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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1.令和7年8月2日

 ”ピーター・ドラッカー”(2024年12月 岩波書店刊 井坂 康志著)は、20世紀から21世紀にかけて経済界にもっとも影響力のあった経営思想家であるピーター・ドラッカーについてアウトサイダーとしての実像を紹介している。

 ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、1909年ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人である。経営学者として、現代経営学あるいはマネジメント の発明者として知られている。マネジメントとは、目標達成を見据えた組織の経営資源の活用やリスク管理を指している。分権化、目標管理、民営化、ベンチマーキング、コア・コンピタンスなど、マネジメントの主な概念と手法を生み発展させた。未来学者とかフューチャリストと呼ばれたりしたが、自分では社会生態学者であるとした。社会の生態に関して、東西冷戦の終結や知識社会の到来をいち早く知らせた。産業社会と企業、そして働く自由な人間に未来への可能性を見出した。井坂康志氏は、1972年埼玉県加須市生まれ、國學院大學栃木高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業した。続いて、東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専攻博士課程を単位取得して退学した。2020年3月に、専修大学より商学博士を授与された。東洋経済新報社を経て、現在、ものつくり大学教養教育センター技能工芸学部情報メカトロニクス学科教授を務めている。上田惇生氏とともに、ドラッカー学会を創立し、NPO法人ドッカー学会の共同代表である。2005年5月に、ピーター・ドラッカーに外国人編集者として最後となるインタビューを行った。ピーター・ドラッカーは2005年に亡くなったが、今なお注目されつづけている。しかし、ビジネスや経営の世界では誰もが知っているのに、人物像はいまだに謎が多い。産業界や学界が取り上げてきたのは、ほぼマネジメントのドラッカーだったからである。しかし一歩踏み込むと、経営論は表の顔に過ぎず裏側は哲学、文学、芸術、全体主義批判の支えがある。それは、一つの問いの体系と言ってよい構成をとっていた。実人生と問いの体系は、精密にリンクしていた。そして、長年培われた知的土壌が発言を支えていた。父親はウィーン大学教授で、家庭はドイツ系ユダヤ人の裕福な家族だった。父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。1917年に、両親の紹介で心理学者ジークムント・フロイトに会ったという。ドラッカーは、第一次世界大戦を人生で最初の断絶だと見ていた。その体験のあるなしで、世界の解釈は違ったものになる。ドラッカーは早熟の天才ではなく、1916年に地元の公立小学校に入学した。悪筆と不器用で、自信もなく学校に適応できなかったという。1919年に、私立のシュヴァルツヴァルト小学校に転校した。この小学校から、ドラッカーにとって運命的な影響を受けた。ドラッカーの、生涯にわたる知的活動を決定づけた。1918年にハプスブルク帝国は崩壊し、共和制が導入された。ドラッカーは1919年に小学校を卒業し、デブリンガー・ギムナジウムに入学した。しかし、ここでの8年間は退屈な時間だったため、外に目を向けるようになった。1920年代のウィーン体験は、後の全体主義批判につながるものだった。当時のギムナジウムは、卒業試験に合格すれば大学への進学資格が得られた。しかし、ドラッカーにはインテリ嫌いの傾向が芽生えていた。1927年にギムナジウムを卒業して、ハンブルクで機械製品の貿易会社の見習いになった。勤務のかたわら、ウィーン脱出の口実だったハンブルク大学法学部に在籍した。講義には一度も出席せず、代わりにハンブルク市立図書館分室に通った。ここで、思想書や社会科学書を手当たり次第に読んだ。それが、本物の大学教育だったと振り返っている。ここで、フェルデナンド・テニエスとセーレン・キルケゴールに出会った。以来、専業学生にならず労働現場で学ぶ人生を死ぬまで続けた。1929年に、ドイツのフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー紙の記者になった。1931年に、フランクフルト大学にて法学博士号を取得した。この頃、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスから、度々インタビューが許可された。1929年に大恐慌が起こって、会社が倒産して失業した。直前は空前の好景気であったが、ドラッカーの甘い予測は粉砕された。以後、ドラッカーはありのままの現実の観察を心がけるようになった。1929年から1933年まで、フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーという日刊新聞の記者生活を送った。記者生活のかたわら、フランクフルト大学で研究も行った。昼は記者として、夕方以降は大学での講義という日々だった。1933年に、発表した論文がナチ党の怒りを買うと確信し、退職して急遽ウィーンに戻った。イギリスのロンドンに移り、友人の紹介でフリードバーグ商会に職を得た。ドラッカーはエコノミストとして、主にアメリカ株の取引き業務に携わった。生きて働く知性から、実践知が学知に匹敵することとなった。この頃、独力で大学の職を得る試みをしたが、叶わなかった。1936年には、ケンブリッジ大学でジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受けた。1937年に、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚し、アメリカ合衆国に移住した。当時、移民家族の生活は不安定で、なかなか職を得ることができなかった。文筆で生計を立てようとして、地元の新聞社をいくつか訪ねた。紹介状なしで『ポスト』を訪ねて、発行人のユージン・マイヤーと面談して記事の前金を入手した。ほかにも、いくつかの新聞社で記事掲載の約束を取り付けた。1939年に、処女作『経済人の終わり』を上梓した。この一作をもって、ドラッカーは論壇の寵児となった。1940年に、サラローレンス・カレッジから非常勤講師のオファーがあった。1942年に、ヴァーモント州ベニントン・カレッジの専任教授となり、1945年まで務めた。1942年に、『産業人の未来』を上梓した。1943年に亡命生活を終え、アメリカ合衆国国籍を取得した。1946年に、『企業とは何か』を上梓した。1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学、現在のスターン経営大学院の教授を務めた。1950年に、『新しい社会』を、1954年に『現代の経営』を上梓した。1959年に初来日し、以降も度々来日した。そして、日本古美術のコレクションを始めた。1966年に「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ、勲三等瑞宝章を受勲した。1969年に、『断絶の時代』を上梓した。1971年に、晩年の創造のため、西海岸に移住した。カリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務めた。1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年に初めての小説『最後の四重奏』を上梓した。2002年に、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与された。そして、2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため95歳で死去した。ドラッカーの生涯は、大きく前半と後半に分けて見ることができる。前半は、マネジメントの探求に至る少年から壮年期にかけての時期である。後半では、期待をかけた産業社会の行き詰まりから一転してコミュニテイ人間社会へ舞い戻る。19世紀は合理主義が進むとともに、生きた人間社会が否定される過程だった。20世紀は、そのつけを支払うための100年間であった。このような認識には、ビジネスの視点だけからは迫ることができない。ドラッカーの紡いだタペストリーの、鮮やかな横糸のみではなく、縦糸に着目することが必要である。ドラッカーの20世紀の苦闘と苦悩を抜きにして、その業績の全貌をとらえることは不可能であるという。

