徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
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空白
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徒然草のページ
1.平成20年8月2日
”勧修寺”(1995年2月 淡交社刊 筑波常編/横山健蔵著)は、京の古寺からシリーズの第4巻である。
著者の筑波常遍氏は1935年東京都生まれで、1954年勧修寺先代門跡驚尾光遍師に従い得度し、1958年種智院大学卒業し1963年勧修寺執行。横山健蔵氏は1939年京都市生まれで、1967年日本写真印刷写真部退社し、フリーの写真家として伝統に育まれた京の文化、特に伝承文化を中心に京の自然や風物を撮影。勧修寺は京都市山科区にある門跡寺院で、真言宗山階派大本山、山号を亀甲山と称する。開基は醍醐天皇、開山は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院で、「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。花は、自然の移ろいを確かに聞き、その訪れを華やかな表情や、可憐で控え目な姿で伝えてくれる。それだけに、撮影の格好のモチーフとなる。四季の花が美しく咲く古刹勧修寺は、洛中から東南の方向山科にある。この地域の春の花暦は、洛中に比べて一足早く始まる。だが、山内の南側に位置する氷室池の春は、決って遅れてやって来る。しかし、春寒のみぎりには、不思議と書院前の老梅だけが、京都では一、二番の先駆けで開花し、ほのかな薫りを漂わすそうである。春には椿やツツジの他、数々の潅木が花を咲かせる。染井吉野がパノラマのように広がり、古木の里桜は池を眺めている。皐月になると山内は表する0芝生は芽吹き、カキツバタがピュアーな紫色の花を開く。夏の氷室池は実に美しく、自然に根茎を張ったハスが群生し、スイレンが水面を覆う。晩秋、同寺を彩る紅葉は圧巻だ0障子に落ちる影紅葉は、京の風情を演出する。雪の朝、足跡を気にしながら池畔に立つ。これらの四季をきれいな写真で楽しませてくれる。
2.8月9日
北京オリンピック
One World, One Dream(同一个世界 同一个梦想)(ひとつの世界、ひとつの夢)。2008年の8月8日から8月24日までの期間に、中華人民共和国の首都北京を主な会場として開催中の夏季オリンピックである。世界から204のNOC、約1万1000人のアスリートが参加し、28競技302種目で競技する。アジアでの夏季オリンピック開催は、1988年のソウルオリンピック以来、20年ぶりで5大会ぶり3回目で、中国では初開催である。北京での開催は2001年7月13日にモスクワで開かれた第112回IOC総会での投票により、イスタンブル、大阪、パリ、トロントの4都市を破り、開催地に内定した。開会式は中国標準時2008年8月8日午後8時から開始された。北京市内に37会場が設置されそのうち新設は22会場である。全体の44%の施設が市北部に建設されるオリンピック公園に集中する。馬術競技は香港で実施される。これは検疫が大陸本土よりはるかに容易であるためである。オリンピックの一部競技が異なる国内オリンピック委員会の領域で実施されるのは1956年のメルボルンオリンピック以来13大会52年ぶりである。このときも検疫の問題から馬術競技がストックホルムで実施されている。中国のオリンピック委員会は過去の事例(東京オリンピックで柔道が正式競技、ソウルオリンピックでテコンドーが公開競技として実施された)を挙げて、中国武術の正式競技化を狙ったが、否決された。代わりに上海でオリンピックと同時に行う国際大会を公開競技の扱いにすることとした。ソフトボールと野球については、2005年7月にシンガポールで開かれたIOC総会において、2012年のロンドンオリンピックでは除外されることが決定しており、現時点では最後の実施となる。人権問題、環境問題、衛生問題などがいろいろあるが、肝心の競技そのもので世界新記録がいくつ出るか、人類にとって4年に1度の大いなる楽しみである。
3.8月16日
”電子マネー・ビジネスのしくみ”(2006年5月 ぱる出版刊 竹内 一正著)は、5つの電子マネーと新たなもう1つの電子マネーの、現状と今後を省察したものである。
著者は1957年 岡山県生まれ、徳島大学工学部卒業。ノースウエスタン大学客員研究員として金属疲労を研究。1981年松下電器産業入社。磁気記録事業部にて、小型フロッピーディスクなど磁気記録メディアの新製品設計開発に携わり、NHK技研とハイビジョンビデオカセットの開発に成功。以後、アップルコンピューター、日本ゲートウエイ、メディアリングTCを経てビジネスコンサルタントとして独立。JRが生み出した斬新なスイカは、いまJRと日本のビジネスを大きく変えようとしている。2001年に1R東日本が非接触ICカード乗車券「スイカ」を導入して、その利用枚数はすでに1500万枚を突破した。ハイレベルなセキュリティーと高速で処理できる非接触ICカード乗車券は、その後JR西日本のイコカなど日本各地で次々と誕生してきている。スイカは単なるプリペイド電子乗車券に留まらず、ショッピングができる電子マネーとして、「駅ナカ」を創出し「街ナカ」 へ進出をはじめた。社員証やマンションの鍵としても用途を広げている。一方、ソニーグループやドコモが出資して出来たビットワレットが2001年からサービスを開始したEdyは、電子マネーとしてすでに発行枚数1600万枚を超えている。サークルKサンクスなどのコンビニをはじめEdy加盟店は約3万店舗を数える。ANAと提携して飛行機利用でのマイルをEdyに交換できる画期的な相互利用サービスがEdyの利用者を大きく増やしている。そこへ2005年、新たな電子マネーサービスが3社から打ち出された。JCBのクイックペイ、UFJニコスのスマートプラス、そしてドコモのiDと、3つのクレジットサービスが、スイカ、Edyに戦いを挑む状況となった。ここに5つの電子マネー時代が到来し、少額決済60兆円市場でのバトルがはじまった。さらに、新たに6つ目のサービスが名乗りをあげる。セブン&アイホールディングスである。現在、ひとつひとつの電子マネーサービスを見ると、前払いであったり後払いであったり、利用額に上限があったりと、それぞれで違っている。しかも、非接触式ICカードを読み取るリーダー/ライターには、互換性がない。ユーザーは、どの電子マネーサービスを利用すれば使いやすくて便利なのか、それぞれのサービス内容を知っておかなければ使い手が損をすることにもなる。いったいどの電子マネーが覇権を握るのか。今後が注目される。
4.8月23日
”高台寺”(1995年3月 淡交社刊 野田文外・後藤典生/水野克比古著)は、京の古寺からシリーズの第5巻である。
著者の野出文外氏は高台寺執事長で、1925年愛知県生まれ、1934年得度。後藤典生氏は高台寺執事で、1948年京都生まれ。水野克比古氏は京都府出身の写真家で、京都の美しい風景や、歴史・文化の奥深さに魅了され、神社・仏閣を中心とした作品を発表している。高台寺は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。白山・鷲峰山・円山を背景に、深い樹林と菊渓川の流れに沿った幽境にある。豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寺号は北政所の落飾後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。霊屋の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから、蒔絵の寺の通称がある。水野氏は1989年に高台寺境内一円の写真撮影を依頼され、5年間のあいだ折にふれて訪れ撮影することになった。夏から秋にかけて、まず手始めに関山堂・傘亭・時雨亭を写し始め、撮影は、修復の工事と併行して進み、1994年の陽春には、樹齢100年という枝垂桜のライトアップによる方丈庭園を、秋には紅葉のライトアップの庭園を撮影し一応の完了をみた。修復され眠りから覚めて、桃山時代の文化を伝えてくれる建築や庭園や工芸品の数々、その栄華を極め贅を尽くした造型、佗びさびを追求した実の極致、禅機満ちた深厳の世界を、時の流れと四季の移ろいの中でかいま見ることができる。
5.8月30日
”都市再生 日本再生”(2002年11月 週間住宅新聞社刊 矢田 晶紀著)は、週刊住宅新聞に連載されてきた、”土地ビッグバン時代がやって来た”をベースに都市再生、経済特区などを核として新たに加筆してまとめたもの。
2002年の時点で、不況が12年目を迎えても、政府の経済運営の軸足が定まらず、迷走を続けていた。不退転の強い決意に裏付けられた総合的な景気回復への処方箋が示されないことから、日本経済は沈没しかねないとまで言われた。日本全体が自信喪失に陥り、先行きの不安感から、何をやってもうまくいくはずがないと、投げやりになったり、無気力になったりする危険があった。国民のマインドが萎縮し、国民の中にあきらめが広がれば、景気の足はさらに引っ張られることにつながる。市場のことは市場に任せようとする政府の考えは、一見、理想論のように聞こえるが、裏を返せば政策を放棄しているのも同然である。もう、何もしない、何もできない政府をあてにはできない。ならば、政府に頼ることなく自力で乗り切るしか方法はない。しかし、幸いなことに、政府から、都市再生、経済特区などの構想が打ち出されたので、土地=不動産に対して、視点で捉えることで、新しいビジネス展開の可能性が出てきたのである。しかも、土地の流動化を促すことは地価安定につながり、日本が抱える不良債権を解消していくことにもつながる。そこで、新視点で社会を捉え直すことで、ビジネスチャンスは広がり、長引く不況下だからこそ、より新しい発想が必要との考えが流れている。都市再生、経済特区などの政策を受けて、土地など不動産ビジネスの可能性と、日本の今後の方向を示すことを意図している。視点を変えることは、閉塞状況が続く日本だからこそ、今まで以上に大事になっており、身近な商売から政策に至るまで新しい発想が求められている。そういう点で、土地・不動産をベースに、各分野の産業界でも活用できる内容である。
6.平成20年9月6日
”大逆転―新しい日本モデルの挑戦”(2002年7月 東洋経済新報社刊 田原総一朗/金子勝/御手洗冨士夫著)は、国際競争で生き残る新日本型モデルの必要性は何かを探るための本である。
かつて、21世紀は日本の時代だと言われたことがあった。1980年代に、日本の経営は素晴らしいと言われたことは、まだそれほど遠い記憶ではない。ところが、21世紀は日本の時代ではなかった。故盛田昭夫さんは、日本的経営は素晴らしい、世界に冠たるものだと常々言っておられ、なにより家族的経営を行っているということを強調されていた。不況になつても簡単にレイオフなどしない、現場主義を重んじ、トップから現場の末端まで非常にうまくコミュニケーションがとれているというわけである。アメリカ的経営は従業員のことを考えずに、株主のことばかりを考えているからダメなのだと厳しく指摘した。そのために、アメリカ企業の従業員は愛社精神を持たず、日本企業の従業員のように強い忠誠心を持って主体的に働くことができないと断じていた。日本的経営はすばらしく、21世紀は明らかに日本の時代になる、と日本の輝かしい未来を予測した。ところが21世紀に入った今、その構図は逆転した。いまや日本的経営は先進国の中でも最悪、このままいくとアルゼンチンのように経済崩壊を起こしてしまうのではないかとまで言われている。いったいどうしてこんな逆転が起きてしまったのか。アメリカはその余りある資本を使って、新産業創出のために積極的に投資した。特に冷戦時代は軍事産業を中心に航空宇宙産業や素材産業などに投資し、そこから生まれ育ってくる技術や新産業が新しい市場を形成し、その中で独占的な地位を占めるようになった。その結果、アメリカの最先端産業は高賃金、高配当が可能となったため、頭脳も資本もさらに集まってきた。その半面、繊維や家電などの在来産業は生産性が低下して、1970年代から国際競争力を失っていった。一方、日本は戦争で生産設備を失い、廃墟の中から今すぐ生活に必要と思われるもの、それこそ鍋釜から再び作り始めなければならなかったのです。そして、次にそれを作るための設備や素材、エネルギー等を輸入するた、輸出可能な製品を作って外貨を稼がなければなりませんでした。国民の勤勉さと器用さに加え、生産技術を磨き、国際競争に打ち勝つために日本の製造業は世界で一番安くて品質のいいモノづくりを目指してがんばり、戦後の発展を果たしてきた。このような状況の中で、アメリカは開発優先型の産業構造を築き、日本は生産技術優先型の産業構造を築いていった。家電や自動車に代表されるような産業で日米の生産性が逆転し、開いていったのが70年代である。しかし、アメリカは85年のヤングレポートを参考にしながら、プロパテント政策で技術を大学に集め、それを新産業の創出に結びつけ、高付加価値産業への転換を進めた。これが90年代の日米再逆転の布石となった。90年代のアメリカを作ったのは、1つはIT産業、もう1つは金融ビジネスである。現代の新しいサービスは、OSとネットワークを握ったものが圧倒的な勝利を収める。日本はITでハンドルを握れなかったための惨敗した。日本の文化や伝統、日本人の特質を無視してアメリカの流儀に倣えばいいというものではない。日本は、日本の社会に根ざした日本独自の特性を生かして、国際競争に勝てる企業を作るべきである。日本は、戦後50年続けてきた産業政策が制度疲労を起こし、さまざまな局面で歪みが表面化している。官僚主導の保護政策が高コスト体質をもたらし、グローバルな競争力を失ってしまった。本来80年代に構造改革すべきであったが、円高不況に続く金融緩和によってバブル経済が発生し、改革の好機を逃してしまった。その結果、経済の長期低迷にあえぎ、企業の活気が失われてしまった。これまで日本を成功に導いてきたシステムを破壊して、新しいシステムを築いていかなければならないことに混乱している。日本の右肩上がり成長を支えてきた仕組みを壊さなければならない。状況は厳しいが、これを脱却すれば日本が再び活力を手にすることも決して夢物語ではない。それだけのポテンシャルを日本は持っているはずだ。もう一度日本の時代がやって来るにちがいない。そのためにも我々は、早急に新しい日本にマッチしたビジネスモデルを築いていかなければならない。
