徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1.平成17年7月30日
待望の夏休み。
日本経済の低迷は、バブルに踊らされて、時代の変化に適応できなかったことが最大の原因であろう。大多数の国民の忍耐のもとに、不良債権処理やリストラが実施され特需も起きて、ゆるやかな改善に向かっているようである。しかし長期的には、相変わらず国債の残高は増える一方で、少子化と高齢化が追い討ちをかける。デフレの克服と地域間格差もまだ道半ばで、他にも問題は山積である。今年こそ明るい年になってもらいたいが、どうであろうか。
2.平成17年8月6日
"テロ・マネー"(2004年9月 日本経済新聞社刊 Douglas Farah著/竹熊誠訳)は、アルカイダの資金ネットワークを追求している。
著者はワシントン・ポスト紙の敏腕記者であったが、西アフリカ支局長のとき身辺に危険が迫り現地を離れることになった。2004年からは国際戦略情報センターに勤務している。ビン・ラディンは9・11のはるか以前から、世界中にテロ活動のための資金ネットワークを築き上げてきた。このことをワシントンポスト紙に寄稿しているのもかかわらず、CIAにより黙殺されたことなど、いろいろな事実が記載されている。2度あることは3度ある。3度目の同時多発テロはエジプトで起きた。3度あることは4度あるだろう。宗教と民族の問題はなかなか解決できない、人間の根本に関わることであるからである。そして、アルカイダには活動資金が豊富にあるからである。オサマ・ビン・ラディンがなぜ補足できないか、不可思議なことである。アルカイダの資金はアングラマネーである。たとえば、州間で値段の異なるタバコを安値で仕入れて高く売る、廃棄されたクーポン券を再生して売る、偽ブランドの服、特にTシャツを製造し販売する、コカイン、メタフェタミンなどの麻薬を販売する、粉ミルクを万引きしてラベルを張り替えて売る、慈愛国際基金や聖地救済資金などを集めるなど、実際の事例が掲載されている。それぞれは小口であっても、全体となると数千万ドルという莫大な金額に達する。これらの資金を移動するとき、国内では現金でも可能だが、国際間ではハワラという地下金融組織を使ったり、金やダイヤモンド、タンザナイト、エメラルド、サファイヤなどの宝石という形で移動している。そして、マネーロンダリングした宝石と交換して、武器・弾薬を手に入れている。このため、シエラレオネからコンゴ、アンゴラという西アフリカで採掘されるダイヤモンドは、ブラッド・ダイヤモンドとも呼ばれている。一方、銀行間の資金の移動は、ドバイまで行くとその先は分からなくなるという。
3.8月13日
9.11総選挙
8月9日の郵政民営化法案の否決と衆議院の解散は、政治の世界の無常と無情を感じさせる。人間はさまざまである。色々な言動が行われる。何かをやろうとすると人間の多様性から、必ず反対者が現れる。今回、内部から反対者が出て民営化法案が参議院で否決され、衆議院の解散になった。提案を引っ込めない代わりに、反対した相手をたたきつぶす、ということになった。反対者について党は公認せず、その上、選挙区に刺客を送り込むという。必殺仕置人になれるのであろうか。しかも、選挙の日はあの9.11である。選挙結果が注目される。
4.8月17日
離合集散
政治の世界は一寸先は闇だという。弱肉強食の世界を実感させる。昨日の友は今日の敵になり、離合集散が行われる。自民党の反対派の内部が揺れている。郵政民営化法案を否決したときは得意そうであったが、その後の巻き返しで、臍を噛む結果となった。派閥の会長が職を辞することになった。これからどういう新しい動きがあるであろうか。戦国絵巻のような戦いになり、9.11選挙の結果が見ものになった。それにしても刺客といわれる人たちの多くは、何か腑に落ちない。すこし、おふざけの感じがするのはなぜか。
5.8月27日
”司馬さんは夢の中”(2004年10月 中央公論新社刊 福田 みどり著)は、奥様の手になる回想録で、産経新聞に月1回連載中。本書は、2002年9月〜2004年3月までのもの。奥様と司馬さんの交友関係を中心として、司馬さんのひととなりがよく分かるものになっている。
司馬遼太郎さんのファンは数多い。管理人もファンのひとりである。司馬遼太郎(本名、福田定一)さんは、1923年大阪生まれ。大阪外語学校蒙古語科を卒業後、産経新聞社に勤務。著者の福田みどりさんは、1929年大阪生まれ。大阪樟蔭女子専門学校を卒業後、産経新聞社に勤務。文化部に所属していて知り合い、1959年に結婚した。翌年、司馬遼太郎さんは『梟の城』で直木賞を受賞。以後、歴史小説を一新する話題作を続々と発表してきた。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞したのを始め、数々の賞を受賞。1993年には文化勲章を受章。司馬さんは、1971年開始の『街道をゆく』などの連載半ばにして、1996年に享年72歳で逝去された。奥様は現在、司馬遼太郎記念館館長。司馬作品は独特の司馬史観がとてもおもしろく、ついつい引き込まれて夜遅くまでほかのことはそっちのけで一気に読まされてしまうものが多い。卓越したストリーテラーであると同時に、深遠な歴史の解釈者でもある。司馬さんのひととなりを知りたいと思っていたが、司馬さんは親しい友人にもあまり私生活を見せなかったそうである。それはやはり、奥様でないと書けないものであった。産経新聞の元担当記者が思い出を書くように熱心に勧め、まだ心の痛手が癒えない中で執筆を続け、ようやく1冊の本になった。微笑ましい夫婦愛、友人たちとの交流、ユニークな日常生活などが綴られている。
6.平成17年9月3日
”最強のMBAバイブル”(2003年7月 PHP研究所刊 吉田 健司著)は、演習形式のテキストで、図解も多く分かりやすい。
MBAは、Master of Business Administration=経営学修士のことで、これまで多くは、ヨーロッパや、アメリカのビジネススクールで修士号を取得した。しかし、いまでは、一橋、慶応、国際、筑波、早稲田、青山、神戸、日本、法政、産能など、国内にもMBAコースがたくさん作られている。1881年に、米国のペンシルバニア大学ウォートン校で、学部のレベルのビジネススクールが設置されたのが最初のようである。その後1990年に、ダートマス大学とウィスコンシン大学で、大学院レベルのビジネススクールが設置された。そして、1907年にハーバード大学、1916年にコロンビア大学、1921年にペンシルバニア大学ウォートン校、ワシントン大学、1924年にミシガン大学、1925年にスタンフォード大学などに、続々と設置された。現在、世界で約1300のMBAプログラムがあり、米国でMBAを授与している大学は約700校ある。このうち、2年間のフルタイム・プログラムは300くらいあるようである。教授法には、ハーバード大学に代表されるケース・メソッド(case
method)と、シカゴ大学に代表される数量的アプローチ(quantitative
approach)がある。ケース・メソッドはゼネラリストに向いており、数量的アプローチは会計、財務、統計などの高度な知識や技能を習得するのに向いている。大部分のビジネススクールでは、この2つの方法を組み合わせた方法をとっている。授業は、講義形式のレクチャー方式と、学生参加型のディスカッション方式がある。ディスカッション方式の授業では、ディスカッションへの参加が重視される。入学は甘くなく卒業も難しい。学生はGPA(Grade
Point
