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 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。

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1.令和7年8月2日用

 

 ”ピーター・ドラッカー”(2024年12月 岩波書店刊 井坂 康志著)は、20世紀から21世紀にかけて経済界にもっとも影響力のあった経営思想家であるピーター・ドラッカーについてアウトサイダーとしての実像を紹介している。

 

 ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、1909年ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人である。経営学者として、現代経営学あるいはマネジメント の発明者として知られている。マネジメントとは、目標達成を見据えた組織の経営資源の活用やリスク管理を指している。分権化、目標管理、民営化、ベンチマーキング、コア・コンピタンスなど、マネジメントの主な概念と手法を生み発展させた。未来学者とかフューチャリストと呼ばれたりしたが、自分では社会生態学者であるとした。社会の生態に関して、東西冷戦の終結や知識社会の到来をいち早く知らせた。産業社会と企業、そして働く自由な人間に未来への可能性を見出した。井坂康志氏は、1972年埼玉県加須市生まれ、國學院大學栃木高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業した。続いて、東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専攻博士課程を単位取得して退学した。20203月に、専修大学より商学博士を授与された。東洋経済新報社を経て、現在、ものつくり大学教養教育センター技能工芸学部情報メカトロニクス学科教授を務めている。上田惇生氏とともに、ドラッカー学会を創立し、NPO法人ドッカー学会の共同代表である。20055月に、ピーター・ドラッカーに外国人編集者として最後となるインタビューを行った。ピーター・ドラッカーは2005年に亡くなったが、今なお注目されつづけている。しかし、ビジネスや経営の世界では誰もが知っているのに、人物像はいまだに謎が多い。産業界や学界が取り上げてきたのは、ほぼマネジメントのドラッカーだったからである。しかし一歩踏み込むと、経営論は表の顔に過ぎず裏側は哲学、文学、芸術、全体主義批判の支えがある。それは、一つの問いの体系と言ってよい構成をとっていた。実人生と問いの体系は、精密にリンクしていた。そして、長年培われた知的土壌が発言を支えていた。父親はウィーン大学教授で、家庭はドイツ系ユダヤ人の裕福な家族だった。父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。1917年に、両親の紹介で心理学者ジークムント・フロイトに会ったという。ドラッカーは、第一次世界大戦を人生で最初の断絶だと見ていた。その体験のあるなしで、世界の解釈は違ったものになる。ドラッカーは早熟の天才ではなく、1916年に地元の公立小学校に入学した。悪筆と不器用で、自信もなく学校に適応できなかったという。1919年に、私立のシュヴァルツヴァルト小学校に転校した。この小学校から、ドラッカーにとって運命的な影響を受けた。ドラッカーの、生涯にわたる知的活動を決定づけた。1918年にハプスブルク帝国は崩壊し、共和制が導入された。ドラッカーは1919年に小学校を卒業し、デブリンガー・ギムナジウムに入学した。しかし、ここでの8年間は退屈な時間だったため、外に目を向けるようになった。1920年代のウィーン体験は、後の全体主義批判につながるものだった。当時のギムナジウムは、卒業試験に合格すれば大学への進学資格が得られた。しかし、ドラッカーにはインテリ嫌いの傾向が芽生えていた。1927年にギムナジウムを卒業して、ハンブルクで機械製品の貿易会社の見習いになった。勤務のかたわら、ウィーン脱出の口実だったハンブルク大学法学部に在籍した。講義には一度も出席せず、代わりにハンブルク市立図書館分室に通った。ここで、思想書や社会科学書を手当たり次第に読んだ。それが、本物の大学教育だったと振り返っている。ここで、フェルデナンド・テニエスとセーレン・キルケゴールに出会った。