徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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徒然草のページ
1.令和4年8月6日
”安いニッポン 「価格」が示す停滞”(2021年3月 日本経済新聞社刊 中藤 玲著)は、ジャパン・アズ・ナンバーワンだった時代は遠い昔の話になりいまや「安い」「貧しい」「小国」「後進国」などと評されるようになった日本の今後を考えている。
今や日本の経済は伸び悩み、給料もほとんど上がらない状態が続いている。日本の賃金はこの30年間全く成長していない、年々賃金の上がる諸外国から取り残され、物価も賃金も安い国となりつつある。円安政策が労働者を貧困に追い込んだ、と指摘する意見もある。円安政策の目標は輸出企業の利益増加と株価上昇であり、円安に伴い低い賃金水準と物価が維持された。日本企業が特にめざましく技術革新を遂げたわけでもないのに利益と株価が上昇した理由は、日本の労働者が貧しくなったためであるという。コロナ・ワクチン開発でも、欧米や中国に大きく遅れた。コロナ禍を経てこのまま少しずつ貧しい国になるしかないのか、はたして脱却の出口はあるか、日本経済が回復するために必要なものは何か。中藤玲氏は1987年生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業し、アメリカのポートランド州立大学に留学した。2010年に愛媛新聞社に入社し、編集局社会部に勤務した。2013年に日本経済新聞社に入社し、編集局企業報道部などで、これまで食品、電機、自動車、通信業界やM&A、働き方などを担当してきた。日本の賃金水準がいつの間にか経済協力開発機構の中でも相当下位になっている。2021年1月末、春季労使交渉のキックオフとなる労使トップの会談で、経団連の中西宏明会長はそう語った。日本の平均賃金はG7で最下位だ。日本が成長を見失った30年の間、ずっと国内の賃金や価格は足踏みしてきた。その結果、日本は人材面での競争力を失った。バブル期を知らない世代にとって、世界で凋落した日本こそが当たり前にもなりつつある。本書の取材を通じて「安いニッポン」を考えることは、「ニッポンの豊かさ」とは何かを考えることでもあったという。国土交通省の2021年1月末調査では、東京都の2人以上の勤労世帯の中間層(上位40~60%)の娯楽などに使える残った金額は、47位で全都道府県で最下位だったという。東京都の中間層世帯は、全国で最も経済的に豊かではないと言える。安いニッポンの首都で暮らしていても、多くの人が豊かではないのである。日本は世界で見ると安いが、日本人にとってはそこまで安くないという現実が、すぐそこまで迫ってきているのかもしれない。日本経済新聞で2021年6月22日から、「安いニッポン ガラパゴスの転機」というシリーズ記事が始まった。このシリーズは2020年もやっていて、これが新書としてまとめられたのが本書である。軽井沢の別荘が、香港やシンガポールと比べると破格に安いことから、中国人富裕層などに飛ぶように売れているという。「安いニッポン」を改善しないと、今の子どもたちが大人になる時代には「貧しいニッポン」になってしまう。日本経済低迷の主たる要因は、先進国の中でもダントツの安い賃金である。継続的な賃上げが行われず、今や韓国にまで追い抜かれしまった「安い賃金」は、構造的な問題である。「安いニッポン」を放置しておくと、日本人はどんどん貧しくなってしまうというが、現実問題としてとっくの昔にわれわれは貧しくなっている。経済協力開発機構のデータによれば、日本の相対的貧困率はG7の中でワースト2位となっている。シングルマザーの相対的貧困率でいえば、突出して高くワースト1位である。この貧しいシングルマザーは「安いニッポン」の象徴的存在と言ってもいい。日本のシングルマザーの就労率は87.7%と、実はOECD諸国の中でも高い部類である。他の国のシングルマザーよりもかなりしっかりと働いているにもかかわらず貧しいのは、賃金がダントツに低いからである。日本のシングルマザーの多くは、パートや派遣など非正規で雇われている。安い時給でも文句ひとつ言わずに真面目に働き、景気が悪くなればサクッとクビなる非正規のシングルマザーたちの犠牲の上に、「安いニッポン」は成り立っている。「安いニッポン」が進行することは、「貧しいシングルマザー」のようなワーキングプアが社会にあふれかえるということである。一方、海外に目を移せば賃金が上がって経済もどんどん成長し、内外格差が激しくなる。そうすると、賃金の低い自国に見切りをつけて、待遇のいい国へと渡っていく、出稼ぎ日本人が増える。「安いニッポン」に見切りをつける人々の行く先は、経済成長著しい中国が本命視されている。20年後には、日本人が中国に出稼ぎすると予見する人もある。2019年10月1日現在の推計で、中国での在留邦人総数は141万356人で、前年より1万9986人増えており、統計を開始して以来最多となっている。日本のアニメは世界的に評価も高いが、それを制作しているアニメーターの賃金は常軌を逸した低賃金である。日本アニメーター・演出協会の調査では、年収が400万円以下が54.7%にのぼり、中小零細の若手となれば月給9万円もザラだという。そんな低賃金・重労働に嫌気がさして、作品の質も上がるなど成長著しい中国のアニメ市場へ、人材が続々と流出していると思われる。このような出稼ぎ日本人が、中国や東南アジアなど海外に進出すればするほど、ある問題が深刻化していく。それは、日本人出稼ぎ労働者の「命」や「人権」の軽視である。貧しい国から出稼ぎに来ていることで足元を見られ、自国の人間が嫌がるような仕事を押し付けたり、長時間労働を強いたりすることもあるだろう。自国の人間だったら絶対にしないようなセクハラ、パワハラ、イジメのターゲットになってしまうかもしれない。賃金の高さにつられてやって来ている外国人がゆえ、危険な仕事や過酷な仕事を強いられたり、人種差別の被害にあったりする恐れがある。嫌なら辞めてくれて結構です、中国で働きたい日本のアニメーターはたくさんいますと言われかねない。いま日本に出稼ぎに訪れている技能実習生などの外国人労働者は、このような問題に直面している。10年後、20年後、「安いニッポン」に見切りをつけて、中国や東南アジアに出稼ぎにいくであろうわれわれの子どもや孫たちが、異国でどのように辛い目に遭うのかは容易に想像できよう。「安いニッポン」が進行していけば因果応報で、今度はわれわれ日本人労働者が命を軽んじられる側にまわるかもしれないのである。「安いニッポン」という構造的問題がつくられた根源は、1963年の中小企業基本法である。本来なら競争力の低下などで退場する運命にあった中小零細企業を、国の強力なパックアップで、無理に延命させるガラパゴスな政策を50年以上も続けてきた。中小零細企業を延命させるには、賃金はなるべく低く据え置かなければいけない。労働者はどんどん貧しくなるので、結婚もできなくなっていく。少子化が進行するので、戦後復興の原動力だった人口増にブレーキがかかる。それでも中小企業の延命のためには賃金をあげられないので、生活に希望が持てない。若年層は、年功序列のせいで、低賃金国家ニッポンの中でも輪をかけた低賃金を強いられている。失われた30年とまで言われるほど日本が立ち止まっていた間に、世界はどんどん成長し、日本のポジションも大きく変わってしまった。「安い日本」は個々の企業にとっては最適解でも、安さはまさしく日本の停滞と結びついている。賃金と物価がパラレルに上がっていく国の方が、成長や発展性があると思われる。そろそろ国民をあげて、賃上げに本気で取り組んでいくべき時期にきているのではないか。
第1章 ディズニーもダイソーも世界最安値水準ー物価の安い国/第2章 年収1400万円は「低所得」?-人材の安い国/第3章 「買われる」ニッポンー外資マネー流入の先に/第4章 安いニッポンの未来ーコロナ後の世界はどうなるか
2.8月20日
”ぼくは庭師になった”(2019年3月 クラーケン刊 村雨 辰剛著)は、テレビ小説”カムカムエヴリバディ”安子(岡山)編のロバート・ローズウッド役で注目された村雨辰剛さんによる秘蔵写真や撮り下ろしフォトも収録した自伝的エッセイである。
1988年スウェーデンのスコーネ県オルケルユンガ生まれ、中学時代の世界史の授業をきっかけに日本独自の美意識に感銘を受けたという。高校時代にホームステイを経験した後、19歳で日本に移住し、23歳で造園業に飛び込み、見習い庭師へ転身した。そして、26歳で日本国籍を取得し、”村雨辰剛”に改名した。帰化前の氏名は、ヤコブ・セバスティアン・ビヨーク(Jakob Sebastian Bj?rk)である。”カムカムエヴリバディ”は、NHKが2021年11月1日から2022年4月8日まで放送した、連続テレビ小説第105作である。原作脚本は藤本有紀さん、主題歌はアルデバランが唄った。演じたロバート・ローズウッド役は、連合国占領軍所属のアメリカ陸軍中尉であった。シアトル出身で、高校在学時に思いを寄せていた女性、後の妻が大学合格を交際の条件としたため、専らその目的のために進学した。大学で日本語を学び、ある程度日本語会話が出来た。来日時点で妻は既に故人で、戦後、中尉は岡山に駐屯した。やがて安子に想いを寄せるようになり、自身の想いを伝え、ともにアメリカへ来て欲しいと告げた。一度は安子に断られたが、その後岡山へと向かい、傷心の安子を伴って帰国後に安子と再婚した。帰国後は、シアトルの大学で教鞭を取っていたという。村雨辰剛さんは、幼い頃に実の両親が別れることになり、実の母親とスウェーデン空軍パイロットの継父によってスコーネの郊外で育てられた。継父の影響でスウェーデン陸軍のレンジャー部隊へ入ることを考える一方、中学校の世界史の授業で日本への興味を抱いた。Yahoo!チャットで日本人を見つけて、チャットで日本語を勉強していたという。幼い頃から疑問符が多いものに魅力を感じる性格だったと回想しており、日本の歴史では戦国時代や武士道に関心を抱いた。日本語の学習には英日辞典を使い、現在はスウェーデン語、英語、日本語のトライリンガルである。チャットで知り合った日本人から招かれて、16歳の夏休みの時に初めて日本を訪問し、神奈川県の逗子市と横須賀市で3か月間のホームステイを経験した。ホームステイ先は何代も続く旧家で、伝統的な生活を体験し、日本滞在中は鎌倉などの神社仏閣を訪れたという。レンジャー部隊の入隊試験に合格したものの入隊を辞退し、高等学校卒業後に日本へ移住した。日本移住後、愛知県名古屋市でスウェーデン語や英語の語学講師として生計を立てた。2011年3月11日に東日本大震災が発生し、スウェーデンの家族から心配され、ちょうど語学講師の契約が切れるタイミングであったため、スウェーデンに一旦帰国した。再来日後の2011年8月1日に、日本の伝統文化に携わりたいという思いから、求人情報誌で見つけた造園業の世界へ飛び込んだ。名古屋市の山本庭苑という造園業者でアルバイトとして勤務したが、山本庭苑では既に兄弟子が存在し、これ以上の弟子を採る余裕が無かった。数十社から断られた後、愛知県西尾市の加藤造園という造園業者に採用され、2012年6月1日から、庭師の徒弟となり、5年間勤務した。人工的な西洋庭園に対して、経年変化を良いものと捉え、日本庭園は自然と対話して人間が自然と触れた時の感覚を再現しようとしているという。加藤造園では庭園の手入れや管理の技術を学んだが、一から庭園を造る設計の仕事があまり無かったため、5年間の修業を終えた後、親方に相談して東京の業者へ転職した。学校へ通って決められたカリキュラムをこなすだけでは学べないことがあることから、元々徒弟制度への憧れを抱いていたという。徒弟制度のもっとも優れている点は、一流の技術を待った親方と同じ現場で働きながら、ゼロから技術を身につけられるところだろう。給与は最低限だが、その分、残業などがない定時勤務なので、時間という意味ではブラック企業などと比べると遥かにゆとりがある。日本では慣習となっている長時間労働に嫌気がさしている人には、労働時間という視点からも伝統文化に携わる仕事は魅力的かもしれない。給与面以外のデメリットは、親方から手取り足取り教えてもらえるわけではないことであろう。自分で技術を盗んでいくような積極性がないと、修行の最初の単純作業で嫌になりかねない。逆に言うと、積極的に学びたい分野であれば、一流の技術を目の前で見ることができて、わからないことは質問攻めにできる理想的な環境を手に入れることができる。日本の伝統分野は、海外視点で見ると十分なビジネスチャンスがあるのに、後継者が不足している。いま日本政府はインバウンド消費に力を入れているが、そこで日本独自の文化に魅了された人たちが、自国でもそれに触れていたいと思う機会は増えていくはずである。伝統文化をこのまま放置して廃れさせてはいけないと思うし、どの国とも似ていない好きな日本を、微力ながら守っていきたいとのことである。2015年に無事帰化が認められて、晴れて村雨辰剛になったものの、自分自身がこの名前に慣れるまでには時間がかかったそうである。加藤造園の親方に帰化の1年前くらいから名前の相談をさせてもらっていたが、責任が重すぎるとあっさり名付けを断られてしまった。その話を聞いた親方のお父さんが、村雨という名字を提案してくれた。親方のお父さんが好きな作家の名前、歴史小説で知られる故・村雨退二郎に由来する。辰剛は自分で考案し、辰年生まれだからまず先に辰を使うことを決め、二文字にした時に合う字を考えた。現代でも一般的かつ、戦国武将のようにも見える名前にしたかった。すると、親方の名前でもある剛の字が、辰の字との組み合わせにぴたりとハマったという。調べると剛の字は「まさ」とも読むことがわかり、村雨辰剛(むらさめたつまさ)という名前が完成した。以前はセバスチャン、セバと呼んでいたまわりが「たっちゃん」とか「さめちゃん」とか呼んでくれるようになると、次第に馴染んできて自信を持って名乗れるようになった。村雨辰剛は力強い名前だから、その名前に恥じないような人生を送っていきたいという。日本へ帰化する際には、スウェーデン人の親から、戦争になったら日本のために戦って死ねるのかと問われ、自分の覚悟を伝え許してもらったという。2016年1月2日から株式会社YMNにタレントとして所属し、庭師の仕事と併行して、多数のテレビ番組やラジオ番組、CMなどに出演している。
第1章 スウェーデンから日本へ/第2章 日本での生活/第3章 修行時代のこと/第4章 庭師・村雨辰剛として
3.令和4年9月3日用
”NETFLIX 戦略と流儀”(2021年10月 中央公論新社刊 長谷川 朋子著)は、世界190以上の国と地域で総有料会員数2億人強のトップシェアを誇るネットフリックスについてその独自の戦略と流儀を解説している。
Netflix=ネットフリックスは、カリフォルニア州ロスガトスに本社を置く、アメリカのオーバー・ザ・トップ・コンテンツ・プラットフォームである。1997年にリード・ヘイスティングスとマーク・ランドルフによって、カリフォルニア州スコッツバレーで設立された。初期はオンラインのDVDレンタルサービスを提供する会社として米国内で発展し、その後2007年ころから動画配信を行う会社として発展し世界規模の企業となった。アメリカ、オランダ、ブラジル、インド、日本、韓国、イギリス、シンガポール、フランス、スペイン、メキシコ、オーストラリア、ドイツ、イタリア、カナダに支社がある。世界各国のコンテンツを制作・配信しており、2022年4月現在の加入者数は2億2200万人である。ストリーミング配信では既存のコンテンツに加え、独占配信や自社によるオリジナル作品も扱っている。オンラインDVDレンタルに関しては、国内で10万種類、延べ4200万枚のDVDを保有し、レンタル向けに1600万人の顧客を得ている。ネットファースト展開というビジネスモデルでエンターテインメント業界へ風穴を開け、既存の慣習を壊しながら驚異的な成長を遂げている。長谷川朋子氏は1975年生まれのテレビ業界ジャーナリスト、コラムニストで、現在、放送ジャーナル社取締役である。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー番組制作事情をテーマに、国内外の映像コンテンツビジネスの仕組みなどの分野で記事を執筆している。海外流通ビジネスを得意分野とし、フランス・カンヌで開催の映像コンテンツ見本市MIPの現地取材を、約10年にわたって行ってきた。ATP賞テレビグランプリの総務大臣賞の審査員や、セミナー講師、行政支援番組プロジェクトのファシリテーターなども務めている。世界の国と地域でトップシェアを誇るネットフリックスの存在は、唯一無二のものである。コンテンツ市場で流通革命を起こし、ハリウッドの勝ち組と当たり前のように肩を並べ、急成長ぶりをまざまざと見せ続けている。配信ビジネスとテクノロジーの掛け合わせによって、ビンジウォッチング=一気見という新しい視聴スタイルも生み出した。ネットフリックスのビジネス戦略は、遠い国の大企業のサクセスーストーリーに終わらない。かれらが日々提供している生き生きとしたコンテンツは、我々の心にも生活の中にも入り込んでいる。世界中の企業がコロナ禍に見舞われている時でさえ、ネットフリックスは驚異的な成長を見せつけている。2020年3月期には1600万人近い新規有料加入者を獲得し、過去最大の加入者数増を記録した。同年3月末の段階で既にネットフリックスの有料会員総数は1億8286人に上った。動画配信サービス全体で10億人規模の市場になったが、その牽引力を担っているのは間違いなくネットフリックスである。一話数億円規模のドラマをネットファーストで展開するような、バカげたビジネスモデルはあり得ないと、当初、否定的な意見ばかりがささやかれていた。だが、2013年公開のオリジナルドラマ”ハウス・オブ・カード 野望の階段”の成功が、その状況を一気に変えた。アメリカではケーブルテレビからネットフリックスに乗り換える、コード・カッティング現象まで起こってしまった。すると、世界中のクリエイターやプロデューサーたちが、ネットフリックスが求める企画を探り、情報収集に乗り出していった。その頃はテレビ業界内で、テレビと動画配信の対立が懸念され、テレビは終わりゆく旧コンテンツだという認識が世界中で指摘され始めた。ネットフリックスのやり方こそが、コンテンツビジネスの新たな可能性を見出すものとして急速に支持されていった。しかし、反対する声も保守派の間では根強く、2017年のカンヌ映画祭ではネットフリックス作品を受賞の除外対象に挙げる騒ぎにまで広がった。異端児扱いされながらも、ネットファースト展開にこだわったことが1つ目の特色である。2019年の第91回米アカデミー賞では、ネットフリックスが独自配信を手掛けた映画”ROMA/ローマ”が、監督賞・外国語映画賞・撮影賞の主要3部門でオスカーまで勝ち取った。この快挙はオリジナル作品に力を入れていたネットフリックスのビジネス戦略の勝利と言える。コンテンツカがあれば、一般ユーザーから批評家からも支持されるようになる。だからこそ単に作品を並べるだけでなく、有望なクリエイターを積極的に登用し、独自コンテンツを売りにしてきた。社会現象を起こすコンテンツも数々生み出され、2019年1月1日に全世界配信された、こんまりこと近藤麻理恵氏のリアリティショーはそのひとつである。このユーザー第一主義が2つ目の特色である。時代の先を読む力も強みであり、ハリウッドだけが世界を制する時代は終わると予見している。ネットフリックスは世界各地に散らばる作り手たちをすくい上げ、多言語、多文化に触れることができるコンテンツ群を増やしていった。各国でオリジナル制作の作品を次々と手掛け、日本の1980年代のアダルトビデオ業界を舞台にした”全裸監督”は、日本発世界ヒットの代表例になった。この日本上陸4年目のヒットによって、日本でも会員数が急増し、趣味がネットフリックスと表現されることも一般化してきている゜そして、世界ヒットを狙える日本のアニメを生み出す好循環にもつなげている。このローカル発グローバル戦略が3つ目の特色である。コロナ禍の世の中はかつてないほどの経済不況に陥り、新しい生活様式が探求され、社会で当たり前とされていたことも見直されている。巣ごもり消費の広がりをきっかけに、エンタメ業界だけでなくあらゆる業界の潮目も変わることになるだろう。そんな時代には、既存のヒットの法則を打ち破り、独自の流儀を持ってのし上がってきた、ネットフリックスの戦略が生き残り策のヒントになるだろう。本書は、ネットフリックスが与えた影響力について国内外の視点からみるビジネス論である。加えて、作り手たちの野望に触れるヒューマンドキュメントでもある。筆者は、先の見えない状況のなかで、本書が少しでもビジネスの糸口を見出すことのできる一助になればという。
