徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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1.令和5年8月5日
”日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事”(2021年7月 ミネルヴァ書房刊 田端 泰子著)は、北条政子・淀殿とともに三大悪女と呼ばれる日野富子は激動の時代にあって夫の政治を支え後継者を育てようとして御台所として精一杯役割を果たそうとしたのだという。
日野富子は1440年に室町幕府に将軍家と縁戚関係だった名門・日野家に、日野政光(重政)の娘として生まれた。16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となり、子の足利義尚を将軍の跡継ぎにしようとした。山名持豊(宗全)と結び、義政の弟義視をおす細川勝元と争い、応仁の乱を引き起こした。義尚が9代将軍となると幕政に関与して、高利貸し、関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかった。田端泰子氏は1941年神戸市生まれ、1964年京都大学文学部を卒業し、同大学院博士課程を中退した。その後、橘女子大学助教授、1980年教授となり、校名変更で1988年京都橘女子大学教授となった。専門は日本中世史(中世後期の村落構造)・女性史である。1989年の文学博士(京都大学)の学位を取得し、2004年より学長となり、2005年校名変更で京都橘大学学長となった。2010年に退任し、現在は名誉教授である。日野富子は室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。正式名は氏姓+諱の藤原朝臣冨子で、従一位冨子の本人署名が後世に伝わった。当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれていた。実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていない。父親は蔵人右少弁・日野重政、母親は従三位・北小路苗子である。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいる。16歳で義政の正室となり、1459年に第1子が生まれたが、その日のうちに夭折した。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし、義政の側室4人も追放した。富子は1462年と1463年に相次いで女子を産んだが、男子を産むことはできなかった。1464年に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者とした。しかし1465年に富子は義尚を出産し、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。1471年頃には室町亭に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだったが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。1473年に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は政治への興味を失い、1475年には小河御所を建設して1人で移った。1476年に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達したという。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移った。しかし、1481年になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった。その後は長らく義政とは別居したという。1477年にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打った。義勝の早世により第8代将軍となった義政は、正室富子から男子が生まれるのを待たず、弟義視を自身の後継者に決めた。この決定は義尚の死後、政治的混乱を引き起こす遠因となった。義政青年期の政治は後継者問題にも表れているように、優柔不断であり、両畠山氏の争いを止めさせることができず、応仁・文明の大乱を引き起こす原因をつくってしまった。大乱中に富子は出産を抱えていたにもかかわらず、天皇家が室町第に避難してきて以来、その居所を提供する仕事に謀殺された。それとともに義尚が1473年に第9代将軍を拝命したので、その後見役を、日野勝光の死後は特に、務めねぱならなくなった。1474年5月に尋尊が「公方ハ御大酒、諸大名ハ犬笠懸」「天下公事修ハ女中御計」と記したのは、政治に関心をなくした義政と、逆に義尚の後見のためにも政治に参画せざるをえなかった富子の状況を如実に表している。富子の執政が最も実を上げるのは、1477年7月から9月であった。富子は御台所として、夫生存中も時には執政し、嫡子で次期将軍となった義尚の後見役を務め、義尚と義政が相次いで死去した後も次期将軍家の選定に努力したのであった。御台所として、十分にその役割を果たした人であったと言える。しかし室町戦国期の社会通念は儒教思想そのものであり、「腹は借り物」という男性優位、女性蔑視の考えが一般的であったことも分かった。そうした社会通念の世にありながら、鎌倉時代句御台所北条政子と同じく、将軍家の中の一つの家として、政治上の欠け落ちた点を補い、側面から将軍家を支える役割を見事に果たした御台所であった。日野富子に対する研究が異なった様相を見せ始めるのは1980年代後半に入ってからである。本書では、その後の室町・戦国期の権力構造や経済圏、文化の特質などに関する研究を参照しつつ、室町期の衣服や「坐態」に関する論稿なども加えて、日野富子という将軍家正室が、大乱の時代をどのように生きようとしたのかについて、明らかにしたいという。
第1章 公家日野家の歴史/第2章 富子、義政に嫁ぐ/第3章 義尚を後見する富子/第4章 義尚の自立/第5章 後継将軍を選ぶ/終章 晩年の富子とその死
2.8月19日
”田沼意次 その虚実”(2019年3月 清水書院刊 大石慎三郎監 後藤一朗著)は、従来賄賂政治家というレッテルがはられていた田沼意次について史料と史料批判のうえに立って新たな田沼像を呈示している。
田沼意次は江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中で、遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)である。第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である田沼時代に名前を残している。父親は紀州藩の足軽の生まれ、徳川吉宗に仕えていたことが幸いし、吉宗の将軍就任に伴って幕府旗本となった。意次もその跡をつぎ将軍家重・家治に重用されて出世街道をのぼり、1767年に家治の側用人、1772年に老中となった。行った政策は、株仲間公認、印旛沼干拓、蝦夷地開発のほかに、俵物の輸出奨励や南鐐二朱銀の発行などがある。後藤一朗氏は1900年田沼意次の城下町静岡県相良町(現、牧之原市)生まれ、静岡銀行に奉職し32歳で支店長となり、以後25年間各地を歴任した。停年後に本部に入り「静岡銀行史」編集に参画した。1960年退職し田沼意次に関する史料収集とその研究に専念し、幾多の新事実を発掘した異色の歴史家で、1977年に逝去した。文筆をもって職とする作家ではなくまた専門の歴史家でもないが、本書において粉飾もせず、誇張もせず、隠蔽もせず、そしてなんびとにも恐れず、遠慮なく、思うことすべても率直に書きつづったという。田沼意次は1719年に紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれた。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍と子供たちの側近に配置して幕政を掌握した。意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、1735年に父の遺跡600石を継いだ。1737年に従五位下・主殿頭になり、1745年に家重の将軍就任に伴って本丸に仕えた。1748年に1400石を加増され、1755年にはさらに3000石を加増され、その後家重によって1758年に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判をするのため、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。1761年に家重が死去した後も、世子の第10代将軍家治の信任は厚く、1767年にさらに御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し5000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、1769年に侍従にあがり老中格になった。1772年に相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7000石は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたる分散知行となった。田沼意次はあれだけの政治活動をした大宰相であるにもかかわらず研究資料の少ないことで、歴史家泣かせの一人だと言われている。わずかに伝わる文献は反対政権の御用史家の作為のもの、あるいは低級な町の噂本がそのすべてであると言ってよいだろう。巨大な山岳の形容はその山のなかにいたのではわからない。向かい側の山に登って眺め、そこではじめて全貌がわかる。反対側から見てこそ「幕府」という山の姿はわかるものだが、当時はみな「幕府」の傘の下にいたのでわからなかったのである。監修者は今までのような幕府傘下から見た一方的な田沼論にあきたらず、あらゆる視点から田沼個人を観察し、その時代を探究・分析して実態の把握に懸命になっていた。その時ふと徳川将軍家のお家騒動が目に映り、大政変の根源を見出すことができた。江戸時代の歴史なかんずく政治史を見ていると、将軍の代替わりを境として前後に大きな断絶(または曲折)があるのに気がつく。それは将軍が絶対的な権威と権力とを持ち、その親任をうけて政治が行なわれるという当時の政治体制に由来するものといえよう。将軍が亡くなるとそれまで江戸城西の丸にいた嗣子が、その側近をつれて本丸御殿に移る。たとえそれまでの老中以下の幕府正規の行政組織が前代のまま残っていた場合でも、新将軍とその側近衆が実際上の権力の中核体を作る。どうしても前将軍の時代と多かれ少なかれある程度の断絶が生まれるのである。これらのなかで、柳沢吉保-荻原重秀のいわゆる元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、・田沼意次政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広い。このような事情があったためか、荻原重秀についても田沼意次についても信用するに足る基礎史料がほとんど残されていない。実権を握った反対政権のために関係史料が浬滅されたのであろうか。悪人田沼意次をえがく場合にはその典拠とする史料批判がほとんどまったくといってよいほどなされておらず、田沼の悪評・悪行を記したものであれば何でもとりあげてあたかも歴史的事実かのごとく書きたてている。田沼の悪事として諸書に書かれている話はほとんどといってよいくらい辻善之助『田沼時代』(大正四年刊)、徳富蘇峰『近世日本国民史 田沼時代』(昭和二年刊)の両書、なかんずく辻氏のものに依拠している。ところがこれら両書の田沼悪事に関する話は検討してみると、信用できない史料を軽々と事実かのごとく採用したものか信用できる史料の場合は史料の読みちがいにもとづくものである。このほか田沼意次が悪事を働いたとする典拠に使われてきた『続三王外記』『甲子夜話』「植崎九八郎上書」「伊達家文書」などの場合を検討してみると、どの場合も史料そのものかまたは史料の使い方に著しい欠陥がある。監修者はかねがね田沼時代に関する定説なるものに疑問をいだきあれこれと調べてきたが、たまたま田沼意次の居城のあった相良を訪ねたのが機縁で著者の後藤一朗氏と面識を得た。同氏の御経歴はあとがきに詳しいので略すが、田沼意次の大変な熱愛者でほとんど独学で田沼に関する研究を重ねてこられ、その結果できあがったのが本書であるという。
序文/1 田沼意次の人間像(田沼意知の危禍/意次の生い立ち)/2 田沼政治の母胎(吉宗時代とその前後/田沼時代の社会相)/3 田沼政治の全貌(田沼の経済政策/田沼の社会政策 ほか)/4 政変の裏表(喬木風多し/政変ついに来たる/反対政権の施策/田沼失脚の真因/余燼)/あとがき
3.令和5年9月2日
”新冷戦の勝者になるのは日本”(2023年6月 講談社刊 中島 精也著)は、ポスト冷戦時代は日本の長期低迷時代でもあったが米中対立を軸とする新冷戦時代になっていままでの日本のピンチが逆に日本復活の大チャンスになるという。
バブル崩壊で不動産価格と株価の暴落が深刻な資産デフレをもたらし、バランスシートの悪化が経営を圧迫した。これに異常な円高が追い討ちをかけ、国内需要が低迷しているのに輸出にブレーキをかける円高ではやっていられなかった。日本企業は積極的に海外への工場移転を進めたが、ポスト冷戦でグローバル化の進展というタイミングに合致していた。この結果、日本経済はバランスシート悪化、円高、産業空洞化の三重苦に見舞われることになった。ところがポスト冷戦が30年で終了すると、世界経済を取り巻く諸条件が一変した。経済安全保障が重視されるようになり、グローバルーサプライチェーンの見直しが進行している。新冷戦下の世界経済環境は新興国には不利だが、逆に日本には追い風が吹くという。新冷戦と地球儀を俯瞰する安倍外交のコラボが結実して、TSMCの熊本工場進出が実現した。加えてアベノミクスで株価や不動産価格が回復しバブル崩壊から30年が経過した今、日本経済を苦しめてきた三重苦は過去のものになりつつある。まさに日本大復活の芽が見えてきている。中島精也氏は1947年熊本県生まれ、横浜国立大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社し調査情報部へ配属となった。1976年に日本経済研究センターに出向、1987年に伊藤忠商事為替証券部へ異動した。1994年にifo経済研究所客員研究員(ドイツ・ミュンヘン駐在)、2006年に伊藤忠商事秘書部丹羽会長付チーフエコノミスト(経済財政諮問会議担当)となった。2015年より丹羽連絡事務所チーフエコノミスト、2018年に福井県立大学客員教授となり今日に至る。1980年代後半にゴルバチョフは新思考を提唱し、ソ連外交の根本的転換を推進した。これを受けて米ソ間の首脳会談が定例化し、1989年のマルタ会談では冷戦の終結が宣明された。続く東欧社会主義圏、軍事ブロックの解体、ドイツ統一、全欧安保協力会議のパリ憲章における不戦の誓いなどがおこなわれた。それまでの冷戦の主舞台となった欧州で、東西対決型紛争の条件がなくなった。このポスト冷戦時代は日本がバブル崩壊の後始末に追われる最悪のタイミングでやってきた。ポスト冷戦は世界の労働力、資源、土地、マネー、技術が開放されたことから物価の安定と生産性向上を受けて、世界貿易と投資が飛躍的に増大した。インフレなき持続的成長が長きにわたり継続し、世界、とりわけ中国など新興国がその果実を享受したが、日本だけが蚊帳の外におかれていた。日本はバブル後遺症によるバランスシートの悪化、異常な円高、グローバル化による産業空洞化の三重苦に陥っていた。労働力など生産要素価格の下落で世界はディスインフレで心地よかったのであるが、日本経済はさらにデフレが進行して潰されてしまった。日本の製造業に深刻な打撃を与えたのは止まらない円高であった。大規模な為替介入と金融危機で一時的に円安に振れたが、2000年代に入ると再び円高が続いた。リーマンショックでドルが底割れして、2011年10月に1ドル75円32銭の変動相場制導入以降の円の最高値をつけた。急激な円高は製造業の競争力低下をもたらした。円高のボディーブローに耐えられない企業は工場閉鎖に追い込まれたり、中国やASEANへの工場移転を決断したりした。産業空洞化に直面した地方都市は壊滅的打撃を被るところも出てきた。円高で体力が低下した企業は雇用カットか賃下げかの二者択一を迫られた。米国とは企業風土が異なる日本では大量解雇はしづらく、結果的に賃下げで労使共に妥協せざるを得なかった。賃金水準は1997年をピークに低下し、それから25年が経過してもいまだに名目賃金はピーク時を回復していない。失われた10年と呼ばれたように、ゼロ成長とデフレの時代はその後も長く続くことになった。企業の多くは自主的に不良資産の縮小に努め、銀行は不良債権比率の縮小に務めた。これが幸いして2008年にリーマンショックが襲っても邦銀の経営は盤石であった。2000年から12年にかけての日本経済は実質成長率の平均が0.6%と超低成長、消費者物価の平均上昇率はマイナス0.6%と、バブル崩壊後にはまり込んでしまった。デフレのぬかるみからなかなか抜け出せない状況が続いていた。このデフレを吹き飛ばし日本経済の再生を目指して総理にカムバックしたのが安倍晋三氏であった。毛利元就の「3本の矢」にちなんだ政策は、第1の矢「大胆な金融政策」、第2の矢「機動的な財政政策」、第3の矢「民間投資を喚起する成長戦略」からなっていた。第1の矢と第2の矢は不況からの脱出を目的としたケインズ政策である。潜在成長軌道から下方に外れてしまった日本経済を財政金融政策を駆使して、とりあえず元の成長軌道に復帰させることを目指した。円安は日本製品の価格競争力を高めるので輸出が伸びるはずだがおかしい。何か原因があると思いながら考えを巡らしていると、空洞化が進んでいることに気がついた。日本の供給力が落ちているのでは円安の輸出刺激効果は薄いのである。金融緩和を起点として、円安、輸出増加、生産増加という好循環メカニズムが働かない。第3の矢は潜在成長軌道の傾きをアップさせて、日本経済がより高い成長軌道を走ることを目標としていた。しかし、第3の矢は岩盤規制を貫通することができなかった。安倍外交は世界に日本が自由主義、民主主義の守護者として信頼できるパートナーであることを認知させた8年間であった。日米同盟を基軸として、自由で開かれたインド太平洋を推進した。その目標実現のために自らの防衛力を強化し、アペノミクスで経済再生を推し進め、地球を40周して多くの国との信頼関係構築に努めた。ウクライナ戦争を起点として民主国家と専制国家の新冷戦時代になり、国際緊張が高まった。経済安全保障の重要性という見地から民主主義の同盟国と友好国は、互いにフレンドショアリングというグローバルサプライチエーンの再構築に動き始めている。安倍外交は日本がフレンドショアリングの拠点として海外から選択されるための基礎を築いた。その実例が台湾TSMCの熊本工場進出であり、日本に投資する海外企業の先駆けとして重要な役割を果たすことになるであろう。その後も案件は目白押しで、日本が新しい半導体サプライチェーンの核になる可能性を示唆している。実は安倍総理の地球儀を俯瞰する外交が最大の成長戦略ではなかったか。新冷戦と安倍外交のコラボが海外企業の日本進出を通じて日本経済の再生に大きく貢献する予感がある。新冷戦時代への移行により日本経済を巡る環境激変は必至である。民主国家と専制国家の間でブロック化が進行し、世界の生産要素の供給と価格が大きく変わるからである。その結果、ポスト冷戦時代は新興国有利で日本不利であったが、世界経済の条件が新冷戦では新興国不利で日本有利とコマが逆転していく。グローバルサプライチェーンを見ても、西側の同盟国と友好国との間でフレンドショアリングの構築が進む。日本が信頼されるパートナーとして、新たなグローバルサプライチェーンの一角を占めるのは確実である。いかにイノペーションを起こすかが課題であり、そのために先端技術分野への予算の優先配分は必須条件である。バブル崩壊以降、長きにわたって日本企業を苦しめてきた円高は終わった。株価や不動産など資産価格がバブル期のレベルまで回復したことにより、バブル崩壊で悪化した企業のバランスシートも著しく改善した。バブル崩壊以降の敗北主義的な内向き思考も遠のき、未来への投資という資本主義本来のアニマルスピリッツが戻りつつある。日本大復活をもたらす条件は整ったと言えるので、あとはそれをうまく活かすために構造改革が不可欠である。そういう意味でイノベーション重視のアペノミクスの使命はまだ終わっていない。変化の時代は顧客ニーズ価値観、企業間パワーバランス、流通、技術、規制等が大きく変化する。この様な時代にあっては既存の製品サービス、既存の販売方法、既存の開発・生産方法は変化に対応できない。変化の時代は、既存の強みが必ずしも強みではなくなり、逆に弱みになることさえある。改革なくして成長なしは普遍の真理である。日本大復活は改革の志を持った政治家、経済人、ならびにそれを支援する我々日本人一人ひとりの意志の力にかかっているという。
第1部 ポスト冷戦の終焉(新冷戦を仕掛けた習近平/中国との対決姿勢を強める米国/プーチンリスクとウクライナ戦争/緊張度を増す日中関係)/第2部 新冷戦で変わる世界経済(冷戦の終結とグローバリゼーションの進行/デフレからインフレへ/新冷戦時代の世界経済/新冷戦は日本大復活の時代)
4.9月22日
”日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事”(2021年7月 ミネルヴァ書房刊 田端 泰子著)は、北条政子・淀殿とともに三大悪女と呼ばれる日野富子は激動の時代にあって夫の政治を支え後継者を育てようとして御台所として精一杯役割を果たそうとしたのだという。日野富子は1440年に室町幕府に将軍家と縁戚関係だった名門・日野家に、日野政光(重政)の娘として生まれた。16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となり、子の足利義尚を将軍の跡継ぎにしようとした。山名持豊(宗全)と結び、義政の弟義視をおす細川勝元と争い、応仁の乱を引き起こした。義尚が9代将軍となると幕政に関与して、高利貸し、関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかった。田端泰子氏は1941年神戸市生まれ、1964年京都大学文学部を卒業し、同大学院博士課程を中退した。その後、橘女子大学助教授、1980年教授となり、校名変更で1988年京都橘女子大学教授となった。専門は日本中世史(中世後期の村落構造)・女性史である。1989年の文学博士(京都大学)の学位を取得し、2004年より学長となり、2005年校名変更で京都橘大学学長となった。2010年に退任し、現在は名誉教授である。日野富子は室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。正式名は氏姓+諱の藤原朝臣冨子で、従一位冨子の本人署名が後世に伝わった。当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれていた。実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていない。父親は蔵人右少弁・日野重政、母親は従三位・北小路苗子である。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいる。16歳で義政の正室となり、1459年に第1子が生まれたが、その日のうちに夭折した。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし、義政の側室4人も追放した。富子は1462年と1463年に相次いで女子を産んだが、男子を産むことはできなかった。1464年に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者とした。しかし1465年に富子は義尚を出産し、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいた。東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。1471年頃には室町亭に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだったが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。1473年に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は政治への興味を失い、1475年には小河御所を建設して1人で移った。1476年に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は、1、2町にも達したという。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移った。しかし、1481年になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった。その後は長らく義政とは別居したという。1477年にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打った。義勝の早世により第8代将軍となった義政は、正室富子から男子が生まれるのを待たず、弟義視を自身の後継者に決めた。この決定は義尚の死後、政治的混乱を引き起こす遠因となった。義政青年期の政治は後継者問題にも表れているように、優柔不断であり、両畠山氏の争いを止めさせることができず、応仁・文明の大乱を引き起こす原因をつくってしまった。 大乱中に富子は出産を抱えていたにもかかわらず、天皇家が室町第に避難してきて以来、その居所を提供する仕事に謀殺された。それとともに義尚が1473年に第9代将軍を拝命したので、その後見役を、日野勝光の死後は特に、務めねばならなくなった。1474年5月に尋尊が「公方ハ御大酒、諸大名ハ犬笠懸」「天下公事修ハ女中御計」と記した。政治に関心をなくした義政と、逆に義尚の後見のためにも政治に参画せざるをえなかった富子の状況を如実に表している。富子の執政が最も実を上げるのは、1477年7月から9月であった。富子は御台所として、夫生存中も時には執政し、嫡子で次期将軍となった義尚の後見役を務め、義尚と義政が相次いで死去した後も次期将軍家の選定に努力した。御台所として、十分にその役割を果たした人であったと言える。しかし室町戦国期の社会通念は儒教思想そのものであり、「腹は借り物」という男性優位、女性蔑視の考えが一般的であったことも分かった。そうした社会通念の世にありながら、鎌倉時代句御台所北条政子と同じく、将軍家の中の一つの家として、政治上の欠け落ちた点を補い、側面から将軍家を支える役割果たした。日野富子に対する研究が異なった様相を見せ始めるのは1980年代後半に入ってからである。本書では、その後の室町・戦国期の権力構造や経済圏、文化の特質などに関する研究を参照した。室町期の衣服や「坐態」に関する論稿なども加えて、日野富子という将軍家正室が、大乱の時代をどのように生きようとしたのかについて、明らかにしたいという。
第1章 公家日野家の歴史/第2章 富子、義政に嫁ぐ/第3章 義尚を後見する富子/第4章 義尚の自立/第5章 後継将軍を選ぶ/終章 晩年の富子とその死
5.9月30日
”井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力 ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい”(2023年3月 青春出版社刊 郡山 史郎著)は、私利私欲から動く経営者や個人の尊重を忘れた経営者が増えてきたように思える現在では井深さんの生き方と盛田さんの働き方は令和の時代にますます必要だという。