Average)で評価され、教員にも授業評価がある。MBAを取得したり目指すのは、キャリアアップ、転職の武器、経営者教育、外国語の習得・異文化の吸収、人脈の形成などであるが、ここで取得できるのは”学歴”であって、専門知識や技能を保証する”資格”ではない。その後の実践や経験が大切で、経験は浅いのに謙虚さに乏しく弁は人並み以上という鼻持ちならないMBAホルダーではダメである。
7.9月8日
平家はなぜ滅亡したか
昨日のNHKテレビ"歴史:日本の謎"は興味深かった。平家が滅亡した最大の原因は、"平家物語"にある"おごれる者は久しからず"による、身から出た錆という通説と、権力闘争で窮地に陥った平清盛の窮鼠猫を噛むであったという説が紹介されていた。平家は、清盛の死後滅亡への道を辿ることとなった。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は海の藻屑と消え、生母の建礼門院は、平家滅亡後京都大原の里に隠世した。戦うものには雄々しさを感じるが、いずれは滅びゆくのが歴史の真実である。平家を滅亡させた源氏も、やがて滅亡のときを迎えたのであった。"ただ春の夜の夢の如し。"
8.9月10日
ハリケーン被害
すさまじい被害であった。アメリカを襲った大型ハリケーン「カトリーナ」による被害は、どの程度のものになるのであろうか。特に、市街地の8割が冠水したままのルイジアナ州ニューオーリンズでは、排水に80日もかかるようである。日本にもゼロメートル地帯があるので、他山の石としなければなるまい。死者の数はまだはっきりしないが、数千人との見方もある。もしそうなら、あの9.11以上の被害者である。これが神の摂理であろうか。亡くなられた方にご冥福をお祈りしたい。迅速かつ果敢な救助活動が第一であろう。政府の対応については「トゥー・リトル、トゥー・レイト」との批判が日増しに強まっているようである。
9.9月12日
9.11総選挙
「夏草や兵どもが夢のあと」、あの戦国絵巻のような選挙が終わり、自民党が単独で絶対安定多数を上回る296議席を獲得した。民主党は113であった。刺客候補も結構当選している。日本人の気質が変わったことがよくわかり、また、政治の世界の、いろいろな面が見られたとても面白い選挙であった。もし織田信長なら、これから明智光秀や豊臣秀吉が出てくるかもしれない。
10.9月17日
"司馬史観がわかる本 明治史観編"(2005年5月 白亜書房刊 北影 雄幸著)はなかなか面白かった。
司馬さんが見ていた日本について、司馬さんの文章をぶんだんに引用しつつ、著者の解釈を交えながらの解説がある。最初に、明治維新とは何かに始まり、それ以降の出来事についての司馬さんの見解をくわしく解説している。明治維新とは、世界のあらゆる革命ともその性格を異にし、武士としての維新であり、それ以前の封建社会を否定した革命だった。中で取り上げられているのは、西南戦争、日露戦争、乃木大将である。できあがった明治新政府には旧幕の悪弊が遷って、長州閥を中心に大いに腐敗してしまった。第二の維新を断ずべきだとして、不平士族の反乱がいくつか起こった。薩摩気質にはいさぎよさと勇敢と弱者に対する憐れみがある。西郷隆盛の征韓論は、最新の精神を朝鮮へ輸出しようとしたもので、同時に没落武士族の救済の意味もあった。また、日露戦争での大国ロシアの敗因や、乃木希典の殉死のわけがよくわかる。最後に明治国家の理想として、武士道が理想化されて明治の精神になったのであり、大志に向かって勉強することが正義であったとしている。明治国家は、格調の高いリアリズムでささえられた偉大なる時代の国家であった。
11.9月24日
"浄土真宗"(2005年8月 学研刊 山崎 龍明監修)は、浄土真宗の基礎知識、浄土真宗の教えなどが平易に解説された入門書である。仏教関係の本に興味を持てた。
浄土真宗は、鎌倉時代初期に法然聖人の弟子の親鸞聖人が始めた仏教の宗派である。宗祖親鸞聖人は、1173年に貴族の子に生まれ、9歳のとき延暦寺に入って天台宗を学び、のち29歳のとき法然聖人について浄土宗をおさめた。「南無阿弥陀仏」と唱えることで他力本願によりすべての人に平等の救いを説く浄土宗は、旧仏教から弾圧され、1207年に、法然聖人は讃岐国へ、親鸞聖人は越後国に流された。ここで親鸞聖人は愚禿と名乗って在家の道を選んだ。1211年にゆるされたのちは関東地方で布教し、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説いて浄土真宗を開いた。晩年は京都で過ごし、1262年にこの世を去った。親鸞聖人亡き後、浄土真宗は栄枯盛衰の主に枯衰の道を歩んだが、第8世の蓮如聖人のとき再び勢いを得た。潰れかけたこともあるがよく復活したと思う。その後、織田信長との確執に始まり、豊臣秀吉、徳川家康によって認知され、准如聖人による本願寺派の西本願寺と、教如聖人による真宗大谷派の東本願寺が残り、さらに各地には別に真宗8派がある。「教行信証」は晩年に20年かけて著わしたもの。有名な「正信念仏偈」は、行巻の終りにある偈文で、第7世の存如により「教行信証」から独立して書写され、第8世の蓮如によって印刷されて日常の勤行用に門徒に広められた。それ以後、浄土真宗の門徒に読誦され親しまれている。葬儀においても、念仏・和讃とともに読誦される。
12.平成17年10月1日
民間給与
国税庁の統計では、やや古いが、平成12年12月31日現在の民間企業の源泉徴収義務者数は381万件で、前年より8万件2.1%減少。
また、給与所得者数は5,250万人で、前年より2万人減少している。事業所規模別にみると、従事員が100〜499人の事業所が21.0%で最も多く、また、給与所得者の50.4%が100人未満の事業所に属している。この辺の企業が、今回の不況のもっとも大きな影響をこうむったためであろう。平成12年中に民間企業が支払った給与の総額は216兆4,558億円で、前年より1兆309億円減少。
また、源泉徴収された所得税額は9兆6,400億円で、前年より478億円増加。所得が減少しているのに、税負担は増加している。最近の状況は、産経新聞の調査で、民間企業に勤めるサラリーマンやOLが昨年1年間に受け取った平均給与は438万8000円と、前年を5万1000円=1.1%下回った。これで、7年連続のダウンである。男女別の平均給与は、男性が540万9000円=0.6%減、女性が273万6000円=0.4%減であった。平均年齢の違いもあるが、男女差には依然として大きなものがある。これは日本経済の歯車がまだ正常に戻っていないためで、増税は必至であるが、所得は増加するよう、今後に期待したい。
13.10月8日
"日蓮宗"(2003年12月 日本文芸社刊 庵谷 行亨監修)は、日蓮聖人の生き様がよくわかる入門書である。
日蓮聖人は1222年に安房国小湊に生まれた。その後、比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、末法の時代には法華経にこそ仏教の神髄があり、「南無妙法蓮華教」が救いの道であるという強い信念を持ち、1253年に鎌倉にやって来た。お釈迦様がお亡くなりになって1000年の間が正法、その後の1000年が像法、そしてそれ以後を末法という。正法の時代は教・行・証が兼ね備わっている時代、像法の時代は教・行はあっても証がない時代、そして末法の時代は教はあっても行・証がない時代である。日本では1052年が末法に入った年とされる。したがって、現在も末法の時代が続いている。末法の時代には、世みな正に背き、人ことごとく悪に帰す。ゆえに、善神は国を捨ててあい去り、聖人は辞して帰らない。そして、内憂外患を予言して見事に当てた。このような時代にあって、日蓮聖人は、諸宗の乱立する中で、法華経にこそ救いがあると確信した。法華経を投げ捨てている念仏宗と経文以外に真実の法があるという禅宗は、地獄落ちと天魔に狂う間違った法であると説いた。鎌倉の松葉ケ谷に小さな草庵を建てて辻説法を行い、立正安国の諫暁を何度も行い、松葉ケ谷、伊豆、小松原、龍口で4回の法難にあい、その度に殺されかけ、助かると、伊豆に流され、佐渡へ流された。許されてからいったん鎌倉に戻ったあと、1274年に53歳で身延山に向かいここで晩年を過ごした。1282年に、死期の近づいたことを悟り、下山を決意して旅の途中、武蔵の国の池上で亡くなった。その後は6老僧を中心に、5つの門流が生まれた。今日では11以上の門流がある。管理人はかつて小湊誕生寺、池上本門寺、身延山久遠寺を訪ねたことがあった。聖人の人生は、難行苦行の壮絶なものであった。
