徒然草のぺージコーナー
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし(方丈記)。
|
空白
|
徒然草のページ
1.平成21年8月1日
選挙の季節
いよいよ衆議院選挙の季節である。衆議院は2009年7月21日、自民党両院議員懇談会の後に解散した。選挙は8月18日公示、8月30日投票・開票となる予定である。今回は政権が変わるかどうかの分岐点になっている。投開票の期間は過去最長解散から投開票までの期間は過去最長の40日間がとられている。憲法の規定により、総選挙は解散日から40日以内に行わなければならないためある。自民党は自民党の政策「みなさんとの約束」、公明党はmanifesto'09 重点政策から、民主党は民主党の政権政策マニフェスト2009、共産党は「国民が主人公」の新しい日本を――日本共産党の総選挙政策、社民党は衆議院選挙公約2009Manifesto、国民新党は国民新党の政権政策、改革クラブはマニフェスト全文版、要約版を発表している。いろいろな問題がある中で、大きなポイントは少子高齢化が進行する中で今後の日本の成長戦略をどう描けるかが大きな問題ではないか。高齢化について、自民党は消費税を含めた税制抜本改革を平成23年度までに整備して、経済状況の好転を察知したタイミングで引き上げに踏み切り、消費税をすべて社会保障に充てて安定財源を確保するという。国民の将来不安の払拭が経済活力の源泉と見込む。民主党は16兆円を超える重点政策を示したが、財源確保は税金の無駄遣いの根絶だという。消費税増税は4年間凍結する方針である。成長戦略では、環境技術を生かすという点で方向性は両党とも同じである。家計支援などは民主党が優位、成長戦略は自民党が優位だと言われる。8月30日が楽しみな夏になった。
2.8月8日
”経済敗走”(2004年6月 筑摩書房刊 吉川 元忠著)は、経済的に敗走している日本の行く末とあるべき姿を示そうとしている。
ドルの信認が低下しているのに、円がドルを支える構造は変わらず、さらに深まっている。先には何が待っているのか。なぜ日本はこのようになってしまったのか。21世紀の世界経済をどうみるか。その重心がアジアに移動していくというのはおそらく歴史的な変化であろう。そのことはまた、国際通貨のあり方にも大きく関わりを持つだろう。19、20世紀の200年間は基本的に工業化、近代化の時代だった。イギリスで起こった産業革命がヨーロッパ、アメリカ、そして日本へと広がっていった。その工業力は武器弾薬や海陸の戦闘、輸送能力など、軍事力の基礎となった。19世紀は工業力に裏付けられ面積や人口の規模では小さい、ヨーロッパの島国にすぎないイギリスの、海軍力を背景とするパックス・ブリタニカとなった。そしてポンドは国際基軸通貨となった。ポンドの後を継いだのはアメリカである。面積、人口はイギリスと比較にならない大陸国家である。その工業力は20世紀前半に絶頂に達し、空軍力や核戦闘能力で他を圧倒する基礎となった。ドルの国際通貨化も強力に進め、20世紀はパックス・アメリカーナとなった。21世紀はどうなるのか。いまでは、需要、供給両面の要因によって、後から近代化する国のほうが、そのための時間は短くて済むようになっている。イギリスは産業革命以来、約200年を経過している。日本は明治維新直後から約100年、東南アジアの近代化は第二次大戦後からとすると約50年、これに対して中国、さらにインドの場合は30年、あるいは25年ということもあり得る。近代化後の各国で一人当たり消費水準、さらには所得水準にそう大きな開きがないということは、今後各国の経済ポテンシャルを決めるものは結局人口規模になっていく、ということである。アメリカは2.9億人、ユーロ圏は3.8億人、日本は1.3億人、アセアン4+韓国は4.3億人、中国は13.0億人、インドは10.3億人、中国、次いでインドの人口規模がきわめて大きい。このことがいずれそれぞれの経済規模に反映されていくとすると、世界経済にもたらす意味合いはきわめて大きく、世界経済の重心はアジアに移動することは確かである。
第1章 新局面
第2章 リスクとしての「アメリカ」
第3章 資産デフレの罠
第4章 余地狭まる経済政策
第5章 失われた二十年の顛末
第6章 アジアへの視点
3.8月15日
”興聖寺”(1998年4月 淡交社刊 植本摂道/溝縁ひろし著)は、久我家の出である道元禅師が中国での修行を終えて我が国初の曹洞宗伽藍を1236年に深草で創建しこの地に移転したもので、寺院の四季を写真と文章で紹介している。
興聖寺は京都府宇治市にある日本曹洞宗最初の寺院で、山号は佛徳山、本尊は釈迦三尊像である。著者の植本摂道氏は興聖寺住職で、1926年滋賀県大津市生まれ、1937年出家得度、1915年駒沢大学専門部仏教科卒業、1971年より興聖寺専門僧堂堂監、1980年興聖寺住職、堂長師家に就任、現在に至る。溝縁ひろし氏は1848年香川県生まれ、1971年千葉工業大学卒業、京都で就職するとト同時にカメラ散歩を始め、その後スタジオ勤務を経てフリーとなり、古都の神社仏閣、四季の風景、祭りなどを精力的に撮影、ライフワークとして花街、祇園などを撮り続けている。興聖寺は、四条天皇の1237年に近江源氏(宇多源氏)近江守護佐々木信綱が京都で宋から帰洛した曹洞宗開祖 道元禅師に謁し、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、このとき禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨した。1240年に七堂伽藍が完成し、曹洞宗第三の古道場といわれた。1243年に道元が越前に下向し以後荒廃したが、1649年に淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して朝日茶園のあった現在地に復興した。関西花の寺25ヵ所霊場第14番札所で、霊場の花として境内にある旧秀隣寺庭園の庭木に470有予年の歴史をもつ藪椿(老椿)がある。他に石楠花、沈丁花、山茶花、木蓮、沙羅の木などがあり、各霊場にはそれぞれ違った花が楽しめる。
4.8月22日
”会社員の父から息子へ”(2007年10月 筑摩書房刊 勢古 浩爾著)は、会社員として長い年月を勤め上げたひとりの人として息子や娘に伝えておきたいことが書かれている。
謹厳実直な人生訓ではない。立派な申し渡しでもない。遺言ともちがう。しいて言えば、自己証明の記録であろう。すべての無駄を排除したのちになお残る言葉があるとすれば、それのみを掬い上げて伝えたい父から子への手記である。著者は1947年大分県生まれ、明治大学政治経済学部卒業、洋書輸入会社に34年間勤務ののち評論活動に入った。市井の一般人が生きてゆくなかで、運命に翻弄されながらも自身の意志を垂直に立て、何度でも人生は立てなおすことができると思考し静かに表現し続けている。この世で一番大切なことについて次のように書いている。
わたしたちはだれも、望んで生まれてきたわけではないのに、この世に生まれてしまった。生まれたからには、生きないわけにはいかない。なぜかはわからないけどそうなのだ。楽しいこともうれしいこともあった。悔しいことがあり、きついこともあった。けれど総じて、生きることは楽ではない。思い通りにならない。しかも、どんなに生きようとも百年足らずでこの世ともおさらばなのだ。望んで生まれてきたわけでもないのに、そのことを考えると、なぜかさびしく、怖く、虚しいのであった。だからといって、生きることをやめるわけにもいかない。なぜなら、今、ここに、現に生きているからである。今現在、生の真ん中にいるという事実が、死という不吉を圧倒的に覆い隠してくれる。わたしたちの今のほんとうの気持ちは、やはり生きることを無条件に欲している。命があるからだ。命は快で、死は不快。この世にいるという意識は、何物にも代えがたく、それがひりつくような未練なのである。生きていく上では金が一番という人がいるだろう。仕事だという人、自由だという人もいるかもしれない。それはしかたがない。それがかれらにとっての価値だからである。いうまでもなく金も仕事も自由も大事である。さらにいえば、公正も正義も寛容も大事である。わたしもなにが一番か、などいわなければいいのだ。ただそれでも、愛情がなければ、それらの諸価値にほとんど意味はない、とわたしは思っている。世界遺産は人類や人間社会においては重要かもしれないが、この世を百年足らずでおさらばする、砂粒のような一個の人間にとっては、ほんとうには必要がない。人と人との愛情がない者には、どんなに偉大な文学も音楽も絵画も、歴史も思想も政治も、なんの意味もない。人の心のなかでは、愛情は世界史より大切なものなのだ。心の生き物である人間にとって、ほんとうに、ほんとうに大切なものは、人と人との愛情である。
第1章 なにもいわない
第2章 会社員であるということ
第3章 愛した人は愛した人
第4章 金と心
第5章 世の中を生きるということ
第6章 男に「幸せ」などない
第7章 いつか訣れる
5.8月29日
失業率
失業率とは、就業意欲があるのに仕事につけない人の割合である。算定は総務庁が毎月末の一週間に4万世帯(10万人)を対象に標本調査をする。内容は「月末一週間に少しでも働いたか」とか「職を探しているか」とかの質問である。この調査に基づいて、15歳以上の人を分類して、これに基づいて完全失業率を算出する。完全失業率は労働力人口に占める完全失業者の割合である。現在、働くことができる人の人数の中で、働く意欲があるにも関わらず就職できない人の割合である。バブル崩壊後、2002年8月と2003年1月には完全失業率が5.5%と最悪になったが、その後は低下傾向を見せていた。しかし、総務省が発表した労働力調査速報によると、2009年7月の完全失業率は、6月より0.3ポイント悪化して5.7%となり、現在の方法で調査を始めた1953年4月以来、最悪となった。生産や輸出などの指標に持ち直す動きがあるが、雇用情勢については依然として悪化傾向に歯止めがかからない状況である。年齢別では若年層で高い傾向にあり、製造業は1年前に比べ106万人減った。昨秋以降の派遣切りの増加などが影響しているようである。
6.平成21年9月5日
”智積院”(1998年6月 淡交社刊 近藤隆敬/水野克比古著)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の智積院の四季を写真と文章で紹介している。
智積院は山号を五百佛山、寺号を根来寺といい、本尊は金剛界大日如来、創建は1598年、開基は玄宥である。智山派の大本山には、千葉県成田市の成田山新勝寺、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺、東京都八王子市の高尾山薬王院がある。近藤隆敬氏は智積院化主第六十七世で、1912年東京都に生まれ、1922年得度、1932年東京都長福寺住職、1997年10月真言宗智山派管長、総本山智積院化主第六十七世に推戴され、現在に至る。水野克比古氏は、1941年京都市上京区に生まれ、1964年同志社大学文学部卒業、1969年からフリーランス・フォトグラフアーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んできた。智積院は、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。智積院は、もともと紀州根来山大伝法院の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が1130年に高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、1140年大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、1585年の根来攻めで全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の1601年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、1615年に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を根来寺、山号を現在も根来に名を残す五百佛山とした。
7.9月12日
政権交代
政権交代は、選挙を経て、それまで政権を担っていた与党が、野党に取って代わることである。長期間一つの政党が政権の座に就き続けると、その政党や議員を支援する人々の既得権が固定化してしまう。政治的な既得権をなくしていくのは改革することであるが、政権交代が改革の一番の早道である。政権交代が行なわれることで、政治腐敗の温床となりやすい政・官・業の癒着構造を断ち切ることができ、合理的な判断で政策を決定し、実行できるようになる。議院内閣制をとる日本では、通常、衆議院の多数党が入れ替わることで政権交代が起こる。政権交代は二党制ではしばしば行われる。日本でも、2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙にて与野党が逆転し、1955年以降一時期の例外を除いて続いていた自民党の一党優位が終焉した。過去には、総選挙を経た政権交代と経ない政権交代があった。総選挙を経た政権交代は、1947年の第1次吉田内閣(自由党)から片山内閣(日本社会党・民主党・国民協同党連立)への交代、1993年の宮澤内閣(自由民主党)から細川内閣(日本新党などの連立政権)への交代があった。総選挙を経ない政権交代には、1948年の芦田内閣(民主党・日本社会党・国民協同党連立)から第2次吉田内閣(民主自由党)への交代、1954年の第5次吉田内閣(自由党・改進党閣外協力)から鳩山内閣(日本民主党)への交代、1994年の羽田内閣(新生党などの連立政権)から村山内閣(日本社会党などの連立政権)への交代があった。そして2009年、麻生内閣(自由民主党)から民主党中心の内閣への総選挙を経た政権交代になる予定である。
8.9月19日
”他人と深く関わらずに生きるには”(2002年11月 新潮社刊 池田 清彦著)は、他人とウマくやる完全個人主義のススメである。
濃厚なつき合いはしない、社会的ルールは信用しない、心を込めないで働く、ボランティアはしない、病院には行かない。それも1つの生き方であろう。著者は1947年東京都足立区生まれ、1971年東京教育大学理学部卒、1976年東京都立高等学校教諭、1977年東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得満期退学、1979年山梨大学教育学部講師、助教授、教授、2004年早稲田大学国際教養学部教授。構造主義生物学の論客として知られ進化論を激しく批判しているが、研究者が皆知っていることを都合が悪く無視されているとか定説を覆すものであるかのごとく扱うなどいて、生物学としての学問的評価は低いという批判もある。しかし、本書の中で、人間は社会的な動物であり、ひとりでは生きられない、とよく言われるが、それは現在の社会システムが強い分業体制になっているからであって、人は本来生きようと思えばひとりで生きていける、という考え方には共感できるところもある。他力を頼まず自力で生きて、力が尽きたら死ぬのが最も上品な生き方だと言う孤高な生き方は究極的な上品であり、他人とのつきあいに悩んで死ぬよりそもそも深くはつきあわないで果てる生き方もいいじゃないかと考えさせられる。
Ⅰ 他人と深く関わらずに生きたい
濃厚なつき合いはなるべくしない
女(男)とどうつき合うか
車もこないのに赤信号で待っている人はバカである
病院にはなるべく行かない
心を込めないで働く
ボランティアはしない方がカッコいい
他人を当てにしないで生きる