ソニーの快進撃が続き2021年度にはソニーグループで過去最高益を達成した。今やトヨタと並び日本を代表する世界的企業といっていいだろう。しかし、ソニーという会社名は知っていても、そのソニーをつくった井深大と盛田昭夫のことを知る人は今どれだけいるだろうか。元ソニー常務である著者は、2人の側近として仕事のやり方やマネジメントその生き様を間近で見続けてきた。二人はどこにもないものを生み出し、新しい未来を切り拓いた名経営者である。彼らが立ちあがった戦後という時代は、先が見えないという意味では私たちが生きているこの時代に通じるものがある。過去には何の価値もないという井深の教えを守り、これまでは積極的にソニーについて語ることを避けてきた。しかし、彼らの生き方や働き方が混迷の時代を生き抜く道標となるのではないかと思い、今語ろうと思うという。本書では、名経営者の力強い言葉の数々を紹介している。郡山史郎氏は1935年鹿児島県指宿市生まれ、1954年にラ・サール高等学校を卒業し1958年に一橋大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社した。1959年にソニーに転じ1973年にシンガーに転じた。シンガー日本代表を経て、1981年にソニー映像事業部長となった。1984年にソニー情報機器事業本部長、1985年にソニー取締役、1988年にソニー経営戦略本部長となった。1990年にソニー常務取締役、1991年にソニー一般地域統括本部長、資材本部長、サービス本部長、物流本部長となった。1995年にソニーPCL代表取締役社長、2000年にソニーPCL代表取締役会長、クリーク・アンド・リバー監査役となった。2002年にソニー顧問となり、2004年にCEAFOMを設立して代表取締役に就任した。人材紹介業をおこなう傍ら、これまでに5千人以上の定年退職者をサポートしたという。井深 大は1908年栃木県上都賀郡日光町、のちの日光市生まれ、祖先は会津藩の家老であった。2歳の時に青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られた。母さわと共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻った。安城第一尋常小学校卒業、のちに再婚した母に従い母の嫁ぎ先の神戸市葺合区、現在の中央区に転居した。兵庫県立第一神戸中学校、のちの兵庫県立神戸高等学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部を卒業した。学生時代から奇抜な発明で有名であったという。東京芝浦電気の入社試験を受けるも不採用で、大学卒業後は写真化学研究所に入社した。学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得した。後に日本光音工業に移籍し、その後、日本光音工業の出資を受けて日本測定器株式会社を立ち上げて常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合った。敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年10月に、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げた。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流した。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で社員20数人の東京通信工業、後のソニーを創業した。義父の前田多門(東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役であった。以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開した。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興と急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。盛田昭夫は1921年愛知県名古屋市白壁生まれ、生家は代々続いた造り酒屋で父親は盛田家第14代当主であった。愛知県第一師範学校附属小学校、旧制愛知県第一中学校、第八高等学校、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業した。太平洋戦争中、海軍技術中尉時代にケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合った。終戦後、1946年に井深らと、ソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し常務取締役に就任した。ソニー創業者の一人で、製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出しソニーブランドの人気を高めた。1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を、1979年にウォークマンを発売した。1959年ソニー代表取締役副社長、1960年米国ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ取締役社長、1971年にソニー代表取締役社長に就任した。ソニーの会長兼CEOを務めた出井伸之さんが2022年6月に亡くなり、10月25日にお別れの会が催された。出井さんと著者は1年違いでソニーに入った。著者は2歳年上で、出井さんの事実上の上司だった時期もある。取締役になったのは4年早かったが常務だった1995年に出井さんは14人抜きで社長になった。このとき著者はソニーを退社したが、出井さんのことは人間的に好きで尊敬もしていたという。出井さんはソニーの社長を5年、会長兼CEOを5年務めたあと、2006年にベンチャー支援などを手がけるクオンタムリープを創業した。著者が2004年に人材紹介ベンチャー「CEAFOM」を起業したとき、出井さんは個人で出資してくれた。新型コロナウイルス感染症の流行で経営が圧迫され、結局、投資してもらったお金を返せないまま、出井さんとお別れすることになった。出井さんの訃報は、本書をまとめるきっかけのひとつでもあるという。祭壇から展示のほうへ移動して展示物を観て回りながら、あることに気づいた。井深大、盛田昭夫の写真がないのだ。出井さんが育てた人、引き上げた人は写っているのに、上司や先輩にあたる人たちの写真はなかった。井深さんと盛田さんは、会社経営の役割は違ったが、「過去にとらわれない」というマインドは共通していた。二人が目を向けたのは常に未来だった。過去にとらわれないから、若い世代に古い価値観を押し付けることはない。死ぬまで「老害」とは無縁だった。とくに井深は「時代が変われば、人間も価値観も変わる」とよく話していた。井深にとって、ソニーが時代とともに変化するのは当然のことだった。 その意味で、出井さんは「井深イズム」の継承者だった。盛田さんはソニーの事業を通して「井深イズム」を世に広めていった。かつて日本の電子産業が世界を席巻した時期があった。日本の電子産業をリードしたのがソニーであり、井深と盛田という二人の経営者だった。日本人が世界で再び大活躍できるならどこに可能性があるか、と探ってみるのは楽しいことである。井深大の生き方、盛田昭夫の働き方は、日本人が力を取り戻すうえで大いに参考になるだろう。少なくとも、元気をもらえるはずだ。本書を読まれたあと、将来のために役立ててもらえるなにかしらのヒントを得ていただければ幸いであるという。
第1章 運命を変えた、二人の名経営者との出会いー私とソニーと、井深と盛田/第2章 井深大の「生き方」-「個人」を尊重する思想の原点/第3章 盛田昭夫の「働き方」-「天性の人たらし」の素顔/第4章 井深大と盛田昭夫ー日本、そして世界を変えた最強の二人
6.10月28日用
”ハリウッド映画の終焉”(2023年6月 集英社刊 宇野 維正著)は、カルチャーとしての映画やアートとしての映画はこれからも細々と続いていくだろうが長らく大衆娯楽の王様であり続けてきたハリウッド映画は確実に終焉へと向かいつつあるという。
ハリウッド(Hollywood)はアメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルス市にある一地区である。映画産業の中心地で、アメリカ映画のことを指してハリウッドとも呼ばれる。1903年に当時農村だったハリウッドは市制を施行したが、1910年にロサンゼルス市と合併した。最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられた。ハリウッド地区を象徴する看板「HOLLYWOOD」は世界的に有名である。この看板は、1923年に「HOLLYWOODLAND」という不動産会社の広告として製作された。そのハリウッド映画がいま危機に瀕しているという。製作本数も観客動員数も減少が止まらない。メジャースタジオは、人気シリーズ作品への依存度をますます高めている。オリジナル脚本や監督主導の作品は足場を失いつつある。ハリウッド映画は、このまま歴史的役割を終えることになるのであろうか。宇野維正氏は1970年東京都生まれ、武蔵高等学校を卒業し、上智大学文学部フランス文学科を卒業した。1996年に株式会社ロッキング・オンに入社して雑誌の編集を担当し、その後、株式会社FACTにて『MUSICA』の創刊に携わった。2008年に独立しファッション誌やウェブメディアで多数の連載を持ち、2015年から映画サイトのリアルサウンド映画部で主筆を務めている。ハリウッド映画はアメリカのハリウッド地区で作られた映画のことである。ハリウッドは古くからアメリカ映画産業の中心地として発展し、現在も多くの映画制作会社の拠点となっている。20世紀のはじめ(1901年~)、アメリカ映画の拠点は東海岸のニューヨークとシカゴにあった。 しかし、20世紀初めの時代、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであった。当時の映画関連会社の間でさまざまなトラブルが生じ、一部の映画クリエイターが東海岸から遠く離れたハリウッドへ拠点を移した。これが、のちにハリウッドが映画の中心地になるきっかけとなった。ハリウッドは海岸だけでなくダイナミックな山並みや砂漠など豊かな自然に恵まれた地域で、ロケーションは抜群である。また、降水量が比較的少ないという特徴もある。このような地理的条件から、天候に左右されやすい映画の撮影場所として理想的といえる。ハリウッドに拠点を移したクリエイターの活躍の影響を受け、1910年から1920年にかけてハリウッドには続々と映画撮影所が開設された。ハリウッドには数多くの映画制作会社の拠点があるが、6つの制作会社が大きな影響力をもつといわれている。ワーナーブラザーズ、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、パラマウント・ピクチャーズ、20世紀フォックス、ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント、ユニバーサル・ピクチャーズである。一般的に、ハリウッド映画、イコール、ビッグシックス作品という認識をもつ人も多く、アメリカ映画の中で最もメジャーな制作会社といえる。アメリカは古くからたくさんの映画作品が生まれている国であるが、中でもハリウッド映画は多彩なジャンルと壮大なスケールで多くの人を魅了し続けている。しかし、ハリウッド映画を習慣的に観てきた人なら、2020年代に入ってから日本で劇場公開される作品の本数が極端に減少していることに気づいているであろう。2020年代は新型コロナウイルスの世界的なパンデミックとともに幕を開けた。日本でも一時期はほとんどの映画館が休業を余儀なくされて、営業を再開してからも一部のメガビット作品を除いて映画館への客足はなかなか戻らなかった。もしかしたら、ハリウッド映画の劇場公開が減っているのは、その影響がまだ続いているからではないかと思っている人もいるかもしれない。しかし、新型コロナウイルスは、時計の針を少しだけに早く先に進めるきっかけとなったに過ぎない。映画というアートフォームが、ほかの映像コンテンツと同じように、ストリーミング戦争の波に巻き込まれることになるのは時問の問題であった。2020年には、先行するネットブリッグスやアマゾンプライムビデオなどに続いて、北米でディズニープラス、HBOマックス、アップルTVプラスをはじめ大手ストリーミングサービスが出揃った。各プラットフォームが社運をかけて体制を整備し、過去の映画やテレビシリーズの配信権を囲い込み、数々の新しいキラーコンテンツの配信を準備していたところにちょうどやってきたのが、新型コロナウイルスのパンデミックたった。新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いた2022年になっても、劇場公問されるハリウッド映画の作品数がそれ以前の水準に戻ることはなかった。そして、それは2023年以降も変わらないことが見込まれている。結果として、メジヤースタジオからリリースされる作品はシリーズものばかり、それも観客を呼べる有名スターたちが出演している作品が中心となり、年に数本のメガヒット作品が映画産業を支えるという傾向か年々強まっている。映画の産業構造そのものの激変期にあって、必然的に映画の成り立ちや作品の内容も大きく変わってきた。映画は大勢で「観る」ものから個人で「見る」ものへとある意味で元祖返りしつつある。その過程で、監督をはじめとする映画の送り手たらは、自らのアイデンティティを問われ、巨大企業のコマとなるか独立性を維持するかの選択を突ぶつけられ、映画というアートフォームの革新の必要に迫られている。カルチャーとしての映画、アートとしての映画はこれからも細々と続いていくであろう。しかし、産業としての映画、とりわけ20世紀中盤から長らく「大衆娯楽の玉様」であり続けてきたハリウッド映画は、確実に終焉へと向かいつつあるという。
はじめに/第一章 #MeToo とキャンセルカルチャーの余波/第二章 スーパーヒーロー映画がもたらした荒廃/第三章 「最後の映画」を撮る監督たち/第四章 映画の向こう側へ/おわりに
7.令和5年11月11日
”井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力 ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい”(2023年3月 青春出版社刊 郡山 史郎著)は、私利私欲から動く経営者や個人の尊重を忘れた経営者が増えてきたように思える現在では井深さんの生き方と盛田さんの働き方は令和の時代にますます必要だという。
ソニーの快進撃が続き2021年度にはソニーグループで過去最高益を達成した。今やトヨタと並び日本を代表する世界的企業といっていいだろう。しかし、ソニーという会社名は知っていても、そのソニーをつくった井深大と盛田昭夫のことを知る人は今どれだけいるだろうか。元ソニー常務である著者は、2人の側近として仕事のやり方やマネジメントその生き様を間近で見続けてきた。二人はどこにもないものを生み出し、新しい未来を切り拓いた名経営者である。彼らが立ちあがった戦後という時代は、先が見えないという意味では私たちが生きているこの時代に通じるものがある。過去には何の価値もないという井深の教えを守り、これまでは積極的にソニーについて語ることを避けてきた。しかし、彼らの生き方や働き方が混迷の時代を生き抜く道標となるのではないかと思い、今語ろうと思うという。本書では、名経営者の力強い言葉の数々を紹介している。郡山史郎氏は1935年鹿児島県指宿市生まれ、1954年にラ・サール高等学校を卒業し1958年に一橋大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社した。1959年にソニーに転じ1973年にシンガーに転じた。シンガー日本代表を経て、1981年にソニー映像事業部長となった。1984年にソニー情報機器事業本部長、1985年にソニー取締役、1988年にソニー経営戦略本部長となった。1990年にソニー常務取締役、1991年にソニー一般地域統括本部長、資材本部長、サービス本部長、物流本部長となった。1995年にソニーPCL代表取締役社長、2000年にソニーPCL代表取締役会長、クリーク・アンド・リバー監査役となった。2002年にソニー顧問となり、2004年にCEAFOMを設立して代表取締役に就任した。人材紹介業をおこなう傍ら、これまでに5千人以上の定年退職者をサポートしたという。井深 大は1908年栃木県上都賀郡日光町、のちの日光市生まれ、祖先は会津藩の家老であった。2歳の時に青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られた。母さわと共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻った。安城第一尋常小学校卒業、のちに再婚した母に従い母の嫁ぎ先の神戸市葺合区、現在の中央区に転居した。兵庫県立第一神戸中学校、のちの兵庫県立神戸高等学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部を卒業した。学生時代から奇抜な発明で有名であったという。東京芝浦電気の入社試験を受けるも不採用で、大学卒業後は写真化学研究所に入社した。学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得した。後に日本光音工業に移籍し、その後、日本光音工業の出資を受けて日本測定器株式会社を立ち上げて常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合った。敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年10月に、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げた。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流した。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で社員20数人の東京通信工業、後のソニーを創業した。義父の前田多門(東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役であった。以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開した。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興と急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。盛田昭夫は1921年愛知県名古屋市白壁生まれ、生家は代々続いた造り酒屋で父親は盛田家第14代当主であった。愛知県第一師範学校附属小学校、旧制愛知県第一中学校、第八高等学校、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業した。太平洋戦争中、海軍技術中尉時代にケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合った。終戦後、1946年に井深らと、ソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し常務取締役に就任した。ソニー創業者の一人で、製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出しソニーブランドの人気を高めた。1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を、1979年にウォークマンを発売した。1959年ソニー代表取締役副社長、1960年米国ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ取締役社長、1971年にソニー代表取締役社長に就任した。ソニーの会長兼CEOを務めた出井伸之さんが2022年6月に亡くなり、10月25日にお別れの会が催された。出井さんと著者は1年違いでソニーに入った。著者は2歳年上で、出井さんの事実上の上司だった時期もある。取締役になったのは4年早かったが常務だった1995年に出井さんは14人抜きで社長になった。このとき著者はソニーを退社したが、出井さんのことは人間的に好きで尊敬もしていたという。出井さんはソニーの社長を5年、会長兼CEOを5年務めたあと、2006年にベンチャー支援などを手がけるクオンタムリープを創業した。著者が2004年に人材紹介ベンチャー「CEAFOM」を起業したとき、出井さんは個人で出資してくれた。新型コロナウイルス感染症の流行で経営が圧迫され、結局、投資してもらったお金を返せないまま、出井さんとお別れすることになった。出井さんの訃報は、本書をまとめるきっかけのひとつでもあるという。祭壇から展示のほうへ移動して展示物を観て回りながら、あることに気づいた。井深大、盛田昭夫の写真がないのだ。出井さんが育てた人、引き上げた人は写っているのに、上司や先輩にあたる人たちの写真はなかった。井深さんと盛田さんは、会社経営の役割は違ったが、「過去にとらわれない」というマインドは共通していた。二人が目を向けたのは常に未来だった。過去にとらわれないから、若い世代に古い価値観を押し付けることはない。死ぬまで「老害」とは無縁だった。とくに井深は「時代が変われば、人間も価値観も変わる」とよく話していた。井深にとって、ソニーが時代とともに変化するのは当然のことだった。 その意味で、出井さんは「井深イズム」の継承者だった。盛田さんはソニーの事業を通して「井深イズム」を世に広めていった。かつて日本の電子産業が世界を席巻した時期があった。日本の電子産業をリードしたのがソニーであり、井深と盛田という二人の経営者だった。日本人が世界で再び大活躍できるならどこに可能性があるか、と探ってみるのは楽しいことである。井深大の生き方、盛田昭夫の働き方は、日本人が力を取り戻すうえで大いに参考になるだろう。少なくとも、元気をもらえるはずだ。本書を読まれたあと、将来のために役立ててもらえるなにかしらのヒントを得ていただければ幸いであるという。
第1章 運命を変えた、二人の名経営者との出会いー私とソニーと、井深と盛田/第2章 井深大の「生き方」-「個人」を尊重する思想の原点/第3章 盛田昭夫の「働き方」-「天性の人たらし」の素顔/第4章 井深大と盛田昭夫ー日本、そして世界を変えた最強の二人
8.11月25日用
”橘 嘉智子”(2022年10月 吉川弘文館刊 勝浦 令子著)は、内舎人の橘清友を父とし田口氏を母として生まれ嵯峨天皇の夫人となり仁明天皇と正子内親王を産み夫の死後太皇太后として重きをなした橘嘉智子の生涯を紹介している。
橘嘉智子は786年に奈良麻呂の変で凋落した橘氏に生まれたが、第52代嵯峨天皇の寵愛を受けて皇后にまで上り詰めた。嵯峨天皇の死後も仁明天皇の母として影響力を発揮し、承和の変ではその決断が結末を左右した。尼寺檀林寺を創建するなど篤く仏教を信仰し、晩年には橘氏の教育施設である学館院を設立した。勝浦令子氏は1951年京都府生まれ、1973年に東京女子大学文理学部史学科を卒業し、1981年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学した。高知女子大学専任講師・助教授、東京女子大学助教授・教授を経て、2019年3月に定年退職し、東京女子大学名誉教授となった。2001年「日本古代の僧尼と社会」で東大文学博士(文学)で、専攻は日本古代史である。橘嘉智子は平安初期の皇后の中でも最も注目すべき人物であるという。橘諸兄は光明皇后の異父兄で、悪疫で藤原不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち右大臣となり政権を握った。藤原広嗣は藤原宇合の子で、橘諸兄と対立し吉備真備・玄昉らを除こうとして反乱を起こした。橘諸兄は藤原広嗣の乱を乗りきり左大臣正一位に至って全盛を極めたが、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失った。藤原仲麻呂は藤原南家に生まれ、天平文化華やかな時期に大仏造立などに功績を残した。光明皇后の信任を得て勢力を拡大し、孝謙天皇の時に紫微中台の長官となった。橘諸兄の長男の橘奈良麻呂は参議となり、藤原仲麻呂と対立した。757年に藤原氏に対する不平分子を糾合して仲麻呂らを討とうとしたが、事前にもれて獄死した。藤原仲麻呂は橘奈良麻呂の乱を未然に押えて淳仁天皇を即位させ恵美押勝の名を賜り、太政大臣となって専権をふるった。橘嘉智子は786年生まれ、橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣・橘清友の娘である。祖父の橘奈良麻呂が起こした政変計画で罪人となったことから、停滞気昧となっていた橘氏に生まれ幼くして父の清友も亡くした。しかしよい人柄や指導力と天性の美貌に恵まれ、また高祖母県犬養橘三千代や曽祖母藤原多比能に繋がる藤原氏の人脈もあって、桓武天皇皇子の賀美能親王に嫁した。親王は嵯峨天皇として即位し、即位後の809年6月に夫人となり、正四位下に叙された。翌年に従三位に昇り、815年7月に皇后に立てられた。橘氏出身としては最初で最後の皇后で、世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣らの後押しで立后したといわれる。嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった。立后の宣命には、同じく臣下から皇后となった聖武天皇の皇后・藤原光明子の先例を踏襲した。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)他2男5女を儲けた。嵯峨天皇の淳和への譲位に伴い823年4月に皇太后となり、仁明天皇即位により833年3月に太皇太后となった。仁明天皇および淳和天皇皇后正子内親王の母后として、嵯峨天皇の生前および崩御後も大きな影響力を発揮した。政治的には、伊予親王事件や平城太上天皇・薬子の変などの政変を、嵯峨天皇の配偶者の立場から経験した。嵯峨太上天皇崩御直後の842年に起きた承和の変においては、太皇太后として自ら重要な鍵を握る役割を果たした。県犬養橘三千代から始まり、その娘の光明皇后と牟漏女王によって祭り継がれていた酒解神などの諸神を、太后氏神として山城国の円提寺、さらに葛野郡に遷祭しで、梅宮社を創建した。仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建した。河内国の観心寺講堂の造立や如意輪観音菩薩像の造像、法華寺十一面観音菩薩像の造像などにも関与した。また、橘氏の教育施設である学館院を創設した。恵与を五豪山や神異僧への供物奉納のために独自に唐へ派遣した。さらに、恵誓を介して禅僧義空を招聘し、自らも禅を学んだと伝えられている。嵯峨天皇譲位後は共に冷然院・嵯峨院に住んだ。嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有した。850年3月に仏門に入り、同年5月に冷然院において享年65歳で崩御した。参考となる主要史料は、正史の『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本紀略』『類聚国史』である。本書ではこれらの史料を基本に、その他関連する史料を加え、また先行研究を再検討しつつ、まず時系列に沿いながら嘉智子の実像をできる限り明らかにしたいという。そのうえで嘉智子没後に、嘉智子創建の檀林寺、梅宮社、学館院などがどのように変化していったのかを追ってみたいとのことである。
第1 家系と出生/第2 嵯峨後宮への道/第3 嘉智子の婚姻/第4 皇后嘉智子の誕生/第5 嘉智子期の皇后と皇后宮/第6 皇太后そして太皇太后へ/第7 太皇太后嘉智子の宗教活動/第8 承和の変と嘉智子/第9 晩年の嘉智子/第10 嘉智子の崩御とその後/第11 嘉智子像の変遷
9.令和5年12月9日
”未完の天才 南方熊楠”(2023年6月 講談社刊 志村 真幸著)は、驚くべき天才的才能を多方面に発揮しながら仕事のほとんどが未完に終わった南方熊楠の生涯を紹介している。
南方熊楠は1867年現在の和歌山市生まれの民俗学者、生物学者で、日本民俗学の創始者の一人である。大学予備門を中退してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究した。イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職についた。帰国後、和歌山県田辺で変形菌類などの採集・研究と民俗学の研究を行なった。民俗学の草創期に柳田国男とも深く交流して影響を与えた。熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでいた。学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであった。書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。志村真幸氏は1977年神奈川県小田原市生まれ、2000年に慶應義塾大学文学部を卒業し、2007年に京都大学大学院人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻博士後期課程を単位取得退学した。専門は比較文化研究で、2008年に博士(人間・環境学)の学位を取得した。2020年にサントリー学芸賞(社会・風俗部門)、2021年に井筒俊彦学術賞を受賞した。南方熊楠顕彰館および南方熊楠顕彰会外部協力研究者として、資料調査、展覧会、出張展、公開講座などを担当している。2019年より南方熊楠顕彰会理事、慶應義塾大学非常勤講師、京都外国語大学非常勤講師を務めている。南方熊楠は生物学者として粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしていた。さらに、高等植物、昆虫、小動物の採集も行なって、調査に基づいてエコロジーを早くから日本に導入した。1887年1月8日に米国サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジに入学した。8月にミシガン州農業大学、現・ミシガン州立大学に入学した。当初は商業を学ぶ予定だったが次第に商買の事から離れていった。ミシガン州立大学は一流大学であったが熊楠は大学に入らず、自分で書籍を買い標本を集めもっぱら図書館に行く生活を送ったという。1888年に自主退学し、ミシガン州アナーバー市に移り動植物の観察と読書にいそしんだ。1892年9月に渡英し、1893年のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ』に次々と寄稿した。生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。帰国後は、和歌山県田辺町に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じた。当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献した。民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがあり、他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残した。熊楠という天才の魅力は未完の天才という点にある。驚くほど多方面で才能を発揮し、生物研究ではキノコ、変形菌(粘菌)、シダ植物、淡水藻、貝類、昆虫、水棲腿虫類と幅広く扱い、熊楠の名が学名に付いた新種も少なくない。人類学、民俗学、比較文化、江戸文芸、説話学、語源学といった人文科学系の分野でも業績が多い。国際的な活躍もめざましく、世界最高峰の科学誌である「ネイチャー」には51篇、同じくイギリスの「ノーツーアンドークェリーズ」には324篇もの英文論考が掲載された。キノコを巧みにスケッチしたかと思えば、十数カ国語を解し、また環境保護にとりくんだことで「エコロジーの先駆者」とも呼ばれる。とてつもない記憶力を誇り、十数年前にとったノートの内容をそらで思いだすことができた。ロンドン抜書や田辺抜書といったノートに数万ページにおよぶ筆写をおこない、「人類史上、もっとも字を書いた」といわれることもある。思想家とか科学者とか政治運動家とかいった、個別の分類にはあてはまらない人物が熊楠なのである。しかし、熊楠の仕事はほとんどが未完に終わっている。睡眠中に見る夢のもつ意味を一生をかけて追い求めたが、最終的な結論は出ていない。柳田国男とともに目本の民俗学の礎を築いたものの、途中で喧嘩別れしてしまった。キノコの新種をいくつも発見していたのに、ほとんど発表していない。英語でも日本語でも多数の論考を書いたが、集大成となるような本はついに出版されずに終わっている。神社林を保護するために、日本で最初期にエコロジーの語を導入したが、もっとも大切な神社については守れなかった。なぜか熊楠は完成を嫌う、未完性は熊楠をめぐる最大の謎なのである。熊楠が手を付けたのがいずれも難しい分野だったことが指摘できる。そして、そもそも結論を出すために学問をしているわけではない。学問をすること自体が楽しく、充足した時間なのだ。そして未完であるのも、案外、悪くない。むしろ怖いのは、終わってしまうことなのだ。やることがなくなり、追究すべき「謎」がなくなってしまったら、どうしたらいいのか。著者は、もっと別にやりたいことがあれば、熊楠研究から離れてもいいけれど、これほどおもしろいテーマ/人物もなかなかいない。さいわいにして、熊楠の資料はまだ山のようにある。当分、熊楠研究が「終わる」心配はなさそうだという。
第1章 記憶力ー百科事典を暗記する/第2章 退学と留学ー独学の始まり/第3章 ロンドンでの「転身」-大博物学者への道/第4章 語学の天才と、その学習方法/第5章 神社合祀反対運動と「エコロジーの先駆者」/第6章 田辺抜書の世界ー人類史上もっとも文字を書いた男/第7章 英文論考と熊楠のプライドー佐藤彦四郎というライバル/第8章 妖怪研究ーリアリスト熊楠とロマンチスト柳田国男/第9章 変形菌(粘菌)とキノコー新種を発見する方法/終章 熊楠の夢の終わりー仕事の完成と引退とは何か?