14.10月14日
大手スーパー5社 全社が前年下回る
大手スーパー6社といえば、イトーヨーカ堂、ダイエー、イオン、マイカル、ユニー、西友のことを指すようである。このうち、ダイエーは経営再建中なので、いまは大手スーパーは5社であろうか。2005年8月中間(西友は05年6月中間)決算では、既存店売上高は全社が前年同期を下回ったとのこと。ものが行き渡った今、収入減、増税の環境では、買い物は控え目になっている。近くのショッピングセンターでも、1階の食料品は売れているが、2階の衣料品はお客さんが少ない。さる9月20日、ダイエーの創業者、中内 功氏がお亡くなりになったが、1つの時代の変わり目であろうか。伸びる業種と停滞・下降する業種の格差が広がっているようである。イトーヨーカ堂は、好調なセブン−イレブン・ジャパンやアイワイバンク銀行の利益が貢献して業績を下支えしている。イオンもイオンクレジットサービスなど関連会社の業績が下支えしている。好業績の子会社に支えられて、西友を除く4社が経常黒字を確保したようである。しかし、本業の厳しい環境はまだまだ続きそうである。
15.10月22日
”曹洞宗”(1997年12月 双葉社刊 藤井 正雄著)を読んで、一度、座禅をしてみようかと思った。いずれ、そういう日が来るかもしれない。
曹洞宗は、日本の禅3宗である、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の1つである。禅宗は、末法の時代の生き方を示したものの1つであろう。浄土真宗が専修念仏、日蓮宗が専修題目であるのに対し、曹洞宗は、悟ろうとする気持ちをひたすら捨てて、ただひたすら座禅に打ち込む、只管打座である。念仏や題目で救われる人も多いであろうが、体感して始めて救われる人も少なくないであろう。ただ無心に座禅し修行する姿そのものが、即心是仏、悟りの姿だとされる。開祖は道元禅師、太祖は瑩山禅師である。大本山は、福井県の吉祥山永平寺と、神奈川県の諸嶽山總持寺である。道元禅師は、1200年に、京都で生まれた。父は内大臣久我通親、母は藤原基房の娘伊子といわれる。13歳で比叡山にのぼり、翌年に出家した。当時の比叡山は、権力者と結んで俗世での名声や利欲を貪るという堕落した姿であった。失望した道元禅師は山を下り、正法を求めて各地の寺をたずね歩いた。しかし、正師にもあわず、善友もなかった。そこで、24歳のとき真の仏道を求めて中国へ渡った。しかし、思いを満たしてくれるような師は中国でもなかなかいなかった。帰国しようと考えたころ、天童山で如浄禅師と出会った。そこには坐禅を中心とした本物の修行があり、只管打坐という教えを身につけて、28歳のとき日本に戻った。禅は、釈迦如来から28代目の達磨菩薩によって中国に伝えられたものである。釈迦如来がブッダガヤの菩提樹の下で、座禅を組んで悟りを開いた真実の仏法である。その後、道元禅師は、『普勧坐禅儀』、『弁道話』、『正法眼蔵』などを著した。福井県へ行ったのは、深山幽谷に住んで、仏祖の教えを守れ、という先師如浄禅師の言葉に従い、都から身を遠ざけたものである。1244年に、修行道場が完成し、大仏寺と名づけられ、これがのちに永平寺となった。この地で厳しい修行の生活をつづけながら弟子を育成し、1253年に病をえて、54歳の生涯を閉じた。その後、曹洞宗は、懐弉禅師、義介禅師をへて、瑩山禅師に受け継がれた。瑩山禅師は、道元禅師から4代目に当たる。多くの弟子を育て、禅を広く大衆に広め、曹洞宗の基礎をつくった。1264年(1268年という説もある)に、越前で生まれた。8歳で髪をそり、永平寺に入って、3世義介禅師について修行を始め、13歳の時、懐弉禅師のもとで得度した。その後京都や由良で修行を重ね、27歳のとき、阿波の城満寺の住持に迎えられた。以来、4年間で70余人の弟子に仏戒を授け、衆生済度と教化伝道に当たった。その後、大乗寺へ移り、義介禅師の後を継いで、『伝光録』を講じた。1321年に、58歳のとき、能登の諸嶽寺を寄進され、名を總持寺とし、禅寺に改めた。これが大本山總持寺の起源である。1325年に、62歳で亡くなった。
16.10月29日
"人口減少経済の新しい公式―縮む世界の発想とシステム"(2004年5月 日本経済新聞社刊 松谷
明彦著)はなかなか面白かったが、たとえば年金問題の解決策など、少し首をかしげるものもあった。
著者は政策研究大学院教授で、専門はマクロ経済学、社会基盤学、財政学。本書は、人口減少社会のあり方を示した参考になる本である。これまでの日本は、GDPこそ世界2位で経済規模は大きかったが、国民1人ひとりからみると、経済規模のわりには貧しい国民生活であった。今後かりに出生率がかなり向上することがあっても、人口の減少、特に労働力人口の大幅な減少は避けられない。しかし、人口減少社会は、これまでの、経済規模のわり貧しかった国民生活を解決する好機であるという。労働者が減るから経済規模の成長率が下がり、企業経営は成長ではなく縮小を前提にしなければならないが、必ずしも悪化しない。平均すれば個人の所得水準も低下しない。相対的に大都市圏の成長が縮小し、地方との格差は減少する。年金制度は崩壊し公共事業は半減し、終身雇用と年功賃金制は崩壊するが、転職の自由や働かない自由が生まれる。これから、生活者は自分自身で生涯を設計し、消費、貯蓄、労働、余暇を計画的に配分しようとする時代になる。そのような時代には、これまでの売上高の拡大路線ではなく、多様な付加価値を、多様な個人に提供できる付加価値率がポイントになる。これに合わせて、政府や地方自治体は早急なスリム化が必要である、という。
第1章
変化は一挙に―迫る極大値後の世界 第2章 拡大から縮小へ―経営環境の激変 第3章 地方が豊かに―地域格差の縮小 第4章
小さな政府―公共サービスの見直し 第5章 豊かな社会―全体より個人 第6章
「人口減少経済」への羅針盤
17.平成17年11月6日
”京都発見(7)空海と真言密教”(2004年5月 新潮社刊 梅原 猛著)は、京都の真言宗系寺院のよき道案内である。弘法大師を中心として、関係者や後継者と寺との関わりがよくわかる。東寺、金剛峯寺、神泉苑、神護寺、高山寺、大覚寺、仁和寺、醍醐寺、安祥寺、勧修寺、随心院、岩間寺、石山寺、根来寺、智積院が紹介されている。京都はこれまで10回くらい行っているが、まるで知らなかった自分にあきれる。いつか長期滞在してもっとよく見て回りたいと思う。