第1章 なぜ、ムーブメントを作り出すことができたのか/第2章 なぜ『全裸監督』の大ヒットが生まれたのか/第3章 動画配信の覇者ネットフリックス躍進のカギ/第4章 米・日プレイヤーの素顔に迫る/第5章 映像コンテンツ革命児のネクストプラン
4.9月17日
”和辻哲郎 建築と風土”(2022年3月 筑摩書房刊 三嶋 輝夫著)は、”古寺巡礼””風土”などの著作で知られ倫理学の体系を打ち立てた和辻哲郎についていまだかつて顧みられることがなかった建築論の広がりと深さを示す試みである。
和辻哲郎は大正末年に、非合理主義に向かう哲学の世界的傾向をいち早く洞察して、ニーチェ、キルケゴールの実存主義をとり上げ、日本に生の哲学受容の基礎を作った。西洋哲学をベースに、日本の伝統文化、日本的共同体を理論的に再評価し、解釈学の立場から倫理学を形成した。同時に奈良飛鳥の仏教美術に新しい光をあてることによって、伝統思想の新側面を見いだした。さらに、ハイデッガーの”存在と時間”に触発されて、多彩な思想的活動を展開した。倫理学を人と人との間の学と捉える人間の学としての倫理学を発表し、いわゆる和辻倫理学を樹立した。特に、人間を間柄的存在とし、人間には個人と社会の二つの側面があるとしたことは、西洋近代の個人主義的人間観からの脱却をはかるものとして注目を集めた。また、仏教や日本思想史、文学や美術、建築などの研究においても多くの業績を残した。特に飛鳥・天平の仏教美術や寺院建築様式については、?に両時代に用いられた表現形式の差を比較して理解するのではなく、表現様式の奥底に込められた各時代の精神を理解することが大切だと説いた。三嶋輝夫氏は1949年東京都生まれ、国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業し、東京大学大学院人文科学科研究科倫理学博士課程を単位取得退学した。さらに早稲田大学芸術学校建築設計科を卒業し、東京大学文学部倫理学研究室助手、青山学院大学専任講師・助教授を経て、青山学院大学文学部教授を長く務めた。専門は倫理学とギリシア哲学で、スイスバーゼル大学 哲学部Ⅰ類古典文献学及び哲学専攻課程に留学した。和辻哲郎は1889年兵庫県神崎郡砥堀村の、現、姫路市仁豊野に、医者の次男として生まれた。少年時代から文学や思想に関心をもち、旧制姫路中学校を卒業し、第一高等学校に首席で合格し、1909年に第一高等学校を卒業した。同年に、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太、谷崎潤一郎、芦田均らとともに、同人誌、第二次新思潮に参加した。岡倉天心やケーベルらに師事し、1912年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、同大学院に進学した。静かな環境のもとで卒論に取り組むため、藤沢市鵠沼にあった後輩高瀬弥一邸の離れを借りて執筆した。卒論完成と同時に、高瀬弥一の妹の照に求婚し結婚した。阿部次郎との親密な交流が始まり、また安倍能成とも終生交流した。1913年に紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになり、同年に”ニイチェ研究”を出版した。夏目漱石の木曜会に参加して夏目漱石の門人となり、大きな影響を受けた。1915年に藤沢町鵠沼の妻・照の実家の離れに1918年まで住み、この間、別の離れに、安倍能成、阿部次郎も住んでいて相互に交流した。ここで、小宮豊隆・森田草平・谷崎潤一郎・芥川龍之介らの来訪を受けた。1916年に漱石と岳父の高瀬三郎が死去し、この時期、日本文化史に深い関心を寄せ始めた。1917年に奈良を旅行して古寺を巡り、1918年に東京市芝区に転居した。1919年に”古寺巡礼”を出版し、1920年に東洋大学講師となった。その後、東洋大学教授、法政大学教授、京都帝国大学講師・助教授として倫理学を講じた。1932年に原始仏教の実践哲学の研究で、京都大学より文学博士号を取得した。実存主義の研究とともに、日本文化や日本人の精神的柱さらには日本の風土と文化的特色を世界的視点からとらえるなど、広範な倫理学の構築をめざした。京都大講師就任は西田幾多郎や波多野精一に招かれてのことで、京都大講師就任では西田から大きな影響を受けた。38歳の時、文学省の研究員としてヨーロッパに留学し、ベルリンを拠点として研究した。イギリス、フランス、イタリアなども訪れたが、そこでの見聞が後の風土論につながったと言われている。日本に帰国後、東京帝国大学教授となり文学博士の学位を受けた。また、雑誌・思想の編集に参画、日本倫理学会会長を務め、文化勲章を受けるなど、各分野で幅広い学問研究に取り組んだ。45歳のとき、人間の学としての倫理学を発表した。これは、西洋思想を批判的に受容した独創的な倫理学を講じたもので、西田幾多郎の影響によるところが大きかった。その後、東京大学教授として倫理学の講義を担当するかたわら、自己の倫理学体系の完成につとめた。和辻哲郎についてはすでに幾多の書物と論文が書かれているが、そのほとんどは倫理学に関するものである。建築論については、桂離宮論を取り上げたものは若干あるものの、建築論全体を主題的に取り上げた論考は皆無に近い。ところが、独立した建築論である”桂離宮”のみならず、”古寺巡礼”や”イタリア古寺巡礼”においても、意外なほど多くの建築についての精緻な観察と分析に出会う。考えてみれば、和辻がその哲学的出世作にして代表作とも言うべき”風土”において、すでに時間性に対して空間性を対峙させ、具体的人間存在にとっての後者の枢要性を力説した。それとともに、「ウチ」と「ソト」という概念を手がかりとして、間柄と建築の相関を鮮やかに析出して見せた。実際、倫理学者の無関心ぶりと対照的に、我が国を代表する建築家、建築史家は、和辻の風土論と建築論に一方ならぬ関心を示してきた。本書は、従来、哲学プロパーの研究者たちによって顧みられることのあまりなかった、和辻の建築論に焦点を合わせている。その目的は、それが内包する人間学的・建築学的な射程を、その広がりと深さにおいて示すことにある。我々は先ず、若き和辻とともに大和路に足を運び、新薬師寺を皮切りに、唐招提寺、法隆寺などの名刹を訪ね、和辻の案内のもと、その建築の醍醐味を味わう。次いで留学先のドイツからフランスを経てイタリアを旅した和辻一行に従って、ジェノア、ローマ、ペストウーム、シシリーの古代遺跡を巡る。アルプスの南を旅した後に、我々は和辻の本来の滞在地であるドイツに戻って、アルプスの北の建築と風土、さらには人と人の間柄の独自性に目を向けることにする。我々の旅は大和路に始まったが、ヨーロッパの旅を経て最後に訪れるのは、再び日本の桂離宮である。我々は和辻が著した”桂離宮-印象記””桂離宮-製作過程の考察”桂離宮-様式の背後を探る”の三冊をガイドに、日本を代表する名建築の生成と美の秘密に迫ることとしよう。
第1章 間柄と建築ー『風土』における「ウチ」の分析/第2章 天平の甍ー『古寺巡礼』と唐招提寺論/第3章 建築と風土ー『イタリア古寺巡礼』と素材への注目/第4章 アルプスの北ー『故国の妻へ』とドイツの建築/第5章 面と線の美学ー『桂離宮』をめぐって
5.令和4年10月1日
”レバノンからきた能楽師の妻”(2019年12月 岩波書店刊 梅若マドレーヌ著/竹内要江訳)は、伝統演劇の能を承継する家庭の中で日本とレバノンのふたつの文化が混じり合う様子を描いている。
レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。レバノン山脈では、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれ、アラブのイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人は自分たちの宗教とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派がレバノン山にも定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながった。1970年代にレバノン内戦がはじまり、その後レバノン国内の政情不安が続き、家族は世界中に散り散りになったという。梅若マドレーヌ氏は1958年レバノン・ベイルート生まれ、父親はベイルート生まれ、母親はレバノン南部生まれであった。二人は父方の祖父の家で出会い、互いの家の社会的経済的な違いから、自分達の結婚は認められないと思い駆け落ちした。当時、祖父の営んでいた貿易業は不振に陥り、父親の経済状況は厳しかったという。最終的に二人は結ばれ、父親はイエスズ会が創立したサン・ジョゼフ大学理工学部の主任司書として働いた。収入はつつましかったが、4人の子供が私立学校で学べるようにやりくりした。1974年にマドレーヌの高校生活がベイルート郊外でスタートしたが、レバノン内戦が始まって突然閉鎖された。その後、ベイルートが荒廃したため、両親は郊外にある寄宿学校ル・コレージュ・マリスト・シャンヴィル校に入れた。しかし、戦火はいっこうにおとろえず、レバノンを脱出せざるをえなくなった。1943年生まれの姉、石黒マリーローズが1972年に来日し、日本人実業家の石黒道兼と結婚して、兵庫県芦屋市に新居を構えていたため、マドレーヌは18歳のとき芦屋にやって来た。道兼は東京銀行のレバノン・ベイルート出張所に勤務していたため、マリーローズと出会ったのである。日本に定住するレバノン人はほとんどいないが、姉を頼ってやってきたのだという。マリーローズはベイルート生まれ、聖ヨセフ大学を卒業し、パリ・カトリック大学で学び、外交官の語学教師やクウェート王室付きの教師などを歴任した。1983年にレバノン文化教育センターを設立して館長となり、日本で唯一のカトリック教区立大学だった英知大学助教授、教授を務めた。1989年に神戸市の国際文化交流賞を受賞し、言語学と異文化理解などについて教えた。海外にたびたび渡航し、アメリカでは多くの青少年の刑務所や鑑別所を慰問した。現在は、評論家・エッセイストとしても活躍中で、ソフトバンクグループが運営する株式会社立の通信制大学、サイバー大学客員教授を務めている。竹内要江氏は翻訳家で、南山大学外国語学部英米学科を卒業し、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化修士課程を修了している。マドレーヌは芦屋に暮らすようになってすぐ、神戸の六甲にあるインターナショナルスクール、カナディアンアカデミーに通い始めた。夫となった梅若猶彦は、この学校で出会ったクラスメイトであった。猶彦の母親は先進的な女性で、能の伝統を海外に紹介するため、まず英語を身に着ける必要があると考えたという。しかし、マドレーヌは大学入学資格試験に備えるため、レバノンに帰国しなければならなかった。帰国すると、イエスズ会系のコレージュ・デ・フレール・モン・ラ・サール校の夏季集中コースに入った。1977年に兄のジョルジュの結婚式に出席した父親と姉のマリーローズが、マドレーヌにふさわしい大学を探すために奔走した。レバノンが内戦中という事情を考慮した英国レディング大学で、入学を許可された。大学ではコンピュータ・サイエンスを学び、優等の成績で理学士の学位を取得した。そして大学院進学のため、アメリカのカリフォルニア州に移り、南カルフォルニア大学に入学した。しかし、ロサンゼルスが好きになれなかったため、ここは数か月で学業を中断してレバノンに戻った。戻ってコンピュータ関連の仕事が見つかったが、働き始めた日に新たな戦闘が始まり、会社は閉鎖されてしまった。当時はシリア軍がPLOと親パレスチナのイスラム教系民兵組織に加担し、イスラエルと一触即発の危険な状態で、南部の国境付近でイスラエル軍との衝突が頻繁に起こっていた。レバノン内戦の終結に伴い、イスラエルは一部を占領していた南レバノンから2000年に撤退した。シリア軍はレバノン国内に29年間も駐留していたが、国連安全保障理事会が2005年に撤退を命じた。日本とは深いつながりがあり、日本に行けば姉のそばで暮らせるとことから、今度は日本に舞い戻った。猶彦は3歳で初舞台を踏んで以来、能楽師シテ方として活動を続けている。能楽師には、シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方という職掌があり、各方はそれぞれに流儀がある。また、特にワキ方・狂言方・囃子方を総称して三役ともいう。1977年にカナディアンアカデミーを卒業して東京に拠点を移し、伯父の梅若万三郎(二世)のもとで能楽師としての修業を続けた。猶彦とは日本を離れていた1977年から1981年のあいだ文通を続け、再会を楽しみにしていた。猶彦は上智大学比較文化学科を卒業し、1995年にロンドン大学ローヤルホロウェイ校博士号を取得した。2000年から静岡文化芸術大学文化政策学部芸術文化学科助教授、教授を務めている。数多くの創作能、創作劇・舞踊において演出・振り付等を担当し脚本も手掛け、新たな身体表現の創作を進めている。活動の範囲は、国内にとどまらすアメリカ・フランス・ブラジルでの能楽公演団の団長を務めるなど、多くの海外公演に参加し、日本の古典である能の普及に尽力している。マドレーヌはコンピュータ・サイエンスの分野で修士号を取得するため、大阪大学大学院工学研究科に入った。猶彦に電話するとすぐに会おうと言われ、それからほどなくまた会うようになった。ある日マドレーヌが阪神聞で自動車を運転していると、猶彦からプロポーズがあった。それまで結婚を意識したことなどなく、修士課程の2年目を終えなければならなかった。何よりもまだ、猶彦と家族のことをしっかり理解できているわけではなかったが、大学が猶彦の母親の住まいから近かったのでよく母親の家に遊びに行っていた。どこが気に入られたのかわからないが、母親が猶彦にマドレーヌと結婚するようけしかけていたようだという。その後、異母兄の梅若盛義、正義や、伯父の梅若万三郎、息子の万紀夫、万佐晴にも会い、由緒ある家系に生まれた能楽師は一族の伝統に誇りを持っていると感じた。猶彦にプロポーズされたとき、こんなにかけ離れた文化に溶け込むのは無理だと思ったが、能の世界のことはそんなに心配しなくていいと言われたという。人は恋に落ちると、行く手にどれだけ多くの困難や障害が待構えていても、何とかなると思うもので、猶彦の魅力と、たがいに魅かれ合う気持ちに勝てなかったという。二人は1982年に結婚し、2か月後に妊娠した。当時、大阪大学を中退し、東京大学大学院情報科学研究科で研究生として研究を続けていた。娘が生まれ、3年後に息子が生まれ、家族は喜びに包まれた。著者は日本という安住の地を見つけられ、日本文化にも貢献できることになり幸運であったという。本書でお伝えするのは、自分というひとりの人間のこれまでの歩みである。それは、異国で暮らす外国人として、創造性と忍耐力をもって自分の道を切り拓くことがいかに大切かを学んだ道のりであった。さらに、夫が属する、日本文化に重要な位置を占める古典芸能、能の閉鎖的な世界に自分の居場所を見つけるまでを綴った。能楽師であり学者でもある夫の梅宮猶彦は、著書で能を役者の立場から分析し、一族が継承してきた伝統を紹介した。本書は、能の美学との個人的な出会いを軸に、人生の素晴らしさや大変さを描きたいという。また、日本や世界各地で新作も含んだ能の舞台公演のプロデュースにかかわり、能の普及につとめている。
プロローグーこの世界の片隅で/第1章 レバノンとの別れ/第2章 能との出会い/第3章 梅若家の子育て/第4章 能と世界をつなぐ/エピローグーレバノンと日本で母と共に暮らす
6.10月15日
”鷹見泉石 開国を見通した蘭学家老”(2019年2月 中央公論新社刊 片桐 一男著)は、藩主土井利位が大坂城代在任中に起きた大塩平八郎の乱で大塩父子召し捕りを指揮した下総古河藩家老の鷹見泉石の生涯を紹介している。
鷹見泉石=たかみせんせきは1785年に、古河藩の御使番役・鷹見忠徳の嫡男として古河城下に誕生した。諱を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門と言い、字を伯直、号は泉石の他に楓所、泰西堂、可琴軒と言った。また、ヤン・ヘンドリック・ダップルという蘭名も署名に用いている。1797年に調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、藩主土井利位=どいとしつらに重用され、1831年に280石の家老、役高500石へ昇進し、主に江戸にあった。譜代大名の土井家は代々幕府の要職を歴任し、土井利厚・利位父子もまた寺社奉行や大坂城代、京都所司代、老中などの要職を務めていた。泉石は藩主の利厚・利位に近侍して全国各地へ同行し、これら職務の補佐に務めた。いち早く危機意識を持って海外情報の収集に努め、その知見は学者や幕府要人などに広く影響を与えた。土井の鷹見か鷹見の土井か、と言われるほど、その能力は賞賛を受けた。片桐一男氏は1934年新潟県生まれ、新潟県立与板高等学校を卒業し、1967年に法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻博士課程を単位取得退学した。法政大学同助手、1968年文部省職員を経て、1977年に青山学院大学文学部助教授、1981年に教授となり、2003年に退任し名誉教授となった。1983年の阿蘭陀通詞の研究で青学文学博士となり、1986年角川源義賞を受賞した。専門は、蘭学史、洋学史、日蘭文化交渉史である。公益財団法人東洋文庫研究員、洋学史研究会会長を務めた。古河藩は、下総国葛飾郡、現、茨城県古河市に存在した藩で、藩庁は古河城であった。安土桃山時代から江戸時代初期に、土井家は下総国佐倉より16万2000石で入封し、利勝は徳川家康の落胤とする説がある人物である。家康の時代から徳川家に仕え、徳川秀忠・家光の時代に大老・老中として幕政を統括した。古河では家康を縮小したような人物であるとして、小家康と称された。利勝は家臣団編成と組織の構成に尽力し、天守閣の造営などを行なって藩政の基礎を固めた。利勝の嫡男で第2代藩主の利隆は暗愚だったと伝わり、若年寄罷免に始まり、およそ藩主にふさわしくない不行跡が多かったという。孫の土井利益のとき、本来ならば無嗣断絶のところであったが、利勝の功績などから許されて存続し、志摩国鳥羽へ移封された。その後、江戸時代中期には、5000石の大身旗本土井利清の次男の利見が、本家の唐津藩主家を相続していた兄の利延が死去し、その養子となって家督を相続した。幕府では奏者番となった後、国替されて家祖利勝時代の領地古河へ復帰した。さらに寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去した。利里は子に恵まれず、西尾藩主松平乗祐の十男の才百を迎え、利見と名乗らせ家督を相続させたが、利見は1か月足らず後に死去した。利厚は摂津尼崎藩主・松平忠名の四男で、利見の養嗣子となり、はじめ利和と名乗った。その後、45年の長きにわたり古河藩主となった。この間、寺社奉行、京都所司代、老中などの重職を歴任し、1万石の加増も得た。1804年のロシア使節レザーノフ来航時、利厚が幕府の対ロシア問題の担当となったため、泉石も対外交渉のための調査に従事した。これをきっかけに、泉谷は蘭学の学習と海外情報の収集を行うようになり、その後、泉石の収集した情報と知見は幕政にも生かされた。