10.12月23日
”藤原彰子”(2019年6月 吉川弘文館刊 服藤 早苗著)は、藤原道長の長女として生まれ一条天皇の中宮となり2人の天皇の生母として政務を後見した藤原彰子の生涯を紹介している。
藤原彰子は998年に生まれた才色兼備の誉れ高い女性で、第66代一条天皇の皇后中宮になった。父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘の源倫子で、藤原氏の土御門邸にて誕生した。誕生の日は不明であるが、道長と倫子の結婚は前年の12月16日なので、9月から12月の誕生と推定される。990年12月に3歳で袴着が行われた。995年に彰子8歳の時、父・道長が内覧の宣旨を受けた。999年2月9日に裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられた。同年11月1日に一条天皇の後宮に入り、同月7日に女御宣下をうけた。この時、一条天皇にはすでに藤原道隆の長女の中宮・藤原定子、女御・藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していた。1000年に藤原彰子が新たに皇后(中宮)となり、先に中宮を号していた藤沢定子は皇后宮を号した。朝廷史上はじめて一帝二后になった。藤原定子は第二皇女・?子内親王の出産が難産となり崩御した。服藤早苗氏は1947年愛媛県生まれ、1971年横浜国立大学教育学部を卒業し、小学校教諭となった。1977年東京教育大学文学部を卒業し、1980年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程を修了した。1986年東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学した。1991年に第6回女性史青山なを賞を受賞した。1992年に家成立史の研究で東京都立大学文学博士となった。2001年に新設された埼玉学園大学教授に就任し、2009年に埼玉学園大学人間学部学部長となり、2015年に定年退職し名誉教授となった。専門は、日本史、家族史、女性史、ジェンダー論である。藤原定子と藤原彰子はいとこであり、ともに一条天皇の妻であったが、定子は皇后、彰子は中宮という肩書きであった。定子は24歳で亡くなり、彰子は87歳まで生きた。定子は一条天皇との間に二人の皇子を産んだがどちらも天皇にはなれなかった。彰子は一条天皇との間に三人の皇子を産み、うち二人は天皇になった。藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母を、13歳の藤原彰子が担うことになった。母の源倫子も育児に協力したとされる。1006年頃からは、藤原彰子の家庭教師は『源氏物語』作者の紫式部であった。王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁もいた。また、紫式部の娘で歌人の越後弁、ほかに歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成した。藤原彰子は008年に30時間の難産で土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王、後の一条天皇を出産した。1009年に今度は安産で第三皇子・敦良親王、後の朱雀天皇を生んだ。これにより、父・藤原道長の権力が強まることとなった。1010年に妹・藤原妍子が冷泉天皇の第二皇子・居貞親王に入内した。1011年に病になった一条天皇は居貞親王に譲位し崩御した。居貞親王は三条天皇となったが、24歳の藤原彰子は三条天皇の即位に反発したとされる。ただ三条天皇の皇太子は、中宮・藤原彰子が産んだ敦成親王、後の一条天皇に決まっていた。1012年頃、紫式部が退任した模様だが、藤原彰子は皇太后となった。1016年に敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任した。1017年に道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた。しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続いた。
1017年に三条天皇が崩御し、中宮彰子の子・敦成親王が後一条天皇となり、幼帝のため父・藤原道長が摂政となり権勢を振るった。1018年に、藤原彰子は太皇太后になった。1026年に藤原彰子は出家し、院号の宣下があり上東門院となった。1030年に、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院という。1036年4月17日に後一条天皇、1045年正月18日に後朱雀天皇が崩御し10十年の間に2人の子を失った。その後は孫の後冷泉天皇が即位した。1052年に重篤な病に陥ったが、その後体調は回復した。そして、1074年10月3日に法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御した。東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬された。藤原彰子には日記などはなく、唯一30余首の和歌がのこされているだけである。しかし、父の日記や貴族男性の日記などが遺っており、彰子の行動を追うことができる。本書では、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長として、また摂関家の尊長としての発言力があったことを明らかにしたという。
第1 誕生から入内まで/第2 立后と敦康親王養育/第3 二人の親王の誕生/第4 皇太后として/第5 幼帝を支えてー国母の自覚/第6 後一条天皇の見守り/第7 天皇家と摂関家を支えて/第8 後朱雀天皇の後見/第9 大女院として/第10 彰子の人間像
11.令和6年1月6日
”五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人”(2023年9月 平凡社刊 橋本 俊詔著)は、幕末に薩摩藩士の子として生まれ後に経済人として鉱業と製造業を中心に多くの事業を始め大阪商工会議所の設立に尽力するなど大阪経済の礎を築いた五代友厚の生涯を紹介している。
五代友厚は1836年薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷、現在の鹿児島県鹿児島市長田町生まれ、大阪経済界の重鎮の一人である。東の渋沢栄一、西の五代友厚と称されるように、二人は日本の資本主義経済の船出に大きな貢献をした。それぞれ東京商法会議所と大阪商法会議所をつくり、一橋大学と大阪市立大学の創設に関与した。大阪経済の創始者である五代であるが、出身は関西ではなく薩摩である。明治維新は薩摩をはじめ長州、土佐、肥前出身の武士の活躍で達成された。五代が偉大な人物として名を残せたのは、薩摩藩での若い頃の人生が決定的に重要である。橘木俊詔氏は1943年兵庫県生まれ、1967年に小樽商科大学を卒業した。1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了した。大阪大学教養部助教授を経て、1979年に京都大学経済研究所助教授、1986年に教授となった。専攻は労働経済学で、1998年に経済学博士(京都大学)となった。2003年に同大学院経済学研究科教授となり、2007年に定年退任し名誉教授となった。現在、京都大学名誉教授、京都女子大学客員教授、元同志社大学経済学部特別客員教授を務めている。五代友厚は記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられた。8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父・五代秀堯が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図だった。少年期の五代才助はこれを見ることができる環境で育ち諸外国へ思いを馳せたのかもしれない。1854年にペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となった折、五代は男児志を立てるはまさにこのときにありと奮いたったという。1855年に藩の郡方書役助となり、翌年に長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学んだ。1862年に懇願するも渡航を拒まれた友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航した。1863年に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となった。通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入った。1865年に藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴した。1866年に帰国し御小納戸奉公格に昇進し、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任した。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど、実業家の手腕を発揮し始めた。1868年に戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。1868年に明治新政府の参与職外国事務掛となった。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣廠を誘致し、初代大阪税関長となり大阪税関史の幕を開けた。1869年の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立した。紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力した。大阪財界人、田中市兵衛らとともに 大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。薩摩の七傑とは、西郷隆盛、島津斎彬、大久保利通、黒川清隆、桐野利秋、付田新入、そして五代友厚である。このなかで、島津斉彬が育てた出色の家臣として、西郷、大久後、寺島宗則、そして五代が挙げられている。マス・グラバーとシャルル・モンブランは五代の人生を語るうえでとても重要な二人の外国人である。五代の薩摩藩士としての富国強兵、殖産興業政策の実行、明治新政府の外交官、官を辞しての経済人としての生活にも影響を与えた。渋沢栄一はフランスでフリュリ=エラールから銀行業を学んだが、五代におけるグラバーとモンブランは、渋沢におけるエラールよりもけるかに大きな影響力があった。多岐にわたる事業を経営したのは東の渋沢と同じであるが、両者に違いもある。第一に、渋沢が企業の経営に関与した数は500社近くにも達し、日本資本主義の父と称されるほどであるが、五代の場合はその企業数は渋沢よりかなり少ない。第二に、渋沢が最初に手掛けた事業は銀行業であったが、五代の場合には、鉱山業と金・銀・銅などの鋳造と精錬であった。経営者としての生活を送りながら、五代は商工会議所の設立に関与し、いわゆる財界活動の拠点を創設するとともに自らが会頭職を務め、文字通りの大阪財界の指導者となった。商業講習所の設置にも関与し、商業教育を大阪に根づかせようとした。ところが1885年に五代は49歳で命を落とした。遠因は糖尿病にあったとされ、高血圧症心臓疾患が直接の死因であった。東の渋沢は当時としては珍しい91歳まで生きた長命であり、それこそ数多くの事業を成したが、五代の場合には50歳になる前の死だったので、渋沢ほど長い経済人としての生活ではなかった。とはいえ明治時代の平均寿命は45歳前後であったとされるので、決して早世ではなく、仕事の種類と量の多さを渋沢と単純に比較するのは正しいとはいえないだろうという。
序章 友厚の幼青年期とは/第1章 長崎海軍伝習所と薩英戦争/第2章 薩摩藩の英国使節団/第3章 幕末から明治期ー役人・民間経済人として/第4章 働き盛りを迎えた明治10年代/第5章 五代友厚と渋沢栄一
12.1月20日用
”スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想”(2023年10月 集英社刊 波戸岡 景太著)は、1960年代のアメリカで若きカリスマとなり今年生誕から90年を迎えいまでは忘れかけられている批評家スーザン・ソンタグの生涯を紹介している。
スーザン・ソンタグはアメリカの女性作家、批評家で、シカゴ大学卒業後ハーバード大学で修士号を取得し、雑誌の編集に従事し諸大学で哲学を講じた。処女作は1963年の小説『恩恵者』 で、以後、1966年に『反解釈』 1969年に『ラディカルな意志のスタイル』1977年に『写真論』、1979年に『隠喩としての病い』 などを発表した。かつて、反解釈・反写真・反隠喩で戦争やジェンダーなど多岐にわたる事象を喝破した。波戸岡景太氏は1977年神奈川県生まれ、千葉大学を卒業し慶應義塾大学大学院文学研究科博士後期課程を修了した。明治大学理工学部講師、准教授、教授を歴任した。現在、明治大学大学院理工学研究科 建築・都市学専攻 総合芸術系教授を務めている。日本のアメリカ文学者で、博士(文学)〈慶應義塾大学〉、専門はトマス・ピンチョンを中心とした現代アメリカ文学・日米比較文化論である。スーザン・ソンタグは1933年に東欧ユダヤ系移民の父母の元にアメリカ国籍者としてニューヨーク市で生まれた。父親は中国で毛皮の貿易会社を経営していたが、5歳の時に結核で死去した。その7年後、母は同じ東欧ユダヤ系のネイサン・ソンタグと親密関係になった。正式には結婚はしなかったが、スーザンと妹は義父のソンタグ姓を名乗るようになった。ソンタグはアリゾナ州ツーソンをへてカリフォルニア州ロサンゼルスで育ち、15歳でノースハリウッド高等学校を卒業後は、学部生としてカリフォルニア大学バークレー校で学び始めた。のちシカゴ大学に転校し、学士号を得て卒業し、ハーバード大学大学院、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ、パリ大学の大学院でそれぞれ哲学、文学、神学を専攻した。大学院修了後、アメリカユダヤ人委員会の機関誌の編集者となったのち、コロンビア大学などで哲学講師となった。そのかたわら、1963年に作家デビューし、1966年には初の評論集を出版した。ソンタグは30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていた。2004年12月28日に骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで71歳で死去した。生涯を通じ、アメリカを代表するリベラル派の知識人として、ベトナム戦争やイラク戦争に反対するなど、人権問題についての活発な著述と発言でオピニオンリーダーとして注目を浴びた。ソンタグは写真や映画といった映像文化に造詣が深く、ジェンダーやセクシュアリティの問題にも敏感で、かつまた結核やがんといった病のイメージについても熱心に議論した。そしてベトナム戦争以後、9・11に至るまでずっと社会問題に反応し政治的な発言を続けた。ソンタグは、「批評家」「作家」「評論家」「映画監督」「活動家」などの肩書きをもつマルチな才能をもった文化人であった。ソンタグと同じくらいメディアに注目された知識人は今も昔も存在する。けれども、ソンタグのように自身の輝かしい学歴に背を向け、刺激的な内容を絶妙な文章に磨き上げ、メディアを利用しても決してメディアに踊らされることのなかった人はとても珍しい。2004年にソンタグが亡くなってから20年近くが過ぎようとしている今、世界的な評価の高まりとは裏腹に、日本ではその名を耳にすることが減ってきたように思われる。それはソンタグが背負ってきた1960年代的なアメリカの「カッコよさ」が、今の日本ではあまり魅力的ではなくなってしまったということも理由の一つかもしれない。あるいは、あえて一般的な感情を逆撫でするような政治的立場を表明してみせたりした、1970年代以降のもう一つの「カッコよさ」も、今の日本では流行らないからかもしれない。しかし、そうした傾向はあくまでも、「今の日本では」ということに過ぎない。類い稀なる知性と文才をもって生まれたソンタグの精神的成長の記録というべき著作群は、読み方さえ理解すれば、明日を生き抜くための最高のツールとなるはずである。本書を通じて、ソンタグの挑発する知性とあらがいの思想が、厳しくも慈愛に満ちたものであることに気づいていただければ幸いである。
誰がソンタグを叩くのか/「キャンプ」と利己的な批評家/ソンタグの生涯はどのように語られるべきか/暴かれるソンタグの過去/『写真論』とヴァルネラビリティ/意志の強さとファシストの美学/反隠喩は言葉狩りだったのか/ソンタグの肖像と履歴/「ソンタグの苦痛」へのまなざし/故人のセクシュアリティとは何か/ソンタグの誕生/脆さへの思想
13.令和6年2月3日
”[改訂版]土方久功正伝”(2023年5月 東宣出版刊 清水 久夫著)は、28歳で単身南洋パラオへ渡り30歳でヤップ離島のサトワヌ島へ渡って原住民と生活を共にしながら彫刻の制作と島の民俗学的な研究を行なった彫刻家で民俗学者の土方久功の生涯を紹介している。
土方久功は若い頃から世界の民族文化に関心を寄せ、東京美術学校で彫刻を学んだ。その後1929年に当時日本の委任統治領であったパラオ諸島に渡り、着いて3ケ月後に南洋庁の嘱託に採用された。島の子供たちが学ぶ公学校で木彫を教え、島々を巡りながら昔話や工芸作品の収集、民族調査などを進めた。その時の教え子は、後にパラオの民芸品「ストーリーボード」を制作し、今日まで受け継がれている。久功は南洋に13年間滞在し、島の人々とともに暮らし「日本のゴーギャン」と呼ばれた。清水久夫氏は1949年東京生まれ、法政大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得した。日本学術振興会奨励研究員、法政大学非常勤講師を経て、世田谷区総務部美術館建設準備室学芸員となった。世田谷美術館開館後は、学芸部教育普及課長、資料調査課長等を勤めていた。埼玉大学・法政大学・跡見学園女子大学非常勤講師を務めた。土方久功は1900年現在の東京都生まれ、父親は陸軍砲兵大佐で、伯父は伯爵、母方の祖父は海軍大将・男爵であった。旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父親の病気退職による経済的理由から、1919年に東京美術学校彫刻科に入学した。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍していた。1924年に同学を卒業し、土方与志が築地小劇場を設立し、久功が同劇場の葡萄の房章をデザインした。1929年にパラオに渡り、現地住民の初等教育学校の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査した。1931年にヤップ諸島の最東端・現在のサタワル島に渡り、7年間を同島で過ごした。1939年にパラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務した。現在のチューク諸島、現在のポンペイ島、現在のコスラエ島、現在のジャルート環礁、サイパン島、ロタ島を引き続き調査した。1942年に小説家の中島敦とともに帰国したが、同年にボルネオ調査団に参加し日本が統治した北ボルネオを調査した。1944年に病を得て帰国し、岐阜県可児郡土田村、現在の同県可児市土田に疎開した。第二次世界大戦終了後、1949年に東京都世田谷区に移転して、彫刻家となった。1977月11日に心不全のため満76歳で死去した。土方久功を一言で言いあらわすのは難しい。彫刻家であり、詩人であるとともに、民族誌家であった。今日、土方久功の名を知る人は少ないかもしれない。その原因の一つは、久功自身の生き方にあったといえよう。画壇・文壇と深く関わらず、自由人として生き抜いた。制度の外にあり、名聞を求めず、なかば市井に隠れて、忍耐強くみずからの世界を築きつづけた。歿後1990年から3年間、『土方久功著作集』全8巻が刊行され、主要な著書、論文、随筆、詩が収められている。また、通算10年以上に及ぶ1922年7月から1977年1月までの日記122冊、草稿やノート類などが残されている。今日では、土方久功に関する資料の入手は以前に比べ、容易となっているので、今後の研究の発展が期待される。戦後、土方久功が展覧会を開いたときなど、新聞や雑誌で取り上げられることがあった。その際、しばしば久功は、「日本のゴーギャン」と言われた。没後も同様で、例えば、2007年の世田谷美術館の中島敦との二人展のタイトルは、「パラオーふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功」展であった。旧著のタイトルは、「土方久功正伝-日本のゴーギャンと呼ばれた男」であったが、異論があったという。本人は日本のゴーギャンと呼ばれることをとても嫌がっていたという。しかし、著者は土方久功が目本のゴーギャンであったと言うつもりはなかった。日本のゴーギャンと呼ばれていたということを言いたかったという。本人の日記や著作では、本人はゴーギャンが好きで、ゴーギャンの幻想的なものに引きつけられていた。真似たいと思う、羨ましくもあるが、どうにもならない、ゴーギャンは、あまりに自分から遠いかから好きなのかもしれないと言っている。たしかに、久功の生き方にしろ、作品にしろ、ゴーギャンとの共通点は非常に少ない。だが、久功が日本のゴーギャンと呼ばれていたのは事実である。久功にとっては、不本意で、実に不愉快なことであったに違いない。なお、「日本のゴーギャン」という呼び方は、最近では日本画家の田中一村の方がゴーギャンとしてよく知られている。本書の執筆に当っては、土方久功の遺族および知人の方々から資料を提供され、示教を得たとのことである。
第1章 幼年から青年時代へ/第2章 死の影/第3章 遥かなる南洋へーパラオの生活/第4章 孤島に生きて/第5章 再びパラオへー丸木俊と中島敦/第6章 戦時下の日本へ/第7章 ボルネオから土田村へ/第8章 戦後東京の生活/第9章 パラオ、サタワル島の人々との交流/終章 栄達、名誉を求めぬ一生
14.2月17日
”斎藤一 京都新選組四番隊組頭”(2022年3月 河出書房新社刊 伊東 成郎著)は、新選組の四番隊組頭を長く務め会津戦争と西南戦争に従軍し藤田五郎として明治大正を生きた斎藤一の生涯を紹介している。
新選組は幕末から維新にかけて特異な存在感を示し、さまざまな興味を抱かせる集団である。新選組の中枢を担った近藤勇と土方歳三は、武家ではなく多摩地方の農家の出身であった。ともに幼い頃から武士に憧れ、動乱の時代の中でその思いを実現させ時代の変革とともに散っていった。斎藤 一は1844年に江戸で(播磨国ともいわれる)生まれ、父親が明石出身であったことから明石浪人、または播州明石浪人を名乗ったようである。父・右助は播磨国明石藩の足軽であったが、江戸へ下り石高1,000石の旗本・則定鈴木家に仕えたとされ、後に御家人株を買って御家人になったといわれる。斎藤 一は幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務めた。一時期御陵衛士に入隊し、戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦った。明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦った。伊東成郎氏は1957年東京生まれ、1979年に明治大学文学部史学地理学科を卒業し、1981年に東京写真専門学校を卒業した。同年に全国石油業協同組合連合会広報部に就職したが、翌年伊東写真館祖父が明治末年に開業した同店で写真撮影業を自営し、現在に至る。同時に、歴史関連の調査、執筆活動を展開してきた。2000年にNHK「その時歴史は動いた」製作協力し、2003年に東京都中央区江戸開府400年記念事業検討委員会委員に就任した。斎藤一という名前は、京都に移ってから新選組全盛期にかけてのもので、最初の名前は山口一であった。1862年に江戸で刃傷沙汰を起こして京都に逃亡した際、斎藤一と名を変えた。1867年に山口二郎(次郎)と改名し、会津藩に属して戊辰戦争を戦った時期には一瀬伝八を名乗った。斗南藩に移住する直前、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名した。1872年の壬申戸籍には藤田五郎として登載されている。19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり斬ってしまい、父親の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。1863年3月10日に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成した。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなった。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務めた。一般に斎藤一は、新選組三番隊長と呼ばれる。小説から漫画にいたるまで踏襲されているこの肩書きには、実は史実としての裏づけがない。原典は西本願寺の寺侍だった西村兼文が1889年に編んだ新選組始末記である。後年、この組長編成は独り歩きし、京都土産の暖簾や湯呑にも登場するに至った。しかし、行軍録と題する新選組の編成表は行軍形式で整えられており、近藤や土方のほかに当時在籍していた小隊ごとに整然と配列された全隊士名が確認できる。八小隊と番外の小荷駄隊という全九基による新選組の小隊編成があり、斎藤一は決して「新選組三番隊長」や「三番隊組長」ではなく、「新選組四番隊組頭」であるという。1864年6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。1867年3月に伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると斎藤も御陵衛士に入隊したが、のち新選組に復帰した。同年12月7日に紀州藩の依頼を受けて同藩士・三浦休太郎を警護したが、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃された。三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり宮川信吉と舟津釜太郎が死亡し、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負った。斎藤は鎖帷子を着ており無事であったが、三浦は顔面を負傷したものの命に別状は無かった。将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加した。1868年1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦し、斎藤はいずれも最前線で戦った。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かった。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加したが足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着いた。斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加し、8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却し、その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦した。斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。会津藩は降伏後改易され会津松平家は家名断絶となったが、1869年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北半島を松平家側で選ぶこととされた。旧藩幹部は下北半島を選択し藩名は斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴いた。斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、会津藩士としては大身に属する系譜の篠田やそと結婚した。後年、1874年に元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚し、氏名を藤田五郎に改名した。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けた。同年7月に東京に移住し警視庁に採用された。1877年2月に九州で西南戦争が起き、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加した。斬り込みの際に敵弾で負傷するも奮戦して、1879年10月に政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与された。1881年に警視局が廃止されて一旦陸軍省御用掛となり、その後警視庁の再設置により11月に巡査部長となった。1885年に警部補、1888年に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1892年12月に退職した。退職後、東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めた。なお、出自、経歴は不明な点も多いという。
1 新選組前夜/2 壬生狼疾駆/3 新選組四番隊組頭/4 孝明天皇御陵衛士/5 京都落日/6 転戦の果てに/7 斎藤一の明治
15.令和6年3月2日
”今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる”(2023年5月 講談社刊 畑中 章宏著)は、日本のすみずみまで歩いて聞き集めた小さな歴史の束から世間・民主主義・多様な価値から日本という国のかたちをも問いなおした宮本常一の生涯を紹介している。
宮本常一は1907年山口県屋代島、現周防大島生まれ、大阪府立天王寺師範学校、現大阪教育大学専攻科を卒業した。学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、膨大な記録を残した。柳田國男は1875年生まれの民俗学者・官僚で、農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者で、位階・勲等は正三位・勲一等である。日本人とは何かという問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。渋沢敬三は1963年生まれの実業家、財界人、民俗学者、政治家で、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣を務めた。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。畑中章宏氏は1962年大阪府大阪市生まれ、近畿大学法学部を卒業し、災害伝承、民間信仰から流行現象まで幅広い領域に取り組んだ。平凡社の編集者として、『月刊太陽』編集部に所属し、多摩美術大学特別研究員、日本大学芸術学部講師を務めている。フィールドワークでは、特定の調査対象について学術研究をするとき、テーマに即した現地を実際に訪れ、対象を直接観察する。関係者に聞き取り調査やアンケート調査を行い、現地での史料・資料の採取を行うなど、学術的に客観的な成果を挙げる技法である。宮本の民俗学は非常に幅が広く、後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。観光学は観光に関する諸事象を研究する学際的学問である。観光学は、地域経済の振興、発展、環境保全など解決していくためにある。経済の発達に伴い楽しみのための旅行が広く普及し、マス・ツーリズムの時代が到来した。これに伴い、いかにしてより満足できる観光が実現するか問われるようになった。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。民具は民衆の日常生活における諸要求にもとづいてつくられ、長いあいだ使用されてきた道具や器物の総称である。これは渋沢敬三によって提唱された学術用語である。日本常民文化研究所の前身であったアチック・ミューゼアムでは、民具をきわめて広い対象をあらわす概念としている。アチック・ミューゼアムは1921年に、実業家で民俗学者でもあった渋沢敬三によって創設された。その後、財団法人時代を経て1982年に神奈川大学に移管され研究が引き継がれた。宮本が所属したアチックミューゼアムは後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となった。ここでは漁業制度史や民具の研究を中心に、日本の民衆の生活・文化・歴史の調査研究が行われている。網野善彦は、1928年山梨県東八代郡御坂町生まれの日本中世史を専門とする歴史学者である。宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視した。そのため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇された。しかし、20世紀末になって再評価の機運が高まった。宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れ、柳田民俗学を乗り越えようとした。柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめた。そして「私たち」の起原、定義、未来を追求する際、「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えた。そのとき、「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られると考えたという。これに対して宮本常一は、「もの」を民俗学の入り口にした。たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えた。そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたという。日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫、南方熊楠らによって発展していった。彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三が独自の立場から後進を支援指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一である。宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把捉するとともに問題点を明らかにしていった。それは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことだった。ほかの民俗学者の民俗学と際だって違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことである。宮本は歴史をつくってきた主体として、民衆、あるいは庶民を念頭においた。これまでの歴史叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしてきたかのように力説されてきた。しかし宮本は、このような歴史認識は歴史の一面しか捉えていないし、私たちの歴史とはいえないと考えた。また宮本は、民俗学はただ単に無字社会の過去を知るだけではなく、その伝統が現在とどうつながり、将来に向かってどう作用するかをも見きわめなければならないという。そして、歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところだった。また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みた。「大きな歴史」は、伝承によって記憶されるだけで記録に残されていない「小さな歴史」によって成り立っていることを、具体的に示そうとしたという。生活誌、生活史を叙述する際に、私たちが獲得してきた技術や産業の変化に目を向けたことも、宮本民俗学の大きな特色である。宮本の民俗学には「思想や理論がない」「その方法を明示していない」とアカデミックな民俗学者から批判されてきた。しかし、宮本の民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないかという。主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきであろう。