7.9月13日
”経営の極意”(2003年8月 幻冬社刊 田原総一朗著)は、不況を逆にバネにするように突き抜ける活力の秘密を披露している。
19世紀の経済成長の中で、小さな政府が主流となり、均衡財政が望ましいとされた。しかし、19世紀末から20世紀にかけて、重化学工業の割合が次第に高まっていくとそれまでの景気循環のパターンは次第に崩れていった。第一次世界大戦後、世界的に反動不況が訪れ、1929年、アメリカの景気が腰折れ世界恐慌が勃発すると、未曾有の経済不均衡が発生した。イギリスでは、ケインズが、賃金の下方硬直性に注目し、古典派の枠組みでは現下の問題が解決できないと考え、雇用・利子および貨幣の一般理論を著した。以後、様々な経済学者により再編され、ケインズ経済学が成立し、これまで、経済政策における理論的支柱の役割を果たしたが、不景気が長期化したときには有効でない。日本では、政府はやれる政策はすでにもう徹底的にやっている。それでも景気はよくならない。それどころか、悪くなっている。まさに、ケインズ自身が認めているケインズ政策が効かない状況に入っている。景気の長期低迷の原因を、ほとんどのメディアが、政府の経済政策が間違っていた、失政であると指摘している。しかし、経済政策が失敗したといういい方は、実は間違いではないか。なぜなら、どの内閣も一生懸命に減税をし、金利を下げ、国債を発行して公共事業をやってきた。にもかかわらず、景気は何役するどころかどんどん悪くなってきている。ほかにどういう方法があったのだろうか。どのメディアも、歴代内閣の経済政策の失敗を非常に強く強調するが、それに対する対案はほとんど示さない。構造不況が10年以上も続いた最大の原因は、学者やエコノミスト、ジャーナリストを含めて、国民の多くが政府の政策次第でこの不況を回復できると思い込んでいたことだと考える。政府側も、政策次第で構造不況から脱却できると傲慢にも思い込んでいた。政府は何もできないのにできるかのようなふりをし、学者やエコノミスト、ジャーナリストも無責任な政府批判というお上頼みを続けてきた。そして、この二重の誤解こそが失われた12年を生み出した。不況の原因は、冷戦が終わり冷戦中は米ソの代理戦争の戦場だったアジアが平和になり安い労働コストを求めて日本の工場が数多く転出していったこと、IT時代になって世界中で情報が共有できるようになったこと、バブルが弾けて日本人は個人法人を合わせて1200兆円の資産を失ったことである。この構造不況から脱却するには、アメリカが60年代末からの低迷を、IT産業、金融ビジネスなど新しい産業を創出して脱却したように、ほかの国にない新しい技術を開発して新産業を創り出すことである。日本にはその可能性は大いにある。ただし、あくまで主役を務めるのは民間企業である。政府の役割は民間企業が自由に活動できる環境作りに協力することである。
第1部 構造不況に勝つ経営
・アメリカ的経営では、日本企業はダメになる キヤノン代表取締役社長・御手洗冨士夫
・日産の敵は日産にあり 日産自動車社長・カルロス・ゴーン
・デフレだから安売りするというのは全くの誤り イトーヨーカ堂代表取締役会長・鈴木敏文
・我々はすべてを変える、変えるべきだという前提でやってきた アサヒビール相談役・樋口広太郎
・わが社はエリートしかいらない。エリートの集団を育てる 伊藤忠商事代表取締役社長・丹羽宇一郎
・誰でも一度は勝てる。が、勝ちつづけるということは非常に難しい セコム創業者・飯田亮
・トップの器量によって会社は伸びる。経営には哲学が必要だ 京セラ創業者・稲盛和夫
・金は稼ごうと思うと稼げないものだ。金なんていうのは研究のあとからついてくる 浜松ホトニクス代表取締役社長・晝馬輝夫
・長銀はわざわざ倒産を目指す経営をしていた 新生銀行代表取締役会長兼社長・八城政基第2部 フロンティアに学ぶ経営
・トップランナーとして、市場を掘り起こせ ソニー創業者・盛田昭夫
・財テクをするな、本業に徹しろ 松下電器産業創業者・松下幸之助
・事にあたって狂の世界に入れ 京セラ創業者・稲盛和夫
・柳の下にどじょうは一匹。エンターテイメントに二番手はない 任天堂代表取締役相談役・山内溥
・「袖の下」を使うと会社は腐る。お客さんからの無理難題の中に未来の種がある 太陽工業創業者・能村龍太郎
・一等地ならお店が腐り、二等地ならお店が考える イトーヨーカ堂代表取締役会長・鈴木敏文
8.9月20日
”次代のエースは育っているか?”(2004年12月 同友館刊 佐藤 政人著)は、コア人材の育成について解説している。
いま、リストラからヒトを育てる次代に変わった。コア人材とは、経営者的思考で時代変化に対応できる次世代の企業家型リーダーである。各事業や経営機能を中核的なポジションで実質的に支え、現在または将来の業務執行上欠かせない人材である。経営トップに就任するのが50歳代後半とすると、スーパースター的なキーバーソンや、スーパースターに続くコア人材は、どうしても40歳代から50歳代になる。30歳代ではかなり活躍している社員がいても、社内の序列のためあまり目立たない。時には、上司に手柄を横取りされたまま、埋没してしまうことさえある。会長や社長ならば企業の顔として目立つが、コア人材が輝いておらず、宝の持ち腐れ状態になっていることもめずらしくない。特定分野における貢献度がきわめて高いスーパースターでさえ、埋没しているケースもある。これまでの年功的な序列や処遇を重視しすぎた弊害とも言える。スーパースターといえども、他の一般社員と責任・権限、処遇面などがほとんど変わらないこともある。若ければよいというわけではないが、40歳代のトップ人材を生むだけの素地のある企業や、30歳代・20歳代のコア人材が生き生きとしている企業は、活気があふれている。中核的な人材が、50歳代や60歳代の先輩の協力を得ながら、うまく舵取りしていくことができることがこれから大切である。しかし、若手の急成長と登用は一朝一夕には実現できない。方針の浸透、組織・人事制度や人材開発方法の変更など、やるべきことがたくさんある。そこで、風土改革、英才教育、コア人材の退職予防、人事制度による後押しがポイントになる。メリハリのある経営を勧めている。
9.9月27日
麻生さんと小泉さん
9月24日に首班指名が行われた。衆参で首班指名が異なり、衆議院は自由民主党総裁の麻生を指名し、参議院は民主党代表の小沢一郎を指名した。両院協議会でも成案を得るに至らず、衆議院の優越により衆議院で指名された麻生太郎を国会の指名として衆議院議長が奏上した。指名当日に宮中における内閣総理大臣の親任式、および、国務大臣及び内閣官房副長官の認証式を経て内閣が成立した。麻生総理大臣が自らが閣僚名簿を読み上げ、併せてそれぞれの閣僚に具体的にやってもらいたい仕事についても説明した。閣僚の平均年齢は58.2歳と前内閣から4歳近く若返った。内閣府特命担当大臣で初入閣した小渕優子が任命時34歳と9か月と戦後最年少での閣就任となった。しかし、前内閣からの再任者が5名おり、初入閣も5人で、必ずしも清新さを狙った若返り人事というわけではない。父または祖父が内閣総理大臣経験者が吉田茂の孫である麻生首相を筆頭に、鳩山、中曾根、小渕と4人もいて、世襲政治家11人の多数に及んだ。財務大臣が金融担当特命大臣を兼ねた点が注目されている。一方で、小泉元首相が政界を去る。5年半の任期で進めた小泉改革は日本経済や暮らしに光と影を残した。改革なくして成長なしと繰り返し、財政再建を目指し、公共事業頼みの旧来型の自民党政策と決別し、公共事業費は01年度~06年度で約3割減った。しかし、市場万能主義、規制緩和万能論の路線が貧困と格差を拡大した。かなり小粒になった感もある自民党、これから先はかなり厳しそうである。
10.平成20年10月4日
”京の古寺から8 常寂光寺”(1995年6月 淡交社刊 長尾憲彰/橋本健次著)は、天龍寺と二尊院の間にはさまれ、小倉山植生の豊かな緑にまるで身を隠すようにしているささやかな山寺、常寂光寺を紹介している。
長尾憲彰氏は、1926年京都府生れ、1952年京都大学心理学科卒業。常寂光寺住職の傍ら、大阪市立大学助手、大阪児童相談所・同身障者福祉センター技術吏員、花園大学教授、龍谷大学助教授等を歴任。橋本健次氏は、1947年京都市生まれ、1967年よりアマチュアカメラマンとして活動、二科展入選10回。1982年よりフリーカメラマンとして独立。お寺は、百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。小倉山の中腹に、本堂、妙見堂、多宝塔などが並んでいる。平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、1596年に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。常寂光寺には塀がなく、あるのは生垣ばかりである。おそらく隠栖処に始まるこの寺の生い立ちと、この辺りの小倉山の風光そのものが、こういう塀のない形を作ったものと思われる。多宝塔は国の重要文化財で、1620年建立、高さ12m、檜皮葺である。本堂は桃山城の客殿を慶長年間に移築したものである。
11.10月11日
恐慌の前触れか
金融危機の深刻化を受けた欧米株安や円高に、日経平均株価が一時1万円を割った。金融不安や信用収縮の流れに、実体経済への悪影響の懸念が加わり、リスク資産による世界的な株離れの状況にある。東証1部銘柄の79%が下落し上昇は18%、出来高は29億6513万株、売買代金は2兆5271億円であった。トヨタ、ホンダの自動車株が大量の売りを浴び、シャープ、ソニー、キヤノンのハイテク株が総じて軟調であった。下値が見えない局面に入って、欧米系の年金、ヘッジファンドが主体となって売りが活発になっている。為替が1ドル100円割れにでもなればハイテク株にも下げがさらに波及しそうである。金融安定化法案が下院で1度否決されたことに起因するように思う。下院が法案を否決したことで、投資家が米政府の指導力に絶対の信頼を置けなくなってしまったようである。今後、各国による協調利下げなど金融面の対策、米国の金融安定化法の効果はあるのであろうか。米株の底入れ時期はいつごろになるであろうか。日本では日経平均は1989年12月をピークに下落し始め、2003年にボトムアウトするまで13年かかった。こんなに長期化しないでもらいたい。
12.10月18日
CDS損失リスク
米証券大手リーマン・ブラザーズが経営破綻して1カ月が経過したが、世界的な連鎖株安が続くなど金融市場の激震が収まらない。国際スワップ・デリバティブ協会(ISDA)は、破綻した米証券大手リーマン・ブラザーズを対象にしたクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の清算価格が元本の8.625%に決まったと発表した。総額約4000億ドル(約40兆円)と見られるリーマン関連のCDSの価値が9割以上吹き飛んだ形である。欧米では金融危機克服の切り札とされる公的資金による金融機関への資本注入に踏み切る動きが出始めたが、先行き不安はなお根強い。CDSは、融資先や社債の発行体である企業が倒産して債権が焦げ付く可能性に備えた保険商品のような金融商品で、債権者ではない第三者も買い手になれる点などが特徴で、投機的な性格を持つ。CDSの買い手は、売り手に保証料を払う代わりに、企業の倒産時には売り手から回収不能となった債権の元本の補填を受ける。企業が倒産する可能性が高いほど、保証料率も高くなる。リーマンを対象企業とするCDSのスプレッドは破綻直前に3%から7%に跳ね上がった。リーマン破綻以降、連鎖破綻懸念が広がり、欧米の金融機関のスプレッドは軒並み急上昇した。スプレッドの拡大は破綻リスクの上昇を意味し、金融機関の信用力の低下を招く。その結果、金融機関は資金調達がしにくくなり、資金繰り難で破綻を余儀なくされる懸念がさらに高まるという悪循環に陥っている。CDSは取引所ではなく、金融機関同士の相対で取引されるため、各金融機関にどれだけ損失が発生しているのか、にわかには見えない。ISDAによると、6月末時点の取引残高は54兆6000億ドル(5460兆円)に達し、世界のGDP(48兆ドル)や株式時価総額(49兆ドル)を上回る。リーマン関連のCDSをどの金融機関が、いくら保有するかは明らかになっていない。金融機関同士が疑心暗鬼となり、短期金融市場でお金を借りられなくなる一因になった。また、金融機関が手元資金の確保に動き、保有株式を相次いで売却して株式相場下落を招いていた。清算価格決定で損失額が確定するため、新たに破綻する金融機関が出る可能性がある。一方、健全な金融機関も明確となり、不安が沈静化する効果もある。あと、ここ1カ月が見所である。