おせっかいはなるべく焼かない
退屈こそ人生最大の楽しみ
自力で生きて野垂れ死のう
Ⅱ 他人と深く関わらずに生きるためのシステム
究極の不況対策
国家は道具である
構造改革とは何か
文部科学省は必要ない
働きたい人には職を
原則平等と結果平等
自己決定と情報公開
個人情報の保護と差別
9.9月26日
”ウェルカム・人口減少社会”(2000年10月 文藝春秋刊 藤正 巌/古川俊之著)は、生物学的にみれば少子は少死の結果で人類という種の宿命であり、すでにヨーロッパが経験しているように、生存の基礎条件さえしっかりしていれば社会の高齢化を恐れることはない、と言う。
藤正 巖氏は医用工学者で、東京大学名誉教授、政策研究大学院大学名誉教授、古川俊之氏は医学統計学者で、独立行政法人国立病院機構大阪医療センター名誉院長。これから30年以内に先進諸国のどこの国でも人口減少が必然的に起こるという。常識の範囲内で幾ら出産奨励をしても、人口減少は食いとめられない。平均寿命が伸びたために、すべての年齢階層の人の死亡率が落ちている。社会が高齢の社会になって、人口のうちに高齢者が占める割合が確実に増加してきた。人間は寿命があり無限に生きられないから、年をとると死ぬ人が多くなる。出生数より死亡数が多くなったら、人口は減るのは当たり前である。そして、人口の減少の数年前から社会構造の変化に伴う社会システムの変化が始まり、人口増加に依存した社会内の既得権が崩壊する。成熟社会で何がどう変わるか、尊敬される国の基礎作りはどうあるべきかを示し、少子化は問題だという考え方に対してそのおかしさを指摘し、人口減少社会はウェルカムだとする。
第1章 人口減少社会へのキーワード
第2章 生物寿命モデルと少子化問題
第3章 日本の将来の社会構造はどう変わるか
第4章 子供はなぜ生まれなくなったか
第5章 世界最初の人口減少社会・日本の将来
第6章 日本の社会変革を妨げていた既得権
第7章 成熟社会への羅針盤
終章 「尊敬される国」への選択
10.平成21年10月3日
”賃金デフレ”(2003年11月 筑摩書房刊 山田 久著)は、ここ数年来、賃金は伸びないばかりか、実質上の賃下げも行われている実情を検証し、賃金デフレの実相を明らかにしている。
春闘ではベア・ゼロ回答が相次ぎ、賃下げも辞さない動きが広がるなか、賃金デフレ喧伝されているが、実はすでに前から賃金デフレは始まっていた。それは主に、賃金の安い非正規社員への雇用構成のシフト、ボーナスなど特別給与の圧縮、という形で人件費コストの圧縮が図られてきたことによる。そして、正社員の基本給部分まで賃金削減のメスが入りつつある。山田 久氏は1963年大阪府生まれ、1987年京都大学経済学部卒業後、住友銀行入行、同行経済調査部、日本経済研究センター出向を経て、1993年から日本総合研究所へ出向、日本総合研究所調査部主任研究員、2003年より調査部経済研究センター所長。1997年半ば以降にみられる名目賃金の右肩下がりのトレンドの底流には、アジア諸国の日本経済へのキャッチ・アップの進展に伴うわが国製造基盤の縮小がある。生産性伸び率の鈍化を通じて賃金下落圧力となり、安価で良質なアジア製品の流入が国内財価格を押し下げ賃金デフレの圧力となっている。また、サービス部門では、製造部門の成長力低下がサービス価格下押しし、交易条件悪化がサービス部門の利潤縮小につながっている。このような賃金デフレは、既に雇われている人の雇用を守る効果があるが、若手失業の深刻化という問題を生み出している。また、年功賃金にかわって最近日本企業が導入を始めている成果主義は、人材育成やチームワークにとってマイナスとの調査結果もある。新興工業国の台頭に伴う成長力低下、デフレ圧力に対する先進各国の対応には、3つのパターンが見られる。1つはドイツ型で、賃金・物価といった価格体系を維持する一方、失業・空洞化という数量で調整する価格維持・数量調整型の対応方式、2つは日本型で、雇用・生産量という数量を維持する一方、賃金・物価といった価格面で調整する価格調整・数量維持型の対応方式、3つはアメリカ型で、産業構造のダイナミックな転換を特徴とした価格・数量転換型ともいうべき方式である。日本の対応の特徴は他に比類のない名目賃金のフレキシビリティーにあり、アジア諸国のキャッチ・アップの進展に伴う製造基盤の縮小傾向がみられるなかで賃金下落圧力が強い状況下、バブル崩壊後の膨大な産業調整圧力を緩和・吸収するに十分なだけ名目賃金が柔軟であったため、賃金デフレが現実化していると説明される。しかし、失業率の上昇テンポを緩和するものの、事業再構築よりもコスト削減を優先する企業行動を招きやすく、今後も長期間にわたって経済活動の停滞と失業率の上昇傾向が続く恐れがある。賃金デフレからの脱却には産業構造の転換を通じた生産性向上が不可欠で、製造部門がサービス部門を引っ張るという従来のパターンを脱却し、製造部門とサービス部門を両輪にした新たな成長パターンを築き上げることが必要である。
序章 賃金デフレの時代
第1章 賃金デフレの実態
第2章 なぜ賃金は下がり、今後いつまで下がるのか
第3章 賃金デフレは職場や個人生活をどう変えるか
第4章 「成果主義」は救世主になるか
第5章 「働き方の多様化」は何をもたらすか
第6章 賃金デフレを超えて
11.10月10日
”京の古寺から 岩船寺”(1998年5月 淡交社刊 植村幸雄/永野一晃著)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である岩船寺(がんせんじ)の四季を、写真と文章で紹介している。
岩船寺は山号、高雄山(こうゆうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基は行基と伝えられ、アジサイの名所として知られアジサイ寺とも呼ばれる。植村幸雄氏は、1939年京都府加茂町岩船寺に生まれ、1957年得度、1961年種智院大学仏教学部密教学科卒業、1967年総本山西大寺にて灌頂、1981年20年間の商事会社勤務を経て1982年岩船寺副住職、1986年住職。永野一晃氏は、日本写真家協会会員、1945年京都市に生まれ、1966年ヤラカス館本店に入社、ファッション、料理などの広告写真撮影に従事、1971年フリーランスとなり大阪にスタジオIKKOを設立。岩船寺は729年に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わり、その後、平安時代初期の806年に空海の甥・智泉が入り、伝法灌頂の道場として報恩院を建立した。813年に嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったという。1221年の承久の変の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建される。江戸時代には興福寺の末寺であった。三重塔、十三重石塔、五輪塔、石室、木造阿弥陀如来坐像は重要文化財で、木造四天王立像は 京都府指定文化財である。岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。
12.10月17日
概算要求
翌年度予算の大枠を示す概算要求基準に沿って、例年各省庁が8月31日までに財務省に概算要求書を提出することが政令で定められている。9月以降、財務省は経費などの査定を開始し、政府は12月下旬に翌年度予算の政府案を閣議決定し、年明け1月の国会に提出する慣例となっている。今年は政権交代があった関係で、麻生政権下で進めてきた2010年度予算の概算要求を全面的に見直すこととした。各省庁が10月15日に概算要求を再提出する2010年度予算の一般会計の総額が90兆円台半ばまで膨らむ見通しとなった。概算要求段階では過去最大規模となり、鳩山首相は各省庁に対して従来の政策については2009年度当初予算を下回る水準に抑えるよう求めているが、見直し作業は難航している。子ども手当など新規事業の実施で要求額は当初予算より7兆円近く増加する可能性もあり、首相は歳入不足を補うための赤字国債増発について、本来、発行すべきでないが、やむを得ないことも出てくるのかどうか、税収の落ち込み具合を勘案しながら考える必要がある」と述べ、税収によっては避けられないとの認識を示した。問題は景気が回復して経済成長が望めるかであるが、公共事業の削減などのマイナス要因が、子供手当てなどのプラス要因でどのくらい補填し凌駕できるかが問題である。どういう結果になるかは1年もすれば明らかになろう。やっぱりダメだったかとなるか、結構良いではないかとなるか。
13.10月24日
貧困率
貧困率には絶対貧困率と相対貧困率がある。絶対貧困率は発展途上国の生活費費が1日1ドル以下の人たちの割合である。相対的貧困率は先進国の国内での貧困を示すものである。貧困率の計算方法はいろいろあるが、OECDでは、等価可処分所得の中央値の半分の金額未満の所得しかない人口が全人口に占める比率を相対的貧困率と定義して、国際比較を発表している。日本について2000年の厚生労働省の国民生活基礎調査のデータ計算すると、等価可処分所得の中央値は約274万円で、この半分の額である約137万円に満たない人の割合が貧困率となる。OECDの社会指標に関する報告書によれば、2000年のデータで、OECD25カ国の貧困率の平均値は10.2%となっており、日本の貧困率は15.3%で、メキシコ20.3%、アメリカ17%、トルコ15.9%、アイルランド15.4%に次いで5位となっていた。2003年では、日本の貧困率は14.9%で、メキシコ18.4%、トルコ17.5%、米国17.1%に次いで加盟30か国中4番目に高かった。2006年では日本の貧困率は15.7%であったが、1990年代なかばは13.7%であった。貧困率は確実に年々上昇しているようである。
14.10月31日
”アメリカという物語 欲望大陸の軌跡”(2004年8月 勉誠出版刊 松尾 弌之著)は、ついこの前まで世界を席巻しつつあったアメリカの欲望現象のルーツを探る12の歴史物語であるが、今後はどうなっていくであろうか。
著者の松尾 弌之氏は1941年満州国生まれ、上智大学卒業後NHKで番組制作、ワシントンの合衆国政府勤務を経てジョージタウン大学歴史学大学院博士課程修了、上智大学外国語学部教授。 アメリカ合衆国は、イギリスの北米植民地が1776年7月4日に独立を宣言して成立した国家である。独立宣言において全ての人民の権利と平等をうたい、政府をその保障手段と明確に位置づける。かつては奴隷制のような矛盾を抱えつつも、ロックらの人権思想を理念的基盤として歩んできた歴史を有する。アメリカという物語は極彩色の欲望にいろどられており、自由と民主主義実現のプロセスなどとして割り切ってしまうには、あまりにももったいない。より豊かになりたいという民衆の願望と、空想的な大風呂敷が織りなす人間的なストーリーなのである。ヨーロッパの前にこつ然と姿を現わしたアメリカとは、信じられないほどの人類の幸運であり、人々はそこにありとあらゆる可能性を夢見た。アメリカとは白紙のキャンバスであったから、人々は勝手に欲望と夢をこねあげて想像をたくましくすることができた。社会や政治上の抑圧から逃れて新大陸に渡った者は、自由の大地という神話を作りあげた。しかしもっと数の多い大部分の渡航者たちは、そこにさらに具体的な黄金郷を夢想し、いくら食べてもつきることのない食料や、不老不死の泉を期待した。欲望に突き動かされてアメリカが成立した。アメリカに渡った者たちは、それぞれが豊能の国アメリカというとてつもない物語をかかえて一生を送ることになった。現状に甘んずることなくチャンスを求めて西部へ移動する。決まり事を打ち破って新しいやり方を考案する。昨日までの伝統を捨てて未知の世界に飛び込んでみる。アメリカとは人類史のなかの特異な現象であり、それゆえに私たちの体の一部でもある。アメリカを最大のお手本として近代の生活様式をうち立てた以上、わたしたちはアメリカという現象におのが姿を見ていかねばならなかったのではないか。生きた人間の数だけこのような果敢なアメリカ物語があるのだが、この本ではあえて新世界の12の代表的なお話にまとめて、アメリカ民衆の願望の歴史を語ろうとした。
第1話 夢のゴールドラッシュ
第2話 くそったれ国家のアメリカ黒人
第3話 自由な想像力と綿密な計算
第4話 ジョン・ブラウンの死体をこえて
第5話 機械と協力した男=リンドバーグ
第6話 疫病神に出会ったネイティブアメリカン
第7話 アメリカ製造業の父=サムエル・スレーター
第8話 アメリカを癒やす発想
第9話 プレイボーイの衝撃
第10話 アメリカの大地=保存か利用か
第11話 合理精神は職人芸にまさる
第12話 カードで買えるアメリカンドリーム
15.平成21年11月7日
”青蓮院 京の古寺から27”(1998年7月 淡交社刊 東伏見慈洽/横山健蔵著)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺である青蓮院の四季を、写真と文章で紹介している。
青蓮院は青蓮院門跡とも称し、山号はなし、開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。比叡山上の天台三千坊の一つで、東塔南谷にあり初めは青蓮坊といった。第12代行玄大僧正のとき、鳥羽院の皇后美福門院の祈願所として院号を授けられ青蓮院となり、東塔南谷の本坊となった。東伏見慈洽氏は、青蓮院門跡門主で、1910年東京都生まれ、1934年京都大字文学部、同大学院卒業し、副手、1939年~1947年まで同大学文学部講師。1947年大正大学講師、1956年京都大学文学博士。研究しながら1945年青蓮院門跡にて天台座主渋谷大僧正について得度。1952年善光寺大勧進住職、1953年青蓮院門跡門主。横山健蔵氏は、1939年京都市生まれ、1967年日本写真印刷刷(株)写真部を経て、フリー写真家。伝統に育まれた京の文化、特に伝承文化を中心に、京の自然や風物を撮影する。青蓮院は、三千院=梶井門跡、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされる。門跡寺院は皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことで、青蓮院は多くの法親王が門主を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため粟田御所の称もあり、日本三不動のひとつ青不動のある寺としても知られる。歴代門主のうち、3代の慈鎮和尚慈円は愚管抄の著者として著名である。慈円は関白藤原忠通の子で、歌人としても知られ、天台座主を4度務めている。また、17代門主の尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、名筆家として知られ、青蓮院流と呼ばれ江戸時代に広く普及した和様書風御家流の源流である。室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務めた。また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。江戸時代の1788年、内裏炎上の際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となった。このため、青蓮院旧仮御所として国の史跡に指定されている。近代に入り、1893年の火災で大部分の建物が失われた。
16.11月14日
日米首脳会談