はじめに 生活史の束としての民俗学/第1章 『忘れられた日本人』の思想/第2章 「庶民」の発見/第3章 「世間」という公共/第4章 民俗社会の叡智/第5章 社会を変えるフィールドワーク/第6章 多様性の「日本」
16.3月16日
”ケマル・アタチュルク オスマントルコの英雄、トルコ建国の父”(2023年10月 中央公論新社刊 小笠原 弘幸著)は、父なるトルコ人の意味のアタチュルクと呼ばれる、トルコ共和国の建設者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯を紹介している。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、ムスタファ・ケマルともケマル・パシャとも、ケマル・アタテュルクとも呼ばれる。トルコ革命を指導してトルコ共和国の初代大統領となり、トルコを世俗的な近代国家とすることに務めた。1881年頃、オスマン帝国領セラーニク県の県都セラーニク、現ギリシャ領テッサロニキ生まれ、父親は税関吏であった。父母からは選ばれし者の意味のムスタファと命名され、後に入学したサロニカ幼年兵学校の数学教官から完全な者の意味のケマルというあだ名を付けられた。1886年頃、西洋式教育の学校に入学したが、1888年に父親が亡くなり家族でサロニカに戻り叔父の許に身を寄せたが、しばらくして母が再婚したため叔母の家に身を寄せた。1894年頃、サロニカ幼年兵学校に入学し、1896年にマナストゥル少年兵学校に入学した。小笠原弘幸氏は1974年北海道北見市生まれ、青山学院大学文学部史学科卒業後、2005年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を単位取得退学した。2006年日本学術振興会特別研究員となり、2008年にオスマン朝の研修で博士(文学)となった。専門はオスマン帝国史とトルコ共和国史である。公益財団法人政治経済研究所研究員、青山学院大学総合研究所員などを経て、2013年に九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門イスラム文明史学講座准教授となった。2018年に樫山純三賞を受賞し、日本イスラム協会理事を務めた。ケマル・アタテュルクは、1899年に陸軍士官学校に入学した。1902年に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業した。陸軍大学校に進み、1905年に修了して参謀大尉に昇進し、研修のためダマスカスの第5軍に配属された。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、ダマスカスで設立された「祖国と自由」のシンパになった。オスマン帝国は弱体化し、バルカン半島や西アジアで領土を次々と失って瀕死の病人といわれるようになった。帝国の衰退をとめるために、それまでの硬直した古いスルタン政治の打破をはかる運動が青年将校の中にあらわれた。1905年に日露戦争で仇敵ロシア軍が新興国日本に敗れたことは、オスマン帝国の軍人に大きな刺激を与えた。日本にならって、古い体制を打破して立憲国家を建設することをめざす青年トルコ革命を誘発した。1906年にマケドニアで設立された「統一と進歩協会」本拠がフランスのパリに置かれると、「青年トルコ党」の現地支部を設立して「祖国と自由」を吸収した。ケマル・アタテュルクは1907年に第3軍司令部に転属され、赴任地で「青年トルコ党」の現地支部である「統一と進歩協会」に加入した。1908年に「青年トルコ」が挙兵しミドハト憲法を復活させて第2次立憲政治を実現させ、翌年にはスルタンアブデュルハミト2世を退位させて革命を成功させた。以後、オスマン帝国は「青年トルコ」政権による立憲体制がとられることになったが、スルタンは実権を失ったものの依然として存続していた。政権は安定せず革命の混乱に乗じて周辺のオーストリア、ブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露わにした。さらに、イタリアがオスマン帝国領の北アフリカに進出するなど、帝国主義の荒波にさらされることとなった。ケマル・アタテュルクは1909年に第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。3月31日事件が勃発すると、軍はサロニカの第3軍とアドリアノープルの第2軍から部隊を編成して、帝都イスタンブール鎮圧に派遣した。ケマル・アタテュルクは第3軍所属の予備師団作戦課長として鎮圧部隊に連なり、終了すると第3軍司令部に帰任した。1910年には、ムスリム住民の多いアルバニアでも反乱が起こった。「青年トルコ」は憲法の復活による立憲政治の再開と、オスマン主義による国民統合を主張した。しかし、次第にその内部にトルコ民族としての自覚を重視するトルコ民族主義も台頭し、安定を欠いていた。一方、帝国主義列強による侵略が強まり、1911年にリビアに侵攻したイタリア軍との戦争に敗れてトリポリ・キレナイカを失った。ケマル・アタテュルクは1910年からの同軍士官養成所勤務を経て、再び第3軍司令部に戻った。1911年に第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て参謀本部付となった。1911年に伊土戦争が勃発してイタリアがリビアに侵攻したため、「統一と進歩協会」の志願者と同行してトリポリタニアに赴いた。1911年に少佐に昇進し、アレクサンドリア経由で陸路ベンガジに潜入し、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官に着任した。1912年にデルネ地区の司令官に任命されゲリラ戦を指揮したが、第一次バルカン戦争が勃発したためリビアから呼び戻されてダーダネルス海峡地区に着任した。混成部隊司令部の作戦課長を拝命し、同部隊がボラユル軍団に再編された際も同職を続けた。オスマン帝国は1912年の第1次バルカン戦争でも、イスタンブルを除くバルカン半島を放棄した。1913年に軍団主力の第27師団はボラユルの戦いで、ブルガリア勢の第7リラ歩兵師団に敗北し、アドリアノープルはロンドン条約調印により、ブルガリア王国に割譲された。同年の第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出てケシャンを落とし、イプサラ、ウズンキョプリュ、カラアーチに入り、ディメトカを経由してアドリアノープルを奪還した。ケマル・アタテュルクは街を離れ、ブルガリアの首都ソフィア駐在武官に任命され、セルビア首都ベオグラードとツェティニェの駐在も兼任した。バルカンの戦禍を逃れた多くのイスラーム教徒が帝国領内に移住してきて、イスラーム教徒の比重が高まった。1914年に青年トルコの軍人エンヴェル・パシャがクーデタによって権力を握り、軍部独裁的な青年トルコ政権を樹立した。第一次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権のエンヴェル・パシャはロシアとの対立関係からドイツ、オーストリアとの提携を強め、同盟国側で参戦し独断で開戦に踏み切った。オスマン軍はドイツ軍の援助を受けて、バルカン半島ではイギリス・フランス連合軍との戦いで勝利するなど健闘したが次第に連合軍に押された。また、中東でもパレスティナをイギリス軍に占領され、アラブ人の反乱もあってオスマン帝国軍は翻弄され次第に劣勢になった。1918年にスルタンのメフメト6世は単独で講和を決定し、孤立したエンヴェル・パシャはドイツに亡命した。敗戦国となったオスマン帝国は翌年のセーヴル条約で壊滅的な領土割譲を余儀なくされ、青年トルコ政権の中枢部は国外に逃亡した。敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーヴル条約を結ぶと、国民的な抵抗運動が起った。ケマル・アタチュルクが指導者となり、1919年にイズミル侵攻を企てたギリシア軍と戦った。1920年にトルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集し、イスタンブルのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立した。1921年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得た。1922年にギリシア軍は撤退し、イズミルの奪回に成功した。ギリシアとの講和後、同年にスルタン制を廃止し、連合国とはセーヴル条約を破棄し、オスマン帝国は滅亡することとなった。改めてローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせた。1923年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党を率いて初代大統領に選出された。翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコの世俗主義化につとめた。ケマル・アタチュルクの業績は、大きく2つに分けることができるという。ひとつはオスマン帝国の軍人にして救国の英雄として、もうひとつはトルコ共和国という国をつくりあげた政治家として、である。戦士としては、列強による祖国分割を阻止せんとして立ちあがった愛国者たちを糾合しその指導者となった。国民は奮闘し、ギリシア軍を激戦のすえ追い返して、列強の野望を打ち砕くことになった。政治家としては、祖国に平和世界に平和のスローガンを掲げどの陣営にもくみせず中立を保った。現在のトルコは中東・バルカン諸国でもっとも成功した国のひとつであり、その礎を築いた。ただし、裏の顔もつきまとい、大統領に就任してのちともに戦った盟友たちを追放あるいは処刑し、権力を固めた。トルコ民族主義を強硬に推し進めたゆえにクルド人を弾圧し、宗教を抑圧した。なお、近年では親イスラムの公正発展党を率いるエルドアン大統領のもと、アタチュルクの業績を暗に批判されているという。
序章 黄昏の帝国/第1章 ケマルと呼ばれる少年ー1881~1904年/第2章 ガリポリの英雄ー1905~1918年/第3章 国民闘争の聖戦士ー1919~1922年/第4章 父なるトルコ人ー1923~1938年/終章 アタテュルクの遺産
17.3月30日
”レビー小体型認知症とか何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと”(2023年12月 筑摩書房刊 樋口直美/内門大丈著)は、50歳で若年型レビー小体型認知症と診断された著者の一人とこの病気に精通する医師との共著で誰もが知っておくべきことを解説している。
レビー小体は異常なたんぱく質が脳の神経細胞内にたまったもので、主に脳幹に現れるとパーキンソン病になり大脳皮質にまで広く及ぶとレビー小体型認知症になる。レビー小体が神経細胞を傷つけ壊してしまうので、結果として認知症になる。レビー小体が現れる原因は、脳の年齢的な変化と考えられている。脳の神経細胞が徐々に減っていき、特に記憶に関連した側頭葉と情報処理をする後頭葉が萎縮するため幻視が出やすいと考えられている。ただし、はっきりした原因は今のところ十分にわかっていない。わが国のレビー小体型認知症の人は、約60万人以上いると推定されている。65歳以上の高齢者に多くみられるが、40~50歳代も少なくない。幻視や認知機能の変動と並び、初期のうちからパーキンソン症状がよくみられる。手足が震える、動きが遅くなる、表情が乏しくなる、ボソボソと話す、筋肉・関節が固くなる、姿勢が悪くなる、歩きづらくなる、転倒しやすくなるなど、身体にさまざまな症状が生ずる。樋口直美氏は1962年生まれ、50歳でレビー小体型認知症と診断された。41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間があった。多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状等もあるが、思考力は保たれ執筆活動を続けている。2015年に”私の脳で起こったこと”をブックマン社から上梓し、日本医学ジャーナリスト協会賞書籍部門優秀賞を受賞した。内門大丈氏は1970年東京都目黒区生まれ、小学4年生のころ2冊の本に感銘を受け、医者を志すようになったという。1996年に横浜市立大学医学部を卒業し、2004年横浜市立大学大学院博士課程(精神医学専攻)を修了した。大学院在学中に東京都精神医学総合研究所で神経病理学の研究を行い、2004年より2年間、アメリカのメイヨークリニックに研究留学した。2006年に医療法人積愛会横浜舞岡病院を経て、2008年に横浜南共済病院神経科部長に就任した。2011年に湘南いなほクリニック院長を経て、2022年より医療法人社団彰耀会理事長、メモリーケアクリニック湘南院長、横浜市立大学医学部臨床教授を務めている。認知症専門医で、認知症に関する啓発活動と地域コミュニティの活性化に取り組んでいる。レビー小体型認知症は、1995年の第1回国際ワークショップで提案された新しい変性性認知症のひとつである。日本ではアルツハイマー型認知症や脳血管性認知症と並び、三大認知症と呼ばれている。進行性の認知機能障害に加えて、幻視症状、レム睡眠行動障害とパーキンソン症候群を特徴とする変性性認知症である。パーキンソン病と基本的には同じ疾患であり、運動症状が主であればパーキンソン病と診断され、認知症症状が主として出現すればレビー小体型認知症と診断される。原因が基本的に同一であるため両者を併せもつ症例も多い。アルツハイマー型認知症と同様に根治方法はないが、理学療法などで症状を改善することはできる。長く治療薬がなかったが、2014年にドネペジルが進行抑制作用を認められ、世界初の適応薬として認可された。この本の狙いは、診断された時これがあれば希望が持てると認識できることと、認知症に関わるすべての医師・専門職の誤解を解くことである。多くの人が長寿を祝う時代になり、私たちは人生最後の数年を脳や体の病気と共に生きることが当たり前になった。癌は2人に1人がかかる病気であるが、認知症はそれ以上である。95歳以上の女性では84%が認知症、それ以外のほぼ全員は軽度認知障害という報告がある。それは長寿の結果であって、もう病気とも呼べないかもしれない。レビー小体型認知症も診断を受けていないだけで、脳や全身の細胞にレビー小体が溜まっている高齢者は驚くほど多いそうである。認知症のイメージは50年前のがんと似ていないか。当時は、癌になったら終わりと思われていた。半世紀後の今、治療を受けながら仕事や趣味の活動を続ける人もたくさんいるようになった。著者の一人は50歳の時にレビー小体型認知症と診断され、治療を続けている患者である。診断後、自分の病態を観察、記録し、症状は従来の説明は違うということを書き続けてきた。当事者を苦しめる、認知症やレビー小体型認知症に被せられたどす黒いイメージを変えたいという。医療者が外から見て解説してきた症状と、自分で体験する症状にはズレがあった。病名が知られていくと同時に、誤解も広がっていった。その誤解は、診断された本人や家族から希望を奪い、治療やケアの不適切さを覆い隠し病状を悪化させてしまう。この本は、そんな誤解を一つひとつ解き、希望を持って生きるための方法と知識を伝える内容になっている。もう一人の著者はレビー小体型認知症の患者を大勢診てきた医師である。執筆に際しては、診断や治療など医療に関しては専門家にお話を伺う方が良いと考え対談をお願いした。そして長年抱いてきた疑問や本音、患者や家族から伺った切実な悩みの数々をストレートにぶつけ回答をいただいた。臨床経験豊かな医師と患者の対談であり、診断や治療に関しても他の本にはない踏み込んだ内容となった。レビー小体型認知症に限らず、脳や神経の病気になっても、老いてできないことが増えていっても、満足して生きていくための道はある。レビー小体病は知識さえあれば素人にも早期発見が可能である。早くから適切な治療とケアを受ければ長く良い状態を保つことができ、短命になることもない。実際にはその逆になっている例が多く、この病気は進行が早いからなど、と諦められている状況がある。しかし、知ってさえいれば避けられる落とし穴に転がり落ちて苦しむことを回避してもらうことが長年の切なる願いであるという。
第1章 レビー小体型認知症とは、どんな病気なのか?/第2章 レビー小体病 症状と診断と治療/第3章 パーキンソン病とレビー小体型認知症との関係/第4章 幻覚など多様な症状への対処法/第5章 病気と医師との付き合い方/第6章 最高の治療法とは何か
18.令和6年4月13日
”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)は、14歳で豊臣秀吉と結婚して正室となり北政所と称された秀吉の死後の高台院の生涯を紹介している。
高台院は1549年尾張国朝日村、現、愛知県清須市に尾張の人杉原定利の次女として生まれた。室町時代後期から江戸時代初期に生きた女性で、杉原(木下)家定の実妹である。織田信秀、織田信長に仕え弓衆となり木下秀吉の与力とされた、浅野長勝の養女となった。1561年8月に木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対された。しかし、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため、無事に嫁いだ。通説では14歳とされ、当時としては珍しい恋愛結婚であった。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったという。子供がなかったので、加藤清正や福島正則などの親類縁者を養子や家臣として養育した。1568年頃から数年間は美濃国岐阜に在住し、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取った。1574年に近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。1582年の本能寺の変の際に明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難した。福田千鶴氏は1961年福岡県生まれ、福岡高等学校を経て1985年に九州大学文学部史学科を卒業した。1993年に同大学院文学研究科博士課程を中退し、国文学研究資料館助手となった。1997年に学位論文により九州大学博士(文学)となった。2000年に旧・東京都立大学人文学部助教授、首都大学東京都市教養学部准教授となった。2008年に九州産業大学国際文化学部教授、2014年に九州大学基幹教育院教授となった。2019年に第17回「徳川賞」を受賞した。1585年に豊臣秀吉が関白となり、秀吉の第一位の妻として北政所と称された。天下人の妻として、北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けた。また、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担った。1588年5月に後陽成天皇が聚楽第に行幸し、5日後無事に還御した。すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられた。従一位叙位記には豊臣吉子と記されていた。1592年に秀吉から所領を与えられ、平野荘、天王寺、喜連村、中川村など合計1万1石7斗であった。1593年からの文禄・慶長の役で、秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化のため交通整備を行った。名護屋から大坂・京の交通に秀吉の朱印状、京から名護屋の交通に豊臣秀次の朱印状である。そして、大坂から名護屋の交通に北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。1598年9月に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。武断派の七将が石田三成を襲撃した時に、徳川家康は北政所の仲裁を受けた。1599年9月に大坂城を退去し、奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住した。関ヶ原の戦い前に、京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小された。このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後に准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件があった。関ヶ原合戦後は京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社に参詣するなど秀吉の供養に専心した。秀吉から与えられていた1万5,672石余は、合戦後に養老料として徳川家康から安堵された。1603年に養母の死と秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に、落飾した。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。1605年に実母と秀吉の冥福を祈るため、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立した。門前に屋敷を構え、大坂の陣では幕府の意向で甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた。そして、1615年に大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びた。一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活した。徳川家との関係は良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催の二条城内能興行が行われた。公家の一員としての活動も活発で、高台院からたびたび贈り物が御所に届けられた。1624年10月17日に高台院屋敷にて享年76(77、83の諸説あり)歳で死去した。墓所は京都市東山区の高台寺、遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されている。諱には諸説あり、一般的には「ねね」とされるが、「おね」と呼ばれることが多い。木下家譜やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為」などと記され、「ねい」説もある。しかし、近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認されている。戸籍ができる前の女性の名前は、大名家に生まれた娘でも不明な場合が多い。大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで「姫」と呼べば事が足りたからである。それゆえ、記録に名前が残されることが少なかったのである。女性の名前が不明の場合に、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用する。高台院の場合は「杉原氏」としたものが多いが、これは生家の氏名である。高台院の法号は死後の謐であることが多く、その人物を代表させる名とするには躊躇される場合もある。しかし、高台院は朝廷から勅許を得て生前から用いられた号なので、その点での問題はない。とはいえ、秀吉が関白に就いたことで、その本妻の呼び名「北政所」の号で一般には知られている。ただし、北政所とは平安時代に三位以上の公卿の本妻の呼び名だったものである。時代が下ると宣旨をもって特に摂政・関白の本妻に授けられる称号として用いられた。日本歴史上に北政所と称えられた女性は複数いたため、唯一固有の号ではない。北政所といえば秀吉の本妻のことだけを指すと固定的に考えるのは、誤った歴史認識である。「北政所」として語り継がれた女性の生涯には、思いのほか事実誤認が多い。高台院の行動と思われていた事象が、実は秀吉母のことだったり、浅井茶々のことであったする。そのため、問題提起の意味もあり、書名には北政所を採用しなかった。これは、「糟糠の妻」としての「北政所」像があまりにも大きく描かれがちだったためである。本書ではいったん「糟糠の妻」のイメージを取り除き、等身大の高台院を描いてみたいという。
第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)
19.4月27日用
”佐々木惣一 ”(2024年2月 ミネルヴァ書房刊 伊藤 孝夫著)は、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し戦後は憲法改正案の起草にあたった憲法・行政法学者の佐々木惣一の生涯を紹介している。
佐々木惣一は1878年鳥取県鳥取市生まれ、鳥取県尋常中学校、現、鳥取県立鳥取西高等学校、第四高等学校を経て京都帝国大学法科大学で学んだ。1903年に卒業し、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じた。1927年からは、退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになった。行政法における師匠は織田萬で、憲法における師匠は井上密である。1921年以来二回法学部長に挙げられた。厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。弟子の大石義雄とともに、憲法学における京都学派を築いた。1933年に滝川事件に抗議して辞職し、同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動した。1945年には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる佐々木憲法草案を作成した。その後、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対した。専門は憲法学・行政法で、学位は法学博士である。貴族院勅選議員、京都大学名誉教授、立命館大学学長を歴任した。京都市名誉市民となり、文化功労者、文化勲章を受章した。伊藤孝夫氏は1962年兵庫県生まれ、1985年に京都大学法学部を卒業し、1987年に同大学院法学研究科修士課程を修了した。専門は日本法制史で、2001年に京都大学により論文博士を授与された。1989年に京都大学法学部助教授、1992年に同大学院法学研究科助教授、1999年に同大学院法学研究科教授となった。現在、京都大学 法学研究科 教授を務めている。佐々木惣一は厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1916年に政党政治への不信が強まっていた時代に、「立憲非立憲」の論文を発表した。門地や職業に依て限られた範囲の国民を上級国民と名付けて行われた上級国民の意思による政治は、立憲主義ではないとした。一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれると、立憲主義の価値を説いた。1940年に、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けた。1933年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の教員とともに立命館大学に招聘された。京大事件はいわゆる瀧川事件で、瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものであった。教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い、免官となった。同年12月12日には立命館大学の法律学科部長に、1934年3月9日に学長に就任した。1935年には創立35周年記念事業にも取り組んだが、1936年に1年の任期を残して学長を辞職した。当時の天皇機関説問題などを巡る国の動向と、社会の状況によるものといわれる。そして、1937年からの日華事変の長期化を理由とした、新体制運動の議会否定の思想を批判した。近衛文麿は首相として日中戦争を全面化して日独伊三国同盟を結び、国内の戦争体制を整備した。ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的であると主張した。その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難したが、太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣、早期和平実現計画の一員に加わった。敗戦直後、マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示し、近衛が相談相手に佐々木を選んだ。佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていたので、これに応じた。権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後、ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行った。佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画であったが、実現しなかった。内大臣府廃止により憲法改正作業は打切られ、近衛は要綱だけを佐々木は全文を天皇に報告した。二人はともに、天皇主権という帝国憲法の国体を維持して、内容を民主主義に改めることを意図した。佐々木はGHQの意向を取り入れることを嫌い、天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっている。注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点である。近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対した。一方で、皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張した。しかし新憲法の内容のデモクラシーには賛成で、新憲法が成立すると国民は新憲法を尊重してこれを守るよう説いた。公法学者としての佐々本の軌跡は、明治憲法の長所と限界とをそのままに反映するものとなったといえよう。佐々木の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではない。本書は佐々木を扱うはじめての評伝として生涯の軌跡を追い、牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっている。本書は京都大学名誉教授の松尾尊兌先生が書かれる予定であったが、先生がお亡くなりになったため執筆担当を引き受けたという。
第1章 土地の名―鳥取・金沢・京都/第2章 ドイツにて―ハイデルベルク・ベルリン/第3章 立憲非立憲/第4章 重責を担って/第5章 激動の中へ/第6章 戦時下に時を刻む/第7章 新憲法との対話
20.令和6年5月11
”川路利良 日本警察をつくった明治の巨人”(2024年1月 講談社刊 畑中 章宏著)は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ幕末の激動の時代を生き国家と警察組織に一身を捧げ初代大警視となった川路利良の生涯を描いている。
川路利良は1834年に薩摩藩与力の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区生まれた。川路家は身分の低い準士分であったが、16世紀に横川城主だった北原伊勢介の末裔とされる。北原氏は肝付氏庶流で横川城落城後に北原伊勢介の一族は蒲生に逃れ、川路氏と名乗りを変えたという。重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学んだ。島津斉彬のお伴として初めて江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候的役割の飛脚として活動した。大久保利通の腹心の部下で、戊辰戦争に参加した。1872年にイギリス・フランスに渡り警察制度を研究し、帰国後に警察を司法省より内務省に移管した。1974年に警視庁が創設された際に大警視に就任し、治安維持に尽くした。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、別働第三旅団を率いて西郷軍に大きな打撃を与えた。欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した、日本の警察の創設者にして日本警察の父とも言われている。加来耕三氏は1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員として2年間勤務した。1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物や組織の復権をテーマに著作活動などを行っている。講演活動やテレビ番組、ラジオ番組などの出演も数多くこなし、テレビ番組では監修、時代考証、構成も手掛けた。観光大使としては、2018年に港区観光大使に、2019年に薩摩大使に、2019年に柳川市観光大使に就任している。このほか、内外情勢調査会、地方行財政調査会、外交知識普及会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務めた。1874年に創設された東京警視庁が、2024年に150年となった。東京警視庁は発足3年で内務省警視局に吸収されたが、今日の警視庁の第一歩は東京警視庁にある。これはそれまでの日本になかった、近代的な警察制度である。ほぼ独力で東京警視庁を創り、今日なお日本警察の父と呼ばれるのが川路利良の存在である。本書では、薩摩藩下層から出て一代で藩士となり、ついに東京警視庁を創った川路の生涯を紹介する。1830~1844年の天保年間は、幕末の入口に相当する時代であった。幕藩体制は弛緩し、事実上、経済はすでに破綻していた。夢も希望も抱きにくいこの時代に、遅れていた日本に明治の時代を築く人々が輩出した。1840年には隣国の清がイギリスとの阿片戦争を本格化させ、清がイギリスに敗れた。南京条約を結ばされ、広州・福川・厦門・寧波・上海を開港し、香港を割譲させられた。その衝撃は大きく、日本の心ある人々は次は日本が狙われると怖気をふるった。大半の日本人は悲嘆に暮れるか観するかで、何もしない日常を送っていた。その中にあって、わずかな人々だけが自国独立の尊厳を守るべく立ち上がった。1864年に禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げた。1867年に藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ。1868年に戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに、薩摩官軍大隊長として出征した。上野戦争では、彰義隊潰走の糸口をつくった。東北に転戦し磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷が癒えると会津戦争に参加した。1869年に戦功により、藩の兵器奉行に昇進した。1871年に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事・典事に累進した。1872年に邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察した。帰国後、警察制度の改革を建議し、パリ警視庁のポリスを模範とする警察機構を日本に築こうとした。ポリスとは終日、市中を巡回したり毅然と街頭に立ったりして、国民の生命・財産を守る人々のことである。しかし、国民はポリス=警察官をこれまでに見たことがなかった。徳川時代の与力・同心・岡っ引などは今日のような民主的なものではなかった。まったく知らないものを認知させるには、多くの労力が必要であった。新生日本では国民はポリスは保護者でなければならないと、川路は主張した。そのため、警察官一人ひとりに課せられた責務は、重く厳しいものであった。1874年に警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視に就任した。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったという。1873年に政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くがこれに従った。しかし、川路は忍びないが大義の前には私情を捨てて、あくまで警察に献身すると表明した。大久保利通から厚い信任を受け、不平士族の喰違の変や佐賀の乱では密偵を用いて動向を探った。薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、帰郷の名目で鹿児島県に送り込んだ。川路は不平士族の間では大久保と共に、憎悪の対象とされた。1877年の西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、別働第三旅団の長として九州を転戦した。激戦となった田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けた。5月に大口攻略戦に参加した後、6月に宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍した。その後川路は旅団長を免じられ東京へ戻り、旅団長は大山巌が引き継いだ。1879年1月に再び欧州の警察を視察したが、船中で病を得てパリに到着した。当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩したが、宿舎に戻ったあとは病床に臥した。咳や痰、時に吐血の症状も見られ現地の医師の治療を受けたが、病状は良くならなかった。同年8月に郵船に搭乗して10月に帰国したが、病状は悪化し享年46歳で死去した。川路は武家の末端に生まれながら、幕末の動乱で名を上げ、明治日本の新国家樹立に参画した。自らの命を賭して警察機構を作り上げ、大警視まで上り詰めた川路の生涯は大いに参考になるという。