13.10月25日
”京の古寺から10 寂光院”(1995年8月 淡交社刊 小松智光/大木 明著)は、尊、地蔵菩薩、開基、聖徳太子と伝える平清盛の娘・建礼門院が平家滅亡後隠棲した平家物語ゆかりの寺を写真と文章で紹介している。
寂光院の四季が紹介されている。特に、紅葉の季節の風景が印象深い。著者の小松智光氏は1910年滋賀県伊吹町に生まれ1920年得度し、比叡山専修院大学課程修了。1945年に寂光院門主となり、1987年に女性初の天台宗大僧正となった。大木 明氏は1956年千葉県成田市生まれ、広告代理店の写真部を退社後フリーの写真家として独立した。1993年より仏教遺跡、寺社等の撮影を本格的に始めた。寂光院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院で、山号、清香山、寺号、玉泉寺である。寂光院の草創について明確なことはわかっていないが、寺伝では594年に聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされる。初代は聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、その後、代々高貴な家門の姫君らが法燈を守り続けた。第二代の阿波内侍は、崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家のあと1165年に入寺し、証道比丘尼となった。建礼門院に宮中より仕え、草生では大原女のモデルとされている。第三代の建礼門院徳子は、1185年に入寺し真如覚比丘尼となった。建礼門院徳子は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母である。1185年、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。1186年に建礼門院をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れた。本尊は、聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊であったが、2000年5月9日発生の火災により損傷したため収蔵庫に安置することとし、現在は財団法人美術院によって復元された本尊が、本堂に安置されている。現在の本堂は、内陣および柱は、飛鳥様式、藤原様式および平家物語当時の様式で、外陣は1603年に豊臣秀頼が、片桐且元を工事奉行として修理させた桃山様式のものを、古式通りに忠実に復元したものである。また、江戸時代には、豊臣秀頼や徳川家康、淀君らが再興に手を尽くした。
14.平成20年11月1日
アイスランド
アイスランドは、北ヨーロッパ、北大西洋にある国家で、グリーンランドの南東方、ブリテン諸島やデンマークの自治領であるフェロー諸島の北西に位置する。アイスランド島が主な領土で、イギリスとのタラ戦争の舞台にもなった漁業基地であるヴェストマン諸島、北極圏上にあるグリムセイ島などの周辺の島嶼も有する。クレジットカードやインターネットバンキングなどによりキャッシュレス決済が進み、現金決済が著しく少ないことで有名である。全体のGDPは少ないが、国民一人当たりでは世界でも2006年時点で世界5位に位置する。さらに国際競争力も高く、世界4位、ヨーロッパ1位となっており、小国ながら特筆すべき経済力を持っている。産業としては、金融部門の伸びが著しく、金融、不動産がGDPにしめる割合は、26%に達している。一方、従来の主力産業であった漁業は、GDPに占める割合は2006年時点で6%となっている。アイスランド政府は投資家の関心に対し注意を払っており、サブプライム問題で世界中で金融不安が囁かれた時も、不安を払拭すべくエコノミストによる自国金融機関の安全性に関するレポートを出すなど対策を行ったが、2008年9月から顕在化した世界金融危機により、アイスランド経済は危機に陥っている。2008年9月29日にグリトニル銀行が政府管理下に置かれ、クローナの対ユーロ相場は大幅に下落した。10月6日には政府が非常事態を宣言し、議会はアイスランド国内の全銀行を政府管理下に置くという法案を可決した。10月7日にはランズバンキが管理下に置かれ、9日には最大手のカウプシング銀行も管理下に置かれた。こうした危機を乗り切るため、アイスランド中央銀行は10月8日にロシアから40億ユーロの緊急融資を受けることを発表した。しかし、危機は収まらず、10月14日に国際通貨基金に正式に支援を要請した。そして、10月27日にカウプシング銀行のサムライ債780億円が事実上のデフォルトとなった。国内の大手銀行が破綻したり、深刻な状態に陥っている今、アイスランドの危機は軽視できない。アイスランドの経済は銀行もろとも波に呑まれ、国が破産する危険性が現実にある。アイスランド中央銀行によると、同国の銀行が外国から借り入れている負債は、今年第2四半期に直近1年間のGDPの6倍の水準まで積み上がっているそうである。アイスランド当局は巨費を投じて銀行システムの機能回復を図る一方、アイスランドの銀行が破格の安値で資産売却を急ぎ、財務状況を洗い直す過程で外国の債権者にも損失が発生することになる。ここ1か月が見ものである。
15.11月8日
非正社員
厚生労働省が発表した「就業形態の多様化に関する実態調査」(2007年10月実施)によると、全労働者のうち、契約社員や派遣労働者ら非正社員が占める割合は37.8%で、4年前の調査より3.2ポイント上昇したそうである。非正社員のうち、最も多いパートタイムは全労働者の22.5%で0.5ポイント低下した。2位の派遣は4.7%と前回の2.0%から倍増した。しかし、金融危機に伴う景気後退が懸念される中、派遣社員に対する企業の過剰感を示す指数がかなり上昇している。特に円高の影響を受けやすい輸出型製造業では、過剰が不足を26ポイントも上回り、派遣の再契約停止など雇用調整の動きも出始めている。正社員や契約社員・パートに対する不足感も低下しており、業況悪化の影響が懸念されている。派遣労働者の半数近くは正社員で働くことを望んでいるが、不況下で、派遣労働者が職を失う派遣切りが広まっている。しばらくは目が離せそうもない。
16.11月15日
”京の古寺から9 法金剛院”(1995年7月 淡交社刊 河合戒本/水野克比古著)は、多くの古仏を伝え、平安時代の浄土式庭園を残す寺として知られ法金剛院を写真と文章で紹介している。
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院である。山号を五位山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は待賢門院とされる。花の寺としても知られているが、とりわけ蓮の名所として名高い。著者の川井戎本氏は、法金剛院住職で、1922年奈良県生まれ。龍谷大学文学部卒業。1952年法金剛院住職となり、現在に至る。奈良の唐招捏寺牟尼蔵院住職を兼務。水野克比古氏は、1941年京都市上京区生まれ。1964年同志社大学文学部卒業。1969年から、フリーランス・フォトグラフアーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組む。法金剛院は、くから名勝の地として知られる双ヶ丘の東麓にある。付近には妙心寺、仁和寺などの名寺院や史跡も多い。この地には平安初期の貴族・清原夏野(782年 - 837年)の山荘があり、夏野の死後、山荘を寺に改めたものが当寺の前身であるという。858年、文天皇の発願で伽藍を建立し、天安寺と称した。その後、寺運は衰えたようだが、3世紀ほど経た平安末期の1130年、待賢門院(1101年 - 1145年)により再興された。待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母である。最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所などが立ち並んでいたという。庭園は数少ない平安時代の庭で、名勝。桜、蓮、紅葉など四季折々に美しく、その美観は西行の歌にも詠まれた。西行が美貌の待賢門院を深く思慕していたことも知られている。本尊の阿弥陀如来は藤原時代の代表作で重文。十一面観音、地蔵菩薩、僧形文殊菩薩も重文。
17.11月22日
”バブルとデフレ”(1998年12月 講談社刊 森永 卓郎著)は、バブルの発生のメカニズム、平成不況の原因、日本経済再生の処方箋などを解説している。
アメリカ発の金融危機の広がりで世界経済が一段と下振れしている。かつて日本が経験したバブルとデフレが身近なものになりつつあるような気もする。実体経済は人間の心理の集積である。経済理論は過去に起きた事象を分析できるが、予測することには殆ど成功していない。1億総バブルから恐慌型デフレへ、経済学だけでは理解できない異常事態はなぜ生じたか。人間は往々にして全く非論理的な熱狂に身をまかせてしまうことがある。オランダのチューリップバブルに始まり、今までに数百回起こったバブル現象では、単純な詐術に大衆がのめり込んでしまった。世代が変わると前の痛みを忘れて、またまたひっかかってしまう。日本がデフレ・スパイラルに入り込んだ要因は、多くの商品について市場原理が不徹底であるために企業が値崩れを防ごうとして生産調整を行っていたこと、日本経済が不調であることを説明するもっともらしい理論がミームの生存競争で勝つこと、日本経済の悪化を日本人が内心楽しんでいるのではないかということである。ミームとは、オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンスが1976年の「利己的な遺伝子」の中で作り出したもので、生活と文化に関する科学の分野でいま起きているパラダイムシフトの中心に位置している。今度のアメリカ発の不動産と証券のバブル崩壊でデフレは起こらないであろうか。
・バブル経済のメカニズム 人々を熱狂させる三原則
・うたかたの「日本神話」 銀行が倫理を踏みはずした日
・終わらなかったバブル フタコブバブルの正体
・デフレと恐慌の原理 恐慌深化を回避する方法
・ポスト・デフレの日本経済 モノ作りと知的創造
17.11月22日
”バブルとデフレ”(1998年12月 講談社刊 森永 卓郎著)は、バブルの発生のメカニズム、平成不況の原因、日本経済再生の処方箋などを解説している。
アメリカ発の金融危機の広がりで世界経済が一段と下振れしている。かつて日本が経験したバブルとデフレが身近なものになりつつあるような気もする。実体経済は人間の心理の集積である。経済理論は過去に起きた事象を分析できるが、予測することには殆ど成功していない。1億総バブルから恐慌型デフレへ、経済学だけでは理解できない異常事態はなぜ生じたか。人間は往々にして全く非論理的な熱狂に身をまかせてしまうことがある。オランダのチューリップバブルに始まり、今までに数百回起こったバブル現象では、単純な詐術に大衆がのめり込んでしまった。世代が変わると前の痛みを忘れて、またまたひっかかってしまう。日本がデフレ・スパイラルに入り込んだ要因は、多くの商品について市場原理が不徹底であるために企業が値崩れを防ごうとして生産調整を行っていたこと、日本経済が不調であることを説明するもっともらしい理論がミームの生存競争で勝つこと、日本経済の悪化を日本人が内心楽しんでいるのではないかということである。ミームとは、オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンスが1976年の「利己的な遺伝子」の中で作り出したもので、生活と文化に関する科学の分野でいま起きているパラダイムシフトの中心に位置している。今度のアメリカ発の不動産と証券のバブル崩壊でデフレは起こらないであろうか。
・バブル経済のメカニズム 人々を熱狂させる三原則
・うたかたの「日本神話」 銀行が倫理を踏みはずした日
・終わらなかったバブル フタコブバブルの正体
・デフレと恐慌の原理 恐慌深化を回避する方法
・ポスト・デフレの日本経済 モノ作りと知的創造