1853年に書かれた、ペリー来航を受けての提言書”愚意摘要”は、退隠後の古河で書かれたものだが、開国と和親通商を主張するものであった。利厚には跡継ぎがいなかったため、1822年に分家の三河刈谷藩主土井利徳の四男・利位を養嗣子に迎えた。利位は古河藩主となり、1825年に寺社奉行に就任し1829年に退任したが、1830年から1834年に再任した。1834年から1838年にかけて、大坂城代・京都所司代・江戸城西之丸老中を歴任し、大坂城代在任中に大塩平八郎の乱を鎮圧した。1839年に老中に就任し、1844年に老中を辞任した。鷹見泉石が古河で育ったのは1975年の11歳までで、12歳のときに江戸藩邸に移り、古河藩第十代藩主である土井利厚・利和に近侍した。また、学問もできるうえ書や歌の才もあり、藩校である盈科堂において講書・武芸をすすめ、土井家中興の名君といわれている。13歳で調役給仕、15歳で大小姓、17歳で御部屋附、大小姓近習番、19歳で給人打込席、部屋住料十人扶持、20歳で小納戸格取次となった。24歳で目付、29歳で者頭から用人にすすんだ。30歳で家老相談役に加わり、32歳の年に公用人兼帯となった。この頃から、藩政に加えて幕政にもかかわりを深めていった。1821年に父が病没し250石の家督を継ぎ、1822年に古河藩が1万石の加増で8万石の藩となると、泉石も30石の加増を受けて、計280石取りとなった。その年に藩主利厚が病死し、泉石は新葬御用掛を務め、次いで新藩主利位家督御用役も務めたあと、御内用勤となった。1831年に、47歳で500石を給せられて家老となった。1834年に利位が大坂城代となり、泉石も藩主に従って大坂に赴いた。1837に大塩事件が起きると、家老であった泉石は陣頭に立って働き鎮定し、帰府すると藩主に代わって浅草の誓願寺に参詣し、事件の鎮定を報告した。その帰路、泉石は渡辺崋山の許に立ち寄っており、崋山が正装の泉石を描いたのはこのときである。肖像はやがて完成、のち、肖像画の白眉として国宝に指定され、万人の眼を集め続けている。藩主利位は、事件鎮定の同年、その功により京都所司代に、翌年には西の丸老中に進んだ。泉石も京都に赴き、次いで帰府、さらに翌年、本丸老中付きで内用役を仰せ付かり、ますます繁忙をきわめていった。ときの首席老中であった水野越前守忠邦は天保改革を推し進め、利位は海防掛を専管する老中となった。泉石の蓄積された蘭学知識がますます生かされることとなり、海岸御人数調御用掛を務めた。水野忠邦が老中職を失脚すると、利位が首席老中に就任し、1845年に泉石は50石加増され330石となった。184年に江戸城本丸が焼失し、利位は老中として普請役の任を担うが、上納金など難問題が続出した。藩内と身内にも事情が生じ、利位は老中を辞任した。1846年には泉石も家老職を免ぜられ、古河に退隠し62歳で隠居した。そして、1858年に、古河長谷町の隠居屋敷、現、古河歴史博物館の鷹見泉石記念館にて、74歳で死没した。12歳から60年間にもわたり、自らの公務を中心に”鷹見泉石日記”が書き留められた。ほかに、書状・地図・書籍・絵画・器物など、古河歴史博物館が所蔵する鷹見泉石関係資料3153点が、2004年に国の重要文化財に指定された。
はじめにー国宝となった鷹見泉石像/第1章 レザーノフ来航/第2章 江戸藩邸で情報収集/第3章 海外に目を向け、蘭学と欧風趣味にのめり込む/第4章 混迷する幕政・藩政に取り組んで/第5章 古河退隠で蘭学に没頭/第6章 世界のなかの日本を見据えて
7.10月29日
”三野村利左衛門と益田孝 三井財閥の礎を築いた人びと”(2011年11月 山川出版社刊 森田 貴子著)は、幕末から明治期の三井中興の時代に三野村利左衛門と益田孝はどのようにして三井発展の基礎を築いていったのかを述べている。
人の三井という言葉があるが、いつごろからいわれるようになったかは定かではない。1925年の高橋義雄氏による”三井中興事情”には、三井発展の理由の一つとして、明治維新期に「主人と番頭とが其人を得て能く難局を切り抜け」、1891年ごろからは「思慮ある主人と手腕あ
る重役」がいたためと述べている。三井発展の背景には、その時々において三井には技量ある人がいたという認識が共通していることがわかる。人の三井とは、三井には個性的で有能な人物が集まったことと、その個性と技量を発揮できる場があったことを意味している。三野村利左衛門は、三井の経営方針の中心を官金取扱いと考え、そのためには、三井家と三井の事業の分離が必要であると考えていた。その最大の改革が大元方の組織改革であった。益田孝は、創業期の三井物産において、三池炭礦の払下げを受け、三井物産の事業を拡大し、三井合名会社を設立し、三井を財閥へと組織した。森田貴子氏は東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し、同大学院人文社会系研究科博士課程を修了した。博士(文学)で専門分野は日本近現代史、特に、土地制度、都市史である。2008年から2011年まで早稲田大学文学学術院講師、2007年に高千穂大学商学部准教授、2012年に早稲田大学文学学術院准教授となった。現在、早稲田大学文学学術院教授を務めている。三井家の歴史は太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという説がある。しかし、三井家の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という説もある。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来であり、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない、とも言われている。三井高俊は質屋を主業に、酒、味噌の類を商った。店は越後殿の酒屋と呼ばれ、これがのちの越後屋の起こりとなった。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て、1673年に越後屋三井呉服店=三越を創業した。同時に、京都の室町通蛸薬師に京呉服店=仕入れ部を創業した。その後、京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売した。代金は売り掛け=ツケ払いという、当時の商法をくつがえす、店前売りと現金安売掛け値なし=定価販売などで庶民の心をとらえ繁盛した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ、両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。三野村利左衛門は、1821年に庄内藩士の子として鶴岡で生まれた。1827年に父親が養家を出奔し浪人となり、父親とともに諸国を流浪した。やがて1839年に江戸へ出て、深川の干鰯問屋奉公を経て、旗本・小栗忠高の中間となった。1845年に、菜種油や砂糖を販売していた紀ノ国屋の美野川利八の養子となり、利八の名を継いだ。その後地道に資金を蓄え、1855年に両替株を買い両替商となった。1860年に旧知の小栗忠順からの小判吹替の情報を事前に得て、天保小判を買占め巨利を得た。1866年に三井家から勘定奉行小栗との伝を見込まれ、幕府から命ぜられた御用金50万両の減免交渉を任され、これを成功させた。その後、小栗の三井組大番頭斎藤専造に対する要請によって、三井に勤めることとなった。そして、小栗と三井の間のパイプ役として通勤支配=取締役に任命され、三野村利左衛門と改名した。1868年に小栗忠順が失脚し、幕府の命運を察して新政府への資金援助を開始するよう三井組に働きかけた。1872年に越後屋呉服店を三井の本流から切り離し、1873年に小野組と共に第一国立銀行を設立した。翌年の小野組の破綻に伴う三井組の危機に際して、三野村は三井組の内部改革のため、大隈重信大蔵卿を通じ明治維新政府との繋がりを強めた。そして、三井組内部での権力を確立し、1876年の三井銀行設立に繋げていった。さらに、三井組内の商事組織である三井組国産方と合併させた。また、井上馨と益田孝によって設立された商社先収会社の解散を機に、益田に三井物産会社を創設させた。1877年に胃癌のため57歳で死去し、三井銀行の経営は婿養子の三野村利助が引き継いだ。幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた。三井の転機は、1881年に明治14年の政変で下野した山陽鉄道社長の中上川彦次郎と益田孝を、三井元方重役に据えた事である。益田孝は1848年佐渡国雑太郡相川町に生まれ、父親は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任し、ともに江戸に出て、ヘボン塾、現・明治学院大学に学んだ。麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務し、ハリスから英語を学んだ。1863年にフランスに派遣された父親とともに、遣欧使節団に参加し、ヨーロッパを訪れた。帰国後、幕府陸軍に入隊し騎兵畑を歩み、1867年に旗本となり、1868年に騎兵頭並に昇進した。明治維新後、1869年から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務し、多くの商取引を見聞した。のち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けた。仕事仲間から紹介された大蔵大輔の井上馨の勧めで、1872年に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任した。旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたったが、翌年に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野し、益田も続いて職を辞した。1874年に、英語に堪能だったこともあって、井上が設立した先収会社の東京本店頭取に就任した。1876年に、日本経済新聞の前身、中外物価新報を創刊し、同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄に就任した。三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎は三井の工業化政策を多数押し進めた。次いで、不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せた。しかし、学閥を嫌う益田孝と中上川彦次郎の対立が鮮明となり、1909年に5参事の合議制による運営体制に移行した。また、傘下の中核企業を有限会社から株式会社へ移行した。1893年に三井鉱山が設立され、三井銀行、三井物産、三井鉱山の御三家体制となった。第一次世界大戦の好景気で三井財閥は産業が大きく伸張し、三井銀行を起点に信託・生命保険・損害保険等の金融部分の拡充・多様化が進行した。しかし、1927年の昭和恐慌期に端を発した財閥批判が、三井財閥に向けられた。財閥攻撃の嵐の中で、三井総両家当主・三井高棟と益田孝が協議し、三井合名理事・池田成彬を筆頭常務理事に指名し総帥に就任させた。池田は、11家からなる三井家を説得して財団法人三井報恩会を立ち上げ、大胆な財閥転向施策を実行した。その後、日中戦争の勃発を契機に戦時体制へ移行した事から、財閥批判と攻撃は次第に沈静化した。三井財閥は戦時経済体制の有力な担い手となり、政界にも多くの幹部を送り込んだ。三野村と益田が活躍した、幕末から明治期の日本は、国内においても対外的にも、政治・経済・社会、すべてにおいて激動の時代であった。本書は、幕末の開港から1914年に益田が三井合名会社相談役になるまでの時期を取り上げ、三野村と益田の活動をとおして、三井と日本の社会の歴史を考えている。
「人の三井」/1 幕末の三井/2 三野村利左衛門と三井の改革/3 益田孝と三井物産会社の創立/4 益田孝と三井物産会社の発展/三野村利左衛門と益田孝の業績
8.令和4年11月12日
”バルトン先生 明治の日本を駆ける!”(2016年10月 平凡社刊 稲葉 紀久雄著)は、コレラ禍から日本を救うため上下水道の整備を進め日本初のタワー・浅草十二階の設計を指揮し写真家として小川一真の師でもあったW.K.バルトンの生涯を紹介している。
W.K.バルトン(Burton, William Kinninmond)は1856年スコットランドのエジンバラ生まれの、イギリスの衛生工学者である。W.K.バルトンの表記のように、在日中はバルトンの呼称の方が一般的であった。父親のジョン・ヒル・バートン(John Hill Burton)は、弁護士にして高名な歴史家である。数多くの名著で知られ、福沢諭吉の”西洋事情外編”の原著者であった。母親のキャサリン・イネス・バートン(Katherine Innes Burton)は、女性の教育、地位向上に貢献した。大叔母のメアリー・バートンは、A・コナン・ドイルを養育した教育者として知られている。イギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルは、幼少時バートン家に預けられていたことがあった。1873年にエジンバラ・カレッジエイト・スクールを卒業し、大型船舶機械製造会社ブラウン・ブラザーズ社に入って、水道技術工見習いとなった。エディンバラーカレッジエイト・スクールは、アーチボルト・ハミルトン・ブライス博士が、自らの教育理念を実現するために1867年に開校し、同博士の逝去と共に1895年に閉鎖された。学力とスポーツの両面で、優秀な生徒たちを数多く集めた有名な私立男子校であった。入学希望者は、イギリス国内ばかりか、ドイツ、ロシア、アメリカ、インドその他の植民地、さらにタイからも集まったと記されている。エディンバラ大学教授が講師を務める講義も多く、大学並の高い教育水準を誇っていたという。その後、創業者で著名な技術者、発明家のアンドリュー・ブラウンのもとで、機械工学、水理学、設計等を習得後、ローズバンク・アイアン・ワークス社の設計主任となった。1879年に、叔父のコスモ・イネスを頼りロンドンに移った。イネスは技術事務所を営む傍ら、衛生保護協会事務局長を務めていた。1880年にロンドンで、叔父コスモ・イネスとイネス&バートン・エンジニアーズを設立した。バルトンは、1881年に衛生保護協会の主任技師となった。1882年に衛生保護協会専任技師となり、著書”写真のABC”を出版し、7か国語に翻訳された。イネスは1869年から3年間、インド植民地公共事業局の技師を務めており、その間、明治政府の工部省測量司に配下の測量師3名をお雇いに推薦したことがあった。稲場紀久雄氏は1941年京都市生れ、1965年に京都大学工学部衛生工学科を卒業し、同年建設省、現、国土交通省に入省した。1975年に京都大学工学博士となり、1976年より日本下水道史、バルトン人物研究に着手した。1986年に下水文化研究会を創設し、下水文化の普及啓発、水制度改革活動に取り組んできた。盛岡市下水道部次長、岡山県土木部下水道課長、建設省流域下水道課長、同土木研究所下水道部長等を経て、1993年に大阪経済大学教授に転身した。生命環境経済学の体系化に取り組み、2012年に同大学名誉教授となった。W.K.バルトンは、渡欧中だった永井荷風の父と知り合いその推薦を得て、1887年に明治政府内務省衛生局お雇い外国人技師として来日した。政府は当時、コレラなどの流行病の対処に苦慮しており、衛生局のただ一人の顧問技師として、東京市の上下水道取調主任に着任した。また、帝国大学工科大学で衛生工学の講座をもち、浜野弥四郎など何人かの著名な上下水道技師を育てた。1888年に東京市区改正委員会・上水下水設計取調主任に、1889年に内務省顧問技師に就任した。バルトンの設計は帝都上下水道の基本計画となり、東京、神戸、福岡、岡山などの、全国各都市の衛生調査、上水下水計画を担当した。また、バルトンは母方の祖父が地元では名の知られた写真愛好家であったことから、カメラや写真に詳しくなった。来日前には臭化ゼラチン乾板の原理に関する著書や論文で著名であり、当時の乾板の発明を行ったロンドンの写真技術者の一人として評価された。その後、日本で写真撮影に関する本も出版した。日本の写真家小川一真らと親しい関係を結び、小川や鹿島清兵衛らについての論説をイギリスの写真誌に寄稿した。ほかに、菊池大麓、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、石川巌、小倉倹司、中島精一、江崎礼二らとともに、1889年に設立された日本寫眞會の創立メンバーとなった。日本寫眞會は、在留外国人や日本人富裕層のアマチュア写真家・職業写真師のための日本初の同好会である。1888年の磐梯山噴火、1891年の濃尾地震という大災害に際し、大学の依頼で被災地に赴き惨状を撮影した。1890年に浅草十二階の凌雲閣を完成させ、1891年に英国土木学会会員となった。1896年に台湾総督府衛生顧問技師嘱託となり、台北、淡水、基隆、台南などの衛生調査を行い、上下水道計画の基礎を作った。後藤新平の要請で、教え子の浜野弥四郎とともに、日清戦争の勝利によって日本領土となった台湾に向かい、公衆衛生向上のための調査に当たった。しかし、台湾でよい水源地の発見に苦慮し、炎暑の中を調査中に風土病にかかった。1899年に休暇を得て故国へ帰国する直前、肝臓アブセスにより東京で43歳で急逝した。浜野は師の訃報で悲しみに暮れながらも、台湾での事業を継続した。基隆水道貯水池、台北水道、台南水道などを次々と完成させた。1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘を伴って英国への帰国を準備していた目前であった。帰国を果たせず、いまは東京の青山霊園に葬られている。著者はバルトンの足跡を40年あまり訪ねて、不思議な縁で時間と空間を超え、得難い方々との出会ったという。孫の鳥海たへ子氏、曾孫の鳥海幸子氏、メッツ・陽子氏、玄孫のケヴィン・メッツ氏、スコットランドの親族パットン家の家族、姉マッティの曾孫のクレランド家の家族などである。そこでは、家族のみに伝えられてきたエピソードや、100年以上前の貴重な写真や資料を拝見したりした。そのうち、バルトンの人物像が輪郭を現し、その実像に近付くことができたそうである。バルトンは、明治の日本を駆け抜けた、とびきり面白い規格外のスコットランド人である。上下水道、近代写真、浅草十二階、シャーロックーホームズなど、誰もがどこかで出会っているバルトンを、多くの人に知っていただきたいという。
バルトンの夢を追って/故郷エディンバラ/知の巨峰、父ジョン・ヒル・バートン/ウイリー誕生、バルトン幼少期/技術者への道、バルトン青年期/永訣と自立と/ロンドンでの活躍、そして日本へ/バルトン先生の登場/国境を超えた連帯/首都東京の上下水道計画/日本の写真界に新風/浅草十二階ー夢のスカイ・スクレイパー/濃尾大震災の衝撃/望郷ー愛の絆/迫るペスト禍と台湾行の決心/台湾衛生改革の防人/永遠の旅立ち/満津と多満ー打ち続く試練/ブリンクリ一家に守られて/多満の結婚とその生涯
9.11月26日
”半藤一利 わが昭和史”(2022年4月 平凡社刊 半藤 一利著)は、昭和史の研究に打ち込んで物書きとなり退職してから本格的スタートし2021年1月に90歳で逝去した昭和史の第一人者が最晩年に語った自伝である。