序章 幕末の動乱(与力・川路正之進/「貧乏に負くるこっが恥でごわす」 ほか)/第1章 新国家の樹立をめざして(薩英戦争で得たもの/文久の政変 ほか)/第2章 戦火の中の新政府(比志島抜刀隊の誕生/大政奉還から王政復古の大号令へ ほか)/第3章 東京警視庁の誕生(官軍、方向を転ず/“川路の睾丸”の由来 ほか)/第4章 “大警視”の生と死(相相次ぐ長州人の汚職/征韓論争と川路の立場 ほか)
21.5月25日用
”熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん”(2023年12月 ミネルヴァ書房刊 佐伯 真一著)は、下級武士の家に生まれ治承・寿永の乱で獅子奮迅の活躍をして一ノ谷合戦でついに平敦盛を討ちとるに至った熊谷直実の生涯を紹介している。
熊谷次郎直実は1141生まれの平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷、現・熊谷市で活躍した武将である。父親の直貞は熊谷郷の領主となって熊谷の姓を名乗り、当初は平家に仕えていた。石橋山の戦い以降は源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げて鎌倉幕府成立に貢献した。熊谷直実は一ノ谷の戦いで平家の若武者の平敦盛を打ち取ったが、息子ほどの年齢の若者だったため、戦の無情さや世の無常観を感じて心に深い傷を負った。もともと気性が荒く直情型で反骨精神が強く、源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたこともある。挙句に領地問題の訴訟に際して頼朝の目前で髪を落とし、出家してしまった。その後、法然に弟子入りして蓮生と名乗り、京都・東山で修行を重ねた。そして熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基した。佐伯真一氏は1953年千葉県生まれ、1976年に同志社大学文学部文化学科国文学専攻を卒業した。1977年に早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程を中退し、東京大学大学院人文科学研究科国語国文学専攻修士課程に入学した。1979年に同修士課程を修了し、1982年に東京大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学した。1982年に帝塚山学院大学文学部日本文学科専任講師、1985年に同助教授、1990年に国文学研究資料館整理閲覧部参考室助教授となった。1995年に青山学院大学文学部日本文学科助教授、1999年に同教授となり、2022年に定年退職した。1986年に第12回財団法人日本古典文学会賞を共同受賞し、2005年に第3回角川財団学芸賞を受賞した。熊谷直実は現代でもなかなか有名な人物である。熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない。直実の祖父・平盛方が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。熊谷直実は幼名の弓矢丸という名のとおり、弓の名手であった。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。1156年7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、1159年12月の平治の乱で源義平の指揮下で働いた。その後、久下直光の代理人として京都に上ったが、一人前として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し平知盛に仕えた。源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、1180年の石橋山の戦いまでは平家側に属していた。以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵された。1184年2月の一ノ谷の戦いに参陣し、源義経の奇襲部隊に所属した。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入した。しかし、平家の武者に囲まれて先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけた。この戦いで直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑んだ。直実が若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった。直実は死後のご供養をいたしましょうと言って、泣く泣くその首を斬った。これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いはいっそう強くなったという。敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めて、いきなり刀を研ぎ始めた。驚いた聖覚が法然に取り次ぐと、直実は真剣にたずねたという。1193年頃、法然の弟子となり法力房 蓮生と称した。直実の出身地である熊谷市に行ってみると、鎧兜に身を固め馬にまたがった勇ましい武士の像がある。台座には「熊谷の花も実もある武士道の香りや高し須磨の浦風」の歌が刻まれている。インターネットで検索すれば、熊谷市観光局が熊谷の偉人として直実を紹介している。直実は、郷土の英雄として地域のアイデンティティの確立に重要な役割を果たしているようである。しかし、熊谷直実のイメージとして勇ましい武士の像を思い浮かべるのは、実は必ずしも伝統的なあり方ではない。今から120年あまり以前に新渡戸稲造が「武士道」を著した頃までは、直実は蓮生でもあったが故に有名だったのではないだろうか。蓮生の足跡は今も各地に残っていて、直実の屋敷跡には蓮生山熊谷寺が広い寺域を占めている。また、蓮生は法然のもとで浄土をめざして修行したので、その跡を残す寺は京都にも多く、代表的な存在は金戒光明寺であろう。寺内の塔頭の一つである蓮池院は、自作と伝えられる蓮生像や敦盛像など、多くの寺宝を蔵している。また、京都市の西南、長岡京市にある西山浄土宗総本蓮生かこの地で結んだ草庵、念仏三昧院をもととしている。蓮生はこの大寺院の開基であり、現在も御影堂の中心に法然像があり、左側には証空と蓮生の像が並んでいる。京都における蓮生ゆかりの寺院としては、熊谷山法然寺を挙げることができる。蓮生開基と伝えられ、版本『熊谷蓮生一代記』や巻子本『蓮生法師伝』、掛幅絵『蓮生上人一代略画伝』を生んだ寺であった。熊谷直実ゆかりの寺は他にも全国各地にあり、たとえば藤枝市の熊谷山蓮生寺はその代表例である。直実=蓮生は、武士としてだけでなく、浄土信仰の僧としても、近年まで非常に有名な人物であった。それは、直実が敦盛を討って発心したという物語が、多くの人々の心に広く強く訴えかけたからである。下級武士として、生活のために血眼になって功名をめざしていた直実が、自分の息子と同年配の美少年を殺害するという行為の非道さを痛感した。そのことにより、武士という生き方をやめて信仰の道へと転じたという物語が、無数の人々の共感を呼んだ。直実が有名になったのは、なにしろ、武士であることをやめたからであるといってもよい。本書は、この物語については、その史実性よりも、なぜこの物語が非常に多くの人々の心に訴えかけたのかという精神史的な問題を、最大の問いとしたいという。それは、過去の人物の考証を越えて、現代に生きる私たちにとって重要な問題を提起してくれるからである。実際の直実=蓮生は、僧となってからも、武士らしさを十分に保った人物であったようである。武士としては剛直に勲功をめざし、そして僧としてはひたむきに浄土をめざした。このような直実=蓮生という人物の実像に迫ることもまた、本書の重要な目的である。第一章では熊谷直実の生い立ちと基本的な資料の扱い方について記述する。第二章では『平家物語』に描かれる熊谷・敦盛の物語について述べる。第三章では合戦後の熊谷直実―蓮生の出家と往生について記載する。第四章では直実の死後、日本人がこの人物をどのように語り継いでいったのか、その変化に富んだあり方を見てゆきたい。そして最後に、現代に生きる私たちが熊谷直実から何を学ぶことができるのかを考えて、まとめとしたいという。
序章 熊谷直実とは何だったのか/第1章 生い立ちと生き方/第2章 敦盛を討つ/第3章 出家と往生/第4章 熊谷直実伝の展開/終章 熊谷直実から何を学ぶか
22. 令和6年6月8日用
”日蓮 「闘う仏教者」の実像”(2023年11月 中央公論新社刊 松尾 剛次著)は、天台宗ほか諸宗を学び日蓮宗を開いて法華経の信仰を説き激動の鎌倉時代を生きた日蓮の生涯を紹介している。
日蓮は1222年生まれ、12歳で千葉県の清澄寺で修行を始め16歳で出家して僧侶になった。僧侶として出家した日蓮は、仏教界の既成概念を覆すような新しい教えを展開した。日本の主要な仏教の流派を研究して、法華経が唯一の真の教義であることを宣言した。1253年に南無妙法蓮華経、つまり法華経に帰依するという真言を発表した。最初は拒否されたが、教えは今日の日本の仏教の支配的な伝統の一つを形成している。身延山久遠寺の建物や記念碑の多くは、日蓮とその教えに捧げられている。松尾剛次氏は1954年長崎県生まれ、東京大学文学部卒業後、1981年に同大学院人文科学研究科博士課程を中退した。同年山形大学講師となり、助教授を経て教授に就任した。1994年に東京大学文学博士となり、山形大学都市・地域学研究所所長を兼務した。2019年3月に山形大学を退官し、東京大学特任教授、日本仏教綜合研究学会会長などを歴任した。現在、山形大学名誉教授で、専門は日本中世史、宗教社会学である。官僧・遁世僧研究を基点に、中世日本宗教史の見直しを行なっている。日蓮は1222年に安房国長狭郡東条郷片海、現在の千葉県鴨川市小湊で生まれた。幼名は善日麿、父親は三国大夫の貫名次郎重忠、母親は梅菊女だという伝承がある。1233年に清澄寺の道善房に入門し、1238年に出家し是生房蓮長の名を与えられた。1245年に比叡山・定光院に住し、1246年に三井寺へ、1248年に薬師寺、仁和寺へ、1248年に高野山・五坊寂静院へ、1250年に天王寺、東寺へ遊学した。1253年に清澄寺に帰山し、4月28日の朝に日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたという。この日の正午に清澄寺持仏堂で初説法を行い、名を日蓮と改めた。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受け、清澄寺を退出した。1257年に富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経を奉納し、1258年に実相寺にて一切経を閲読した。1260年に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送った。建白の40日後、他宗の僧らにより松葉ヶ谷の草庵が襲撃されたが難を逃れた。その後、ふたたび布教を行ったが、1261年に伊豆国伊東、現在の静岡県伊東市へ配流された。1264年に安房国小松原、現在の鴨川市で念仏者の地頭・東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し門下の工藤吉隆と鏡忍房を失った。1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となった。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。1269年に富士山に経塚を築いた。1271年に良観・念阿弥陀仏等から連名で幕府に日蓮を訴えられた。平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけたが免れた。その後、評定の結果佐渡へ流罪となった。流罪中の3年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させた。1274年春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれた。「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行った。その後、身延一帯の地頭である南部実長の招きに応じて、身延へ入った。1274年に予言してから5か月後に蒙古が襲来し、1281年に蒙古軍の再襲来があった。1282年に病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山した。10日後、武蔵国池上宗仲邸、現在の本行寺に到着し、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めた。10月13日に池上宗仲邸、現在の大本山池上本門寺にて享年61歳で入滅した。日蓮の61年にわたる人生は波乱万丈で起伏に富み、魅力に満ちている。日蓮が活躍した時代は、地震・疫病などの天変地異が頻発し、さらに蒙古襲来という未曽有の危機に見舞われた。こうした状況は末法に入って200余年後の状況と認識し、正法である法華経を広める活動を進めていった。しかし、その活動は激しい他宗批判を伴い、殉教の覚悟をもって行われ、伊豆、佐渡へ配流されることとなった。日蓮が生きた時代は法難もあって、さほど多くの信者を獲得できたとはいえなかった。しかし、弟子たちの布教活動によって15世紀には京都の町衆に浸透していった。江戸時代初期の芸術家の、木阿弥光悦や俵屋宗達らも信者であった。近代において、国柱会の田中智学や顕本法華宗の本多日生が提唱した日蓮主義は、日本が中国侵略などを進めるイデオロギーの一つとなった。日蓮主義は、日蓮の教えを信仰のレペルにとどめることなく、政治・社会・文化運動にまで拡張した点に大きな特徴かある。日蓮主義は法華経にもとづいて、天皇を中心とする日本統合と世界統一の実現により、理想世界の達成をめざした活動である。日蓮主義は大きな影響力をもち、宮沢賢治、石原莞爾、井上日召らも国柱会の会員であり、田中智学の信奉者であった。また、霊友会、立正佼成会、創価学会といった現在において大きな勢力を有する新宗教の教団が日蓮系である。とくに、創価学会は現在の新宗教教団の中で最大の信者数を誇り、政権与党公明党を支える在家教団である。日蓮の宗教は、中世以来、近現代に至るまで人々に生きる力やモデルを与えてきた。本書では、そうした人々の心を捉え、人々に生きる力を与えてきた日蓮とは何かを考察していくとのことである。本書は、思想史的な成果に学びつつも、歴史学的な方法論を駆使して、日蓮の実像に迫ろうとしている。日蓮が生きた中世の宗教状況を明らかにしつつ、その中で日蓮の言説を見直したい。日蓮がライバル視し、激しく糾弾した鎌倉極楽寺の僧忍性との関わりにも注目しながら、日蓮の実像に迫りたいという。
第1章 立教開宗へ(安房に生まれる/貫名氏の出身 ほか)/第2章 立正安国への思いと挫折(鎌倉での日蓮/『守護国家論』 ほか)/第3章 蒙古襲来と他宗批判(念仏系寺院の展開と法難/伊豆配流 ほか)/第4章 佐渡への配流(文永八年の法難/教団の離散と改宗者の出現 ほか)/第5章 身延山の暮らし(日蓮赦免/身延入山 ほか)
23.6月22日
”もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品”(2024年4月 東京美術刊 田辺 昌子著)は、総数約1900点という膨大な多色刷木版画の錦絵を残した喜多川歌麿の画歴と作品を紹介しつつ絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えようとしている。
喜多川歌麿は姓は北川、後に喜多川と改め、幼名は市太郎、のちに勇助または勇記と言った。生年、出生地、出身地などは不明で、生年は没年数え54歳からの逆算で1753年とされることが多い。出身は川越説と江戸市中の2説が有力だが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もある。名は信美、初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号した。生前は「うたまる」と呼ばれたが、19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったという。1782年刊行の歳旦帖「松の旦」には、鳥山豊章、鳥豊章の落款例がある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号し吉原連に属した。1790年絵本の仕事をやめ大首絵を発表して、一躍人気絵師となった。遊女から市井の娘まで、歌麿が美人を描けば天下一品である。名品の数々が、蔦屋重三郎をはじめとした版元と策をめぐらして生み出された。田辺昌子氏は1963年東京都生まれ、学習院大学人文科学研究科博士前期課程を修了した。永青文庫学芸員を経て千葉市美術館の開設に準備室段階から関わり、現在副館長を務めている。鈴木春信を中心に浮世絵の研究に携わっている。2008年に第1回國華賞展覧会図録賞共同受賞、2018年に第34回國華賞を受賞した。喜多川歌麿は鳥山石燕のもとで学び、初作は1770年の北川豊章名義の絵入俳書の挿絵1点である。歌麿名義では、1783年の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初期と言われる。1788年から寛政年間初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として、狂歌絵本などを版行した。当時流行していた狂歌に花鳥画を合わせた「百千鳥」「画本虫撰」「汐干のつと」などである。1790年から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの美人大首絵で人気を博した。「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」などの大首美人画の優作を刊行した。一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。また、蔦重と連携して彫摺法を用い、肌や衣裳の質感や量感を工夫した。やがて「正銘歌麿」という落款をするほど、美人画の歌麿時代を現出した。さらに、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘などを対象とした。歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まった。これに対し、江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えた。歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を描き続けた。1804年5月に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことから、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けた。当時は、織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていた。これ以降、歌麿は病気になったとされ、2年後の1806年に死去した。墓所は世田谷区烏山の専光寺で、戒名は秋円了教信士である。浮世絵師といえば、最初に思い浮かべるのが喜多川歌麿である。次に思い浮かぶのは、切手になった作品、婦人相学十鉢のポヘンを吹く娘あたりであろうか。歌麿は、現在確認されている数でいえば、総数約1900点という膨大な錦絵を残している。その作品をすべて網羅して語ることは難しいものの、本書ではその画歴と作品を早回しで紹介しつつ、この絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えたいという。これだけ有名であっても、歌麿のプライベートな情報には語るべきことがほとんどないそうである。確実なのは亡くなった文化3年(1806)という年である。生年については一説に宝暦3年(1753)とされるものの、当時の記録によるものではなく詳細は不明とされている。少年時代に町狩野の絵師である鳥山石燕の門人となり、錦絵出版界に入った。当初は、一般的な新人浮世絵師と同様に、細判の役者絵など安価な商品をまかされるだけであった。それが版元の蔦屋重三郎に見出されて、そのプロデュースによって飛躍的な変貌を見せて優れた美人画を出すようになった。蔦屋は、吉原の妓楼と遊女の案内書の役割をした「吉原細見」を出していた。1782年ころ、蔦屋は出版界のメインストリートの日本橋通油町に出店した。先に活躍していた鳥居清長の向こうを張るように、大判錦絵、しかもその続絵の美人画を歌麿に制作させた。そして、天明(1781~1789)後期から寛政(1789~1801)初期に、画期的な彩色摺絵大狂歌本7種を手がけた。そこでは、美人画家という印象をくつがえすほどの、精緻で写実的な描写で生き物や植物を表わした。そして美入画を代表するのが、寛政(1792~1793)頃の錦絵で、顔を大きくとらえた大首絵である。その題材には、当時美人で評判の市井の娘たちを多く描き、大衆の注目を一気に集めた。同様に「観相物」と呼ばれるジャンルを打ち立て、その女性の性格や心情に思い至らせた。しかしスター絵師であるがゆえに寛政の改革で、出版界でも一番に狙われたターゲットであった。一枚絵に評判娘の名を入れること、それを絵で表すこと、大言絵までも禁じられた。ついには文化元年(1804)に、罰を受けることになった。喜多川歌麿という希代の浮世絵師の画業を振り返ってみると、主に2つの事象が、その作品内容を大きく左右したことに気がつく。ひとつは蔦屋重三郎との出会いとその活躍、加えてほかの版元の参入も含めた、版元との関わりである。そしてもうひとつは、寛政の改革による、歌麿をはじめとする錦絵出版界への厳しい統制である。蔦屋という版元との出会いによって、なぜ歌麿が突然のように素晴らしい美人画を描くことができるようになるのか。美人画家だと思われていた歌麿が、なぜ急に精緻な自然観察にもとづく写実的な絵を描けたのか。寛政の改革によって、大衆が好む表現というものも、大きく軌道修正せざるを得ない事態がくり返された。最終的には処罰され、晩年は力の入った錦絵が見られなくなった。それでも筆を折らなかったのはなぜだろうか。最後まで歌麿が錦絵界から完全に離れた様子はない。歌麿にとって、錦絵に大衆に支持される絵を描くことは、挑戦的な喜びであったようにも思える。さらに、大衆を相手にしたビジネスで勝負して、短期間に次々と作品を出した。歌麿は、そのようななかで感じる高揚感を、新興の版元とともに得ていたのではないだろうか。才気あふれるこの絵師の大量の作品を前にして、まだまだ語りつくせぬドラマがあることを予感するという。
はじめに/序章 浮世絵師・歌麿の誕生まで/第1章 新興版元 蔦屋との出会い(歌麿の変貌;彩色摺絵入狂歌本の世界)/第2章 美人画革命 大首絵の成功(美人大首絵と寛政三美人;青楼の画家 歌麿)
/第3章 蔦屋を追う出版界の動向(蔦屋に対抗する版元たち;日常を活写する眼 蔦屋亡き後の歌麿)/第4章 禁制下の動向(歌麿と寛政の改革;肉筆画の世界)/特集 生涯をかけた大作 雪月花/おわりに
24.令和6年7月6日
”三浦義村 ”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)は、ごく最近まで未知の存在だった鎌倉時代初期の相模国の武将で幕府の有力御家人の三浦義村の生涯を紹介している。
三浦義村は桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男として生まれたとされるが、正確な生年は不明である。義澄は桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、鎌倉幕府の御家人であった。1184年8月に、源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍した。これが史料で確認できる初めての従軍である。この追討軍の参加資格は17歳以上であった。著者は、義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとしている。このことから、生年は1168年ころと推定される。義村は、父義澄とともに平家追討や奥州合戦を転戦した。家督を継ぐと、鎌倉での政争や将軍実朝暗殺、承久の乱を北条氏と共に乗り越えた。北条義時・政子の死後、執権泰時と協調して新体制を支えた。高橋秀樹氏は1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了した。1996年に同博士課程を修了し、「日本中世の家と親族」で博士(史学)となった。1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となった。1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となった。2018年から、國學院大學文学部史学科教授を務めている。三浦義村は幼名を平六といい、「吾妻鏡」の1182年8月11日条に初めて登場している。また、源頼朝正室の安産祈願のため伊豆・箱根の寺社に遣わされた使者の中に、平六の名前が見える。1190年の源頼朝上洛時に右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉となった。1199年に頼朝が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発した。梶原景時は、侍所所司として御家人たちの行動に目を光らせる立場にあった。景時は、結城朝光の御所での発言を謀叛の証拠であると将軍頼家に讒言した。窮地に立たされた朝光は義村に相談した。義村は和田義盛、安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断した。有力御家人66人が連署した景時糾弾訴状を、頼家の側近・大江広元に提出した。景時を惜しむ広元は当初は躊躇したが、最終的には頼家に言上した。これにより、景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退いた。翌正月、景時は一族を率いて上洛の途に就き、義村は幕府の命で追討軍の1人として派遣された。追討軍が追いつく前に、景時一族は駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になった。嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も付近の西奈の山上にて自害した。1205年に北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により、畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上した。時政は2人を成敗することを決断し、義村の命を受けた佐久間太郎らが重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害した。さらに、武蔵から手勢を引き連れて鎌倉に向かう重忠の討伐軍が編成されると、義村も参加した。両軍は二俣川で合戦に及び、激戦が繰り広げられたのち、重忠は矢に討たれて討死した。しかし事件後、謀反の企てはでっち上げであったことが判明した。稲毛重成父子、榛谷重朝父子は重忠を陥れた首謀者として、義村らによって誅殺された。1213年2月に、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見した。義村の従兄弟で侍所別当であった和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛された。その後、息子2人は配慮されて赦免になったが、義盛は一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請した。しかし、胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となった。北条氏と和田氏の関係は悪化し、義盛は親族の三浦一族など多数の味方を得て打倒北条を決起した。しかし、義村は弟の胤義と相談して直前で裏切り義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付いた。戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡した。1219年1月に、将軍実朝が兄の2代将軍源頼家の子の公暁に暗殺された。公暁は義村に書状を持った使いを出し、義村は偽って討手を差し向けた。公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇した。激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害された。1221年の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとった。しかし、義村は使者を追い返した上で義時の元に向かい、事を義時に通報するという行動に出た。その後、軍議を経て出戦と決まると、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として行動した。東海道を上り、東寺で胤義と相対した。胤義は兄に熱く呼びかけたが、義村は取り合わず、その場を立ち去った。その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害した。乱終息後の戦後処理でも義村は活躍し、同年7月、紀伊国守護に任ぜられたと推測される。このとき、義村自身は紀伊に入らず、孫の三浦氏村が代わりに入国した。そして、上皇方の所領の没収、新補地頭の設置などにあたった。1224年に北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子の北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした事件が起こった。政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わり、北条政子が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意した。釈明して二心がないことを確認し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。1225年夏には、大江広元・北条政子が相次いで死去した。同年12月に執権北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任した。幕府内では北条氏に次ぐ地位となり、1232年の御成敗式目の制定にも署名した。4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えた。その後、幕府では駿河守、相模、河内、紀伊、土佐の守護、評定衆などを歴任した。このように大活躍した義村であったが、ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在だった。理由は、義村の名は中学校の歴史教科書や高等学校の日本史教科書に登場しなかったからである。子の泰村は、1247年におきた宝治合戦で滅ぼされた存在としてほとんどの高校教科書に書かれている。父の義澄も、いわゆる「士三人の合議制」の一人として名を載せている教科書がある。しかし、北条氏に討たれなかったためか、義村の名を記す教科書はない。滅ぼされた、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、二浦泰村は敗者として記述されている。北条氏の協力者あるいはライバルとみられている義村には、出る幕がなかった。義村の態度は常に北条氏に利益を与え、それによって自らの存在意義を高めた。一方で、他氏に対しては不遜な行動もあったといわれ、義村に対する無関心、低評価の流れがあった。このような中で、初めて義村に強い関心を寄せたのが作家の永井路子氏だろう。1964年の直木賞受賞作「炎環」で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描いた。1978年の「執念の家譜」で、その一族の歴史をたどった。1999年にはじまった横須賀市史編纂事業による約3300点の史料収集と分析によって、三浦氏研究は一変した。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、三浦義村には準主役の役割が与えられた。これによってそれまでほとんど知られていなかった義村が広く認知されるところとなった。しかし、そこで描かれた人物像はあくまで脚本家と演出家・演者が作り上げたものである。内容は、現在の研究者が史料の分析から導き出した義村像とはかなり異なっている。本書の主眼は三浦義村の人生をたどることにあるという。まず、義村の活動の前提となる平安時代末期から頼朝の挙兵前後に至る三浦一族の歴史を略述している。次に、義村の子や所領などについて、各人・各地ごとにまとめて記している。また、義村を語る上で欠かせない文献史料、文化財、史蹟について解説している。
第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財
7月20日
”「2つの体内時計」の秘密 「なんとなく不調」から抜け出す!”(2021年11月 青春出版社刊 八木田 和弘著)は、体の中の周期を調整する体内時計というシステムについてその仕組みや生活上のヒントなどを紹介している。