18.11月29日
不動産不況
サブプライムローン問題を発端とした世界的な金融不安、大きく下落した株価、改正建築基準法を契機とした住宅着工の落ち込み、地価上昇と建築資材高騰により値上がりした新築マンションや建売住宅の売行きダウンして、2008年10月の倒産件数が今年最多を記録した。公共工事の減少で建設業の倒産が増えている。とくにファンドマネーに頼っていた新興デベロッパーほど影響が顕著で、その建設工事を請け負っていた地方や中堅のゼネコンも痛手を受けているようである。今年に入ってから倒産した主な不動産会社とゼネコンは次の通りである(不動産会社負債総額50億円未満省略、ゼネコン負債総額100億円未満省略)。
1月 六本木開発 (東京) 非上場 破産 負債総額1,340億円
2月 グレイス (神奈川) 非上場 破産 負債総額110億円
2月 アジャクス (神奈川) 非上場 破産 負債総額128億円
2月 長田組土木 (山梨) 非上場 民事再生法 負債総額107億円
2月 東洋ホーム (神奈川) 非上場 破産 負債総額94億円
4月 ケイアール不動産 (東京) 非上場 特別清算 負債総額1,677億円
4月 スカイエステート (東京) 非上場 特別清算 負債総額198億円
5月 ミキシング (大阪) 非上場 民事再生法 負債総額186億円
5月 近藤産業 (大阪) 非上場 破産 負債総額322億円
5月 フレックス (東京) 非上場 破産 負債総額114億円
6月 レイコフ (大阪) ヘラクレス 破産 負債総額276億円
6月 NANBU (東京) 非上場 破産 負債総額87億円
6月 スルガコーポレーション (神奈川) 東証2部 民事再生法 負債総額620億円
6月 ケイ・エス・シー (東京) 非上場 破産 負債総額100億円
6月 インベスト (福岡) 非上場 会社更生法 負債総額97億円
6月 愛松建設 (愛知) 非上場 民事再生法 負債総額155億円
7月 真柄建設 (石川) 東大証1部 民事再生法 負債総額348億円
7月 堀田建設 (愛媛) 非上場 民事再生法 負債総額110億円
7月 ダイドー住販 (大阪) 非上場 民事再生法 負債総額248億円
7月 グローバルファンデックス (東京) 非上場 破産 負債総額63億円
7月 ゼファー (東京) 東証1部 民事再生法 負債総額949億円
7月 キョーエイ産業 (広島) ジャスダック 民事再生法 負債総額87億円
7月 北野組 (北海道) 非上場 破産 負債総額125億円
7月 興大 (東京) 非上場 破産 負債総額55億円
7月 三平建設 (東京) ジャスダック 民事再生法 負債総額167億円
7月 蒐英 (広島) 非上場 民事再生法 負債総額51億円
7月 マツヤハウジング (東京) 非上場 民事再生法 負債総額279億円
7月 ハウジング大興 (東京) 非上場 民事再生法 負債総額138億円
7月 多田建設 (東京) 非上場 会社更生法 負債総額179億円
8月 丸美 (福岡) 非上場 民事再生法 負債総額220億円
8月 志多組 (宮崎) 非上場 民事再生法 負債総額278億円
8月 アーバンコーポレイション (広島) 東証1部 民事再生法 負債総額2,558億円
8月 協同興産 (東京) 非上場 破産 負債総額753億円
8月 セボン (東京) 非上場 民事再生法 負債総額621億円
8月 創建ホームズ (東京) 東証1部 民事再生法 負債総額338億円
8月 都市デザインシステム (東京) 非上場 民事再生法 負債総額203億円
9月 エフ・イー・シー (東京) 非上場 民事再生法 負債総額130億円
9月 Human21 (東京) ジャスダック 民事再生法 負債総額464億円
9月 シーズクリエイト (東京) 東証1部 民事再生法 負債総額114億円
9月 リプラス (東京) マザーズ 破産 負債総額325億円
9月 ランドコム (神奈川) 東証2部 民事再生法 負債総額309億円
9月 インテックス (東京) 非上場 民事再生法 負債総額54億円
10月 エルクリエイト (神奈川) ジャスダック 破産 負債総額60億円
10月 新井組 (兵庫) 東大証1部 民事再生法 負債総額427億円
10月 ニューシティ・レジデンス投資法人 (東京) J-REIT 民事再生法 負債総額1,123億円
10月 井上工業 (群馬) 東証2部 破産 負債総額115億円
10月 ノエル (神奈川) 東証2部 破産 負債総額414億円
10月 康和地所 (東京) 非上場 民事再生法 負債総額143億円
10月 ダイナシティ (東京) ジャスダック 民事再生法 負債総額520億円
11月 ディックスクロキ (福岡) ジャスダック 民事再生法 負債総額181億円
11月 環商事 (滋賀) 非上場 破産 負債総額198億円
11月 レアルシエルト (東京) 非上場 民事再生法 負債総額131億円
11月 モリモト (東京) 東証2部 民事再生法 負債総額1,615億円
19.平成20年12月6日
”京の古寺から11 真如堂”(1995年9月 淡交社刊 清水真澄/土村清冶著)は、正式には真正極楽寺といい天台宗の寺院である真如堂の四季の風景を見事に写している。
真如堂は京都でも名高い紅葉の名所である。清水真澄氏は真正極楽寺貫主、1912年群馬県生まれ。1933年天台宗立叡山学院卒業、1943年真如堂理正院住職に就任、1981年大僧正に補任、1989年真正極楽寺買主に就任。土村清治氏は、1937年京都生まれ。浅野喜巾氏に師事。1963年より京都の風俗、伝統産業、年中行事などを取材。戒算上人が984年に、延暦寺の常行堂に安置された阿弥陀如来像を神楽岡に移し開創した。願主は白川女院で、藤原山蔭の玄孫で、円融天皇の皇后となり、一条t天皇の生母である。名を詮子といい、藤原道長の姉である。当初の場所は、現寺地の東北にあたり元真如堂という。応仁の乱のあと各所を転々して、1693年に現在地に落ち着いた。本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師円仁作、千手観音菩薩立像は伝教大師最澄作、不動明王坐像は三井寺の開祖・智証大師作。寺宝には、室町時代の重要文化財・真如堂縁起三巻のほか、仏師・運慶の願経として名高い国宝・法華経六巻などある。三重塔が優美な姿で、本堂南側の庭に春日局お手植えのたてかわ桜、前には、優美な姿の三重塔そして鎌倉地蔵がある。境内には九つの塔頭と元三大師堂や赤崎弁財天があり広い。墓地には後西天皇の皇女真珠院宮の墓をはじめ、藤原氏一門や春日局の生父・斉藤内蔵助利三など、著名な人の墓が多い。
20.12月13日
内定取消
金融危機の余波が金融・証券だけでなく、自動車や家電など、実体経済に及んできている。これまで売り手市場だった大学生の就職活動に、突然、氷河期再来の危機が迫っている。景気減速で多くの企業が新規採用を絞り込むのが確実となっている。雇用状況改善の兆しがみられない中、多くの学生が不安を抱え、年の瀬を迎えている。採用の内定は、解約権を留保した労働契約である。採用内定により原則として労働契約は成立する。新卒の高校生あるいは大学生の採用については、在学中に採用を内定し卒業後入社するという採用方法が採られている。採用内定と現実の仕事の開始時期までには数カ月の間隔があるのが通常である。採用内定後学生は、就職活動を中止するので、入社直前になって採用内定を取消されると事実上新しい就職先を確保するのは困難となり、その被害は計り知れない。使用者が、当該従業員として採用する旨の確定的意思を表示したことにより、労働契約が締結されたと認められた後の取り消しは、労働契約の解約となるので、原則として解雇に該当し、合理的と認められる正当な理由がなければ、無効となる。採用内定の取り消しは、客観的に合理的で社会通念上相当として是認できる事由がある場合に限られる。仮に合理的理由があり内定取消ができるとしても、労働基準法で定める解雇予告規定の適用があり、30日前までに予告をするか、30日分以上の平均賃金を支払う必要がある。また、採用内定の取り消しに対しては、損害賠償請求と従業員たる地位の確認の請求訴訟ができる。経営上の理由で自宅待機をさせる場合には、休業手当の支払いが必要である。しかし、内定の取消しを受けた学生は、実際問題としてここまで頑張れるであろうか。
21.12月20日
雇い止め
非正規雇用は、期間を定めた短期契約で職員を雇う雇用形態である。パート、アルバイト、契約社員、派遣社員などの非正規雇用者は、バブル経済崩壊後の平成不況では、コスト削減の圧力から正規雇用である正社員の採用を抑制し、非正規雇用の非正社員を増やすことで、業務に対応してきた。非正社員の比率は少しずつ増加し、2005年には約3割を占めるようになった。2008年1~3月期平均データでは過去最高34.0%を記録し、3人に1人超を占めるようになった。多くの場合、3か月または6か月の有期雇用の契約書を企業と結んでいる。しかしそれはほとんど形式だけで、何度も契約を更新して正社員と同じうに働いているのが実情である。正社員の場合は期間の定めなく雇用されており、一方的に解雇されることはない。しかし、パートやフリーターは業績不振などがあると、契約期間満了を理由に雇い止めされる。しかし今回は、契約期間満了前の契約解除が起きている。本来、有期雇用契約においては、契約期間中はやむを得ない事由による以外解雇は出来ない。しかし、当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる(民法628条)ことになっている。やむを得ない事由とは、当事者が予見しえず当事者の責めに帰することができない事実の発生、および当初の契約内容に当事者を拘束することが極めて過酷になった場合とされる。これまでは、よほどのことがない限り認められた例はないが、今回の世界的な金融危機で、非正規労働者の大量解雇が表面化した。解雇された非正規労働者は、失業と同時に借り上げの寮やアパートから追い出される人が増えているようである。会社も自治体も国も、できる限りの支援が必要であろう。
22.12月27日
”京の古寺から(12)祇王寺”(1995年10月 淡交社刊 高岡智照/大木 明著)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院、祇王寺の四季を、写真と文章で紹介している。
祇王寺は、浄土宗の僧、良鎮が創建した往生院に、平清盛の寵愛を受けた白拍子祇王・仏御前が入寺した寺という。その後往生院は衰退し、明治初期一時廃寺となったが、嵯峨大覚寺の支配下で真言宗となり、富岡鉄斎らの尽力により復興された。高岡智照氏は、1896年大阪府生まれ、1908年大阪宗右衛門町で舞妓となり、1911年東京新橋へ転籍、1915年妓籍を去り、1929年奈良県に隠棲し「ホトトギス」門下に入り、1934年奈良県久米寺にて出家得度し、亮弘坊智照となる。1936年京都大覚寺塔頭祇王寺に入人庵、1994年10月22入寂、享年98歳であった。大木明氏は、1956年千葉県成田市に生まれ、広告代理店の写真部を退社後、フリーの写真家として独立。コマーシャル写真、エデイトリアル写真を中心に1980年から1992年に渡り取り組み、1993年より仏教遺跡、寺社等の撮影を本格的に始めた。祇王寺は、京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にあり、真言宗大覚寺派に属する尼寺である。法然の門弟良鎮によって始められたと伝えられる往生院の境内にあり、かつては広い地域を占めていたが、しだいに荒廃してささやかな尼寺として残った。平清盛の寵を失い、尼となった白拍子祇王と、妹の祇女、母の刀自らがこもったことにちなんで、のちに祇王寺とよばれるようになった。平家物語の巻頭から読み進むと、祗王祗女のことが出てくる。平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹は、近江の国野洲江辺庄の生れで、父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが、罪あって北陸に流された。母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていた。ある時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っている。しかし、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛寵愛を受けると、祗王は館を追い出されることになった。のちに、祗王21、祗女19、母刀自45のとき、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て仏門に入った。その後、母子3人が念仏している所へ思いもかけず仏御前が剃髪した尼の姿で訪ねてきて、4人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた、という。1895年に京都府知事が嵯峨にある別荘の一棟を寄付し、嵯峨の有志、富岡鉄斎、大覚寺門跡楠玉諦らによって、祇王ゆかりの寺として再建された。仏間には正面に本尊大日如来、左に清盛、祇王、刀自、右に祇女、仏御前の木像が安置されている。寺の墓地にある宝篋(きょう)印塔は、祇王、祇女、刀自の墓、五輪塔は平清盛の供養塔で、いずれも鎌倉時代のものである。