オバマ米大統領が11月13日午後3時35分すぎ、羽田空港着の専用機で初来日し、夕刻から鳩山首相と官邸で会談し共同記者会見した。2度目の会談で親密さが深まったことをアピールし、大統領が提唱した核兵器のない世界の実現や、地球温暖化対策、北朝鮮の核開発問題への対応など、日米が協調できる分野での協力で一致し、両国の同盟関係をアジア太平洋地域安定の基軸とし深めていくことも確認し合ったが、積み残した課題の重さと今後の厳しさがあらためて浮き彫りになったようである。アフガニスタンの復興支援では、鳩山首相が今後5年間で4500億円規模の新たな支援をすることを正式に表明し、大統領は感謝の言葉を述べた。沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題については、先の日米外相会談で合意した閣僚級の作業グループによる早期解決を目指すことを再確認するにとどまった。政権が交代し普天間問題も新たな視点で検討し直しているが、問題を先送りにしたのは妥当な判断ではあるが、移設をめぐる今後の交渉は厳しくなると思われる。日米の閣僚級協議で普天間移設を話し合うといっても、着地点は見えていない。来年は日米安全保障条約改定から50年の節目の年で、日本の安全保障のあり方をあらためて国民に問う必要があり、政権の力量が厳しく問われることになりどうである。
17.11月21日
”街道をゆく39ニューヨーク散歩”(1994年2月 朝日新聞社刊 司馬 遼太郎著)は、ブルックリン橋を造ったジョン・ローブリング、江戸末期に日本にやってきたタウンゼント・ハリス、日本学の世界的な研究者であるドナルド・キーンなどを中心に、マンハッタンの片隅で街の歴史を辿り日本と関わった人々を思うシリーズ唯一のアメリカ紀行である。
街道をゆくは、司馬遼太郎による短編紀行集で、1971年から1996年まで週刊朝日に連載された。司馬が47歳の時に連載を開始し、司馬の死によって濃尾参州記が絶筆となった。日本国内ばかりでなくアイルランド・オランダ・アメリカ・モンゴル・中国・韓国・台湾などの各地を訪ねた旅行記であり、その地の歴史・地理・人物に焦点をあてている。アメリカ旅行を記したものは本書しかなく、ニューヨークにあるコロンビア大学で日本に関する講演をするための旅行で目にしたものや出会った人々を中心に話が展開する。建設中に命をおとした父のあとを息子が受け継ぎ、大事業を成し遂げたブルックリン橋を渡りつつ勃興期のアメリカ文明を思い、日米修好通商条約を締結した際のアメリカ側代表者ハリスの墓参りを通して彼の生い立ちや日本側との折衝の日々を描き、戦前のコロンビア大学で唯一の日本人教授が後世の日本学研究者を生んでいった過程を紹介している。アメリカは世界中からの移民を呑み込んで膨れあがり、アメリカのおもしろさは変化であると言う。日本人も忘れてしまった日本を発見した研究者たちとの触れ合いが語られている。
・マンハッタン考古学
・平川英二氏の22年
・ブルックリン橋
・橋をわたりつつ
・ウィリアムズバーグの街角
・ハリスの墓
・コロンビア大学
・ドナルド・キーン教授
・角田柳作先生
・御伽草子
・ハドソン川のほとり
・学風
・日本語
・奈良絵本
・ホテルと漱石山房
・さまざまな人達
18.11月28日
”10年後の日本”(2005年11月 文藝春秋社刊 日本の論点編集部編)は、プライマリーバランスの赤字額が2005年度の一般会計予算で約16兆円になっている日本の10年後を、悲観的に概観している。
1億総中流時代は昔の話になり、かつて世界一を誇っていた治安の良さは先進国で検挙率最低の部類にランクされるまでになった。互いが助け合うセーフティネットの確立された日本は瓦解した。また、これまで地域間格差の拡大防止に膨大な公共事業を行い、800兆円以上もの借金を積み上げることになった。2010年度の予算も大幅なアップになり、GDPの2倍に近づいている。赤字幅をなくすには歳出を削減するか、歳入を増やすしかない。歳出の方は、今回行われた事業仕分けも財務省のパフォーマンスの色彩が濃く、結果的に大幅なカットはできないことになった。歳入の方は、今後景気の劇的な回復によって税収増を期待することはできない。そうなると増税しかなくなりそうである。少子高齢化は世界に類例のないスピードで進み、2015年には日本人の4人に1人が高齢者になっていると予想される。年金、介護、医療などの社会保障費は、2004年度の85兆円から、2025年には168兆円にまで倍増すると言われている。これを消費税で補填しなくてはならなくなりそうである。日本の財政赤字は深刻の度を深めている。2004年度のGDPが505兆円だから、公債残高のGDP比率は154%で、先進国で類を見ない突出した数字である。EU加盟各国平均は70%前後、米国でも65%である。全世界の開発途上国の累積債務の総額が約2003年時点で226兆円だから、日本の公債残高の大きさは異常といわざるをえない。2005年度予算の一般会計歳出は82兆円で、税収が見込まれているのは44兆円であった。いまの方がずっとひどくなっていると思われる。税収の不足分は国債発行で穴埋めしなければならない状態である。穴埋めすれば公債依存度が高まる。毎年のように税収不足を国債で補いながら、同時に借金の利払いと返済を、また新たな借金で返すことを繰り返していれば、雪だるま式に公債が累増するのは当然である。これまでは、返済のあてなく累増を続ける国の巨額債務を前にして、国債はこれまで比較的順調に消化され、長期金利は1%台で推移してきた。国民がまだ日本政府を信じているからであろう。しかし、財政赤字と公債の累増を放置していれば、やがて日本政府が国民の信頼を失う日が来そうである。日本国債が投資不適格の烙印をおされる事態になれば、長期金利は急騰し、国債の金利負担が急増、日本は財政の維持が不可能となり破綻の時を迎える。日本はすでに危険水域まで入り込んでいる。発行額が増加をたどれば、やがて国債市場での売買バランスが崩れて国債は暴落する。国債を日銀に引き受けさせれば見かけ1は債務は減少するが、通貨は無制限に増発され急激なインフレを招く恐れがある。やがて、貯金は消えてお金は紙屑同然になったあの時代が思い出される。日本では1932年に、物価が350倍まで暴騰して猛烈なインフレに襲われた。最近ではロシアが、1998年に債務不履行となった直後から1年で物価が70倍にまではねあがり、2001年にアルゼンチンでハイパーインフレが起こった。世界にも例を見ない低金利、違法すれすれの買い切りオペや量的金融緩和などは問題を先送りすることになり、いつの日かほころびが出ることになろう。長期金利が上昇して6%になると、800兆円の国債の利払いは48兆円になり、国家の税収はすべて国債の利払いで消えてなくなる。財政は破綻へと転がり落ち、市場は暴走しハイパーインフレになるという最悪のシナリオである。このような事態は、何としても回避しなければならないであろう。
19.平成21年12月5日
”大仙院 京の古寺から28”(1998年8月 淡交社刊 尾関宗園/水野克比古著)は、京都にある臨済宗大徳寺内の塔頭寺院である大仙院の四季を写真と文章で紹介している。
大徳寺は、京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、山号龍寶山、本尊釈迦如来、開基大燈国師宗峰妙超、臨済宗大徳寺派大本山である。1325年に創立された京都でも有数の禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂をはじめ、中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並んでいる。大仙院は、その塔頭の1つである。著者の尾関宗園氏は、1932年奈良市に生まれ、高校生の時に仏門に入り、奈良教育大学卒業後、京都の相国寺僧堂で雲水修行、1965年大徳寺塔頭大仙院の住職となった。水野克比古氏は、1941年京都市上京区に生まれ、1964年同志社大学文学部卒業、1969年からフリーランス・フォトグラファーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んだ。大仙院は、1509年に大徳寺76世住職古岳宗亘、大聖国師によって創建され、現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬った。また漬け物のたくあんを考案したとされる七世沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を教えた所としても有名である。本堂は、1513年に古岳宗亘が自分の隠居所として建立したもので、日本の方丈建築としては東福寺・龍吟庵方丈に次いで古い遺構である。大仙院の床の間は日本最古とされ、玄関も日本最古の玄関として国宝に指定されている。枯山水庭園は、蓬莱山から落ちる滝、堰を切って大海に流れ込む水をすべて砂で表し、宝船や長寿の鶴亀を岩組で表した開祖古岳宗亘禅師による室町時代の代表的な枯山水庭園である。
20.12月12日
平常心是道
南泉と趙州との間に行われた問答である。南泉普願禅師48歳、趙州18歳で、趙州は南泉普願禅師が亡くなるまで30余年に渡り随身しのち大禅師となったが、当時はまだ仏道がわかっていなかったので道について問うた。
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道、州云く、還って趣向すべきや否や。泉云く、向わんと擬すれば即ちそむく。州云く、擬せずんば争でか是れ道なることを知らん。泉云く、道は知にも属せず不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。州、言下に於て頓悟す。
趙州 「道とはどういうものですか」
南泉 「平常心是道」
趙州 「平常心という道はどこにあるかと探し、つかむことはできますか」
南泉 「つかもうとすれば道からそれる」
趙州 「道をつかもうと向かわなければ、どうして道を知りえますか」
南泉 「道は知と不知とに属せず。知識は錯誤であり、不知は虚無だ、もし真に疑いのない道に達っせば、大空の如くからりとしてわだかまりがない。ことさら是非など微塵もない」
平常心是道とは、尽十方界=宇宙・大自然の絶え間ない活動は常に平常底であり真実であるということを表現している。平常底とは、例えば大地震、台風、火山の噴火や洪水等、人間にとって不都合な宇宙・大自然の活動も、宇宙・大自然それ自体においては、本来当たり前で何とも無い絶対的な真の事実なのであるということ。平常底という事実は、我々の身体の生命活動においても同じである。我々は、日頃、自我意識の働きによる日常生活上の喜怒哀楽が、我々の人生の全てであるかのように錯覚しているが、尽十方界真実人体である我々の身体そのものは、そんな我々の意志・意欲の如何に拘らず、本来の生命活動を休み無く続けてくれている。だからこそ我々は生きていけるのである。人間の喜怒哀楽は人間生命のその時その時の景色・表情に過ぎない。どんな大きな喜び悲しみも決して何時までも長続きはせず、時間の経過と共に平常底に戻らざるを得ない。このような平常底の事実を、解脱、脱落、三昧等と言う。宇宙・大自然の生命活動においては人間の利害・思惑等は無関係である。
21.12月19日
”この日、この空、この私ーー無所属の時間で生きる”(1999年10月 朝日新聞社刊城山 三郎著)は、何でもない一日こそかけがえのないと言う。
城山三郎氏は、1927年8月愛知県名古屋市生まれで、本名、杉浦英一、経済小説の開拓者で、伝記小説や歴史小説も多い。2007年3月に亡くなった。1945年愛知県立工業専門学校(現、名古屋工業大学)入学、理工系学生であったため徴兵猶予になるも大日本帝国海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。1946年東京産業大学(現、一橋大学)予科入学、1952年改名された一橋大学卒業。愛知学芸大学(現、愛知教育大学)商業科助手、専任講師、1963年退職、以後、作家業に専念する。人生の持ち時間に大差はない。還暦のとき書いたメモには、年齢に逆らわず無理をしない、いやなことはせず楽しいことをする、眠いときには寝て醒めたら起きる、好きなものだけ食べる、義理や面子や思惑をすてる、省事で通す、友人をつくり敵をふやさないなどが書かれていたという。人生を豊かにするのは誰にも強制されない自分だけの時間を持つことである。何でもない一日こそかけがえのない人生の一日であり、その一日以外に人生は無い。問題はいかに深く生きるかである。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも貧しいものにもなる。
・お叱りの手紙
・日帰りの悔い
・子猫とナポレオン
・慶弔積立金なんて
・ヴェネツィアと黒衣
・組織を超え、光の中へ
・自分を見物する心
・東京での一日
・一日四分割法
・途方もない夢
・ほか
22.12月26日
無事是貴人
一般的には、この一年間たいした災難にも遭遇することなく無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わす。忙しい年の瀬でも決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って使われる。しかし禅語としては、無事とは仏や悟り道の完成を他に求めない心をいい、貴人とは貴ぶべき人すなわち仏であり悟りであり安心であり道の完成を意味する。人の心の奥底には生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性があり、それを発見し自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということである。
求心歇む処、即ち無事
・・・求める心があるうちは無事ではなく、求心歇む処が無事である。
無事是れ貴人
・・・その無事がそのまま貴人である。
但だ造作すること莫かれ、祇だ是れ平常なれ
・・・当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事である。
いかなる境界に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、無事是れ貴人というべきである。
23.平成22年1月2日
成長戦略
平成21 年12 月30 日の閣議決定で「新成長戦略(基本方針)」についての発表があった。失業率を今後4年間で3%台に低下させ、2020年度の名目国内総生産(GDP)を現在の1.4倍の650兆円程度にすると言う。日本は、世界に冠たる健康長寿国であり、環境大国、科学・技術立国、治安の良い国というブランドを有している。こうした日本が元来持つ強み、個人金融資産(1,400 兆円)や住宅・土地等実物資産(1,000 兆円)を活かしつつ、アジア、地域を成長のフロンティアと位置付けて取り組めば、成長の機会は十分存在する、と言う。また、我が国は、自然、文化遺産、多様な地域性等豊富な観光資源を有しており、観光のポテンシャルは極めて高い。さらに、科学・技術、雇用・人材は、成長を支えるプラットフォームであり、持続的な成長のためには長期的視点に立った戦略が必要である、と言う。この観点から、我が国の新成長戦略を、強みを活かす成長分野(環境・エネルギー、健康)、フロンティアの開拓による成長分野(アジア、観光・地域活性化)、成長を支えるプラットフォーム(科学・技術、雇用・人材)として、2020 年までに達成すべき目標と、主な施策を中心に方向性を明確にしようとした。これに対しては、付け焼き刃のバラ色の物語であり、財源は不明で、実現に疑問符という批判がある。時期の問題もある。予算が策定される前に公表されるべきであった。また、環境、アジア経済重視といった成長シナリオは自公政権下で策定された成長戦略とほぼ重なる内容で、目新しさはなく、ただ内需喚起に力点を置いていることが異なっているだけである。財源を手当てするための新規国債発行額は44.3兆円に上り、シナリオは財源の裏付けが乏しい政策の列挙となっている。高い法人税率、不十分な規制緩和などで日本企業の国外脱出の可能性もあり、雇用が一段と不安定さを増すことが考えられる。今後どのように実現されていくか、経過を注視したい。
