初の召集があった習志野での訓練中、肺炎のため陸軍第二病院に入院し、召集解除となった。1942年に長女、安喜子を出産した。1944年に次女、眞佐子を出産した。同年、夫が3度目の召集で出征した。東京の空襲が激しくなって、5月に軽井沢の別荘に疎開した。1945年8月に終戦となり、11月に東京へ引き揚げた。同年12月に、夫が帰還した。1946年に、高松宮別邸、興津座漁座に引き移り、その後、静岡市西奈村瀬名へ引き移った。長女、安喜子が西奈小学校へ入学した。1950年に次女、眞佐子が入学した。2月に長男。慶朝を出産した。4月17日に、東京港区高輪高松宮邸内官舎へ移転した。子供たちは高輪台小学校へ転校し、後、森村学園へ入学した。1964年に長女、安喜子が深川行郎と結婚し、後、2男1女をもうけた。1966年に次女、眞佐子が平沼赳夫と結婚し、後、2男1女をもうけた。1972年9月に、町田市南つくし野に移住した。1993年2月に夫、慶光が他界し、1995年3月に長女、安喜子が他界した。そして、2003年5月に和子が他界した。原稿をワープロで打ってくれた和子の姉、徳子の長男から電話があり、何か題名をつけなければと急に言われて困ってしまった。まえがきにあった「限りなく透明に」が良いというのだけど、文中に手あたり次第、ベストタブーの本から言葉を取り入れて書いてしまったため、それでは盗作になってしまう。「まあ、みみずのたわごとみたいなものね」と、口走ったら、それが良いといって、そのままタイトルに打ってしまった。なんとなんとこれは、大文豪・徳富蘆花の作品の一つの名前でもあった。6部限定で兄弟だけに配ったものの、九州在住の和子の長姉から、他人には見せないようにとの電話がきた。ワープロ打ちの製本があまりに上手にできていたためか、印刷所に出したと思ったのかもしれない。「もちろんです、回し読みをしたらすぐに捨てますから」と申し上げた。ところが、これを読んだ甥姪孫たちが面白いと言ってお腹を抱えて笑っている。「おばあちゃま、早く続きを書いてよ」などと年寄りを喜ばせる。また何か勘違いをしておいでのようで、華やかな全盛時代のお話を読ませてほしいなとのお世辞も言う。確かに、軽井沢には6000坪の別荘があり、庭で乗馬やテニスを楽しむことができた。葉山の海岸近くの別荘は海水浴と冬の避寒用、第六天の広い屋敷にはコックや運転手など20人以上の使用人も住んでいた。公爵夫人として上流社交界でのお付き合いもあった。晩年は、都内のマンションで息子の慶朝と二人で平穏に暮らしていた。その昔話に語られる華族としての暮らしと、現代の暮らしとのギャップに驚かされたものである。大きな屋敷に住んでいた幼少期に対して、広くもない普通のマンション暮らししていた和子に、「こんな暮らしになって、昔はよかったなあって思うことはないの」と尋ねると、返事は、「だってしょうがないじゃない。それが時代というものなのだから」であったという。和子がこの本のもとになった手記を書き終えてから、30年以上が経った。書かれた当時「みみずのたわごと」と題されていて、「なんでみみずなの」と聞くと、「地下でゴニョゴニョ言ってるからよ」と言っていたそうである。ワープロで入力されたコピー版を松戸市の戸定歴史館に預けた時点では、「老婆のたわごと」というタイトルが付けられていた。戸定歴史館のある戸定邸は、現在の松戸市松戸に水戸藩最後11代藩主の徳川昭武が造った別邸で、現在、国の重要文化財となっている。今回は、和子が考えた「みみずのたわごと」を題名として世に出し、墓前にお供えしたいという。
第一章 みみずのたわごと 徳川和子
まえがき/一 少女時代/おいたち/関東大震災のこと/幼稚園/女子学習院初等科/変な話/小石川の通学路/二 懐かしい人たち/同級生/いしのこと/まきのこと/俥夫のしょうとくにのこと/間瀬さんのこと/野出蕉雨と佐々木主馬/商人部屋/行商人/市電/映画と演劇/三 人種差別(差別用語)について/四 歯医者の思い出/五 オートバイの音/六 美容院の今昔/あとがきに代えて
第二章 歴史の中に生きる家族 山岸美喜
はじめに/徳川家と松平家/祖父母一家の暮らし/戦後の徳川家/高松宮妃喜久子殿下のこと/秩父宮妃勢津子殿下のこと/華族の責任/徳川和子のその後/祖父母の家/祖母の友人/祖父母との別れ/叔父の晩年/さいごに
第三章 徳川慶喜家写真帖
26.2月12日
”ベルベル人 歴史・思想・文明”(2121年9月 白水社刊 ジャン・セルヴィエ著/私市正年・白谷望・野口舞子訳)は、チュニス・アルジェリア・モロッコなど北西アフリカ沿岸のマグリブ地方に住むムーア人と呼ばれる先住民について人びとの文化などを概説している。
マグリブの地に太古の昔から住むベルベル人の集団内部には、さまざまな文明圏からやって来た多様な集団が存在していた。ベルベルという呼称は、7世紀に東方から侵入してきたアラブ人が、マグリブの原住民を指すのに用いたベラベルという言葉に由来している。ベラベルは、ローマ人が、リーメス(境界)の彼方の住民を指した呼び名バルバルスを受け継いだものである。バルバルスは、ギリシア語のバルバロス(バルバロイ)と同じく、意味の分からぬ言葉をしゃべる異人を野蛮人扱いして呼んだ名称だった。地中海の諸帝国が崩壊した後のあらゆる生き残りでもあり、また飢饉によってイラン高原から移住して来た遊牧民のあらゆる痕跡でもある。さらに、諸民族の侵入、トルコ人の逃亡奴隷や、さまざまな出自の敗残者や海岸にたどり着いた遭難者たちが、肥沃な土地を求めてマグリブの地に相次いで到来した。やがてベルベル人は、数世紀にわたって、地中海諸文明の継承者となり、ローマには学者を、キリスト教には教会の司教を、イスラームの帝国には王朝を、イスラーム教には聖者を供給した。本書は、「日没の島」「ローマの穀倉」と呼ばれる地に住むベルベル人を、言語学、考古学、歴史学、民族学、社会学、建築学、芸術、食文化、服飾といった多様な側面から論じている。初版は1990年であるが、27年間で6版を数え、日本ではなじみのない民族でも、フランスでは広く知られ関心を引く民族であることによると思われる。ジャン・セルヴィエ氏は1918年アルジェリアのコンスタンティーヌ生まれ、父親はコンスタンティーヌで発行されていた新聞の編集長であった。大学はパリのソルボンヌに進学し、民族学を学んだ。第二次大戦ではフランス軍志願兵として参戦した。1949年から1955年まで、アルジェリアを中心にマグリブ地域のベルベル社会の現地調査を行い、また1950年から1957年まで、C.N.R.S.=国立科学研究センターの研究員として従事した。その後、モンペリエ大学大文学部教授として社会学と民族学の講義を担当し、学部長もつとめた。1954年にアルジェリアのオーレス地方で聞き取り調査を行っていたとき、アルジェリア独立戦争が勃発した。オーレス地方は、アルジェリア人の武装闘争の発火点であった。軍の指揮官としてテロの被害にあったフランス人の救援活動にかけつけ、またその後、フランス領アルジェリアの防衛のために従軍した。このように、アルジェリアには特別の思い入れがあったようである。イスラームやアラブ問題の学術研究にも関心をよせ、マグリブの生活習慣、エジプトやアルジェリアのナショナリズム運動などについて研究成果を残した。訳者の私市正年氏は北海道大学文学部卒、中央大学大学院(東洋史学専攻)博士課程修了、博士(史学)で、上智大学名誉教授、順天堂大学講師を務めている。白谷 望氏はニューヨーク州立大学バッファロー校教養科学部学際的社会科学プログラム卒、上智大学大学院博士課程修了、博士(地域研究)で、愛知県立大学外国語学部准教授を務めている。野口舞子氏はお茶の水女子大学文教育学部卒、お茶の水女子大学大学院博士課程修了、博士(人文科学)で、日本学術振興会特別研究員を務めている。ベルベル人は、北アフリカのマグリブの広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称である。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的には、元来はコーカソイドだったと考えられるが、トゥアレグ族など混血により一部ネグロイド化した部族も見られる。カビール、シャウィーア、ムザブ人、トゥアレグの4部族をはじめ、多くの諸部族に分かれる。東はエジプト西部の砂漠地帯から、西はモロッコ全域、南はニジェール川方面まで、サハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布し、総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで5分の1、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中には、ベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどに居住している他、北米ではカナダのケベック州にも居住している。ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前-4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられている。チュニジア周辺から、北アフリカ全域に広がったとみられている。ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキア人がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人などのベルベル系先住民族は隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。また、古代エジプト王朝とは緊密な関係にあり、傭兵となって王国軍の主力になり活躍することもあれば、王権の弱体化によって王位を簒奪することもあった。西のマウリやヌミディアのマッサエシュリ部族とマッシュリー部族は、部族連合を組んで集権的な国家を整えていった。東のガラマンテス族達は、小部族が合従連衡する状態から抜け出せないまま現代に至り、リビア内戦の遠因となった。古代カルタゴの末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディアでも紀元前112年から、共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマニアに出自するヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言を話すようになった。ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。7世紀以来、イスラーム教が浸透し、ウマイヤ朝、アッバース朝の支配を受けながらアラブ人との同化が進んだ。アッバース朝の支配が弱まると、8~9世紀にモロッコのイドリース朝、アルジェリアのルスタム朝、チュニジアのアグラブ朝などが自立したが、いずれもアラブ人が支配する国家であった。アグラブ朝は地中海沿岸に艦隊を送り、キリスト教世界を海上から圧迫した。ついで10世紀にチュニジアにシーア派国家のファーティマ朝が起こったが、ファーティマ朝は間もなく拠点をエジプトのカイロに移し、その後はマグリブにはベルベル人のイスラーム地方政権の分立が続いた。11世紀に成立したムラービト朝はベルベル人を主体とした王朝であり、その勢力はイベリア半島にも及んだ。次のムワッヒド朝もベルベル人を統一した有力なイスラーム王朝であった。ムワッヒド朝衰退後は再び分裂時代に入り、モロッコのマリーン朝、チュニジアのハフス朝のもとで西方イスラーム文化が繁栄した。しかし、イスラーム教が続いた結果、現在はベルベル人としての独自性はなく、ほとんどアラブ化している。本書は、ベルベル人(公式にはアマズィダ)についての知の総合化を試みた書である。著者かモンペリエ大学を定年退職後に出版したことから、ベルベル研究の集大成の成果を一般書として著した書と言えるという。マグリブの地の最古の住民ベルベル人は、この地の歴史の経糸となってきた民族である。穀物栽培の文明を共有する、様々な文明圏からやって来た多様な集団の生き残りであり、さらにイラン高原から移住してきた遊牧民の痕跡でもあった。しかしこの一見、ばらばらな人びとからなるベルベル人の世界には、地中海文明の継承者としての深い統一性か見いだされる。フェニキア、ローマ、アラブ、トルコ、フランスといった侵入者に対し、山岳地に逃げ、反乱を企て、また再結集をした。それが今日のベルベル系住民の主な居住地を形成した。ベルベル人たちの統一性を確立させているものは、現世においても来世においても、クランを重視し、その上に築かれたベルベル的思想の不変要素である。死者は、墓の守護者として生者を守っていると考え、死者と生者という相対立する二つの要素か補完的に結合するという思想は、地中海文明の古い二元論である。永遠に対立する二つの原理が、補完的に結合することによって統一性か生まれる、という思想である。二元論はさまざまな社会組織や政治組織の中に見出される。地中海の北の国々への移住は、マグリブの人びとの精神の中に、近代世界に参加するのか、しばらくは後退や態度の保留をしながら、そこへの参加を拒否するのか、という選択をせまった。いずれの選択をするにせよ、西洋との文化的衝突は不可避であり、その結果もたらされる衝撃波の大きさは、予測不可能である。本書は、言語学、考古学、歴史学、民族学、社会学、建築学、芸術や食文化、服飾など多様な側面から論じた、ベルベル人に関する知識の総合的分析である。ベルベル文明を地中海世界の中に位置づけ、その古代から継承された伝統的社会の物事に隠れた神話や儀礼、象徴の分析によって、ベルベル人の思想・行動・文明の統一性と不変性を明らかにした。
第1章 日没の島/第2章 今日のベルベル語話者と彼らの「話し言葉」/第3章 ベルベル語/第4章 ベルベル人とマグリブの歴史/第5章 ベルベル文明/第6章 ベルベル芸術/結論
27.2月19日
”日本車は生き残れるか”(2021年5月 講談社刊 桑島浩彰/川端由美著)は、グローバル自動車産業が激変する中で日本の自動車産業はどのようにすれば国際競争力を維持し生き残ることができるのかについて変化の道筋を探っている。
日本の外を見てみると、この100年に一度とも言われる自動車産業の変革の中で、米国・欧州・中国のプレイヤーが死に物狂いで変化を遂げようとしている。日本は島国ということもあり、なかなか日本国外の情報が伝わりにくく、変化に関する情報が伝播するのにどうしてもタイムラグが発生してしまう。一方でこのタイムラグが、急速な産業変化において致命的な事態を招く恐れがある。今の自動車産業の変化のスピードを日本の外から見ていると、もはや日本の自動車産業は致命的な状況にあるのではないか。率直にそのような思いを持つ機会も多いが、ただ嘆息しているだけでは無責任であると感じるという。日本最大の雇用者数を抱える自動車産業の競争力を維持するために、自動車産業に関わる全ての人間は、今一度その現実を直視せずして、先人たちが築き上げたこの産業基盤を守り、発展させることはできない。まだかろうじて比較優位性のある今のうちに、何としても次世代のモビリティ産業に必要な要素技術の獲得や開発を必死になって進めなければならない。桑島浩彰氏は1980年まれ、東京大学経済学部卒業。ハーバード大学経営大学院、ケネディ行政大学院共同学位プログラムを修了しMBA、MPAを取得した。その後、三菱商事、ドリームインキュベータ、ベンチャー経営2社を経て、現在K&アソシエイツ取締役、カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院エグゼクティブ・フェローを務めている。企業のマッチングサービスを提供するリンカーズにおいて、米国事業を立ち上げ、シリコンバレーや米国の中西部と日本の製造業をつなぎ、日本の再生を図ろうと日々奮闘している。現在、神戸大学大学院経営学研究科博士課程在学中で、東洋経済オンラインなどに記事寄稿多数ある。川端由美氏は1971年生まれ、子供の頃から自動車が好きで、車をつくれるらしいと聞いて工学部に進学し、群馬大学大学院工学科を修了した。エンジニアとして住友電工に就職し、その後、二玄社に転職し、自動車雑誌の編集記者やカーグラフィック編集部にも所属した。退社後、2004年ごろからフリーランスのジャーナリストとして、自動車の環境問題と新技術を中心に取材活動を行っている。海外のモーターショーや学会を精力的に取材、戦略コンサル・ファームに勤務後、戦略イノベーション・スペシャリストとしても活躍している。桑島浩彰氏は1980年に生まれ、当時のバブルに沸く日本経済のもと、当時小学生として受けた社会の授業で鮮明に記憶してことがあるという。世界第2位の経済大国として、自動車・電機・半導体・鉄鋼・造船・石油化学など、各基幹産業が世界的な競争力を保持していた。授業では、米国との貿易摩擦が激化する中でいかに世界との調和を図っていくか、という問いかけがあった。それが中学生となった1993年以降、一つまた一つと日本の基幹産業が国際競争力を失う姿を見せつけられ、とうとう最終消費財で当時の競争力を今も維持しているのはほぼ自動車産業だけになってしまった。そして、その自動車産業までもが、急速なデジタル化とサプライチェーンの水平分業の流れを受け、その競争力を侵食されようとしている。世界の自動車産業が100年に一度の変革期を迎えているいま、日本の自動車メーカーは、欧米はもとより中国にも大きく後れを取っている。日本の自動車業界は崩壊するのではないかというような言説が、いつのころからか目立つようになった。いうまでもなく、自動車産業は重工業・電気電子と並んで戦後の経済復興の立役者であり、重工業や家電メーカーが衰退しつつある現在は、日本経済を支える大黒柱的な存在である。日本自動車工業会の統計によれば、自動車製造業の製造品出荷額は62兆3040億円と、GDPの約1割を占める。全製造業の製造品出荷額に占める自動車製造業の割合は18・8%、自動車関連産業の就業人口は2018年時点で542万人に達する。日本のGDPの約1を占める巨大産業の崩壊など想像もつかない。このコロナ禍の時代にあって、トヨタ自動車など一部のメーカーは、むしろ販売台数を伸ばしており、自動車業界の危機など大嘘だと断ずる業界関係者や専門家も多い。日本の自動車産業は崩壊しないが、戦い方のルールは大きく変化し、新しいルールに適応できた企業だけが生き残ることができるという。新しいルールのキーワードは、ここ数年で世界中に広がったCASEである。コネクテッド(connected)のC、自動化(automonous)のA、シェアリング(shared)/サービス(service)のS、電動化(electric)のEのそれぞれの頭文字をとったものである。2016年に開催されたパリーモーターショーで、当時のダイムラー会長のディーター・ツェッチェが使った言葉として知られている。世界的には、ACES(autonomous connected, electric and shared mobility)という言葉の方が一般的だが、本書では、日本で浸透したCASEを使用している。日本の自動車業界では往々にしてE(電動化)やA(自動化)の開発が先行して話題になりがちであるが、CASEを並列で眺めていると本質を見誤る恐れがある。CASEの最大のポイントは、Cつまりコネクテッドによって自動車がIoT(lnternet of Things モノのインターネット)の枠組みの中に組み込まれていくという点である。自動車というモノがインターネットにつながると、自動車を取り巻く世界は大きく変わり、自動車産業の本当の大変化はそこから始まるのである。もともとはOA機器だったパソコンがインターネットにつながった結果、GAFA(グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップル)に代表される無数のIT企業が生まれた。電話がネットとつながったスマートフォンの登場によって、莫大な数のアプリケーションやサービス提供者が生まれた。これと同じ文脈で今の自動車業界はとらえられるべきであり、これから起きるのはネットにつながった車から生まれるまったく新しい、膨大な数のモビリディサービスである。自動車はloTのoT、つまりネットにつながったモノになり、その後、巨大なモビリティサービスの市場が次々と誕生していくと思われる。従来の自分の会社の技術を使って次世代の事業を考えるという時代から、社会的な課題から需要のある事業とは何かを考える時代に移ってきている。気候変動の抑制に多国間で取り組むことを謳った2015年のパリ協定採択以来、欧米や中国ではカーボンニュートラルに熱心である。カーボンニュートラル、化石燃料の枯渇といった社会的な課題から需要のある仕事を考え、先手を打っていた。地域や国を挙げて、二酸化炭素の排出量を抑え植物の吸収量とあわせてゼロにするという、自動車の電動化や代替燃料の利活用に取り組み、自動車産業の側も数年前から対応してきた。また、人口減少による公共交通のドライバー不足を解消するための自動運転であったり、個人所有の限界から、シェアリングという新しい業態が生まれたりするのは、いずれも社会的な課題が起点となっている。欧米あるいは中国の自動車産業は、自社の技術にこだわらず、ライバルとも手を組んだり、次々と積極的な買収を行ったりしてきたのである。翻って、日本の自動車産業は、モノづくりという意味では今でも世界トップレベルの技術を持っている。だが、自社の技術力、自社のモノづくりにこだわり続けたあまり、社会的な課題から事業を考えるという視点がやや足りなかったのではないだろうか。モノづくりの思考回路から抜け出せない経営陣がいる企業では、電動化の技術開発を技術者たちが夜を徹して開発するなどという、時代錯誤の企業経営につながりかねない。必要なのは、電動化に関する自社の優れた技術よりも、社会的な課題に気づかずに、あるいは気づきながらも自社の立場に慢心して本当に必要な開発を怠り続けた経営陣の反省だろう。実は、電動車に必要な個々の技術は日本の企業が得意とする分野でもある。単なる電動化の技術開発やEVの商品開発であれば、一社の努力で乗り越えられるかもしれない。だが、求められるのは地球環境問題という大きな社会課題に向けた解決策であり、欧米や中国と同様に、日本も国と産業が一丸となって活路を見出さなければならない。さもなければ、日本の自動車業界は世界的に競争力を失うだろう。日本の自動車産業は、ここから国と業界が一丸となって日本経済の大黒柱であり続けるのか。それとも、世界の新しいルールに沿った動きを取れず競争力を失い、業界全体が崩壊へと向かってしまうのか。本書は、世界の自動車産業の昨今の動きを詳述しながら、日本の自動車産業にいま求められているものは何なのかを解き明かそうとする試みである。
はじめに/第1章 自動車産業はどう変わるのか/第2章 いま米国で何が起きているのか1-ビッグ3の逆襲/第3章 いま米国で何が起きているのか2-シリコンバレーの襲来/第4章 いま欧州で何が起きているのか/第5章 いま中国で何が起きているのか/第6章 日本車は生き残れるか/おわりに
28. 2月26日
”カラー版 やってみよう!車中泊”(2021年7月 中央公論新社刊 大橋 保之著)は、いま注目を浴びている車中泊について快眠のための装備、あると便利なアイテム類、車中泊にオススメの場所、知っておくべきマナー、季節ごとの対策、一歩上の愉しみ方などのノウハウを紹介している。
そもそもクルマとは人が移動するためのもの、もしくは物を運搬するためのものである。1769年にクルマが誕生してから約250年経つが、当初は馬4頭でひく馬車を超えるために、5馬力を目指したという話を読んだことがあるという。その後、すさまじい発展を遂げて現在に至るわけだが、そもそもは「寝る」ためのものではない。クルマが発展してきたなかで、キャンピングカーのように車内で生活するために考えられた専用車両もある。しかしおおよその一般車の場合は、快適かつ安仝に運転、同乗できること、もしくは荷物がたくさん載せられることが、車種を選ぶポイントである。スポーツカーなどは、そこに運転して楽しいという要素も入ってくる。最近では自動運転などの技術も発展しているが、本来はクルマは、その中で「寝る」ことを目的に作られてはいない。では、クルマで寝る車中泊は苦痛ではないかという疑問があるが、クルマで寝る車中泊は楽しいという。ただし、クルマに合った適正な就寝人数か、正しい寝方をしているか、車中泊場所はどうか、季節や環境に合ったアイテムを準備しているか、ある程度の事前知識と準備が必要である。これらの快適に寝るための条件を踏まえておけば、楽しい車中泊ライフを楽しむことができる。大橋保之氏は1972愛知県生まれ、2010年からサッシ「カーネル」の編集に携わり、2015年から編集長に就任した。レジャーとしての車中泊、緊急時の車中泊避難について、クルマメーカーと協力してセミナーも開催し、「Car寝る博士」と呼ばれている。2019年にカーネル株式会社を、資本金950万円で東京都品川区に設立した。旅する出版社として、雑誌「カーネル」、WEBメディア「SOTOBIRA(https://sotobira.com)」にて、車中泊やクルマ旅、アウトドア情報を展開している。「カーネル」は車中泊を楽しむ雑誌で、年に6回発行している。「カーネル」で取り扱う主なテーマは「旅」で、特にクルマ旅や車中泊をメインコンテンツとして、日本そして世界を旅するメディアを目指している。車中泊とは自動車または電車内で夜を過ごすことであるが、正確な定義は団体や媒体などでばらつきがあり定まっていない。多くは、通常移動手段として用いている自動車や鉄道車両を宿泊施設の代替として用いてそこで就寝することとされる。大別すると、自動車(自家用車・大型トラックなど)を駐車スペースに停めて、その車内で就寝するものと、移動中の公共交通機関(列車・夜行バスなど)の車内で就寝するものに分けられる。前者は、自家用車の場合は基本的には駐車場などに駐車して行われている。自動車での車中泊は、自動車での旅行や、災害などで住居を失った場合の車上生活などの形態として見られる。後者は、船で旅をしつつ船内で泊まる船内泊や、飛行機で旅をしつつ飛行機内で泊まる機内泊などがある。なお、列車が事故や災害などで運行休止を余儀なくされ、道中の駅または線路上に停車中の車内で一夜を明かすことも車中泊と表現することがある。編集長を務めている「カーネル」では、車中泊とは、豪華なキャンピングカーから、ベッドなどを自分で設置したDIYカー、そして無改造の一般車まで、クルマで寝ればすべて車中泊と広く定義している。とはいえ、すべてが同じ車中泊かというと、そうではない。なかでも大きく分けられるのが、キャンピングカーと一般車での車中泊であろう。就寝&生活のための設備が常設されたキャンピングカーと、そういった設備を何ももたない一般車では、やはり寝方は大きく変わってくるからである。そして、現在、車中泊ブームを牽引しているバンライフも忘れてはいけない。生活の一部に車中泊を取り入れて、多拠点で仕事をするライフスタイルや、生活や旅の行程を発信していくインフルエンサーが多いのも特徴である。また、各地で仕事+休日を楽しむというワーケーション(ワーク+バケーション)や、リモートワークに車中泊を活用する人も、今後はさらに増えていくことが予想できる。自動車での旅行行程での車中泊は、所有する乗用車やワンボックスカー・ステーションワゴンなどに寝具を用意し、あるいはあらかじめ寝具がセットされたキャンピングカーの車内で就寝する。車中泊のために車両を停める場所は、一般道路上の道の駅や高速道路上のサービスエリア・パーキングエリア、あるいは専用に整備されたオートキャンプ場などである。そもそも道の駅やサービスエリア・パーキングエリアで認められているのは、あくまでも安全運転のための仮眠、もしくは長時間の休憩のみである。そこで車中泊を行うことは、仮眠の延長程度までであれば認められているともいえる。しかし、明確に宿泊を目的とした駐車あるいは施設を利用した炊事やゴミ・汚水の処理などを行うことは、施設管理者や周囲の車両とのトラブルの原因ともなり、マナー違反とされている。