真言宗の開祖弘法大師空海は、774年に讃岐の国の屏風ケ浦に生まれた。父の佐伯直田公はこの地を治めた豪族であった。母の玉依は阿刀氏の出で、叔父には桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講、阿刀大足がいる。18歳のとき大学の明経科の試験に合格して、大学博士岡田牛養に春秋左氏伝等を、直講味酒浄成に五経等を学んだ。しかし、儒教より仏教に惹かれるようになり、大学を中途退学して吉野金峯山や四国の石鎚山にのぼって仏道修行をはじめた。山岳で虚空蔵求聞持法を行い、自然の中に宇宙の生命と交流し、大日如来と入我我入し、仏教の真髄を極めようとした。その後、奈良の諸寺院で仏教研鑽を積み、30歳の時に大和の久米寺の東塔の下で大日経を発見し、真言独特の象徴や梵字などの意味を知ろうと志し、804年31歳のとき、朝廷から命ぜられて、中国の唐の都へ渡った。青龍寺で恵果和尚に遭い、胎蔵曼茶羅壇と金剛界曼茶羅壇の大法を授けられた。20年間の留学期間を2年に短縮して日本に帰り、真言密教を広めた。密教はお釈迦様にはじまり、タントラという神秘主義的儀礼文化や、ヒンドゥー教、その他の土着宗教の影響を受け、チベットやネパールに展開した仏教の型態のようである。弘法大師は顕教と密教という解釈を打ち出し、密教思想の深秘性や総合性を明確にした。人間の宇宙観、人生観の至極を窮め、大宇宙の波動を感じてこれと溶け合い、大日如来の心を覚え、生きがいのある人生を生き抜く要を説いている。大切なことは、今、いかにして、生きるかであり、この世でも救われるという点に大きな魅力を感じる。その後、最澄に灌頂してその名を高め、天皇に法を説き修禅の道場として高野山を開いた。835年に62歳でお亡くなりになった。末法の時代に入る前の、まだよき時代であった。しかし、中国の青龍寺は消滅してしまい、再建されたのは最近のようである。
18.11月12日
"フリーターとニート"(2005年4月 勁草書房刊 小杉 礼子著)は、フリーターとニートの実態と若者への就業支援のあり方を考えさせる。
フリーターとは、正社員以外の非正規雇用形態で生計を立てている人のことで、英語のフリーfreeとドイツ語のArbeitからの造語。ニートは、NEET:
Not in Employment, Education or
Training)のことで、英国で社会問題となったときの造語。職に就いておらず、学校等の教育機関に所属せず、就労に向けた活動をしていない15〜34歳の未婚の者のことである。厚生労働省が9月に発表した2004年版労働経済白書では、ニートに相当する人の数は2003年で52万人に達している。学校に在籍しながら通学していない場合もあるため、実際にはもっと多いとの指摘もある。原因は、学校斡旋・新卒採用プロセスからの逸脱や、学校卒業時の斡旋不成立、早期離職など、スムーズな移行に失敗したことにある、という。その背景にあるのは、今が楽しければいいとか、社会との関係を築けずこもってしまうとか、就職を前に考え込んでしまい行き詰ってしまうとか、いったん就職したものの早々に辞め自信を喪失してしまうなどがあるようである。問題が不況による就職難であれば、好況になれば解決可能であろうが、別に本人の精神的な問題もあり、こちらは簡単に解決することはできない。生きるのが辛いとか、自信がないとか、人に会うのが怖いとか、は本人だけでは解決できないので、何らかのカウンセリングが必要であろう。問題を家庭環境から見ることと、支援機関としての学校の役割が重要である、という。有効な支援策として次の4つがあげられている。
・地域主導のワンストップまたはネットワーク型システムによる就業支援 ・学校教育の充実と学校以外の社会化装置による補完的支援 ・高等教育におけるキャリア教育と職業的な専門教育の展開 ・新規学卒の就職・採用慣行の見直し
19.11月19日
”臨済宗”(1997年8月 世界文化社刊 松原 哲明著)は古くから伝えられている教えであるが、日本では末法の時代の新しい生き方を示す点に大きな意味があったのではないか。
禅宗は達磨大師を初祖とし、第2祖慧可から時代を経て6祖慧能へ受け継がれ、慧能ののちに、臨済宗、?仰宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の五家が分立し、これに臨済系の分派である黄竜派と楊岐派をくわえた五家七宗がおもな分派となった。座禅は、お釈迦様の悟りによって、精神と肉体を統一して心静かに一人安穏な世界に入るためではなく、本当の心=真理の法に目覚めるための教えである。日本の臨済宗といえば栄西禅師と思っていたが、独立した一つの教団ではなく十四派の総称をいうことを初めて知った。南禅寺派大本山南禅寺(京都府)大明国師(無関普門)、相国寺派大本山相国寺(京都府)開山夢窓国師疎石、妙心寺派大本山妙心寺(京都府)開山無相大師(関山慧玄)、建仁寺派大本山建仁寺(京都府)開山明庵栄西(千光国師)、大徳寺派大本山大徳寺(京都府)開山大燈国師(宗峰妙超)、天龍寺派大本山天龍寺(京都府)開山夢窓正覚国師(夢窓疎石)、東福寺派大本山東福寺(京都府)開山聖一国師(円爾弁円)、建長寺派大本山建長寺(神奈川県)開山大覚禅師(蘭渓道隆)、円覚寺派大本山円覚寺(神奈川県)開山円満常照国師(無学祖元)、方広寺派大本山方広寺(静岡県)開山聖鑑国師(無文元選)、永源寺派大本山永源寺(滋賀県)開山円応禅師(寂室元光)、向嶽寺派大本山向嶽寺(山梨県)開山慧光大円禅師(抜隊得勝)、仏通寺派大本山仏通寺(広島県)開山仏徳大通禅師(愚中周及)、国泰寺派大本山国泰寺(富山県)開山恵日聖光国師(慈雲妙意)である。管理人は今年は、南禅寺、建仁寺、東福寺を訪ねた。前年までに訪ねたことのある寺も7カ所ある。背景をよく知っておけばよかったと、反省しきりである。 禅宗の、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏、の基本に立って、臨済禅師は、一無位の真人、随所に主と作る、無事これ貴人、と教えた。いっさいの立場や位をすっかりとりさって何ものにもとらわれず、真実の自己を見つけることである。
20.11月26日
”団塊の世代「黄金の十年」が始まる”(2005年10月 文藝春秋社刊 堺屋 太一著)は、少子高齢化の2007年問題で人口が減少に転じ、団塊の世代が退職し始め、逆ピラミッドの社会は一気に不安定になるという暗い予測に対して、これからの時代を変えるのはやはり団塊の世代であり、この世代がその気になればできる、黄金の十年にしようではないかと呼びかける。
団塊の世代は、広義では1943年〜1953年生まれの世代を指し、狭義では1947年〜1949年生まれの世代を言う。小学校、中学校、高校とも、学年一クラス50人とかの時代であった。この世代は時代を変えるパワーを持っている。今の日本を創ったのはこの世代である。この世代は日本の高度成長をもたらしたが、その要因となったのは、官僚主導・業界協調体制、日本式経営、核家族・職縁社会であった。ちょうど規格品の大量生産が効を奏した時代で、それを支えたのは、教育では没個性と辛抱教育で規格化の精神を教え、機能では東京一極集中で有機型地域構造を作り、社会では供給者優先の思想で好若嫌老の風潮を生んだ。これに対して、世界の動きはこれらの方向とは違うベクトルになっている。世界の動きにタイアップできなかったのは、官僚が集人対面情報にこだわり、知価革命がいまだ成立していないことにも大きな原因がある。ベクトルの方向を誤った主因は、官僚の作ってきた将来予測である。これまで、官僚の予測はことごとく外れてきた。外れた原因は、縦割りの狭い担当職務で、他の条件が変わらなければ、というスタンスでものを考えてきたことにある。これからも、団塊の世代がまた、時代を変えていくのである。労働力人口は15歳以上65歳未満という従来の年齢観を22歳以上70歳未満という現実に合ったものに変えて、いろいろな制約のある定年延長という形でない自由な労働力を作り、多様な働き方ができるように多様な労働形態を作り、70歳まで働くことを選べる社会になる必要がある。財政と年金を安定させるには、この年齢観革命と、人口減少でも花が咲いたルネッサンスのように生産性の向上を図ること、学生パパ、学生ママを奨励して早産により出産増を図ることなど、が有効ではないか。これからも、新しい労働力、新しい市場、新しい欲求が、新しい文化を創るであろう。