24.平成22年1月9日
廓然無聖
廓然無聖とは、カラッとした空っぽなもので、聖なるものも、真なるものも何もないという意味である。禅宗の初祖菩提達磨大師の言葉で、悟りの境地を一言で表わした語として知られる。梁の武帝(502~549) は、中国南北朝時代、南朝梁の初代皇帝である。仏教を尊崇すること厚く、皇帝大菩薩の異名を得るが、晩年は狂信に流れ、侯景の乱によって幽閉されて餓死した。50年近い在位をほこり、南朝随一の名君と称される。帝、達磨大師に問う、
「如何なるか是れ聖諦第一義」、達磨云く
「廓然無聖」、帝云く、
「朕に対する者は誰ぞ」、達磨云く、
「不識」、帝契わず、遂に江を渡り、少林に至って面壁九年。
目の前にいるおまえは何者なのだと問われて、達磨は知らぬと答えた。その後、達磨大師は魏の国の嵩山少林寺に去ったそうである。廓然とは台風一過の青い空のように晴れやかでさわやかな境地である。そこには汚れた迷いや煩悩はひとかけらも無い。そればかりか尊い悟りさえない。あらゆる言葉を絶した絶対的無一物の世界である。山川草木、花鳥風月は皆、今もその世界で生き生きといのちを輝かせている。何事にもとらわれない広々とした世界で、聖者も凡夫も平等無差別である。
25.1月16日
”日本人よ。成功の原点に戻れ”(2004年1月 PHP研究所刊 マハティール・ビン・モハマド著)は、マレーシア前首相マハティール氏は、方向性を失った日本人に自信を与え危機脱出の方法を喝破しようとしている。
マハティール・ビン・モハマド氏は、1925年、マレーシア、ケダ州アロースター生まれ、マラヤ大学医学部卒、医学博士、大学卒業後医務官となるが、政治活動をするため開業医になり、1964年下院議員に当選、1974年教育相、1976年副首相兼任、1981年マレーシア第4代首相に就任。日本好きであるが日本びいきかというとそうではないと言う。第一にマレーシアびいきでマレーシア好きである。マレーシアのお手本となるかを考え抜いた結果が、日本であったということである。第二次世界大戦が始まる前、日本の絹織物や綿布は安価ではあるが粗悪品だったので、日本製品に対しても日本人に対しても尊敬の念を抱いていなかった。しかし、第二次世界大戦が始まると、日本軍は東南アジアに侵攻してマレー半島のイギリス支配にピリオドを打った。それまでヨーロッパは無敵であり、反抗不可能なものと認識されていたのに、日本に負けたのである。この事実が認識を180度変えた。同じアジアの国が西欧の強国を負かすことができるのだという事実が、衝撃として走ったのだった。後日、日本に行ったとき、大阪の天ぷら屋に入って、そのときの日本人の礼儀正しさと、笑顔と、なによりも天ぷらのおいしさに魅せられて、いっペんに日本食が好きになった。今でも、天ぷら、寿司、すき焼きなどの日本食は、わたしの大好物である。日本はいつ行ってもわたしの好奇心を満足させてくれる、奥深い文化をもった国だ。特に日本の温泉はとても興味深い。第二次世界大戦後、日本は復興期にあたり、道には信号機さえないところが多く、人々の生活はまだまだ貧しかったが、東京オリンピックの開催に向けて、高速道路など、各地で大規模な建設が行われていた。そのとき、わたしは日本人の礼節と、熱意と、勤勉さに触れた。そしてなによりも印象的だったのが、日本人の、製品に対する考え方の革命的な変化だった。戦後の日本は、復興にカを入れると同時に、海外に高品質で安い製品を供給するように戦略を変えていた。そして、実際に供給される商品の質は、欧米の標準をしのぐものが、当時すでにあった。そのとき、わたしはひとつの確信を得た。つまり、発展するつもりになれば、アジアも発展できるのだということ。そして、日本ができるのであれば、アジアの国も同様に発展できるということ。そして、そのために、日本の残した足跡は重要な教科書であるということだった。つまり、当時の日本は、マレーシア発展のためのモデルとして、わたしの心に深く刻み込まれることになったのである。ルック・イースト政策は、西欧拒否の政策ではない。日本、韓国、台湾など、東アジアの成功例に勇気付けられて、西欧とは違った発展形能が存在し得るという確証を与え続けたのである。日本は、戦後の世界で、一番成長し、一番安定した国家を作った。このことを忘れてはならない。日本は行き詰まってしまった、悪くなってしまったと思うのなら、それでは、いつ頃から悪くなったのか、一度冷静になって考えてみるべきだ。現時点で日本はまだマレーシアのモデルと言えるかと聞かれたら、残念ながら、わたしは否と答えざるを得ない。しかし、マレーシアには、道に迷ったら、出発点に戻ってやり直せということわざがある。日本も、出発点に戻るべきだろう。過去に戻り、日本に成功をもたらした方程式を再び学ぶことは重要だ。それから、重要なことは、改革はゆっくり進ませるということである。
序 章 次世代のリーダーたちに
第1章 イラク戦争と五つの虚構
第2章 戦争の神はいない
第3章 世界規模の問題にどう対処するか
第4章 西洋の物質主義と東洋の精神主義
第5章 中国という無視できない現実
第6章 日本人よ。成功の原点に戻れ
第7章 教育と家族の大切さ
第8章 リーダーシップとは
おわりにかえて―二十一世紀は「世界の世紀」
26.1月23日
”古寺巡礼 京都2 浄瑠璃寺”(2006年10月 淡交社刊 佐伯快勝/立松和平著)は、京都の加茂町にある真言律宗寺院浄瑠璃寺の四季と文化財を、写真と文章で紹介している。浄瑠璃といえば日本音楽の一種目が浮かぶが、仏教では薬師如来の居所の東方浄土である。
浄瑠璃寺は山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人で、寺名は薬師如来の居所たる東方浄土東方浄瑠璃世界に由来する。佐伯快勝氏は1932年奈良県生まれ、1955年奈良教育大学卒業後、中学校教師を経て、1968年父・快龍師の跡を継ぎ浄瑠璃寺住職となる。立松和平氏は1947年栃木県生まれ、作家、19釦年野間文芸新人賞、1997年毎日出版文化賞受賞、行動派作家として知られ、近年は自然環境保護問題にも積極的に取り組む。浄瑠璃寺は1047年、奈良県葛城市の僧・義明上人を開基、阿知山大夫重頼を檀那とし、薬師如来を本尊として創建された。義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。浄瑠璃寺の本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。お彼岸の中日に朝早くから日没まで滞在する参拝客の姿が見える。平安時代に発達した浄土式庭園がほぼ完全な姿で残っている。仏教の世界観を庭園で表わし、日の昇る東方に薬師如来が坐し浄瑠璃世界を、日の沈む西方に阿弥陀如来が配され極楽浄土を意味している。その伽藍配置は絶妙で、太陽の軌道に見事に沿っている。彼岸の中日には、東の薬師如来の白毫あたりから太陽が昇り、西の九体仏の中尊像、蓮弁の中央に向って日が沈んでいく。
27.1月30日
”仏教と資本主義”(2004年4月 新潮社刊 長谷部日出雄著)は、日本には8世紀の天平時代に資本主義の精神が存在していたと言う。
行基の利他の菩薩行と鈴木正三の革新的な労働倫理は、西欧近代資本主義のカルヴィニズムの倫理と同じだと言う。著者の長部日出雄氏は、1934年青森県生れ、新聞社勤務を経てTV番組の構成、ルポルタージュ、映画評論の執筆等に携わり、1973年「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」で直木賞、1980年「鬼が来た棟方志功伝」で芸術選奨、1987年「見知らぬ戦場」で新田次郎文学賞を受賞。プロテスタンティズムの敬虔な信仰が主となって資本主義の精神が生まれたとされているが、似たものが日本にもあったと言う。行基(668年-749年)は日本の奈良時代の僧で、河内国大鳥郡に生まれ、681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動し、704年に生家を家原寺としてそこに居住した。貧民救済の根底に大乗仏教の利他行があったという。行基は最初政府から弾圧されるが、やがてその力が認められ、東大寺の大仏建立の担い手として招かれた。行基の精神は、後の仏教者にも受け継がれ、鎌倉時代の法然などの宗教改革にも影響を及ぼし、江戸時代の鈴木正三に見られる天職理念となり、石田梅岩の商人の哲学である心学へと結び付く。鈴木正三(1579年-1655年)は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。出家して三河に帰った正三は、はじめ千鳥寺で、次いで鈴木家の領地であった山中村の石ノ平で修行し、ここに石平恩真寺を建てて生涯の拠りどころにした。著書の多くは仏教的教化のために書かれたもので、「因果物語」「二人比丘尼」は、のちの仮名草子・浮世草子に影響を与えた。石田 梅岩(1685年-1744年)は江戸時代の思想家、倫理学者で、石門心学の開祖である。丹波国桑田郡東懸村に百姓の次男として生まれ、1695年に11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰り、1707年に23歳の時に再び奉公に出て働き、1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時に借家の自宅で無料講座を開き、石門心学と呼ばれる思想を説いた。思想の根底にあったのは宋学の流れを汲む天命論で、同様の思想で石田に先行する鈴木正三の職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知し、商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではないという立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方は、アメリカの社会学者ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。
第1章 「天職」という考え方
第2章 最初の宗教改革者・行基
第3章 欧州より早い宗教改革
第4章 日本における「天職理念」
第5章 商人の哲学
第6章 資本主義の運命
第7章 二十一世紀の資本主義
28.平成22年2月6日
”古寺巡礼 京都3 東福寺”(2006年11月 淡交社刊 福島慶道/檀 ふみ著)は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院、東福寺の四季を、写真と文章で紹介している。
東福寺は、山号は慧日山、本尊は釈迦如来、開基は九条道家、開山は聖一国師円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。今なお25か寺の塔頭を有する大寺院である。福島慶道氏は、1933年兵庫県生まれ、臨済宗東福寺派管長・東福僧堂師家、1947年岡山県総社市の宝福寺で得度、1961年南禅僧堂に掛錫、柴山全慶老師に参じる。檀ふみ氏は、1954年東京生まれ、作家檀一雄の長女、女優・エッセイスト。東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにあり、1236年、九条道家がこの地に高さ5丈の釈迦像を安置する大寺院建立を発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って東福寺とした。九条道家は開山として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。仏殿の建設工事は1239年から始め、完成したのは1255年、法堂が完成したのは1273年であるが、本尊釈迦像は1319年に火災で焼失し、14世紀半ば頃に再興された。近代の1881年にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などが焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。主要伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。応仁の乱の戦火を免れた貴重な文化財が数多く存在する。東福寺からは歴代多くの名僧を輩出し、虎関師錬、吉山明兆などが著名である。
29.2月13日
”こまった人”(2005年10月 中央公論社刊 養老 孟司著)は、話題の出来事を定点観測し世界と世間の本質を読み解こうとしている。
興味あるお話がたくさんある。人生安上がりもその1つである。ニートは、学生でもなく就業者でもなく職業訓練中でもなくかつ求職活動をしていない人々を指す。フリーターと区別して使われる言葉で、働くという意味で社会参画する意欲を喪失した人々である。養老孟司氏は、1937年鎌倉生まれ、1962年東京大学医学部卒業、大学院基礎医学専攻博士課程修了、1995年東京大学医学部教授を退官、1996年より北里大学教授、東京大学名誉教授。近頃の若者はと嘆く年齢になって、練炭を焚いて何人か若者が死んだりすると気持ちが痛むと言う。若い身空でなぜと思い、先行きが暗いのであろうと思うが、若い頃の自分だって未来が明るいと確信していたわけではない。しかし自分も昔、真っ暗だと確信してもいなかったし、それがフツーであろう。定職についていないフリーターが400万人を超え、ニートの若者が40万人だと言う。年寄りは眉をひそめるかもしれないが、全体として見れば生まれてくる子どもの性質に大きな変わりはなく、たかが百年や千年では人は変わりほしない。生まれてくる子どもは昔とほとんど変わらないのに、現代の若者が以前と変わってきたとすれは、それは社会が変わってきたからだということになる。子どもが育つ環境が変わったのであり、環境を変えたのは大人だから若者に変化が生じたのは、大人のせいに決まっている。子どもが育つ環境が激変したことはいうまでもなく、これだけ変えたのによくまともに育っているなあと思っているくらいである。フリーターやニートを減らすのは大人の仕事であろう。昔だってそういう若者はいたが、目立たなかっただけだ。昭和の初期には勤め人の月給取りは1割に満たない。昭和30年代なら3割ということである。60年代には6割から7割になっていたはずで、そっちのほうが異常ではないか。もともとは自営業が中心で自営業は自分が主人であるが、そういう世界がいつのまにか勤め人中心の世界になった。昔から人間がやってきた仕事を考えたら、それに適応する人が大勢いるのが不思議なくらいである。だから、適応できない人が400万人いたとしてもピックリしない。仮に若者に問題があるとすれば、大人がバカなことを教えたからであろう。本当の自分、個性ある私なんてものを暗黙に教えてきたが、そんなものはない。本当の自分はいずれ死ぬが、その日がわかっている人がいるだろうか。この本当の自分という錯覚が、職業選択に影響している。若者たちが自分に合った仕事を探しているという調査結果があるが、自分に合った仕事をしている人は世の中にそういるはずがなかろう。それが社会に必要だからこそ仕事が存在し、社会にとって必要だからこそ、人々は仕事をするのである。若者が自分に合った仕事なんてほざいたら、年寄りが怒鳴りつければいいのである。それができないとすれば、それは大人が仕事を自分のためと思ってやっているからであろう。そう思っている大人にフリーターを叱る資格なんぞない。若者は将来に希望がないといって自殺するが、その将来は外の世界ではなく自分のなかにしかない。団塊の世代は自分ではなく世の中を変えようとしたが、なんでも安売り、百円ショップの世の中である。自分くらいどんどん変えたらどうか。それが人生をコスト安にする方法である。