国土交通省道路局の道の相談室では、道の駅駐車場など公共空間で宿泊目的の利用はご遠慮いただいていると明言している。一般社団法人日本RV協会(RV=Recreational Vehicle)では、連泊など長期滞在を容認し、電源やトイレ、ゴミ処理施設などが整備された駐車スペースをRVパークとして認定する活動を行っている。日本RV協会はキャンピングカーの普及促進に向けて横浜市港北区に設立された一般社団法人で、キャンピングカービルダー、ディーラーで結成されている業界団体である。次に、災害時に家屋損傷などの理由で自宅での寝泊まりが困難になった場合、やむを得ず自家用車で車中泊を行うことがある。かねてより、阪神・淡路大震災や新潟県中越地震などの、家屋損傷が大規模に発生した地震災害の際にも見られた。しかし、災害対策基本法においては避難の形態としての車中泊は想定されていなかった。2016年の熊本地震の際、避難所の耐震性への不安やプライバシーの問題などから半ばやむを得ず車中泊を選択するものが少なからずいた。長期間の車中泊を続ける人たちの中に、エコノミークラス症候群が多発し、それに起因するとみられる死亡者が発生して社会問題とされた。これについて、平成28年6月7日受領答弁第309号において、政府は災害時に自動車内に避難した者を車中避難者と位置づけ、災害対策基本法第86条の7の「やむを得ない理由により避難所に滞在することができない被災者」に該当するとされた。そして、日産自動車とオーテックジャパンは、車中泊避難やレジャーなどの需要に対応するため、車中泊仕様車を発売した。2020年に入ると、新型コロナウイルス感染症の拡大により、車中泊による避難が注目されている。車中泊のメリットは、1日の時間の有効利用、宿泊費の節約、柔軟なスケジュールの組み立て、渋滞など混雑の回避などである。しかし、デメリットには、快適な睡眠をとりにくい人もいること、設備面が十分とは言えない場合があること、寒暖の点で対策が必要であること、人数が多い場合は不向きであることなどがある。同じクルマで寝るだけでも、年齢、性別、季節、場所、天気によって快適度は大きく変わる。もっといえば、同じ人であっても数年後に同じクルマで同じ場所で車中泊をすれば、きっとその感じ方は変わっているはずである。車中泊にゴールはなく、進化と深化は絶え間なく続いているということである。車中泊の人気の秘密は、幼い頃にやったことのある押し入れ体験と通じるものがある。押し入れは暗闇で狭いのに、なぜかワクワクした自分だけの秘密基地であった。大人になって、あの胸躍る気持ちを感じることができる。しかも、お気に入りの場所に行ってみて、そこであの気分が味わえるのである。そもそも車中泊が日本全体で広まったのは、1980年代後半から1990年代前半のスキーブームが大きく関係している。当時、大混雑のスキー場で、朝の駐車場待ちとリフト待ちを少しでも回避する方法のひとつが、車中泊で前泊して朝イチから滑り始めることだった。そうしてアウトドア・アクテイピテイを早朝もしくは夜に楽しむために、前泊や後泊の手段として、車中泊は自然と広がっていった。現在でも、アウトドア・アクティピテイを楽しむ人は多いが、時代とともにさらに多種多様化している。会社を定年退職した60代以上の方々が、数年前から車中泊ユーザーに定着し、ソロもしくは夫婦がほとんどで、観光の手段として車中泊を活用している。数週聞から1ヵ月という長期間のクルマ旅を楽しんでいる人が多い。焚き火やBBQといったキャンプ行為を加えたハイブリッド型もいま人気である。1990年代にオートキャンプブームを家族で過ごした世代がメインで、ときにテントでのキャンプを楽しみ、ときに車中泊+焚き火なども行う。少し特殊な例としては、ただ単純にクルマで寝る(+出先で名産を食べるなど)という非日常を感じるためだけに、車中泊へ出かける人も現在増加中である。さらに、レジャーではなく緊急時の対応のひとつとして、車中泊避難というスキルにも、災害が日常化しつつある現在、大きな関心が集まっている。ここに挙げただけでは、車中泊とは何かなんて書ききれない。まずはマイカーを使った車中泊をファーストステップとして楽しんでもらい、そこからステージを上げていき、自分なりのスタイルを確立していってもらうのが、やはり妥当な道のりだろう。本書では、一般車の車中泊をメインにしたノウハウやアイテムを紹介しつつ、適宜、キャンピングカーも含んだ車中泊全体の話を入れて進めていきたいという。多くカラー写真が掲載されており、カーネルが推奨する車中泊マナー10力条が掲載されている。ルールのあるところではルールに従う。周囲にいる人たちに迷惑をかけない。その場所の所有者・管理者の意向を推察し、それにこたえる行動をとろう。近隣の住民や通行者への配慮をしよう。日本中で車中泊を楽しんでいる人への配慮をしよう。あとから利用する人へも配慮をしよう。車中泊を認め、便宜を与えてくれる人々への感謝の気持ちを忘れない。マナー違反やマナーに欠けていたと気づいたら率直に謝り、改めよう。迷ったり判断しかねたりしたら、とりあえずやめておこう。最後に、よかったことやうれしかったことは分かち合おう。これ以外にも、アイドリングストップや騒音に注意すること、リードを着けていないペットなど、具体的な細かなマナーもある。まずは車中泊公認の駐車場で行うこと。そして判断に迷ったら、施設の管理人に質問して確認してほしいという。
第1章 そもそも、車中泊って何?/第2章 マイカーで快眠するための基本と装備/第3章 旅を成功に導く安心・安全な場所選び/第4章 クルマ旅の基礎知識/第5章 季節によって変わる車中泊/第6章 車中泊をさらに充実させるために/第7章 車中泊の新しい活用法
29.令和4年3月5日
”地中海の十字路=シチリアの歴史”(2019年6月 講談社刊 藤澤 房俊著)は、古くはギリシア人とフェニキア人が覇権を争い次にローマの穀倉となり中世にはイスラーム勢力がそしてノルマン人が栄光の時代をもたらしさらに欧州の強国の確執があり多様な文化と宗教に彩られてきたシチリアの歴史を概観している。
シチリア島はイタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島で、面積は2万5460平方キロメートルで地中海最大の島である。古典ギリシア語ではシケリア、ラテン語ではシキリアと呼ばれ、英語由来の名称でシシリー、シシリアとも呼ばれる。周辺に浮かぶ島々を含めてシチリア自治州を構成する。トラパニ、パレルモ、メッシーナ、アグリジェント、カルタニセッタ、エンナ、カターニア、ラグーザ、シラクーザの9つの県からなり、州都はパレルモである。自治州の面積は2万5708平方キロメートルで、イタリアの州のなかではもっとも広く、人口486万人強(2001)である。東のファーロ岬、南のイゾラ・デッレ・コッレンティ岬、西のリリベオ岬を頂点とする三角形の島で、イタリア半島のカラブリアとは幅3キロメートルのメッシーナ海峡によって、アフリカ大陸とは幅140キロメートルのシチリア海峡によって隔てられる。島の北部には、アペニン山脈から連なるペロリターニ、ネブロディ、マドニーエの三つの山脈が東西に走り、中央部にはエレイ山地、南部にはイブレイ山地、東部には島内最高峰であるヨーロッパ最大の活火山エトナ火山(3323メートル)がある。平野は少なく、島内最大のカターニア平野を除けば、パレルモやジェラなどの周辺に小規模な海岸平野があるにすぎない。地中海のほぼ中央に位置しており、かつて地中海の要衝としてさまざまな勢力が覇権を競い合った。古くからシクリ人などが住んでいたが、フェニキア、ギリシア、カルタゴ、ローマ、東ゴート、サラセン、ノルマン、フランスのアンジュー家、アラゴン、スペインなどに次々に支配され、1861年イタリア王国の一部となった。主要都市のはいずれも、古代ギリシア,ノルマンなどの遺跡がある。藤澤房俊氏は1943年東京都生まれ、早稲田大学第二文学部史学科を卒業し、同大学院文学研究科博士課程を単位取得退学し、2001年に早大文学博士となった。1970年から1971年までローマ大学に留学し、1973年から1975年までイタリア歴史学研究所に留学した。共立女子大学助教授を経て、1992年に東京経済大学教授となり、2013年に定年となり名誉教授となった。1988年に第11回マルコ・ポーロ賞受賞、1996年にイタリア政府よりイタリア共和国功労勲章・カヴァリエーレを、2006年にコンメンダトーレを授与された。シチリアは、長靴の形をしたイタリア半島に蹴りあげられるように、地中海に浮かぶ最大の島である。古くは(シチリアの)形態からトリナクリアと呼ばれた島は、そこに移住したシカーニ人によってシカーニアと命名されたが、イタリア半島から大挙して渡来したシークリ人によってシケリアという名になった。シチリアの古称トリナクリアは、三角形のシチリアの地理的形態を示している。トリナクリアの図像には、ギリシア神話に登場する女性メデューサの顔が中央についている。メデューサは、その顔を見たものは石になるといわれ、古代ギリシアでは魔除けとされた。ギリシアのメデューサの頭毛は蛇になっているが、シチリアのそれは麦の穂で編まれており、シチリアの肥沃な大地を表す大地母神といわれる。シチリアの名前は、前八世紀に渡来し、植民市を拓いたギリシア人が、先住民のシークリ人の住むところ、シケリアと呼んだことによる。そして、シチリアに住み着いたギリシア人は自らをシチェリオーティ人と名乗った。ホメロスが「ワインのような濃い色」と呼んだ地中海は、ラテン語の中(medi)と、地(tera)を合成したもので、ヨーロッパとアフリカの間にあるところという意味である。ローマ人は帝国を樹立すると、地中海をマーレーノストルム、「われらの海」と呼んだ。シチリアを取り巻く地中海は、外の世界を遮断するのではなく、結び合う、開かれた路であった。シチリアは地中海を通路として、西と東、ヨーロッパとアフリカにつながっている。その開放的な地理的環境ゆえに、古代から今日にいたるまで、あまたのよそ者が絶えることなくシチリアに侵入した。近隣のイタリア半島やアフリカからはもちろんのこと、遠く離れたノルマンディやドイツなどのヨーロッパの地域からも、多様な人種、宗教、文化が古くからシチリアに流入した。地中海の真ん中に位置し、文明の十字路と呼ばれるシチリアでは、侵入した人々が衝突や排除を繰り返しながらも融合し、重層的に交錯する独特の世界が誕生した。シチリアの東部、南部の沿岸には、ギリシア人の植民市を起源とする、たとえばカターニア、シラクーサ、アグリジェントなどの都市が今も栄えている。百のシチリアとも形容されるシチリアには、さまざまなよそ者を起源にもつ都市や町が混在し、それぞれに固有の歴史と文化を今も残している。シチリアの都市は、ギリシア人が建てた壮麗なモニュメントが残るシラクーサやアグリジェントのような沿岸都市だけではない。アラビア語で花瓶の丘を意味する、カターニア県の山岳都市カルタジローネは、イスラーム教徒がもたらした色鮮やかな陶器の町として、今も栄えている。シチリアの北西部には、最初はフェニキア人が築き、花を意味するジズと呼ばれ、ギリシア人が支配するようになるとすべてが港を意味するパノルモスと呼ばれるようになる、自然港のパレルモがある。時空を超えて、多様な人種と文化が混在するシチリアを、今も視覚的に知ることができる。パレルモの町を歩いていると、目鼻立ちの整った、それこそギリシア彫刻のような女性に出会うことがある。黒い髪の、浅黒い肌のアラブ系と思える人も散見される。肌が白く、背が高い、紅毛碧眼のシチリア人を目にすることもある。パレルモの歴史的中心地には、イタリア語・アラビア語・ヘブライ語の三ヵ国語で広場や通りの名前を記した標示板がある。それは、パレルモの歴史的な多民族社会の記憶の場であり、多文化社会の未来を希求するものである。しかし、反ユダヤ主義者や難民を排斥する人によって、標示板が破壊される事件が、今起こっている。シチリアの奥地に入ると、オスマン帝国の拡大から逃れてシチリアに住み着いたアルバニア人の町ピアーナーデッリーアルバネージが存在する。そこではギリシア正教の教会があり、現代イタリア語のかたわらでアルバニア語が日常的に使用されている。歴史的に多様な人種や文化が混在する、カオスとさえ形容されるシチリアは、知的好奇心を掻き立てる特別な場所のトポスであり、それこそがシチリアの魅力に他ならない。シチリアは、世界の各地域と相互に交錯する歴史を照射することが出来るグローバルーヒストリーの格好の対象である。地中海世界という広域の文脈のなかにシチリアを設定し、広範囲な相互連関と人種・宗教・文明が重層的に交錯するシチリアの歴史的特徴を明らかにすることが可能になり、ヨーロッパ中心の世界とは異なる歴史が見えてくるという。本書は、ギリシア人がシチリアに植民市を拓いた前8世紀から、イタリアのなかで特別自治州となった今日まで、長い時間をカバーしている。紀元前にはギリシア人植民者とカルタゴが争い(シケリア戦争)、後のポエニ戦争でローマの支配下に入り(シキリア属州)、6世紀にはユスティニアヌス大帝の東ローマ帝国に属した。9世紀後半にはイスラムが掌握し、中心拠点となったパレルモは3000人ほどの町から30万人を超える都市に急成長し、イスラムの中心都市として繁栄した。11世紀に北フランス出身のノルマン人が征服し、ムスリムとも共存して多文化が融合したシチリア王国として繁栄した。地中海世界で政治的・文化的・経済的に君臨し、現在のシチリア人の歴史的・文化的な拠り所は、このシチリア王国にあるようである。ノルマン人に代わってシチリアを支配するのは、ドイツのホーエンシュタウフェン家である。中世の君主の枠におさまらない、神聖ローマ皇帝にしてシチリア王のフェデリーコニ世(ドイツ語でフリードリヒ二世)は、シチリアの歴史を語るうえで、欠かせない人物の一人である。ノルマン人が約130年、ホーエンシュタウフェン家が約70年と、それぞれが支配した期間は決して長くないが、シチリアに残したものは大きい。ホーエンシュタウフェン家の後、シチリアは教皇派のフランスのアンジュー家が支配したが、シチリアの晩祷と言われる住民暴動と虐殺事件で、シチリアから放逐されたアンジュー家に続いて、シチリアはアラゴン・スペインによる長くて暗い時代に入った。シチリアではイベリア半島との関係が強まり、イタリア半島とは異なる歴史的展開を見ることになった。対抗宗教改革である異端審聞所が導入され、古くからシチリアに住み着いていたユダヤ人はローマ、ピーサ、ヴェネツィアに逃れた。オスマン帝国が勢力を拡大すると、シチリアはキリスト教世界の防波堤となった。大航海時代にスペインが世界最大の植民地帝国になると、商業活動の中心が地中海から大西洋に移り、シチリアは重要性を失い、ヨーロッパの周縁となった。18世紀にはいるや否や、シチリアはヨーロッパの国際政治にチェスのコマを動かすように翻弄され、30数年間に4度も支配者が交代した。ハプスブルク家・ブルボン家時代に、啓蒙的改革が始まり、異端審聞所が廃止された。フランス革命、ナポレオン支配という激動のヨーロッパにあって、イタリア半島がフランスの支配下に置かれたのに対して、シチリアはイギリスの保護下に置かれた。このときもまた、シチリアはイタリア本土と異なる歴史を経験した。ナポレオン失墜後の1816年に成立した両シチリア王国の時代に、首都がナーポリにおかれた。シチリアは、ナーポリからの分離独立を要求するようになるが、その時期にイタリア本土で高揚していた、オーストリアからの独立とイタリアの統一運動に巻き込まれていった。統一運動の英雄ガリバルディの率いる義勇兵部隊がブルボン軍を撃破し、シチリアはイタリアに統合された。自由の戦士として、ガリバルディを熱狂的に迎えたシチリアの興奮は瞬く間に消え、イタリア政府に対する不満があふれ出ることになった。19世紀末からよそ者を受け入れるだけだったシチリアは、アメリカなど海外に大量の移民を出すことになった。第二次世界大戦末期、シチリアに上陸したよそ者は、パットン将軍・モントゴメリー将軍の率いる連合軍であった。その時、イタリアからの独立を掲げたシチリア独立運動が躍り出て、ムッソリーニに弾圧されていたマフィアも燦然と蘇った。戦後、奇跡の経済復興で沸き立つ北イタリアの諸都市に、シチリアは国内移民を送り出すことになった。1946年にイタリア共和国の自治州となり、1950年から1962年にかけて国土の再編成が行われ、シチリア島は少し拡張された。現在、シチリアはイタリアの一部であるが、完全に国民国家に収斂されるのではなく、特別自治州として、大幅な自治権を獲得している。歴史的に絶え間なく侵入したよそ者と、宗教・文化の相互交錯の過程で、シチリア主義とも呼ばれる、シチリア人の誇り高いアイデンティティが形成された。シチリアの歴史には、多様な征服者にともなって、ギリシア語・ラテン語・アラビア語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語が登場し、時代によって地名は変化しているケースも多々ある。本書はその3000年に及ぶ歴史を描き出し、シチリア島から世界史を照射しようとしている。
序章 シチリア島から世界史をみる/第1章 地中海世界と神々の島/第2章 イスラームの支配と王国の栄光/第3章 長くて、深い眠り/第4章 独立国家の熱望と失望/第5章 ファシズムと独立運動/終章 「シチリア人」の自画像
30.3月12日
”光吉夏弥 戦後絵本の源流”(2021年10月 岩波書店刊 澤田 精一著)は、1953年初版の岩波書店刊の絵本”ちびくろ・さんぼ”の翻訳者として知られる光吉夏弥について遺された資料から戦前の仕事と戦後の活躍の背景など謎多き人生に迫る初の評伝である。
光吉夏弥は、石井桃子と共に、1953年に岩波書店で、戦後絵本の嚆矢「岩波の子どもの本」を立ち上げたことで知られている。石井桃子は1907年生まれの児童文学作家・翻訳家で、数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。光吉も海外の児童文学の翻訳や紹介だけでなく、舞踊評論や写真評論も行った。児童書の翻訳、バレエの入門書など多数があるが、自らその生涯を語ることはなかった。澤田精一氏は1948年千葉県生まれ、山梨大学を卒業し、卒業後、福音館書店に務めた。編集者として、児童文学専門誌「子どもの館」で光吉夏弥の連載「子どもの本の世界から」や、月刊絵本「こどものとも」「こどものとも年中向き」「こどものとも年少版」「かがくのとも」を担当した。その後、白百合女子大学や日本女子大学の非常勤講師を務めた。光吉夏弥の経歴はさほど明らかではなく、1904年佐賀県に生まれ、慶應義塾大学卒業し、毎日新聞記者をへて、絵本、写真、バレエの研究、評論に活躍するという説明のあとに、代表的な著作が並んで、それでおしまいである。この著者紹介はあまりにも簡単であり、実際の生涯は波乱に満ちたものであった。しかも、絵本、写真、バレエという三つの異なるジャンルで活躍しながら、その三つのジャンルがどのように関係していたのかも明らかになっていない。その活動期間は1925年から始まり、60年間にも及ぶものであった。時代も戦前、戦中、戦後とまたがっていて、そこには大きな時代の変動があった。著者は福音館書店に入社したあと、児童文学専門誌「子どもの館」(福音館書店、1973~1983)の編集部に異動して、光吉の連載「子どもの本の世界から」を担当することになり、それは1980年の連載終了まで続いた。そのため、何人かの光吉夏弥研究者から取材を受けたことがあったが、それはあくまでも児童文学に限って、絵本の翻訳研究に限ってのことであった。しかし、光吉は三つの異なるジャンルで業績をあげた作家であり、どの分野の活躍も明らかにしないと光吉夏弥研究とはいえないのではないかと思ったという。そのため、舞踊、写真にはまったくの素人ながら、とにかく足跡だけでもたどりたいと調査を進めてきたそうである。光吉は1904年に光吉元次郎、なをの長男として、大阪府北区北野茶屋町に生まれた。元次郎は明治維新の前年、1867年に佐賀藩士族の子として生まれたため、夏弥の本籍は佐賀県唐津市となっている。元次郎は小学校を卒業すると、長崎の長崎中学校英文中学部に入学し、卒業すると、長崎外国語学校英学部に入学した。かつて佐賀藩は江戸時代末期、藩主・鍋島閑叟のもとで語学教育がさかんであったが、当時、英語教育では長崎のほうがぬきんでていたようである。長崎外国語学校を卒業すると、1889年に慶應義塾別科に入学し、翌年、大学部(文学、理財、法律)が発足し、私立で最初の総合大学となった。それまでの正科および別科は普通部となり、元次郎は1891年に普通部を卒業した。卒業後、1992年に日本綿花株式会社に入社した。綿花の取引のためにインド・ボンベイへ出張し、1895年に帰国した。1896年になると今度はアメリカを歴訪し、1897年に帰国して日本綿花を退社した。同年に、大阪府北区北野茶屋町に居を定め、そこで石谷なをと結婚し、1904年に積男(ペンネーム、夏弥)が生まれた。夏弥というペンネームは、婦人画報1925年1月号の「近代舞踏絵巻序観」という評論で始めて使用された。退社してからの元次郎は、スタンダード石油・鉱油部長、細糸紡績・常務取締役、大阪人造肥料・常務取締役、久原鉱業/久原商事・顧問、内外物産貿易・支配人心得などの要職に就いた。夏弥は1917年に大阪府立北野中学校に入学し、4年修了してから、慶應義塾普通部へ転校した。1922年に慶應義塾経済学部予科に入学したが、1926年に父・元次郎が逝去した。1929年に慶悳義塾経済学部を卒業したが、世界大恐慌のあおりを受け就職は困難で、翌1930年に鉄道省国際観光局に就職した。1934年に雑誌「舞踊世界」が創刊され、9月号から同人となった。同年に国際報道写真協会を設立し、1935年に雑誌「Travel in Japan」を創刊して主幹となった。会員は他に、木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三、林謙一など10名であった。1936年に「舞踊サークル」を創刊し、池谷作太郎と共に責任編集となった。1937年に国際観光局を退職し、東京日日新聞学芸部に嘱託として入社した。同年に、日本舞踊連盟が設立され、理事となった。理事長は山本久三郎帝劇専務で、理事は他に石井漠、高田せい子、藤蔭静枝などであった。1938年に岡田桑三と共に、雑誌「写真文化」を創刊した。1940年に大阪毎日新聞に入社し、文化部、編集部、出版部に勤務した。1942年に退社し、国際報道工芸社に入社した。1946年に中央公論社に嘱託として入社し、1948年に「少年少女」が創刊され編集長となった。同年、中央公論社を退社し、文寿堂出版に入社し、雑誌「金と銀」が創刊され編集長となったが、倒産により三号で廃刊となった。1949年にコミックス社に入社し、雑誌「スーパーマン」日本語版を創刊したが8号で終刊となり、翌年、コミックス社は倒産した。1952年に平凡社から、「児童百科事典」全24巻が刊行開始となり、編集委員となった。1953年に岩波書店の嘱託となり、「岩波の子どもの本」第一期24冊の刊行が開始された。同年に刊行された、絵本「ちびくろ・さんぼ」の翻訳者となった。「ちびくろサンボ」は世界的に広く読まれている童話、絵本で、もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマンが、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。手作りの本として誕生したあと、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行された。子供の手に収まる小さな絵本で、文も絵もヘレン・バンナーマン自身によるものである。著作権の混乱から、アメリカ合衆国ではいわゆる海賊版が横行した。改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かった。その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものであった。このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになり、1988年に人種差別の指摘を受け絶版となったが、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊された。1955年に白水社から、「演劇映画放送舞踊オペラ辞典」が刊行され編者となった。1956年に平凡社から、「世界写真全集」全7巻が刊行開始となり、編集委員となった。同年に光文社から、「世界新名作童話」シリーズ全8巻が刊行開始され、翻訳者となった。1957年に平凡社から、「世界写真家シリーズ」全14冊が刊行開始され、編集委員となった。1958年に平凡社から。「世界写真年鑑」が刊行開始され、編集委員となった。ほかに1977年から、大日本図書から、「ゆかいなゆかいなおはなし」シリーズ20冊、「ぼくはめいたんてい」シリーズ6冊、「傑作ねこの絵本」シリーズ5冊が刊行された。また、1988年にほるぷ出版から、「世界むかし話」シリーズ全16巻が刊行され、瀬田貞二と共に責任編集者となった。1990年に、「絵本図書館(世界の絵本作家たち)」で日本児童文学学会賞特別賞を受賞した。夏弥は、舞踊、写真、子どもの本という三つの世界で、いずれも先駆者であり、翻訳、評論、そして資料の収集とデータ・ベースの構築を生涯かけて続けた。それでいながら、そうした文筆活動を一冊の単行本として編むこともなく、指導的な著作も著さなかった。どこかジャーナリストの趣があり、ときには司書のような姿勢をみせることもあった。戦前から時代をみる目は確かで、じつにしたたかで、戦時下でもぶれなかった。でも戦後となると、ある意味、夏弥の思うような時代になったはずなのに、なにか齟齬が生じたように感じるという。本書はその類まれな、謎めいた、真摯で誠実な生涯の全体像を示しているが、解明されなかった謎も少なくないそうである。
まえがき/第一章 それは父から始まった/父・光吉元次郎/その後の元次郎/積男から夏弥へ/第二章 鉄道省外局国際観光局で/国際観光局に入局するまで/鉄道省は観光立国を目指す/国際観光局の活動/「Travel in Japan」の主幹として/パリ万博への参加/国際観光局 もう一つの顔/グラフ誌の出発は名取洋之助/プロパガンダとは?/第三章 舞踊評論家として/舞踊評論家・光吉夏弥の足跡/「日本」三部曲の台本を執筆/光吉と宝塚/日本少国民文化協会/瀧口修造について/世界の絵本を紹介/第四章 戦後からの出発/GHQの対日政策と児童書出版/編集者、光吉夏弥/漂流する編集者として/ディズニーの絵本とその紹介/『少年百科』で児童文学を紹介/『エブラハム・リンカーン』/『児童百科事典』の編集委員として/第五章 岩波の子どもの本/「岩波の子どもの本」前史/そしてアメリカの影が/アメリカのソフト・パワー/「岩波の子どもの本」とは/第六章 「岩波の子どもの本」以後の活動/「世界写真全集」など/舞踊界での活躍/モダンダンスの歴史を一望に/「子どもの本の世界から-その文献と資料」/数多くの児童書翻訳/絵本とは何か/残されたいくつかの不思議なこと/あとがき/略年譜
31.3月19日
”長生きしたい人は歯周病を治しなさい”(2121年10月 文藝春秋社刊 天野 敦雄著)は、歯肉、セメント質、歯根膜、歯槽骨により構成され歯周組織に発生する慢性疾患で歯を失う最もな病気ともいわれ自然に治ることのない歯周病にどう向き合えばよいかを解説している。