23.平成21年1月10日
ワークシェアリング
雇用環境の悪化に伴い、派遣切りどが社会問題化する中、ワークシェアリングの導入が対策として急浮上してきた。ワークシェアリングとは、雇用の維持・創出を目的として労働時間の短縮を行うものである。短時間勤務や隔日勤務など多様な働き方の選択肢を拡大するために社会全体で取り組む多様就業型ワークシェアリングと、生産量が減少し雇用過剰感を抱える企業において、所定労働時間の短縮とそれに伴う収入の減額を行うことにより雇用を維持するための緊急対応型ワークシェアリングがある。厳しい雇用情勢に対応した当面の措置として緊急対応型ワークシェアリングに緊急に取り組むことは1つの選択肢である。経営者は、雇用の維持に努め、労働者は、所定労働時間の短縮にそれに伴う収入の取り扱いについて柔軟に対応するよう努める。1人当たりの労働時間を短縮することなどで雇用を維持する効果が期待されるが、日本では過去の不況時にも政府や経済界が推進を試みたものの、各企業に浸透しなかった。オランダなど欧州で成功事例があるが、産業別労組が多い欧州と企業別労組が中心の日本とでは労使関係が大きく違い、参考にするのは難しいようである。それよりも失業者に対するセーフティーネットの拡充などの雇用対策を優先させるべきだという考えもある。しかし、ワークシェアリングと思われる方法を実施するところが出てきた。モーター製造大手の日本電産である。国内のグループで約1万人いる一般社員の賃金を2月から最大5%削減する方針を明らかにした。2008年3月期までの5年間で連結売上高が3倍になるなど、業績拡大を続け春には6%の賃上げを実施したが、2009年3月期の連結営業利益が減益になる見通しになり、賃金削減に踏み切ることにした。役員報酬の減額幅も最大5割カットに拡大する。業績が好調な日本電産コパル電子を除く国内の全社員が対象で、会社の業績に応じて減額幅は1~5%であり、労働組合があるグループ会社は既に労使間で合意しているそうである。
24.1月17日
”進化経済学のすすめ”(2002年6月 講談社刊 江頭 進著)は、進化論の考え方を受け入れた進化経済学の概要を説明している。規制撤廃、産業再編成、市場第一主義、グローバライゼーションなどを、変化と淘汰という視点から読んでいる。
19世紀、ラマルク、マルサスらによる進化論は、ダーウィンによって発展・継承された。ダーウィンは、1859年に『種の起源』を発表し、小さくランダムな変化が時間と共に蓄積していき、経済的な力が強く求められる状況下ではまったく新しい形質の発現に至る大規模な変化になるというプロセスを解釈するための一般的枠組みを開発した。進化経済学は、この生物学の考え方に基づいて定式化したもので、スペンサーの進化論、ヴェブレンの制度進化論、ハイエクの進化論と発展してきた。この考え方では、シュンペーターやヴェブレンの資本主義観を受け継ぎ、経済の進化が重視される。経済の時間的変化は制度や技術、そして諸個人の選好の不可逆的な変化を伴う過程、つまり進化的な過程であるとする。経済主体間の相互依存性や競争、経済成長、資源の制約などが強調される。伝統的な経済理論は主に物理学の考え方に基づいて定式化されており、労働力や均衡、弾力性、貨幣の流通速度などの経済用語が、物理学上の概念から名付けられている。伝統的経済理論では希少性の定義から始まり、続いて合理的な経済主体の存在が仮定される。すべての経済主体の意思決定に必要とされる情報はすべて共有され、経済主体の選好関係は所与のもので、他の経済主体によって影響されないと仮定される。これらの前提条件による合理的選択は、解析学的手法、とりわけ微分法に置き換えることができる。これに対して、進化経済学は進化論の考え方から派生し、各経済主体や彼らの意思決定の目的は固定されたものではないとする。社会システムの進化という視点から見ると、個々の企業の独立性が高く、失敗した経営者が引退しなければならないルート128号線・日本型システムの場合は、ダーウィン的進化ということができるだろう。知識は企業内部で受け継がれるしかなく、企業の盛衰でのみ進化を論じることになる。それに対して、知識の共有と双方向的コミュニケーションが可能であり、獲得された経験を、他者に伝達することが可能であるシリコンバレー型システムは、獲得形質の遺伝のような要素が入っているということができる、という。
25.1月24日
”京の古寺から13 高桐院”(1995年11月 淡交社刊 松長剛山/井上隆雄著)は、大徳寺の中にある高桐院の四季を写真と文章で紹介している。
大徳寺は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍宝山と称し、本尊は釈迦如来、開基は大燈国師宗峰妙超で、1325年に正式に創立された。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世の雰囲気を残している。松長剛山氏は、大徳寺塔頭、高桐院住職で、1943年大阪府に生まれ、花園高校を経て龍谷大学卒業。1965年より建仁寺僧草にて修行、1971年より高桐院住職、三重龍王寺兼務住職。井上隆雄氏は、1940年滋賀県生まれ、1965年京都市立美術大学卒業。1973年より写真家となり、京都市立芸術大学、京都工芸繊維大字、京都精華大字の講師を務め、1984年京都市芸術新人賞受賞。高桐院は細川忠興が叔父の玉甫紹琮を開山として創建し、父の藤考(幽斎)の菩提所として建立したもので、京都府京都市北区紫野にある臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。1645年に83歳で没した三斎は、遺言により高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護された。客殿北には庭を挟んで、千利休の屋敷の広間を移築したと伝えられる書院の意北軒がある。この書院に続いて、1628年に細川三斎が建てた利休風の茶室松向軒がある。茶室松向軒は、秀吉が1587年に北野で大茶会を催したときの茶室であったと伝わる。細川忠興と夫人の墓があり、忠興の墓塔は、もとは千利休からゆずられた灯籠で、秀吉に召し上げられるのを恐れて裏の一部を欠かしたという。方丈南庭は、新緑、紅葉ともに美しく、とくに落葉が降り積もる秋は風情ゆたかである。
26.1月31日
”ゲストハウスに住もう!”(2004年12月 晶文社刊 今 一生著)は、安く住みたい、仲間とホッとしたい、そんな賃貸スタイルが、昨今はやりの外人ハウスで、世界標準的共同生活であり、TOKYOに今すぐ来たい人は即GETすべしという。著者の今一生氏は1965年生まれで、コピーライターを経て1990年からフリーライターになり、オルタナティヴ・カルチャーを題材にさまざまなイヴェントを主催している。
敷金・礼金、仲介料ゼロ、仲間つき、保証人不要で、入退居も簡単、これが、首都圏で急増中のゲストハウスである。ゲストハウスは、外国人旅行者、バックパッカー向けの比較的安く長期に泊まれる簡易宿泊施設という意味合いが強い外国人ハウスである。キッチンやリビングなどの共用スペースがある。個室もあるがシェアルームが多い。東南アジア方面では、共同トイレ・シャワーの安宿というイメージである。月単位の料金設定をしているところもあり、そこではアパートのように長期滞在も可能である。首都圏では、シェア住居型ゲストハウスを意味することもある。ここにやってくるのは特別な人ではなく、引きこもりから脱したい、懐は寒いけれど親元を離れてみたい、夢を実現するために東京で暮らしたい、暴力夫から逃げたい、などなど。自分の居場所を探して一歩踏み出した彼らは、どんな生活をして、何を見出しているのか。ゲストハスならではのメリットと、知っておきたいこと、プライバシーの守り方、隣人との上手なつきあい方、物件探しのコツなど、実用情報を満載している。
・ゲストハウスの基礎知識(住む前に知っておきたい5ケ条/ゲストハウス・ビギナーのためのQ&A)
・住人インタビュー―定住しないライフスタイル(日本の田舎で浮いてる人もOK!/住みたい場所へサクッと移住ほか)
・業者トップ座談会(外国人との交流から生まれたゲストハウス/安くて、いろんな日本人と暮らせて、長期も可ほか
・ゲストハウス&優良業者の紹介(オークハウス/ジャフプラザほか)
・ゲストハウス界隈の用語集
27.平成21年2月7日
”京の古寺から14 一体寺”(1995年12月 淡交社刊 田邊宗一/永野一晃著)は、一休寺と称される、京都府京田辺市の臨済宗大徳寺派酬恩庵の四季を、写真と文章で紹介している。
酬恩庵は山号は霊瑞山、本尊は釈迦如来で、枯山水の石庭や一休和尚の木像のほか、塩辛納豆の一種である一休寺納豆でも有名である。 著者の田邊宗一氏は酬恩庵住職で、1949年京都府田辺町の酬恩庵に生まれ、1972年花園大学文学部卒業し、名古屋徳源僧堂掛塔を経て、1977年酬恩庵住職となった。永野一晃氏は、1945年京都府生まれ、1966年ヤラカス館本店に入社、ファッション、料理などの広告写真撮影に従事し、1971年フリーランスとなり、大阪にスタジオIKKOを設立し、1977年永野一見写真事務所として出版物の写真撮影を多数手がける。酬恩庵の前身は正応年間(1299年~1293年)南浦紹明が開いた妙勝寺で、元弘年間(1331年~1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)一休宗純が草庵を結んで中興し酬恩庵と号した。江戸時代に前田利常が伽藍を再興し、江戸幕府からは朱印状が与えられていた。一休は、末期的といわれた室町時代の乱世にあって激しく生きた人たちのひとりであった。その生き方や行動は現代人の心の中に今も息づいている。後小松天皇を父として、応永元年(1394年)の元旦に誕生した。天皇のそば近く宮仕えをしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれたといわれている。照子姫はねたむ人たちの計略にあって宮中を出て、一休は洛西の民家で誕生した。幼名は千菊丸といい、生母のもとで育てられたが、6歳の頃その将来を僧侶にと願った母の考えで、臨済宗の安国寺の像外鑑公和尚のもとに出家し、周建と名づけられ、ここで11年間にわたって禅の修行をした。応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改め、応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高華叟宗曇の弟子となった。そして、応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟した、という。以後は詩?狂歌?書画と風狂の生活を送った。1481年、88歳で酬恩庵に没した。
28.2月21日
”日本の行く道”(2007年12月 集英社新書 橋本 治著)は、今の日本に漠然としてある気の重さを晴らそうと、作家の考える、教育、家、政治、経済などの行く道の模索の記録である。
橋本 治氏は、1948年、東京生まれ、東京大学文学部国文科卒で、1977年に『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作を受賞し、以後、小説、評論、戯曲、エッセイで幅広い創作活動を続けている。今の日本はどこかおかしい、なにかがおかしいと思う人は、大勢いる。なにかがおかしいと思うきっかけは人によってさまざまである。いじめの深刻化、ニートやひきこもりの増加、格差社会の拡大、通り魔殺人などなど。きっかけはさまざまでも、共通するのは今の日本はどこかおかしいである。少し前までは、こういう感じ方は老人の専売特許のようなものであった。自分の現在はそれなりに安定していて、眉をひそめさせるような由々しい事件は、自分とは離れたところで起こる。だから、今の世の中はどこかがおかしい、昔はこんなことがなかったと言ったりした。でも、今の日本では、社会の中心で活動しているはずの人達でさえ、景気は回復したと言うけれどそんな実感はない、というような感じ方をする。ある意味で、もう格差社会が当たり前になっているからである。自分は世の中の一員としてちゃんと生きているはずなのに、世の中はその自分のあり方とは違うところで自分の知らないような動き方をしている。だから、なんかへんだと思うのである。疎外感という言葉は1950年代から60年代の間にもう一般化している。ただし、その疎外感は個人的なもので、そうそうやたらの人間の間で共有されるものではなかった。でも、今の日本のなんかへんだは違っている。自分がいて、その外側にとても大きな異常事態が進行している。この本は、そのなにかがおかしい日本の、途方もない原因を探ろうとするものである。
第1章 「子供の問題」で「大人の問題」を考えてみる(どこから話を始めるか?;どうして子供が自殺をするのか?)