Ⅰ
本と商売、嘘をつく、日本人の沈黙、本田、松下、ソニー、派兵問題、流行現象、十二月八日、拝啓小泉首相様
Ⅱ
参拝問題、いい加減にしてくれ、養鶏場に似るヒト社会、役に立たないこと、正義を取り戻せ、犬と猿、人格の否定
Ⅲ
相変わらずです、安心、愛国心か「お国のため」か、虫と長生き、引き際、奇妙なNHK・朝日騒動
Ⅳ
人生安上がり、田舎暮らしの勧め、一国民として、安全第一、一切空、政治嫌い、言葉と文化
30.2月20日
実相無相
実相とは、真実が無相でありそれが萬物の本来の相であることを意味する。無相とは人間の言葉をはなれ心でおしはかることのできないことをいう。実は虚妄に対していわれる真実の意味で、相は無相の義である。諸法実相という複合語として使われることが多い。実相を萬物の本体などといって、現象の背後に現象生起の源としての何か実在的なものと考えるようなことがあるが、それは誤りであり、実相はけっして実在的実体ではない。実相とはすべてのもののありのままのすがたをいう。無相こそ萬有のありのままの姿であるということを説くのが実相である。この意味で、実相を法性、真如、如実などとよぶ。法性とは、サンスクリット語のダルマターで、法そのもの、法としてあらわれている萬物の本性の意味である。真如とは、タタァターで、真実であり如常であること、ありのままの状態をいう。如実ブフータ・タタァターで、存在のありのままのすがたをいう。実相こそが仏陀の悟りの内容そのものであり、一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。不立文字、教外別伝。私には、自他を越えて、すべて自分だと看ていく正しい眼の蔵がある。それは穏やかな妙なる心である。それは片時も留まらぬこの世の無常の中にあって、唯我独尊に固執することなく、あるがままを、そのままに認許する恕の心である。それは、言葉や文字では表現できないゆえに、自ら見つけるほかないものである。
31.2月27日
”古寺巡礼 京都4 三千院”(2006年12月 淡交社刊 小堀光詮/黛まどか著)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院、三千院の四季を写真文章で紹介している。
三千院は、山号は魚山、本尊は薬師如来、開基は最澄である。京都市街の北東山中、かつて貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にあり、青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。デューク・エイセスの『女ひとり』の中で歌われているのは有名である。
京都 大原 三千院/ 恋に疲れた 女が一人/ 結城に塩瀬の 素描の帯が/ 池の水面に 揺れていた/ 京都 大原 三千院/ 恋に疲れた 女が一人
小堀光詮氏は、1922年栃木県生まれ、天台宗三千院門跡六十一世門主、大僧正、1934年に出家得度、栃木県立佐野中学校卒業を経て比叡山に入山、1947年、比叡山星光院住職に任命、1982年より比叡山延暦寺執行を務め、1988年三千院門主に任命。黛まどか氏は、神奈川県生まれ、俳人、1994年、「B面の夏」50句で第初回角川俳句貨奨励賞受賞、2002年、『京都の恋』にて第2回山本健吉文学賞受賞。三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本に移され、度重なる移転の後、1871年に現在地に移ったものである。比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に里坊と呼ばれる拠点をもっていた。860年、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本に円融房の里坊が設けられた。1118年、堀河天皇第二皇子の最雲法親王が入寺したのが皇室子弟が入寺した初めで、以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。三千院という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は梶井門跡などと呼ばれた。坂本の円融房には加持に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を梶井宮と称するようになったという。往生極楽院は平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂で、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれた。境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。往生極楽院の西、緊碧園の東の木々の間に一株の桜の老木「涙の桜」がある。室町時代の歌僧頓阿がその友の陵阿上人の極楽院旧栖を訪ねた時、上人手植えの桜をみて、
見るたびに袖こそ滞るれ桜花涙の種を植えや置きけん(草庵集)
と詠んだことに因むという。
32.平成22年3月6日
”地球一周98日間の船旅”(2005年6月 祥伝社刊 佐江 衆一著)は、ピースボートのトパーズ号で17ヵ国を歴訪したときの船内生活、寄港地の体験、船旅のコツ、注意点などが克明に書かれている。
ピースボートのプログラムは船内だけでなく寄港地でのホームステイ等々、多彩なプログラムがある。70歳で初めてピースボートでの3ヵ月の旅をした佐江氏は、1934年東京生まれ、文化学院卒業、丸善、ナショナル宣伝研究所企画部長を経て、1960年新潮社同人雑誌賞、何回か芥川賞候補にもなり、1990年、新田次郎文学賞受賞、1995年ドゥマゴ文学賞受賞、1996年中山義秀文学賞受賞、1996年まで東海学園短期大学客員教授。地球のいまの姿にふれ、世界中の人々と交流しながら旅することが大きな特長である。各地の大自然や遺跡をおとずれ、その地で暮らす人々と出会い、その歴史や生活に目を向け、異なる国や文化圏にある人々との相互理解へとつながる。2004年7月14日に横浜を出航し、10月19日に帰港した。途中、神戸、基隆、ダナン、シンガポール、コロンボ、マッサワ、ポートサイド、ピレウス、カタニア、タンジェ、ドーバー、ベルゲン、北極、ベルファスト、ニューヨーク、グアヤキル、ガラパゴス、モンテゴベイ、カタルヘナ、プエルトケツァル、バンクーバーなどに寄航した。参加者は様々で10代・20代が4割ほど、50代・60代以上も同じくらいの割合である。夫婦や友人同士の参加もいるほか、一人での参加がたいへん多いとのこと。船内では、客船ならではのエンターテイメントが開催されるほか、様々な分野の専門家による船内講座や、洋上英会話プログラム、乗船客が自らつくりあげる自主企画など、内容は多岐にわたり、すべてのプログラムは自由参加である。学校や一般家庭、難民キャンプなど、通常のツアーでは訪れることが出来ない場所を訪問したり、NGOの活動について学んだりといったさまざまな経験ができ、総費用は約270万円であったという。リピーターが少なくないそうであり、一度は参加してみたい気もする。
33.3月13日
”古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺”(2007年1月 淡交社刊 川崎純性/高城修三著)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である六波羅蜜寺の四季を写真と文章で紹介している。
六波羅蜜寺は醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。山号は補陀洛山、本尊は十一面観音、西国三十三箇所第17番札所である。名称は仏教の教義である六波羅蜜という語に由来するといわれる。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のことである。この地を古来、六原と称したことに由来するという説もある。川崎純性氏は、1951年、京都府生まれ、1999年父のあとを継ぎ、真言宗智山派六波羅蜜寺の第65代住職となる。高城修三氏は、1947年香川県生まれ、作家、1977年新潮新人賞受賞、翌年、同作にて芥川賞受賞。六波羅蜜寺は踊り念仏で知られる市聖、空也が、平安時代中期の951年に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。十一面観世音菩薩立像は、本堂中央の大きな厨子の中に安置され、厨子の扉は通常閉じられている。境内の入口にある銅像で、その姿を仰ぎ見ることはできるが、じかに参拝できるのは、十二年に一度の辰年だけである。厨子の扉が辰年に開帳されるには一千年来の所以がある。空也上人が存命の頃、当寺には大きな池があった。そこには龍が住み、参詣者を脅かすなどの悪さをしていたという。そこで、上人が錫杖をふるって諭されると、龍は改心して、お寺と参詣者を護る誓いをたてたと言う。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年に平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともない変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
34.3月20日
無依無住
黄檗寺の開創、黄檗は、「無依無住」と言ったと言う。無依無住とは、依拠することも住することもない全き心の状態である。無依とは、自由自在な悟りの境地にあって、何物にも頼ることなく何物にも執着しないことを表す。黄檗は、臨済宗開祖の臨済義玄の師として知られる。臨済義玄は、「随処に主となれば、立処みな真なり」と言ったと言う。無住とは、住がとどまるという意味であるに対し、外界の刺激にとらわれたりそれを持続させたりさらに想像を発展させないことを表す。現実の事実は無念・無相であり、無念・無相の具体的構造が無住である。一瞬の心の流れがとまらなければ、過去より現在将来へと、心は絶えず動いて、切れることがない。もし、一瞬でも切れたら、法身はすぐさま肉身を離れることとなる。一瞬の心の流れは、どんな時もどんな存在に対してもとどまらない。一瞬でもとどまるならば、心の流れは停滞して、束縛となる。どんな存在にも、心の流れがとどまらなければ、それが束縛のないことであり、無住がその根本となす。
35.3月27日
”ぼくの翻訳人生”(2004年12月 中央公論新社刊 工藤 幸雄著)は、翻訳を手がけて半世紀になる著者の人生を満洲での少年時代から近年の翻訳・著作活動まで振り返っている。
著者(1925年3月20日-2008年7月5日)はポーランド語翻訳の第一人者で、ロシア語、英語、仏語からも名訳を世に送り出してきた。大連にて、満鉄社員の家庭に生まれ、旧制中学卒業後、第一高等学校受験に3度失敗し、1944年に善隣外事専門学校露西亜科に入学、城北補修学校を経て、1946年に第一高等学校文科甲類三組に入学、1952年に東京大学仏文科卒、1954年に共同通信社外信部に入り13年勤め、その間ロシア、ポーランドの文学を翻訳する。1967年にワルシャワ大学に日本語講師として赴任、7年間滞在し、1975年に帰国し、1976年に多摩美術大学教授となるが、その前には『女友だち』などのポルノ小説を変名で訳して糊口を凌いだという。1995年多摩美大を定年退職。仲谷鴻介という筆名もある。主な訳書に『ブルーノ・シュルツ全小説集』(平凡社)、『よろこびの日』(岩波書店)などがあり、1999年に読売文学賞受賞。ゴンブロヴィッチ、アイザック・シンガーなどを中心にポーランド文学を数多く翻訳した。ほかにパステルナーク、ミウォシュ、シンボルスカなどノーベル賞作家の翻訳が多い。満洲での外国語との出会い、占領下の民間検閲局やA級戦犯裁判での仕事、外信部記者時代の思い出などが照会されている。戦後の生活の様子などが分り、言葉を習得するための努力に共感できる部分が多い。言葉を偏愛する翻訳者の自分史であると同時に、ひとりの日本人の外国語体験の記録でもある。1951年、東大仏文在学中、フランス語購読の時間に渡辺一夫教授が夕陽を「ゆうよう」と発音すると、すかさず手を挙げて「それなら<せきよう>ないし<ゆうひ>と読みます」と指摘した。さらに、渡辺がフランス語のc?ne(円錐形)を円筒形と誤訳したので、それを直ちに指摘し、渡辺をたじろがせた。女性性という語はブルーノ・シュルツの翻訳の中で工藤が初めて使った造語であるという。語学の習得には、血のにじむような努力また努力の積み重ねが必要で、わからないことが次から次へと出てきて、辞書だ文法書だと、机の上に山のように積み上がってしまうそうである。
第1章 言葉の自分史(言葉好き;ロシア語との出遇い;引き揚げ、焼き出され、そして終戦)
第2章 翻訳に迷い込むまで(就職前後;筆慣らし;外国語習得)
第3章 ぼくの翻訳書(最初の三冊;翻訳読本 ほか)
うるさすぎる言葉談義?あるいは、人生とは日本語のすべてに通ずるためには、あまりにも短すぎる(翻訳に携わる者の必須条件;『検察官』ばかりが誤訳ではない;勝負は日本語だ;冒険と反逆)
36.平成22年4月3日
”仕事と人生”(2007年5月 角川書店刊 城山 三郎著)は、仕事を追い、猟犬のように生き、いつかはくたびれた猟犬のように果てる、それが私の人生という気骨の作家の最期の連載エッセイである。
城山三郎氏は、本名、杉浦 英一、1927年愛知県名古屋市生まれ、2007年(満79歳)神奈川県茅ヶ崎市没の小説家。経済小説の開拓者で、歴史小説も多く、伝記小説で国民作家として評価されている。名古屋商業学校を経て1945年愛知県立工業専門学校入学、理工系学生であったため徴兵猶予になったが大日本帝国海軍に志願入隊、海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。1946年東京産業大学(現・一橋大学)予科入学、1952年一橋大学卒業、在学中に洗礼を受けた。父が病気になったため帰郷し、愛知学芸大学商業科助手に就任、担当は景気論と経済原論、後に同大学専任講師。1963年訪中を機に愛知学芸大を退職し、作家業に専念。2007 年3月22日間質性肺炎のため神奈川県茅ケ崎市の病院で死去。「残された歳月」の中で、この仕事と人生について、過去についてだけ書くのは不十分で、今現在、それにこれから何をするのか書けといった声がどこかから聞こえてくる気がすると言う。これに対して、逃逃げているわけではないが、記憶力も構想力も衰えてきて老躯に鞭打って仕事に向かっており、向き合う対象や向かう姿勢がこれまでと少しずつ違ってきていると言う。かつてキューバヘ行きカストロ議長に会う予定やベルリンで連続講義を持つ予定があったが、好きで仕事ともなる旅の予定も大幅に狂い、いずれにも行っておけばよかったと今になって後悔している。体力、特に歩く力が、鍛えているつもりなのに、かなり衰えてきている。それだけに、二、三年前から、我が身に言い聞かせるようになっていた。考えてからやるではなく、やってみた上で考えよう。人生の持ち時間が少なくなればなるほど、そのように生きたい。残された私の歳月には限りがある。あの世へ行ってから悔やんでも始まらない。それよりやはり仕事をする方がいい。それが私の性であり、その性が変えられぬ以上、仕事を追って、猟犬のように生き、いつかはくたびれた猟犬のように果てることだ。
・文章は手と足で書く
・残された歳月
・恰好の良い人
・ホテルで過ごす正月
・ある夜の出来事
・淡き青春
・カラスさん、こんにちは
・妙な旅
・海を眺めて
・藤沢さんの思い出
・甘粕大尉のこと
・オーロラはどこ?