つい50年ほど前まで、歯周病は歯槽膿漏と呼ばれていた。歯槽膿漏とは歯茎から膿が漏れるということで、歯周病の中でも最も重い症状である。感染していても気付きにくく、気付いたときにはすでにある程度進行していることが多い。何もしなくても歯茎から血や膿が出たり、ひどい口臭が発生したり、歯がグラグラしてくる。そのまま症状が進行してしまうと、歯が抜け落ちてしまう可能性もある。悪化すると治療が難しくなり、完治させるまでに長期間を要するようになる。健康な歯とともに健やかに生き、生涯28本の歯をなくさないようにしよう。食べることは生きることであり、私たちの身体は食べたものでできているから、何を食べるかは身体の運命を決める重大事である。そして、よりよく食べるためには「健口」が欠かせず、「不健口」は全身の不健康を招くこともわかっている。健康長寿は健ロが支えており、健口管理は人生で最も価値のある自己投資の一つであるという。天野敦雄氏は1958年高知市生まれ、1984年に大阪大学歯学部を卒業した。同大歯学部予防歯科学講座助手、米・ニューヨーク州立大学博士研究員、大阪大学歯学部障害者歯科治療部講師等を経て、2000年に同大大学院歯学研究科先端機器情報学教室教授となった。その後、同大大学院歯学研究科予防歯科学教室教授、同研究科長、同大歯学部長を兼務した。2010年大阪大学大学院歯学研究科副研究科長・副学部長、大阪大学大学院歯学研究科附属口腔科学フロンティアセンター長となった。2011年より、大阪大学大学院歯学研究科口腔分子免疫制御学講座予防歯科学教授を務めている。2015年から2019年まで大阪大学大学院歯学研究科長・歯学部長を務め、2021年に日本口腔衛生学会・理事長となった。歯周病は主に歯周病菌が悪さをしておきる病気で、他の感染症のように1種類の細菌が悪さをして病気を引きおこすのではなく、歯周病の発症には複数の細菌が関与している。口の中には700種類ぐらいの細菌がいるが、歯周病に関与している歯周病菌は10~20種類ほどとされている。歯周病にかかると、歯周病菌は時には1000倍以上にも増えるともいわれている。慢性的な歯周病では、ポルフィノモナス・ジンジバリス、トレポネーマ・デンティコーラ、タンネレラ・フォーサイセンシスの3種類の菌が多くみられる。これらの菌はレッド・コンプレックス(red complex)と呼ばれ、最も悪さをする。進行性の歯周病ではアクチノバチラス・アクチノミセテムコミタンスが、妊娠時の歯周病ではプレボテラ・インターメディアが増加する傾向にある。歯周病菌の主な栄養源は、歯と歯肉の間の溝である歯周ポケットの歯肉から出てくる、アミノ酸を主な栄養源としている。その他に、唾液の中のアミノ酸、食べ物と共に入ってくるショ糖、ブドウ糖、果糖を栄養源としているものもある。口の中は温かく、湿度があり、栄養源も豊富なため、歯周病菌にとって繁殖しやすい環境にあり、細胞分裂して繁殖する。歯周病が進行して歯と歯肉の間にある溝である歯周ポケットが深くなると、歯周病菌にとってさらに繁殖しやすい環境となる。しかし、唾液や歯肉からでてくる浸出液には免疫物質が含まれ、細菌どうしの縄張り争いもあり、条件が良ければ20分に1回ほど細胞分裂できる歯周病菌でも、実際には4~5時間に1回程度の細胞分裂となる。歯周病のうち、歯肉に限局した炎症が起こる病気を歯肉炎、他の歯周組織に及ぶ炎症と組織破壊が生じている物を歯周炎といい、これらが二大疾患となっている。歯肉炎は歯肉が炎症を起こして、赤くはれたり、出血したりする状態で、原因はみがき残した歯垢である。歯垢の中の細菌の毒素や酵素が、歯を支える組織を刺激すると、歯肉が炎症を起こしてしまう。歯肉炎の段階なら、歯みがきをきちんと行うことで改善することができるが、悪化して歯周ポケットができたり、歯を支える骨まで溶けたりする歯周炎になると、元に戻すことはできにくくなる。歯周炎は歯肉炎が悪化し、歯を支える骨にまで腫れが広がっている、重度な炎症である。この状態では骨の一部が失われている可能性もあり、元の状態に戻すことは難しい。歯肉炎で最も多いのはプラーク性歯肉炎である単純性歯肉炎であり、歯周炎のうちで最も多いのは慢性歯周炎である成人性歯周炎である。そのため、歯肉炎、歯周炎といった場合、それぞれ、プラーク性歯肉炎、慢性歯周炎を指すのが一般的である。ほぼ全ての歯肉炎はプラーク性であり、石灰化したプラークは,カルシウムおよびリン酸塩による細菌,食物残渣,唾液,および粘液の結石である。単純性歯肉炎は,最初に歯と歯肉の間の溝が深くなり,続いて1本以上の歯の歯肉が帯状に発赤して炎症を起こし,歯間乳頭が腫脹し,易出血性の状態となる。疼痛は通常生じないが、炎症は消失することも,何年も表在のままとどまることも,またはときとして歯周炎へ進行することもある。慢性歯周炎は主に成人に認められる最も一般的な歯周炎で、歯肉縁下のデンタルプラーク中の歯周病原細菌による感染と、それに対する宿主の免疫応答により歯周組織の破壊に至る。リスクファクターとしては,細菌因子に加えて環境・宿主因子が挙げられ,多因子性疾患としてとらえられる。歯科疾患実態調査によると、日本においては歯周疾患の目安となる歯周ポケットが4mm以上存在している割合が、平成23年調査では45歳以上の人で約半数に達している。また、高齢者の歯周疾患患者が増加していることが示されている。歯周病を甘く見たらとんでもないことになるということが、最近、詳細にわかってきた。歯周病菌を放置しておくと、心筋梗塞のリスクは2・8倍、脳卒中の罹患率は20%増え、早産のリスクは7倍になるという。糖尿病の合併症とも深くかかわり、膵がんのリスクは1.6倍になる。また、認知機能が徐々に低下していく、アルツハイマーとも密接な関係もある。さらに、脂肪が増えて太りやすくなる他、高齢者の死因にもなる誤嚥性肺炎の原因菌であることもわかってきた。歯周病は全身に影響するあまりにも恐ろしい感染症であり、インフルエンザの発症も、歯周病があるとないとでは、雲泥の差が出てくるそうである。口のなかはバクテリアという無数の細菌が棲みついていて、その菌はかたちも種類も性格もさまざまである。それらが群れをなし、細菌叢というひとつの社会をつくっているという。口は食べ物が入ってくる場所にもかかわらず、そこは直腸のなかの便と同じくらい細菌だらけで汚いという。ほとんどの人は、この衝撃的な事実に気づかないまま生活をしている。しっかり歯をみがいたり、舌をキレイにしたりするなど普段から口のケアをしていないと、バクテリアの数はさらに増える。多くの人たちはまた、口のなかにある病気を放置していることに気づかないまま生活をしている。歯周病は子どもから大人までかかる生活習慣病であるが、とくに口にトラブルのない人や若い人は、歯周病という言葉はよく耳にしていても、そんな漠然としたイメージしかないかもしれない。あるいは、歯周病菌によって歯を失うリスクがある病気ということは知っていても、自分にはまだ関係ないと、どこか他人事でいる。だから、本人はすでに病気が進んでいることに気づかず、治療されないまま放置されていることが多い。歯周病のきっかけは、歯のみがき残しというとてもありふれたものである。だから、高齢者だけがなるわけではなく、子どもから大人まで誰でもかかる。毎日歯みがきをしている人でも、歯ブラシが届いていない場所があったり、みがき足りていない場所があったりすれば、その人の口のなかは、歯周病菌がよろこぶ環境をつくってしまっていることになる。歯みがきが面倒になる、ついうっかりみがき忘れる、というシチュエーションは日常に転がっている。現在、新型コロナというウィルスの感染症が猛威を振るっているが、実は歯周病も感染症である。新型コロナはウィルス、歯周病は細菌という違いはあっても、感染者から移るというメカニズムはまったく一緒である。歯周病菌は人から人へ移るものであり、感染ルートは唾液感染である。歯周病を進行させるのも、発症の手前で食い止めるのも、すべて自分の行動次第であり、毎日の生活習慣にかかっている。また、歯周病を悪くする原因は、歯のみがき方が足りないだけではない。呼吸の仕方によっても促されることがわかっていて、口から呼吸をすることが習慣になってしまっている人は、確実に歯周病が進む。これらのことを知るのは最大の防御であり、この本を通じて、本当に歯周病が怖いのはなぜなのか、どうすれば自分だけでなく、大切な家族や恋人、ペットや友達を守れるのかを、知っていただきたいという。
序章 歯周病は国民病だ/第1章 歯周病は全身に害をなす感染症/第2章 歯周病の発症メカニズムをさぐる/第3章 口中悪玉菌たちが引き起こす病気/第4章 口が臭い原因も歯周病/第5章 口の健康を保って新型コロナを予防する/第6章 食品で歯周病を防ぐ/第7章 歯周病対策の最前線/第8章 健口は健康寿命と幸せ寿命のもと
32.3月26日
”埴輪は語る”(2021年6月筑摩書房刊若狭」徹著)は、3世紀中頃に出現した前方後円墳に弥生時代以来の葬送儀礼の器物として採用されほどなく古墳を守護する呪的な道具として発展していった埴輪について、発掘、歴史、群像、登場人物、支えた仕組みなどを解説している。
古墳は、王の権力を見せつけるため造られた古代の巨大建造物である。そこに据えつけられた埴輪は、古墳を荘厳に見せる飾りである。埴輪は前方後円墳という古墳時代の指標となる記念物と共に現われ、日本各地の古墳に分布している。やがて、王のもつ器物を造形した器財埴輪や家形埴輪が登場すると、墓の主が眠る場を示し、そこを護ると共に、荘厳に飾る性格をもつようになった。そして五世紀に至り、被葬者の治世のようすをビジュアル化する人物群像として完成した。埴輪は古墳時代の日本に特有の器物であり、一般的に土師器に分類される素焼き土器で、祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた。若狭徹氏は1962年長野県生まれ群馬県育ち、明治大学文学部史学地理学科考古学専攻を卒業した。2007年に「古墳時代地域社会構造の研究 上毛野から提唱する水利開発主導型の社会モデル」で明大博士(史学)となった。史跡保渡田古墳群の調査、整備、かみつけの里博物館の建設、運営にたずさわった。高崎市教育委員会文化財保護課課長を経て、明治大学文学部准教授となった。藤森栄一賞、濱田青陵賞、古代歴史文化賞優秀作品賞を受賞している。1988年のこと、関東平野の内陸部、群馬県高崎市の榛名山東南麓地域で、農地改良事業のために削られる台地の緊急発掘調査が行われていた。一帯は、井出、保渡田と呼ばれる地区で、国指定史跡の保渡田古墳群が存在する考古学的に重要な地域である。保渡田古墳群は、墳丘の長さが100mほどの3基の大型前方後円墳から成り立っており、5世紀後半の東国を代表する遺跡として知られている。そのひとつである井出二子山古墳のすぐ北側のエリアの発掘調査で、幅2m深さ1mほどの溝の中から、茶褐色をした握りこぶし大の焼き物を掘り出していた。それは素朴な表情をたたえた男子埴輪の頭部で、この発見をきっかけにして、溝のなかから続々と埴輪の破片が出土しはじめた。出土した数干点の破片は、およそ1年をかけて丹念に接着剤で接合する作業を行った。その結果、馬、犬、猪などの動物、さまざまな人物、家、盾などの器物をかたどった埴輪が復元された。円筒埴輪は、普通円筒、朝顔形埴輪、鰭付円筒埴輪などに細分される。墳丘を取り囲む周提帯の上や、墳丘頂部、墳丘斜面に設けられた段部に横一列に並べられた。形象埴輪は、家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の4種に区分され、墳丘頂部の方形基壇や、造出と呼ばれる墳丘裾の基壇状構造物の上に立て並べられた。形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服、髪型、武具、農具、建築様式などの復元が可能である。埴輪の構造は基本的に中空で、粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えて作った。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料が塗布された。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では形象埴輪に様々な彩色が施されている。最終的に、およそ50個体の形象埴輪の存在が明らかになった。貼り付いた破片どうしの関係性を検討した結果、もともとは古墳の墳丘に立てられていた埴輪群が、倒れ割れ散ってまわりの溝に流れ込んだものと推定された。倒れた位置から元の位置を推定する作業を行うと、溝の背後の前方部における埴輪の配列のありかたがおおよそ復元できた。埴輪群像は、2つ以上のグループに分かれており、古墳の外方から見て、左側に王が儀礼を行っている様子、右方に狩猟の様子が表現されていたようであったという。自然環境の変動は神の仕業と信じられていた古代において、地域の王は、民のために神をまつって環境を安定させ、悪神が里に災いをもたらさないように努める使命を帯びていた。また、農地の実りを保証し、遠来の物資を確保し、最新技術を移入して地域を富ませなければならない宿命を負っていた。埴輪群像は、この世を去った被葬者のそうした生前の事績を示し、それをみる共同体の人々に認知させるための仕掛けだったと考えられる。人物埴輪は、古墳づくりに従事し、葬送儀礼に参加する共同体の者たちや近隣首長を意識した、見せるためのツールであった。人物埴輪群像の中には複数の場面があり、その場面ごとに被葬者の姿が表現されていた。神まつりを行う王、狩猟を行う王、武威を誇る王、服飾品や物資をこの地に導く王、馬を所有し生産する王などの像である。古墳時代は350年(3三世紀中葉~6世紀末)続いたが、その間、列島中に5000基もの前方後円墳が造られた。他にも円墳冲方墳が造られたが、前方後円墳こそが中央政権と連合したことをビジュアル化するための仕掛けであった。その連合に加われば、安全保障と経済的ネットワークに連なることができた。ゆえに、有力豪族たちは競ってそれに連なろうとした。埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台、特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺形埴輪がまず3世紀後半に登場した。次いで4世紀に、家形、器財形、動物形が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかとなっている。3世紀後半になると、岡山県岡山市都月坂1号墳、奈良県桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号墳などの前方後円墳から、最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。最古の埴輪である都月型円筒埴輪と、最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とは、同じ墳墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。ただ一例、兵庫県たつの市の権現山51号墳では、後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。古墳時代前期初頭(3世紀中葉?後葉)には、吉備地方において円筒形、壺形、少し遅れて器台と器台に乗せた壺が一体化した形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。4世紀前葉の前期前葉には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形、蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付けた鰭付き円筒埴輪である。さらに、5世紀中ごろの古墳時代中期中葉からは、巫女などの人物埴輪や家畜である馬や犬などの動物埴輪が登場した。埴輪馬は裸馬のものと装飾馬があり、装飾馬は馬具を装着した姿で表現される。群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳は保渡田古墳群に含まれ、5世紀後半代の前方後円墳で、馬や鶏、猪など多くの動物埴輪が出土している。保渡田八幡塚古墳から出土した鵜形埴輪は首を高く上げ口に魚を加えた鵜の姿を形象しており、首には鈴のついた首紐が付けられ、背中で結ばれる表現も残る。鵜形埴輪の存在から、古墳時代には祭礼や行事としての鵜飼が行われていた可能性が考えられている。またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになったのである。あるいは、方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合いに大型化したりするようになった。畿内では、6世紀中ごろの古墳時代後期には、次第に埴輪は生産されなくなっていった。しかし、関東地方においては、なおも埴輪の生産が続けられていた。なかでも、埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯跡は、当該期の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られている。群馬県保渡田古墳群の三基の前方後円墳のなかで、最後に完成したのは保渡田薬師塚古墳である。墳長105mで二重の堀を巡らす大型前方後円墳であるが、発掘調査の結果、5世紀末頃の榛名山犬噴火を間に挟んで築造されたことが判明した。周堀の堆積土の観察では、外堀は噴火の前、内堀は噴火の後に掘削されており、被葬者が王位に就いた後、墓の範囲を定める外堀から着工されたとみられる。本古墳を最後に保渡田古墳群の王の系列は途絶しており、葬送を行う集団の結合が不安定化したために、仕上げが不完全に終わったのであろう。このことからも、本古墳が王の生前から造られており、埴輪が最後の仕上げ段階で配置されたことが推定できるという。本書では、そうした王の治世の具体像、その歴史的意味、埴輪を通じて明らかにされる古墳時代社会の実像を、順をおって詳らかにしていこうとしている。
第1章埴輪を発掘する/第2章埴輪はどのように発展したかー三五〇年の歴史/第3章見せる王権ー人物埴輪の群像/第4章埴輪の登場人物たち/第5章埴輪づくりを支えた仕組み/終章埴輪は語るー歴史の必然
33.令和4年4月2日
”津田梅子 明治の高学歴女子の生き方”(2022年1月 平凡社刊 橘木 俊詔著)は、わずか7歳前後の少女時代に異国のアメリカに単身渡り当地で教育を受け、帰国後、女子英学塾(現津田塾大学)の創設に尽力した津田梅子の波乱に満ちた人生を紹介している。
津田梅子は1864年に、旧幕臣、東京府士族、下総佐倉藩出身の1津田仙と初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町に生まれた。 父は幕臣であったため江戸幕府崩壊とともに職を失い、1869年に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移り、西洋野菜の栽培なども手がけた。幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていた。1871年に父は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移った。開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、父は黒田が企画した女子留学生にうめを応募させた。同年、岩倉使節団に随行して梅子は渡米した。同行した5人のうち、最年少の満6歳であった。一行は横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着した。橘木俊詔氏は1943年兵庫県生まれ、灘高等学校を経て、1967年に小樽商科大学を卒業し、1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了した。1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了 (Ph.D.)し、1998年に京都大経済学博士となった。1974年1月から1976年9月まで、パリでフランス国立統計経済研究所客員研究員となった。1976年10月から1977年9月まで、パリで経済協力開発機構 (OECD) エコノミストを務めた。1977年10月から1979年3月まで大阪大学教養部助教授、1979年京都大学経済研究所助教授、1986年同教授を務めた。2003年に京都大学大学院経済学研究科の経済学部教授となり、2007年に定年退任し、名誉教授となった。2007年に同志社大学経済学部教授、2009年に同志社大学経済学部特別客員教授、同志社大学ライフリスク研究センター長となり、2014年に京都女子大学客員教授となった。津田梅子は、渡米直後の1871年に、アメリカのジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられた。1972年5月に森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされたが、10月には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国した。残った3人が梅子、山川捨松、のちの大山捨松、永井しげ、のちの瓜生繁子である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに女子英学塾、現在の津田塾大学を設立する際に、二人は助力した。梅子はランマン家で十数年を過ごし、英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通った。キリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、1873年7月に特定の教派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けた。1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学した。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学んだ。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行した。1881年に開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年7月に卒業した。同年11月には日本へ帰国した。帰国したものの、日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、捨松と繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。1883年に外務卿、井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾、桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介された。このころ父との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在した。歌子からは日本語を学び、桃夭女塾へ英語教師として通った。1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師となった。1886年に職制変更で嘱託となった。1888年に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、薦められて再度の留学を決意した。父の知人、ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘、クララの仲介で、留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可された。1889年7月に梅子は再び渡米し、フィラデルフィア郊外のセブン・シスターズ大学のひとつ、ブリンマー大学で生物学を専攻した。3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆した。使命であった教授法に関する研究は、州立のオズウィゴー師範学校で行った。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版る際には手助けをした。留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行った。大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められたが、1892年8月に帰国した。再び華族女学校に勤め、教師生活を続けたが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行った。1894年に明治女学院でも講師を務め、1898年5月に女子高等師範学校教授を兼任した。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や1899年の高等女学校令、私立学校令の公布などの法整備があり、女子教育への機運が高まった。1900年に官職を辞し、父やアリス・ベーコン、捨松、繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、7月に女子英学塾の設立願を東京府知事に提出した。認可を受けると同年に、女子英学塾を東京麹町区に開校して塾長となり、華族平民の別のない一般女子の教育を始めた。女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられた。梅子やベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。1903年に専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とした。1905年10月に、梅子を会長として日本基督教女子青年会、日本YWCAが創立された。梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任した。鎌倉の別荘で長期の闘病後、1929年に脳出血のため享年66歳で死去した。女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の1948年のことであった。梅子が女子の高等教育機関をつくるに際しては、本人のブリンマー大学での学びの経験か大きく役立ったことは言うまでもない。そこで、梅子がアメリカでどのような学生生活を送っていたかに注目している。当時のアメリカの大学では、男女共学の学校は少なく、名門ブリソマー大学も女子大学だったので、帰国後の梅子は女子学校の創設に走った。特に当時の日本は旧い社会だったので、それを打破すべく、女子教育の発展に強い熱意でもって尽力した。今の津田塾大学は、女子大学の名門校として燦然と輝いている。津田梅子を筆頭にして、教員、学生がいかにこの学校の発展に尽くしてきたか、その足跡に迫っている。興味深いのは、女子大学の一つの売りは家政学部を持っていたことにあるが、津田塾大学はそれを持たず、教養、純粋学問に特化してきたことに特色がある。とはいえ現在は、津田塾大学のみならず、女子大学の意義も問われている時代となっている。第1は、女子高校生の共学大学志向の高まりにどう対処するのか。今や本家アメリカでも女子大学の数は減少しているし、ヨーロでハには女子大学の存在は珍しい。第2は、津田、大山、永井の三名に代表されたように、女子高等教育を受ける人に、女子大学を含めた日本の大学教育のあり方を検討してみた。本書の中心はあくまでも津田梅子であるが、捨松と繁子との比較は明治時代の高学歴女子の生き方の代表的な三つの姿を象徴している。すなわち、結婚せずに独身で職業を全うする、専業主婦となって良妻賢母を貫く、職業人と妻・母として生きる、の三つである。三名は恵まれた境遇にいたとはいえ、それなりの苦労を経験したのであり、その経験の差が三人の生き方に差を生じさせた一因でもあった。その違いをよく知るために、1章分を割いて、捨松と繁子の人生についてもかなり詳細に記述している。現代の女性にとっても、特に高学歴女子にとっては、独身でキャリアを全うするか、専業主婦となって夫と子どもを支えるか、共働きをして職業人と家庭人を両立させるかの三つの大きな選択肢がある。その選択に多くの女性が悩んでいるが、明治時代の三人の女性の経験を知ることによって、現代でも学ぶところかあると思われる。梅子はアメリカの大学で学んだことを活かすために、帰国後は職業人を目指すが、男性社会の壁はとても厚く、種々の困難に遭遇した。そこで普通の女性のごとく結婚という道も頭をよぎったが、女子教育の充実こそが梅子の宿願だったので、一人で女子英学塾の開校を決意した。もとより女子高等教育機関をつくる仕事は、国の支援のある官立校ではなく私立校なので、当時としては苦難か多く、梅子も様々な壁にぶちあたった。しかし、ア