体内時計は体の中の周期を調整するシステムである。目から得られる光の情報や、食事などによっても影響をうける。人間の体温や心拍などの生理現象は、地球の自転周期の24時間より少し長い周期である。マスタークロックとサブクロックがこの周期を24時間に合わせてリセットし、体の周期を調整している。マスタークロックは脳の視床下部にある主時計で、サブクロックは各臓器にある副時計である。体内時計が乱れると、さまざまな健康リスクが発生する。24時間型の現代社会では、夜更かし、暴飲暴食、運動不足、シフトワークなどで生活習慣を乱しやすい。体内時計の乱れが続くと、睡眠覚醒リズムが乱れて不眠が引き起こされる。すると全身に悪影響が及び、引き起こされるのは糖尿病などの生活習慣病や睡眠障害などである。体内時計と健康は深く関わっている。健康的な体を維持するには、マスタークロックとサブクロックのリズムを合わせることが大切である。そのためには、食事の時間を意識する必要がある。八木田和弘氏は、京都府立医科大学大学院医学研究科統合生理学教授である。1995年に京都府立医科大学卒業後、同大学附属病院第3内科にて研修を受け、同大学大学院を修了した。神戸大学医学部第2解剖学助手、講師、名古屋大学理学部COE助教授、大阪大学大学院医学系研究科神経細胞生物学准教授を務めた。2010年より現職となり、2017年から地域生涯健康医学講座の教授を併任している。時間生物学、環境生理学の研究と、生活改善の大切さを伝える活動にも取り組んでいる。2017年のノーベル生理学・医学賞は、体内時計の研究において遺伝子レベルでのメカニズム解明に功績を残した研究者に授与された。受賞者は、マイケル・ヤンブ、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバッシュ士のアメリカの研究者3名である。体内時計の存在やその重要性が広く一般にも知られ、健康との関わりから関心が高まっている。体内時計に関する研究には大きく分けて、植物、睡眠、動物、遺伝子という4つの流れがある。植物を対象にした研究は、体内時計研究のもっとも古い歴史を持ついわば元祖といってよい。古代ギリシャに遡り、ネムノキが夜に葉を閉じて眠るように見える様子は、当時から不思議に感じられていた。睡眠を対象にした研究は、医学の分野からはじまった。人はなぜ寝るのかという哲学的な命題からはじまり、20世紀初頭に犬の断眠実験が世界ではじめて日本で行われた。さらに1950年代から、犬を含めた動物の生体リズムの研究が行われた。ユルゲン・アショフとコリン・ピッテッドリックという生理学者が、学問として形づくっていった。日本では、北海道大学の本間研一・さと夫妻が、長年にわたってこの分野の研究を牽引してきた。1960年ころから生物時計に対する生物学者の関心が高まってきた。日本でも同様で、1970年代に研究が活発になり生物リズム研究会が生まれ、1990年代に日本時間生物学会へ発展した。体内時計研究を決定的に推し進める原動力となったのが、時計遺伝子の発見である。1970年代初頭に、アメリカのシーモア・ベンザーがショウジョウバエを使って、体内時計を司る時計遺伝子の存在を明らかにした。この時計遺伝子を中心にして、時間を測るシステムを解明したのが3人のノーベル賞受章者である。体内時計を持っているのは人間だけではなく、すべての脊椎動物に体内時計がある。さらに、ハエなどの昆虫にも、単細胞生物にも体内時計はある。少なくとも太陽の影響を受ける生物は、ほとんど体内時計を持っているといってよい。それがわかったのはそれほど昔のことではなく、2000年前後のことである。体内時計とは生物時計とも呼ばれ、生物が生まれつき備えていると考えられる時間測定機構である。地球上の生物は地球の自転によってもたらされる約24時間の明暗周期にその活動を同調させている。生物リズムは概ね1日周期という意味で、概日リズムと呼ばれている。生物は地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調し、ほぼ1日の周期で体内環境を変化させる。単細胞生物や培養細胞株、あるいは各組織を構成する細胞の一つ一つが概日時計を有している。概日リズムはサーカディアンリズムとも呼ばれ、24時間周期のリズム信号を発振する機構である。隔離された環境で自由に生活してもらうと、寝付く時刻と目覚める時刻が1日ごと約1時間ずつ遅れることが観察される。このことから、ヒトの体内時計の周期は約25時間であることがわかった。哺乳類では脳の視交叉上核によるとみなされ、睡眠や行動の周期に影響を与えている。視交叉上核から、神経あるいは体液性のシグナルを介して、各組織の細胞の概日リズムが同期されている。生物時計は通常、人の意識に上ることはない。しかし睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼし、夜行性・昼行性の動物の行動も生物時計で制御されている。病院に行くほどではないけれど、心も体もすっきりしないことはないだろうか。そんななんとなく不調の原因は、もしかすると体内時計の乱れにあるかもしれない。実は体内時計は縁の下の力持ちのように、私たちの心と体の健康を支えてくれている。これまでは夜勤や交替勤務をおこなっているシフトワーカーの方々の健康を守るために注目されていた。今や、すべての人にかかかる重要な存在になった。そのきっかけが、新型コロナウイルスの感染拡大による生活様式の変化である。不要不急の外出自粛が呼びかけられ、テレワークを導入する企業や、オンライン授業をおこなう学校も増えた。通勤や通学がなくなったことにより、夜型になったり食事の時間もバラバラになったりした。これが生活リズムの乱れを招き、体内時計にも影響を与えている可能性がある。体内時計には、脳にある中枢時計(親時計)と、全身の細胞にある末梢時計(子時計)の2種類がある。この2つの体内時計にズレが生じると、なんとなく不調が起こってくる。その典型的な状態が時差ぼけであるが、今は日本にいなから時差ぼけ状態の人が急増しているのではないか。体内時計の乱れは心と体のパフォーマンスを低下さたり、さまざまな病気とのかかわりが指摘されている。高血圧、心筋梗塞、脳卒中、メタボリックシンドローム、糖尿病、不妊、がん、睡眠障害、うつなどである。本書は、体内時計の仕組みから、なんとなく不調を解決するヒントまで紹介していきたいという。
はじめに/序章 「なんとなく不調」には体内時計が関係していた!?/1章 脳と細胞にある「2つの体内時計」の秘密/2章 体のなかで体内時計ができる仕組み/3章 体内時計を整える生活習慣のヒント/4章 ベストコンディションをつくる24時間の過ごし方/おわりに/参考文献
26.令和6年8月3日
”なぜニセコだけが世界リゾートになったのか 「地方創生」「観光立国」の無残な結末”(2020年12月 講談社刊 高橋 克英著)は、世界有数のパウダースノーと美しく壮大な山並みが人気で毎年多くの外国人観光客が訪れるニセコという新世界の新しい経済に観光消滅の苦境から脱するヒントがあるという。
ニセコは、後志管内のほぼ中央部に位置している。1895年に清川孫太、岩上判七らが西富に入地した。1897年に虻田村、現在の洞爺湖町から分村し、真狩村、現在の留寿都村の区域となった。ニセコは、広義には北海道後志総合振興局の岩内郡岩内町、岩内郡共和町、虻田郡倶知安町、虻田郡ニセコ町、磯谷郡蘭越町からなる。この5町のうち、観光客の間で特に人気が高いのは、?知安町、ニセコ町、蘭越町である。この3町をニセコ観光圏と称されることもあり、特に倶知安町とニセコ町をニセコ地域ということもある。羊蹄山周辺は支笏洞爺国立公園に指定され、ニセコアンヌプリ周辺はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている。北海道遺産には「スキーとニセコ連峰」が選定されている。ニセコ町は北海道虻田郡にある町である。現市街付近は真狩川と尻別川が合流する地点にあることから、アイヌ語でマッカリペップトゥと呼ばれた。尻別川は清流日本一に認定されたことがあり、サケやサクラマスがのぼる川でもある。真狩川と尻別川に字を当てると、真狩別太=まっかりべつぶととなった。その後1901年に真狩川下流域を分村した際に、真狩別太を略して狩太村=かりぶとむらと命名された。1963年に、ニセコアンヌプリ一帯がニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定された。国定公園ニセコアンヌプリを仰ぐ町として、観光開発、農産業振興など行政上から、名称をニセコ町に変更するべきとの声が起こった。そして、1964年に町議会で町名と駅名の変更が議題となり、町名の狩太町をニセコ町に変更された。また、駅名については、かりぶと駅をニセコ駅に変更した。1964年6月30日付で北海道庁に名称変更を申請して同日に許可され、10月1日を以ってニセコ町に改名した。そして、駅名は遅れて1968年にニセコ駅に変更した。ニセコの魅力として大きいのは、世界的にも高く評価されている雪質のよさである。サラサラのパウダースノーで、しかも雪の量が多い。ニセコには日本海から吹き付ける北風がアンヌプリを越えて、水分のない雪が降り積もる特徴がある。この地域の魅力は、スキー場のスケールが大きいことや宿泊施設が充実していることも理由として挙げられる。ニセコのインバウンド需要が高い理由はウィンタースポーツにあり、スキー場には初心者向けから上級者まで多様なコースを設け、ナイターも充実している。国外からの観光客のほとんどは日本の30年以上にわたる経済の停滞により、世界で最も安いスキーリゾートになったために来ている。インバウンドの隆盛によってお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることである。高橋克英氏は1969年岐阜県生まれ、1993年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、三菱銀行、現 三菱東京UFJ銀行に入行した。1999年に日興ソロモン・スミスバーニー証券、現シティグループ証券に入社した。2000年に青山学院大学大学院国際政治経済学研究科で経済学修士を取得した。主に銀行クレジットアナリスト、富裕層向け資産運用アドバイザーとして活躍してきた。2010年に日本金融学会に所属し、2013年に独立して、金融コンサルティング会社マリブジャパンを設立した。世界60ヵ国以上を訪問し、バハマ、モルディブ、パラオ、マリブ、ロスカボス、ドバイ、イタリア湖水地方、ハワイ、ニセコ、沖縄など国内外のリゾート地に詳しい。現在、事業構想大学院大学客員教授を務めている。地元の倶知安町がスイスのサンモリッツと姉妹都市提携を結んで、2021年で57年になる。ニセコは東洋のサンモリッツから世界のニセコとして、世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっている。今や世界的なスキーリゾートとなったニセコの源泉は、パウダースノーである。サラサラしたパウダースノーを体験してしまうと、なかなか他のスキー場には戻れない。欧州や北米の世界的に著名な超高級スキーリゾートには、サンモリッツ、クーシュペル、ウィスラーなどがある。これらのスキーリゾートも、雪質ではニセコには敵わないところがほとんどである。このパウダースノーを、オーストラリアのスキーヤーが世界に紹介した。以来、ニセコにアジア全体や欧州や米国からもスキーヤーが訪れるようになった。パークハイアットやリッツーカールトンなどの5つ星ホテルも開業し、アマンも建設されている。アマンホテルに併設される戸建て別荘の販売予定価格は20億円になる。今後も、高級ホテルやコンドミニアムの開発が続く予定である。ニセコには、世界のスキーヤーや富裕層のために外国人による外国人のための楽園ができている。また、周辺の地域のインフラ整備も着々と進んでいることが心強い。2027年には高速道路が開通してニセコにインターチェンジができる予定である。2030年には北海道新幹線の新駅がニセコに設置されることも決まっている。さらに、コロナ禍があったにもかかわらず、ニセコでは最高級ホテルの建設や公共事業への投資が継続している。加えて、中国や韓国資本による新たな開発計画も明らかになっている。富良野やルスツ、キロロや札幌市内のスキー場なども、設備の更新と外資系ホテルの進出が続く可能性がある。そうなれば、冬の北海道は、欧州のアルプス、米国のコロラド、カナダのウィスラーと並ぶ世界的なスキーリゾートとなるかもしれない。なぜ、ニセコだけコロナ禍下でも不動産投資が継続しているのだろうか。その理由には、外資系大手や公共事業の計画、世界的な金融緩和、海外富裕層とホテルコンドミニアムの存在がある。外資系大手や公共事業の計画では、リッツーカールトンが開業しアマンなどの建設が進んでいる。これらのホテル建設は、香港PCCWグループやマレーシアのYTLグループなどによる大規膜リゾート計画の一環である。コロナ禍でも、こうした外資系大手による開発、建設、公共事業が、継続している。これが地元や中小企業者なども、安心して中長期的視点で営業や投資活動を行えることにつながっている。コロナショックによる世界的な金融緩和では、日米や欧州で史上最大規模の金融緩和策と財政出勤策がとられている。雇用と事業と生活を守るため、あらゆる手段を尽くすとの意思表示である。これまで以上に、不動産や株式にカネが流れ、実体経済が苦戦していても、日米の株式市場は堅調である。ニセコは他の国内リゾートとは違い、海外観光客ではなく海外富裕層の投資家を強く惹きつけてきた。ニセコに不動産をすでに所有する富裕層の多くは、経済的に耐久力があり長期・安定保有が目的である。海外富裕層はすでに資産・資金を十分に持っていて、投資や開発を行うことが可能である。ニセコの場合、その投資対象となるのが高級コンドミニアムやホテルコンドミニアムである。金融緩和の恩恵を最も受けることができ、過去5年間で10倍以上に跳ね上がった不動産も多いという。ニセコでは、国内外の富裕層顧客がスキーヤーやスノーボーダーとして集まり楽しんでいる。良質なホテルコンドミニアムなどが供給されてブランド化が進み、資産価値の上昇と開発投資が行われている。投資が投資を呼ぶ好循環が続き、消費より投資が牽引する経済社会が到来している。本書では、なぜニセコが世界的リゾートとして成功したのか、なぜコロナ禍下でも開発や投資が続いているのかを明らかにしたいという。
はじめに ニセコの強さ3つの理由/第1章 ニセコはバブルなのか?/第2章 日本の観光投資の敗北と外資による再生/(1)東急から豪州、そしてアジアへ/(2)西武から米国、そしてアジアへ/(3)ラグジュアリーホテル続々開業/第3章 ニセコに世界の富裕層が集まる理由/(1)ホテルコンドミニアムという錬金術/(2)世界的なカネ余りがニセコを後押し/(3)なぜアジア富裕層はニセコを目指すのか/第4章 ニセコの未来/(1)世界最高級リゾートとの比較/(2)「夏も強化」は正論ながら空論/(3)富裕層向けサービスに特化する/(4)新幹線開通と五輪開催/第5章 ニセコに死角はないのか?/(1)「外資VS.住民」と「開発VS.環境」/(2)自然からの警告/(3)縦割り行政の弊害/第6章 観光地の淘汰が始まる/(1)マーケティングより人間の意思/(2)地方創生の幻想と東京/おわりに 2030年ニセコリゾート近未来像/参考文献・資料
27.8月17日
”福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで”(2024年5月 集英社刊 中村 敏子著)は、慶應義塾の創設者で西洋の学問や思想を日本に広めた福沢諭吉において儒学の枠組みと西洋がいかに響き合いどう変化したかなどを紹介している。
福沢諭吉は、天保5年12月12日、西暦では1835年1月10日に生まれ、来るべき近代国家の在り方を構想した大思想家である。幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家であった。1858年に慶應義塾の前身の(蘭学塾、1875年に一橋大学の前身の商法講習所、1902年に神戸商業高校の前身の神戸商業講習所の創設にも関わり、日本の近代教育の基礎を築いた。代表作の「学問ノスゝメ」は全部で17編のシリーズもので、初編が1872年に、1876年に最後の第17編が刊行された。既存の研究では、武士としての前半生はほとんど重視されてこなかった。しかし、未知の文明の受容と理解を可能にするため、何らかの器が必要だったはずである。本書では、福沢は私的領域を含む社会を見据え、西洋思想の直輸入ではない「自由」と「独立」への道筋を示している。中村敏子氏は1952年栃木県宇都宮市生まれ、1975年に東京大学法学部を卒業し東京都庁職員となった。退職後、1988年に北海道大学大学院法学研究科博士課程を修了し、同法学部助手となった。1994年に北海学園大学教養部助教授、1996年同大教養部教授、1998年同大法学部教授・同大学院法学研究科教授となった。北海学園大学教養部長、同学生部長、同就職部長なども務め、2018年に同大定年退職し、名誉教授となった。思想史学としての福沢諭吉研究のみならず、政治思想における女性および家族の位置付けや政治理論も研究している。福沢諭吉は幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家である。諱は範、字は子圍、揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」、雅号は三十一谷人である。豊前中津藩の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれた。2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けた。14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学んだ。その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵の適塾で学ぶようになった。お金がなく途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなった。1858年23歳のときに、江戸の藩邸で蘭学塾を開くことになった。翌年、外国人の多い横浜を訪れ外国人は英語ばかり使い、オランダ語が通用しないことを知りショックを受けた。英語を教えてくれる人が近くにいなかったため、英蘭対訳辞書を基に独学で英語を学び始めた。1860年25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航した。アメリカでは、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚えた。アメリカで英語の辞書のウェブスターを購入し、帰国後は単語集「(増訂)華英通語」を刊行した。塾の教育を英学に切り替え、その後も、幕府の使節として欧米を視察した。1866年31歳のときに、海外で見てきたことを「西洋事情」という本にまとめた。1868年33歳のとき、築地の蘭学塾を芝に移し慶應義塾と名付けた。塾生から毎月授業料を取る形の学校運営は、これが初めてであった。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる「学問のすすめ」は、1872年から刊行が始まった。17冊に分けて1冊の値段を安くして漢字には読み仮名を振り、300万部のベストセラーとなった。1879年に東京学士会院、現、日本学士院初代会長に就任した。東京府会副議長にも選出されたが、これは辞退した。1880年に慶應義塾の塾生が激減し財政難に陥ったが、門下生たちが広く寄付を求めて奔走した結果、危機を乗り切った。1881年に慶應義塾仮憲法を制定し、引き続き諭吉が社頭となった。1889年に慶應義塾規約を制定し、1890年に慶應義塾に大学部を発足させ、文学科・理財科・法律科の3科を置いた。1898年に慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立し、政治科を増設した。1901年2月3日に脳出血で倒れ死去し、2月8日に葬儀が塾葬とせず福澤家私事として執り行われた。福沢は、明治期に日本を西洋のような近代国家にしようと奮闘した人物として知られている。それゆえ、これまで福沢の思想は、西洋からの影響を中心に考察されてきた。また日本という国家が進むべき方向について考えたことから、国家に関する議論が主たる分析の対象とされてきた。しかし天保年代に生まれ明治年代に亡くなった福沢は、明治維新をはさみ、前半は武士後半は知識人として生きた。にもかかわらず、これまでの研究では福沢の明治期の活動が中心で、武士だった時代の影響は重視されてこなかった。古い社会を新しい社会へ転換することについて、福沢はどのように考えたのであろうか。本書は、幕末から明治にかけての福沢の思想の変化を中心に考察している。福沢は、江戸時代から色々な経験をする中で、個人や社会のあり方について考えた。そこには、江戸時代のさまざまな要素が影響を与えている。その中で、江戸時代に人々の生活の基盤だった家、つまり家族という集団も福沢の社会構想における考察の対象になっていた。しかし、政治学の枠組みでは、家族と国家は私的領域と公的領域とに分けられる。そして、私的領域である家族は社会構想から排除され、考察の対象とされることはない。福沢は明治期になってから国家を中心に論じたため、もともと含まれていた家族が後世の研究者による考察対象から省かれた。そうした偏りをなくし、福沢が家族も含んだ形でどのように社会を構想したのかを示したいという。もうひとつ重要なのは、福沢が若いときに武士の基本的教養である儒学をかなり深く学んでいて、社会構想に影響を与えたという点である。著者は、福沢が若い頃学んだ儒学の思想枠組みを基礎として持ち、西洋の思想を学んでいったという解釈を採っている。イギリスでの私的な経験から、外国の事象を理解するためには対応する概念や枠組みを持っている必要がある、と気付いたそうである。符号としての外国の文字を見るだけでは、外国の観念は理解できないのである。福沢が西洋を理解するためには、受容と理解を可能にする概念枠組みがすでにあったのではないかと考えるようになった。はじめから福沢の思想を読み直した結果、その概念枠組みは儒学だったという結論に至ったという。本書は、再び福沢の思想を儒学の枠組みにもとづき読み直し解釈し直した。福沢は、儒学の枠組みを持ちながら西洋の思想を学んだとしている。その過程で東西の思想はどのように響きあい、どのような変化がもたらされたのであろうか。本書では、福沢が最も重要だと考えた「独立と自由」を軸に、思想の変遷を分析し新しい社会において何をめざしたのかを解明したいという。
はじめにー「議論の本位を定める」(『文明論之概略』第一章)
一、福沢の前半生ー「一身にして二生を経る」(『文明論之概略』緒言)
二、西洋から学ぶー「文字は観念の符号」(「福沢全集緒言」)
三、『中津留別の書』ー「万物の霊」としての人間
四、『学問のすすめ』ー自由と「一身の独立」
五、『文明論之概略』ー文明と「一国の独立」
六、「徳」論の変化ー「主観の自発」か「客観の外見」か
七、男女関係論ー「一家の独立」
八、理想社会としての「文明の太平」ー「天下の独立」
引用文献・参考文献
あとがき
28.8月31日
”カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」”(2024年3月 集英社刊 室橋 裕和著)は、いまやいたるところで見かける格安インドカレー店についてその急増の理由や稼げる店の秘密と裏事情などを解説している。
インネパ店とはインド・ネパール料理店の略で、主としてネパール人が手がけるインド料理店を指す。よく見かける外国人経営のカジュアルなインド料理店は、実は多くがネパール人が経営していることが多い。2022年現在、全国に少なくとも2000軒のインネパ店があるという。しかも、その軒数はここ15年ほどで5倍前後になっているそうである。2022年1月時点の日本ソフト販売による集計では代表的な飲食チェーン店の国内店舗数は、たとえば松屋は977店、ドトールは1069店、CoCo壱番屋は1238店である。これらに比べると、インネパ店の2000軒は大きな数字である。インネパ店の多くは個人経営なので単純な比較はできないが、今や有名チェーンの店舗数をはるかに上回っているといえる。お店のほとんどが、ネパール人による経営なのはなぜであろうか。また、どの店にもナンとインドカレー、タンドリーチキンなどの定番メニューが並んであるのはなぜであろうか。室橋裕和氏は1974年埼玉県入間市生まれ、両親は共働きで町工場の営業をしていた。バックパッカーに憧れて、東京の大学に進学後はアルバイトで貯めた資金で中国、インド、中近東などを旅した。その後、週刊文春の記者を経てタイに移住した。現地発日本語情報誌のデスクを務め、10年に渡りタイと周辺国を取材した。2014年に帰国後は、アジア専門のライター、編集者を務めている。現在は多国籍タウンの新大久保に住み、外国人コミュニティと密接に関わり合いながら取材活動を続けている。インネパ店には共通する定番のメニューといえるものがある。中心に据えているのは、ナン、インドカレー、タンドリーチキンなどである。中でも多くの店のウリは、バターチキンカレーとおかわり自由なナンである。10種類ほどあるカレーはスパイスをきかせすぎず、ナンは甘く柔らかい。最近では、チョコレートナン、明太子ナン、あんこナンなどのナンを出す店も増えている。こうした料理は北インド料理がルーツで、ネパール料理ではない。インネパ店で出されているのは、北インドのカレーを外食風にアレンジした少し濃い目の味付けのものである。これは、ネパールではあまり一般家庭で食べるものではない。というのは、タンドールという釜がないとナンやタンドリーチキンは焼けないからである。ネパール人が普段食べているのは、ご飯にダルという豆の汁が主なものである。カレーの味付けはスパイスの量が少なく、野菜、高菜、アチャールという漬物や発酵ものが多い。しかし、メニューにはネパール餃子のモモがあったり、店の内外にネパール国旗やヒマラヤ山脈の写真を掲げていたりする。メニューは伝統料理ではなく、幅広い層の日本人の好みに合わせたものである。インドやネパールの食文化にこだわらず、知名度の高いインド料理として出している。日本各地に存在するインドカレー店は、インド人がやっているところもあるが、ネパール人が経営していることがほとんどである。ネパールは出稼ぎ国家で、外食産業がネパール人の出稼ぎの手段になっている。多くが、カトマンズから200キロ近く離れたバグルンという山に囲まれた地域出身である。インドでコックとして働いてきたネパール人が、さらに大きなお金を稼ぐために日本へ渡ってきている。法務省の統計では、2006年に7844人だった在留ネパール人の数は、2020年には9万9582人となっている。バブル期に日本に出稼ぎに来るネパール人が増え、2000年代にビザの取得要件が緩和された。また、外国人でも500万円を投資すれば、経営・管理という在留資格を持って会社を経営できるようになった。しかし、日本にやって来るのも簡単な話ではなく、店を出すのにも多額の資金が必要になる。親戚や銀行からお金をかき集め、海を渡って出稼ぎにやってくるネパール人たちが大勢いるという。ネパール人コックは、インネパ店の店主が招聘する形で日本にやってくる。働く店が決まっていないと、ビザが下りないからである。来日するコックは、店主または仲介業者に仲介手数料を払うのが商習慣となっている。来日したコック自身も後に独立して経営者となり、同じように仲介手数料をとってネパール人コックを呼び寄せるケースが多いそうである。多くは、なんとしてでも稼いで一旗あげるとか、絶対に失敗できないという必死な気持ちで日本にやってきている。もともと、日本のインド料理店では、ネパール人が多く働いていた。それが独立して、お店を始めるようになったことからインネパが生まれ始めた。インネパ店でも、お客がよく入る店とそうでない店の差があるそうである。あくまで稼ぎに来てるわけで、日本人のお客さんを掴むため、いろいろ考えてメニューを開発している。いろいろな改造されたナンは、お客さんを意識して出されている。これには、ネパール人のしなやかさとか柔軟性の象徴みたいなところがある。インド人から見たら許せないのかもしれないものでも、ネパール人は日本人にいかにウケるかを大事にしている。インドの本場のナンは、日本で作られているナンほど大きくない。日本人は映えを意識するから、なるべく大きくしろといわれる。しかし、現地の人はもっとうすいチャパティとかを食べていて、ナンは外食時の食べ物という感じがするとのことである。現在、日本では円安問題や経済不況だと騒がれているが、それでも日本に来たいというネパール人はまだたくさんいるそうである。カレーの原価率は一般的には20~30%といわれ、他の料理と比べても低いことが特徴である。また、名物のナンはおかわりサービスをしていても、赤字になるような原価ではない。インドカレー店は特殊な厨房機器を必要とせず、最低限の機器を揃えるだけで十分といえる。さらに、インドカレーは日本人に馴染みがあり人気の高い料理である。インネパ店はオーナーやスタッフが家族や親戚である場合が多く、身内で経営することで人件費を比較的安く抑えている。昔は単身赴任の出稼ぎスタイルが多かったが、今では家族を一緒に連れてくる人も増えた。奥さんも働いて家計を支え、子供は日本の学校に通わせている。一番の問題と感じているのは、カレー屋の子供のことだという。親は経営に追われて忙しく、子供の面倒を十分に見れない。日本に連れてこられた子供たちは、わけもわからずなかなか馴染むことができない。子供の教育に関心の低いネパール人も少なくないようである。このような問題があっても、日本が閉ざさない限りこれからもカレー移民は増え続けていく可能性が高いという。本書は、インネパ点のメニューの源流を探し、在留外国人統計からネパール人が増加した歴史をたどっている。母国からコックを呼ぶブローカー化した経営者や、搾取されるコックたちといった闇にも切り込んでいる。背景には、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさもあるという。
第1章 ネパール人はなぜ日本でカレー屋を開くのか/第2章 「インネパ」の原型をつくったインド人たち/第3章 インドカレー店が急増したワケ/第4章 日本を制覇するカレー移民/第5章 稼げる店のヒミツ/第6章 カレービジネスのダークサイド/第7章 搾取されるネパール人コック/第8章 カレー屋の妻と子供たち/第9章 カレー移民の里、バグルンを旅する
29.令和6年9月14日
”岡倉天心『茶の本』の世界 ”(2024年5月 筑摩書房刊 岡倉 登志著)は、ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めた岡倉天心が日本の茶道を欧米に紹介する目的でニューヨークの出版社から刊行した『茶の本』の世界を紹介している。
岡倉天心は日本の思想家であり、日本美術の発展の種まきをし耕した人物である。明治時代初期に横浜で生まれ、幼少期から英語を得意としてエリート街道を進んだ。官僚となってから日本美術の素晴らしさに目覚めた。語学力を活かして、日本美術・日本文化の発信者として生きる道を選択した。現在の東京藝術大学の前身の東京美術学校の設立に貢献し、のちに日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者でもあり、明治時代以降の日本美術成立に大いに寄与した。代表作は東洋の美術を欧米に紹介した『茶の本』であり、1906年に出版され全米ベストセラーとなった。現在では20数種の言語に翻訳され、世界的名著として知られている。日本国内でも誰もが認める、日本を代表する書といえよう。岡倉登志氏は1945年千葉県生まれ、1974年明治大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学した。1975年に西アフリカに半年滞在、その後もエチオピア、ジブチ、ケニア、タンザニアで数回の調査・研究旅行を行った。1988年4月から2011年3月まで、大東文化大学文学部教授を務めた。現在、大東文化大学名誉教授、横山大観記念館評議員となっている。専門はヨーロッパ・アフリカ関係史、日本と西洋の交流史である。岡倉天心の曾孫にあたり、2002年に天心研究会「鵬の会」を結成し、論文発表や講演活動を行っている。岡倉天心は1863年横浜生まれ、日本の思想家、文人で、本名は岡倉覚三、幼名は岡倉角蔵といった。福井藩士・岡倉覚右衛門の次男で、神奈川警備方を命じられた福井藩から覚右衛門を赴任させた。福井藩は横浜で海外貿易の盛隆を目の当たりにし、生糸を扱う貿易商店石川屋を1860年に横浜に開店した。店を訪れる外国人客を通じて、岡倉は幼少時より英語に慣れ親しんでいった。1871年に父親の再婚をきっかけに、大谷家に養子に出された。里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられた。寺の住職から漢籍を学び、高島嘉右衛門が開いた高島学校へ入学した。1873年に、廃藩置県によって石川屋が廃業となった。父親が蛎殻町で旅館を始めたため、一家で東京へ移転した。天心は、官立東京外国語学校、現在の東京外国語大学に入学した。1875年に、東京開成学校、後の東京大学に入学し、1878年に結婚した。1880年7月に東京大学文学部を卒業し、11月より文部省に音楽取調掛として勤務した。1881年に、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査した。アーネスト・フェノロサは1853年生まれのアメリカの東洋美術史家、哲学者である。明治時代に来日したお雇い外国人で、日本美術を評価し紹介に努めた。1882年に専修学校、現在の専修大学の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献した。1884年に、フェノロサとともに京阪地方の古社寺歴訪を命じられ、法隆寺夢殿を開扉し、救世観音菩薩像を調査した。1886年から1887年にかけて、東京美術学校、現在の東京芸術大学美術学部設立のため、フェノロサと欧米を視察した。1887年に東京美術学校幹事となり、翌年に博物館学芸員に任命された。1889年に日本美術学校が開校され、5月に帝国博物館理事に、12月に大博覧会美術部審査官となった。1890年10月に天心が東京美術学校初代校長になり、フェノロサが副校長となった。同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てた。1898年に東京美術学校を排斥され辞職し、同時に連帯辞職した大観らを連れ、日本美術院を下谷区谷中に発足させた。1901年から1902にかけてインドを訪遊し、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ等と交流した。1902年に来日した、ボストン生まれのアメリカ医師、日本美術研究家、仏教研究者のビゲローと交歓した。1904年にビゲローの紹介で、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられた。この後は、館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなった。それ以外の期間は、茨城県五浦のアトリエにいることが多くなった。1905年と1907年に渡米し、美術院の拠点を茨城県五浦に移した。1910年にボストン美術館に東洋部を設けることになり、美術館中国・日本美術部長に就任した。1911年に帰国し、1912年に文展審査委員に就任した。1913年に、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて、9月2日に50歳で永眠した。同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られ、戒名は釈天心であった。『茶の本』は、茶道を仏教、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説している。天心没後の1929年に邦訳され、2019年時点で約90年を経て118刷56万部に達している。新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期の日本人による英文著書として有名である。ジャポニズム興隆や日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国でも翻訳された。2016年には、世界的な名著を集めたペンギン・ブックス双書にも加えられた。『茶の本』の解説書はすでに数多く刊行されている。本書では、『茶の本』の世界を、できるだけ多岐にわたって紹介していきたいという。筆者は天心の人的交流に詳しく、その背景となる天心の書簡・日誌類など一次資料を丹念に見ている。先行研究の著作を参考にしながら、それらを補足・訂正し新しい視点を提起している。また、国際的な文化交流の文脈で、『茶の本』を再考していくことにしたいとのことである。さらに、筆者ならではの視点から、120年前の『茶の木』を21世紀の現代から見るということである。序章では『茶の本』が執筆・出版されるまでの経緯ついて述べ、天心のコスモポリタンな思考と類いまれな英語力に着目している。第一章では天心の幼少期から振り返りその思想的背景を概観し、六角堂について考察し数々の著名人との関わりについて心論じている。第二章では『茶の本』刊行100周平記念行事にについて触れ、『茶の本』の成立事情と構成について述べている。第三章はユーモリストで風流人でもあった天心に着目し、重要な思想的立脚点について論じている。第四章では清国を視察した天心の中国文化・思想への強い関心をテーマとし、『茶の本』に見える道教、詩歌について考察している。第五章では1893年のシカゴ万博について詳しく述べ、天心が内装を手がけた鳳凰殿と併設のティーハウスに注目している。第六章は天心の精神的支えであったガードナー夫人の来歴と、10年間にわたる両者の交流について考察している。第七章では天心が愛した東洋の詩人たちに注目し、ブリヤンバダ・デーヴィ-、アンリーミショー、タゴールについても論じている。終章では晩年の天心が多忙な生活の中で夢見た二重の人生や、死への旅立ちを意識した天心の辞世ともいえる詩を考察している。
序章 『茶の本』の世界/第1章 『茶の本』は「茶の湯」の経典か/第2章 宗教と哲学から『茶の本』を読む/第3章 文学・演劇にみるユーモリスト/第4章 中国文化との関連/第5章 万国博覧会と日本の建造物/第6章 ガードナー夫人のサロンに集う人々/第7章 詩で詠む『茶の本』の世界/終章 黄昏
30.9月28日
”武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』”(2024年6月 KADOKAWA刊 川平 敏文著)は、新井白石の推挙で幕府儒学者として召し抱えられ徳川吉宗の享保の改革の相談役となった朱子学者・室鳩巣の人生を紹介している。