・「アーメン」と祈りたくなる
・若き日の父
・いつかはこの大河に
・対談 戦争と文学 城山三郎&佐高 信
・在りし日の面影(11人の寄稿文)
37.4月10日
”古寺巡礼 京都7 禅林寺”(2007年3月 淡交社刊 小木曽善龍/安部龍太郎著)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院である禅林寺の四季を、写真と文章で紹介している。
禅林寺は、一般には通称の永観堂の名で知られている。山号は聖衆来迎山、院号は無量寿院、本尊は阿弥陀如来、開基は空海の高弟の真紹僧都である。著者の小木曽善龍氏は、1918年山口県生まれ、1933年山口県岡枝柑の快友寺道場に於いて得度、1945年西山専門学校卒業、1949年京都大学文学部宗教哲学科終了、その後、大阪市立学枚教諭を30余年間務め、1979年香泉寺住職、200年から浄土宗西山禅林寺派管長・総本山永観堂禅林寺法主となった。安部龍太郎氏は、1955年福岡県生まれ、国立久留米高等専門学校卒業後、作家を志して上京、図書館勤務などの傍ら作品を発表し小説家となった。禅林寺は、紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院の一つでもあり、古くから学問が盛んである。空海の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は853年、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の863年、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(ようかん1033年 - 1111年)の頃から浄土教色を強めた。永観は文章博士、源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになった。人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観律師の母は、観音さまがもっていた玉を呑む夢を見て永観を懐妊したと伝わる。その永観は「念仏宗永観」と呼ばれ、民衆が往生するのに最も適しているのは、念仏を唱えることであると明らかにした。
38.4月17日
”職人暮らし”(2005年10月 筑摩書房刊 原田 多加司著)は、職人になるにはどうしたらいいのか、職人人生はサラリーマンとどうちがうのかなどを、経験を踏まえて解説している。
大学を出ても就職が難しい現在、技術を身につけて職人になりたいという若者が増えている。昨今、30歳台、40歳台の世帯持ちまでが親方の門を叩くという。憧ればかりが先行して脇が甘いというほかはない。その後に待ち受けている想像とはまるで違う軌道に、迷い、苦しみ、遅すぎる後悔に頭を抱えている例を見開きすることがあまりに多いそうである。桧皮葺・柿葺の専門職人の十代目で国宝や重要文化財の歴史的建造物の保存修復を生業とする著者が、職人人生の機微と伝統技術職人の現在を伝えている。職人というのは無口な人が多く、その特技の伝承も言葉や数式などに頼らず、自分の経験にもとづいて体に染み込ませた記憶や勘を頼りに、伝統を受け継いできた。かたちのないものを文章にしたり、ドキュメント化するのは存外に難しい。彼らは腕はいいが一様に寡黙であり、技術は伝承しても私たちが本当に知りたいノウハウや人生の機微、有能な弟子の育て方といったものは、墓場まで持っていってしまうタイプが多い。これではならないとして、無口な大工職人に三拝九拝して聞き出したものである。職人の仕事というのは、自分の腕が一種の社会保険のようなもので、歳をとっても腕が上がればますます尊敬されるし、経験を積めば今日より明日がよくなるという単純かつ明快な積み重ねの効用がまだ機能している社会でもある。半面、職人というのは結構嫉妬深いところもあるし、施主や監督との関係は神経を磨り減らすことも多い。こういった職人生活のいいところも悪いところも知ったうえでの志願ならば、多少時間がかかっても、その人はきっと大成するだろう。職人生活の本当のところや、もし正しい職人のなり方、手に職をつける方法などがあるとすれば、少しずつ明らかにしていこうという。
序章 職人学事始め
第1章 職人の住まいと生活
第2章 職人の技
第3章 職人の経済学
第4章 職人を育てる
第5章 職人の掟
第6章 職人、旅に学ぶ
終章 職人の引き際
39.4月24日
”企業福祉の終焉”(2005年4月 中央公論新社刊 橘木 俊詔著)は、これまで中心的だった企業福祉はその担い手から撤退してよい、福祉は国家が担うべきで福祉国家の実現をめざすべきだと主張している。
企業は、退職金、社宅、企業年金、医療保険や公的年金の負担など、従業員にさまざまな福祉を提供してきた。しかし、会社の規模によって従実度が異なったり、正社員と非正社員で利用資格に差があるなど、企業福祉が国民の不平等感を高めている。長時間労働・サービス残業、非正規雇用の増加、セーフティネットなきホームレスの存在、ワーキングプアの増加といった問題が大きくなっている。これまで日本の福祉やセーフティネットはほとんどが企業が提供してきたが、これでは労働者はものいわざる服従の民とならざるをえない。また、非正規雇用はセーフティネットや福祉から隔絶されてしまう。そこで、企業福祉に代わり、国民全員が充実した福祉を享受するための方策が必要であるとする。著者の橘木俊詔氏は、1943年兵庫県生まれ、小樽商科大学商学部卒業、大阪大学大学院経済学研究科修士課程修了、ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了、京都大学経済研究所教授などを経て、京都大学大学院経済学研究科教授。専攻は労働経済学、公共経済学。企業福祉は、多くの国において非法定福利が先に発達し、主に大企業が従業員の定着を確保できることを期待して導入された。しかし、中小企業や零細企業雇用者、非典型労働者は必ずしもその恩恵に浴していない。そこで、公的な社会保障制度の導入が、産業興隆という国家目的の下に、あるいは労働組合の要求によって導入され、企業にはその財源負担が求められた。これは、非法定福利と異なり中小企業もカバーするものであった。日本における社会保障に関する企業負担率は欧米と比べて高いものではなく、税と保険料の負担がバランスしており、非法定福利は住居費用が多い。しかし、企業福祉は役立たなくなりつつあり、企業は福祉から撤退してよい。非法定福利は、縮小に向かってもメリットを失うのは大企業労働者だけであるが、法定福利費の企業負担軽減は、その影響が広範な労働者に及ぶ。零細企業雇用者や非典型労働者との関係では、福祉国家の実現が望まれる。
第1章 企業福祉はなぜ発展したか
第2章 企業福祉の現状
第3章 企業福祉は役立っているか
第4章 これからの企業福祉
第5章 企業が撤退した後の福祉社会
40.平成22年5月1日
”古寺巡礼 京都8 相國寺”(2007年4月 淡交社刊 有馬賴底/真野響子著)は、夢窓国師を勧請開山とし五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった相國寺の四季を、写真と文章で紹介している。
相國寺は山号を萬年山、正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が後小松天皇の勅命をうけ約10年の歳月を費やして1392年に完成した一大禅苑である。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが、度重なる災禍にもかかわらず禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。有馬賴底氏は、1933年東京都生まれ、1941年大分県日田市の岳林寺にて得度、1955年大本山相國寺入門、1995年より臨済宗相國寺派管長・京都仏教会理事長就任、金閣寺・銀閣寺住職兼務。真野響子氏は、1952年東京都生まれ、桐朋学園大学芸術学部演劇科卒業後、劇団民芸入団、13年在籍、その後フリーランスの女優として活躍、金沢大学講師、神戸市立森林植物園名誉園長。相國寺の本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石である。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺で、京都五山の第2位に列せられている。五山文学の中心地で、画僧の周文や雪舟は相國寺の出身である。有名な鹿苑寺=金閣寺、慈照寺=銀閣寺は、相國寺の境外塔頭である。足利義満は、いわゆる花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを1382年に発願し、竣工は10年後の1392年であった。義満は、禅師であった天龍寺の春屋妙葩(1311- 1388年)に開山となることを要請したが、春屋はこれを固辞した。春屋の伯父であり師である高僧・夢窓疎石(1275- 1351年)を開山とするなら、自分は喜んで第2世住職になる、という条件でようやく引き受けた。足利義満が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している夢窓疎石が開山とされているのは、このような事情による。春屋妙葩も相國寺伽藍の完成を見ずに1388年没している。相國寺はたびたび火災に見舞われ、伽藍完成から2年後の1394年に全焼し、義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高109.1mを誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。1929年の依佐美送信所鉄塔=250m竣工までのおよそ530年間、高さ歴代日本一の記録は破られなかった。義満没後の1425年に再度全焼した。1467年に相國寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失、1551年にも管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失し、都合4回焼失した。1584年に相國寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。その後も1620年の火災で消失、1788年の天明の大火で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。相國寺の本山墓地に藤原走家・足利義政の墓と並んで伊藤若沖の墓がある。若冲(1716- 1800年)は近世日本の画家の一人で、江戸時代中期の京にて活躍した絵師で画号は斗米庵。墓石には、斗米庵若沖居士墓と彫られている。
41.5月8日
”ルポ最底辺”(2007年8月 筑摩書房刊 生田 武志著)は、深刻化している野宿者=ホームレス問題について、大学在学中から釜ヶ崎に通い、現在までさまざまな日雇い労働運動・野宿者支援活動に携わる著者が、原因、現状、対応、未来を解説している。
北海道から沖縄まで、非常に多くの地域で、失業した中高年、二十代の若者、夫の暴力に脅かされる母子など、帰る場所を失った多くの人びとが路上生活に追い込まれている。他方、多くの若者がフリーターや派遣社員として働いている。遠くない将来、彼らも若者ではなくなり、野宿者=ホームレスの問題が深刻化する可能性がある。著者は、1964年千葉県千葉市生まれ、1974年岡山県倉敷市に転居、1984年同志社大学文学部入学、1986年大阪市西成区の釜ヶ崎に通い、主に福祉活動、1988年3月卒業、通っていた釜ヶ崎キリスト教協友会の施設の一つでアルバイト、同年8月プロの日雇労働者、日雇労働運動や福祉・医療活動をやりながら建設現場の雑役や土方仕事、2000年群像新人文学賞評論部門優秀賞受賞、以後、高校で野宿者問題の講義を担当し、雑誌フリーターズフリーの編集に携わる。日雇労働者の街、釜ヶ崎についての著者の視点を踏まえた歴史が書かれている。釜ヶ崎は日雇労働者の街で、長らく日本で不安定就労と野宿の問題の中心だった。気ままに働けるといえば聞こえはいいが、企業にとっては単なる使い捨ての労働力である。日雇いは、具体的な労働量に対してのみ賃金が発生する就労形態であり、寄せ場の人々は仕事の多いときはかき集められ、少ないときは放っておかれる。バブル期の1990年と崩壊後の1993年では、求人数で約半分、最低賃金も日給13,500円から9,000円に激減した。日雇いは、景気を根底で調整する損な役回りで景気の安全弁であり、健康を害せばたちまち収入ゼロになり、持ち金が尽きれば泊まるところすらない野宿生活者へ転落する。著者が通い始めた1986年頃、釜ヶ崎近辺では千人近い日雇労働者が野宿をし、そのうち2百人近くが毎年路上死していた。1986年に労働者派遣法が施行され、釜ヶ崎などの寄せ場だけで黙認されていた労働者派遣が一般に認められるようになった。1919年派遣法改正によって、労働者派遣は原則自由化された。それ以降、極限の不安定雇用と言うべき日雇い派遣が急増した。2007年には、グッドウィル、フルキャスト2社だけで1日数万人を派遣していた。2008年のリーマンショック時に起こった派遣切りは、今でも昨日のことのようである。日雇労働者の街=寄せ場があらゆる職域、地域に拡大し、日本全国が寄せ場化してきた。不安定雇用の労働者の多くは、ちょっとした病気や何かのアクシデントでいつクビになるかわからない。突然の解雇、低賃金、危険な労働など、雇用側の一方的な都合、あるいは理不尽な横暴に最もさらされやすい。日雇労働者がそうだったように、フリーターの一分も今後は野宿者になる可能性を秘めている。
はじめに 北海道・九州・東京…その野宿の現場
第一章 不安定就労の極限 80~90年代の釜ヶ崎と野宿者
第二章 野宿者はどのように生活しているのか
第三章 野宿者襲撃と「ホームレスビジネス」
第四章 野宿者の社会的排除と行政の対応
第五章 女性と若者が野宿者になる日~変容する野宿者問題~
第六章 野宿者問題の未来へ
あとがき
42.5月15日
”BRICs新興する大国と日本”(2006年6月 平凡社刊 門倉 貴史著)は、ブラジル、ロシア、インド、中国のBRICsが世界経済に与える影響を解説している。
BRICsは、ブラジルBrazil、ロシアRussia、インドIndia、中国Chinaの頭文字を合わせた4ヶ国の総称である。ジム・オニールの2001年の投資家向けレポート初めて用いられ、世界中に広まった。経済成長を続けるBRICs諸国は、存在感、軍事面、国際会議でも高まっている。BRICsはかつてのNIEsやASEAN同様経済成長が目覚しく、またそれらの国々のGDPや貿易額が世界に占める割合は近年急速に高まっており、世界経済に多大な影響を与えるまでになっている。経済規模は、2025年には先進G6のGDP合計の約半分に、2040年頃には先進国を上回り、2050年の時点では1.5倍の規模になるとみられている。ここ10年の間にBRICs平均で年6%の成長を遂げ、今後も比較的高い成長率を達成していくものと予想されている。著者の門倉貴史氏は、1971年神奈川県生まれ、1995年慶応義塾大学経済学部卒業、浜銀総合研究所入社、日本経済研究センター、シンガポールの東南アジア研究所への出向などを経て、2002年から2005年まで第一生命経済研究所経済調査部主任エコノミスト、現在、BRICs経済研究所代表。BRICsの高成長のメカニズムを明らかにし、成長パワーの源として、豊富な天然資源、豊富な労働力、外資の積極的な導入、購買力を持った中産階級の台頭の4点を挙げる。各国の中産階級の間では、自動車、パソコン、家電製品などの高額製品や各種の金融商品に対する需要が膨らんでいる。豊かさの負の側面である糖尿病患者数の増加、格差の拡大など、マイナスの影響も出始めていることを指摘する。米企業はBRICsの台頭を脅威ではなく機会ととらえ、輸出攻勢をかけている。日本は中国との貿易・投資関係は深まっているが、他の国との関係は希薄である。今後、先進国とのパワーバランスはどうなるのか、日本はこれらの国とどう付き合っていくべきかなどについて解説している。また、インドネシアIndonesiaを加えたBRIICsの動向が注目されよう。さらに、ポストBRIICsの南アフリカ共和国、ナイジェリア、メキシコ、トルコなど、新新興国が続いている。今後、日本が埋没しないようなポジショニングが必要であろう。
第1章 なぜBRICsが注目されているのか?