メリカ留学時代に構築した人間関係の恩恵を得て、物心ともに支援を受けて女子英学塾を創設し発展に寄与した。なお、2024年上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まった。
第1章 戦前の女子教育と岩倉使節団/第2章 津田梅子の幼少期と渡米/第3章 アメリカの大学へ留学する/第4章 帰国後の梅子と津田英学塾/第5章 山川捨松と永井繁子/第6章 三者三様の生き方と現代への含意
34.令和4年4月9日
”慧海 雲と水との旅をするなり”(2020年1月 ミネルヴァ書房刊 高山 龍三著)は、日本人として初めてチベット・ラサへ潜入、仏教の原典を入手し、チベットの文化、仏教の研究・紹介に努めた河口慧海の型破りで情熱的な生涯を紹介している。
チベット仏教は、7世紀にインドから伝えられた密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教とが結びついて展開した。師匠のラマを崇敬し、師弟関係を通じて教えが伝えられることから、ラマ教と呼ばれることもある。8世紀半ば,インド系仏教が中心となってボン教と融合して成立した。吐蕃の国家的宗教となったが,吐蕃末の廃仏で衰微した。11世紀の再興後,13世紀にパスパがフビライ=ハンの保護を受けてモンゴルや華北にも普及させた。14世紀にツォンカパが出て戒律の厳格な黄帽派を創立して改革にあたり,これまでの紅帽派と区別した。その二大弟子からダライ=ラマ,パンチェン=ラマが代々転生するとして,前者はラサに,後者はタシルンポに教権を立て,ともにチベットの政教を支配してきた。また,16世紀にアルタン=ハンがチベットを討つとチベット仏教を奉じ,モンゴルに移入された。現在、ゲルク派、カギュ派、サキャ派、ニンマ派の四大宗派がある。ダライ・ラマはゲルク派の最高位で、同時にチベット仏教の最高位にある。第2位にあたるのがパンチェン・ラマである。共に転生霊童の活仏として崇拝され、どちらか一方が死亡した場合、もう一方がその転生者を認定する。高山龍三氏は1929年大阪生まれ、大阪市立大学・同大学院博士課程中退、専攻は文化人類学・チベット学である。東京工業大学助手、東海大学助教授、大阪工業大学教授を経て、京都文教大学文化人類学科教授となった。1958年以来ネパール、西および南アジア、ボルネオのフィールドワークを実施してきた。2004年に新たに発見された慧海の日記の研究を続け、新版の著作集に収録した。2006年に日本国立民族学博物館がネパール写真データベースを公開した。データベースに収められた写真には、1958年の西北ネパール学術探検隊に参加し現地で撮影した3、584点と、同隊がネパールで収集した標本資料の295点の合計3、879点がある。慧海の資料調査・研究公刊を生涯続け、講談社学術文庫版の慧海のチベット旅行記の校閲も担当し多数重版された。河口慧海は1866年摂津国住吉郡堺山伏町、現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁生まれ、父親は桶樽を家業とする職人であった。幼名は定治郎、僧名は慧海仁広、ベット名はセーラブ・ギャムツォ、チベットでの通称はセライ・アムチーである。6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年に京都の同志社英学校に通学を始めたが、学費困窮から退学した。同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。1888年に宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京した。井上円了が東京市に創設した哲学館、現、東洋大学の外生として苦学した。1890年に黄檗宗の五百羅漢寺で得度し、同寺の住職となった。1892年3月に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、同年4月から大阪妙徳寺に入り禅を学ぶ傍ら一切蔵経を読んだ。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになったが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指した。1897年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドのカルカッタに到着した。摩訶菩提会幹事の紹介により、ダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得た。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送った。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択した。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。1899年1月に仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者のダンマパーラ居士より、銀製の塔、その捧呈書、貝多羅葉の経文一巻を、チベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託された。同年2月にネパールの首府カトマンズに到着し、ブッダ・バジラ・ラマ師の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査した。同年3月にカトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行ったが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなった。ここで知り合ったモンゴル人の博士、セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになった。1899年5月より翌年3月頃まで、この村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり、登山の稽古をしたりして過ごしながら、新たな間道を模索した。1900年3月に新たな間道を目指してツァーラン村を発ち、マルバ村へ向かった。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機した。同年6月12日に、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発した。同年7月4日に、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功した。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェと面会し、マナサルワ湖・聖地カイラス山などを巡礼した。1901年3月にチベットの首府ラサに到達し、チベットで二番目の規模を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許された。それまで中国人と偽って行動していたが、この時にはチベット人であると騙ったという。たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになった。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー、つまり、セラの医者という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになった。そしてついに法王ダライ・ラマ13世に招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されたが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断った。前大蔵大臣の妻を治療した縁で、夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェで、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことができた。1902年5月に、日本人だという素性が判明する恐れが強くなり、ラサ脱出を計画した。親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、英領インドに向けてラサを脱出し、無事インドのダージリンまでたどり着いた。同年10月に、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞いたという。そこで救出のための方策として、チベットが一目置いているであろうネパールに赴いた。1903年3月に、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに認めた上書を、ネパール国王であったチャンドラ・サムシャールを通じて、法王に送って貰うことに成功した。同年4月24日に、英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に神戸港に帰着した。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことであった。その後、慧海は1913年から1915年までにも、2回目のチベット入境を果たした。ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。著者はかつて西北ネパール学術探検隊の一員として、一か月も歩いてヒマラヤを横断し、とあるチベット人村に滞在し、民族学的調査をしたことから、この偉大なる人物、慧海師とのつながりが始まったという。歩いた道は慧海師の歩いた道であり、滞在調査した村は、慧海師が旅行記の中でネパール最後に記した村であった。帰国後、勤務の都合で上京し、師に連れられて慧海の会、通称、慧海忌に出席し、遺族や弟子たちと知り合い、多田等観師、平山郁夫画伯、山田無文師、深田久弥氏、中根千枝先生らの話を聞いた。慧海の会の自費出版、第二回チベット旅行記の編集、注記、地図づくりを手伝い、講談社学術文庫のチベット旅行記五冊本の校訂を行った。のちに僧籍を返上して、在家仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。チベット旅行記によって、多くの読者は探検談としての興味をもって評価したが、仏教の書として読んで欲しいと願ったという。日記の出現により、慧海師の旅は修行そのもの求道そのものだったことが分かる。この本では、旅行記によって話を進めず、日記によって判明した彼の行動、思考を追ってみたいという。
第1章 若き時代/第2章 チベットへの旅/第3章 再びチベットへ/第4章 研究・教育・求道/第5章 世界のカワグチとなった慧海/第6章 慧海の遺したもの/参考文献/慧海年譜
35.4月16日
”がん治療革命 ウィルスでがんを治す”(2021年12月 文藝春秋社刊 藤堂 具紀著)は、人間の体に害をなすものとして認識されているウイルスを利用してがんを治そうという画期的な治療法を紹介している。
ウイルスに感染した細胞は死に、その細胞から新しいウイルスが放出され、また他の細胞に感染して体内に広がっていく。このウイルスの性質を利用して、がん細胞だけを殺すウイルスを投与することでがんを治そうという治療が、がんウイルス療法である。投与するウイルスは、遺伝子を改変してがん細胞内だけで増殖できるように作られ、正常な細胞は傷つけることはない。がん細胞は、正常な細胞に比べて増殖が早い特徴があるので、この治療用ウイルスに感染したがん細胞は、増殖によりウイルスが周囲に速いスピードで拡散し、がん細胞を次々と死滅させていく効果が期待される。2021年に、世界で初めて脳腫瘍を対象としたがん治療用ウイルス薬が日本で承認された。ウイルスを人類の味方にするという画期的な発想から生まれたG47Δ=ジーよんじゅうななデルタは、副作用が比較的軽く、あらゆる固形がんに適用できるという。藤堂具紀氏は1960年生まれ、1985年に東京大学医学部を卒業した。独エアランゲン・ニュールンベルグ大学研究員、米ジョージタウン大学助教授、米ハーバード大学マサチューセッツ総合病院助教授などを経て、2003年に東京大学脳神経外科講師となった。2008年より同大医学部附属病院トランスレーショナルリサーチセンター特任教授、2011年より同大学医科学研究所先端医療研究センター先端がん治療分野(脳腫瘍外科)教授となった。現在、医科学研究所先端医療研究センター先端がん治療分野の分野長を務めている。博士(医学)(東京大学)で、専門分野は脳神経外科学、研究テーマは遺伝子組換えウイルスを用いたがんのウイルス療法の開発である。遺伝子組換え技術を用いてがん細胞のみで複製するウイルスを作製し、がん治療に応用する。特に、三重変異の単純ヘルペスウイルス1型(G47Δ)は、高い安全性と強力な抗腫瘍効果を有し、臨床応用を展開している。異なる抗がん機能を発揮する様々な次世代ウイルスの作製や、悪性脳腫瘍から分離したがん幹細胞の研究活用を通じて、再発や転移を克服する革新的がん治療法の開発を目指している。現在行われているがんの治療法には、主に、手術療法、放射線療法、化学療法、免疫療法の4つがあり、これらをがんの四大治療法と呼んでいる。日本では、これまで手術ががん治療の中心にあったが、近年は化学療法や放射線療法が進歩し、がんの種類やステージによっては手術と変わらない効果が認められるようになってきた。四つの治療法を、場合によって2つ以上の治療を組み合わせることもあり、手術療法、放射線療法、化学療法、免疫療法を組み合わせた治療をがんの集学的治療と呼ぶ。四大治療法を効果的に組み合わせ併用することで、より大きな治療効果が期待できる。手術療法は、外科手術によりがんの病巣を切除する治療法である。また、周辺組織やリンパ節に転移があれば一緒に切除する。しかし、手術により身体にメスを入れるため、創部の治癒や全身の回復にある程度時間がかかる治療法である。しかし最近では、切除する範囲をできるだけ最小限にとどめる縮小手術や、腹腔鏡下手術、胸腔鏡下手術など、身体への負担を少なくする手術の普及が進んでいる。放射線療法は、放射線をがんに照射してがん細胞の増殖を防ぎがん細胞を殺してしまう治療である。放射線は細胞分裂を活発に行う細胞ほど殺傷しやすい性質を持っている。そのため、がん細胞は正常な細胞に比べて放射線の影響を受けやすく、一定の線量を小分けにして何回も照射することで、正常な細胞にはあまり影響を与えず、がん細胞を殺傷することができる。化学療法は、抗ガン剤などの化学物質によってがん細胞の分裂を抑え、がん細胞を破壊する治療法である。がんは次第に転移し全身に広がっていく全身病であり、 抗がん剤は内服や注射により血液中に入り、全身のすみずみまで運ばれ、体内に潜むがん細胞を攻撃する。そのため、全身的ながんの治療に効果を発揮する。免疫療法は、私たちの体の免疫を強めることによりがん細胞を排除する治療法で、化学療法同様、全身に効果がおよぶ全身療法のひとつである。2018年にノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑教授が開発した、ニボルマブ=オプジーボという免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれる画期的な薬が代表的である。現在保険診療の範囲は一部のがん種に限られているが、今後適用範囲の拡大が期待されている。がんの治療は、この4つの治療を組み合わせ併用する事により、より大きな効果をあげることができる。そして、がんウイルス療法は、1990年代から欧米などを中心に開発が進められていたが、2021年6月11日に、神経膠腫という悪性の脳腫瘍の治療薬として、日本ではじめて承認された。手術や放射線治療などの、従来の治療で効果が見られなかった人が対象となる。ウイルス療法は、腫瘍細胞=がん細胞だけで増えるように改変したウイルスを腫瘍細胞に感染させ、ウイルスそのものが腫瘍細胞を殺しながら腫瘍内で増幅していく、という新しい治療法である。ウイルスが直接腫瘍細胞を殺すことに加え、腫瘍細胞に対するワクチン効果も引き起こす。手術、放射線、化学療法など従来の治療法とも併用が可能であることから、近い将来悪性神経膠腫の治療の重要な一翼を担うと期待されている。普通、医薬品は厚生労働省の承認が正式に決まって初めてニュースになるのであるが、G47Δの場合、厚生労働省の専門部会が製造販売の承認を了承した5月24日の段階から大きな反響があったという。新聞各紙をはじめ、あちこちで大きく報道されたため、問い合わせの電話が東大医科学研究所に殺到し、附属病院の電話はパンクしてしまったそうである。G47Δは、悪性神経膠腫に対する治療薬で、一般名はテセルパツレブ、製品名はデリタクト注(「注」は注射薬のこと)という。悪性神経膠腫のなかでも、代表的な疾患である膠芽腫は、最も悪性度が高い脳腫瘍である。標準治療は、摘出手術に加え放射線治療と薬物治療があるが、再発は必至で、再発後の平均余命は3ヵ月~9ヵ月程度、1年後の生存率は14%ほどしかない。しかし、臨床試験で、この膠芽腫の患者にG47Δを投与したところ、最終的な1年後の生存率が84.2%と、標準治療の結果に比べ6倍以上の延命効果が認められた。先行した臨床試験の被験者のうち1人は、治療後の再発もなく、なんと11年以上生きている。脳腫瘍を対象としたウイルス療法薬が承認されたのは世界初であり、ウイルス療法製品が承認されたのは日本初である。また、開発から製造までのすべての工程を日本で行なっている、日本初の国産ウイルス療法薬でもある。そして、製薬会社ではなくアカデミアが単独で発明し、臨床試験を経て製造販売承認に至った医薬品も、国内では初めてのことであった。今回承認された治療薬に使われているのは、東京大学医科学研究所附属病院で研究・開発されたG47Δというウイルスである。これは、単純ヘルペスウイルスの3つの遺伝子を操作して、正常細胞では増えず感染したがん細胞内だけで増える治療用ウイルスである。これまで行われた臨床研究では、治療1年後の生存率が従来の治療に比べて高いことが示されており、さらにデータを収集して有効性と安全性を評価する期限・条件付き承認となっている。現在、第三世代の遺伝子組換え単純ヘルペスウイルスI型G47Δを用いて臨床試験を行っている。この治療では、ウイルスの作用で直接的にがん細胞を殺傷する効果に加え、体内の免疫の働きを強めてがんを抑え込む、免疫療法としての効果も期待されている。単純ヘルペスウイルスはもともと免疫からその姿を隠す働きをもっているが、 G47Δウイルスはその働きを欠いているので、治療用ウイルスが感染したがん細胞は、免疫の攻撃を担う細胞に発見されやすくなる。また、ウイルスの感染によりがん細胞が破壊されると、体内の免疫反応も活性化するので、がん細胞をさらに攻撃することが期待できる。このウイルス療法薬の優れている点は、正常細胞に感染しても増殖できないしくみを備えていることである。そのため、正常組織を傷つけることはなく、従来のがん治療のような強い副作用や後遺症が起こる心配がない。G47Δに使われているウイルスは単純ヘルペスウイルス1型で、成人の8割程度が一度は感染して抗体を持っている、ごく身近なウイルスである。単純ヘルベスウイルス1型のように研究が進み、人為的に制御できるウイルスならば、がんの治療に活かすこともできる。単純ヘルペスウイルス1型の遺伝子のうち1つを改変したものを第一世代、2つを改変したものを第二世代と呼ぶ。今回は、単純ヘルペスウイルス1型の3つの遺伝子を改変したもので、第三世代と呼ばれている。この第三世代は、安全性を格段に高めながらも、がんへの攻撃力を強めることに成功した、いわば、最新型のウイルス療法薬である。G47Δウイルスは、全ての固形がんに同じメカニズムで同じく作用することから、今後、脳腫瘍以外にもさまざまながんを対象に研究が行われ、新たな治療となることが期待できる。2013年から、前立腺癌と嗅神経芽細胞腫をそれぞれ対象とした臨床試験が、2018年から悪性胸膜中皮腫の患者の胸腔内にG47Δを投与する臨床試験が実施されている。本書は、旧版の”最新型ウイルスでがんを滅ぼす”(2012年刊)に、G47△が承認に至るまでの臨床試験の結果(第五章)、日本の薬事行政の課題(第六章)を新章として加え、全面的に加筆した増補改定版である。
第1章 革命的がん治療“ウイルス療法”/第2章 致死率一〇〇%の悪性腫瘍との闘い/第3章 がんを殺すメカニズム/第4章 G47Δ開発までの道のり/第5章 G47Δを、一日も早く患者さんのもとへ/第6章 日本への提言/第7章 がん治療の未来
36.4月23日
”ジョン・ロールズ 社会正義の探求者”(2121年12月 中央公論新社刊 齋藤純一/田中将人著)は、正義論で知られ独創的な概念を用いてリベラル・デモクラシーの正統性を探究したジョン・ロールズの生涯をたどりつつその思想の要点を紹介している。
社会正義は人間が社会生活を営む上で正しいとされる道理であり、社会、すなわち、その構成員たる人々の間の正義を意味する。18世紀末の産業革命の黎明期に西洋で、資本家による労働者の搾取に対する抗議の表現として登場した。19世紀半ばに進歩的な思想家や政治活動家の、革命的なスローガンとして広まっていった。政治哲学の巨人と言われるジョン・ロールズが、独創的な概念を用いて構築した公正な社会の構想は、リベラリズムの理論的支柱となった。平等な自由を重視する思想はいかに形成されたのであろうか。齋藤純一氏は1958年福島県生まれ、早稲田大学政経学部を卒業し、1988年に同大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学した。1988年に横浜国立大学経済学部助教授となり、1994年から1995年までプリンストン大学客員研究員、2000年に横浜国立大学経済学部教授、2004年に早稲田大学政治経済学術院教授となった。2010年から2011年までロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員研究員、2015年から2016年まで早稲田大学大学院政治学研究科科長となった。博士(政治学)で、2016年に日本政治学会理事長を務めた。田中将人氏は1982年広島県生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業し、2007年に同大学院博士課程を単位取得退学した。2011年に同大学政治経済学術院助手となり、2012年から高崎経済大学非常勤講師、2020年から岡山大学非常勤講師、2016年から拓殖大学非常勤講師、2016年から早稲田大学非常勤講師を務めている。ジョン・ロールズは1921年アメリカ・メリーランド州ボルチモア生まれ、ボルチモアの学校にしばらく通った後、コネチカット州にあるプレップスクールに転校し、1939年に卒業し、プリンストン大学に入学した。この頃より哲学に関心を持つようになり、1943年に学士号を取得して半期繰り上げ卒業後、アメリカ陸軍に兵士として入隊した。第二次世界大戦中は歩兵としてニューギニア、フィリピンを転戦し、降伏後の日本を占領軍の一員として訪れて、広島の原爆投下の惨状を目の当たりにした。この経験からすっかり軍隊嫌いとなり、士官への昇任を辞退し、1946年に兵士として陸軍を除隊した。その後間もなく、プリンストン大学の哲学部博士課程に進学し、道徳哲学を専攻した。1949年に、ブラウン大学卒業生の6つ年下のマーガレット・フォックスと結婚した。ロールズとマーガレットは本の索引作成という共通の趣味を持ち、一緒に最初の休日はニーチェに関する書籍の索引を作成して過ごしたという。ロールズはこの時、自身の後の著作である”正義論”の索引も作成した。1950年に倫理の知の諸根拠に関する研究で博士号を取得し、1952年までプリンストン大学で教鞭をとった。1952年から1953年まで、フルブライト・フェローシップによりオックスフォード大学へ留学した。当時オックスフォードにいたアイザイア・バーリンの影響を受け、フェローシップ終了後にアメリカへ帰国し、1953年にコーネル大学で助教授を務めた。1960から1962年まで、マサチューセッツ工科大学で終身在職権付きの教授職を得た。1962年よりハーバード大学に教授として移り、1991年に名誉教授となった。哲学者として、主に倫理学、政治哲学の分野で功績を残し、リベラリズムと社会契約の再興に大きな影響を与えた。1971年に刊行した”正義論=A Theory Of Justice”は大きな反響を呼び、停滞しきっていた当時の政治哲学界を再興させるのに大きく貢献した。人間が守るべき正義の根拠を探りその正当性を論じた著書で、倫理学や政治哲学といった学問領域を越えて、同時代の人々にきわめて広く大きな影響を与えた。それまで功利主義以外に有力な理論的基盤を持ち得なかった規範倫理学の範型となる理論を提示し、この書を基点にしてその後の政治哲学の論争が展開された。正義論は、それまで停滞していた戦後の政治哲学の議論に貢献した。公民権運動やベトナム戦争、学生運動に特徴付けられるような社会正義に対する関心の高まりを背景とし、その後の社会についての構想や実践についての考察でしばしば参照されている。ロールズは価値、すなわち、善の構想の多元化を、現代社会の恒久的特徴と捉えた。そのような状況にあっては、ある特定の善を正義と構想することはできない。ロールズは正義と善を切り離し、様々な善の構想に対して中立的に制約する規範を正義とした。このように、正義が善の追求を制約しうる立場、つまり、正の善に対する優先権を義務論的リベラリズムという。正義は制度によって具現化し、公権力のみならず社会の基本構造を規制する性格を持つが、それが各人の基本的な自由を侵害するものであってはならない。ロールズは社会契約の学説を参照しながら、社会を規律する正義の原理は、自己の利益を求める合理的な人々が共存するために相互の合意によってもたらす構想ととらえた。このような正義の原理を考案する方法を、公正としての正義と定義した。しかし、正義を公正性から解釈することは、古典的功利主義で論じられている効率としての正義の概念と対立せざるを得ない。古典的功利主義は、効用を最大化しようとするひとりの人にとっての選択原理を社会全体にまで拡大適用する。これに対して、ロールズは個人の立場や充足されるべき欲求は個々人で異なるものであるとし、別個の人びとをあたかも単一の人格であるかのようにみなし、人びとの間で差し引き勘定をするような論法は成り立つはずもない、と批判した。それぞれ異なった仕方で生きている私たちか、互いを自由かつ平等な存在とみなすなら、社会の制度やルールはいかなるものであるべきか、が正義論の問いである。ロールズは、人種やジェンダーによる差別が存在する社会、家庭の貧富の差か進路を大きく左右する社会、生まれつきの才能の違いか著しい格差につなかる社会は、正義にかなったものとはいえないと考えた。本人の責任を問えないような偶然性の影響を遮る無知のヴェールを被った当事者たちが契約を結ぶとしたら、どのようなルールか採用されるかを考えるべきである。そうした公正とみなされる条件のもとで得られる正義の構想を、ロールズは公正としての正義とよぶ。この構想の特徴を示すのか、有名な正義の二原理である。それは平等な自由の原理(第一原理)、公正な機会平等の原理(第二原理前半)、格差原理(第二原理後半)という三つのパートからなる。ロールズか示した公正としての正義は、リベラリズムの伝統を刷新し、平等主義的なリベラリズムの立場を旗幟鮮明に示した正義の構想として広く受容されていった。ロールズか力強く擁護したのは平等なき自由でも自由なき平等でもなく、平等な自由である。それぞれの自由な生き方が誰かを手段化するのではなく、相互性のある公正な社会的協働として編成される社会が、ロールズの描く社会の姿である。正義論は多大な反響をよびおこし、ロールズ・インダストリーと称されるほどの膨大な研究と文献をもたらしてきた。少なくとも今日までに30ヶ国語に翻訳され、アメリカだけでも30万部以上が売れたとされる。この本は、政治哲学のいわば座標軸となり、ロールズの立場をフォローして、リベラリズムを擁護する者だけではなく、それを批判する対抗的な議論も招き寄せた。マイケル・サンデルやアラスデア・マッキンタイアといったコミュニタリアンの立場からは、あるコミュニティのなかに共通する善き生き方と切り離された形で正義を考えることはできないという反論が行われた。ノージックなどリバタリアニズムの立場からは、個人の能力の違いを制度によって矯正することは個人の権利を侵害すると反論が行われ、平等主義的な再分配の原理に批判が加えられた。平等という価値に好意的な立場を取るロナルド・ドウォーキンやアマルティア・センからも、社会が是正するべき不平等とは何かという点について異論が呈された。 社会主義の立場からも、マクファーソンが資本主義的な市場の原理がロールズの理想的社会に含まれているという考察を行った。これら批判に対してロールズは自説を修正し、1993年に”政治的リベラリズム”を発表した。ロールズは、リベラルな憲法規範を備えたデモクラシーを政治理論の基点に据えた。それゆえ、正義論をはじめとする著作は、リベラリズムだけではなくデモクラシーを擁護したものとしても読むことかできる。しかしながら近年、リベラリズムやデモクラシーに対する逆風が日に日に高まっている。ロールズの母国アメリカも例外ではない。リベラルな価値の失墜や、立憲デモクラシーの終焉を説く研究も次々と現れてきている。だが、性急に判断を下す前に、リベラリズムや立憲デモクラシーの理念の源流をあらためてたどってみることも、けっして無駄ではあるまい。正義論の刊行から半世紀、格差を縮減し、価値観の多元性を擁護しうる献を真剣に探究したロールズの構想は、今も色褪せていない。むしろそれは、社会をどう再編していくかが問われている今日においてこそ、豊かなアイディアを提供してくれるように思われる。本書は、そのような問題意識に立ったうえで、正義について再考するささやかな試みである。第一次世界大戦後から同時多発テロにいたるアメリカの世紀を生き、一言でいえば、正義にかなった社会とは何かという問いの探究に捧げられた。生涯の大半を研究者として過ごし、2002年11月24日に、マサチューセッツ州レキシントンで亡くなった。本書では、最新の研究で明らかにされたエピソードにも触れながら、ロールスの問題意識、理論の特徴、他の思想家との影響関係を浮き彫りにしようと試みた。本書の主眼はあくまでロールズの残したテクストの理解にあるが、評伝的な要素が色濃い第一章と第五章をはじめ、20世紀の政治思想史の一端を示すものにもなるように試みたという。