半藤一利氏の妻は作家の松岡譲・随筆家の筆子夫妻の四女で、筆子は夏目漱石の長女であるため、一利氏は漱石を義祖父としている。半藤一利氏は1930年東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区生まれ、先祖は長岡藩士で、実父は運送業を経営していた。1937年に第三吾嬬小学校に入学、一年後に新設の大畑小学校に通うようになった。小学校時代は、少年講談や浪曲に親しんだそうである。1939年に実父が区会議員となり、悪ガキがにわかにお坊ちゃまになった。1943年に東京府立第七中学校に入学し、隅田川の数々の美しい橋を眺めて育ったためか、この頃から橋をつくる技師に憧れを抱いたそうである。1945年3月10日の東京大空襲で逃げまどい、中川を漂流して死にかけ、父親とともに母親や弟妹か疎開していた、茨城県の下妻へ移った。その後、茨城県の県立下妻中学校を経て、父親の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎えた。1946年に家族は東京に戻ったが、ひとり長岡に残って勉強に打ち込んだ。1947年に一高の受験に失敗して失意なるも、翌年、旧制浦和高校に合格して入学し、すぐ理科から文科に転じ、橋の技師になる夢はいつしか萎んでいったそうである。旧制浦和高等学校を学制改革のため1年間で修了し、1949年に東京大学文学部に入学してすぐボート部に入った。1953年に東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、3月に文藝春秋新社に入社した。見習いのうちに坂口安吾と出会い、歴史の面白さを知ったという。坂口の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、坂口に弟子入りしたと称している。9月に出版部に配属となり、翌年3月にまた文藻春秋編集部に異動となった。1956年にまた出版部に異動となり、当時人気を博していた軍事記者の伊藤正徳の担当になり、連載の手伝いを頼まれて昭和史の取材を始めた。日本中の戦争体験者の取材に奔走し、このとき、歴史の当事者は嘘をつくことを学び、これらの経験が後に昭和の軍部を描いた作品を書く素地となったという。1959年に創刊準備から週刊文春編集部員となり、人一倍働いたそうである。1961年に昭和史に本格的にのめりこみ、週刊文春連載ののち、処女作”人物太平洋戦争”を刊行した。1962年に文藝春秋編集部に戻り、デスクとして7年間ちょっとを過ごした。社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催した。ここから生まれた企画が、文藝春秋1963年8月号に掲載された、28人による座談会”日本のいちばん長い日”である。1965年にデスクをやりながら、さらに取材して、1965年に単行本”日本のいちばん長い日-運命の八月十五日”を執筆した。売るための営業上の都合から、大宅壮一の名前を借りて、大宅壮一編集として出版された。単行本は20万部売れ、さらに角川で文庫化されて25万部が売れた。この他にも、30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出した。1970年前後から、漫画読本、週刊文春、文藝春秋編集長を歴任した。漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋編集長になった。このとき、ムック”目で見る太平洋シリーズ””日本の作家百人””日本縦断・万葉の城”を手掛けた。次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執った。1977年に文藝春秋編集長に就任し、1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となったが、2年後に第9号で休刊した。この間の編集長時代の13年ほどは本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていたそうである。のち出版局長となったが、2年もたたないうちにクビになり、窓ぎわにやられたそうである。1978年の閑職のあいだに、明治史を書く構想を練り、漱石にも熱を入れた。1984年、54歳のとき、想定外であった取締役となった。出版責任者として書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の”「文芸春秋」にみる昭和史”を監修した。1991年に監修と注・解説を担当した”昭和天皇独白録”が刊行された。1992年に”漱石先生ぞな、もし”が刊行され、1993年に第12回新田次郎文学賞を受賞した。専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身した。近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、「歴史探偵」を自称した。活動の場をテレビにも広げ、NHK”その時歴史が動いた”など、歴史番組にもよく出演した。1998年に”ノモンハンの夏”を刊行して、第7回山本七平賞を受賞した。2001年”「真珠湾」の日”、2004年”昭和史1926-1945”、2006年”昭和史戦後篇1945-1989”をそれぞれ刊行し、前後篇で第60回毎日出版文化賞特別賞を受賞した。昭和史1926-1945は、昭和史シリーズの戦前・戦中篇で、授業形式の語り下ろしでわかりやすい通史として絶賛を博した。昭和史戦後篇は昭和史シリーズの完結篇で、焼け跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細にたどっている。2015年に、当事者に直接取材して戦争の真実を追究した、との理由で第63回菊池寛賞を受賞した。2016年に政治や軍部の動きをA面とし、それに対する庶民の歴史として昭和戦前を描いた”B面昭和史”を刊行した。2018年に”世界史のなかの昭和史”を刊行して、”昭和史””B面昭和史”と合わせて、昭和史三部作を完成させた。2021年に90歳で、老衰のため永眠した。夏目漱石、兼好法師、松尾芭蕉のような、これは、と思う三人の先人がそれぞれ、一筋の道につながってきて今日があるのだといっている。すなわち、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですということである。あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものにならない。ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでか難しい。自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを十年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれる。何でもいい、それが自分の場合は昭和史だったのである。なぜそんなふうになったのかを、これからお話ししようということである。
一、遊びつくした子ども時代
向島に生まれて/人は死ぬ/豊かだった戦前/川のそばで/おかしな空気/悪童、「お坊ちゃま」になる/二宮金次郎が読んでいたもの/最初の空襲体験/少年講談と浪花節/運命の分岐点─中学進学
二、東京大空襲と雪国での鍛練
十四歳、死にかける/父との再会/疎開で転々/雪がくれた体力と忍耐力
三、ボートにかけた青春
日本人と橋/志はいずこへ/人生の”決意”/水の声を聞きながら/ボートの青春に悔いなし/”浅草大学”と苦肉の卒論
四、昭和史と出会った編集者時代
御茶ノ水駅の決断/生涯の宝/ボンクラの必要性/指名された理由/歴史はなぜ面白いか/人に会い、話を聞く/昭和史にのめりこんだとき/処女作は『人物太平洋戦争』/寝ながら書いたケネディ暗殺記事/『日本のいちばん長い日』/印税はゼロ/名デスクはヘボ編集長/”アソビの勉強”と潜伏期間の決意/まぼろしの「明治史」!?/ある成功の代償
五、遅咲きの物書き、”歴史の語り部”となる
”じんましん十年”の役員時代/辞めなかった理由/『昭和天皇独白録』のこと/山県有朋をなぜ書いたか/命がけの独立/瀬戸際の体験/道に迷ってよかった/失ったもの、得たもの/脱線はムダか/昭和史はなぜ面白いか/「歴史に学べ」でなく「歴史を学べ」/通史をやって気づいたこと/平成とは何であったか/「平成後」を想う/人生の一字
[附録] 四文字七音の昭和史
「皇国」という言葉/本家中国と日本/漱石先生と『蒙求』/「赤い夕陽の満洲」から/昭和史を転換させた「国体明徴」/二・二六から日中戦争へ/最高のスローガン「八紘一宇」/「油は俺たちの生命だ」/戦時下の四文字/日本人独特の死生観/崑崙山の人々/終わりに
略年譜
12.令和5年1月7日
”遠山景晋 開国を見通した蘭学家老”(2022年7月 吉川弘文館刊 藤田 覚著)は、名奉行遠山金四郎景元の父親で目付・長崎奉行・勘定奉行などを歴任し江戸後期の対外政策を最前線で担った幕臣の遠山景晋の生涯を紹介している。
遠山景晋=とおやまかげもとは1752年生まれ、永井筑前守直令の4男で遠山景好の養子となり、1786年に遠山家を相続した。500石の旗本で、通称、金四郎、左衛門、左衛門尉と称した。1787年に小姓組番に就任し、以後、西ノ丸小姓、徒頭を経て、1802年に目付となった。1789年に榊原忠寛の娘と婚姻し、1794年数え43歳のとき、第2回昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第し、同年、養父実子の義弟、景善を養子に迎えた。遠山家は幕府の主要ポストとは無縁の家柄であったが、試験後実際には、目付、長崎奉行、勘定奉行など異例の昇進を果たした。1799年から1811年までの12年間に、蝦夷地出張3回、長崎出張1回、対馬出張2回にのぼった。1804年にロシアのレザーノフの応接のため長崎に派遣され、1807年に若年寄堀田正敦に同行して蝦夷地へ派遣された。途中奥州各藩を巡見し海防指導を行い、1808年に対馬派遣となり諸大夫に任じられた。1811年には朝鮮通信使易地聘礼にあたり、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走した。1812年に長崎奉行となり、諸役所の経費節減などを行った。1816年に作事奉行、1819年に勘定奉行に転じた。老中水野忠成に信任され、江戸湾海防の仕法などを行った。文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれた。1829年に勘定奉行を辞し、隠居した。1837年に死去し、法名は、静定院殿従五位下前金吾校尉光善楽土大居士、墓所は遠山家の菩提寺である本妙寺にある。名奉行遠山金四郎景元は遠山の金さんと呼ばれ、幼名は通之進、通称は実父の景晋と同じ金四郎であった。官位は従五位下左衛門少尉、職制は江戸北町奉行、大目付、後に江戸南町奉行であった。藤田覚氏は1946年生まれ、1969年に千葉大学文理学部を卒業し、1974年に東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程を中退した。1975年東京大学史料編纂所教務職員、1976年同史料編纂所助手、1986年同史料編纂所助教授となった。1990年に文学博士(東北大学)の学位を取得し、1993年に東京大学史料編纂所教授となった。1996年から東京大学大学院人文社会系研究科教授となり、2006年に角川源義賞を受賞し、2010年に東京大学を定年退職し、東京大学名誉教授となった。遠山景晋は幕府役人として勘定奉行にまで大出世したが、遅咲きの役人人生だった。永井家に生まれて遠山家の養子になり、やや複雑な家族関係の中、学問・剣術・音楽などに励みながら、実父母が願った幕臣として活躍する日を思い描いていた。35歳になって家を継ぎ、翌年やっと小性組番士となり幕臣としてのスタートをきった。43歳で第二回学問吟味に首席合格し、秀才ぶりを発揮したものの、なかなか幕臣としては芽が出ず、51歳で目付、61歳で長崎奉行となった。作事奉行を経て勘定奉行に昇進したときは68歳という高齢で、幕府役人としてはまさに遅咲きだった。三傑と讃えられたが、石川忠房は俸禄300俵の養家を継ぎ48歳で目付、54歳で勘定奉行に昇進し知行500石となり、のち勘定奉行に再任され、留守居在職中に93歳の高齢で死去した。また、中川忠英は知行1000石、36歳で目付、43歳で長崎奉行、45歳で勘定奉行と順調に昇進し、のちに旗奉行在職中に78歳で死去した。景晋は、勘定奉行昇進が中川より23歳、石川より14歳遅く、三傑といっても、景晋の役人としての出世はひどく遅かった。この間、幕府の蝦夷地政策の大転換のために行なわれた、1799年の東蝦夷地調査団の一員に選ばれて参加した。1805年に通商関係樹立を求めて長崎に来航したロシア使節レザーノフに、幕府の拒否決定を伝達するため長崎に赴き、平穏な退去を実現した。同年から翌年にかけて西蝦夷地の調査を命じられて宗谷まで踏破し、幕府の全蝦夷地直轄の実現に貢献した。1806年にロシア軍艦によるカラフト・エトロフ島などへの攻撃を受けて、三度目の蝦夷地出張を命じられ、帰路三陸から鹿島までの沿岸を巡検した。1806年に江戸時代の日朝外交儀礼を大転換させる朝鮮通信使の易地聘礼を実現するため、朝鮮訳官との交渉に対馬へ出張し、易地聘礼挙行の最終的合意を実現した。1811年に易地聘礼挙行のため応接使節団の一員として、二度目の対馬出張を行った。1812年から長崎奉行として長崎に二度在勤し、二回に渡るイギリスによる出島商館乗っ取り未遂事件や、極度の貿易不振などの困難を抱えた長崎市政を担当した。1816に作事奉行となり、日先大猷院廟などの大規模修復事業を遂行した。1819年から勘定奉行として、蝦夷地直轄を止め、松前・蝦夷地を松前家に返還する政策大転換の後始末を処理した。イギリス・アメリカ捕鯨船の活動活発化などにより、異国船渡来事件が多発したため1825年に、それまでの穏便な異国船対応策を大転換させ、強硬策である異国船打払令の発令を主導した。景晋は、蝦夷地へ3回、長崎へ3回、対馬へ2回、日光へ2回往復した。主に対外関係に関わる案件を処理するため、東奔西走した人生であった。ロシアの蝦夷地接近、イギリスなど欧米諸国の東アジア進出など、世界情勢の変動の波が日本周辺に及んできた新たな国際環境のもとで、幕府の対外政策の転換を担った。景晋の生涯は、18世紀末から19世紀前半の日本を取り巻く国際情勢の変化と、幕府の対外政策のあり方やその転換を体現した軌跡であった。景晋は、揺るぎない権威を帯びた将軍への奉公、忠節を第一として、職務に邁進する精誠奉職、それを自らの生き甲斐、喜びとした。出世それ自体が目的や目標ではなく、遅咲きだったものの景晋の出世は、精励恪勤の結果にすぎなかったという。職務上の日記のほか、多くは散逸したが繁務のあいまに紀行文と多くの詩文を草し、さらに絵画に造詣が深く、琵琶にも堪能だった。有能な役人であるにとどまらず、江戸時代後期に数多く登場する文人的、あるいは教養豊かな役人の一人だった。大変な秀才であり、超有能な役人であるとともに、父母への敬愛と思慕の念、妻との心の絆、子の溺愛など、人間味の溢れた人物でもあったという。1828年にアヘン戦争の情報、1831年にイギリス軍艦来日計画情報などが伝えられ、欧米諸国との戦争の危険を回避するため、異国船打払令は撤回され、天保の薪水給与令が発令された。渡来する異国船は海賊船であり、イギリスなどが日本までやって来て戦争し、侵略しようとするわけがない、とする景晋の世界情勢に関する甘い認識は、アヘン戦争により物の見事にうち砕かれた。儒学を深く学び、その枠の中から出られなかった景晋の知的限界と言える。また、アイヌの独自の文化を認識できず、生業や生活に対する強い差別と偏見も、景晋の儒学的思考がもたらした限界だった。さまざま限界はあるものの、出世することが目的・目標ではなく、ひたすら職務に全身全霊で打ち込み、任務を着実にこなして実績を積み重ね、結果として高い地位を得た。もうやり遂げた、これ以上はできない、との思いからしがらみを断ち切り、幕臣人生を終えたすがすがしい生き方には、現代から見ても見るべきものがあるという。
はじめに/第1 生い立ちと家族/第2 学問吟味に首席合格/第3 第一回蝦夷地出張/第4 レザノフ長崎来航/第5 第二回蝦夷地出張/第6 第三回蝦夷地出張/第7 朝鮮通信使易地来聘御用/第8 目付時代/第9 長崎奉行時代/第10 作事奉行時代/第11 勘定奉行時代/第12 信仰・趣味・教養/第13 晩年と死/おわりに/遠山景晋系図/略年表/参考文献
13.1月21日
”大村純忠”(2022年6月 吉川弘文館刊 外山 幹夫著)は、有馬清純の次男で後に大村純前の養子となった安土桃山時代の日本最初のキリシタン大名の大村純忠の生涯を紹介している。
大村純忠は1533年に、肥前国高来郡有間荘、現、長崎県南高来郡北有馬町・南有馬町を本拠とする有間氏、のち有馬氏と改めた、の晴純の次男として生まれた。有馬氏の出自は、平将門とともに承平・天慶の乱をおこして敗死した藤原純友とされている。母親が大村純伊の娘であったために、1538年に大村純前の養嗣子となり、1550年に家督を継ぎ大村氏の第12代当となった。純前には実子の庶子、後の後藤貴明、又八郎があったが、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出された。純忠は領内に入ってきたイエズス会の宣教師と交渉をもち、1563年に受洗してバルトロメオと名のり、日本で最初のキリシタン大名となった。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。長崎を領内にもっていたことから、長崎港を開港して、南蛮貿易、外国との交渉を積極的に行い、1582 年には大友、有馬氏とともに、ローマ教皇に少年遣欧使節を送った。しかし、純忠のキリスト教信仰は狂信的であるとして、領内の反発を招き他氏との争いも絶えなかったという。外山幹夫氏は1932年長崎市生まれ、長崎県立大村高等学校を卒業して、1961年に広島大学大学院博士課程国史専攻を単位修了し、1978年に文学博士となった。1961年佐世保工業高等専門学校助教授、長崎大学教育学部教授、長崎県立シーボルト大学教授などを歴任した。2002年に退職し、県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務め、2013年に亡くなった。著者は長崎生まれの大村育ちで、幼少の頃から大学に入るまでの20年近くを大村の地で過ごしたそうである。朝な夕なに風光明媚な大村湾を眺めてきて、いまふり返ってみて、時代もそうであるが、まことにのどかな少年時代であったように思うという。大村純忠については、昭和30年に松田毅一氏の“大村純忠伝”が出され、この刊行を機にして行われた同氏の純忠に関する講演を大村に帰郷中聴いた。しかし大学を卒業するとともに、以後20数年にわたって、一貫して豊後大友氏の研究に専念した。いつかは純忠も手がけたいとは思いながら、大友氏の研究にある程度の目鼻をつけるまでは、久しく手を付けてこなかった。ようやく研究に一応の区切りをつけることができるようになった昨今、ある種の解放感を味わいながら、一気呵成に書き上げたのが本書であるという。松田毅一氏は純忠研究に先鞭をつけた先学で、敬意を表するにやぶさかではないが、氏は専らキリシタンとしての純忠の側面からこれを把えている。著者はこれといささか視角を異にし、純忠の戦国大名としての本来のありかたに注目しつつ、全体像を把えようとしたそうである。有馬氏は平姓を称しているが、おそらく平家全盛期には、これに好を通じていたものであろう。鎌倉時代に入ってからは御家人としての道を進め、本拠有馬荘のほか、串出郷の地頭職も得るなど、領主制を進展させていたものと思われる。南北朝時代に入ると、有馬氏は大村氏同様南朝方につき、そのため九州探題今川了俊の攻撃を受けた。以後時代の進行とともに、同氏の勢いは徐々に強まり、戦国初期までのうちには、ほぼ高来郡を手中におさめた。そして有馬貴純はしだいに藤津郡方面へも進出し、戦国期に入り、同氏はさらに発展した。有馬氏はその後、純忠の父晴澄の天文年間の1532年から1555年にいたって、さらに勢いを強めた。しかし、天正年代の1573年から1592年に入ると、佐賀の龍造寺隆信が急速に台頭し発展したため、純忠の兄で、晴純の後を嗣いだ義直は、守勢に立たされ、その圧迫に苦しむことになった。