第2章 台頭する中産階級
第3章 資源獲得競争
第4章 BRICsの軍事力
第5章 国際会議で影響力を増すBRICs
第6章 BRICsと日本の関係
第7章 ポストBRICsとして注目を浴びる国々
43.5月22日
”古寺巡礼 京都10 曼殊院”(2007年6月 淡交社刊 半田孝淳/赤瀬川原平著)は、竹内門跡とも呼ばれる天台五門跡の1つの京都一乗寺にある天台宗の曼殊院の四季を写真と文章で紹介している。
曼殊院は、他の天台門跡寺院と同様、最澄の時代に比叡山上に草創された坊がその起源とされ、山号はなし、本尊は阿弥陀如来、開基は是算、国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する近畿三十六不動尊第十七番である。平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当を兼ねていた。著者の半田孝淳氏は、1917年長野県生まれ、曼殊院門跡四十一代門主、1961年より長野県上田市常楽寺住職、天台宗教学部長などを経て、1983年大僧正、戸津説法勤仕、1987年望擬講、1999年探題、2004年曼殊院門主。赤瀬川原平氏は、1937年神奈川県生まれ、画家、作家、1979年中央公論新人賞、1981年第84回芥川賞、1983年野間文芸新人賞、1987年講談社エッセイ賞をそれぞれ受賞。曼殊院は最澄が比叡山に建立し阿弥陀仏を安置したのを始まりとするが、寺名不明。のち是算が西塔に移し東尾坊と称し、947年北野神社創立時に是算が別当となりここに移り、1108~10年に尋忠のとき曼殊院と改称、のち北山に移り金閣寺建立のため禁裏付近に移転、1469~87年に慈運法親王が入寺して門跡寺となった。1656年良尚法親王が現地に再建、大書院、小書院、庫裡などが建つ。小書院の黄昏の間と富士の間の間仕切りの上には、格子の中に透し彫りや浮き彫りによる紅白や朱の菊絞を散らした欄間が見られる。花は表菊と裏菊に大別され、単弁、複弁などに分けられる。良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、天台座主を務めた仏教者であるとともに茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であった。小堀遠州好みといわれる八窓席の茶室や枯山水の庭園は名高い。
44.5月29日
”戦場でメシを食う”(2006年10月 新潮社刊 佐藤 和孝著)は、戦場カメラマンの戦場のメシについてのエッセイである。
取り上げている戦場は、アフガニスタン、サラエボ、アルバニア、チェチェン、アチェ、イラクである。著者はこれらの戦場でどんなメシを食ってきたかを紹介している。佐藤和孝氏は、1956年北海道生まれ、ジャパンプレス主宰、2003年度ボーン・上田記念国際記者賞特別賞受賞。同時多発テロ後、多くの取材陣が安全な隣国パキスタンからレポをしていた時に、ただ一人アフガニスタンからアメリカの空爆直前の緊迫した空気を生中継で送っていた。死と隣りあわせで人は何を食べるのか。1980年代のアフガンで、戦士たちは結局、組織の理念や戦争の大義など気にせず、自分にとってより良い、つまり腹いっぱい食わせてくれる野戦指揮官を求め戦場を渡り歩いていたとのこと。戦火で農村が荒れ、若者達は食えないために戦場へ行く。そこで彼らは寝床と食事を与えられる。若者が戦うのは、そこに崇高な理念があるからではなく、ただそれによって食えるからである。サラエボでも多くの人々にとって大義はどうでもいいことで、始まってしまった殺し合いに巻き込まれてどうすることもできず、ただ、一番身近な親や妻、そして子供を守るために戦わざるをえない。停戦の後、待っているのは大量の不発弾や地雷であった。イラクでは、使途となり合わせの食卓として、殺された香田青年のことを詳しく取り上げている。発見された遺体の映像を確認し、それを日本に伝えた。雪山行軍中のアフガン・ゲリラとかじったナンの味、食料がないながらも食うことに貪欲なサラエボの市民たち、闇のなか手づかみで味わうアチェのココナッツカレー、イラクでは日本人の死に間近に接し改めて生きることについて考える。
45.平成22年6月5日
”世代間最終戦争”(2006年10月 東洋経済新報社刊 立木 信著)は、怒れ若者、年金独り勝ち世代の暴走を許すなという本である。
わが国の年金・福祉システムが将来生み出す高齢化社会の惨状を予測し、問題点に切り込もうとしている。立木 信氏は、1963年生まれ、中央省庁を担当する経済記者を経験した後、現在、経済アナリストで、地価・株価の下落問題や年金、世代会計等、戦後日本社会が抱える諸問題について、独自の視点から行っている。これまでの政治や経済の改革論は、年長者にとって都合のいいものだった。年長者が作った仕組みは、若年者をはじき出しておいて、債務だけ回そうとしている。少子高齢化社会といわれるように、高齢者への福祉サービスが日本社会のメインとなってしまい、本来日本の中核をになうべき労働世代である若者が極めて強い負担を強いられ、官民も現在の問題は後へ後へとツケをまわしている。社会は若者を喰い物にし続けている。若者の仕事が奪われて、俺の給料、親父の年金より安いんだ、と言うように世代間搾取が起きている。しかし、戦いの火ぶたは切って落とされた。これから起こる問題を解決するには、小老化対策が必要である。老人と呼んでいい年齢層をあげて、老人を減らす。80歳未満は老人と名乗れない時代がやってくる。そして、20代、30代の若者の立場から、日本の経済発展を支えた年長者の真の姿を検証し、これからの若い世代の生き方を考える。たとえば、できちゃった婚のカップルには少子化対策の一環として国からお祝い金200万円を支給する、ゼロ歳児にも選挙権を与える、参議院を廃止して若者院をつくるなどなど。
序章 一億総パラサイト論―世代間最終戦争の行方
第1章 欧米で始まった世代間戦争の前哨戦
第2章 七〇歳世代の大罪(年寄り各論)
第3章 「怒れ!若者」
第4章 バラ色の「少老化政策」
最終章 どうやって少老化を実現するか
46.6月12日
”古寺巡礼 京都11 銀閣寺”(2007年7月 淡交社刊 有馬賴底/久我なつみ著)は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿である銀閣寺の四季を、写真と文章で紹介している。
銀閣は、足利義政の祖父・3代将軍義満が建てた金閣と対比されて用いられる通称である。金閣、飛雲閣と併せて京の三閣と呼ばれる。有馬賴底氏は、1933年東京都生まれ、臨済宗相國寺派管長、大本山相國寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺〈銀閣寺)住職、承天閣美術館館長、京都仏教会理事長。久我なつみ氏は、1954年京都府生まれ、作家、同志社大学文学部卒業、YMCAに英語講師として勤務するかたわら、美術を学び、1998年第5回蓮如賞、第53回日本エッセイストクラブ賞受賞。銀閣寺で親しまれる慈照寺は、足利義政が山荘として造営に着手した東山殿を遺命によって寺院とした。京都府京都市左京区にある、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する臨済宗相國寺派の寺院である。正式名は東山慈照寺、山号は東山、開基は室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。足利義政が鹿苑寺の金閣舎利殿を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる。足利義政は1473年、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、1482年から東山の月待山麓に東山山荘の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼失した浄土寺のあったところで、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられ、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年に移り住んでいた。東山殿には会所、常御所などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。1490年に死去した義政の菩提を弔うため、東山殿を寺に改め、相國寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。1952年に庭園が特別史跡及び特別名勝に指定され、1994年に古都京都の文化財として 世界遺産に登録された。付近の賑わいを感じながら参道に到着、謎めいた光景に閑寂な美を感じる。やがて眼前に展開する絵に描かれたような伽藍の数々は、幽玄な禅の世界を表現している。銀閣と呼ばれる観音殿や同仁斎・東求堂などの建物と安置された御仏、銀沙灘・向月台・月待山や錦鏡池など、室町の美意識が禅の精神となって参拝する人々のこころを無垢にしてくれる寺院である。
47.6月19日
”関西赤貧古本道”(2004年2月 新潮社刊 山本 善行著)は、金はないが1年中古書店通いで、安い、面白い、珍しい古本探しの関西流儀の超絶技巧を披露している。
本好きの人は山ほどいるが、かくも古本好きはそう多くないであろう。古本病とでも言おうか、計り知れない業を感じる。基礎編、応用編、実践編、番外編という流れで構成されている。入口の均一台を見逃すな。絶版文庫を探せ。古雑誌の山に向かえ。検印紙も魅力のうち。書き込み本を無視するなかれ。古書目録は面白い。古本祭りには攻略法がある。ネット・オークションに参加したら。いつか売る日はやってくる。著者の山本善行氏は、1956年大阪市生まれ、関西大学文学部卒業、書物雑誌sumus(スムース)代表、古本泣き笑い日記を連載するなど、書物エッセイストとして活躍。車谷長吉氏が絶版文庫を蒐集しているという興味深い話が紹介され、中野重治の著作を読むうちにやがて上林暁という作家に開眼し初版本を運良くまとめて購入する話に及ぶ。共感はするが、とても真似はできない。とにかく古書が大好きというのが、ひしひしと伝わってくる。東京の古本屋を巡るために二泊三日でやってくる。行きの新幹線の中で読む本を選ぶところから始まる。365日古本屋に行って、毎日買ってきて置く場所がなくなる。収納に困ったら最後は売る日がやってくる。ところが今、日本の古本の値段が安くなっているという。ここ25年ぐらいを見ても、どんどん古書価格は下がってきていると感じている。新刊書ともども、売れる本とそうでない本がはっきりしてきている。古本の場合、特に小説や評論集は、安くしないと売れないのだろう。それは古本屋さんの側からいえば、買い取り価格も低く押さえないとやっていけないということになる。安い本をたくさん買いたい男にとってはいい状況だが、その分、買い取り値も安いとなると、質のいい古書が出てこないということにもなる。高く売れないとなれば、手放さないからだ。昔のような、いい時代に戻ってもらいたいものである。
第1部 基礎篇(それなりに作法はある/入口の均一台で大発見 ほか)
第2部 応用篇(古い雑誌の山に向かう/上林暁まとめて十八冊 ほか)
第3部 実践篇(古書目録の楽しみ/古本祭り攻略法 ほか)
第4部 番外篇(私のこれくしょん―ベスト5/京都大阪古書店案内)
48.6月26日
”努力論”(2007年8月 筑摩書房刊 斎藤 兆史著)は、挑戦、奮闘、達成し、道を拓いた先人たちの壮絶なエピソードが紹介され、行き詰った現代人へのエールとなっている。
いま、日本人の価値観の深奥に連綿と受け継がれてきた勤勉の美徳が危機に瀕している。問題の多くは、労せず功を得ようとする風潮に原因があるという。著者は1958年栃木県生まれ、東京大学文学部英語・英米文学科卒業、同大学院人文科学研究科英文学専門課程修士課程修了、インディアナ大学英文科修士課程修了、ノッティンガム大学英文科博士課程修了、東京大学文学部助手、教養学部専任講師を経て、現在、大学院総合文化研究科准教授。著書の中公新書『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』では、明治以降の日本の英語の達人たちについて、彼らの英語の学習法に着目しながら日本史における業績を辿っている。そこでは、『武士道』の著者・新渡戸稲造と英文詩集を執筆した詩人・西脇順三郎ほかが紹介されているが、本書では、ほかに、片山春子、河口慧海、幸田露伴、諸橋轍次、モハメド・アリ、升田幸三などが紹介されている。方向違いの頑張りから無用な挫折感に苛まれる若者も多いが、後世に名を残す偉人たちのエピソードを見れば、努力は決して人を裏切ることはないのは明らかである。高い目標をもって修業に打ち込み、夢中で取り組んで大きな壁にぶつかっても、それを乗り越えて素晴らしい業績を残した先人達はどう道を拓いたかを紹介している。幸田露伴にも『努力論』という文章があり、三昧編で紹介されている。露伴は、何事を成すにも努力が必要であるが、努力のための努力ではダメで、散る気や弛む気や逸る気などを排し気の張りが肝心だと説く。本書ではこれと違った方向からさまざまな人達の生き方を取り上げ、立志、精進、三昧、艱難、成就という過程を伝えようとしている。
第1章 立志編(志を立てるということ人の道に適ってこその志他)
第2章 精進編(千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす大言壮語するなら、それに見合う努力をせよ他)
第3章 三昧編(偉人伝の価値露伴の努力論他)
第4章 艱難編(苦しいときにどうするか「忍」の一字他)
第5章 成就編(晩年の慧海慧海が残したもの他)
49.平成22年7月3日
”眠れぬ夜のラジオ深夜便”(2004年4月 新潮新書 宇田川 清江著)は、全国で多くの人が今夜も聞いている深夜の人気番組の舞台裏を紹介している。