第1章 団塊の世代は日本を変えた(新時代を拓いた団塊の世代 官僚の予測はことごとく外れた) 第2章 団塊が創った「今の日本」(「特殊戦後型日本」とは 完璧な近代工業社会を築いた三本柱 戦後日本の背後霊 知価革命いまだ成らず 歴史に学ぶ発想の転換) 第3章 団塊の「倫理と美学」を解く(団塊の世代は歴史のどこにいるのか 新しい伝統―核家族と職縁社会 団塊の世代が起こした意識改革 「不安の正体」はわが心の影)
第4章 団塊の世代がまた、「時代」を変える(団塊の世代―「定年」の経済学 団塊が創る高齢者市場 団塊の世代の財政学―財政と年金の未来 財政と年金の安定のためには 団塊の世代の家政学)
21.平成17年12月3日
平均株価が回復
企業業績が勝ち組を中心に回復しつつあり、株式市場も回復しつつある。ようやく日経平均が小泉政権が誕生した頃に戻った。12月2日は約5年ぶりに1万5400円を回復した。東証1部の騰落銘柄数は値上がり1086、値下がり479であった。出来高は33億2492万株、売買代金は3兆6084億円で過去最高となった。外人の買いと、いままで塩付けしてきた個人の売りがみられるようである。東京外国為替市場では、1ドル=120円後半であった。ようやくデフレからの脱却がなるであろうか。バブル崩壊からこの方、約15年の時間が経過した。この間の日本政府のやり方には、バブルの崩壊のさせ方や不良債権処理のやり方がまずかったようである。改革は公共事業には少し手が入ったが、もっと大きな福祉、医療の分野はこれからである。また、税収不足から増税の基調は避けられない。
22.12月10日
”京都発見(5)法然と障壁画”(2003年3月 新潮社刊 梅原 猛著)は、末法の時代の新しい生き方を示した法然上人とその弟子たちと、知恩院を始め浄土宗の寺が紹介されている。最初の数章には、二条城を始め、浄土宗の寺に残された、徳川時代に狩野派の絵師たちが残した華麗な絵画の紹介がなされている。法然と知恩院、知恩院と徳川幕府、霊雲院と狩野元信、狩野永徳と聚光院、二条城と狩野派、金地院崇伝の美学、聖衆来迎寺と天海、知恩院障壁画と狩野尚信、などがそれである。
法然上人は1133年に美作国(岡山県)で生まれ、幼名を勢至丸と言った。1141年に父、漆間時国明石定明が夜襲により没し、9歳で出家した。1145年に比叡山に登り、1147年に西塔北谷の持宝房源光について受学し、戒壇院で戒をさずかった。当時の仏教は貴族のための宗教と化し、学問を究め難しい経典を理解し、厳しい修行を行わなければならなかった。1150年に西塔黒谷の慈眼房叡空に師事し、持宝房源光の源と慈眼房叡空の空をとって法然房源空と改名した。1175年に阿弥陀仏の本願の真意を感得し、43歳のとき浄土宗を開いた。比叡山西塔黒谷にこもり、経典の読破に励み、唐の善導大師の教えにふれ、『観無量寿経疏』から、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に、を発見した。1198年に選択本願念仏集1巻著わした。1207年に四国に流された。1211年に京都に召還されたが、1212年に一枚起請文を著わして、80歳で入滅された。知恩院は、法然上人滅23年後の1234年に、弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立し、四条天皇より「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を賜り、法然上人の御廟、念仏の根本道場の基礎を築いたものである。江戸時代には、徳川家が浄土宗の教えに帰依し、拡大整備された。大小100棟以上の建物、日本現存の木造建築の門の中で最大の規模をもつ三門をはじめ、経蔵、御影堂、大方丈、小方丈、勅使門、大鐘楼、集会堂、大庫裡・小庫裡などは、いずれも国宝や重要文化財となっている。われらが往生は、ゆめゆめ、わが身のよしあしきにはより候まじ。ひとえに佛の御ちからばかりにて候べきなり。罪の軽重をいわず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なし。往生は一定と思えば一定なり、不定と思えば不定なり。
23.12月17日
”けいざい心理学”(2004年11月 日本経済新聞社刊/編)は、なかなか面白かった。
数学を駆使して理論的に行う経済学であるが、現実にはなかなか計算どおりにいかないらしい。数式の前提としている”時代”が変わったのであろう。モノの値段が需要と供給の方程式に根ざしているとしても、計算式からいつも正しい答えが出るとは限らない。成熟し、生活水準が上がり、多様化し、細分化した社会だからこそ、経済の形はわかりにくくなっている。人はいつも完ぺきな理性に従って歩いているわけではない。わかりにくい経済は人のココロで動いている。「非合理」が動かす景気の話、心をめぐる会社の攻防、数字にもてあそばれる人々、人間心理の内外格差、誤算が生まれる方程式
、という構成である。特に、会社の攻防の中の、”社会的手抜き”は興味深かった。”自分一人が騒いでも何も変わらない。””いずれだれかがやってくれるだろう”とみんなが手を抜いて、結局誰もやらないでトラブルが起きる、という。
24.12月24日
”妙心寺”(1984年 小学館刊 木村 静雄著)は、妙心寺開創650年の記念の書である。末法の時代の人間不信の時代に、「報恩謝徳」によって人心の乱れを救おうとした。
妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で、1337年に花園法皇が、大燈国師、宗峰妙超禅師に参禅し、印可されたことに基を発する。宗峰妙超禅師は病に伏し重態となり、弟子の無相大師、関山慧玄禅師を推挙された。花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、正法山妙心寺と命名された。宗峰妙超禅師が亡くなったこの建武4年を開創の年としている。1338年には、花園法皇が玉鳳院を建てられ、慧玄禅師に参禅された。釈尊から臨済禅師を経て伝承された、慧玄禅師の禅をもって宗旨及び教義としている。慧玄禅師は、「請う、其の本を務めよ」というご遺誡を残し、花園法皇の「報恩謝徳」「仏法興隆」の願いを実践している。二祖、授翁禅師、三祖、無因禅師、四祖、日峰禅師、五祖、義天禅師、六祖、雪江禅師、と継承された。坐禅を中心とする修行を通して、真実の自己に目覚め人間として正しく生きることをめざしている。現在の妙心寺は、塔頭46寺、末寺は日本をはじめ世界各国にわたり3,400寺余り、在籍僧数は約7千人を数える。広大な境内には敷石の参道が延び、南の勅使門より山門、仏殿、法堂、方丈が一直線に並び、浴場、経蔵がひかえる。禅宗の七堂伽藍の風格を持ち、47院を数える塔頭とともに、壮大な景観をつくっている。室町時代には足利義満に弾圧され、その後応仁の乱では焼きうちにあったが、ながく臨済宗妙心派の本山として、細川氏らの武将、豊臣、徳川家の諸大名らの帰依を受けて復興した。関連機関には、花園大学、花園高校、花園中学校、洛西花園幼稚園などがある。
・自らを浄化する
・感謝と懺悔
・心の安定を得る
・本当の自分に目覚める
・一切の束縛から脱した自由な自己
・衆生本来仏なり
25.12月31日
大つごもり
大晦日は人為的なものであるが、やはり樋口一葉の"大おおつごもり"を想いだす。一葉は、東京の長屋で甲斐国(山梨県)の農家出身の両親の子として生まれた。父は上京後八丁堀同心を勤め、明治維新後に官吏となった。15歳で兄を亡くし、父は事業に失敗して病死した。17歳にして戸主として一家を担わなければならなくなった。母と妹と三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられた。20歳で"かれ尾花一もと"を執筆した。理想主義的な小説"うもれ木"が出世作で、"おおつごもり"は1894年の作。翌年、"たけくらべ""にごりえ""十三夜"などを発表。1896年に肺結核のためわずか24歳でなくなった。