第1章 破局 一九〇九ー一九二八/第2章 抵抗 一九二九ー一九四八/第3章 覚醒 一九四九ー一九六八/第4章 転回 一九六九ー一九八八/第5章 回帰 一九八九ー二〇〇五/終章 転生 二〇〇六ー

2.8月16日

 ”武田家三代 戦国大名の日常生活”(2025年3月 吉川弘文館刊 笹本 正治著)は、戦国大名が乱世をいかに生きていたのかについて甲斐武田家三代の日常生活にも目を向け戦争に明け暮れたというイメージを再考している。

 武田家三代とは、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の三代を指している。信虎は1494年に誕生し、1507年に武田家を継いで甲斐国主となった。1519年につつじが崎に新館を造営して、家臣や商人職人の集住を図って城下町甲府を開創した。有力土豪が割拠していた甲斐を統一し、さらに積極的に隣国の信濃に侵攻して家勢を拡大した。しかし、1541年に信玄によって追放されて、駿河に退隠となった。信玄は、1521年に信虎の嫡男として積翠寺で誕生し晴信と称した。1536年に三条公頼の娘と結婚し、1541年に家督を継ぎ甲斐国主となった。隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、越後の長尾景虎と衝突した。今川氏衰退後、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち、同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。1553年に始まった第1回川中島の戦いで有名であるが、政治家としても優れた手腕を発揮した。釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした。そして、商人職人集団を編成して甲府への居住を進め、城下町を大きく拡大した。交通網の整備も行ったことから、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達した。1572年に、西上の軍を起こして三方ヶ原で徳川勢を撃破した。途中、室町幕府将軍の足利義昭の要請に応じて、上洛戦に転じた。しかし1573年に、病気のため信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じた。勝頼の代に美濃に進出して領土を拡大したが、次第に家中を掌握しきれなくなった。1575年の長篠の戦いに敗北すると、信玄時代からの重臣を失って一挙に衰退した。1582年には、織田信長に攻め込まれて、後を継いだ信勝ともども滅亡した。笹本正治氏は1951年山梨県中巨摩郡敷島町生まれ、生家は林業を営む農家であった。1974年に信州大学人文学部を卒業し、長野県阿南高等学校教諭となった。1975年に名古屋大学大学院文学研究科へ入学し、1977年に博士課程前期課程を修了した。同年同大学助手となり、1984年に信州大学助教授、1994年に教授となった。1997年に名古屋大学文学博士となり、2009年に信州大学副学長、2016年に長野県立歴史館長となった。多くの人は戦国大名と聞くと、代表として北条早雲、武田信玄、上杉謙信などの名前を思い起こす。それぞれのイメージを描く際には、戦国大名という名称から戦争が想起される。川中島の合戦、桶狭間の合戦、厳島の合戦などである。戦国時代ということから、戦いに明け暮れて戦いは日常的であったと考えるであろう。戦国大名を取り上げたテレビ、映画、小説で、クライマックスになるのは戦争の場面である。戦争を趣味や生活の糧にして、常に戦場に身を置いていた人はどれだけいたのだろうか。人間は本来的に、戦うために生まれてきた動物ではない。自分たちの利益を守ったり、新たな利益を獲得するために戦争をするのである。けっして戦争、それ自体を目的として活動するわけではない。戦国大名も同様に、戦争することが人生のすべてだったわけではない。人が生まれるためには男女の関係があり、子が育つには家庭が重要である。成長した人間もまた、子孫を作っていくのが人類の連環である。戦国大名にも家庭があり、人間として一般人と変わらぬ日常生活があったはずである。本書で取り上げたいのは、そうした戦争の場以外の戦国大名の日常生活であるという。この三代の間に武田家の領国は拡大し、支配のあり方も変化している。しかし、武田家は1582年に滅亡したので、武田家に伝わった文書が残っていない。今から400年以上も前に滅亡したことから、利用できる材料はわずかである。まして、日常生活を伝える史料は少ないのである。特に、信虎の史料は数が少ないだけでなく、検討を要するものが多い。戦国大名として一括すると、三代の変化が見えなくなってしまうのである。そこで本書では、戦国大名の武田家といっても、信玄、勝頼の日常生活を多く取り上げている。著者は、三人の当主による差異に着目し、三代の間における変化を追うことにするという。第一章では、三人の当主がいかなる過程を経て家を継いだかを確認している。家督相続には、戦国大名が乗り越えるべきさまざまなハードルや社会状況が見えるという。第二章では、戦国大名がいかにして戦争で勝利していったかを確認している。戦いに勝つことが戦国大名の使命だが、戦争より背後の意識や政策に着目したいという。第三章では、戦国大名の統治者としての側面に光を当てている。戦国大名はどうして人気があるのか、当時の領民の立場から述べるという。第四章では、戦国大名と家族の関係を見つめている。戦国大名にとって、家族とはいったいどのような意味を持つのかを明らかにしたいという。第五章では、戦国大名がどのような毎日を送っていたか、日々の暮らしについてまとめている。戦国大名の一生、教養や日常の信仰などについても触れるという。第六章では、武田家の滅亡について記している。勝頼は凡庸な戦国大名ではなかったのに、なぜ武田家が滅亡したか明らかにしたいという。そして、戦国大名についての神話が後世の人々によっていかに作られるかも考えている。多くの人は、戦国大名は自分の力を頼りに意のままに生きた存在と考えているようである。しかし、戦国大名の典型の武田家当主でさえ、思うがまま自分勝手に行動できたわけではない。社会と時代の制約の上で、必死になって生きていたのである。神仏を絶対的とする中世的考えから、神仏も統治の手段とする近世的考えへの転換点にあった。しかし覇者は一人のみで、多くはその下に座するか、戦って死ぬしか道がなかった。勝頼の
場合は、後者の典型的な例であったという。