純忠は有馬晴澄人道仙巌を父として生まれ、母は大村純伊の女であったという。当時有馬・大村両家は抗争をやめ、晴純の叔母が大村純伊に嫁し、また純伊の女が晴純に嫁し、晴純の妹もまた純忠の養父大村純前に嫁していた。純忠の生年については天文二年1533年出生とされ、生年について異説は存在しない。出生地は“藤原姓大村氏世系譜”では、たんに有馬とだけ記している。有馬氏の持ち城としては北有馬町の日之江城が古くからあり、おそらくここで生まれたと思われる。幼名勝童丸、元服して民部大輔に任ぜられ、長じて天文19年の1550年に18歳で大村家に人嗣し、これを契機にしたものか、のち丹後守に転じた。兄弟姉妹についてみると、長兄に晴純の後有馬家を嗣いだ義直、のち義貞がいて、純忠は義直の次弟にあたる。純忠にはさらに、直員、盛、諸経の3人の弟がいた。直員は同名の千々石直員の下に養子に行き、高来郡千々石に住んだ。後年天正期ローマに赴いた千々石ミゲルは、その子である。盛は松浦丹後守定の養子となり、平戸に住んだ。諸経は志岐兵部少輔鎮経の養子となり、肥後天草に住んだ。当時としては珍しく同母兄弟であったが、互いに抗争することはなかった。純忠に対して強い影響力をもったのは兄の義直で、後に、純忠は受洗を前にして、熱心な仏教徒の義直の意向を気にしたが、不快の念を示されず安心している。1570年の長崎の開港についても、純忠は最初反対したが、これを知った宣教師たちが義直にはたらきかけ、純忠に開港するようはからわせ、純忠は兄の助言に従っている。義直はかなり学芸に通じていたらしく、純忠は、特にこの兄から種々の影響を受けたとみられる。戦いに明け暮れた戦国時代にあって、学芸を習得することは容易ではないが、純忠にはその素養があったという。学芸の素養は、おそらく大村氏に入嗣する以前、有馬氏にあった当時体得したものであろう。詩歌の造詣深く、文章に秀れた兄を持つなど、学芸にたいして理解のある有馬氏の中で育つうちに、学芸を習得したと思われる。こうした純忠が大村家に人嗣したことは、当然大村氏の家臣たちにも影響を与えた。戦国期の肥前で、最大の勢威を誇ったのは龍造寺隆信である。隆信は龍造寺氏の庶家水ヶ江龍造寺氏出身で、一時仏門に身を投じていたがのち還俗し、その非凡の才能をもって惣領村中龍造寺氏をも併せて一族の中心となった。そして周囲の経略を進め、のち天正期に入って純忠の最大の強敵となった。さらに純忠の治世前期にとくに圧力を及ぼした者に、純忠の養父純前の実子で武雄の後藤氏に入嗣した後藤貴明かあった。大村の反純忠派の者と内通して、純忠領内にしばしば侵入して純忠を苦しめた。1570年に純忠は、ポルトガル人のために長崎を提供し、同地は当時寒村にすぎなかったが、以降良港として大発展していった。1572年に松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500に居城である三城城を急襲され、城内には約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んだ。1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。その後、1580年に純忠は、長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した。巡察のため、日本を訪問したイエズス会士・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年に天正遣欧少年使節の派遣を決めた。純忠の名代は、甥にあたる千々石ミゲルであった。1586年の夏、兄の死後に長与氏の領地を奪った長与純一が、純忠に反旗を翻したが、純忠は軍を送り、長与純一の浜城は落城し速やかに鎮圧された。1587年3月、豊臣秀吉の九州平定において秀吉に従って本領を安堵された。ただし55歳の純忠は、既に咽頭癌並びに肺結核に侵されて重病の床にあり、19歳の嫡子・喜前が代理として出陣した。バテレン追放令の出る前の1587年6月23日に、坂口の居館において死去した。
1 若き純忠の時代/2 純忠の領国支配/3 横瀬浦開港と純忠の受洗/4 福田浦開港前後/5 長崎開港と内憂外患/6 教勢の発展と純忠の苦悩/7 純忠の卒去とその歴史的位置/付録1 大村氏の出自と発展/付録2 大村純忠の発給文書
14.令和5年2月4日
”幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷”(2022年1月 弦書房刊 岩岡 中正著)は、自らが船頭を務める船で天草を出航し長崎へ向かったものの途中で嵐に遭って船員3名とともにルソン島へ漂流した肥後国出身の庄蔵の生涯を紹介している。
鎖国と身分制度によって閉ざされていた江戸時代に、その殻を突き破って、日本史を近代の方向へと動かしていく上で大きな役割を果たした人々がいた。本来はいずれも名もなき一庶民であったが、漂流が人生を変え、歴史に名を刻むことになった。大坂の質屋の息子だった伝兵衛は、1696年に江戸に向かう途中で嵐にあってロシア領カムチャッカに漂着し、モスクワでロシア皇帝に謁見した。伊勢の船頭だった大黒屋光太夫は1782年に、江戸へ向かう途中で漂流し、ロシア帝都サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナニ世に謁見した。土佐の漁師だった万次郎は、1841年に14歳で漂流してアメリカの捕鯨船に救助されて東海岸に行き、幕末に帰国して幕府に登用され咸臨丸に乗り込み、使節団の通訳として条約締結に尽力した。1837年にモリソン号で帰国しようとして果たせなかった日本人漂流者7人のうちの1人の音吉は、上海でイギリス商会につとめ、幕末期の日英交渉でイギリス側の通訳として活躍した。そして、原田庄蔵は音吉とともにモリソン号に乗ったが、終生帰国を果たせず、日本人漂流民の帰国のために尽力した。庄蔵は1807年に、当時、海外も開かれた海上交通の要所であった肥後川尻の、12の町の中でも小さい正中島町の廻船業の屋号・茶屋に生まれた。1835年に両親と妻子を残し、八十石船でほかの寿三郎、力松、熊太郎の三人と共に天草へ行き、ここから帰る途中、大風で東シナ海からフィリピンのルソン島北岸へ漂流した。そこでスペイン官憲に救われ、マニラを経て船で中国マカオヘ送られた。1837年に尾張の音吉ら3人含め、漂流者7人は、開国や通商をめざす米船モリソン号に乗せられて日本へ向かった。しかし、無二念打払令で浦賀沖と薩摩で砲撃されて断念し、命からがらマカオヘ戻った。このマカオで庄蔵は、のちにペリー提督の日本語公式通訳の米国人宣教師S・W・ウィリアムズに日本語を教え、ともに、その下で聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力した。1841年9月にマカオから、故郷・肥後国川尻、正中島町の父の茶屋・嘉次郎あての書簡を出し、書簡は2年半後の1844年2月に家族のもとに届いた。帰国することはできず、その後香港へ移住し、アメリカから来た女性と結婚した。そして、洗濯屋仕立屋として成功し、ゴールドラッシュに湧くアメリカのカリフォルニアヘ、人夫10人をつれて金採掘に渡ったこともあるという。また、周防の漂流民・船頭宗助ら12人のような、日本人漂流民の世話もした。ただ、その没年、墓、子孫については不明である。著者は、小さな正中島町から世界へ漂流した、庄蔵という「地域」的で「地球」的な横軸と、前近代社会から解き放たれて近代人へと再生・自立していった歴史の縦軸から庄蔵に接近したいという。またこれは、肥後川尻、正中島町と中国のマカオ・香港という、庄蔵の「二つの故郷」の物語でもある。岩岡中正氏は1948年熊本市生まれ、九州大学法学部を経て同大学院を修了した。1991年に学位論文で法学博士(九州大学)の学位を取得し、熊本大学法学部で教鞭を取った。政治学者で俳人、現在、熊本大学名誉教授を務めている。研究テーマは、政治思想史・共同性の思想研究である。大学時代から俳句を嗜み、俳誌「阿蘇」を主宰している。日本伝統俳句協会副会長で、朝日俳壇賞受賞、熊本県文化懇話会賞、熊日文学賞、山本健吉文学賞評論部門を受賞している。香港最初の定住日本人となった原田庄蔵一行は、漂流から8年を経た1845年から、香港での定住生活が始まった。当時の香港は人口7450人で、1841年から英国軍が香港島を占拠していて、アヘン戦争の真っ最中であった。アヘン戦争が終結した1842年に南京条約が締結され、香港島は正式にイギリスに永久割譲され、ビクトリア市と命名された。西地区が中国人街、中央がイギリス街、何もなかった湾仔の関所を超えた東側の銅鑼湾がジャーディンマセソン王国と、大きくは3地区に分かれていた。夫々の地区が物すごい勢いで開拓されていた時代に、庄蔵一行がやってきたのであった。1845年に香港に移住した庄蔵一行は、中環と上環の境目当たりに住居を構えたと思われる。後年、ペリー率いる第二次日本遠征隊は香港から出発したが、庄蔵一行で一番若かった力松が、自分たちは湊の上の方にある関帝廟のそばに住んでいると言ったそうである。関帝廟とは文武廟のことで、香港最古の道教寺院として有名であった。この寺院は、庄蔵達が香港に定住してから2年後の1847年に創建されている。当時の香港の中国人の人口は、家族が25世帯、娼婦の館が26軒で、あとは、独身、単身で大陸から流れ込んだ無数の中国人であった。庄蔵は4人の中では一番成功し、洗濯業と裁縫業を手広く展開して、3階建の家にアメリカ人の夫人と息子と住んでいた。夫人が白人だったか中国系だったか不明であるが、マカオでギュツラフの影響を受けてキリスト教に改宗した。ギュツラフは中国を訪れた最初の西洋人で、外交官としても活躍したが、実際は敬虔で影響力のあるキリスト教伝道師であった。語学の天才で、日本語についても庄蔵達から日本語を学び、聖書の日本語訳なども行なった。庄蔵はクリスチャンとしてギュツラフの聖書翻訳作業を助け、その後の香港でも引き続き5年を掛けてマタイ伝の日本語訳に成功した。共同作業者のギュツラフは1850年にマカオから香港に移り住み、1851年に香港で48歳で病死した。その功績を称えて、中環にある通りにギュツラフの名が冠せられているという。庄蔵は、そのほかにもいろいろと活発な人生を送ったようである。1852年ころ一獲千金を夢見て、中国人の苦力10数人を引き連れて、ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアまで金採掘に行った。1853年には、やはり漂流民として香港に立ち寄った永久丸乗員2名の世話をした。乗員によると、当時44歳であった庄蔵は、20歳ほども若く見える円満でほのぼのとした男であったそうである。そして、この証言を最後に庄蔵の足取りはしばらく途絶えている。そして、幕末に帰国して幕府に登用され、1860年に出航した咸臨丸に乗り込み、使節団の通訳として条約締結に尽力したのであった。その後、日本領事館開設の1873年のの香港在住日本人は8名(12名とも)であったが、その中に庄蔵の名前もその家族の名前も見当たらないという。庄蔵も家族も、香港籍として名前も変えていた可能性があり、名乗り出る事もなく明治政府の知るところなく、巷中に没したのではないか、墓石も見つかっていないそうである。寿三郎、力松、熊太郎の3人のうち、寿三郎と熊太郎の香港滞在に関する記録はほとんど残されていない。寿三郎は1853年に病死、熊太郎は1845年に病死したという。力松は13歳のときに漂流し、日本人としての教育も充分に受けられないまま、マカオ、香港と渡り歩き、キリスト教を信じ、アメリカ女性と結婚し、3人の子供を持った。出版社に勤めており、日本語、英語、広東語に通じていたようである。1855年には、エリオット提督率いるイギリス遊撃艦隊に通訳として乗り込み、函館に寄港した時の通訳として活躍した。同年の日英和親条約の批准書交換の際にも通訳として長崎にきている。その後、力松の記録は途絶えるが、しっかりとした仕事もあり、通訳としても活躍し、家族に囲まれて平穏な人生を香港で全うしたと思われる。漂流が人生を変え、それぞれが歴史に名を刻んだ。本書は、日本人を超えて国際人として生きた肥後出身の漂流者の実像に迫っている。
はじめにー原田庄蔵とその故郷/1 漂流物語ーマカオから父への手紙「日本より出し日を命日に」(庄蔵の手紙/寿三郎の手紙/庄蔵と寿三郎)/2 聖書物語ーウィリアムズと庄蔵 本邦初訳「聖書・マタイ伝」(「マタイ伝」写本の運命/庄蔵の聖書とその特徴)/3 故郷物語ー庄蔵と故郷の人々(父と子の盆踊り/庄蔵の教養/正中島町「家屋鋪賣買帳」と庄蔵旧居/庄蔵の長女ニヲとその末裔)/おわりにー運命と時代を切り開く力
15.2月18日
”インド洋 日本の気候を支配する謎の大海”(2021年8月 講談社刊 蒲生 俊敬著)は、海面水温などさまざまな海洋気象観測のデータや構造にインド洋の東西で双極的対照的な現象が現れるダイポールモード現象と日本の気候との関りなどを解説している。
夏になってインド洋東部熱帯域で南東貿易風が強まると、東風によって高温の海水が西側へ移動し、深海からの冷たい湧昇や海面からの蒸発によって海水温が低下する。一方、インド洋西部では、東から運ばれた高温の海水で海面水温がさらに上昇する。これは太平洋のエルニーニョ現象と類似の現象で、エルニーニョ現象とは関係なく独立して発生する場合と、エルニーニョ現象と関連して発生する場合とがある。海面水温などさまざまな海洋気象観測のデータや構造に、インド洋の東西で双極的、対照的な現象が現れ、海面水温が高くなると、そこでは対流活動が活発化し降水量が増加する。そのため、東側では乾燥して少雨、西側では多雨となるなど異常気象がもたらされる。これがインド洋独自の大気海洋現象でありダイポールモード現象と言われ、インドから日本にかけてのモンスーンアジア地帯の気象に大きく影響する。日本の夏は猛暑となり、干魃や猛暑といった異常気象を引き起こすことになると考えられる。蒲生俊敬氏は1952年長野県上田市生まれ、東京大学理学部化学科を卒業し、同大学大学院理学系研究科化学専攻博を課程を修了した。理学博士で、専門は化学海洋学である。1986年から1992年まで東京大学海洋研究所助手、1993年に海洋研究所 無機化学 助手を経て、1994年に同大学海洋研究所助教授となった。1996年に同大学海洋研究所教授となり、以後、2000年に北海道大学教授、2010年から2016年まで同大学大気海洋研究所教授を歴任した。2017年に東京大学大気海洋研究所特任研究員、2018年から2020年まで同大学大気海洋研究所名誉教授となった。海洋のフィールド研究に情熱を傾け、これまでの乗船日数は1740日に及び、深海潜水船でも15回潜航した。海洋の深層循環や海底温泉に関する研究により、日本海洋学会賞・地球化学研究協会学術賞(三宅賞)・海洋立国推進功労者表彰(内閣総理大臣賞)などを受賞している。人類の誕生以降、インド洋は、人類の英知が試される、いわば試練の海であった。数え切れない多数の人々がインド洋と接触し、航海技術や漁業の発展のために苦闘を重ね、その結果として、インド洋からさまざまな恩恵を受けてきた。ことに、インド洋が過去2000年以上の長きにわたって、東洋と西洋との交易・交流の場を育み、発展させ、国際社会の構築に限りない役割を果たしてきた。さらに未来へと目を向けてみれば、今世紀末頃には、アフリカとアジアとを合わせた人口は世界人口の8割を超え、90億人にも達するといわれる。急膨張するこのアフリカとアジアに接し、かつこの地域と他の世界とを強く結びつける海こそ、インド洋なのである。ここ数年、インド洋に生じる特異な海洋変動であるダイポールモード現象という言葉を、新聞や雑誌等でひんぱんに見かけるようになった。ダイポールモード現象とは、インド洋の熱帯海域において、正反対の気候状態が同時に、東西に横並びになることである。東側は低温で晴天続きである一方、西側では高温で豪雨に見舞われる、といった具合である。この現象は1999年に、気候学者・山形俊男博士の研究グループによって発見された。ダイポールモードという名称の名付け親も山形博士で、ダイポールとは、二つの極という意味である。日本から遠く離れたインド洋で生じる現象であるが、日本の気候と強い関わりをもっている。たとえば2019年に出現した強烈なインド洋ダイボールモード現象は、日本列島に夏の猛暑と、それに続く異常な暖冬をもたらした主因であると指摘されている。ダイポールモード現象の影響をまず最初に強く受けるのは、アフリカ諸国やインド、オーストラリア等々の、インド洋に接する国々である。しかし、影響が及ぶ範囲はそれだけにとどまらず、遠くヨーロッパの国々や、日本列島にまで達しており、広く世界的なスケールで気候を支配している。インド洋と日本のように、はるか遠く離れた地域をつないで気候現象が伝わることをテレコネクションと言う。インド洋はこのテレコネクションを通じて、日本列島の気候をコントロールする陰の大物だったのである。インド洋では、強い季節風(モンスーン)のために夏と冬とで流れる向きが完全に逆転する海流で、南極海からやってくる深海水の複雑怪奇な動きがみられる。また、大陸移動のせめぎ合いと海底から湧き出る高温の熱水や、インド洋にのみ生息するふしぎな生物たちがみられる。さらに、プレートの沈み込みにともなう超弩級の火山噴火や巨大地震や、ダイポールモード現象がみられる。これらダイナミックな地球の姿や営みが、インド洋にはところ狭しと詰め込まれていて、インド洋を抜きにして地球は語れない。インド洋熱帯域の海面水温は、エルニーニョ現象の発生から2~3か月遅れて平常よりも高くなり始め、エルニーニョ現象の終息後もしばらく高い状態が維持される傾向がある。そのため、エルニーニョ現象が発生した翌年など、インド洋熱帯域の海面水温が平常より高い夏の場合、大気下層の東風の影響でフィリピン付近の対流活動が抑制される傾向がある。インド洋の海面水温が平常よりも高い場合の大気下層の高低気圧の平年からの偏りで、夏の日本付近の気圧が低くなる。このような夏には、北日本を中心に、多雨、寡照、沖縄と奄美で高温となることがある。インド洋熱帯域の海面水温が南東部で平常より低く、西部で平常より高くなる場合を、正のインド洋ダイポールモード現象という。逆の場合を、負のインド洋ダイポールモード現象と呼んでいる。両現象ともに概ね夏から秋の間に発生するが、発生頻度は年代によって大きく変わり、2000年以降は正のインド洋ダイポールモード現象の発生頻度が高まっている。正のインド洋ダイポールモード現象では、夏から秋ごろにインド洋熱帯域南東部の海面水温が平常時より低く、その上空の積乱雲の活動が平常時より不活発となる。この時、ベンガル湾からフィリピンの東海上では、モンスーンの西風が強化される。そして、フィリピン東方に達するモンスーンの西風と太平洋高気圧の南縁を吹く貿易風の暖かく湿った空気により、北太平洋西部で積乱雲の活動が活発となる。このため、上空のチベット高気圧が北東に張り出し、日本に高温をもたらす。また、インド付近でも積乱雲の活動が活発になり、地中海に下降流を発生して高温化させる方向に働く。地中海は日本上空を通過する偏西風の上流に位置するため、偏西風の蛇行を通じて日本に高温をもたらすとも考えられる。なお、負のインド洋ダイポールモード現象については日本の天候への影響は明瞭ではない。インド洋を抜きにして、地球を語ることはできない。本書は、そのようなグローバルな観点から、一冊まるごと、インド洋という大海の魅力に迫り、この海ならではの自然現象の数々を、できるだけ平易に紹介している。また、インド洋と人間社会との関わりについても、少しであるが視野を広げたという。
第1章 インド洋とはどのような海かー二つの巨眼と一本槍をもつ特異なその「かたち」/第2章 「ロドリゲス三重点」を狙え!-インド洋初の熱水噴出口の発見/第3章 「ヒッパロスの風」を読むー大気と海洋のダイナミズム/第4章 インド洋に存在する「日本のふたご」-巨大地震と火山噴火/第5章 インド洋を彩るふしぎな生きものたちー磁石に吸いつく巻き貝からシーラカンスまで/第6章 「海のシルクロード」を科学するーその直下にひそむ謎の海底火山とは?