以来、専業学生にならず労働現場で学ぶ人生を死ぬまで続けた。1929年に、ドイツのフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー紙の記者になった。1931年に、フランクフルト大学にて法学博士号を取得した。この頃、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスから、度々インタビューが許可された。1929年に大恐慌が起こって、会社が倒産して失業した。直前は空前の好景気であったが、ドラッカーの甘い予測は粉砕された。以後、ドラッカーはありのままの現実の観察を心がけるようになった。1929年から1933年まで、フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーという日刊新聞の記者生活を送った。記者生活のかたわら、フランクフルト大学で研究も行った。昼は記者として、夕方以降は大学での講義という日々だった。1933年に、発表した論文がナチ党の怒りを買うと確信し、退職して急遽ウィーンに戻った。イギリスのロンドンに移り、友人の紹介でフリードバーグ商会に職を得た。ドラッカーはエコノミストとして、主にアメリカ株の取引き業務に携わった。生きて働く知性から、実践知が学知に匹敵することとなった。この頃、独力で大学の職を得る試みをしたが、叶わなかった。1936年には、ケンブリッジ大学でジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受けた。1937年に、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚し、アメリカ合衆国に移住した。当時、移民家族の生活は不安定で、なかなか職を得ることができなかった。文筆で生計を立てようとして、地元の新聞社をいくつか訪ねた。紹介状なしで『ポスト』を訪ねて、発行人のユージン・マイヤーと面談して記事の前金を入手した。ほかにも、いくつかの新聞社で記事掲載の約束を取り付けた。1939年に、処女作『経済人の終わり』を上梓した。この一作をもって、ドラッカーは論壇の寵児となった。1940年に、サラローレンス・カレッジから非常勤講師のオファーがあった。1942年に、ヴァーモント州ベニントン・カレッジの専任教授となり、1945年まで務めた。1942年に、『産業人の未来』を上梓した。1943年に亡命生活を終え、アメリカ合衆国国籍を取得した。1946年に、『企業とは何か』を上梓した。1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学、現在のスターン経営大学院の教授を務めた。1950年に、『新しい社会』を、1954年に『現代の経営』を上梓した。1959年に初来日し、以降も度々来日した。そして、日本古美術のコレクションを始めた。1966年に「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ、勲三等瑞宝章を受勲した。1969年に、『断絶の時代』を上梓した。1971年に、晩年の創造のため、西海岸に移住した。カリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務めた。1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年に初めての小説『最後の四重奏』を上梓した。2002年に、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与された。そして、2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため95歳で死去した。ドラッカーの生涯は、大きく前半と後半に分けて見ることができる。前半は、マネジメントの探求に至る少年から壮年期にかけての時期である。後半では、期待をかけた産業社会の行き詰まりから一転してコミュニテイ人間社会へ舞い戻る。19世紀は合理主義が進むとともに、生きた人間社会が否定される過程だった。20世紀は、そのつけを支払うための100年間であった。このような認識には、ビジネスの視点だけからは迫ることができない。ドラッカーの紡いだタペストリーの、鮮やかな横糸のみではなく、縦糸に着目することが必要である。ドラッカーの20世紀の苦闘と苦悩を抜きにして、その業績の全貌をとらえることは不可能であるという。