ラジオ深夜便は、NHKのラジオ第1放送、FMラジオ放送、ラジオ国際放送で放送されている深夜放送番組で、毎晩200万人もが聴いている人気番組であり、2010年3月までアンカーだった著者がその舞台裏を明かしている。番組の大枠は、対象は大人で、ゆっくり話すNHKアナのうちOBによる歌詞のない静かな曲を流す・・と決められていた。始まりの経緯、スタート当初の思い出、毎回超満員となる集いのウラ話、スタジオの雰囲気、言葉遣いの難しさなどに触れている。宇田川清江氏は1935年東京生まれ、1957年にNHK入局、立体音楽堂、生活の知恵等のキャスターを担当、1964年退局、フリーとなってTBS、テレビ朝日、FM東京などで活躍、1990年の深夜便放送開始よりアンカーを務める。かつてのNHKのラジオ放送は、災害時や、オリンピック中継などを除き、午前5時放送開始、午前0時放送終了だった。1988年9月に昭和天皇が重体になって以降、天皇の容態を深夜も含め随時速報した。この際、総合テレビ、ラジオ第1、FM放送を24時間放送にし、定時放送終了後から翌日の開始時間までフィラーとしてクラシック音楽と関連ニュースを放送した。この静かな音楽を終夜流すという放送形態が好評を得て、昭和天皇崩御の1989年1月7日後も、常時24時間放送できないかという投書が数多く寄せられ、1989年11月の3連休に、「67時間ラジオいきいきラリー」と題した特別放送を実施し、普段メンテナンスに当てる深夜時間帯に音楽や落語などを放送した。民間放送の若者向けの深夜ラジオ番組に不満足だった中高年層から、大人が聴ける静かな番組として支持されラジオ深夜便の誕生につながった。1990年4月から不定期放送で「特集 ラジオ深夜便」と銘打って午前0時から放送を開始された。1990年度はゴールデンウィーク、梅雨シーズン、お盆、年末年始、春休みと10月以降の週末に放送した。1991年4月より仮定時放送に移行し、月末を除く殆ど連日放送された。 1992年4月より午後11時台からの定時放送に移行し、24時間放送がスタートした。出演アンカーは、基本的にNHKのベテランアナウンサーやNHKを退職したOB・OGが担当している。現在の構成は、放送時間は午後11時10分から翌朝5時まで一人のキャスターが担当している。最初は「ワールドネットワーク」「ラジオ歳時記」などで始まり、午前1時台は「演芸特選」3時台は「名曲・・主に日本の歌曲や歌謡曲」4時からは「こころの時代」で多くの人が登場し対話形式での話や講演会の模様等が放送される。月曜日 遠藤ふき子、葛西聖司、火曜日 須磨佳津江、石澤典夫、 水曜日 川野一宇、宮川泰夫、木曜日 迎康子、松本一路、金曜日 西橋正泰、中村宏、土曜日 栗田敦子、柴田祐規子、日曜日 徳田章、明石勇の各氏となっている。現役のアナウンサーは迎、葛西、柴田、石澤、中村、徳田の各氏である。宇田川清江氏は、番組開始から毎週土曜日の担当だった。その後、奇数週土曜日、奇数週日曜日に変わった。自動車を運転中、夜更かしで仕事中、早起きで5時前に起きたときなど、時々このラジオ番組を聴いている。落ち着いて聞いてゆったりできる番組が少なくなり、深夜の時間帯にベテランがゆっくり自分の言葉で話しかけるラジオ番組は貴重である。
50.7月10日
”古寺巡礼 京都12 延暦寺”(2007年8月 淡交社刊 半田孝淳/瀬戸内寂聴著)は、滋賀県大津市坂本本町にあり標高848mの比叡山全域を境内とする延暦寺の四季を写真と文章で紹介している。
比叡山延暦寺は、最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。延暦寺の名より比叡山、また叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので、北嶺とも称された。平安時代初期の僧侶最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれた仏教を総合している。平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持ち、密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教に対して延暦寺の密教は台密と呼ばれた。半田孝淳氏は、1917年長野県生まれ、第256世天台座主、1961年より長野県上田市常楽寺住職、天台宗教学部長などを経て、1983年に大僧正、戸津説法勤仕、1987年に望擬護、1999年に探題に補任され、2004年に曼殊院門跡門主に就任。瀬戸内寂聴氏は、1922年徳島県生まれ、作家・僧侶、1953年に新潮社同人雑誌賞、1961年田村俊子賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞、野間文芸賞受賞、文化功労者、1973年得度、法名寂聴、1987~2005年天台寺住職、2006年文化勲章受章、2007年禅光坊住職に就任。延暦寺は比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川など、三塔十六谷の堂塔の総称である。比叡山は古事記にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。788年に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりで、開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の824年のことであった。最澄は俗名を三津首広野といい、766年に近江国滋賀郡で生まれ、781年に近江国分寺の僧・行表のもとで得度し、最澄と名乗り、786年に奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。最澄は思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる法華三大部を研究した。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行している。比叡山は文学作品にも数多く登場し、12年籠山行、千日回峯行などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地で、ユネスコの世界文化遺産に古都京都の文化財として登録されている。横川にある元三大師堂へ向かうと、おみくじ発祥之地と刻まれた石碑がある。多くの人々に馴染みのあるおみくじは、比叡山から広まったという。第十人世座主良源が、人々の困難を救うために自らが用いた観音の百籤を信州戸隠明神に納め、後に、その百籤から一つを得て吉凶を占うようになったと伝わっているそうである。
51.7月17日
”イギリスでもう一度学ぼう”(2003年2月 はまの出版刊 高木 美也子著)は、日本で教師として8年間中学・校で教えた後退職し、イギリス北東部の美しい町ニューカッスルの大学院へ留学した著者の留学奮闘記である。
ニューカッスルは新しい城を意味する地名で、著者が留学したニューカッスル・アポン・タインはイングランド北東部に位置する都市である。タインアンドウィア州に属し、市の人口は約30万人で、周辺都市のゲイツヘッドやサンダーランドを含めた100万人都市圏の中心で、北部イングランド最大の都市である。高木美也子氏は、1963年富山県生まれ、富山大学人文学部卒業、英文学専攻で富山県の公立学校で英語教師として8年間勤務した後、1995年に大学院留学のため渡英し1996年にニューカッスル大学で言語学・英語教授法修士号取得、2000年博士号取得、専門分野は言語学・バイリンガリズム。2001年帰国し、社団法人富山県芸術文化協会・書記を経て、2003年より関西外国語大学非常勤講師。ニューカッスル大学は1834年創立の国立大学で、オックスフォード大学とケンブリッジ大学についで、イングランドで3番目に古いダラム大学の医学科が独立する形で創設された大学である。本校はイギリスのトップレベルの研究型大学20校で構成するラッセル・グループのうちの一校で、国家レベルでの政策決定などにおいても重要な役割を果たしている。大学はニューキャスル・ アポン・タインの歴史的な町の中心部に位置し、美しい田園風景とイングランドの北東部のノーザンバーランドの沿岸へもすぐの好立地となっている。大学には多数のフルタイムとパートタイムの大学生・大学院生が学び、100以上の異なる国からの留学生も含まれている。世界各地からやってくる幅広い年齢層の留学生やイギリス人学生とともに学び、エクセレントの成績で修士号、博士号を取得した経験を、ハードであったものの楽しく充実した日々を、イギリスの文化・風土・暮らしとともに紹介している。異国での一人暮らし、出会い、別れ、病気、小旅行、アルバイト、そして猛勉強、何ごともやってやれないことはないというチャレンジ精神で懸命に学んだ4年間のことは、特に精神的な面で随所に共感できる場面がある。
プロローグ 退職、そしてイギリスへ
第1章 ニューカッスル、最初の三ヶ月
第2章 イギリスのクリスマス
第3章 一学期を乗り切る
第4章 病院にかつぎこまれて
第5章 二学期はさらにハードなり
第6章 マスター取得、そして…
第7章 ニューカッスルで再び学ぶ
第8章 イギリスでの暮らし、仲間たち
第9章 論文提出までの最後の頑張り
第10章 合格、そして卒業
52.7月24日
”古寺巡礼 京都13 平等院”(2007年9月 淡交社刊 神居文彰/志村ふくみ著)は、約1000年前に建立された建造物や仏像が伝えられている平等院の四季を写真と文章で紹介している。
平等院は京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称し、宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は小野道風の孫にあたり園城寺長吏を務めた明尊である。神居文彰氏は、1962年愛知県生まれ、1991年大正大学大学院博士課程満期退学、1993年平等院住職に就任、現在、浄土院住職、沸教大学、京都文教短期大学、京都保健衛生専門学校、メンタルケア協会などの非常勤講師をつとめる。志村ふくみ氏は、1924年滋賀県生まれの染織家で、黒田辰秋に師事、富本憲吉・稲垣稔二郎に学び、1958年日本伝統工芸展で奨励賞受賞、1990年細織人間国宝に認定を受け、1995年に文化功労者に選ばれる。浄土式庭園と鳳凰堂京都南郊の宇治の地は、源氏物語の宇治十帖の舞台で、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て、998年に摂政藤原道長の別荘宇治殿となったものである。道長は1027年に没し、その子の関白藤原頼通は1052年に宇治殿を寺院に改め、平等院の始まりとなった。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、1053年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂、現・鳳凰堂が建立された。平安時代後期、末法思想が広く信じられ、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れ、天災人災が続き、世の中は乱れると考えられた。平等院が創建された1052年は、当時の思想では末法元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営した。平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいたが、大伽藍は今は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。平等院は度重なる災害により、法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などの堂塔は廃絶しており、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。寺院で用いられる梵饉は中国の仏教寺院の鐘が祖形で、仏教とともに巳本へ伝来し、最古の記年銘をもつ京都・妙心寺の鐘をはじめ、さまざまな作品を生み、物語、謡曲、俳句などの中に取り上げられた。天下の三名鐘として、銘の神護寺、声の三井寺、姿の平等院が知られている。
53.7月31日
”ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか”(2008年5月 青春出版社刊 福田 一郎著)は、ベッカム、ビル・ゲイツも別荘にした世界最大のリゾート島ドバイの急成長の訳を解説している。
ドバイはアラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつで、ドバイ首長国の首都としてアラビア半島のペルシア湾の沿岸に位置する都市である。首長はムハンマド・ビン=ラーシド・アール=マクトゥームで、アラブ首長国連邦の副大統領と首相も兼任している。街は東西に流れる運河を軸として大きく2つに分かれ、北側をディラといい、南側をバールドバイという。石油が出ないのに5年でGDP2倍の経済急成長をしているドバイはいま、熱い砂漠の人工都市である。世界一の高さを誇る超高層タワー、7つ星の超豪華ホテル、世界の著名人が集まる人工島、まさに夢のような世界を展開させている。福田一郎氏は、1967年ドイツ生まれ、1994年にドイツで初の日独専門人事コンサルタント会社を設立、その後リヒテンシュタイン公国でコンサルタント会社を設立、2005年にミラージュ・グループの前身であり、ドバイで初の日系コンサルタント会社ミラージュ・マネジメントを設立、2007年に各事業を分社化しミラージュ・グループ会長兼CEOとなり、ドバイ、アメリカなどで海外とのベンチャー企業設立を多数経験し、オフショアビジネスや節税を中心としたコンサルティングが専門。ドバイは漁業や真珠の輸出を産業の主とする小さな漁村だったが、アブダビの首長ナヒヤーン家と同じバニー=ヤース部族のマクトゥーム家が、1830年代にアブダビから移住し、これに伴ってドバイ首長国が建国され、1853年に他の首長国と同時にイギリスの保護国となった。統治を担ったイギリスはこの地を、東インド会社に到るための貴重な中継地とし、20世紀になると歴代の首長の推進をもとに自由貿易の政策を採ったことで、周辺地域の商人達の拠点となりゆく流れのなかで、中継貿易港としての色合いを濃くした。1960年代第二次世界大戦が終結し、20世紀も半ばに迫った頃、この地を近代的な都市にすることを夢見た当時の首長・シェイク・ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥームの推進により社会資本の近代化が図られた。1958年のアブダビにおける油田の発見に続く、1966年のドバイ沖の海底油田の発見はこの動きに大きな力を与え、1971年のイギリス軍のスエズ以東からの撤退に伴って、他の6の首長国とともにアラブ首長国連邦を結成し、ラーシド首長を指導者に据えて、原油依存経済からの脱却の取り組みと産業の多角化を進めた。1981年にジュベル・アリ・フリーゾーンという名の経済特区と大型港湾、およびナショナル・フラッグ・キャリアとしてのエミレーツ航空の就航で、国外資本や外国企業の進出とあわせて人と物の集積地としての発展してきた。1970年代からわずか約20年のうちに都市の外観は大幅に変化し、経済の石油依存率は半分以下に減じGDPの伸びは30倍に達した。2003年以降の発展は特に凄まじく、2004年の後半から続く原油高がその発展を更に後押ししている。2008年後半に起きたアメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界経済の低迷により、これまで急激な勢いで伸び続けてきたドバイの経済成長にも陰りが見え始めている。しかし、中東の金融センターとしての地位はゆるぎなく、2020年には中東初の万国博覧会と2020年夏季オリンピックの開催地になることを目指している。
1章 なぜいま“砂漠の人工都市”が熱いのか
2章 日本人が知らない素顔のドバイ
3章 世界の投資資金がドバイを目指す理由
4章 世界中の富裕層が訪れるその魅力とは
5章 ドバイは「中東」のイメージを変えるのか
「戻る」ボタンで戻る
|
|
|
|