"お母樣御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左樣ならば參りますと、暇乞わざとうやうやしく、お峰下駄を直せ、お玄關からお歸りでは無いお出かけだぞと圖分/\しく大手を振りて、行先は何處、父が涕は一夜の騷ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩息子、持つまじきは放蕩を仕立る繼母ぞかし。鹽花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、何うすれば彼のやうに圖太くなられるか、あの子を生んだ母さんの顏が見たい、と御新造例に依つて毒舌をみがきぬ。お峰は此出來事も何として耳に入るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻の仕業はと今更夢路を辿りて、おもへば此事あらはれずして濟むべきや、萬が中なる一枚とても數ふれば目の前なるを、願ひの高に相應の員數手近の處になく成しとあらば、我れにしても疑ひは何處に向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ拔けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかゝる、我が罪は覺悟の上なれど物がたき伯父樣にまで濡れ衣を着せて、干されぬは貧乏のならひ、かゝる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父樣に疵のつかぬやう、我身が頓死する法は無きかと目は御新造が起居にしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。大勘定とて此夜あるほどの金をまとめて封印の事あり、御新造それ/\と思ひ出して、懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり彼金が二十御座りました、お峰お峰、かけ硯を此處へと奧の間より呼ばれて、最早此時わが命は無き物、大旦那が御目通りにて始めよりの事を申、御新造が無情そのまゝに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隱られもせず、欲かしらねど盜みましたと白状はしましよ、伯父樣同腹で無きだけを何處までも陳べて、聞かれずば甲斐なし其場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奧の間へ行く心は屠處の羊なり。"
26.平成18年1月7日
"歴史から読む現代経済"(2005年5月 日本経済新聞社刊 日経新聞経済解説部編)は、"歴史は繰り返す"をもとに、現在経済を振り返った書である。
歴史はすでに過去の記録であるが、現在にいたる継続線がある。前とまったく同じことにはならないとしても、似た状況の中では似た結果になりやすい。もとは日経新聞紙上に掲載された"やさしい経済学歴史に学ぶ"の記事をまとめたもので、経済史上、重要なトピックをわかりやすく解説している。その意図は、10年以上も続いた大不況の解決の糸口を考えるヒントを提供しようというものである。歴史には学ぶべき点が多い。しかし、歴史からはぴったりした解決策は見つかりそうもない。これまで社会全体の落胆と失望が長く続いてきた。改善するには、ベーシックな努力といろいろな活性策のトライアルが必要であろう。昨年からの株式市場の活況は、リストラで利益が出せる体質に転換してきた日本企業への再評価が働いている。しかしこの過程で、勝ち組と負け組みがはっきりしてきた。強きものはますます強く、弱きものはやがて淘汰される時代になりつつある。その中で気になるのは、年金や雇用問題の行方である。
1章 世界覇権と日本−−川勝平太(国際日本文化研究センター教授)
2章 大不況の克服−−林敏彦(放送大学教授)
3章 金融危機の教訓−−翁百合(日本総合研究所主席研究員)
4章 財政危機の歴史−−井堀利宏(東京大学教授)
5章 社会保障改革の歴史−−宮島洋(早稲田大学教授)
6章 自由貿易体制−−阿部顕三(大阪大学教授)
7章 地域統合−−杉原薫(大阪大学教授)
8章 資本市場の拡大と進化−−大村敬一(早稲田大学教授)
9章 株式会社と市民社会−−上村達男(早稲田大学教授)
10章 雇用システムの比較史−−尾高煌之助(法政大学教授)
11章 人口変動と経済−−斎藤修(一橋大学教授)
12章 エネルギーの覇権−−十市勉(日本エネルギー経済研究所常務理事)
13章 環境政策の進展−−植田和弘(京都大学教授)
14章 産業技術の革新−−後藤晃(東京大学教授)
15章 途上国と開発支援−−原洋之介(東京大学教授)
27.1月15日
”良寛巡礼”(1992年3月 恒文社刊 小林 新一著)は、江戸時代に、禅宗の悟りとともに生きた良寛さまの生き方がわかるとても参考になる書である。良寛さまの生きた足跡を刻銘にたどって、写真入りで紹介している(心酔するファンがたくさんいるようである)。江戸時代は、”厭離穢土欣求浄土”を掲げた徳川家康の時代であった。世はまさに末法の”穢土”時代で、浄土宗に救いを求めたのであろう。これにより世の中はかなり収まったのではないか。末法の時代には、いろいろなものが出現して、さまざまな災いが起こるという。当時の世相には、依然として殺伐としたものが多かったであろう。ひるがえって、現代も、日々、殺伐さを実感する末法の世の中である。背筋が寒くなるような出来事が後を絶たず、日常茶飯事である。現在、良寛さまのファンが多いのは、良寛さまの優しさや暖かさが共感を呼んでいるからであろう。
”夫れ仏家の風標は,展鉢を恒規と為し.僧伽の風流は,乞食を活計となす.一仏の儀式は,千仏の儀式なり.故に知る,三世の諸仏も食を受けて成道し,歴代の祖師も食を受けて 伝法したまえり.受食の文に曰(いわ)く,四には,形枯を療ぜんが為,五には道業を成さんが為に,是の食を受くべし.経に曰く,名を忘る,浄命食を食すべし.凡そ痴の眷属を離れ,草庵に独処し, 樹下に経行し,開花落葉を観じ, 渓声山色を友とするは,古聖の先蹤なり.後進の亀鏡なり.我曽て諸を古老に聞けり.古人多く跡を山林に昧す.市遠くして,数食を乞い難し.有る時は山菓を拾い,有る時は草根を掘り,聊か以て食に充つ.古人法の為に身を捨つると曰うは,名利を貪らず,吾我を放擲して,唯道を之行う.故に,諸天帰命,神明も加護す.(勧受食文抄)”
良寛さまは1758年に、出雲崎の名主橘屋山本家に生まれた。幼名を栄蔵といい、父は以南、母は秀子である。1770年に、大森子陽が江戸より帰国し始めた地蔵堂に入門し、1772年に元服。1775年には、子陽塾を辞して名主見習役となった。しかし、尼瀬の光照寺の玄乗破了に従って剃髪して出家した。名主役は、弟の由之が継いだ。1779年に、国仙和尚より得度して、備中玉島の円通寺におもむいた。その後一時帰郷したりしたが、1790年に、国仙和尚が良寛に印可の偈を与えた。父の自殺などで帰郷して、1797年には、国上山の五合庵に住んだ。1801年には、父の七回忌追善句集『天真仏』を京都で出版した。44歳のときであった。これが広く世に知られるきっかけになったのではないか。いわゆる高僧ではないのにファンが多いのは、句・歌や書に魅せられる人が多いからであろう。1802年には、寺泊の照明寺密蔵院や牧ヶ花の観照寺に仮住まいした。1805年には、五合庵に定住した。1810年には、観照寺に仮住まい。1816年には、乙子神社草庵に移住した。1826年には、島崎の木村家内草庵に移った。1827年には、寺泊の密蔵院に仮住いした。そして、1830年に、病気で危篤状態になり、1831年に、お亡くなりになった。著者の小林氏は、この良寛の足跡を何年もかけてほとんどすべてを刻銘にたどり、きれいな写真とわかりやすい解説を加えている。管理人の近くにも、良寛さまの大ファンがいる。