 

第1章 破局 一九〇九ー一九二八/第2章 抵抗 一九二九ー一九四八/第3章 覚醒 一九四九ー一九六八/第4章 転回 一九六九ー一九八八/第5章 回帰 一九八九ー二〇〇五/終章 転生 二〇〇六ー

 

2.8月16日

 

 ”武田家三代 戦国大名の日常生活”(2025年3月 吉川弘文館刊 笹本 正治著)は、戦国大名が乱世をいかに生きていたのかについて甲斐武田家三代の日常生活にも目を向け戦争に明け暮れたというイメージを再考している。

 

 武田家三代とは、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の三代を指している。信虎は1494年に誕生し、1507年に武田家を継いで甲斐国主となった。1519年につつじが崎に新館を造営して、家臣や商人職人の集住を図って城下町甲府を開創した。有力土豪が割拠していた甲斐を統一し、さらに積極的に隣国の信濃に侵攻して家勢を拡大した。しかし、1541年に信玄によって追放されて、駿河に退隠となった。信玄は、1521年に信虎の嫡男として積翠寺で誕生し晴信と称した。1536年に三条公頼の娘と結婚し、1541年に家督を継ぎ甲斐国主となった。隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、越後の長尾景虎と衝突した。今川氏衰退後、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち、同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。1553年に始まった第1回川中島の戦いで有名であるが、政治家としても優れた手腕を発揮した。釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした。そして、商人職人集団を編成して甲府への居住を進め、城下町を大きく拡大した。交通網の整備も行ったことから、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達した。1572年に、西上の軍を起こして三方ヶ原で徳川勢を撃破した。途中、室町幕府将軍の足利義昭の要請に応じて、上洛戦に転じた。しかし1573年に、病気のため信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じた。勝頼の代に美濃に進出して領土を拡大したが、次第に家中を掌握しきれなくなった。1575年の長篠の戦いに敗北すると、信玄時代からの重臣を失って一挙に衰退した。1582年には、織田信長に攻め込まれて、後を継いだ信勝ともども滅亡した。笹本正治氏は1951年山梨県中巨摩郡敷島町生まれ、生家は林業を営む農家であった。1974年に信州大学人文学部を卒業し、長野県阿南高等学校教諭となった。1975年に名古屋大学大学院文学研究科へ入学し、1977年に博士課程前期課程を修了した。同年同大学助手となり、1984年に信州大学助教授、1994年に教授となった。1997年に名古屋大学文学博士となり、2009年に信州大学副学長、2016年に長野県立歴史館長となった。多くの人は戦国大名と聞くと、代表として北条早雲、武田信玄、上杉謙信などの名前を思い起こす。それぞれのイメージを描く際には、戦国大名という名称から戦争が想起される。川中島の合戦、桶狭間の合戦、厳島の合戦などである。戦国時代ということから、戦いに明け暮れて戦いは日常的であったと考えるであろう。戦国大名を取り上げたテレビ、映画、小説で、クライマックスになるのは戦争の場面である。戦争を趣味や生活の糧にして、常に戦場に身を置いていた人はどれだけいたのだろうか。人間は本来的に、戦うために生まれてきた動物ではない。自分たちの利益を守ったり、新たな利益を獲得するために戦争をするのである。けっして戦争、それ自体を目的として活動するわけではない。戦国大名も同様に、戦争することが人生のすべてだったわけではない。人が生まれるためには男女の関係があり、子が育つには家庭が重要である。成長した人間もまた、子孫を作っていくのが人類の連環である。戦国大名にも家庭があり、人間として一般人と変わらぬ日常生活があったはずである。本書で取り上げたいのは、そうした戦争の場以外の戦国大名の日常生活であるという。この三代の間に武田家の領国は拡大し、支配のあり方も変化している。しかし、武田家は1582年に滅亡したので、武田家に伝わった文書が残っていない。今から400年以上も前に滅亡したことから、利用できる材料はわずかである。まして、日常生活を伝える史料は少ないのである。特に、信虎の史料は数が少ないだけでなく、検討を要するものが多い。戦国大名として一括すると、三代の変化が見えなくなってしまうのである。そこで本書では、戦国大名の武田家といっても、信玄、勝頼の日常生活を多く取り上げている。著者は、三人の当主による差異に着目し、三代の間における変化を追うことにするという。第一章では、三人の当主がいかなる過程を経て家を継いだかを確認している。家督相続には、戦国大名が乗り越えるべきさまざまなハードルや社会状況が見えるという。第二章では、戦国大名がいかにして戦争で勝利していったかを確認している。戦いに勝つことが戦国大名の使命だが、戦争より背後の意識や政策に着目したいという。第三章では、戦国大名の統治者としての側面に光を当てている。戦国大名はどうして人気があるのか、当時の領民の立場から述べるという。第四章では、戦国大名と家族の関係を見つめている。戦国大名にとって、家族とはいったいどのような意味を持つのかを明らかにしたいという。第五章では、戦国大名がどのような毎日を送っていたか、日々の暮らしについてまとめている。戦国大名の一生、教養や日常の信仰などについても触れるという。第六章では、武田家の滅亡について記している。勝頼は凡庸な戦国大名ではなかったのに、なぜ武田家が滅亡したか明らかにしたいという。そして、戦国大名についての神話が後世の人々によっていかに作られるかも考えている。多くの人は、戦国大名は自分の力を頼りに意のままに生きた存在と考えているようである。しかし、戦国大名の典型の武田家当主でさえ、思うがまま自分勝手に行動できたわけではない。社会と時代の制約の上で、必死になって生きていたのである。神仏を絶対的とする中世的考えから、神仏も統治の手段とする近世的考えへの転換点にあった。しかし覇者は一人のみで、多くはその下に座するか、戦って死ぬしか道がなかった。勝頼の場合は、後者の典型的な例であったという。

はじめに/第一章 日の出ー家督相続と家臣/第二章 戦うー時代を生き抜く/第3章 治めるー公としての統治/第四章 家族ー心の絆/第五章 日々の暮らしー日常の決まり/第六章 落日ーそれでも滅亡した武田家/あとがき/補論 武田信玄と川中島合戦

3.8月30日

 

 ”蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王(2024年10月 新 潮社刊 増田 晶文著)は、貸本屋から身を起こし日本橋通油町の版元となり北斎、歌麿、写楽ら浮世絵師の才能も見出した蔦屋重三郎の生涯を紹介している。