はじめに/第一章 日の出ー家督相続と家臣/第二章 戦うー時代を生き抜く/第3章 治めるー公としての統治/第四章 家族ー心の絆/第五章 日々の暮らしー日常の決まり/第六章 落日ーそれでも滅亡した武田家/あとがき/補論 武田信玄と川中島合戦


3.8月30日

 ”蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王”(2024年10月 新 潮社刊 増田 晶文著)は、貸本屋から身を起こし日本橋通油町の版元となり北斎、歌麿、写楽ら浮世絵師の才能も見出した蔦屋重三郎の生涯を紹介している。

 蔦屋重三郎は、1750年に江戸の新吉原で生まれた。本姓は喜多川、本名は柯理=からまるといった。通称は蔦重、重三郎、号は蔦屋、耕書堂、薜羅館などである。当初は、遊郭を案内するただの細見屋であった。20代で吉原大門前に耕書堂という書店を開業した。1774年に北尾重政の『一目千本』を刊行してから、日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担った。細見を刊行し、書店を作り、新人作家や浮世絵師を発掘し、洒落本や版画を出版した。版元として、多数の作家や浮世絵師の作品刊行に携わった。大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などである。また、エレキテルを復元した平賀源内をはじめ、多くの文化人と交流を深めた。そして、最終的に版元として一流の実績と富を築いた。増田晶文氏は1960年大阪府布施市、現、東大阪市生まれ、1973年に大阪市内の私立中高一貫校に通った。1979年に、同志社大学法学部法律学科に入学した。1983年に卒業して、大阪ミナミのアメリカ村にあった編集プロダクションに入社した。1984年に、会社が広告企画の業務にシフトするため東京へ進出した。1994年3月に会社員生活に終止符を打ち、文筆の世界へ入った。しばらくはスポーツを中心に、実業家、作家、文化人とインタビューをして、雑誌に原稿を書いた。1998年に、短編『果てなき渇望』で「文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞」を受賞した。2000年に、長編『果てなき渇望』を草思社から単行本で刊行した。同年に、『フィリピデスの懊悩』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した。蔦屋重三郎は寛延3(1750)年の正月七日に生まれ、父は尾張出身の丸山重助、母が江戸出身の広瀬津与であった。両親は譚つまり名乗り名柯理と名付け、通り名は重三郎と言った。重三郎は、狂歌をこしらえる時に蔦唐丸(蔦が絡まるに掛けている)というペンネームを用いていた。数えで8つだった宝暦7(1757)年に、父母が離婚した。そのため親戚に預けられることになり、養父の姓は喜多川と言った。吉原で蔦屋の商号を掲げていたが、親の生業や兄弟姉妹があったかなどは不明である。曲亭馬琴は、重三郎の養父を叔父だと書き残した。馬琴は戯作者として大成する前の一時期、重三郎のもとで働いていたことがあったという。叔父は、吉原にあってかなり羽振りがよかったそうである。重三郎は、親戚に身を寄せたことで経済的な貧窮とは縁遠かったと思われる。安永2(1773)年23歳の時、新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店した。お店は、吉原で引手茶屋を営む重三郎の義兄の、蔦屋次郎兵衛の軒先だったと言われる。引手茶屋は、客と妓楼や遊女を取り持つ役割であった。客はまず茶屋にあがって、豪奢な宴席を楽しみ、好みの遊女を指名する。遊女が花魁であれば、妓楼から茶屋まで迎えにきてくれた。ただし、吉原には茶屋経由など必要のない店もたくさんあったという。当時の本屋は、多色摺りの浮世絵と、見開きに挿画を配した草双紙が主力であった。一方、貸本屋は店舗としての本屋に負けない影響力を誇っていた。長屋だけでなく武家屋敷にまで、風呂敷や葛龍を背負った貸本屋が入り込んでいた。貸本屋には、身ひとつの商いだけでなく、たくさんの要員を抱える大手もあった。江戸の本は、店頭販売だけでなく貸本することによって評判を高めた。この年の秋に、重三郎は『這蝉観玉盤』を版木で印刷して発行した。これが、重三郎が出版にかかわった最初である。安永3(1774)年に、吉原細見の改めの『細見鳴呼御江戸』編纂に携わった。吉原細見は、遊郭の最新情報を満載した案内書であった。版元は鱗形屋孫兵衛といい、経営する鶴鱗堂は100年以上続く老舗であった。年2回出されて、妓楼、茶屋、船宿の場所や、遊女の名前、揚げ代などが書かれた。奥付には取次として、新吉原五十間左かわ蔦屋重三郎と明記された。内容については、最新、詳細、正確である必要があった。細見改には、廓内情報を収集する役割があった。そして、蔦屋の名で初めて大物絵師の北尾重政の評判記『一目千本』を刊行した。これはいわば遊女の名鑑であり、遊女を挿絵に擬して紹介したものである。掲載してもらう遊女は、上客にねだって費用を出してもらったりした。開板した本は、遊女が名刺代わりに配った。遊郭や引手茶屋も、この本を販売促進用に利用した。安永4(1775)年に洒落本の『青楼花色寄』を刊行し、吉原細見『籬の花』の刊行を始めた。この吉原細見では、中本という判型で旧来より一回り大きくした。一方、町内案内は見やすく軽便にして、鱗形屋より安く売れた。8年後には、重三郎が吉原細見を独占出版するようになった。最上級の遊女は浮世絵に描かれ、その衣装や装飾は江戸の流行の先端となった。吉原は、老若男女を問わず足を運びたい町であった。人々は細見を片手に吉原を訪れ、地方からの客は細見がお土産になった。そして、巻頭の序文には有名人を起用し、有名人との絆を世に広めた。巻末の刊行物案内では、重三郎が手掛けた本を宣伝した。安永5(1776)年には、北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した。この本は、当時の吉原の最高傑作とされている。版元には、重三郎だけでなく問屋の山崎金兵衛も名を連ねた。その後も、天明の時代から寛政の時代にかけて、一段と大きく飛躍していった。重三郎の狙いを満載した出版物は、江戸を席巻したのである。狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出した。美人画や役者絵の大首絵は、浮世絵の主流になった。浄瑠璃では、富本節の詞章を写した版本が人気を博した。喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は、重三郎の存在なしに考えられない。勝川春朗と名乗っていた若き日の葛飾北斎にも、眼をかけていた。また、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝も大いに関係がある。さらに、曲亭馬琴と十返舎一九は重三郎のもとで働き、初期作品を世に出してもらった。こうして築いた人材ネットワークが、江戸のメディア王に押し上げる源泉となったという。出版活動を通じて、化政文化の端緒を開き礎を築いたのである。そして、寛政8(1796)年秋に体調を崩し、翌年3月に脚気により47歳で死没した。本書は、蔦屋重三郎の発想、手法、業績を振り返っている。