第1章 信仰・戦争・学問ー思想の形成期/第2章 『正義論』は何を説いたかー現代政治哲学の基本思想/第3章 「リベラルな社会」の正統性を求めてー『政治的リベラリズム』の構想/第4章 国際社会における正義ー『万民の法』で模索した現実主義/第5章 晩年の仕事ー宗教的探究と「戦争の記憶」/終章 『正義論』から五〇年ー「ロールズの理想」のゆくえ
37.4月30日
”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年10月 平凡社刊 平山 亜佐子著)は、転職50回以上50人近い夫を持ち100年前に奇才か妖婦かと日本中の注目を集めた元祖モダンガール本荘幽蘭の生涯を紹介している。
女優、新聞記者、救世軍兵士、喫茶店オーナー、ホテルオーナー、活動弁士、講談師、劇団の座長など、転職は50回以上に及んだ。また、50人近い夫を持ち、120人以上と交際し、多彩な男性遍歴を持った。さらに、日本列島、中国大陸、台湾、朝鮮半島、東南アジアに神出鬼没し、明治・大正・昭和を駆け抜けた。幽蘭は、いまでいう毛断=モダンガールの本家本元である。今では名前も忘れられているが、100年前の知名度は抜群だった。明治40年前後の新聞には、その動静が詳しく載っている。仕事も数十の職業について活動の場も幅広く、人脈も右から左まで顔が広かった。著者が本書執筆のための調査に着手したのが2013年6月であったが、いったん出版の話か消えて2年のブランクがあり、気付けば足かけ8年にわたって本荘幽蘭を追ったという。平山亜佐子氏は1970年兵庫県芦屋市生まれ、挿話収集家、デザイナーで、戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意としている。時代に埋もれた破天荒な女性の生き方を対象とした研究や執筆を行うほか、歌のユニットのヴォーカリストとして、明治・大正・昭和の俗謡等を発掘し紹介している。既刊本に”20世紀 破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ”(2008年)、”明治 大正 昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団”(2009年)、”戦前尖端語辞典”(2021年)、”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年)などがある。2008年に河上肇賞奨励賞を受賞した。幽蘭の本名は本荘久代といい、明治2年2月18日に生まれたことはどの資料でも一致しているが、久代の少女時代の資料は少ないため、出生地については諸説がある。実業之世界社の雑誌”女の世界”大正9年5号には、大阪市北区中の島に生る、故郷は九州久留米市とあるという。檜垣元吉の”西日本百年の群像38”には、花畑と、大正時代に本人が配っていた名剌には福島県(福岡県の誤植)久留米市篠山町と、鱒書房刊・綿谷雪著”妖婦伝”と大阪屋号書店刊・田中香涯G著の”愛慾に狂う痴人”には佐賀県とあるという。著者は、当時の父の職場に近いこと、「私生児二、公生児一を生み公生児のみ生存す」の記載があり、これは本人が書いた節があることから、大阪市が出生地ではないかと考えているそうである。本荘家はもと500年来の旧家で代々、久留米の藩主有馬家の番頭を勤めて居たという。父は本荘一行という古い弁護士の一人で、大坂新報の創立者として当時かなりに有名な人であった。父は幼名を八太夫、後に一行といい、久留米藩政にも参画した切れ者である。法律や経済学に精通していたため、藩内のもめ事の仲裁をつとめるなどして人望を集め、維新後には実業家五代友厚の腹心となった。大阪商法会議所、後の大阪商工会議所創立時に理事を務め、弁護士業の傍ら大阪新報の社主となるなど本人も実業家として名を成している。父は頗る感情家であった上に、祖母には著しい狂伴の血が流れて居たという。母に関する資料はほとんどないが、その名を花子と言ったらしい。また、母の従兄に牧師の伴君保がいること、久代の伯父に宗教家で立教大学創設者の元田作之進がいることから、日本聖公会に縁のある家柄と思われる。久代には7歳上の民野(民子という資料もある)という姉がいて、15歳のときに精神の病を得たが回復し、20歳で柳河の字椿原町、現福岡県柳川椿原町に住む田中秋という人物と結婚した。その後離婚して石橋六郎と再婚し、父逝去の後に石橋が本荘家の家督を継いだ。久代か物心ついたときに居住していた桜の宮、現大阪府大阪市都島区の家には母も姉もおらず、父と祖母と末という元芸者の妾と、妾の両親と兄一家であった。ほかに、末の両親と兄一家が住んでいて、末の芸者時代の養父母と妹芸者3人が外から通っていた。久代が7歳の春、一家は大阪から横浜に引っ越した。その1年後、民野が病気だという報が舞い込み、祖母と久代の2人か曽祖母の実家である旗崎村、現福岡県久留米市御井旗崎に向かった。母は精神を病んだ4年前から民野とここに移り住んでいた。いま一度、民野は母と同じ病で苦しんでいて、夜も昼も大きな声を出したり、室内や庭先を走り廻ったり、物を毀したり、物凄いほど暴れ廻った。そして、民野の回復を機に、祖母、母、民野、久代、雇い人2人の6人は、西久留米、現福岡県久留米市西町の本荘家の中屋敷に移った。久代はここで17歳まで暮らしたが、父からの送金は一切なく、糸紡ぎや機織り、草鮭作りなどで賃金を得てつましく暮らしたという。原古賀尋常小学校に通い、11歳の8月には敗原町の尋常高等小学校に入学した。この先は女子師範学校に進み、教師や作家になって母を助けようと考えていたそうである。しかし、母から機織りのために学校を辞めてほしいと言われ、13歳の卒業の年に退学した。そして久代が15歳になる頃、婿選びの話が持ち上がり、病気で婚期が遅れた民野の代わりに、次女の久代か婿をとることになった。婿候補の真っ先に挙がったのは、母の従兄の5歳年上の吉和國雄だった。幼いうちに孤児となって義理の兄に育てられ、細工町、現福岡県久留米市城南町辺りの歯科医の家で勉強していた。おとなしく利口で、色白の美形、早朝から雇い人を手伝い夜は遅くまで勉強して戸締まりの見回りもするという実直さで、久代も好意を抱いた。しかし、姉の民野は夫の従兄の藤古文太郎を紹介すると言う。困った母が父に問い合わせると、既に決めた人間がいるという返信がきた。旧武士階級の家では、娘が父に従うことが不文律ではあった。翌年の秋、吉和國雄が訪ねてきて歯科の勉強のため上京すると言い残して去って行った。落ち込む久代に、最愛の祖母か寝つくというさらなる打撃か襲い、いよいよというときに父が突然姿を見せた。死の床にある祖母は父に、末を追い出して親子4人で暮らすよう諭し、父は承知致しましたと告げたが、法要後に末から電報が届くとそそくさと帰ってしまったという。明治28年の夏、久代だけが父のもとに戻され、翌年の正月、客を迎えて同居の家族が集められ、末席に陸軍予備少尉の本荘忠之という男がいた。久代は末から、将来の夫だと言い聞かされていたが、年が15も上で薄給という人物であった。その場で父は、本荘家の重大問題として口を切り、母を離縁し末を後妻に迎えると宣言した。久代はショックを受け、母に会うため久留米に急いだ。母は離縁の件を聞かされて3日間泣き明かし、家を引き渡せとの厳命が下ると実家の両替町、現福岡県久留米市に移った。久代には忠之の迎えが来て、戻らざるを得なくなった。ある日、忠之から葉書が来て、日清戦争の際、帰隊の期日延期をしたが、軍法会議に付せられ市谷監獄に3ヵ月の刑期を勤めるとあったという。刑期を終えた忠之は無収入のため本荘家に寄宿したが、次第に兄のいる北海道に一緒に行こうと持ちかけるようになった。一刻も早く家を出たかった久代もついにその気になったが、そこへ吉和國雄が訪ねてきた。國雄と接した父と末が好感を持ち、婚約者と認めないでもないという雰囲気になった。久代は土壇場で北海道行きを断り、忠之はひとりで旅立って行った。明治29年7月、國雄が歯科医の試験の合格報告に訪れ、別室で父としきりに話し合っていた。いよいよ一緒になれるかと思ったのもつかの間、國雄の義兄に反対され縁談は立ち消えになった。久代は思い詰め、英語を学んで國雄の仕事を助けようと、横浜の宣教師ジェームス・ハミルトン・バラ宅を訪れ、フェリス和英女学校、現フェリス女学院に入学を許された。しかし、母の従兄で牧師の伴君保と滝野川孤女学院院長大須賀亮一が現れ、本荘家16代の孫として正なき業だと説教し、久代は学校を諦めた。女学校から戻った久代を出迎えたのは、久留米藩時代の旧家老有馬秀雄の弟で内務省勤めの有馬重男という人物であった。そんななか、未来の代議士候補という35歳の阪本格という人物が訪ねてきて、父がこの男との縁談を進めていることかわかった。松村雄之進の仲介で阪本との縁談か具体的に進んだため、久代は父に断りを告げて大変な叱責を受けた。しかし、阪本の友人が阪本の訪問当日に着ていた服はすべて松村の物であることを暴露し、貧乏人に嫁がせると自分か損をすると考えた末が縁談を断った。このとき久代は20歳で、これまでに登場した婚約者は、吉和國雄、藤古文太郎、本荘忠之、阪本格の4人で、どの場合も久代と無関係に話が進み無関係に雲散霧消した。そして今ひとり有馬重男が残されているが、この男こそ久代の運命を大きく歪める張本人となった。明治31年1月15日、数えで20歳のときのこと、父と末が家を空けた隙に重男に蹂躙されてしまった。その後も何度か繰り返され、久代は妊娠し早急に結婚して月足らずとして産むしかないと迫ったが、重男は堕胎を主張した。その頃、父は経営していた日本運輸株式会社か破産の危機に陥り、介する人があって富士紡績株式会社の工場、現フジボウ愛媛株式会社小山工場の支配人となった。父と末と久代は小山、現静岡県駿東郡小山町小山に移住し、重男は東京から休みの度に泊まりにきた。重男の目的はあくまで堕胎を促すことであったが、久代は秘かに出産したが、6ヵ月の早産児ですぐに死亡した。子供には重興と名付け、遺体を風呂敷に包んで富士川に流したという。しばらくして遺体発見の報が駆け巡り、警察が工場の女工3000人を調べたと噂になった。今後は15歳以上50歳以下の女性全員を取り調べるとのことで、久代は半狂乱となり翌朝の一番列車に乗って重男の住む牛込に駆けつけた。しかし、やっと会えた重男は他人のようなそぶりで、そこへ父と末が追ってきて久代を責め立てた。思い余った久代は、重男と末の今までの罪をあげつらい、口を極めて罵倒した。頭に血が上り、自分の声が遠くに聞え、資料には、遂に発狂したとある。久代は巣鴨病院に入院し、退院後、明治女学校に入学した。この頃から幽蘭と名乗るようになった。卒業後、久留米で医師と結婚し、第二子を出産したが、過去の出来事を夫に告白し、夫は慰めてくれたが、身を引く決心をし、子供を背負って東京に出奔した。上京した幽蘭は、救世軍の兵士、次に新聞記者になった。いくつか転職を繰り返し、読売新聞に入った。1カ月で辞めたが、マスコミ業界と顔をつなぎ、その後も転職と男性との交際を繰り返した。男性遍歴が後世に伝わるのは、幽蘭が肌身離さず持っていた手帳に、今まで関係した男性の名前をすべて記録していたからである。錦蘭帳と呼ばれる手帳には、約60人の名前が挙がり、新聞社社長、新聞記者、俳優、小説家、芝居の座長、ヤクザ、国士、外国人商社員、社会主義者などが記載されているという。一方、自身でも、カフェを開いたり、辻占いの豆売りをしたり、高知で活動弁士になったり、中国の大連でホテルを開業したり、劇団を結成して朝鮮半島へ、と実にたくましく内外を行き来していた。動向が分かるのは、問題の断髪美人などと自称し、自ら新聞社にネタを売り込んでいたからである。大正9、10年あたりから、消息は断片的になり、朝鮮半島や中国大陸に滞在していたらしい。戦後は日本に戻ってきて、昭和25年に雑誌に掲載されたのが最後の写真のようだという。明治40年頃から大正にかけて、幽蘭は都会では多くの人が知っている名前だった。しかしこの多くの人はやがていなくなってしまうため、歴史は変わらないが歴史においてわたしたちが記憶しておきたいと思うことは変わってしまう。だから、時の波間に消えた本荘幽蘭を書き留めておきたいという強い気持ちかあったそうである。生きていた時代にだけ有名だった本荘幽蘭という女性が喚起した問題を、あらためて問い直したいと考えたという。
第1章 少女時代/第2章 幽蘭誕生/第3章 仕事遍歴、男性遍歴/第4章 満鮮、南洋へ/第5章 戦争に向かって
38.令和4年5月7日
”法然を生きる”(2022年1月 佼成出版社刊 ひろさちや著)は、平安末期から鎌倉初期に浄土宗を開いた法然上人の生涯と思想を紹介しながらその生き方や考え方と現代とのかかわりを解明しようとしている。
法然上人は諱を源空という美作の人で、初め叡山で天台教学を学んだが,末法の世の救いは念仏以外にないことを悟り,1175年に専修念仏を説いて浄土宗を開いた。専ら阿弥陀仏の誓いを信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。この他力易行の教えは武士や農民の間で受け入れられ、九条兼実など貴族にも帰依する者があった。ひろさちや、本名増原良彦氏は1936年大阪市生まれ、北野高校を経て、東京大学文学部印度哲学科を卒業し、同大学院人文科学研究科印度哲学専攻博士課程を修了した。1965年から20年間、気象大学校教授をつとめた。1985年に気象大学校教授を退職し、大正大学客員教授に就任し、宗教文化研究所所長を務めた。退職後、仏教をはじめとする宗教の解説書から、仏教的な生き方を綴るエッセイまで幅広く執筆するとともに、全国各地で講演活動を行った。厖大かつ多様で難解な仏教の教えを、逆説やユーモアを駆使して表現される筆致や語り口は、年齢や性別を超えて好評を博した。自称、仏教原理主義者で、多数の一般向けの解説書を執筆した。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatya(サティヤ)の造語である。超宗派の仏教信者の集まりである”まんだらの会”を主宰していたが、近年その活動を終了していて、2022年4月7日に86歳で死去した。法然上人は1133年美作国久米、現在の岡山県久米郡久米南町の押領使、漆間時国と、母秦氏君清刀自との子として生まれた。生誕地は、出家した熊谷直実が建立したとされる誕生寺になっている。1141年9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が夜討をしかけて父親が殺害された。その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。その後、1145年に、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、1147年に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。1150年に皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖であると、叡空から絶賛された。このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱も授かった。法然の僧としての正式な名は法然房源空で、智慧第一の法然房と称された。1156年に京都東山黒谷を出て、清凉寺に7日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。1175年43歳の時、善導によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派の浄土宗を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えひと眠りすると、夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たしたという。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にし、この地に草庵・白河禅房、現・金戒光明寺を設けた。まもなく弟弟子である信空の叔父、円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義し、この地にも草庵を設けた。間もなく東山にあった吉水草庵に移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされ、法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。1181年に東大寺の大勧進職に推挙されたが辞退し、俊乗房重源を推挙した。1186年に、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が、法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は、翌日に自らを南無阿弥陀仏と号して法然に師事した。1190年に重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講じ、1198年に専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。1204年に、後白河法皇13回忌法要である浄土如法経法要を、法皇ゆかりの寺院・長講堂で営んだ。1204年に、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、1205年の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって、1207年に後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。法然は還俗させられ、藤井元彦を名前として土佐国に流される予定だったが、配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣した。1207年に赦免されて讃岐国から戻って摂津国豊島郡の勝尾寺に1210年まで滞在し、翌年、京に入り吉水にもどった。そして、1212年1月25日に、京都東山大谷にて享年80(満78歳)で死去した。法然の門下には、弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らがいる。死んだほうがましだ、もう少し生きたいなどと考えずに、すべてを阿弥陀仏におまかせすればいい。阿弥陀仏はあらゆる衆生を救わんがために、ただ称名念仏という一つの行をもって、その本願とされた。現代日本の仏教が「葬式仏教」と呼ばれて、生きている人間はそっちのけで死者のための仏教になっているということも、まぎれもない事実だという。けれども、本来の仏教は、死者のためのものではなく、わたしたち生きている人間に、どのように生きればよいかを教えてくれるのが本来の仏教である。われわれがそのように断言できるのも、本書の主人公である浄土宗の開祖の法然の登場によってである。法然以前の日本仏教は、本質的に「国家仏教」であった。国家仏教は国家のための仏教で、そこでは国家の安泰だけが考えられていた。国家仏教において僧侶というのは言うなれば国家公務員であり、ただひたすら天皇や貴族の利益に奉仕すればよかったのである。そういう国家仏教によって法然は迫害を受け、流罪になっている。そういう国家仏教の時代にあって、法然がはじめて、われわれ庶民のための仏教を説いてくれた。優等生、品行方正な人を優先させる国家仏教と、法然の考える仏教はまったく違う。法然が国家権力から迫害されたのも、当然と言えば当然である。仏教は天皇や貴族たちの独占物ではない、大勢の貧しい人たち、世の中の底辺にあって悩み、苦しんで生きている人たちのために仏教はある。そういう仏教を法然は説き、そしてそういう人たちがどのように生きればよいかを教えてくれた。著者は、法然はそのような仏教者だと思っているという。法然の教える、われわれ庶民の生き方はどういうものであろうか。立派な人間になれとは言はない、立派でなくていい、あなたがいまある、そのありのままでいい、というのが法然の教えであった。すべてをほとけさまにおまかせしておけばいい、すべてをほとけさまにおまかせして生きる、それが法然を生きることだという。法然は、極楽浄土から照射してこの世で生きる意味を考えた。それ故、この世の生き方はどうだっていいのであり、ただ極楽世界に往生できればいい、それが法然の考え方である。そして著者は、”わたしは法然が大好きです”という。
まえがき/第1章 法然の魅力/第2章 比叡山における修学/第3章 法然の念仏理論/第4章 浄土門の教えを説く法然/第5章 法然教団への圧迫/第6章 流罪の法然/第7章 法然の最期/第8章 現代と法然/法然略年譜
39.5月14日
”不忍池ものがたり - 江戸から東京へ”(2018年10月 岩波書店刊 鈴木 健一著)は、忍岡に東叡山寛永寺が建立された際に忍岡は比叡山に池は琵琶湖に見立てられ島に弁財天がまつられた上野公園にある不忍池について明治維新を経て現代までに育まれた文化の様相を紹介している。