室鳩巣は1658年に室玄樸の子として、武蔵国谷中村、現在の東京都台東区谷中で生まれた。室玄樸は1616年生まれの備中岡山の人で、剛直な性格で世間と合わず、摂津、江戸で町医者として過ごした。室鳩巣は諱は直清、号は鳩巣・滄浪、字は師礼、通称は新助、信助、駿台先生と言った。1672年に金沢藩に仕え、藩主前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となった。1686年に加賀に赴任し廃屋を買って住居としてから、鳩巣の号を用いるようになった。以後、加賀・京都・江戸を往来して勉学を続けた。この間、山崎闇斎門下の羽黒養潜と往来して学問を深め、朱子学者としての定見をもったのは40歳近くになってからという。1711年に新井白石の推挙で江戸幕府の儒学者となり、幕府より駿河台に屋敷を与えられた。徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、ここで献策と書物の選進を行った。吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐し、湯島聖堂において朱子学の講義を行った。また、幕臣への学問奨励のため吉宗の命を受けて、八重洲河岸に開設された高倉屋敷でも講義を行った。白石失脚後も吉宗の信任を得て1722年に侍講となり、しばしば諮問を受けて幕政にも関与した。1725年には西丸奥儒者となり、77歳で没するまでその地位にあった。著作には、『五常名義』『五倫名義』『駿台雑話』『赤穂義人録』『兼山麗澤秘策』『六諭衍義大意』などがある。川平敏文氏は1969年福岡県生まれ、1999年に九州大学大学院博士後期課程を修了し、博士(文学・九州大学)となった。専攻は、日本近世文学・思想史である。1998年に柿衞賞を、2000年に日本古典文学会賞を受賞した。熊本県立大学文学部助教授となり、2007年准教授、2010年九州大学大学院人文科学研究院准教授、2021年教授となった。2015年にやまなし文学賞、2016年に角川源義賞を受賞した。室鳩巣という名前は、日本史に興味があれば享保の改革で、古典文学に興味があれば近世の随筆で覚えているかもしれない。高等学校の教科書にも載る人物でも、実際どのような人物だったか知る人はあまりいないだろう。鳩巣は18世紀初頭に江戸幕府に仕えた儒者で、当時の政治・思想・文学・教育などを考えるうえで重要な人物である。もともと江戸の生まれであるが、若いころに加賀藩主・前田綱紀に見出され藩の儒者として仕えていた。おそらく本人は北陸の一儒者として一生を終えるものと、思っていたのではないか。ところが幕府の政治に深く参与していた新井白石の推薦をうけ、幕府の儒者として召し抱えられたのである。その後、将車が徳川吉宗になり白石は失脚し、政治の表舞台から姿を消す。このとき、吉宗から大きな信頼を寄せられたのが鳩巣であった。吉宗の享保の改革は財政・組織・農政・文教など多方面にわたるが、鳩巣は文教方面の相談役として活躍した。陽明学や仁斎学、徂徠学の流行時に、鳩巣は朱子学を墨守して普及に努めた。朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系である。朱子の思想は宇宙論から人間論まで幅広く、しかもどのように真理を認識するかという方法論まで含んでいた。宋において官学とされ、科挙を受験する士大夫の修身・斉家・治國・平天下という理念が強調されるようになった。日本などに伝来するうちに、幅広い思想体系と言うより、統治哲学ともいうべき側面のみが発達していく傾向があった。日本においては、江戸幕府の封建的身分制社会のイデオロギーとなっていった。陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説である。人は生来備えている良知を養って、知識と実践とを一体化すべきだとする。日本では江戸時代に、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持した。朱子学は権威や秩序を重んじるが、陽明学は心のままに自分の責任で行動することを説いている。当時の朱子学は、支配階級に都合よく解釈され、本来の理想とは、かけ離れた姿になっていた。すっかり形骸化した朱子学を憂い、真っ向から否定したのが陽明学である。仁斎学は、江戸前期の儒学者伊藤仁斎が築いた思想体系である。総体的に、仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成された。朱子をはじめとする先行の注解を排除して、直接、論語、孟子を熟読することを求める。こうして聖人の思考様式、文脈を知り、それを通じて儒教の意味、正統思想を理解せよと主張する。徂徠学は、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派である。古い辞句や文章を直接読むことによって、後世の註釈にとらわれず孔子の教えを直接研究しようとする。朱子学や仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する古文辞学を標榜した。鳩巣の『駿台雑話』は、鳩巣による江戸時代半ばの随筆であり儒学書でもある。朱子学的な観点で、学術や道徳などを奨励した教訓的なものである。鳩巣による著作物の中でも特に著名なものであり、江戸時代の随筆の中でも代表的なものである。1732年に成立し、全5巻、仁・義・礼・智・信の五常を5巻に配している。鳩巣の生涯の最晩年に、幕儒を引退する間際に書かれた和文随筆である。鳩巣の政治・思想・文学などについての考えが、門人や客人と談話する形式に寄せて書かれた。書かれている鳩巣の考えは、18世紀末に老中・松平定信によって推進された寛政異学の禁の骨子をなしている。寛政異学の禁は、朱子学を幕府の正学とし、幕府の学問所の昌平黌で朱子学以外を教えることを禁じた命令である。また、なかに掲載されている往古の武士たちの忠義の逸話や、和漢の詩歌を評判した文章は、明治から昭和戦前の国語教科書において頻出教材となった。鳩巣は政治史的には新井白石、思想・文学的には荻生徂徠、教育史的には貝原益軒などの同時代儒者たちの影に隠れてしまっているように見える。その理由のひとつは、鳩巣がいわば燻し銀のように、目立つことを潔よしとしなかったからである。鳩巣が信奉していたのは朱子学であるが、朱子学で最も重要とされたのが中庸の精神である。中庸とは、しっかりした理念のもとに、どこが本当の真ん中であるかを判断しその状態を不断に維持し続けることである。近世中期から近代前期にいたるまで、日本人の道徳観の涵養や文学観の形成に少なからず貢献していた。戦後、価値観は大きく変わったが、それでも現代のわれわれの道徳観や文学観につながる部分もあるだろうという。本書では室鳩巣という人物とその著述について、さまざまな角度から光を当ててみる。序章では、幕儒になる以前の加賀藩儒時代、鳩巣がどのような思いで過ごしていたかを概観する。第一章では、江戸に招聘された鳩巣が幕儒としてどのような仕事をこなしていたのかを考えてみる。第二章では、徳川吉宗が鳩巣に編述を命じた『六諭術義大意』が、どのようなやり取りを経て完成したのかを追いかける。第三章は、鳩巣の主著ともいえる『駿台雑話』が、どのような社会背景のもとで書かれたかを押さえておく。第四章では、『雑話』における思想的問題を取り上げる。第五章は、『雑話』における武家説話を取り上げる。第六章では、『雑話』における文学論を取り上げる。終章では、『雑話』を中心とした鳩巣の著述が、後世にどのように広がったかを見る。室鳩巣は晩年に、心をよりどころにして近世的な自我意識や、君臣、君民間の契約を論じた。これは、単に封建的なイデオローグとしてかたづけられない可能性を示したという。
序章 鳩巣、江戸へー不遇意識のゆくえ/第1章 幕儒としての日々/第2章 庶民教化の時代/第3章 『駿台雑話』の成立/第4章 異学との闘い/第5章 武士を生きる/第6章 文学とは何か/終章 後代への影響ー『駿台雑話』の受容史
31.令和6年10月12日
”道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実”(2024年4月 筑摩書房刊 寺西 貞弘著)は、女帝に取り入って皇位さえうかがった野心家として様々な謎に包まれ悪評にまみれた奈良時代の僧・道鏡の実像に迫ろうとしている。
道鏡はこれまで、平将門・足利尊氏と並んで天下の三大悪人と称された。道鏡は女帝を寵絡した天下の悪僧と呼ばれ、平将門は朱雀天皇に対し新皇を自称し、足利尊氏は後醍醐天皇をないがしろにした。戦前は皇国史観が盛んに唱えられ、三人は天皇に弓を引いた大悪人として扱われていた。しかし、戦後の民主化によって皇国史観が払拭されると、三大悪人に対する見方も大きく変化した。とくに足利尊氏については、後醍醐天皇の保守性に対し武家社会の要望に応えた一面が評価されている。では、道鏡についての評価はどうであろうか、悪僧との評価がどれほどまでに改められたであろうか。本書では、さまざまな伝説を検証し最新資料を検討している。すると、道鏡は実際には政治に関与せず天皇への仏教指導に終始した人物という意外な実像が見えてくるという。寺西貞弘氏は1953年大阪府摂津市生まれ、1978年に関西大学文学部史学科日本古代史を卒業した。1983年に同大学院博士課程後期課程満期退学し、1989年に文学博士となった。1984年に和歌山市立博物館学芸員、同館学芸課長、副館長を経て、2002年に館長となった。2015年から有田市郷土資料館学芸員を務めた。道鏡は700年に河内国若江郡、現在の八尾市の一部で生まれ、俗姓は弓削氏の弓削連であった。弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族で、複数の系統がある。道鏡の属する弓削連は物部氏の一族で、物部守屋が弓削大連と称してから子孫が弓削氏を称したという。道鏡は葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていたそうである。若い頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、奈良の東大寺を開山した良弁から梵語を学んだ。禅に通じていたことから、宮中の仏殿に入ることを許され禅師に列せられた。当時は第45代聖武天皇の治世の時代であった。聖武天皇は天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例であった。このころ、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願い、後に光明子は非皇族として初めて立后された。聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、阿倍内親王のみであった。阿倍内親王は弟の第一皇子が夭逝し他に適任者がなかったため、749年に聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位した。孝謙天皇は重祚して、称徳天皇とも称した、第46代天皇および第48代天皇である。史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は江戸時代の第109代明正天皇まで850余年、女性天皇が立てられることはなかった。『続日本紀』では終始、高野天皇と呼ばれ、ほかに高野姫天皇、倭根子天皇とも称された。母の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂の支援を受けて政治を行なっていた。758年に母の光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となった。大炊王は淳仁天皇として即位し、760年に光明皇后が崩御した。孝謙上皇と道鏡が出会ったのは、その3年後の761年のことであった。761年には平城宮の改修のため、都が一時的に近江国保良宮に移された。そのとき孝謙上皇は病気を患い、道鏡は傍に侍して看病した。藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めた。しかし、孝謙上皇はこれに激怒し、孝謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になった。孝謙上皇は女性天皇であるが故に、生涯独身である必要があった。そして、子がなかったため常に後継問題に悩まされていた。道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていった。そして、病気を治したことから重用されるようになり、その寵を受けることとなった。762年に孝謙上皇は、淳仁天皇が不孝であるとして仏門に入り別居し、政務を自身が執ると宣言した。淳仁天皇はこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。763年には慈訓に代わって道鏡が少僧都に任じられ、764年には太政大臣禅師に任ぜられた。764年9月に、藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した孝謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪った。藤原仲麻呂は乱を起こして対抗したが、敗れて殺害された。そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲いて称徳天皇となった。765年に道鏡は法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対し、藤原氏らの不満が高まった。769年には、宇佐八幡神託事件とも道鏡事件とも呼ばれる事件を起こして失脚した。これは、道鏡を天皇の位につければ国家は安泰とする、偽の神託を奏上させる事件であった。弓削浄人と大宰府の主神の中臣習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのであった。称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣した。ところが和気清麻呂が受けた神託は、皇位は皇族が継ぐもので無道の人である道鏡は早く追い払えというものだった。怒った称徳天皇は、和気清麻呂に別部穢麻呂という屈辱的な名前を与えて流罪にした。道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みたが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたという。この事件により道鏡は、女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として日本三悪人に数えられるようになった。事件の翌年の770年に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下した。軍事指揮権は、太政官である藤原永手や吉備真備に奪われた。道鏡は長年の功労により処刑されなかったが、弓削浄人ら親族4名は土佐に流された。道鏡は下野国の下野薬師寺別当に左遷されそこで没し、死後は一庶民として葬られた。道鏡を研究する際に必要不可欠な史料である『続日本紀』は、古代律令国家が編纂した立派な歴史資料である。これは古代律令国家が国家の威信をかけて編纂し、天皇とその国家の非を書き記すことは絶対にしないという。そのため、道鏡は、必要以上に悪人として語られてしまっているのではないか。本書はこのような観点から『続日本紀』を読み返して、道鏡の評価を再考しようとするものである。第一章では、うわさの道鏡として道鏡にまつわる伝承を取り扱う。第二章では、仏教との出会いとして道鏡が出家するまでの過程を検討している。第三章では、道鏡と律令国家として、国家政治における道鏡の位置づけを考えている。第四章では、称徳朝政治と道鏡として、称徳朝における道鏡の政治的立場を検討している。第五章では、称徳天皇の崩御と道鏡の左遷として道鏡の左遷に至る経緯を再確認している。以上から、道鏡の生涯を総覧すべく述べ来って述べ終わったという。
第1章 うわさの道鏡(道鏡の生年/道鏡同衾伝説/称徳女帝淫猥伝説/歴史と伝説の間)/第2章 仏教との出会い(道鏡の出自/道鏡の仏教)/第3章 道鏡と律令国家(称徳天皇の即位事情/称徳天皇との出会い/藤原仲麻呂の乱と淳仁天皇廃帝)/第4章 称徳朝政治と道鏡(大臣禅師・太政大臣禅師・法王/太政官政治と道鏡/西大寺の創建と道鏡/宇佐八幡託宣と道鏡)/第5章 称徳天皇の崩御と道鏡の左遷(称徳天皇の晩年/道鏡の左遷と死去)
32.10月26日
”山林王”(2023年3月 新泉社刊 田中 淳夫著)は、吉野川源流部の川上村に居を構え近代日本の礎づくりに邁進し豪商三井と並ぶ財力を持った山林王の土倉庄三郎を紹介している。
土倉庄三郎は=どぐらしょうざぶろうは、1840年奈良県川上村大滝に生まれ、幼名は、丞之助、族籍は奈良県平民であった。父の庄右衛門も林業家で、1856年に父に代わり家業に従事し名を庄三郎と改めた。植林から育成、伐採、運搬にいたるまで、独自の造林技術を全国へ広めた。また、吉野林業の特徴である山の所有者と管理者を分け山を維持する山守制度を築いた。1868年に紀州藩による吉野川流下木材の口銭徴収反対運動を起こし、民部省に請願し廃止させた。1869年に吉野郷材木方大総代、吉野郡物産材木総取締役になった。1870年に水陸海路御用掛となり、吉野川の水路改修工事に尽力した。1873年には東熊野街道の開設に着手し、1887年に街道が完成した。1887年から1897年にかけて、群馬県伊香保、兵庫県但馬地方、台湾などの造林も手掛けた。1899年には鉄道計画にも参加し、吉野鉄道株式会社の設立にも携わった。明治期における吉野林業と日本林業の先覚者であり、吉野郡内では山林経営に従事した。100年先を見すえて生涯1800万本の樹木を植え、手にした富は社会のために惜しげも無く使い切ったという。田中淳夫氏は1959年大阪生まれ、静岡大学農学部を卒業後、出版社、新聞社等に勤務した。その後フリーの森林ジャーナリストになり、森と人の関係をテーマに執筆活動を続けている。土倉庄三郎は、林業分野とどまらず多方面で活躍した日本林業の父であり吉野林業の中興の祖である。父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め林業興国を説いた。庄三郎には卓越した先見の明があり、行動は林業分野にとどまらず、政治、経済、教育など多方面に及んだ。林業における庄三郎の功績として、土倉式造林法があげられる。父祖伝来の吉野林業の造林技術の上に工夫を加え、通常の3倍近い本数の苗を植える超密植多間伐を行った。成長した木は、節がなく真っ直ぐで根元から末口までの太さがほぼ同じであった。良質な材として全国に知られ、滋賀県西浅井、群馬県伊香保、兵庫県但馬、静岡県天竜など、各地への造林が始まった。そして台湾台北県での造林にも進出し、台湾で植林されたものは戦後沖縄に電柱として輸出されるようになった。また、庄三郎は林業の要は運搬にありとしてインフラ整備に目をむけた。林業のみならず地域経済の発展に貢献し、陸と川と海の交通路の整備を担当した。庄三郎は自らの財産を国のため教育のため事業のために3分し、教育にも充分な支援を行った。1875年に私費を投じて川上村大滝に小学校を作り、教科書や文房具などを支給した。1882年に敷地の隣地に私塾芳水館を開設し、近在の青少年にも受講を認めた。その後、入塾希望者が増えたため、3年後西河地区に寄宿舎や教師の住宅も備えた学舎を建築した。漢学、算術、英語、武道の学科があり、私塾の枠を超え中等教育機関へと発展した。1881年に、次男、三男等の教育のため、新島譲と面談して同志社大学の設立に賛同し出資を約束した。庄三郎は自身の子供の教育にも熱心で、男女11人の子供のほとんどを同志社に通わせた。次女のマサは同志社女学校のほか、米国ペンシルベニア州のブリンマーカレッジでも学ばせた。また、女子の高等教育の必要性を説く成瀬仁蔵の日本女子大学の設立について寄付を行い、1901年に日本女子大学が創設された。さらに、1877年頃から自由民権家らと交流し、1880年に中島信行の遊説の際に資金を提供した。1881年に大阪で立憲政党が結成されるとこれに加わり、1882年に日本立憲政党新聞の出資者となった。1882年に、自由民権運動の中心人物であった板垣退助の洋行費用を提供した。1973年にトンネルが開通する前は、川上村に入るには結界の山を登って五社峠を越えなくてはならなかった。帰国後板垣はすぐ、五社峠を越えて川上村詣を行ったといわれる。ほかに、山県有
朋、井上馨、伊藤博文、太隈重信、松方正義、後藤象二郎、中島信行などの要人も、支援を求めて川上村詣をしたという。五社峠を越えたわけは、川上村在住の土倉庄三郎に面会するためであった。土倉家は代々続く大山主で、所有山林は最盛期で9,000ha、県外と台湾を加えると23,000haに及んだ。山から伐り出された木材は吉野川を下り、和歌山から大阪そして全国に運ばれた。それらによって生み出された富は非常に大きく、明治初年の土倉家の財力は三井家と並ぶと称せられた。その経済力とともに、庄三郎という人間の信念と行動力が明治の世を動かした。庄三郎は川上村から明治の社会を見据え、時代と四つに組んだ。新たな教育を広め、技術革新を進め、国土の改良に取り組み、政治を揺さぶった。武器は林業であり、森から明治という時代を動かした。しかし、長い年月の間に庄三郎の事績は忘れられつつある。庄三郎に関する資料は少なく、本人直筆の文書も庄三郎について語られた記録も数えるほどである。そこで庄三郎の生きた時代を洗い直し、交わった人々が残した断片的な記録を拾って再構築する作業を進めたという。それらを基に、本書において土倉庄三郎の実像に迫りたいという。筆者が庄三郎を知ったのは、1980年代末に川上村を初めて訪れて磨崖碑を目にしたときであった。2000年代に入ってから詳しく調べようとしたが、資料は少なく、実像を知るまでいかなかった。基本文献は、一つは1917年に配布された佐藤藤太著『土倉庄三郎ー病臥、弔慰、略歴』であった。もう一つは、1966に出版された土倉祥子著『評伝土倉庄三郎』である。前者は簡素であり、後者は記事の多くが真偽を確認する必要があった。そこで、同時代の雑誌や新聞、吉野の歴史や林業の文献から、庄三郎に関わる点を拾い出すことに注力した。少ない資料からなんとか庄三郎の足跡を拾い出し、2012年に『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』を刊行した。この本を出版したことで、次々と新資料が寄せられたという。複数の庄二郎の子孫縁戚の方から連絡があり、資料も提供されたそうである。前著の刊行後10年を超え、新たに得た情報を取り込んで庄三郎の実像を描き直そうとした。すると、単なる増補には収まらなくなり、全面的に書き改めることとなったとのことである。
序 源流の村へ/第1章 キリスト教学校と自由民権運動/第2章 山の民の明治維新/第3章 新時代を大和の国から/第4章 国の林政にもの申す/第5章 土倉家の日常と六男五女/第6章 逼塞の軌跡と大往生/終章 庄三郎なき吉野/あとがき/年表/参考文献
33.令和6年11月9日
”竹林の七賢”(2024年6月 講談社刊 吉川 忠夫著)は、中国三国時代末期から晋代初期にかけて老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家について簡明に紹介している。
竹林の七賢とは、3世紀の中国三国時代末期から晋代初期にかけて老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家である。七賢は、俗世間を避け竹林に集まって酒を酌み交わし琴をひき清談をしたといわれている。阮籍(げんせき)、 康?(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)の7人である。時に漢王朝が滅亡し、儒教の権威が失墜し、政治社会が揺れ動いた魏晋の時代であった。7人は、葛藤を抱えながら己の思想を貫こうとする者たちであった。そのなかにはさまざまのタイプの人間が含まれていて、実に個性豊かである。中には、権力に睨まれ刑死した者もあり、敢えて世俗にまみれた者もあった。儒教が唯一絶対の価値の源泉であった漢代と異なり、価値が多様化した時代の指標をみとめることができる。七賢の面々は、ある場合は文学作品や哲学論文によって、ある場合はそれぞれ生き方によって、強烈でしたたかな自己主張を行なった。吉川忠夫氏は1937年京都府生まれ、1959年に京都大学文学部史学科を卒業し、1964年に同大学院文学研究科を単位取得退学した。専門は中国中世思想史で、東海大学文学部講師、京都大学教養部助教授となった。1974年に京都大学人文科学研究所助教授、1984年から教授を務めた。1991年から1993年まで人文科学研究所長を務め、2000年に京都大学を定年退官し、名誉教授の称号を受けた。2000年に花園大学客員教授、国際禅学研究所所長、2002年に龍谷大学文学部教授を経て、客員教授となった。2006年より日本学士院会員となり、2009年に東方学会会長に就任し、2011年秋まで勤め、現在は顧問となっている。2013年に文化功労者となり、2022年に文化勲章を受章した。3世紀の魏晋の時代には、敬愛すべき人物が少なからず輩出された。それらのなかで、竹林の七賢は際立った存在である。これらの7人が竹林の七賢とよばれるようになったのは、4世紀の東晋時代のことであった。東晋時代の人たちは、七賢に人間の典型を見いだし、自分たちの理想を託した。七賢が生きた魏晋の時代に、前漢と後漢あわせて400年の長きに存在した漢王朝が崩壊した。このときは、政治的にも思想的にも無政府状態となった中から立ち現れた時代であった。魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判した。偽善的な世間のきまりの外に身を置いて、老荘の思想を好んだ。前漢の武帝は儒教を王朝の正統教学として採用し、それ以後、儒教は王朝に政治理論を提供した。儒教に根拠を置く礼教主義は、漢代の人びとの日常生活にも浸透した。漢代は儒教があらゆる価値の源泉で、人びとは自由に精神を飛翔できなかった。儒教がすべてを基礎づけていた漢王朝が崩壊すると、儒教の権威は失墜した。魏晋の人びとは、もはや儒教にのみに人生の指針を見だすことができなくなった。そこで、みずからの信ずるところにしたがって、人それぞれに生きる道を模索しはじめた。このような時代を生きた七賢は、それぞれに自己を際立たせた。竹林の七賢というものの、中にはさまざまのタイプの人間が含まれていて個性豊かである。一人の人間についても、性向と行動とは一見すると矛盾するかのように思われる場合すらあるという。山濤は、205年生まれの後漢末年の三国時代の魏および西晋の文人である。幼少時に父を亡くし、貧窮した生活を送った。40歳を過ぎて魏の官途について司馬氏に属した。曹爽の台頭により隠棲したが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕した。西晋代になって、吏部尚書・太子少傅を歴任するなど栄達した。老荘思想に耽って?康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人と後世に称された。?康は、223年生まれの中国三国時代の魏の文人で、七賢の主導的な人物の一人である。幼少の頃孤児となり、魏の末期の政治的に不安な時代を生きた。自由奔放な性格と魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦めた。琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたという。老荘を好み官は中散大夫に至ったが、山濤から役を譲られようとした時、絶交を申し渡しそれまで通りの生活を送った。「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」があり、詩は四言詩に優れていた。阮籍は、210年生まれの中国三国時代の思想家で、七賢の指導者的人物である。魏の末期に偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置いた。?済が召し出そうとするも応じず、怒りを買った。親類に説得されたためやむなく仕官したが、病気のため辞職した。司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると、従事中郎に任じられた。歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になった。大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたといわれる。俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。老荘思想を理想とし、「大人先生伝」「達荘論」などの著作がある。劉伶は、221年生まれの三国時代の魏から西晋にかけての文人で、竹林の七賢の一人である。酒を好み礼法を蔑視する生活を送り、世を避けて清談に明け暮れた。「酒徳頌」などの著作がある。王戎は、234年生まれの三国時代から西晋にかけての政治家・軍人で、竹林の七賢の一人である。幼少時から、大人顔負けの聡明さを発揮した。鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられ、河東太守、荊州刺史などを歴任した。晋の恵帝の時に、三公である司徒となった。廉潔な一面をもつが、利殖にたけて莫大な財産を築いた。阮籍と交遊し、竹林の遊びと清談を好んだ。七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃から竹林の七賢と呼ばれるようになった。隠者と言われることがあるが、多くは役職についていた。魏から晋の時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行した。しかし、当時の陰惨な状況では、奔放な言動は死の危険があった。本書は、いずれも激烈に生きた竹林の七賢について、鋭敏な筆致で簡明に描いている。
序章 「竹林の七賢」と栄啓期像/第1章 「竹林の七賢」グループの誕生/第2章 見識と度量の人ー山濤/第3章 ?康の「養生論」/第4章 方外の人ー阮籍/第5章 劉伶の「酒徳頌」と阮籍の「大人先生伝」/第6章 広陵散ー?康/第7章 阮籍の「詠懐詩」/第8章 愛すべき俗物ー王戎/終章 なぜ「竹林」の「七賢」なのか
34.11月23日
”頼山陽 詩魂と史眼 ”(2024年5月 岩波書店刊 揖斐 高著)は、詩人であり歴史家でもあった不世出の文人であった頼山陽の生涯について江戸後期の文事と時代状況の中で紹介している。
頼山陽は、1781年に大坂で生まれ広島で育った江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人である。幼名は久太郎、名は襄、字は子成で、山陽、三十六峯外史と号した。有力な漢学者であり、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍した。18歳のとき、江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学んだ。20歳のとき、広島藩医・御園道英の娘淳子と結婚した。21歳のとき、広島藩を脱藩した罪で一時監禁された。その後京都に出て、『日本外史』22巻を書き松平定信に献じた。これは没後に出版され、ベストセラーとなって尊王倒幕の志士にも影響を与えた。文学の分野では「鞭声粛々」の詩や、「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などが広く愛誦されている。美術の分野では、能書家として有名で絵画についても優れた水墨画を残した。揖斐高氏は1946年福岡県生まれ、1971年に東京大学国文科を卒業し、1976年に同大学院博士課程を単位取得満期退学した。1978年度第5回日本古典文学会賞を受賞し、1999年に文学博士となった。白百合女子大学文学部講師、成蹊大学文学部教授等を務め、2017年に日本学士院会員となった。現在、成蹊大学名誉教授で、2011年に紫綬褒章、2019年に瑞宝重光章を受章した。1999年に第50回読売文学賞(翻訳・研究部門)、2010年に第18回やまなし文学賞、角川源義賞を受賞した。頼山陽の父の頼春水は、若くして詩文や書に秀でて大坂へ遊学した。そこで尾藤二洲や古賀精里らとともに、朱子学の研究を進めた。現在の大阪市西区江戸堀の江戸堀北に私塾「青山社」を開いた。頼山陽はこの頃、飯岡義斎の長女で歌人の頼梅?=らいばいしを母として同地で誕生した。1781年に父が広島藩の儒学者に登用され、現在の広島市中区袋町に転居して同所で育った。頼山陽も父と同じく幼少時より詩文の才があり、歴史にも深い興味を示したという。1788年に、7代藩主が藩士教育のため開いた広島藩学問所に入学した。その後、父親が江戸在勤となったため、学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学んだ。頼杏坪は1785年に広島藩儒となり、学問所の職務に精励していた。山陽は1797年に江戸に遊学し、父親の学友の尾藤二洲に師事した。二洲は荻生徂徠に学んだあと朱子学に転じ、大坂に私塾を開いて朱子学の普及に尽くした。1800年に突如脱藩を企てて上洛したが、追跡してきた杏坪によって京都で発見された。広島へ連れ戻され、廃嫡され自宅へ幽閉された。山陽はかえって学問に専念して、3年間は著述に明け暮れた。『日本外史』の初稿が完成したのも、このころのことだったといわれる。謹慎を解かれたのち、1805年に広島藩学問所の助教に就任した。1809年に、父親の友人だった儒学者の菅茶山より招聘を受け、廉塾の塾頭に就任した。茶山は少年時代の山陽の才能を高く評価しており、後継者にとの密かな思いを持っていたという。山陽は廉塾にいた1年余りに茶山の代講を行い、茶山の詩集の校正などを任された。しかし、三陽には江戸・京都・大坂に進出して、学者として天下に名をあげたいという気持ちがあった。山陽は、比較的恵まれた境遇にあったものの満足することできなかった。1811年に廉塾を去り京へと向かい、洛中に居を構え開塾した。1816年に父親が死去すると、その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓した。1818年に九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得た。1822年に京都の上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え、水西荘と名付けた。この居宅で著述を続け、1826年に代表作の『日本外史』が完成した。1827年に、江戸幕府の老中松平定信に献上された。1828年に文房を造営し、以前の屋敷の名前をとって山紫水明處とした。山陽の結成した笑社には京坂の文人が集まり、諸氏の交流の場になった。その後も文筆業にたずさわり、『日本政記』『通議』などを完成させようとした。しかし、51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどして容態が悪化し、1832年に享年53歳で死去した。『日本外史』は山陽が著した国史の民間による歴史書である。源氏と平家から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されている。1827年に、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上された。そして2年後に、大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行された。幕末から明治にかけて、一番多く読まれた歴史書である。司馬遷の『史記』の体裁にならい、武家13氏の盛衰を記述している。1800年の脱藩後の幽閉中に書き、放免後の1826年に推敲を重ねて全22巻12冊を完成させた。武家政権の成立と展開を跡づけた『日本外史』は、人知を超える勢いが歴史を動かすとした。歴史の展開のさまざまな局面に際会した人間が、どのような表情を見せどのような行動を選択して対処したかを平明な漢文で表現した。当時は武家政権の崩壊を経て、天皇中心の中央集権国家へという歴史が転換した時期であった。人々に、歴史の転換期における人間の在るべき姿を指し示してくれる魅力的な歴史書であった。ただし、歴史考証では難あり議論には偏りがあったため、史書よりはむしろ歴史物語であった。しかし、独特な史観と動的な表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響はきわめて大きかった。山陽は、歴史における勝者と敗者の姿を具体的に描き、その心情に分け入ろうとした。山陽はこの時代を代表する漢詩人の一人で、その詩は人々に愛誦されたと内村鑑三が回顧している。天皇中心の歴史書『日本政記』は山陽の遺稿を校正したもので、伊藤博文、近藤勇の愛読書であったという。山陽的な歴史観、国家観は、幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼした。山陽の歴史に対する問題意識や歴史著述の方法は、どのようにして生まれたのであろうか。また、山陽の漢詩人としてのあり方はどのようなものであったか。詩人と歴史家が同居していた山陽の全体像を、山陽自身の言説をもとにできるだけ具体的に明らかにしたいという。なお、本書は専門的な研究書ではなく入門的な概説書である。