第2章 「教育」の周辺にあったもの(「いじめっ子」はどこに消える?;一九八五年に起こったこと;思いやりのなさが人を混乱させる)
第3章 いきなりの結論(産業革命前に戻せばいい;歴史に「もしも」は禁物だけど;産業革命がもたらしたもの)
第4章 「家」を考える(「家」というシステム;機械は人を疎外し、豊かさもまた人を疎外する)
29.2月28日
”京の古寺から16 龍安寺”(1997年9月 淡交社刊 松倉紹英/水野克比古著)は、石庭で知られ枯山水の方丈石庭で有名な龍安寺を、写真と文章で紹介している。
龍安寺は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。松倉紹英氏は、前龍安寺住職で、1908年岐阜市に生まれ、臨済宗専門学院を卒えて、梅林僧堂にて修行し、一時軍務に服し、終戦にて帰国し、1948年龍安寺住職に就任し、1983年遷化。水野克比古氏は、1941年京都市上京区に生まれ、1964年同志社大学文学部を卒業し、1969年からフリーランス・フォトグラフアーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んできた。龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が1450年に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺5世住持の義天玄承を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路のあたりまでが境内であったという。1467-1477年の応仁の乱で焼失し、勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって1488年に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。最盛期には塔頭が21か寺、軒を連ねていたという。現存するものは3か寺である。1797年の火災で仏殿など主要伽藍を焼失したため、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とした。方丈南側の枯山水庭園が石庭として名高く、二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置している。
30.平成21年3月7日
”シンプル人生の経済設計”(2002年11月 中央公論新社刊 森永 卓郎著)は、勝ち組を目指して熾烈な出世競争に明け暮れる生き方が説得力を失いつつある中、幸福で充実した人生へのアプローチを解き明かしている。
当時の小泉改革の目指したものは超階級社会である、という。いまの格差社会を、何年も前に暗示している。著者の森永卓郎氏は、1957年生まれ、東京都出身、1980年東京大学経済学部卒業、日本専売公社、日本経済研究センター、経済企画庁総合計画局等を経て、三和総合研究所主席研究員を経て、現在、獨協大学教授。テレビのコメンテーターとしても活躍中で、多彩な趣味人としても知られている。これまでは年功序列、終身雇用がサラリーマンを守ってきたが、これからの競争社会では、勝ち組と負け組の峻別がますます激しくなる。そして、勝ち組に残るのは1%にも満たない人たちであり、99%は負け組になり、それが当たり前になる。ほとんどの人たちは、勝ち組を目指して熾烈な出世競争をしても途労に終わる。そして、サラリーマンには三大不良債権があり、それは、専業主婦、子供、住宅ローンの3つである。これらが、将来、サラリーマンを破綻に追い込む元凶である。これらの対処法を示しつつ、何があっても大丈夫なように、仕事の不倫を勧める。正業の他に特技を生かした副業を持て、という。金持ちになる必要はない、少ない稼ぎでシンプルに生きられれば十分幸せなのだ、という。収入が落ちても自分の好きなことをして生きていける人生をえらぶべきであり、そういうシンプルな人生を送ることを勧めている。
第1章 飲んで歌って恋をして?シンプル人生への招待
第2章 リストラなんか恐くない?雇用と賃金の大変化に備える
第3章 身軽に生きるために?人生の三大不良債権を処理する
第4章 破局からいかに身を守るか?住宅ローン地獄脱出の知恵
第5章 ある2つの人生に学ぶ?森永式シンプル人生の実際
終章 だから必要な「森永式シンプル人生十箇条」
31.3月14日
”司馬遼太郎が考えたこと1”(2005年1月 新潮社刊 司馬 遼太郎著)は、エッセイに限らず司馬遼太郎を何でも集め、小説の連載予告、連載終了の挨拶、他作家の作品への書評などなど、福田定一名義のものから始まっている興味深い本である。この本は全15巻の1巻目。
司馬遼太郎は1923年大阪府大阪市生まれで、1996年に惜しまれながら亡くなった。本名、福田 定一で、産経新聞社在職中、”梟の城”で直木賞を受賞した。以後、司馬史観と呼ばれる独自の歴史観に基づいて数多くの作品を執筆し、歴史小説に新風を送った。第1巻は、新聞記者時代から、”梟の城”で直木賞を受賞する前後までの作品で、食や大阪、神戸についてのエッセイや、戦争中の極限的経験を綴った89篇を収録している。最初は小説家司馬遼太郎ではなく新聞記者福田定一が書いた文章で、昭和36年1月3日の”長髄彦”以降はすべて司馬遼太郎となっている。昭和36年4月1日の”負荷の重さ”は、直木賞を受賞したときのことばを綴った短文である。若い頃の文章には、濃厚に大阪の趣が出ていて興味深い。1940年に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験したが不合格で大阪外国語学校蒙古語科に進んだときの話や、1945年に戦地からの復員後生野区にあった新世界新聞社に入社し、翌年新日本新聞京都本社に転社し、30歳を過ぎたら小説を書こうと考えたころのことも書かれている。1948年に会社が倒産し、産経新聞社に入社し京都支局に配属された。翌年大阪本社に異動になり、その後文化部長、出版局次長を勤めた。最初は”請願寺の狸ばやし”で、ほかに、”それでも、死はやってくる””妖怪と鬼面””石楠花妖話””「百人展」雑感””「風景」という造型””影なき男””モダン・町の絵師中村真論””この本を読んで下さる方へ””あるサラリーマン記者”ほか。
「実力はあっても、その社の秩序のよき部品となりえない記者は、無用の長物という時代なのだ。・・・スジメ卑しき野武士あがりの悲しさ、どうも無意味な叛骨がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとは一体何であろうかと考えることが多くなった」(”あるサラリーマン記者”より)。
32.3月21日
”文筆生活の現場”(2004年7月 中央公論新社刊 石井 政之著)は、第一人者から新人まで12名のライターによるビジネスとしての執筆業についての書である。
著者の石井政之氏は1965年生まれ、1988年に豊橋技術科学大学を卒業後、広告代理店での執筆のアルバイトを経て、1990年からフリーライター活動を開始。自分の好きなことをとことんやって何とか暮らしていけたらいいね、と誰しもが思うことであろう。このような夢の追求と生活収入の獲得を両立すべく奮闘しているのが、文筆好きのライターである。しかし、時代は大きく転回し、出版不況が押し寄せている。インターネットや携帯電話の普及などによる活字離れ、余暇時間の過ごし方の多様化、娯楽の多様化、少子化などが背景にある。インターネットの普及により、無料または低コストで情報が入手できるようになり、書籍の需要が減少した。新古書店、漫画喫茶等の二次流通市場が成長している。可処分所得が携帯使用料に回り、その分書籍購入費が減少した。辞典の売上がピーク時より大幅に減少する一方、電子辞書の市場規模は大幅に上昇した。図書館では新刊本、特にベストセラーを多数貸出している。出版業界では、売上高確保のため出版点数は増加しているが、書棚収容量が飽和し、返品が増加している。出版物は短命化し、読書機会は喪われ、市場は低迷している。負のスパイラルが起きている。そこで、出版で生計を立てている、出版社関係者、印刷業関係者、作家、ジャーナリストなどが厳しい思いをするようになってきている。新刊の出版点数は年々増加しているものの、販売部数が減少しているため発行部数が減少し、ライターの収入も減少する結果になっている。作家の印税は10%がふつうで、仮に1000円の単行本が平均発行部数5800冊刷られ、全て売り上げられたとしても、収入はわずか58万円である。しかし、ベストセラーを除いた単行本などは初版が数千部というから、平均の5800冊も印刷されない書籍が多く存在する。サラリーマンの平均年収の500万円程に達するのは、一部の売れっ子を除いてとても厳しい。フリーランスが抱える希望と不安、個人事業主としての戦略と自己責任、ライフワークで食べるということをテーマに、生活と志のギャップを乗り越えようと奮闘する実情と本音を公開している。
・だれがライターを殺すのか?(佐野真一)
・ジャーナリストの戦略的処世術―ライフワークとライスワークの狭間で(武田徹)
・朝日新聞社を辞めて、僕が手に入れた自由(烏賀陽弘道)
・「自分でなくともよい」の迷いから解き放たれる瞬間(藤井誠二)
・無謀といわれたルーマニア2年間の長期取材には十分な勝算があった(早坂隆)
・白黒のつかないグレーゾーンに魅せられて(森健)
・ふつうの男が戦時下のチェチェン報道で果たす責任(林克明)
・オウム取材卒業―虚像“エガワショウコ”にとまどい続けた私(江川紹子)
・顔面バカジャーナリストはレバノンで誕生した(石井政之)
・「科学ジャーナリズムなき国」で書き続けるために(粥川準二)
・売上げ311万2263円をめぐる赤裸々な自問自答(大泉実成)
・個人主義者でいるために―ニッチ産業としての位置(斎藤貴男)
33.3月28日
”京の古寺から18 蓮華寺”(1997年10月 淡交社刊 安井枚爾/角野康夫著)は、蓮華寺型石灯籠で茶人の間で有名な古寺を写真と文章で紹介している。
蓮華寺は京都市左京区にある天台宗の寺院で、山号は帰命山、京都の北部を流れる高野川の上流、上高野にあって、北山を背にして東方に比叡山を望むところに位置している。蓮華寺の寺名の由来は蓮華蔵という思想を示す言葉からきており、奈良・東大寺の毘塵舎那仏が坐している蓮台の蓮の花びらに、仏が誕生していく様子が描かれている。蓮の華は仏教の理想を示す花であり、シンボルである。鐘楼には黄檗2世木庵禅師銘のある銅鐘がかかり、庭園は池泉廻遊式で石川丈山作とも、小堀遠州作とも伝えられている。安井枚爾氏は、蓮華寺副住職、1941年京都洛北の蓮華寺に生まれ、1955年に得度、1968年東京芸術大学大学院卒業後、蓮華寺に戻り、1976年同寺副住職に就任し現在に至る。角野康夫氏は、1944年京都市に生まれ、1974年頃より、京都の文化財・風物等を永遠のテーマとして取り組み、作品を発表する傍ら、他府県の撮影にも取り組んだ。鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを1662年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである。上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地で、重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして1627年に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている。近義による再建に際して、実蔵坊実俊という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となった。また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来する。蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元禅師や第二世の木庵禅師らが協力した。
34.平成21年4月4日
”雇用リストラ”(2001年 中央公論新社刊 櫻井 稔著)は、小不況、大不況、経済危機期には必ず起こる雇用・リストラの問題の対策をまとめている。
バブル経済が崩壊して日本の終身雇用神話は終わりを告げ、雇用リストラが広く実行されてきた。いま、大不況になって、雇用リストラはどう計画され実行されたか、関係社員はどう受け止めたか、雇用リストラの社会ルールのあり方は、など過去の経験を改めて知ることができる。櫻井稔氏は、1944年、群馬県生まれ、1967年、労働基準監督官として労働省に採用され、同省労働基準局監督課等勤務ののち退職し、人事管理コンサルティング企業代表者を務める。リストラは本来は事業を再構築することであるが、最近は、同時に、事業不振により解雇や退職を迫られ雇用を失うことも意味している。バブル経済が崩壊した頃は、多くの企業が存亡の危機に直面し、新聞には連日のように倒産や破綻、雇用調整の記事が載った。市場競争社会においては、競争に負けて淘汰される会社が必ず出てくるため、常に雇用リスクが存在する。雇用リストラの発生は雇用リスクが顕在化したものだととらえると、雇用リスクヘの対処方法と雇用リストラの社会ルールという二つのテーマが浮上する。雇用リスクへの対処方法について、これまでは勤めている会社の雇用をどう守るかという観点からの議論がなされる場合が多かった。しかし、雇用の守り方はこの方法のみに限られるわけではなく、社会に広く雇用機会を用意して転職の容易さにより雇用を守るという方法もある。社会ルールに関して、多くの国が持つ解雇制限法を日本も持つべきであり、この法律が同時に解雇可能法の機能を営むとしてもルールは明確にされるべきである。雇用リストラや雇用リスクに関し重要なことは、個人がこのリスクとどう付き合っていくべきかということである。解雇や退職についてどのような規制を設けたとしても、また雇用保障についてどのような保護措置を講じたとしても、この社会から雇用リスクを完全になくすことは難しく、個人が雇用リスクに直面する場面を想定せざるをえない。自らの職業生活に関し、どのような仕事を、どのような仲間と、どのような場所でするのか、という大事を特定の一社にのみ頼ることのリスクにも注意が払われるべきである。
第1章 「雇用は守る」は約束たりうるか
第2章 アメリカの解雇自由神話
第3章 雇用にかかわるリストラ策には何があるか
第4章 給与関係のリストラ策には何があるか
第5章 雇用リストラ手段としての希望退職募集
第6章 経営者と労働組合
第7章 整理解雇の要件第8章 新たなバランスを求めて
35.4月11日
”オランダ・モデル”(2000年 日本経済新聞社刊 長坂 寿久著)は、ワークシェアリングでもっとも成功したオランダ・モデルを紹介している。売春、麻薬、安楽死などの必要悪を排除するのではなく最小限にしていこうとする、オランダのコントロール主義は脅威である。
ワークシェアリングは、パートタイム労働を増やすことで雇用を増やし、失業率を低下させ、経済を活性化するという雇用政策である。オランダにおいて採用され、成功を収めたとされることから、オランダ・モデルと称される。ワークシェアリングは欧米で導入が進んでいるが、中でも、オランダはワークシェアリングに最も成功した国と言われる。かつてはオランダ病と言われた問題の多い国だったオランダが、失業率1-2%という脅威の実績をあげ、オランダの奇跡、EUの優等生と呼ばれ、世界の注目を浴びた。オランダ・モデルはポルダー・モデルと呼ばれ、パートタイムと常勤雇用との時間あたり賃金と社会保険の差をなくし、一種のワークシェアリングを全国的に行ったことで知られる。雇用を改善し、不況・失業を克服するために労、使、政府の代表が協議して、労働側、使用者側それぞれ不利な政策をも含む政策パッケージを作成し、これに労、使、政府の代表が合意した。いわゆるワッセナー合意のもと、賃金の抑制、労働市場の規制緩和、パートタイムなど柔軟型雇用の普及促進の3点と中心に、夫婦がともにパートタイムで働き、ともに家事・育児を担うというコンビネーション・シナリオも導入した。雇用を弾力化し、平均賃金を一時低下させて雇用を増やし景気を回復させたのである。膨大な財政赤字と高失業率を克服した賃上げ無き雇用創出はなぜ可能になったのか。その独特な社会・経済システムを分析し、奇跡の秘密を解明している。アメリカ・モデルを参考にしてきた日本に、もう1つの道としてオランダ・モデルを示した点でも意義深いが、その後、失業率が跳ね上がり、経済成長はスローダウンするなど、新しい局面になっているようである。
1.オランダの奇跡は「パートタイム革命」から
2.「よいコンセンサス社会」の強み
3.高齢者が元気で過ごしやすい国
4.社会悪は根絶せず「制御」する
5.NGOは政府のパートナー
6.環境対策は法規制より「紳士協定」で
7.インフラ立国の高い競争力
8.21世紀の世界システムモデル
36.4月18日
”京の古寺から19 善峯寺”(1997年11月 淡交社刊 掃部光暢/水野克比古著)は、西国三十三ヶ所観音霊場で結縁御開帳の古寺を写真と文章で紹介している。
善峯寺(よしみねでら)は京都府京都市西京区・大野原の山上にあり、境内は全体が回遊式の庭園として設計され、平安神宮の2万坪よりも広い3万坪の敷地で、一周するのにおよそ40分かかる。掃部光暢(かもん・こうちょう)さんは、1917年大阪府寝屋川市生まれ、1935年旧制四条畷中学を卒業、天台宗立叡山学院に学び、1937年に卒業し、1956年善峯寺住職となった。水野克比古さんは、1941年京都市上京区生まれ、1964年同志社大学文学部卒業で、1969年からフリーランス・フォトグラフアーとして京都の風物を題材とした撮影に取り組んだ。善峯寺は、1029年に源算が創建し、1034年には後一条天皇から良峯寺の寺号を賜った。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡に生まれ、比叡山の恵心僧都に従い、顕密の蘊奥を極め47歳の時、善峯寺に入り小堂を結び、十一面千手観音像を刻んだ。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの門跡が入山したため西山門跡と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。桂昌院は、徳川家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになり、20歳のとき後の五代将軍綱吉を産み、1661年26歳のとき家光の死に際し、落飾し尼となって桂昌院と称し、綱吉と共に江戸藩邸に住んだ。善峯寺は、桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。境内には、桂昌院が植えたことで知られる樹齢300年の大きな枝垂桜がある。また、遊龍の松という樹齢約600年の五葉松があり、全長54mあったが松食い虫の被害により1994年に15mあまり切断された。
37.4月25日
底を打った可能性?