16.令和5年3月4日用
”南洋の日本人町”(2022年7月 平凡社刊 太田 尚樹著)は、17世紀初頭の朱印船貿易に伴って船員、貿易商人、牢人、キリスト教信徒らが多数海外に進出し東南アジア各地に集団部落を構成した日本人町の歴史を探索している。
16世紀後半以降に日本人は南方各地に進出し、最盛期の住人は、マニラに 3000人、アユタヤ (シャム) に山田長政以下1500人を数え、プノンペンにも町を構成した。同じ頃バタビアなどで現地民と雑居して町を形成している場合は、日本町と呼ばない。江戸幕府の鎖国政策後,次第に衰退した。明治の世が始まると、閉塞感を打ち破るかのように、多くの人々が海外へと飛び出していった。その中には、成功をおさめて現地にその名を残す者のほか、人知れず無縁墓地に眠る者たちも数多く存在した。日本の海外進出の先遣隊として南洋に渡った人々は、大戦に翻弄されながらいかに生きたのであろうか。太田尚樹氏は1941年東京生まれ、戦争のため神奈川県に疎開し、そこで育った。1964年に東京海洋大学を卒業し、1965年に同大学専攻科を修了した。1967年にカリフォルニア州立サンフランシスコ大学に入学し、1970年に単位満了により卒業し、カリフォルニア大学バークレー校大学院に入学した。1972年に交換制度によりマドリッド大学に転学し、社会学diplomaを修得した。1977年に東海大学に奉職し、1983年に東海大学外国語教育センター助教授を経て、教授になり、2005年に定年退職した。現在、同大学名誉教授で、専門は南欧文明史であったが、近年は昭和の日本史をテーマとするノンフィクションの分野における活動が続いている。欧米から極東と言われていた東洋の一画にある日本は、狭い国土に多くの民を抱え、資源の乏しい島国であった。それでも四方を海で囲まれているから、当然ながら日本人は海の向こうを意識した。そこで視野に入ってきたのが、かつて南洋と呼ばれた現在の東南アジアの国々であった。だがそこには日本よりも先に、大航海時代の大波と余波に乗って、スペイン、ポルトガル、オランダの南蛮諸国に加え、イギリスも進出を果たしていた。その勢いをかって南蛮船が渡来するようになったことも、日本側には刺激になった。そこで日本でも、幕府の直轄領であった大阪・堺の商人に貿易させたり、九州のキリシタン大名か朱印船を送り込んだ。これが、本書で扱ったフィリピン・ルソンのマニラ、ベトナムのホイアン、タイのアユタヤ、そしてマレーシアのマラッカであった。これらの地で交易がおこなわれた結果、必然的に日本人町が形成された。だが鎖国によって船も人間の往来もなくなり、人員の補給もできなくなって日本人社会は消滅してしまった。時代が明治に入って開国されると、志ある者は個々に南洋へ雄飛していった。それは脱亜入欧思想の反動として起きた、日本と近隣アジア諸国との関係強化を命題にした興亜論の先兵たちであった。時期を同じくして郷里の貧しさと「幸せは南洋にあり」の空気に後押しされて、長崎や熊本の「カラユキさん」と呼ばれた若い娘たちも海を渡っていった。住み着いたのはシンガポールとマレーシアのペナン、サンダカンであり、そしてフィリピンのマニラ、ダバオの日本人町であった。明治初期以後に芽生えた南進論は、日清・日露戦争の勝利によって欧米との対立構造と国際的な孤立を生むことになった。さらにこの思想は昭和初期になると、孫文や犬養毅、頭山満らの主張する欧米の支配を排除し、「アジアはアジア人の手で」という大アジア主義によって鮮明度を増した。南洋への関与はいくつかの形で足跡を遺してきたが、戦前の日本でいわれた「南進論」は、概念において二分されていたとみることかできる。女性も含めた経済活動の先鋒をつとめた日本人の南方進出と、日米開戦前夜に熱い視線を集めた、武力を背景にして現地の豊富な天然資源を獲りにゆく南進論である。後者の南進論については、結果的にこの国策は南洋の日本人町だけにとどまらず、現地の人にも悲劇をもたらすことになった。それとはまったく別に、マニラやアユタヤ、ホイアンにみられたように、鎖国以前から、交易基地としての日本人町が形成されていた事実もあった。なかでも朱印船の活動による南蛮貿易は、戦国大名たちや徳川幕府による積極的経済活動を担ってきたが、渡来品にむけた諸大名の熱い視線をうけて、藩の財政を潤してきた。だが鎖国が解けて明治の世が明けると、それまで各藩に分かれていた縦割りの組織が崩れ、曲がりなりにも新国家日本がスタートすると、民の姿勢も変わってきた。かけがえのない人生を、南洋各地に「夢」という、ときに実体感をともなわない玉虫色の未来に駆けだしていった人々が、次々と出現した。200年もの間、鎖国で閉塞していた日本には、外に向けたとてつもないエネルギーが溜まり、熱いマグマとなって流れでる現象か起きた。近代に向かう変革の胎動は、志ある人々を着実に突き動かしたのである。海外雄飛、それはいずれも外向きの好奇心と夢をもった人間たちであった。そのなかに、禄を失い刀をそろばんにもち替えた侍、南方の資源を商った一獲千金を夢みる商人、伝統の技を新天地で生かそうとする職人だちがいた。明治政府にとっても、それは資源保有と貿易拡大の先遣部隊であり、情報収集の協力者でもあった。その一方で、貧しさから家族を救うために、異国に出ていく娘たちもいた。娘子軍または、カラユキさんといわれた娘たちである。南洋に渡ったカラユキさんたちは、もとはといえば「幸せは南の島に宿る」と信じ、冒険心、一旗揚げたい野望に抗しきれなくなり、南に漕ぎ出した人々である。男たちの出身地がまちまちなのに比べ、女性たちは長崎、熊本の人が多い。長崎、熊本には港町があるだけでなく、南蛮渡来の切支丹を受け入れたように、南洋的精神風土があったということなのであろうか。そして日本は、「アジア人の手で」がいつのまにか「アジアの盟主として」に変わってしまい、勢いに乗った軍閥の指導で大東亜共栄圏構想となってしまった。日米開戦が近づいた1940年7月の第二次近衛内閣で決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」で、武力行使を含む南進政策という国策となった。興亜論に端を発した南進論は、南方資源の獲得を柱にした南進論となって、ついに武力進出まできてしまい、太平洋戦争となった。現在、東南アジアと呼ばれている地域は、戦前は南洋といういい方をした。現在のいい方は、主として戦後になってからの連合軍の借りものである。戦後は東南アジア諸国への賠償からはじまり、高度経済成長の波に乗って日本企業の現地進出となったが、日本人町はできなかったし、今後もないだろう。世界に広くみられる中国人街の場合は、祖国を捨てた移住型であり、長い歴史のなかで現地に中国人独自のコミュニティーを作ってきたことにある。日本が貧しかった時代と違い、日本人には中国人のような祖国の変貌には目も向けない小国の建設という思考はない。中国人とは土着性への感性も精神構造も違っているから、かつての日本人町のような社会を形成することはないだろうし、またその必要もない。それでも東南アジアヘの企業進出はますますつづき、さらなる東南アジアから日本へ来る労働者の受け入れもつづくであろう。そんな時代であるからこそ、かつて先人が造った日本人町の歴史に関心を持っていただければ幸いである、という。
序章 南洋進出の先兵たち/第1章 シンガポールの日本人町/第2章 マレー半島に足跡を刻んだ日本人たち/第3章 コスモポリタンの街ペナン/第4章 日本を魅了したボルネオ島/第5章 ルソン貿易の基地マニラーマニラ日本人町の先駆者たち/第6章 マニラ麻で栄えたダバオの光と影/第7章 鎖国以前からあったベトナムの日本人町/第8章 山田長政がいたタイ・アユタヤ
17.令和5年4月1日
”お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治”(2023年1月 朝日新聞出版刊 黒田 基樹著)は、織田信長の妹で浅井長政との結婚し柴田勝家と再婚した天下一の美人とされるお市の方の初めての評伝である。
お市の方=おいちのかたは、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、小谷の方=おだにのかた、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「お市姫」「お市御料人」とも言い、別の資料には「秀子」という名も見られる。織田信長の妹として、さらには「天下一の美人」と評された、戦国一の美女として知られている。その意味で戦国時代の女性としてもっとも著名な一人といえるかもしれないが、動向を伝える史料は極めて少なく、その生涯については概略しかわからない。著名にもかかわらず、実像はほとんど判明しないため、お市の方についての評伝書は、これまでほとんど見られなかった。史料が少なく実像も明らかにならないにもかかわらず本書で本格的に取り上げるのは、お市の方の織田家における政治的地位に注目したいからだという。とくに信長死後における地位が重要と考えられる。家老筆頭の柴田勝家と結婚し、死後に茶々、初、江の三人の娘が豊臣秀吉に引き取られ、やがて茶々は秀吉の別妻になり秀吉の嫡男の生母になった。お市の方は織田家でどのような政治的立場に置かれていたのであろうか、浅井長政との結婚、柴田勝家との再婚の歴史的・政治的な意味とはどのようなものであろうか。黒田基樹氏は1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程を単位取得満期退学した。1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり今日に至る。専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開している。歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めている。お市の方について、前半生はほとんど記録がなく不明である。実名も一次史料には見られず定かではない。通説では、1547年に尾張那古野城内で生まれたとされる。戦国大名の織田信長の妹または従妹で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀でその五女と伝えられ、母は土田御前とされている。しかし、生母については不詳で、土田御前を生母とする説では、信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になる。子に豊臣秀吉側室の茶々、京極高次正室の初、徳川秀忠継室の江がいる。孫にあたる人物には、豊臣秀頼、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子などがある。江の娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。婚姻時期については諸説あり、古くは1564年と考えられてきた。浅井長政は戦国時代の武将であり、北近江の戦国大名で浅井氏の3代目にして最後の当主である。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。1565年12月に和田惟政が織田と浅井両家の縁組に奔走したものの、長政側の賛同を得られずに一度頓挫した。婚姻は次の機会の、1567年9月または1568年1月から3月ごろであったとされる。このころ長政側から急ぎ美濃福束城主の市橋長利を介して、信長に同盟を求めてきたとされ、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされる。この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。その後、長政との間に、茶々、初、江の3人の娘を設けました。なお、この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている。1570年に信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったようである。なお、江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したという説がある。長政が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、長政とその父の久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘と共に、藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られた。その後は、従来は市と三姉妹は伊賀国の兄の信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされたが、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説も出ている。この説では、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居したことになる。柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名で、織田氏の宿老であり、主君の織田信長に従い天下統一事業に貢献した。本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推した。明智光秀を討伐した秀吉が、信長の嫡孫の三法師、後の織田秀信を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなった。ただし近年、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催は三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されているという。この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚した。従来は信孝の仲介とされてきたが、勝家のお市への意向を汲んで、秀吉が動いたと指摘されている。清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まった。勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで、秀吉と対抗した。だが、秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔した。次に、岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させた。1583年3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙した。事前に勝家は、足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を出したが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めた。しかし、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害した。お市の方は、戦国時代の女性としてもっとも著名な一人である。そのエピソードとして、「天下一の美人」と評されたこと、兄信長に夫長政の離叛を密かに伝えた小豆袋の話がよく知られている。また信長の死後に、羽柴秀吉がお市の方に想いを寄せていたという話もあるという。しかしそれらのエピソードは、当時の史料によるのではなく、後世成立のものにみられている。それらが事実かどうか、きっちり検証する必要があろう。当時の状況を伝える信頼性の高い史料に、「渓心院文」と「柴田合戦記」がある。そこでは、長政との死別については、「御くやしく」思っていたと、また「ことの外御うつくしく」と、記されているという。そして、柴田勝家と死をともにすることについて、「たとい女人たりと雖も、こころは男子に劣るべからず」と発言したそうである。そこからは、「美しさ」とともに、非常に信念の強い女性であったことが伺える。本書においては、当時の史料、あるいは当時の状況を伝える信頼性の高い史料を中心にして、お市の方の生涯をたどることにしたい。そのなかでお市の方が、織田家においてどのような政治的地位にあったのか、それが生涯をどのように規定し、また三人の娘の生涯に影響を及ぼしたのか、考えていくことにしたい。こうしたことから本書は、お市の方について本格的に検討する、初めての書籍となるであろう。巻末には、お市の方に関する重要史料二編を収録した。お市の方に関する史料は少ない中、重要にもかかわらず全体を容易に参照できない状態にある史料が存在している。お市の方についての記述は一部分にすぎないが、史料の性格を認識するためには全体の把握が必要になる。そこで一般の人々や、これからの研究のための便宜をはかって、二編について全文を収録することにした。今後の関連研究の進展に寄与することは間違いないであろう。お市の方の生涯については、現状において可能な限り解明することはできたと思うが、一方で、関連する事柄について課題ばかりが認識されるものとなったという。今後、信長の一族や家族についての解明がすすんでいけば、本書での想定についても考え直さなければならないことも出てくるかもしれない。それらについての解明が本格的に進展していくことを期待したいという。
第1章 お市の方の織田家での立場(「お市の方」の呼び名/本名は「いち」/「いち」は「市」であったか/お市の方の姉妹たち/確実に確認できる信秀の娘たち/生年は何年か/姉妹のなかでの長幼関係/母はどのような存在か/信長の養女となったか)/第2章 浅井長政との結婚(結婚に関する唯一の史料/結婚の経緯/浅井長政の前半生/長政は戦国大名か、国衆か/長政と織田信長との関係/三人の娘を生む/小豆袋の話の真実/小谷城からの退去)/第3章 柴田勝家との結婚(織田家での庇護者/柴田勝家と結婚する/なぜ勝家を結婚したのか/信長百日忌主催の意味/お市の方の覚悟/三人の娘を秀吉に引き渡す/お市の方の最期/「天下一の美人」は本当か)/第4章 三人の娘の結婚(秀吉の庇護をうける/秀吉から茶々に結婚の申し入れ/江と佐治信吉の結婚は事実か/初と京極高次の結婚/江と羽柴秀勝の結婚/茶々は秀吉の別妻になる/江と徳川秀忠の結婚)/史料集
18.4月15日
”黒田孝高”(2022年9 吉川弘文館刊 中野 等著)は、播磨国に生まれ毛利攻めをすすめる織田信長に接近しのちに豊臣秀吉に臣従した九州平定後の豊前を支配し領国経営に励んだ官兵衛、如水の号で知られる黒田孝高の生涯を紹介している。
黒田孝高=くろだよしたかは1546年播磨国の姫路生まれ、諱は初め祐隆、孝隆、のち孝高といった。通称をとった黒田官兵衛=かんべえ、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水=じょすいとして知られている。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、軍師であり、また、洗礼名ドン・シメオンというキリシタン大名でもあった。軍事的才能に優れ、戦国の三英傑に重用され、特に豊臣秀吉の側近として、調略や他大名との交渉などで活躍し、のち、筑前国福岡藩祖となった。秀吉の参謀と評され、後世、竹中半兵衛とともに、両兵衛、二兵衛と並び称された。ただし、このような評価は必ずしも学術的な裏づけをもつものではないという見解もある。1589年に子の長政に豊前の所領12万石を譲ったが、なおも秀吉に用いられ、朝鮮出兵にも参加した。秀吉没後に石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは長政を関ヶ原に出陣させ、みずからは豊前に残って大友義統を滅ぼし三成派を一掃した。中野 等氏は1958福岡県嘉穂郡生まれ、1985年に九州大学大学院文学研究科博士後期課程を中退し、1995年に豊臣政権の研究で文学博士となった。柳川古文書館学芸員、九州大学大学院比較社会文化研究院助教授を経て、2006年より九州教授となった。黒田氏は賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村、現在の滋賀県長浜市木之本町黒田の出身とされるが、定かではない。孝高の祖父の重隆の代に、備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主の赤松政秀、後に守護の赤松晴政の重臣で、御着城を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職、政職父子に仕えた。小寺氏は黒田氏を高く評価し、1545年に重隆を姫路城代に任じた。重隆の子の職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせた。孝高は職隆の嫡男として、播磨国の姫路に生まれた。1561年に小寺政職の近習となり、1562年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾り、この年から小寺官兵衛を名乗っている。1567年頃、孝高は父の職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光=てるを正室に迎え、姫路城代となった。また、従兄弟の明石則実との同盟を結んだ。1568年9月に、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となった。1569年に、毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが、尼子勝久を擁して、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、元就の背後をつく形で再興のために決起した。元就は義昭に救援を要請し、祐豊に対して木下秀吉が率いる2万の兵が差し向けられた。さらに、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3、000の兵を率いて攻め込んできた。政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しか無かったが、奇襲攻撃などで2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功した。政秀は浦上宗景に攻められ降伏し、この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になり始めた。1573年に、包囲網は甲斐国の武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返した。4月に東播磨の三木城主の別所長治が攻めこんで来て、7月に内紛により三好氏の篠原長房が討死した。9月に信長が浅井長政を討って義昭を追放し、12月に浦上宗景が信長と和睦した。1575年に、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君の小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言した。7月に羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀を授かった。さらに年明けには政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させた。一方、9月に浦上宗景が宇喜多直家に敗れ、小寺氏の元に落ち延びてきた。1576年1月に、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して、信長より離反した。2月に義昭は、毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れた。4月に信長と本願寺の和睦が決裂し、7月に輝元の叔父の小早川隆景配下の水軍の将の浦宗勝が、信長の水軍を破った。1577年5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させた。孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5、000の兵を退けた。この戦いの後、長男の松寿丸を人質として信長の元へ送った。10月に、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで、姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供した。そして自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになった。1578年に、荒木村重が信長に背いたとき、単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たったが、捕らえられて城中に抑留された。翌年、信長により有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉に重く用いられることになった。小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころである。1582年に清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策した。本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、天下を取る好機とけしかけたといわれている。その後、山崎の戦、賤ケ岳の戦、そして四国攻めと戦功をあげ、1586年に秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り、九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行った。九州攻め後、豊前中津城12万石を与えられたが、1589年に家督を子長政に譲ったものの、まったく隠居したわけではなく、翌年の小田原攻めにも軍師として従軍した。1600年の関ケ原の戦のときは、子の長政と共に東軍に属し、長政は家康に従って関ケ原に出陣していた。豊後中津城で留守を守っていた孝高は、浪人を傭い入れ、旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦って破った。関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島52万石への大幅加増移封をした。その後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示した。しかし、如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えた。また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に療養滞在した。1604年4月19日の辰の刻、京都伏見藩邸にて享年59歳で死去した。今日、「軍師」として語られる人物の多くは、江戸期に隆盛した軍学の始祖に位置づけられている。実際の戦場体験から会得された戦法や陣方を基に理念的な整理がなされ、体系化されて軍学が成立し、甲州流・越後流・北条流・長沼流などさまざまな流派として伝授された。「軍師」はその体現者として、実際の戦という史実と、理念が求めた虚構の間に、位置づけられた。いずれにしろ、「軍師」という概念は黒田孝高にとっても後世のものにすぎず、その人物を評するにあたって前提におくべきものではない。今日の孝高像が創られる上で規定的な役割を果たしたのが、貝原益軒の編著「黒田家譜」であろう。貝原益軒は、福岡黒田家に仕えた儒学者であった。1671年に、孝高の曽孫にあたる福岡黒田家の三代光之は、益軒に黒田家の家史編纂を命じた。この益軒が17年間をかけて完成させたのが「黒田家譜」16巻である。今日からみても有用な書物であるが、孝高の没後7、80年を経ての著述であり、また、黒田家の「正史」であるがゆえの限界は否定できない。説話的教訓的な要素もあると考えられ、史実としての信憑性は必ずしも高くない。「黒田官兵衛」ないし「黒田如水」のイメージは、史実とは別次元の場で増幅され、再生産されたと思われる。とはいえ、一次史料の伝存状況に限りがあることは否めない。こうした欠を幾分かでも補うため、本書では幕末から明治にかけて活躍した長野誠の遺業に大きく依拠したという。長野誠は、福岡黒田家に仕える長野家の養子となり、幕末の福岡黒田家で、学問所本役や軍事御用1891右筆格などを務めた人物である。福岡黒田家11代当主の長溥から依頼をうけて、黒田家の家史編纂に従い、1891年に享年84で没した。本書の目的は、虚実交々に語られてきた黒田孝高の生涯を、当時の一次史料から追い、それをもとに人物像を再構築することにあるという。