第1章 貸本屋から「吉原細見」の独占出版へ/第2章 江戸っ子を熱狂させた「狂歌」ブーム/第3章 エンタメ本「黄表紙」で大ヒット連発/第4章 絶頂の「田沼時代」から受難の「寛政の改革」へ/第5章 歌麿の「美人画」で怒涛の反転攻勢/第6章 京伝と馬琴を橋渡し、北斎にも注目/第7章 最後の大勝負・写楽の「役者絵」プロジェクト/第8章 戯家の時代を駆け抜けて

4.令和7年9月13日

 ”志筑忠雄”(2025年1月 吉川弘文館刊 大島 明秀著)は、江戸後期に並外れたオランダ語力と数学的思考力で天文学書の和訳に専念した志筑忠雄の生涯を紹介している。

 志筑忠雄は、1760年に長崎の資産家であった中野家三代用助の子として生まれた。通称は忠次郎といい、名を盈長、忠雄といった。晩年には、飛卿、季飛と字を名乗り、柳圃と号した。志筑は「しづき」と読まれてきたが、現代の長崎では「しつき」と読む苗字もある。生家は旧県庁舎にほど近い、現在の長崎市万才町の一画である。中野家は、呉服商・三井越後屋の長崎での落札商人であった。三井家との関係は、代理で貿易品の取引をした有力な家であった。忠雄は幼時に長崎通詞の志筑家の養子となり、8代目を継いで1776年に稽古通詞となった。稽古通事は、長崎勤務の唐通事・オランダ通詞の職階で、見習いの通訳官である。1777年に、18歳のとき病身のため辞職して中野家に出戻った。その後、本木良永について天文学、オランダ語学の研究に専心した。主著の『暦象新書』をはじめ、多くのオランダ書の訳述や著述に従った。主著は、イギリス人ジョン・ケールの著書のオランダ語訳書を解訳したものである。このなかで地動説を述べ、地動説を肯定しながらも天動説を排除しない立場である。付録の混沌分判図説では、星雲に関して独創的見解が述べられている。ヨーロッパの自然科学説の紹介だけでなく、科学思想史的にも重要な意義をもつ。大島明秀氏は1975年大阪府生まれ、1999年に関西学院大学文学部日本語日本文学科を卒業した。2003年に、九州大学大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻修士課程を卒業した。2008年に、同大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻博士後期課程を修了した。2008年に熊本県立大学 文学部講師、2010年に准教授、2022年に教授となった。博士(比較社会文化)で、研究分野は蘭学・洋学史、日欧交流史、日本近世史である。志筑忠雄は、稽古通詞を遅くとも27歳までに辞め、その後は家にこもり蘭書の翻訳にふけったとされる。志筑には4人の兄がいて、一人は養子に出され薬種目利という貿易の仕事に就いていた。父用助は貿易関係情報入手のため、息子たちを能力に応じてそれぞれの職に就けたと思われる。通詞を辞めた志筑を養ったのは、オランダ語ができる人間を置いておく利点があった。志筑は当時としては、飛び抜けたオランダ語の能力や国際的な感性を持っていたという。23歳のとき、通詞は休職中だったが、キール蘭書訳出の唱矢である『天文管閥』(1782年)を訳出した。並行して、西洋のさまざまな事柄を記した雑記帳である、『万国管閥』を書き上げた。1792年には、第一回ロシア遣日使節ラクスマンが来日した。1796年頃から、ロシア南下情報や西洋人の日本観などに関わる新分野の翻訳に取り組み始めた。イギリス人ジョン・キールのニュートン力学解説書の蘭訳書を、『暦象新書』(1798年)で抄訳した。オランダ語で記された書籍を通して、日本で初めてニュートン物理学を紹介したのだった。これは公儀、社会に対する貢献を目的として、公務ではなく私事として行った。また、ネイピアの法則を案内するなど、自然科学分野で稀代の才能を示した。ネイピアの法則は、直角球面三角形の辺と角に関する法則である。その慧眼と能力は、国際関係分野においても発揮された。特筆すべきは、『鎖国論』(1801年)で鎖国という日本語を創出したことである。また、ケンペル『日本誌』蘭語版の中から、日本の対外関係を論じた附録第六編(1802年)を訳出した。当時、ロシア南下の情報に動揺する社会情勢があったため、ヨーロッパの日本観を呈示した。絶筆となった『二国会盟録』(1806年)では、ネルチンスク条約締結の状況を訳出した。条約は、清朝とピョートル1世との間で結ばれた、境界線などを定めた条約である。これは、約50年後の日露和親条約の交渉・締結の際に、勘定奉行と翻訳官が参考書とした。これらの学問を支えた忠雄のオランダ語力は、同時代の水準を超越していた。革命的な蘭文法書と蘭文和訳論は、西洋文法を踏まえてオランダ語を理解・説明していた。これらは、蘭学者をはじめ19世紀日本人のオランダ語読解力を飛躍的に向上させた。また、翻訳の際に使用した「引力」「重力」「弾力」「遠心力」「求心力」「真空」「分子」などは、後に自然科学分野の術語となった。「鎖国」「植民」などは国際関係あるいは政治にまつわる新しい言葉を創出した。このように、多岐にわたる仕事を成し遂げた、空前の才能と情熱の持ち主である。しかし病弱で、後半生は人との交わりを絶ち、実家に螢居して蘭書翻訳に専念した。このように、著作は多数あるが、意外に手紙や墓といった史料が残っていない。そのため、業績のわりに活動の実態が分かっていないという。忠雄の学問は、主に蘭書訳出を通してそれまでになかった新しい知識や視点、方法をもたらした。第一に、訳業を通して自身の言葉でオランダ語理解と蘭文和訳の要諦をまとめた。第二に、『暦象新書』を代表として、天文学、弾道学、数学の新しい知識をもたらした。第三に、『万国管?』などによる、地理誌、物産でも新しい知識をもたらした。第四に、『鎖国論』などによる、西洋に照準を合わせた国際情勢についての新しい所見をもたらした。これらは、それぞれの分野において、没後の近世後期社会にも一定の影響をもたらした。しかし、忠雄の社会的活動は短く、人生を跡付けられる一次史料がきわめて少ない。そのため、第二章以下の主要な史料は、目下25点確認されている生前の著述とならざるをえない。近世後期の長崎を舞台に、謎と魅力に満ちた一学者の生涯を見ていくことになる。仕事を手掛かりに、それぞれの時期における関心や活動を検討して見ていくという。