28.1月21日
嗚呼、ライブドア社
昨日まで英雄視されていた堀江貴文氏の突然の失墜である。これまで支持していた人が少なくなかったはず。ライブドア社は、虚業の連続のような会社であったという報道もあった。企業情報では、ホームページ制作からポータル、金融、ソフト販売等多角化し、M&Aが超積極で、投資ファンド的な会社と紹介されている。あるコンサルタントは、この事件の起こる前に、”ここはあと半年、よくて3年くらいしかもたないであろう”と言っておられた。こんなに早くそうなるとは・・・。長年の経験から、いろいろ問題のある社長の顔しか見えない会社はダメなのだという。朝日新聞では内橋克人氏が、”いま社会を覆う怪しげなる時代の鍍金が剥げ落ちる幕開けの表象となろう”と書かれている。錬金術を政治が後押ししている、という。ライブドア社がどうなるかは今後の経過によるが、これまでのようなわけにはいかないであろう。
29.1月28日
“風の良寛”(2000年12月 集英社刊 中野 孝次著)は、良寛さまの本質を追究した書である。良寛さまは、道元禅師、老子、荘子に親しみ、己が心の平安、真実の自己の充実のためにだけ生きる生を選んだ。良寛さまのすごさは、人生のごく早い時期に、そういう物、名誉、地位、金銭、権力などのために生きる生の空しさを痛感して、はやばやとそれを棄てた所にある、という。管理人の頭にすぐ浮かんだのは、漂泊の生涯と独特な自由律俳句で知られる俳人、種田山頭火のことだった。
考えてみれば、この世の虚栄は空しいものである。良寛さまの生き方は、現代人と対極に位置している。最初の“なぜいま良寛か”では、史上かつてないほどの平和と繁栄の中にありながら、とても幸福感が薄くなった現代の日本人のすさんだ精神の有り様を振り返る。良寛さまは出雲崎の名主の家に生れ名主見習になったが、突然その立場を棄てて出家してしまう。中野孝次氏はその理由について、良寛研究家は特定したがっていろいろな説を立てるが、その人の奥深くにある本能のそそのかしが、こんなことはもうこれ以上やっていられない、と叫ぶとき、具体的ななんらかの理由をとっかかりに爆発する。名主の身分から得られる名誉や尊敬や権力や収入も、社会的地位や収入も、また身分から得られる保護と安全も、すべておそろしくくだらぬものに見えだしたのだ、という。ひとたび出家してからは、すべて成行きまかせで、あきこちを歩き回り、無一物に徹し袈裟はぼろぼろになりはて、鉢一つかかえて乞食して生きた日々であった。自己は自己にして仏である。さればこのような行持を行うわが身心は、みずから愛さねばならぬ。みずから敬わねばならぬ。良寛さまは、仏道修行の一番の急所はこの「棄てる」というところにあると悟ったからこそ、馬鹿正直にその一筋の道をつき進んだのであろう。良寛さまの存在は、己の生き方を顧みてその真贋を明らかにする“クリテーリウム(判断基準)”である、という。
30.平成18年2月4日
ライブドア社の行方
誰かが新聞で、天網恢恢疎にして漏らさず、と書いていた。1月16日は696円だったライブドア株が、2月1日には東京証券取引所マザーズ市場で100円を割り込んだ。原因は粉飾決算疑惑などである。上場廃止懸念から処分売りが止まらない。実質傘下企業との架空取引による利益水増しを特別利益として決算処理したり、投資事業組合を利用して売り抜けた自社株の売却益をいったん海外の匿名口座などに入れて裏金化した後に関連会社の売上に計上していたようである。粉飾額は数十億円に上るとみられている。昨年11月に発表した2005年9月期連結決算と、約1か月後に公表した有価証券報告書の内容の一部が、約46億7500万円も食い違っていたという。粉飾のツケは、結局は自分に還流することになりそうである。
31.2月11日
"良寛さん100話"(2005年2月 国書刊行会刊 松本 市壽著)は、『良寛禅師奇話』『良寛全詩集』『草堂集』『自警語』など、良寛さまに関わる書籍から現代語の題材を100集めて著者の解説を加えたもの。
今日の朝日新聞の天声人語欄に、夏目漱石が1914年に友人に送った、「良寛はしきりに欲しいのですとても手には入りませんか」という、手紙の一節が紹介されていた。「良寛を得る喜びに比ぶれば悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛防可仕候」。漱石が欲しかったのは良寛さまの書である。一流の書家でありながら、その道で生きることをしなかった良寛さまをもっと深く知りたい気持ちである。この本には、身に沁みる言葉がたくさんある。良寛さまが出家したときの動機については、中野孝次氏とは異なっている。良寛さまは代々世襲の町名主の山本家の長男として生まれたが、当時、生家は、配下の町年寄、敦賀屋鳥井家との暗闘にあって、裏工作など、すべてに抜け目のない町年寄の劣勢に陥った。また、代官所は隣接する町の名主と競わせて、複雑な利権争いを演出した。1775年に、短気な性格の父の以南が、代替わりした敦賀屋の婿、長兵衛を呼びつけて、言いがかりを付けて叱責するという事件を起したが、長兵衛の反抗にあってしまった。長兵衛は、若き良寛さまより10歳も年長で、大森子陽の主催する三峰館で学んだ間柄であった。若き良寛さまは、いたたまれなくなって生家から逃亡した、という。さもありなん。
32.2月18日
試練のライブドア社
このところ、新興市場の株価が大幅に低下している。ライブドア社の事件の影響がなかり大きいようである。日経平均株価も、ここ数日、GDPの成長が回復しているにもかかわらず、足を引っ張られて不調である。その後のライブドア社は、データセンター運営子会社のメディアエクスチェンジ(MEX)と中古車販売子会社ライブドアオートについて、グループからの離脱を実質的に容認した。また、マンション販売のダイナシティ、広告会社ライブドアマーケティング、ソフトウェアのターボリナックスもグループから離脱する可能性が強まっている。このように、ライブドア社は、子会社の離反、資本提携の見直し要請、経団連の活動自粛の処分などに見舞われている。社名の変更やグループ企業売却も検討され始めたようである。しばらくの間、まだまだ試練が続きそうである。
33.2月25日
”はじめての経済学”(2003年2月 同文館出版刊 野口 晴利著)は、経済学についての簡明なよい本だと思う。こういう分かりやすい入門書を、自分でも書いてみたいものである。
マクロ経済学というと、高等数学を駆使するものという先入観がある。たとえ数学を使わなくても、表現をやさしくしても、経済学には難しいところはあるようである。しかし基本的な部分は必ずしもそうではなく、中等数学で十分だということが分かる。本書では身近な事例をもとに先に図解ありで、図の意味がわかれば基本の理論が理解できるので、数式は後から別に学べばよいことが分かる。そのように解説を読んでいくと、経済学の基本がよく理解できるように書いてある。好奇心をそそられる人が少なくないのではないか。著者は次のステップとして、数多くのすぐれた入門書や経済学の古典を勧めている。分かりやすいよい本だと思った。
・経済学を学ぼう
・市場と価格
・消費行動と需要曲線
・生産・販売と供給曲線
・国民総生産と関連する経済数量
・国民所得の決定
・貨幣と貨幣市場
・均衡国民所得の決定と経済政策の手法
34.平成18年3月4日
”一休を歩く”(1988年2月 日本放送出版協会刊 水上 勉著)は、一休禅師の誕生から終焉までを、写真入りの名文で紹介した読みやすくてよい本である。