はじめに/播磨・黒田家(孝高の出自と戦国時代の播磨/孝高の祖父重隆/孝高の父職隆)/小寺家の家臣として(孝高の登場/織田と毛利のはざまで/家督継承と織田家への接近/別所長治の謀反/摂津有岡城での幽囚/摂津・播磨の状況)/羽柴秀吉への臣従(黒田苗字に復す/秀吉のもとで/本能寺の変/織田家中の争いと毛利家との対峙)/中国・四国経略(毛利家との領界交渉/小牧合戦と紀州平定/四国出兵/孝高の洗礼)/九州平定(先駆けとしての九州出勢/豊前国内での転戦/日向への侵攻)以下細目略/豊前での領国支配と家督移譲/失意の朝鮮出兵/再起を期した「関ヶ原」/孝高の晩年と慰め/孝高の死/むすびにかえて―その後の黒田家/黒田孝高関係系図/略年譜
19.4月29日
”里見義尭”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)は、安房・上総を基盤に庶家に生まれながらも一族の内乱に勝利し家督を継ぎ里見氏の最盛期を築いた戦国大名の里見義尭の生涯を紹介している。
里見義尭=さとみよしたかは1507年に里見実尭の子として生まれ、字は権七郎といい、のち入道して岱叟正五と号した。庶家ながら、1534年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪った。1537年に北条氏と手切れし以後40年におよぶ対立を続け、上総へ進出してからは久留里城を本拠として、三浦・下総へも進出して勇名をはせた。上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返し上総支配を固め、戦国大名として里見氏を発展させた。滝川恒昭氏は1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了した。千葉県公立高等学校教員を経て、現在、千葉経済大学非常勤講師を務めている。里見義堯は安房里見氏の第5代当主の安房の戦国大名で、父親は里見実堯、母親は佐久間盛氏の娘である。幼名は権七郎といい、官職は刑部少輔で、正室は土岐為頼の娘、子に義弘、堯元、堯次、義政がある。いまの千葉県南部から中央部にあたる安房・上総の二ヵ国を基盤に、子息義弘とともに戦国大名里見氏の最盛期を築いた。中国地方の戦国大名毛利元就、大内義隆などとほぼ同時代の人で、関東で関わりのあった大名では、北条氏康より8歳、武田信玄よりは14歳、上杉謙信よりは23歳年長である。1533年7月27日に、里見氏の家中で内紛が発生し、後北条氏と通じていた父実堯が従兄の本家当主義豊に殺された。これは稲村の変とか天文の内訌とか言われ、義豊が叔父の里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子の里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討ったとされている。だが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになったという。実堯・義堯父子が仇敵である北条氏綱と結んだクーデターの動きに、義豊が対抗しようとした動きであったと考えられている。氏綱の軍を借りてクーデターに成功したが、真里谷信清が死去して真里谷氏で家督をめぐる抗争が起こると、義堯は真里谷信応を、氏綱は真里谷信隆を支持したため、氏綱と敵対関係になった。しかし義堯は関東に勢力を拡大していた氏綱に単独で挑むことは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結んで対抗した。そして、1537年に真里谷信隆を攻めて降伏させた。1538年の第一次国府台合戦で義堯も戦闘に参加したが、大将は足利義明であったこともあって、里見軍の主力はあまり積極的に戦わなかった。結果として、義明の戦死は義堯にとって関東中央部への飛躍の機会となった。義明の死後、義堯は味方側であった下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げた。1552年に、北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生した。1554年に氏康と今川義元、武田信玄との間で、三国同盟が締結された。氏康は1553年4月より北条綱成や北条氏尭を派遣して、毎年のように房総半島に侵攻して、沿岸の金谷城や佐貫城を攻略した。1555年には、上総西部のほとんどが後北条氏に奪われることになった。この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図った。越後の上杉謙信と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せた。1556年には里見水軍を率いて北条水軍と戦い、三浦三崎の戦い勝利した。1560年に氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。1562年に剃髪し入道して、家督を子の義弘に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けていた。1564年に北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃った。緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取ったが、翌明け方に氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死し、第二次国府台合戦に敗戦を喫した。これにより義堯・義弘父子は、上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなった。しかしその後、義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回した。1566年末頃までに、久留里城・佐貫城などの失地は回復した。これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗した。1567年8月に、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲した。北条氏康は嫡男氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へ向かわせた。これに対し義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破った。水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は、三浦口より安房へ侵入しようと試みたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出した。これらの情勢により、水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなった。この三船山での勝利により、里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになった。その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれたが、義堯は1574年に久留里城にて享年68歳で死去した。里見氏の存在自体はいまもよく知られている。それは江戸時代後期の大ベストセラー、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の影響によるものである。「八犬伝」は、いまなお歌舞伎・演劇・映画・テレビの題材のみならず、その全体構図や登場人物は姿や形を変えて、アニメ・ゲームといった多様なジャンルのストーリーやキャラクターとして再生産され続けている。したがって、いま一般にイメージされる里見氏像といえば、「八犬伝」をペースにしたものに、江戸時代以降の人々の想像や願望で作られた系図一軍記などの物語の要素が加味された。これはさまざまな事情が積み重ねられて出来上がった、まったく虚構の姿となっているが、反面、里見義尭の存在はもとより、戦国大名里見氏の正確な歴史はほとんど知られていない。これまで大野太平氏や川名登氏などによって、房総里見氏の歴史を解明し、架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた里見氏の歴史像を描こうとしてきた。本書もこの路線を継承するなかで、里見義尭の生涯と人物像、さらにその時代を、史料に即して描こうとしたという。しかし、房総里見氏初代とされる義実から義豊まで数代あったはずなのに、その関係史料もほとんどといってよいほど残っていない。また、義尭は本来なら里見家家督にも、ましてや歴史に名を残すようなことはなかったはずの人物である。だが、一族内の権力闘争から発展した内乱の最終的な勝者となって、歴史の表舞台に登場し、以降この義尭を祖とする系統が里見氏の嫡流となった。それだけに後世の里見氏継承者からも、義尭はまさに特別な存在として後々まで意識された。そのようなことから、義尭が滅ぼした嫡流の系統を前期里見氏、義尭以降の里見氏を後期里見氏と分けて考えることを提唱したという。
はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏)/あとがき/里見家略系図/略年譜
20.令和5年5月13日
”中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流”(2018年11月 吉川弘文館刊 清水 亮著)は、平安時代末に武蔵国男衾郡畠山、現在の深谷市を本拠として武勇に優れ清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と称された有力御家人の畠山重忠の生涯を紹介している。
畠山重忠は1164年生まれ、平安時代の終わり頃から鎌倉時代のはじめにかけて活躍した武蔵国を代表する武将で、大族秩父氏の一族で、畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子である。源頼朝の挙兵にあたり、はじめ平家方について三浦氏を攻めたが、のち帰順して平家追撃軍に加わり各地に転戦した。治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。1187年の梶原景時の讒言によって、謀反の罪を着せられそうになったが、謀反を企てているとの風聞が立つのは武士の眉目と語って、嫌疑を一蹴したという。1205年に平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の陰謀にまきこまれ、子の重保が鎌倉由比ヶ浜に誘殺され、ついで重忠にも大軍がさし向けられた。このとき重忠は本領に帰って、決戦を勧める郎党の言を制し寡勢でこの大軍を迎え撃ち、一族郎党とともに討死したと言われる。清水亮氏は1974年神奈川県生まれ、1996年に慶應義塾大学文学部を卒業し、2002年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学した。2005年に学位論文により早稲田大学より博士号(文学)を授与され、2007年より埼玉大学教育学部准教授を務めている。畠山氏は坂東八平氏の一つの秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷、現在の埼玉県深谷市畠山を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていたが、父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えた。1180年8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵した。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走し、相模国まで来ていた畠山勢は頼朝方の三浦勢と遭遇し合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡した。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った。その後9月に頼朝が安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えた大軍で房総半島に進軍し武蔵国に入った。すると10月に重忠は、河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍し、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。1183年に平家を追い払って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の源範頼と義経に6万騎を与えて近江国へ進出させた。翌年正月に、鎌倉軍と義仲軍が宇治川と勢多で衝突し、義経の搦手に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏を組んで真っ先に宇治川を押し渡った。宇治川の戦いで範頼、義経の鎌倉軍は勝利し、義仲は滅びた。1184年2月に、範頼と義経は摂津国福原まで復帰していた平家を討つべく京を発向し、重忠は範頼の大手に属していた。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れた。その後、頼朝は範頼に大軍を預けて中国・九州へ遠征させたが、『吾妻鏡』ではこの軍の中に重忠の名は見当たらない。1185年3月に、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。その後、頼朝と義経は対立し、義経は京で挙兵するが失敗して逃亡した。義経の舅の河越重頼は連座して誅殺され、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承した。1186年に義経の愛妾の静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めた。1187年に、重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨で彼の代官が狼藉をはたらいたため、重忠の身柄は千葉胤正に囚人として預けられた。頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免するが、重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると侍所所司の梶原景時がこれを怪しみ謀反の疑いありと讒言した。頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか審議したが、小山朝政が重忠を弁護し、とりあえず、下河辺行平が使者として派遣されることになった。行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとするが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得した。景時が取り調べにあたり、起請文を差し出すように求めるが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張った。これを景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与えて帰した。1189年夏の奥州合戦で先陣を務め勝利し、藤原泰衡は平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅びた。奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられた。1190年に頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。1193年に武蔵国の丹党と児玉党の両武士団の間に確執が生じ、合戦になる直前にまでおちいった際に仲裁に入り、和平をさせ国内の開戦を防いだ。1199年正月の頼朝の死去に際し、重忠は子孫を守護するように遺言を受けたという。1203年の比企能員の変では、重忠は北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼした。畠山氏が成立した12世紀前半~中葉は、日本中世の成立期にあたる。この時期、日本列島各地に荘園が形成される一方、各国の国府の行政組織が管轄する公領も、中世なりの郡・郷として確定されていった。荘園と公領が一国内に併存し支配の単位として機能した荘園公領制を基盤として、中世前期の支配システムである荘園制が成立した。そして、中世前期の在地領主は都鄙間に立脚して所領を支配し、その所領を超えた地域の住民に影響力を行使する存在であった。だが、全ての武士が在地領主であったわけでも、在地領主の全てが武士であったわけでもない。武士とは武芸を家業とする職業身分であり、地方の所領に本拠を形成し、収益を取得する在地領主とは、そもそも異なる。本書では、近年の武士研究・在地領主研究の達成をふまえ、武士(団)・在地領主としての畠山重忠・畠山氏のあり方をできる限り具体的に示すことを目指すという。畠山重忠の振る舞い・言説に関する史料は多く残されているが、そのほとんどは鎌倉末期に成立した『吾妻鏡』や、『平家物語』諸本の記事である。在世中においても一流の武士としての評価を得ながら、北条時政らのフレームアップによって非業の死を遂げた重忠の振る舞いの言説については、『吾妻鏡』編者などによる賛美(曲筆)の可能性が古くから指摘されてきた。本書ではこのようなスタンスのもと、『吾妻鏡』『平家物語』諸本の記事に加え、諸系図や考古学の成果・現地調査の成果などを援用することによって、武士団・在地領主としての畠山氏のあり方に迫っていきたいという。
畠山重忠のスタンスープロローグ/秩父平氏の展開と中世の開幕(秩父平氏の形成/秩父重綱の時代)/畠山重能・重忠父子のサバイバル(畠山氏の成立と大蔵合戦/畠山重忠の登場)/豪族的武士としての畠山重忠(源頼朝と畠山重忠/在地領主としての畠山氏)/重忠の滅亡と畠山氏の再生(鎌倉幕府の政争と重忠/重忠の継承者たち )/畠山重忠・畠山氏の面貌ーエピローグ/あとがき
21.5月27日
”家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる”(2022年10月 平凡社刊 黒田 基樹著)は、今川家の血脈を受け継ぎ徳川家康の人質時代にその正室となったがのちに武田家との内通疑惑があがり織田信長から死罪を命じられ嫡男信康とともに生涯の幕を閉じた築山殿の生涯を紹介している。
築山殿=つきやまどのは徳川家康の正室だが、生年は不詳で実名は不明である。1579年9月19日に亡くなった、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。瀬名の名があてられことがあるが、当時の史料にも江戸時代前期の史料にも瀬名の名はみられない。築山の由来は岡崎市の地名で、具体的な場所は”岡崎東泉記”によると、岡崎城の北東約1キロほどに位置する、岡崎市久右衛門町であったとされる。父親は関口親永(氏純とも言われる)、母親は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいと推測されている。母親は井伊直平の娘で先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合、井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。関口氏自体は、御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であった。家康(当時は松平元信、その後松平元康)が今川氏一門である関口氏の娘婿になったのは、今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。築山殿に関する当時の史料はわずか一つだけで、その動向を伝えるものは江戸時代に成立した史料かほとんどである。江戸時代がすすむにつれて、その動向は様々に伝えられるようになり、また解釈されていくようになった。本書では、江戸時代の成立ではあるができるだけ内容の信頼性が高い史料をもとに、その実像を明らかにしていく。黒田基樹氏は1965年生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)を単位取得満期退学した。1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授となり、2012年に教授となって、今日に至っている。築山殿の生涯における最大の謎は、築山殿が家康に殺害された、とされていることであろう。嫡男松平信康もまた同時に家康に殺害されたものであった。そのため、それは「築山殿事件」「築山殿・信康事件」あるいは「信康事件」などとも呼ばれている。1579年7月16日に信長から家康に、築山殿と信康に謀反の疑いがあると通告があり死罪を命じられた。それを訴え出たのは、信長の娘で信康の正室となっていた徳姫であった。信康は家康の独立時には駿府にいて母の築山殿と取り残されたが、まもなく救出されて岡崎城に入った。1563年に5歳で信長の娘・徳姫と婚約し、やがて元服して岡崎城を任ぜられた。徳姫との間には2女を儲け、夫婦仲はよかったというが、やがて築山殿と徳姫が不和となると、最期は築山殿とともに謀反の嫌疑をかけられ、信長から死罪を命じられて自害した。徳姫がいつまでたっても息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘など、部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた。1579年に徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送ったという。築山殿は8月29日に自害を拒んだことから首をはねられ、信康は9月15日に二俣城で自害した。もう一人の子の亀姫は、1576年に家康が長篠の戦いで功をあげた旧武田家臣の奥平信昌に娶らせた。亀姫は信昌との間に4人の男児と1女を設け、信昌の死後は剃髪して盛徳院と号した。おそらく、築山殿事件は家康にとっては寝耳に水の事態だったと思われる。経緯についてはある程度は把握することかできているが、真相を伝える史料は存在していない。そのため事件の真相をめぐって、先行研究において様々な解釈か出されている。その解釈は、詰まるところ、家康と築山殿・信康をめぐる政治環境をどのように理解するかによっている。本書でも事件の真相に迫っていくが、信頼性の高い史料にもとづいて事件の輪郭を描き出し、築山殿の立場を、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からしっかりと評価したい、という。戦国大名家は、当主たる家長と、正妻たる「家」妻との共同運営体とみなされる。そこでは正妻あるいは「家」妻が管轄する領域があり、その部分に関しては、当主あるいは家長であっても独断で処理できず、正妻あるいは「家」妻の了解のもとにすすめられたと考えられる。戦国大名家の妻妾については、「正室」「側室」の用語か使用されることか多いが、「側室」は江戸時代に展開された一夫一妻制のもと、妾のうち事実妻にあたるものについての呼称である。しかし、戦国時代はまだそのような状況にはなく、当時は一夫多妻多妾制であった。家康には正室・継室のほかに、16~20人を超える側室をかかえたとされている。側室の多くは実は身分の低い者たちで、特に寵愛したのは名もない家柄の娘たちであった。名家の出身者ばかりを側室にしていた豊臣秀吉とは対照的で、家康は出自には全くこだわらなかったようである。たとえば、小督局=こごうのつぼねは家康の最初の側室とされ、家康二男・結城秀康の生母として知られる。はじめは築山殿の侍女であったが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたという。築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ、これをたまたま見つけた家康の家臣の本多重次に保護され秀康を出産した、という。また、秀康双子説もあり、当時双子は忌み嫌われていたことから母子ともに家康に疎まれたという。西郷局=さいごうのつぼねは遠州の名もない家柄の娘で、通称はお愛の方という。はじめは下級武士に嫁いで一男一女を設けたが、夫が戦死し、のちに家康に見初められて側室となった。家康最愛の側室といわれ、江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもある。美人で温和な人柄といい、家康のほか、周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていたという。築山殿の動向、そして殺害事件は、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からみていくと、どのように理解することかできるかが、本書の眼目になる。何事も、視点か転換すると違う様相がみえてくる。これから、新たな視点をもとに、築山殿の生涯をたどっていくことにしたい、という。これまでに築山殿の生涯をまとめた書籍かなかったわけではない。しかしそれらは、正妻や「家」妻についての研究が進捗していない段階のもので、依拠する史料も、江戸時代成立のものについて、内容の信頼性の高さ低さを区別なく用いられていた。本書では、現在の研究水準をもとに、信頼性の高い史料によりながら、築山殿の生涯を描き出すことをこころがけた、という。
第1章 築山殿の系譜と結婚(「築山殿」の呼び名/築山殿の父は誰か ほか)/第2章 駿府から岡崎へ(松平竹千代(徳川家康)の登場/竹千代「人質」説の疑問 ほか)/第3章 家康との別居(嫡男竹千代の岡崎帰還/諸史料が伝える人質交換 ほか)/第4章 岡崎城主・信康(岡崎城主としての信康の立場/信康の初陣はいつか ほか)/第5章 信康事件と築山殿の死去(家康による武田家への反撃/信康の悪行のはじまり ほか)
22.令和5年6月10日
”尋尊”(2021年10月 吉川弘文館刊 安田 次郎著)は、室町時代中期の僧侶で時代の転換期に門跡の舵を取り詳細な史料を書き残し応仁文明の乱や明応の政変の動向や当時の社会・経済・文化を現代に伝えた尋尊の生涯を紹介している。