はしがき/第一 生い立ちと通詞の辞職/第二 学問への熱情と献身/第三 学問の変容と再仕官の夢/第四 『暦象新書』の完成とその後/第五 オランダ語読解の革命/第六 晩年と没後の影響/中野家略系図/志筑家当主略系図/略年譜/生前(文化三年七月八日以前)の分野別著作・署名一覧/参考文献

5.9月27日

 ”藤原広嗣”(2023年12月 吉川弘文館刊 北 啓太著)は、藤原式家宇合の嫡男に生まれ出世街道を歩んでいたが突如左遷され後に内乱の首謀者となって蜂起するも敗死した藤原広嗣の生涯を紹介している。

 藤原広嗣は生年不詳、奈良前期の政治家で式家宇合(うまかい)の第1子である。母は蘇我石川麻呂の女で、弟に綱手・良継・田麻呂・百川らがいる。宇合は藤原四子の一つで、藤原式家の開祖である。藤原四子は、中臣鎌足の息子である藤原不比等の子供である。四子はそれぞれ独自の家を起こして、当時隆盛を誇っていた。武智麻呂は藤原南家、房前は藤原北家、宇合は藤原式家、麻呂は藤原京家の開祖である。藤原家は、在位西暦724年~749年の第45代聖武天皇の時代に政治の中枢を担っていた。広嗣は宇合の長男として生まれ、順調にいけば出世を約束されている地位にあった。宇合は右大臣であった藤原不比等の三男で、官位は正三位・参議、勲等は勲二等である。731年に参議となり、畿内副惣管となった。翌年に西海道節度使として九州に赴き、西国警備のための警固式を作成した。ところが、735年に大宰府管内において天然痘が襲い掛かかった。藤原四兄弟も次々と天然痘を発症し、737年に相次いで病没した。聖武天皇は緊急事態を打開すべく、橘諸兄に事態の収拾を任せた。北 啓太氏は1953年北海道生まれ、1984年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学した。宮内庁書陵部編修課長、同庁正倉院事務所長、同庁京都事務所長を歴任し、2014年に定年退職した。藤原不比等政権の末期から、日本は新羅と安定した外交関係を築いた。それを前提に、軍事を縮小して経済的に資するようにした。続いて長屋王もこの軍縮路線を継承したが、藤原四兄弟に討たれてしまった。藤原四兄弟は唐を支援する新羅に軍事的圧力をかけ、軍事拡張路線に転じたのである。737年に藤原四兄弟が天然痘によって死去すると、代って政治を担ったのは橘諸兄であった。諸兄は聖武天皇の皇后である光明子の異父兄で、臣籍降下して橘朝臣姓を名乗っていた。諸兄は社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取った。また、唐から帰国した吉備真備と玄昉を重用するようになった。この二人は、当時としては最先端の知識と学問を携えて帰国していたのである。唐の最新文化を取り入れ国の威信を高めるために、当時の日本には適材適所であった。これに対して、藤原氏の勢力は大きく後退し、広嗣は738年に大養徳守から大宰少弐に任じられた。これは対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑があった。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いたとみられる。藤原氏の地位低下に対し、日常的に周囲に不満をもらしていたという。740年4月に新羅に派遣した遣新羅使が、追い返される形で8月下旬に帰国した。憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送った。同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。朝廷はこの言動を謀反とし、広嗣逮捕の勅を出した。しかし広嗣はこれに従わず、9月3日に九州の兵を集めて反乱の蜂起をした。藤原広嗣が反乱を起こしたとき、挙兵は大宰府管内諸国に及んだ。広嗣は、弟綱手に筑後・肥前などの軍兵5000人を率いて、豊後道より豊前国へ進ませた。一隊は田河道に配し、自らは鞍手道を遠珂郡家に進み、ここに軍営を営んだ。烽火をあげて軍兵を徴発し、隼人を含めて大隅・薩摩・筑前・豊後などの軍兵5000人余を擁した。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7000人を動員し、24人の隼人も従軍させた。朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、諸国に戦勝を祈願するよう命じられた。9月21日に東人は長門国へ到着し、渡海のために停泊中の新羅船の徴用の許可を求めた。9月22日には、勅使・佐伯常人、阿倍虫麻呂が板櫃鎭に陣を構え、一帯を制圧した。これに伴い、広嗣勢の豊前国の京都鎮・登美鎮・板櫃鎮の三営は政府軍に抑えられた。9月25日には、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた。10月初旬の板櫃川の対陣で、1万余の軍勢を擁しながら、広嗣勢は渡河を阻まれ隼人の降伏も続出した。中旬には船で敗走し、済州島付近に達したが、逆風で五島列島に吹き戻された。最後は9月23日に、宇久島で捕らえられ、11月1日に綱手とともに斬刑に処せられた。反乱に対する処分は280人以上に及び、弟良継・田麻呂らも配流された。そして、広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する南都鏡神社は、その勧請を受けたものである。藤原式家は一時衰退し、大宰府も742年から3年余り廃止されることになった。広嗣と言えば、一般的には、ほぽこの藤原広嗣の乱の一事のみで知られているのではないかという。本書でも、それ以外に付け加えられる内容は多くないという。乱関係を除くと、確かな史料が少ないからである。五位以上にならないと、特別なことがないと正史には記載されない。乱の時には五位になってわずか3年で、まだ20代だったと考えられる。広嗣については、確かな史料に基づく事跡というものはあまり求められない。そのため本書では、広嗣に関わる周囲の状況や歴史の流れをみていく。これにより、広嗣という人物を理解できるよう叙述を進める場合があるという。