不忍池は上野恩賜公園の中に位置する天然の池で、周囲は約2キロメーター、全体で約11万平方メートルあり、北で上野動物園西園、東で京成上野駅、南と西で不忍通りに接している。現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島、中之島を配し、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれている。それぞれ、一面がハスで覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。弁天島に建つ石碑によれば、不忍池の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来するという。ただし異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津=しのわづが転じて不忍になったという説や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説、さらに、上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説もある。寛永寺の創建以来,江戸の名所として発展し,和歌や漢詩,浮世絵など,数多くの作品に描かれた。幕末期には,上野戦争の戦渦によって陰惨な印象を刻まれ,明治以降は,文化的施設が建ち並ぶ欧化政策の拠点へと変貌した。鈴木健一氏は1960年東京生まれ、東京大学文学部国文科を卒業し、1988年に同大学大学院博士課程を満期退学した。1994年に日本古典文学会賞を受賞し、1997年に東大文学博士となった。1988年、東大教養学部助手、1993年、茨城大学助教授、2001年、日本女子大学教授、2004年、学習院大学教授となり現在に至っている。著者が子どもの頃、祖父母の家の庭には小さな池があり、鯉が何匹か泳いでいたそうである。今でも記憶の奥底をたどると、池に水を流し込む音が聞こえてくるような気がする。通学していた文京区立昭和小学校は、隣に東洋文庫という由緒ある古典籍の図書館があり、さらに不忍通りを隔てて六義園があった。五代将軍綱吉に重用された柳沢吉保が造った庭園で、各所が和歌にちなんで命名され、中央に池があった。大きくて立派な池の周りをぐるりと歩いて、小高い丘の上からあたりを見回すと、小学生の自分もなにか偉くなったような気がしたものだという。池というものは庭の一部であり、さほど大きくなく、人工的に造られ、そして文化的な香りがする。池とは、一般に水深にはかかわらず、面積の小さい水塊を指すが、とくに人工的に作られたものをいうことが多い。海ほど深く恐ろしいものではなく、川のように無常に流れもせず、沼のように妖しくもない。古代において、池とは庭園の一部であり、その庭園は特権階級が所有するものだった。だからこそ、文化的な装いもまとっているのである。中国でも庭園の歴史は古く、前漢武帝の時代、長安に造られた上林苑の太液はよく知られている。神仙思想に基づき、池には不老不死の仙人が住むとされる蓬莱・方丈・瀛州の三つの島が設けられていた。唐の高宗が洛陽に造らせた上陽宮にも園池があり、唐の詩人王建は詩の中で人の世の仙境であると称えている。古代中国における庭園文化の隆盛は、日本にも大きな影響を与えた。朝鮮においても、統一新羅の時代に雁鴨池という広大な池が造られるなど、庭園と池の関わりは見逃せない。雁鴨池は文武王が造営した人工池で、現在も世界遺産に指定される慶州の歴地区に残されている。万葉集では、皇太子草壁皇子の住まいとなった島の宮と呼ばれる庭園があったことが知られるが、そこでも池は中心になっていた。平安京において天皇が遊覧する神泉苑には大きな池があり、池に臨んで乾臨閣などの中国風の建造物が並び、遊宴が催された。嵯峨天皇の離宮としてできたのが嵯峨院であり、後に大覚寺となり、そこにあった池は大沢の池として現在も残っている。平安時代も後半を迎え、浄土教が信仰されるようになると、浄土庭園が発達する。その代表的な例は、藤原頼通が建てた宇治平等院の阿弥陀堂とその園池で、これも今日に面影をとどめている。浄土庭園の池では多くの場合蓮の花が開くが、それによって極楽浄土が想起される。極楽国土において8つの功徳のある池水があり、それぞれが7種の宝石から成り、さらに14の支流となって黄金の溝の中を流れる。それぞれの中に60億の7種の宝石の蓮華があるというような世界を体感できる。蓮の葉が形成する果てしなく大きい世界に抱かれて、人々の心は安らかでいられるのだろう。不忍池においても蓮は重要な植物であったわけだが、この点は仏教的なありかたとは切り離せない。鎌倉・室町時代は禅宗が台頭し建築も書院造りとなり、この時代の庭園ですぐ思い浮かべるのが枯山水であるが、禅宗の庭園にも池はあった。江戸時代初期の代表的な庭園としては、智仁親王の桂離宮や後水尾天皇の修学院離宮があるが、いずれも中心にそれぞれ心字池、浴龍池がある。江戸時代には大名庭園がさかんに造られたが、その多くは池の周りを回遊しながら観賞する池泉回遊式庭園であった。庭園を築き上げるためには、莫大な富が必要となる。時代ごとに造られた庭園、またそこに付随する池は、富や権力の象徴なのだと言えるだろう。庭とは文明の発達とともに自然から遠ざかった人間が自然を取り戻そうとするものでもあり、庭は自然と人為の境界に位置する。そして、水は生命の源であり、水無しでは人間は生きていくことができない。いわば自然の根幹を形成する水は、庭にとって不可欠なのである。そういった根源的な事柄によっても、水に満ちた池は庭園にとって必須だったのである。現在でも、心が疲れた時に、公園にやってきて、ベンチに腰掛け、目を閉じて、池そのもののたたずまいやその周りの動植物を楽しみ、なんとはなしに癒される経験は多くの人が実感している。池は、湖や沼ほどは大きくなく、しばしば人工的に造られる。また、歴史的に見て特権階級の所有物として庭園の一部であることも多かった。だからこそ文化的なものもまとわりついている。今日の東京人にとってもなじみのある不忍池は、そもそもの始まりにおいて特権階級の所有物だった。不忍池が注目されるようになるのは、徳川家康・秀忠・家光三代の将軍が帰依した天海僧正によって寛永寺が創建されたことと密接にかかわりがある。池自体は自然の産物だが、中島が築かれたり、そこに道や橋が渡されたり、さらに新地が造られるなどといった点において、人工的な要素が看取される。さらに文化的という点でも、江戸時代以来多くの文学・絵画作品に取り上げられたことなどによって明らかである。明治時代以降、周辺に文化的な施設が造られたり、博覧会の会場になったことも同様である。不忍池はこれまでの池の歴史性を十分背負っているが、庶民の憩いの場としても大いに発展した。特権階級の所有物としてのみならず、万民の娯楽の場でありえたこと、これが不忍池の特質として高く評価されていい点である。また、蓮が名物であることは浄土庭園の影響であるが、仏教的な要素を根底に持ちつつも、もっと広い範囲で不忍池の蓮は愛された。宗教的な枠を超えて、広く文化的な記号として、人々の間に浸透した。不忍池という土地で定点観測を行うことで、池そのものが持つ価値という論点、それと関わらせつつ、江戸から明治への変遷という論点を解明していくことが本書の目的であるという。
はじめにー池が生み出すものがたり/第1章 寛永寺の誕生/第2章 蓮見と料理茶屋/第3章 戊辰戦争の激戦地/第4章 「上野」の成立/第5章 近代文学の舞台として/第6章 現代の不忍池へ/おわりにー池の持っている力/少し長めのあとがきー自然と文化、過去と現在、高級感と庶民性
40.5月21日
”日本半導体復権への道”(2021年11月 筑摩書房刊 牧本 次生著)は、世界で半導体の重要性が格段に高まっている中でかつて世界を制した日本の半導体産業の盛衰をたどり産業の未来と復活の道筋を提示している。
物質には電気を通す導体と、電気を通さない絶縁体とがあり、半導体はその中間の性質を備えた物質である。半導体は電気を良く通す金属などの導体と、電気をほとんど通さないゴムなどの絶縁体との、中間の性質を持つシリコンなどの物質や材料のことである。不純物の導入や熱や光、磁場、電圧、電流、放射線などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、トランジスタなどの半導体素子に利用されている。半導体は情報の記憶、数値計算や論理演算などの知的な情報処理機能を持っており、電子機器や装置の頭脳部分として中心的役割を果たしている。また、このような半導体を材料に用いたトランジスタや集積回路も、慣用的に半導体と呼ばれている。最近、米中間の半導体摩擦が起き、現在も需給が逼迫するなど、世界で半導体の重要性が格段に高まっている。半導体をめぐる国際競争の現状はどうなっているのであろうか、また、日本の半導体に未来はあるのであろうか。牧本次生氏は1937年鹿児島県生まれ、1959年東京大学工学部を卒業し、日立製作所に入社し、以後一貫して半導体の道を歩んだ。1966年スタンフォード大学電気工学科修士、1971年東京大学工学博士となった。1986年日立製作所武蔵工場長、1989年半導体設計開発センター長、1991年取締役、1993年常務取締役、1997年専務取締役となり、2000年に日立製作所を退社した。同年執行役員専務としてソニーに入社し、2001年に同社顧問となり、2005年に同社を退社し、同年テクノビジョンを設立し代表となった。現在、エルピーダメモリ取締役、PDFソリューションズKK会長、半導体シニア協会会長、大陽日酸顧問などを務めている。昨今、半導体をめぐる話題が多く飛び交うようになったが、その背景として三つの要因があるという。一つは、2017年の米国トランプ政権の発足以来、米中半導体摩擦が激しくなったことである。中国は世界最大の半導体消費国であるが、これを国内で生産することは限定的で、大半を輸入に依存している。国産化の比率を上げるために政府が巨額の資金を投入していることに米国は警戒を強め、安全保障上の懸念となる主要企業を、制裁対象リストに入れて制裁を加えている。一方、米国側でも大きな不安要因を抱えており、米国企業の生産の大半をTSMCに依存し、そこには大きな地政学的リスクが潜んでいる。仮に台湾有事の事態となれば、半導体のサプライチェーンは大混乱に陥ることになるだろう。そのような事態に備えて、急遽米国では国内での製造強化に動き出している。二つ目の要因は、2020年の末頃から突然に発生した半導体不足の問題である。家電製品やパソコンなどもその影響を受けたが、最も強烈な打撃を受けたのは自動車分野であった。2021年の半ばを過ぎてもこの問題は尾を引いており、自動車生産には700万台から900万台の影響が出ると言われている。三つ目の要因は、日本半導体の衰退が激しいことに対して、政府が急遽重い腰を上げて対策に動き出したことである。30年前には世界における日本のシェアが50%強であったが、現在は10%を切るところまで落ち込んでいる。経済産業省はこのトレンドが続けば、2030年にはほぼ0%になるのではないかという予想している。これらの要因は別々のことのように見えるが、共通していることは近年、半導体の重要性が格段に大きくなっていることである。これまで半導体は産業のコメと言われてきたが、著者はその時代は過ぎて、半導体は現代文明のエンジンという表現がふさわしいのではないかという。大手IT企業のグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンが自ら半導体を作るようになったこともその一つの証であり、半導体を失ったら日本の明るい未来はなくなるであろう。2021年3月、政府主催で半導体強化のための官民合同戦略会議が聞かれ、強靭な半導体産業を持つことが国家の命運を握ると発言し、日本における半導体の重要性が強調された。著者は2006年に”一国の盛衰は半導体にあり”をエ業調査会から上梓して、日本半導体の危機的状況に対して警鐘を鳴らしたという。それから15年を経て政府が本格的に動き出したことは、遅きに失した感があるものの、一歩前進としてこれを受け止め、期待を寄せているそうである。しかし、いったんこれに取り組むからには、日本半導体が絶滅危惧状態からしっかり立ち直るための道筋を作らなければならない。一方、一口に半導体と言ってもいろいろな切り口があり、すべての切り口で半導体が衰退しているわけではない。デバイス産業の川上に位置する半導体材料分野や製造装置分野は極めて健全で、強い国際競争力を維持している。この分野においては強きをさらに強くすることが戦略の基本となるが、韓国・中国の台頭には十分な備えが必要である。両国は国内に大きな市場を抱えており、長期的には極めて有利な条件となるだろう。逆に、弱体化しているのはデバイス産業と川下に位置する電子機器産業である。日本においては半導体産業の黎明期から今日に至るまで、デバイス産業と川下産業とは盛衰を共にしてきた。したがって、デバイス産業の強化のためには半導体産業と川下産業の両分野でこれを考えなければならない。1980年代にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた背景の一つは、日本の家電製品が世界市場を制覇したことである。その縁の下でこれを支えていたのが半導体であり、そのルーツは1950年代にいち早くトランジスタを使ってラジオを作り、大きな成功を収めたことにある。テレビやVTR、ウォークマンなどがこれに続いて、家電王国が築かれた。これは半導体と家電製品の相乗効果がもたらした成果であり、家電分野は、メインフレーム・コンピュータとともに、1970年代、1980年代における半導体の主力市場となった。1990年代になるとマイクロプロセッサとメモリが半導体の中心となって、米主導のパソコン産業が立ちあがり、2000年代までパソコンが主力市場となった。しかし2010年代になると、半導体の主力市場の座はスマホヘと移り今日に至っている。しかし、スマホの時代もいつまでも続くわけはなく、2030年代までには新しい主力市場が立ちあがるだろう。著者は、スマホの次の主力市場は自動運転車を含む、ロボティクスの分野になるだろうと予想しているという。わが国にとって、ロボット産業の発展にはいくつかの大きな意義がある。第一に、目指すべき未来社会、ソサエティ5.0において、ロボットはサイバー、フィジカル両空間の接点にあって、安全・安心なスマート社会がスムーズに機能するための必要不可欠な要素となる。ネットで購入した物品の配送について考えてみると、ロボットが中心になってすべてのプロセスが安心・安全・確実に行われる。第二に、日本は少子高齢化の先進国であり、現在、六五歳以上の高齢化比率は2021年で世界のトップである。今後、労働力人口が減少し、人手不足が広く社会全体の問題になるだろう。高度な知能を持つ賢いロボットの存在が、人手不足に伴う諸問題を緩和することになる。第三に、これまで右肩下がりの衰退傾向にあった、電子機器産業が再び活性化してよみがえることである。これによって半導体の需要も再び増加傾向に転じ、日本半導体の復権の道が開けるだろう。半導体の方ではロボティクス産業との連携を強め、最適な半導体デバイスを先行して提供できる体制を作らなければならない。高性能のAI半導体が中心となるが、その他にもメモリやマイコン、各種のセンサやパワーデバイスなど、モア・ザン・ムーア型と呼ばれる多くのデバイスが必要となる。ムーアの法則は半導体業界の核心であり、ノードでトランジスタのサイズを縮小し、各チップに小型で高速なトランジスタを集積するという単一の焦点と飽くなき意欲に支配されてきた。そうしたトランジスタの微細化による性能向上を目指すモア・ムーアに対し、モア・ザン・ムーアのデバイスは、デジタル・エレクトロニクスがアナログの世界に出会う、テクノロジーにおける新しい機能の多様化を表している。現在、5G、IoT、自動運転技術からニューラルセンサーといったさまざまな新しいアプリケーションの登場により、劇的に拡大する兆しを見せている。政府はこのようなロボティクス産業と半導体産業の重要性について、しっかり国民の理解を得た上で、思い切った振興策を講じるべきであるという。ロボット分野は極めて多岐にわたるので、半導体デバイスに対しては非常に難しい対応が求められる。性能面では、上位から下位までをカバーするスケーラビリティーが必要であり、異なるタスクを広くカバーするにはフレキシビリティーが求められ、ソフト、ハードの両面でこれに対応しなければならない。また、極めて専門性の高いメカニクス制御、信号処理、画像認識、音声認識・合成、通信制御などの要素技術の集積から成る総合技術である。そのため、半導体、ロボット、自動車、コンピュータ、通信などの異分野結集型の組織で対応しなければならない。これらの難題を克服して、ロボティクス向け半導体デバイスの技術基盤を先行して確立するために、官民連携での強力な開発体制で推進することを提言している。これまでの半導体主力市場の争奪戦を総括すれば、日本は家電製品で一勝、パソコンとスマホで二敗の負け越しである。しかし、次のロボティクス市場を制覇すれば二勝二敗のイーブンに持ち込める。そして、今後のロボティクス産業の発展の過程において、著者が最も注目しているのはアップルカーの動向である。いつ出てくるかはわからないが、出るとしたらこれまでのイメージを一新し、自動車は人を運ぶロボットになるのではないだろうか。アップルカーの登場は、ロボティクス産業の本格的な立ち上がりを告げる号砲となるだろう。また、半導体分野にとっては新しい時代の到来を告げるシグナルとなるだろう。本書の第1章、第2章、第6章は新しく書き下ろしたものである。残りの第3章、第4章、第5章、第7章は別の著書の当該章をペースにして加筆訂正を行ったものである。
第1章 半導体をめぐる最近の動向/第2章 半導体は現代文明のエンジン/第3章 一国の盛衰は半導体にあり/第4章 半導体の驚異的な進化/第5章 日本半導体の盛衰/第6章 日本半導体復権への道/第7章 わが人生のシリコン・サイクル
41.5月28日
”ネルソン・マンデラ ー 分断を超える現実主義者”(2121年7月 岩波書店刊 堀内 隆行著)は、27年間の牢獄生活の後アパルトヘイト撤廃に尽力し1994年に南アフリカ共和国の黒人初の大統領となったマンデラの類まれな政治家としての人生を紹介している。
アパルトヘイトという言葉はアフリカーンス語で分離とか隔離を意味し、特に南アフリカ共和国における白人と非白人の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。アパルトヘイト以前に、南アフリカ共和国では、すでに1911年の鉱山労働法、1913年の原住民土地法、1926年の産業調整法、1927年の背徳法などの、差別的立法が成立していた。アパルトヘイトという言葉が広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。国民党が政権を握って以降、集団地域法、人口登録法、投票者分離代表法、バントゥー教育法、共産主義鎮圧法、テロリズム法などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立した。そして、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ、さまざまな差別立法を背景に確立された。白人と、黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどのアジア系住民や、カラードとよばれる混血住民などの、非白人との諸関係を差別的に規定する人種隔離政策であった。かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて、1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ撤廃された。堀内隆行氏は1976年京都府生まれ、1999年に京都大学文学部西洋史学専修を卒業し、2001年同大学大学院修士課程修了した。2007年に同大学大学院博士課程単位取得満期退学し、2009年に同大学大学院より博士号を取得した。2008年に大阪教育大学非常勤講、2010年に新潟国際情報大学非常勤講師、2007年に日本学術振興会甲南大学特別研究員を経て、2009年に新潟大学人文社会・教育科学系准教授となった。2014年に金沢大学歴史言語文化学系准教授となり、2022年から同大学同系教授を務めている。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラは1918年トランスカイのウムタタ近郊クヌ村生まれ、テンブ人の首長の子であった。トランスカイはカイ川の向こう側を意味し、南アフリカ共和国にかつて存在したバントゥースタン自治区で、現在の東ケープ州東部に位置していた。テンブ族は、南アフリカで二番目に人口の多いコーサ民族の一部である。少年時代に、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育った。この時の経験が、反アパルトヘイト運動を根底から支えた。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学で学んだ。在学中の1940年に、学生ストライキを主導したとして退学処分を受けた。その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び、1941年に学士号を取得した。その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議に入党し、その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して、反アパルトヘイト運動に取組んだ。南アフリカは日本から遠く離れた国で、現在直行使はなく、乗り継ぎの待ち時間を除いても、行くのに最低18時間はかかる。だがそのような国のことでも、多くの日本人はネルソン・マンデラの名前と顔を知っている。アパルトヘイトの撤廃に尽力し、大統領も務めた現代の偉人としてである。1948年に、牧師で政治家のダニエル・マランが率いた国民党が選挙に勝利し政権を奪取すると、新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していった。アフリカ民族会議では、政府へのより強硬な対決姿勢を求める声が高まり、青年同盟の有力メンバーのマンデラはその先頭に立っていた。1949年には穏健な旧指導部を追い落とし、青年同盟からマンデラ、ウォルター・シスル、オリバー・タンボが指導部メンバーに選出された。ここから、アフリカ民族会議は、請願路線からストライキやデモなどを盛んに行って政府に圧力をかける戦術に転換した。マンデラは1950年にアフリカ民族会議青年同盟議長に就任し、アフリカ民族会議を構成する南アフリカ共産党にも入党し、党中央委員を務めるようになった。1952年に、ヨハネスブルグにてフォートヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共に、黒人初の弁護士事務所を開業し、同年12月、アフリカ民族会議副議長に就任した。1955年にアフリカ民族会議は、他の政治団体とともに、ヨハネスブルク郊外のクリップタウンにおいて、全人種の参加する人民会議を開催して自由憲章を採択した。こうした活動は南アフリカ政府ににらまれ、マンデラはじめ人民会議の主要な参加者たちは、1956年に国家転覆罪で逮捕され裁判にかけられたが無罪となった。こうした活動の中で、非暴力的手段の限界が叫ばれるようになり、アフリカ民族会議内でも武装闘争を支持する声が大きくなっていった。そして、1960年にシャープビル虐殺事件が起きると、マンデラも武装闘争路線へと転換した。これは、1960年3月21日に南アフリカ共和国トランスバール州ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで発生した虐殺事件である。アフリカ人が白人地域に入る際に身分証明書の携行を強制した法律である、パス法に反対するアフリカ人群衆に向けて警官隊が発砲し,死者 69人,負傷者 186人を出した。マンデラは、1961年11月に、ウムコントゥ・ウェ・シズウェという軍事組織を作り、最初の司令官になった。しかし、それらの活動などで1962年8月に逮捕され、また、1963年7月にはアフリカ民族会議指導部が、ヨハネスブルク近郊のリヴォニアにおいて逮捕され、すでに獄中にあったマンデラもこの件で再逮捕された。リヴォニア裁判と呼ばれる裁判で、マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。1969年5月には、イギリス人傭兵の有志が集まり、ネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止された。獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていった。1982年にはロベン島からポールスモア刑務所に移送され、ロベン島時代よりはやや環境が改善された。1988年にはビクター・フェルスター刑務所に再移送された。1989年にピーター・ウィレム・ボータ大統領がケープタウンにマンデラを招き、会見を行った。1989年12月にも当時の大統領フレデリック・デクラークと会談したが、この時はまだ獄中から釈放されることはなく、収監は27年にも及んだ。マンデラについてより詳しく知ろうとするとき、インターネットも便利であるが、重要なメディアはやはり映画と本かもしれない。マンデラ映画のなかでもっとも有名なのは、2009年の”インビクタスー負けざる者たち”であろう。クリント・イーストウッドの監督作品で、マンデラ大統領とラグビーの南アフリカ共和国ナショナルチームとの交流を描いている。公開から10年後の2019年にも、ラグビーワールドカップ日本大会をきっかけに、改めて見直されたようである。近代スポーツ発祥の地イギリスでは、労働者階級のサッカーに対して、ラグビーは上流階級の競技種目とされた。両者はやがて、イギリスの植民地だった南アフリカにも輸出されたが、ラグビーは白人の、サッカーはアフリカ人のスポーツとして分断された。アパルトヘイトの時代、白人選手のみのラグビーナショナルチームは、人種差別の象徴と見なされた。アパルトヘイトが終わっても、ナショナルチームの性格は変わらなかった。応援する白人の観衆たちはアパルトヘイト以前の国旗を振り、以前の国歌を歌いつづけた。これに対して、アフリカ人たちが主導する新生国家のスポーツ統轄組織は反発し、チーム名の変更などを決議した。しかしマンデラの考えは違って、白人たちを赦す寛大な心を説き決議を撤回させた。一方で、キャプテンをアフタヌーンティーに招き、新たな役割を引き受けるよう求めた。新たな役割とは、アフリカ人たちを含む国民の士気を高めることであった。マンデラは、押し付けがましい説得ではなく、相手が納得して行動することを重視した。マンデラの他者尊重の政治スタイルにかかわる、興味深い場面であるが、微妙なニュアンスについては映画を見てほしいという。その後、キャプテンは次第にマンデラの意図を理解し、実行に移していった。選手はアフリカ人地区で子どもたちをコーチし、試合では率先して新国歌を歌うようになった。そしてチームは、1995年のワールドカップ南アフリカ大会で、大方の予想に反して優勝した。ナショナルチームは、新生南アフリカにおける人種間の和解の象徴となった。またこの大会は、テレビを含めると世界の約10億人が観戦したため、和解は国際的にも認知されることとなった。マンデラに関する本は挙げれば切りがなく、生涯にわたる伝記も少なくないが、マンデラの同志たちが書いたものについては、黒人を含む政敵への偏見を否定できない。これに対して、ジャーナリストや歴史家による伝記のいくつかは優れているものの、日本語に関しては抄訳だったり、そもそも翻訳されていなかったりする。今われわれは、偏狭なナショナリズムが跋扈する世界に生きている。他方マンデラは、そのような分断を超え、誰もが想像し得なかった和解を成し遂げた人だった。1991年のアパルトヘイトの撤廃から30年、2013年のマンデラの死から8年が経った。マンデラの経験を振り返ることで、偏狭なナショナリズムを超えるピジョンが見えてくるかもしれない。著者は、天使ではないというマンデラ自身の言葉があり、本書はマンデラを聖人と見なさない。また、家族関係の悩みなど人間的側面ばかりを見ることは、マンデラの重要な側面を見落とす結果にもなる。その側面とは政治家としてのマンデラであり、マンデラは一貫した思想を説きつづけたわけでは決してなかった。人種差別と対決する姿勢は終生変わらなかったものの、それを実現する方法は時々に変化した。こうした、現実主義者としてのマンデラを描くことが本書の課題であり、マンデラのハンディな評伝を目指すという。
第1章 首長の家に生まれて/第2章 プラグマティストという天性/第3章 非暴力主義という武器/第4章 民族の槍/第5章 「誰もが彼に影響された」/第6章 老獪な「聖人」/終章
42.令和4年6月4日
”島田三郎 判決は国民の輿論に在り”(2022年4月 ミネルヴァ書房刊 武藤 秀太郎著)は、横浜毎日新聞に入社して自由民権を論じたが退社して官途につきのち大隈重信らとともに官を辞して立憲改進党の創立に参加しジャーナリスト政治家として活躍した島田の多彩な人生を描き出している。