尋尊は1430年生まれの室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧で、大乗院門主であった。興福寺は奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つである。藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺として中世にかけて強大な勢力を誇った。父親は一条兼良で、室町時代前期から後期にかけての公卿・古典学者である。関白左大臣・一条経嗣の6男で、官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮であった。尋尊は1438年に大乗院に入室し、2年後に得度、受戒した。1441年に大乗院門跡を継承し、1456年から1459年まで興福寺別当を務めた。その日記”大乗院寺社雑事記”は、寺院経営だけでなく応仁・文明の乱前後の激動する社会を活写する史料として重要である。また、年代記”大乗院日記目録”をまとめた。安田次郎=ヤスダツグオ氏は1950年奈良県生まれ、専攻は日本中世史で、1979年東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退した。2002年に東大文学博士となり、お茶の水女子大学文教育学部助教授、同人間文化創成科学研究科教授を務め、2015年定年退任し、名誉教授となった。尋尊は興福寺180世別当、大乗院第20代門跡であった。大乗院は興福寺にあった塔頭の一つで、1087年に藤原政兼の子の隆禅が創建した。その後、関白藤原師実の子・尋範が継承したことから、摂関家特に九条家系の勢力が強かった。第4代院主・信円の頃に門跡寺院とされ、中世には一乗院と並ぶ有力な塔頭で、門主は摂関家や将軍家の子弟から迎えていた。尋尊は1438年に、室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院した。経覚は1395年生まれの法相宗の僧侶で、母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を、4度務めたことでも知られている。尋尊は1440年に得度し、維摩会研学竪義を遂げ、少僧都・大僧都を経て僧正に任じられ、1456年に興福寺別当に就任した。維摩会は仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の集まりで、奈良時代には宮中の御斎会・興福寺の維摩会・薬師寺の最勝会の3つの法会が重要視された。この3つの法会の講師を務めた僧は三会已講師と称され、この講師を務めることが僧綱に昇進するルートであった。尋尊はのち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。1467年から1477年まで続いた応仁の乱では、父親兼良の日記”藤河ノ記”を兵火から守った。これは兼良の紀行文で、応仁の乱による混乱から奈良に避難していた作者が、家族に会うために美濃国へ往復した際の出来事や、歌枕に寄せた和歌などが記されている。応仁の乱は、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の2大有力守護大名の対立を生んだ騒乱である。やがて、幕府を東西2つに分ける大乱となって、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となり、戦国時代移行の大きな原因の一つとされる。尋尊は大乗院に伝わる日記類を編纂し、”大乗院日記目録”を作成した。これは大乗院に伝来した日記類を、第27代門跡尋尊が編集した書物である。全4巻、記録された範囲は1065年から1504年までに及んでいる。原本は国立公文書館内閣文庫蔵で、1428年に起こった正長の土一揆などの大事件に関する記述がある。尋尊は見聞したことを多くの記録に書き記したが、自身の日記”尋尊大僧正記”は興福寺に関することのみではなく、この時代を知る上での必須の史料である。この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記を併せ”大乗院寺社雑事記”と呼ばれ、室町時代研究の根本史料の一つとなっている。これは約190冊あり、原本は1450年から1527年までが現存し、国立公文書館が所蔵し、重要文化財に指定されている。尋尊の母親は権中納言中御門宣俊の娘で、出生地は、南は一条大路、北は武者小路、西は町通り、東は室町通りに囲まれた一条殿で、現在「一条殿町」という地名が残っている。生まれたとき、父は29歳、母は26歳で、ふたりはすでに3人の男子とひとりの女子を儲けていて、尋尊に摂関家のひとつである一条家の家督を継承する可能性はほとんどなかった。興福寺の大乗院に入室することになったのは偶然といえるが、いずれ京都あるいは奈良の寺に入って僧として一生を送ることは最初からほぼ決まっていたという。父親の兼良は、日本史教科書に必ずといっていいほど登場する有名人でその、一生は古典学者として日本の歴史の上に大きな足跡を残した。しかし、尋尊は教科書に名前が出てくることはまずなく、一般にはほとんど無名の存在である。しかし、いわゆる英雄や偉人とは違うが、尋尊もある意味で歴史の上に大きな足跡を残した。時代や社会が大きく室町時代から戦国時代に転換した時期に、応仁・文明の乱、明応の政変について、半世紀にわたる克明な日記”大乗院寺社雑事記”をはじめ、欠かすことができない膨大な史料を書き残した。その日記や著述物、書写・編纂したものなどは、この時代の政治、経済、社会、文化を解明するために欠かせないものであるが、まだきちんと解読されていないものも多い。これらが活用されれば、さらに奥行きのある豊かな歴史が描かれるだろう。最近では遺跡や遺物、絵画、地名、伝承など多様な史料が駆使されて歴史研究は行なわれているが、文献がもっとも雄弁な史料であることに変わりなく、尋尊の功績は計り知れない。当時、大乗院はさまざまな危機のなかにあり、最大のものは荘園領主としての危機である。社会の基礎をなした荘園制は大きく揺らいでいて、荘園と末寺をつなぎ止めておくことは容易なことではなかった。門主としての尋尊に課せられた役割は、大乗院をできるだけ本来の姿で次の世代に引き渡すことであった。尋尊が日記をはじめとして多くのことを毎日筆記したのは、押し寄せる荒波から大乗院を守るためであり、必ずしもあったことを忠実に記録して後世に残すためというわけではなかった。とすれば、尋尊の書き残した記事のなかには、大乗院の不利になるようなことは省かれ、あるいは都合よく書き換えられたものもあるかもしれないと考えなければならない。本書は、門跡繁昌のために超人的な努力を重ね、その結果として貴重な史料を膨大に残してくれた僧の一生を、その日記を主な材料にして描こうとするものである。
はしがき/第1 一条若君/第2 興福寺別当/第3 門跡の経営/第4 応仁・文明の乱/第5 大御所時代/第6 内憂外患/一条家系図/略年譜
23.6月24日
”シチリアの奇跡 マフィアからエシカルへ”(2022年12月 新潮社刊 島村 菜津著)は、かつてマフィアの島と言われいまもその面影が残っている中で、オーガニックとエシカル消費の最先端へと向かっているシチリアを、10年以上現地取材し伝えようとしている。
シチリア島は、イタリア半島の西南の地中海に位置し州都をパレルモとする、イタリア領の地中海最大の島である。は周辺の島を含めてシチリア自治州を構成しており、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。紀元前にはギリシア人植民者とカルタゴが争い、後のポエニ戦争でローマの支配下に入り、6世紀にはユスティニアヌス大帝の東ローマ帝国に属した。9世紀後半にはイスラムが掌握し、中心拠点となったパレルモは3000人ほどの町から30万人を超える都市に急成長し、イスラムの中心都市として繁栄した。11世紀に北欧のノルマン人が征服し、ムスリムとも共存して多文化が融合したシチリア王国として繁栄した。その後、フランスのアンジュー家、アラゴン、スペインなどに次々に支配され、1861年にイタリア王国の一部となった。マフィアはイタリアのシチリア島を起源とする組織犯罪集団で、19世紀から恐喝や暴力により勢力を拡大した、1992年ごろファミリーと呼ばれる186のグループがあり、約4,000人の構成員がいた。一部は19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国に移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大した。1992年ごろアメリカ全土に27ファミリー・2,000人の構成員がいて、ニューヨークを拠点とするものとシカゴを拠点とするものがあった。 島村菜津氏は1963年長崎生まれ福岡育ち、福岡高等学校、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業した。 大学在学中はイタリア美術史を専攻し、卒業後にイタリアに留学し、以後、現地での数年間にわたる取材をもとにしたノンフィクションなどを発表している。”スローフードな人生!-イタリアの食卓から始まる”を刊行し、日本で当時ほとんど知られていなかったスローフードを紹介し、日本におけるスローフード運動の先駆けとなった。マフィアの起源は、中世シチリアの農地管理人で、農地を守るため武装し、農民を搾取しつつ、大地主ら政治的支配者と密接な関係を結んだ。1860年に統一イタリア王国にシチリア島が統合されたことが、歴史の変換点となった。イタリア王国は現在のイタリア共和国の前身となる王国で、イタリア統一運動の流れの中で1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。激動の世紀にあって、国民化、民主化を急がせる中央政府に反発は強まり、大地主や宗教勢力の他にも、勃興する労働運動、さらにファシストによる混迷が生まれた。ここにマフィアの躍進する素地ができて、マフィアは主に労働運動などを扇動し、デモなどを通じて会社や政治への関係を強めた。マフィアの一部はイタリア人のアメリカ大陸への移民が増えるにつれて、アメリカ大陸においても同様の犯罪結社を作り定着した。1920年代から1930年代にかけてベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権によって徹底的に弾圧されたマフィアは、壊滅的な打撃を受けた。一旦衰退したマフィアは、第二次世界大戦中にドイツのスパイ工作に対抗するアンダーワールド作戦や、第二次世界大戦への1941年のアメリカ参戦により転機が訪れた。波止場はマフィア組織の支配下となっていたので、東西海岸一帯の埠頭や繁華街での日本やドイツ、イタリアの諜報活動に対するため、アメリカ海軍はマフィア組織との協力が必要だった。マフィアのラッキー・ルチアーノはアメリカ海軍に協力し、特に東海岸やメキシコ湾一帯の波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示した。マイヤー・ランスキーらを刑務所に呼び、波止場における自分たちの支配力を行使するよう命じた。1943年に連合軍がイタリアのシチリア上陸を計画した際に、チャールズ・ハッフェンデン海軍少佐は、刑務所にいるラッキー・ルチアーノに協力を要請した。1957年11月14日に幹部がニューヨーク州アパラチンに集合した際、FBIによる大量検挙で初めてマフィアは世に知られる存在となった。マフィアは、封建制から資本主義への移行と、イタリア統一期の混乱の中で生まれたという。労働者を管理し抑えつける必要から生まれ、第二次大戦後の闇市や都市開発、さらには冷戦体制がこれを成長させた。マフィアは資本主義国家とともに産み落とされ、政界や財界、司法の腐敗とともに、これに寄生しながら成長してきた。2020年に突如襲った新型コロナウイルスの流行で、観光産業の被害の深刻さが浮き彫りになるとともに、この国らしい創意工夫が見られた。環境、移民、貧困、さまざまな問題に取り組む団体が手を組んで、貧しい地区や移民の子たちが悪い組織にリクルートされないように、力を合わせようとした。そして、2022年春にロシアによるウクライナ侵攻が起き、紛争地帯からの不法な難民や移民が押し寄せた。その輸送はマフィアの中心的ビジネスであり、そこには武器の密売、国際的な資金洗浄がセットになっていた。法務大臣は、大がかりなウクライナ難民の受け入れをめぐり、パンデミックの時期を教訓として、公的資金を狙った詐欺の横行や人身売買への警戒を強く呼びかけた。パンデミックが落ち着いた後、私たちにとって、旅というものが以前よりずっと貴重なものになることは必至である。マフィアの島が、今やオーガニックとエシカル消費の最先端へ向かっている。みかじめ料不払い運動に反マフィア観光ツアー、有名ピザ屋が恐喝者を取り押さえ、押収された土地は、人気の有機ワイン農場に姿を変えた。自然や芸術、おいしいものを満喫するだけではなく、旅をする地域も豊かにするようなエシカルな旅が人々を惹きつけていくことだろう。民主国家の重たい歩みにマフィアが寄生しているのならば、シチリアで今、始まった挑戦は、真の民主主義を実現していくための草の根運動だと言えるという。次の世代のために故郷の島を変えていくことを諦めない人々のしなやかな闘いで、これから新しいシチリア人像が見られることになろう。
プロローグ 自由という名の男/第1章 町の負のイメージをいかに覆すか/第2章 マフィアは情報と戯れる/第3章 故郷のために命をかけた二人の判事/第4章 さよなら、みかじめ料運動/第5章 恐怖のマフィア博物館/第6章 押収地をオーガニックの畑に/第7章 食品偽装と震災復興/第8章 もう、そんな時代じゃない/エピローグ 民主主義とエシカル消費
24.令和5年7月8日
”若冲が待っていた 辻 忠雄 自伝”(2022年12月 小学館刊 辻 惟雄著)は、江戸中期の絵師・伊藤若冲を奇想の画家として再発見し若冲ブームの扉を開いた日本美術史大家の自伝的エッセイである。
伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋の長男として生まれ、40歳のとき家業を次弟に譲り、生涯独身で画事に熱中した。初め町狩野の大岡春卜につき春教と号していたが満足できず、のちに相国寺をはじめ京坂の名刹にある宋、元、明の名画を熱心に模写した。また、身近にある動植物を日々観察し写生に努め、”動植綵絵”30幅は、”釈迦三尊像”3幅とともに相国寺に寄進されたもので、若冲の悲願のこもった生涯の傑作である。濃艶な彩色と彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形がみごとに調和して、特異な超現実的ともいえる世界をつくりだした。著者は戦争と重なる少年時代の若冲との出会いから、日本美術隆盛の今日までを綴っている。辻 惟雄氏は1932年名古屋市生まれ、産婦人科医の都筑千秋氏の次男で、母方の叔父の辻欽四郎の養子となった。都立日比谷高校、東京大学文学部美術史学科を卒業し、同大学院博士課程を中退した。東京国立文化財研究所技官、東北大学文学部教授、東京大学文学部教授、国立国際日本文化研究センター教授、千葉市美術館館長、多摩美術大学学長、MIHO MUSEUM館長などを歴任した。現在、東京大学と多摩美術大学の名誉教授である。日本美術の時代や分野を通底する特質として、「かざり」「あそび」「アニミズム」の3つを挙げている。1995年に学位論文「戦国時代狩野派の研究 -狩野元信を中心として」で、文学博士(東京大学)の学位を取得した。2016年に文化功労者に選出され、2017年に朝日賞受賞、2018年に瑞宝重光章を受章した。伊藤若冲は1716年京都の錦小路にあった青物問屋の枡屋の長男として生まれ、23歳のときに父親の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名した。別号、絵を米一斗と交換したことから斗米庵といい、八百屋や魚屋が軒を連ねる錦小路で、海の幸や山の幸に囲まれて過ごし、若冲の原体験として後の作品に反映されている。若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さず、商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。1755年に家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改めて隠居した。何がきっかけで絵に目覚めたのか不明であるが、家業の傍ら、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。最初は狩野派の門を叩いたが、狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けないと考え、画塾を辞めて独学で腕を磨いた。京都には中国画の名画を所蔵する寺が多く、模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。やがて、絵から学ぶだけでは絵を越えることができないと思い、目の前の対象を描くことで真の姿を表現しようとした。鶏の写生は2年以上続き、その結果、鶏だけでなく草木や岩にまで神気が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになったという。1758年頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年、鹿苑寺大書院障壁画を制作し、1764年には金刀比羅宮奥書院襖絵を描いた。1765年に枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟の宗寂が死去した。この年に、「動植綵絵」全30幅のうちの24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進した。隠居後の若冲は作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説であったが、1771年に帯屋町の町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っていたことが分かったそうである。1572年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下され、錦高倉市場の存続の危機になったことがあった。若冲は奉行所と交渉を続ける中で、商売敵の五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知った。このため、市場再開に奔走していたことが、若冲の弟の子孫が記した錦小路青物市場の記録などから分かったという。若冲はあくまで四町での錦市場存続を模索し、最終的に1774年に冥加金を納める条件で市場は公認された。こうした事情のためか、この時期に描かれたことが解る作品はほとんど無いという。1788年の天明の大火で自宅を焼失し窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけた。相国寺との永代供養の契約を解除し、晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁して、義妹である末弟宗寂の妻の心寂と暮らした。1800年に85歳の長寿を全うし、墓は上京相国寺の生前墓の寿蔵と石峯寺の2箇所にあり、遺骸は石峯寺に土葬された。後に枡源7代目の清房が、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いた。本書は若冲についての書ではなく、著者の幼少期から、高校、大学、大学院を経て、東京国立文化財研究所に就職し、大学教授、美術館館長などを歴任した記録とエピソードである。2021年1月1日から1月31日まで日本経済新聞に連載された、「私の履歴書」をもとに加筆、再構成したものである。若冲との出会いは、東京国立文化財研究所時代に、アメリカの資産家の御曹司が若冲の絵を熱心にさがしている、という噂を耳にしたことであった。その人が東京の古美術商と、2点の若冲の作品を買う契約をしたと聞いて、慌ててその店を探し当てた。当時は、若冲の本物に接する機会もあったが、逸していたという。1957年に東横百貨店で「鶏図名品展」が開かれたが、期間が短く見ることができなかった。1964年に店に掛け合って、「紫陽花双鶏図」「雪芦鴛鴦図」の2点を借り出すことができた。西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室に持ち込んで、学生たちに見せた。これほどの作品がアメリカにわたってしまうのは惜しいと思い、若冲の展覧会などをするようになった。その御曹司はジョー・プライスさんであり、戦後初めて若冲を評価した第一発見者で、著者はさしずめ2番手だという。ジョー・D・プライスさんは1929年アメリカのオクラホマ州生まれ、江戸時代の日本絵画を対象にする美術蒐集家で、財団心遠館館長、京都嵯峨芸術大学芸術研究科客員教授である。1953年にニューヨークの古美術店で若冲「葡萄図」に出会って以来、日本語を解さないながら自らの審美眼を頼りに蒐集を続け、世界でも有数の日本絵画コレクションを築いた。若冲は当時は日本では今日ほど注目されておらず、奇の極みというべき若冲の真価がわかったのはかなり後であったという。1970年に刊行した”奇想の系譜”で、岩佐又兵衛や伊藤若冲などを奇想の画家としていち早く再評価した。生前の若冲は平安人物志の上位に掲載されるほどの評価を受けていたが、時代の変遷とともに江戸絵画の傍流扱いされるようになっていたのである。再評価により、琳派や文人画、円山派などを中心に語られてきた、近世絵画の見方を大きく変えた。日本の美術史に大きな影響を与え、特に1990年代以降の若冲ブームの立役者となった。
まえがき-「運にお任せ」精神的に豊かだった半生/幼少時、あだ名は「めそめそピーピー」/幼稚園、かなわぬ恋の「事始め」/戦争に地震、恐怖が日常に/終戦の玉音放送はひとり自宅のラジオで/美術部で写生に励み、日比谷高校への編入をめざす/浪人覚悟も東大合格。しかしいきなりの留年/2年連続の留年で医学部断念。美術史学科に転部/「雪舟展」をきっかけに日本絵画に傾倒。卒論は浮世絵をテーマに/母、49歳で逝く。美術史の研究を生涯の仕事と決める/大学院進学。吉川逸治先生の講義で開眼/岩佐又兵衛と格闘し、修士論文は合格/東京国立文化財研究所に就職。そして、ついに結婚/曾我蕭白の奇怪で猛烈な絵に衝撃/『奇想の系譜』を連載、刊行。江戸の美術史の定説破る/東北大学に赴任。プライスさんの招きで米国に/性に合っていた東北大学ののんきな雰囲気・父親の死/仙台と東京との往復生活を経て、母校東大に戻ることに/恩師、山根先生との米国旅行の思い出/人との出会いに恵まれた東大での10年/「かざり」への開眼、日文研への再就職/千葉市美術館の館長に就任。高畑勲さんとの再会/多摩美術大学学長を引き受け、『日本美術の歴史』刊行/最後の奉公。70歳でMIHO MUSEUM館長に/辻先生への手紙/辻先生との思い出 悦子プライス/そのパトスだよ、君! と師は叫んだ 泉武夫/奇想の美術史家・辻惟雄先生への手紙 山下裕二/僕の芸術の師匠 村上隆/あとがき/あとがきのその後
25.7月22日
”反戦川柳人 鶴彬の獄死”(2023年3月 集英社刊 佐高 信著)は、昭和初期に軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続け29歳で獄死した川柳作家の知る人ぞ知る 鶴 彬を紹介している。
鶴 彬=つる あきら は1909年石川県生まれの川柳作家で社会運動家である。川柳は俳諧連歌から派生した近代文芸である。俳句と同じ五七五の音数律を持つが、俳句にみられる季語や切れの約束がない。俳句は発句から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付けが独立したものである。江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出した”誹風柳多留”が刊行されて人気を博した。これ以降「川柳」という名前が定着した。このころは、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴とした。人情の機微や心の動きを書いた句が多かった。現代では風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれている。字余りや句跨りの破調、自由律や駄洒落も見られるなど、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくない。その川柳を通じて、昭和初期に軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家が 鶴 彬である。官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した“川柳界の小林多喜二”と称される。佐高 信氏は1945年山形県酒田市生まれ、山形県立酒田東高等学校を卒業し、1967年に慶應義塾大学法学部を卒業した。卒業後、郷里の山形県で庄内農高の社会科教師となった。ここで3年間、教科書はいっさい使わずガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びたという。その後、酒田工高に転じて結婚もしたが、同じく“赤軍派教師”のレッテルを貼られた。県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥り前妻と離婚し、1972年に再度上京したそうである。その後、総会屋系経済誌”現代ビジョン”編集部員を経て編集長となり、辞めてから評論家になった。現在、東北公益文科大学客員教授を務めている。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表で、先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務めている。鶴 彬を後世に残そうとしたのは昭和時代から平成時代の川柳作家一叩人、こと命尾小太郎氏で、その執念に気付いたのがンフィクション作家の澤地久枝氏であったという。澤地氏は”鶴彬全集”を完成させた。そして、書籍を出版してまとまった形で鶴 彬を世に問うたのは小説家で川柳評論家の坂本幸四郎氏であった。鶴 彬は1909年1月1日石川県河北郡高松町、現かほく市に竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれ、本名を喜多一二=きたかつじと言った。生年月日は戸籍上の日付で、実際には前年12月といわれている。翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年に尋常小学校に入学し、1923年に高等小学校を卒業した。9才の時に父親が死に、母親が再婚して兄弟姉妹6人は離別した。小学校在籍中から、”北国新聞”の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム喜多一児で「北国歌壇に作品を発表した。1925年から川柳誌”影像” にデビューしたのを契機に、多様な川柳誌に作品を寄せるようになった。1927年には井上剣花坊の家に寄ったり、初の川柳の評論を”川柳人”に発表するなど、社会意識に芽生え始めた。1930年1月に金沢第7連隊に入営したが、3月1日の旧陸軍記念日に連隊長の訓辞に疑問を抱いて質問した事件により重営倉に入れられた。1931年に金沢第7連隊に”無産青年”を勧めたりした赤化事件により軍法会議にかけられ、刑期1年8ヶ月の収監生活を余儀なくされた。1933年に4年間の在営を終えて除隊後、積極的に執筆活動を行った。10月頃、井上信子推薦で東京深川木材通信社に就職した。次第に反戦意識を高めていた鶴は思想犯とみなされ、1937年12月3日に治安維持法違反の嫌疑で特別高等警察に検挙され、東京都中野区野方署に留置された。しかし、度重なる拷問や留置場での赤痢によって、1938年9月14日に29歳で世を去った。1972年9月に郷里高松町に句碑が建立された。佐高信氏は鶴を、川柳界の小林多喜二と紹介している。”鶴彬句集””鶴彬全集”(全1巻 たいまつ社)があり、1998年に”鶴彬全集”(増補改訂版)が復刻出版された。2008年4月に今年没後70年来年生誕100年を迎えるにあたって、記念事業をすすめる鶴彬生誕100年祭実行委員会と映画「鶴彬」を成功させる会が発足会を開いた。そして2009年に生誕100年を迎え、その波乱に満ちた生涯を「ハチ公物語」の名匠・神山征二郎氏が、「鶴彬-こころの軌跡-」というタイトルで映画化した。
はじめに 同い年の明暗/1 鶴彬を後世に遺そうとした三人/2 師父、井上剣花坊/3 兄事した田中五呂八との別れ/4 鶴彬の二十九年/5 石川啄木と鶴彬/補章 短歌と俳句の戦争責任
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