はしがき/第1 家系、一族/第2 誕生、成長、出身/第3 五位貴族として/第4 藤原広嗣の乱の勃発/第5 乱の展開と終息/第6 乱後の世界/第7 伝承上の藤原広嗣/藤原広嗣関係系図/皇室略系図/略年譜

6.令和7年10月11日

 ”アラン 戦争と幸福の哲学”(2025年6月 筑摩書房刊 田中 祐理子著)は、20世紀前半にフランスの思想界に大きな影響を与え二度の世界大戦を生き抜いた合理的ヒューマニズム思想家アランの評伝である。

 アラン(Alain)はペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエという。フランス第二帝政時代のノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の、哲学者、評論家、モラリストである。ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエに由来する。1868年生まれで、リセ・ミシュレやエコール・ノルマル・シュペリウールに入学し、哲学を専攻した。リセ・ミシュレで、教師だった合理主義哲学のジュール・ラニョーの講義を受け、後々まで大きな影響を受けた。卒業後は、ポンティヴィやロリアン、ルーアンに位置するコルネイユ高等学校などのリセで教師を務めた。1909年から、アンリ4世高等学校に哲学を教える教師として務めた。過去の偉大な哲学者達の思想とアラン独自の思想を絡み合わせた哲学講義は、学生に絶大な支持を受けたという。レイモン・アロンやジョルジュ・カンギレム、シモーヌ・ヴェイユ、ジュリアン・グラックなどの作家・学者・思想家を輩出した。第一次世界大戦が始まると、46歳で自ら願い出て志願兵となり好んで危険な前線に従軍した。戦後は再びアンリ4世高等学校に戻り、1933年頃まで教師を務めた。教師を退職した後は、亡くなるまで執筆活動を続けた。1951年6月2日に、フランスのル・ヴェジネにて83歳で没した。田中祐理子氏は1973年埼玉県生まれ、2000年に東京大学 大学院総合文化研究科博士課程を単位取得退学した。2000年に日本学術振興会 特別研究員となり、2001年に京都大学人文科学研究所の助手となった。2009年に同研究所の助教となり、2018年に同大学白眉センターの特定准教授となった。2021年に神戸大学 大学院国際文化学研究科の準教授となり、2025年に教授となった。東京大学博士(学術)で、専門は哲学・科学史である。アランはフランス各地の高校で、哲学の1教師として生涯を貫いた。アランが生きたのは、世界が大きく転換していった時代であった。第一に、第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化した。第二に、帝国主義の延長線上に二度の大きな戦争があった。第三にロシア革命をはじめとする革命の機運が高まった時代であった。そして、第四に、1929年にアメリカのウォール街から広がった金融危機が世界大恐慌へと発展した。目まぐるしく変化する社会にあって、人々の不安が蔓延していた時期であった。19世紀末のフランスは、第二次産業革命の恩恵と、植民地からの収益によって繁栄していた。人々は富を享受したが、必ずしも平等に富が分配されたわけではない。新興ブルジョワジーが出てきたが、貧者は相変わらず厳しい労働にさらされていた。20世紀になると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した。アランは1874年、6歳のとき、カトリック系の規律の厳しい学校に入れられた。冒険譚に親しみ空想を好んだアランは、勉強には興味を示さなかったものの成績は良好であった。国立高等中学校でも優秀な生徒で、どの科目もよくできたそうである。教師からは高等理工科学校を勧められたが、受験には失敗した。そして、パリのミシュレ校に進学することになった。ここで17歳年上のジュール・ラニョーという教師に出会い、哲学に目覚めた。とくに、プラトンとスピノザについて学んだ。1892年に24歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になった。その後は、フランス各地の高校を転々とした。アランはラニョーのことを、自分が出会った唯一の偉人と称えた。1894年にラニョーが亡くなり、のちにその作品を『ジュール・ラニョーの遺稿』と題してまとめた。1894年のドレフュス事件では、ドレフュス擁護派の論客として活躍した。ドレフュス大尉が逮捕されたのは、冤罪のためであった。これによって、アランの名は世に知られることになった。1900年から、ロリアン新聞にアランというペンネームで寄稿するようになった。民衆大学という啓蒙活動に参加し、科学などを教えたり講演や論争したりした。1930年代には、反ファシスト知的監視委員会を組織した。相変わらず一高校教師であることを貫き、1909年にはパリの名門アンリ四世校に移った。引退するまで、この高校で教鞭を執った。1925年に57歳のときに、『幸福論』の初版がプロポの数60編で出版された。第1次世界大戦前後の執筆した文章から、幸福をテーマとしたものを集めて編纂した書である。プロポは断章と呼ばれ、短くて独立したコラム的な形式で書かれている。『幸福論』は加筆され、93編のプロポから成っている。難解で観念的な哲学書と異なり、平易な言葉で書かれた思索の本である。アランは1933年にアンリ四世校を退職したが、その後も執筆を続けた。新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及んでいる。アランは、二度の世界大戦を生きた哲学者であった。一度目の大戦では、徴兵対象の年齢を超えていながら志願兵となってフランス東部の前線に赴いた。深刻な怪我を負いながらも、3年間の軍役を果たして生還した。二度目の大戦では、老境のため戦場に立つことはなかったが、戦争に反対した。そして、ナチスドイツ支配下でヨーロッパ各地に生じた民族的憎悪と虐殺の事実に直面した。戦争とは石と同じように、無遠慮で執拗に人間たちに圧おしつけられている事実である。石は情け容赦なく存在する、石は私たちの同意を必要としない。厳然としてそこにある事実たる石を前に、純然たる理念の絶望的な弱さの直視から出発する。人々がこの理念の方に向けて、石から離れる一歩を踏み出すことを願い告げるという。アランは生涯独身を貫いていたが、1945年に77歳のときかつての恋人と再会して結婚した。そして、1951年に83歳で亡くなった。数々の教室や、より広く人々に哲学や科学を講じる民衆大学などで、終生、教師であり続けた。アランは、短く、一見とてもシンプルとも思える言葉で、自分の哲学を伝え続けた。一つの主題ごとに便箋2枚ほどの言葉で書かれるプロポは、手紙のように読者に話しかけた。しかし、語り続けた言葉は、甘くやさしいものばかりではなかった。正義や真理は最も強いものなどと、決して言ってはならないという。現実離れしている理念が、それ自体で最も強いものとしての力を持つことはあるわけない。美しい理念と私たち人間の関係は、決してそんなに都合のよいものではない。だからこそ私たちは、幸福であろうとしなければならない。いま現実としてないものだからこそ、それであろうとする。いつでも、すべての力を振り絞って私たちはそれを求めなければならない。「アラン?彼はいま?獄にいるし、おそらくはしばらくの間そうだろう。」