 

 蔦屋重三郎は、1750年に江戸の新吉原で生まれた。本姓は喜多川、本名は柯理=からまるといった。通称は蔦重、重三郎、号は蔦屋、耕書堂、薜羅館などである。当初は、遊郭を案内するただの細見屋であった。20代で吉原大門前に耕書堂という書店を開業した。1774年に北尾重政の『一目千本』を刊行してから、日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担った。細見を刊行し、書店を作り、新人作家や浮世絵師を発掘し、洒落本や版画を出版した。版元として、多数の作家や浮世絵師の作品刊行に携わった。大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などである。また、エレキテルを復元した平賀源内をはじめ、多くの文化人と交流を深めた。そして、最終的に版元として一流の実績と富を築いた。増田晶文氏は1960年大阪府布施市、現、東大阪市生まれ、1973年に大阪市内の私立中高一貫校に通った。1979年に、同志社大学法学部法律学科に入学した。1983年に卒業して、大阪ミナミのアメリカ村にあった編集プロダクションに入社した。1984年に、会社が広告企画の業務にシフトするため東京へ進出した。19943月に会社員生活に終止符を打ち、文筆の世界へ入った。しばらくはスポーツを中心に、実業家、作家、文化人とインタビューをして、雑誌に原稿を書いた。1998年に、短編『果てなき渇望』で「文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞」を受賞した。2000年に、長編『果てなき渇望』を草思社から単行本で刊行した。同年に、『フィリピデスの懊悩』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した。蔦屋重三郎は寛延31750)年の正月七日に生まれ、父は尾張出身の丸山重助、母が江戸出身の広瀬津与であった。両親は譚つまり名乗り名柯理と名付け、通り名は重三郎と言った。重三郎は、狂歌をこしらえる時に蔦唐丸(蔦が絡まるに掛けている)というペンネームを用いていた。数えで8つだった宝暦71757)年に、父母が離婚した。そのため親戚に預けられることになり、養父の姓は喜多川と言った。吉原で蔦屋の商号を掲げていたが、親の生業や兄弟姉妹があったかなどは不明である。曲亭馬琴は、重三郎の養父を叔父だと書き残した。馬琴は戯作者として大成する前の一時期、重三郎のもとで働いていたことがあったという。叔父は、吉原にあってかなり羽振りがよかったそうである。重三郎は、親戚に身を寄せたことで経済的な貧窮とは縁遠かったと思われる。安永21773)年23歳の時、新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店した。お店は、吉原で引手茶屋を営む重三郎の義兄の、蔦屋次郎兵衛の軒先だったと言われる。引手茶屋は、客と妓楼や遊女を取り持つ役割であった。客はまず茶屋にあがって、豪奢な宴席を楽しみ、好みの遊女を指名する。遊女が花魁であれば、妓楼から茶屋まで迎えにきてくれた。ただし、吉原には茶屋経由など必要のない店もたくさんあったという。当時の本屋は、多色摺りの浮世絵と、見開きに挿画を配した草双紙が主力であった。一方、貸本屋は店舗としての本屋に負けない影響力を誇っていた。長屋だけでなく武家屋敷にまで、風呂敷や葛龍を背負った貸本屋が入り込んでいた。貸本屋には、身ひとつの商いだけでなく、たくさんの要員を抱える大手もあった。江戸の本は、店頭販売だけでなく貸本することによって評判を高めた。この年の秋に、重三郎は『這蝉観玉盤』を版木で印刷して発行した。これが、重三郎が出版にかかわった最初である。安永31774)年に、吉原細見の改めの『細見鳴呼御江戸』編纂に携わった。吉原細見は、遊郭の最新情報を満載した案内書であった。版元は鱗形屋孫兵衛といい、経営する鶴鱗堂は100年以上続く老舗であった。年2回出されて、妓楼、茶屋、船宿の場所や、遊女の名前、揚げ代などが書かれた。奥付には取次として、新吉原五十間左かわ蔦屋重三郎と明記された。内容については、最新、詳細、正確である必要があった。細見改には、廓内情報を収集する役割があった。そして、蔦屋の名で初めて大物絵師の北尾重政の評判記『一目千本』を刊行した。これはいわば遊女の名鑑であり、遊女を挿絵に擬して紹介したものである。掲載してもらう遊女は、上客にねだって費用を出してもらったりした。開板した本は、遊女が名刺代わりに配った。遊郭や引手茶屋も、この本を販売促進用に利用した。安永41775)年に洒落本の『青楼花色寄』を刊行し、吉原細見『籬の花』の刊行を始めた。この吉原細見では、中本という判型で旧来より一回り大きくした。一方、町内案内は見やすく軽便にして、鱗形屋より安く売れた。8年後には、重三郎が吉原細見を独占出版するようになった。最上級の遊女は浮世絵に描かれ、その衣装や装飾は江戸の流行の先端となった。吉原は、老若男女を問わず足を運びたい町であった。人々は細見を片手に吉原を訪れ、地方からの客は細見がお土産になった。そして、巻頭の序文には有名人を起用し、有名人との絆を世に広めた。巻末の刊行物案内では、重三郎が手掛けた本を宣伝した。安永51776)年には、北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した。この本は、当時の吉原の最高傑作とされている。版元には、重三郎だけでなく問屋の山崎金兵衛も名を連ねた。その後も、天明の時代から寛政の時代にかけて、一段と大きく飛躍していった。重三郎の狙いを満載した出版物は、江戸を席巻したのである。狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出した。美人画や役者絵の大首絵は、浮世絵の主流になった。浄瑠璃では、富本節の詞章を写した版本が人気を博した。喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は、重三郎の存在なしに考えられない。勝川春朗と名乗っていた若き日の葛飾北斎にも、眼をかけていた。また、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝も大いに関係がある。さらに、曲亭馬琴と十返舎一九は重三郎のもとで働き、初期作品を世に出してもらった。こうして築いた人材ネットワークが、江戸のメディア王に押し上げる源泉となったという。出版活動を通じて、化政文化の端緒を開き礎を築いたのである。そして、寛政81796)年秋に体調を崩し、翌年3月に脚気により47歳で死没した。本書は、蔦屋重三郎の発想、手法、業績を振り返っている。