島田三郎、旧姓・鈴木三郎は、1852年に幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれた。昌平黌で漢学を修め、維新後、ブラウン塾沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校で学んだ。1874年に横浜毎日新聞社員総代、島田豊寛の養子となり、同紙の主筆となった。翌年、元老院書記官となり、1880年に文部省に移り、文部権大書記官となったが、明治十四年の政変で大隈重信派として諭旨免官となり、横浜毎日新聞に再び入社した。1882年に嚶鳴社幹部として、立憲改進党の創立に参加し、同年に神奈川県会議長となった。嚶鳴社は元老院大書記官の沼間守一が1878年に設立した政治結社で、自由民権と国会開設を主張した。1888年に沼間から、東京横浜毎日新聞社長の座を受け継いだ。帝国議会開設後は、神奈川県第一区横浜市選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩いた。その後、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党の立憲同志会に入り、後に憲政会に合流した。しかし、憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして同党を離党して、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して新党革新倶楽部の結成に参加した。尾崎行雄、犬養毅とともに大隈重信門下の三傑と呼ばれ、自由民権運動と護憲運動を推進した。社会問題にもいち早く目を向け、廃娼運動や足尾銅山鉱毒事件の被害者救済に尽力した。武藤秀太郎氏は1974年生まれ、1997年早稲田大学政治経済学部卒業。2005年総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程単位取得後退学した。学術博士で、現在、新潟大学経済科学部教授を務めている。尾崎行雄、犬養毅、島田三郎の三者は、1881年の明治14年の政変で下野した大隈重信が結党した、立憲改進党の中心メンバーであった。また、いずれも1980年におこなわれた第1回衆議院議員総選挙に立候補し、当選している。その後、尾崎が25回、犬養は18回と、それぞれ連続当選をはたした。帝国議会を誕生から長きにわたり支えた尾崎と大養が、憲政の神様とならび称されていることはよく知られている。実のところ、島田も第1回衆議院議員総選挙以来、亡くなるまで衆議院議員をつとめつづけた。その連続当選回数は14回。第14回総選挙まで連続当選をはたしたのは、島田、尾崎、犬養、河野広中、箕浦勝人の5名にすぎない。島田がもっと長生きしていれば、当選記録をさらに更新していたかもしれない。とくに、島田の選挙区は、横浜という大都市であり、有力者が虎視耽々と議席をねらう激戦区であった。島田は、衆議院議員となる前にも、神奈川県会議員や横浜相生町の町会議員として活動していた。議員としての在職は、足かけ40年あまりにおよぶ。労働組合運動にも理解を示し、1899年の活版印刷工の労働組合である活版工同志懇話会の会長に就任した。他に、キリスト教会の諸活動、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済運動、矯風事業、選挙権拡張運動を生涯にわたって支援し、第一次世界大戦後は軍縮を主張した。足尾鉱毒事件を告発した田中正造とは盟友であり、栃木県佐野市の惣宗寺にある田中正造の分骨墓碑石に刻まれた、嗚呼慈侠田中翁之墓という文字は三郎の直筆である。政治上の不正にも厳しく対応し、星亨の不正を攻撃、シーメンス事件を弾劾した。シーメンス事件は、ドイツのシーメンス社が日本から軍艦や軍需品の受注をしようと、日本海軍の高官に多額のコミッションを支払ったとされる贈収賄事件である。議会での島田の告発がきっかけとなり、一大疑獄事件へと発展し、時の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込むこととなった。島田は正義を口先だけでなく、行動で体現した唯一の政治家であった。島田の清廉潔白な姿勢は、不正に憤る青年の志気を大いに鼓舞してくれた。その一方、政界で孤立してしまい、満足な成果を残せなかった。1923年11月14日、島田は東京麹町の自宅で静かに息をひきとった。享年72才で、その年の1月に発病してから、少しずつ回復へと向かっていたものの、9月1日に起きた関東大震災による避難生活で、ふたたび病床の身となった。死因は、気管支炎と肺炎の併発であった。島田に肩書をつけるならば、何より最初におくべきは政治家となろう。青山斎場でおこなわれた島田の葬儀でも、数干人におよぶ参列者の中に、内務大臣、司法大臣、陸軍大臣ら現役閣僚をはじめ、憲政会総裁、衆議院議長、衆議院副議長などがいた。しかし、島田の葬儀を主催したのは、こうした政治家でなく、学者や社会運動家であった。葬儀の司会をつとめたのは、早稲田大学教授であった内ヶ崎作三郎であった。まず、ジャーナリストの石川半山が島田の遺文を読みあげた。つぎに、大正デモクラシーのオピニオンーリーダーであった、東京帝国大学教授の吉野作造が経歴を紹介した。それから、救世軍の山室軍平が説教をおこない、早稲田大学教授の安部磯雄が惜別の辞を述べた。これは、島田の遺志にもとづくものであったようである。吉野が葬儀で読んだ原稿では、政治家としての島田の一生が総括されていた。また、内村鑑三が島田の逝去直後に記した日記には、日本唯一人のグラッドストン流の正義本位の政治家との記述があるという。近代人より見れば旧い政治家で、山本権兵衛氏や後藤新平氏とは全く質を異にする政治家であった。多分島田のような政治家は再び日本に出ないであろう、邪を排し曲を直くする点に於て、わが国まれに見る大政治家であった。吉野と内村がともに島田を、日本で類をみない正義の政治家と表現した。こうした亡くなった直後に示された高い評価と裏腹に、島田の名は今日一般にあまり知られていない。これは、同じ大隈重信門下の三傑たる、尾崎や犬養と比べても歴然である。尾崎と犬養には、記念館や銅像など、功績を顕彰する施設が複数存在する。これに対し、島田にまつわるようなものは、ほとんどないといってよい。政治家としてのキャリアをみると、島田が尾崎・犬養よりも見劣りすることは否めない。尾崎は第一次大隈重信内閣で文部大臣、第二次大隈内閣で司法大臣にそれぞれ就任し、東京市長も10年近くつとめている。犬養は第一次大隈内閣で、尾崎の後任として文部大臣となったのを皮切りに、第二次山本権兵衛内閣、加藤高明内閣でも大臣を歴任し、最終的に、総理大臣の座までのぼりつめている。これに対し、島田は30年の議員生活で閣僚経験がなく、衆議院議長を一度つとめたにすぎない。しかし、明治から大正にいたる日本の憲政史を考えるうえで、島田が残した足跡は無視でぎないという。尾崎や犬養と肩を並べる、もしくはそれ以上の存在であり、吉野作造は島田を中心に、日本の憲政史を執筆しようと構想していたといわれる。これは未完に終わったが、公刊されていれば、後世における島田評価も変わっていたかもしれない。島田は身売りされた娼婦や劣悪な条件で働く労働者、足尾鉱毒事件など、1890年前後より露わとなったさまざまな社会問題の解決に、いち早くとりくんだ政治家であった。同時代で島田ほど、社会的弱者に広く目を向けた政治家はいないのではないか。その意味で、日本で類をみない正義の政治家という、吉野、内村の島田評価は決して誇張ではない。さらに島田には、政治家、社会運動家のほか、翻訳家、官僚、新聞記者、歴史家といった多彩な経歴がある。本書では、先行研究や新たな資料をふまえつつ、あらためて島田三郎の全体像を描き出してゆきたいという。
はじめに/第1章 立身出世を求めて/第2章 官僚時代/第3章 人生の転機/第4章 初期議会での活躍/第5章 政治家と経営者の二足のわらじ/第6章 政界革新運動のリーダーとして/第7章 苦悩の晩年/参考文献/おわりに/島田三郎略年譜
43.6月11日
”最澄と徳一 仏教史上最大の対決”(2021年10月 岩波書店刊 師 茂樹著)は、平安時代初期に天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした三乗説と一乗説のどちらが方便の教えでどちらが真実の教えなのかという真理を求める論争を解きほぐして描こうとしている。
仏教史上最大の対決とは、三一権実諍論、三一権実論争、三乗一乗権実諍論、法華権実論争などと言われる論争である。平安時代初期の817年前後から821年頃にかけて行われた、法相宗の僧侶、徳一と日本天台宗の祖、最澄との間で行われた仏教宗論である。三一権実諍論の三一とは、三乗と一乗の教えのことであり、権実の諍論とは、どちらが「権」(方便の教え)で、どちらが「実」(真実の教え)であるかを争ったことを言う。天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性、無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとした。定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。これは問答か謗法か、平安時代初期、天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした批判の応酬は、仏教史上まれにみる規模におよぶ。相容れない立場の二人が、5年間にわたる濃密な対話を続けたのはなぜだったのか。師 茂樹氏は1972年大阪府大阪市に生まれ、その後、福島県耶麻郡猪苗代町で育った。福島県立安積高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部に進学し、大久保良峻に師事した。1995年に卒業後、東洋大学大学院文学研究科に進み田村晃祐に師事し、2001年に同博士後期課程の単位取得し、2013年に博士(文化交渉学、関西大学)となった。2001年に早稲田大学メディアセンター非常勤講師、2002年に花園大学文学部専任講師となり、2008年に同准教授、2015年に教授に昇任した。その他、大谷大学、京都大学、国際仏教学大学院大学で非常勤講師を務めた。奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗、律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となった。この時代の日本における仏教は、鎮護国家の思想の下で国家の管理下で統制されていた。仏僧と国家権力が容易に結びつき、奈良時代には玄昉や道鏡など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れた。桓武天皇が平城京から長岡京、平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目、支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあったという。日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられた。653年に道昭が入唐留学して玄奘三蔵に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。徳一は一説には藤原仲麻呂か恵美押勝の子ともいわれるが、真偽のほどは不明のようである。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺、会津慧日寺などを創建したという。徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多いそうであるが、確実な史料は最澄と空海の著作に残された記録である。論争をしていた頃に書かれた最澄の著作には、陸奥の仏性抄、奥州会津県の溢和上、奥州の義鏡、奥州の北轅者などの記述があり、この頃は陸奥国にいたことがわかるという。天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗を開祖とする大乗仏教の宗派である。『法華経』を根本経典とし、五時八教の教相判釈を説く。五時はすべての経典を釈尊が一生の間に順に説いたものと考え、その順序に5段階をたてたもの、八教は化儀四教と化法四教の総称である。化儀四教は説法の仕方によって四種をたてたもの、化法四教は教説の内容によって四種をたてたものである。最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり12年間山林修行を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始めた。親交のあった和気氏を通じて、桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受けて、桓武天皇は最澄本人が短期留学の僧として渡唐するように命じた。最澄は805年に入唐を果たし、天台山にのぼり、台州龍興寺において天台宗第七祖の道邃より天台教学を学び、円教の菩薩戒を受けて806年に帰国した。帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請した。天皇没後に年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の遮那業と止観業各1名計2名を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立し、日本における天台宗のはじまりとなった。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想を立てた。これによって、律宗の鑑真がもたらした具足戒の戒壇院を独占する、南都仏教の既得権益との対立を深めていた。論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされ、この書における一乗批判、法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。ただし、そもそも徳一が論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠とその教団であったとする説がある。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも、道忠教団であったと見られるが、異論もあるという。釈迦の弟子とその後継者によって受け継がれてきた主流派の教義は小乗と呼ばれ、声聞乗=教えを聞く者たちの道として、ブッダを目指す修行者である菩薩の道=菩薩乗と区別した。二つの道と二つのゴールがあると考えるのが、二乗説である。後に、師から教えを聞くことなく独力で解脱する独覚を開いた人、あるいは縁覚とよばれるゴールを指す独覚乗あるいは縁覚乗が加わって、大乗グループによる分類である三乗説が定着する。菩薩乗は大乗、声聞乗と独覚乗は小乗である。『法華経』では、釈迦が、声聞乗、独覚乗で修行をしている僧に対して、汝らの目指すべきゴールは阿羅漢ではなく、ブッダになることだと述べた。一般の修行者が目指すものは、あらゆるものへの執着を断ち切り、輪廻から解脱することであって、それを達成した人は阿羅漢とよばれた。主流派の人々にとって、人々に教えを語り、導くことができるブッダ=目覚めた者は世界にたった一人、釈迦仏だけである。それに対して大乗グループの人々は、釈迦以外にも複数のブッダがいると主張し、また一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦と同様に人々を教導する存在になれるのだと主張した。『法華経』では、汝らはいずれブッダになれる、汝らに小乗の教えを説いたのは、大乗に導くための方便だった。三つの道というのは方便であり、本当は一つの道しかないという。これに対して、瑜伽行派とか唯識派などと称される大乗仏教の一学派は、『法華経』などに説かれる一乗説こそが方便であると解釈した。声聞乗をとるか、菩薩乗をとるかで迷っている修行者を、菩薩乗に誘導するための方便として生きとし生けるものはブッダになれるのだから、菩薩として修行しようと説いた。実際には素質によってゴールが異なる三乗説のほうが、ブッダが本当に説きたかった真理である、という三乗真実説を主張した。唐の仏教が日本に入ってくると、日本においてもこの相容れない二つの立場が激突することになった。その代表的な存在が、最澄と徳一であり、玄奘の弟子たちが形成した唯識派の法相宗が、遣唐使などによって日本に輸入され、理解が進展していくと、日本国内でも三乗真実説に対する批判が起こった。天台宗の一乗真実説を目にした法相宗の徳一は、三乗真実説に基づいてそれに疑問を投げかけたのである。そして『法華経』の一乗説こそが真実であると信じていた天台宗の最澄が、一乗真実の立場から徳一に反論し、それに対して徳一が反論して論難が往復した。論争の最中に最澄が提示した論争史の叙述は、まさに三一権実論争という枠組みを生み出したものであり、近現代の仏教学者が仏教史を把握する際のパースペクティブを規定してしまうほどの強い影響力を待った。三一権実論争とは、最澄が提示した仏教史観によって規定された、最澄と徳一の論争の見方なのである。私たちは最澄の作り出した見取り図のなかにいるが、本書ではその見取り図の形成過程に対しても、光を当てようとしているという。
はじめに/第1章 奈良仏教界の個性ー徳一と最澄/第2章 論争の起源と結末ー二人はどう出会ったか/第3章 釈迦の不在をいかに克服するかー教相判釈という哲学/第4章 真理の在り処をめぐる角逐/第5章 歴史を書くということ/終章 論争の光芒ー仏教にとって論争とは/参考文献一覧/あとがき
44. 6月18日
”「やりがい搾取」の農業論”(2022年1月 新潮社刊 野口 憲一著)は、社会になくてはならないインフラで重要性については誰もが認める農業についてこれまでの単なる食糧生産係から脱して社会的な価値ある産業とするための成長戦略を考えている。
自分の仕事に自信がない親の元に生まれ、子供の頃から、農業だけは継ぐな、大学に行けと両親に言われ続けたという。農家が高い収入を得て、自分の仕事に自信を持ち、社会に尊敬されるにはどうしたら良いのかという問いは、ずっと切実なものであり続けているそうである。農業は儲からない職業だから不幸である、と言いたいわけではない。たくさん儲けている農家も少なからずあるし、世界を見てみても、日本の農家より厳しい状況にある農家はいくらでもある。農作業の省力化も進んでいて、農業基本法が推し進めた農業近代化を象徴するトラクターを筆頭に、農業機械の普及は農作業の辛さや大変さを大幅に改善させた。近年では、センサーやカメラなどを用いて農家の感覚器官を補ったり、ビニール施設内での環境制御を行ったりするスマート農業が流行している。農業界でも働き方改革が求められており、長時間の農作業なども次第に緩和されつつある。 最近では、アパレル業界の農作業着への参入により、オシヤレな農作業着も増えた。本書で言うところの価値とは、お金、すなわちその農業を通して得られる経済的な利益だけを言うのではない。生産物である農産物の価値、農業という職業や産業に宿る尊厳、威信、そして自分自身の自信や職業イメージ、最終的には農業という営みの背景にある文化的な価値までを含む。いまや食余りの時代であり、単なる食糧生産係から脱し、農家が農業の主導権を取り戻すためには何をすればいいのであろうか。野口憲一氏は1981年茨城県新治郡出島村、現かすみがうら市生まれ、株式会社野口農園取締役である。株式会社野口農園はレンコン1本5000円で販売し、ニューヨークやパリなどのミシュラン星つきレストランに納入する等、レンコンのブランド化に成功している。日本大学卒業後、実家のレンコン生産農家を手伝いながら、大学院で民俗学・社会学の研究を続け、博士(社会学)を取得した異色の民俗学者でもある。2012年に日本大学文理学部で助手を務め、2013年から恵泉女学園大学や日本大学で非常勤講師を務め現在に至っている。民俗学と社会学の研究に加え、実家のレンコン栽培や販売を通して、農業の価値向上のためにも奔走している。かつてお米には七人の神様が宿ると言われたりしたが、日本の主食である米もいまや単なる食材の一つとなりつつある。地域社会が保持していた稲作に関わる民俗なども消失しつつある昨今、その文化的な価値も年を追うごとに摩耗している。日本社会の食糧生産係の役割をふられた戦後の農業界では、豊作貧乏が常態化していた。どんなに需要が多くても、生産物の質を上げても、生まれた価値は農家の手元に残らなかった。いつまでも豊作貧乏、キレイゴトの有機農業、単なる食糧生産係から脱し、農家が農業の主導権を取り戻すためには何をすればいいのか。おしゃれな農作業着のイメージ方法論は、農業のイメージを表面的な見た目を改善する必要があるという。ポルシェを乗り回す農家、農作業のつらさを軽減するトラクターやコンバインの導入、スマート農業や植物工場へ展開する方法論、効率性や経済合理性にあった農業などの方策もあろう。でもこの方法が、農業の本質的価値向上になるのか、むしろ、農業の価値を毀損するのではないか。ある意味では、消臭剤を撒くことで本質を覆い隠すようなことが多いのではないか。農水省の提唱しているスマート農業という言葉は、かっこいいみたいで、それ以外の農業は、野暮ったくて馬鹿で愚鈍でカッコ悪いと思われる。日本の農家は、高品質な農作物を作ってきたにも関わらず、ほとんど社会からの価値を認められていない。プロの農家として、自分の仕事に対して自信を持ち、自己実現を果たし、仕事それ自体が社会から尊敬され、かつ高い収入を得るためにはどうするのか。そして、持続的に身近な自然環境を守り、自然の大切さを伝えるという社会的な使命を帯びている。現在、農業という職業の社会的な役割は食糧生産係であるが、著者は、農家が単なる食糧生産係に止まらず、農業という職業に社会的な尊敬が集まり、やりがいをもって取り組めるような社会を構想したいという。そのための一番の近道は、農家が生産している農産物を高く売ることである。職業の威信の高さや社会からの尊敬は、その職業が産み出す商品やサービスの値段に直結するからである。そして、その高付加価値化は他の産業の力を使わず、農家にしかない特有の能力をもって成し遂げることが重要である。著者はレンコンを1本50000円として、農産物ラグジュアリーブランドとして販売する。それは価値があるから高いのでなくて、高いから価値があるのである。農業の価値という大きな農業の連綿たる続いてきた価値の物語をかたることで、農業としての矜持を持とうとしている。価値とはお金だけでなく、生産物である農産物の価値、農業という職業や産業に宿る尊厳・威信、そして自分自身の自信や職業イメージ、農業の営みの背景にある文化的な価値である。ある意味では農水省が農業の価値に気がつくべきだと言っている。有機農業は、有機農法、有機栽培、オーガニック農法などとも呼ばれ、化学的に合成された肥料や農薬を使用しないことと、遺伝子組換え技術を利用しないことを基本としている。農業生産に由来する環境への負荷を、できる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業である。近年ではハイテク機械を用いたスマート農業どころか、完全に外部環境を遮断してフルオートで野菜を生産する植物工場が流行している。スマート農業はロボット技術やICT等の先端技術の活用して、少人数で多数の圃場を的確に管理する技術である。一見、均一にみえる圃場において、空間的、時間的に気温土壌肥沃度や土壌水分がばらつく事を前提として、それを認識して制御することで収量等を改善を目指す。植物工場は内部環境をコントロールした閉鎖的または半閉鎖的な空間で、野菜などの植物を計画的に生産するシステムである。ビル内などに完全に環境を制御した閉鎖環境をつくる完全制御型の施設から、温室等の半閉鎖環境で太陽光の利用を基本として、雨天・曇天時の補光や夏季の高温抑制などを行う太陽光利用型の施設などがある。しかし、こうしたやり方は農業の本質的な価値向上とは何一つ関係がないばかりか、むしろ農業の価値を棄損する方法論なのではないかと考えるようになったそうである。農業の本質的な特徴を軽視し、時には隠そうとする方法論であると気づいたからである。農家に一時的な幸せをもたらすかもしれないが、結果的にはむしろ農業のマイナスイメージを強化してしまうのではないか。近代的な農業経営が取り入れられて以降、農家固有の技術の経済的価値は、農家の手に落ちることはなく、ずっと外部に流出し続けているからである。これまで農業の技術と呼ばれるものは、農学はもちろんとして、機械メーカーや肥料メーカー、そして種苗会社や製薬会社によって支えられてきた。農家が発見したものであっても、それは知識として農学に吸い取られ、クレジットは農家の手には残らない。結果として、農産物を生産する一農家が、自身の卓越した能力を待った職業人として社会に認められる余地はほとんど存在しない。このような時代において、農家が自分の職業に対する誇りと自信を取り戻し、外部に流出している価値を自ら保持するにはどうすれば良いのか。著者は農家としての立場の他に、社会学で博士号を獲得した民俗学者の立場としても活動している。民俗学とは、自分自身の足下にある身近な問題についての歴史的・文化的・現代的な背景を探る学問である。本書では、農業経営に関わる農家としての活動、そして日本各地の農家を調査してきた民俗学者としての蓄積をすべて注ぎ込み、日本の農業が目指すべき方向性について考えてみたいという。
はじめに/第1章 構造化された「豊作貧乏」/第2章 農家からの搾取の上に成り立つ有機農業/第3章 植物工場も「農業」である/第4章 日本人の仕事観が「やりがい搾取」を生む/第5章 ロマネ・コンティに「美味しさ」は必要ない/第6章 金にならないものこそ金にせよ/おわりに/参考文献
45.6月25日
”ユーゴスラヴィア現代史”(2021年8月 岩波書店刊 柴 宣弘著)は、かつてセルビア・クロアチア・スロヴェニア・マケドニア・モンテネグロ・ボスニアヘルツェゴビナの6共和国で構成したユーゴスラヴィアの内戦終結から現在までの各国の動向や新たな秩序について概観している。