1(第一章 生いたち/第二章 脱藩逃亡/第三章 回生の一歩/第四章 西国遊歴/第五章 罪を償う/第六章 山紫水明の愉楽)/2(第七章 山陽詩の形成/第八章 『日本外史』への道/第九章 『通議』と『日本政記』/第十章 「勢」と「機」の歴史哲学/第十一章 歴史観としての尊王/第十二章 地勢から地政へ/第十三章 『日本外史』の筆法/第十四章 三つの『日本外史』批判/第十五章 『日本楽府』-詩と史の汽水域)/3(第十六章 臨終その後)
35.令和6年12月7日
”リトアニア知るための60章”(2020年3月 明石書房刊 櫻井 映子編著)は、古い歴史をもち命のビザを発行した杉原千畝で知られるバルト三国の一つのリトアニアについて33名の専門家が基本的な知識を提供している。
リトアニアは北ヨーロッパの共和制国家で、フィンランド、エストニア、ラトビアなどとともにバルト海東岸に位置している。リトアニア人はスラヴ系ではなく、インド=ヨーロッパ語族バルト系に属する民族である。リトアニア共和国はバルト海の南東側に位置する、バルト三国の中で最も大きな国である。国土の98%が農地と森林に覆われ、大小合わせ約4000 の湖を有する森と湖の国として知られている。 国土は平坦で川が多く、最も高い山でも標高300m以下である。第一次世界大戦後の1918年に、リトアニア共和国としてロシア帝国より独立した。1940年にソビエト連邦から侵略され、さらに1941年の独ソ戦勃発でナチス・ドイツからも侵略された。その後、ソ連に再占領されてソ連の構成共和国の一つとなったが、ソ連崩壊に伴い1990年に独立を回復して親欧米路線を歩んでいる。櫻井映子氏は名古屋大学を卒業し、同大学大学院博士課程を修了した。ヴィルニュス大学留学を機に、リトアニアの児童書の収集と研究に着手し現在に至る。文学博士で日本学術振興会特別研究員を経て、現在、東京外国語大学・大阪大学講師を務めている。専門は、リトアニア語学、リトアニア文学、バルト・スラヴ学である。リトアニアはバルト海に面し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアのカリーニングラード州と接している。国連の分類では北ヨーロッパの国であるが、東ヨーロッパもしくは中東欧の国との表記も見られる。1009年の年代記において、Lituaeと記されたのが歴史上リトアニアの国名が登場する最初の例である。1230年代に、ミンダウガスがリトアニアの諸部族を統一し1253年にリトアニア王となった。1263年にミンダウガス王が暗殺され、その後はドイツ騎士団やリヴォニア騎士団からの攻撃を受けるようになった。以後100年にわたり、騎士団からの攻撃を受け続けつつ東方へ勢力を伸ばしていった。1385年にリトアニア大公ヨガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになった。これを機にヨガイラはキリスト教を受容し、ポーランド王国との間にポーランド・リトアニア合同が形成された。その後2度の内戦を経て、1392年にヴィータウタスがリトアニア大公となった。14世紀末までに、リトアニア大公国はヨーロッパ最大の国家となった。ヴィータウタス大公のもとで、リトアニア大公国は最大版図を達成した。当時、リトアニア大公国における公用語はリトアニア語ではなく、現在のベラルーシ語の原型のルテニア語であった。リトアニア人の大公家を戴いていたが、政治的実態はリトアニア人国家ではなくスラヴ人国家であった。リトアニアの支配者はスラヴ文化・宗教に対して寛容で、多くの伝統をスラヴ部族から受け入れた。1410年に、ポーランドとの協力によりドイツ騎士団との戦いに勝利を収めた。ヨガイラとヴィータウタスの死後、ポーランドとの合同を解消して独自にリトアニア大公を選出しようとした。しかし、15世紀末にモスクワ大公国が力をつけリトアニアにとって脅威となり、ポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。1569年にポーランド王国との間にルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が誕生した。こうして、リトアニアの政治、言語、文化など、すべての面においてポーランド化が進んだ。16世紀半から17世紀半に、ルネサンスと宗教改革の影響から、文化、芸術、教育が栄えた。1573年以降、ポーランド王兼リトアニア大公は貴族による自由選挙で選ばれるようになった。1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。復興する前に、大北方戦争が1700年~1721年まで勃発し、リトアニアは荒廃した。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大した。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続け、改革は全て妨げられた。その結果、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国によって、1772年に第1次ポーランド・リトアニア分割が行われた。その後、1792年に第2次、1795年に第3次分割が行われた。これによって、ポーランド・リトアニア共和国は解体された。この分割によって、現在のリトアニアの領土の大半はロシア帝国領となった。リトアニア地域は、ロシア帝国内では北西地方と呼ばれる地方に属することとなった。1877年の露土戦争の後、ロシア帝国とドイツ帝国の関係が悪化した。1868年から1914年までの間に、約63万5,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れた。多くは、1867年から1868年に起きた飢饉をきっかけにアメリカ合衆国へ移住した。第一次世界大戦が起きると、リトアニアは東部戦線の戦場となった。1918年にロシア革命が起き、その中でリトアニア評議会はリトアニアの独立を宣言した。当初はリトアニア王国として独立したが、これはドイツ帝国の計画した汎ヨーロッパ主義の一環であった。その後、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、リトアニア第一共和国となった。その後、リトアニアはポーランドとドイツとの領土問題を抱えることとなった。また、ドイツとはクライペダ地方をめぐる領土問題を抱えた。第一次世界大戦後、クライペダ地方は国際管理地域とされたが、1923年にリトアニア軍が侵攻して占領した。リトアニア共和国は、カウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていた。しかし、1926年の軍事クーデタによりアンタナス・スメトナを大統領とする権威主義体制に移行した。1939年8月にナチスドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、その秘密議定書でバルト三国と東欧の分割支配を約した。9月に、ドイツに続いてソ連がポーランド東部に侵攻し、ヴィリニュス地域がリトアニアに返還された。しかし、1940年6月にソ連から侵攻されてリトアニアは独立を失った。1941年にドイツ軍はソ連への侵攻を開始し、リトアニアは独ソ戦末期までドイツ軍の占領下に置かれた。1944年にソ連軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入された。世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を国際法的に否認していた。1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦った。1986年以降、ソ連のペレストロイカやグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され独立運動へと発展した。1990年3月の最高会議選挙で選ばれた初の非共産党員の議長が、独立回復を宣言した。これを受けて、ソ連政府は経済封鎖を実施した。1991年2月にアイスランドが、世界に先駆けてリトアニアの独立を承認した。8月にモスクワでのクーデターの企てが失敗に終わると、9月にソ連もリトアニアの独立を承認した。以後はリトアニアの独立は多くの国によって承認され、エストニア、ラトビアとともに国際連合に加盟した。1991年にソビエト連邦が崩壊し、1993年にロシア連邦軍はリトアニアから撤退した。その後のリトアニアは、欧米との結びつきを強め、1994年にNATOに加盟申請した。2004年に、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。通貨は2015年よりユーロを導入し、2018年に経済協力開発機構(OECD)に加盟した。著者は数十年リトアニアを見守り続けてきたが、関心は文化面に偏りがちで全体を把握できていると言えないという。そこでこの本を編集するにあたり、できるだけ多面的・総合的にこの国を紹介することを目指した。そこで、章ごとに最もふさわしいと思う方々に執筆をお願いし、リトアニアからも専門家に参加してもらった。結果として、日本とリトアニアの恩師や友入たちと知り合い集う、33名のリトアニアーフオーラムのような本となった。本書がリトアニアとの幸福な出会いとなり、さらなる旅のきっかけとなれば幸いであるという。
1 リトアニアのあらまし/2 言語/3 歴史/4 政治/5 近隣諸国との関係/6 経済・産業/7 教育・社会/8 文化・芸術/9 生活・習慣/10 日本との関係
36.12月21日
”柴田勝家 織田軍の「総司令官」”(2023年6月 中央公論新社刊 和田 裕弘著)は、織田家きっての重鎮であったが信長没後の争いで羽柴秀吉に出し抜かれた柴田勝家についてその実像に迫ろうとしている。
柴田勝家は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えた戦国武将である。斯波氏の諸流柴田土佐守の子として尾張愛知郡に生まれるとされるが、生年未詳である。出自は不明で、柴田勝義の子といわれるが確実な資料はない。生年も不詳で、1526年説や1527年説もあり明確ではない。1568年の上洛以来、各地で奉行職をこなし、伊勢の北畠攻め、北近江の浅井攻め、越前の朝倉攻めなどに従軍し活躍した。1570年に六角丞禎に攻められて近江の長光寺城に篭城中、城には戻らぬ覚悟で猛襲しついに敵を破った。1575年の越前再往後は越前国の支配を任され、以降、北陸道の総督として、越前国の支配を強化した。さらに、加賀国、能登国、越中国へ侵攻し、着実に成果を上げた。同年に信長が越前の一向一揆を滅ぼすと、越前の内49万石を与えられた。宣教師ルイス・フロイスから、日本で最も勇猛果敢な武将と評されたことで知られている。織田信長の筆頭家老で、戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨として知られている。織田家随一の重鎮として信長の信頼が厚く、北陸方面軍司令官に任じられた。北ノ庄、現在の福井市中心部に、壮大な天守閣を持つ城を築いた。一乗谷から商人や職人を寄せて足羽川に九十九橋を架橋し、城下町の形成に努めた。また、国中掟書を掲げて刀狩りを行うなどして、安定的な統治をおこなった。59歳まで独身であったが、60歳のときに織田信長の妹のお市の方の再婚相手に選ばれた。お市の方は1547年生まれで、浅井長政の妻の小谷の方であった。1573年に夫の長政が信長に攻め滅ぼされた後、茶々、初、江の3人の娘とともに尾張に帰っていた。だが本能寺の変により運命は暗転し、主君の弔い合戦で後れをとった。信長の死後、織田家後継を決める清須会議で秀吉の専行を許した。そして、1583年に賤ケ岳の戦に敗れ北ノ庄に敗走し、妻お市の方と共に城にて自害した。和田裕弘氏は、1962年奈良県に生まれの戦国史研究家である。織豊期研究会会員で、著書に、『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』などがある。織豊期研究会は1995年3月創立で東海地域に基盤を置き、会誌『織豊期研究』は第18号を数える。三重県津市栗真町屋町1577の、三重大学教育学部日本史研究室内に事務局がある。柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、大名として織田氏の宿老であった。もともと信長の父信秀に仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。1551年に信秀が死去してから、信長の弟信勝の家老として歴史に登場した。信長の家老の林秀貞兄弟と共謀して、信勝を織田家当主にしようと画策した。しかし、信長との1556年の稲生原の戦いに敗れて降伏した。その後、信勝が再度の謀叛を企てた時、信長に密告して信勝が誘殺されることになった。これを機に信長に転仕し、信長の家督継承のころには織田家の重鎮であった。のちに越前国の支配を任され、主君の織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。歴史好きの人で柴田勝家という戦国武将を知らない人は、まずいないだろう。知名度は抜群であるが、勝家にはどうしても秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまとう。1566年の墨俣一夜城の築城に失敗し、その功を秀吉に奪われた。1582年の本能寺の変後の対処では秀吉の後手に回って、清須会議で秀吉の独断を許した。最後は1583年の賤ケ岳の戦いで、猿冠者と蔑んだ秀吉に敗北して自害して果てた。織田信長在世時から、勝家と秀吉は仲が悪かったという。猪突猛進型の猛将が、抜け目のない秀吉にまんまとしてやられたという風情である。しかし、秀吉が名乗った「羽柴」という名字は、織田家重臣の丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴組み合わせたものと推測される。もし勝家と仲が悪ければ、勝家の名字から一字を拝借することはないだろう。勝家に対する研究も、信長の家臣に対する研究の進展とともに深まっている。北陸車の総大将として上杉氏を滅亡寸前まで追い詰め、北陸道の総督として伊達氏などとの外交にも手腕を発揮した。また、本能寺の変後の勝家は、中国人返しを成功させた秀吉を上回るスピードで光秀討伐に向かったという。ただし、地の利か悪く秀吉に後れをとったため、実現はしなかったことが明らかになっている。織田一門として、野心に燃える秀吉を掣肘するため、信長三男の信孝、織田家重鎮の滝川一益らと結び、反秀吉の行動を起こした。最終的には秀吉と全面対決し、賤丿岳の戦いで敗れ、本城である北庄城に戻って壮絶な最期をとげた。その後、秀吉は勝家を斃した勢いをもって、天下統一を成し遂げた。秀吉にとって最大の敵は、明智光秀や徳川家康などではなく、織田家の総司令官と評された勝家だったであろう。秀吉は勝家が最大の敵であると自覚し、賤ケ岳の戦いを天下分け目の戦いと認識していた。勝家との戦いが、秀吉の天下を決したのである。徳川四天王ならぬ織田四天王という言葉があるらしいが、当時の史料には登場しない。検索すると、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人を指す場合が多いという。この中に、羽柴秀吉も佐久間信盛も入っていないのである。秀吉はのちに天下人となったので別格扱いか、佐久問信盛は追放されたことで除外されたのか。しかし、信長の家臣の中で吏僚系などを除いた武臣としては、佐久間信盛と柴田勝家が最有力家臣である。信盛追放後は、筆頭家老ではないが、勝家が晩年の信長の家臣の中ではナンバー1であろう。秀吉や光秀とも格が下だったが、本能寺の変後の秀吉の武功によって立場は逆転した。勝家は信長亡き後も織田家に忠実な家臣であり、野心は感じられない。守勢の勝家が、強烈な野心を持つ秀吉に勝利することは困難だったであろう。それでも勝家は織田家を守ろうとした、いわゆる忠臣だった。これが勝家の限界だったという見方もできようかという。
第1章 尾張時代/第2章 近江時代/第3章 越前時代/第4章 本能寺の変と清須会議/第5章 賎ヶ岳の戦い/終章 勝家王国の崩壊
37.令和7年1月4日
”西郷従道ー維新革命を追求した最強の「弟」”(2024年8月 中央公論新社刊 小川原 正道著)は、幕末期に兄隆盛のもとで尊攘派志士として活躍したが西南戦争で反乱軍指導者の兄に背を向け国家建設を優先した弟従道の生涯を紹介している。
西郷従道=さいごうつぐみちは、1843年薩摩国鹿児島城下生まれの明治の軍人、政治家、元老である。薩摩藩の下級藩士であった西郷吉兵衛の第六子三男として、鹿児島城下の加治屋町に生まれた。母親は同藩士椎原権右衛門の娘マサで、西郷隆盛は従道の長兄である。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主の島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号した。兄隆盛の影響のもとで、若くから国事に奔走した。兄・隆盛を大西郷と呼び、弟・従道を小西郷と呼ぶことがあるが、父親を幼くして亡くした従道にとって15歳以上離れた隆盛は父代わりの存在だった。幕末期に兄や大久保利通のもとで尊王攘夷の志士として活動し、戊辰戦争では大怪我を負いながら活躍した。その後、薩摩藩を代表する若手官僚・政治家として、新政府に登用された。隆盛は従道の出世を後押しし、従道と妻・清子の縁談の仲立など私生活をサポートした。しかし、隆盛の苫悩と破滅への道と反比例するように、成功と栄達を遂げていった。西南戦争で没して以降は賊軍の将として、むしろ従道には重荷となった。従道はそれを背負いながら、自らの意志と才を頼りに主に軍事畑でキャリアを積んだ。小川原正道氏は1976年長野県東御市生まれ、1999年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業した。2003年に同大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程を修了し、博士(法学)となった。専攻は日本政治思想史である。武蔵野短期大学国際教養学科専任講師・助教授、武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部助教授・准教授などを務めた。2008年より慶應義塾大学法学部准教授、2013年より慶應義塾大学法学部教授となった。イリノイ大学ロースクール、ハーバード大学ライシャワー日本研究所、マサチューセッツ工科大学歴史学科などで客員研究員を歴任した。従道は斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じた。1858年に島津斉彬が没すると、藩内では革新派の謹王党と守旧派の佐幕派は対立した。革新派は、幕府による朝廷の軽視と藩主の忠義による斉彬の遺志の無視に憤慨した。そして、隆盛ら薩摩藩士によって大老の井伊直弼などの襲撃が計画された。従道は薩摩藩士による大老井伊直弼襲撃計画に加わり、急進的な尊王攘夷運動を行った。1862年には寺田屋事件に連坐して、藩庁より謹慎を命ぜられた。まもなく赦され、薩英戦争・禁門の変にも薩軍の一員として参加した。1868年には鳥羽・伏見の戦にも従軍し、重傷を負った。1868年に明治維新により明治政府が成立すると、従道は新政府に出仕した。1869年には山県有朋とともに、兵制研究のため渡欧した、帰国後、兵部権大丞陸軍少将、兵部少輔、陸軍少輔、同大輔に昇進した。1874年には陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ、台湾へ出兵した。1876年には征台の功により、最初の勲一等に叙せられた。1878年には参議兼文部卿、次いで陸軍卿に就任した。1781年には農商務卿、1884年には伯爵、1885年には内閣制の成立を機に海軍大臣となった。海軍の基礎確立のために、樺山資紀、山本権兵衛、安保清康らを抜擢した。1890年には山県内閣の内務大臣、1892年には枢密顧問官を歴任した。1893年には伊藤博文内閣の海相に復帰し、海軍の整備拡充に尽力した。1894年には最初の海軍大将となり、1895年には侯爵となった。1898年には元帥府に列せられ、山県内閣の内務大臣となり、1902年には大勲位菊花大綬章に叙せられた。従道は兄隆盛ゆずりの包容力に富んだ性格の持ち主で、実務には疎かったといわれる。細事に拘泥しない茫洋たる人柄により、終始政府の要柱として広い徳望を集めたという。1902年に胃癌のため享年60歳で死去し、多磨墓地に埋葬された。明治期に限れば、地元・鹿児島に足を引っ張ら続けた隆盛に比して、東京で勇躍する従道の姿は対照的であった。 従道は華やかなキャリアを歩んだが、その道程には何時も偉人な兄の影があった。隆盛は薩摩藩と明治政府との間で板挟みの苦悩を味わったが、従道は隆盛と明治政府の問で葛藤した。1873年にその葛藤が表面化し、隆盛は征韓論をめぐる政変に敗れ政府を去った。これに同調した鹿児島出身の多くの近衛将兵、官吏などが、職を辞することになった。陸軍大輔だった従道は天皇の命で辞職を思い止めるよう説得したが、願いは届かなかった。従道自身、身の処し方にはかなり迷ったに違いないが、明治政府側に身を置いた。そして、1877年2月に、鹿児島に帰郷していた隆盛が鹿児島県士族を率いて決起して西南戦争が始まった。従道は、自分も政府を去っては天皇に対する忠誠を欠く恐れがあると痛感して踏みとどまったという。政府に残ることは、隆盛も了解済みであったそうである。従道は、陸軍省を預かる陸軍卿代理として、主に政府軍の編成、兵姑、情報収集活動に従事した。兄の反乱という未曽有の事態に対し、冷静に状況を見通し忠実に幟務にあたった。隆盛が先導した維新大業の基礎を固め国家の発展に貢献し、天皇への忠誠を尽くす。従道は葛藤の末に兄と微妙な距離を保ちつつ、自らの進路を定めていったという。本書ではまず、従道の幼少期からの成長過程を兄・隆盛との関係を中心に描写している。続いて、明治期以降の従道のキャリア形成と国家建設への関与の内実や過程について、分析を試みている。
まえがき/第1章 幼少期から陸軍官僚への道程/第2章 西南戦争と兄・隆盛の死/第3章 日本海軍建設と日清戦争/第4章 政治家としての軌跡ー宰相待望論と兄の「罪」/第5章 晩年と私生活/終章 「道」に従って/あとがき/参考文献/西郷従道略年譜
38.1月18日
”アルジャイ石窟 モンゴル帝国期 草原の道の仏教寺院”(2024年10月 筑摩書房刊 楊 海英著)は、内モンゴル草原の石窟寺院であるアルジャイ石窟にかかわる歴史と文化についてモンゴルとチベット仏教の関係から説き起こしている。
アルジャイ=阿爾寨石窟は中国内モンゴル自治区オルドス市オトク旗にある石窟で、草原の敦煌とも言われる。石窟はもともと修行の為に選ばれた閑静な場所に造られ、辺鄙なところに開かれている。大同の雲岡石窟、洛陽の龍門石窟、敦煌石窟など、すべて都市や村落から離れた場所にある。また、河や泉があって観像する佛像を彫刻できることも条件である。アルジャイ石窟は北方の草原地域では最大級の規模の石窟群で、石窟65カ所、浮彫石塔22基などが存在する。地域には、石窟建築、摩崖造像、石刻造像、壁画、彫像、彫刻を一体とした仏教芸術が残されている。このうちの壁画には、遊牧民族の移動式住居であるゲルや、騎射、狩猟、葬儀の風習などが描かれている。アルジャイ石窟は、モンゴル史と北アジア史の鍵を握る遺跡と言える。本書はかかわる歴史を詳細に手繰って、出土したウイグル・モンゴル文書群について解説している。楊 海英氏は1964年南モンゴルこと内モンゴル自治区オルドス生まれ、北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語学科を卒業した。当時は、内モンゴル自治区から北京大学の入学が認められない年であった。1989年に来日して別府大学の研究生となり、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学の研究を続けた。総合研究大学院大学博士課程修了後、中京女子大学人文学部助教授となり、1999年に静岡大学人文学部助教授となった。2000年に日本へ帰化し、2006年に静岡大学人文学部教授となった。2011年に著書”墓標なき草原”で、司馬遼太郎賞を受賞した。帰化後の日本名は大野旭で、楊海英は中国名のペンネームである。中国政府が公刊した文化大革命に関する第一次史料を収集し、風響社からシリーズ14巻を公開している。仏教はインド発祥で、チベット高原に伝わった後に独自の発展を遂げた。チペット語に翻訳された仏典は、多くのサンスクリットをそのまま残している。モンゴルは13世紀にチベット高原に進軍し、元朝が成立すると両者は正式に帰依処の関係を結んだ。チベット仏教の高僧たちは、モンゴルの政治力と軍事力を借りて中央ユーラシアの草原部に布教した。モンゴル人は遊牧民の戦士だったが、経典と学問をこよなく愛する民族に変身した。仏教が誕生した直後ないしそれ以前から、インドでは石窟内での宗教的修行が重視された。その後、ガンダーラ、カシミール高原、バーミヤン渓谷、天山山中など、沿路に多数の仏教の石窟寺院が栄えた。石窟は、東西文明が行き交った際の宗教的拠点だと理解されてきた。従来、ユーラシア大陸の東西だけを、開化した文明圏として謳歌してきた。中国、インド、ヨーロッパのみが文明の地で、草原は文化のない空白地帯で遊牧民は野蛮人だとされた。しかし多くの世界史研究家が示すように、草原文明に対する評価は変わりつつある。ただし、チベット仏教は草原の道に存在する石窟造営と信仰の実践、学問の研讃についての研究は未開拓の領域である。本書は、そうした学問上の誤謬を訂正しようという狙いがあるという。アルジャイ石窟の造営は、遅くとも5世紀頃の北魏時代に始まる。また西夏王朝期にも大いに繁栄し、西夏がモンゴルに帰順してからも栄華は維持された。北魏を建立した鮮卑拓践は、モンゴル系の言葉を操る遊牧民あった。大同雲尚石窟や洛陽の石窟も、北魏王朝の遺産である。チベット教は、モンゴルではラマ教と呼ばれる。仏教が伝わってから、遊牧民の草原に多数の寺院が建った。どの寺院にも学識と階層に基づいて組織された僧侶団体があって、広大な土地と多数の領民を管轄した。19世紀末には、モンゴル高原全体におよそ1900の寺院があった。そのうち、モンゴル高原南部の内モンゴルに1200、現在のモンゴル国には700あった。モンゴル草原に伝わった仏教は、院のほとんどが学問寺で石窟寺院での実践が盛んであった。学問寺で訓練されたモンゴル人ラマにより、モンゴル語とチベット語の仏教文献が多い。仏教を含む世界宗教は早い時代に東アジアに伝来したが、中国では例外なく弾圧を受けた。弾圧を受けた宗教はすべて中国を離れ、北のモンゴル高原の遊牧民社会に活路を見つけた。遊牧民は、宗教に寛容だからである。東部ユーラシア世界には豊富な宗教遺跡が残っており、本書の舞台のアルジヤイ石窟もその一例である。アルジャイと呼ばれる地域は、スゥメト・アルジャイ、イケ・アルジャイ、バガ・アルジャイの三つである、このうち、スゥメト・アルジャイが一番南、イケ・アルジャイはその北約2km、バガ・アルジャイはその東約1kmにある。現在アルジャイ石窟というときは、だいたいスゥメト・アルジャイにある石窟群を指すとされている。しかし、実際にはバガ・アルジャイにも石窟と佛塔が存在する。また、イケ・アルジャイはまだ完全に確認できていないが、近現代以前の遊牧民の残した遺跡が若干存在している。著者は今後の研究を考えて、アルジャイ石窟という場合は三つのアルジャイをすべて含めるべきと考えている。スゥメト・アルジャイは、高さ約40m、東西約300m、南北約50mの砂岩の山である。石窟は山の四方に分布し、確認されている石窟は66に達している。特に南側の岩壁に石窟が最も集中し、上・中・下三層からなっている。東と北側には石窟が少なく、まったく窟を開造していない空間もある。比較的保存状態が良い窟は43あるが、残りは沙に埋もれたり倒壊した状態にある。石窟群には、中心柱式のものもあれば平面方形や長方形のものもある。窟内部は直壁平頂で、天井も平らな形式をとっている。壁には佛龕や須弥座、天井には網状の方格か蓮花状の藻井が開削されている。岩壁には合計26の塔が彫ってあり、ひとつは密檐式塔で他はすべて覆鉢式の塔である。約6mもの高さの塔もあれば、わずか10cmの小さい塔もある。スゥメト・アルジャイのスゥメ=寺の跡は山頂にあり、合計6つの建物の跡がある。その後、20世紀においてモンゴルの仏教寺院は、例外なく社会主義によって破壊された。本書は中央アジアのシルクロード草原の道に位置する、チベット仏教の石窟寺院の興亡に焦点を当てている。遊牧民の石窟文化を記録し、その宗教哲学の世界を伝えるのが目的であるという。
プロローグ モンゴル草原の仏教信仰/第1章 モンゴルとチベット仏教との関係/第2章 北魏とチンギス・ハーンの石窟/第3章 伝説と記憶のアルジャイ石窟寺院/第4章 流転の石窟寺院/第5章 大元王朝のウイグル文字モンゴル語題辞/第6章 草原の僧侶が聴く英雄叙事詩/第7章 シルクロード草原の道に栄えた石窟寺院/エピローグ 廃墟となった菩提寺
39.令和7年2月1日
”アルベール・カミュ 生きることへの愛 ”(2024年9月 岩波書店刊 三野 博司著)は、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家・劇作家・哲学者・随筆家・記者・評論家であったカミュについてアルジェリアでの出生から不慮の死までを紹介している。
アルベール・カミュは、1913年にフランス領アルジェリアのモンドヴィ、現、ドレアン近郊で生まれた。19世紀初めに祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきて、父親は農場労働者であった。生まれた翌年に父がマルヌ会戦で戦死し、以後、母と2人の息子はアルジェ市内の母の実家に身を寄せた。この家には、祖母のほかに叔父が一人同居していた。聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかった。カミュはこの家で育ち、貧しいものの自然に恵まれた幼少期を過ごした。カミュの著作は、不条理という概念によって特徴付けられている。不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことである。不条理な運命を目をそむけず、見つめ続ける態度が反抗と呼ばれる。人間性を脅かすものに対する反抗の態度が、人々の間で連帯を生むとされる。病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力と闘った。一貫して、キリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否した。何よりも時代の妥協しない証言者で、あらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めた。そして、父としての神もその代理人としての歴史も拒否した。三野博司氏は1949年京都生まれで、1974年に京都大学文学部仏文科を卒業した。1976年に、大阪市立大学大学院修士課程を修了した。1978年に同文学部助手となり、1983年に講師となった。1985年に、フランスのクレルモン=フェラン大学博士課程を修了し、文学博士となった。1986年に大阪市立大学文学部助教授、1991年に奈良女子大学文学部助教授、1996年に同教授となった。2010年に同文学部長となり、2015年に定年退任し同名誉教授となった。1982年の日本カミュ研究会設立以来代表を務め、2007年に国際カミュ学会副会長となった。カミュは1918年に公立小学校に入学したが、貧しいサンテス家では高等学校へ進学する希望はなかった。庇護者を失った子どもは、アルジェの貧民街で少年時代を過ごした。そして、17歳のときには、当時まだ治療薬のなかった結核を発症して死を覚悟した。しかし、教諭のルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜き、家族に進学を説得した。これにより、カミュは1924年にアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学した。この時代にリセの教員ジャン・グルニエと出会い、文学への志望を固めていった。その後、1930年より結核の徴候が現れて喀血し、病院退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。そして1932年にバカロレアに合格し、アルジェ大学文学部に入学した。在学中の1934年に、眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚した。これをきっかけに結婚反対の叔父と疎遠になり、アルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚することになった。1935年に、グルニエの勧めもあって共産党に入党した。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けた。第二次大戦が始まると、レジスタンスに参加してナチズムと闘い、反抗と連帯の価値を見出した。しかし、戦後は対独協力者の粛正をめぐり殺人と正義の問題に直面した。第二次世界大戦中に刊行された小説”異邦人”やエッセイ”シーシュポスの神話”などで不条理の哲学を打ち出した。戦後は、レジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。戦後に発表した小説”ペスト”は、ベストセラーとなった。東西冷戦の時代には、歴史を絶対視する思想と左翼全体主義を批判した。エッセイ”反抗的人間”において、左翼全体主義を批判した。1957年に、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。受賞時に行った講演で、芸術の偉大さは、美と苦しみ、人間への愛と創造の狂熱、拒否と同意、こういったものの絶えざる緊張関係にあると述べた。カミュを読むということは、この緊張関係に身を置くということである。カミュはノーベル賞記念講演の出版の際に、ルイ=ジェルマン先生へとの献辞を添えた。1960年に交通事故により急死し、未完に残された小説”最初の人間”が1994年に刊行された。東日本大震災とそれに続く未曽有の大惨事は、日本人がカミュの”ベスト”を再発見する機会ともなった。この小説は、単に第二次大戦のレジスタンスを疫病との闘いに読み替えるだけでなかった。それはより広く深く、人類を襲う不条理な暴力との闘いの物語であった。それから9年後、この小説は世界中で再読されることになった。しかも、コロナウィルスと同じ速さで世界中を駆けめぐった。この小説を再読することが、今日の状況を理解するために有効であった。適切な対策を講じることができない政府のあわてふためきから、医療者の勇気ある献身的行動まですでに小説のなかに描かれていた。まさに、現実のほうがフィクションを模倣しているように思われた。この小説が時代を超え読み継がれているのは、ペストをあらゆる不条理の象徴として意図的に描かれたからである。時代ごとに、ふさわしい読み方ができるのである。カミュはこれまで、それぞれの時代が抱える課題のなかで読み継がれてきた。カミュは生前も死後も一貫して、一般読者から見放されることが一度もなかった作家である。1989年のベルリンの壁の崩壊は、左翼全体主義を批判したカミュの立場の正しさを立証した。90年代から続いたアルジェリアのテロは、テロリズムについてカミュの考察を再発見する機会をもたらした。今日フランスにおいては、あらゆる場所でカミュが引き合いに出されている。カミュは、時代の趨勢に流されない明晰な目をもっていた。超越的な価値に依存することなくこの世界に生きることを愛し、人間の次元に立って不条理に反抗した。成功の確信や救済の約束がないとしても、人間が自分の職務を果たすのを受け入れることがメッセージであった。世界の美しさと人間の苦しみと、その双方に忠実であろうとしながら生きる意味を探求し続けた。時をこえて私たち自身の生をも映し出し、その現代性はいまも失われていない。ここでは、個々の作品論や主題別の論孜を執筆するのではなく、カミュの全体像をどのように提示したいという。
第1章 アルジェリアの青春ー「節度なく愛する権利」(貧民街の少年/習作から最初の出版へ/地中海の霊感)/第2章 不条理の時代ー「世界の優しい無関心」(『異邦人』-戦時下パリ文壇への登場/パリの劇作家)/第3章 反抗の時代ー「われ反抗す、ゆえにわれらあり」(レジスタンスから解放へ/『ペスト』-長い労苦の果ての成功作/反抗と正義の戯曲/冷戦時代の論争)/第4章 再生へ向けてー「孤独と読むか、連帯と読むか」(失意の時代とアルジェリア戦争/『転落』-周囲を驚かせた傑作/ノーベル文学賞)/第5章 愛の時代ー「私の夢見る作品」(不慮の死と遺作/『最初の人間』-未完の自伝的小説)
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