 

第1章 貸本屋から「吉原細見」の独占出版へ/第2章 江戸っ子を熱狂させた「狂歌」ブーム/第3章 エンタメ本「黄表紙」で大ヒット連発/第4章 絶頂の「田沼時代」から受難の「寛政の改革」へ/第5章 歌麿の「美人画」で怒涛の反転攻勢/第6章 京伝と馬琴を橋渡し、北斎にも注目/第7章 最後の大勝負・写楽の「役者絵」プロジェクト/第8章 戯家の時代を駆け抜けて

 

4.令和7年9月13日

 

 ”志筑忠雄”(2025年1月 吉川弘文館刊 大島 明秀著)は、江戸後期に並外れたオランダ語力と数学的思考力で天文学書の和訳に専念した志筑忠雄の生涯を紹介している。

 

 志筑忠雄は、1760年に長崎の資産家であった中野家三代用助の子として生まれた。通称は忠次郎といい、名を盈長、忠雄といった。晩年には、飛卿、季飛と字を名乗り、柳圃と号した。志筑は「しづき」と読まれてきたが、現代の長崎では「しつき」と読む苗字もある。生家は旧県庁舎にほど近い、現在の長崎市万才町の一画である。中野家は、呉服商・三井越後屋の長崎での落札商人であった。三井家との関係は、代理で貿易品の取引をした有力な家であった。忠雄は幼時に長崎通詞の志筑家の養子となり、8代目を継いで1776年に稽古通詞となった。稽古通事は、長崎勤務の唐通事・オランダ通詞の職階で、見習いの通訳官である。1777年に、18歳のとき病身のため辞職して中野家に出戻った。その後、本木良永について天文学、オランダ語学の研究に専心した。主著の『暦象新書』をはじめ、多くのオランダ書の訳述や著述に従った。主著は、イギリス人ジョン・ケールの著書のオランダ語訳書を解訳したものである。このなかで地動説を述べ、地動説を肯定しながらも天動説を排除しない立場である。付録の混沌分判図説では、星雲に関して独創的見解が述べられている。ヨーロッパの自然科学説の紹介だけでなく、科学思想史的にも重要な意義をもつ。大島明秀氏は1975年大阪府生まれ、1999年に関西学院大学文学部日本語日本文学科を卒業した。2003年に、九州大学大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻修士課程を卒業した。2008年に、同大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻博士後期課程を修了した。2008年に熊本県立大学 文学部講師、2010年に准教授、2022年に教授となった。博士(比較社会文化)で、研究分野は蘭学・洋学史、日欧交流史、日本近世史である。志筑忠雄は、稽古通詞を遅くとも27歳までに辞め、その後は家にこもり蘭書の翻訳にふけったとされる。志筑には4人の兄がいて、一人は養子に出され薬種目利という貿易の仕事に就いていた。父用助は貿易関係情報入手のため、息子たちを能力に応じてそれぞれの職に就けたと思われる。通詞を辞めた志筑を養ったのは、オランダ語ができる人間を置いておく利点があった。志筑は当時としては、飛び抜けたオランダ語の能力や国際的な感性を持っていたという。23歳のとき、通詞は休職中だったが、キール蘭書訳出の唱矢である『天文管閥』(1782年)を訳出した。並行して、西洋のさまざまな事柄を記した雑記帳である、『万国管閥』を書き上げた。1792年には、第一回ロシア遣日使節ラクスマンが来日した。1796年頃から、ロシア南下情報や西洋人の日本観などに関わる新分野の翻訳に取り組み始めた。