第一章 〈共和国〉の申し子―アランの生と哲学/第二章 なぜプロポで語るのか/第三章 第一次世界大戦と『マルス 裁かれた戦争』(1921年)/第四章 鏡でしかない知性の時代へ/第五章 第二次世界大戦との戦い/第六章 煉獄の思想―人間はどれほどのことができるのか

7.10月25日

 ”長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男”(2025年6月 共栄書房刊 岡村 青著)は、緻密な測量で正確無比な日本地図を作った伊能忠敬と実測でないものの半世紀程前に精巧な日本地図を完成させた長久保赤水の日本地図づくりに賭けた二人の男の二度咲き人生を紹介している。

 伊能忠敬は、江戸時代に全国を歩いて測量を行って正確無比な日本地図を作った。長久保赤水は、あらゆる手段を講じて資料や情報を集めて、伊能忠敬より半世紀早く精巧な日本地図を完成させた。赤水は1717年に赤浜の農家に生まれ、幼くして父母を失い継母の手で育てられた。14歳のころ、鈴木松江について学問や詩の手ほどきを受けた。その後、水戸の名越南渓に学び学問研究に励み、貧困者や病人などを救うために活躍した。52歳のとき、水戸藩から学問の功績によって郷士格に列せられた。後に、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川に勤めた。1779年に、『改正日本輿地路程全図』を刊行した。地図の正確さ、詳細さ、便利さが喜ばれ、近代的な日本地図の先駆けとなった。その後、大日本史編纂の地理誌の執筆にあたり、75歳まで完成に努力し、1801年に85歳で生涯を終えた。忠敬は1745年に現在の千葉県九十九里町で名主農家に生まれ、横芝光町で青年時代を過ごした。17歳で佐原村の伊能家に婿入りしたが、この頃は家運が傾き始めていたといわれる。忠敬は薪や炭などの新しい事業を始め、米の売買も関西方面にまで手を伸ばした。家業は再び盛んになり、佐原で家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍した。その後、49歳で家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出た。55歳の1800年から71歳まで、10回にわたって測量を行った。地図の作成作業は当初、1817年暮れ終了予定だったが、この計画は大幅に遅れてしまった。忠敬が地図投影法に不案内だったためで、早急に投影法を研究して資料作りを始めた。しかし秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになった。1818年に急に体が衰えて、74歳で生涯を終えた。死後完成した地図は、極めて精度が高く、明治以降において国内の基本図の一翼を担った。岡村 青氏は1949年茨城県生まれ、諸雑誌のフリー記者を経てノンフィクションライターとなった。『血盟団事件・井上日召の生涯』(三一書房)、『森田必勝・楯の会事件への軌跡』『毒殺で読む日本史』『絶倫で読む日本史』(以上現代書館)、『満州帝国崩壊8・15』『世界史の中の満州国』『マッカーサーの日本占領計画』(以上潮書房光人新社)等、多数の著書がある。長久保赤水は江戸時代中期の地理学者、儒学者である。常陸国多賀郡赤浜村、現、茨城県高萩市生まれで、俗名は源五兵衛といった。号の赤水と字の玄珠は、荘子の天地篇から取られている。農民出身であるが、遠祖の長久保親政は長久保城主となり長久保氏を称した。1731年14歳の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通った。17歳には江戸に遊学し、服部南郭に学んだ。25歳の頃、鈴木玄淳らとともに名越南渓に師事し、朱子学・漢詩・天文地理などの研鑽を積んだ。地図製作に必要な天文学については、水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けた。1768年に『改製日本分里図』が完成した。1775年に『新刻日本輿地路程全図』が完成した。1779年に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成した。1780年に大坂で出版され、赤水生存中に2版、没後3版、修正を重ね発行された。茨城県は価値の高い学術資料として、2017年に長久保赤水関係資料693点を有形文化財に定めた。2020年に長久保の地図や資料群107点は学術的価値が認められ、国の重要文化財に指定された。伊能忠敬は、江戸時代の商人、天文学者、地理学者、測量家である。上総国山辺郡小関村、現、千葉県山武郡九十九里町小関の名主の小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由、字は子斉、号は東河といった。父親は酒造家の次男で小関家に婿入りした。三治郎の他に、男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。1751年6才の時に母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。婿養子だった父は兄と姉を連れて実家の神保家に戻ったが、三治郎は祖父母の下に残った。当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具がある納屋の番人をしていたと伝えられている。10歳のとき、三治郎は神保家の下に引き取られた。神保家は父の兄が継いでいた。父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。三治郎は、常陸の寺で半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた。17歳くらいのとき、南中村の名主紹介で土浦の医者に医学を教わった記録があるという。佐原村の酒造家の伊能家は跡取りの婿が亡くなり、後継のミチが再び跡取りを探す必要があった。伊能家・神保家両方の親戚の平山家の仲介で、三治郎を伊能家の跡取りすることになった。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りした。その際、大学頭の林鳳谷から忠敬という名をもらった。1762年12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬と名乗った。当時の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄えていた。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。村民の中でも特に経済力があり大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていた。しかし、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していた。永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。