景気後退の速度が鈍化している、という。世界的な景気の悪化は底を打った可能性がある?アメリカの最近の経済指標は明るい兆しが出始めているようである。2月の新築一戸建て住宅販売は前月比4.7%増、耐久財新規受注は2月に前月比3.4%増と増加に転じた。前年同月比では依然大幅減少が続いているが、経済危機の元凶である米住宅市場に変化の兆しが見え始めたとの声もある。景気の底打ちは近いとの見方が説得力を持ち始めている。しかし、日銀総裁は、偽りの夜明けを本当の回復と見誤らないよう注意する必要性があるとする。かつて日本が、バブル崩壊後に何度か一時的な景気回復局面を経験したことを踏まえ、人間の常として物事がいくぶん改善すると楽観的な見方になりがちだという。日本の失われた10年は、バブル景気が崩壊した後1991年頃から2002年頃或いは2003年頃までの約11年から12年の期間であった。この、日銀による急速な金融引き締めを端緒とした信用収縮と在庫調整の重なったバブル景気崩壊後の急速な景気後退に、世界的な景況悪化などの複合的な要因が加わり不況が長期化した。銀行・証券会社等の大手金融機関の破綻が金融不安を引き起こすなど、日本の経済に大打撃を与えた。その結果、多数の企業倒産や、従業員の解雇、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次いだ。いまと状況はよく似ている。終わりのない経済危機というものはなく、適切なタイミングでの脱出も意識しておかなければならない。失われた10年のときは、ITバブルを経て2002年1月を底とした外需先導での景気回復により終結した。当分の間、まだまだ回復は先ということではないか。
38.平成21年5月1日
”10年後のあなた”(2007年8月 文藝春秋社刊 日本の論点編集部編)は、人口減少、高齢化、格差拡大などがもたらす10年後の日本の姿を8つのシミュレーションと39の項目から具体的に描いている。
最初にシミュレーションがある。第4章「岐路に立つ女性たち」から。離婚を機に郷里で再出発を期した1969年生まれの介護福祉士、松永尚美は、10年後の2017年7月、梅雨明けのまだ遠い、じめじめしたある日、約束の時間に間に合わせようと、汗だくで自転車を漕いだ。訪問先の家では、妻に先立たれた75歳の男性が、40歳になる独身の息子と二人で暮らしている。昼間、息子が勤めに行っている間に、掃除と洗濯、夕食の支度をするのが尚美の仕事だった。老人は要介護2で、認知症だが、ときどきシャツを裏返しに看ていたりする程度で、それほど深刻な症状は出ていない。昨年亡くなった妻が、家事を一手に引き受けていたため、この家の男二人は何もできない。かつてあったホームヘルパという職業はいまはない。介護の質を高めるため、すべて介護福祉士の資格に統一された。尚美はバブル世代で、大学を卒業して東京の中堅印刷会社に就職したが、バブルがはじけると会社はいっきに業績が悪化し厳しい成果主義が導入され退社する者が続出した。尚美も辞めたくなったが、当面はいまの会社で我慢して、その問に何かの資格をとり、いつ会社を辞めてもいいようにしようと考えた。33歳のとき妊娠して、2歳下のフリーターとできちゃった婚した。婚姻届を出したあと、妊娠5カ月で退社し、専業主婦となった。夫はもともと建設会社に勤めていたが、小泉構造改革の不良債権処理のあおりを受けて失業、再就職できないまのフリーターを続けていた。結婚を機にようやく携帯電話会社に再就職したものの、月給は手取り25万円そこそこと低かった。34歳で良男、37歳で長女を産んだ。無理して買ったマンションのローンが払えず、夫婦ともに実家からの援助をあおいでいた。実家からは帰ってこいという要請が頻々ときたが、長男が8歳、長女が5歳のとき年金分割の取り決めをして離婚した。子供は尚美がひきとり、月に10万円の養育費を受け取る約束を交わしたが、元夫の甲斐性のなさを知っているだけに、あまり期待はできなかった。42歳の子連れ女に、ハローワークの敷居は高い。栃木の田舎に帰ろうかきそう思っていた矢先、父が友人の借金の保証人になったために2000万円の負債を抱え込み、経営していた養魚場が人手に渡ってしまった。父母の暮らしは、いきなり年金額みになった。実家には、娘一家を養う財力はもうない。生きがいを失った父はいっきに老け込み、一日じゅうぼーっとしているようになった。母はまだ気丈だったので、尚実は、子供たちと父の世話を母にまかせて、自分が働きに出るしかない、と覚悟を決めた。田舎では働く場所は限られているので、介護福祉士募集のポスターにつられて介護福祉士としての登録をした。
第1章 広がる格差(景気回復は本物か―格差拡大を暗示する条件が揃った、成長経済の現実―役員報酬は上がり、社員の給料は下がるほか)
第2章 少子家族のゆくえ(生産人口が激減―消費が衰微し、経済を直撃;移民社会がやってくる―労働人口の減少を補う外国人ほか)
第3章 逃げ切れるか団塊(年金制度はいつまでもつか―老後資金を年金だけに頼れるか、資産運用はどうする―インフレリスクに対処するにはほか)
第4章 岐路に立つ女性たち(産むか産まないか―人生を損得勘定で考える団塊ジュニア世代、「できちゃった婚」に抵抗なし―望まない妊娠に潜む危うい未来ほか)
39.5月9日
”京の古寺から20 等持院”(1997年12月 淡交社刊 川勝承哲/井上博道夫著)は、足利家の歴代将軍の菩提寺として知られる等持院を文章と写真で紹介している。
境内の霊光殿、本尊の地蔵菩薩像の他、足利歴代の将軍、徳川家康の木像がある。川勝承哲氏は、等持院副住職で、1929年京都市生まれ、1959年立命館大学大学院文学研究科哲学専攻卒業、1964年聖カタリナ学園聖家族女子高等学校教頭、1975年得度した。井上博通氏は、1931年兵庫県香住町にある禅寺の長男として生まれ、1954年龍谷大学仏教史学科卒業、1955年産経新聞大阪本社入社、写真部勤務となり、その後フリーカメラマンとして独立した。足利尊氏は、1341年に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を等持院と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。3代将軍足利義満、8代将軍足利義政が尽力をつくして発展させ、禅宗十刹の筆頭寺院となった。相国寺山外塔頭の真如寺が義満により出来るまでは幕府の重要な行事を果たしていた。現方丈は1616年に福島正則が妙心寺海福院から移設したものである。襖絵は狩野興以の作で、庭園は夢窓国師作と伝えられる。
40.5月16日
景気はどうなるか?
日銀は2009年度の成長見込みを、GDPの実質成長率はマイナス3.1%と、1月時点の予測マイナス2.0%から大幅に下方修正した。消費者物価指数も1.5%下落と、1月時点の予測1.1%下落から下落幅の拡大を見込んだ。景気は大幅に悪化し先行きも当面悪化を続ける可能性が高いとの厳しい認識を示してきたが、先日、アメリカの最近の経済指標は明るい兆しが出始めていて、景気後退の速度が鈍化しているという報告があった。終わりのない経済危機というものはなく、適切なタイミングでの脱出も意識しておかなければならない。3月の鉱工業生産が6カ月ぶりに改善したことなどから、日銀が景気の現状は従来の大幅に悪化しているとの表現を上方修正する検討に入ったそうである。輸出や生産をめぐる経済指標で、下げ止まりの兆しが見えてきたためである。しかし、従来の減少が続いているから、減少のテンポが緩やかになってきているという意味での上方修正である。金融市場には不安定さが残り、雇用・消費の悪化も懸念されるため、日銀は景気下振れリスクがあるとの見方を崩していない。まだまだ予断を許さないであろう。景気判断を上方修正しても小幅にとどめるとみられる。
41.5月30日
”怠け者の日本人とドイツ人”(2004年3月 中央公論社刊 手塚 和彰著)は、今日では日本経済やドイツ経済に対して、日本病、ドイツ病という言葉が投げかけられている。一体、日独経済に何が起こったのかを解明している。
十数年前まで世界経済を牽引してきた日本経済とドイツ経済であるが、今、ともに低調を極めている。良いことも悪いことも、その多くは20年前にアメリカで起きたことが10年後にドイツに波及し、さらにその10年後に日本に波及するという流れがあるという。加えて、日独両国が直面する課題には少子高齢化あり、年金・医療・介護の改革が待ったなしとなっているとともに、高齢者と若い世代の社会的公正・公平が問題となっているという。最悪のシナリオは、国家の破産状態、社会保障システムの崩壊、生産現場の国外への流失、完全雇用は夢のまた夢、人材の流出、都市の機能崩壊、政治による解決の不能である。毎年就業人口が減少し税収も減少し、同時に、年金、健康保険への補助は増え続け、国の財政赤字が続き、必要最小限のインフラである、道路、学校や大学などへの予算も削減の一途となる。国民は税金も社会保険料も払わないで済むブラックマーケットで働く傾向が増し、国民の多くは金がなくなって家や不動産を売らざるを得ず、さらに、株や証券を投げ売りするようになった結果、これらは次々と価格低下をもたらし国民の資産はますます減少する。公的年金保険、健康保険制度が崩壊し破産状態になり、年金受給者は自らに支払い能力がなければ心臓手術や人工関節といったような治療も受けられず介護も十分なものは受けられない。高齢者の商品に対する需要は激減し、高齢化の進む日独の市場は企業にとって魅力のないものとなる。高い税率のため産業立地としてますます悪条件となり優秀で生産性の高い労働者も不足し、生産現場はもとよりイノベーションや研究開発部門もみな国外に流失する。いったん雇用した労働力は雇い続けていれば賃金労務費が上昇するため、通常の質の労働力に関してはより安く潤沢な国外にこれを求め工場・オフィスが移転し、安価な労働力が増えつつもますます保障のない雇われ方をする。労働市場においてはとりわけ個別化差別化が必要なのだが、現在日独ともに長年の年功序列や雇用保障の結果、優れた個性ある労働力の獲得が困難である。高税率高負担の国になるとますます日本やドイツに行こうという優秀な若者は少なくなり、高度な教育を受けた若い人々はその幸運をアメリカやアジアに求めて流出する。激減する人口によって居住空間の必要も減少し土地価格や住宅価格が下落し、多くの古い住宅所有者はその資産価値を失い通りは歯の抜けたようになり荒れ放題になる。高齢者の居住地域は限定され固まって住むことも起こり、若く優秀な世代は勤務先に近く良い学校や幼椎園などがある地域に集中する。ゲットーが生まれ商店は無くなり役所なども移動し市内交通機関も維持できずに廃止され、電気・ガスや水道への投資も進まずしだいに廃れ住宅は荒れっばなしとなる。これらはありうることと思われこうならないことを祈るしかない。
42.平成21年6月6日
”京の古寺から21 随心院”(1998年1月 淡交社刊 蓮生善隆/角野康夫著)は、小野小町ゆかりの寺としても知られる随心院の四季を写真と文章で紹介している。
随心院は、京都市山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師入定後8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基で、本尊は如意輪観音である。蓮生善隆氏は随心院門跡で、1915年香川県に生まれ、1925年得度、1937年に高野山大学を卒業後、日本大学宗教学科に入学し、宗教哲学を専攻し、1942年より興田寺住職、1970年から1995年まで総本山善通寺法主、同派管長、1987年随心院の門跡に就任した。角野康夫氏は1944年京都市に生まれ、1974年頃より東都の文化財・風物等を永遠のテーマとして取り組み作品を発表する傍ら、他府県の撮影にも取り組んできた。随心院は山科区の南に位置し、醍醐寺、勧修寺と並び平安の歴史を伝える門跡の遺構である。平安期の女流歌人、小野小町の旧跡に建てられた寺で、世に小野御殿ともいわれている。開基の仁海僧正がある晩、夢の中でお母さんが牛に生まれかわったのを見て、急いで鳥羽の辺を探して帰り大切に育てた、という。その死後は冥福を祈り、その皮に南部蔓茶羅を画き、常に祀っていたので、これを牛皮蔓茶羅といい、寺号を牛皮山曼荼羅寺としたといわれる。仁海僧正は学徳兼備の高僧で、特に修禅の道を極め、その事相の系統を後世、小野流と称し、深く宮中の帰依を受け、勅命を受けて京都の神泉苑で請雨の法を9回行なったが、そのつど霊験あらたかで雨を降らせることができたので、雨僧正ともいわた、という。その後、第5世の増俊阿闍梨餅の時に曼荼羅寺の子坊として随心院が建立され、第7世親厳僧正が後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来、随心院門跡と称されるようになった。承久の乱にあって随心院はことごとく灰になったが、1599年に及んで本堂が再建され、以後、九条、二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建され今日に至った。
43.6月13日
景気回復の兆しか