イギリス人ジョン・キールのニュートン力学解説書の蘭訳書を、『暦象新書』(1798年)で抄訳した。オランダ語で記された書籍を通して、日本で初めてニュートン物理学を紹介したのだった。これは公儀、社会に対する貢献を目的として、公務ではなく私事として行った。また、ネイピアの法則を案内するなど、自然科学分野で稀代の才能を示した。ネイピアの法則は、直角球面三角形の辺と角に関する法則である。その慧眼と能力は、国際関係分野においても発揮された。特筆すべきは、『鎖国論』(1801年)で鎖国という日本語を創出したことである。また、ケンペル『日本誌』蘭語版の中から、日本の対外関係を論じた附録第六編(1802年)を訳出した。当時、ロシア南下の情報に動揺する社会情勢があったため、ヨーロッパの日本観を呈示した。絶筆となった『二国会盟録』(1806年)では、ネルチンスク条約締結の状況を訳出した。条約は、清朝とピョートル1世との間で結ばれた、境界線などを定めた条約である。これは、約50年後の日露和親条約の交渉・締結の際に、勘定奉行と翻訳官が参考書とした。これらの学問を支えた忠雄のオランダ語力は、同時代の水準を超越していた。革命的な蘭文法書と蘭文和訳論は、西洋文法を踏まえてオランダ語を理解・説明していた。これらは、蘭学者をはじめ19世紀日本人のオランダ語読解力を飛躍的に向上させた。また、翻訳の際に使用した「引力」「重力」「弾力」「遠心力」「求心力」「真空」「分子」などは、後に自然科学分野の術語となった。「鎖国」「植民」などは国際関係あるいは政治にまつわる新しい言葉を創出した。このように、多岐にわたる仕事を成し遂げた、空前の才能と情熱の持ち主である。しかし病弱で、後半生は人との交わりを絶ち、実家に螢居して蘭書翻訳に専念した。このように、著作は多数あるが、意外に手紙や墓といった史料が残っていない。そのため、業績のわりに活動の実態が分かっていないという。忠雄の学問は、主に蘭書訳出を通してそれまでになかった新しい知識や視点、方法をもたらした。第一に、訳業を通して自身の言葉でオランダ語理解と蘭文和訳の要諦をまとめた。第二に、『暦象新書』を代表として、天文学、弾道学、数学の新しい知識をもたらした。第三に、『万国管闚』などによる、地理誌、物産でも新しい知識をもたらした。第四に、『鎖国論』などによる、西洋に照準を合わせた国際情勢についての新しい所見をもたらした。これらは、それぞれの分野において、没後の近世後期社会にも一定の影響をもたらした。しかし、忠雄の社会的活動は短く、人生を跡付けられる一次史料がきわめて少ない。そのため、第二章以下の主要な史料は、目下25点確認されている生前の著述とならざるをえない。近世後期の長崎を舞台に、謎と魅力に満ちた一学者の生涯を見ていくことになる。仕事を手掛かりに、それぞれの時期における関心や活動を検討して見ていくという。

 

はしがき/第一 生い立ちと通詞の辞職/第二 学問への熱情と献身/第三 学問の変容と再仕官の夢/第四 『暦象新書』の完成とその後/第五 オランダ語読解の革命/第六 晩年と没後の影響/中野家略系図/志筑家当主略系図/略年譜/生前(文化三年七月八日以前)の分野別著作・署名一覧/参考文献

 

 


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