ユーゴスラヴィアは、ヨーロッパのバルカン半島北西部を占めた連邦共和国で、かつて独自の社会主義連邦の道を歩んだ。14世紀からオスマン帝国の支配下にあったが、第一次大戦後の1918年、南スラブ系の多民族最初の統一国家、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国が成立した。1929年にユーゴスラヴィア王国と改称し、1945年に連邦人民共和国、1963年に社会主義連邦共和国となった。第二次大戦でドイツ軍に占領されたが、1945年に自力で全土を解放し、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立した。1948年に民族主義的傾向によりコミンフォルムを除名され、独自の社会主義の道を歩み、1963年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国と改称した。この国家は、後に、七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家と言われる程の多様性を内包していた。1991年から1992年にかけ、同国の解体・再編に伴い、スロヴェニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・マケドニア各共和国が分離・独立し、セルビアとモンテネグロの2共和国が新ユーゴユーゴスラヴィアを構成していた。そして、2003年に国名をセルビア・モンテネグロに改称したが、2006年に両国が分離して完全に解体された。民族、国家、宗教、言語、ユーゴスラヴィアの解体から30年となり、暴力と憎悪の連鎖が引き起こしたあの紛争は、いまだ過ぎ去らぬ重い歴史として、私たちの前に立ちはだかっている。柴 宜弘氏は1946年東京都生まれ、1971年に埼玉大学教養学部を卒業した。1975年から1977年まで、ベオグラード大学哲学部歴史学科に留学し、帰国後、敬愛大学経済学部専任講師、助教授となった。1979年に、早稲田大学大学院文学研究科西洋史専攻博士課程を満期退学、専門はバルカン史である。1992年に東京大学教養学部助教授となり、1994年東京大学教養学部・大学院総合文化研究科教授を経て、城西国際大学特任教授となった。2010年に東京大学名誉教授、ECPD(国連平和大学)客員教授、 城西国際大学特任教授となった、その後、同大学中欧研究所長を務め、2021年に死去した。今はないそのユーゴスラヴィアに、念願かなって留学が決まり、古びたベオグラード空港に緊張気味に降り立ってから20年が過ぎたという。ユーゴスラヴィアという国にひかれ、この国の歴史を勉強してみようと思い立ってから数えれば、もう四半世紀を超えているそうである。当時、自主管理と非同盟の国ユーゴスラヴィアに対するわが国の関心は決して低いものではなかったが、関心の大部分は独自の社会主義の理念にあったように思える。実際に、ペオグラードでの生活を始め、ユーゴスラヴィアの各共和国や自治州に足をのばしてみて感じたことは、風景や、生活習慣や、人々のメンタリティーがかなり異なる地域が、ひとつの国を作っている現実であった。北のスロヴェニア共和国から送られるスロヴェニア語のテレビ放送には、セルビア・クロアチア語のテロップがつけられている。テロップなしには、十分にスロヴェニア語を理解できないことを知った。南の後進的なマケドニア共和国の首都スコピエから、最も豊かなスロヴェニア共和国の首都リュブリャナに飛行機で行ったときなど、その落差に改めて驚かされたという。ユーゴスラヴィアの魅力は、きわめて多様な地域がひとつの国を形成していることにあった。しかし、このようなユーゴは内戦を経て解体してしまった。著者は、ユーゴスラヴィア研究者として、73年間で歴史の幕を閉じてしまったユーゴスラヴィアとはいったい、どのような国だったのかを現時点から検討し直してみようとした。ユーゴスラヴィアとは、そもそも南スラヴを意味する言葉だが、国家としてのユーゴスラヴィアは二度生まれ、二度死んだといわれる。一度は、1918年12月に王国として建国され、1941年4月にナチスドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻にあい、分割・占領されて消滅した。もう一度は、1945年11月に社会主義連邦国家として再建されたが、1991年6月にスロヴェニア、クロアチア両議会が独立宣言を採択し、翌1992年1月に、約50力国がこれら二国を承認して解体した。三度生まれ変わることはできず、民族対立による凄惨な内戦を通じて、73年間の歴史の幕を閉じた。ユーゴスラヴィア紛争は、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国解体の過程で起こった一連の内戦で、1991年から2001年まで主要な紛争が継続した。1991年には、スロヴェニアがユーゴスラヴィアからの離脱・独立を目指したスロヴェニア紛争が起こった。規模は拡大せずに10日で解決し、十日戦争、あるいは独立戦争と言われている。1991年から1995年まで、クロアチアがユーゴスラヴィアからの離脱・独立を目指したクロアチア紛争が起こった。ボスニア紛争と絡んで戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。1992から1995年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、1996年から1999年までコソボ紛争、2001年にマケドニア紛争が起こった。第二次世界大戦後のユーゴは、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」という表現に端的に示される、複合的な国家であった。最終的に連邦が解体する以前、ユーゴスラヴィアでは、1980年代末から1990年代初めにかけて連邦制の危機が進行し、第三の岐路に立つユーゴスラヴィアという表現が当時のジャーナリズムを賑わせた。この表現と関連して、第一次世界大戦の結果として建国された南スラヴの統一国家を「第一のユーゴスラヴィア」、第二次世界大戦の結果として再建された国家を「第二のユーゴスラヴィア」とする言い方が一般化した。「第一のユーゴスラヴィア」においても、「第二のユーゴスラヴィア」においても、最大の国内問題は民族対立であったといえるだろう。このユーゴが位置するバルカン地域は、民族構成の複雑なことで知られている。その地理的な位置からも、歴史的に諸民族が混在し、混血もすすんでいた。人為的な国境線をどのような形で引こうとも、自国内に少数民族を抱え込むことになり、自民族が隣接する国々に少数民族として留まることになる。ユーゴスラヴィアは、このようなバルカン地域縮図ともいうべき特色を持つ国家であった。また、ユーゴスラヴィアははざまの国といわれた。冷戦期には東西両陣営に属さず、政治・外交的に非同盟政策を採っていた。歴史をさかのぼってみると、この地域が古くは東ローマ帝国と西ローマ帝国との境界線に位置していた。中世においては、ビザンツ・東方正教文化圏と西方カトリック文化圏との接点でもあった。さらに近代に至ると、ユーゴスラヴィアを構成することになる南スラヴの諸地域は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国との辺境を形成し、イスラム文化との接触も進んだ。第二次世界大戦期にナチスドイツの占領下で、民族対立を煽る分断統治が行われるにともない、大規模な兄弟殺しが展開された。戦後、の「第二のユーゴスラヴィア」で、パルチザン体験をもとに社会主義に基づいて統合化が推進されたが、ユーゴ人意識を徹底させることはできなかった。したがって、文化の面でも、これがユーゴ的だと誇れる明確な文化を生み出すことはできなかった。多様な文化が並存する状況から生み出される独自の表現は、容易に国を越える広がりを持っていた。ユーゴスラヴィアという複合国家がなくなってしまった現在、新たな独立国は政治的にも文化的にも、単一性や均質性を追い求めているように見える。しかし、歴史を振り返れば明らかなように、この地域では多様性を排して単一性を追求することこそが危険であり、民族の悲劇を生み出してしまったのである。本書は、異質性や多様性が排除され、解体してしまった国家であるユーゴスラヴィアの現代史を、統合と分離の経緯を追いながら、内戦にいたる歩みを、決定論に陥ることなく見つめ直すことを目的としている。
第一章 南スラヴ諸地域の近代/第二章 ユーゴスラヴィアの形成/第三章 パルチザン戦争とは何だったのか/第四章 戦後国家の様々な実験ー連邦制・自主管理・非同盟/第五章 連邦解体への序曲/第六章 ユーゴスラヴィア内戦の展開/第七章 新たな政治空間への模索/終 章 歴史としてのユーゴスラヴィア/あとがき/新版追記/主要参考文献
46.令和4年7月9日
”EPICソニーとその時代”(2021年10月 集英社刊 スージー鈴木著)は、ソニー・ミュージックレコーズに次いで二番目に歴史が古く先進的な音楽性により1980年代の音楽シーンを席捲したEPICソニーの来し方行く末を語っている。
エピックレコードジャパンは、ソニー・ミュージックレーベルズの社内レコードレーベルである。通称はエピック、旧名のエピック・ソニー、規格品番のES等がある。1968年にCBS・ソニーレコード株式会社が設立され、1971年に ロック・ポップス系レーベルのEPICが新設された。当初は洋楽のみだったが、3か月後、CBS・ソニーレーベルから鞍替えしたハイソサエティーを皮切りに邦楽にも進出した。1973年に株式会社CBS・ソニーに商号変更され、1976年にEPICレーベル、邦楽の制作を打ち切り、洋楽専用レーベルに戻った。1978年にレーベル・EPICをEPIC・ソニーとして会社が設立され、1983年に商号変更した株式会社CBS・ソニーグループの企画制作部門を、株式会社CBS・ソニーとして分離された。1988年に株式会社CBS・ソニーは、株式会社CBS・ソニーグループに吸収合併された。スージー鈴木、本名、鈴木 朗氏は1966年大阪府東大阪市生まれ、大阪府立清水谷高等学校、早稲田大学政治経済学部を卒業した。大学生時代の1988年に、FM東京”東京ラジカルミステリーナイト”のAUプロジェクトに参加し、ラジオデビューした。大学卒業後、広告代理店・博報堂に勤務し、働きながら、1995年から1999年にかけて、FMヨコハマ土曜日”トワイライトナビゲーション”にレギュラー出演した。2001年から、雑誌・週刊ベースボールのコーナーに、隔週で野球音楽に関するコラムを連載した。ラジオDJ、音楽評論家、野球文化評論家、小説家として活動し、現在、大阪芸術大学、早稲田大学で講師も務めている。EPICの名は1953年にアメリカのコロムビアレコードが傘下に設立した、サブレーベル名エピック・レコードにその起源をもつ。エピック・レコードは、ジャズ・クラシック音楽部門を販売するためのサブレーベル名である。2001年にソニー・ミュージックエンタテインメントの製作部門から、ソニー・ミュージックレコーズ、キューンレコード、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズと共に分離・独立した。2014年にレーベルビジネスグループ再編により発足した、株式会社ソニー・ミュージックレーベルズの社内レーベルとなった。エピックのレーベルは、ソニー・ミュージックレコーズに次いで二番目に歴史が古い。商品の規格品番に記載されてあるESは、旧名称であるエピック・ソニーの名残である。EPICと言えばニューミュージックやロックのイメージが強いが、設立当初はフォーク系や、俳優系、演歌系も手掛けていた。EPIC・ソニーよりもCBS・ソニーの方が先に生まれ、1968年設立、ソニーと米国CBSの合弁契約で発進した。南沙織、天地真理、郷ひろみ、山口百恵、キャンディーズなど、1970年代のアイドルブームに乗って、邦楽部門が急成長し、業界1位のレコード会社となった。1980年代、今度はロック系で成功を収め、爆風スランプ、PRINCESS PRINCESS、REBECCA、聖飢魔Ⅱ、米米CLUBなどが所属した。EPIC・ソニーは、CBS・ソニー誕生から10年後の1978年に、CBS・ソニーの全額出資にて設立された。CBS・ソニーよりも図体は小さいものの、ロックレーベルというコンセプトで一気に若者の支持を得た。佐野元春を中心としたラインナップで、1980年代を席捲し、BARBEE BOYSとTM NETWORKなどが所属となった。先進的な音楽性により1980年代の音楽シーンを席捲し、レーベルの個性が見えにくい日本の音楽業界の中で、ひと際異彩を放つレーベルとして君臨した。佐野元春、渡辺美里、ドリカムなど、名曲の数々を分析する中でレーベルの特異性はもちろん、当時の音楽シーンや80年代の時代性が浮かび上がる。今、この本を手に取ったあなたは、あの頃、どんなふうに、EPICソニーの音楽と接していましたかと問う。思い返すと、1980年代、著者の青春時代には、EPICソニーの音が、いつも響いていたという。EPICソニーの音は、ロックで、ホップで、おしゃれで、激しくて、東京っぽくて、そして何といってもキラキラしていた。なぜ、あの頃のEPICソニーの音は、一様に輝かしかったのか。誰がどのようにして、あの頃のEPTICソニーの音を作り上げたのか。洋楽に比べて、レーベルのカラーなど判然としなかった当時の邦楽の中で、なぜEPICソニーだけが、キラキラーイキイキとしたレーベルカラーを醸し出すことができたのか。そして、なぜ、あれほど輝かしかったEPICソニーが、いつのまにか、遠い記憶の彼方に消えてしまったのか。著者は、これらの謎を解き明かすことが、自分の使命と勝手に感じ取ったという。50歳前後から、少しずつ本を出し始め、テレビやラジオに出始めた遅咲きの音楽評論家として出演した。1980年代のEPICソニーとともに、青春を過ごした世代の1人である。第一章 EPICソニーの音楽では、80年代(一部70年代、90年代)のEPICソニーが量産した名曲30曲を取り上げて評論していく。歌詞、メロデイ、アレンジの音楽的分析に加えて、その曲が生み出された背景や人間模様について、丁寧に、かつ大胆に描き出したつもりである。第二章 EPICソニーの時代は、EPICソニーの歴史と意味について、総論的に追った、言わば通史となっている。株式会社EPIC・ソニーが、独特なプロセスで組成され、ロックレーベルとして1980年代に栄華を極め、そして、ほとんどのリスナーが気付かない形で消滅した過程などに触れた。第三章 EPICソニーの人では、佐野元春、大江千里、渡辺美里、TM NETWORK、岡村靖幸を生み出した、EPICソニーの伝説のプロデューサー=小坂洋二と、佐野元春へのインタビューを掲載した。現時点で、発言や資料がほとんど見当たらない小坂氏の言葉は、もうそれだけで貴重なものである。またEPICソニー史視点の、かなり突っ込んだ質問を投げかけた佐野氏へのインタビューも、特異な価値を持つものだと自負するという。今、この本を手に取ったあなたは、あの頃、どんなふうに、EPICソニーの音楽と接していましたかと問う。
はじめにーEPICソニーから遠く離れて/第1章 EPICソニーの「音楽」(SOMEDAY~いつか、EPICソニーが(1979-1984)/My Revolution~EPICソニーが起こした革命(1985-1987)/笑顔の行方~EPICソニーの向かう先(1988-1990))/第2章 EPICソニーの「時代」(EPICソニーの「歴史」/EPICソニーの「意味」)/第3章 EPICソニーの「人」(小坂洋二インタビュー/佐野元春インタビュー)/おわりにーEPICソニーをきちんと葬り去るために
47.7月16日
”「三畳小屋」の伝言 陸軍大将今村均の戦後”(2012年4月 新風書房刊 朝野 富三著)は、人間愛をもって統率した元陸軍大将で戦後戦犯となり自から希望して1950年にマヌス島刑務所で服役したが同所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移り1954年に刑期を終え出所した大将の生涯を紹介している。
元陸軍大将の今村均は、1886年宮城県仙台区生まれ、祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務めたが、進駐してきた新政府軍に対して融和的な態度をとったため藩内の強行派から非難を浴びた。そこで、財産を家来にほとんど分け与え、新政府からの官職への呼びかけにも応じることなく隠遁した。父親は裁判所の事務員として働きながら、家事の出来ない継母に代わり弟妹達を育てた。そして、裁判官試験に2番の成績で合格して裁判官として任官したという。均は新発田中学を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父親を亡くしたため、当初志望していた第一高等学校、もしくは高等商業学校に進学することが厳しくなった。母親は陸軍士官学校を推薦していたため、陸軍練兵場で催された天覧閲兵式を拝観し、大勢の群衆の姿に感激したという。その足で陸軍士官学校を受験する旨の電報を母に打ち、郷里の連隊区で試験を受け合格した。1905年に士官候補生となり、1907年に陸軍士官学校を卒業し、見習士官となり、後、陸軍歩兵少尉に任官した。1910年に陸軍歩兵中尉に進級し、1915年に陸軍大学校第27期を首席で卒業した。1916年に陸軍省軍務局附となり、1917年に陸軍歩兵大尉に進級し、陸軍省軍務局課員となった。1918年にイギリス大使館附武官補佐官となり、1921年に参謀本部部員となった。1922年に陸軍歩兵少佐に進級し、1923年に上原勇作元帥附副官兼任となった。1926年に陸軍歩兵中佐に進級し、1927年にインド駐箚武官となった。1930年に陸軍歩兵大佐に進級し、陸軍省軍務局徴募課長となり、1931年に参謀本部作戦課長となった。1932年に歩兵第57連隊長となり、1933年に陸軍習志野学校幹事となった。1935年に陸軍少将に進級し、歩兵第40旅団長となった。1936年に関東軍参謀副長、駐満州国大使館附武官兼務となり、1937年に陸軍歩兵学校幹事となった。1938年に陸軍省兵務局長となり、陸軍中将に進級し、第5師団長に親補された。1940年に教育総監部本部長となり、1941年に第23軍司令官に親補され、のち第16軍司令官に親補された。1942年に第8方面軍司令官に親補され、1943年に陸軍大将に親任された。1946年にラバウル戦犯者収容所に入所し、1947年にオーストラリア軍による軍事裁判判決で禁錮10年となり、ジャワ島に移送された。1949年にオランダ、インド軍による軍事裁判判決で無罪となり、1950年にインドネシアから帰国したが、のちマヌス島で服役する事を申出て、マヌス島で服役した。1953年にマヌス島刑務所閉鎖に伴い、巣鴨拘置所に移った。1954年に刑期を終え巣鴨拘置所を出所し、1955年に防衛庁顧問に就任した。1968年に82歳で死去し、墓は仙台市の輪王寺にある。朝野富三氏は1947年神奈川県横須賀市生まれ、海上自衛隊生徒課程を修了し、早稲田大学第一文学部を卒業した。毎日新聞社に入社し、日本商事・ソリブジン薬害問題を報道し、1995年に日本ジャーナリスト会議坂田記念ジャーナリズム賞を受賞した。大阪本社社会部長、同編集局長などを経て、2005年から宝塚大学、旧宝塚造形芸術大学特任教授を務めた。今村均は1945年8月15日、日本が敗戦を迎えた時、南太平洋にあるニューブリテン島のラバウルに司令部を置く陸軍第八方面軍の軍司令官であった。日本から直線距離で6000キロ離れ、陸軍だけで将兵7万人の大部隊で海軍の基地もあった。連合艦隊司令長官の山本五十六大将、後に元帥の載った攻撃機が、1943年4月18日にアメリカ軍の戦闘機に撃墜され、戦死したのもラバウル方面に視察に来た時であった。二人は若い時代から親交があり、トランプ遊びの仲間であった。久しぶりの再会に前日の17日に夕食をともにしており、翌日の非業の死となった。日本に欠いてはならない山本大将が遭難し、我が祖国のため取り返しのつかない不幸だった、となげいている。南方のBC級裁判では、原住民の指摘が動かぬ証言となり、多くの兵が処刑された。兵の行為の責任は上官にあり、私を戦犯にしろと叫んだのが陸軍大将今村均であった。自らラバウル戦犯収容所へ赴き、無罪判決を得るも服役を要求し、1953年までマヌス島の刑務所で過ごし、1954年に巣鴨を出所した。東京の自宅の庭に木造の三畳一間の小屋をつくっておくように、長男に頼んであった。庭といってもそんなに広くはなく、小さな掘っ立て小屋であった。10数年ぶりにわが家に戻ると、母屋では暮らさずに、この小屋で生活を始めた。誰かから言われたわけではなく、戦犯として罪を負うことが正しかったかどうかは別にして、刑に服したのだから、大手を振って暮らせたはずである。しかし、小屋での暮らしを自分に課し、食事と入浴、来客の応対だけは家族が住む母屋でしたが、寝たり読書したり、本を書いたりとほとんどの時間はこの小屋で過ごした。そして、はなやかな表舞台に二度と出ることはなく、亡くなるまでの14年間、こうした生活を続けた。この三畳一間の小屋が山梨県韮崎市に保存されていることを知り、その小屋で偶然に目にした50冊のスクラップノートに関心を待ったのが本書を書くきっかけとなったという。このスクラップノートを預かり、勤務する大学の研究室で分類・整理し、丹念に貼られた記事とメモ類を読み進んでいった。そしてわかったことがある、没後の今村に関する出版物には聖将という言葉を付けられることが多いが、それを最も嫌ったのが今村自身だろうということである。今村は敗戦後に自分を戦犯に問えと、オーストラリア軍とオランダ軍に求めた。それは戦犯に問われるべき罪や理由があると考えたからではなく、むしろ反対で、軍事裁判の不当性を裁判の中で主張している。それなのに、戦犯になることを求めたのは、罪のない部下たちが戦犯として次々と逮捕、処刑されていったからであった。そうした事態を招いた責任が自分にはある、と考えたためである。裁判そのものは不当だが、それでも戦勝国が戦犯追及をするなら、最高指揮官ひとりを裁けばよいと考えたのであった。今村は、最高指揮官としての道義的責任、人間としての罪を強く感じている軍人であった。戦後の身の処し方の根底にあるのは、敗戦に導いた陸軍首脳のひとりとしての国家・国民に対する責任であり、戦死・刑死した部下たちへの順罪意識であった。それは戦犯としての刑期をつとめあげても許されない罪であり、それゆえ、再び表舞台には出ないこと、三畳一間の小屋で生きていくことを選ばさせた。三畳小屋は、法律で裁けない罪人としての、いわば終身刑用の独房であった。そうであればこそ、罪を償う生き方や行為が褒められること自体、本意でないことは当然である。まして、聖将といった賛美や評価は、耐え難いものであるに違いない。著者は、今村が三畳の小屋で思いめぐらしたことが何であったかを、スクラップノートを手がかりに少しでも知ることができないかと考えたという。時間があればスクラップノートの記事を丹念に読んでゆき、自分で作った分類表に、記事の見出し、日付、新聞名、分類、ジャンルなどを書き込んでいった。ジャンルは日本と世界に分け、それぞれに「文化」「政治」「経済」「軍事」「教育」「労働」「宗教」「科学」「社会」「その他」の十の項目を設けた。これ以外に「今村関連」というジャンルを作ったので、合計で21ジャンルになる。スクラップは1956年12月から始まり最後が1966年2月で、ちょうど10年間の50冊あり、記事は本数にして全部で904本あった。スクラップには、おびただしい数の教育や青少年に関する記事が貼られてあった。教育行政や日教組への批判記事、あるいは青少年の非行や犯罪の記事もあった。それと同時に、若者や子どものちょっとした善行や活躍ぶりを伝える小さな記事が随所にあった。本書のタイトルを「伝言」としたのは、今村が若い世代の人たちに伝えたかったであろうことの、著者なりに考えた伝言である。それとともに、戦後生まれで戦争そのものは知らないにしても、戦争体験を語り伝えて行くべき役割のある団塊世代としての伝言も少し加えたという。
一 五十冊のスクラップノート/二 罪と罰/三 憎しみを超えて/四 戦争と平和/五 悪魔のささやき/六 青空学級/七 永遠のまなざし/八 生きぬく力/今村均の主な歩み/あとがき
48.7月23日
”酔鯨 山内容堂の軌跡”(2021年10月 講談社刊 家近 良樹著)は、20歳で土佐藩主となり吉田東洋らを起用して藩政改革を行なった徳川びいきの封建領主で土佐勤王党の弾圧者とされる山内容堂の生涯を紹介している。
山内容堂は1827年11月27日生まれ、土佐藩の分家であった南屋敷に山内豊著と潮江村石立の下士平石子の女、名は瀬代の長子として生まれた。名は豊信、容堂は号、幕末の外様大名で、土佐藩の15代藩主であった。生家の南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。1846年3月7日に父豊著の隠居に伴い、南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の蔵米を受ける身となった。1848年8月8日に江戸で13代藩主の山内豊熈が死去し、嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死した。山内家は御家断絶の危機に瀕したが、豊惇の長男寛三郎が病気のため擁立が見送られた。また、豊惇の実弟豊範、後の16代藩主・山内豊範も、まだ3歳と幼少であったため擁立は見送られた。そして、南屋敷で部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名された。土佐藩は豊惇の死を隠蔽し、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続を幕府に申し出た。1848年12月27日に豊信は高知を出発し、翌月21日に江戸に到着、同26日に家督の相続を幕府から許可された。翌年1月8日に豊範を豊信の養子とし、1850年9月11日に、右大臣三条実万の養女正姫と結婚した。同年12月16日に従四位下土佐守に任じられ、翌年12月16日に侍従に昇任した。家近良樹氏は1950年分県生まれ、1973年に同志社大学文学部を卒業した。1982年に同大学院文学研究科博士課程文化史学専攻を単位取得退学した。1997年に文学博士(史学、中央大学)となり、専攻は幕末史を中心とした日本近代史である。大阪経済大学講師、助教授を経て、大阪経済大学経済学部教授となり、現在、大阪経済大学名誉教授である。幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとして、一会桑政権と呼ばれる歴史概念を主張している。一会桑とはそれぞれ「一」=一橋慶喜、「会」=会津藩主・松平容保、「桑」=桑名藩主・松平定敬のことを指す。従来の薩長史観では見過ごされがちだが、この三者が幕末において果たした役割の再評価を主張している。山内容堂は、藩主就任当時、隠居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に対して監視を怠らなかった。藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない状況で、就任から数年の間、豊信は思い通りに行動できなかった。1853年6月3日にペリーが浦賀に来港すると、幕府はペリーから受け取った国書の写しを全国の諸大名に配布し、対応の意見を求めた。当時高知にいた豊信は、この知らせを受けて城に重臣を招集し、意見書の作成を行った。この意見書を起草したのは、当時学識において評判の高かった吉田東洋であった。作成された意見書は同年8月21日に江戸に向けて発送され、10月付けで幕府に提出された。幕府への意見書の作成・提出を終えると、豊信は初めて藩政改革に乗り出した。隠居していた豊資の了解を得て、同年9月8日藩政改革における意見を発表した。豊信は藩政改革を進めるにあたって、吉田東洋と小南五郎左衛門を起用した。東洋は海防強化・人材の登用・鉄砲事業の奨励・様式造船技術員、航海員の養成など、藩政改革を進めた。1854年6月に、東洋は山内家姻戚に当たる旗本の松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚し、謹慎の身となった。しかし3年後には東洋は再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用した。小南五郎左衛門は、小浜酒井家の儒臣山口菅山に学び望楠軒の流れを引く尊王家であった。1953年10月20日に豊信の側用役に抜擢され、その後豊信に度々諫言するなど、補佐として仕えた。山内容堂は、幕末維新政治史上に登場した特異な封建支配者であるという。人によって評価は異なるが、孝明天皇・岩倉具視・徳川慶喜・西郷隆盛・大久保利通・高杉晋作といった最重要クラスに準ずる人物の一人であったと位置づけてよかろう。1857年から1858年の将軍継嗣問題の際,松平慶永,島津斉彬らとともに一橋慶喜擁立に尽力した。安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,1862年に活動を再開し公武合体による雄藩連合実現を目指した。1867年に後藤象二郎の建議をいれて、大政奉還を徳川慶喜に建白した。維新政府では議定などに就いた。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進し、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇り、死後は従一位を贈位された。酒と女と詩を愛し、自らを好んで鯨海酔侯や酔翁と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。当該期にあって、容堂は、政局を自分の思う方向に導ける立場に何度もたった。だが、容堂を生涯にわたって苦しめつづけた体調不良に加え、その独特のありようによって、みすみす自分に与えられたチャンスを逃すことが再三におよんだ。もし容堂が健康に恵まれ、かつ粘り強く物事に取り組む真摯な姿勢を一貫して保持しえていたら、幕末維新史は大きく異なるものとなった可能性がある。容堂は日本史上有数の激動期であったぶん、さまざまな、その後のコースを選択しえた可能性があった幕末期にあって、真に興味深い存在であった。しかし、そうした容堂の存在は、これまで幕末維新政治史上で正当に評価され位置づけられてきたかといえば、そうではない。人気者の範躊にとうてい入らないことが重なって、これまで本格的に研究されたことは、一部の例外を除いてはなかった。幕末維新政治史上で重要な役割をはたした徳川斉昭や鍋島直正といった一群の封建領主と比べても、取り上げられることは格段に少ない。近年、幕末維新史研究のいっそうの進展にともない、従来、あまり世間の注目を浴びることのなかった人物にも、再評価の動きが出てきた。新たな動きが生まれつつあるなか、本書の主人公である山内容堂はひとり取り残された感がある。本書は、存外、面白味の感じられるキャラクターの持ち主で、かつ行動も杓子定規な解釈ではとうてい理解しえないところの多々あった山内容堂の生涯をたどろうとするものである。そして、これは、容堂の在を正当に視野に入れることで、幕末史をほんの少々塗り替えたいとの願いにもつながる。すでに膨大な研究の蓄積がある幕末維新政治史研究に、ほんの少し新たな知見を加えることをめざしたいという。
はじめに 知られざる「いと面白き」人物/第1章 青年藩主の誕生/第2章 将軍継嗣問題/第3章 桜田門外の変と容堂/第4章 将軍上洛と参預会議/第5章 土佐勤王党の弾圧/第6章 土佐藩の路線転換/第7章 四侯会議と帰国/第8章 王政復古クーデター/第9章 小御所会議/第10章 明治初年の山内容堂
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