伊能家としては、家の再興のため新当主の忠敬に期待するところが多かった。1763年に長女のイネ(稲)が生まれたが、ミチと前夫の間に生まれた男子は亡くなった。1766年には、長男の景敬が生まれた。忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就いた。1769年に佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、忠敬の力量が試される事件となった。佐原村は不作続きで農民も商人も困窮したため、倹約を心がけ豪華な山車飾り慎むことに決めた。にもかかわらず、永沢家よりの山車が引き回されるという事態が発生した。伊能家は永沢家と義絶すると宣言したところ、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。しかし、佐原で両家の義絶は村にとって良くないため、仲介により両家は和解した。この年、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。幕府では田沼意次が台頭し、利根川流域などに公認河岸問屋を設け運上金を徴収することとした。佐原村も河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。商人や船主は公認に乗り気でなく運上は免除願いたいと申し出たが、認められなかった。その後、紆余曲折あったが、伊能茂左衛門と忠敬の2人が河岸問屋を引き受けることになった。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った。この河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。1774年に、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。当初は永沢家が重用されたが、そのうちに忠敬の待遇も上がった。1781年に名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。名主としての忠敬は、1783年の天明の大飢饉に遭遇した。忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど貧民救済に取り組んだ。村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続け、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという。この年、忠敬は津田氏から名字帯刀を許されるようになった。1784年に名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。村方後見は、名主を監視する権限を持っていた。1787年に江戸で天明の打ちこわしが起きたが、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防げた。佐原が危機を脱してから、忠敬は保有の残りの米を江戸で売り払い多額の利益を得られた。妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。1786年に次男・秀蔵、1788年に三男・順次、1789年に三女・コト(琴)が生まれた。妻は1790年に26歳で死去し忠敬は仙台藩医の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた。この頃、地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。1793年に3か月にわたって上方への旅に出かけ、方位角、天体観測など測量を行っていた。1794年に忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由と改め江戸で暦学の勉強をする準備をした。1795年に、妻・ノブは難産が原因で亡くなった。忠敬は天体観測のための器具を購入し、自宅に天文台を作り観測を行った。観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量とも幕府の天文台に劣らなかった。忠敬は、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などを毎日観測した。星の観測も、悪天候の日を除いて毎日行った。1800年の2月頃に、幕府は、測量は認めるが荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし、船で移動したのでは道中に子午線の長さを測るための測量ができない。そこで陸路を希望したが、測量器具などの荷物の数は減らされた。4月14日に、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。忠敬は出発直前に、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。忠敬一行は1800年4月19日に、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人と下男2人を連れての測量となった。寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量した。そして、1818年5月17日に73歳で死去した。その後は弟子たちが遺志を受け継ぎ、『大日本沿海輿地全図』を完成させた。二人とも地理学者で地図の作成者、そして農民出身と共通点は多い。ただし、二人のあいだには28年の年齢差、時代差があった。著者があげる二人の汪目点は、大きく4つの理由があるという。一つ目は、二人にとって50代が人生において大きな転機、ターニングポイントになったということ。二つ目は、二人が生きた江戸時代中期の平均寿命は、男女とも大体51歳であったということ。三つ目は、二人とも農民出身であったということ。そして四つ目は、二人とも引退後に人生を謳歌したということである。名を成し功をとげた者の常として、地位に固執し守りに入るのが相場である。しかし二人はまったく逆で、人生に対してまっつぐ、いつも前傾姿勢であった。政治権力や損得勘定におもねず、打算や思惑などとは無縁であった。独自の着想で、ほとんど独力でおのれのやるべき事業を全うした。死ぬまで現役を押し通し、ずっと青春しながら人生を二倍、それ以上大いに楽しんだ。リタイア後といえども、余生などではない、現役、いやそれ以上のものである。人生二度咲きの秘訣は、リタイア後にある。二人が試したリタイア後の人生から、私たちは教訓として学び取ることができる。

第一章 夢は末広がりに/第二章 身分制度の呪縛をこじ開けた二人/第三章 助走から跳躍へ/第四章 人生を二倍楽しんだ二人の男/第五章 二人の天命/第六章 晩年に引きも切らない大仕事/第七章 生き方まっつぐ



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