水上勉氏の著書を見ると、仏教関係のテーマが主要なものの1つになっている。”仏教文学全集 流離の仏教者たち”、”自選仏教文学全集 禅と人生”、”水上勉自選仏教文学全集 良寛のすべて”、水上勉自選仏教文学全集 一休のすべて”、”水上勉自選仏教文学全集 仏教とは何か”などである。水上氏は1919年に福井県大飯郡本郷村字岡田に生まれ、1929年に京都の臨済宗相国寺塔中瑞春院の徒弟となった。1930年に京都の瑞春院に入り山盛松庵師の許で修行した。そして、1931年に瑞春院で得度し沙弥(僧名は大猶集英)となった。1932年に禅門立紫野中学校(般若林)に入学し、瑞春院を脱出し引き戻され同じ相国寺塔中の玉龍庵に入った。その後、天龍寺派別格地衣笠山等持院に移り、僧名も承弁に改めた。
一休禅師は1394年に京都に生まれ後小松天皇の落胤とされる。1400年に京都の安国寺の像外集鑑に入門し、周建と名付けられた。詩才にすぐれ1406年の漢詩”長門春草”、1408年の漢詩”春衣宿花”が賞賛された。恵まれた才能から、その後の一休禅師の片鱗が伺える。1401年に17歳で謙翁宗為の弟子となり、名を宗純と改めた。1415年に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となった。1420年に大悟し、華叟が印可状を与えようとしたが一休は辞退した。その後は、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。1474年に後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられ、再興に尽力した。1481年に酬恩庵(通称、一休寺)で没した。
35.3月11日
量的緩和の解除
2001年3月から採用されてきた不況対策の1つである量的緩和政策が解除された。金融の機能不全症状がかなり改善されたためであろうか。これからは金利政策が中心になりそうである。当面ゼロ金利は継続されそうなので、株式や金利などの市場は比較的平静であった。しかし、個人向け国債の金利は1%を超えるようである。1999年2月から2000年8月までゼロ金利政策が採られていたが、ゼロ金利政策の解除を急いだ結果、景気が腰折れしてしまった経緯がある。今度はそのようなことがないように祈るだけである。株式市場のライブドアショックもかなり回復しつつある。やがてゼロ金利も解除されるであろう。いろいろと身の回りの整理が必要になりそうである。
36.3月17日
”イスラム世界の経済史”(2005年7月 NTT出版刊 加藤 博著)は、あの9.11以来関心の深いイスラム社会の経済史がよく分かる本である。前近代のイスラム世界があれほどの商業的な繁栄を達成し、高度な都市型文明を築き上げたのに、その後なぜ、経済が停滞してしまったのか。大いに関心のあるテーマである。特に、最近の中国のかつての停滞と最近の復活を見るに付け、自由主義的な繁栄モデルをどこまで取り込むことができるかが、大きなポイントになっているのではないかという気がする。
著者は、イスラム世界は経済の歴史のなかで「負け組」なのであり、かつてのイスラム世界の経済に「現在」の経済に資する理念やモデルを求めようとしても、それが虚しい行為になるであろうことは容易に予想できる、という。”そもそも経済学は近代ヨーロッパが生み出した資本主義をモデルとして、それを分析するためにつくられた道具なのである。分析手段を経済学からイスラム諸学へと取り替えても、問題の解決にはならない。イスラム諸学は過去において輝かしい展開をみせたとしても、現代では、信仰の立場に立たない限り、知の対象ではあっても、われわれの学問ではない。本書は、前近代イスラム世界の経済繁栄をイスラムの知のあり方と経済学の論理的な枠組みをともに意識しつつ解析し、イスラム世界の経済史を世界経済史のなかに位置づけることを試みたものである。市場経済の歴史として、産業資本主義を生み出した「ヨーロッパの道」があったように、「イスラムの道」もあった。「イスラムの道」とは、イスラム世界において、イスラム・イデオロギーの言説をともなって展開された市場経済の歴史である。その歴史のなかで、イスラム世界は市場社会であると言いうるほど、市場経済の繁栄を経験した。それにもかかわらず、「イスラムの道」は産業資本主義を生み出さなかった。なぜなのか。”この点について中沢新一氏は、”キリスト教は一神教の伝統から離れた。三位一体の教義を採用することによって、聖霊が父なる神と子なるキリストを結びつけるように、貨幣が商品を資本に転化させ、かくて資本の自己増殖を容認することになった。これに対して、イスラムは一神教の伝統をかたくなに守った。その結果、イスラムの教義は資本の自己増殖に対する強烈なアンチテーゼを含むことになり、その象徴が、利子の禁止規定であった。イスラムとは、その存在自体が、一つの経済学批判であり、原理としてのイスラムは、巨大な一冊の生きた緑の資本論だ”、という。現在は、近代ヨーロッパの生み出した資本主義の時代の延長にある。この考え方を、イスラム世界は体系的に受容することができるのであろうか。相容れない馴染まないものを、よいところはよいと認めることができるであろうか。それとも別に、イスラム的な新しい繁栄の体系を作ることが可能であろうか。もしこれができるのであれば、おそらくもっとも良い方策であろう。しかしそもそも、経済的な繁栄はやはりそれほど重要なものなのか。豊かな精神文化があれば十分とも言えるのではないであろうか。この本を読んで、いろいろと考えさせられた。
37.3月25日
サヨンの鐘
「司馬遼太郎短編集」(司馬遼太郎著)と「良寛のこころ」(松原哲明著)を読みながら、台湾の各地を旅した。故宮は見応えがあったし、タロコ渓谷は絶景であった。一番印象的だったのは、台湾東北部宜蘭県の山奥にあるタイヤル族のリヨヘン社の少女、サヨン・ハヨンの話であった。1938年に、当時この地の学校の教師を勤めていた日本人警官のもとに出征の命令が届き、山を下りることになった。引っ越しに村の青年達が荷物運びを買って出て、その中の一人に当時17歳の少女サヨン・ハヨンがいた。その日は悪天候でリヨヘン社から麓まで行く途中の川に掛かった丸木橋を渡るとき、荷物を背負ったサヨンは足を滑らせて川の激流に飲み込まれ帰らぬ人となった、という。他説もあるようである。日本統治時代には愛国美談としてサヨンの村に記念碑と鐘が作られたが、第二次世界大戦後に碑は川に捨てられ鐘は撤去された。その後、地元住民によって引き上げられ、新しい記念碑と鐘が建てられた。現在、金洋村を結ぶ橋は「サヨン橋」と名づけられ、武塔村にはモニュメントと鐘を配したサヨン記念公園が作られている。良寛さまには、1828年の新潟三条大地震に関して、「災難に逢時節には災難に逢がよく候」と書いた手紙がある。この点について、以前読んだ本には、末法の時代の災いの必然とあるがままに受け入れることが書かれていたが、松原氏は、良寛の言をすべてよしとすべきではなく、ここは良寛の誤りという指摘がある。サヨンにはいろいろな災いが及んだが、災いについてのどちらの解釈にも理があるように思える。「サヨンの鐘」の作詞は西条八十氏、作曲は古賀政男氏である。
嵐吹きまく峰ふもと 流れ危うき丸木橋 渡るは誰ぞ麗し乙女 紅きくちびるああサヨン
晴れの戦いに出てたまう 雄々しき師の君懐かしや 坦う荷物に歌さえほがら 雨は降る降るああサヨン
散るや嵐に花ひとえ 消えて哀しき水けむり 蕃社の森に小鳥は鳴けど 何故に帰らぬああサヨン
清き乙女の真心を 誰か涙に偲ばざる 南の島のたそがれ深く 鐘は鳴る鳴るああサヨン
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