消費者心理が5カ月連続して改善されたという。2009年5月の消費動向調査によると、消費者心理の明るさを示す消費者態度指数は前月比で3.3ポイント上昇の35.7となった。前年同月比でも1.8ポイント上昇し、2006年11月以来、2年6カ月ぶりのプラスとなった。消費者心理の基調は、依然厳しいものの持ち直しの動きが続いているとされた。これは、良くなるが増加したわけではなく、悪くなるが減ったためで、積極的改善ではないと見られている。消費動向調査は景気の動向を判断するために、消費者の意識の変化、サービス等の支出、主要耐久消費財等の保有状況、購入状況などについて内閣府経済社会総合研究所が調査を行うもので、消費者態度指数が公表されている。2008年11月は28.4であったが、2008年12月に26.2に下落したが、2009年1月は26.4に上昇し、以下、2009年2月、26.7、2009年3月、28.9、2009年4月、32.4であった。東京株式市場は景気回復期待から買われて続伸し、6月12日の日経平均株価は前日比154円49銭高の1万135円82銭と、2008年10月7日以来約8カ月ぶりに1万円台で終わった。中国経済の回復に対する期待感が日本の産業界でも高まっており、日本から中国への輸出が回復基調が鮮明になっているようである。市場には、個人の買い意欲が強まっているとの見方が広がってきたが、足元の景気は、実質GDP 年14.2%減、機械受注2か月連続減など、厳しい指標が続いている。生産も含めて一部に好転の動きが目立つとはいえ、このまま個人消費が盛り上がるかは微妙との見方がまだ大勢である。予断を許さない状況であろう。
44.6月20日
”売文生活”(2005年3月 筑摩書房刊 日垣 隆著)は、原稿料と印税の真実を明らかにした作家論・日本文化論である。
物書きにとってお金の問題は避けて通ることのできない重大事である。失業を機に投稿をはじめ、売文生活にはいった著者が、何人かの作家の原稿料がいくらなのかを明らかにしている。著者の原稿料はバラツキがあるが、400字詰め原稿用紙1枚あたり1万円前後だそうである。注文が途切れず毎日6枚、年間250日書きつづけたとして年収は1500万円になるが、取材費などの経費は自分持ちなので、サラリーマンの年収にすると600万円相当であろう、という。本邦初のフリーエージェント宣言をなし遂げた文豪・夏目漱石、公務員初任給の100倍は稼いでいた檀一雄、底ぬけビンボー暮らしに明け暮れた作家・松下竜一など、明治の文士から平成のフリーライター、人気作家までで、その台所事情と、自由を求め苦闘する姿を描いている。明治以降文学者がたくさん登場するが、原稿料だけで生活するのは難しかったようである。森鴎外は国から軍医としての報酬を得ていたので恵まれていたが、他の作家は作品を作りながらも生活と闘う必要があった。夏目漱石は、朝日新聞の専属小説家になる時に詳細な条件を取り交わした。年俸・印税の取り分・原稿執筆の分量・他誌への原稿掲載などである。漱石が勝ち取った条件は、原稿料相場に照らし非常に恵まれたものであった。しかしその後は、物価が上がっても原稿料は上がらない傾向が続いていて、作家の生活は苦しくなっている、という。
序章 私的売文生活入門
第1章 原稿料とは何か
第2章 幸せな黄金時代
第3章 標準としての夏目漱石
第4章 トップランナーたちの憂鬱
第5章 貧乏自慢もほどほどに
第6章 現代日本の原稿料事情
終章 お金も自由も
45.6月27日
”宝鏡寺”(1998年2月 淡交社刊 澤田恵?/水野克比古著)は、人形の寺として知られ一般からも供養として人形が納められるようになり、百々御所(どどごしょ)とも称される宝鏡寺の四季を写真と文章で紹介している。
宝鏡寺は、山号は西山、通称人形寺で、京都市上京区にある臨済宗の尼門跡寺である。室町時代の1368年から1375年の頃に、光厳天皇の皇女華林宮惠厳が伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を祀り上げたことにより開山、もって当寺の歴史が始まったものと伝えられている。澤田恵?氏は1911年岐阜県生まれ、1926年宝鏡寺へ入寺し1928年得度、第26代湛然周禅尼大禅師に師事を仰ぎ、1975年宝鎮守門跡となり現在に至る。水野克比古氏は1941年京都市上京区生まれ、1964年同志社大学文学部卒業、1969年からフリーランス・フォトグラファーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んだ。宝鏡寺には、寺へ入った皇女へ御所から人形が贈られてきたため、多くの人形が保存されている。中でも特に最近代の皇女である霊厳理欽尼には、三組の雛人形、猩々人形などが残っている。境内には人形の供養と京人形の振興を目的として人形塚が建てられており、御所人形像と武者小路実篤の歌が刻まれている。
人形よ誰がつくりしか/誰に愛されしか知らねども/愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ
昭和32年秋から人形展が始まり、それ以降は毎年春と秋に一般公開することになった。その後関係者により年一回、秋に人形供養祭が営まれ、昭和34年秋には壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養しその霊を慰めるために、人形製作に携わる人々及び有志などによって人形塚が境内に建立された。
46.7月4日
貧困ビジネス
ホームレス支援や貧困問題に取り組むNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長、湯浅誠氏が提唱した考え方である。貧困ビジネスを行う企業や団体、主にNPO法人の多くは社会的企業を装っているが、貧困ビジネスは、生活困窮者や他に拠り所が無く社会から孤立した者にあえて的を絞り支援を装いつつ利潤を上げている。代表的な貧困ビジネスには、人材派遣会社、インターネットカフェ、現代版ドヤ・飯場、ゼロゼロ物件、追い出し屋、保証人ビジネス、野宿者向け宿泊所などがある。最近よく報じられるのは無料低額宿泊所である。無料低額宿泊所は、ホームレスなどの自立支援を目的に無料または低額で提供されている一時的な住まいである。多くはNPO法人によって運営されているが、本来の目的・理念に反して入所者の弱みに付け込み生活保護費などを搾取をする団体も少なからず存在しているようである。路上生活者らを宿泊所に入所させ、職員が入所者に同行して活保護の手続きをさせ、受給者の口座から施設使用料・食費・運営費・その他光熱費名目で自動的に送金される手続きが取られる場合が少なくない。生活保護費受給者本人は僅か3万円程しか渡らない仕組みである。本来なら行政が社会的弱者の支援をすべきであるが、支援が不十分または消極的なため公的な支援施設があまりないのが現状のようである。そういえば、駅近くで見かけたホームレスを最近あまり見かけなくなった気がする。もとはと言えば、中流家庭が減って上流階級と貧困層の二極化が始まっていることに原因があるのではないか。貧困層の数が大幅に増え、一人当たりのマージンは小さくても量をこなせばビジネスとしてペイできるようになっているのではないかと思われる。救済はよいが、利潤を目指すのは問題であろう。
47.7月11日
”中国ビジネス光と闇”(2003年7月 平凡社刊 信太 謙三著)は、巨大な消費市場へ変貌した中国の熱気と混乱に充ちたビジネス状況をジャングル市場と呼んでその光と闇を解説している。
日中関係はますます緊密化し、日本や欧米の企業が次々に進出し、中国が世界の工場になりつつあるばかりでなく、急速な経済発展によって巨大なマーケットと化してきている。日中はいまや切っても切れない関係になった。好きだ嫌いだという時代は終わり、どうやって付き合っていくかということが最大の課題となっている。著者の信太謙三氏は1948年静岡県生まれ、早稲田大学第一文学部中国文学科卒業、1973年時事通信社入社、外信部、香港特派員などを経て、1988~1993年、1995~1998年の2度にわたり北京特派員、1990年より北京支局長、解説委員を経て、2000年より上海支局長を務めている。1996年度ボーン・上田国際記者賞を受賞。安価な労働力ゆえの世界の工場の時代は終わった。中国の国土は日本の26倍、人口は10倍以上で、この巨大さゆえに、中国の実像がなかなか正確にとらえきれていない。この結果、中国報道には極端なものが目立ち、中国はだめだとばかり切って捨てるようなものがある一方で、実情もよく知らないで中国市場は凄いと強調する表面的な報道もある。中国はたんに巨大であるばかりではない。数千年の歴史をもっているがゆえに複雑きわまりなく、一刀両断のやり方ではなかなか実像はみえてこない。中国は驚異の経済成長に裏打ちされた巨大な消費市場としての姿を現しつつあるが、対中ビジネスは茨の道である。互いを信用しないことを前提とするビジネス文化、海賊車まで大量に横行するコピー商法などが存在している。未来に向けた輝ける光と底知れぬ深い闇がある中国ジャングル市場の実像を解説し、中国経済の闇の部分や苦悩、政治の影などについても触れている。
第1章 中国は巨大なグローバル市場
第2章 様変わりした日中間の時空
第3章 日系企業を脅かすライバルたち
第4章 中国ジャングル市場の恐ろしさ
第5章 驚くべき弱肉強食の世界
第6章 裏切りのビジネス
第7章 中国政治の暗い影
第8章 不確実性の世界
49.7月18日
中国の躍進
中国は1978年12月、鄧小平の指導体制の下で改革開放政策をスタートさせ、今日では世界の工場と呼ばれるまでに成長し、米欧日に次ぐ第4の市場として期待されていた。そして、ここ10年で中国はイタリア、英国、フランス、ドイツなどを抜き去ってきた。中国の実質GDP成長率は、2005年10.4%、2006年11.6%、2007年11.9%であった。中国の2007年のGDPは25兆7306億元でドイツを抜き、米国、日本に次ぐ世界3位に浮上した。そして、今度は日本を抜いて世界2位になりそうである。2009年末には、中国のGDPが世界第2位の日本を越える見通しとなったという。すでに中国の外貨準備高は2008年9月末で1兆9056億米ドルで、日本の2倍くらいの規模になっている。ダボス会議世界経済フォーラムが発表した2008-2009世界競争力ランキングでは、1位は米国、日本は9位、中国は前回の34位から順位を上げて30位だった。2-10位は、スイス、デンマーク、スウェーデン、シンガポール、フィンランド、ドイツ、オランダ、日本、カナダだった。2008年10月に発表された国際通貨基金の予測では、2009年の日本GDPは4兆8033億ドル、中国GDPは4兆7724億ドルで、中国が日本を追い抜くのは2010年になるとされていた。しかし、世界金融危機が発生し、中国はわずかに減速したのみであったのに対し、日本経済は大きく萎縮し人民元レートの影響も加わり中国の経済規模は2009年に日本を越えることになった。これは、中国のみならず世界にとっても歴史に残る一大事件であろう。今後はいつ米国を超えるかが問題であろうが、中国の統計に対して多くの人々が懐疑の念を持っている点は気がかりである。また、高度成長がどれくらい持続するかは不明である。
50.7月25日
”常照寺”(1998年3月 淡交社刊 奥田正叡/横山健蔵著)は、吉野太夫の墓や太夫ゆかりの茶室遺芳庵で知られる常照寺の四季を写真と文章で紹介している。
常照寺は、1616年に日乾上人が開創、日蓮宗で鷹峰檀林(学寮)と称された。1624-44年のころ、島原の2代目吉野太夫が帰依し、朱塗りの山門を寄進した。これが現存の吉野門である。奥田正叡氏は常照寺副住職、1955年身延山別院上行寺に生まれ、中央大学法学部卒業、立正大学仏教学部にて僧階取得、日蓮宗総本山身延山久遠寺で僧道修行後、1980年より82年まで身延山久遠寺祖廟輪番本部勤務、1994年日蓮宗大荒行堂再々行成満。横山健蔵氏は1939年京都市生まれ、1967年日本写真印刷(株)写真部退社、フリー写真家として伝統に育まれた京の文化、特に伝統文化を中心に自然や風物を撮影。常照寺の始まりは1616年に本阿弥光悦の子・光嵯が発願し、本阿弥光悦の寄進した土地に日蓮宗中興の寂照院日乾上人を招じて開祖したもの。1627年には僧達の学問所として鷹峰壇林(学寮)を開設し、往時は大小の堂宇が建ち並び、山城六壇林として栄えた。赤い山門は吉野門とも呼ばれ、名妓2代目吉野太夫が寄進した。1628年に日乾上人に帰依した吉野太夫が23歳の時、私財を投じて山門を寄進した。太夫は、都の六条三筋町に在った廓の名妓で、遊女としての最上位にあたる太夫である。教養が高く、和歌、連歌、俳句、書、茶道、華道、音曲、囲碁、双六など諸芸に優れていただけでなく、その美貌は遠く唐にまで伝わっていたという。太夫は、京の豪商で文化人でもあった灰屋紹益に見初められたが、身請けしようとした紹益の親は猛反対したものの、吉野太夫に会った親は後に身請けを許している。このロマンスは、歌舞伎などでも演じられ有名である。太夫は38歳という若さで病死して日乾上人に帰依し、生前には山門を寄進した縁もありこの寺に葬られた。紹益は恋慕のあまり吉野の荼毘の骨灰を呑みほし、
都をば花なき里となしにけり吉野の死出の山にうつして
と詠んだという。
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